朝鮮は近代以前ソウル以外都市らしい都市が無かった
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
新羅は対馬に攻めてきた事があったし 高麗も元に制服された後、連合軍でまたまた 対馬に攻めてきた 李承晩の時には日本の漁師を拿捕しまくるし 仏像なんて国名を朝鮮にした時期に自分達で 破壊しまくってる 日帝が破壊した仏像と言えるのはあるのか? 【日本語の起源】東アジアの言語史まとめ【仮説】 https://youtu.be/./EwLrtntJfCc 各分野で提唱されている仮説をまとめました。時代を粗く刻んでいるので時期や範囲の表示は大雑把な目安です。 高句麗語は朝鮮語族や未知の語族かもしれませんがここではツングースにまとめています。 コピペ荒らししてるガ.イ.ジ.ってあれやな 卵を産んだ数を誇るゴキブリ まとめ 北九州弥生人(伽耶語・倭語) ← 現代日本人のベース(平民) 土井ヶ浜弥生人(新羅語) 出雲人(新羅語) 西北九州弥生人(プロト琉球語) ← 奴隷 南九州弥生人(プロト琉球語・奄美等訳語) ← 奴隷 隼人・熊襲(プロト琉球語・奄美等訳語) ← 奴隷 蝦夷(夷語・プロトアイヌ語) ← 奴隷以下の非人・悪鬼 奈良飛鳥人(扶余系・百済語) ← 日本の支配層 「奴隷以下の非人・悪鬼 」とやらの集落、それも1000年も前の時代の人口にやっと追いついたゴキご自慢の松菊里遺跡(推定人口数百人) 倭国大乱(出雲と大和の戦い:178〜184年)の際に、新羅は出雲の要請で味方した為め、大和朝廷の不信を買うこととなった、と云う説は説得力がある 倭国大乱の歴史的意義として、卑弥呼を中心とした新たな政治体制が再編成されたことが挙げられる 近畿・中国地方などで2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなっており、卑弥呼による新政治体制は文化面でも大きな影響を与えた可能性がある >>220 そうなんだよな 「我が国にも古代の遺跡はあるニダ」 「古い建築もあるニダ」 と朝鮮人は主張する でも、それを日本人が見ると、あまりのショボさにビックリする。 「こんなの、田舎の実家の近所にもあるぞ?」というレベル 京都や奈良のなどとは、とても比べられない 山陰における日朝関係史(I) 内藤正中(島根大学名誉教授) doi: https://doi.org/10.24568/2131 新羅からは、潮流に乗って船を漕ぎ出すと自然に出雲に着岸するわけで、韓国の学者も、古代に慶尚道 - 木出島 - 風島 - 欝陵島 - 隠岐 - 出雲というコースがあったことを指摘している。出雲神話は、対岸に位置する新羅との深いつながりがあったことを教えてくれるし、新羅の神話のなかでも、新羅人の倭への移住について語られている。 733年『出雲国風土記』には、記紀にはない国づくり神話が物語られている。八束水臣津野命が、出雲国は若国である、自分が大きな国にしてあげようといって、海の彼方の地から国引きをする。初めに国引きをしたのは、「栲衾志羅紀の三埼」であり、それでもって「去豆の折絶よりして、八穂米支豆支の御碕」をつくったという。新羅の余りを引いてきて出雲大杜が鎮座する杵築の地をつくったという説話は、新羅人による渡来を物語るものといってよい。 720年『日本書紀』では、須佐袁命が出雲に天降ったこと、韓鋤之剣で八俣大蛇を退治したことを記している。一書によるととして、須佐袁命は五十猛命と新羅に天降り、曾尸茂梨に住んでいたが、植土で舟をつくり海を渡って出雲に到ったとある。曾尸茂梨は、新羅の都であった慶州であるとされており、水野佑氏によると、八岐大蛇についても、慶州盆地を流れる兄江流域の溪谷につくられていた六村にはじまる新羅の建国神話にもとづくとしている。 新羅神を祀る神杜は、『延喜式』では134杜を数える。出雲の11杜がもっとも多く、近江の10杜、そして大和。伊勢・越前・能登の各8杜。いずれも朝鮮半島からの渡来人が多かった地域であるが、なかでも出雲が神杜数で傑出している。 722年には日本の進攻に備えて新羅の毛伐郡に城が築かれ、731年には300艘の日本水軍が東海岸を襲撃して撃退されたことが、新羅の史料にみられる。日本側の史料でも、732年には新羅の進攻に対処するために、山陰・西海・東海・東山に節度使が任命されたことが出ている。779年の関係断絶に至るまで、新羅と日本の敵対関係は強められていった。 『出雲国風土記』には新羅に対する緊張関係が反映されている。他の風土記とは異なって、軍団の配備や水軍の基地について記述があるほか、新羅神を祀る神杜も意図的に抹消されるなど、出雲の徴妙な立場がみられるのであった。 >>222 日本よりも先に農耕で人口を増やしていた筈なのに縄文人のそれに遠く及ばなかったというのが哀しいね 現在でも朝鮮半島の人口は黄海を挟んで反対側の中国のほんの一地方である山東省よりも少ない Beckwith(2002) Beckwithは、高句麗語と日本語との系統関係においては高句麗祖語が中国の呉、越のあった地域から北上し、中国東北部に至ったとし、 中期朝鮮語やツングース諸言語とは全く異なる言語であり、古代日本語は高句麗語と同系の言語であるとしている。 従って、古代日本語に見られる中期朝鮮語やツングース諸言語のいくつかの語彙は接触による借用であると主張している。 高句麗の遺民が、沿海州側に渤海国を建国したが その「渤海」とは、もともとは遼東半島の海域を指すものだ 彼らは失地回復を願ってそのような国号にしたんだろう 「日本」という国号も、似たようないきさつで誕生したんだろう いわば、母国の百済の危機だから、大和朝廷は白村江の戦いに挑んだが その戦に負けて故地を失い、百済の遺民たちは思い余ってこの列島を「日本」と名付けた ニューヨークとかニューオリンズとかと同じ。故郷を偲んで名付けるやつ 弥生時代の日本は、扶余系と韓系に分かれた朝鮮人が群雄割拠し それに隼人のプレ琉球弥生語や、蝦夷のプレアイヌ語(夷語)など、複数の言語が入り乱れていた 倭国大乱(おもに出雲と大和の戦い)の際、韓系諸語の繋がりで新羅は出雲王朝を味方したため、大和の不信を買うこととなった 卑弥呼は扶余系シャーマンだったんだろう 西日本で2世紀まで盛んに創られた銅鐸が、3世紀になってから急速に作られなくなっており 大乱後の卑弥呼による新政治体制は文化面でも大きな影響を与えた可能性がある Fig. 5 Admixture tree model depicting the historical genetic makeup of Korean. https://luocsutocviet.files.wordpress.com/2020/10/evaa062f5.jpg 喜田貞吉「我が国を日の本と称することは、邦人自身ではなく、百済人らの間に始まった」 「国号の由来」 喜田貞吉 1937年 https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49809_44666.html されば我が国を日の本と称し始めたことは、実は邦人自身ではなく、当初は朝鮮半島の住民が、その東方なる我が国を呼んだものであったに相違ない。日本紀引くところの百済本紀など、古代朝鮮の書に既に我が国を指して「日本」と書いた例がある。 朝鮮そのものも、また、実は支那から見て日の本であった。朝鮮の地誌なる東国輿地勝覧に朝鮮の名義を解して、「東表日出の地に居るが故に朝鮮と名付く」とある。漢の楊雄が、武帝の徳を頌したる賦に、「西圧二月※一??、東征二日域」とあるのも、西方には西域月氏の地を服し、東方には朝鮮日域の地を平らげたことを述べたもので、ここに「日域」とは朝鮮を目して日出処と呼んだのであった。 叙述するところを通観するに、我が国を日の本と称することは、つとに百済人らの間に始まり、我が国ではそれをヤマトの枕言葉として、「日の本のヤマト」なる熟語が用いらるるに至ったのであったが、推古天皇の国書には支那がクレすなわち日没処であり、また西方の国なるに対して、この日の本の義を表わすに「日出処」或いは「東」の文字を用い給い、ついで大化の改新に際してヤマトに当つるに始めてその枕言葉なる「日本」の文字を以てするの例が始まり文武天皇の御代大宝令の制定に至りて、初めて我が国号として、翌年遣唐使の入唐に際し、これを彼に通告したという順序となるのである。 支那を日没処と呼ぶことは、実はこの時に始まったものではなく、その由来はすこぶる久しいものであった。応神天皇以来交通した東晋以下、宋・斉・梁等の所謂南朝の諸国は、通じてこれを「クレ」と呼び、「呉」の字を当つる例で、今に至ってなお「呉」の字をクレと読む習慣になっているのである。当時これら南朝の諸国に当つるに「呉」の称を以てしたことは、これらの諸国が古え三国時代の呉国の域に当るが為めで、それはつとに百済人等の用いたところをそのままに襲用したに他ならぬ。 >>222 日本の名もなき地方領主の墓にすら及ばない 小さな墓しか作れない百済王 これは滅ぼされて当然 司馬遼太郎 「平安時代までの日本文化は外国のもの。王朝文化は百済と同じ。日本が日本らしくなったのは鎌倉時代以降であろう。」 >>234 逆だ 百済が日本文化なんだよ この時代の日本人は、第二次大戦の敗戦ショックでおかしくなり、世界観がひっくり返っていた >>234 奈良時代までだろ 平安中期のような王朝文化は 百済には無いだろう もちろん百済や高句麗からの亡命者や 新羅からの移住者は当然アイデンティティを そこに求めるだろうが 何か朝鮮って李さんの王朝の時は百済、新羅、 高句麗、高麗の遺跡を徹底破壊しただけだったな 王朝は長いのに前時代より見るべきものがないし 発展せず、発展する気もなかった トランス・ユーラシア祖語の繊維語彙は、テュルク語やモンゴル語ではしばしば失われているが、日本・韓国語ではよく保存されている。日流祖語・朝鮮祖語に共通の繊維語彙が3例ある。pJK *par?-「縫う」、pJK *pu-「紡ぐ、撚る(糸)」、pJK *pata-「織機で(布を)織る」、pJK *asa「麻」。 Table 1. https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200213105622005-0569:S2513843X20000043:S2513843X20000043_tab1.png Table 1は遺跡の概要を示したもので、雑穀の栽培、農具、麻の栽培、紡錘車、骨の針や錐の証拠があるかどうかを示している。0は「ない」 1は「ある」 ‘?’は不確定。 韓国のPibong-liでは、草で編まれた袋が、木製の船の破片の近くで発見された。4670 ± 60 BCEで、この遺跡は、新石器時代初期に植物を使った織物が行われていたことを示している。日本に近いこの遺跡は、織物が伝播した場所なのかもしれない。 日本で織布の証拠が最初に現れたのは、弥生時代 (900 BC-AD 300) の初期で、韓国から米や雑穀などの農業パッケージとともに、紡績や織布の技術がもたらされたと考えられている。 繊維生産の証拠がある日本の遺跡の多くが、農業の証拠や、水田、環濠集落や柵列、木製や石製の農具、初期の青銅や鉄、鯉の養殖などの大陸的な文化的特徴を持つ弥生時代の重要な集落としてよく知られている。例えば、吉野ヶ里遺跡 (Saga) では、少なくとも6つの紡錘車と、麻と絹の両方で作られた11枚の布が見つかっている。 沿海州のBoisman (4825-2470 BCE) 、朝鮮半島の初期Chulmun (8000-6000 BCE) 、日本の縄文時代 (10000-900 BCE) のような農業以前の社会では、織物の証拠はなかった。 Figure 4. The dispersal of textile technology, agriculture and language across Northeast Asia. https://static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20200213105622005-0569:S2513843X20000043:S2513843X20000043_fig4.png Tracing population movements in ancient East Asia through the linguistics and archaeology of textile production doi: https://doi.org/10.1017/ehs.2020.4 Q代表料理は?アメリカ「ハンバーガー」日本「寿司かな」ドイツ「ソーセージや」韓国「・・・・・」 韓国「キムチ」 アメリカ「料理の話してるんだよ?」 日本「漬け物じゃん」 ドイツ「あのさぁwザワークラウトを料理って言ってるようなもんだよ」 イタリア「くっさなにこれ?生ゴミ?」 イギリス「草」 中国「そもそもキムチはほとんど中国で作られてるじゃん」 フランス「美しくないね」 韓国「・・・・・・・・・」 現代韓国人の遺伝的構成は、ロシア極東新石器時代の悪魔の門 (Devil's Gate) 遺跡2個体系統とカンボジアの鉄器時代ヴァトコムヌー (Vat Komnou) 個体系統と関連する古代中国南部系統の混合として最適にモデル化できます。 これは現代漢人および日本人も同様で、マンバク (Man Bac) 遺跡個体関連系統70%と悪魔の門 (Devil's Gate) 遺跡個体関連系統30%の混合としてモデル化され、その形成過程は本論文の図5で示されています。 Fig. 5 Admixture tree model depicting the historical genetic makeup of Korean. https://luocsutocviet.files.wordpress.com/2020/10/evaa062f5.jpg 荒らすのに手動なのがダサい ちゃんとスクリプト組んで日夜問わず荒らせよおっさんw ジャポニックを系統別に分けると、おおまか4つに分かれる ・東国弁 (標準語) ・畿内・関西弁 ←百済人の方言 ・出雲語・東北弁 (ズーズー弁) ←新羅人の方言 ・西北・南九州・琉球祖語 ←隼人・肥前国土蜘蛛の方言 オックスフォード大学のジャポニック系統樹がかなりわかりやすい The classification of the Japonic languages (Elisabeth M. de Boer) [2020, The Oxford Guide to the Transeurasian Languages] Figure 4. Japonic language family tree, with marking of tonal type https://image.prntscr.com/image/0dgg1B_hT7uRbCaiCEqE1Q.png 韓国「焼肉」 アメリカ「BBQが料理?」 日本「肉焼いただけじゃん」 ドイツ「あのさぁ焼くだけならブリカスでもできるよw」 イタリア「肉薄く切って焼いただけって」 イギリス「草」 中国「そもそも韓国発祥じゃなくて日本の在日発祥じゃん」 フランス「バカ舌としか思えない雑な作りだね」 韓国「・・・・・・・・・・・・」 −地名で分かる渡来人の分布(大阪編)− 全国には日本語では理解できない地名や神社があり、朝鮮語に訳すと意味が分かるという所が結構あることにお気付きでしょうか。 例えば、なにわ(浪速)を朝鮮語に訳せばナル(日)ニハ(入口、入江)となり、ナニワへと転訛しました。 古代、朝鮮半島から来た新羅人は河内湖の入口に天神を祀り、日の出を拝んでたようです。 このように大阪は古代より朝鮮人が移住し、それに因んだ地名が数多く存在してます。 下記はそのほんの一部です。 高句麗系 池田市 呉服(クレハ) 句麗の機織り(はたおり)が移住 平野区 喜連瓜破 句麗−喜連(クレがキレに転訛) 東住吉区 駒川 高麗−駒 八尾市 許麻神社 高麗−駒 百済系 豊中市 服部 穴(アヤ)機織りが移住 中央区 久太郎町 百済−久太良−久太郎町に転訛 平野区 杭全町 百済が転訛(近くに百済アリ) 藤井寺市 藤井寺 百済の王族の末裔で藤井氏の氏寺 新羅系 中央区 心斎橋 新羅橋ー心斎橋に転訛 福島区 姫島 アカル姫伝説の島 河南町 白木 新羅−白木 住吉大社 海人、安曇族(新羅系)の神を祀る 明治の神仏分離までは新羅寺があった 金のつく名字で朝鮮系が2割越えしてる名字って、 金本(63%)、金山(26.4%)、金光(57.5%)、金村(70.4%)、金岡(31.4%)、金海(9割以上)だけ。 他の「金○」姓は8割〜9割以上が日本人。これが真実。 なので、苗字で在日認定は、在日よりも多くの日本人のほうに打撃を与えるんだよね。 この苗字ネタは、日本人を攻撃するのにはとても効果的。 よく言われるのは、名字に 「金、安、木、中、朴、山、森、林、藤、大、中、小、田、 山、松、上、下、倍、水、本、川、渡辺」がつく奴は在日コリアンってやつだな。 私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。 武寧王の母は、倭国に人質として送られる途中で産気づいて出産した まだ対馬だったので、百済に送り返された 本来なら、そのまま人質として倭国で育てられる予定だった 中華思想崩壊後の近代朝鮮は自己正当に起源詐称や反日独立運動しか持ってないから可哀想 >>8 グスクが語源不明なので 朝鮮系の渡来民がいて影響を受けているという説もある良さそうな 古代の朝鮮はジャップなど猿と見下す先進国てあった ネトウヨは発狂するかもしれぬが真実てあるからしかたない グスクは明らかに韓国起源 琉球民族の起源も韓半島にあり 首里城なども明らかにソラボル→ソウル→シュリであり日本語の側派の一つて韓国語とのクレオールが琉球語の起源だろう ネトウヨは発狂する >>236 中世以降は渡来人の家系かどうかなんてほとんど意味なさなくなるしね 源平藤橘が圧倒的になるし 開城は? 高麗時代には貿易が盛んだった 平壌との間で仏教派対儒教派の争いも起きている 都市文明ゆえの出来事 >>1 黒い山葡萄原人に文明なんかあるわけねーだろ 釜山が港湾都市として発展するまでは晋州(チンジュ)が慶尚南道の中心地 ソウルもゴミためだろ でたらめ言うなチョン民族め チョンファン民族は騙されない ポロッ(;゚Д゚)yヾ_(--;)ハイザラハイザラ・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる