春秋戦国時代 4
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始皇帝は征服だからなあ
儒教的価値観では好まれんだろうよ
まあ言うて禅譲が本当の禅譲だった例もないだろうけど 春秋戦国時代なら儒家はまだ諸子百家の一派の主流だし秦は法家だからセーフ そうね
始皇帝の評価も後付フィルタは沢山かかってるだろな >>685
帝尭から帝舜への禅譲(神話中の出来事)だけは真の禅譲
まあ、リアルには存在しないわけだな 今日的価値観で書かれている小説でも善人扱いじゃん
劉備や孔子も評価が変わってきているけど そういう禅譲が理想の政治って思われてたから、本当に禅譲したのもいくつかはあると思う
名誉欲が強いやつが名君だと思われたくてとかな… それにしては禅譲してあげた元君主の生存率が低すぎる
後漢の献帝並に禅譲後も神経を使ってようやく生き延びれる 旧主殺すとそいつには復讐されなくなるが後で他のやつが自分を殺してもいいってなるわな
モラルハザードと言えなくもない 南北朝期わ族滅やら謀叛やら多過ぎだしね
凄惨な殺戮が流行 >>684
始皇帝は初代どころか封神演義の悪来から続いてる人でしょ
そもそも趙正書じゃ皇帝を自称していないし 沙丘の乱って恵文王と廃太子章の醜い兄弟争いに偶然武霊王が巻き込まれて今さら事実上の支配者に弓を向けてこのまま包囲解けば許されるはずが無いと判ってた恵文王と公子成がそのまま餓死させた説と
宮城谷先生の小説のとっくに寵愛が平原君の母親に移っていた武霊王が後継者にさせたいが為に恵文王(と多分公子章も)を都合よく同士討ちさせようとして公子章が自分の元に逃げてきて以下同文
どっちが真実に近いのか
そもそも3ヶ月も国の真の支配者をその息子が包囲し続けている状態で趙が他の国から攻め込まれたりしなかったのか?
斉のビン王も秦の昭襄王もそんな隙見せたらたちまち侵略してきそうなのに 章が弟の恵文王に臣下の礼をとっている姿を武霊王が不憫に思ったというのは
史料にもあったはずなんで、小説はそこを膨らませたんだろうとは思う 当時16歳の恵文王にどこまで政治的軍事的な実権あったかはわからないが
恵文王本人が目の上のたんこぶでしかない兄と父を親子水入らずの場を利用して殺したか
あるいは年少の王を操り実権を主父武霊王から奪うべく公子成や李克がクーデターを起こして少なくとも当時は何の実権も無かった恵文王(と平原君)は父と兄見殺しにされても何も出来なかったのか 恵文王が同意してたらさっさと殺されてるだろうから
後難を畏れて幽閉わ解け無いけど、殺害も容認出来無いって感じじゃね
他国は攻めないでしょ、長引いた方が深刻だし >>699
昭襄王は内外含めて実に多くの英雄たちと関わってるが彼自身を主役とした作品は無いんだな 中国ドラマであったよ,タイトル忘れたけど2年くらい前にCSの再放送でやってた >>705
秦の昭襄王だな
あれの孝公と恵文王までは見た 大河ドラマで春秋戦国時代やらないかな
オール日本人キャストで 案外囲んだ当初にサクっと武霊王ぶっ殺してたんだけど包囲で時間稼いだだけだったり
ってミステリー脳が俺に言ってくる
包囲中にコンセンサス形成していざ死を発表しても問題ないようにした
という可能性は結構あると思ってる 秦の異人(荘襄王)は何故趙の人質になっていたのですか?
争いばかりの上、秦が上。長平の戦いもあった。そのときの和睦条件なら、その後の期間が短すぎて合いません 相続争いで家臣団が分裂するし追放しかなかったのでは 王のやらかしで一族郎党皆殺し→後日罪を一族の人間が(臣下として)お家再興許されるってパターンはそういう他国に追放されてた庶子の子孫パターンになるのかな? 人質派遣って、ときに大使館のような外交上の役割を果たしてることもあるよな? >>714
仮に君主になれたら保護した恩恵大きいからね
領土割譲してくれたり援軍出してくれたりするかも
なお晋の恵公 >>709
そこに恵文王の指示があったか
家臣達の暴走に口出し出来なかったか 恵文王単独なら態々殺す必要無いしな
胡服令を憎悪したネトウヨ貴族が殺したんでしょ 生かしてしまうと恵文王の地位が動揺し続けるかもしれないし
勢威を回復した主父に囲んだことを咎められて殺される可能性もある
状況証拠からいえば
恵文王には公子成や李兌に負けず劣らず主父を殺す動機があるような 申不害が昭候に使えていた時期を別とすれば韓って弱小国扱い受けてる戦国時代の宋 衛 魯 越 中山あたりと比べて本当に七雄と強国扱いされる程差があったのかな? >>719
韓の立地は最悪だから、弱小なら最後まで残ってない 春秋戦国〜漢の初めまでは異民族の女が王の妃にっての結構あったけど
あの辺の異民族ってどのくらい遺伝子違ってるんだろう
本州人と沖縄人ほどの違いある?幕藩体制下の他藩の人くらいの感覚? >>724
三国時代に漢民族激減
五胡十六国の華北政権は異民族だった
ところを見ると春秋戦国時代は華夏人はまだ黄河周辺にしかいないから、晋、斉以外は国土の一部にしか華夏人はいないと思う
呉、越、燕、蜀、楚の南側、秦の西側なんかは化外の地だろうな 戸籍数が減るのと人口減少は必ずしも一致しない
南北朝期の北朝で漢族胡族半々
晋と斉わ元々わ中原から外れてる 一致はしないが中央官庁が機能を無くしたことは確かだ
支配範囲が限定的になってアウトローが増えてる
記録を見ると大量に匈奴などから移民が住み着いた状態になってる 五胡十六国の時代の遊牧民移住は漢王朝の移民政策の結果だろう >>727
オマエ基本の史書すら読んで無いじゃんww
史書と矛盾する妄想垂れ流してるし >>730
五胡十六国時代に匈奴が山西で挙兵してる
曹操時代に劉淵の祖父を帰順させて住まわせてるからだ
山西って既に晋の領域内だ
成漢も羌族で漢中から入ってきて成都を落としてるしかなりの数の異民族が入ってきてないとこうはならない
これは中央省庁の制御が働かない地帯が増えたと見るのが妥当だろう
戸籍減少に表れている
逆に春秋戦国時代や始皇帝の時期に異民族が浸透しなかった方が疑問だ
族同士で食い合ってたんかな 後漢以降の貨幣政策を見ると三国すべてが落第点
悪貨を量産しインフレを招いている
魏などは実質徴税は物納で貨幣は銅の価値のみを重視した民間でのみ流通されてたようだ
これは単純に税収が低く以前に比べ国力が低かったと見るべきだろう >>731
オマエ最初に三国時代って指定してるじゃん >>732
数十年暴政と戦乱が続いた後なのだから
そりゃ生活は悪く成ってる 別に批判は構わんがもっと実のある情報くれよ
国力下がってたら中央機能の低下は予想出来るだろ
指摘されるまでもない
史書読んでないとの批判があるなら史書情報を示してくれよ >>726
後漢末から三国時代、西晋初期ぐらいまでの時期には、人口が減ったことによる兵員減を補うために遊牧民の集団移住を何度も受け入れてて、漢代よりも遊牧民人口が大幅に増えてるからだよ
その後、五胡十六国の乱のときにさらに遊牧民が流入したり、遊牧民たちが漢人を奴隷化したり殺しまくったりして減らしたから、半々になったんじゃね
知識人階級(要するに豪族たち)すら奴隷化されてた記録もある >>735
後漢〜魏の時期だと南匈奴わ部族として纏ったまま長城沿いに居住してて烏丸も同様
異民族が内地に大量流入したのわ八王の乱の後から 戸籍人口の減少と異民族は無関係ではあるまい
異民族を利用し、兵力として取り込み、利用しなければ曹操は外敵に勝てまい
論文を見るに袁紹も烏桓を利用してこそ公孫瓚に勝てたとある
兵力として利用するには居住地を与えねばならず、それは中国内部に他ならない
曹操の政策として記録がある
言わば国内同盟勢力としての外国
これが戸籍減少の一因という推測は矛盾していない
逆に春秋戦国時代は都市国家が故に異民族の援助までは必要無かったと解釈もできるかもしれない 遊牧民族に関してむしろ逆じゃないかな
元々漢民族圏は周ー殷の支配圏を中心とする黄河中ー下流地域周辺だけだったが
春秋ー戦国初期の人口増に合わせて各都市国家が勢力拡大して遊牧民族の地域にまで支配圏を伸ばした
そして領土国家に統合されていくと同時に長城を築いて遊牧民を城壁外に排除したけど
後漢王朝が方針転換して友好部族を勢力圏内に移住させて敵対部族に対する防衛を担わせたことで
遊牧民が再び漢民族支配圏内に移住してきた
人口減という説は戸籍上の人数が根拠だけど、現代と違って戸籍調査も流動人口の把握も困難だった古代中国で
動乱が起きれば中央政府が把握してる人数が一気に減る >>739
なるほど、春秋戦国時代は華夏人の高度成長期というわけか
それならば矛盾はないな 春秋時代に鉄製農具が登場したり農業の技術が進歩したからな
今の中国と同じ人口ボーナスを武器に周辺地域に勢力拡大していった 官吏や官吏を輩出する家庭や教育機関の知的水準が高く、圧倒的に官僚機構が整備され資料が多数ある後世においてすら
天朝の兵員数はカタログスペックです
思ったほど人いなくて人口オーナスやばいじゃねーか!(つい最近までむしろ人口多すぎ、黒孩子数千万人とか内外で言われてたのに)
みたいな事態が発生するんだし、稀に数字が載ってる程度な古代中世の史書戸籍人口の過信は禁物よね >>737
死ね
三国時代から普通に内地に移住させてるわ 春秋戦国時代の場合高度成長期の結果として秦が蜀を併合したのも大きいのかもしれない
黄河流域圏でない別の文化圏だった外国を併合したようなもの
規模は小さいがアレクサンダー大王のペルシア支配に比べられるかもしれない >>738
逆だ
後漢後半から寒冷化が進んで凶作連発の飢饉連発で人口が減っていってたんだよ
そんななかでの戦乱だから、生活苦から流浪して行きだおれる人も多く >>738
妄想垂れ流して無いで三国志読めよ
はい論破 >>744
秦の超大国化わ社会を根本から変えた革命に由るもの
まあ高度経済成長も半分は米軍に由る革命のお陰だけど
勿論残り半分は毛沢東大乱に因る中国の不在と人口動態 無知が四連打してどうする
殷の支配圏(河南省から黄河下流の地域)が黄河の上流とか地理も歴史も知らないとしか言いようがないし
燕、趙、秦がそれぞれ長城を築いて遊牧民族を排除したり
趙が逆に遊牧民族の文化を取り入れて軍事面を強化したり
周辺民族の侵入に手を焼いてたし
周辺民族が漢民族圏に進出する状況を憂いて提唱されたのがあの尊王攘夷 燕も秦も趙も牧畜民(春秋期わこっちが主)や遊牧民の征服同化が勢力拡張の過程 同化(教化)は中華帝国形成後の概念ね
攘夷という言葉にあるようにこの時期の周辺民族は漢民族にとって支配地域を奪い合うライバル
そもそもこの時期の漢民族は農業技術進歩の恩恵を受けて人口が増加したから欲しいのは居住地域
異民族に対して趙のように戦力として欲しいから労力かけて漢民族に同化させるようなことはまだやってない
皇帝を頂点に華夏始め諸民族が支配される概念は戦国末期の秦が広めたもの 微管仲、吾皆被髪左衽
一歩間違えば被征服民になってた春秋時代の漢民族が他民族を同化する余裕なんてない 異民族も早くに同化した,斉の服属征服させた東夷,普が征服した雑多な牧畜民,秦が服属征服した西戎等と
長城外の東胡その他遊牧民が居た事も理解して無い無知無知くん
といっても戦国期に成ると燕や趙がそれ以前の長城外も支配下に組み込んでるけど 歴史観が古いし漢民族中心被れだし都合の悪い歴史は無視するしダメだなこいつ
胡服騎射導入してやっと異民族に立ち向かえた趙のように
周王朝東遷以降
強いリーダーを失った周王朝支配圏は都市国家による緩い集合体になったから
まとめられる覇者が出現するまで全員被髪左衽になりかねない状態だったのに
征服同化してた!など後世の中華帝国の価値観で語る馬鹿が無知にも程がある >>747
上流域は含まなくないか
上流域には周を含めた、不完全な上下関係しか受け入れてない隣国があっただろ 秦って周初には存在しなかった国だし、元は遊牧民系の国だったのが中国化して建国されたんじゃないの? >>758
普ってなんですかw?
こいつが史書を読んでないことは確実 >>764
アンカー先の数字を間違ってない?
どう繋がってるのかさっぱりわからん 中国は、20世紀になっても
「省が違えば別世界。言葉は通じないし、風習もまるきり異なる」
「隣の省に貨物列車を送ると、列車ごと返ってこない」
と言われる世界だった
ましてや、2500年前なんか
鉄道も電話もテレビもなにもなく、
「秦の始皇帝が車軌を統一したおかげで、隣の国まで馬車で行けるようになった」
「斉(山東省)の人なのに、莱(山東半島)の人とも会話することができた」
と言われる世界だ
「中国化した」と言ったって、単一民族になったわけでもなんでもないんで 清朝末期わ暴政続きその後の滅亡崩壊と内戦
日帝国の侵略と虐殺略奪破壊,一時的統一と毛沢東大乱
近代国家の建設が始まって未だ半世紀経って無いからね
琉球や蝦夷島は完全に言語不通で辺境の南九州と東北も難儀
琉球語アイヌ語の絶滅化と標準語教育を始めて時間経ったから >>767
そりゃまあ、中国というひとつの世界を作り上げてるのは知識人階級以上の上層部だけで
庶民は地域間交流も少なくて文化的にバラバラではあるな
中国全土で統一されてた度量衡だって上層部だけが使ってて、村の中までは入り込んでない、
庶民が使う度量衡は公定度量衡とは別物だったとされているし ヨーロッパもそうだな
上層部は交流が盛んで、親戚同士だったりするし、共有している文化がある
でも、それは上層部だけ 大体文字が誕生したのも異文化交流のためのツールだからな
縄文時代の日本人など言葉だけで充分足りたからモジなど必要なかった >>770
又誤読or曲解してるのか無知無知くんは
統一の度量衡は定めたが,征服地での実務でわ旧六国の単位を引き続いてた >>772
石器時代の日本列島とか精々隣の集落までが全世界 アフォか
5千年前の青森の三内丸山遺跡から、糸魚川でしか取れない翡翠が出て、広範囲での交易が確認されただろ >>773
おまえもう話に入らなくていいよ
邪魔だから >>775
弥生時代の遺跡からローマ領内のガラスとかコインとか出てるからな
ローマと邪馬台国の広範囲な交易が確認されたよな(判らない方の為に説明しておくとこれわ皮肉である) 近隣の村との交易でリレー的に遠くまで材物、宝物系が運ばれる程度は珍しくない
貿易商人が遠くまで往来するようになるのはもっとあと 隣の人がイギリスに旅行に行ってお土産に色々貰って
そのうちの一部を沖縄の親戚に家に行って譲渡した
沖縄の親戚がイギリスと交流があったわけでも、イギリスと交流がある隣の人と接触したわけでもないという 縄文時代の交易はお土産、部族間友好用とは聞いたことはあるな
この時代の積載能力はいかほどかな 縄文人が生活必需品も交易してたんじゃないかとの説もあるんだけど 縄文人が食べてたものは、煮込んだ魚介スープに、鳥や獣の肉もある
要するに、旨いものを食べていた
中国の内陸部は、食べるものがないから農耕を始めるのは早かった そもそも、なんでモンゴル高原で羊の放牧をするかっていったら、草原の草しか食べるものがないからだ
残念ながら、人間の胃腸では消化できない
だから、代わりに羊に食べて消化してもらって、その乳や肉を食べる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています