東ローマ帝国の歴史
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
カール・マルクス
「最低最悪の国」
塩野七海
「ギリシャ語化してるからローマじゃない」 東ローマ軍はとにかく弱体だった
勝った時は例外なく異民族兵士や傭兵が活躍したからで
ギリシャ人兵士はとんでもない弱兵だった 西欧の騎士に対してはベルギーの町民やフス派のように
障害物で突撃を相殺するとか
ハンドワゴンを開発するとか
新兵器の開発はできないで
いつも負けていた
トルコ人相手にもアルバニアやワラキアのような戦術で苦しめると言う事も出来ず
負けていた
戦術の開発というのができない 東ローマ軍と古代のアテナイ軍が戦ったら絶対に負けるだろう >>207
十字軍到来の頃とイスラーム到来の間は違ったって意味だったんだが・・・
十字軍到来の頃の重税も内乱が頻発し、帝国は分裂傾向にあった
その原因は末期マケドニア朝の無能な政策の結果なのだが
この辺はホノリウス政府の無能ぶりに近い >>195
一応中世初期(Fruhmittelalter),盛期(Hochmittelalter)まではローマ帝国の後継とみなされていたが、中世後期(spatmittelalter;具体的にいえば大空位時代以降)は>>196みたいな感じ
皮肉なことにHelige Romische Reich(神聖ローマ帝国)という国名は大空位時代の皇帝ヴィルヘルム・フォン・ホーラントの公文書に初めて使われるようになったらしい 超大国から徐々に縮んでいき戦争は連戦連敗
内政はグタグタそれでも何故か滅亡せずほそぼそと続く
ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマントルコの末期を見るとほとんど同じコースを辿ってる感がある 年がら年中傭兵を雇ったり
遊牧民やアラブ人に貢納金を治めないといけないので
重税を課せざるを得なかった 東ローマというのはコンスタンティノープル一極集中で
地方は首都に税と富を吸い取られ続けていた トルコに滅ぼされたけど
滅亡の原因の3割はスラブやブルガリアの南下だろう
トルコとブルガリア両方対処するだけの軍事力がない >>148
あの時代のヴェネチアとジェノヴァが強すぎるよな
今のイタリアよりすごい ブルガリアとかギリシャ人ドーピングでもあるのかというぐらい
強靭だ
ほかのスラブ人やマジャール人相手には勝ったり負けたりなのに >>148
専制国家だったので
自由商業が難しかったんじゃないかな?
ビザンツ
絹生産も国家管理だと記憶してる スラブ人の軍の偽装退却にひっかかって
不利な土地に誘い込まれて大敗したという記録を見て
武力や兵の勇敢さだけでなく
地頭ですらも劣っていたのかと思う ブルガリアの南下について
バルカン山脈という防備に適した山岳をほぼ一瞬で失ってるんだけど
なんで一回の敗戦でのダメージが大きいんだ、馬鹿じゃねえかと思う
ブルガリアを再び征服するのに、サムイルの自立から数十年かかったし
結局第二ブルガリアの成立で失った ブルガール人の強さ知らんのか?
スラブ化して弱くなる前だぞ 東ローマ帝国の人もシーザーみたいなローマ風の衣装を着ていたの? スラブ化しても
サムイルの勢力を再征服するのに30年ぐらいかかってるし(しかも金で寝返りを誘発させると言う裏工作を行って)
第二ブルガリアにはよく負けているから
他のスラブ人よりも恐ろしい気がする シーザーみたいな古風な衣装を着てたのって西ローマですら特定の官職のひとだけじゃね >>222
実際ギリシャ人の知能指数は
欧州の中じゃ2番めぐらいに低い イスラムによるコンスタンティノープル陥落(ローマの終わり)の事前予言
これがあるから史学は東ローマを低くしたい
アブー・フライラは伝えている
アッラーのみ使いは、「一方は陸地で他方は海に接している町(コンスタンチノーブル)について、なにか聞いたことがあるか」と言われた。
人々が「いいえ、ありません」と答えると、み使いは「“最後の時”が近づく頃には、七万のイスラーイールの民(バヌー・イスハーク)(注)がここを攻撃する。
彼らはここに上陸すると、武器を手にして戦うことも矢を射込むこともせず、ただ、アッラーの他に神はない!
アッラーは偉大なり!
と叫ぶだけであるが、それによって町の一角はくずれ落ちるであろう」と言われた。
このハディースに関連し、口述者の一人サウルは、次のように述べている。
「私は、み使いがこう言われるのを聞いた。
『海に面した二角がくずれおちる。
次いで、彼らは二度目にアッラーの他に神はない!
アッラーは偉大なり!
と叫ぶ。
するとまた、別の一角がくずれおちる。
更に彼らは、三度目に、アッラーの他に神はない!
アッラーは偉大なり!
と叫ぶ。
するとそれによって門が開かれる。
彼らは中に入り戦利品を集めて仲間同士でそれを分配し合う。
しかし、この時、「ダッジャールが現われた」と言う叫び声を聞く。
そのため、彼らはここに全てを残したまま、ダッジャールと戦うため帰途につくのである。』」 コーランのローマ章がビザンツ章になってたりギリシャ章になってたりするのもそのためか
コーランの時代に弱小だったイスラムがローマを滅ぼすと書かれてたから 異民族に簡単に土地を取られるが
再征服は異常に時間がかかる
アナトリアは最後まで完全に再征服できなかったし トルコ人は強豪なんだから
臆病者のギリシャ人が勝てるはずない トルコ人に正教を宣布して対イスラム勢力を作らなかったのが悪い 昔
アラブ人キリスト教徒がいたが
彼らに対して差別的な政策をとったため
イスラム教徒のアラブ人に敗れた
ギリシャ人は古代から人種差別主義
現代でもアルバニア人を差別するレイシストが多い (西)ローマがゲルマン人アレルギーでゲルマン人を排斥してたころ、ギリシャ(東ローマ)ではゲルマン人が大規模雇用されて国力が増強された
ローマではイタリア半島出身者以外はローマ人ですら田舎者と差別されたが、ギリシャでは皇帝に従うキリスト教徒なら誰でもローマ人として受け入れられた
ローマでは東ゴート王国時代ですら行政官がローマ人に独占されていたが、ギリシャではゴート人、フランク人からアルメニア人やスラブ系までもが政界上層部で活躍できた
ギリシャには多民族国家としての懐の広さがあった スラブ人を完全に従えさせたり
土地開発とかできてなかった感じする 遊牧民のトルコ人だけでなくスラブ人よりも弱そうなのがダメ 『イスラーム文明とは何か』(塩尻和子、明石書店)に、
「もし、イスラーム世界でギリシア語文献の翻訳作業が行われなかったとしたら、
イスラームの支配者たちが、ビザンツ皇帝と同様に、異教の下で発達した文明を
排除してしまったとしたら、今日の世界は、かつてギリシア・ローマ文明というものが
あったが、原典類はすべて消滅してしまい、どのような文明であったのか、詳細は
わからない、という事態になっていたであろう」
と書いてあるんだが、ビザンツ皇帝が異教文明を排除したというのは
いいすぎのような… イスラーム学者は批判じゃなくて擁護するから信用できん ユスなんとかいう国家財政破たんさせたやつが
アカデミア封鎖して
非キリスト教の古代文明を破壊したのは確か >>239
>原典類はすべて消滅してしまい
ギリシア・ローマ文明のうちラテン語、ギリシア語からラテン語に翻訳されて保存されたものもある
ビザンツでも保存されたギリシア語文献は多い
「すべて」のように極端な用語を使う学者(に限らず文筆家)は要注意 ビザンツなんて当時存在しない国名使うから
古代のものはなくなったと思われるんだよ >>36
なんつうかな
中国の王朝末期の腐敗して使い物にならない状態の
軍隊がずっと続いてるって感じがする
強力な部隊も異民族の傭兵頼みだと言うのも
中国っぽい
まじで滅びなかったのはコンスタンティノープルの城壁のおかげだと思う アラブ人とか
ブルガリア見て思うが
城壁だけは落とせないから残して
他のバルカン半島の地域をすべて征服して
国力を高めて
コンスタンティノープルの大城壁は長期戦なり国力高めてからの大兵力で
落そうとは思わないのかね
いうなれば都市国家状態にしてからつぶすと言うような
ツァーリのシメオンも結局バルカン半島側の土地を征服することはできず
コンスタンティノープルを孤立化できてなかった 現にローマ末期の百年くらいは
コンスタンティノポリスだけの都市国家状態になってたがな 現実問題ブルガリアの場合アナトリアは征服できないだろうから
コンスタンティノープルを落とすことは無理だろうが
トラキアやテッサロニキやペロポネソスまですべて領有して
領地硬めするってことができなかった フン族とか、コンスタンティノープル以外の地域で好き放題してたぞ コンスタンティノープルは最後にとっておいて
周辺の土地の占領と開発を優先したオスマン帝国はかしこい
ブルガリアはテッサロニキからペロボネソス、イピルスまで荒らしたが占領はできなかった 周辺住民がコンスタンティノープルに搾取される体制に辟易してたんだろう 富のほとんどがコンスタンティノープルに集められてるから他の地域はさんさんたる状況で奪っても旨味が無いからだろう
コンスタンティノープル以外の地方都市だと法律すら機能してなかったって言われてる そんなだから各地の勢力も蜂起したとき、とにかくコンスタンティノープルを目指した
おかげで西ローマみたいな分裂状態にならないですんだ >>253
>コンスタンティノープル以外の地方都市だと法律すら機能してなかった
それはテオドシウス法典が実用的に作られていたのに対してユスティニアヌス法典が実務家としてより法学者としての側面が強かったトリボニアヌスのせいで使いずらいものになっていたから、って理由もある 熱心党が勢力を伸ばして政権獲得してたら
帝政は廃されて民主主義国家ができていたかもしれない >コンスタンティノープル以外の地方都市だと法律すら機能してなかったって言われてる
若干誤解があるような
確かに「法典」は地方では機能していなかったかも知れない。これはテオドシウス法典やユスティニアヌス法典がラテン語で書かれていたため。5世紀は東方でもラテン語で教える法律学校が機能していたが、ユスティニアヌス時代に活動を停止したため、ラテン語法典は地方では機能しなくなったと考えられる。他方ギリシア語の要約や註解が多数つくられ、これらは教会法や慣習法を取り入れて地方でもよく活用されていた。これらはレオン三世時代「エクロガ」としてまとめられ、南イタリアやセルビアなどの辺境でも活用されていた。9世紀末にはユスティニアヌス法典を抜粋しギリシア語に翻訳したバシリカ法典は既に時代と合わなくなっていて利用されなかった。よって
「コンスタンティノープル以外の地方都市だと法典は機能してなかった」がより正確 >>252
その周辺住民も首都に集まる
そしてスラム街を形成する
地方はますます衰退する
地域住民はまた首都に集まる
ループ >>251
平家や豊臣政権より長続きし過ぎ というより
鎌倉幕府、後漢、唐、宋、新羅、高麗より
長く続いてるのが全く意味不明
王朝は交代してるから国名は同じでも
中国的には何度も別の国になってるのだろう 総合的な国力というか
経済や物資を軍事力に転換できてない
感がましまし >>261
王朝は最長のパレオロゴス朝が200年
他はせいぜい100年くらい むしろ中国的には国号は都市のことなんで国号が変わっても同じ国 >>264
日本で言えば古墳時代から室町時代までか
日本の政権が変わっても皇室は存続し、
国号は日本に変わってから後は変えてない
王朝が変わっても正教である限り
ずっとローマ帝国なんだな
後ローマ帝国とか新ローマ帝国とかローマ帝国改とか続ローマ帝国とかがあっても良さそう ローマ帝国はほんと皇帝の血統には拘らないな
これがプリンケプスってやつなのだろうか
東ローマ帝国もその系譜なんだろうか 神聖ローマ帝国もハプスブルク家まではそんな感じだが 後になるほど東ローマ皇帝のポジションが
古墳時代の大王から室町将軍に転落していってる
感じはあるな コンスタンティヌス11世の最後の突撃と足利義輝の奮迅の剣戟は被る
珍しく英邁な人物が出たが、王朝の命脈も尽き明君程度ではもはやにっちもさっちもいかない状況の悲哀も >>269
いや立ち振る舞いはともかく
能力は平凡だったと思う 無駄に多いコンスタンティノープル市民を兵士にして抗戦できなかたったのか ビザンツやローマ帝国ではないが
ヨーロッパの王朝の場合、王朝を越えて二世三世を名乗ることがある
シチリア王フェデリコ三世なんてローマ皇帝ではなくスペイン人だがフリードリヒ二世の後継を名乗った
これも血統主義なのか フリードリヒ一世と二世は神聖ローマ帝国皇帝
フェデリコ三世はアラゴン朝のシチリア国王なんだが >>271
日本は源平から大戦までこういう局面では総大将はほとんど自決だ
諸外国でも自決か投降か捕縛じゃないかな
ローマ帝国最後の皇帝に相応しい最期
それだけで立派な皇帝だと思う 教会合同に活路を見出そうとしたけどあんま意味なかったな
まとまった軍出したのハンガリーだっけか?速攻敗北したけど ビザンツの臣達はローマ教皇の三重冠見るくらいならスルタンのターバンの方がマシとか言ったんだっけか >>279
文章をよく読めよ
>王朝を越えて二世三世を名乗ることがある
と書いてあるだろ?
で、シチリア王として「二人目」のフェデリコ(在1296-1337年)は、「三世と名乗っていた」わけ https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_III_of_Sicily
これ読む限りそれは超例外だってさ
だからそいつ勝ってに名乗っただけで実際は2世だ
だから孫のフレデリコは3世 273の文意が取りにくいんだよ
王朝を越えてだと王朝の交代に読み取れるよ
この場合国を越えて王朝の継承を勝手に主張してるケースだな もっとも1世2世3世ていう順番付けは王朝基準じゃなくて国内基準で決まるから
たぶんこの自称フレデリコ3世はシチリア王として3世名乗ったというより
俺は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の孫だから神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世だぁってつもりで3世名乗ったんだろうな イングランド王とスコットランド王もそんなのがあったな >>286
自称で何か問題が?
>二世三世を名乗ることがある
と書いてあるだろ?名乗るの主語は「自分が」であって自称のこと
「二世三世と後世の学者が名付けたわけではない」という意味だよ
そもそもこれは>>267の
>ローマ帝国はほんと皇帝の血統には拘らないな
という発言を受けて、ローマ帝国に限らず血統にこだわらず二世三世を自称する人もいる、
という文脈の話 曽祖父がフリードリヒ2世だから3世を自称したのはむしろ血統にこだわってるよね
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世はシチリア王としては1世だからわざわざ3世を自称したなら
神聖ローマ皇帝を僭称してたんだろうな 皇帝あるいは国王の代数問題でよく話題になるのはルートヴィヒ(ルイ)とtロタール
ルートヴィヒ4世(Ludwig der Bayer)はなぜ4世なのか?
フランク国王(東フランク国王)の系譜を辿ると
ルートヴィヒ敬虔帝(1世)→ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)→ルートヴィヒ3世(若王)→ルートヴィヒ4世(幼童王)
となり4世が被るが
ローマ帝の系譜を辿ると
ルートヴィヒ敬虔帝(1世)→ルートヴィヒ2世(ロドヴィーコ2世;皇帝ロタール1世の子、イタリア王)→ルートヴィヒ3世(盲目王;ブルグンド王)
で辻褄が合う
ズップリング家の皇帝ロタール3世はなぜ3世なのか?
皇帝ロタール1世(ルートヴィヒ敬虔帝の子)→ロタール2世(ロタリンギア王;皇帝ロタール1世の子)
ロタリンギア王ロタール2世はローマ皇帝位には就いていないのになぜかズップリング家の皇帝ロタールは3世を名乗る ギリシャ人に兵士としての素養があったら
そもそも十字軍とか来なくて済んだろうし
バルカン半島にスラブ人が住み着くこともなく
したがって第一次世界大戦も起きなくて済んだ オルハンがヨーロッパの領地を得たきっかけは
東ローマ内戦で舅に味方した例
東ヨーロッパの滅亡に貢献した 西欧人やノルマン人の単純な騎士の騎馬突撃に最後まで対抗できなかったという印象
フランク人の騎兵にはまともにぶつかってはいけない、山にこもれと
マニュアルに書いてあったそうだけど それにしても進歩のない帝国だよなここは
アヤソフィアを超える建築をついに作れないし今も残る東ローマ帝国時代の教会は西欧に比べてずっと地味だし芸術もずっと同じようなモザイクだしまともな彫刻すらほとんど無い
ローマ帝国を受け継いではいるが古代ギリシャ・ローマのような学問や技術や文明水準の発展が一切感じられない、せいぜい凄いと思えるのはアヤソフィアくらい 人口の割には
内政がなってないから国力に還元できないんだよ でもキリスト教徒はキリストの像作ったりするうちにマリア像おがむようになったし
十字架そのものを拝むようにもなってしまった 結局傭兵頼みなんだよね
数の上では主力となる
ギリシャ人兵士の弱体ぶりは最後まで解決できなかった ウズンハサン
スカンデルベグ
フニャディヤーノシュ
ヴラドツェペシュ
シュテファン
とオスマン帝国の拡大を食い止めた英雄が帝国にはいなかった チェコ人はハンドワゴンを生み出して騎士の攻撃を粉砕したが
帝国はいつまでたってもフランク人の騎馬軍に負けてばかりだった 自国民であるギリシャ人を傭兵として使えなかった
そもそも弱体ばかりで兵士として使い物にならなかった
傭兵はいつも異民族からつのっていた ギリシャ火炎なんてあっても結局地中海はイスラム海賊にとられたな ギリシア正教会に修道騎士団はいなかったのかな
信仰のために戦う戦士の強さは死を恐れぬバーサーカーだからいればムスリムと対等以上に戦えたろうに >>302
正教会の修道士って長い髭生やして動き難そうな
長衣着た爺さん集団という感じしかしないな。 アリウス派の教会を建てたってだけでガイナスを軍団ごと襲ったりアスパル親子を殺害したりイサウリア人を虐殺したりと、4〜5世紀頃にはどっちが蛮族だよってレベルの凶暴さだったのにな 首都にいたヴェネツィア人を虐殺したりと
奸物じみた凶暴さは古代以降もあるよ
ただ武装した敵兵士の前ではすこぶる弱い
強いやつには点でかなわず非武装な市民や捕虜相手にイキがって殺すだけ >>305
終戦直後やベトナム戦争の時のチョンと同じだな。 イスラムの世界制覇を長期に亘って斥け続けた偉大なる帝国
東ローマ帝国が怒涛のイスラムの侵略を前にして早々に抵抗を諦めていたら
今頃全世界の人間がアラーに組み敷かれていた
東ローマ帝国が存在した恩恵を感じないばかりでなくその悪口を言う者がいるが
犬でも三日飼えば恩を忘れぬというのに犬にも劣る恩を知らぬ畜生であろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています