東ローマ帝国の歴史
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
カール・マルクス
「最低最悪の国」
塩野七海
「ギリシャ語化してるからローマじゃない」 ビザンティウムはギリシャ人が建設して以降ギリシャ→ペルシャ→ギリシャ→ローマ→十字軍→ローマ→トルコと主人が変わった
南のエルサレムの変転と比べるとあのような場所にあってこれほど安定しているのはすごいものだと思う >>305
ブルガリアには特に弱い
勝ってるときもある?
そうだねサムイルとか滅ぼしたよね
けど敗戦のほうがもっと多い
城壁がなかったらブルガリアに滅ぼされていた >>311
文盲かよ。今でも性犯罪の年間発生件数日本の30倍の南チョン。 >>314
9cmの粗末なチンポでレイプしまくるチョンwww 実は都市自体はコンスタンティノープルより、アンティオキアとかのほうが堅固なのでは?
なんだかんだで3度の陥落を合わせても、十字軍のアンティオキア攻囲の半分にも満たない ウマイヤ朝の最後の包囲戦の時には城壁破壊されていて突入寸前になってたからね
ならなかったのは
艦隊の船員として使われていたコプト教徒が裏切ったから コンスタンティノープルはユダヤ人7万がアッラーアクバルと叫んで崩れ落ちました
アブー・フライラは伝えている
アッラーのみ使いは、「一方は陸地で他方は海に接している町(コンスタンチノーブル)について、なにか聞いたことがあるか」と言われた。
人々が「いいえ、ありません」と答えると、み使いは「“最後の時”が近づく頃には、七万のイスラーイールの民(バヌー・イスハーク)(注)がここを攻撃する。
彼らはここに上陸すると、武器を手にして戦うことも矢を射込むこともせず、ただ、アッラーの他に神はない!
アッラーは偉大なり!
と叫ぶだけであるが、それによって町の一角はくずれ落ちるであろう」と言われた。
このハディースに関連し、口述者の一人サウルは、次のように述べている。
「私は、み使いがこう言われるのを聞いた。
『海に面した二角がくずれおちる。
次いで、彼らは二度目にアッラーの他に神はない!
アッラーは偉大なり!
と叫ぶ。
するとまた、別の一角がくずれおちる。
更に彼らは、三度目に、アッラーの他に神はない!
アッラーは偉大なり!
と叫ぶ。
するとそれによって門が開かれる。
彼らは中に入り戦利品を集めて仲間同士でそれを分配し合う。
しかし、この時、「ダッジャールが現われた」と言う叫び声を聞く。
そのため、彼らはここに全てを残したまま、ダッジャールと戦うため帰途につくのである。』 オスマン支配下の東欧において椅子に座る文化がどの程度維持されたのか気になるな
おそらく少なくとも一部はトルコ同様床に座る文化が導入されたはず 西欧キリスト教史観でなぜ「ビザンツ」と呼ぶことを好むか?
イスラムの預言、ハディースで「ローマがイスラムに滅ぼされる」
「首都コンスタンティノープルが破られる」がみごとに的中しているからだ
これは実際預言成就以前に確実にその預言が存在していて、実際それが実行された
これを嫌がるから「ローマ」であることを認めたくないのである >>325
コンスタンティノポリス遷都後のローマをローマと認めてしまうと
西欧文明がローマの正統後継者ではなく傍系になってしまうから
西欧人はそれをローマと認めたくない >>325
この当時の世界は地中海と黒海の貿易が
中心であった 北米とか中南米とかは知らない、
イスラム教徒からすれば全世界は征服したいが
コンスタンティノープルは現在ならロンドン、
アレキサンドリアは上海、
ローマはニューヨークに相当する 西ローマはローマではないのだ
ダニエル書の第四の獣
最も恐ろしい鉄の獣 青銅の歯をもつ獣は東ローマであって
西ローマは粘土に例えられる
それがイスラムに滅ぼされたことで矮小化された ローマの後継を名乗ったギリシャ帝国だろ
ローマ市領有してないと精神的な意味でのローマでしかないな コンスタンティノポリスは第二のローマといってもローマそのもじゃないから
あれがローマならモスクワもローマ
ロシア帝国がローマ帝国になってしまうぞ とりあえずシリアとエジプト奪われてからはギリシャ帝国でいい
ローマ感ないし ダニエル書には4つの世界帝国が預言される
第一はアッシリア帝国
第二はメディアペルシャ帝国
第3はギリシャ帝国でこれが4つに分裂する
その次の第四の獣
この獣が神の民に滅ぼされると預言される
アッシリア・メディアペルシャ・ギリシャと来て
次は何だ?
これをEUとかアメリカとかキリスト教社会とか言ってるのがプロテスタントのカルト
ローマ、それの後継の東ローマしかないだろ だいたい東ローマと書く時は自然とシリア、エジプト失陥前をイメージするね
その後はビザンツつまりギリシャ帝国と書いた方がわかりやすい もともとコンスタンティノープルは最初からビザンティウムだし、
6世紀のプロコピオスもビザンティウムと呼んでるんだが、
6世紀にイスラームってあったんだっけ? ないですね
7世紀初頭610年ムハンマドに啓示@ヒラー洞窟
息をするように嘘をつくのが彼の特徴です > コンスタンティノポリスは第二のローマといってもローマそのもじゃない
> あれがローマならモスクワもローマ
> ロシア帝国がローマ帝国になってしまうぞ
そのまんま吉村先生が同じこと指摘してるな >>336
息をするように嘘をついて「コンスタンティノープルはイスラムに陥落される」と言ったらその通りになったのか >>337
ちなみにカールの帝国と「神聖でもなければローマでもなければましてや帝国でもない」あの帝国は? 神聖ローマは神聖ローマとしか言いようがないな
パラドゲーやりゃ大ざっぱにつかめる 強いていうならキリスト教帝国の概念によって生まれた中欧から北イタリアにかけたゆるい連合
その理念も宗教改革あたり、カール5世が最後にイタリアで戴冠して終わった感じ オスマン帝国のスルターン達はギリシャ人奴隷からなるイェニチェリ軍団に身辺を固めさせていたが、武装した外国人奴隷と寝食を共にしていたら、寝首をかかれるのでは。
スレイマン一世以降はトルコ人もイェニチェリになれるようになったが、ビザンツ帝国の目が黒いうちはみなギリシャ人だった。 渡辺金一センセイとかは神聖ローマもローマそのものって扱いだな
というかカール戴冠騒動まで東西世界に境界はなかった、一つの中世ローマだったって立場 でもカエサルの頃から身辺警護は外国人奴隷の仕事じゃなかったか? >>321
その時にアラブ人に支配されていた方が
もしかしたらバルカン半島およびギリシャは
栄えていたかもしれない
産業発展と農業振興がもたらされたかもしれん
少なくとも後の世で十字軍からも
「豚飼いが多い貧相な土地」評価はされてない >>344
ゆるい連合で十字軍を何十万とおくらんだろう 西欧史観から脱却しなくてはいけない
ダニエル書にかかれた鉄の獣ローマ帝国は東で、西は粘土 >>345
イェニチェリは改宗してたからね
キリスト教徒のままの護衛兵はさすがになかったろう ギリシャ人はスラブ人に比べて戦う力が劣っているからな 東方キリスト教にとってはまじで災厄国
トルコ人に負けてコーカサスのキリスト教国をトルコ人に明け渡した
というかアルメニアを滅ぼした時にはアルメニアのキリスト教を異端認定した
さらにオスマン帝国にも対して抵抗できずに負けてオスマン帝国拡大のA級戦犯国となった オスマンは宗教には寛容よ
イタリア出身のキリシタン女宰相までいたから キリスト教全体が異端なのかもよ
イスラムはユダヤ教と同じく「全ての運命が決まっており、なおかつ自由意志を持つ」という考えを持つ
すべて定まっていたのだ 皇帝テオドシウス1世が広大すぎる領地を自らの息子達にローマ帝国を東西二分化させた時に
「首都」コンスタンティノープルに「正帝アウグストゥス」として「兄」のアルカディウス1世を後継者にしたのが後に東ローマ(ビザンツ)帝国と呼ばれ
「副都(旧都)」ローマに「副帝カエサル」として「弟」のホノリウスを後継者にしたのが後に西ローマ帝国と呼ばれてるんでしょ?
本当に平等な分け方だったの? 古い歴史学者連中は英独学会の影響モロにうけてるせいで西欧中心主義史観者ばかりだからな >>356
ぜんぜん違う
テオドシウス1世の子供達による東西分割はテオドシウス1世が西征後に帰国できず病死したことによる偶発的な出来事
そもそもホノリウスも最初から正帝アウグストゥスだし、テオドシウスの時代だとまだまだローマのが首都として格上だった時代 テオドシウス大帝自身が西側で任命されて東側に派遣されてきた皇帝なんよな >>351
メフメト2世による東ローマの滅亡後、ユダヤ人のスレイマン1世がスルタンになってイェニチェリ改革を進めたのはムスリム国教のオスマン帝国にとっては有利なことだったのか、不利なことだったのか。後世には国家破綻のきっかけみたいになってるけど。
兄弟殺しはローマの風習?
それが東ローマ滅亡を前後してオスマン帝国でも流行るという謎。 >>354
オスマンに限らずイスラムの"寛容"って完全服従したうえでのことだからね
服装や装飾品は許可がなければ好きな格好もできず、ムスリムが来たら経典の民でも馬から降りて卑屈な服従の態度をとらなければならない
異教徒が出世することを寛容とはいわない
有能なら登用して都合よく利用しただけ
寛容だったらあんなに大規模にバルカン半島やアラビア半島から独立運動が勃興しないだろう
実態は非ムスリムをミッレトに閉じ込めてただけの閉鎖的寛容政策
東方教会をガンガン追い込んでたビザンツとたいして変わらん >>361
異教徒のままで出世した人っていたっけ?
大規模に独立運動が勃興したのは末期の主に19世紀以降の話
ミッレト制に閉じ込めてたという学説はもう古い
現在一般化しているミッレト制なるものを提出したのは20世紀のアメリカの論文で
以降ミッレト神話論が固まっていった
その後ミッレト神話論は批判されてきたが、19世紀以降のミッレトとそれ以前の
非ムスリム共同体の管理は大きく違うという点で議論が進んでいる
現在では非ムスリム共同体は徴税請負システムの一環であったとか、18世紀以前の実体に
即したターイファという用語を用いて解析され、ムスリムとの交流もあったことがわかっている ミッレトの推移どうこういってもイスラムに完全服従した上でのことってのは変わらない
交流があれば寛容なのか? 独立運動があれば不寛容、服従すれば寛容じゃない
なとど極端な二択を迫るのは屁理屈屋のものいい 服従の中身をみてみろ
着る服を自分で決められない相手次第ってことが寛容になるか
極端な二択以前の理解力なし屋の問題だ 着る服が自由に決められないんならどうしてバルカン半島の非ムスリム諸民族には
オスマン時代から伝統民族衣装があったんでしょうかねえ
オスマン時代のバルカン諸民族の衣装があるが、現在でもバルカン諸国が伝統としている
民俗衣装とあまり変わらないし、基本となる日常服はビザンツ時代から変わらないといわれているのに
https://historum.com/threads/balkan-dress-under-the-ottomans-15th-18th-centuries.80542/
理解力以前に議論の前提となる基礎知識がいい加減では話にならない >>353
アルメニア人とギリシャ人は仲が悪いし
同じじゃなくて違う正教なんだよな
オスマン帝国末期にはアルメニア人もギリシャも
クルド人もトルコ人も皆武装して殺し合いをした
アルメニア人虐殺って一方的な殺戮とは違うだろ イスラムの寛容なんてイスラム凶徒の一方的な解釈だからなw 東ローマ帝国がアレキサンドリアを首都にして
いたら、史実より何倍も早く滅亡してしまう
しかし、たとえそうでも古代中世の頃のエジプトの重要度は今とは段違いで魅力は捨て難い
地中海と黒海を結ぶコンスタンティノープルにも
決して劣らない 交易の中心地として
ダマスカスもエルサレムもアンティオキアも
魅力満載だよねえ >>369
確かに
現代でもアメリカのリベラルなんかが特にそうだな
ブッシュなんかも寛容を説いていたが、それは実際は違うんだぜ、という暗黙の前提があった
先月もブッシュはイスラム教徒への寛容を説いていたが、これもトランプ時代に噴出した不寛容が前提の発言だし >>370
案外テオドシウス城壁並みの城壁と軍港と艦隊を築いて長持ちしたかもよ
その後の王朝交代がムハンマドアリー朝とマムルーク朝以外全部外部からの征服だから
可能性は低いだろうが >>372
おー!コンスタンティノープルではなく
アレキサンドリアが難攻不落のイメージになる
なんて夢があるなあ バビロン、バグダッド並みに外部から攻められる地域だけに >>373
エジプトにある大建築って全て独立時代のものなんだよね
新王国時代まではいわずもがな
プトレイマイオス時代の大建築は今に残らないとはいえムーセイオンやファロスの灯台があった
ファーティマ朝のズワイラ門フトゥーフ門ナスル門
マムルーク朝のハサンモスク、カラーウーン複合建築施設
オスマン末期のムハンマドアリーモスクはアリー朝のだし
東ローマもエジプトだけになればそれなりに国力ありそうなんだが
エジプトは防衛に弱いんだよなあ
シナイ半島なんかは地峡なんだからもっと防げそうなのにいつも易々と突破されるのはなぜだ!? >>366
不適切な衣服を着ていた正教徒の処刑<1785/1789年>
スルタン・アブドュルハミド1 世は身分を隠して旅をしていた時、
1人のギリシャ人異教徒を目にした。
黄色い靴を履き、華麗なデザインのカフタン(上着)を着て、長いガウンをはおり、ショールそして縦じまの毛皮コートを着ていた。
スルタンは死刑執行人を呼んだ。
ギリシャ人は絞首刑にされることになっていたが、スルタンは斬首を命じた。
「バルカンの歴史 世界の教科書シリーズ37」
明石書店
https://www.akashi.co.jp/book/b110750.html
屁理屈以前に議論の前提となる歴史的事実に無知で話にならない >>375
昔からそんな大阪のオバハンみたいなゴージャスな格好あったのか 宗教警察の嫉妬こわ 寛容だというのなら今の日本その他の国でなんで中東の翻訳が少ないのか
聖書にコーランまぜろよ >>375
江戸時代にも衣服制限令があったことは知ってるよな
特に農民・職人などは生地が制限されていた
これをあんたは不寛容と呼ぶのかね?現在の感覚からすれば不寛容だが、前近代なんてどこもそんなものだろ
これを不寛容と呼ぶなら納得できるがね
オスマン朝の衣非ムスリムに課した服装制限は、主に豪奢な装いができない、というもの
及び異教徒であることがわかるように靴などの色の指定があった点
20世紀後半の中国の国民服みたいにあらゆる衣服が制限されていたわけではない
今のバルカンに残る民族衣装は庶民のものばかりなのはそんな事情がある
そして庶民の衣装は前レスのリンクにあるようなもの
現在に残る民族衣装とあまり変わらない
14-15世紀バルカン征服によって征服された非ムスリムの貴族は庶民よりは豪奢な装いをしていた
非ムスリムの貴族は不要とされ、貴族のような富貴な服装は禁止された、というのがオスマン時代の禁令
だから
「黄色い靴を履き、華麗なデザインのカフタン(上着)を着て、長いガウンをはおり、ショールそして縦じまの毛皮コート」
なんてものは禁令違反となったわけ
あんたに知識があるのならそのあたりのことはわかっている筈だよな? オスマンなんて虐殺しまくってんのにどこが寛容なんだよ
寛容なやつは征服戦争なんかしないし あと誤解をしているようだが、あんたが書いてる内容に誤りがあるから指摘したからといって俺は全面的に
小杉泰や塩尻和子のノリで「イスラムが寛容だ」などと思っているわけではないが
イスラム勃興期やオスマン勃興期に征服された領域にとっては、当時としては寛容な方だったと思う
なぜなら末期ビザンツとササン朝や末期ビザンツは軍事徴税に消耗しすぎたのとキリスト教宗派争いが激化していたため、
イスラムやオスマンの支配が歓迎された部分があった
だから征服が容易に進んだし、その後2,3百年安定していた
末期になって領土を失ってくると徴税は強化され国内の締付も強まった
アブデュルハミトの事例はそんな時代のもの
その上で、イスラムを不寛容というにしてもオーバーなものいいが目についたので指摘したわけ
痴漢を強姦だと言い張るような内容はさすがに気の毒だ >>379
そうだな
寛容の事例でよく出てくるカエサルも征服戦争で虐殺しまくってるな だいたいローマの平和って言葉はあるけど
ローマの寛容なんて言葉はないからな
自分で寛容ってアホか >>380
訂正
×なぜなら末期ビザンツとササン朝や末期ビザンツ
〇なぜならユスティニアヌス朝とヘラクレイオス時代のビザンツとササン朝や末期ビザンツ >>382
おまえさんはそうかもね
でも影響力ある学者さんはそうではないようだね
カエサルの寛容―「敵を許す」ローマ人の精神性
古代ローマ人に学ぶ〜ローマ史講座U(5)カエサルの寛容を現代に生かす
本村凌二
東京大学名誉教授/文学博士 >>385
その学者がだろ
どっちにしてもイスラムの寛容みたいにカエサルの寛容は標語になってないし だいたい十字軍国家だってイスラム教徒は税金さえ払えば住めたのはモロッコの旅行家イブンジュバイルの伝記でわかってるしな
あとからごり押しでやってきたから他教徒を認めざるをえないケースはイスラムと共通してる >>386
古代ローマではカエサルの寛容を表彰して寛容の神を作っていたのを知らんの? 因みに古代ローマでは神が貨幣に刻まれる場合は標語を意味する そんなマイナー神どうでもいいし個別の人間だろ
イスラム教徒は仏教徒ぶち殺しながら寛容って言ってるんだぜ
なにこいつらと思われるのは当然 インドでイスラム教徒ぶち殺されてるけどせいせいするわ
インドが砦だ >そんなマイナー神どうでもいいし個別の人間だろ
お前が無知なだけ
俺様定義の人だからどうにもならんか 改宗したら殺しますとか言ってるやつらが寛容なわけないだろ >>395
カエサル神とイスラム全体とどっちかがメジャーだと思ってんだ
カエサルはローマ全体じゃなく部分的なある地点の話だろうが
イスラムの寛容とは比較にならん >>398
カエサル神なんて名前じゃないよww
知らんのか ここは東ローマとはいえ一応ローマスレだぞ どうでもいいしそんなの
カエサルが寛容だとしてオスマンが寛容とは別の話だ >>400
寛容だといって虐殺してる事例を挙げたわけだろ
オスマンだけじゃないということで出した事例だからどうでもよくない オスマン時代はバルカンではキリスト教徒小作民に対してイスラム教徒の地主が威張ってたからな
オスマン治下のハンガリーは人口が減り貧困化する
単なる残虐な征服王朝 >>401
わかったよローマもクソ野郎で終わりじゃん
つまりオスマンもクソ野郎でいいな >>402
オスマン治下で人口が減ったのは14世紀のバルカンと16世紀のルーマニア
どちらも征服戦争やポーランドとの国境地帯で戦争に巻き込まれたことが原因だと思われる
ハンガリーの人口はキリスト教徒が逃げ出して移住したわりには横ばいで減っていない >>403
あんたの主張が首尾一貫したのは了解した
俺はローマもオスマンもクソ野郎なところもあれば寛容なところもある、と思ってるけどね でカエサルの寛容(ほんのちょっとの時期)よりローマの平和の方が有名
実際ローマにとって一番重要なのは寛容さじゃなかったということ実際そうじゃなかったしな
イスラムは全体として寛容さを歴史を通してずっと今でも自称しかも一番表にでてる標語として
ずうずうしいやつらだよ とりあえずイスラム教徒はずうずうしい
これで決着だな
アメリカも中国もずうずしいが世俗的だからな
イスラムは宗教的にずうずうしいからどうにもならん >>406
寛容の神はギリシアのエレオスと同一視されて後世まで彫像が残ってるので一時的とはいえないだろう
マイナーなのは認めるが
ところで無知で申し訳ないが
イスラームの勃興期でイスラームが寛容を自称してるソースってコーランのどの部分? だいたい共産圏だった地域はイスラム教徒の世俗化にある程度成功してるよな
人権無視な徹底的な思想教育をしない限り世俗化は難しいのだろうな お陰で中央アジアではアニミズムとか怪しい新興宗教がはやちゃってるらしい >>378
> 江戸時代にも衣服制限令があったことは知ってるよな
> 特に農民・職人などは生地が制限されていた
それくらいなら江戸時代どころか昭和の漁村とかもそうだったよ
身分ごとに着られる服が決まってて、それを逸脱しようとすると簡単に殺された
昔の漁民の写真が裸褌ばかりなのもそのせい(末期には、それがかえって反骨の印だった) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています