東ローマ帝国の歴史
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カール・マルクス
「最低最悪の国」
塩野七海
「ギリシャ語化してるからローマじゃない」 だいたい共産圏だった地域はイスラム教徒の世俗化にある程度成功してるよな
人権無視な徹底的な思想教育をしない限り世俗化は難しいのだろうな お陰で中央アジアではアニミズムとか怪しい新興宗教がはやちゃってるらしい >>378
> 江戸時代にも衣服制限令があったことは知ってるよな
> 特に農民・職人などは生地が制限されていた
それくらいなら江戸時代どころか昭和の漁村とかもそうだったよ
身分ごとに着られる服が決まってて、それを逸脱しようとすると簡単に殺された
昔の漁民の写真が裸褌ばかりなのもそのせい(末期には、それがかえって反骨の印だった) >>411
おおお
そんな事例が
勉強になった
日本の民俗学とか習俗史とかも面白そうだ
ありがとう >>411
知ってるかもしらんが裸褌どころか藁チンなんて文化も
むしろ褌しめてるのは下層民の中では偉い方 藁チンなんてやってたら警察に捕まっちゃうだろと思って調べてみたら、警察は網元とグルになって服着てる方の漁師を取り締まってたんかい アフリカやシリアをアラブ人にとられたのは醜態といしか言いようがない
重税で現地人の不興をかっていたからだ 藁チン文化と同じものが今のこの島国には多く残っている
会社組織における入社年次の年功序列や義務教育における部活動での意味不明な上下関係などだ
これは藁チン文化と同じ根を持つものであり働き蟻のような統制社会を作るためのものでしかない
これは軍隊や警察で行われているものと同じ
個を潰して全体の力を高めるといういかにも後進的民族の発想だ
多文化共生社会となりつつある今日このような悪しき風習は多くの市民から見たら奇妙で奇異なものでしかない
人間というのは高い文化を捨てて低い文化に馴染むのは難しいし大変な苦痛を伴うものだ
優秀な移民を呼ばなければこの島国に将来はなかろうが文化的理由で永住者に日本国籍を取らない者がいるのは理由のある話だ
愚昧な者たちは歴史修正主義によって美化された偽物を日本の伝統と信じている
しかしその多くは江戸しぐさのようなねつ造されたものなのだ
概ねこの国の伝統というのは因習に満ちていて不条理で押し付けがましく人間性を大事にするマインドがない
まともに信じてしまうのは毒ワクチンを打ったネトウヨ程度の知性の持ち主だろう 中世で傭兵として使い物になるギリシャ人兵士がいないんだよな
奴隷は弱兵にしかならないらしい >>416
どこの国も50%打ってるのになんで「日本だけ」の問題にしたがるのかね >>417
> 奴隷は弱兵にしかならないらしい
昔は奴隷の方が強かったじゃん
なんか制度的に問題があるんじゃねぇの? >>415
醜態も何も近東で勢いに乗ったらエジプト、
シリア、イラクは絶対取るでしょ >>409
元々世俗主義が強かった地域かもな
原理主義が強すぎると、人権無視な思想教育を
いくら徹底しても原理主義がぶり返すからな
いくら徹底しても オスマンの肩を持つわけじゃないが,支配者がオスマントルコからハプスブルクへ
変わった後のハンガリーではハプスブルクへの反乱がおこり,これが鎮圧された後
指導者ラーコーツィ・フェレンツ2世がオスマントルコに逃れてた。
オスマントルコとしてはハプスブルクへのあてつけもあった?
(うちらのほうがハプスブルクよりマシだぞみたいな) そんなナイーブな感性で政治ができるか
亡命者も受け入れ先も利害しかねえよ 井上浩一も「オスマンと戦ったビザンツにローマ人vs非ローマ人なんて意識はなかった」って書いてるな 戦争やるのにそんな意識もたないだろ
日本人VS非日本人なんてあるか ローマ文明ってキリスト教以前と以後を連続的に捉えてるから変だなって思ったけど考えてみりゃキリスト教以前の宗教もギリシャ神話の真似だったんだよな 本来のローマ宗教ってよくわからんよな
鳥占いやって国家の方針決めてたってぐらい ハンガリー なんとウィーン包囲を成功させていた。
オスマン帝国のウィーン包囲に先立ち、トルコ人兵士などと共にウィーンを包囲し半年くらい占領。何もせずに帰ったらしい >>426
> 戦争やるのにそんな意識もたないだろ
> 日本人VS非日本人なんてあるか
まあ、近代ならあったが、ビザンツの時代の日本列島人には一般に日本人って意識自体がまだ薄いな そういうことにしたいのがキリスト教徒
じゃあなんで十字軍が加担したんだ >>433
> 東ローマの歴史は中世ギリシャの歴史?
ギリシア史家にとってはそう 映画なんかのフィクションで東ローマが舞台としてとりあげられないこともあって
当時の東ローマがイメージしにくいようにも。
古代ギリシャ・ローマや中世ヨーロッパとは違って コンスタンティノポリスの街の様子も全然イメージでけへん
イスタンブールは参考にもならんし 西欧の中世暗黒時代のよいところは、古代の都市が放棄されたおかげで
遺跡が残ってて古代都市の景観がわかるとこだな
コンスタンティノープルは継続使用されたため、遺跡が殆ど残らず東ローマ時代の景観がわからない コンスタンティノープル陥落後にイタリアへ逃れたギリシャ人学者が
いたみたいだが、東のモスクワ大公国へ渡った人っていなかったん? >>438
ローマは放棄されてないし
ロンドンやトリールとか継続した都市でも遺跡残ってるぞ >>430
マーチューシャ・コルヴィヌスのウィーン占領は黒軍というハンガリーの常備兵だろ
勝手にトルコの功績にすな トリアーは知らんが、ローマはバチカン付近とローマ市域にある教会と巡礼宿以外ほぼ放棄された
状態にはなってる
市域全部が放棄されたような書き方だったのが誤解を生んだようだが
ロンドンは一時期完全に放棄されてる
アングロサクソンの連中は市域外に居住し、アルフレッドが再征服した頃は
ローマ時代の石造建築は放棄されてローマ時代のロンドン西部の一部に木造建築があったくらいだった
てかロンドンはどちらかというと遺跡少ない方だよね 神聖ローマ皇帝、ブルガリア皇帝、セルビア皇帝、ツアーリ、オスマンスルタン、ナポレオン皇帝
ローマ皇帝多すぎるんだが >>445
ナポレオンはローマ皇帝じゃなくてフランス人の皇帝
初めてローマと関わりない形でアンペルール名乗って皇帝号の価値が崩壊した >>444
hamada.u-shimane.ac.jp/research/organization/near/41kenkyu/kenkyu_sp3.data/hokutouSI3_6_Kuryuzawa.pdf
の13ページ
イヴァン3世のヨメはビザンツの皇族なんでそのつながりで聖職者がやってくるのはアリだったりして >>447
初代皇帝となったオクタヴィアヌスは第一人者という意味のプリンケプスを
名乗ってたけど,フランス人の第一人者という認識はあったんじゃないの>ナポレオン >>442
マーチャーシュ一世のウィーン侵攻軍にトルコ兵の姿を見たという文章を、講談社現代新書のオスマン帝国か何かで読んだ >>450
いつものイスラムシンパ史家の作り話だろ
マーチューシュはトルコとも何度も戦ってるし主力は当時最強だった黒軍3万
海外ソースみてもトルコ傭兵がいた記述はないし
Matthias Corvinus turkish merchenary で検索しても全くヒットしないな >>445
軍人皇帝時代とかホノリウス期とかにもローマ皇帝たくさんおるで 407年: コンスタンティヌス3世(ブリタンニア、ガリア、ヴィエンヌ、ヒスパニア)、ホノリウス(その他)
408年: コンスタンティヌス3世(ブリタンニア、ガリア、ヴィエンヌ、ヒスパニア)、ホノリウス(その他)
409年: コンスタンティヌス3世(ブリタンニア、ガリア)、アッタルス(ローマ、メディオラヌム)、マキシムス(ヒスパニア、ヴィエンヌ)、ホノリウス(ラヴェンナ、アフリカ)
410年: コンスタンティヌス3世(ブリタンニア、ガリア)、アッタルス(ローマ、メディオラヌム)、マキシムス(ヒスパニア、ヴィエンヌ)、ホノリウス(ラヴェンナ、アフリカ)
411年: コンスタンティヌス3世(ガリア)、ヨウィヌス(ガリア、ヴィエンヌ)、マキシムス(ヒスパニア)、ホノリウス(その他)
412年: ヨウィヌス(ガリア、ヴィエンヌ)、ヘラクリアヌス(アフリカ)、ホノリウス(その他)
413年: ヨウィヌス(ガリア、ヴィエンヌ)、ヘラクリアヌス(アフリカ)、ホノリウス(その他)
414年: アッタルス(ヒスパニア、ヴィエンヌ)、ホノリウス(その他)
415年: アッタルス(ヒスパニア、ヴィエンヌ)、ホノリウス(その他)
よく生き残ったなホノリウス… 本人は生き残ったけど息子が
あそこで父→子の相続が数世代続いていれば西ローマも違ってきてたのでは むしろコンスタンティヌス3世が妥協せずホノリウスを滅ぼしたあとの西ローマを見てみたかった コンスタンティヌス3世じゃなくて コンスタンティウス3世の方が 急死せずにコンスタンティノープルに攻め込んでいたとしたら >>451
ちゃんとソース見つけたらまた言うわ。
モンゴルの将軍バトゥはブダペスト占領後、何もせず帰った
ハンガリーのマーチャーシュ一世はウィーン占領後、何もせず帰った
そんなわけないだろ! ソースは講談社現代新書のハプスブルク家だった。表紙が双頭のワシじゃない方
「そしてハンガリー軍にはかなり多くのトルコ人や、トルコ製の武具・大砲なども含まれていた。 そうなのだ。いまオーストリアに来襲したハンガリー軍は、オスマントルコの前衛部隊のような性格を帯びていたのである。マーチャーシュ王はたしかに武将として優れ、またこの国では芸術保護者としても知られた中興の祖というべき誉れ高き名君なのだが、トルコの太守の後楯があってこそのハンガリー王といわざるをえない。」 >>458
英語ソースだとそんなのないね
そもそもマーチューシュは20回ぐらいトルコと戦ってるのになんだそれ
日本の歴史家だからな マーチューシュがトルコの家来ってどういう解釈だよ
何度もトルコ打ち破ってるのに https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Vienna_(1485)
https://en.wikipedia.org/wiki/Black_Army_of_Hungary
トルコ要素と言えばトルコスタイルの弓と剣を使ってたのを拡大解釈させてトルコ人になってるのかもしれんな
ハンガリー軍はチェコ人、ドイツ人、ポーランド人、セルビア人、ハンガリー人で構成
https://en.wikipedia.org/wiki/Matthias_Corvinus
ottomanと検索してもオスマンとの同盟関係はないな常に対立してるか休戦状態があるだけで
日本の歴史家適当すぎる たしか講談社のハプスブルクの本もってたけど30年ぐらい前だったな
今は最新の情報が英語できればみれるから
下手な日本人の歴史家とからいらねーよな
話作ってもだまされねーよ >>464
参考文献みろよ
2000年代以降がたくさんある
日本語ソースよりはるかに信用できる オスマン軍が協力してウィーン攻めましたとか
完全にファンタジーだろ
セルビアやボスニアあたりでにらみ合ってるのにどうやってそんなことできるんだよ
悪いのは日本語の著者だからしょうがないか >>466
だったらWikipediaじゃなく参考文献の方をみてみろよwww ウィキペは参考文献を探すのには使えるがけど、ウィキペそのものをソースにするのはさすがに馬鹿にされてもしょうがないわな https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Wiener_Neustadt
この攻城戦だとハンガリー軍はトルコ軍から奪った大砲使ったってあるな
どんな一次ソースを読んだか知らんが黒軍がトルコの武装を使ったのを著者はトルコ人だと勘違いしたみたいだね
ハンガリー最大の英雄マーチューシュがトルコの下位に立つとかありえん
著者はハンガリー人に土下座しないとね >>469
それ以上に日本語の世界史本より英語ソースのが信用できるよ
今時論文は全部英語だからな だったらWikipediaじゃなくて論文読めよ、と言われてるわけですが なに言ってもそういうの気にしない人は気にしないから
さっさと別の話題どうぞ 30年前の日本語ソースw
そんなにオスマン軍が協力したのが有名なら英語で検索したらヒットするから てかこの著者の江村洋ってカール5世も読んだけどハプスブルク家が好きすぎて
敵対勢力をこき下ろす傾向があるんだよね
だから首をかしげるようなところが結構あった思い出 その本、俺がハプスブルク初めて知ったやつだわ
そんなにいい加減な内容だったのか コンスタンティノス11世も意地張らずに無血開城すれば良かったのにな
イタリアにでも亡命でもして、都市の破壊免れしめた方が歴史的評価も高かったろうに 2度もオスマンの精鋭を退けたウィーンこそ真の難攻不落だったな ウィーンはマーチャーシュ王に占領されたという話があったばかりなのだが
字が読めないのだろうか クリムトのモンゴルやトルコ的な要素を持つ作品
ユダヤ人と近代美術 圀府寺司 光文社新書を読んで、漠然となんか凄そうと感じた。シャガールとかはイディッシュ語の暗号を入れているらしいけど。
フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像
アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 U
エリザベート・バホーフェン=エヒトの肖像
ベートーベンフリーズ 敵対する勢力 そもそもコンスタンティノープルはほぼウマイヤ朝にも攻略されかけてたし
陥落を免れたのは
奴隷たちの裏切りがあったからにすぎない コンスタンティノープルの公衆浴場っていつ頃まであった? 外国って北京とかコンスタンティノープルとか
ロンドン、ローマ・・侵略リスク回避より
貿易メリットを重視してるように見える
日本で言えばコンスタンティノープルは
アベノ地元下関や北九州に皇居が置かれてる感じ >>489
それなら蘭州とかあっちのほうになるやろ
北京なんて東の端でもあるのにシルクロードとかますます関係ない 元朝にとっては遊牧世界と農耕世界の境であるということで中心であり
永楽帝は元朝の後継者という意識があったとされているから、少なくとも
永楽時代は北京は中心だったろう
その後の明朝は伝統中国に回帰したから北京は辺境になってしまったが シルクロードってモンゴルスキタイづたいだったらもっと高速で交流できたんじゃないだろうか >>488
漢族の地域では一番東北になり、
女真族やモンゴル族の攻撃を最も受けやすいし
彼らとの交易を考えているようにしか見えない
北京とは河北省の平野から東北三省に向かう道の
中心地ではないの 北京て、交易用に運河が引き込まれてたぐらいの交易都市だぞ 元の時だけじゃん
モングルの大交通網あればこそだったが イタリア人はクビライが投資し整備した交易ルートを用いた東方貿易でしこたま儲け、それが仮に、胴元であるモンゴルを儲けさせる事になっていたとしても、ヨーロッパ文明の根幹となるような財力を蓄えることが出来た。これが後のルネサンスを準備する。 久々に東ローマ帝国のウィキペディア見たら国名がいつのまにか東ローマでは使われてなかった「ローマの元老院と市民」にされてるのな
まあ完全無出典のそっちはおいておくとして、東ローマが Res Publica Romana を名乗っていたとする(事典の無署名記事じゃない)出典って何があるんだろう? そしてそれは何時の時代からの話なんだろう?
渡辺金一とかの歴史学者に言わせると当初「ビザンツでは Res Publica Romana に相当するギリシャ語すら名乗っていなかった」はずなんだけど マケドニア朝以後なぜ軍事力を維持できなかったのか
納得できる説明が今のところないな
君主の個人的な施政で簡単に崩れるようなもんじゃないと思ってるんで >>497
イタリア、クビライとくればそれはもうマルコ・ポーロ >>500
その後オスマンが大軍団作ってるからやり方次第なんだよな コンスタンティノープルに富が収奪されてたのと関係あんじゃないの
軍団の強さは田舎モンの多さに比例するみたいなことをイブン・ハルドゥーンが言ってたような アラブ全盛の時でもアナトリアの大部分は維持してたから
強力な地元の軍団がいたはず 西ローマが傭兵が原因で滅びてるからか、傭兵を使ってる感じでもないな。外交でなんとかしてたのか? >>504
セルジュークに負けてアナトリア侵食されたのが痛い >>505
傭兵だらけだよ
デーン人にノルマン人、
果てはトルコ人やクマン人まで傭兵 >>507
ノルマン人はシチリアを拠点にビザンツを攻撃してたな。
傭兵として活躍してたのっていつ?
シチリアの晩鐘あたりでノルマン系が界隈から消え、ムスリムが盛り返してくるんだっけ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています