なぜ騎士と武士は人気があるの?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
中世〜近世のあらゆる身分の人たちの中で、キリスト教の聖職者、都市のブルジョワ、
公家、仏教の僧侶、町人、農民などはあまり人気がないのに、騎士と武士だけはみんな大好き。なぜ? そりゃ剣がかっこよいからさ
装備が斧だったら人気はなかったろう 武士は、日本の原住民である農民を強姦しようが、首を切断しようが自由だった
この天皇によって与えられた身分制度の基は何だったのか
それは、天皇・武士が侵略者側であり
日本人である農民は、侵略された側であるということだ
英国も似たようなことになっている
英国王室はフランスから来た連中であり
やはり大陸側の連中は、毎日殺し合いをしているから強いのだ 武士って元々農民じゃないか
偉くなったのは頼朝が出てきてからだし 実際には武勇の公家もいたんだけどな
公家=柔弱というステレオタイプをなんとかしてほしい イスラム圏の文化ってのとマムルーク朝がオスマン帝国に敗れて世間のイメージにはイニチェリが定着してしまったのが大きいのでは 南北朝時代には公家や親王も戦っていたよな
北畠顕家とか 古代ローマでは職業軍人・文官の区別などなく,軍事関連の役職にも
民政関連の役職にも就かされる文武両道型だったか。
古代ローマスレだと百人隊長クラスでも任地での民政担ってたみたいだが 古代ギリシャのスパルタにおけるスパルティアタイも映画「500」の影響で
ネタとしては人気? 時代が下ると貴族は騎士から軍の士官へ。
馬に乗って指揮こそとるけど,中世のように同格の者同士が馬上で殺し合うというのでもないか 海外ゲーでもそうだね
鎧がかっこいいからだと思うわ >>1
日本史に「武士」なる身分称号はいかなる時代いかなる地域にも存在しない
よって士農工商はなかった
全部明治政府の「士族」が始まり
この辺りから「ウチは武士だ」と名乗る右翼市民が大量発生して今に至る
政府と歴史家が必死に広めた幻想だ 騎士の流れを汲んでるのは戦闘機パイロット。
戦闘機は馬、整備兵は従者で、騎士が属していた貴族階級は士官階級か。
騎士と違って自分の領地は持たんけどw 騎士は王様や諸侯の下で武官として仕え、地位が上がると部将とか
戦役の総大将に任ぜられるのよね 騎士といえど王や諸侯の重臣として家政の補佐とか政策会議に参加してたのは
日本の武士とおんなじやね 中世ヨーロッパでは王も諸侯もみんな騎士。王・諸侯に仕える武官だけじゃないのな フランス革命によってアンシャン・レジームが崩壊したにもかかわらず、
主にロマン主義文学の中で理想化された騎士のイメージは生き続けた
騎士の生命力、おそるべし 18〜19世紀ヨーロッパ諸国の騎兵は全員が士官というわけでもなかった?
貴族のいない新興国アメリカの騎兵は平民が多かったか ファンタジーだと騎士は人気あるけど、14世紀には時代遅れになっていた。百年戦争でフランスの騎士がイングランド長弓兵に負け続けたのが代表例。その過去の遺物である騎士を揶揄した作品がドン・キホーテ。 貴族出身者で固められてたであろう騎兵が平民で固めた弓兵に敗れるというのがまた 以仁王と共に反平家ののろしをあげて玉砕した源頼政はかの源頼光の子孫。
義家・為義・義朝・頼朝は頼光の弟頼信の子孫か フランスで最も権威があり有名なのはレジオン・ドヌール勲章だが、
これを受賞した者は「オルドル」すなわち一種の「騎士団」に入会することになり、
その印として騎士団の徽章を授与され、それを着用できる
革命後のフランスでも騎士に対する憧れは生き続けているのか? 騎士ネタとは違うけど、かつてのヨーロッパの連隊は貴族が自前でかき集めた連中の
集まりで、それらが連合軍組んでも直属の親分のいう事しか聞かない連中が多かったか ×:聞かない連中が
○:聞かない奴らが
日本の島原の乱における幕府軍も各藩兵の連合軍で総大将はともかく他藩の指示を
受けるのはイヤだったりしてな マルタ騎士団は現在でも存在している
今では貴族出身でなくても入れるらしいが 日本の武士は読み書きどころか僧侶を通じて高い教養を授けられた者もいる。
反面、ヨーロッパの騎士は武芸に長けてればよかったので読み書きなんて
必要なかったか(読み書きは坊主の仕事として蔑んでたかも) 武士は、日本の原住民である農民を強姦しようが、首を切断しようが自由だった
この天皇によって与えられた身分制度の基は何だったのか
それは、天皇・武士が侵略者側であり
日本人である農民は、侵略された側であるということだ
英国も似たようなことになっている
英国王室はフランスから来た連中であり
やはり大陸側の連中は、毎日殺し合いをしているから強いのだ 西洋の騎士には「飛び道具は卑怯」という考え方が強かったがあれはなぜなんだろうな
日本の武士は弓矢が重要な武器だったのに >>33
飛び道具が卑怯ってファンタジー由来の俗説じゃないの。西洋でも古来弓兵は重要であり、近世以降の騎兵は拳銃を持って戦っていた。 飛び道具が男らしくない卑怯者もアジア人(この時代のアジアはアナトリアを指す)の武器と言う思想はそれこそ
古代ギリシャからある
弓兵主体だったイングランドですら弓といったら市民や農民の歩兵の武器扱いだったし
十字軍も弓騎兵はトルコ人傭兵任せで騎射を覚えようとは全然しなかった 日本の武士は「弓取ってこその武者」なんて言っていたのにな 中世ヨーロッパの騎士も平時は自分の土地の見回りやったり狩猟やったり宮仕えやったり。
追い剥ぎおこなう強盗騎士なんかもいたけどw 元寇の時
武士「やあやあ我こそは・・・」
ズドーン!! 騎士はモンゴル軍に惨敗したけど武士は圧勝だったからな 武士もモンゴル相手に集団戦法したからね
戦術は臨機応変 >>5
東アジアでは貴族と武人が別だもんな
ヨーロッパや中近東なら武勇の公家もいたって
そもそも武人じゃない貴族が無いもんな
柔弱でどうやって領地を守るのか 平和かよw 武士の人気といってもサムライ人気だろう
武将は人気あるけど戦国時代の槍や鉄砲持った足軽が人気あるわけではないし
幕末の剣に長け武士道化されたサムライが格好良いと言う話だよ
刀だよ刀 『戦場の精神史 武士道という幻影』(佐伯真一、NHKブックス)が面白い
古代末期から中世の武士はだまし討ちも平気で行っていたとか、
一般社会における名誉とは公正や信義だが、戦場における名誉とは勝利や力だったとか 卑怯を嫌うという「武士道」が確立したのは江戸時代に平和になってからだからね。
といいつつも、戊辰戦争で偽旗作戦や裏切りは起こっているし、太平洋戦争でも騙し討ちが日本軍の得意技になっている。 騎士と貴族というのは、必ずしもイコールではないんだよな
中世全体を見渡してみると、騎士でありながら貴族ではない者、
貴族なのに騎士ではない者がいる
貴族は世襲だが、騎士は世襲ではなかった 映画「キングダム・オブ・ヘヴン」では鍛冶屋が騎士になってたがあれは
フィクションだからなぁw
中世ヨーロッパ貴族には法官・聖職者・学者になる者もいるか 『キングダム・オブ・ヘヴン 公式ガイドブック』(アスペクト)で、
リドリー・スコット監督が、「イングマール・ベルイマンを糧にして育った
子供時代からずっと、騎士に憧れがあった。それにもちろん、黒澤映画の日本の武士も
昔から、いつか映画にしようと思っていた題材だった」
と語っている。
黒澤明が日本の戦国時代を描いた作品――身分が一目でわかる色鮮やかな旗印、
武士の出で立ち、籠城劇――も、彼の心を動かしたと。
騎士や武士の旗や紋章も人を惹きつける要素なのかな? ファッションの問題
他の地域に比べて衣装がかっこいいよやっぱり ペルシア帝国のアタナトイ(不死隊)やマムルークやイエニチェリも強かったけど、
美的センスという点ではイマイチだな 中世の戦いでは弩が効果的だったが、長弓が登場すると弩の命運も尽きたな
百年戦争のクレシーの戦いでイングランド軍の長弓隊にフランス軍が敗北したのが
その象徴 いや武士はともかく騎士のカッコウはダサいしょ
全身タイツみたいな鎖帷子にバケツみたいな兜とかダサすぎ
ビザンツやルーシのハスカールは東方の影響受けて鎧に飾りをつける文化があったが
それ以外のヨーロッパは総じて地味 >>53
鎖帷子姿ではなくずっと後に出てきた甲冑姿の騎士いってんじゃね? ドイツではドイツ騎士団国という騎士だけの独立国が中世に存在した
日本では鎌倉幕府に相当するのか?
同時期に朝鮮半島にも武臣政権というのが存在した 高麗の武臣って武士や騎士とは別物だぞ。
高麗では有事になると国家が軍を動員し、武臣をその指揮官に任命する。
平時には武臣と軍事力が切り離されてるんだよ。
武臣政権の時代になると、武臣はそれぞれゴロツキを囲って私兵とするようになるけど、
それは首都漢城内の権力闘争のための武力であって、国軍より一桁二桁規模が小さい。 >>58
武臣政権期よりも昔には、高麗軍の司令官て文臣が即く慣例があったでしょ
(文臣の力が強かった宋の制度を採り入れたらしい)
遼軍を退けた姜邯贊も、本業は文臣だったね
武臣政権期のうち崔氏政権期以降の私兵団だった三別抄って、最終的には事実上の国家常備軍になったみたいだけど、
規模はどのくらいだったのかな
モンゴル相手に耽羅(現・済州島)で最後まで粘ったのも三別抄だったし >>59 少し訂正
姜邯贊が高麗軍を率いてた当時、相手国側の国号は、遼ではなくていったん契丹に戻されてた 御家人ー(奉公)→将軍
←(御恩)ー
武士(御家人)と将軍(西洋では騎士と諸侯)はこのような封建的関係があったのだが高麗の崔氏政権以降の武臣と三別抄との間にはこのような関係はなかったのか? >>61
もともと崔氏政権当時、崔家の当主と別抄の武人との間には、
西洋騎士や鎌倉期日本武士のそれにあたるような契約関係はあったでしょ
でも、崔氏政権が倒れて別の武臣政権が立ち、最終的には武臣政権そのものが無くなった
その背景には高麗と元との戦争があったというわけだ
(「三別抄」という呼び名も、元との戦争の中で別抄が増強される中で出てきた用語だった)
しかも、高麗朝廷が元の朝廷に従わざるを得ない状況になった中で、
それでも独立独歩の高麗を望んだ三別抄は、耽羅に立て籠もって戦いを継続したんだな >>62
三別抄は独立独歩の高麗なんて望んでないだろ。
モンゴル軍の指揮官に半島南部の領有を認めれば直接モンゴルに臣従するって交渉してたんだから。
三別抄も高麗王朝も高麗の国土を切り売りしてモンゴルに取り入ろうとしてただけだよ。 >>63
そういう内容の交渉してたっていうのは聞いたこと無いけど(最終的には全滅だったし)、
その交渉記録って、具体的な出典は何? >>64
元史卷七 世祖本紀第七 至元八年三月条
「己卯,中書省臣言:「高麗叛臣裴仲孫乞諸軍退屯,然後內附;而忻都未從其請,今願得全羅道以居,直隸朝廷。」
詔以其飾詞遷延歲月,不允」 >>65
最終的な交渉が決裂したんだと考えるなら、その経緯の記述は何かあるのかな
それと、三別抄全体の中でも、裴仲孫は和平派のグループで、
耽羅に渡ったグループは金通精らの主戦派だったという違いがあるよね
それと、その元史の記述だと、(元朝廷はともかくとして)、
高麗朝廷と裴仲孫派がそれぞれどういう関係を結び直そうとしてたのか、そこがまだ見えない テンプル騎士団とドイツ騎士団に興味があります
へルマン・フォン・ザルツァ知ってますか? 日本では将軍も大名も藩士もみんな武士と呼ばれますが、なぜ西洋では皇帝(王)、諸侯は騎士と呼ばれずミニステリアーレン(家士)やリッター(英語ではナイト、フランス語ではシュバリエ)といった非自由人の戦闘員たちのみを騎士といったのですか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています