中国の長い戦乱を制した秦晋随はなぜすぐ滅んだのか
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中国で長く続いた戦乱
春秋戦国時代を収めた秦
三国時代を収めた晋(東晋として続くが統一王朝ではなくなった)
五胡十六国南北朝時代を収めた随はなぜすぐ滅び
五代十国を制覇した宋は長続きしたのか 五胡十六国時代の華北を統一した北魏も長くは続かなかった
まあ後継といえる国が天下を制したが 唐も、太宗の死後はすぐに武氏の周になった
武氏が大政奉還して唐に戻ったが、またすぐ韋氏に乗っ取られそうになった
韋氏を鎮圧した玄宗の代では安史の乱が起きた。普通なら王朝滅亡だ 宋は甥から皇位を奪ったから、慢心する余裕がなかった。孫呉と明も同様 東晋はそれでも十六国のうち成漢・後秦・南燕を滅ぼしている
北の覇者・前秦も直接には滅ぼしてはいないが完膚なきままに叩き潰した ・テムジン ハーン即位 1206年
・後元がジュンガル帝国に滅ぼされる 1688年
※モンゴル国家成立から大元ウルス崩壊まで約500年
ただし、北元の途中でハーンがクビライの血統から代わっている 唐朝は「中国史の最盛期」とよく言われるけど、それは太宗のときだけなんじゃないかなあ?
後の歴史を見ると、むしろ「歴代最弱の統一王朝」、
「統一とは名ばかりの群雄割拠時代」に見えるけど 漢も唐も、結果だけを見れば長く続いたのが歴史の必然みたいに思えるが、別にそんなことはない
呉楚七国の乱や安史の乱は、普通に王朝が崩壊するレベル
王莽や武則天は、もしも続いてたら王朝交代のよくあるパターン >>2
北魏の約150年が長くなかったって?
人間の1世代以上だったら長いと言っていいんじゃないの? 漢だって、王莽に禅譲して一度は王朝が終わった
劉氏の光武帝が再統一して後漢を興したが、同一の王朝と言えるかは微妙だ
前漢と後漢はそれぞれ200年 唐だって安史の乱でほぼ帝国が崩壊しており、それまでで150年
たまたま安史の乱が最終的に鎮圧されて唐朝が復興したが、かつての力を取り戻すことはなかった 司馬炎は直前の魏ではなく
呉楚七国時代の事を教訓とすべきだったな
同じ皇族が力を持つとあぶない そうだ
歴史は結果だけを見て「必然」と思うべきではない
「偶然そうなった」というのは無視できない 漢は呉楚七国の乱をかろうじて鎮圧した
晋は七王の乱を乗り切れず崩壊した
それだけの違い 豊臣秀吉みたいに天下統一は上手くいったが、
2代目が甲斐性なくてすぐに滅んだ 中国ではないが、インドにもそういう前例がある
インドでは、デリースルタン諸王朝と呼ばれるデリーのイスラム帝国が何百年も続いたが、権力闘争が激しく、短期の王朝がコロコロ交代していた
バーブルがロディー朝を滅ぼしてムガール帝国を建設したが、2代目のフマーユーンのときにアッサリと崩壊した
そこまでは過去数百年、何度も繰り返されたパターンだった。だが、そこからが違った
なんと、フマーユーンはペルシャに亡命し、そこで復活してインドの皇帝にカムバックしたのだ。そして、3代目のアクバル大帝のとき、ムガール帝国は最盛期を迎えた
ムガール帝国は、それ以前のコロコロ代わってた短期王朝と何が違っていたのか?
それは、「フマーユーンが奇跡のカムバックを成し遂げたこと」だ。その一言に尽きる。
それがなかったら、バーブルの王朝も「デリースルタン諸王朝のひとつ」という位置づけに終わっただろう フマーユーンは、亡命先のペルシャから大勢の文化人や料理人を連れてきた
当時の世界の最先進国・ペルシャの影響は極めて大きく、インドは絵画も建築もまったく変わった。
インド料理も、このときから美味しくなった
これを見ると、フマーユーンの帰還は天の意思だったのかとも思われる
でも、それはあくまで結果論 北宋とこれに同じだ
五代の王朝がコロコロ代わった後の、北宋の長期政権
これだって、調教員の一代か二代で終わってたら、「五代」ではなく「六代」になったところだ
もっとも、中国では五とか七が好まれるので、なにかをくっつけて七代にしたかしれないが
結果がすべてとは言うものの、たまたまそうなっただけという面があるのは否定できない 後梁
後漢
後晋
北遼(西遼の前身で東遼かも)
後漢
後周
後宋(劉宋と揃えて趙宋かも) 間違えた二代は
×後漢
〇後唐(李氏・朱邪氏・王氏)
インドも何百年間異民族の王朝が続いたな >>34
滅んだのは秀吉-秀頼の系統で、木下家からの別系統で現代に繋がる家系があったはず 羽柴家定(北政所の兄)が大坂落城で
木下に改めた(姓は豊臣朝臣のまま)足守藩が明治に至り子爵
甥の木下延俊の日出藩も騒動を幾つか起こしつつ存続してやはり子爵 >>36
木下家って
秀吉となんの血の繋がりもないだろ 元祖源氏も
結局平家の血筋の北条執権家に鎌倉幕府が移ったことを、清盛公も草葉の陰でお喜びだったろう 当時の世界は職業的な多様性も
無かったから食い詰めた兵士たちが
断続的に戦争をすることで
稼いでいたのではないの?
定期的に戦争をすれば
兵士は儲けられるしね。
今の時代に戦争があまり無いのは
戦争イコール儲からないと言う
のがある。
と言う個人的な推測だけどどうか? これは全部、俺の推測だが、
当時の人々は戦争そのものが
経済活動になったのではないだろうか?
戦争が無くて平和だと
兵士や将軍は儲けられない。
だから定期的に戦争する必要があった。 現代の戦争が儲かるってのもほぼ嘘
関係ない多国間の戦争に絡めた軍需産業が儲かるというだけ
当事国は損ばかり 明王朝も実質2代目で潰れて
3代目以降は別王朝みたいなもん
王朝初期は反乱が必然的におこる 燕王だったから
燕と国名変えても良かったろうな
中国の国名を変えるタイミングというか
法則がよくわからんが 中国の新王朝は功臣を粛清をするかしないかが
大きなターニングポイントだと思う。
基本的に功臣を粛清したほうが新王朝は長く続く。
例 漢・唐・中共 秦
統一後陳勝呉広の農民反乱軍に
かつて合従軍が何度攻めても陥落できなかった函谷関をぶち抜かれる
文官が指揮する囚人兵が何とか農民反乱軍を打ち破るも
秦軍の弱体化も著しいことが見て取れる
隋
かつて燕が服属させていた高句麗になんと大敗する 後隋だけ無いんだな
後周・後秦・後漢・後晋
後唐・南宋・西遼・後金
北元と後元・南明と後明・満州国 >>42
一旦文明圏を押さえて支配が軌道に乗った蛮族は守りに入るだけで戦争をしたい訳ではないと思う まだ文明圏を押さえてない蛮族は好環境の土地を
200年に一回くらいある環境危機で征服したくなるのでは 煬帝は大運河を建設するために民に重労働を強いて恨まれ、隋は短命に終わったが
その隋を倒した唐は大運河の恩恵を受けて長期政権となった
このように
久々に天下統一した政権は久々の強力な全国政権なので今まで誰も出来なかったような大胆な改革をする
その急進的な政策によるひずみで短命に終わるがその恩恵は次代に引き継がれて次が長期政権となる
このパターン多そう 秦→漢で中央集権、官僚制を引き継ぎ、
隋→唐で大運河、仏教を引き継ぎ、
民国→人民共和国で工業、産業文明を引き継いだのか >>58
人民共和国が引き継いだのは、日米英独の遺産だど。
民国自身は遺産など残していない。
むしろ紫禁城が空っぽになるまで掠奪して戦費にし、のちに台湾に逃げ込み、故宮博物院に。 民国は未だ粘ってるし
今,建国110年くらいだろ確か 大日本帝国も地球儀と地図上では
南樺太でずっと粘っているな 呉 → 東晋 → 宋 → 斉 → 梁 → 陳
南は一貫して「六朝」と称しているが、北は魏晋と五胡十六国時代で断絶がある 漢禅譲→魏禅譲→晋禅譲→宋禅譲→斉禅譲→梁禅譲→陳
つまり陳こそ漢民族の正当王朝だったんだよ
北魏だとか隋とか異民族が化けたもの よそからやってきた馬の戦闘が得意な奴が現地の文官を従えて王朝開くとかインドやイランとかのようだな 中国・インド・中近東はずっと北からの侵略の歴史
日本は例外 秦が代替わりで速攻滅んだってのが意外、嬴政のカリスマ性や統治能力が突出していただけでは説明できん それは無理もないと思うがなあ
ヨーロッパがイギリス・フランス・ドイツ・イタリア・スペインその他に分かれ、
ナポレオンやヒトラーなど一時的に天下を取りそうな人が出てきても長続きしないのと同じ
秦・韓・魏・趙・斉・楚・燕は、何百年も外国だったのだ。言葉も漢文で筆談もしくは通訳が要るし、
「馬車の軌を統一して、隣の国にも馬車で行けるようになった」が始皇帝の業績とされるほど往来も難しい
始皇帝が一時的に統一したが、死後はあっという間に六国が復活した。漢による再統一がなければ、そのまま続いた可能性が高い ただし、その場合は匈奴が攻めてきて華北を征服されたかもしれない
北方の脅威に対抗するため、統一王朝が必要だった >>75
もうすぐ滅ぶ、つか国連の委任統治領化されて分割統治じゃね? >>77
国体は残ってるじゃん、最高権威の天皇。
将軍、摂政関白、太政大臣は天皇が任命する権力者。
その権力者が滅んでるだけ。 >>78
アッバース朝のカリフもオスマン帝国に廃止されるまでマムルーク朝に正統性を与える存在として存続してたけど
政権としては客観的に見て滅びているというべきだろう
古代律令日本と明治日本で全然制度が違うわけだし… 総理大臣も一応は天皇の認証官じゃん
まあ、最高裁長官や検事総長なども認証官だけど
警察庁長官や警視総監は認証官じゃないんだよね〜、検事長検事正未満の存在ってことになる 国体が続いてるというよりも
そういう神話を皆で信じるために
制度を明治に作り上げたという方が正しい 旧宮家は貞致親王の問題があり
近衛家はアメリカ生まれでヨーロッパ育ちで今は日本に居ない
一条家と鷹司家は吉良義央の子孫になってる
徳大寺家や住友家を皇別摂家と言えるかは微妙 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています