結局中国で1番偉大な王朝ってなんだと思う?
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>>5
中国史は日本人にとって、教養だからな。
唐。
人種差別とかあんまり無かって、阿倍仲麻呂とか登用されているし、あの超有名な李白とも親交があったというし。 世界史的に、東アジアの最盛期がモンゴル帝国なのは確実
清朝がそれに次ぐ 大元ウルス。
国家として目指した次元が他の王朝とは全く違う。 >>3
突厥や吐蕃、ウィグル、アッバース朝アラブに頭が上がらなかった唐は余りにも弱い。 唐朝は安史の乱で全く別の国に変貌。
一説には乱で唐の人口の3分の2が失われた。 確かに、「唐の前期」と「唐の後期」が中国史上最大のターニングポイントという声もあるほど 唐の勢力のピークは668年高句麗を滅亡させた頃じゃない?
670年、678年、689年、696年に吐蕃に対し4度の大敗するし、
吐蕃戦の最中に新羅が反抗してきて、675年に朝鮮半島から撤収。
明らかに落ち目。
755年からの安史の乱より数十年早くから勢いが後退してるんじゃないかな?
日本が不運なのが、663年白村江の戦いで唐が最も強い時期だったこと。
もう少し後だったら唐相手に善戦できたかも。
でも敗戦国らしく素直に唐の制度や文化を受け入れて、
日本人にとって唐こそが最も偉大な文明国と認識するようになった。 >>19
まあ戦後唐に占領されて云々は反日阿保学者の妄想に過ぎんけどな
しかし日本の歴史学者ってマジですげえな
日本貶める内容ならどんなゴミクズな内容でも受け入れられるんだから みんな宋はどう評価してる?
文治主義、平和をカネで買っていた時代。 >>21
領土が縮小してばっかりで地味。
派手さに欠ける。
でもモンゴル軍が長期にわたって攻めあぐねた強靭な防衛力を持ってた。
最期にクビライの戦略に屈したが、
占領時にモンゴル軍らしい都市破壊や大虐殺がほとんど発生してない。
中華文明を尊重するクビライの方針のためだが、
反感を買って宋軍の戦意を高めることを恐れたからでもある。
宋の軍事力は侮れない。 「日本は遣唐使を送って、唐から先進文明を学びました」というのは、
明治維新からの欧米キャッチアップのイメージと重ねすぎのように思う
実際には、日本人が唐で最も熱心に学んだのは、加持祈祷とか易占だった
長安では、「日本人が来ると仏典を全部、買い漁って持っていってしまう」という評判だった
確かに法律とか技術とかも学んだけど、それだけじゃ命懸けで海を渡れない。
真の原動力は宗教的情熱 たとえば、初期の遣隋使で、帰国してから国師待遇だった旻は、こんな人
↓
推古天皇16年(608年)遣隋使小野妹子に従って、高向玄理・南淵請安らとともに隋へ渡り、
24年間にわたり同地で仏教のほか易学を学び、舒明天皇4年(632年)8月に日本に帰国。
その後、蘇我入鹿・藤原鎌足らに「周易」を講じた。
舒明天皇9年(637年)に流星が現れた時には天狗の吠え声と主張し、
舒明天皇11年(639年)に彗星が現れた時には飢饉を予告するなど、祥瑞思想に詳しかった。
皇極天皇4年(645年)乙巳の変ののちに、高向玄理とともに国博士に任じられ、大化5年(649年)高向玄理と八省百官の制を立案している。
翌大化6年(650年)に穴戸(長門)国司草壁醜経から白い雉が献上されると、その祥瑞を説明したことにより、白雉と改元された。 僧ビンが隋に何十年も留学して学んできたことは、確かに法律とか国家体制のこともあるけれど
それ以上に、「彗星の吉兆」とか、現代人から見たらオカルトの領域を深く学んで帰ってきた >>25
現代人の価値観で考えるべきじゃない。
18世紀の科学者アイザック・ニュートンだって、主な関心はオカルトにあった。
昔の人にとってオカルトは大きな位置を占めてる。
古代の帝国は占いや祈祷で動いてるわけで、
祭政一致の世界だよ。 >>22
宋は専守防衛ならメチャクチャ強かった
でも攻勢に出るとボロボロ >>27
火薬兵器の実戦使用は宋が最初だよね。きっと。
元朝になって銃や大砲の形になった。 >>27
武人の地位を大幅に下げた。
「良い鉄は釘にならず、良い人は兵にならず」 >>1
一理あるな
征服地が最大化したしな
他にも例えば、人口を激増させて巨大な国にしたってのもあるね
これはな、漢民族には女児が産まれたら間引きするという習慣が広くあってそれが人口増加を抑制してた面があるらしいんだが、満洲族の清はこの風習を野蛮なものとして嫌悪して徹底的に禁止したので清の時代にあの人口爆発が起こったらしい 宋が専守防衛なら強かったけど攻勢に出るとボロボロなのは
結局、城塞の防御力頼みで軍は弱かったていうことやな >>19
歴史にはパターンがあって
中国は嶺南より南に攻め込むと結局は上手くいかなくて撤退するのと同様
日本は朝鮮や大陸の勢力に友好的にせよ敵対的にせよ
深く入り込むと大きな打撃を受けるというパターンがある
一時的にうまくいったにせよ結局失敗する >>30
人口増加の引き金は税制改革。
人頭税が多いと間引きたくなる。 >>31
皇帝直属の禁軍だけは精鋭揃いで装備も充実。
その他の軍団の質が落ちる。 >>32
単純な兵力や人口での比較では
満州人より日本人の方が遥か上だと思うが、
大帝国を作ったのは満州人で、
日本人には無理やったな。 >>35
海越えの侵攻は無理
ノルマンコンクェストみたいなまともな政権が存在せず群雄割拠状態のときなら可能 日清日中戦争では海越えはできたが
結局大被害で撤退した >>36
明朝滅亡後の南明が日本に軍事支援を要請した日本乞師の頃だったらチャンスがあったと思うが、
江戸幕府が断っちゃう。
あれが漢人の支持を受けられる大陸進出の大義名分が成立する唯一の機会だったんじゃないか?
せめて鄭成功に協力しようよ。
乗り気だった親藩に対し、頭の硬い老中たちは内向き過ぎる。 大和高句麗戦争では高句麗に敗退
白村江で唐、新羅に敗退
朝鮮出兵で明朝鮮に敗退
日清戦争ではかって大陸に進出するも大戦で敗退
学習しよう。大陸には友好的にせよ攻めるにせよ深くかかわってはいけない >>37
大陸情勢に無知で、簡単に勝てると錯覚してた。
島育ちなんで大陸の広さや人口の大きさを理解できず、戦略的思考が苦手。
個々の戦闘では強いが、結局は重慶まで進軍できずに息切れ。 加藤清正がオランカイの女真人と戦闘したことがある。
戦闘自体は清正軍が圧勝だったが、
清正は
「あいつらかなり手強い。ここを突破するのは無理。」との旨の報告を提出した。
一方、別系の女真族の長ヌルハチは明や朝鮮側に参加を申し出たが、断られた。
ヌルハチと清正の戦闘は起きず。 >>40
> 大陸情勢に無知で、簡単に勝てると錯覚してた。
> 島育ちなんで大陸の広さや人口の大きさを理解できず、戦略的思考が苦手。
> 個々の戦闘では強いが、結局は重慶まで進軍できずに息切れ。
それは、ロシアに攻め込んだナポレオンのフランス軍や、ヒトラーのドイツ軍も同じ >>39
清朝のように漢民族を味方にしないと難しい。
満州八旗自体はそんなに強くなく、
漢土の征服事業の大半は味方についた漢人部隊が担ってた。
日本が漢民族の支持を得る可能性があったのは南明の要請が来たときだけだと思う。 >>30
清末に弱体化しつつも、ウィグルを失うことなく中華民国、人民共和国に引き継いだ。
特にウィグルのヤクブ・ベク独立政権を倒した功績は大きい。
ヤクブ・ベクに英国とロシアが支援していたのにも関わらず、これを破った。
イリ条約でロシアと国境の合意を取り付け、
新疆省を設置して、中国史上初めてウィグル地域を完全に内地化して統治。
地域の首長に自由にさせてたのをやめて、完全に中国化。 大陸や半島に勢力を広げるのは、別に間違っていない
ただ、内陸の奥にまで攻め込むのは極めて愚か >>45
倭寇が荒らした地域だけに進出すれば良かった。
倭寇は大陸進出の先鞭で、価値があった地域のみで活動。 イギリスは、よほどのことがない限り、内陸の奥まで攻めていかない
だから、あれだけの海洋帝国を築くことができた >>47
内陸のアフガニスタンで失敗してるし
もう内陸は懲り懲りやろ 明も清も海禁しないで、
海洋国家を目指すべきだった。 中華思想の根幹から言うなら伝説的王朝の夏
文化で言うなら漢か唐とかじゃない?
でも唐は漢民族というより漢民族を自称した鮮卑系異民族の立てた王朝だと思う。 「中国」という概念を確立した秦だな
と言うか始皇帝 >>38
南明の福州陥落でこりゃ駄目だと判断したからだろ。
もう少し南明が良く纏まって要衝となる拠点押えていれば、
浪人を棄民する手段として使ったかもな。 >>43
あとモンゴル族をと同盟関係だってのも大きいな。
清末期に正規軍の八旗な緑営が弱対化しても、
センゲリンチン率いる蒙古八旗はアロー号戦争で、
英仏連合軍を一度は撃破した。 >>23
加持祈祷のために仏教・易占のついでに風水→建築様式
呪具法具を輸入、模倣するために、螺鈿、木工、陶工、染色の技術
薬草・染料の使い方を習うついでに、種苗・栽培法も導入、ついでに、野菜果物も導入。 >>55
明の方が有利。
永楽帝が余程のヘタを打たない限り、
明軍50万人はひらすら守りに徹するだけでいい。
チムール・北元連合軍は勝たないと先がないが、
明は勝つ必要はなく、負けないで我慢するだけでいい。 >>56
> チムール・北元連合軍は勝たないと先がないが、
>
なぜ? >>57
遠征する側が補給面で不利。
同じ理由で永楽帝が何度も北元を遠征攻撃してるが、
補給が続かないので中途半端で終わってる。
まして遠征側は一度大敗したら撤退するしかない。 だから、ティムールは羊の大群を連れて、
民族移動するくらいの規模で遠征した >>59
永楽帝なら機動力の劣る羊の大群を襲わせそう。 >>53
清朝は名実共にモンゴル帝国の後継。
皇帝は同時に大ハーンの称号を持つ。
康煕帝なんかモンゴル語を話せた。
実は明朝もモンゴル要素が大きい。
初代洪武帝麾下に投降したモンゴル部隊が活躍してた。
そもそも中央地方の官制は元朝をそのまま引き継いでる。
永楽帝になるとますますモンゴル色が強くて、
永楽帝は順帝トゴン・テムルの実子でモンゴル人だった伝説が生まれてる。
明代の北京住民の10人のうち1人はモンゴル人かもしれない。
長らく明軍の主力は投降モンゴル将兵の子孫だった。 >>52
秀吉の朝鮮出兵の痛手が大きくて、
海外派兵する気にならなかったんだと思う。
確かに参戦するにもどこに味方するか見極める必要があるな。
見込みがない勢力に味方したら大損害。
白村江の戦いなんか、百済残党が内部抗争でガタガタになってて、
倭国軍は百済復興軍の協力を当てにできなくなっていた。 つーか守る方なら元寇でも応永の外寇でも現地兵だけで勝利できるからな
兵站限界線までならあっという間に攻め込めた秀吉の唐入りは強さ比べなら圧勝の類い
応永の外寇で攻めてきた利氏朝鮮軍二万は対馬の600人に敗走したくらいだし >>60
> 永楽帝なら機動力の劣る羊の大群を襲わせそう。
広大な大陸では、それが難しい
永楽帝は、広大なモンゴル高原に打って出た中国史上でも珍しい皇帝だけど、
漠北の広さと変幻自在な遊牧民の動きを捉えきれず、結局は勝てなかった 永楽帝は稀有な存在だな。
圧倒的兵力と物量の建文帝中央軍を4年掛けてついに打ち破る。
靖難の変は普通はありえない偉業。 >>47
シッキムやネパールやカシミールをインドと別枠の保護国にしていたり
アフガニスタンをペルシャから切り離して属領にしたり、
フランスと共同統治のエジプトから、全く内陸のスーダンを攻めて、且つ、
アフリカの南端のケープ植民地からボーア人の国を侵略、沿岸部のポルトガル領、ドイツ領、フランス領、ベルギー領を避けるように
ボツワナ、ローデシア(ジンバブエ)、ザンビア、ウガンダ、ルワンダと攻め取ってようやっとこケニアで海に至ってる。
イギリスが海辺しか獲ってなかったのは、既にほかのヨーロッパ勢が取ってしまったところを避けたか、アラビア半島のような、
在郷勢力がそれなりに強かったところだろ。
北米は、ニューイングランド諸州が離反してアメリカ合衆国が独立してしまった以外は、既にフランス系の住民が多数いたケベックも
対仏戦争で獲得以降も西進を止めず太平洋岸に至るまで獲得しているだろ。 >>65
王族間の内紛で国を割っての戦争なんてよくあることだろ。
チャイナでもしょっちゅう。
親和のような上古の周なんて統一状態の方が少ないくらい。
日本なら、壬申の乱に南北朝(応仁の乱)
イギリスだと、薔薇戦争とか、
王朝が交代して別の国になったみたいな扱いのイスラム帝国のウマイヤ朝とアッバース朝も王族の内紛だし。 >>67
明、清では唯一の簒奪成功例じゃない?
皇帝権力が絶大になって、反抗してもすぐに潰される。 明も後半はモンゴル人に圧されまくっていたから
偉大な王朝とは言えんやろ >>69
事実上、明初から北元と天下を二分してる「南北朝」時代。
モンゴルを滅ぼして明に交代したというおとぎ話が明朝公式史観なので、
蒙古と呼ばずに韃靼と呼んだ。
実態はモンゴルであり、元帝国。 >>70
モンゴル帝国の見解では、
遼・金が支那の正統王朝、宋は離反地帯、元はモンゴルの大汗が支那皇帝を兼ねている植民地だったげ、
清の見解では、明と北元とどっちが支那の正統王朝なん? >>71
清は明の後継として北京に入城したのだから、
明を中華正統としてるだろ?
但し、北元の玉璽を受け継いでるんで、
対モンゴル的には北元もモンゴル正統とする。
清皇帝は漢民族に対しては中華皇帝であるが、
モンゴルに対しては大ハーンとなる。
清は民族別の君主号を使い分ける同君連合。
しだいに中華色が強まるが、
一応は公式行政文書を漢語、満洲語、
モンゴル語、チベット語、ウィグル語で併記する多言語多民族連邦。
ちなみに漢人一般が満洲語を学ぶことを厳禁し、、
満洲語文書を機密文書みたいにしようとしたら、
満洲人自身が満洲語をしだいに忘れてしまった。 もう正統「清史」は編纂されないのかなあ・・・
共産中国には無理だろう >>74
満洲族の氏族名を持っていれば女真族系の満族なのでは。 明朝は北元との第三次南北朝時代
南北統一を実現したのが清朝 >>72
ホンタイジが北元の大汗からモンゴル帝国の御璽を得て自己判断でハンバリクに入城することができるようになり
公然と武装して離反勢力(明、順)を鎮圧する行動に出た
という解釈もあるわけで。 北宋以後のの漢民族王朝は北方勢に対して分が悪いね
最後に真に全土を乗っ取られて辮髪を強いられてしまったorz・・・ 北宋も、北朝が漢民族の諸王国を征服してできた王朝だが? >>75
1740年に漢人八旗の中で、タイ・ニカン(台尼堪)、フシ・ニカン(撫順尼堪)が満州八旗に転属した。
氏は漢名のままだったりする。
英語版wike 満州氏族一覧
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Manchu_clans
の(of Han Chinese Tai Nikan origin)となってる氏族名がそう。 >>82
> でも中国化している
> 唐もそうだけどね
それは、「まあ、中国人がそう主張するのだから
そういうことにしておこう」という問題 一番偉大な王朝は清でいいと思うが、
清末のグダグダと貧困化の印象が強くて、
清だと言い切る自信が持てない。 >>73
漢語で編纂される史書は漢族視点に偏る。
満州語は死語でやむを得ないので、
モンゴル語かチベット語、ウィグル語で記述すべき。 >>84
末期がそうならなかった王朝ってあるの?
あったとしても国力弱すぎてグダグダする間なく滅びただけでは? ワンパターンだな。
王朝創成期は発展途上で景気が上向きに転じる。
絶頂期を迎えると景気後退に転じる。
グダグダになって末期。
創成から滅亡までの寿命は200年。
その繰り返しを二千年。
ただの景気循環で、進歩がない。
王朝創設者、最繁栄者、亡国者の名前を暗記すれば歴史のテストはok。
単調過ぎる。 >>87
清が最後の王朝で
グダグダに関する史料が大量に残ってて、
グダグダが現代まで影響を及ぼすのでイメージが悪い。
古代の王朝だと、史料が少なくて、想像で補う部分が多く、美化されやすい。 革命新政権は革命前を貶めることに躍起になる。
実は革命後の方がグダグダだったりするが、それは必死に隠す。 グダグダになる時は宦官が宮廷を専横するようになってるのがお約束 >>93
そんなの東洋史学専門かマニアじゃなきゃ無視するよ。
一般には東アジアでは政治制度が専制政治に固定されたまま、
古代から現代に至るまで歴史的進歩がない「アジア的停滞」だと思われてる。
モンテスキュー、ヘーゲル、マルクスなんかのアジア停滞論(theory of Asiatic stagnation)は根強い。 >>92
清は宦官を抑えていただろう。
宦官の専横は起きてないはず。
明での悪弊を教訓にしてた。
それでも宦官を廃止できないのが、
王朝政治の限界ではある。 清は西洋に敗れただけ
だがそれは従来の中華史観を根底から覆した
清の国内管理や周辺異民族対策はしっかりしていたが
冊封体制以外からの侵略は想定外だった >>97
西洋からの挑戦がなくても清は衰退期に入ってたよ。
人口増加に生産力が間に合わなくなっていた。
一人当たりGDPがあれよあれよと低下。
食えなくなった人々が海外移民となった。
国内移動も起こり、
満洲に漢人が入ることが解禁されると
続々と入植し、あっという間に漢族の土地になってった。 西洋が勃興したのは200年ばかりのこと。
アンガス・マディソンの推計(異論はある)によると、紀元 1年から1800 年あまり、
中国は世界の GDP の 25~30%を占め続けてきた。
世界経済のトップランナーだった。
1820年以降、中国が世界の GDP に占めるシェアは急速に低下、
1950~1973 年は 5%程度まで落ち込んだ。
清末からの衰退は悲惨で、低賃金に甘んじる低身長の苦力の姿が中国人のイメージとなった。
驚くべきことに中国人の平均身長は19世紀前半までは西欧と互角か凌駕していたというデータがある。
衰退で栄養状態が悪化、たんぱく質摂取量の低下で身長も低下していった。
どれだけ悲惨だったかが想像できる。 林則徐が国力の違いを無視してアヘン戦争を引き起こしてしまって中国が一気に弱体化した
本当はアヘン戦争をする前に西欧から優れた技術を導入しておくべきだった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています