吐蕃・チベットスレ
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あんな山奥から突如現れて創業期の唐軍をボコるとかすごすぎ 山岳地帯で騎兵とかあんまりいなそうなのに何で強かったんだろ? タリム盆地みたいな厳しい気候には耐性ありそうだよね 厳しい自然といっても、
チベット高原・・・寒冷・山がち
タリム盆地・・・炎暑・基本は平坦
と、かなり自然条件は異なる気がするけど タリム盆地は緯度的に日本と同じくらいだからそこまで暑くない
むしろ夜間や冬はかなり寒い アフガンやウズベキスタンでイスラム教徒ともやり合っていたことは
意外に知られていない 羌は記録に残ってる名前は中国人と変わらない姓名だけど
吐蕃の名前は変わってる
吐蕃は漢化してない羌なのか? >>11
系統的には近いけど言葉自体はテュルク語とモンゴル語位の隔たりがある。 >>8
タリム盆地ってけっこう寒いけど真冬でも積雪は殆どないな
騎馬民族なら十分活動できる
むしろ騎馬戦みたいな激しい運動するにはちょっと寒いくらいのほうがいいw チベットの地名はニャンポとかヤルルンとかかわいい名前が多い チベット語が独特すぎて習得大変そう
近隣のネパールとは言語系統全然違うみたいだな
ブータンはどうだったか知らん >>15
ブータンの言語のゾンカ語はチベット語の南部方言。
中国の北京話と広東語位の違いがある。因みにゾンカ語の文字はチベット文字。 吐蕃は突厥とも通婚してたんだな
チベット高原から崑崙以北を統治ってなかなか難しそうだが チベット人は風呂入らないそうだが、それは唐代の中国も同じか >>18
漢代は5日おきの入浴、3日おきの洗髪やけど
唐代までに入浴の習慣が廃れたん?
ヨーロッパでローマ時代の入浴習慣が中世に廃れたのと似た事情か? 欧州中世でも前期はそれなりに入浴していたんじゃないか
黒死病や梅毒流行の中期以降忌諱するようになったという チベットには温泉あるらしいから近くの住民は入ってたかも知れない
日本の風呂は中世まで蒸し風呂だったらしいが、古代中国は
どんな風呂入ってたんだろ? 鳥葬グロいわ
ゾロアスター教徒はただ死体を放置するだけだと思うが、
チベット人は食べやすいように切り刻むからな 同じチベット仏教でもモンゴルでは風葬と火葬と土葬だな。
モンゴルの風葬では遺体をチベットト仏教の経文の書かれた布にくるんで
ラクダにゆるく括り付けて、遺体がラクダから落ちたところが個人の墓所となる。
遺体はそのまま放置で野生動物に食われるか厳しい自然環境で風化させる。
土葬はチベット仏教以前から首長層では行っていた。
最近では、特にウランバートルの様な都市部では他の大乗仏教と同じ様に火葬にすることが多い。
チベット仏教徒の羌族は普通に火葬している。 吐蕃初代のソンツェン・ガンポ王が制定した十六清浄法は、聖徳太子の十七条憲法との
共通性が指摘されている
ガンポ王は仏教保護者として有名な王だが、にもかかわらずガンポ王の時代には、
刑罰は非常に厳しかったという ソンツェンガンポは冠位十二階を定めたんだっけ?
日本とどっちが先か知らんけど >>27
ソンツェン・ガンポは唐の太宗の時代だから、
隋の煬帝の時代の聖徳太子の方が古いでしょ。 吐蕃がタリム盆地の南辺諸都市と河西地域を手に入れることができたのは、
唐で安史の乱が起こったおかげだよな
唐の中央アジア地域への影響力が大きく低下した反面、
吐蕃は広大な領域を持つ多民族国家へと成長した ソンツェンは6世紀末の即位
聖徳太子とほぼ同時代人 チベットにはケサルという英雄をうたった叙事詩がある
ケサルは天神であり、聖なる山である父と青海の龍王の娘から生まれた
母が金人を夢に見て、その加護によってケサルは生まれたという >>30
ソンツェン・ガンポが文成公主の降嫁とかで唐との間と
ゴニョゴニョやってたのは聖徳太子没後だぞ。
ソンツェン・ガンポが即位した時の年齢は11歳、
一方、聖徳太子が摂政に就任したのは19歳で即位のタイミングが
近くても実際に主体的にあれこれしたのは聖徳太子より後の時代。 チベットでは、8世紀に入ってのテイソン=デッエン王時代にはじめて、
十六清浄人法の名称がみられることから、十六清浄人法をガンポ王が
作成したというのは、ガンポ王を仏教の鼓吹者にみなすために、後世の人が
引き合いに出したものという意見もある >>31
チベットの天って匈奴のテングリと同系統だっけ? 唐は641年に文成公主をソンツェン・ガンポ王と結婚させ、和親を誓い合った
文成公主の降嫁は、中国の文物がチベットに伝わる契機にもなっている 唐は、吐蕃に軍馬の生産地だった隴右地域を奪われてから、
ウイグルから軍馬を輸入せざるを得なくなった
これが絹馬貿易 吐蕃が武器や馬とか戦術で唐を上回っていた点が思いつかない >>43
漢族兵士より条件の悪い所での戦闘を長時間継続出来たからでは?
それから、弓射に関しても漢族よりも技量がたかかってんだろ。
山岳、高原では騎兵の効率的運用出来ないから、
物陰に隠れて弓矢で撃ちまくるのが上手い方が有利だろう。 >>44
地理的条件は大きい。
670年の大非川の戦いでは
吐蕃軍40万人が唐軍10万人を打ち破るが、
大非川の標高が海抜3250mだそうで、
慣れない兵士なら息切れしちゃう。 吐蕃の特徴は目上の者に挨拶するとき、両手を地につけて犬のように吠える
生活は他の遊牧民と大同小異で、長幼の序はあまりなく、殉死の風習があったという
上層部には仏教の信奉者がいた 唐は府兵制がいかんかったのかな?
強制徴用された兵は士気が高い気がしない
あと、北方民族が強力すぎてそっちに強い軍隊をさいてたら
吐蕃に弱いとこ突かれたとかかな >>47
663年白村江の戦いで倭国軍を壊滅、
668年高句麗滅亡ぐらいまでの唐軍は圧倒的に強い。
高句麗は隋の煬帝の頃から幾度も攻め込まれながら、
しぶとく生き残ったが、ついに滅ぶ。
しかし670年に吐蕃にヤラれた打撃は大きく、
新羅が唐軍を朝鮮半島から追い出したが、
唐としては対抗する余裕がなかった。
明らかに新羅は唐・吐蕃戦争を分析した上で、行動してる。
その後の唐は吐蕃やウィグルに土下座してばかりの印象がある。 高句麗が668年に滅ぼされると、吐蕃が南下して騒然となったので、
高宗は百済・高句麗両国を滅ぼしたことを後悔していると、
今更のように述懐したという 聖徳太子が冠位十二階を定めたのが604年で、ソンツェンが
冠位十二階を定めたのは620年代らしいな
トルコ石、金、オパールとか鉱物を身分の象徴にしていたようだ 唐代には、おおむね吐蕃は反唐であり、回鶻は唐の傭兵となって戦うことが多かった 安禄山の武将だった史朝義が763年9月に死ぬと、吐蕃は吐谷渾・党項など
東夷20万の兵を率いて長安に押し寄せたので、唐将郭子儀の兵は退却し、
代宗は長安を退去した。 吐蕃のダルマ王(841ー846)は即位とともに仏教を弾圧し、
土着の神々を祀るポン教を復活させた。
経典は火にかけられ、僧院の戸は閉ざされ、文成公主とティツゥン妃が吐蕃に
もたらした二体の釈迦牟尼仏は、川に投げ込まれそうになったところを、
二人の大臣が座の下に隠して守ったという。 コーエーのジンギスカンにも吐蕃出てきたけど、あの頃まで一応
吐蕃王家の末裔はいたらしい
君主は僧侶になってたけど 唐軍は吐谷渾の故地か四川くらいまでしか攻め込めてないね
チベット本土まで攻め込めたのはモンゴル軍が初めてか? モンゴル帝国のパスパ文字を作ったパスパはチベット人 サキャパンディタの跡を継いでサキャ派の座主となった甥のパクパは、
フビライ=ハンに国師として推戴され、フビライが大都で行う王権儀礼を演出した
宗主国モンゴルの王族が属国チベットの仏教を盲信し、最後には国を傾けたという
奇妙な関係 サキャ・パンディタがコーエーのジンギスカンでは
君主になってた
名前はサキアパ 坊さんがトップの国じゃ、モンゴルに勝てるわけ無いわな
だが、いつの間にか宗教的優位に立ってるトコがすごい フビライ=ハンが死んでテムル=ハンが即位すると、
元朝はチベット統治に関心を示さなくなり、一方、
元朝の王族のチベット仏教に対する強い信仰は持続していた。
そのため、それ以後の元ーチベット関係は、
政治的主従関係よりも、純粋に宗教的な師弟関係に
移行していった。元朝一代を通じ、チベットにおいては
元朝の王族を施主にして、仏寺や大蔵経が数多く造られた。 チベットはモンゴル高原以上に支配欲わかない土地なのかもな 明朝の時代にも、チベット仏教の勢力は、明朝の
宮廷や五台山、青海、甘粛地域などに縮小したものの、
依然として健在だった。 吐蕃本国が混乱で衰退しても、甘粛やタリム盆地には
吐蕃の残存勢力が力を持っていたみたいだね チベットって、被支配民族が支配民族(モンゴル人、
満洲人)に大きな宗教的・文化的影響を与えたけど、
ローマ帝国におけるギリシャ人とローマ人の関係みたい >>68
満洲族はモンゴル族の様にチベット仏教一色ではない。仏教でも禅宗系や浄土教系も多かった。 チベットの馬は蒙古馬より大きそうだが、
中原の馬より優れてたのかな?
吐谷渾の征服後に青海産の名馬を利用していた
のだろうか? >>70
モンゴルはガードドッグとしてチベタンマスティフをチベットから導入した。
モンゴルでは今やモンゴリアンマスティフと言われる別品種になった。
違いはモンゴリアンマスティフはほぼ全てに目の上に眉毛の様な白い毛があるが、
チベタンマスティフはある方が少ない。
モンゴルにもハウンド種の犬が居て牧羊犬として働いて居たが、
オオカミとの対決では一進一退で、狼の群の数が多いと負けるこたもあったが、
マスティフは狼を上回る体格で噛む力が強烈だから、
一頭で狼数頭を相手に蹴散らすことが出来たからガードドッグとして重宝されてる。
ただ、図体がデカいから牧羊犬として羊の群れを纏める為に走り回るには
スタミナが持たないから、そこは従来からのハウンドと分担してる。
リアルのモンゴリアンマスティフはまさに人に飼われている猛獣。
吠え声がデカくて恐ろしいし、飼主以外の見知らぬ人間には
猛然と吠えかかってくる。飼主のモンゴルの牧畜業者は
「噛まれると腕一本はなくなるよ」と脅してくる。 馬の話に犬のレスを返されても・・・
まあタメになったけど チベット高原から崑崙山脈を越えてタリム盆地に出るルート
今はあるようだけど、吐蕃時代は無かったのかな?
大軍は無理でも少人数なら行けるだろうか? 吐蕃はネパールは支配下に置いてもインド侵攻は
しないんだよな
暑いの苦手か? インドの人の言う、バーラタ(インド圏)とボーダ(チベット圏)の境は
ヒマラヤの分水嶺だから、ヒマラヤ南麓のネパールがチベットの支配下に
なったということは、十分インド侵攻されてるんじゃないの? >>77
ネパールはインドと敵対してるやん
ブータン以外の隣国全部そうやけど ネパールは王位奪還を支援してやったから
実質子分みたいな扱いだった チベットの動物がいっぱい観れる動物園はどこですか? 唐代には、792年4月に吐蕃が霊州を侵略して
人畜を掠奪し、6月にも数千騎で攻めてきた。
9月になって西川節度使が吐蕃の大将、論賛熱を
ついに捕らえ、長安に送った。
11月には山南西道の節度使が吐番を破り、
その屍を焼いて首領の首を唐朝に捧げた。
このころから吐蕃の勢いははっきり衰退してくる。 玄宗の時代の唐は、吐蕃の侵攻に悩まされていた
705年、吐蕃は婚姻を求めてきたので、中宗は
太宗時代に文成公主が降嫁して以来二度目、
金城公主を降嫁させた。
しかし、さして効果はなく、玄宗が即位して間もない
714年には吐番が十余万の兵をもって周辺を侵寇した。
そのうえ、「敵国の礼」(対等の国としての対応)
を求めてきた。玄宗は大いに怒ったという。 吐蕃は9世紀に入ってからもウイグルの都オルドバリク近くに
進攻する軍事力を持っていたらしい 唐の穆宗は820年に即位してから、病弱で
ほとんど政務がとれなかった。
それをよいことに中国では全国的な反乱が
起きていた。
吐蕃だけではなく、南は南詔、東は幽州を
中心にした、燕人などの反乱である。 チベットっていつ頃から呼ばれ始めたの?
唐代にはチベットという呼称無さそうだけど トゥバトみたいな名前だったのかな?
ソグド語とかでもそんな呼び方をしていたみたい 羌とか氐とかほかのチベット系民族と比べて名前までも中国っぽくないのなんで? 中国側の記録によると、吐蕃は半農半牧の
国家であり、663年にはタリム盆地東部に
進出し、唐の安西四鎮を滅ぼした。 禿髪とか拓跋氏の末裔ならもうちょい鮮卑っぽい言葉を
しゃべってそうだよね
まあ拓跋の子孫だと思ってそう呼んだのかも知れないが
チベット人自身はチベットをボドと呼んでいるようだ >>96
|
| 彡⌒ミ
\ (´・ω・`) また髪の話してる・・・
(| |)::::
(γ /:::::::
し \:::
\ チベットの説話で、初代チベット王がインド王家の
末裔とされていることは、チベットの黎明期に
インドから移民してきた人が影響力を有していた
事を暗示しているし、時代が下るにつれて、
王の墓が低い位置に造られたということは、
高地からやってきた民族が徐々に低地に
移住して国を造ったことを暗示している。 >>96
>チベット人自身はチベットをボドと呼んでいるようだ
ブータンの「ブー」部分も確か同語源だった記憶が。 吐蕃ってどんな髪型をしていたんだろう?
まさか月代や辮髪のように、頭髪の一部を
剃っていたとか? >>101
民族系統の近いタングート族みたいに頭の真中剃って左右に髪残してたんじゃないか? >>102
と思ったけど現代のチベット族の髪型からだと真中から左右に分けて、
ドレッドヘア風の大きな三編みを左右に垂らして居たのかな? 閻立本の絵に吐蕃の宰相描いたのがあるけど
てっぺんハゲにバンダナみたいな感じだった 吐蕃は目上の者に挨拶するとき、両手を
地につけて犬のように吠えたという。
生活は他の遊牧民と大同小異で、長幼の序は
あまりなく、殉死の風習があったという。 吐蕃を抑えるにはラサ方面に軍を
進める必要があったと思うが、
一度も大遠征が行われなかったのは
何故だ? チベット文語の鬼のような子音連続は、モデルになった言語が現役の話し言葉だった時代、本当にそのまま発音してたのかな >>106
ソンツェンガムポ王やティソンデツェン王の
時代は、吐蕃のほうが勢いが強かったし、
吐蕃が衰退期に入ったころには唐も衰えていたし、
ラサ方面に軍を進めて大遠征なんてできなかったんじゃね? 吐蕃は使者の案内の際もわざと遠回りして
高地を通ったりして攻めづらく思わせていた
形跡がある 今のスリランカにあった王国も同じことをヨーロッパ人にしたそうだな。吐蕃の故事に倣ったわけでもないと思うけど
でもさすがにチベットのような土地じゃないのですぐばれた 11世紀以降はチベット高原に引きこもった吐蕃
かつての活力は何故消えたのか >>111
モンゴルという、さらに強大な勢力が現れたからっでは?
あと、チベットは長らく分裂状態にあったし。 >>111
同じチベット系のタングートが力をつけて唐の節度使になって河西回廊一体を支配して
チベット高原から出られなくなったからだろう。 西夏そんなに強いか?
宋と挟撃すればあっという間に滅亡だろ 吐蕃が唐を荒らしまわるとき、常に秋冬に
入寇するが、春は疫病が流行るので退却し、
盛夏はその患いがないので出兵してきたとか。 やっぱ寒いのが得意なのか
普通、雪の季節は戦争はしないもんだが 唐では792年に、西川節度使が吐蕃の大将、
論賛熱をついに捕らえ、長安に送った。
11月には山南西道の節度使が吐番を破り、
その屍を焼いて首領の首を唐朝に捧げた。
このころから吐番の勢いは衰退してくる。 近代でも外国人がチベットに入るのは大変だったようだな >>116 しかも大量の荷物を運べる駄獣のヤクは暑さにくそ弱いしな。多分トナカイ並み。同じく高山の家畜でも南米のラクダ科は日本でも飼えるくらい丈夫だけど
モンゴル方面のヤクはチベットから秋から春の間に伝わったか ダグルと呼ばれるチベット遊牧民の住処の
テントは、ヤクの毛を織ったものを、張り綱と
支柱を使って四角くしっかり大地に留めたもの。
ダグルは張り綱があるために、高原の強風に
よく耐え、黒いヤクの毛は、太陽の熱を吸収して
内部を暖かくするし通気性もよい。 唐&ウイグル連合と、吐蕃、南詔の
合従連衡の三国志 唐では代宗の末期にあたる778年から779年に
かけて、吐蕃が四万の兵を率いて霊州を
荒らしまわっていた。
また吐蕃は南詔と連合して、兵20万で
茂州を侵略した。
唐は幽州の兵をもって撃退したという。 ラダックの北の方って、ホータン市に
属してるんだな
崑崙山脈越えないと行けなそうなのに 近現代において、チベットが独立を保つ
方法はなかったんだろうか?
それとも、最初からそんなことは絶望的だった? ラダックの北はホータン市じゃなくてホータン県だったわ
アクサイチンと呼ばれているらしい
ホータン市の西のカルガリクから南下して崑崙山脈を
越えるようだ
吐蕃も使っていたルートか? >>127
阿海、禿花兄弟の事蹟はペルシャ語資料にも書かれているから、
漢文資料にしか出て来ない楚材よりは確度高いと思う。
イル・ハン国に耶律一族は殆ど居なかったから別にラシッド・ウッディーンは
耶律一族に忖度する必要ないし。 吐蕃はウイグルを討つためにさらに北方のキルギス
にも使者を送ってたっぽいな 吐蕃はカシミールには兵を向けなかったのかな?
要害堅固っぽいけど
カシミールはガズニ朝に対しても独立を守ったのはすごい 最新の研究によると西夏国もチベット仏教を導入していたらしいよ
で、モンゴルも実は当初タングート人を通じてチベット仏教を学んだ説があるとのこと
最近出た岩波講座にそんな旨の記述があった 西夏が征服した河西には吐蕃の残党も結構いただろうな モンゴルの歴史書がいつの間にか先祖はチベットから
来たと書くようになったみたいだ 明末の混乱に乗じてモンゴルが青海から
チベットまで制圧してんだな 猪八戒がいたのが烏斯蔵国らしいが
ネパール経由で天竺行けば近かったよね
牛魔王がいた火焔山はトルファンか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています