日本の古代史 Part38
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前スレ
日本の古代史 Part37
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インドシナ華南 ウンコ色 短顔 ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇 人肉シシビシオはどっか行け!
インドシナ華南 ウンコ色 短顔 ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇 人肉シシビシオは 東南アジアO由来の中国人はそれに劣等意識ももたないし
人肉食の歴史に対してなんもかんじないだろう
しかし北方アジア系は「私の祖先は小便で顔を洗っていました」と自信をもってい言えるのか? >>853
インドシナ華南 ウンコ色 短顔 ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇 人肉シシビシオはどっか行け!
インドシナ華南 ウンコ色 短顔 ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇 人肉シシビシオはどっか行け! 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例が10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 小便洗顔は唐の腹いせだ
唐は靺鞨には歯が立たなかったから
アムール川沿いの民族は半農半牧で木造家屋に
住んでいた。小便洗顔なんて習慣はなかった。 >>856
違う、北方民族の習慣
で、それ以外では洗浄方法がない
衣服は革からとれるし、食料は肉
住居は木を持ってきて革で作れる
植物から取れない栄養は生食から取れる
ここまではわかるだろうか
で、風呂はどうする?
そんなんあるはずない
温泉などわいてるはずがない
水も凍ってる
沸かす燃料は家畜からは取れない
小便しかないだろ? 人尿洗顔民族をルーツだ!などと考えてはならない
これにいきつきそうならまず否定しろ ふつうにルーツだろ
尿洗顔とかブタの脂を体中に塗るとか、冬の間だけだしな
夏はふつうに水で洗う訳だし
出雲に渡来して、その必要もなくなり、それらの風習も瞬時になくなったと
山陰山陽方面には弥生期の毛皮の靴が出土するのよ
故郷では毛皮の靴を履いていた
出雲に渡来して、その必要もなくなり、毛皮の靴もなくなりはしないが廃れていったと 小便ってなんのことだかわかってる?
おしっこのことだよ? 尿洗顔よりも人肉シシビシオ、人肉の塩辛食いの方がよっぽど野蛮だろ。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >856
燃料は木材か馬糞、これは豊富にある
小便使わんでも牛乳で洗浄できる >>864
「私の先祖は人食いです」とは言える
「私の先祖は小便顔洗い民族です」とはいえない
言えなければ負け >>869
「私の先祖は尿洗顔していた」とは言える
「私の先祖は人肉シシビシオ、人肉の塩辛を食っていた」とはいえない
言えなければ負け 牛乳と石灰岩で石鹸はできる
酪農家は牛乳は豊富にあるから
小便で洗浄する必要はない
靺鞨が唐より強く、文化的にも上だったから
歴史書にボロクソ書いたものと思われる 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>871
靺鞨以前のユーロウの時代から書かれてるぞ
石鹸とかあほかと よく考えろ
北極圏の地面が凍って
一部は雪も降らない土地
どうやって手と顔を洗う? 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >874
石鹸なんて馬乳に石灰岩砕いてかき混ぜれば
できるんだよ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>881
だったら出雲に渡来時に稲作がすぐ始まるはずじゃないの。
稲作が始まるのは渡来から少なくとも50年以上は後。
しかも出雲じゃなくて九州北部。
短粒種だけのイネ、耕作用農具は半島南部と一致。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一点出土したが、朝鮮土器を全く作ってないから
渡来人の子孫が半島南部からパクってきたとしか考えられないね。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 近隣諸国との整合性とやらで、日本の稲作は
弥生時代からってことにされている 沿海州からの渡来は日本海側全般だよ
出雲が最初かどうかわからん >>884
日本最古の弥生土器が出雲あたりから始まるから。
>>885
菜畑遺跡=最古水田より前にさかのぼるイネ粒も農具もないから。
>>886
渡来系土器がメインの生活痕遺構が北陸以北にはないから定着まではない。
西日本中に最初の弥生土器が席巻するが、それが始まるのは出雲あたりから。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 渡来第一波はどう考えても亀ヶ岡に付随する地域でしょ 鬲型土器のコピー土器以外の外来系土器がメインの生活痕遺構がないし、
渡来系人骨の出土もないから何の考古立証もできない。 >>890
主流は当然土着人だろうけど
一気に縄文時代が変質したのは、外からの影響以外に考えられない
渡来系「のようにも見られる」人骨ならあるでしょ
DNA調べんとわからんけど 渡来人を裏付ける衣食住に関わる生活痕遺構がないから何の考古立証もできないね。
弥生文化だって朝鮮南部との交流だけで稲作などの様々な文化や先進技術が
入ってきたが、在地産の朝鮮土器遺構がないから半島人の定着までは考えられない。
交流だけで様々な文化や先進技術が入ってきただけだ。
しかし、渡来系弥生人は沿海州南部と一致する在地産の土器遺構と数千体の
渡来系弥生人骨があるから考古立証できる訳だ。 それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 そんな星占いよりも当たらねえのゴミカス指標いつまでやってんだカス 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 ツングースはYハプロがC、日本人のYハプロは
OまたはD。 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 より抜粋 >>898
こう考えよう
遼河文明を生み出したのはほとんどハプロNの集団
それが漢民族原型と混じり合ってるうちに次第にO1b2に乗っ取られた(言語は北方言語)
そのO1b2が東へ移動し、一部ツングースや縄文系統と混じり合いながら沿海州で文化を築いた
で日本の少数のNもCも説明つく
決して小便顔洗浄グループに関わらないようにしよう >901
小便洗顔って朝鮮人だからね
日本人にそんな習慣ないからね 人肉の塩辛を食ったり、ウンコをナメる習慣も日本人にはないがなw 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 >>903
ツングースの習慣が半島に伝わったんだろう
多分半島人が持ち前の差別精神で「女真族は小便で顔を洗う民族だ!」みたいなことをいいまくって
そんで女真族に支配されて、小便で顔を表されるようになたと >>900
宇佐族(月の女神=月読命を信仰する故にウサギ族と自称していたのが宇佐(兎狭)族に変化した)の渡来。
次にインドからシベリア経由でドラビタ族=出雲族が渡来。
彼らは青銅器や製鉄技術を有していた。
陸稲栽培、蕎麦(シベリアのバイカル湖周辺に自生していたモノ)ほか等を持ち込んだ。
信仰はシバ。サラバスティ。ガネーシャ。龍蛇神。
これが日本初の人格神、家族神として体系化されてシバ神は民族を誘い導いた英雄のクナト王と習合してクナト大神(後にイザナギ、大山祇ほかにバブルする)。
サラバスティに太陽の女神ほかも習合して后/女神の幸媛命/佐毘女神(およそ我が国の女神はこの女神さまのバブル(イザナミ。太陽の女神/天照大神。
ガネーシャは象が畏怖され神格化した象の頭の神さま。
ドラビタ語で突き出たモノ/大きな鼻(いずれも男性性器の比喩)の意味のサルタ彦大神に。
龍蛇神の原形は、川鰐が神格化されて川の神に、森のコブラ(が畏怖され)神格化されて森の神になり、
それらが混合して体系化した神格。
神話等で、大蛇(オロチ)やワニと表現されていたらそれは出雲、出雲族の比喩/暗喩です。
次に、中国大陸から徐福が前後併せて五千人を引き連れて渡来しました。
いわゆる、弥生時代とは徐福ら秦国人らが渡来してもたらし、無理やり幕開けさせたらしい。
彼らは一説にイスラエル/ユダヤの遺民の子孫たち。
信仰は徐福が道教の方士だったことから当然ら道教です。
最初の渡来で引率し山陰地方/出雲王国に至った二千人らが初期の大和王朝(海(天)ムラクモ大王(徐福の孫))を開きます。
海部/尾張氏の流れ→秦族。
二度目には三千人を率いて渡来し、佐賀の吉野ヶ里に定住して帰化しました。
秦国人が築き上げた国だ!との自負から「筑秦国」を号したのが筑紫国(物部王国)に変化しました。
彼らは後に物部族と言われます。 >906
女真に小便洗顔の習慣はないが、朝鮮を
支配したときに小便洗顔を強制したんだ
ろうね >皇室は縄文系Y-DNAだった事が、オクスフォード大学・遺伝学研究チームの解析で確定。
N253487 Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093
https://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized
https://wiki3.jp/famousdna/page/23
伏見宮家
伏見宮家のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)。
これは、伏見宮家の男系子孫1名から得られた解析の結果に基づく。
東山天皇
人皇第113代・東山天皇(Emperor Higashiyama, 1675-1710)のY染色体遺伝子は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)(注3)。
これは、東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔粘膜の解析による(注7)(注8)。
南朝・後村上天皇
南朝・後村上天皇(Emperor Gomurakami, 1328-1368)の男系子孫のY染色体を調査した結果、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)であることが判明した(注1)(注2)。
近衞文麿
内閣総理大臣を務めた、近衞文麿(Fumimaro Konoe, 1891-1945)のY染色体は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である(注1)。
2019年6月19日改訂のISOGGより D1a2(旧D1b1'2)に変更。
「縄文系」のD1a2(旧D1b)、(チベットD1a1)
オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)及び、
カラー・レッド(Color Red)は、日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および
縦列反復数(STRs)を解析した結果、天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)に属する
系統であると結論づけました。 なお奥州藤原氏ハプログループO1b2a1a系統と並んで日本でもっとも多く
子孫を残した系統にあたります。
藤原氏は、弥生系(O-CTS10145)藤原氏と
皇別藤原氏といるらしいです。 藤原氏については後世の摂関政治の影響で混乱中です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
ハプログループD1a2(D-M55)は、日本列島で観察される。
日本人の約32%[4]~39%[5]にみられ、沖縄や奄美大島では過半数を占める。
アイヌの80%以上[6]もこれに属する。
ハプログループD1a2は、日本で誕生してから3.8-3.7万年ほど経過していると考えられている[7]。
東アジアの他地域ではD1a2の姉妹型D1a1がチベット人の最大49%、ヤオ族の30%観察され、
もう一つの姉妹型D1a3はアンダマン諸島南部(オンゲ族、ジャラワ族)で
サンプル数は少ないものの100%[8][9]を占める。 >>910 の意は下記の事情により。
皇別摂家(こうべつせっけ)とは、日本の五摂家のうち江戸時代に男性皇族が
養子に入って相続した後の3家(近衛家・一条家・鷹司家)およびその男系子孫を指す。
摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った
5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て
摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、
執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。
実はこの清華家の徳大寺家は江戸時代に東山天皇の皇胤が養子に入っており、
15代目吉左衛門友純をもって住友男爵家は、
男系でたどれば近世の天皇の皇胤系に 入れ替わった。
(男系系図:東山天皇━閑院宮直仁親王━鷹司輔平━鷹司政煕━鷹司政通
━徳大寺公純━住友友純) O-M176のサブクレードのひとつで現代の日本人や満州民族、朝鮮民族の
男性に多いO-K27のY-DNAの最も近い共通祖先は約8,200 (95% CI 6,300〜10,200)
年前に誕生したと考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97O1b2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
O1b2a1a 1 (CTS713)(旧47z) - 日本人(大和民族、琉球民族)で高頻度にみられる。
朝鮮民族、満州族で低頻度。
O1b2a1a 1a (CTS1875) - 日本列島
O1b2a1a 1a1 (CTS10682) - 日本列島
O1b2a1a 1b (Z24598) - 日本列島
O1b2a1a 1c (CTS203) - 日本列島
O1b2a1a 2 (F2868) - 日本列島
O1b2a1a 2a (L682) - 朝鮮半島に高頻度に見られる。[10] 日本人、満州族、
ウデゲ族、ナナイ族[要出典]などにもみられる。
O1b2a1a 2a1 (CTS723) - 朝鮮半島
O1b2a1a 2a1a (CTS7620) - 日本列島、ナナイ族
O1b2a1a 2a1b (A12446) O1b2a1a 2a1b1 (PH40)
O1b2a1a 2b (F940) - 遼寧省の満州族に高頻度でみられる。
満州系漢族および満州系モンゴル人から度々発見されている。
O1b2a1a 3 (CTS10687) - 最大頻度地域は韓国の江原道(カンウォンド)で4%みられ、
主に北方民族から発見される。 満州族と朝鮮族、西モンゴルのZakhchin族、
シベ族、ブリヤート人、ウズベキスタン、キルギス、北部アフガニスタンの
バダフシャーンと南部のバロチ族でも発見される。
O1b2a1a 2b (F940) - 遼寧省の満州族に高頻度でみられる。
満州系漢族および満州系モンゴル人から度々発見されている。
O1b2(旧O2b) (P49, M176) - 日本列島、朝鮮半島、満州に多い。
東南アジアやインドネシアでも低頻度に見られる。 ハプログループD1a2 (Y染色体)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
「M55」[2]の子孫の系統である。3万年ほど前に日本列島で誕生したと考えられ、
現在日本人の3割ないし4割[3]がこのハプログループに属している。
かつてはハプログループD2と系統名称で呼ばれていたが、
2014年5月にISOGGの系統樹が更新されたことにより、ハプログループD1bと改訂され、
さらに2019年6月には系統名称はハプログループD1a2と改訂された。
日本到達以降[編集]
当時無人の日本列島に到達したハプログループD1a系統は、
海洋資源に恵まれ、温暖であったため日本で繁栄した。
中国大陸から弥生人が日本列島にやってくるまでの約3万5,000年間に、
日本列島においてハプログループD1aの中からハプログループD1a2が誕生したと考えられる。
彼らは縄文人として、彫りの深い顔、濃い髭、二重まぶたの特徴を持ち、
主に浅瀬で漁をして生活をし、のちにはO系統などの弥生人と融合し、
陸稲を栽培していたと考えられる。
縄文人の古代DNA[編集]
北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800-3,500 年前))から
出土した人骨・船泊5号のY染色体は、ハプログループD1a2b1(D-CTS220)であった[19][20]。
これにより「ハプログループD1a2系統は縄文系である」という従来からの仮説が立証された。
遺伝子から続々解明される縄文人の起源−高精度縄文人ゲノムの取得に成功
− 国立科学博物館 平成31年5月13日
https://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/150678.pdf 日本人のハプログループは、出アフリカ後、イランからアルタイ山脈を経由した「北ルート」[77]
で到達したとする説、インドから東南アジアを経由したルート[78]で到達したとする説がある。
D1a2系統、O1b2系統、O2系統の3系統で日本人全体の約8割以上を占めるほど高頻度に見られる。
他にC1a1系統、C2系統、N系統、O1a系統、O1b1系統なども低頻度に見られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA
日本人全体で見ると
D1a2系統が約35%、(縄文系)
O1b2系統が約30%、(弥生系)
O2系統が約20%、(華夏系)の順となっている。
ハプログループD1a1は、チベット等に多いが、日本人にも見られるタイプである[79]。
ハプログループD1a2は、日本列島に固有に見られるタイプで、
アイヌが高頻度で約85%、次いで琉球民族で約40%、本土日本人にも35%ほど見られる。
縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌ[80]や一部の沖縄県民(特に糸満や宮古島)で
高頻度に見られ、反対に漢民族や朝鮮民族などの周辺諸民族にはほとんど見られないことから、
ハプログループD1a2は縄文人に特徴的なY染色体だとされる。 O1b2(旧O2b) (P49, M176) - 日本列島、朝鮮半島、満州に多い。
東南アジアやインドネシアでも低頻度に見られる事から長江文明の担い手と思われる。
M176------>O1b2a1a1 (CTS713)(旧47z) =日本列島
M176------>O1b2a1a2a (L682=xO-47z) =韓国朝鮮・満州地域・沿海州
日本人→「O-47z=25%」 「xO-47z=8%」くらいです。
朝鮮民族・満州→「O-47z=4%」 「xO-47z=33%」くらいです。
ハプログループO-M176(O1b2)は
日本人及び朝鮮民族に30%程度みられ、満州族では34〜4%で見られる。
ただし、北方に移動した朝鮮半島や満州地域に多いO1b2a2と
東方に移動した日本人に多いO1b2a1とでは、5000年以上の開きがあるため注意が必要。
弥生時代から現代までの朝鮮半島と日本列島との人的交流の痕跡は、
日本人→「xO-47z=8%」である。
日本のO1b2保有者の約8割で見られるO1b2a-47zというサブグループは、
おおよそ8000年前に発生したと推定されているので、他の満州や朝鮮、インドネシアで
多く見られるO1b2-M176(x47z)というサブグループとはそれ以上昔に
血筋がわかれているということになる。 チベット系遊牧民 ヤッハッー!
騎馬民族制服論キタワー 星占い未満
弥生文化のどこに当時の中国大陸の衣食住に関する生活文化があると言うのか?
無学無勉の底辺高卒のパッパラパー用サギ材料 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 銅鐸祭祀の源流
先にも紹介したが、湖南省寧郷市老糧倉で出土した殷代の鐃(にょう)に関しては、
日本の銅鐸のルーツではないかとの見解が出されている。
「長江中流域などの鐃は概して大ぶりで、高さが1メートルに迫るものもある。
大型の鐃(にょう)は山の斜面や頂上の穴に埋めた状態で発見されることが多い」。
(考古用語辞典) 祭器としての青銅器を土に埋めて保存する習俗としては、
苗族や白ラ人の銅鼓がそうである。
そして、湖南省でみられた青銅製の鐃と弥生の日本の銅鐸がある。
雲南紡織貯貝器 「銅鐸紋様」
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/f/c/fcf0ff7d.jpg
中国江蘇省の陶器鐸
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/0/8/082faf06.jpg
さらに今度は、明らかに銅鐸の原型と思われる形をした陶磁器の鐸が発見された。
『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる
墓から、 原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、
これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。
肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、
鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/ec/51019b8376d63c6cd73caa4bf148cf45.jpg
馬王堆漢墓の帛画をもう一度みてみよう。図左の天上界の中央で、宙に吊られているのが鐸である。
それを、馬か鹿に乗った人物がひもで引っ張って鳴らしている。玉璧は天との交信に使われたりしたが、
この帛画では死者を天上界へ導くための器だった。一方の鐸は天上界の器であり、
「天上界の音」を奏でた楽器であることが分かる。………まさに驚きの事実である。 >>920
縄文土器なんてどこにも書いてねえだろがカス
印文陶と書いてあるだろがカス
>>921
羽飾りなんか世界中にあるだろがカス
縄文人はアメリカンインディアンなw
>>922-924
で、日本のどこから貯貝器や饒や磁器の鐸が出土したの?
そんな低級なダマシ材料に引っかかってくれるおまえみたいな中卒おらんだろw 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >皇室は.縄文系Y-DNAだった事が、オクスフォード大学・遺伝学研究チームの解析で確定。
N253487 Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093
https://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized
https://wiki3.jp/famousdna/page/23
伏見宮家
伏見宮家のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)。
これは、伏見宮家の男系子孫1名から得られた解析の結果に基づく。
東山天皇
人皇第113代・東山天皇(Emperor Higashiyama, 1675-1710)のY染色体遺伝子は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)(注3)。
これは、東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔粘膜の解析による(注7)(注8)。
南朝・後村上天皇
南朝・後村上天皇(Emperor Gomurakami, 1328-1368)の男系子孫のY染色体を調査した結果、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)であることが判明した(注1)(注2)。
近衞文麿
内閣総理大臣を務めた、近衞文麿(Fumimaro Konoe, 1891-1945)のY染色体は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である(注1)。
2019年6月19日改訂のISOGGより D1a2(旧D1b1'2)に変更。
「縄文系」のD1a2(旧D1b)、(チベットD1a1)
オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)及び、
カラー・レッド(Color Red)は、日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および
縦列反復数(STRs)を解析した結果、天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)に属する
系統であると結論づけました。 なお.奥州藤原氏ハプログループO1b2a1a系統と並んで日本でもっとも多く
子孫を残した系統にあたります。
藤原氏は、弥生系(O-CTS10145)藤原氏と
皇別藤原氏といるらしいです。 藤原氏については後世の摂関政治の影響で混乱中です。
皇別摂家(こうべつせっけ)とは、日本の五摂家のうち江戸時代に男性皇族が
養子に入って相続した後の3家(近衛家・一条家・鷹司家)およびその男系子孫を指す。
摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った
5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て
摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、
執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。
実はこの清華家の徳大寺家は江戸時代に東山天皇の皇胤が養子に入っており、
15代目吉左衛門友純をもって住友男爵家は、
男系でたどれば近世の天皇の皇胤系に 入れ替わった。
(男系系図:東山天皇━閑院宮直仁親王━鷹司輔平━鷹司政煕━鷹司政通
━徳大寺公純━住友友純) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
ハプログループD1a2(D-M55)は、日本列島で観察される。
日本人の約32%[4]~39%[5]にみられ、沖縄や奄美大島では過半数を占める。
アイヌの80%以上[6]もこれに属する。
ハプログループD1a2は、日本で誕生してから3.8-3.7万年ほど経過していると考えられている[7]。
東アジアの他地域ではD1a2の姉妹型D1a1がチベット人の最大49%、ヤオ族の30%観察され、
もう一つの姉妹型D1a3はアンダマン諸島南部(オンゲ族、ジャラワ族)で
サンプル数は少ないものの100%[8][9]を占める。 >>908
https://ja.wikipedia.org/wiki/しゅくしん
>中国の周代の文献の中にしばしば見られ、後代の?婁・勿吉・靺鞨・女真(満州族)と同系の民族と考えられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/粛慎_(日本)
明らかにツングースだな O-M176の.サブクレードのひとつで現代の日本人や満州民族、朝鮮民族の
男性に多いO-K27のY-DNAの最も近い共通祖先は約8,200 (95% CI 6,300〜10,200)
年前に誕生したと考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97O1b2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
O1b2a1a 1 (CTS713)(旧47z) - 日本人(大和民族、琉球民族)で高頻度にみられる。
朝鮮民族、満州族で低頻度。
O1b2a1a 1a (CTS1875) - 日本列島
O1b2a1a 1a1 (CTS10682) - 日本列島
O1b2a1a 1b (Z24598) - 日本列島
O1b2a1a 1c (CTS203) - 日本列島
O1b2a1a 2 (F2868) - 日本列島
O1b2a1a 2a (L682) - 朝鮮半島に高頻度に見られる。[10] 日本人、満州族、
ウデゲ族、ナナイ族[要出典]などにもみられる。
O1b2a1a 2a1 (CTS723) - 朝鮮半島
O1b2a1a 2a1a (CTS7620) - 日本列島、ナナイ族
O1b2a1a 2a1b (A12446) O1b2a1a 2a1b1 (PH40)
O1b2a1a 2b (F940) - 遼寧省の満州族に高頻度でみられる。
満州系漢族および満州系モンゴル人から度々発見されている。
O1b2a1a 3 (CTS10687) - 最大頻度地域は韓国の江原道(カンウォンド)で4%みられ、
主に北方民族から発見される。 満州族と朝鮮族、西モンゴルのZakhchin族、
シベ族、ブリヤート人、ウズベキスタン、キルギス、北部アフガニスタンの
バダフシャーンと南部のバロチ族でも発見される。
O1b2a1a 2b (F940) - 遼寧省の満州族に高頻度でみられる。
満州系漢族および満州系モンゴル人から度々発見されている。
O1b2(旧O2b) (P49, M176) - 日本列島、朝鮮半島、満州に多い。
東南アジアやインドネシアでも低頻度に見られる。 ハプログループ.D1a2 (Y染色体)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
「M55」[2]の子孫の系統である。3万年ほど前に日本列島で誕生したと考えられ、
現在日本人の3割ないし4割[3]がこのハプログループに属している。
かつてはハプログループD2と系統名称で呼ばれていたが、
2014年5月にISOGGの系統樹が更新されたことにより、ハプログループD1bと改訂され、
さらに2019年6月には系統名称はハプログループD1a2と改訂された。
日本到達以降[編集]
当時無人の日本列島に到達したハプログループD1a系統は、
海洋資源に恵まれ、温暖であったため日本で繁栄した。
中国大陸から弥生人が日本列島にやってくるまでの約3万5,000年間に、
日本列島においてハプログループD1aの中からハプログループD1a2が誕生したと考えられる。
彼らは縄文人として、彫りの深い顔、濃い髭、二重まぶたの特徴を持ち、
主に浅瀬で漁をして生活をし、のちにはO系統などの弥生人と融合し、
陸稲を栽培していたと考えられる。
縄文人の古代DNA[編集]
北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800-3,500 年前))から
出土した人骨・船泊5号のY染色体は、ハプログループD1a2b1(D-CTS220)であった[19][20]。
これにより「ハプログループD1a2系統は縄文系である」という従来からの仮説が立証された。
遺伝子から続々解明される縄文人の起源−高精度縄文人ゲノムの取得に成功
− 国立科学博物館 平成31年5月13日
https://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/150678.pdf 日本人.のハプログループは、出アフリカ後、イランからアルタイ山脈を経由した「北ルート」[77]
で到達したとする説、インドから東南アジアを経由したルート[78]で到達したとする説がある。
D1a2系統、O1b2系統、O2系統の3系統で日本人全体の約8割以上を占めるほど高頻度に見られる。
他にC1a1系統、C2系統、N系統、O1a系統、O1b1系統なども低頻度に見られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA
日本人全体で見ると
D1a2系統が約35%、(縄文系)
O1b2系統が約30%、(弥生系)
O2系統が約20%、(華夏系)の順となっている。
ハプログループD1a1は、チベット等に多いが、日本人にも見られるタイプである[79]。
ハプログループD1a2は、日本列島に固有に見られるタイプで、
アイヌが高頻度で約85%、次いで琉球民族で約40%、本土日本人にも35%ほど見られる。
縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌ[80]や一部の沖縄県民(特に糸満や宮古島)で
高頻度に見られ、反対に漢民族や朝鮮民族などの周辺諸民族にはほとんど見られないことから、
ハプログループD1a2は縄文人に特徴的なY染色体だとされる。 O1b2.(旧O2b) (P49, M176) - 日本列島、朝鮮半島、満州に多い。
東南アジアやインドネシアでも低頻度に見られる事から長江文明の担い手と思われる。
M176------>O1b2a1a1 (CTS713)(旧47z) =日本列島
M176------>O1b2a1a2a (L682=xO-47z) =韓国朝鮮・満州地域・沿海州
日本人→「O-47z=25%」 「xO-47z=8%」くらいです。
朝鮮民族・満州→「O-47z=4%」 「xO-47z=33%」くらいです。
ハプログループO-M176(O1b2)は
日本人及び朝鮮民族に30%程度みられ、満州族では34〜4%で見られる。
ただし、北方に移動した朝鮮半島や満州地域に多いO1b2a2と
東方に移動した日本人に多いO1b2a1とでは、5000年以上の開きがあるため注意が必要。
弥生時代から現代までの朝鮮半島と日本列島との人的交流の痕跡は、
日本人→「xO-47z=8%」である。
日本のO1b2保有者の約8割で見られるO1b2a-47zというサブグループは、
おおよそ8000年前に発生したと推定されているので、他の満州や朝鮮、インドネシアで
多く見られるO1b2-M176(x47z)というサブグループとはそれ以上昔に
血筋がわかれているということになる。 銅鐸祭祀の源流
先にも紹介したが、湖南省寧郷市老糧倉で出土した殷代の鐃(にょう)に関しては、
日本の銅鐸のルーツではないかとの見解が出されている。
「長江中流域などの鐃は概して大ぶりで、高さが1メートルに迫るものもある。
大型の鐃(にょう)は山の斜面や頂上の穴に埋めた状態で発見されることが多い」。
(考古用語辞典) 祭器としての青銅器を土に埋めて保存する習俗としては、
苗族や白ラ人の銅鼓がそうである。
そして、湖南省でみられた青銅製の鐃と弥生の日本の銅鐸がある。
雲南紡織貯貝器 「銅鐸紋様」
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/f/c/fcf0ff7d.jpg
中国江蘇省の陶器鐸
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/0/8/082faf06.jpg
さらに今度は、明らかに銅鐸の原型と思われる形をした陶磁器の鐸が発見された。
『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる
墓から、 原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、
これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。
肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、
鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/ec/51019b8376d63c6cd73caa4bf148cf45.jpg
馬王堆漢墓の帛画をもう一度みてみよう。図左の天上界の中央で、宙に吊られているのが鐸である。
それを、馬か鹿に乗った人物がひもで引っ張って鳴らしている。玉璧は天との交信に使われたりしたが、
この帛画では死者を天上界へ導くための器だった。一方の鐸は天上界の器であり、
「天上界の音」を奏でた楽器であることが分かる。………まさに驚きの事実である。 >>935
だから縄文土器なんてどこにも書いてねえだろがカス!
印文陶だと書いてあるだろがボケ!
それに羽飾りなんか世界中にあるだろがカス
縄文人はアメリカンインディアンなw
>>936-938
だから日本のどこから貯貝器や饒や磁器の鐸が出土したの?
そんな子どもダマシに引っかかってくれるおまえみたいな中卒いるの?w >>939
日本語が理解出来ないのなら、このスレに来ない方が良いぞ。 >>940
東南アジア華南のブタチックホッテントットのおまえがな O1b2a1a1は日本で6000年前に誕生している 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>943
日本人特有の変異種[O1b2a1a1]snp(CTS713)(旧47z)が
列島内で発生したのはBC6000年頃だから
これ弥生時代の始まり3000年以前すでに列島内でD系縄文人と一緒に
O系弥生人と云われた人達が暮らしていたと言う事になる。
それで納得した事がある、中国沿岸部でよく出土する
鉄とともに古代(殷・商)中国から日本海に伝わってきた
楽器がある土笛・陶損がそれで穴の数と位置がソックリ。
綾羅木郷遺跡-下関市立考古博物館
http://www.fuwaiin.com/jyoumon-iseki/yamaguti/8.ayaragigou-iseki-saisi/saisi.html 土笛・陶損は土器だぞ
土笛を伝えといて、何で三足や耳の付いた中国系日常生活土器を伝えんのだという話だろがカス
つまり日本の土笛は中国から伝わったものではない
土笛は日本海側から出土するから、おそらく対岸の沿海州から伝わったものだろう 遼河文明期は北方人種のが優勢だった
農耕が発達してからは華南からきた漢民族が圧倒した
華南からの第一波がO1b2で北方民族にのまれ、言語も変えた
それがウラジオストクあたりまで居住範囲を広げた
当時そのあたりまで縄文人のD人種がいて、それとも混じった?
それが渡来したのか
とにかく
ロシアと協力して遺跡ほらせろ 華南から遼寧にやって来といて何で遼寧に鼎がないんだよカス
華南は鼎のメッカだぞボケ
遼西には鬲は見られるが鼎はない
遼東は鬲が伝わった痕跡はあるが全く根付かなかった
そんなサッパリ当たらねえ星占い未満のゴミカス指標、いつまでほざいてるんだ頭カラッポの中卒 O1b2の北上は10000年以上前から始まっ
てるからな ●浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安)(日本では支石墓)
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/bsisekia-thumb.jpg
1993年に浙江省温州地市30を超える石棚墓が発掘され、春秋時代の器物が
多数出土した。石棚墓とは日本でいう支石墓のことである。
これは、紀元前1700年〜紀元前256年頃にかけて江南地方で営まれた墓制で、
石棚墓の下には甕棺も埋葬されている。
その形状や葬送様式などから、九州北部や朝鮮半島南部に展開する
支石墓のルーツかとも考えられる。
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/asiseki2-thumb.JPG
紀元前1500年頃になると遼東半島から吉林省南部地域にも出現するが、
これは、支石を箱形に並べた上に高くびえる形で天井石を載せたもので、
テーブル式と呼ばれる。
一方、朝鮮半島南部に支石墓が出現するのは紀元前500年頃からで、
数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せたもので、 碁盤式と呼ばれている。
韓国では、高くそびえるテーブル式を北方式、低い碁盤式を南方式と
分類しており、 両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。
浙南の石棚墓は後者の南方式と呼ばれる碁盤式である。
日本では、碁盤式と呼ばれる南方式の支石墓が縄文時代晩期末の九州北部に
出現している。 唐津市の葉山尻支石墓群が最古とされ、
縄文時代晩期末(弥生時代前期)〜弥生時代中期の支石墓と甕棺墓がある。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。