日本の古代史 Part39
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日本の古代史 Part38
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1529143679/ ・二日と八時間で、会稽へ---『日本書紀』の記事
日本と江南とのルートを示す記事が、『日本書紀』に記されている。
縄文、弥生時代と、七・八世紀ごろとでは、船の構造の違いもあるとみられるが、
参考になると思われるので、以下に紹介してみよう。
『日本書紀』の「斉明天皇紀」の五年(659)七月の条に、つぎのような文がある。
「伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)の書によると、この天皇(斉明天皇)の
御世に、小錦下坂合部石布連(しょうきんげさかいべのいわしきのむらじ)・
大仙下津守吉祥連(だいせんげつもりのさきのむらじ)らの二つの船が、
呉唐(くれもろこし)の路(中国江南へ直行する南路)に派遣された。
己未(つちのとひつじ)の年(斉明天皇五年・659年)の
七月三日に難波の三津浦を発し、八月十一日に筑紫の大津の浦(博多港)を発した。
九月十三日に百済の南方の島に着いたが、島の名ははっきりしない。
十四日の寅(とら)の時(午前四時ごろ)に、二船あいそろって大海に乗り出した。
十五日の日入(とり)の時に、石布連の船は横からの悪い風を受け、
南海の島に漂着した。島の名は爾加委(にかい)という。 そこで島人に殺害されたが、東漢長直阿利麻(やまとのあやのながのあたいありま)・
坂合部連稲積(さかいべのぬらじいなつみ)ら五人は、島人の船を盗み、
それに乗って逃げて浙州(せっしゅう)[浙江省麗水]に着き、
州県の官人が洛陽(らくよう)の京に送りとどけた。十六日の夜半の時に、
吉祥連の船は、越州の会稽県(かいけいけん)の須岸山(しゅがんさん)
[舟山列島の須岸島か]に着いた。東北(うしとらのすみ)の風が吹き、大変強かった。
二十二日に余桃県(よようけん)[浙江省余桃]に着き、乗ってきた大船と諸種の備品と
をそこに留めた。閠(うるう)十月の一日に越州の州衙(州役所)に着き、十五日に、
駅馬に乗って京(長安)に入った。二十九日に、さらに馬を走らせて東京(とうけい)[洛陽]
に到った。天子(高宗)は東京におられた。三十日に、天子は謁見した。」
この記事で注目されるのは、九月十四日の午前四時ごろに大海に乗りだし、
十六日の夜半には、中国の江南の会稽県についていることである。
二日(二昼夜)と八時間ほどで東シナ海を渡っていることになる。 ■倭人の家
「干欄式建物(かんらんしきけんちく)」とよばれる高床式建物(たかゆかしきたてもの)
の形式がある。
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-08.gif
屋根の一番上の、棟(むね)の長さが長く、下の、軒(のき)の長さが短い。
そのため、屋根を真横から見るとき、逆さの台形に見える。
このような「干欄式建築」は、日本から遠くはなれた中国の雲南省の石寨山(せきさいざん)
古墳出土の青銅製の容器の蓋(ふた)の上の飾りなどに造形されている。
また、中国の江西省清江県営盤里出土の家形土製品に見られる。
いずれも、長江流域およびそれ以南の地である。
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-10.gif
いっぽう、わが国でも、「干欄式建物」は、弥生時代の銅鐸に描かれた絵画、古墳時代の鏡の上に描かれた絵画に見られる。また、「干欄式建物」の家形埴輪が出土している。
なぜ、遠くはなれた中国雲南省と日本の地で、同じ形式の建物が見られるのか。
日本では香川県出土銅鐸の絵画や奈良県左味田宝塚古墳出土の家屋文鏡に
描かれている絵画、池上曽根遺跡の大形建物の復元、登呂遺跡復元高倉など
日本の弥生時代の家は「干欄式建物」である。 それに対し、中国の雲南省の家の例がある。
更に中国以外の国にの「干欄式建物」の下記の例。
(1)雲南の哈尼(はに)族の家の、屋根の棟木の両端を飾る木彫りの牛の頭
(2)権威の象徴であるケチのあがった家(インド東北部、アッサム地方のナガランド)
(3)中国の南西部、雲南省にすむ少数民族タイ族の高床式住居
(4)タイのアカ族の一般の千木
(5)タイのラワ族の花紋のある千木などである。
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-09.gif
高床式住居、干欄式建築も、かつては、中国の江南地方で広く行なわれていたようである。
建築史家の宮本長二郎氏はのべている。
「日本の縄文時代早期にあたる7000年程(ほど)前の中国浙江(せっこう)省の
二つの遺跡から高床建築の部材が発見された。余姚(よよう)県河姆渡(かぼと)遺跡と
桐郷(とうごう)県羅家角(らかかく)遺跡である。」
「(河姆渡遺跡の)堀立柱の干欄式(高床)建築はかなり高度な水準を保っていたことを
示している。」(以上、宮本長二郎「長江流域から米作りとともに普及」
[『日本文化起源論』学習研究社、1990年刊、所収」による。) http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-11L.gif
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-12L.gif
高床式住居については、佐々木高明も、つぎのようにのべている。
「国立民族学博物館名誉教授の周達生(しゅうたっせい)氏によると、
かつては長江をはさんで北側の地床式(地面を床にした形式)住居に対し、
その南側には高床式の住居が広く分布していたことが明らかになっている。
現在では、雲南省の一部など、西南中国の一隅に押しやられた形で残存している
高床式の住居が、かつては長江以南の照葉樹林帯に広く分布していたようである。」
(佐々木高明著『照葉樹林文化とは何か』[中央公論社、中公新書、2007年刊])
「高倉は雲南から江南地方にひろく分布し、しかも朝鮮半島ではその遺跡が発見されていない。
したがって、高床の穀倉は長江下流域あるいは江南地方から直接、
水田稲作技術とともに日本列島へ伝来したと考えられる。」
[佐々木高明著『日本誕生』(集英社、1991年刊)]
石寨山古墓出土の青銅製の家は、横からみたとき、屋根が上にひろがっているようにみえる
[上の「写真(1)中国・雲南省石寨山」参照]。このような特徴のある家の形は、
どこかでみたような記憶があるであろう。
そう、わが国の銅鐸や鏡の上に、これに似た形の家が描かれている。
また、似たような形をした家形埴輪が出土している。
このようなタイプの建物は、「干欄式建物」による建物である。(「干欄」は「欄干」と同じで、
「てすり」のこと。)
「干欄式建築」については、『世界考古学事典、上』(平凡社、1979年刊)に、
つぎのように説明されている。 ・干欄式建築(かんらんしきけんちく)について
中国の古典に記載されている高床式建築 新石器時代以後現代にいたるまで、
長江流域および江南の諸地域、東南アジア、日本などに広く分布している。
《梁書》林邑国伝(りんゆうこくでん)、《北史》蛮獠伝(ばんろうでん)《唐書》南蛮伝などに、
干蘭・干欄・高欄・閣欄、葛欄の用語がみられるが、その建築様式を示すと
考えられるいくつかの遺物が知られる。雲南石寨山(せきさいざん)出土の
青銅製貯貝器(ちょばいき)[宝物または貨幣とされた子安貝をいれる容器]
蓋(ふた)上にみられる建造物は、長方形の高床式建築で、壁はなく、
二本の円柱が切妻造りの屋根を支え、前端に梯子が付く。
広東・広西・湖南・四川・貴州省などの後漢墓からは、高床式建築の明器(めいき)
[墓の中に埋めるために特製した器物]が出土する。干欄式建築を描いた画象としては、
石寨山出土の貯貝器の腰部(胴体の曲った部分)画象や、
日本の香川県発見とされる銅鐸の画象、奈良県佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡の
高床式建築の例が知られる。湖北省圻春県(きしゅんけん)毛家嘴(もうかすい)の
西周の遺跡では、二列または三列に配列された柱、木板、木製梯子を有する
高床建築の遺構が発見されている。
日本においても静岡県登呂遺跡で高床式建築址と考えられる遺構が発見されている。
[文献 安志敏(あんしびん)(『考古学報』1963-2)。(飯島武次)] 「干欄式建築」ということばを、広く「高床式建築」一般の意味で用いているように
みえる論文もある。
しかし、論文「”干欄”式建築的考古研究」(『考古学報』1963年第2期)をあらわした
安志敏氏は、「干欄式建築の基本特徴」としてつぎのようなものをあげている。
@「長脊短檐(ちょうせきたんえん)[長い脊(せ)、短い檐(ひさし)」の屋頂。
A大きな柱を土中にうちこんでたて、高床にする[摏柱的底架(とうちゅうてきていか)]。
そして、安志敏氏は、これらは濃厚に、地域的色彩をもち、黄河流域の建築と、
風格が異なっているとのべている。
安志敏氏はいう。
「周や漢の時期いたって、この種の建築様式は、長江流域およびそれ以南の地区の
いくつかの地点の建築において、なお、一定ていど保持された。
中原文化のたえざる影響によって、しだいに改変され焼失していったものである。」
安志敏氏は、また、つぎのようにものべる。
「干欄式建築は、湿潤な沼沢地区に適している。」 ・照葉樹林文化と重なりあう
以上のようにみてくるとき、思いおこされるのは、「照葉樹林文化」という文化概念である。
照葉樹林というのは、カシ、シイ、クスノキ、ツバキ、サザンカなどを代表する
常緑広葉樹を主とする樹林である。さきのような照葉樹では、葉が比較的厚く、
テラテラとした光沢がある。
照葉樹林文化は、共通の文化的要素によって特徴づけられる。
イモ類、アワ、ヒエ、キビなどの雑穀類の栽培、稲作、絹の製造などを大きな特徴とする。
モチやナットウ、スシを食べ、絹や、漆(うるし)を利用する。麹(こうじ)で酒をつくり、
高床の家にすむ。歌垣(うたがき)や鵜飼の習俗がある。 照葉樹林文化は、ヒマラヤ山麓から東南アジア北部山地、南中国、日本西部にかけての
東アジアの温暖帯に分布する。
国立民族学博物館の館長などであった佐々木高明は、その著『照葉樹林文化とは何か』
(中央公論新社、中公新書、2007年刊)のなかで、
「照葉樹林文化のセンターと想定される地帯」として、地図のような「東亜半月孤」を示している。
佐々木高明によれば、この「東亜半月孤」は、
「雲南高地を中心に、ブータン・アッサムから中国の湖南省に至る。」という。
下の地図をみれば、石寨山の近くの昆明などが、「東亜半月孤」の、
ばぼ中心の位置にあることがわかる。 なお、『後漢書』の「西南夷伝」を読むと、つぎのような表現がある。
「[日南(現在のヴェトナム領)の南の黄支国(こうしこく)では、]長幼の別なく、
項髻徒跣(こうけいとせん)し[髻(もとどり)を項(うなじ)のうえにつくり、はだしで)、
布をもって頭に貫いて、これを著(き)る。」
「[哀牢(あいろう)の夷人(現在の、雲南省西南部地方に国をたてていた民族)の
邑(むら)の豪(かしら)は、]歳ごとに、貫頭衣二領などをさしだしそれを賦(みつぎもの)とした。」
これは、『魏志倭人伝』に、
「(倭人の)作った衣は一枚の布のようで、その中をうがち(まん中に穴をあけて)
頭をつらぬいてこれを衣(き)る(中央貫頭衣)。」と、
いわゆる「貫頭衣」のことが記されているのと通じている。 >>101-110
朝鮮半島から高床式倉庫跡の遺跡は発見されまくってるんだが何か?
高床式倉庫とは言わず、棟持柱建物と呼ばれている。
日本へは松菊里型住居とセットで伝わったんだから中国なんか出る幕なし!
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡 1 棟,扶餘松菊里遺跡 1 棟,公州新影里遺跡 1 棟,晋州大坪里玉房 1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物 7 棟,最後に三国時代の百済泗沘期に属する扶餘軍守里遺跡から 1 棟が発掘されている。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/
pdf/185002.pdf&ved=2ahUKEwizmeyy2P3lAhXYc94KHTcqCf8QFjANegQIAx
AB&usg=AOvVaw1KPYmO6y46lXJIRGBNPz0z&cshid=1574421515816 韓国からは何にも伝わってない
すべてウラジオストク経由で入ってきている。
まず服装だが、半島人の女は乳だしチョゴリに
袴、日本人女は農村部はもんぺ、都市部は着物
文化的な接点がないことがわかる。 朝鮮女ってご存知あんな顔だから恥も外聞もなかったんだろうかね?
何百年も乳だしチョゴリとかちょっと異常すぎる
普通自分の体大切にしてたら少しずつでもまともに変化するだろーに 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 稲作の起源 (3)日本への渡来ルート
1.陸路により朝鮮半島経由で渡来したとする説
稲作は、揚子江下流から陸路を北上し、朝鮮半島経由で日本にもたらされた。
(寺沢薫氏など、考古学者がおもに主張)
根拠
•朝鮮半島南部と北九州の考古学的遺物が類似している。
•大陸系磨製石器、鉄斧などの金属器、無文土器、支石暮などは、
朝鮮半島南部からの渡来人が、稲作とともにたずさえてきた証拠であると考える。
反論
•もともと日本人の祖先は朝鮮半島南部から北九州に分布していたと見られる。
同じ民族であるから、朝鮮半島南部と北九州の考古学的遺物が
似かよっているのは当然である。
従って、考古学的遺物の類似性をもって、朝鮮半島南部から、
九州に、人や、稲作文化が移動したとみる理由にはならない。
•陸路によるルートでは、盛岡と同じ緯度の遼東半島を通ることになる。
陸奥や陸中に比較的安定した稲作が確立するのは、16世紀であることを考えると、
古代に遼東半島を経由して稲作が伝播したとは考えにくい。 2.海路により中国から渡来したとする説
稲作は、揚子江下流から東シナ海を経由して直接日本にもたらされた。
(佐藤洋一郎氏など、植物学者、農学者がおもに主張)
根拠
•稲のDNA鑑定から、弥生時代の稲は熱帯ジャポニカ米であった。
•アジア各地の栽培種666品種の調査で、日本の水稲にもっとも近い品種は、
華中のジャポニカであった。 松尾孝嶺「栽培稲に関する種生態学的研究」
•岡山県津島遺跡の水田跡でみつかった雑草の種89種は、東南アジアから華中に
懸けて分布する雑草が大半であり、揚子江以北には見られないものが多い。 反論
•揚子江下流域の多様な石包丁のうちの、一部しか日本に伝わっていない。
稲作が直接渡来したなら、石包丁の多様性がそのまま渡来するはずである。
•弥生米の熱帯ジャポニカと、現在残る南島の熱帯ジャポニカやその遺伝子が
同系統である確証がない。
反論への反論
•揚子江下流域は、百越といわれるほど、多種の少数民族が住んでいた。
そのうちの、限られたいくつかの民族が日本に渡来したとすれば、
限られた種類の石包丁しか日本に伝わらなかったことが説明できる。
•朝日新聞(2001.6.23)によると、弥生時代の遺跡、「池上曽根遺跡」と「唐古・鍵遺跡」の
炭化米のDNA分析で、朝鮮半島には存在せず、
中国に広く分布する温帯ジャポニカ米が発見された。
これは、朝鮮経由ではなく、中国から直接日本に稲作が伝わったことを示す
有力な証拠である。 (4) 日本文化の南方的要素
日本の弥生文化の伝統の中には、朝鮮半島とはつながらないが、
中国南部とは、つながると見られるものが少なくない。
鵜飼 可児弘明氏『鵜飼』による。
•日本では、古くから鵜飼が行なわれているが、朝鮮半島に鵜飼がひろまった痕跡はない。
沖縄・台湾にもない。
•鵜飼が古くから行われていたのは、「楚」の国(現在の湖南、湖北)、
および楚と密接な関係を持つ、四川、雲南、広東、広西など、中国南方の地方である。
稲作の故地と地域が重なる。 弥生後期の風俗習慣
大林太良氏『邪馬台国−入墨とポンチョと卑弥呼−』による。
•魏志倭人伝に描かれた倭人の文化は、圧倒的に南方的であり、
特に、江南の古文化と密接な関係にある。
高床建物などは屋根の逆台形がそっくりである。
•倭人伝に現れる貫頭衣は、北方ユーラシアにはほとんど知られておらず、
中国南部から東南アジアに懸けての地域に多い。
•倭人の生活様式に関する記事の大部分は、華南から東南アジアに類例を持つ。
•魏志の中で、倭国が海南島と生物、文化の類似が強調されている。
•『東夷伝』の諸民族のなかで、倭人だけが著しく江南的・東南アジア的な
習俗を持っていると描かれている。 (4) まとめ
考古学的な成果に重点を置いて、稲作が大陸経由で北方から来た
人々によってもたらされたとすると、日本文化の南方性をうまく説明できない。
揚子江下流域の一部の人たちが、戦乱によって大陸から押し出され、
海流に乗って朝鮮半島南部や、北部九州に移ってきた。
稲作はこの人たちによって伝えられた。
とするストーリーは、次に示す民俗学、考古学、植物学、言語学などの
分野のさまざまな知見や、中国古文献、日本の古文献の記述を、
総合的にうまく説明できるように思える。
•日本の水稲にもっとも近い品種は、華中のジャポニカであること。
•古代の水田跡には、南方起源の雑草が生息していたこと。
•朝鮮半島には存在せず、南方起源の遺伝子を持つ稲が日本に存在したこと。
•高床建物などは屋根の逆台形がそっくりである。
•朝鮮半島南部と北部九州の考古学的な遺物の近似性。
•倭人が、朝鮮半島南部と北部九州に住んでいたと言う伝承。
•魏志倭人伝の邪馬台国の習俗が南方的であること。貫頭衣、いれずみ、など。
•中国南方の習俗である鵜飼が、朝鮮には存在せず、日本に伝わっていること。
•戦国時代の「呉」「越」が滅亡した時期に、日本では弥生土器が発生しているように見えること。
•魏略には「倭人は、呉の大伯の末」という記述があること。 ツチムロ (土室)
http://www.sumai.org/asia/archiv/kankai.jpg (この例はアレウト族の物)
http://www.sumai.org/asia/archiv/cook001.jpg
http://www.sumai.org/asia/archiv/cook002.jpg
三国志東夷伝』には、夫餘の東北千余里、大海に接して居住する挹婁ゆうろうの住まいとして、
キャプテン・クックも、中央の尿溜を囲んで数家族が住まうアレウト族の竪穴住居について報じている。
松菊里型住居の中央の凹みはもしかしたら、この中央の尿溜かも。
馬韓のツチムロ (土室)
それに対して馬韓には城郭や屋宇の類はなく、その風俗もいまだ漢化を受ける
以前の韓文化の特徴をとどめていた。
邑落は雑居し、また城郭は無く、土室を作るに、形は冢の如く、
開戸は上に在り(『後漢書』東夷列伝)
冢というのは土を盛った墓のことで、馬韓人の土室は屋根の開口から出入りする
典型的な竪穴住居だった。しかも、室を築くにあたって馬韓には不思議な風習があり、
少年の中で勇気のある者は、背皮に穴を穿ち、太い縄をここに通して、
その先に一丈余りの木を結び、終日大声をあげながらこれを引いても痛がらずに
作業を終えると、健児と認められたという。
北米の大平原インディアンの成年式に類似の風習のあることを三品彰英は指摘している。
夏と冬とで住まいをかえる竪穴住居の生活は唐代に入っても僻地の島では目撃できたらしく、
儋羅の住民は犬や豚の皮をまとい、(倭人の貫頭衣とは違う。北方は獣皮で南方は植物繊維)
夏は草屋に、冬は窟室に居ると、『新唐書』「東夷伝」には記されている。
儋羅とは済州島のことである。 高床を支える柱の柱頭には鼠返しがはめられ、横板の壁面は外に転んでいる。
正面中央に扉があるらしく、床下に梯子、右手に収納物を手にした人物が描かれている。
高句麗八清里古墳。4世紀末〜5世紀初。
http://www.sumai.org/asia/archiv/kokuryo02.jpg
八清里古墳の高倉と同一形式の高倉は、中尊寺金字経見返絵(『大般若経』巻113)にも
描かれているから、中世初期には日本でもこうした高倉を見ることができたのであろう。
http://www.sumai.org/asia/archiv/kinjikyo02.jpg
伽耶家形土器, 慶尚南道 昌原 茶戸里(墓), 5−6C
http://www.sumai.org/asia/archiv/kayadoki02.jpg
漢族の居住地には、この形式の明器が発見されるのに対して、
『三国志』「高句麗伝」にも「桴京」と書かれた方形の倉のほうは、
本来は華南地方に固有のものであった。
http://www.sumai.org/asia/archiv/kanmeiki01.jpg
http://www.sumai.org/asia/archiv/kanmeiki02.jpg
干蘭式建築 貯貝器の上の高床建築(雲南石寨山出土)
http://www.sumai.org/asia/archiv/shizhaishan02.jpg
舟形屋根 宮崎県西都原古墳出土、5世紀。
弥生、古墳時代の家屋を特徴づけるのは、妻先の転んだ長大な屋根である。
家形埴輪にも表現されるこのような屋根形態は、雲南の石寨山文化や
東南アジアのドンソン文化にも共通してあらわれ、現在でもインドネシアを経て
ミクロネシアやメラネシアの島々で利用されている。
http://www.sumai.org/asia/archiv/saitobaru.jpg 済州島の古名は「耽羅」というが、
これは済州島にある漢撃山の原名の「頭無岳(円山)」による名称であり、
「耽羅」は「乇羅」「耽牟羅」「屯羅」「タン羅」などとも書かれているが。
それらはみな「ツム」十「ラ」、を表記したものである。
馬韓のツチムロ (土室・穴居)
それに対して馬韓には城郭や屋宇(家屋)の類はなく洞窟(明洞)などを住居とし、
その風俗もいまだ漢化を受ける以前の韓文化の特徴をとどめていた。
邑落は雑居し、また城郭は無く、土室を作るに、形は冢の如く、
開戸は上に在り(『後漢書』東夷列伝)
耽羅の住民は犬や豚の皮をまとい、夏は草屋に、冬は窟室に居ると、
『新唐書』「東夷伝」には記されている。
(倭人の貫頭衣とは違い、北方民族は獣の皮衣で南方民族は植物繊維の衣) 稲作は最古水田菜畑に伝わった日本最古のイネの粒種と日本最古の耕作用農具を
見れば朝鮮半島から伝わったものである事などは歴然。
問題は、その最古水田菜畑に稲作を伝えた集団が一切朝鮮土器を作らない集団だった
という事だ。
彼らが作っていた土器。
それは最古水田が登場する50年以上前の縄文末に出雲あたりに登場する最古の
弥生土器だった。
そして、その土器は当時の沿海州南部と特徴が一致する土器だったという事だ。 弥生人は中国の織物技術を持っていなかった。
弥生人が織れる最大の生地は縦横30cmほどの幅のハンカチほどの生地だった。
それをつなぎ合わせて服を作っていた。
5000年以上前から漢服がある、進んだ織物技術のあった中国から来ている訳がないね。 あの広い中国を一括りで「中国では」と簡単に言い過ぎ
漢服なんて弥生末期頃の話
北部と南部、では文明が違うほどで
越系民族でも百越と云うように百以上の部族に色分けされて文化もかなり違う .
漢服は紀元前26世紀の黄帝の「衣冠創製・垂衣而治」から始め、
17世紀の明王朝の滅びまで、中断も無く4100年間に続いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/漢服
. 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 夫婦石遺跡(みょうといしいせき) 所在地 対馬市上県町久原シケノ脇
鹿見湾(ししみわん)入り口の海岸に位置する。1988年と1993年の調査によって
15層の堆積層が確認された。11、12層から韓国櫛目文土器、隆起文土器が出土し、
より深い13層からは日本の曽畑式土器が出土しているなど、
日本と韓国の新石器時代土器の対比を研究する上で重要な遺跡である。 釜山市影島の東三洞貝塚は、朝鮮半島南部の新石器時代の櫛目文土器文化を
代表する遺跡であるが、その出土をみると、
日本の縄文時代の土器と思われるものがあわせて出土している。
最下層の隆起文土器(前期の櫛目文土器)とともに、九州西北部の縄文前期の轟式。
塞の神式・曽畑式に属する土器が出土しているし、中間の層からは櫛目文土器を
代表する短線列文・斜格子文。綾杉文など幾何学的文様を刻んだ尖底深鉢とともに、
縄文中期の阿高式土器が出土する。
さらに上層からは櫛目文土器の後期にあたる二重回縁。
無文の平底土器などとともに、縄文後期の西平式や鐘ケ崎系土器が出土する。 大阪市立東洋陶磁美術館名誉館長の伊藤郁太郎の見解として、
「1969年から1971年にかけて、東三洞貝塚での櫛目文土器の下層から、
尖底・円低無文土器や平低流線文土器が発見され、先櫛目文土器と名付けられた。
これらの土器は、東三洞の他、慶尚南道真岩里や咸鏡北道西浦項貝塚
などからも発見されており、
最古の土器文化が広い地域にまたがっていたことが推測される。
それらの中に含まれていた豆粒文土器が、日本の長崎県泉福寺洞窟遺跡や福井洞穴
などから発見される豆粒文土器と類似している」と長浜浩明は紹介している。
豆粒文土器とは12000年前の世界一古い土器です。 また長浜は、東三洞の対岸にある対馬の腰高遺跡からは7000年前の隆起文土器が
発掘されており、そこを経由して半島へ移り住んでいったことが想像され、
縄文人が7000年前から無人の朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出していたと述べている。
さらに長浜は、朝鮮半島南部の煙台島貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は
縄文人の特徴と多くの点で一致しており、韓国人とは似ても似つかぬ形態であり、
最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという考古学からの
推論が、形態人類学によって裏付けられた、と述べており、
また、朝鮮半島南部の勒島から弥生時代中期(紀元前300年)と推定される
73基に及ぶ墓が見つかり、甕棺墓や北部九州の弥生土器の出土、
骨格の特徴や抜歯風習などから西北九州と密接な関係を示唆しているので、
北部九州からやってきた人々か、その子孫が住んでいた遺跡であると述べている。 同様に、金両基監修、姜徳相、鄭早苗、中山清隆編集の『韓国の歴史』によると、
旧石器時代人は現在の韓(朝鮮)民族の直接の先祖ではなく、
直接の先祖は紀元前約2000年前の新石器時代人からと推定されている。
紀元前4000年頃に櫛目文土器が出現する。櫛目文土器の最古のものは
遼河地域の興隆窪文化(紀元前6200年-紀元前5400年)の遺跡で発見されていることから、
遼河文明の担い手であるウラル系民族(ハプログループN (Y染色体))が
朝鮮に櫛目文土器をもたらしたことが考えられる。
朝鮮民族にはハプログループN (Y染色体)が一定数見られることから、
朝鮮民族の基層にウラル系民族がある可能性が考えられる。
(紀元前4000年頃から南部・西部で陸での稲作が始まったとする主張もあるが、
証拠となる物は見つかっていない。)
一方で、長浜は、櫛目文土器は九州の曽畑式土器(縄文前期)そのものであると述べている。 東三洞貝塚は3つの文化層からなり、最下層の1期層からは、隆起文・押引文・無文土器や
磨製石器が、2期層からは櫛目文土器や黒曜石が、
3期層からは無文平底土器が発掘されており、櫛目文土器にまじって九州の縄文土器片や、
西北九州型の釣針・黒曜石が出している。
東三洞貝塚で大量の縄文土器と九州産黒曜石が出土しており、
縄文人がやってきた確かな証拠といえる。
朝鮮半島では銛や鏃に最適な黒曜石が産出されない 。
紀元前1500年頃から無文土器が出現し同時に支石墓が多数建造されるようになる。
これに先駆けて紀元前2000年から紀元前1500年頃、朝鮮半島より北方の遼河流域から
北朝鮮にかけての夏家店下層文化で、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現しており、
これらが北方から流入した可能性を示唆している。 山海経には、紀元前1000年から前300年の朝鮮半島の様子が
「蓋国は鉅燕の南にあり、それは倭の北であり、また倭は燕に属している」とあり、
燕は遼東半島から南満洲辺りを指し、その南の蓋国とは北朝鮮辺りと考えられ、
今の韓国辺りは縄文人の子孫である倭人が住んでいた。
紀元前100年頃から水稲栽培が開始される。
水稲の栽培は中国から北方周りの陸伝いではなく、
海を越えて半島南西部にもたらされたというのが定説となっている。
この水稲文化をもたらしたのはハプログループO1b2 (Y染色体)の集団と考える学者もいる。 朝鮮半島最古のイネの出土は中西部の漢江下流域だぞ。
朝鮮半島は中国土器遺構が皆無ゆえ、中国から直接入ったとは考えにくい。
古代朝鮮半島の文化はほとんど全部、遼東半島経由で入っている。
やはり稲作も遼東半島経由で漢江下流域に搬入されたと考えるのが一番可能性が高い。 >>141-147
読む価値なし
縄文土器、弥生土器の出土はあっても、在地産の縄文土器、弥生土器ってのが
半島にはないんだわ。
それに半島の驪N文土器は九州系じゃなくて済州島系だよ。
済州島には九州から伝わってるがな。
それに曽畑式土器は半島の櫛目文土器の影響を受けた縄文土器なんだから
櫛目文土器に似てるのは当たり前の話。 7500年前に半島に済州島から隆起文土器が伝わったとき、
九州はもう隆起文土器の時代じゃないぞ。
だから半島の隆起文土器は九州系じゃないんだわ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >縄文人はね、約7000年前に爪形文土器を引っ提げて、琉球列島の宮古島まで
>自由に行き来出来た人種で、朝鮮半島の北部までも貝殻や黒曜石を
>交易に出かけた人たち、半島南部なんて7000年前からなんて朝飯まえだよ
>東シナ海を行き来するのは、殷の宝貝時代から慣れた航海なのかもな。
現在沖縄諸島で確認されている最古の土器は、今から約7000年前の爪形文土器で、
その源流は九州縄文文化である。この爪形文土器に伴う石器は、大型の打製または
局部磨製の特徴的な石斧であり、貝製鏃なども見られる。
爪形文土器は藪地(やぶち:沖縄本島南部藪地島)洞窟遺跡で最初に出土、
渡具知東原(とぐちあがりばる:沖縄本島読谷村)
遺跡でその古さ、時期が初めて確認されたものである。
先島諸島の弥生時代に相当する遺跡は海岸砂丘地に多く、
出土品から九州や中国と交易していた(鉄製の釘、開元通宝など)ことが分かっている。
http://inoues.net/ruins/tume.gif
東アジアにおける琉球列島産貝殻の分布範囲 (朝鮮北部まで交易)
http://science-2ch.net/wp-content/uploads/2015/07/UtKvbTvv.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/revival_noudo-revival_noudo/imgs/b/a/ba60ce64.jpg
日本と韓国の結合式釣針の分布
http://science-2ch.net/wp-content/uploads/2015/07/OHhka6OL.jpg >>154
弥生の高床式倉庫が雲南やら長江から伝わったなら、住居利用するはずだろ。
住んでませんので。
弥生の高床式倉庫は弥生早期に松菊里型住居とセットで江辻遺跡に伝わっている。
あちらでは棟持柱建物な。 江南は7000年前の河姆渡遺跡の時代からすでに甑が存在しており、米を炊飯するにも
鼎や釜竈で煮て炊く方法だけでなく、甑で蒸して炊いて食べる事もしていた。
ところが日本には鼎や釜竈がないのはもちろん、弥生晩期の3Cまで甑がなく、
それまで弥生人たちは米を蒸して食べる事を知らなかったのだ。
稲作が長江江南、中国からなんて2億%ない。
弥生人が長江江南、中国なんて2億%あり得ません。 「魏志倭人伝」「有無する所 擔耳・朱崖 と同じ」
「後漢書倭伝」に「朱崖・擔耳に相い近し」
当時の中国人使節や帯方郡の役人が倭人の生活、風俗は
「朱崖・擔耳」=今の海南島と同じじゃねと、印象持ってるんだから、
南越人たちと風俗・文化が似てたんだろ。 >>155
高床式建物が倉庫だったのか住居とか使用目的は関係ない、
ようは長江地域の干欄式と云われる逆台形の屋根のデザインが
弥生銅鐸、家屋文鏡や古墳埴輪の屋根のデザインと同じでしょと言ってるの。 >>157
高床式住居 or 土壁の戸建てに住んで、米を越式鼎で炊いたり、
甑で蒸したりして食べていた南越人と何が似てるの?
>>158
松菊里型住居と高床式住居 or 土壁の戸建てのどこが同じなの? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 稲作は日本独自のもの
弥生人は牧畜民族なのでウラジオストクから
やってきた >まだ越人は全員、越式鼎で炊飯してると思ってるのか??
>南越、閩越ビンエツ、人たちは陶支足(日本では土製支脚)
>陶釜に足を(五徳の様に付けて)使った炊飯方法が7000年前からされてるんだぞ。
中国南部.から大量に出土する百越人たちが使ってた支脚足付き縄文土器。
越人哀歌——重寫一個「魯蛇」歷史的可能性(下)
https://image4.thenewslens.com/2017/7/v79367rhcfos99011y5b1r8cle1cet.png?auto=compress&q=80&w=750
圖七:武夷山城村遺址出土的閩越國的主要炊器釜以及,陶支足 (日本では土製支脚)。
https://image1.thenewslens.com/2017/7/vr3oa6frff2wybwzqj2eolbm10tku3.png?auto=compress&q=80&w=750
圖八: A:湖北宜都城背溪遺址出土的陶釜。
B:湖北宜昌柳林溪遺址出土的陶支足(ca. 7,000 BCE) (7000年前の支脚足付き陶釜)。
釜搭配陶支足有很悠久的歷史,在嶺南地區更是綿延不斷。
https://image1.thenewslens.com/2017/7/o9wwz30z1oo95upgjcqssetxl7bnsy.png?auto=compress&q=80&w=750
圖十:釜(左):越南紅河流域東山文化陶釜 。
鼎(中):河南鄭州大河村遺址出土,新石器時代中期陶鼎。
鬲(右):河南鄭州商城出土,早商文化陶鬲。鬲具有三個空的袋足。
https://image1.thenewslens.com/2017/7/uskeocp5hin4223pko7i6ml1jupj1m.png?auto=compress&q=80&w=750
圖十二:湖南永州市東安縣南溪村做果山遺址出土陶釜以及陶支足(ca. 1,500-500 BCE)。
湖南與湖北山區陶釜與陶支足傳統起源於6,000 BCE,一直延續下來。
https://image4.thenewslens.com/2017/7/8mrf13dugbsrsa92cb2jrr8524ahfq.png?auto=compress&q=80&w=750
圖十三:越南出土的陶釜與陶支足。
圖A:越南永福省永祥縣義立遺址出土馮原文化陶釜與陶支足(ca. 1,700-1,500 BCE)。
圖B:越南永福省弄和遺址出土馮原文化陶釜與陶支足(ca. 2,000 BCE)。
圖C:越南紅河流域採集東山文化陶釜與陶支足(ca. 500-0 BCE)。
馬橋遺址出土文物
https://www.itsfun.com.tw/cacheimg/57/41/ee1ec1283cf04a6257a073c4f3f3.jpg >>159
赤飯食べたこと無いんだろ、あれ蒸し米だぞ、古代では赤米を蒸したらしいが、
それと、古代から有る、酒や餅は蒸し米から作るんだぞ。
最古のおにぎりは、お米を炊いたのではなく、蒸してから焼いたものらしい、
すごいですね、炭化した米が出てきているだけなのに、
それを炊いたのではなく蒸したものだとデンプンの化学分析からの結果。
つまり、縄文人の中にもたらされた食べ方なら、米を炊いたのでしょうが、
稲作文化を伝えた純粋弥生人達は米を炊くのではなく、蒸して食べたということです。 この松菊里型住居は、
縄文時代 後・晩期に西日本一帯でしばしば見られる円形プランの住居跡とともに、
弥生時代前期から中期にかけて主流となる円形住居の祖形となったと考えられている。
九州の縄文住居で,これまで松菊里型住居と呼んできたような住居跡が
たくさん報告されたのです。
それも,従来言われていたよりも古い,縄文後期とかの例が。
先日,やっと資料集を入手した…う〜ん,ホントに載ってますねぇ。
こんなに古いと,朝鮮半島の松菊里型住居よりも古くなるんですが……。
江辻(えつじ)遺跡第4地点出土品
http://www.town.kasuya.fukuoka.jp/chiiki/rekishi/shiteibunkazai/yukeibunkazai/images/etsuji.jpg
中央の土坑の機能については、作業場・炉・屋内に漏れた水を貯める場所など、
様々な説があるがはっきりしない。
日本では、弥生早期の北部九州に現れ、前期に水稲とともに西日本に広がり、中期で姿を消した。
日本での最古は、板付遺跡に近い「江辻遺跡」のもので、
二重に廻った環濠の中の11軒の住居跡は、全て松菊里型住居だった。
朝鮮半島では、南部の広い地域で見られる。
前回も書いたが、名前に「松菊里」とあっても松菊里遺跡が起源という訳ではない。
松菊里型住居が半島のどこで生まれたか分かっていない。
松菊里遺跡周辺かも知れないし、全く別の場所かも知れない。 >>162
でも3000年前は越式鼎が主流で土製支脚&釜は下火だろ。
>>163-164
甑も土製支脚も弥生末の3Cにならないと日本には登場しないんだから、
それまで弥生人たちが米を蒸して食べる事を知らなかった点は変わらないね。
>>165
日本には松菊里型住居への進化過程なく、完成形で江辻遺跡に高床式倉庫とセットで
突如登場してくるだろ。
だから日本の方が古くても、起源はあちらだろうな。 >縄文時代晩期の黒川式期に松菊里型住居と一致するんだよな
>黒川式新段階の江辻遺跡、江辻遺跡と菜畑遺跡に共通する模様の「彩文」の存在。
>黒川式と云えば器の上部にリボンのような飾りと貝殻で引っ掻いたような模様。
>石器は松菊里のような磨製じゃなく古いタイプの打製石器が多い。
>江辻遺跡が半島南部からの渡来民なら磨製や青銅器が出ても可笑しくないんだよな。
縄文時代晩期の主に九州地域の竪穴住居を集成・分析し、
縄文時代晩期の黒川式期の松丸D遺跡住居においても
松菊里型住居が存在することを指摘している。 王族や領主/豪族らは高床式神殿建築に住居しました。
その当時の王宮殿がほぼそのまま伝承保全されているのが
松江の大庭の神魂神社の本殿。
出雲王国時代の王宮殿そのままらしい
民衆は竪穴式住居 >>168
王族や豪族が大社造や神明造に住むようになったのは弥生後期以降の話だろ。
江辻遺跡に高床式倉庫が伝わって500年以上もの間は住居利用されていない。
卑弥呼の宮殿は間違いなく大社造や神明造だろうけど。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 中国は7000年前の河姆渡遺跡の時代から甑で穀物を蒸して食べる事をしていた。
ところが日本は3Cになるまで甑がなく、それまで穀物を蒸して食べる事を知らなかった。
その差、約5000年。
中国から稲作も弥生人もあり得なさすぎる。 言語系統
朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する
言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]
これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語話者
(濊ワイ・貊ハク)は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、
その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、
朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わって行ったとされ、
またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が
弥生人の祖の一系統であるとされる。
この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期には諸説ある。John Whitmanや宮本一夫らは半島南部に移住した日本語族話者が
弥生土器につながる無文土器時代の末まで存続し、
琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に
朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9]
一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が
南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では
日本語族話者が存在していたとする、後の任那の日本府である。[5] 朝鮮・無文土器時代は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。
紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、
表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。
朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。
時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。
特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化圏的要素が見られる。
葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、
石槨墓や甕棺墓が見出されている。
無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。
紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての
夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。
とくに渤海湾、黄海沿いの半島・沿岸地域に多く、海洋民が関わってる可能性がある。 >半島南部全域にある松菊里型住居跡が20カ所ほどで北部九州、福岡、佐賀、2県での
>2県での松菊里型住居跡が30か所ほどの内1カ所の江辻遺跡だけで11件の松菊里式、
>西日本だけで50カ所ほど出土しており、江辻遺跡などは松菊里より200年ほど古い、
>これはどう考えても北部九州人の半島開拓団縄文人と弥生先祖たちのコラボ住居跡だろ。
http://blogthumb2.naver.net/20130527_85/marich77_1369622460147lzR3N_JPEG/1254.jpg?type=w2
江辻(えつじ)遺跡第4地点出土品(リボン付き、黒川式土器)
http://www.town.kasuya.fukuoka.jp/chiiki/rekishi/shiteibunkazai/yukeibunkazai/images/etsuji.jpg
炭素14年代の較正にもとづく弥生時代の実年代
http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/yayoi/nenpyou.jpg >そう云えば燕の『山海経』海内北経に、面白い話が記録されてるな。
燕(えん、紀元前1100年頃 - 紀元前222年)は、中国の周代、春秋時代、
戦国時代にわたって存在した国。
『山海経』海内北経に、「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕。」という一節がある。
蓋国(これがワイ・狛人の国だろ「蓋馬高原」なども有る)の位置について述べた文がある、
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。 「山海経」
とあり倭の北には蓋国がありとあるから半島南部には倭と云った集団が居たのだろう。 >>173-174
南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖の一系統である
とされるなら、何で朝鮮無文土器が弥生開始土器になってないの?
何で朝鮮無文土器がメインの朝鮮無文土器遺構が弥生を通じてほとんどないの?
>>175
江辻遺跡の土器から見れば、沿海州南部から渡来定着した弥生人の子孫たちの
住居だとしか言えないね。
だいたい、その写真の土器は黒川式と違うんだが、目が悪いのか?
それこそ弥生開始期の刻目突帯文土器だぞ。
土器の口縁部をよく見ろよ。
http://www.town.kasuya.fukuoka.jp/chiiki/rekishi/shiteibunkazai/yukeibunkazai/images/etsuji.jpg
日本には松菊里型住居への進化過程がない。
突如として完成形で高床式倉庫(棟持柱建物)とセットで江辻遺跡に登場している。
ともに開発過程がありませんから、たとえ日本の方が古くても起源はあちらだろうね。
>>177
朝鮮無文土器と弥生土器はあんまり似てないんだが。
で、朝鮮半島と日本列島における中国大陸から渡来定着した痕跡遺構は? >>178
ホラ吹きは華南ニグロブタの始まり
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 「 土地は湿地多く、虫けらどもの群がり生じ、瘴気のたちこめた風土。
蛙と亀は穴を共にし、人と鳥は群れを同じくしておる。
ざんばら髪の君には長者の相なく、入墨(いれずみ)の民は貧相な体つき呉人の亡者、
建康(今の南京)に住まいし、ちっぽけな冠帽に、ちんちくりんの着物。
おのれを阿イ農(人ベンに農オイラ)と言ふた言めには阿(オ、オ、返事の相槌)の連発。
菰(まこも)の芽と稗(ひえ)が代用飯、茶が飲物代わり。
じゅんさいの羹(あつもの)をガブガブ、蟹の黄(こ)をクチャクチャ。
手には豆寇(クサ冠に豆寇・ずく)をつかみ、口にはビンロウを噛む。
中州のところで、魚に網うち、すっぽん掬い、菱の実、蓮の根(レンコン)にかじりつき、
鶏頭(みずふき)フキを採り歩いて、蛙やアサリの吸い物のご馳走。 」
* 5世紀中国の東魏の楊衒之が撰した「洛陽伽藍記」より *
華北出身の楊元慎が、江南出身の高官張景仁を罵り、批判した言葉です、
まるで現在の日本人が、批判されてる様な気に成りませんか、どれも美味う!!! 日本人には高級食材ばかりだがな
それに日本人はビンロウ噛まんぜ それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 北九州にインド系の土器が出たことがあったような気がする
海経由か 古墳時代に入ると朝貢していた魏の後釜の晋が鮮卑の侵略で南朝になり、
このとき倭人は初めて長江まで渡った。
永らく南朝に朝貢していたが、中国皇帝に見返りとして服飾職人を求め、
下賜された兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の
4人の女性職人を連れ帰った。
これがきものや呉服の始まりで、彼女たちが初めての中国からの帰化人だと思われる。
奈良時代になるとさらに国際交流が活発化し、奈良の大仏の開眼式にはインドの僧も訪れた。
このときには中国に入ってきた東ローマのガラス製品やインドの琵琶や陶磁器なども
少なからず倭に搬入されていた事だろう。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 さすがにそれはねえわ
半島最古のイネの現物はBC20C以上前の漢江下流域出土のもの
日本最古のイネの現物はBC10Cの菜畑遺跡出土のもの
半島最古の水田遺構はBC11Cのオクキョン遺跡
日本最古の水田遺構はBC10C年の菜畑遺跡 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています