■■■フルトヴェングラー34■■■
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
フルベンなんて時代遅れもいいところだろ
いいかげんに糞スレなど立てるなよ
レコ芸のカス批評家に洗脳されたバカ野郎めが BISバイロイト第九
結局、音の悪いセンター盤というオチ? 前スレ
>>1000
>次は「マタイ受難曲」3枚組を聞かなければならないのか
これは、なにげにビックリの情報
95年に発売されたEMIの正規盤はCD2枚だった
そのため、収録時間の関係で2曲(第65曲、第66曲)がカットされた、
しかしながら、一方でCETRA系の音源にはこの2曲は収録され、
かわりに、第64曲がカットされていたのはご存じの通り
今回、EMIは3枚セットにすることで、
このカット(第64〜66曲)を完全収録、やっと
正規盤で全曲が聴けることになったわけだ
こんなことで、いちいち喜ぶマニアは少ないと思うが、
私には小さな驚きだった 情報ありがとう >>6 解説書によると、4日分のライブ録音のテープがEMIに保管されていて、今回新たに編集したらしい。4回分のテープがあったのに初出の際に何故その2曲をカットしたのかは謎だな。 BISバイロイト第九
発売まであと9日
発売が早くて価格が安い方を予約してあるけど
12月10日発売に付いてくる日本語解説も気になる… BIS盤の素顔のバイロイトを聴いて安心した上で
結局の所、半世紀に渡って愛した化粧を施したEMI盤を
引き続き愛する事になるんだろうなと想像する BISの会長が「音の状態は悪くない。思ったより良好」として、
わざわざ、SACDハイブリッドでの発売を即決したというから、
音質面では期待して良いかもしれない ひょっとしたら、
EMI正規盤と音質で互角の勝負ができるかもしれない
もしそうなれば、これはまさかの大事件になる そういうことってあるよね
ラジオ放送をラジカセで録音して気に入って何度も聴いた曲が元のCDやレコードだとなんか素っ気なく感じたりするの
そんなのは薄化粧でも何でもなくて曇りガラスみたいなもんだけどね
私は「セーラー服と機関銃」などで経験した
生音に近いとか解像度が高いのはまあ重要なことだとは思うけど
だから必ずしも魅力的かというと違うんだよねえ
録音の魅力は生演奏の魅力とは異質なものだよ 1951のものが良かった場合は1954を探して欲しい。
わりと最近のOrfeoのものでも満足はしていますが。 私は当日ライヴ(と呼ばれているもの)はオルフェオ盤しか聴いたことがないんだが、
この盤は、音の大きさの基準が一定していないように感じられる。例えば第4楽章の
歓喜主題が初めて出てくるallegro assaiの部分の、チェロとコントラバスだけが演奏
している所の次の「その他の楽器が初めて加わった所」の音は、ちょっと大きすぎる。
また逆に、2重フーガの部分などは音が小さく、聴いていてもどかしい。
これが「録音(収音)レベルの不安定さ」に起因しているものなのかどうかは分からない。
しかしBIS盤でも同じ傾向があるのなら、そういうことなのだと推察される。 55枚組のうち、CD41〜43、バッハ「マタイ受難曲」を聞きました。
音質はあまり良くありません。
開始早々、テープの状態があまり良くないことに気づきます。
バランスも、合唱とオケとオルガンがマイクに入ってこない一方、ソロとチェンバロはうるさすぎ、ことにソロは時々音が割れます。
演奏も、通り一遍、通しでやってみました、という程度で、これなら何もフルトヴェングラーが振る必要はありません。
編成についても問題があります。
リヒター盤ではあれだけ盛大に聞こえたオルガンが、本盤ではほとんど申し訳程度しか聞こえません。
なぜなのか、色々調べてみたら、この曲は本来オルガンが2台必要なようです。
ブックレットを見ると、本盤はウィーン・コンツェルトハウスの大ホールで収録されたライブです。
おそらくホールにオルガンが1台しか無かったのでしょう、2台目のオルガンをチェンバロに替えて演奏した結果が本演奏と思われます。
次は「トリスタンとイゾルデ」の4枚組です。これを聞かなきゃならないのか。かなりの難行苦行なので、また少し時間を頂くかもしれません。 >>24
>これを聞かなきゃならないのか。
>かなりの難行苦行なので、また少し
>時間を頂くかもしれません。
おつかれさまです。毎度、楽しみにしています
トリスタンは徳岡さんも、リマスタには微妙な評価でした
あまり、期待されない方が良いと思います >>24
ほんと、対訳みながら聴いた?
流しただけダロ
この人のやり口には、常に中身のなさがある。
自分の主張をするために、聴いたふりをする。
違っていたら、ゴメン。そういう風にとられるかも知れないから、気をつけて。 フルヴェンはマタイをトリスタンに匹敵する劇的な音楽だと評価してる。
一方では、演奏形態は簡素なほうが良いとも言ってた。
ウィーンフィルでは魔弾やマタイなど、現地ではあまり好まれない演目を
フルヴェンはあえてステージに載せてくる傾向があり
彼なりのドイツ音楽の系統図を改めて整理する必要があると思う。 バッハモーツァルトベートーヴェンブラームスワーグナー自分と連なるゲルマン音楽に共通のゲルマン魂を何より大事にした
だからマタイもドンジョバンニも第九もドイツレクイエムもトリスタンも同じスタイル しかしキングレコードの担当者さんは
いつになればミュンヘン放送を訂正するんだろう? Bavarian Radio, Munich
and
Swedish Radio
という事? チャイコ悲愴
GHA restoreはクソだな
恥ずかしいレベルのリマスタ
博士号でも音のセンスなし
悲惨 ドイツの地理になんぼ疎くてもバウァリアとバイエルンとミュンヘンとバイロイトがどういう関係かくらいのことを知っとかないと
バイロイト戦後復帰公演でフルヴェンが第九を振った意義というものがわからなくなる
バイロイトの第九の精神性をうんぬんするなら知らなかったとは言ってほしくない >>34
頭デッカチの人間にセンス求めちゃいかんよ。
技術者なんてほとんどそうじゃん。 >>26
私は、対訳を見ながら聞く聞き方と、対訳を見ずに聞く聞き方を、併用しています。
対訳を見ながら聞くと、歌詞の内容は頭に入ってきますが、音楽の緩急や強弱の表現法が耳に入って来ないのが欠点です。
対訳を見ずに聞くと、音楽性は聞こえてきますが、何を言っているか分からないのが欠点です。
ベートーヴェンの9番のように歌詞を暗記するほど聞き、何を言っているのか分からない所が無い曲は、対訳を見ません。
同様に、何度か対訳を見ながら聞いて、「どこで何を言っているのかほぼ分かっている」曲も対訳を見ません。
また、一度対訳を見ながら聞いて、次に聞くときはもっぱら音楽の表現法を耳に入れたいときも、対訳は邪魔になるので見ません。
これに対し、初めてその曲を聞くときは、必ず対訳を見ます。さもないと何やら声がうねっているだけだからです。
2回目、3回目のように、どこで何を言っているのかまだ呑み込めていないときも、対訳を見ながら聞きます。
久しぶりで聞く曲で、そろそろ何を言っているか忘れかけているときも、対訳を見るようにしています。
(次レスに続く) (>>39より続く)
>>26
前回の「マタイ受難曲」は、ご指摘の通り対訳を見ずに聞きました。
しかしそれは「流しただけ」ではなく、リヒター盤やガーディナー盤を何度も聞いて、どこで何を言っているのか、大体頭に入っているからです。
(話が横にそれますが、私はマタイ受難曲の歌詞があまり好きではありません。内容が反ユダヤ的だからです。)
今、邪道ではありますが、「トリスタンとイゾルデ」を短時間ブツ切りで、対訳(従来盤の付属リブレット)を見ながら聞き進めています。
対訳を見ながら聞いた後、対訳を見ずにもう一度聞くつもりなので、もうしばらく時間を頂きます。
こう何枚も聞くといい加減、耳も頭も疲れてはいますが、決して「聞いたふりを」している訳ではありません。
また、「中身が無い」とのご指摘ですが、そのようなご指摘をこうむる主因は、私の筆力の無さにある、と思っています。
もっと筆力のある方の感想レスを、私自身が首を長くして待っているところです。
「自分の主張をするために」とのご指摘ですが、私は過去、フルトヴェングラースレの書き込みには大変お世話になりました。
その恩返しのつもりで、「まかり出た未熟者が聞く所では、・・・・、という感想です。」と、あくまで感想の一つを恥を忍んで提示しているに過ぎません。
コテハンを付けないのも、単に一つの感想を述べているに過ぎない、という自覚があるからです。
誤解を受けないよう、お言葉に従って気を付けますが、何分にも口下手者の筆下手者ですので、言い過ぎたり言い足りない点は何分のご容赦を願います。 今回の55枚組は脚色なしでSP盤&テープを起こした
日本のマニア向けの企画だと思う。
あとで脚色したい人は、これを元にどうぞというスタンス。 実際はもう入荷してるんだろうな
業者の関係者は既に聞いているんだろうな >>40
いつも楽しみに拝読しています
色んな人がいるでしょうが、ご自身のペースでお続けください
音楽には壁はありませんが言葉には壁がありますよね…
私はそれこそわかったつもりで聴き流してしまう派なので敬服します 音質評価をするのにシステム構成を晒さないのは不平等。
モノラル録音は相性の問題が付き纏うので客観性が担保できず
ほとんどと言っていいほど参考にならない。 半分正解
でもこの手のレスする人はシステムを晒すと
その程度のでは〜最低限これくらいは〜ってマウント取りたいだけ
相手にしなくていいと思う 逆にこのスピーカーで聴いてね、というお薦めがあってもいいのに。
国産メーカーは少なくなったのでFostexのものとか。 一番良いのはクラングフィルム、ジーメンスの系列だが
30cm以上のワイドレンジユニットは希少で
普通の人が買える値段ではない。
よくタンノイを推す人が多いけど
相性が良いのは1950年以降のスタジオ録音で
55枚組のようなSP盤復刻は雑味が目立つ。
B&Wは高域がスレンダーでいい印象はない。
ドイツ系の現役ではmusikelectronic geithainだろうが
はたしてフルヴェンを聞くため買うかというと疑問が残る。
やや似た音調でDynaudioのプロ用もあるが中域がマットなので
古い録音はくすんで奥に引っ込む傾向がある。
意外にJBL 4312Gは中域の吹き上がりが良くて
値段も手頃でオールマイティかもしれない。 あとフルヴェン時代のHMV電蓄は楕円フルレンジ+コーンツイーターで
デッカのデコラ電蓄やEMIのブックシェルフ型スピーカーにも使われている。
1960年前後はイギリスは超インフレでSP盤もまだ聞かれていたため
QUADのトランジスタアンプでもSP盤用のフィルターが装備されてた。
似たようなテイストでは独イゾフォンがあって
Orchesterはドイツ放送協会の標準モニターだった。
ただ中域が大人しい感じの何の変哲もない音なので
EL34あたりでキリっと鳴らさないと良さが判りにくいと思う。
ヴィンテージ物でも適度にグレードを合わせると
録音年代を気にせず楽しめると思う。 BBCのLS3/5a を想像したのですけどね。
ブラッシュアップされた物がいいな、と思いつつNHKもスピーカー作ったなら外販してくれたらいいのに、と。
https://www.nhk.or.jp/strl/publica/giken_dayori/184/2.html 単なるオーディオヲタで片付けられない深いこころざしを感じるよ。
文章技巧はお世辞にもほめられない劣悪ぶりだが、
生演奏、それを多くの人に届けようとした技術者の心、
放送や録音の技術に込められた理想と現実のせめぎあい、
それを再生するにあたって、
生演奏を聴けた幸せな聴衆に負けない感動をどうやって届けようとしているか、
また時間的に離れた現在、
提示されたデジタルデータの質を見定めて
当時と今をつなぐ手だてに想いを馳せる、
などなど、かなり熱気のこもった取り組みで良く調べていると感心しているよ。 >>52
1970年代のBBCモニター系は
パルス波をスレンダーに出すよう開発された最初のスピーカーで
ステレオでのサウンドステージが出現するようになった。
ただフルヴェンの録音は中高域のノイズが多くて雑味が増すのと
ネットワーク回路が重くて躍動感が抑え気味で進行する傾向がある。
この後に続くB&W、セレッション、AEなどの英国勢は
デジタル時代のサウンドステージを良く再現するが
似たような傾向がある。 あとFostex とNHKの共研がまだ続いていたことに驚いたけど
指向性がニュートラルで音圧が高いのが、まじめに造った証拠かと。
同じことはmusikelectronic geithainでも言えると思う。
この手のものはマイクの特性に近い音響特性になる一方
ITU-R BS.1116-3規格は部屋の音響を含めたもので
普通の部屋だと反射音や縮退など新たな課題が出る。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasj/72/7/72_398/_pdf あと貧乏性でモノラル始めたい人は
ギターアンプ用12インチ+指向性の広いツイーターを
後面解放箱に入れて鳴らすのをお勧めする。
自分はJensen C12R+Fostex FT28Dを
チャンデバ+マルチ駆動(ステレオプリメインをそのまま使用)
ギターアンプ用は曲がりなりにもプロ用ユニットなので
フルヴェンも腰を振ろ振り生き生き鳴るよ〜ん。 >>55
心の病気は自覚していないようだね、あんたはw
私は応援したいよ、このヲタさんの取り組み ジャケット考えなければ、ワーナー55枚組より、グラモフォンの35枚組箱が良いかも 107CD は高音質なイメージが全くない。
持ってない録音を集める手間が省けたのはいいんだけど。 古い録音だからとCDプレーヤーをケチると
色々と苦労してたことが空回りしてたことにガッカリすることになる。
私も今年になってラックスマン D-03Xを購入したが
(自慢するほど高価なものでもないが)
音の安定性というか、中域の見通しの良さが抜群で
放送録音のトゥッティでも低弦などが団子にならず
躍動感が維持できてる点に大変重宝している。
例えば晩年のBPOとの運命&田園などは
低弦のリズムが少しルーズに流れるのだけれど
大河の本流のような大きなうねりに対し
水面の照り返しや風のざわめきが加わるような
絶妙な響きのブレンドが重層的に広がっていく。
あと憑りつかれたようなドライヴ感がないかわりに
団員の表現意欲が浮き彫りになって
リズムの遅さが気にならない。
ミケランジェロのダビデ像がどこまで拡大しても
何かしら絵になるような感覚と似ている。
これが晩年の衰えのように言われてきたのが
少し残念な感じだ。 フルトヴェングラーだからって何でもかんでも神聖視するのは良くないよ モノラル・システムは周波数特性の最適化というのも重要で
良質なヴィンテージ・アンプを聞いたときの
フォルティッシモでの吹き上がりも確保しつつ
「ほっこりした感じ」を出すのが案外難しい。
だったらヴィンテージ物をせしめれば良いと思いがちだが
意外に安定度が悪く、安物を掴むと毎日コロコロ印象が変わる。
スピーカーとの相性も選り好みするので
昔から「黄金の組みあわせ」なんてものもある。
もうひとつの問題はCDプレーヤーとの相性の悪さで
CDPのバッファーアンプがチープなものが多いので
要らない高周波を拾って、ささくれたような音になりやすい。
私自身はサンスイトランス ST-17Aという現在も製造中の
ラジオ用段間トランスを使って音質を整えている。
ラジオ音声域の外は数dBラウンドするポンコツ仕様だが
20〜20,000kHzはちゃんと通しているし
磁気飽和で高次倍音を出すのでキャラメル色の艶がでる。 トランスの高次倍音(高調波歪み)で思い出したが
スピーカーの分割振動も意外に重要で、さじ加減で甘くも辛くもなる。
特にモノラル時代のサウンドは歪みのなかで育ってきたせいか
真空管のオーバーシュート、トランスの高調波歪み、スピーカーの分割振動で
潤いや艶の多くを補ってる。
私の場合は、Jensen C12Rの高域に出る強い共振はカットしたが
http://cent20audio.html.xdomain.jp/image584.jpg
それでも総合での高調波歪みは盛大に出てる。
http://cent20audio.html.xdomain.jp/wps_clip_image-13384.png
一方では、ステップ応答の波形は非常に整っている。
低音まで見通しよくアインザッツがしっかり揃う。
http://cent20audio.html.xdomain.jp/image649.jpg
普通のスピーカーのほうはクロスオーバー毎に位相の乱高下を起こす。
https://www.stereophile.com/images/511B800fig8.jpg
高域のパルス波が分離強調され、低音が遅れて登場してくる。
音場感などの要素がないモノラル録音では誤魔化しが効かない。 >>68
ギターアンプはB級動作、過大入力でディストーションありきの設計。
普通のA〜AB級アンプで鳴らすとクリーントーンそのもの。
ギターアンプ用スピーカーの多くは大型ラジオ用に開発されたが
PA装置にも使われて以降はギターアンプ用として現在まで生き残った。
JensenやCelestionは立派なヴィンテージ殿堂入りだな。 タワーレコードから…
11/20発送➡11/25に延期… おまえら日本語解説なしのやつ買おうとしてるの?
解説付きは12月10日だぞ 今までの感じだと、初盤あたりのデータと広告の切り貼りが精々かと。
LPのバージョン違いの蒐集は海外、国内盤を問わずマニアも多い。
使用マイクや配置、ラジオ音声の伝送方法などの技術解説は期待できない。
おそらくスウェーデン放送の所有していたテープレコーダーの機種も判らない。
そもそも記念すべき舞台全景の写真も存在しない理由がはっきりしない。
この舞台だけバイロイト出演だったソリストの選考理由も判らない。
新たに解説すべき事柄はどこにある? BISの解説書で十分でしょ
今時国内盤を買うのは情弱 >>72
発売日が2021/11/25に変更になった あといくつ寝ると・・・
己の愚かさに気がつくのか・・ 55枚組のうち、CD44〜47、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」を、ようやく聞き終えました。
音質は、従来盤がまろやかでよく練れていたりマスターだったのに対し、本盤はざらざらして荒っぽい音のリマスターです。
演奏は、これは戦後のフルトヴェングラーのレコード録音にありがちなことなのですが、丁寧な音楽作りを目指すあまり劇的な迫力が死んでいる感じです。
本曲では第一幕全部と第二幕冒頭が欠落したこの指揮者のライブ録音が残っていますが、聞き比べると一目瞭然です。
第三幕前奏曲のイングリッシュホルンは本盤が絶品ですが、これはウィーンフィルの手柄でしょう。
さて、今度は「フィデリオ」2枚組です。これはトリスタンほど時間を取られないで済みそうです。 もはや投了マジか
折角の55枚も形無し
似非オーヲタは去って良し デニスか…ウラッハか…ゴールドベルクか…みんな名手だった。 ウィーンフィルとの勘違いはともかく
>イングリッシュホルンは本盤が絶品ですが
と聴き惚れたくらいだから、デニス・ブレインなのかな
そちらの方が気になる
久々に新箱を掘り出して聴いてみようかな ウイーンフィルとフィルハーモニーは全くの別物。
ベートーベンの第九でも、全く違った演奏になる。フルトヴェングラーでもオケ体質は変えられない。定期?の九番と、ルツェルンの九番。
スタジオトリスタンは、フィルハーモニーのくせが如実に出た演奏。
ライブのトリスタンの演奏は、旧ベルリンドイツ語オペラのオケのノリの演奏。
カラヤンの薔薇でも、ウイーンとフィルハーモニーは全く違う。ウイーンのは、濃厚アイス、フィルハーモニーのは、シヤーベットがかっている。 フルトヴェングラーとウィーンフィルでいい演奏ってウラニアのエロイカとモルダウくらいで、次がチャイコの4番な気がしている。 フィルハーモニア管弦楽団の演奏をウィーンフィルとかフィルハーモニーとか低能バカ過ぎだろw >>87
イングリッシュホルンはオーボエの仲間の木管楽器なのだが、、、、。
デニス・ブレインは金管楽器のホルン奏者だからイングリッシュホルンを演奏するわけねぇ〜だろ。 恥ずかしいw
匿名だからいいようなもののリアルだったら立ち直れないぞwww フィルハーモニア管は結構リーマン的にちゃんと仕事をしてくれる。
ライヴ録音を聞けば判るが、自主管理団体になったあと
クレンペラーやストコフスキーなど変態扱いされるマエストロ相手に
全くレコーディングと同じような精緻な演奏をしている。
ウィーンフィルはその点、すごく気まぐれなんだよね。 フィルハーモニア管ってそんなにいいか?
カラヤンカンテッリトスカニーニみたいなキビキビしたのとは相性がよかったけど
クレンペラーもストコフスキーもコンセルトヘボウやチェコフィルなんかの本場の伝統あるオケを振った時の深刻さがなく軽薄に聴こえる
ルツェルンの第九もそう
トリスタンだけは変に暗くないおかげで作品世界と調和した名盤なったと思うが フィルハーモニーといえば、普通は、ベルリンフィルハーモニー フルトヴェングラーとウィーンフィルのワルキューレ全曲は、辛口演奏。
フルトヴェングラーとウィーンフィルのフィデリオ全曲は、ライブと同じメンバー、また、この同じメンバーでローマに移動して、指環全曲を演奏。
しかし、フィデリオ全曲のヴイットガッセン、EMIで録音して契約の問題とかなかったのかな? 大木正興もウイーンフィルかベルリンフィルか全然わからない、区別できない、と言っていたよね。
音楽評論家もそのレベルなんだな。 カールベームとヨーフムと聞き分けられなかった評論家も居たよね。
コルトーがスタインウェイを弾いていたのを知らないで、プレイエルの音色は非常に特徴的だ、と言っていた評論家も居たよね。 話は逸れますが、出席しない演奏会の批評を書ける超能力を持った音楽評論家なんてのもいますから、人材豊富ということで 三大アホ音楽評論家は
吉田秀和、大木正興、門馬直美かな。
出席しない演奏会の批評を書ける超能力を持っ宇野功芳にはカリスマが有ったな 三大アホ音楽評論家というと村田武雄、門馬直美、志鳥栄八郎だな フルヴェンの新世界なんてのもあったわけで
これはミュンヘンだ!と喝破できた人だけが嗤えばいいさ >>104
コルトーが1952年に来日した時の話だよ >>83,他
ご指摘の通り「ウィーンフィル」ではなく「フィルハーモニア管」が正しいです。
40枚以上も毎日ぶっ続けで聞いているので、耳も頭もクタクタ、うっかりしました。
まあ、オケが違うとか、歌手が違うとか、指揮者が違うとか、細かいことは勘弁して下さい(゚∀。)
目下、「フィデリオ」を鋭意聞いております。こちらは正真正銘、ウィーンフィルです。もう少し時間を頂きます。 そういえば55CDの正規録音集にライヴは基本的に入らないはずだが
バイロイトはリハーサル録音だと暗に認めたってことでオケ? >>107
>まあ、オケが違うとか、歌手が違うとか、指揮者が違うとか、細かいことは勘弁して下さい(゚∀。)
.
.
お前アホか?
重要なことをイイ加減にして、いったい何を聞いてるんだ?
そんなんだったらもうヤメロ低能バカ! >>109
こういう奴いるいる
音楽鑑賞よりラベル貼りが好きなだけのキモオタ
消えろやゴミクズ 十五歳くらいの若手のフルトヴェングラーの研究家でないのなか
生のオケ聴いたことないとか リマスターによる音質の優越に関する話題は
没後50年以降20年近く経ってほぼ出きってるんだよ。
正直、LP板起こしの話が終わっただけでも感謝してる。 少し気になるのがキングレコードの存在で
米M&Aは斬り捨てたとして
チェトラとターラの音源が並走してたり
アルタスと平林がスタジオで巣食っていたり
アーカイヴを一貫して管理する気配が微塵もない。
最もORFやベルリンフィルがアーカイヴの保存に走ったのも
やはり没後50年以降のことなので
キングレコードのものはそれ以前の音源蒐集となる。
切り口として考えられるのは
フルヴェンの複製テープのコネクションのようなもので
放送局間のルートから個人蔵のものまで
レコード出版史とは異なる形でちゃんと解明してほしい。 複製テープというのはすごく厄介なもので
例えば今回のBISのバイロイトのように
表向きは何も判らないで死蔵しているケースもある。
さらに保存のコンディションとまでいくと
磁気劣化に加え伸びや縮れなどきりがない。
だから初盤LPが最高なのだという言い分もあったのだが
フルヴェンの場合、オリジナルテープに自由に触れられたのは
1970年以前のことのような感じがする。
その時点でのフルヴェンのレコードは今の1割程か。
おそらく1968年のEMI系ユニコーン・レーベルの発足が
有象無象の録音を公開したと同時に訴訟問題をチラつかせたため
放送局側の沈黙とアングラ化を引き起こしたように推測するが
レコード出版以前にオルセン目録のようなものも存在していた。
実はその演奏がフルヴェンか偽物かさえ不透明だったのだ。 もうひとつの課題が、ステレオ全盛期だった1970年代に
なぜここまでフルヴェンの演奏が人々を熱狂させたかだ。
個人的には古ぼけた電蓄やラジオからでも判りやすい
音の起伏が激しい演奏という感想にいたっている。
それがどのようなオーディオ装置でも確認できる真実だと。
逆に言えば、宇野氏の嫌った音楽家、ポリーニやカラヤンなどが
いかにオーディオ装置の品質を選ぶかという問題に突き当たる。
高級なステレオ装置を買わないと演奏の凄さが判らないとなれば
これほど面倒なレコードはないからだ。 ではフルヴェンがオーディオ機器を全く選ばないかというと
モノラル録音特有の問題、音場感や潤いの不足が生じる。
もうひとつ踏み込もうとしても届かない領域がある。
1枚1000円もしないCDにも、試聴環境による格差が生じるのだ。
それは金銭の格差ではなく、むしろセンスの問題である。
多くの理由は、重たい小口径ウーハーのレスポンスが悪い
パルス波に過度に敏感なツイーターにより雑味が増すなど
モノラル録音の時代と現在のオーディオ理論との齟齬からきている。
逆に言えば、大口径で反応の良いウーハー
パルス波と楽音にニュートラルに反応するツイーターは相性がいい。 スピーカー頑張ったところで、湿度や再生に使う部屋を作っているのに使う材料違うから、似てるけど同じ音は聴けない。
諦めるか、ベルリンに引っ越せ。 あとは良くフルレンジのほうが良いという意見も多く
例えばドイツ製の20cmクラスのものが昔から知られるが
もうワンクラス上のジーメンスのコアキシャルに行きつくように
良質なコーンツイーターが欠かせないが入手困難。
ほとんどの場合はその手前で留まって先に進まない。
和製ロクハンは低域が甘く高域が少し艶やかなバランスで
米コロンビアのワルターとかとても相性が良いのだが
フルヴェンではEMI止まりで、ライヴのガッツき感まで出ない。
フォステクスは中域から中高域の抜けが爽やかだが
むしろポピュラー音楽向けの軽さが持ち味で
個人的には昔のセラフィムやスプラフォンのような
中域こってりのバジェット系で魅力を発するように思う。
他にも色々あるが、レコードレーベルのサウンドポリシーと
フルレンジに詰め込んだサウンドデザインとが
意外に相性の問題を拭いきれずにいる。 >湿度や再生に使う部屋を作っているのに使う材料違う
これはヴィンテージの軽いコーンのものですごく顕著だった。
ともかく乾燥してないと、どんより腐った魚のようになる。
自分はJensenレプリカの新品を最初から飼い慣らして
ようやく色んな録音とニュートラルに接することができた。 あとヨーロッパは夏は乾燥、冬は湿気が多くて
オルガン関係では木材のひび割れ、ニガワの剥がれがトラブルの元になる。
同じことはスピーカーの紙類にも言えるかも。 ID:dJoBuEne
↑
コイツは音楽よく解らない単なるオーディオヲタ 普通に古い録音をとっかえひっかえ聴く人は
オーディオに関しても一定の知識は持つべき。
録音方式の前提を無視してリマスターの音質評価するのは無駄。
むしろ私の提案はむしろ音楽愛好家のためのチョイスだ。 もっと不思議なのが、フルヴェンの録音がステレオだったら良かったとか
無意味な原音再生に憑りつかれていたり
リバーブを掛けたおかげで聴きやすくなったのを知らなかったり
ともかくオリジナルテープと向き合うことを避けた話が多い。
それは逆説的にフルヴェンのための試聴環境をもたないことと等しい。 少なくとも1951年までが巨匠のピークだと思ってる人は
1950年前後のテクノロジーに興味をもつべきだし
その後に描いた未来像、特に今の時代において失われた理想を
聴き取れる環境の整備を怠らないことだ。
自分のステレオ装置と合わない録音だからとこき下ろすなんてあり得ない。
低音が少ない、高音が少ない、それも調整できない機材はゴミに等しい。
そういう安直な思いで巨匠の芸術に触れようなど無意味な人生だ。 部屋の材質って言ってるのにスピーカーのコーンの材質だと思ってる辺りバカすぎる 1951年はバイロイトの第九を聴いて、ダメになったのを認識する年だわ。
芸風が変わったと言うべきか、練習か何かで神秘性が欠けるというか。 うちは夏が湿度が高くてダメだわ。
冬から春先はよい。 >>134
再三に渡るリハの要求で団員も合唱団も緊張の糸が解けたとか
湿気の問題は大口径コーン紙で一度は誰もが通る道
自分の場合は雨のち晴れの法則が一番良い状態に落ち着く
それ以外の天気で安定しているかが腕のみせどころ
本当は箱の中の綿も定期的に入れ替えるといいんだろうけど
私は後面解放なので風まかせ 1951年の録音は2022/1/1に再び著作権切れるね イギリスで励磁型スピーカーが早い時期に無くなったのは
霧のロンドンの名のとおり、湿気で断線がしやすいからかも。
あとポリプロピレンなど樹脂製ウーハーの採用も比較的早かったが
独特のツヤを嫌う人など色々。コーホー先生は肯定派だった。 >>131
おまえ生のコンサートでフルトヴェングラーゆかりのオケであるベルリンフィルやウィーンフィルのコンサートを何度も聴いたことあるのか?
できればベームやカラヤンが指揮していた頃のコンサートをな。
録音だけ聞いてオーディオに凝ってるだけで芸術を語るのは浅はかで無意味な人生だ。 >>139
ベームやカラヤンが指揮してた頃っていつの話だろ?
どちらも1960年代から演奏スタイルが変貌した。
別にそれが無価値だとは言わないが筋違いだ。 >>140
みっともないオーディオ気違いの言い訳w
生のオケは殆んど聞いてないようだな >>140
お前は>>118でカラヤンとポリーニについて書いてるけど、
カラヤンとポリーニは生で聴いているのか? だいたいベルリンフィルやウィーンフィルのコンサートを
フルトヴェングラーゆかりのオケだという理由で聴きにいけばそれこそ面くらうだろう。 >>141
若い時聴いた来日組はチェコフィルとか旧ソ連の歌劇団とかかな。
あの頃は国内のホールがそれほど良くなかったので
生だからと良い演奏になるとは思えなかった。
あと宇野ちんがポリーニを嫌いな理由が
ピアノの音が硬いから。あれはない。 しかし急にカラヤン、ベームの擁護に入るとは…
フルヴェンスレの住人もかなり追い詰められているご様子で。 それと苦言を言いたいのは
フルヴェンの録音は生の音と同じようには絶対にならない。
一方では、それこそ再生方法のアプローチが悪いのを棚にあげて
録音評と並行した演奏評をしている異常な状況だ。
口コミの本音というより悪質ないたずらじゃないかと思う。 所詮レコード芸術なんだよね
そこがわからないとどうしようもないよ >>143
おまえ生のコンサートをぜんぜん聴きに行ってない人間なんだな
道理で底の浅いことばかり書いてるわけだ フルヴェンのライヴ録音が生の音と同じようには絶対にならない理由は
録音年代の古さにあるのではなく
天吊り1本マイクで補助マイクなどの編集なしで収録していることだ。
コンデンサーマイクやテープレコーダーの性能は現在と遜色ない。
これを現在のテクノロジーのほうが進んでいるという前提で
録音の良し悪しを判断するのは危険だ。
でも結果は判るとおり、天吊り1本マイクのダイレクト録音は
フルヴェンの躍動感を刻銘に捉えている。
EMIとの相性がいい人は3本マイクなのでご安心を。
少し位相差を含んでいわゆる音場感をもたせる方法だ。 ステレオ録音は脳の錯覚を利用しているからモノラルでいいんだけどな。 ちなみにEMIの3本マイクはWEから電気録音をオーソライズされた頃からで
1931年のアビーロード除幕式でエルガーと共に写真に残されている。
実はこの収録方式は、WEが1933年にフィラデルフィア〜ワシントンの有線伝送実験で
フィラデルフィア管の演奏をワシントンのホールでステレオ実況したものだった。
そもそもEMIはブルムライン博士とも共同してステレオ録音を意識していたと言え
ウィーンではワルター、フルトヴェングラー共にムジークフェラインはこのWE方式だ。
ORF管轄下のザルツブルク音楽祭は1本マイクで収録されている写真があるが
同じ頃のベームの写真ではEMIと同じ方式に変わった可能性がある。
1本マイクは独RRG放送の取った方法で、フルヴェンはこの録音方法を好んだ。 部屋の材質のことをスピーカーのコーンの材質のことだと勘違いしたことについてコメントしろよ
都合が悪いからスルーする気か 1940年代において独RRG放送が先行していたのは
AEG社のマグネトフォンの開発で、高周波バイアスで一気にSP盤を越えた。
1940年12月にフルヴェンはパイロット録音をしているが
これまでにない高音質で演奏後にすぐプレイバックできるテープレコーダーに
かなり興奮して何度も聞き返していたという。
そのときはベイヤーダイナミック製のヘッドホンでの試聴だったと思われる。
その後の1941年のほとんどはスキー事故で療養中だったが
ひとつはラジオでウィーンでのライヴ録音を試聴する機会があったことは
クルト・リースの本で感動的に書かれている。
残念ながらそのときのラジオの機種までは判らないが
すでにテレフンケンからスーパーヘテロダインの2wayスピーカーをもつ
Hi-Fiラジオは製造販売されていたので、それなりの機器で聴けたと思う。
もうひとつは政府関係者向けのUFA映画館でのテープコンサートで
クラングフィルムの音響機器で生演奏と比較しつつデモが行われた。
おそらくEuropa Klartonの初期型だと思うが、これは現在でも第一級のものだ。
この3つの音響機器での試聴を通じて巨匠は録音の将来性に気付いたと思うが
現実にはベルリン空襲は頻繁になっており、演奏会が標的になるのを避けるため
無観客でのテープ収録を後日にラジオで流すという方法がとられた。
巨匠はこの頃の収録方法にコダワリをもって、戦後の放送録音にも挑んだのが
様々な写真からうかがうことができる。 >>153
繰り返し言うが、湿気で響きが変わる部屋は
昭和末期に住んだ学生用のオンボロ木造アパート以来知らない。
材質がどうのという以上に築50年近く経ってないと
現在ではなかなかお目にかかれないものだ。 オンボロ木造アパートの厄介なのは土壁などではなく
合板で断熱用の綿材を挟んだやつで、日の当たりが悪い面は
年数が経つと中でドロドロに水を吸って壁にもたれかかっている。
これとスキマ風の出るガラス窓、紙製のふすまを加えると
湿気とかいう以前に音響はそもそも悪い。
それと畳を支える根太も細いものだと湿気で剛性が柔くなって
低音から高音まで土台から変わってしまう。
ベルリンとかそういう問題ではなく、エコな昭和の置き土産だ。 一方では、そうした部屋で真剣にレコードに耳を傾け
フルヴェンの至芸に心揺さぶられていた時代もあったわけで
それは「録音が悪い」という共通の敵があって平等が成り立っていた。
しかし今はどうだろう。放送局の目の覚めるような蔵出し音源で
当時のテクノロジーの歴史認識まで変わりつつあり
巨匠のコンサート・パフォーマンスの真価が再度問われている。
一方の迎え撃つ側のオーディオ環境といえば
別な理由で当時より悪くなってはいないだろうか?
それも昭和の頃のような下手な言い訳はできないのだ。 ドイツも日本も敗戦国なので戦後の貧しさは一緒だろうと思いがちだが
1950年代のドイツの放送音質は、日本の昭和40年代と同じレベルで
理由はFM放送のいち早い全国ネットの構築と
それに勝るオーケストラの数の多さ、残されたコンテンツの豊かさである。
実はフルヴェンのライヴ録音の背後には、同時代の宝の山が隠れており
まじめに取り組めば本当に色々でてくる。
かつてレコード市場で聴けたのは当時の音楽文化のほんの一部。
特にオペラなどはバロックから現代物まで幅広く
ウィーンでさえフルヴェンがモーツァルトを振ってた横で
アイネムやリーバーマンなどの新作が演じられた。
オルフのギリシア悲劇3作などは今でも十分に斬新なものだし
ヒンデミットが校訂したモンテヴェルディのオルフェオは
アーノンクールのその後の人生を決めた一大イベントになった。 ID:dJoBuEne
↑
こいつが書いてることは音楽の中身や演奏内容についてはほぼ皆無
オーディオについて書きまくりたいのならオーディオ関連の別スレに行くか、専スレ立ててそっちで書いてろ キチガイ! そう言いながら
リマスターの音質を必死に書き込んでいるのは陰湿なオーヲタ気取り 大きな誤解は、広帯域でフラットな特性のオーディオ機器だと
音質をニュートラルに判断できると思っている点。
(実際にはそれすらにもなっていないのがほとんどだが)
これは比較的大きな音量で聴くモニタースピーカーの品質だ。
一方で1950年代の家庭用の音響設計は
中高域を持ち上げたワイドレンジユニットをウーハーに据え
8kHz以上の1オクターヴだけツイーターで補助的に使う。
これがAMからFMに橋渡しするセオリーだった。
これはドイツ以外にもHMVの高級電蓄も同じ設計で
アメリカではJBL D130などにその名残がある。
http://www.hifi-archiv.info/Isophon/1961/08.jpg
http://cent20audio.html.xdomain.jp/1950/BBC/EMI-1944.jpg
http://www.lansingheritage.org/images/jbl/specs/pro-comp/2135/page2.jpg
なぜ中高域にアクセントを持っていたかというと
AM波の古い慣習で子音を際立たせることが第一の理由だが
実際は少しドンシャリにしたほうが、小音量でも聴き映えがするから。
いわゆるラウドネスを聴感で決めて設計していた。
ただし1970年代の100Hz以下、10kHz以上ではなく
100〜200Hzと3〜6kHzという感じで狭いレンジでの対処だった。 日本ではNHK技研がフラットネスであるべきだと指導したので
ずっとフラットな特性が最良のものとされてきたが
実際には1960年代中頃からロクハンはラウドネスを効かせており
1970年代末の菅野・瀬川・岡の鼎談では
中低域が膨らんで子音が強調された個性的なサウンド
というような評価が出ていた。
http://www.audio-romanesque.com/p610.htm
これはラジオ放送での聴きやすさの基準が人間の声質にあるためだが
裏を返せば、人間の耳の特性に合わせたデフォルメであると言える。
最終的にはシュアーSM58のようなボーカルマイクで決着がついた。
https://pubs.shure.com/guide/BETA58A/ja-JP
フルヴェンの時代の放送録音はフラットで収録するセオリーだったが
実際の家電レベルに下ろすとラウドネスが必要という賢い判断だ。 では私自身のフルヴェンのライヴ録音に対する考えはどうかというと
話は全く逆で、むしろトーキーの音響規格に沿って
100〜2,000Hzの両脇はロールオフさせるべきだと感じている。
http://cent20audio.html.xdomain.jp/image418.jpg
これは広い映画館の音響特性を示すものでアカデミー曲線と呼ばれ
現在ではXカーブとして国際規格化されているものだ。
http://www.associationdesmixeurs.fr/wp-content/uploads/2015/10/Dolby_The-X-Curve__SMPTE-Journal.pdf
これの理由はというと
フルヴェンが好んだ天吊り1本マイクでフラットに収録した音は
指揮者頭上で聞こえるバランスで収録されており
理論的にはその箇所から音を放射してホールに響いた音が
会場で聴く正しい響きという筋立てになる。
http://cent20audio.html.xdomain.jp/image1138.jpg
http://cent20audio.html.xdomain.jp/image534.jpg
https://img.aucfree.com/g385148314.1.jpg
ということは、広いホールの音響特性に沿って
高域を滑らかにロールオフさせたほうが自然に聞こえるのだ。 プライザーとオルフェオで全く違うサウンドを提供する裏には
そもそもの音響理論がどちらも食い違っていることからくる。
プライザーは古いようで1970年代のサウンドデザインだし
オルフェオはデジタル時代の広帯域再生を目指している。
ただし両者に共通するのは
周波数の補正をアナログのイコライザーでやっているような感じで
高域の位相が不自然に遅れたり浮き上がったりしている。
これはなかなか後で補正するのが難しい部類のものだ。
キングレコードはこうした補正を避けてリリースしているが
旧ターラやアウディーテを聞いて判るように
リマスターのサウンドには一種の見解をもったほうが聴き映えがする。
同じ意味でアビーロードとフランス勢のサウンドの違いは明瞭で
アビーロードはLP時代のサウンドポリシーを再現するのに対し
フランス勢は記録としての正確性を意識している。
この勝負に采配を決めるのはユーザーまかせなのが実に困った課題なのだ。 同じ音源のリマスターでも例えばデッカのffrr音源は
キングレコードの飴色かデッカの青白い感じかで意見が割れていたし
現在でもテスタメントとオーストラリア勢で異なるサウンドでリリースされる。
こうした状況で外野のフランス勢が統一見解を出せたのか?
この視点がないと、単なるオレ様のオーディオ基準の評価でしかない。
少なくともワーナーはアビーロードを放棄して次のステップに進んだのだ。 特に問題視しなければならないのは
こうしたレコード出版する側のサウンドポリシーを考えもせず
ユーザー側で好き勝手に音質評価することだ。
一見して音質だけの書き込みのように見えるが
実はサウンドの印象で演奏評価までしていて
それが音楽鑑賞のじゃまをしているように見受けられる。
今回の55CDの価値は戦前〜戦後に渡って
レーベルの垣根を踏み越えて揃ったところにある。
その歴史的なリリースにどういう態度で接するべきかの
ひとつの見解が出ているのだが、どうも読み取れていない。
宇野ちんもそういう感じの人で、最初の数小節を聞いて
その後の演奏の良し悪しが判るようなことを言っている。
導入が悪いと途中から批判ばかり喰らうことになるのだが
おそらくフルヴェンの演奏評価の方法にも影響を与えている。
最初の拍手を聞いて作文したバイロイトが今でも尾を引いている。
答え合わせは11/25にいたしましょう。 フルトヴェングラーが嫌っていた意図しない不誠実で溢れかえってしまったなw
あ、5ちゃんねるでしたねww やっぱり鑑賞系の趣味はダメだな
歪んだアウトプットが蔓延って見苦しい そのアウトプットさえ出せない人の意見はごもっともに聞こえるな 55CDをアビーロードでもベルリナー・スタジオでもなく
歴史的アーカイヴを専門にするフランスの新進スタジオに委ねたのは
驚くほどの英断だったように思う。以下の記事は結構面白い。
https://www.crescendo-magazine.be/christophe-henault-servir-le-patrimoine-de-lenregistrement/
復刻はEMTのレコードプレーヤー、Studerのオープンリール
使っているヘッドホンはbeyerdynamic DT770。
奇をてらったものはなく、現在あるリソースを全部聴いたうえで
品質管理のルールを徹底する仕事人とみた。 >>179
機械翻訳の力で、フランス語も読めてしまう事に感動した。
あと、フランスのスタジオの人は音源選びから頑張っている事はわかった。
ノイズ多めのリマスターだけど、元気ある音が残っている気はする。 いつも思うのは
こういうプロの仕事に学ぶことのない人たちの感想が
文化継承の橋渡しにならないことだな。
例えばマタイのテープは4日分あって歌手も違ったが
それを同じ演奏のように繋げるのに苦労したとか。
78rpmの表裏の間の取り方はライヴ演奏を参考にしたとか。
1937年のロンドン第九は金属マスターのビニール複製だとか。
舞台裏について全部書いてほしいくらいだよ。 >>182
>例えばマタイのテープは4日分あって歌手も違ったが
>それを同じ演奏のように繋げるのに苦労したとか
これは、なにげに凄いことだよな
従来版で欠落していた部分を単に補ったわけではない
いわば、4種類のマスターテープ(新発見?)から
今回、改めて再編集しているわけで、極論すれば、
別物と言ってよい >>184
ホースディアーさんをおだてるのが
お得意なんですねw 55枚組のうち、CD48〜49、ベートーヴェン「フィデリオ」を聞きました。
音質は、この2枚も従来盤に比較して低音の効きが少し悪い音です。低音が聞き手を包み込むような抱擁感で劣ります。
「トリスタン」と違って、従来盤に比べてザラザラしたり荒っぽかったり、ということはありませんでした。
演奏は、本盤録音直前のライブがチェトラ盤で残っていますが、セリフのカットを除き、声楽部分は大同小異です。
ただ、2つの序曲(フィデリオ序曲、レオノーレ序曲第3番)では、やはり勢いと即興性でライブが勝ります。
好みの問題になりますが、レオノーレ3番などをこの指揮者がじっくり構えて音楽を丁寧に作っても、仕方がないと思うのですが…
さて次は最後の山場、「ワルキューレ」4枚組です。ようやく出口が見えてきましたが、やはりこの曲も時間を頂きます。 ついでにベト7のテープ発見の逸話。
https://furtwangler.fr/la-7e-symphonie-de-1950-lhistoire-dune-resurrection/
予備も含め4テイク録られ、それらのテープが全てみつかった。
フルヴェンの立ち合いのもと、プレイバックして良いほうを選んだ。
選んだテイクを番号1に振り直し、残りは録った順番の番号で残された。
今回のマスターは巨匠も了承したテイクを最終版とした。
EMI製のテープレコーダーに若干の癖があり修復には工夫を要した。 何個かのテイクも残したけど、後の人はテープを埋もらせたままにした話だよね。
EMI はマスター管理できて無さそうな会社ではあるけど、録音した人は頑張ってたんだな。 グレン・グールドのように未発表テイクまで出すかは今後の課題かな。 バイロイトの第九
EMIには編集前の素材は残っていないんだろうか
それとバイエルン放送の録音を合成して偶発ステレオを作るなんて夢物語なのかな 最近はハイレゾ規格でA/D変換して保管するせいか
SACDコンパチでのリリースも多くなったが
SACDだからとフルスペックの音質というのではない。
例えばクレンペラー/ACOのライヴ録音集(24SACD)は
元のオランダ放送協会のテープは既に破棄されて現存せず
ファンだった青年が家庭用テープレコーダーに9.5cm/sでコピーしたものだ。
それでもかつての海賊盤より遥かにマシという感じだったので
万全なSACDコンパチというリリース形態を取ったのだろう。
今回のスウェーデン放送はどうだろうか?
有線で伝送したAM放送用の音声は
当然バイエルンのFM放送グレードとは違うだろうし
マスターのテープ速度、業務機か否かで異なる。
あと2日待てば答えが判るか。 協会盤のレニングラードのエロイカ(WFJ-112)を聞いたが
一聴した印象では「戦後正規レコード録音ともウラニアとも違う演奏」だった BISバイロイト第九
発売まであと1日
バイロイトの真実とは…? 国内に届いたのだろうか
航空業界の「救世主」は貨物 コロナ前より増、普段は運ばぬものまで
2021年11月15日 朝日新聞デジタル
航空貨物の輸送状況が逼迫
貨物専用機や旅客便の貨物スペースが奪い合い バイロイトの真実なんてものに興味があるのはオタクだけなのではないでしょうか ゲネプロの混じってない本番だけの演奏が聴きたいんや 明日の出会いがスターシャだろうがデスラーだろうが
どちらにしても問題が噴出するのだろうな… 55枚組のうち、CD50〜53、ワーグナー「ワルキューレ」を聞きました。
音質は、カサカサした潤いのない音です。聞き比べた旧盤からは何と芳醇で包容力ある暖かい音が聞こえてくることか。
演奏は、教科書的な演奏であってそれ以上でもそれ以下でもない、という印象です。
それだけに、音響を楽しむことができない音質なのは残念です。
聞き始めはヴォータン役のフェルディナント・フランツが俗っぽくて、父の威厳やゲルマン神話の主神の威厳を欠くように聞こえます。
しかし聞き慣れてくると気にならなくなるのは不思議です。本当は実力のあるヴォータン歌手なのかもしれません。
スカラ座のリング全曲やローマのリング全曲のヴォータン役歌手と聞き比べようとしたのですが、どちらもフランツがヴォータンでした。
プロデューサーか指揮者によほど気に入られていたのでしょう。
これであとはボーナス盤を残すのみです。多分、次回の投稿で終わると思います。 この結論として自分のステレオがリバーブで色づいてなければ
ゴミ同然の音しか出ないということには蓋をする、ということ。 >>204
>聞き比べた旧盤からは何と芳醇で包容力ある暖かい音が聞こえてくることか
それそれ(笑顔)
結局これに尽きるんですよね
新箱についてはSP用の細切れテープからの再編集は成功しているから収穫ありでした BIS
朝Web見たら塔・犬どちらもメーカー取り寄せ、店頭在庫無しだった
あくまで朝時点 お昼ごろまでにはタワーなどの扱い店各店頭にBIS盤のものが並ぶとか。
もうすぐ誰かの感想が入るんじゃないかな。 タワー渋谷店の店頭に輸入盤扱いのものが並んでいますね。
これから購入して聴くことにします。 タワレコオンラインも「在庫あり」に。
私の注文は「発送準備中」になりました(`・ω・´) 海外レヴューが無いようだけど、輸入盤は日本先行発売? 209の人はもう訊いてる・・・たぶん
何か書き込んでくれないかな 55枚組のうち、CD54〜55を聞きました。
・CD54「未発録音集」
シューベルト「交響曲第8(?)番『未完成』」1950年コペンハーゲン・コンサート
テープヒスはありますが、鑑賞に支障を生じるほどのものではありません。
演奏は、SP録音に比べてやや堂々としすぎている感はありますが、名演に属します。
ヨハン・シュトラウス2世「皇帝円舞曲」全曲通しのテスト録音
リハーサルとあって、スタジオ内で鳴る物音のノイズに無頓着なきらいはありますが、まずまず音質良好です。
演奏も、速くないと言ったら嘘になりますが、本番のように必死でSP1枚の両面に収める急速演奏はしていません。
本盤よりは優れた演奏だと思います。
ワーグナー「神々の黄昏」より、ジークフリートの葬送行進曲(全曲通しのテスト録音)
音質は非常に良好です。SP録音とは思えません。
演奏は発売された本番のSP録音にそっくりです。本演奏はテスタメントCDで別録音として発売されたものですが、
センターのディスコグラフィーでは同一録音と認定されてしまっています。真相は、あちらが本番、こちらが通しのテストでした。
シューベルト「ロザムンデ」間奏曲第3番、全曲通しのテスト録音および本番
音質はどちらもわずかに盤面ノイズが聴き取れる程度で、良好の部類に入ります。
なぜか未発売になったSP録音のテストと本番ですが、SPの録音時間を気にせずに演奏したテストの方が詩情において勝ります。
(次レスに続く) (前レスより続く)
チャイコフスキー「弦楽セレナード」より、第3楽章「悲歌」
これも音質は良好で、ノイズはほとんど聞き取れません。
演奏は、曲が悪いのか指揮が悪いのか分かりませんが、ちょっと退屈で持たない感じです。
最終的にプロデューサーがオミットしたのも尤もです。
チューニング、ブザー音、及び失敗した出だし
これは爆笑ものです。このたび発見されたベートーヴェン7番の細切れテープ由来のものが主体ですが、一聴をお薦めします。
あの7番が確かに細切れ録音だった、とはっきり分かる資料です。
・CD55「フルトヴェングラーの想い出」
私には英語のリスニングが出来ないので、何を言っているのかさっぱり分かりません。あらゆる批評を差し控えます。
というわけで、ようやくゴールにたどり着きました。耳と頭がクタクタになりました。
55枚全部を聞いた概括的感想としては、これは玉石混交というよりも、石がゴロゴロある中に時々玉も見つかる、といった代物です。
人声ノイズ無しのベートーヴェンの7番のように、イコライズしてでも聴く価値のあるものもありますが、従来盤の方が優れている演奏が多めです。
さて、これからはBISのバイロイト第9がいよいよ出回ります。こちらの話題で大いに盛り上がって下さい。
私は発売当日に店に駆け込むほどセカセカしていないので、予約したCDが送られてくるのをのんびり待ちます( ´ー`)y--┛~~ 55CDさん、ひとつ疑問なのですが、どういう環境で試聴されてました。
安い、高いといろいろの環境でも、聴いた印象を変わらなくするには、ヘッドホーンとか、イヤホンの方が良いと思うのですが。 完走おめでとうございます。
こういうボックスを丁寧に順番に聴いていくのも楽しそうですね。と思いました。(小並感) >>223-224
長期連載お疲れさまでした、とともにありがとうございました
オペラや宗教曲を聴くのは、はなっからあきらめていましたが、
それが正解であったことを確認できて助かりました(オイッ
近い将来出るであろうライブ録音集成でまたお会いできる日を楽しみにしています 俺も頑張って1日15分聴くで。
最初の方は15分以下でも2曲聴くと15分超える事があるんで、10分位の日が多いけど。 BISのバイロイト第9を購入して聞いた人いないのか? >>225
プレーヤーはONKYOのC-705FX、アンプは同じくA-905FX、スピーカーは型番がどこに書いてあるのかよく分かりませんが、
とにかくそれらと揃いのハイコンポ(一頃流行った?)のセットのONKYOのスピーカーです。
はっきり言って超安物、それも前世紀の遺物です。
ヘッドホン又はイヤホンで聞いた方がよい、とのお薦めですが、私もヒストリカルのCDに手を出すまではヘッドホン派でした。
しかし、フルトヴェングラーほか、ヒストリカルを聞き始めると、ヘッドホンではどうしてもノイズが過剰に気になります。
テープヒスまで終始はっきり聞こえたりするし、SP媒体起こしCDではスクラッチノイズが耳に刺激的になりすぎます。
ヒストリカルCDのマスタリング技術者も、おそらくスピーカーから聞くことを前提として仕事をしているのだろう、と察し、スピーカー派に転向しました。
今回の55枚組一気聞きでも、通常はスピーカーで聞き、特殊な場合のみヘッドホンで聞く、という姿勢を崩しませんでした。
もし全部ヘッドホンで聞いていたら、大半のCDに「ノイズでダメ」とペケを打たなければならなかったと思います。
>>225-227
未熟者のつまらない感想文に長々おつきあい頂き、お目汚し失礼いたしました。
私としては、自分よりもっと耳が肥えていて、良い機器で聞いていて、文章力もある論客の各位が甲論乙駁する展開を予想し、期待もしていました。
しかしこの箱はどうやらそういう人々が書き込みをどんどん入れるほどのレベルに達していなかったようです。 ミニコンのフルトヴェングラー。。。スイート・ジャズと一緒だな。
ヒストリカル中心なら、せめてスピーカーだけでも変えたほうがいいよ。 >>230
最後のそれは違うぞ
ここの住人は寝ながらネットしてるだけでもはや音楽なんか聴いてないんだよ
あと何日と楽しみにしてたバイロイトが発売されたのに誰も何も言わないでしょう? スウェーデンまでの国際中継回線が存在していた件について
前から不思議に思っていたのが戦中のシベリウスが
テレフンケン製の高級ラジオで自作の演奏を聴いては
お礼の手紙をよく書いていたというのだが
短波での受信では演奏の判断がつきにくいと思ってた。
あるいは1940年に中止されたヘルシンキ五輪の際に
フィンランド政府は大量にマグネトフォンを購入して
一部はスウェーデン放送に転売したというので
そういうネットワークが存在していた可能性がある。
問題はビーチャムが居たイギリスとの回線が生きてたか?
エレクトローラ&EMI コネクションとの関係も含め
少し見直す必要があるかもしれない。 BIS盤バイロイトのレヴューがまだ無いというのは、つまり
店頭で買う人は少数派ということなんだろうね フルトヴェングラーを聴いているのはインチキ指揮者とか、シスコンしか買えない貧乏人だけなんだよ
B&W や ソナスファーベル、German Physics を使っている様な高所得者はフルトヴェングラーなんか相手にしていないんだな 貧乏なのは認めるわ。
でも貧乏で栄養失調で死んだシューベルトとかを思い出す。 トキワ荘の漫画家達に人気No.1はフルトヴェングラー >>238
俺も椎名町にすんでいた。
でもトキワ荘の場所は分からない。 インチキ指揮者はBIS盤をネタにしてyoutubeでひと稼ぎするようだよ 徳岡さんはダリの100万円のスピーカーだからある程度音質評はあてになるのかな
フィガロどれを買おうか悩むけどエクリプスって本当にいいのだろうか
キングのLOシリーズの復刻にしたいけど インチキ指揮者 = 徳岡 で認識されてるようだなw お客さんを呼び込みたくて必死のご様子で(笑)
奇特な人はそのスレに行って、負け犬指揮者くずれタコツボ君の相手をしてあげてください
どうやらかつてコンクールで徳岡さんに負けたのが悔しくてたまらない指揮者くずれの人が
一日中そのスレでぶつぶつつぶやいています(笑) >>248
たぶん音大でも徳岡さんに負けっぱなしだったんじゃないか、タコツボ君は(笑)
タコツボ君自身は音大の内部事情にも詳しいし、もうそうとしか思えない
つーかBIS盤バイロイトのレヴューはまだですか
せっかく>>245のタコツボ君離隔スレがあるのに、モーストリー・クラシックを読んで
徳岡さんの記事にタコツボ君は嫉妬のあまり発狂しているではないですか(笑) 高いステレオで聴かないと怒られるからじゃないですかね、知らんけど すぐに機器や環境を聞く人がいるからね(笑)
特に今回は従来盤との違いだけの問題だし
ノイズ一個所の有無だけでも取りざたされそうだし、慎重なんでしょう フルトヴェングラーはデッカデコラとかグッドマンやワーフェデールでないと真価がわからないんだよ
ダリとか JBL とか B&W では話にならないよ
因みに、カラヤンは静電型スピーカーでないと真価がわからない 来た
紙パッケージだった
聴いた
アナウンスと拍手が新鮮に感じた
演奏は当然同じ
BR盤と比べてちょっと低音が弱い感じがするがヴォリューム上げてしばらく聴いてると
気にならない程度
時たまFMのチューニングがズレたときのようなヒスノイズが入る
全体としてはLPレコードっぽい音という印象
思ったより悪くない
以上ノートパソコンに外付けドライブつけてMSmediaPlayerとイヤホンで聴いた感想
夜になったらもう少しまともな再生装置で聴いてみる予定 >>253
情報乙
ポイントを示す
1.BIS盤とBR盤は同じ演奏である
つまり、正しくこれらが本番演奏である
2.一方、EMI盤とBR盤(BIS盤)は内容が一致しない
また、BR盤(BIS盤)のほうが、より緊張感が強い
つまり、EMI盤はリハに本番をまぜたものある
(※もともとそう言われてきた)
3.残る問題は2点
1)EMI正規盤にあった足音は本物か?
2)同じく指揮者の声とされるものは本物か?
↓
結論)これらは偽物である
訂正あればヨロ 第4楽章だけもう一度聴いたけど独唱の始まるちょい手前ぐらいに音飛びのような箇所がある
パソコンの処理が追いつかなかったのかと思ったが何度やっても同じところで飛ぶから原盤に
ある音飛びなんだろう
BR盤にもあったかどうかは知らん BIS盤の元はアセテート盤だったのかな?
でも演奏のディテールはしっかりしているよ。 1950年代の放送局間ではときおりあるんだけど
テープ収録→アセテート盤に複製→使用回数の制限付きで配給
同じ時期のアムステルダムでもアセテート録音だったし
オタケンが見つけたクレンペラー/復活のテストプレス盤なんて
元がアセテート録音でもすごく鮮明でダイナミックな感じだった。
今回のBIS盤も似たような印象で鬼気迫る感じがよく出てる。 第9なんていう取るに足らない作品におまえら何でそんなに必死になってんの? もしBIS盤が国際有線中継→アセテート録音だったら
まず当時の実況ライヴの品質が驚くべき実力だったことが判るし
マイクの生音のままリミッターなしで伝送される迫力も凄い。
もしかするとアセテート録音のフルヴェンが最高という新たな評価につながるかも。 BIS盤の4楽章はテノールソロ最後から歓喜の歌までが
アセテート盤が擦り切れたか、テープがよじれたか、回線の過入力かで歪んでる。
BR盤ではこの辺の傷はまったくないので
逆に実況回線を通じての録音だということが言えるのかも。
他の楽章がことのほかダイレクトな迫力で良かったので
これはこれで聴きどころが違っておもしろいな。 BR盤と同じものが放送されたとわかっただけで、BIS盤は買う必要なくなった。
感想くれた人、ありがとう。 国内語解説を書くH林さんはそういう説を唱えるのだろうか 国内語→日本語 です。国内盤と混じりました。すみません。 1954バイロイトの荒れ方を知っていると1951EMIの方が本番かも、と思う事はあるよ。
1954が狂っているのは難聴のせいかも、とは思うが聴いていて面白いので好き。 BIS盤の登場によって、本番よりEMIがレコード化したゲネプロの方が白熱した演奏であったということがわかった。
ゲネプロで力を出しすぎて本番は整ってはいるがどこか冷めた演奏になったということなんだね。
必ずしも本番が最も優れた演奏にはならないという事がここでも実証されたことになる。 EMIの演奏前の拍手(足音&会話)はゲネプロ時のものということでOK? 1950年代のライヴ録音を追うと
本番前のゲネプロで正規のレコーディングをして
本番は放送で実況というパターンが結構多い。
おそらく演奏会に合わせてスケジュールを押さえた方が
オケの手配からホールの予約まで都合がいいからだろう。
例えばワルターのマーラー作品などは
最近になって正規録音後のライヴが出ているが
宇野珍の評価ではライヴのほうが力強いという。
バイロイトも本当のところゲネプロを本命としていた
可能性もある。 EMIバイロイトの問題は
例えばベト7の細切れテープは都合3テイク録って
そのうちから良いものを選ぶという方法だったが
バイロイトの場合、第九のゲネプロは当日1回のみ
レッグが交渉したのか、破格の2回目が行われた。
観客入りのゲネプロでは咳まで入って未消化のまま
レッグが望むような内容ではなくお蔵入り。
巨匠に「大したことはなかった」と言ったのは
おそらく自分の仕事に成果が出なかった不満だと思う。 バイエルンが出た時点で語り尽くされたこととは思うけど
最後が崩壊したからこそこれほどの伝説的名盤になったんだろうとは思う いわゆるEMI盤の平林復刻盤と、放送録音盤と比較すると、前者の方が音質は格段に優れている。
おそらくEMI盤は特別にマイクセッティングした2回のゲネプロを編集したものなのだろう。
演奏もEMI盤の方が優れている。 EMI版の評価ってライブなのに余裕のある演奏でさすがだな
だと思ってたwBRだと普通に緊張していた 宇野珍の「虚無の中から聞こえて来るように」の名文は100年後も語り継がれよう。 ちなみにBIS盤ではBR盤で抜けてた熱情がしっかり刻まれていて
いわゆるダイレクトカッティングの醍醐味が味わえるだけでも
個人的には良い買い物だった。4楽章からBR盤に入れ替えると良い。
録音レベルが変動するのにドキドキするのは悪い癖かもしれないが
実際のフルヴェンの演奏もそうだったかもしれず、課題がひとつ増えた。 要するに、今となっては当時に記録されたほんの少しの真実と
その後に産まれた君たちの多くの空想が残るだけ
と言う事さ もうひとつの興味はバイロイト〜ヘルビー間の国際有線回線の音質だったのだが
これが想像していた以上に品質がよく大きな収穫だった。
実は1940年代にシベリウスはテレフンケン製の高級ラジオを愛用していて
フィンランドの田舎暮らしながら、海外の放送で自作の演奏を聴いては
小まめに感謝状を添えた手紙を出していた。
http://cent20audio.html.xdomain.jp/image545.jpg
このラジオはスーパーヘテロダイン+2wayスピーカーのHi-Fi仕様だが
海外の実況放送なら短波受信だとばかり思っていたら
今回の有線実況の音質を聴いてあらためて関心した。
イギリス〜スカンディナヴィア間の海底電信ケーブルも歴史があり
ロンドンからの実況中継は一端有線で受けて流した可能性が高まった。
https://www.wikiwand.com/en/PK_Porthcurno 今回のバイロイトの第九について、発売元のBISでは
発見したテープの音量を元のままいじっていないとのことだが
聞こえにくいmpの音量とffに達したときの爆音との間で模索する
不安定な音量の振れが、録音時のレベル操作なのか
そもそもフルヴェンの演奏の特徴によるものなのかの区別が付きにくく
本来はこっちのほうが注目したい内容だ。
アセテート盤へダイレクトカットした音の鮮度といい
エキセントリックな風情は印象として1942年のベルリンの第九に近い。 BIS盤の魅力・特徴について(まとめ)
ティックノイズやサーフェスノイズが聞き取れるので、
放送局の元々の録音はテープではない
おそらくアセテート
今回、BR盤がBIS盤と一致して、本番演奏であることが確定、
これにより、EMI盤はリハと本番のハイブリッドが確定
EMI正規盤には、本番演奏が混入している(※)
(※)モストリークラシック最新号
BIS盤はBR盤と同じ演奏ではあっても、BR盤に抜けてた熱情が
しっかり刻まれていて、アナウンスや拍手が収録されることで、
当日の演奏会を追体験できる価値を持つ
ということで理解したが、これでよろしいか? そこまでいわれちゃBIS盤買わざるをえんな
次の30%クーポン時に買うわ
だがなー平林さんの日本語解説がどこまで充実しているかにもよるから
そのレポのあとにしようかな
とりま、フリとして
モストリークラシック最新号買ってくるわ(笑) モーストリークラシックのステマかよ
金出してまで読むようなものじゃないわ モストリークラシック最新号
いよいよ「真実のバイロイトの第九」が登場! 徳岡直樹
この時点でこのスレ的には終了だろ! 平林はEMI盤の最後の加速を根拠にこうした白熱した演奏は本番でなければなし得ないと協会盤が本番だとする発表に疑問を呈していただろ
いまさら何を解説するんだ? これで徳岡がまたユーチューブでダラダラと喋って金儲けか、ライブと動画を2本作って
お賽銭もウホウホ BIS盤の解説
おことわり(BISは音をいじってません)
ベートーヴェンの第九の歴史
フルトヴェングラー略歴
歓喜の歌の歌詞
録音データと会社紹介
中綴じ
王立オペラとグレン・グールドの
ヒスリカル・ライヴの広告 >>286
>EMI盤の最後の加速を根拠にこうした白熱した演奏は
>本番でなければなし得ない
有力な評論家がこういう無理やりな自説を述べることで、
混乱していたが、ようやっとこれで決着かと 演奏の完成度としては本番の方が高いのにゲネプロなんかを出したレッグの意図がわからん。
シュヴァルツコップ、なんか気に入らないところでもあったんか。 BIS盤については4楽章の「歓喜の歌」直前で欠陥があるので
これまで知られていても商品にはならなかった可能性がある。
アセテート録音だということもハンディキャップと受け止められる。
既にEMIが正式のレコードを出しているし
その内容が違うということを誰も疑わなかったということだろう。
私が関心するのは、フォン・バール社長が元テープの内容のまま
音量調整やゴミ取りもせずにリリースを決意したことだ。
元々、BISの初期の録音方針がミキシングで音をいじらず
生演奏のダイナミックを素直に出そうという感じだったが
そうした思いが過去の録音に対しても一貫していることを
証明した格好だ。 >>291
>ゲネプロなんかを出したレッグの意図がわからん
レッグは本番の演奏に満足していなかった
有名な話だし、それがすべて
レッグはあろうことか、フルトヴェングラー本人にそう伝えて、
マエストロに強いショックを受けた、と未亡人が証言している
ただし、レッグを擁護するならば、EMI正規盤はゲネプロに加え、
本番も含めて編集されているのが、改めて確認されている
ゲネプロだけの録音ではない 一番面白いのがカラヤンは人工臭くていかん、フルトヴェングラーがバイロイト戦後復帰という歴史的行事の一発勝負で振った第九こそがカラヤンの上部だけ綺麗に取り繕ったスタジオ録音とは一線を画する精神性の深い真の芸術だ
ってのたまってた評論家どもが実はそれまで崇めてきたバイロイトの第九はカラヤンを贔屓にしてフルトヴェングラーに忌み嫌われていた憎きレッグにより編集されたものだったと判明して面食らったこと BISが音量調整をせずにリリースしたことには課題があって
デジタルだとピークから逆算するため、通常の音量が小さすぎる。
ボリュームが9時だと12時くらいまで上げて普通になるが
今度はffのときの爆音やスクラッチノイズとのバランスが悪くなる。
この悪循環が通常は欠点とみなされるのだ。
こうした場合、一般にはコンプレッサーを掛けて音量を整えるが
おそらくオルフェオ盤のほうは、それで冷めた雰囲気になってる。
オルフェオ盤の冷めた雰囲気は、高域を持ち上げた独特の
イコライジングにあるように思っていたが、表情も抑え気味なのだ。
BIS盤はよくも悪くも不安定で荒れた雰囲気で進行するが
面白いことにBIS盤を聴いた後にオルフェオ盤を聴くと
やや潰れていたディテールが把握しやすくなる。
フルヴェンの本来のダイナミックレンジはどうなのかは判らないが
元団員のインタビューでは、基本的に小さい音量で通すというので
おそらくBIS盤の音量差が実際に近いのではないかと思う。
どうやらレコーディングのセオリーに毒されていたのかもしれない。 >>297
レッグEMIの方針は名盤と言い得るレコードを製作することにあって
ライヴを記録として正確に保存することではないと思う。
同じことはVPOとの英雄やベト7の評価についても言えるし
逆にライヴでも駄演の烙印を押された演奏が少なくない。
そこを勘違いして、ライヴだからという前提条件をつけて
フルヴェンの芸風をステレオタイプに仕立てた影響が大きい。
おそらくバイロイト公演後の投げやりな態度は
録音権は金で買ったものの、自分の思う通りに動かない
運営委員会(ワーグナー一族)への怒りと諦めかと。
その点、若いカラヤンは自分の化身となってくれる
レッグにとっては良い操り人形のようなものだった。
一方では、フルヴェンと揉めたモーツァルトのオペラも
カラヤンよりE.クライバーのほうが上品にまとめたし
新バイロイト様式を征したのはC.クラウスだった。
実は目利きが落ちてきたのはレッグ自身かもしれない。 >>297
バイロイト盤が「一発勝負」だから良い、という論調なんてあったか?
見た記憶ないんだが 徳ちゃんの「真実のバイロイトの第九」という見出しが気になったのだけど
これまで言ってることをまとめても「実際」とか「事実」の間違いだよね。
しきりにEMIの演奏が良い悪いは関係ないと言ってるけど
そこが芸術にとって一番大事なところ。その論評を避けた真実はない。
思うに演奏の良し悪しの理由を「ライヴだから」というのは事実誤認。
だけどそれとレコードの芸術的な価値がどうかは改めて問うべきだし
正面から対峙するならEMI盤の批評を自分でしっかり書くべきだ。
テープの継ぎ目がどこにあるかで芸術の価値って変わるもんか。 今後EMIの方は「レッグの第九」と呼称するということで 「レコード芸術」は難しいんよ
フルベンのライブはあまり詳しくないんでホロヴィッツのライブで言うと
有名な1965年のヒストリックリターンのライブでは
シューマン幻想曲の2楽章の玉突き跳躍をはずしていたのがレコードにはないねと
ショーンバーグがねちっこく質問したり
ゴールデン・ジュビリーのラフ3協奏曲の最終部ではオケとピアノがずれまくったのに
レコードではちゃんと合って大歓声で終っていたり(笑)
ライブのままで発売すると傷モノのまま永遠に残るが、修正してでも感動実話として残すか
傷があってもライブのまま真実を残すべきだとする原理主義で行くか
とりま
伝説の演奏会を、ああすばらしいなと部屋でヌクヌク聴けて、いやホントはこうじゃないんだと
5chでワチャワチャすると2倍楽しめることが日日是好日でいいじゃないですか(笑)
>>303
いいね!(笑顔) BISの第9が家に届いたので、とりあえずスピーカーから出して聞いてみた。
テノール独唱と歓喜の合唱のクライマックスの間の器楽のフーガで、一か所大きなドロップアウトがあった。
音はテープ直接起こしのセンター盤よりも悪いなりに、センター盤のように第4楽章での顕著な劣化は無く、安定して聞ける。
ドロップアウトさえ無ければ観賞用として十分通用したのに、このたった一か所のストンという音の脱落は残念だ。
自分でPCに取り込んで、音楽編集用ソフトで落ちた箇所を持ち上げて、2枚のCD-Rに分けて焼こうかな。
そうすれば、「もう1つの51年バイロイトの第9」として、単なる資料でなく、鑑賞用に聞けそうだ。 >>302
まあ、記事の見出しは編集者がつけるものだから BIS盤とオルフェオ盤とで何が印象を変えているかというと
BIS盤が音符の終わりにウンと力の入った間合いがはっきり聴き取れるのに対し
オルフェオ盤は恰幅の良い鳴り方をするけど、音符の終わりがドーンと流れる。
だけどBIS盤を聴いた後にオルフェオ盤を聴くと
BIS盤の間合いのリズム感が体のなかに沁みついているので
最初に感じた冷めた感じが改まって温度が上がってくる。
この音符の切れ目の気合いの差がどこから来てるかというと
テープの劣化で音が鈍っているというのも当然あると思うけど
スクラッチでパルス成分をもつディスクレコーダーの特徴もあると思う。 ではBIS盤とEMI盤を聴き比べると
EMI盤のそれは、もっと戦場の真っ只中という感じで
フルヴェンは自分の術中にどうやって引き込もうかタイミングを見計らう
オケが自分たちの持ち味を知ってもらおうと色々と投げかける
そんな状況での駆け引きの激しさがスリリングと感じるのだろう。
逆に言えば寄せ集めオーケストラという感じも拭えない。
あえて言えばオルフェオ盤の音響スタイルはEMI盤と似ていて
本番に見事に意思統一されてアンサンブルが揃った分だけ
逆にアッサリとした感じに聞こえる。
そこがBIS盤は引きの強さで情熱の部分はEMI盤と全く互角にまで昇華し
むしろベルリンフィルで聴くような有機的に一丸となって突進していく。
1942年盤と似た鬼気迫る印象なのは、そのせいでもある。 42年盤に近いということは正解に近いということかもしれない
年を重ねて表現が深みを増したとか胡散臭いもん 宇野先生 これ映画だと
EMI:劇場公開版(プロデューサーによる編集や追加撮影あり)
BR/BIS:ディレクターズカット(オリジナル)
みたいなものなのかね
いずれもフルヴェンの素材を使ってるのでどちらも彼の第九なのだが
ドキュメントでなく最良の演奏を聴きたいならEMI盤は個人的には最初に接した
ものとして絶大な存在だ
ただvor Gottは今となっては受け入れ難いが BIS盤・BR盤は、EMI盤の価値を何ら減ずるものではない
本番より、ゲネプロの出来が良いからそちらをメインで使った、
という判断は全然アリ
最後の崩壊を含めて、EMI盤のほうが概ね出来が良く、
いかにも本番ぽいから、BR盤こそがゲネプロだ、などと
ワケの分からないことをいう評論家すらいたわけで
ただ、EMI正規盤の例の拍手が、本番とはまるで別物だった、
というのは正直、ちょっとモヤつくところがある 生前の宇野功芳さんに聴かせたかったわ>BIS盤
どんな感想を述べただろうね >>311
あえてネチッこく言うと
レッグの手元にあったテープを優先して使い
本番の演奏は穴埋めとして使ったという可能性も否定できない。
彼ほど自分の注文にうるさい人間も居ないからだ。
巨匠の死後にカタログから抜けた第九の選別段階で
ルツェルンかバイロイトかに絞っていた理由は
EMIが自由に使っていいフィルハーモニア管の演奏と
録音権を買い占めていたバイロイトということになる。
けして演奏としてベストという選び方ではなかった。
逆にローマの指輪は交渉に難航してテープを失っている。
もしかするとカタログの穴埋めはEMIから託されたやっつけ仕事で
この件に関してレッグとしては珍しく夫人に意見を聞いて
録音状態が良くないバイロイトのほうを選択した。
しかし結果的にはフルヴェンのライヴ演奏の初レコードとして
稀代のベストセラーとなったのだから世の中判らない。
レコードプロデューサーの作為を感じない素顔のフルヴェンが
とても魅力的なことに誰もが気付いたのだ。
しかしその素顔も作られたレッグ劇場の手の内だったと知って
ショックのあまり怒る人が続出しているのだと思う。
個人的には無作為の作為ということで責められてる感じもする。
全ては偶然のイタズラとして進行していたのだ。 今日届いたからさっき通して聴いた。
諸兄の感想と同じように、EMIのはニコイチでしょうね。
センター盤を聴いて、第一報に近い書き込みを
したような記憶がある。あれはマイクが遠い感じで、
ドライな細い音質だった気がする。
ORFEO盤は、少し、ふっくらした感じだったような。
今回のBIS盤が一番、ルームエコーを感じた。
4楽章の欠落は、PCで波形をいじれば簡単に
消せるんじゃないかな?
それにそんなに気にならなかった。
ティンパニが結構ドカドカ響いてた。
あと金管のハイトーンも派手に響いてた。
どっちも、微妙にビリついてたかな?
メロディアの第九のデルタ盤が好きなら、
わりと気に入るんじゃないかな?
センター盤やORFEO盤より疾走感を感じたけど、
ハヤマワシではないような。音質の違い?
演奏後の拍手が、フェードアウトしつつ
アナウンスがかぶっていったから、
演奏中も手動で放送用の音量は適宜調節してた?
最後のアナウンスが、まだ話してるのに
フェードアウトしてません?
放送または録音が尻切れ? スピーカーで聴く分には、パチパチノイズは、
そんなに気にならなかった。
何カ所かで、おっ? というのは入ってたけど、
まぁそんなもんかな。
合唱や独唱が、感じよく録れてると思った。
会場の音響とマイクの位置が良かったのかな?
どういえばいいのか分からないけど、
EMI盤より若々しい演奏に感じた。
EMI盤の方が重々しいというか、安全運転というか、
羽目を外さないというか。
同じ演奏のはずのセンター盤を聴いたときは、
なんか不完全燃焼だなぁと思ったんだけど。
今回は演奏前の観客ノイズや演奏後の拍手で、
ライブ感を何割増しかに感じたのか? どうしてみんなそうやってBIS盤を買わせようとする(笑) >会場の音響とマイクの位置が良かった
BRとBISは一緒のマイクで収録されていて
BRは現地でマグネトフォンを使用しての録音
BISは有線回線を通じた実況音声をスウェーデンでアセテート録音。
違うのはBRはFM送信のためリミッター(Amplitudenbegrenzer)を
使っていた可能性のあること
http://nvhrbiblio.nl/biblio/tijdschrift/Funktechnik/1949/FT_1949_Heft_05-OCR.pdf
(放送が放送局を離れる前に、1.55Vを超える電圧ピークを遮断する
振幅リミッターを通過する可能性があります )
逆に古い有線回線のほうはリミッターを使わずに伝送され
BIS盤は音量レベルの起伏が激しく不安定に感じる。
ちなみにRIASは手動でボリュームを調整していて
1953年のベト7は操作ミスの形跡が残っている。 リミッターについては1950年代のFM受信機にも装備されていて
以下に回路や特性について詳しく述べられている。
https://www.radiomuseum.org/forum/fm_zf_begrenzer_1.html EMI盤とBR盤の熱情の違いの現況は
収録時にリミッターを使用していたかいないかの問題で
EMIはもちろん使用していない。BRはFM送信用に使ってた。
一方でリミッターを使用していないBIS盤を聴くと
同じ演奏でもかなりカロリーが上がったように感じる。
録音機の違いはBTR1(EMI)、マグネトフォン(BR)がテープ録音機
プレスト社ディスクレコーダー(BIS)が使われた。
これらは録音機の違いよりも、マイク位置、送信方法などのほうが
音質への影響の大きいことが判る。
BIS盤のテープは収録されてそれほど年月の経たないうちに
アセテート盤からダビングされたものと推定される。 こういう解説は徳ちゃんも平ちゃんも書けないでしょ。
オーディオマニアもそれなりに役に立ったと自負する。
フォン・バール社長も歴史的背景をしっかり書いてほしいな。 普段の連投には辟易するけどこういう具体的な話は面白いね
ユニークな観点というか 5chで書き捨てるには、もったいない内容とは思う
本来、レコード芸術あたりにこうした文章が載って、
おかしくないが、期待できなさそう
もったいない マジでほほうだね
好きこそものの上手なれ
徳さんも平さんも参考にしそう(笑)
そして相変わらず嫉妬に狂ういつもの人が単発で発狂しまくっている(再笑) BISの今回の仕事には色々と示唆を受けるものがあって
これまでヒストリカル系のレーベルでは気付きにくい疑問を
ストレートにぶつけられた感じがしてる。
古いラジオ用有線実況回線、アセテート録音機
録音の質そのものは良くないというか、全く整っていない。
しかしフルヴェンのダイレクトな音楽の起伏の激しさが
70年の年月を超えて飛び出してきた感じだ。 BR盤との違いがここまではっきりされたら、もうBIS盤買うわ
BR盤もセンター盤も持ってないけど(笑)
たぶんだが、そこまではっきりと印象づくのは、SACDの恩恵も大きいと思う
はやくHMVで30%クーポンやらんかな ゴミに騙されてセンター盤買ったアホが発狂してるのか フルトヴェングラーのバイロイト録音をゴミ扱いしたらあかん
そういうとこだぞ、タコツボ君(笑)
はよ巣である離隔スレにお帰り >>333
自分はCDしか聴かないのでSACDレイヤーの音質は判らない。
でも音量差が大きいのでSCADの意味はそれなりにあるかと。
それとBR盤は全体に音が整っているので記録として価値は高い。
BIS盤はその捕捉として聴くと色んな発見がある。 よく木を見て森を見ずとは言うけど
BR盤が森全体をドローンで見渡す感じで
BIS盤はもっと近づいて木肌や葉ぶりに触れる感じ。
両者があってパースフェクティヴとディテールのバランスが取れる。 本番後に、レッグが巨匠に、イマイチの演奏でしたなぁと
言って、巨匠が落ち込んでたという逸話と、
センター盤とオルフェオ盤の、こぢんまりとした音で、
まぁ、やっぱりニコイチにして品質を上げたんやねぇと
思ってきたけど、今回のBIS盤を聴くと、かなりノリノリで、
祭りだヒャッハー!みたいな推進力で、こっちの方が、
現場で聴いてた聴衆の体験に近いんじゃないかと思えてきた。 当時のアセテート盤って、片面、何分まで彫れてたんだろう?
ヒトラーの第九は、エアチェックしたアマチュアが、
片面だけの盤の10何枚かに録音してたのが古道具屋に出てて、
盤の交換時の空白はメロディアの第九で補完したとかいう
ストーリーになってるけど。
BIS盤は、片面で80分超えの機材がなかったとしたら、
切れ目がないように、複数の録音機を回していたはずで、
第4楽章のあれは、なんだろう? >>340
いつの時代もヲタは趣味の範囲に限定で有能だな >>337-338
なぜBR盤まで買わそうとする(笑)
>>339
そのヒャッハー!を感じたくて聴きたくてライブ盤に手をだしちゃうんだよね NGワード扱いでURL貼れなかったんだが
はてブロのデジタルオーディオあれこれ
っつーとこの
バイロイトの第九。フルトヴェングラー色々。
って記事、このスレの住人からすると内容はどうなん?
BR盤とEMI盤に含まれる電源由来ノイズから、両者を比較分析しとる。 EMIにはリハーサルとライブのリミッターのかかってない音源が残ってる可能性あるのね
そりゃバイロイトの第九にライブ音源を使ってるならそうなるか >>188
新しい55CDのエンジニアがベト7の細切れテープを検証したとき
EMIが使ったBTR1レコーダーには独特のゴロ音が付随してると言ってた。(>>188)
それもテープを何度も使い回したというので、2本の線は機種違いかと。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/x/xx3stksm/20211026/20211026213357.jpg 書き添え忘れた。
>>348の2本の線は癖の違うテープレコーダーのダビング跡だと思われます。 あともう1点。オルフェオ盤の8kHzから遮断されているのは
当時のFM放送規格が10kHzまで(1952年から15kHz)だったからかと。
BRがFM送信用の音声をテープ保管したという仮定と辻褄があってきた。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/x/xx3stksm/20211026/20211026224115.jpg
この人にお礼でも言っといたほうが良いかしら? >>347
>EMIにはリハーサルとライブのリミッターのかかってない音源が残ってる可能性あるのね
そうね、その2つの音源が発見されたらまた大騒ぎが始まるんだろうなw
でもマジ、会社の総力をあげて探し回ってほしい・・・ >>350
すまぬ
xx3stksmドットhatenablogドットcom/
ドットのところだけ打ち直して下さい こうなったら、次は未編集のリハーサルの第9だな(笑)
たぶん登壇してすぐにコンマスに話しかけるやつ >>353
最高に面白いよ。
映画に出てくる謎解きみたい。 普通に「はてブロのデジタルオーディオあれこれ」でググると2番目にヒットする
リード文が
>うちには、EMI盤の本家ではないけれどドイツ発売のレコード、生誕125年記念のSACD、
>いわく付のORFEOなどがやっぱりあって
とあるので、もうバイロイト盤だろとすぐわかる
オルフェオもSACD化してくれればポッチするのだが
いや既に何周か遅れなので、もう出ているのかもしれないが(笑) レコ芸は来月号でちゃんとページ割いて解説という名の宣伝しないとw フルトヴェングラーをナマで聞いたこともない低能児が偉そうに能書きたれるんだから
おかしくて笑えるぜ
知ったかぶりのナルシストにはあきれてモノがいえない
みんなレコ芸の糞評論家の受け売りしてるだけじゃねえかw ライヴという前提を抜いて、EMI、BR、BISのそれぞれの特徴を
ニュートラルに評価することが必要だったのだろう。
でもこれだけバイロイト初日のドキュメンタトが揃うと
時系列で整理したり、舞台裏の事情とかまとまりそうだな。
これまでEMIのバイロイトの第九の製作1点に絞られてたけど
このお祭り騒ぎを一連のドキュメンタリーにできるわけだ。 >>359
それにBISの日本盤の取り扱い先は・・・・キングインターナショナルw
年末に向けて今頃日本語ライナー書いてもらってるのかなw 国内仕様盤は平林直哉氏による日本語解説付きです。12/1発売。
(輸入元情報) 平林氏はどんな解説を書かれるのだろう?
日本盤を買うつもりはないが、ちょっと興味がある
というのも、氏はOrfeo盤について、これは本番ではなく、
ゲネプロだろうと述べていたと、記憶するからだ
この評論家は、ご自身でレーベルを立ち上げ、CD復刻を試みるなど、
一目も二目もおかれる重鎮なので、Orfeo盤=ゲネプロ説は
長く説得力を持っていた
ちなみに、このコンサート当日、本番前に全曲の通し稽古、
いわゆるゲネプロがあったことは、シュヴァルツコップの証言が
残っている まあこれがEMI盤の正体だったわけだが、
レッグが本番の演奏の出来に不満足だったこともあって、
結果的に、「より出来の良かった」ゲネプロをベースにして、
EMI正規盤はきわめて巧妙に、本番演奏を含めて編集されたと
とまれ、これで疑問点は決着したわけだが、そのへんも含めて、
氏がどんな解説を書くのか、とても興味深い 1951の録音が今出てくるのは、著作隣接権の70年を待ってただけだよな。 はてブロのあの記事で、EMI盤とBR盤の関係性や編集箇所について完全に証明された感じ? >>365
55CDのエンジニアはこの手のノイズに少しフィルターを掛けたというから
今後はまた証拠が遠のく可能性あり。
日本のフルヴェン愛好家は色々としつこいと思われてるだろうな。 >>297
???「カラヤン悪く無いぞ〜みんなが言うほど悪くないぞ〜」←レッグ氏の回顧録昔読んだけど、古便よりこいつのインパクトが強すぎる。古便は内気で嫉妬深い人つー印象しかない。 >>345
すげぇ〜。読んで納得しました。
年末に出て来るスウェーデン放送のテープが
如何なるものかは興味深い。
こちらは生中継はしていないだろうと思う。
不可能ではなかったにしろ、
放送事故の確率は高いし、音質的にも難がある。
会場で録音したのを後日放送したのでなかろうか。
という部分も、納得。
気になるのは、演奏後の拍手がフェードアウト
しきらないうちに、アナウンスが被っている
というところ。 有線でリアルタイムに流れてくるのを盤に彫りながらの
拍手に被せたアナウンスの録音なら、
拍手のモニターをしながら、フェードアウト操作をしつつ、
アナウンサーにキューを出して、アナウンスを
被せないといけないし、アナウンサーがトチっても、
やりなおしが出来ない。
または、アナウンスは予め録音しておいたOKテイクで、
有線で流れてきてる音をモニターしながら
アナウンスを再生して被せる。でも、これもリスクがあるような。
またはバイロイトの現場から、アナウンス入りの音声が来たとか?
まぁ、エンジニアもアナウンサーもプロだから、
失敗しないというのが前提だったのかもしれませんが。
アセテート盤が連続15分しか録音できないのに、
それより長い楽章もあるし、演奏は1時間を超えているんだから、
DJみたいに皿を回しつつ、盤の交換を気付かせないように
ラジオで放送するのは難しそう。LPなら可能でしょうが。
結局、速攻で数枚のアセテート盤から1時間以上ある
テープに移して、アナウンスは、その際に被せたんじゃ
ないかと思います。そしてテープを放送では?
今回のCDは、そのテープからでは? あとの課題はどのライヴが真正かという議論の裏にある
・フルヴェンの演奏活動と記録保護の正確性を求める団体(協会・研究会)
・フルヴェンのレコード芸術の歴史的継承を求める団体(レーベル・レコード雑誌)
等々、それぞれの目的と言い分を切り分ける必要がある。
どちらも目的が違えば議論が平行線なのは当たり前。
そういう意味では、これまで外野だったBISから投げられた波紋で
フルヴェンにまつわる保護とか継承とかいう足枷を
一度リセットする口実にするのも悪くないような気がする。 演奏前のアナウンスは、ドイツ語、フランス語、英語、スウェーデン語なのに、
演奏後のは、なぜスウェーデン語、ドイツ語だけなんだろう?
最後は尻切れみたいにも聞こえるんだが、スウェーデン語は分からん。 まぁ、EMIのはリハと本番のニコイチで確定として、
今回のは、演奏はリハ100%で、前後に聴衆ノイズや拍手を
付け足したなんてオチは、ないですよね?
または権威が、実はそうなんだ!とか、その可能性も
捨てきれないと言い張るとか。 >>369
同じ頃のブサンソン音楽祭、NBC放送のライヴなどでも
拍手にアナウンスを被せるのは当たり前だったし
通常はアナウンス入りのほうを放送録音として真正としている。
ただ最後のフェードアウト直後はテープコピー時のものだろうな(プチノイズなし)。
末尾はバイロイト音楽祭の商標を示すようなもの。
以下はその他の疑問点に対するもの
・アセテート録音機は2台連動して切れ目の出ないように録音可能
途中で盤を入れ替えるのは、片方が録音している最中に行う
・バイエルン版にない放送事故が4楽章で起きている
これがなければバイエルン盤の配信用コピーだと思った。
・音量レベルがあまりに不安定で後から整えた形跡がない
実況回線の音声のまま録音・保管されたと考えられる
・テープコピーしたのはアセテート盤を処分したときと思われるが
音の鮮度から考えてかなり早い時期にダビングされた
・テープに移した理由ははっきりしないが再放送の可能性あり
(EMI盤が出る前か?) 一言で言えば、今度の録音テープの発見は事件であった。
ということ? 有線で流れてきたライブ音声を、15分しか録音できない
アセテート盤で録音。
例えば、録音機Aでディスク1に録音開始して14分経ったら、
録音機Bでディスク2に録音開始、録音機Bで録音開始してから14分で、
録音機Aでディスク3に録音開始、そうやって1時間強の音声を録音。
放送時に、ディスク1、2、3、4、5を順に再生しても、
ダブりが出てしまうのでは?
演奏のどの部分で、各ディスクが尽きるのかは、運しだい。
結局は、ダブらないように、アセテート盤から慎重に職人技で
テープに移しておいて、放送するのはテープからですよね?
25分録音出来るアセテート盤なら、なんとか各楽章が1枚に、
合計4枚のディスクに入りそう。
放送用音源を録るためのリハなら、15分ごとに演奏を
止めりゃいいわけですが。 ニコイチとと言えば49年のブルックナー8盤EMI盤もそうだったんでしょ?
こっちはなんで騒がれないのか >>345
「デジタルオーディオあれこれ バイロイトの第九。フルトヴェングラー色々。」で検索しました youtubeの動画では
仏 FALP-381/82復刻 「崩壊」無し、拍手無し
日Angel (おそらくHA-5086/7)のサムネ 「崩壊」無し、拍手有り
英 ALP-1286/87復刻 「崩壊」無し、拍手有り
独再発LP (おそらくSMVP-8051/52 疑似ステレオ)復刻 「崩壊」有り、拍手無し
オープンリール復刻 「崩壊」有り、拍手有り
英国盤復刻の最後の音はなんとなく音程が悪いように聞こえる >>378
複数回の演奏を編集して発売するなんて当たり前のことだろ >>382
だろ?
んでバイロイト第九の件ではなんであんなに騒がれるんだろう 1951年のバイロイト、クナッパーツブッシュのパルジファルでは
ゲネプロとライヴの混合ということをカルショウは明らかにしている。
レッグがこのことをはっきりさせなかったのは、記憶が曖昧だったからだろうか? しかしEMIがバイロイトの録音権を7年間買い占めて
ほとぼりの冷めた2008年にバイエルン放送盤
さらに没後70年を経てスウェーデン放送盤
歴史が動くというのはあるんだな。 カイベルト指揮のリングを長期間お蔵入りさせてるとか、レッグはろくでなし >>385
明らかにしているとは
初出のレコードにそういう記載があったということ? EMI盤の「崩壊あり」と「崩壊なし」って、そんなに違うかね?
「崩壊なし」というのは「あまり崩壊していないように聞こえる」
というのが妥当な表現なんじゃないの? その人、文章力というか、
文字かいて伝えるという技術劣悪だから
ヲタのデータ部分でもつながり不明だったり憶測と事実が判別難しかったり
よくある自己満足自己顕示で
賛同者というか、すごいね、って
言ってもらえれば良いだけなんだよ
結局、頭のなかの整理自体も主観的なので
技術解説としても録音評価も
詳しくないものにとってすら怪しんでしまう
ましてや芸術批評なんて全く❌❌
へー熱心ね、いろいろ知ってるみたいね
ああそうなんだ、くらいの対応が
こちらがかき回されずにちょうど良い
すっかり感心している人がいるから
やめろと注意喚起する人もそりゃ出てくるよ
ま、たくさんのデータを提供してくれているから、お疲れさんと言えよう(笑)
だが、この人の書き込みの受け手は常に自分の頭と耳と心で確認、これ常識、鵜呑みは誤嚥性肺炎でアウトの危険あり(笑) なんだろ
何とかして人を貶めたいという熱意だけは凄く感じる(笑) 誉めてもらえて嬉しい
どう理解したかは
私の知ったことではないが
マンガによく出ている動物の種類的には
ウスノロバカ類と思えて仕方がないねえ
わざわざそんなこと書き込むとか(笑) 単発IDでわざわざそんなこと書き込むとか
効き目がかなりあったようでなにより(笑) 嬉しいな
バカに相手してもらえたよ〜
まねっこオウム返し付!なんて、セクシーby進 >>390
センター盤バカにされて発狂したか?
反省して二度と詐欺師に金を出さなければお前は幸せになれるんだからいいじゃねえか
自分が正しいと信じるために他人に当たるなんて迷惑だよ
過ちて改めざることこそが過ちなワケヨ >>395
根っこが腐ってる人が
論語読みのなんとやらしちゃって
典型的◯出し、お大事にね。
安らかに逝くのもいいかも(笑)
そもそもフルベンで音がどうのこうのって
音聴きがこねくり回しても何も出てこないよ。
劣悪な再生音からもフルベンの芸術を
汲み取れない人は、
その人のなかにフルベンとのコレスポンデンスが
ない
それだけだよ
良い音で聴けば接近できるというのは
持っていないものの願望幻想
音ヲタに振り回されてるなんて
何歳だろうが大人でないって(笑)
それにほとんどの指揮者が言ったりしてる通り
毎回同じように作ってるわけでもないし
でも指揮者の個性は随所に現れるし
ま、論語読みのなんとかのあんたには
まるで分かんないだろうけどね(笑) EMI盤をライブと考えていた人たちを責めるような言い方も気に入らないな
どう言い訳するかって?
演奏なんてものは複雑なものなんだからその程度の認識違いは日常茶飯事だぞ
むしろ「ライブらしい熱気がある」という捉え方は「編集の跡がどうの」みたいなキモオタよりよほど健康的だよ
事実は違っても、そのように聞こえる、別にオカシイことじゃない
音楽に演奏に何を求めているのやら? >>388
カルショウの手記に記載、との記述をどこかで読んだことがある。
もっとも、英語の不得手な自分としては、カルショウの手記を
原語で読んだことはないし、何年か前に日本で刊行された
山崎浩太郎の新約も読んだことがないので恐縮orz 2007年の時点で、
桧山浩介さんがこんな解説をされている
実に的確な分析で舌をまく
>部分的に両録音が一致する箇所がある。
>とくに第3楽章の後半は両録音は完全に一致する。
>しかし大部分は明らかに別演奏だ
>従来のEMIのバイロイトの第9はその大部分が当日の
>リハーサルの録音で、一部に本番の録音が
>挿入されていると考えられる
>EMI盤に比べると、合唱は従来のものよりも一段
>精度が上がっている。冒頭のバリトンソロに続く
>男声合唱やコーダの部分での合唱の乱れもなく
>フルトヴェングラーのタクトに完全に反応している。
>従来から疑問視されていた問題の“vor Gott”の
>最後の瞬間の唐突なクレッシェンドもない。
>おそらく今となってみればこのクレッシェンドは
>レッグによるお化粧だった可能性が高い
桧山さん、凄すぎるわ・・ >>385
>>398
はっきりさせるも何も>>382の言う通り
「複数回の演奏を編集して発売するなんて当たり前のこと」なので
わざわざ公表する意味がなかっただけのこと
カルショーの本では1枚のディスクがどのように作られるかという文脈で語っているので
ゲネプロとライヴの混合という舞台裏を明かした 通常運転にもどってなによりですね
バカはちょっとムカつかせてさっさと流すにかぎる(笑) >>399
桧山さんの価値を再確認した。
この時、レッグは商売人だし、とレッグがプロディースしたフルトヴェングラーの録音嫌いになったけど。まあ、そんなに重要な録音はして無いよね、レッグ。
リパッティのショパン ピアノ協奏曲の時もアレだしったし。売れたら何でもいいんだろうな。 >>401
本場のキムチの人
あ、スレ間違いました
すみません >>401
>通常運転にもどってなによりですね
>バカはちょっとムカつかせてさっさと流すにかぎる(笑)
と豊田自動織機がのたまわりました
↓
封筒が薄いと思ったら豊田自動織機が中間報告書を簡略化しやがって今日一ムカついた
バカな株主って居るんですねえ
会社もムカつかせてさっと流してますよ
意味不明のかたは401に訊いてみてくださいね、親切な人だから 長々と怒ってる人は
EMIを擁護したい人なのか?
BR/BISを擁護したい人なのか? ライヴであるかという点だけで評価を下すのは間違い。
3者にはそれぞれの持ち味がある。
EMI:ゲネプロ中心の編集版。マイク位置が奥まってるがHi-Fi規格でディテールも明瞭。
BR:現地放送局の実況録音。FM送信用のリミッター、フィルターで表情が抑制。
BIS:国際有線回線の実況録音。アセテート盤リミッターなし。ディテール明瞭も4楽章に傷。 あーそうだったのか
明日は新箱のCD54聴いて偲ぶわ >>409-410
一番フルトヴェングラーらしい話題だ >>371
終演後のナレーションが途中で切れるのは、CDの収録時間の限界に達したからでしょ。
82分47秒だもん。元の音源は最後の最後まで入ってると思うよ。 キングさんもBIS盤の商品説明は正しくすべきだよ。
SACDだけど元音源はアセテート盤からのダビング(針音あり)
4楽章途中ににわずかな欠落あり
終演後のアナウンスにダビング時の別音声が混ざる
演奏内容はバイエルン放送のテープと同じものだが
実況中継回線の音量レベルをほとんど調整なく収録しており
フルトヴェングラーのライヴ本来の白熱した演奏が聴ける
アセテート盤からテープへのダビングは実況収録後の早期に行われ
音質はディテールまで明確な上質なもの(初期プレスLP以上?)
EMI、バイエルン放送と合わせてバイロイトの第九を深堀りする
第3のアイテムとして恰好の素材となる 逆の批判では
バイエルン放送のテープはFM送信用のリミッターと高域フィルター(8kHz)を
掛けた状態で収録されており、EMIに比べ表情が薄く遠鳴りしたような音になっている。
BIS盤のような放送事故がないという意味では、万全の収録とも言えるが
あまりに整然となりすぎた安全運転という印象が付きまとう。
この点ではEMIはレコード化を前提として録音されただけに
演奏のディテールは刻銘に記録されており
ライヴと同様の白熱した演奏が聴ける。 BR/BIS盤に共通するのは
マイク位置はドイツ放送関係で標準的な指揮者の頭上に設置したと考えられ
EMIに比べバイオリンの音が明瞭であるという特徴を備えている。
一方では、EMIは合唱とオケとのバランスを重視した結果
ティンパニの音量が大きくクローズアップされた独特のバランスで進行し
それがバイロイトの第九の演奏の特徴のように言われてきた。
個人的にEMIの録音バランスの不自然さについて推察するのは
EMIの本来のマイク設置はオケの両翼と木管の手前の3点方式だが
試験的に3chステレオで収録された1chのみを選んだ可能性だ。
もしくはオケ両翼の2本は見栄えが悪いという理由で許可が下りなかった。
こちらの可能性のほうが高いという気がする。
http://cent20audio.html.xdomain.jp/image591.jpg BIS盤の面白さは、実況中継(有線)の音量をいじらない結果
通常で聴く以上に音量の起伏が激しい状態で残っていることだ。
mpでの音量を通常の試聴レベルまで上げると
ffに吹き上がったときにとてつもなく大音量になってしまう。
一方で音符の切れ目で拍を取るときの気迫が明瞭に残されていて
これが白熱した表情の原因ともなっている。
ティパニーの音が明瞭なのも、ffのときにリミッターが掛からず
打音のアタックが埋もれずに録れていることになる。
バイエルン放送のテープが、ティンパニーのアタックが潰れ
音符の切れ目で間延びしたように聞かれるのは
リミッターをかなり深くかけた状態だったと推察される。 リミッターかけるなんて興ざめもいいところ
ショルティ、シカゴのマーラー5番の70年録音なんてその典型 RRGアーカイヴ22SACDのベルリンの第九はすごいね
こういう鮮明な音で聴くと綿密な楽曲分析に裏づけられたフルヴェンのアゴーギグは自然そのもの
スタジオ録音集成55CDのブラームスヴァイオリンコンチェルトもAuditeの英雄シューマンもそう
各楽器の分離のいい音で聴かないとフルヴェンの名演の真価はわからない
いい時代になったものだ >>420
第九のアゴーギグの自然なところは、
例えば何楽章何小節ですか、
2つ3つお教え頂ければ幸いです
それとその箇所の楽曲分析との関連も
ご教示頂ければ更に幸いです
よろしくお願い致します <<420
あのブラームス並に改善されているのか
戦時中のベルリンのベートーヴェンの5番や7盤も音質が改善されていますか?
入手難だしバラ売りで再販しないかな
>>421
RRGアーカイヴ22SACDをお持ちのようなのでおききします
戦時中のベルリンのベートーヴェンの5番や7盤も音質が改善されていますか? 7番は改善なしって言われていたような気がする
聴衆ノイズカットもある
旧メロディアには全然及んでないのでは >>423
ありがとうございました
平林さんが自信満々なのでドリームライフで買おうと思ったけど板起こしだとわかって・・・・ 「足音」もそもそもフルトヴェングラーの足音かどうか分からなくなってきた そういえば明日は平林解説入りの発売日だね。
デジパックに収まらないので頑丈なビニールケース付きとか
キングさんも1000円分の仕事せにゃならん。 みんなバイロイトの第九が好きなんだね自分は1942年を最初に聞いてしまったせいか感動しなかったいい演奏なんだけどね個人の感想です 戦前戦中か、1949年位までの録音の方がいい気がする。
個人の感想です。 42年の第九はやはりヴェネチアかデルタだろう。アーカイブのは劣化したのを弄って誤魔化してるだけとしか思えない >>429
私も1942年の方を先に聴きましたが、その後バイロイトの第9を入手し、双方を交互に何度も聴くうちにバイロイトの方が素晴らしいと思うようになった。
1942年ベルリンの第9は迫力は凄い素晴らしい演奏だが、音楽の内面性がより深く素晴らしいのは圧倒的にバイロイトの方だと思う。
何度聴いても何かしらの啓示のようなものを受けるのはバイロイトの第9の方なので私にとってはバイロイトの第9が最高です。
聴き手が演奏に何を求めるかでその人にとって最高の演奏は何になるのかは個人差があるとは思いますが、、、。 1942年の第九は二種類あるから、初心者にはややこしい
備忘録として、ちょっとまとめておく
ルツェルン音楽祭 1954
バイロイト音楽祭 1954
ニコライ記念演奏会 1953
ニコライ記念演奏会 1952
ザルツブルク音楽祭 1951
バイロイト音楽祭 1951
ウィーン・フィル定期演奏会 1951
ストックホルム・フィル客演 1943
ヒトラー誕生日前夜祭演奏会 1942
ベルリン・フィル定期演奏会 1942
ジョージ6世戴冠記念演奏会 1937 5年前に書かれたとある学校法人のHPにあるブログ
↓
巨匠フルトヴェングラーの「名盤」の真相
http://www.britannia.co.jp/column/2016/08/149/
非常にクオリティが高くビックリしたので、
備忘録として 1942年のベルリンフィルとの第九(ヒトラーの第九じゃない方)
は、最初メロディアのCDで聴いたら、なんか古臭い音だなぁで
終わってたけど、デルタ盤で聴いたら、名演奏じゃね? と
愛聴盤になった。イキイキしてますな。
ベネチア盤が妙に高価で売買されてて、そんなにいいか?と
思ってたが、近所で定価で新品を売ってたので買ってみたら、
イマイチだった。
1951年のEMIのニコイチ第九も、各種買ってみたけど、
これもデルタ盤が一番気に入った。うまく言えないが、
イキイキしてる。これも好き。
1951年のバイロイトの本番オンリーは、センター盤、
オルフェオ盤と買い足したけど、名演奏とまでは思わなかった。
ニコイチのデルタ盤の方が好きだった。
でも今回のBIS盤は、音が荒っぽいんだけど、イキイキしてる。
1942年のデルタ盤と今回のBIS盤は同じようなイキイキを感じる。
実は、演奏自体のメリハリが似ていたんじゃないかな? >>435
1953年は、演奏が1日違いで二つの第九が
出てるようですが。 >>437
そのブログ、書いた人の知識が浅学無知なところもあるから間違いがあるから気をつけたほうがいいよ。
コメント不可能になってるから間違ってるところを知らせる事も出来ない糞ブログだよ。 >>437
執筆を生業とする人はリソースを切り貼りしたときに引用元を示すのが掟だけど
あたかも自分が取材したかのように書いている時点でアウト。 >>440
「足音入りバージョンは1990年のCD(TOCE-6510)が初出」とかは、
さすがにちょっと杜撰過ぎるね。 >>440
>フルトヴェングラーは、一九五四年八月九日にも同じくバイロイト祝祭のオープニング・コンサートでベートーヴェンの《第九》を演奏し、録音も残っている(セブンシーズ国内盤【KICC-1053】)が、もともとがプライベート録音で音質が劣悪すぎ、演奏の真価を問うことはできない。
KICC-1053、ってどのCDかと思ったらOrfeoのCDの事だった。
昔出てたバイロイト1954は知らないが、Orfeo のは、音はそんなに酷くないよ、聴いていてるのか個いつと思った。 2021年タワーレコード クラシカル年間TOP40
1位 フルトヴェングラー正規レコード用録音集大成 >>443
>「足音入りバージョンは1990年のCD(TOCE-6510)が初出」とかは、
そこがあのブログの最大の間違いだ。
足音入りバージョンの初出はLPレコードで1961年に発売されてるのに、
ブログ書いた奴はそれを全く知らないバカ。
ブログ書いた奴が無知バカなのが原因で宇野チンが悪者にされてしまってる酷いブログだ。 1954年のバイロイトといえばSONYから出たヨッフムのローエングリンと同じ年だろ
フルヴェンの第九もあれぐらいの音で収録されていてもおかしくないわけでOrfeo盤もやっぱり劣悪だよ
天国の吉田秀和も泣いてるわ >>448
1954年のバイロイトの第9は放送局にオリジナル録音テープが残っていない。
Orfeo盤を含め全ての既発売ディスクの音源は全て素人による放送のエアチェック録音。 秀和さんが1954年のバイロイトを褒めていたので聴いてみたが
音質にものすごくガッカリした覚えがあるなあ >>449
スウェーデン放送に出張してくる理由できたじゃん 1954バイロイト第9はオリジナル録音テープが残っていないのだから音が悪いのは仕方がない。
しかし、Orfeoのような放送局所蔵のオリジナル録音テープを使ってCDを発売している会社が出所不明の音が悪いテープを使ってCD を発売するのは問題がある。
何も事情を知らない人は、Orfeoの商品だから放送局所蔵のオリジナル録音テープを使った音が良いCDだろうと勝手に思ってしまうからな。 >>437のコラムでも指摘されているが、
バイロイトの第九は、第3楽章の開始10分後くらい、
[9:55〜9:59]あたりで、ホルンが目立つミスをしている
非常に目立つミスなので、初期盤でなじんだ方は、
「ああ、あそこね」とすぐ分かると思う
手許の初期CD(CC35-3165)では、このミスが確認できるが、
現行盤では、どういうわけか、ミスが消えている
おそらく、2010年のリマスタ以降、修正されていると思うのだが、
どういう技術を使っているのか、本当に不思議
きれいサッパリ消えてるんだよな
初期CDはもはや音質的にも無価値で、処分予定だったのだが
今となっては、トチったホルンが聴けるのが珍しく、
珍盤として持っておこう、と思い始めている どうしてもライヴでなければならない理由がなくなった今
どうやって未来に遺産を残すかというフェーズに移ってる。 >454
>手許の初期CD(CC35-3165)では、このミスが確認できるが、
>現行盤では、どういうわけか、ミスが消えている
そうなんだ。他にもあるのかな。
古いのまとめて処分しようと思ってたが,どうしよう。 >>454
「既発盤には第4楽章ラストのアンサンブルが崩壊しているバージョンと整っているバージョンがある」
という記事を読んだことがある。
EMIにはゲネプロと本番両方のマスターが今でも完全な形で保管されていて、
リマスター時の現場判断で部分的な差し替えを行っている・・・・って可能性は? >>457
>>380のYouTube(Provided to YouTube by Warner Classics)でも聴ける
1997年と2020年リマスターが「崩壊バージョン」
2010年リマスターが整っているバージョンです
「崩壊バージョン」は拍手を付け足す際の編集で音が狂ったという説を音楽家YouTuberのセンセイが唱えています 崩壊バージョンってなんのこっちゃと思っていたが、初めて意識して聴きました(笑) サンクス
>編集で音が狂ったという説 っぽい気がします。素人耳の戯言ですが ん?
音楽家YouTuberのセンセイってひょっとしてあの人かな?
本人乙とかいわれて、また粘着されつきまとわれる悪寒(笑) >>454
3楽章
(p) 1997
https://www.youtube.com/watch?v=Df5lYpzBswc
Remastered 2010
https://www.youtube.com/watch?v=ddj6tNrEbi0
Remastered 2020
https://www.youtube.com/watch?v=kFd51X2nqWA
1997年と2020年リマスターは3楽章ホルンのミスが目立つ
2010年リマスターは目立たない(修正?)
まとめると
初期LP起こし 3楽章のミス目立つ・4楽章「崩壊」無し
独再発LP起こし 3楽章のミス目立つ・4楽章「崩壊」有り
2010リマスター 3楽章のミス目立たない・4楽章「崩壊」無し
2020リマスター 3楽章のミス目立つ・4楽章「崩壊」有り
最新ハイレゾ 3楽章のミス目立つ・4楽章「崩壊」有り もう普通にゲネプロの収録&編集ということでよくないかい?
他のセッション録音もみんなライヴ直前を狙ってそうしてるんだし。 ちなみに私は2011年に出たCDを推す
理由はベト全の他の交響曲と横並びにしたとき
スタジオ録音として完成度が高いから バイロイトの第九について、フルトヴェングラーのラジオ放送記録をまとめた資料をみると
https://furtwaengler.org/download/RundfunkSenAuf.pdf
演奏当日はバイエルン、シュトゥットガルト、パリ、ヘルビー(スウェーデン南部)で実況放送されたとあるが
最後のスウェーデンへの回線は、バイロイトからバイエルンに一度行ってから戻ってというのは面倒なので
ベルリン経由で直接信号を送ったと考えるのが合理的である。
http://cent20audio.html.xdomain.jp/image723.jpg
BIS盤はバイエルン放送とは別回線で録音された全く異なる音源といえる。
逆に言えば現地で録音していたのはEMIのチームだけだった
という可能性もないわけではない。
理由はEMIが録音権を一手に握っていたので
会場での録音は禁止されていたと考えられるからだ。 もうひとつ、BIS盤のアナウンスにウィーンやドルトムントのコールがあるのは
おそらくバイロイトの実況担当が国際放送用に録り溜めた多言語コールを流しただけかと。 BIS盤のアナウンスは以下のようになる。
開演前:
国際放送用の多言語コールの挿入
バイロイト実況のアナウンス→拍手入り
終演後:
ブラボー入り拍手のフェードアウト
→アセテート盤からのダビング時に挿入
バイロイト実況のアナウンス >>461
>2010リマスター 3楽章のミス目立たない・4楽章「崩壊」無し
情報ありがとう
比較検討してみると、2010リマスターが異質なのかな
でも、ミスが修正されていて、一番聴きやすいマスターと言えるかも
ちなみに、ワーナー輸入廉価盤のベト全がこのマスター使用で、
紙ジャケ、オリジナルジャケット、しかも安い いつもの理屈だと
1997、2010、2020の全て持ってないと…
というふうに釣られるのがフルヴェンファンの泣き所。 昔に海賊盤にえらく悩まされた時代に比べると雲泥の差だが
ここまでくるとアーカイヴの信憑性を問うフルトヴェングラー研究はまさに病的だなw
明るくマニアックに、目くそ鼻くそまで知り尽くしたい、という病みつき状態。 >>467
>>比較検討してみると、2010リマスターが異質なのかな
Hrのミスの修正もさることながら、
その前の部分で頻繁に聞こえる咳がほとんど除去されている。
リマスターに相当な手間暇をかけたと思われるが、
最近は旧盤の方向性に戻ってるんだね。 とりあえず「レコード芸術」としてのバイロイトの第9の最高峰は2010リマスターのSACD盤あたりでしょうか
後はBRとBISを加えて3点セットとして残せば、他盤は処分してしまってもいい気も(個人的な省スペースcollectionとして)
あとはリハーサル盤が出るのを待つだけ(笑) 3楽章のホルンのミスの部分は >>345 のはてなブログで指摘されているバイエルン音源と同一の箇所に含まれている
(P) 2016 Orfeo
https://www.youtube.com/watch?v=BbttAw49HSU
音のバランス的にホルンがあまり目立たないような(?) スウェーデン放送SACDを聴いた。
パチパチノイズが多いから板起こし?
冒頭のアナウンスがいい雰囲気作りしている。
ただ演奏そのものはオルフェオ盤と同じとみた。
楽章のインターバルは今回のSACDの方が長いかな? BISの第九、フルトヴェングラー、バイロイト
主観的で言うしかないが、ピチピチはあるが、フルトヴェングラーでは最高水準の音。空気感が一貫しているのが感じられるのが特に素晴らしい。
はったり、一切なしのピリピリ感満載の演奏。
場の緊張感が伝わる演奏。
冷徹なフルトヴェングラー。
抑えがきいた、気配りが行き届いた演奏。
第二楽章でも緊張が漲っている。
浮いたところがない。
意味のない勢い、ノリが排除されている。
細部まで、考え尽くされている。
全体と部分的の関係、バランスも面白い。新鮮。
慎重に、慎重に。
緊張感に一貫性がある。
最後の合唱まで、抑制がきき、みずみずしさもある演奏でした。
同じ演奏を長年聴いてきた。
中でも、フルトヴェングラーの圧倒的名演奏に生で触れたという実感が湧く。
フルトヴェングラーの生のコンサートの実感、臨場感が再現されている唯、、一無二のCDかも。 >>454 >>461
すみません、その「第3楽章の9:55あたりからのホルンのミス」というのが、音楽を聞く耳の悪い私にはさっぱり分かりません。
楽譜を見ると(移調楽器は実音がどうこうとかいう話は私にはちんぷんかんぷんなので譜面づらだけを見ると)、あそこではホルンは
85小節から「ドー↓ソー↓ミ↓ド↓シー↑ドー↓ソー↓ドー↓ソー」と奏でた後、10:00頃から90小節で「ソ↑ソ↑♭ミー♭ミ↓♭レー」、
という進行をします。
このうち、いずれの音がどう間違っているのでしょうか?よろしかったらご教示願いたいのですが…
ここではホルンは主旋律ではないので、よほど激しい不協和音でも出さない限り、私ごときの耳では文字通り「聞こえない」有様です。
幼少時に私に音楽教育を施してくれなかった親を恨んでおります。
お手数とは思いますが、お教え頂ければこの上なく幸いです。 徳ちゃんはまだBIS盤の現物を聞いてないみたいだね。 >>476
該当箇所は、以下のリンクでピンポイント確認が可能、
ご自身の耳で確認してみて下さい
【旧来盤】
https://youtu.be/Df5lYpzBswc?t=596
※ミスがわりと目立つ
【Remastered 2010】
https://youtu.be/ddj6tNrEbi0?t=598
※ミスを上手にマスクしている
【Remastered 2020】
https://youtu.be/kFd51X2nqWA?t=598
※ミスがわりと目立つ >>471
共感したから2010リマスタSACDをポチった。ありがとー >>479
オタケン等何枚かは処分したが、結局他3枚手元に残しました(笑)
国内初期盤CC35 フルベンがCDで聴けるとワクワクした思い出として
国内ブライトクランクCD LPで愛聴していた懐かしい響き
平林ブライトクランクテープ起こしCD 上記CDより低音の迫力はないがノイズの雑味が少なく爽やかに音が広がる BIS盤、今月?か翌々月?のレコ芸で「特選」に決まりやなw
もし発売があと1〜2ヶ月早ければ
レコードアカデミー賞の「特別部門 歴史的録音」に入れられたのにw BR盤で感じてたモヤモヤをBIS盤が払拭してEMI盤を見直したという感じかな。 心のMVP。大谷も超えた。
本物のフルトヴェングラーに会えた。
吉田秀和と宇野功芳にも聴かせてあげたかった。 言い換えれば、BIS盤を通じてEMIリマスター盤の断捨離が進み
センター盤での目くそ鼻くそ議論がリセットされた。 別の意味で感動したのは
バイエルン放送のリミッターを深く掛けた録音姿勢とは逆に
中継点にあったベルリン、ハングルクが巨匠のダイナミズムを
生のままでスウェーデンまで届けようとした心意気である。
長らく音楽監督を務めていた地元ベルリンはともかく
ハンブルクには戦中から巨匠の録音を担当したシュナップ博士がいて
それぞれ巨匠の演奏を熟知した人たちがバトンを繋いだ。
それがバイロイト再開の歴史的な意義を十全に伝えている感じがする。 また数年したらBIS盤を「最新リマスター」して売りまくろうとするんだろうな それだ(笑)
というか、そろそろオルフェオ盤のSACD発売告知がでてきそうなのだが
ひょっとしたらもうSACD化されて俺が知らないだけなのだろうか Orfeoって全部伸びの悪いこもったような音だよな
ノイズリタグションかけずに放送局の音源をそのまま出せば迫力のある音なのかもしれない そこで「最新リマスター」という無敵のキャッチフレーズをつけるのですよ
BIS盤だって、合唱の一瞬のドロップアウトを埋めたとか、
ハムノイズをより低減して聴きやすくしたとかすれば、まだまだいくらでもこすれる(笑) センター盤は既にSACD化されてるけど入手できるのは会員だけだし売り切れたからな、
OrfeoはSACDには未だなっていない。
センター盤はSACDの他にアナログLPでも出てたけど既に売り切れ。
音質そのものは初出のCDに比べてそんなに良くなってる訳ではない。 センター盤にこだわるのは、一部先鋭化したマニアだけではないかという気もする
まあ、フルベン界隈ではステータスなんでしょうな そういえば>>481のブライトクランクテープ起こしCDのライナーで
平林さんはOrfeo通しリハーサル説をコブシをあげて繰り広げていたが、
BIS盤ライナーではどうふりおろしたか気になるところではあるなあ そもそも、そんな方がなぜ解説を引き受け
あ、いやなんでもない >>492
Orfeo情報サンクス
お礼を書いてなかった(汗) 宇野、平林、許さんは、自分の書いた事に酔って、だんだん音楽から離れて話が可怪しくなっていく奴らな気がする。 >>482
これは新音源じゃないからレコ芸のメインの立体評では扱わないんしゃないのか?
再発扱いされると思われ。 51年バイロイトは今回のBIS盤をもってこれ以上追いかけるのは止めるわ
(EMIの編集前素材のリリースは例外)
次は1954年バイロイトの良好な素材の発見を待つ >>478
いやー、ありがとうございます! 私にも分かりました。
要するに、2010年リマスター盤以外は、85〜89小節ではなく、90小節の「♭ミー♭ミ」の音程がズレ気味だ、ということですね。
私はCDの山から初期盤と新盤をほじくり出してきて、楽譜を睨みながら必死で85〜89小節ばかり聞いていました。
これではホルンのミスの箇所、と言われても分からないはずです。
お陰様でようやく分かりました。重ねて御礼申し上げます。
しかしどうなんでしょう。
リハーサルの録音であっても正規セッション録音でない1回こっきりの録音である以上、この程度の事は許容範囲内では??
なんで2010年リマスター盤がこんな小さなミスに目くじらを立てて音を直したのか、不思議です。
第4楽章の最期の1音の崩壊も直してしまってあるので、リマスター技師がよほどのうるさ型だったのでしょうか。
私はこの程度のホルンの不安定は、むしろ人間味が増して音楽が面白くなると思います。 >>494
レコ芸2007年9月号で「完全なライヴ」とは認めていなかった4名だけでなく、誰もが本物のライヴと認めざるを得ない。
という主旨で解説されています。ご自身の見解についての言及はありませんね。 >センター盤にはライブのような高揚感もないし、
>かといってセッション録音のような緊張感もない
>何となく流している、そんな感じがするのだ
>もちろん即断はできないが、私は金子と同様に、
>「センター盤がリハーサルではないか」
>と思った次第である
> 引用元:クラシック・スナイパー
> 青弓社, 2007/10/08
平林さんは、とある雑誌でわりとハッキリと、
センター盤=リハ説を支持していた
誰でも間違いはするものだ 批判する意図はない
佐村河内を大絶賛して「私はだまされた」で、
見事、逃げ切った評論家もいる
ただ、よくもまあ、解説を引き受けたものだなあ、
とは思うし、感心はするよね >>501
これはサンクス to you
2012年09月発売のそのCDのライナーでは、レコ芸2007年9月号での4氏の見解を参考にしつつと前置きして
「オルフェオ盤は本番前の通し演奏?」とタイトルをつけ、私見を2頁にわたって考察し書いてます。
ただその結論が、足音も会話も何か変だなと思いながらも、「オルフェオ盤全体のやや緩慢な雰囲気から察すると、
やはり私はこのEMI盤こそが100%、もしくはそれに近いライブだと思う。」で結んでいます
自身のCDの販促として執筆したライナーでしょうが、知られてはいないだろうとふんだのでしょうか
これが宇野御大なら、「かつては私もふんだらだった」と上手くかわしたでしょう(笑)
まあそれを含めて一笑・一興するのがバイロイト盤の楽しみでしたが
「信じるか信じないかは、あなた次第です」がまた一つ消えてしまいました(笑)
>>503
>ただ、よくもまあ、解説を引き受けたものだなあ
ある意味、なぞの組織から強制された、公開処刑みたいなものですね(笑)
平林は別に悪意の嘘をついたわけではない
聴いた感想として「こう思う」と述べたまで
責められることも恥じることもない
誤魔化さずに解説を引き受けるのも誠実といえば誠実ともいえる
誰も公開処刑とも恥知らずとも思ってないよ
でも、こういうとき誤魔化すことしか考えない人にはそう見えるのかもね(笑) 笑い話をマジにとられましたな
いやーまいったまいった(笑) 最近知ったんだけど、フルトヴェングラーのヒンデミットの「世界の調和」の録音ってあったんだね。いつか聴いてみたいな。 平林はマルツィなんかじゃなくフルトヴェングラーの音源こそをタワレコと組んでSACDにするべき
大手レコード会社とバッティングしないリリースできる音源あるはず
なんで今時CDだけなんだよ レコ芸の鼎談に平林氏が丸刈りで登場くらいの茶目っ気を出してほしい。 あとはワーナーが持ってるテープを全部公開することかな。
ソニーはグレン・グールドでやったしね。 企画として面白いと思うのは「バイロイトの第九 全記録」
リハーサルから本番までのドキュメンタリーとして再構成。
25cmEP盤サイズの豪華写真入りブックレット。
巨匠出演の経緯、EMIとバイロイトの契約書、関係者の証言、掲載批評一覧
本当の真実はここにある。。。とか。 平林直哉さんは2014年発売の「フルトヴェングラーを追って」の51ページから56ページまでセンター盤リハーサル説を記載していますね。
今回はどんな説明をするのやら? 近著「クラシックの深淵」にもCD製作秘話?いろいろ載ってるけど、今回は散漫というか、些末的な事まで書き過ぎかな。 >センター盤にはライブのような高揚感もなければ、
>セッション録音の緊張感もない、何となく流している、
>その印象は、今も大きく変わっていない
>が、逆に言えば、それだけ本番の出来が良くなかった
>これはレッグの感想とも一致している
>バイロイトは、本番よりもゲネプロの出来が良かった
>だから、結果として多くの混乱が生じ、伝説が生まれた
>これはこれで良かったのだと私は思う
かわりに書いてみた こんな感じでどう? 今回のBIS盤で明らかになったのはライヴの真偽以外に
当時ヨーロッパ中に張り巡らされていた有線実況回線の音質が
ことのほか良好だったことだ。
これは通常考えるAM放送の音質とは数段グレードの違うもので
実況ライヴが現地の放送局でしか聴けないという制限がなくなり
かなり広い範囲でのリサーチ対象の広がりが出る可能性をもつ。
例えば1944年のR.シュトラウス80歳記念ウィーン公演のテープが
ドレスデンの放送局で見つかったというのは
ソ連からの流出品だろうと高を括っていたが
実は有線実況のマグネトフォン録音だった、ということになる。 >>514
今回のBIS盤はEMI盤に負けない白熱した演奏だった。
バイエルン放送のテープは強くリミッターを掛けた音だと思う。 >>503 >>512-513
「クラシック・スナイパー」, 2007/10/08
2014年発売の「フルトヴェングラーを追って」
「クラシックの深淵」2021年08月05日発売
このあたりの長年こすり続けた努力と実績が評価されて
バイロイト盤の大家としてBIS盤の解説を強く依頼されたのでしょうね
「バイロイト問題に終止符をうちなさい」となぞの組織から(笑) ちなみに「クラシック100バカ」からはじまっての平林ファンです
彼の著作で好きなのは「クラシック名曲初演&初録音事典」
多少ミスは指摘されていますが、こういったデータ本は大好物です(笑) 1990年代に一連のオントモムックやレコ芸で「○×リマスターは音が悪い」とか書きまくって
レコード会社から蛇蝎のごとく嫌われてたのを思い出す >>515
マグネトフォンのテープはダビングして各放送局に配ってたから、それじゃないのかね。
戦争中でそこら中、爆撃されまくってるんだぜ。生中継はしないだろ。
灯火管制だけでコンサートは中断するし。 >>520
たしかにウィーンは1944年6月から空爆を受けているけれど
基本的に郊外の製油所や兵器庫を狙ったもので、
市街地までやったのは1945年3月のソ連侵攻。
同じようにドレスデンは1944年10月から鉄道路を空爆
1945年2月に英国の無差別爆撃。
これもソ連のベルリン侵攻を助けるためだった。
1941年以降に演奏できないほど頻繁に空爆されたのは
ハンブルク、ブレーメン、ベルリンで北からの侵攻ルートを狙っていた。 フルトヴェングラーがマグネトフォン録音を本格化させる前には
1938.08.28にザルツブルクからドイツ放送局に
1938.09.05にはニュルンベルクからウィーンに
それぞれ相互の実況放送を行っている。
また1939.01.09にはベルリンからBBCへの実況
1939.07.05にはウィーンからBBCへの実況も行っている。 >>521
俺も軍オタだけどさ、郊外に爆撃機が来たら市街地だって空襲警報が出るじゃん。
ラジオで実況中継きいてて中断したら士気阻喪じゃん。
大規模空襲でなくたっていやがらせの単機侵入でもアウト。
ウィーンから最寄りの放送局までの何百キロかある中継回線のどこかで
小さな空爆があってもアウト。
ウィーンはどうかしらんが、ベルリンフィルだとプログラムのいちばん下に
「空襲で中断することがある」なんてわざわざ書いてあった。 >>523
別に軍オタじゃなくてもウィキで普通に調べられる内容なんだが…
1944年6月の祝賀公演はナチス高官列席を狙った可能性もあるが
逆に地元ドレスデンもステークホルダーとしてかなり注目してたと思うな。
祝賀コンサートは6/11〜15、空爆は6/16と26。
ラジオ放送を聞いて急遽作戦開始を決定したという可能性は? それと今回のBIS盤は、古いAM放送用の回線を経由して
ドレスデン〜プラハ〜ウィーン間よりも3倍も長い距離を中継している。
この音質が今回のような驚くべき内容だっただけに
ライヴ=現地録音という考えが吹き飛んだ。 >>524
年表に載るような大きな空襲でなくても、小規模空襲なんて日常的にあるんだよ。
空襲警報で市民の士気を削ぐために単機〜数機で侵入する嫌がらせも普通にやること。
敵襲でコンサートが中断になる様子をラジオ中継したら、戦争指導者は恥かくじゃん。
そんな可能性があることをやるとは考えにくい。
1938年や1939年の中継を持ち出してるが、それは戦前なので関係ない。敵襲ないもん。
1944年のブルックナー9番が、メロディアLPや返還テープに関係なく、西側で出回ってたのは
マグネトフォンのダビングテープがあったから。 >>526
子供じみた質問をすると
その小規模空襲が1944年6月のウィーンで
どの程度あったか証拠を示すべきだな。
逆にオーストリア領内だと安全だと踏んで
バイエルンでもドレスデンでもないウィーンを選んだ可能性は? 本当に子どもの質問だな。
第二次大戦史を知らない人が妄想を垂れ流してるだけじゃん。
日本と違って、ドイツ本土なんてほとんど戦争の全期間、空爆されてたんだよ。
単機侵入レベルなんていちいち記録に残らないよ。
君が書いたのは英軍の大型爆撃機の空爆。ウィーン近郊はソ連の小さいのも飛んでくるんだよ。 さくっとググっただけだが、1944年4月12日から1945年3月28日までに、
ウィーンではラジオで放送しただけでも115回の空襲警報があって、
うち52回は大規模攻撃だってさ。
ttps://www.timetravel-vienna.at/der-2-weltkrieg-und-seine-auswirkungen-auf-wien/ その主要な攻撃は1944年6月16日以降に始まっている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bombing_of_Vienna_in_World_War_II
この攻撃が石油プラントに集中しているのは東方戦線への補給を経つため。
指摘したリンクにも1942年以降に空爆が少なかったために
兵器工場をウィーン周辺に移したと記載してある。 >>530
ごめん、素人さんが何を反論しているつもりなのかさっぱりわからないのですが。
あなたは、ベルリンやウィーンのマグネトフォン録音をダビングして、
各地の放送局に配ってたことすら知らなかったんでしょ。
あなたがわからなくても、他の方は理解してるから、これで最後ね。 >>531
えっ? もしかしてこの程度の書き込みでプロ意識?
答えは6/11が公開演奏会、6/12は地元ラジオ局で放送
6/13〜15がマグネトフォン・コンサート。
6/16にウィーン郊外の大規模空襲(残りの演目は中止?)。
意外にこのタイミングはギリギリだった。
フルトヴェングラーだけ見てるとベルリンの状況がドイツ全土と勘違い。 ちなみに6/11祝賀会の第二部、ベームのナクソス島のアリアドネは録音が残ってる。
2時間かかるオペラ公演を、空襲を気にするような情況では普通は企画しないな。
ただし、舞台を歩く靴音は聞こえるが、観衆の咳払いがほとんど聞こえない。
もしかするとゲネプロ中心の収録かもしれない…
終演の拍手もなんだか被せたように聞こえる…ん?どっかで聞いたような… >>517
楽しみですね(笑)
どんな説明するのか?
買わないけど(爆) >>305
第4楽章のドロップアウトは製造ミスでは?
セット物で廉価盤によくあります。 BISのバイロイトのフルトヴェングラー指揮の第九は、オケと指揮者が練習しまくって、楽曲の隅々の恐さまで知り尽くして、本番を迎えて演奏がな始まったという印象。
クライバーのオケの生の演奏会の印象と似ているが、この演奏は、集中力とともにリラックスしてじっくりやろうというというところがある。集中力とリラックス感が同居しているところがすごい。
これだけのフルトヴェングラーとオケとの全力演奏会の追体験がそのまんまという感じで出来るのは、奇跡。 BR盤はオルフェオもセンターも含めて、元からリミッターで潰れていると思う。
オルフェオがエコー利かせたりイコライザーで持ち上げるなどしているが
BIS盤のように根本的に異なるまでにはいかない。 EMI がゲネプロと本番のコピーを持ってたら、そっちを出してくれるのに期待した方がいいのか 現地で録音できた唯一のクルーがEMIなのだが
前にハム音の分析で見る限り、本番テープは3回目のダビングで登場するが
これはバイエルン放送のテープと同じもののようである。 >>535
スウェーデン放送所蔵によるフルトヴェングラー"バイロイトの第9"(SACDハイブリッド)
https://tower.jp/article/feature_item/2021/10/13/1110
2021/12/03 追記
トラック6、13分08秒付近に音量が一時的に落ちる箇所がございますが、
これはスウェーデン放送所蔵のマスターテープに起因するものです。
中継放送をスウェーデン放送がテープに同時収録している際に起こったと思われ、
BISはその音を修正せずそのまま使っています。
(キングインターナショナル) >テープに同時収録している際に起こった
→アセテート盤に同時収録している際に中継回線に起因して起こった そこは、アセテート盤だよな
アセテート録音と言えば、1936年(昭和11年)に起こった、
2・26事件で、当事者たちの通話記録が当局に傍受されていて、
アセテート盤に残されているのにはビックリした
1936年の日本で、電話を盗聴しての同時録音が可能なのだから、
テープ以前の技術は、なかなか侮れない よく古い録音には真空管が合うという人多いけど90%トランスの音だから。
欧州モノを取り扱うビンテージ・オーディオ屋の店主に説教されたな。
それと戦後のライヴは、EL84とかEL34のような五極管が似合う。
直熱三極管なんて日本のマニアが掘り起こしたようなもの。 BISには第4楽章のあの部分、修正してもらいたかったな。 >>547
同意
演奏の修正は不要だけど録音(放送又は受信)の欠陥は修理して欲しかった。
演奏を聴きたいのであって放送を聞きたいのではないのだから。 21年バイロイトの24bit/192khzってレコチョクでしか見当たらないんだが
海外サイト売ってないのか?
まさかAppleのAACだけなのか? 東芝レコード発売10周年を記念して発売されたブライトクランク盤
統一ジャケットの赤盤レコード 国内初の見開きジャケットで\1800
この疑似ステレオ盤はレコ芸の評論家が絶賛したもんだから大いに売れた
これでフルベンブームが巻き起こった
それまでは通しか知られていなかった指揮者だったからな おまえのような世間知らずのションベンたれ低能児に能書き言われる筋合いはないぞ 55枚組の感想。
昔風の音だけど、どれもが生々しい。ショック。
聴いていたCD
トリスタン
マタイ受難曲
ワルキューレ
37年合唱
モーツァルト 13管のためのセレナーデ
『グランパルティータ』
ベートーベン 七番、シューベルト 未完成 55枚組感想。
聴いた曲(書き忘れ)
フルトヴェングラー 交響曲第二番
この箱買えば、集めにくい小品がたいてい集まる。 >>312
>生前の宇野功芳さんに聴かせたかったわ>BIS盤
正直、宇野さんはいい時に死んだ
結局、「虚空の中から聞こえてくるように」も「ファン感涙の足音入り」も
宇野さん絶賛の「神の前のクレッシェンド」も、最後の拍手すらも
全てレッグの編集で作り出したと言う事がバレてしまったからな オケの音より拍手の音の方がいい録音だよな。
無駄に長いし。 人間、誰しも間違いはする
自分の間違いに気づかず、そのまま死ぬのが
幸福ならば、死なずに間違いに気づくのは、
最悪の人生かもしれぬ
しかし、本当にそうであろうか
自らの過去の間違いを承知のうえで、あえて
BIS盤の解説を引き受けた解説者がいる
これはこれで素晴らしいと私は思う そこまでして業界にしがみつく姿が
潔いというよりはアザトイというべき 問題だったのは、どっちがライヴかどうかという真偽ではなく
どちらもフルトヴェングラーの演奏なのに、BR盤の演奏にケチをつけ
どちらが本番かの議論と演奏の出来不出来を混在させた点だ。
それは宇野氏が「〜のうちこれがベスト」という売り文句を並べ
ヒットチャートのように勝手に演奏を査定したところから派生した
レコード購買批評の悪い習慣から手を引くタイミングを見失った結果だ。 なので平林氏はライヴの真偽鑑定を間違えただけでは済まされない。
レコード批評の目的と価値観を大いに踏み外してしまったのだ。
しばらくマスタリング・エンジニア、音源のディストリビュータとして裏方に徹するべきだ。 55CD箱について
ピッチなどを合わせいるせいか、(全部は聴いていないが、たぶん)すべての演奏が整然として聞こえる。
最近の録音のように聞こえる。
戦前(1937)の第九、コベントガーデンでのワルキューレ、神々の黄昏のライブ。
とにかく、全部が整然として、(音楽の流れが)最近の録音のように聞こえる。
ブラームスの一番とか、二番とか、凄くよくなった。特に、一番。 ヨレヨレというのがなくなって、現代的で、シャキッとした演奏に聞こえる。 個人的には、耳につくノイズは取ってもよかったのでは?
と思うの。1930年代の録音に関して。 ノイズなしは、グラモフォンの33枚箱をお買い求めください。 BIS第九の終演の後の拍手までの長い間に驚いた
マラ9や悲愴と違って第九であの間
圧倒的な演奏に拍手が出なかったのか?
もしかしたらEMI側から録音してるので間を開けろと指示がったのかな? >>572
演奏後から拍手の間が長いのはベルリンのライヴでも同じで
どうやら実況放送をやってるとなると観衆も協力してたようだ。
しかし咳は遠慮なくすごいよね。 クレンペラーが、フルトヴェングラーの死は指揮者にとっては朗報みたいなことを言っていたが、今年のEMIの55枚組とか、BISのバイロイトとかは、指揮者にとっては新たなる災難と言うことになるのだろうか? クレンペラーはワルターのときも同じことを言っているのでいつもの口癖だよ。
自分としてはライバルとして認めていたと言いたいだけ。 実際フルヴェンやワルターが生きてたらクレンペラーのベートーヴェンやブラームスなんて需要なかったからな 日本でのクレンペラー盤はメンデルスゾーン、マーラー
そしてモーツァルトのオペラとドイツ宗教曲くらいで
偶然にも被ってるのはワルターのマーラーだけだ。
ベト全、ブラ全はマニアックな選択だろう。
頻繁にベト全のチクルスをやってた実績はあるが
ウィーン、アムステルダムいずれもピンと来ない。 フルトヴェングラーも死ぬ前は弱ってたし、求心力も落ちてたから、当時旅行してた吉田秀和は、クナッパーツブッシュの方を現地の人に進められてるじゃん。
あのまま生きてても、クレンペラーの方が上になってたかもしれないよ。 >>580
>フルトヴェングラーも死ぬ前は弱ってた
既に耳が遠くなってたらしいから遠からず引退だろ まあ、カラヤンの人事異動があってフィルハーモニアが空いたおかげもあるけど。 1954年当時でもクナとかゴミ。
今のティーレマンの方が、全然マシ。
吉田秀和の持ち上げるための方便。
クナのリングとか、ブルックナーとかで、眠っていたら、同じとこやっていたとか、
平気で書けるような知覚障害。
日本音楽後進国状況の象徴が吉田秀和、宇野功芳 だいたい、吉田秀和がやっていた音楽批評とか、
演奏会批評とか、書いてあることは、演奏会場での気分、
レコードとかを聴いた時の自分の気分が書かれてあるだけ。
何かの資料にしようと読んでみると、あまりに中身がないので愕然とします。
茶碗や壺で例えると、窯から出されたちまち叩き割られるポンコツ作品と言うところ。 クレンペラーとか、トスカニーニの前に出したら、芸風が似ているだけに悲惨な事態になるだろう。 >>586
似てないから、アメリカで全然ダメだった。 結局のところフルトヴェングラーはベルリンフィルの後任を誰にしたかったのか
自分も若手の頃に生え抜きで引き継いだだけに難しいと思うが 後継はたぶん、考えていなかったと思うんだよな
後継指名みたいな制度は、存在しないので
大戦後、フルトヴェングラー復帰までのベルリンフィルを、
支えた功労者は、若きチェリビダッケだったが、残念ながら、
オケとの関係は良好ではなかった
スタイルがまるで異なるカラヤンだけは、嫌だったと思う
その野心と才能に気づいていたので、警戒したが、
結局、そうなってしまった 逆に言うと当時ポストに就いていなかったのがカラヤンかも。
フリッチャイ、カイルベルト、S=イッセルシュテット、ヨッフム、ロスバウトなどは
放送局付きのオケに早々に着任したし、ショルティ、ケンペは海外へ。 >>592
カラヤンはベルリンの地位を狙っていたのでそれ以外のポストには関心がなかったのかも EMI箱の1926年の第五番は、すごい演奏。ぶつ切り録音で不満はあったかも知れないが、演奏が進むにつれて激しくというかすごくなる。戦後の復帰演奏会の五番より凄く。しかも、整然といしている。 >>593
そういう意味ではバーンスタインもニューヨーク狙いか。。。 フルトヴェングラーの後、マルケヴィッチなんて面白かったんじゃないかな
・・・と夢想する。ラムルー菅とやったような個性的なベートーヴェンの
演奏を優秀なオケで聴いてみたかった。
そしてマルケの後はマゼール。この鬼才路線はいかがでしょうかw 幻想交響曲を聴く限りにおいてBPOよりラムルー管弦楽団の方がグロテスクないい出来なので、指揮者をバカにするオケには行かん方がいい。
N響もだが。 >>595
一言で言えば決定盤。
以前でていたオルフェオの本当のバイロイトのライブみたいな買ってなかったら買い。
買ってあっても、買い。 バイロイト(1951)>>戦時のコンサート(1942)>ジョージ王コンサート(1937)
第九におけるプレッシャー量
今度出た55枚箱の1937年の第九がバランスが取れている、心が平静、健康的。しあわせ。
厳しい戦争が反映された1942年の第九。
今回発掘の1951年バイロイトの人生のすべてをかけた第九。最後の1音まで、神経張りつめている。 言えば、いつもの第九の道なのに、渓谷で綱渡りやっているみたいな慎重な足取りの演奏。←今回発掘のバイロイト
あと、55枚箱のオマケのデンマークの未完成、めちゃくちゃ音良い。演奏も最高に立派。 >渓谷で綱渡りやっているみたいな慎重な足取りの演奏
今回のBIS盤で一番驚いたのは
聞こえにくいmpと荒れ狂うffとの起伏が激しく
それでいて演奏のディテールが明瞭な点だ。
おそらくリミッターやボリューム調整を掛けない
本来のフルヴェンのライヴの迫力を一番伝えている。 TAHRAのパリの第五とかAuditeのルツェルンの英雄とかもそんな感じだな
放送局音源によって構造の緻密さ、音色の豊かさといったフルトヴェングラー芸術本来の特徴が浮き彫りになった
「低弦とティンパニの迫力!」「急加速のドライヴ感!」「ディオニソス的狂乱!」
なんてのはベートーヴェンを聞く耳を持たない評論家がロックファンにレコードを買わせるために作り上げた虚構でしかない
宇野功芳指揮の唐突な急加速とフルトヴェングラー指揮の音色の変化を伴った自然な加速がいかに違うか
評論家がいかにフルトヴェングラーを誤解、曲解して間違った解釈を広めていたかはもはや明らか 昔から引っ掛かることがあって
1970年代に日本のオーディオ環境が良くなるのに反比例して
フルトヴェングラーのライブが持ち上げられるようになったことだ。
ユニコーン経由の海賊盤やオルセン番号など情報が増えたせいもあるけど
ロックエイジとの関連性もなくもないかな…と思った次第。 >>605
ボブ・ディランなんか、そうかもしれない。
彼のライヴ音源は熱心なファンによって発掘され、
ブートとして聴かれていた そして、その多くは
商品化されることになるのだが、
ボブ・ディランの「ブートレッグ・シリーズ」は、
ディランの真の姿を伝えるとして、アルバム以上に
重要と評されるようになってさえいる
そうしたブート文化は、本国と同じかそれ以上に日本でも
盛んで、特に西新宿あたりはメッカとされ、ロック好きの
外国人が土産にブート盤を買ったものだ
フルトヴェングラーにも、それに似たノリを感じる 単純に情報量が増えて目にする、耳にする機会が増えたから
持ち上げられてるように思っちゃう
フルヴェンもディランもビートルズもストーンズもマイルスも一緒 フルヴェンもダンボール箱にゴム印を押して出せば…
一時期の板起こしCD-Rみたいだな。 NMLなんかのストリーミング配信に続々とWanerの最新リマスターが入ってて
聴いてると晩年のワーグナーなんか実にいい音で鳴るんで感心するんだが
配列が55枚組と違ってて取り直してる演目はどれがどれだか聴いてみないとわからないのが困るな
それにしても52年から54年のウィーンフィルとのスタジオ録音がこんなにいい音で鳴るんじゃアメリカに行ったトスカニーニやワルターがあんまりにもかわいそうだ フルトヴェングラー 、今となってみれば録音に恵まれていた。 今回のスウェーデン放送SACD輸入盤を買ったけど
国内盤の解説は必要かな? 国内盤を出すのであれば、解説でもつけないことには、
商品として成立しないので フルトヴェングラーの急逝は、おそらく過労
死の1年前のフルトヴェングラーは多忙を極めていた。
年齢を考えれば、あきらかに過労だと思われる
以下、根拠を示す
>フルトヴェングラーは1952年11月、病気の回復後はじめてウィーンに
>登場したとき、熱狂的な拍手を浴びた。数か月後の1953年1月23日、
>彼はウィーンでベートーヴェンの《第九》を演奏している最中に倒れ、
>聴衆は騒然となった。しかし2月8日にはもうベルリンで棒を振っていた。
>3回の演奏会後、ウィーンへ飛び2月15日の演奏会に姿をあらわした。
>彼は憑かれたように演奏会場から演奏会場へと駆けまわり、録音した
>1953年10月から11月は、ローマで《指環》の全曲録音を果たしたが、
>これは頑強な健康の持ち主ですらほとんど理解不可能な仕事だ。
>オーケストラはこの曲をこれまで演奏したことがなかった
>録音が終わるとまたベルリンとウィーンにとって返し、わずかな隙に、
>彼は《交響曲第3番》の作曲に骨身を削った。
ルーペルト・シェトレ著/「指揮台の神々―世紀の大指揮者列伝」
晩年のマエストロは命を削っている 「晩年」など後から呼ぶものだから
そんな後知恵で見りゃ死に向かってるのは当たり前 フルトヴェングラーは、戦中から倒れている。
乗っている飛行機が墜落
自動車事故(スピード狂)
などもあったような。 BIS盤=アセテート録音という正式アナウンスはまだかな? レコード芸術 2022年1月号 12月20日発売
●スウェーデン放送所蔵によるフルトヴェングラーによる
「バイロイトの《第九》」が出現!……山崎浩太郎
この1本の記事を読むためだけに、1,430円は出せないが、
図書館等で読んでみたい気はする 今は配給元が出す情報が直接手に入るしな。
評論家のコメントも今更だろ。 同じヒストリカルでもアメリカ物を得意とする人というのも微妙だが
かといってBR盤のときのような鼎談は恥の上塗りになるだろうし
アセテート復刻盤のエキスパートという人選かな? >>622
その配給元も今回は役に立たないんよ
ミュンヘン放送、ドロップアウトの訂正、アセテート盤は隠し通す…
普通の報道なら訂正じゃなく謝罪文扱いのレベル EMI 盤推しの人大変だな。何にでもケチつける。
ウラニア劇場の人なら色々曖昧にしちゃうかもしれんね。 フルトヴェングラーも最後の年のザルツブルクで魔弾の射手をかけるとか凄すぎ。
魔弾の射手は、子供のオペラではない。
ワーグナーの出発点。ドイツ思想の原点 BISの第九は、EMIの第九とは、関係なしに誰が聴いても、ショックを受ける内容。 自分はBIS盤は迫真の演奏だと思うが
ブログなど見てると全く逆の人もいて「?」と感じる。 いまだにBIS盤はリハーサルと主張している人もいて、
いろいろ闇が深いというか 「ライブだから」鬼気迫る素晴らしい演奏の前提部分を外すだけのことで
これだけ時間と労力を掛けなければいけないのがややこしいというか。
やはり過去に海賊ライブ盤に私財を投じたことへの愛憎のカオスなのだろう。 フルトヴェングラーの海賊盤ブームを支えた「ライブだから」は
「風が吹けば桶屋が儲かる」の「風が吹けば」が抜けると
話の腰が折れるのと似ているかな?
フルヴェン伝説を塗り直す強力なシナリオが必要なのだが
宇野珍以上の活弁士の登壇を待つしかない。 >>540
本当!ゲネプロも全て聴いてみたい。
もう残って無いのかな? EMI盤には本番の演奏も使われているとのことだが、音質的に非常に一貫性があるよね。
バイエルン盤(あるいはBIS盤)のような音質になっている部分、ある?
個人的には全く識別できない。
EMI盤で使われている「本番の演奏」って、正体は何なのだろうか。
EMIにも本番の演奏の録音がある(あった)ということなのかね。 BIS盤の一楽章で、
低音のゴロンゴロンという唸りのような機械音は、
アセテート盤再生時の回転音なのですか? リムドライブ ゴロ音 でググレ
ちなみにプレスト社のディスク・レコーダーもリムドライブでござる。
で、ゴロ音が出るようなプレーヤーで再生したということは
テープにダビングする際にはディスク・レコーダーはほとんど整備されていなかった
ということになるであろうな。ダビング時期は1960年代以降か? ご教示ありがとうございます。
海外のオークションサイトで内部の写真とか見つけましたが、
ターンテーブルの内側のゴム?ローラーで回してるんですね?
素人ですが、調整に難儀するような感じでした。 新品の部品を交換しとけば何の問題もない。
それを怠ったか知らなかった頃にダビングした。
真実が2つも3つもあるまさにミステリーだ。 >>633
少し前に話題になった第3楽章のホルンのミスは「本番の演奏」部分だね BISの第9はApple Musicで来年1月7日リリース
現在は第2楽章のみハイレゾ ロスレスで聴ける BISってアホみたいにアホのCD出してる会社か
そのうちNMLにもバイロイトの第九入るだろうな フルトヴェングラー は、文化人としては、究極の親ガチャ当たりを引き当て、西欧の運命は自分の双肩にかかっていると本気で思い、人生を通して何かと闘い、最後は燃え尽きた人 コンサートのたびに灰のように真っ白になるフルトウェングラー >>643
まあそこがナチスに利用された要因でもあるわけだな
『音と言葉』にしても極めて巧妙に批判を受けそうな表現を避けてはいるけれど
そのことが逆にフルトヴェングラーが内に秘めて隠そうとする優生主義的高慢さを浮かび上がらせている
フルトヴェングラーはもう少しフロイトの研究をするべきだった
そうすればヒトラーとマーラーを蛇蝎の如く嫌った理由が同族嫌悪であることに自身でも気付けたはず フルトヴェングラーは、ボクシングとか好きだったような気がする。 燃えたよ…
まっ白に…燃えつきた…
まっ白な灰に…
どこの「あしたのジョー」だよw 力石の方がフルヴェンぽい
ジョーはチビで生意気そうなカラヤン フルトヴェングラーの動きはパンチドランカーのあれだったのか Grand Slamのウラニアのエロイカの最新復刻TharaのSACDより迫力あっていいな 超有名な指揮者でも、生まれで考えれば、たいていは野良犬、野良猫の類いと考えればわかりやすい。 今度、平林さんとこからDGの疑似ステ運命1947がでるけど、DGの疑似ステは聴いたことが無いな
どんなんだろな
国内盤ではかつて13枚組ででたとか書いてるが、はてさて
そういえばトスカニーニの新世界の疑似ステもかつては発売されていたようだけど、一度は聴いてみたいな ちょっとググっても意外と好評価
つかLPジャケットがSTEREO表記だし
疑似ステ好きとしてはポチらずにはいられない(笑)
>レコードはLP1が擬似ステレオです。これはグラモフォンが誇るステレオトランスクリプションですが、
>特にこのレコードは見事に仕上がっており、広がりと奥行きはまるでステレオです。
>ですからこのレコードを聴いてから、LP2のモノラルを聴くと拍子抜けします。 BIS版バイロイト聴いたみた。ノイズは多いが音そのものは、オルフェオ版センター盤より自然な気がする。皆さんどう思いますか? 板では20年も前から話題になってたんだ(笑)
>395 :ゴルゴ13:01/10/06 11:19
> DGのステレオトランスクリプションはボケ過ぎ!
> でもあれがいいという人も結構いた。 >>657
自然というか、
無添加、無調味でデジタル化したのかなっていう印象でした。
ニアフィールドでがっぷり四つで聴き始めたら、
ゴロ音に耐えられなくなりあえなく撃沈。
BGM的に離れて鳴らしてると、
質の良いAM放送を聴いてるようで、
最後まで聴き通せました。
まあ、でも資料的な価値はあるかもしれませんが、
鑑賞する上でのファーストチョイスにはならなかったです。 >>657
アセテート録音はテープより音域は狭いがダイナミックレンジはずっと広い。
1楽章のザックザック切れまくりの演奏は最高。 たとえ放送録音と音源(マイク)は同じであっても、
マイクから有線でそのままマグネトフォンに録音することがある
いわゆるダイレクト・フィード((Direct Feed)で、
明らかに同じマイク、同じ音源なのに、音質が違うケースは、
このパターンだったりする
BIS盤は会場マイクから直接、フィードしているわけではないが、
放送自体をそのままフィードしているので、やはりダイナミクスが違う
オルフェオ盤との音質の違いは、それだろうと思っている BISのは、素晴らしい。
音はもちろん生々しい。
演奏が、ここにかけた重過ぎのおもいがストレートに伝わる。
怖くて聴けない。
買って、一度真剣に聴いた。
そして、しまった。 精神性は知らんが、クライバーの思いつめた実演みたいな空気感に通じる BISとEMIのバイロイトSACDどっちが音いいの? >>665
そもそもEMIのバイロイトSACDの音質よくない
YouTubeの板起こしの方がまし BIS盤の音が悪いと言う人はイギリス系(タンノイ、ハーベスetc)で試聴
EMI盤の音が良いという人もイギリス系(タンノイ、ハーベスetc)で試聴
BIS盤が優秀だと言う人はアメリカ系(JBL、アルテックetc)で試聴
EMI盤の音が悪いという人もアメリカ系(JBL、アルテックetc)で試聴 >>660が指摘してるようなことから
EMI盤は音域が豊かでVnの音が美しい
BIS盤はレンジが広く迫力がある
どちらを取るかは好みの問題だな EMI盤の板起こしのCDとして結構評判がいいMythos盤を買って聴いて
みたんだが、第1楽章の最初の所でかなり大きなノイズが入っているし、
あと全体的にプチプチノイズも多く、ちょっと聴きづらかった。確かに
迫力はあるんだが。
Mythos盤並みに迫力があってノイズの少ない板起こしのCDってある? >過去にもいろいろなレーベルがこの演奏を取り上げ
>話題作りを重ねてきました。中には多少なりとも
>観賞に耐えるものもあったかもしれません。
>しかし、このMYTHOSによる復刻は、それらを
>遥かに凌駕するクオリティを備えています。強烈な
>光の前では全ての色が消え去ってしまうように、
>過去の記録はこのCDの前にその色を完全に失って
>行くでしょう。
>今回、MYTHOSが復刻に使用した原盤はQALP盤です。
>この演奏では一般的には英国ALP盤が有名ではありますが、
>耳の肥えた愛好家の間では、古くからこのQALP盤の方が
>音質が優れているという認識がなかば常識のように
>広がっていたのはご存知のとおりです。
>自宅のシステムにこのCDをセットしてプレイボタンを押した瞬間、
>フルトヴェングラーがあなたのリスニングルームに現れます。
>あの第4楽章の恍惚的なコーダが過ぎ去った時、その静寂の中で
>フルトヴェングラーはあなたに振り返ってこう話しかけるでしょう。
>『Was ein Klang ! この音だよ、諸君』と。
>(ディスク・プレリュード)
今さらミソスもヘッタクレもないんじゃない?とは思うが、
HMVにあった宣伝文句が面白いので貼っておくw >古くからこのQALP盤の方が
>音質が優れている
ちなみに、QALPとは、イタリア
フランスはご存じ、FALP
QALP(伊)が最高とは、私は聞いたことないが、
ベト全のCD復刻でも、イタリアのBOXは高評価だった
何か関係があるのかもしれない
どうでもいいけど 平林バイロイト2019をSACD化してくれたらよい。 うんにゃ 振り回されておるんじゃ
振ると面食らう というでのう ふぉっふぉふぉ グランドスラムはタワレコ、アルトゥスと組んでマルツィのバッハSACDにしてた
けどタワレコはワーナー(旧EMI)と組んでる手前バイロイトはSACDに出来ないだろうね
せめて1954年のBPOと運命と田園をSACDにしてほしい
グランドスラム復刻はauditeのSACDより聴き映えするんだよなあ 1954年5月23日の演奏会より同年のパリの第五、ルガーノの田園の方がいい 54年のパリの第5はtharaのLPで聴いたけど音質も演奏もそこまでではない 戦中といえばgrand slamから最近出た英雄はよかった
低音強めで聴きやすい >>678
フルトヴェングラーの録音はそもそもモノラル録音でステレオに合うという保証がない
そのうえスタジオ(主にEMI)とライヴ(ラジオ放送用)でもマイクの配置が異なり
複数本のマイクを立てたスタジオ録音のほうがステレオと馴染みやすく
天吊り1本マイクのライヴ録音のほうは音が痩せギスになりやすい
良い録音というのは自分のオーディオ機器との相性まで勘定に入れないと
最後までオーディオ機器の性能の限界に振り回されて過ごすことになる 天吊り1本マイクの録音が痩せギスになりやすい理由は
現在のステレオ用スピーカーがツイーターのパルス成分を
ウーハーとは切り離して強調するように設計されているためで
モノラル時代には漫然と収録されていたパルス性ノイズに
非常に敏感に反応するからだ
旧ターラやアウディーテはリバーブを掛けることで音場感に配慮
平林、キング版ターラ、アルトゥスは脚色せずに出す
多くのSACD用リマスターもパルス性ノイズを除去(ゴミ取り)している ツイーターのパルス成分をウーハーと切り離して強調する
ということはステップ応答という方法で調べると判る
https://www.stereophile.com/content/measuring-loudspeakers-part-two-page-3
正弦波の半波長(無限大の高域から振幅ゼロの低音)を
入力した際のスピーカーの応答波形だが
理論的には高域から低域右肩下がりになる
多くのスピーカーはクロスオーバー・ネットワークで位相がねじれ
高域と低域のユニット間がスムーズにつながらない
このツイーターのパルス性信号への過度な応答が
モノラル時代には存在しないデフォルメされたオーディオ性能となる ではモノラル時代のステップ応答はどうかというと
ラジオ用に多く使われたフルレンジは概ね右肩下がりで調和しているが
分割振動やエッジの共振などで雑味が出る
http://cent20audio.html.xdomain.jp/image651.jpg
咳払いは自然にバランスするが、強奏時やアタック音に弱い
グレードを上げてPA用エクステンデッドレンジ+ツイーターの場合は
雑味も消えて高域から低域までスムーズに推移するようになる
http://cent20audio.html.xdomain.jp/image649.jpg
ちなみに現在のモニタースピーカーは以下のとおり
https://www.stereophile.com/images/1221BW804fig8.jpg
ユンット間の干渉を排除し分解能も優れているが
録音もそれなりに配慮しないと違和感が生じる
天吊り1本マイクはオーディオの進化から取り残された恐竜のようだが
ユーザー側で配慮することで自然でリアルな音響になる >>678
>一番録音状態が良いフルトヴェングラーの演奏は?
ウイーンフィルとのドイツ博物館でのシューマン春とコリオランのライブだね BIS版バイロイト聴いたみた。ノイズは多いが音そのものは、オルフェオ版センター盤より自然な気がする。皆さんどう思いますか? BIS盤の登場でEMI盤がゲネプロ中心ということが確定した一方で
ゲネプロ説を10年以上しつこく論陣を組んでた人たちも失業しそう >>687
BIS盤はオルフェオ盤のような化粧はしていないから、そりゃ自然でしょう。
センター盤は第4楽章のテープ劣化が余りに顕著すぎ、BIS盤とは比較不能。
ただBIS盤で、全曲が終わった後、あっけにとられた聴衆がしばらく拍手もできずに沈黙し、
おもむろに拍手とブラボーが出ているのは、音質云々を越えて、他盤では聞けない貴重な記録だと思う。 BIS盤の登場により実際のライヴも凄まじい緊張感で熱演してたと判るし
逆にBR盤は結構リミッターの掛かった音だと判った
1952年VPOとの英雄でもスタジオとライヴの両方が残されているが
録音会場は一緒で演奏もほぼ同じことをやっている感じ
別にライヴでもゲネプロを兼ねたスタジオ録音でも
フルトヴェングラーの演奏であることには変わりない >>689
>ゲネプロ説を10年以上しつこく論陣を
>組んでた人たちも失業しそう
ちょw まあ、民主党に政権交代すればバラ色の未来が開けると
こぞって高らかに謳いあげた連中もいたしな 少なくともEMI盤がア〇ノマスクのように大量在庫を抱えることにならず何より
これから宇野珍の護符付きというコレクションも増えるであろうな
あとセンター盤は既にオルフェオ盤が出た時点で下火になったけど
BIS盤で証拠が出ると論も立たなくなってきた
もっといえば、自分のほうが先に知ってた、という中二病のような繰り返し
結局BIS盤が登場するという黒船方式で決着したというお粗末な結果 あとセンター盤の議論のなかで最も問題だったのは
ライヴかどうかの検証によって生み出される情報の質が非常に悪い
つまり何がフルトヴェングラーのカリスマ的な演奏を生み出したかの理由を
「ライヴではない」という事実だけで尻切れトンボのようにした結果
何も音楽鑑賞のために有意義な情報をもたらさなかった
事実だけを突き付け自分の意見は?批評の体裁をなしていない
部下にダメ出しだけするパワハラ上司と一緒の論法でふんぞりかえってただけ 音楽鑑賞のための有意義な情報という点では宇野珍はファンタジー作家だ
晩年にならなければレコ芸の新譜批評に立てないというアウトローだけど
実演を聞いたこともない巨匠たちをフィクションも交えて紹介するやり口は
当時の悪質な海賊盤の音の彼方から聴くべき音楽の本質を突いていた
クラシック音楽でライヴでの燃焼度なんて誰も恥ずかしくて書けない
でもそこをやってのけたのがファンタジー作家のゆえだ
現在ではオリジナルの放送録音が聴けるおかげで情報量も増えたと思うのだが
本来の音楽鑑賞のステージに乗ったという実感がない
晩年様式から聞こえる繊細な表情の変化もまた味わいがあり
何が結局フルトヴェングラーらしい演奏なのかという定義が分散して
録音の良い状態で残っているライヴという仕分けになったり焦点がずれてる
BIS盤はそうした評価基準を客観的に見直すきっかけになった >>678
結局いまは、FURの「音楽」よりCDの「音質」しか聞かない輩ばかり
'37の10〜11月にかけてベルリンフィルとレコーディングされた
Beethoven第5シンフォニーでも聴きながら反省しなさいよ、まったく! BIS盤がフルトヴェングラーの評価基準を見直すきっかけになった理由は
1.BR盤ののっぺりした表情のディテールが鮮明になることで
同じ演奏でも全く違う迫真の表情が聞こえるようになった
2.表情の鮮明さがアセテート録音という悪条件のなかで生み出され
オリジナルテープという触れ込みよりも中身の問題だと気づいた
3.音量の起伏が故障かと思うほど従来のどの演奏よりも激しく
モノラルでラジオ放送用という箱物の規格を見直すべきと感じた
他にも色々ありそうだが、BIS盤には色んな点でカウンターパンチをくらった
遠くの海を眺めているよりは、実際の船に乗って船酔いするくらいの違い ただ気になるのはBIS盤に対する評価が
古くからのフルトヴェングラー愛好家の間で「資料的価値」というランクに留まり
狐に包まれた感覚を覚えている
理由のひとつとして思い浮かぶのが
古くからのクラシック愛好家の使用するオーディオ環境で
タンノイやハーベスをはじめとしたイギリス系のスピーカーは
アビーロードでのリマスターが一番評価が高くなる
私は放送録音のほうに標準を合わせているので
アビーロードのサウンドは外面だけ取り繕ったように聞こえる
アウディーテのRIAS録音集のほうがきっちり聞こえるくらいなので
さらに平林盤だと荒れ狂う感じになる 21世紀になって放送録音が解禁されフルヴェンの情報量も増えた一方で
ライヴ録音に対する印象も「誰もが悪いと思うので平等」という立場から
同じメニューの食事でも美味しいものも不味いものもあるよ
という普通の会話ができるようになった
ではアーカイヴの練り直しは進んでいるかというと
50年間の著作権の壁は厚く、旧来のレコード批評家の多くは鬼籍に入り
評価の見直しなどなかなか進む気配がない
喩えていえば30年前のミシュランガイドを頼りに海外旅行するようなもので
海賊盤で評価していた頃の印象がまだ通用するかのような受け売りも多く
そこにリマスター音質批評まで入り込んで混乱の極みだといえる
本当はこうした情報の錯綜を研究会のほうで整理してほしいのだが
なかなか仕事してくれそうな気配はない 放送録音のアーカイヴ関係で重要なのは
レコードとしてリリースされた履歴を追うディスコグラフィではなく
そのオリジナル音源が現在どこに保管してあり
個人蔵の音源でもどの伝手によるコピーなのか
それがレコード出版と紐づいていなければ現在では意味をなさない
オルフェオ、ターラ、平林はこの辺が曖昧で
リリース時点では音質の良否だけ話している
一番情報を集めているのはキングレコードだと思うのだが
かつて海賊盤を扱っていた経緯もあり口は重い
個人的にはセカンドコピー音源に広くアクセスしている
平林氏がこういう仕事には向いているように思えるが
ORFとベルリンフィルの2大巨頭の前に敗けは確実
そこを一肌脱いで情報発信してくれると助かるが
その活動資金の出所が自主レーベルというのが苦しい
ヨーロッパの貴族社会に取り入ってパトロンを見つけることを勧めたい
あとは中立的なフランスWF協会の動きが気になる
ターラのトレミヌ氏の位牌と55枚組の采配の手腕が
うまく組み合わされば結果が出せそうな気がする キングレコードに期待しているのは
今回のBIS以外にもリヒテルのライヴ音源の発掘など
海外の放送局のアーカイヴへのアクセスの仕方が手慣れている点で
そういう企画ができる時点で情報はすでに多く集まっている
平林、アルトゥスが同じ録音スタジオでたむろっている状態なので
商売としてよりも文化政策的なデザイン企業として活動したほうが
よっぽど面白い感じがする 簡単に言えばキングレコードには
これまで散々お布施をさせた分だけ文化事業に奉仕しろ
と言いたいだけかもしれない >個人的にはセカンドコピー音源に広くアクセスしている
>平林氏がこういう仕事には向いているように思えるが
ほんとにw EMI盤ってア〇ノマスクなみの大量在庫を抱える寸前だったのかwwww
そりゃWarnerに吸収されるわw 55枚組でベト7のオリジナルテープ発見も
アーカイヴへの検索依頼の内容が全てだったらしい
いわく使用済みテープという分類に眠っていたらしく
そのなかから全部で3回分のテイクがみつかり
リリース時に巨匠立ち合いで選考したテイクを正版とした
またレコード用のテープ自体もナンバーリングこそ1番だが
それ自体がその他の3回からのコピーだったという
密室のできごととはいえミステリーそのものだ >>680
教えてくれてありがとう
これだと50年代の録音だといっても通用しそうだね >>709
おお聴いたか
お気に召したようでよかったよ 山崎浩太郎さんの「レコード芸術」の記事を読んだ
概略は以下の通り
1・ワーナー55枚組には下記ノイズが入っている
a.入場の部分: 71秒 ※指揮者の足音と声
b.楽章間ノイズ:55秒+34秒
c.終演後の拍手:短い
2.正規盤(EMI)の正体
a.上記ノイズはBIS盤とは全く異なる
b.ということは当日、行われたもうひとつのライブを示唆する
c.正規盤とは「公開ゲネプロ」の「ライブ」録音であろう
3.混入について
a.ただし、両録音の3楽章には共通部分がある
b.つまり、2つの録音を編集しているのは確実
c.なお、これは徳岡直樹氏の指摘である
4.音質について
a.CD層を比較すれば、センター盤が上
b.しかし、SACD層で聴くと、BIS盤が上回る
5.その他
a.拍手は終演後、ただちに起きていない
b.拍手前の数秒間の沈黙、貴重な発見 団塊世代の総括キチガイ爺さんの書き込みはもうまっぴらだよな なんだ、結局EMI盤の検証記事かい!
事実だけで観賞する耳のない現代人の病そのものだ BIS盤ってEMI盤より音質悪いの?
購入しようか迷ってる >>719
バイロイトの第九はEMI、オルフェオ、BISで3度おいしく味わえる
いわゆるリマスター違いじゃなく演奏の見方まで変わる面白さ ヴェネチア盤の1942の第9が良いというんだで買ったが
やはり内周部の復刻がアレだった
BIS盤も今更手に入れたが、あれって第1楽章で音量を大きめに合わせたら
第2や第4楽章で何回かあわて床屋になったな クレ爺で思い出したが
オタケンから出てた1951年ACOとのマーラー復活が
アセテート録音の恐ろしいほどの迫力で凄かった 死ぬまでリマスター詐欺に付き合うんですか?
そろそろやめたほうがいいんでは? 詐欺とは言いたくないが、
オリジナル音源のリマスターならまだしも、
音源の著作権が切れたのを良いことに、
セカンドコピー音源で商売している業者には、
少し思うところはあるかな フルトヴェングラーは手掛けていないと思うが、
リマスタでは、杉本一家さんというエンジニアを
好ましく思っていた。クオリティが高かったのだ。
タワーの独自復刻など、まず外れがなかった。
彼が2019年に亡くなっていたことを最近、知った。
>株式会社JVCケンウッド・クリエイティブメディアの
>杉本一家さんが、2019年の10月に永眠されました
>SACD復刻ブームの立役者のおひとりでありました。
>プロ中のプロであったと思います。
>(タワーレコード株式会社)
リマスタ商法も一段落だが、今後はおそらく
エンジニアに焦点が当たる気がする
ちなみに、むかしから私の苦手なエンジニアが2人いる
Othmar Eichinger、Gottfried Krauss >>734
数年前のクリムト展の際にワーナーから発売されたバイロイト第九のリマスターはまさに杉本さんによるもの。
DSDマスタリングされたのにCD化のみ。
DSD音源やSACD化は残念ながら見送られたままだよ。 フルトヴェングラーの新シリーズ登場!
「ステレオ・トランスクリプション」未刊行の幻のテスト・プレスLPより復刻!
【このCDの復刻者より】
「1960年代後半から1970年代前半にかけて、フルトヴェングラーのLPはドイツ・エレクトローラの「ブライトクランク」、そしてドイツ・グラモフォンの「ステレオ・トランスクリプション」と、疑似ステレオ盤がごく普通に売られていました。従って、この頃にフルトヴェングラーに親しんだ人たちは、疑似ステレオ盤をごく当たり前に聴いていたのです。
フルトヴェングラーの「ステレオ・トランスクリプション」は国内では13枚組LPとして発売されましたが(のちに分売もあり)、ドイツ国内ではなぜかこのシリーズは全く発売されませんでした。ところがこのほど、未刊行のテスト・プレスを複数手に入れました。つまり、本国では番号を決め、テスト・プレスまで行われたのにもかかわらず、製品化はされなかったのです。
この“幻のテスト・プレス”復刻シリーズの第1弾は、もはや説明不要のベルリン復帰3日めのライヴです。制作者自身も含め、当時この音でフルトヴェングラーを聴いたファンには良き思い出の品となるかもしれません。この疑似ステレオこそが本物のフルトヴェングラーの音に近いなどとは言いませんが、オリジナル・モノラルとは全く異なった趣があることだけは確かです。未体験の人も、案外やみつきになるかもしれません。 ジョン・ハントのディスコグラフィー第3版の初出年って信頼できるデータなんですか?
後の版から消えているのはなぜだろう >>734
オルフェオコンビかよ。
ありゃダメだなw 平っちもモノラル録音をステレオ装置で嗜むくちか。。。あきれた 昔は51年1月6日と1月10日のウィーン盤も有ったな。
同じ演奏だけど(笑) リマスターだのSACDだの、どんな手を使おうが元あるものを上回ることは「絶対」
にない!偽物に騙され感心したい気持ちはなんとなく判る気もするが哀れである。
古便ステキだがこれが唯一無二の絶対ではないし、そう思いたくない。宗教では
ないのだ。 下手なホンモノより上手いニセモノがいい
とでーやんが言ってた 出谷啓、Wikipediaに前は盗作事件載ってたけど消えてるね。 60年代前半までのベルリンフィル、ウィーンフィルならフルベン時代の音がするんじゃないの?
レコードでしかフルベンの音を知らない今の日本の盤鬼より
没後10年しか経ってない当地の演奏家評論家観客の方がフルベンの音を知ってるわけだし
フルベンが優れているならそれを10年で簡単に捨て去ってぜんぜん違うものにするとも思えん
ステレオでフルベンの音が聴きたかったら他の指揮者がベルリンフィル、ウィーンフィルを振ったステレオ録音を聴けばいい フルトヴェングラーの指揮なくして
虚無の中から聞こえて来るように
とはならないといえよう >>748
>60年代前半までのベルリンフィル、
>フルベン時代の音がするんじゃないの?
50年代前半に、ヨッフムがベルリンフィルと、ブラ全を
録音(DGG)しているんだがこれがガチで、
フルトヴェングラーの音なんだわ
ヨッフムはその後、再録音しているが、あの音は出せてない
今ではあまり話題になることもないが、個人的に大好きな録音で、
スタジオ録音でブラ全を残さなかったフルトヴェングラーを、
しのぶ録音として、今でも大切に聴いているんだよ フルトヴェングラーとヨッフムのブラームス比べると、フルトヴェングラーの方は何故か音がモヤモヤしているんだが。
録音年代とオケでフルトヴェングラーの音って言われても、違うくね? 普通の指揮者より音量が低いと言われる
その分だけ爆発したときの迫力が。。。 >>752
わざとらしい。
オペラでも、オケで歌手を圧倒しない。というか、オケで歌手の歌にからんでいくスタイル。
料理でも、薬味をバンと叩いて使った方が風味がいきる。(巨匠談ではない) tharaの1952年ウィーンフィルの第9ティンパニの迫力満点で聴いてて楽しい WFJ86のエロイカは迫力満点だからBPOとのブラ1もSFBオリジナルはいけるかもしれん バイロイトの第九をブライトクランク疑似ステレオを聴いてる
やはりモノラルよりは楽しめるわ
しかし、各パート上手いなぁ
ベートーヴェンの魂はフルトヴェングラーよりもこの人たちに憑依してるみたいだわ
オーボエ、ファゴットがとくに、乗りうつってるんじゃね? ブライトクランクか
次の商売ネタはステレオだろうな、と睨んでる
とある有名ユーチューバーが、偶発ステレオの話をしていた
要するに、同一演奏会で音源(マイク)の異なる録音を重ねると、
偶発的にステレオ効果が得られるケースがあるらしく、
フルトヴェングラーにもそういう事例があるとか
もっとも、ブライトクランクが本命だろうと思う
復刻は日本盤のみで、海外盤でまともに復刻されていない
いずれ、出てくるのではなかろうか EMI のブライトクランクって、ハンマーとか部屋中に吊るしてモノラル録音を流したものをステレオ録音の装置で拾った音に聴こえるんだが。
残響強めのキンキンの音じゃないの。 トスカニーニのヴェルレクで偶発ステレオ盤が出てたね
古いSP録音の一部でも別マイク収録の同一音源でステレオ化が可能なのもあるとか
バイロイト第九はEMI盤とBR(&BIS)盤で一部同一演奏部分があるって話だけど
それらを合成するとマイクの位置関係によるけどステレオっぽくなるのかな? なんか、ショパンのヘンレ版とかペータース版とかみたいに
各レーベル別の版みたいになってるな 久々に編集ソフトを使って、
こないだ出た51年のバイロイトの第九の
第四楽章13分09秒あたりの音が変な箇所の
修正をしようと思ったけど、
そこだけ範囲指定するのが凄く難しい。
範囲指定した後、どのエフェクトで
誤魔化したらいいのか悩む。
54年のバイロイトの本番の第九のオルフェオ盤は、
かなり以前のより聞きやすくなってるけど、
独唱の、突出した大音量だけは勘弁してほしい。
それも範囲指定して、音量を下げるか
音質を丸くすれば、かなり聞きやすくなると思う。
特に女声のソロ歌手が神経を逆なでする。
顔の前あたりに補助マイク置いてたんか?
音が無駄にデカいし、キンキンして耳が痛い。
ラジオ放送の素人エアチェックがソースらしいけど、
放送音源のミキシングした奴は誰やねん?
どっかで修正盤を出してくれないかな?
買うよ。 何年の第9か忘れたが
最後の最後でシンバルがマイクの前に飛び出して鳴らすというカスタマーレビューを見て
聴いたらその通りで笑った eClassicalでBISの第9のハイレゾが配信されてる 名曲喫茶スレ
996名無しの笛の踊り2021/12/31(金)
毎年恒例、渋谷ライオン、15時に
フルトヴェングラーのバイロイトの
第九の日ですね
998名無しの笛の踊り2021/12/31(金)
今年は1951年じゃなくて1942年でした
一階満席で二階も半分位でした >>767
結局、バイロイト派か、1942年派に分かれるのな
おいら、ルツェルン派だけど ルツェルンの第九は失敗作
スケルツォなんかバラバラでうるさいだけ ルツェルンの第九は最高に素晴らしい演奏だ。
この演奏の深遠な世界を理解出来ない人はフルトヴェングラーの芸術の真の素晴らしさを解ってないと言っても過言ではない。
録音のバランスがあまりよくないのは認めるが、演奏の素晴らしさを聴き取ることは出来る。 42年派は「通」ぶってるだけ
普通に評判通りのバイロイト盤のほうがいい >>773
寄せ集めのバイロイトよりベルリンの方が良いだろ。
しかもEMIのバイロイトはレッグのイジリ付き。
EMIから最終ゲネプロの通し録音が出ないと(54年のルツェルンとバイロイトと51年バイロイトを聴き比べだ伝説も有った様な。もしかして録音が残っていたら凄いのだが…)
42年4月の緊張感は何物にも変えがたい。 普通に演奏内容の深さはベルリン盤よりバイロイト盤の方がいい
ベルリン盤は音響的な迫力はあるが内容の深さはその後の演奏には及ばない バイロイトは最後のアッチェレランドなんかgdgdやん 42年BPO小中学生向け
ルツェルンの第九は音が薄っぺらい
51年バイロイトは生々しさが無い
54年バイロイト以外はすべてNG >>780
だっけな
誰かがエアチェックしてた音源しか残ってないらしいね BISバイロイト第九みたいに54年バイロイトも
なぜか「70年後」の2024年に音源が放送局が出て来るんだろ?(希望的観測) 42年ベルリンの第9は3楽章でホルンが1小節も間違って早く吹いていて3楽章が台無しになってしまっとるやないか
あれはダメや
平常時のフルトヴェングラーの第9なら戦後のウィーンフィルとのいくつかの演奏の中から選べばいいと思うわ >>77
gdgdなんかになっていない、キッチリ決まっている。
初出オリジナルLPイギリス盤かフランス盤で聴いてみろ
バイロイトの終結が崩壊というのはマスタリングの不備で捏造されたものだ。
特に独エレクトローラでブライトクランクステレオ化された時に酷く崩壊したようなものに作り変えられてしまった捏造なのだ。 第九がゲシュタルト崩壊したときに感じる発見とカタルシスの美学 >バイロイトの終結が崩壊というのはマスタリングの不備で捏造されたものだ。
違うよ、フルトヴェングラーは第四楽章コーダだけは意図的に一度も練習させなかったんだ。 話が嚙み合ってないというか、
トンチンカンな受け答えワロスw >>789
あの狂乱暴走的突進、そして天へと昇華していくフロイデの魂こそ
バイロイト盤の全てであり結晶である
あれをミスだとか言ってる人はフルトヴェングラーのことを何もわかっていない フルトヴェングラーは権力者だったから、生まれ変わりと言われたら違うような...
どっちかというと、ベートーヴェンに対しての厄介オタク。 家庭環境に輝かしい経歴
マタイ受難曲を重視した点など
ゲヴァントハウスの偉大な先輩メンデルスゾーンの生まれ変わりといえよう
スコットランドなどフルヴェンにぴったりの曲のように思えるが生涯まともに取り組まなかったのは保守的なフルヴェンの限界といえよう >>801
>スコットランドなどフルヴェンにぴったりの曲
そうかなあ スコットランドはワインガルトナーのSPで有名になった曲
早いテンポでポルタメントをかけ続けないと良さが出ない
クレンペラーみたいな大袈裟な演奏だとすぐに飽きる >>801
ゲヴァントハウス時代にフルヴェンの下でコンマスだったミュンシュのスコットランド
第4楽章終結部をゆったりと始めて次第にテンポを上げてくのはフルヴェンっぽいんだよな
フルトヴェングラーもこの曲振ったらあんな感じになったのかな >>807
著作権切れてるから、親切な人がタダ配りしてもいいんだよな、と思ってしまったYoutube >>807
https://www.youtube.com/watch?v=fn0X_3AQzcs&list=OLAK5uy_njGdstZpA2YZl_zVuXomQ-o78I8HgDi7c
Provided to YouTube by NAXOS of America
℗ 2022 BIS
Released on: 2022-01-07
Artist: BIS
Auto-generated by YouTube.
探しにくくて少し不親切なAI
あとSpotifyにも来てる >>811
読んでみた。
BIS盤の考察、面白い! みなさんの、ブラ4のおすすめ教えて下さい
エントリー候補
1.ベルリン・メロディア(1943)
2.ティタニアパラスト・EMI(1948)
3.ウィースバーデン(1949)
4.ザルツブルク(1950) >>813
2のEMIじゃない10/22もなかなか。 フルトヴェングラーのブラームスではブラームスに聞こえない 緩徐楽章をワルターと比べるとフルトヴェングラーのブラームスの酷さが良くわかる 香料抜きのトスカニーニが数段好ましい。
香料が鼻について、全く聴かなくなった。 生の演奏を多く聴く人間なら、コロンビアのステレオのオーケストラの録音がなんか変だとすぐ気づくだ思うが >>819
変えるんだなこれが
本当なんだから仕方がない とは言っても、生では、シノポリ、シャイー、ムッティー、ネゼ=セガンの指揮でしかブラームス交響曲四番は聴いたことがない。ドイツ人指揮は、聴いたことがないから、参考にならんかもしれない ムラヴィンスキーのブラームス交響曲四番が最高の名演だね
フルトヴェングラーはNG アンチはプレーヤーたち
フルヴェンは文学的思考から聴く人たち フルトヴェングラーのブラームス交響曲四番は最高の名演だね。
あの素晴らしさが解らない人はブラームスも音楽も理解できない人と言っても過言ではない。 あの宇野功芳ですらブラームス交響曲四番はフルトヴェングラーよりザンデルリンクの方が遥かに名演だと言っている位だからね:
Brahms "Symphony No 4" Kurt Sanderling 1992
Berliner Sinfonieorchester
Kurt Sanderling, conductor
rec 1992 宇野さんを持ち出すのは感心しない
一番、忌み嫌われる行為だよ
自重されたし > あの宇野功芳ですら
権威があるかどうか知らんが、
権威主義はいただけない
他人のふんどしで死ぬつもりでごわすか? ワーナーのバイロイトの21年のリマスター24bit/192khzで聴いた
2010年のSACDと違ってテープヒスノイズ消してないし、低音、特にティンパニ厚めで好感持った
grand slamの最新リマスターよりこっちかな >>830
宇野はワルターファンだからぼってりした演奏が好み
フルトヴェングラーとかカルロスクライバーをほめてるときは信用ならん
ちなみに宇野はフルトヴェングラーのブラ4は高く評価しているのは行間を読めればわかる 宇野ちんにしろ黒恭とか鳥八つぁんとか
しょせんはレコード会社の太鼓持ちだったからね 子供の頃に吉田秀和や諸井誠に騙されてフルヴェンのレコードやCDを
よく買いました
私には理解不能でしたけど
モノカートリッジで聴いても良さがわからんかったよ
まあ吉田秀和なら生でフルヴェン聴いてるかもね それでも、フルベンスレにやってくる!
それがフルベン神の力 ブラームスはワインガルトナーが正統派なんだよ。フルトヴェングラーみたいな遅いテンポで緩急が激しくて大袈裟なのはブラームスではない
ベートーヴェン全集と並ぶワインガルトナーの偉業"ブラームス全集"が最新復刻でUHQCD化!!
掲載: 2021年03月03日 1
ワインガルトナー
ベートーヴェン全集と並ぶ金字塔。澱み濁りの一切を排した高貴な名演。
作曲家本人が激賞したワインガルトナーのブラームス。
過去最高音質で復活 高音質UHQCDにて登場!
ブラームス:
交響曲第1番 (ロンドン響、1939年2月16日、18日) *U.S.盤より復刻
交響曲第2番 (ロンドンフィル、1940年2月26日) *U.S.盤より復刻
交響曲第3番 (ロンドンフィル、1938年10月6日) *U.S.盤より復刻
交響曲第4番 (ロンドン響、1938年2月14日) *U.S.盤より復刻
ハイドン変奏曲 (ロンドンフィル、1938年10月6日) *U.K.盤より復刻
大学祝典序曲 (ロンドンフィル、1940年2月29日 *U.K.盤より復刻
【演奏】
フェリックス・ワインガルトナー指揮 ワインガルトナーが名声を確立した時ブラームスはまだ存命でした。
1895年4月にベルリンフィルがウィーンにやって来て3日間でブラームスの交響曲全曲を演奏したことがあります。指揮はR.シュトラウス、モットル、ワインガルトナーの3人で、ワインガルトナーは第2番を指揮しました。ブラームス自身は、リヒターよりもビューローの指揮を高く評価していましたが、この3日間の全部の演奏会を聴いた後、ジムロックへの手紙の中でワインガルトナーの演奏を絶賛しています。
ワインガルトナーにはブラームスの交響曲全集があり、第1番は機械録音時代から実に3回も残しています。他の3曲は各々1回のみ。
・ ロンドンフィルハーモニー管弦楽団
(1938年 10月6日 ロンドン、アビーロードスタジオ)
ワインガルトナーは晩年に至るまで解釈に大きな変化はなかったそうです。この録音は80歳近いワインガルトナー晩年の録音ですが、老いの影はなく、明快で健康的、端正で気品に満ちた名演です。
早いテンポで進めた第1楽章は音楽が自然に流れ、展開部後半のホルンソロによって演奏される基本モットーを下で支えるコントラファゴットが実に雄弁。
そのままウンポコ・ソステヌートを経て再現部に至る絶妙のテンポ運びには思わずうまいなぁと感心してしまいました。
終結部187小節以降の複雑な絡みも木管の動きを殺すことなく完璧。
第2楽章は、のどかな中に忍び寄る不安の暗き影を見事に表現。感傷に溺れない第3楽章も実に見事。推進力溢れる第4楽章の第2主題に呼応する低音弦楽器の深い響き、ダイナミックレンジも広く確信に満ちた演奏にただただ圧倒されました。 なお、ワインガルトナーはベートーヴェン以降の作品について、解釈と演奏法について有名な著書を残しています。特にベートーヴェンの解釈については、オーケストレーションにさまざまな手を加え、後の指揮者たちに大きな影響を与えました。
同時代のブラームスについても、そのオーケストレーションについて批判は残していますが、実際の演奏は譜面に忠実です。第1楽章のリピートはありませんでしたが、同時代の指揮者の多くがおこなっている第4楽章終結部に旋律線を弾かせる変更はせず、譜面に忠実でした。まさにプロ中のプロのお仕事。
ワインガルトナーはマーラー(1860年生)とほぼ同世代で、フルトヴェングラーやトスカニーニ、ワルターたち、現在でも人気のある大指揮者たちよりも一世代古く、録音も1930年代までの古いものが中心のため、人気はいまひとつですが、この録音を聞くと実に偉大な指揮者であったことが実感されます。
今回は英EMI−IMGが出している2枚組CD「20世紀の偉大な指揮者たち」シリーズのワインガルトナー編と、新星堂が2000年に出した国内盤CDの2枚を聴きました。
新星堂盤は状態の良いSPを再生して収録したもので針音入り。高音部分のカットもなく比較的細部まで明瞭ですが、響きが幾分やせ気味でした。
一方のIMG盤は、金属原盤からの直接復刻かもしれません。針音は聴かれず、生々しく奥行きも充分で、パンチの効いた驚異的な再生音です。
新星堂盤は、ワインガルトナーがEMIに残した200枚余りのSPを全てCD化した空前絶後の画期的なシリーズでしたが、このブラームスの録音に関してはIMG盤が数段上の復刻音でした。 当時の指揮者の評価では
1.ニキッシュ
2.マーラー
3.ワインガルトナー
4.メンゲルベルク
5.ワルター
6.フルトヴェングラー フルトヴェングラーやトスカニーニは中高生向けの解り易い演奏だったから一般大衆に人気が出たんだよ
貴族や音楽関係者に人気が有ったのはワインガルトナーの方 結局戦前のSP期はあらえびす評価が今なお支配的なんだよな
「万人が認めて一流中の一流指揮者とするものは、トスカニーニ、
フルトヴェングラー、ワルター、メンゲルベルクらであろう。
それにワインガルトナーを加えるのが、まず今日の常識で、
レコードの方面ではアメリカの人気を背負って立つストコフスキーを加えて、
世界の六大指揮者とするのが穏当だと私は考えている。」『名曲決定盤』から ワルター、ワインガルトナー信者はすごい
わろたwww アーベントロート、フリッツ・ブッシュのブラームスはどうなんだ?
シュタインバッハの直系だか… ブラームス: 交響曲第1番<完全限定盤>
ヘルマン・アーベントロート 、 バイエルン国立管弦楽団
爆演の金字塔、ブラ1演奏史に輝く凄演。
極上音質で復活の超絶ライヴ高音質UHQCDにて登場!デジパック仕様(完全限定盤)
これが没年の演奏と言うことが信じられないアーベントロート会心の名演。爆演中の爆演であるブラ1がUHQCD化。すっかり東ドイツの人になっていたアーベントロートが珍しくバイエルン国立歌劇場管弦楽団(バイエルン国立管)の定期演奏会である「アカデミーコンサート」に登場。冒頭からして力こぶが盛り上がる様な雄々しく逞しいサウンドに圧倒されます。剛直でセンチメンタリズムに堕さない第2楽章。疾走する第3楽章。そして白眉は勿論のことフィナーレで、物をぶっ壊すかのようなティンパニの強打、旋律美が壊れるのを無視してまでブロック的に楽想を分断し、思う存分の変化をつけまくる超個性的解釈!アーベントロート屈指の名演として名高いものです。この前日には同会場でクナッパーツブッシュがミュンヘンフィルと演奏会を開いていたと言う正に神々の時代の記録。至高音質として知られたDISQUES REFRAIN盤のマスターを使用。テープの傷は可能な限り修正しUHQCD化しました。英日のライナーノート付です。
【録音】
1956年1月16日
バイエル国立管弦楽団アカデミーコンサート
ミュンヘン・ドイツ博物館ライヴ 今こそ聴くべし、アーベントロート!【宇野功芳】
「アーベントロートは旧東ドイツで活躍していたため、もう一つ知名度が弱いが、フルトヴェングラーより3歳年上のこの巨匠の個性は極めて強烈で、ブラームスの一番と「悲愴」はフルトヴェングラーよりもはるかに雄弁であり、「第九」も部分的に上まわる。一方、ハイドンやモーツァルトの交響曲における、きりりとした造型の中に宿る豊かな内容は、この指揮者の芸風の広さを示して余すところがない。今こそ聴くべし、アーベントロート!」
ヘルマン・アーベントロート(1883-1956)はフルトヴェングラー(1886-1954)やクナッパーツブッシュ(1888-1965)と同世代のドイツの巨匠指揮者。旧東ドイツのライプツィヒを拠点に活躍していたため、西側にとっては”幻”の指揮者であったが、ドイツシャルプラッテンと契約した徳間音工が”幻”の音源を発掘、1974年はじめてLPシリーズで発売、宇野功芳氏の推薦紹介とあいまって、業界に大反響をまきおこしたであった。その後CD化されたが、国内LP盤の音質には達していないのがファンの不満でもあった。そのCDも長らく廃盤になっている中、宇野功芳氏がLPで20枚分ある音源の中から自ら推薦演奏のみ厳選し全曲を解説、キング独自のハイパー・リマスタリング技術を施して発売!
ブラームス:
@交響曲第1番ハ短調Op.68
A交響曲第3番ヘ短調Op.90
ヘルマン・アーベントロート指揮
ライプツィヒ放送交響楽団
録音:@1949年10月20日ライプツィヒ放送局スタジオ(SRKホール)A1952年3月17日ライプツィヒ・コングレスハーレ、全てモノラル 「『ブラームス・シュタインバッハの伝統』とは、テンポを自在に変え、シュタインバッハの楽譜への書き込みに基づいたブラームス演奏のこと。
この伝統に忠実なのはアーベントロート。
ヴァント、サヴァリッシュ、ベームのブラームスは楽譜の範囲内で『ブラームス・シュタインバッハの伝統』を解釈している。
(よくアーベントロートの指揮を19世紀的と言う人がいるが、実際にはそうではない、とのこと。)
ブラームスの演奏における『ブラームス・シュタインバッハの伝統』をシュタインバッハから継いだのは、ライナー、ストラヴィンスキー、アーベントロート。 アーベントロートから教わったのが、ヴァント。
なお、サヴァリッシュ・ベームは誰から教わったのかははっきりとは分からないが、サヴァリッシュ・ベームの振るブラームスも『ブラームス・シュタインバッハの伝統』の系統の演奏と考えられる。」
「ムラヴィンスキーのブラームスも『ブラームス・シュタインバッハの伝統』に基づいていて(誰から教わったのかは不明)、振り方そのものは大変近代的、モダンである。」
「ノリントン、マッケラスはシュタインバッハの楽譜への書き込みを意識してはいる。しかしその演奏そのものは『ブラームス・シュタインバッハの伝統』の再現というのとは少し違うようだ。」
「一方、クナッパーツブッシュの振るブラームスは『ブラームス・シュタインバッハの伝統』とは、異なる。クナッパーツブッシュはブラームスが楽譜に書いた通りにやろうとしていて、テンポを途中で変えないやり方。R.シュトラウスやセル、チェリビダッケの指揮するブラームスも同じ系統。」
「なお、トスカニーニはシュタインバッハのブラームス演奏を大変意識してはいたが、トスカニーニの演奏は「歌う」部分が強いので、この2つの系統とはまた異なるブラームス演奏と考えられる。」 ブラームスの演奏をする時に楽譜通りにやるか、あるいはプラスアルファの要素としてシュタインバッハのやり方を取り入れるかどうか、その辺が指揮者自身の考え方により違うのだろうか、と思います。
ブラームスの演奏解釈を研究されている方などが、現在では
「ブラームス・シュタインバッハの伝統」
「マイニンゲンの伝統 ( Meiningen Tradition )」
というキーワードを度々使われることがあります。
しかし、アーベントロートやヴァント、サヴァリッシュなど、実際にシュタインバッハの楽譜への書き込みに基づいたブラームス演奏をしている指揮者達は、こうしたキーワードを使って説明したりすることはなかったのだそうです。
アーベントロートは
「ブラームス先生から教わったシュタインバッハ先生から、自分は教わったんだけど」
という感じで説明をしていたらしいです。また、アーベントロートから教わった方も
「シュタインバッハ先生が言ってたこと」
「シュタインバッハ先生から教わったことを、アーベントロート先生はこう言っていた」
という感じで説明していたそうです。
「マイニンゲンの伝統」とは、シュタインバッハに師事したことのあるヴァルター・ブルーメという人物が最初に呼んだものだそうですが、その後、ブラームス研究をする方のうち「シュタインバッハの楽譜への書き込み」に着目した人々(ウォルター・フリッシュなど)がこの「マイニンゲンの伝統」というキーワードを使うようになっています。
一方、アーベントロートが教えた指揮者、音楽家など、演奏する側の人々は
「シュタインバッハ先生が言ってたこと」
そういう言い方をされている。
この「シュタインバッハの書き込み」に関し研究者が本に書いたり論文で検証している内容というのは、演奏をしている現場でのやり取り、 指揮者や音楽家達の直接の伝承とはイロイロ異なる点などあるかもしれませんので、重く考え過ぎてはいけないのかもしれません。 (私、境山の個人的な感想ですが。)
また、「**の伝統」というキーワードが独り歩きすることも、余り好ましくないことなのかもしれません。 (シュタインバッハとトスカニーニは、どういうつながりがあったかは分からないのですが)
シュタインバッハの指揮するブラームスを聴いた経験のあるトスカニーニは
ニューヨークのある社交の場で、その演奏を聴いた時のことを
「それは素晴らしかった。音楽が難なくそう進んでいったのだ」
と語った、という話が伝わっているのだそうです。
ヴァントは、正しいテンポとは何か、という問いに対して
「・・ブラームスの交響曲や、ムソルグスキー/ラヴェルの『展覧会の絵』のような 管弦楽作品で大事なのは、むしろ、演奏のテンポが全体として納得できるものであること、 つまり『正しい』と感じられることなのである。」
ということを語っており、その際にこの、シュタインバッハの指揮するブラームスを聴いた トスカニーニの話に触れています。
「ギュンター・ヴァント」
ヴォルフガンフ・ザイフェルト( Wolfgang Seifert )著、根岸一美訳
(音楽之友社)
P.291-P.297 参照 Meiningen Tradition 「マイニンゲンの伝統」というキーワードは、 1914〜1915年にかけフリッツ・シュタインバッハ( Fritz Steinbach 1855〜1916)に師事したヴァルター・ブルーメ( Walter Blume )という人が呼んだもの。 ( Brahms in der Meininger Tradition )
ブルーメは、シュタインバッハがブラームスの4つの交響曲とブラームス・ハイドンの主題による変奏曲の楽譜に書き込んだものを転記して、1933年に出版している人なのですが、ブルーメによると 「マイニンゲンの伝統的演奏では、正確なリズムと常に変化する柔軟性のあるテンポとは、相互協力の関係にあった」
とのこと。
1886年、ビューローからマイニンゲン宮廷楽団( the Meiningen Court Orchestra )を引継いだのがシュタインバッハ。マイニンゲン宮廷楽団というのは、ビューローによって鍛えられ、その緻密なアンサンブルにより当時高く評価を受けていたオーケストラ。シュタインバッハ自身はブラームスの指揮を手本にして演奏、マイニンゲン宮廷楽団の演奏を信頼していたブラームス自身が、シュタインバッハのブラームス演奏を評価していた。
シュタインバッハの書き込みというのは、ブラームス自身は楽譜にはテンポを変えるような指示はしていない部分で、詳細にテンポに関し指示しているなど、楽譜通りではない箇所があるとのことです。ブラームスと直接の接点を持っていたシュタインバッハが、指揮者としての考えで書き込みをしているのか、それとも、作曲家自身に確認を取って書き込んだものなのか、この点は不明です。 音楽家や音楽学者の間で現在でも 「 Meiningen Tradition 」 はまだ研究中であるらしいが、マイニンゲン宮廷楽団を鍛えたビューロー、そのマイニンゲン宮廷楽団を 継いでブラームス本人にもその演奏を評価されたシュタインバッハ、そしてケルンのギュルツェニヒ管弦楽団という接点でアーベントロートと直接つながりのあった シュタインバッハからアーベントロートへ、そしてアーベントロートからヴァントへ引き継がれていった、ブラームスの演奏解釈、それが Meiningen Tradition 「マイニンゲンの伝統」
と呼ばれるものだとのこと。
なお、アーベントロートが自分の教え子にブラームスの演奏解釈を教えた際には、 Meiningen Tradition 「マイニンゲンの伝統」というキーワードは言っていない。
「ブラームス先生から教わったシュタインバッハ先生から、自分は教わったんだけど」
と、教え子には演奏のテンポ等の説明をしていたらしい。
なお、アーベントロートのブラームス演奏というのは、この Meiningen Tradition (マイニンゲンの伝統)とイコールということでは「無い」。
アーベントロートの演奏は、 Passion を抑えきれていない時があって、そのため楽譜や演奏解釈を超えてテンポが変わることがある、ということなんですが、 しかしそれでも結果として「演奏のテンポが全体として納得できるものである」演奏になっているので、素晴らしい演奏であり、 Meiningen Tradition (マイニンゲンの伝統)の流れの中から生れた演奏として考えられる、とのこと。 ワインガルトナーからアーベントロートに話が変わっとる。 ブラームス交響曲第2番の聴き比べ
フリッツ・ブッシュ / デンマーク国立放送交響楽団
31EEA5VE93L1690年創立のマイニンゲン宮廷楽団の指揮者には1880年にハンス・フォン・ビューロー,85年にリヒャルト・シュトラウス、86年にフリッツ・シュタインバッハが就く。
そして85年10月にこのオケが初演した曲がある。それがブラームスの交響曲第4番であり、そこでオケに入ってトライアングルをたたいたのがリヒャルト・シュトラウスだった。
シュタインバッハはブラームスと親交が深く彼をマイニンゲンに招き、彼の作品によるザクセン=マイニンゲン地方音楽祭を立ち上げた名高いブラームス指揮者であった。
後年そのシュタインバッハがケルン音楽院で指揮法の教授になった時の生徒がハンス・クナッパーツブッシュとフリッツ・ブッシュである。
この二人のブラームス2番が聴けるというのは幸運なことだが、両者は違う。 クナは自分のブラームスは先生のまねだと言ったらしいがバイロイトに行ってワーグナー指揮者として名を成した芸風の人であり一概には信じ難い。
両者はテンポからして異なり、ブッシュの終楽章は7分55秒と最速クラスだ。モーツァルトを得意とした彼のフィガロやドン・ジョバンニの芸風を持ってきた2番と言えそうだが、はて、こっちもこれが直伝かというと迷う。
かたや4番を聴くと両者には通じ合うものがあるのだが・・・。そこに関してはやはりブラームスと親しく、演奏会で自分の代わりに第2協奏曲を弾かないかと誘われ(断った)、この交響曲2番の作曲者指揮によるライプチヒ初演を聴き、どれかはわからないがブラームス臨席の演奏会で彼の交響曲を指揮し少なくとも解釈にクレームはつかなかったという逸話を持つマックス・フィードラーの終楽章を信頼すべきだろう。
これは驚いたことに四つ振りのやや遅めのテンポで始まり、全奏で速くなる。以後もテンポはよく動きとても流動的だ。ピアノ協奏曲2番をブラームスはとても情熱的に激しく弾きテンポはよく動いたという証言をどこかで読んだ記憶もあり、ほぼ同時期の44歳の作品である第2交響曲も同様の解釈が正解なのかもしれない。フィードラーの演奏を聴いていて僕はふとこれは蒸気機関車から見た光景か?と思ってしまった。彼はエジソンの蓄音機に録音を試みたように機械やニューテクノロジーに並々ならぬ関心を示しており、イタリアやペルチャッハへもSLで行った筈なのである。このブッシュ盤はSLどころか快速電車だが。このCD、モーツァルトの「リンツ」はやはり快速、メンデルスゾーンの「イタリア」冒頭主題は歌いまくる。ドイツ語圏音楽の解釈を考古学的に探ってみたい僕には非常に貴重な音源である。(総合点 : 4) 「ブラームスの4番を聴く」27・・戦前派巨匠の時代9 フリッツ・ブッシュ
フリッツ・ブッシュ(1890 - 1951)
ヴァイオリンのアドルフ、チェロのヘルマンとともにブッシュ3兄弟の長男として主にドイツやイギリスで活躍した名指揮者。主な活動時期が第二次世界大戦と重なり残された録音も少ないため地味な存在ですが、ドレスデン国立歌劇場やイギリスのグライドボーンで音楽監督を務め、数々のオペラの歴史的な名公演をなしとげた名匠。
ブッシュはケルン音楽院でブラームスの盟友フリッツ・シュタインバッハに指揮を学びました。
ブッシュの残されたコンサートレパートリーの数少ない録音中、ブラームスは交響曲第2番と第4番、そして悲劇的序曲の録音があります。
・ウィーン交響楽団
(1950年10月15日 ウィーン 放送用録音)
ウィーン占領下のアメリカ放送局Rot-weiss-rot(赤白赤)放送局収録の聴衆なしの放送用録音。
ブラームスの交響曲第4番を初演したマイニンゲン宮廷楽団をハンス・フォン・ビューローから引き継いだフリッツ・シュタインバッハを、ブラームスは自分の作品の演奏者として最も高く評価していました。
この録音は、そのシュタインバッハ門下のスター的存在だったブッシュが指揮した、まさに「マイニンゲンの伝統」の影響を受けた演奏です。
「マイニンゲンの伝統」については境山さんのHPを参考にしました。
http://www18.ocn.ne.jp/~dirigent/abendroth_brahms.html この中で「マイニンゲンの伝統的演奏では、正確なリズムと常に変化する柔軟性のあるテンポとは、相互協力の関係にあった」とあります。
速いテンポの中で正確なリズムを確実に刻みながら聴かせる柔軟なフレージング。ブッシュの演奏はまさにこの「マイニンゲンの伝統」にぴったりの演奏でした。緊張感漂う引き締まったオケの響きも素晴らしい時代を超えた普遍的な名演です。
第一楽章冒頭の第一音は比較的短く開始。45小節のヴァイオリンも短めで、続く第2主題もホルンを喨々と響かせながら雄大に展開していきます。終盤のクライマックスの中で、414小節めに一瞬スーッと力を抜き柔軟な変化をさりげなく聴かせるなんという心憎さ。終結部最後の2小節はテンポを落とさず、最後の音は通常よりも長めに響かせていました。
第二楽章では20小節のクラリネットの微かなポルタメントに僅かに19世紀末の名残が感じられます。再現部65小節から弦楽器の動きを彩る木管楽器の美しさも印象に残ります。
端正でスピード感あふれる第三楽章では117小節1拍めにアクセント付加、中間部のふくよかなPoco meno prestoと前後との対比も見事。
第四楽章も自由な呼吸で音楽を流しながらも常に一定のリズム感が曲を支配し、いつまでも聴いていたいと思わせる演奏でした。トスカニーニのような人を寄せ付けない厳しさとは異なり、懐かしさと温かみも感じさせるのが素晴らしいと思います。
ただ、当時のウィーン響は大戦の痛手から未だ十分に立ち直っていないようで、第四楽章冒頭のトランペットや第三楽章の一部にオケの弱さを露呈させる部分があり、これは大変惜しい。
今回聴いたのはスイスのReliefから出ていたLPです。残響少なめの幾分硬い響きで一部音が割れる箇所もありましたが、各楽器は明瞭、50年の録音としては優秀です。 長々とありがとう
で、フルトヴェングラーは当然ライバルであるワインガルトナーやアーベントロートやフリッツ・ブッシュの演奏会をたくさん聴いて熟知していたわけだけど何が決定的に違っていて、どこがどうダメなんだ? 同じ指揮者の42年の名歌手聴いたらよく分かる。
いくらでも置き換えが出来るような凡庸指揮者。 >フルトヴェングラーは当然ライバルであるワインガルトナーやアーベントロートやフリッツ・ブッシュの演奏会をたくさん聴いて熟知していたわけだけど
何が決定的に違っていて、どこがどうダメなんだ?
フルトヴェングラーはドイツの伝統を完全に無視してるんだよ
もともと楽章が終わるごとに拍手していたのをフルトヴェングラーが止めさせたんだ。
ドイツのオーケストラはノンヴィブラートのポルタメント 奏法で快速インテンポだったのに
フルトヴェングラーがヴィブラート ノンポルタメント奏法の緩急を極端に付けた大袈裟な遅いテンポに変えたんだ
ドイツの指揮者は左手をポケットに突っ込んで大振りなんか絶対にしなかったのに、
フルトヴェングラーが体を振り回す大袈裟な恰好付けの指揮を流行らせたんだ。
フルトヴェングラーは音楽には関心が無くて、観客からどう思われるかしか興味が無かったんだな。
カラヤンを嫌ったのもフルトヴェングラーが恰好付けの元祖・本家本元で、カラヤンに自分の真似をされたと思ったからさ フルトヴェングラーは絶対音感も無かったし、暗譜では指揮できなかった。
それでトスカニーニやカラヤンに完璧な絶対音感があって、暗譜で格好良く指揮しているのを見て腹立ってしかたなかったんだ。
フルトヴェングラーはカラヤンの指揮については、1940年に「彼らは芸術を裏切り、傷つけ、大衆を惑わせた。彼らが暗譜で指揮する技術といった表面的な資質を過大評価するのなら、彼らは芸術性ではなく勤勉性を讃えることとなる。」(中川P.76) と言っていたように、カラヤンの指揮は大衆受けを狙ったもので、芸術性には欠けていると述べている。後にフルトヴェングラーがヒットラーにワーグナーを暗譜で指揮することは可能かと聞かれたときに、それは不可能だと答えていることからもわかるように、フルトヴェングラーはカラヤンの指揮をまったく信用していなかったと思われる。
しかし、本当にカラヤンの指揮が芸術性もなく、紛い物の指揮であったと思っていたら、なぜあれまでにカラヤンを排斥しようとしたのだろうか。フルトヴェングラーはカラヤンの芸術性を理解していたからこそ、カラヤンの芸術面のみならず、その個性的な指揮のスタイルを脅威と感じていたのではないだろうか。
一方のカラヤンは当時の偉大な指揮者トスカニーニとフルトヴェングラーを研究する機会は決して見逃さなかった。フルトヴェングラーを聴ける機会があれば必ず出かけて行き、最後列の席で聴いていた。カラヤンは特にトスカニーニを敬愛し、多くの影響を受けた。カラヤン自身も「トスカニーニは、私に生涯二度とない圧倒的に印象を与えた人物でした。」(BachmanP.107) と述べている。トスカニーニが1931年にバイロイトで「タンホイザー」を指揮したときには、その演奏を聴くために、自転車に乗ってウルムからバイロイトに向かったという有名な話がある。
しかし、カラヤンがトスカニーニやフルトヴェングラーの音楽について批評めいたことを述べていたり、書いたりしているものを私はまだ知らない。 フルトヴェングラーの名演もベートーヴェンだけだしね
バッハではメンゲルベルクには到底敵わなかった
ハイドン・モーツァルト・シューベルトではワルターには到底敵わなかった
ワーグナーではトスカニーニややクナッパーツブッシュには到底敵わなかった
ブルックナーではクナッパーツブッシュには到底敵わなかった
ブラームスではワルターやクナッパーツブッシュには到底敵わなかった
チャイコフスキーではメンゲルベルクやムラヴィンスキーには到底敵わなかった
ベートーヴェンでもクナッパーツブッシュやワインガルトナーの方が良いのが多い フルトヴェングラーが中高生に絶大な人気が有るのは、ティンパニをメチャクチャぶっ叩くからだよ。
ベートーヴェンの第九も第七も第四もコリオラン序曲も人気の9割はティンパニぶっ叩きの凄まじさが理由だね。 フルトヴェングラーが難聴になったのもティンパニをぶっ叩きが原因さ。
それ以外には人気を維持する方法は無いと悟っていたんだな。 >>871
DGが発売したティタニアパラストでのブラ1が入ってねえじゃんよ >>871
すると宇野なんかも人気絶大なんだろうな ID:Asp20sPc 名言集
1.フルトヴェングラーはドイツの伝統を完全に無視
2.フルトヴェングラーは音楽には関心が無く、
3.観客からどう思われるかしか興味が無かった
4.カラヤンを嫌ったのは、それを真似されたから
5.フルトヴェングラーは暗譜では指揮できなかった
6.フルトヴェングラーの名演はベートーヴェンだけ
7.中高生に人気があるのは、ティンパニをぶっ叩くから
8.難聴になったのもティンパニが原因
ここまでくると、かえって面白い
もっとやれ 昨日今日と長文赤IDをあぽんするとあれ不思議スッキリした ブラームスがシンセサイザーでフルオケの録音を残してないせいでこんな事に。
コロナで暇な指揮者や作曲家は自分の思う正しいテンポや楽器のバランスをDAWで作っておいてくれ、と思いました。 オルフェオの54年のバイロイトの第九の本番を
少し音声編集ソフトで修正した。
かなりオルフェオ盤は揺れが修正されてて、
そこそこ揺れは残ってはいるけど、
過去のどの盤よりも聴きやすい。
でも第四楽章のソロ歌手の音量が突出して
デカいのが、どうにも聴きにくい。
範囲指定して、男の独唱部分は音量を85%に
下げて、女のキーキー声部分はイコライザーで
徐々に高域が下がる右下がりカーブにしたら、
全体の音量も下がって聞きやすくなった。
オケと合唱の音量バランスは悪くないんだけど、
何カ所かソロ歌手の部分が、やたらに音がデカい。
特に女の声がキーキーうるさい。
複数のマイクの中の1個をソロ歌手の
すぐ近くに置いて、バランス調整に失敗しやがったな。 むかしの演奏記録を見ると、
ベルリオーズの幻想交響曲とか、
リストのファウスト交響曲とか、
ミサ・ソレムニスとか、ツァラトゥストラとか、
けっこう興味深いレパートリー多いのな 1947年セッション録音のブラ1はどうなの?
比べるのなら同じ条件にしたら? >>881
ミサ・ソレムニスのグローリアの最後とか凄かったろうな・・・ >>870
久しぶりに覗いたら酷い言われようでオレ涙目
センターの代表に言いつけてやる! フルトヴェングラーの名演もベートーヴェン交響曲第7番と第九と序曲くらいかな
ベートーヴェンでもクナッパーツブッシュ、ムラヴィンスキーやワインガルトナーやワルターの方が良いのが多い
フルトヴェングラーはティンパニーの音響の凄まじさで名演だと錯覚されているだけ
ベートーヴェン 交響曲第1番、第2番 はワルター コロンビアの方が遥かに名演
ベートーヴェン エロイカ はクナッパーツブッシュやワインガルトナー、ムラヴィンスキーの方が名演
ベートーヴェン 交響曲第4番 はムラヴィンスキーの方が遥かに名演
ベートーヴェン 交響曲第5番 はクナッパーツブッシュ、ムラヴィンスキーやクレンペラー・ウィーンフィルの方が名演
ベートーヴェン 田園 はワルターの方が遥かに名演
ベートーヴェン 交響曲第8番 はワインガルトナーやクナッパーツブッシュの方が遥かに名演
協奏曲の伴奏ではベームやワルターには敵わない >>888
ベートーヴェンにおける「名演」と「ベスト」盤を混同している
フルトヴェングラーが全てにおいてベストではない、
というのは、ほぼ全員が同意する部分なのだろうが、
それを以て、7番と9番以外は名演ではない、
などと脊髄反射な結論を出すから、乱暴だし
わざとやってるなら悪質だし、気づかないなら
国語からやり直せだろうし 宇野功芳なんか昔はベートーヴェンのすべての曲でフルトヴェングラーが断然最高だと言っていた。
フルトヴェングラーのファンもみんなそう思っていた
今はSP復刻盤のレベルが飛躍的に上がって、ワインガルトナーやメンゲルベルクやトスカニーニがどれ位凄かったかわかってきたから
評価も変わったんだ
何故かフルトヴェングラーのCDは昔のLPより酷い音になってるから猶更だ。 現在の客観的評価では
ワインガルトナー、メンゲルベルク、アーベントロート、トスカニーニ、ワルター、ストコフスキー、フルトヴェングラー
は横並びで、得手不得手が有るだけで優劣は全く付けられない
クナッパーツブッシュ一人だけがワンランク上かな カラヤンはベルリンフィルやウィーンフィルを使ってあの程度だから二ランク位は下だね
フルトヴェングラーもオーケストラが良いから名演になっているだけかな。 SP時代のワルターなんかウィーンフィルとは凄い名盤を沢山残しているけど、それ以外のオケでは平凡だろ。
オーケストラで名演になるかどうか 9割方決まってしまうんだよ。
フルトヴェングラーはオケで得してただけだよ。 >ベートーヴェンにおける「名演」と「ベスト」盤を混同している
フルトヴェングラーが全てにおいてベストではない、
というのは、ほぼ全員が同意する部分なのだろうが、
SP時代のウィーンフィルのレコードは指揮者によらずすべて名演だよ シャルクの『運命』そして『田園』は、音盤史上初めて電気的録音された一連のウィーン・フィルの演奏という点、そしてウィーンのオペラ界にその足跡を確実に残しながらも、同時期の指揮者と比較して録音が少なかったり、師ブルックナーの交響曲を兄でピアニストのヨーゼフと共に「改竄」したという悪評だけが残ってしまった感のあるフランツ・シャルクの音楽性の高さを聴くことができる音盤である。
シャルクの師 ブルックナー
ブルックナーの件について話し始めると、長くなりそうだが掻い摘まんで・・・。
シャルク兄弟がブルックナーの楽譜に勝手に手を入れ、ブルックナーの音楽様式を歪めた、というが、それは現代の視点から見た知見であって、その視点だけで2人を悪者扱いすることは、バランスが大きく傾いた考え方であり、賢明、適正な判断ではない。
ブラームスと彼を表看板として音楽美学、評論を披瀝した学者兼評論のハンスリックが席巻していた当時の音楽首都ウィーン。
そんな町で彼らとは全く異なった音楽美学を信条として、活動していたのがブルックナーである。
彼の音楽家としての活動、それは単に作曲するだけでダメで、作品をコンサートに上げる、つまり演奏されることが絶対的に必要である、ということをシャルク兄弟が重んじたが故に、気弱で臆病なブルックナーに代わって「演奏されやすく」するために楽譜を書き換えた、という言い方でなければ真実として伝わらない。
ブルックー自身にとっても「自分の交響曲がとにかく演奏されること」という欲望を払拭することなどできなかったのだ。
誤解を恐れず言うならば、「音楽は再生芸術」という観点から、演奏されなければその音楽の意味、価値はない。ましてや、作曲者自らが自作を指揮できるほど、彼らの作品(オーケストレーション)は単純なものではなくりつつあった時代が到来、いわゆる「職業指揮者」の存在なくしては、「良く演奏されない」時代となったのだ。
ハンス・フォン・ビューロー、ハンス・リヒター、そしてアルトゥール・ニキシュ。彼らの手により取り上げられた作品は輝きは放つようになった。それはブラームスであっても同じことだ。
敢えて言うなら例外は2人だけ。グスタフ・マーラーとリヒャルト・シュトラウスのみだ。
そんなことは以前こんな文章で皆様とシェアしている。 さて、そういう意味ではフランツ・シャルク(Franz Schalk, 1863年5月27日 - 1931年9月3日)は、先に挙げた3人の指揮者の系統に連なるウィーンの歴史的指揮者だ。
G.マーラー〜F.ワインガルトナー〜F.シャルク〜C.クラウス
1918年から29年まで、途中(19年〜24年)、R.シュトラウスとの双頭体制時代も含めウィーン国立歌劇場(途中まではウィーン宮廷歌劇場)総監督の地位にあったシャルク。
彼の先代はフェリックス・ワインガルトナーであり、さらにその前はマーラーがその任にあったのだ。
マーラーがこのオペラハウスで徹底的に行ったオペラ上演改革(改善)は、劇場関係者、オーケストラ、歌手たちにあまりに厳しかったこともあり、彼が総監督を辞任したのを受けその地位に就いたワインガルトナーは、マーラーの改革から逆行し、復古主義的体制、「事勿れ主義」に徹した。
ワインガルトナーの指揮を「エレガント」とか「古典的」などと言い、「ベートーヴェン交響曲全集を完成させた史上初の指揮者」などと持ち上げる人がいるが、個人的には無個性な音楽を作る人で、音楽的充実の観点からは、決して歴史に名を連ねる存在ではない、と思っている。
更にブルックナー・オタの立場で物申せば、ブルックナーの『交響曲第8番』を初演することを作曲者に約束したにもかかわらず、のらりくらりとした態度で、結果的にはそこから降りたワインガルトナーには、時代の変わり目、潮目で大きく変わろうとしている音楽の姿を認識する力がなかった、と断じていいように思うが、いかがだろうか?
まぁ、彼が断わったことで、ブルックナーの最大最高傑作はH.リヒターの手によりウィーン・フィルにより初演されたので、結果オーライと言えばそうなのだが・・・。 閑話休題。
その点ではシャルクはマーラーの時代へとまた舞い戻るかのように、歌手や若手のオーケストラ団員の育成に力を注ぎ、熱血指導したと言われているし、証言も多い。
その音楽性は同僚でもあった(反りが合わなかったという専らの話)シュトラウスの新古典主義的なものとは異なり、19世紀のロマン的解釈を色濃く残したものであるが、今聴いてもそれが古めかしいというイメージはあまりない。
むしろその面よりも品格の高さ、香りの豊かさに耳がくぎ付けになる。
その文脈で語るならば、シャルクが総監督を辞任して、代わりにそこに座った若き天才、この「note」でもおなじみのクレメンス・クラウスや、そのクラウスの影響をもろに受けたヘルベルト・フォン・カラヤンには、シャルクの遺産が確実にに受け継がれている。
https://note.com/bach_kantaten/n/na9d331bb2054 フランツ・シャルク/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ベートーヴェン/交響曲第5番ハ短調Op67「運命」
7:37/8:40/5:00/8:35
(第1楽章リピート:ワインガルトナー版)
CD(EMI新星堂 SGR-8005)
ベートーヴェン/交響曲第5番ハ短調Op67「運命」
7:38/8:41/5:02/8:35
(第1楽章リピート:ワインガルトナー版)
フランツ・シャルク指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音 1929年10月26〜28日
このレコードは冒頭で4つの音をたたく演奏というレッテルが貼られてしまい、そのことばかりが印象付けられてしまいました。しかしどのような指揮をしていたのかわかりませんが、この曲の冒頭はどの指揮者にとっても頭のいたいところだそうですから、オケが乱れることは充分ありえます。クナッパーツブッシュのライブでもそんなことがありました。また練習指揮者と本番の指揮者の違いでオケが戸惑うこともあります。実際に自分が高校の時に同じ経験をしていますので、冒頭で4つの音をたたくというのは珍しいことではないように思います。緊張が緊張を生んでいることは確かです。
さてこの演奏はウィーン・フィルの初めてのレコード録音です。ムジークフェラインでの録音でした。田園と第8は1928年にやはりシャルクが録音しています。 交響曲第5番の第1楽章はだんだん良くなってきます。ウィーン・フィルの音になってきます。ウィンナホルンの響きも好調です。オーボエカデンツァも愛らしい響きです。コーダ最後の運命の動機は思い切り強調、そしてフェルマータをたっぷり伸ばしていました。
第2楽章はやや速めのテンポです。ここのウィーン・フィルは完璧です。思わず音の古さを忘れて聞き入ってしまいます。第2変奏の木管の合いの手はまさにムジークフェラインの響きです。ワルターの田園を思い出します。木管四重奏もきれいでした。また第3変奏の木管ですが八分音符をすでにここでは短く演奏しています。スタッカートに近いです。きれいな2楽章でした。
第3楽章は普通の速さです。リタルダンドも軽めでした。提示部の演奏は完璧です。トリオのフーガの素晴らしさは言うまでもなくこのオーケストラの得意中の得意のようです。フィナーレまでの経過部の絶妙さはたまりません。素晴らしいです。
フィナーレの音の厚みとオーケストラのアンサンブルの見事なことはとてもこの1929年の演奏とは信じられません。ヴァイオリンのうまさは最高です。展開部も申し分なしです。第3楽章の回想は大変美しいものになっていました。再現部も見事です。コーダになってもその勢いは止まらず見事なフィナーレとなっています。
全曲を聴きますと、いかに当時のウィーン・フィルが優秀だったかがわかります。冒頭のずれは目をつぶってこの名演に耳を傾けたらどうでしょうか。
ところでCDは新星堂の復刻を聴きました。LPは70年代にカッコウというレコード屋さんがプライヴェートで復刻したものを聴きました。広域はかなりカットしていますが低音はよく響いていました。LP復刻はキャニオンから発売されていましたがそれは購入していませんでした。 要するに、ワインガルトナーはブラームス派、シャルクはブルックナー派で対立していたのですね。
世間の評価は勿論ワインガルトナーの方が遥かに上でした:
ワインガルトナーが一人の指揮者によるベートーヴェン交響曲全集を最初に完成させたということは、当時における彼のベートーヴェン演奏が今からは想像し難いくらい高く評価されていた証であるだけでなく、往時のベートーヴェン像や美意識がその後のものとは異なるものだった可能性をも示唆しているような気もします。ストコフスキーはいうに及ばず、メンゲルベルクやフルトヴェングラーさえセッション録音だけではその生涯にベートーヴェンの9曲全部を遺せなかったことを思えば、当時ワインガルトナーの扱いは破格だったとしかいいようがありません。
ワインガルトナーはベートーヴェンに対してもメンデルスゾーンと同じ姿勢で接していますが、結果としての演奏ではテンポの動きがより控えられ古典的な輪郭が前面に打ち出されている点に受け身の姿勢だからこそキャッチしているものもあるのだと感じさせるのがこの人ならではで、ベートーヴェン特有の粗野な迫力が均されているきらいはあるものの、それが当時の美意識だったとの確かな手応えも感じさせます。そして大戦中の1943年にスイスで亡くなったワインガルトナーの時代の美意識がしだいに消えゆくしかなかったことも。
ステレオ初期のベートーヴェン全集には、ワインガルトナーの面影を感じさせるものがそれでもまだありました。弟子であったクリップス/ロンドン響をはじめクリュイタンス/ベルリンフィルやS=イッセルシュテット/ウィーンフィルなどどれも無理にスケールを広げすぎず、端正な造形と当たりの柔らかさを多かれ少なかれ感じさせるもので、それがワインガルトナー的美意識がいかに当時の音楽土壌に深く根を下ろしていたかの証だったとも思えます。けれどそれらはやがてよりスケールの大きさや堅固な骨格、ひいてはベートーヴェンならではの先鋭さを重視する演奏に置き換えられていったのです。70年代末に当時シドニー響の指揮者だったオッテルローの交通事故死で未完成に終わったベートーヴェン集がメモリアルとして後に出たとき、僕にはこういう美しいベートーヴェン演奏の時代が終わったことを示す墓碑銘にさえ見えたものでした。
現在一般のクラシックファンはいうに及ばず、ヒストリカル録音の愛好家たちの間でさえワインガルトナーへの関心は高いとはいえません。SP録音時代の発売点数ではトップクラスの存在であったにもかかわらず、ウィーンフィルとの組み合わせの音源を除けばほとんどはめったにCD化されず、新星堂がまとめて復刻した大全集も再評価の動きには繋がりませんでした。往年の大演奏家たちの多くが出所の怪しいライブ録音や放送録音まで探索の対象となっている中、ワインガルトナーだけは全くそんな音源が出てこないというのはもはやただごととは思えませんが、それはやはり誇張を体質的に忌避する彼の音楽性が、整った美演よりも八方破れの爆演をむしろ尊ぶ愛好家たちの嗜好とそれだけずれているからだとも感じるのです。
https://open.mixi.jp/user/7656020/diary/1961613276 マーラーとR.シュトラウスは芸術家、ワインガルトナーは貴族、フルトヴェングラーとストコフスキーは興行師、シャルクとワルターは職人
という事ですね。 クラシック音楽は
第一次大戦前のワインガルトナーの様な貴族が高貴で品位有る音楽をやる時代は終わり、
第一次大戦後のフルトヴェングラーやストコフスキーみたいな下品な大見得を切る山師が活躍する時代に変わったのです フルトヴェングラーは、ナチとの関係が色々と指摘されたりします。多くの芸術家がドイツを後にしたのに、ドイツ国内に留まった。もちろん、彼もナチに対して抗議の声を上げたのだけど、どうも「あいまい」な態度。あるいは、このDVDに登場する画家のココシュカの言い方をすると、「とまどう」態度。
駆け出しの演奏家ならいざ知らず、指揮者としては当代随一の人だったんだから、生活の問題はないはず。心情的にはナチにシンパシーを持っていたのでは?
そんな指摘が、ナチの蛮行が本格化する前から、フルトヴェングラーに寄せられていたわけ。それに対し、
「音楽は政治とは関係ない!」
「私はドイツ音楽に忠誠を誓っているのであって、ナチに忠誠を誓っているのではないんだ!」
「ドイツ音楽を守るためにも、ドイツに残る。」
彼はそのような発言をしたわけ。「芸術と政治は関係ない!」という主張は、別の言い方をすると、「政治と芸術の間には切れ目がある。」と言う主張とも言えるでしょう。
その主張はともかく、もっと明確な態度でもよかっただろうし、取ることもできたのでは?
政治と関係ないと積極的に思うのなら、政治的な場所から切れて、積極的に距離を置けばいいだけ。ただ、その動乱の時代の当事者でない部外者が、もっともらしくコメントしても意味がない。
ただ、ナチとの関係が「あいまい」であったとは言えるでしょう。だって、他の多くの音楽家は、もっと明確な態度で臨んだわけですし、そのような断固とした態度をフルトヴェングラーに勧めた人も大勢いた。つまりフルトヴェングラーには他の選択肢を知っていて、その選択の可能性もあったわけ。
いっそのこと、ナチに忠誠を誓っても、それは個人の政治信条の問題。ナチに反対して、さっさと亡命して、他の国から「ナチからの解放」を呼びかけるのも、立派な態度。フルトヴェングラーは、「あいまい」なんですね。 しかし、フルトヴェングラーの「あいまいさ」って、ナチとの関係だけではない。音楽家にとって、もっと重要な問題においても、実にあいまい。
音楽家であることはいいとして、演奏家なのか?作曲家なのか?
その問題と真摯に向き合ったりはしない。
「ボクは本当は作曲家なんだ!」
なんて言うのはいいとして、実際に作曲をするわけではない。作曲する時間があっても、何とかして逃げ出そうとする。第1次大戦において、それこそ若いフルトヴェングラーは率先して兵役に付こうとしたらしい・・・
せっかく、徴兵検査で不合格になったのに・・・志願するなんて・・・
愛するドイツのため・・・は、いいとして、そのドイツの芸術を発展させることの方が、創作活動をする者の重要な仕事でしょ?
「ベートーヴェンやブラームスを産んだ祖国を守る!」
なんてお題目はいいとして、だったら、なおのこと自分が作曲することでベートーヴェンやブラームス以上の作品を残した方が祖国ドイツにとっても価値があるのでは?
フルトヴェングラーは、作曲の時間ができると、何かに首を突っ込んで、その作曲できる時間をつぶしてしまう。そんなことの繰り返し。その点は、ナチとの「あいまい」な関係で非難された作曲家のR.シュトラウスとは全然違っている。
シュトラウスは、要は自分が作曲できて、自分の作品が上演されれば、それでいい・・・と、割り切っている。ナチに対しても、いつの時代にも存在する、単なる「よくある障害物」くらいの認識。気に入らないヤツらだけど、明確には敵にする必要はない・・・それよりも、アイツらを、うまく使ってやれ!
シュトラウスはナチとはあいまいであっても、音楽活動に対しては、実に明確なんですね。シュトラウスが取ったこのような態度は、分野は違っていますが、ロケット開発のフォン・ブラウンとも共通しています。
自分が本当にやりたいことがわかっているものの発想。これこそが天才というものですよ。それに対しフルトヴェングラーは、「あいまい」な態度ということでは首尾一貫している。ナチともあいまい。作曲活動もあいまい。 あるいは、フルトヴェングラーのライヴァル関係であったトスカニーニとの関係もあいまい。トスカニーニを嫌いなら嫌いでいいわけですが、「敵にしたくない!」「嫌われたくない!」あるいは、「嫌ってはいけない!」なんて心情が見えてくる。
いつだって誰に対してだって判断保留の状態。
トスカニーニにして見れば、フルトヴェングラーは、指揮者としては偉大。政治的には無能。友人とはいえない。と明確。トスカニーニだって他の指揮者についての評価や関係についてウジウジ考えているヒマなんてありませんよ。どうせ共演するわけでもないし・・・割り切って前に進むしかないでしょ?
フルトヴェングラーの行動なり発言を読んでいると、「で、アンタ・・・いったいどうしたいの?」なんて思ってしまう。
フルトヴェングラーに対するトスカニーニなり、F.ブッシュの怒りも、そのあたりなのでは?
もちろん、「芸術と政治は関係ない!」という正論は正論。現実は、そんなものじゃないけど・・・
しかし、「芸術は政治とは関係ない」と言う理屈はいいとして、そうなると、芸術作品に対する理解ってどうなるの?
そう思いませんか?
だって、ナチの活動なんて、共感できないのはいいとして、考える価値のあるものですよ。たとえば、ナチの活動を見ながら、「愛を断念することによって、世界の支配をもくろむ」アルベリヒを連想しなかったのかな?
復讐だけがそのアイデンティティとなったハーゲンを連想しないのかな?
好人物であるがゆえに利用されたグンターと、ヒンデンブルク大統領の相似性を考えなかったのかな?
というか、悪企みの「弾除け」にされた好人物グンターの役回りを、フルトヴェングラーはどう思ったのだろう? ヒンデンブルク大統領とは別に、この役回りを見事に演じた人が、まさに、いたわけでしょ?
フルトヴェングラーはグンターのことを「自分の背景で悪企みが進行しているのに気がつかないなんて・・・バッカだなぁ・・・コイツ!」なんて思ったのかな?
ナチは自分たちのことをジークフリートに例えていたのでしょうが、むしろアルベリヒやハーゲンにそっくりですよ。そして、最後のカタストロフも、オペラのまま。
ヒトラーと初めて会って話をしたフルトヴェングラーは、ヒトラーのことを「取るに足らない人物」と評したそう。そんな単純な見解って、人に対する洞察力が、いちじるしく劣ると言うことでしょ?
だって、その直前に、フルトヴェングラーは、ジークフリート・ワーグナーの未亡人でありバイロイトでの覇権を目指すヴィニフレート・ワーグナーと衝突しました。
ヴィニフレートは音楽について、明確な知識もない人間なのに、指揮者に色々と指図して、フルトヴェングラーは「もう、やっとれんわいっ!」とブチ切れたわけ。
バイロイトの主人として、バイロイトを盛り立てる・・・その意欲は意欲としていいのですが、音楽面でフルトヴェングラーに指図してもしょうがないでしょ?
しかし、コンプレックスの強い人間ほど、そんな無用な指図をやりたがるもの。それだけ自分を実態以上に「大きく」みせようとするわけ。そして自分自身から逃避したいわけ。そんなヴィニフレードとの衝突の後で、ヒトラーと会談して、ヒトラーとヴィニフレートとのメンタル的な共通性を感じなかったのかな?
芸術の分野も、政治の分野も、その主体は人間でしょ?
その間には明確な「切れ目」なんて無いんですね。芸術作品に登場する人物の心理を理解できても、実際の人間のキャラクターはまったく理解できないって、やっぱりヘン。
実際の人間も、オペラなどでの描かれている人間も、似たキャラクターの場合って多いものでしょ? この点について、実に笑える話があります。第2次大戦の終結の後、ナチとの関係を理由に裁判にかけられるフルトヴェングラー。その証人として、とあるオペラ歌手が出てきたそう。そのオペラ歌手は、フルトヴェングラーとナチとの関係について、ウソ八百ならべて、フルトヴェングラーを陥れようとしたらしい・・・
しかし、そのオペラ歌手には、フルトヴェングラーとの間に過去に個人的な「いさかい」があり、その個人的な感情で、フルトヴェングラーに嫌がらせをしたんだそう。それは「マイスタージンガー」のベックメッサーの役をやりたくて応募したけど、フルトヴェングラーがその歌手を採用しなかったので、その「恨み」を持っていて、それを裁判という場違いな場でぶつけたわけ。
いやぁ!ベックメッサーになれなかった歌手の、見事なベックメッサー振り。芸術作品を理解するのに、最良の資料は、自分たちの目の前にあるものなんですね。
あるいは、教養人とされるフルトヴェングラーですが、ヒトラー,ゲッペルス,ゲーリングのナチの3巨頭のキャラを、フランス革命のロベルピエール,マラー,ダントンの3巨頭とのキャラとの関連で、見るようなことはなかったのかな?
禁欲主義者,マスコミ対応,享楽家と、組み合わせもちょうど合っている。教養人フルトヴェングラーの教養って何だろう?
書かれた楽譜なり、本での記述は理解していても、実際の人間を洞察するのには、何もできない。フルトヴェングラーって「ブンカジン」だなぁ・・・と思ってしまう。
まあ、そんな実際の人間に対する洞察力が著しく劣っていても、演奏家としては何とかなるんでしょう。それこそブルッックナーのような作品を演奏するのだったら、それでもいいのかも?
しかし、そんな人が、作曲などの新しい作品を作ることができるの?
ゼロから創作することができるの?
現実を見る目がそんなにない状態から、ゼロから創作するインスピレーションなんて、沸き起こって来るの?
フルトヴェングラーは、楽譜から「神の言葉」を読む取る能力はすばらしいけど、神の言葉を直接聞ける人間なのかな?
R.シュトラウスが要領よく立ち回ったのは、それだけ「人を見る目」があったからでしょ? 逆に言うと、そんな目がないとオペラなんて書けませんよ。フルトヴェングラーが言う
「時間がなくて、作曲できない・・・」
は、理由としてポピュラーですが、作曲なんて基本的にはアタマの中でやるものでしょ?
電車で移動している最中にもできるじゃないの?
あるいは、アルキメデスのようにお風呂に入った時にすばらしいアイデアなんて浮かばなかったの?
そのようなアイデアをしっかりコンポーズするには、まとまった時間も必要でしょうが、アタマの中でラフスケッチくらいはできますよ。それなのに、どうして20年以上も作曲に手をつけないの?
それって、「どうしても曲にまとめ上げたい!」という霊感やアイデアがなかったからでしょ?
だって、目の前にいる実際の人間に対する洞察力が、これだけ劣る人なんだから、霊感なんて来ませんよ。もし霊感があったら、とりあえずは、小さな作品からでも、作曲するでしょ?
まずは小さい規模の作品を制作しながら、自分自身の本当の霊感なり、作品にする問題点を自覚できるわけでしょ?
その後、大規模な作品に進んでいけばいいじゃないの?
作曲活動それ自体が、そして自分が作った「小さな作品」それ自体が、自分自身がやりたい作曲活動の方向性を教えてくれることがあるわけ。いきなり大規模な作品を制作って、ヘンですよ。
彼の作曲した作品ですが・・・
DVDの映像では、カイルベルトとバレンボイムが、肯定的な評価をしています。しかし、どうしてコメントがカイルベルトとバレンボイムによるものなの?
実は、この映画には、もっと適役が登場しています。それは、テオドール・アドルノ。
シェーンベルクに作曲を習い、マーラー以降のドイツ音楽について一家言以上のものを持つフランクフルト学派の哲学者アドルノが、フルトヴェングラーが作曲した音楽を、「理詰め」で絶賛すれば、この私などは「ははぁ!わかりました!わかりました!もうわかったから勘弁してよ!」って泣きを入れますよ。 ところがアドルノは、フルトヴェングラーの指揮を絶賛しても、作曲した作品には何も語らない。当然のこととして、この映画を制作した人は、アドルノに対して、作曲家としてのフルトヴェングラーについて聞いたはずです。カイルベルトやバレンボイムにも聞いたくらいなんですから、当然でしょ?
アドルノは、まあ、その話題を避けたんでしょうね。ウソは言えないし、故人を冒涜するようなことはしたくないし・・・
まあ、アドルノが言いたくないレヴェルの作品というわけなんでしょう。技術的な問題はともかく、「どうしてもこれを表現したい!」という気持ちが入っていないと、それ以前の問題ですよ。彼の作曲した音楽からは「どうしてもこれを表現したい!」「これだけでもわかってほしい!」という強い意志が感じ取れない。
フルトヴェングラーの父親は、なんとアドルフという名前らしい・・・考古学の教授をなさっておられました。そのアドルフさんは、息子の才能を認め、サポートした・・・のはいいとして、息子の意見を聞いたの?フランクな会話があったの?
どうも、そのアドルフさんは厳格な人だったらしい。厳格と言っても様々なヴァリエーションがあります。自分に厳しいというパターンから、問答無用で強圧的というパターンまで。息子のウィルヘルム・フルトヴェングラーが極端なまでに「いい子」でいようとしたことからみて、まあ、問答無用の父親のパターンでしょうね。
そうなると、一般的に子供は抑圧的になってしまう。自分で自分を抑圧するようになるわけ。まさに「いい子」でいなきゃ!って強迫的に思ってしまう。
彼も、自分の父親アドルフの問題を真剣に考えればいいのでしょうが、どうもそこから逃げている。父親アドルフの問題から逃げていれば、総統アドルフの問題を考えることからも逃げるようになりますよ。だから眼前にどんな事件があっても、鈍い反応しか示せない。
自分が一番よく知っている人物の問題から逃避する人は、眼前にある具体的な人物や事例から考えることを逃避してしまうものなんですね。それこそ、フェミニズム運動をなさっておられる女性たちは、自分の父親の問題については絶対に言及しないものでしょ?
一番よく知っている男性の問題を考えなくて、男女の問題云々もないじゃないの? 「作曲家としてのフルトヴェングラー」
彼は、ある意味において、実に面白い人物。私ごときが指揮者としての彼の能力を語ることはできるわけがない。天才の発想なんて読めませんよ。
しかし、指揮台に上がっていない彼の、普段の行動なり作曲家としての彼のスタイルは、意外なほどに「読みやすい」もの。よく、彼の行動を評して
「どうしてナチに対してあいまいであったのか?」とか
「どうして大した才能もないのに、作曲家であることにこだわったのか?
そもそも大作曲家の作品に親しんでいる彼なんだから、自分の作品のデキについてわからないわけがなかろう?」
どうしてなんだろう?そんな疑問が提示されたりするものでしょ?
ナチや自分の作品の価値についても、ちょっとでも自分で判断すれば、結論を出すことは難しくはない。しかし、世の中には判断することから逃避するような人間もいたりするもの。フルトヴェングラーがその典型だとすると、彼の行動も、簡単に理解できてしまう。
判断を間違ったのではなく、判断することから逃避する人間のタイプなんですね。 指揮者としては、あれほど圧倒的な音楽を作れるのに、どうして作曲家としては「いい子」、あるいは規格品とまりなの?と言うか、それこそ、作曲なんて止めてしまって指揮者専業でも何も問題ないはず。作曲をすること自体を楽しむことができる人間だったら、それこそミケランジェロから受けた強い印象をアタマの中で色々といじって、長く検討して行くものでしょ?
スグに作品にまとめるって、「イヤなことは、早く忘れたい!」「つらいことから、早く逃げ出したい!」そんな心情が、無意識的にあるということ。
自己への抑圧と言うものは、そのような自己からの逃避というスタイルになることが多いんですね。自分自身のWHATから逃避するわけ。
自分が何をしたいのか?
何を人に伝えたいのか?
それについて考えないようになってしまう。
そのような傾向は、強圧的な父親の元で育ったアダルトチルドレンに典型的なもの。問答無用の環境だったので、自分がしたいことを抑圧するようになるわけ。
実は、フルトヴェングラーの行動も、抑圧的なアダルトチルドレンの習性がわかっていると、簡単に予想できてしまう。発想が常に減点法。人から嫌われてはいけない。よい子でいないといけない。もちろん、親に迷惑が掛かってはいけない。そんなことを常に考えている。減点を意識しているので、自分で判断できない。
彼の場合は、それが特に深刻で、共依存状態にある。「共依存」とは、相手に依存「させる関係」に依存すると言うもの。「共依存」と言う考え方は、夫婦間でドメスティック・ヴァイオレンスに陥ったり、あるいは若い人たちがボランティアに入れ込むようになる心理を説明する際におなじみのものです。
あるいは、「ウチの子はいつまでも経っても甘えんぼうで・・・ずっと、ワタシがついていないとダメだわ!」なんて言うバカ親の心理もこれですよね。
あるいは、もっと深刻だとストーカーの心理もこれです。ストーカーは「オレにはアイツが必要だ!」と自分で『認識』しているのではなく、「アイツにはオレが必要だ!」と勝手に『認定』しているわけ。 自分自身の精神状況の自覚ではなく、相手の幸福のスタイルを勝手に認定しているわけ。だからタチが悪い。当人としては善意で相手に付きまとっている。だから周囲が何を言ってもダメ。バカ親の心理もそうですが、基本的にはアダルトチルドレンに典型的な症状です。それだけ、自分自身が何をしたいのか?自分でもわかっていない。そしてわかろうとしないし、自分から逃避しようとする。精神的に自立していない。だから他者との関係性に依存せざるを得ない。
こんな心理を持っていたら、たとえナチスに共感がなくても、ドイツから離れられませんよ。だって、共依存症状にある人にしてみれば、ナチス支配下のドイツなんて天国ですよ。だって、自分を頼ってくる人がいっぱいいるわけですからね。
つまり自分の役割について自分で考えなくてもいいわけ。簡単に自己逃避できるわけでしょ?
何もフルトヴェングラーの人格に対し攻撃しようなんて思っているわけではありませんよ。芸術家なんて、その作品がすべてですよ。それこそ画家のカラヴァッジョや作曲家のジェズアルドや劇作家カルデロンのように人殺しまで居るのがアーティストの業界。
たかがアダルトチルドレンくらい・・・まだまだ甘いよ。いや!「あいまい」ですよ。
そもそも、フルトヴェングラーさんよ!アンタは作曲が好きなの?
そんな根本的な疑問をもってしまう。
作曲を好きなのに才能がないのか?
そもそも好きでないのに、自分を押し殺して作曲したのか?
「ボクは本当は作曲家なんだ!」と言うのはいいとして、25年以上も作曲から遠ざかり、やっと作曲したら、自己弁護に終始。使命感を持って作曲している人がやることではありませんし、そんな音楽ではありませんよ。
逆に言うと、特に才能があるわけでもないし、使命感があるわけでもないし、好きでもないし、実際の作曲活動はしないのに、どうして「ボクは本当は作曲家なんだ!」なんて言うの? フルトヴェングラーは、子供の頃から音楽の才能を発揮して、周囲から、「将来は偉大な作曲家に!」なんて言われたそう。これはDVDに出てきます。家族も、その才能に惜しみない援助を与え、教育の機会を与えた・・・
そう言う点では、「作曲家」フルトヴェングラーは実に恵まれている。作曲家になるに当たって、こんなに周囲から物心両面からのサポートを受けることなんて滅多にありませんよ。一般的には、「ボクは作曲家になりたいんだ!」なんて言おうとしたら、「何を、夢みたいなことを言っているんだ!カタギの仕事をしろ!」と言われるのがオチ。
しかし、少年フルトヴェングラーは家族から励まされる環境。それこそ、父親との間にこんなシーンがあったのでは?
少年フルトヴェングラーと、父親アドルフが、冬の夜に空を見上げる。
父
「おい!ウィルヘルム!
北の空にひときわ大きく輝く星があるだろう!
あの星はドイツ作曲家の星だ!
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー・・・
オマエも将来、あの星になるんだ!」
子
「父さん!わかったよ!
ボクはドイツ音楽の星になるんだ!ボクはやるよ!」
・ ・・拳を握りしめ、瞳から炎がメラメラと・・・このシーンのBGMは当然・・・ 輝くドイツ音楽の星。それもバッハやベートーヴェンやワーグナーなどに並ぶ地位に。
「さあ!これが、ドイツ音楽作曲家養成ギブスだ!」
「これをつけて親子一緒にガンバロウ!」
そんな感じで言われちゃったら、子供の頃はともかく、実際に作曲するにあたってはプレッシャーになるんじゃないの?
しかし、フルトヴェングラーが音楽活動を始めた頃は、その星々につながる意志を持っていたのは明白。彼が1906年の指揮者としてのデビューで取り上げた曲は、後に交響曲第1番の第1楽章となった自作の「ラルゴ ロ短調」と、ブルックナーの第9交響曲の組み合わせでした。ブルックナー最後の未完の交響曲なんて・・・デビューの曲目にしては荷が重いだろう・・・と思うのは誰でもでしょうが、この「組み合わせ」・・・あるいは、以前書いた言い方でモンタージュは、簡単にその意図が読めますよね?
それはこれ。
「ブルックナーが完成させられなかったドイツ音楽の系譜を、このボクが完成させるんだ!」
まあ、その心意気や良し!・・・なんですが・・・
系譜につながることは結果であって、目的ではないでしょ?
それこそブルックナーだって、先輩作曲家ベートーヴェンを尊敬していたでしょうが、その列につながるために作曲をしたわけではないでしょ?
自分自身の霊感を永遠に残すために作曲したわけでしょ?
曲のまとめ方などに当たって、当然のこととして先輩の方法を参考にする・・・
だから、結果としてドイツ音楽の作曲家の系譜になる。
そんなものでしょ?
まずは、自分がどうしても表現したいものは何なのか?
その自問自答の方が先でしょ?
しかし、フルトヴェングラーは、ドイツ音楽の作曲家の系譜が強く意識されてしまっているので、
「ボクもそのレヴェルでないと行けない!」
「巨匠たちの名誉を汚さぬように!」
「あんな音楽を書かなきゃ!」
なんて強迫的に思ってしまう。いわば、形から入る状態。形から入っているので、フルトヴェングラーが作曲した作品って、交響曲とかの立派なジャンルばかりですよね? 要するにフルトヴェングラーは中身が無いから、大見得切ったり、恰好付けるしかなかったんだ。
手足を振り回して、大袈裟にテンポの緩急を変えて、要所でティンパニ−を滅茶苦茶ぶっ叩いとけば一応恰好つくもんね。 フルヴェンは作曲家として三流で、演奏もウケねらい
ブルックナーを改竄しR.シュトラウスと喧嘩したシャルクこそ王道
ワーグナーを振らないワインガルトナーは貴族 >>932
ばーかw
ワインガルトナーはワーグナーをたくさん指揮している。
レコード録音もしている。
それを知らないお前は低能無知馬鹿w ワインガルトナーは、1863年に現在のクロアチア(南ヨーロッパ)にあたる地方都市で生まれた、19世紀後半〜20世紀前半を代表する名指揮者。あのフランツ・リストに師事しブラームスとも親交があったというから、もはや音楽史上の人物であるが、そのワインガルトナーが実際に指揮した録音が今日まで伝えられていることは人類にとっての幸いである。
ワインガルトナーが現れるまでの第九は、リヒャルト・ワーグナーやハンス・フォン・ビューローの手によって大きく変えられて演奏されていた。彼らは、ベートーヴェンの作品は楽器の工業製品としての発達、進化がまだ不十分な時代に書かれたということを念頭に「もしベートーヴェンの時代に今の楽器が存在したなら、ベートーヴェンはきっとこう書いただろう。」と考え、楽譜に積極的に手を加えていた。また、テンポや表現法も時代の好みにしたがって感傷的、情緒的に改変して、彼ら自身が欧州各地で指揮者として演奏活動を行なった。その結果、18世紀後半にはこのロマンチック(ロマン派的)な演奏が当時の第九のスタンダードになっていった。
そのような動きに「待った」をかけ、ベートーヴェンの楽譜を子細に研究して大げさな表現を排したのがワインガルトナーだった。しかし、ワインガルトナーも今日言われるような意味での「原典主義者」であったわけではない。彼もまた、楽譜に実に多くの「改変」を行なっている。「ワインガルトナーの改変」として有名なこれら一連の細工については、今日の演奏現場ではあまり顧みられることはなくなったが、この録音によっていくつも確認することができる。
テンポに関して言えばきわめて「中庸」である。ワーグナーが演奏した第九がどのようなものであったかを直接音として知ることはもはやできないが、その後の数々の名指揮者の演奏(たとえばフルトヴェングラーの「バイロイトの第九」)と比べても、ワインガルトナーの演奏は決して熱くなることなく、全体的に淡々と進めることを意図していることがよくわかる。 後にザクセンの宮廷指揮者になったワーグナーは1846年、33才の時にそこで9番を指揮した。シラーの歌詞を重視して自身の楽劇なみに文学性を盛り込んだワーグナーの解釈は、しかし大変にロマン的なものだったと思われる。なぜそう思うことが許されるかというと、そのザクセンの9番演奏会を聴いて指揮者になろうと決心した16歳の少年こそハンス・フォン・ビューローであり、彼はワーグナーの熱烈な崇拝者となるからだ。彼が書き込みをした9番のスコアはワーグナーの解釈をもとにしたものであったという。そしてそのビューローの解釈に真っ向から反旗を翻して敵視されてしまったワインガルトナーの演奏を我々は幸いにもCDで聴くことができるからである。
それは市販されているので興味ある方はご一聴をお薦めする。今の耳にも古臭いものではなく、恣意的なテンポルバートや強弱を排したいわば現代的なものだ。それが「反旗」だったのだから、ビューローの、そしてワーグナーの9番がどんな傾向のものだったか想像がつくのだ。ビューローの名声は指揮者としてだけではない。シューマン夫人クララの父ヴィークにピアノを習い、ベートーベンの愛弟子チェルニー(あの教則本の)の弟子フランツ・リストにも習った。こちらも演奏不能とされたチャイコフスキーのピアノ協奏曲1番を独奏者として初演もしている。音楽界の大御所である。そういう人の奥さん(リストの娘コジマ)を寝取っておいてなお崇拝させたワーグナーも凄いが、そういう大御所の9番解釈にアンチテーゼを思い切りぶつけたワインガルトナーの蛮勇も快哉である。 ワーグナーの影響と慣例的な改変
今回は、従来の演奏で数多く行われてきた慣例的な楽譜の改変について紹介します。
ドイツ近代指揮者の系譜を辿っていくと、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督だったメンデルスゾーンと、地方の重要なオペラハウスを渡り歩いていたワーグナーという二人の全く異なった個性の音楽家に辿りつきます。
メンデルスゾーンの指揮は、拍子をきっちりと示して早めの一定したテンポを保ち、
ニュアンスの変化も必要最小限にとどめた、作品に忠実な客観的な指揮振りだったといわれています。
一方のワーグナーの指揮は、音楽の流れに応じてテンポの緩急を大胆につけ、過剰なまでに抑揚をつけたロマンティックなものだったそうです。作品を再創造する芸術家であることがワーグナーの理想とする指揮者像でした。この流れは後にマーラーやビューロー、ニキシュ、フルトヴェングラーといった指揮者たちに受け継がれました。
第9の作曲された時代は、管楽器が急速な発展を遂げつつある時期でした。
そのためワーグナーは、ベートーヴェンがもし改良された現代の楽器を使用することができるならば、必ずやこのように演奏させたであろうという前提に立って、オーケストレーションの変更を行いました。その影響は絶大なものがあり、それを受けて20世紀前半の名指揮者ワインガルトナーがテンポやデユナーミクも含めた具体的な提言を行い、著書「ベートーヴェンの交響曲の演奏への助言」の中で理論化しています。
以後ベートーヴェンのスコアを近代の大編成オーケストラ向けに手を加えて演奏するのが、つい最近までごく普通のごとく行われてきました。 代表的なものとして、
・ 第4楽章冒頭のファンファーレ部分のトランペットをクラリネットと
同じ旋律を吹かせる。
・ 第4楽章の二重フーガで、自然倍音の記譜のみのトランペットパートに
旋律の欠落部分を加えたり、アルトトロンボーンに最初の2音(D音)を加える。
・ 第2楽章の第二主題に木管だけでなくホルンを重ねる。
・ 当時の楽器の制約のため、不自然な跳躍を強いられていた、木管楽器の
セカンドパートの 低音部分を加える。(第1楽章の第2ファゴットの扱いなど)
などですが、
スコア片手に真剣に聞き直すと、トスカニーニのようにやたらとティンパニを加えたり、セルのようにホルンに数多くの旋律を吹かせたりなどと、現実には指揮者によって千差万別、定評のある名盤の多くが独自の改竄の手が入り、同じものは全くないという状況です。
次回から、さまざまな演奏を紹介していきますが、ベーレンライター版が出版されてからまだ日が浅く、ベーレンライター版を参照したとされる録音は十指に満たない状況です。
したがって、これから紹介する演奏の大部分は、ブライトコプフの旧全集版に基づいた演奏となります。 第九を聴く」3 初期の録音…1920年代から30年代初め
管弦楽の録音が始まったのは1909年と言われ、第九は20年代はじめから既に
全曲録音が登場しています。
・ワイスマン&ブリュトナー管 1922年
・ ザイドラー=ウィンクラー&ベルリン国立歌劇場管 1923年
・ コーツ&アルバートホール管 1924年 英語版
・ ワインガルトナー&ロンドン響 1926年 英語版
・ フリード&ベルリン国立歌劇場管 1928年
・ コーツ&ロンドン響 1929年 英語版
・ ストコフスキー&フィラデルフィア管 1934年 英語版
・ ワインガルトナー&ウィーンフィル 1935年 ・ フェリックス・ワインガルトナー(1863〜1942)
ウィーンフィル、ウィーン国立歌劇場合唱団
S:ヘルツグルーバー、A:アンダイ、T:マイクル、Br:マイール
リストの弟子で、ブラームスにも高く評価されたワインガルトナーの演奏は、美しくも
ノーブルな第九。ベートーヴェンの権威と言われた確信に満ちた説得力のある名演です。
第2楽章のホルンの追加や第4楽章でのトランペットの補筆など、いたる所で自分の確立させた理論をそのまま実践に移しています。
意外だったのは、第4楽章の歓喜のテーマがチェロとベースで歌われる部分で第1ファゴットが対旋律を受け持ちますが、ここでワインガルトナーは第2ファゴットにベースと同じ動きを吹かせています。これはブライトコプフ旧版には欠落していますが、ベートーヴェンの自筆譜には指示されていて、最近の古楽器による演奏やベーレンライター版による演奏ではごく普通のこととして演奏されています。その後のブライトコップフ旧版を用いている指揮者で、この第2ファゴット部分を採用している指揮者はほとんどいませんでした。
テンポの変動は、第1楽章で多少時代を感じさせる部分もありますが、違和感は感じさせません。録音も当時としては極めて優秀、ウィーンフィルの美しい弦楽器の響きや、第2楽章の木管群の完璧とも言えるアンサンブルも忠実に再生します。
当時のウィーン国立歌劇場のベストメンバーを集めたソリストと合唱も見事なもので、
フィナーレの猛烈な加速もバッチリ決まっていました。
これは20世紀初期を代表する第九の歴史的な名盤だと思います。 「第九を聴く」4 戦前派巨匠の時代 I ・・メンゲルベルクとトスカニーニ
1920年代から40年代前半までのベルリンを中心とするヨーロッパの音楽界は、フルトヴェングラー、エーリッヒ・クライバー、クレンペラー、クナッパーツブッシュ、たちがベルリンフィルや主要なオペラハウスの音楽監督として君臨し、さらにウィーンフィルにはワインガルトナーがいまだ健在、そしてライプチヒ・ゲヴァントハウス管のブルーノ・ワルターとアムステルダムコンセルトヘボウ管のメンゲルベルクが定期的にベルリンに来演し、スカラ座のトスカニーニもバイロイトやザルツブルクの音楽祭で指揮をするといった、まさに空前絶後の大指揮者の時代となりました。
これからの数回は、第2次世界大戦の勃発直前に最盛期を迎えた、これら大指揮者たちの個性的な第九をいくつか紹介していきます。
・ レオポルド・ストコフスキー(1882〜1977)
フィラデルフィア管、合唱団
S:ディヴィス、A:カーハート、T:ベッツ、Br:ローウェンタール
ストコフスキーは録音歴の非常に長かった人で、後にロンドン響とのステレオ再録音も残しています。フィラデルフィア管との録音は、明るく楽天的な演奏でした。オケのアンサンブルは実に優秀で、特にオーボエとフルートは傑出しています。
問題は英語版による歌唱で、オー・フロイデ!がオー・ブラーザァー!。これにはかなり違和感を感じます。合唱も独唱もとにかくお祭り気分的な雰囲気で、ストコフスキーの歌い回しもレガートを多用したり、突然テンポを緩めたりと古さを感じさせる大時代的な演奏でした。
ストコフスキーは楽譜にいろいろと手を加える事が多いのですが、当時一般的だった第2楽章の第2主題にホルンを加えてはいるものの、フィナーレ冒頭のトランペットは譜面通りのようです。
今回聴いたのは独ヒストリー社の復刻CDで、これはあまり良質な復刻とは言えず、第2楽章に編集ミスがあり、最初のリピートがおかしな場所で折り返しています。音質も妙なイコライジングと残響付加で不自然な響きでした。 ウィレム・メンゲルベルク(1871 - 1951)
アムステルダム・コンセルトヘボウ管、 アムステルダム・トーンクンスト合唱団、
S:デル・スルイス、A:ルーヘル、T:トウルダー、Br:ラヴェッリ
(1938年5月1日 アムステルダム・コンセルトヘボウでの実況録音)
オランダ生まれの名指揮者。24才でアムステルダム・コンセルトヘボウ管の常任になり、 ナチに協力したことでスイスに追放されるまでの50年間、このオーケストラを世界的な水準にまで成長させました。専制君主型の典型で、自分の意思を厳しい訓練で徹底してオケに植え込み、一定の様式化した解釈でオーケストラを自分の手足同様に操りました。
メンゲルベルクの残された録音を聴くと、同一曲の異なった日のライヴ録音を聴いても、テンポの微妙なユレなどが全く一致しているのに驚かされます。
第九も例外でなく、38年と40年の二つのライヴ録音は、全体の印象だけでなく一部分を取り出して聴き比べてみても、微妙な歌い回しやテンポの緩急がほとんど同じでした。
メンゲルベルクの第九は、テンポを自由に動かす濃厚なロマンティシズムに溢れた、超個性的な演奏です。
ポルタメントを多用した第3楽章などまるでチャイコフスキーのよう、管楽器を各所でダブらせていますが、第2楽章の第2主題にはホルンだけでなく、トランペットも加えるという徹底ぶり。第1ヴァイオリンにも各所で1オクターヴ上げさせています。 特に第4楽章はメンゲルベルクの個性が最も顕著に出ていて、バリトンソロが入る2度目のファンファーレ前の木管部分にヴァイオリンを重ねたり、テノールソロが歌う行進曲風の部分におけるトランペットの合いの手を、極端に強調したりしています。またバリトンソロが冒頭部分でテーネーと歌う部分(221小節)は、楽譜ではF−FとなっているのをG−Fと歌わせていました。(これはワインガルトナーも同じ)
そして終結部プレスティッシモ部分、最後の4音の猛烈なリテヌートの急ブレーキは、とどめの一発といった感じで強烈な印象を残します。
ここで変幻自在に変化するメンゲルベルクの解釈にぴったりとついていくコンセルトヘボウ管のうまさは驚異的、まるで同一の周波数でコントロールされている機械のようです。
これはピッチが完璧に合った時の澄んだオケの響きとともに一聴の価値のある演奏だと思います。なお1944年6月、ナチ占領下でのパリのシャンゼリゼ劇場において、空襲警報の鳴り響く緊迫した状況の中でおこなわれた、パリ放送響とのベートーヴェンチクルス最終日の第九がメンゲルベルク生涯最後のステージとなりました。 アルトゥーロ・トスカニーニ(1867 - 1957)
NBC響、ロバート・ショウ合唱団、
S:ファーレルA:メリマン、T:ピアース、Br:スコット
(1952年3月31日、4月1日 カーネギーホール)
イタリアのパルマ生まれ、ヴェルディの「オテロ」の初演にチェロ奏者として参加。
指揮者としては「ボエーム」や「道化師」「トウーランドット」などの名作オペラやレスピーギの「ローマの祭り」などの初演も振っています。
トスカニーニの演奏は虚飾を排し、インテンポで楽譜に忠実なもの。メンゲルベルクが19世紀ロマンティシズムの典型ならば、トスカニーニは即物的な20世紀の演奏スタイルの元祖とも言えるもので、後の多くの指揮者に多大な影響を与えました。
第九はスカラ座管を振ったイタリア語版の演奏やテレビ用の映像も含めて、ライヴ録音が7種残されています。今回はトスカニーニのためにアメリカの国内外の名手を集めて組織されたNBC響との1952年ライヴを聴いてみました。 この第九は、早いテンポ緊張感に溢れ、鍛えぬかれた鋼鉄のような力強さが迸るドラマティックな名演奏です。
楽譜に忠実と言われているトスカニーニですが、ここではテンポは楽譜にほぼ忠実なのに、オーケストレーションにトスカニーニ自身の手が数多く入っています。
ワインガルトナーが提案した改変は、ほぼそのまま採用。特に第1楽章再現部の301小節にティンパニには執拗なクレッシェンドとアクセントを加え、トランペットに1オクターヴ高く吹かせています。ここは同じ改変を行っているメンゲルベルク以上にドラマティックな効果をあげていました。その他に第1楽章の53、54、103、107小節にもテインパニを追加。
また第3楽章までは、テンポや歌い回しは楽譜にほぼ忠実なのですが、第4楽章になると、最初のベースのレチタティーヴォを含めて、急に緩急自在のテンポ運びとなります。
歌唱が入る楽章ということで、長年培われてきたオペラ指揮者としての習性がこのあたりで表面化してきたのでしょうか。バリトンソロの「Tö-ne」もメンゲルベルクと同じG-Fに変え、同じソロの231小節目の「freuden」が長く引き伸ばされている個所では、一度区切って、「freuden」という単語を2度歌わせています。
トスカニーニの改変のいくつかは、グスタフ・マーラーがニューヨークフィルの首席指揮者時代に実践していたことなので、後にニューヨークフィルの首席指揮者となったトスカニーニが、マーラーの譜面への書き込みを見てその影響を受けたのかもしれません(トスカニーニのシューマン「ライン」の録音はマーラー版です。)。
ロバート・ショウの率いる合唱団は力感溢れる見事なもの、独唱者と一体となって硬質なトスカニーニの解釈に見事に同化しています。 ウイルヘルム・フルトヴェングラー(1886〜1954)
ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーの第九
・ ベルリンフィル、ブルーノ・キッテル合唱団、
S:ブリーム、A:ヘンゲン、T:アンデルス、Br:ワッケ
(1942年3月22日または 3月24日か4月19日)
第2時大戦中の録音、ベルリンフィルの重心の低いドイツ的な重厚な響きと刃金のような強固なアンサンブルが魅力の演奏です。フルトヴェングラーの数ある第九の中でもっともテンポが速く、劇的でダイナミックな演奏。
曲全体に漂う悲愴なまでの緊張感はこの時代ならでは、ティンパニの壮絶な響きが
一層の緊張感を煽ります。演奏者も幾分緊張気味で、第3楽章ファンファーレの直前の4番ホルンと第4楽章の後半のソプラノソロに大きなミスがあります。
戦争により多くの団員が欠けていたベルリンフィルですが、フィナーレの終結部の猛烈なアッチェレランドも乱れることなく決まっていて、フリード盤で見事な歌唱を聴かせたブルーノ・キッテル合唱団も充実した出来です。
オーケストレーションの改変は、第2楽章第2主題のホルン追加と、第4楽章の冒頭と二重フーガのトランペットぐらいで、第1楽章の後半部分で一般的におこなわれていたヴァイオリンの1オクターヴ上げもありません、テンポと強弱設定はフルトヴェングラー独自のロマンティックなもので、いわばワーグナーの流れをくむデユオニソス的な演奏の典型。
演奏の完成度としては、私が聴いたフルトヴェングラーの第9の中で最も高い演奏ですが、あまりにも壮絶なために繰り返し何度も聴く気にはならない演奏でした。 ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーの第九
戦時中ベルリン放送局に保管されていたフルトヴェングラーの放送録音のオリジナルテープは、終戦直後に旧ソ連が本国に持ち帰ってしまったことにより、収録データに混乱を生じています。
この第9の収録日にも大きな謎があり、HUNTをはじめとした多くのディスコグラフィーや大部分のディスクの録音表示は3月22日または24日におこなわれたブルーノ・キッテル合唱団の創立四〇周年記念コンサートにおける演奏ということになっているのですが、実は4月19日のヒットラー生誕祝賀前夜祭での演奏だという説があります。また、前半は3月22日収録で第4楽章の後半のみ4月19日の演奏であるという説もあります。
実は4月19日の演奏は、第4楽章後半5分ほどの当時のニュース映像が残されていて、ここで4人の独唱者のみが歌う部分でソプラノソロが音を間違え、フルトヴェングラーや楽員たちが「あっ」と驚いている様子がしっかりと映っているのですが、この部分は私の手持ちのLPやCDとぴったり一致しました。したがって、出まわっている録音の多くは第4楽章の後半部分に関する限り4月19日収録と思われます。
どうやらソ連国内で3月22日、4月19日の演奏が同一番号でLP化された混乱が現在にいたるまで尾を引いているようです。
今回私が聴いたのは、国内盤として日本フォノグラムから発売されたLP、と正体不明のドイツ盤LP,そしてAUDIOPHILレーベルのCDです。
音質はCDが最も鮮明、おそらくソ連で製作されたLPをコピーしたと思われる2つのLPは、両盤ともピッチが不安定で音質も劣悪なものでした。 ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーの第九
・バイロイト祝祭管と合唱団、
S:シュワルツコップA:ヘンゲン、T:ホップ、Br:エーデルマン
(1951年7月29日)
戦後初のバイロイト音楽祭のオープニングを飾った記念碑的な録音。第九といえば必ず名前が挙がる名盤です。
テンポを自由に動かしたロマンティックで劇的な演奏で、神秘的な第1楽章の冒頭から、無の状態から作品が創造される瞬間に立ち会うような感動があります。
第1楽章は始めの重々しさは多少抵抗を感じるものの、通常大きな盛り上がりを見せる310小節以後はむしろあっさりと片付け、終結部に向かって次第に加速し、大きなきな盛り上がりを見せるテンポの設計のうまさが光ります。
第2楽章もデモーニッシュで独特の凄味のある演奏です。特に中間部の木管部分の優しい歌わせ方には聴いていてホロリとさせられるものがあり、第3楽章の静かで奥深い表現も比類のないものです。
曲全体のクライマックスの第4楽章は、遥か彼方からほとんど聞こえないほどのピアニシモで始まる歓喜の主題が次第に実体を現わし、大きなうねりをみせながら加速し巨大な姿が出現する部分に鳥肌が立つほどの感動を覚えました。
曲想が変化する前での長い沈黙も実に雄弁。名匠ウイルヘルム・ピッツに率いられたバイロイト祝祭合唱団も気迫十分で、(特にvor Gottの渾身の力を込めたの長いフェルマータ)シュワルツコップをはじめとした当時ドイツの最高の独唱者たちも実に素晴らしい歌唱を聴かせます。終結部の猛烈なアッチェレランドは演奏者の能力の限界を超えてしまうほどで、アンサンブルも崩壊状態ですが、これがスリリングな効果を築いています。
オーケストレーションの変更は基本的に1942年盤と同じですが、二重フーガの後半部分でテインパニに旋律線を叩かせ、壮麗な効果を上げていました。これはバイロイト盤のみに聴くことができる変更です。 ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーの第九
・ ベルリンフィル、フィルハーモニー合唱団、
S:ベルガー、A:ピッツィンガー、T:ルートウィッヒ、Br:ワッケ
(1937年5月1日 ロンドン クィーンズホール)
イギリス国王ジョージ6世戴冠祝賀コンサートのライヴ。長い間録音の存在すら知られていませんでしたが、1984年フルトヴェングラー没後30年の年に日本EMIがLPを発売、世界中のフルトヴェングラーファンを驚かせました。
当時のアセテートディスクに録音されていたもので、針音はありますが録音状態はさほど悪くありません。世界初発売となった国内LPはディスクの切れ目がうまく繋がっていなかったようですが、その後出たCDを聴く限りにおいては問題はありません。
演奏は50才代壮年期のフルトヴェングラーの演奏ということで、さぞ若々しい演奏だと思いきや、意外と老成した演奏です。
第1楽章などゆっくりと進めていくのですが、後年の重々しさはなく、むしろ静的で慎重な趣。第2楽章以降は一転して生命力溢れる表現、第4楽章はせっかちさも感じられるほどの早さで始まり、歓喜の主題も大きなユレはなく、淡々とした歌わせ方には後の録音にない良さがあります。特にヴィオラの絶妙なヴィヴラートが印象に残りました。名歌手ベルガー以下当時のドイツ一流メンバーを揃えたソリストも見事なもの。合唱の実体はよくわかりませんが、発音の軽さから想像するとイギリスで組織された合唱団かもしれません。幾分ドイツ的な重量感には欠けますが、熱狂的な歌唱を聴かせます。vor Gotのフェルマータは私が聴いたフルトヴェングラーの第九の中では最長でした。
オーケストレーションの改変は後の演奏と変らず、当時としてはかなり楽譜に忠実な演奏です。第4楽章合唱部分257小節以下のテノールパートの低い部分をフルトヴェングラーは通常1オクターヴ上げさせていますが、この37年と54年盤は楽譜のとおりに歌わせていました。
フルトヴェングラー独特の第九フィナーレの猛烈なアッチェレランドはここでも健在ですが、幾分唐突で取って付けたような印象です。 ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーの第九
・フィルハーモニア管、ルツェルン音楽祭合唱団、
S:シュワルツコップA:カヴァルティ、T:ホップ、Br:エーデルマン
(1954年8月22日)
フルトヴェングラー生涯最後の第九。この演奏の3ヶ月後に他界しています。
今までのフルトヴェングラーの第九は即興性を見せながらも、テンポ設定に一定のパターンがありました。しかしこの演奏は今までにない間の取り方、テンポのユレを見せています。フルトヴェングラーが晩年に到達した崇高にして偉大な第九で、歓喜の爆発というよりも内省的な演奏に仕上がっています。
フィルハーモニア管の淡白な響きが純粋な透明感を助長しているようにも思えますが、
演奏の随所に緊張の弛緩する部分もあり、老いの翳が多少感じられます。
第4楽章オケ部分歓喜の主題の歌い始めはかなり重く、暗さすら感じられます。やがてフルトヴェングラー自身が唸り声を上げながら急速にテンポを早め、頂点では崇高なクライマックスを築きます。独唱は相変わらず文句のない出来ですが、エーデルマンのレチタテーィーヴ部分に、フルトヴェングラーが今までにない長めのテンポ設定をとるため、多少のとまどいがあるように感じられます。vor Goは短くあっさり片付けた肩の力の抜けたもの。合唱はかなり検討していますが、中間部610小節あたりで突然力を失いバラけそうになっています。これは合唱側というよりもフルトヴェングラーの指揮に何かが起こったのだと思います。
以上部分的には多少の問題は残りますが、透明で深い第3楽章には、いつまでもその美しさに浸っていたいような深い感動を覚えました。創立間もないフィルハーモニア管は既に世界最高水準に達していて、ホルンのデニス・ブレイン以下特に管楽器群は驚異的な名技を聴かせます。録音はターラから出ているCDが生々しい収録で、フルトヴェングラーの残された第九の中では一番良い録音だと思います。 ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908〜1989)
20世紀を代表する巨匠、ザルツブルク生まれ、ウルムの歌劇場の指揮者を皮切りに27才でアーヘンの歌劇場の音楽総監督(北原先生もここの総監督でした)。
1956年からフルトヴェングラーの後任としてベルリンフィルの終身指揮者に就任、その間ウィーン国立歌劇場、イギリスのフィルハーモニア管、パリ管の音楽監督をも兼任し、文字通り音楽界の帝王として君臨しました。
カラヤンの録音数は実に膨大で、第九は正規録音だけで、実に5種類のスタジオ録音と3種類の映像があります。
ウィーンフィル、ウィーン楽友協会合唱団、
S:シュワルツコップ、A:ヘンゲン、T:パツァーク、Br:ホッター
(1947年11月 12月)
第2時世界大戦後、カラヤンがナチ関係者としての戦犯容疑のため、公開演奏を禁止されていた時期に名プロデユーサーのワルター・レッゲがカラヤンに提供した仕事で、ウィーンフィルとしては、ワインガルトナー以来の録音。
速いテンポの爽快でスピード感があり、アクセントを強調したダイナミックな演奏です。
主題が再現する部分でテンポをわずかながら落とすところなどは、未だドイツ的伝統的スタイルを見せている個所もあります。
当時の最高の歌手をそろえた独唱者も聞き物です。ホッターもクレンペラー盤ほどの不調はありませんが、冒頭部分で何ヶ所か楽譜を崩して歌っているのが、多少気になりました。合唱はテノールが突出気味でソプラノも音程不安定気味、これは問題があると思います。
譜面はブライトコップ版に極めて忠実で、これは録音年を考えると注目すべきことだと思います。ただバリトンソロのテーネーはG−Fに変えています。後のカラヤンの録音はこの部分に関しては全てF−Fなので、名歌手ホッターの主張にカラヤンが譲ったのでしょうか。 フィルハーモニア管弦楽団、ウィーン楽友協会合唱団、
S:シュワルツコップ、A:ヘンゲン、T:ヘフリガー、Br:ホッター
(1955年 7月)
カラヤンが残した4回のベートーヴェン交響曲全集のうち、第一回目全集中の一枚。
しなやかで生き生きとしたリズム、ウィーンフィルの演奏をより洗練させた、若き日のカラヤンの良さが出た名演です。所々に後のカラヤンに見られるテヌートの多用が第4楽章あたりで見られるのが面白いと思います。特に変幻自在のテンポの変化を見せる第2楽章は見事な出来。推進力溢れる第4楽章は独唱者が素晴らしく、テノールのヘフリガーがマーチ部分で快適なテンポに乗って、素晴らしい歌唱を聴かせます。
合唱は49年盤ほどの破綻は見せていません。しかし後のカラヤンからは想像できないことですが、全体としてのアンサンブルに多少ラフな部分もあり、オケと独唱者、合唱のタイミングがずれて進行する箇所があり、勢いで押し切った感もあります。 ベルリンフィル、ウィーン楽友協会合唱団、
S:ヤノヴィッツ、A:レッスル=マイダン、T:クメント、Br:ベリー
(1962年 10月)リハーサル付き
カラヤン&ベルリンフィルの第1回全集録音。この第九にはかなり長時間にわたるリハーサル録音が残されていて、国内盤と外盤の非買品として世に出たことがあります。国内盤は第1、第3楽章と第4楽章のそれぞれ一部、外盤は、第4楽章のみですが国内盤と収録個所が違います。今回はこのリハーサル盤を中心に聴いてみました。
この全集を録音する際にカラヤンはトスカニーニの録音を団員に聴かせたというエピソードが伝わっていますが真偽のほどはわかりません。ただ過去の伝統様式から離れて、インテンポで楽譜に忠実な演奏を目指しているの点で、トスカニーニと共通していると思います。事実第4楽章のテンポ運びなどは、トスカニーニとほとんど同じと言って良いほど似ていました。ただし出てくる音楽は、レガートを多用したカラヤン独自の世界です。リハーサルでも、常に美しく美しくといったことを協調しています。全曲を聴き通した時点では見事な演奏だと思ったものの、正直なところこの演奏の良さはよく判りませんでした。
しかし丁寧なリハーサルを聴いているうちに、この演奏の磨きぬかれた美しさに次第に惹かれてしまいました。時折弦楽器と管楽器を別々に分奏させるのですが、歓喜の主題をチェロのみで延々と弾かせるところなど、その洗練された美しさに思わず聞きほれてしまいました。このピアニシモの美しさは、カラヤン独自の麻薬にも似た魅力があります。独唱はソプラノのヤノヴィッツが圧倒的。合唱も悪くありません。カラヤンの残された第九の録音の中では、この曲のスタンダードといって良い名演です。 ベルリンフィル、ウィーン楽友協会合唱団、
S:トモワ=シントワ、A:バルツァ、T:シュライヤー、Bs:ファン・ダム
(1976年11月 1977年 1月 2月)
カラヤン&ベルリンフィル第2回目の、このコンビ絶頂期の全集録音。
この録音が初めて発売された当時に非常に評判になり、各音楽雑誌が揃って特集を組んだのをよく覚えています。旧全集に比べてより緻密になったアンサンブルが聞き物、譜面には極めて忠実であるものの、録音や管楽器奏者の人数でバランスをとっているようです。事実楽器によっては不自然に協調されていて、おそらく実演ではありえないようなバランスで聞こえる個所がありました。独唱者は相変わらず最高のメンバーですが、オケの完成度がより上がった分、合唱のアンサンブルの脆さが浮き上がってしまいました。
ベルリンフィル、ウィーン楽友協会合唱団、
S:ペリー、A:バルツァ、T:コウル、Br:ファン・ダム、
(1983年 9月 )
カラヤン5度目のベートーヴェン交響曲全集中の1枚。カラヤンにとって最後の第九となりました。オケを極限まで磨きぬいた現代演奏技術の極地ともいえる演奏。
ダイナミックレンジが広くスケールの大きな演奏で、現代的なスタイルの演奏としてはある種の到達点だと思います。第1楽章のクライマックスなど、凄まじい盛り上がりです。
ただ既に優れた第九の録音を残しているカラヤンにとって、この再録音はいかなる存在価値があるのでしょうか。私には疑問です。 ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーの第九も悪くはないけど、
結局一番まともな第九の名演はワーグナーの脚色を配したワインガルトナーでした。
高貴で品位に満ちたワインガルトナー
チンドン屋のフルトヴェングラー
世間ではチンドン屋の方が遥かに人気が有ります。
世の中には音楽がわかる人がいないのですね。 >>954
>フィルハーモニア管、ルツェルン音楽祭合唱団
>フルトヴェングラーの残された第九の中では
>一番良い録音だと思います。
この人とは、まるで話があわないが、
唯一、ここだけは同意かな フルトヴェングラーの演奏はすべてワーグナーの物真似だった
バロック音楽から古典派やロマン派初期の音楽が後期ロマン派の時代に従来よりぐんと遅いテンポで演奏されるようになったということは、どうやらヨーロッパにおいては定説と化しつつあるようです。少なくともベートーヴェンにおいて、それを始めたのはおそらくワーグナーだったのではと僕は思うのです。
なぜなら彼は古き音楽に忠誠を捧げていたメンデルスゾーンの演奏をテンポが速すぎると罵る一方、自らの楽劇をベートーヴェンの「合唱」の発展型であると主張していたのですから、実生活でも他人を利用することを全くためらわなかった彼なら十分ありえたことだと思われます。
なにしろ人格面はともかく、こと音楽においてワーグナーは本物の天才であり、彼は他人が書いた音楽をとことん自分の色に染め上げたばかりか、それに新たな説得力を持たせるだけの力を持っていました。
もしワーグナーにそこまでの力量がなかったら百年後の20世紀後半に我々が耳にしていたベートーヴェン演奏はあれほど重厚壮大なものではなかったのではとさえ思います。
ともあれワーグナーの才能のありかたが既存のものを全て呑み込み自分の意図に合わせて変容させるものだったからこそ、彼は音楽で物語を語るあらゆる技法を体系化させることができ、それが今の我々が知る映画音楽の分野における洗練された語法の直接の母胎になったのだと思うのです。 そしてワーグナーがその反ユダヤ主義的な考えゆえメンデルスゾーンを悪し様に罵った際、メンデルスゾーンのベートーヴェンについてテンポが速すぎると書き残していることは重要です。
それは録音の形で残されなかったワーグナー以前のベートーヴェン演奏がそれ以後よりもテンポが速かったことを示す状況証拠にはなりえるものですし、それがワーグナーにとっては不都合だったからこそメンデルスゾーンを貶めることで自分のベートーヴェンこそが正しいのだと強弁する必要を感じていたことを滲ませてもいる資料でもあるのですから。
だからこそワーグナーはそれまでラテン系の作曲家の後塵を拝していた歌劇の分野で成功するためにも、自らをドイツ音楽の分野における最初の歌劇の巨匠に祭り上げる必要があり、そのためには歌劇の分野においてはそれほど成功をおさめていなかったベートーヴェンを無理やりにでも接ぎ木しなければならなかった。
だからベートーヴェンの音楽をより忠実な形で受け継ごうとしていたメンデルスゾーンが正当性を獲得しきらないうちに彼がユダヤ人であったことを理由に引きずり落とし、ベートーヴェンの音楽を自分の音楽により近い形になるようにして演奏した。
それがワーグナーの時代に蔓延しつつあった空気に合致するものであったからこそより重厚さを増したそのベートーヴェン演奏は多くの支持者や模倣者を生み、古い音楽は新たな時代に合わせてスタイルを変えてこそその命が保たれるという考え方ともども後に巨匠時代と呼ばれる一大ムーブメントの礎になったのでしょう。 そしてそのドイツ至上主義や反ユダヤ主義、音楽を宗教的なまでに荘重なものとして民族的な結束の要に置くことなどを受け継いだ第三帝国が絶対悪とみなされたとき、ワーグナーを源とする流れも欧米ではいったん全否定されねばならなくなった。
それが巨匠時代が終焉を迎え、入れ替わるように前衛音楽がそれまでの音楽のありかたを一斉に壊しにかかった現象が意味したはずの事態で、ベルリンフィルの演奏スタイルが一貫してワーグナー的な考え方から遠ざかる形で変遷してきたのも当然のことだったとも思えます。
なによりロマン派以外のレパートリーへの関心に端を発し21世紀への変わり目において一つの徹底ないし完成へとたどり着いた楽曲への学究的なアプローチもまた、そんな状況とは無縁たりえなかった現象ではないかとも。
そして日本の我々がナチスを生み出したドイツ人ほどそれまでの自分たちを強く否定してこなかったとの以前からなされてきた指摘を思えば、この国で巨匠時代の音楽のありかたが未だに根強く信奉されていることの少なくとも説明の一つとみなせることかもしれません。
なにしろヨーロッパはたとえそれが世界における政治経済上の力というか発言力を求めてのことであれ多様な民族や文化を持つ国々をEUという共同体に再編する歴史的実験に至った地域であり、ここが最も先端的な前衛音楽の牙城であったことやアメリカなどに比してさらに過激なオペラ演出のメッカでもあることも同じ根を持つことだと思えば、戦後ひたすらコスモポリタンな性格の団体へと変貌してきたベルリンフィルの軌跡も、同じ動きの一例だったと思えてしまうものですから。 それだけに世界が再びナショナリズムにも似た空気へと急速に接近し始めた近年、たとえばメンデルスゾーンの、それも日本における演奏が率先するかのように巨匠様式と似たものへと変貌し始めているのはなにやら不気味でさえある光景です。
これが移民問題を前にやおら右傾化し始めたヨーロッパや、限りなく帝国主義へと回帰しつつあるような諸大国における演奏スタイルにまで波及してゆくのか否か、単に興味深いとの言葉では追いつかない心持ちで見守っているところです。
なぜそんなに気にするのかとおっしゃる方もおられるかもしれませんが、2つある理由の1つは絵画や造形、著作などと異なり音楽は作者が創ったままの形を留めることが難しく、説得力ある演奏であればあるほどそれがいかに元の姿からかけ離れていても受け入れられてしまうのではという危惧を覚えてしまう点。
もう1つは巨匠時代のような音楽のありかたは不幸な時代でなければ出てこないのではないかと感じるからです。
かつて神経を病んでおられた時にフルトヴェングラーのベートーヴェン演奏に救われた体験から、ベートーヴェンの音楽やフルトヴェングラーの演奏には神を感じると力説するようになられた方を知っていますが、確かにそんなことができる境地は凄いと思います。
けれどそれは古い音楽は新たな時代に合わせて仕立て直してこそ価値があるというワーグナーの主張の果てに成り立つものであり、その感動の質が宗教的な法悦の近みにあることを思えば、そういうものに救われねばならぬ人が多数を占めるほど強い危機感に満ちた時代は幸せとは言い難いのではともやはり感じてしまうのです。 ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーのベートーヴェンも悪くはないけど、
結局一番まともなベートーヴェンの名演はワーグナーの脚色を排したワインガルトナーでした。
高貴で品位に満ちたワインガルトナー
チンドン屋のフルトヴェングラー
世間ではチンドン屋の方が遥かに人気が有ります。
世の中には音楽がわかる人がいないのですね。 まともな指揮者
ワインガルトナー、シャルク、ブルーノ・ワルター、シューリヒト、ムラヴィンスキー
チンドン屋
フルトヴェングラー、ストコフスキー、トスカニーニ、メンゲルベルク
本物の天才
ニキッシュ、マーラー、クナッパーツブッシュ >>959
>ワーグナーの脚色を配したワインガルトナーでした。
↑
ということはワインガルトナーはワーグナーの脚色に染まってるということになるんだな! 正:ワーグナーの脚色を排したワインガルトナーでした。 ワインガルトナー・シャルク・シューリヒトはメンデルスゾーン、シューマン、ブラームス派
フルトヴェングラー・クナッパーツブッシュはワーグナー・ブルックナー派 あえて、チンドン屋指揮者の名をあげるなら、クナッパーツブッシュ このもの凄い長文の連続投稿はコピペ?
一体、なんなのこれ >ワーグナーの物真似だったフルトヴェングラーのベートーヴェンも悪くはないけど、
ワーグナーが死んでからフルトヴェングラーが生まれてるんで、ワーグナーの演奏を聴きようがないんだけどな。 1901年 フルトヴェングラーはマックス・フォン・シリングスから作曲を学び始める。
マックス・フォン・シリングス(Max von Schillings, 1868年4月19日デューレン(ドイツ語版、英語版)生 - 1933年7月24日ベルリン没)は、ドイツの作曲家・指揮者。
1919年から1925年までベルリン国立歌劇場の首席指揮者を務めた。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの師としても知られている。
シリングスは反ユダヤ主義者として知られており、1933年のナチス政権誕生を歓迎した。そして、第三帝国の帝国音楽院総裁に就任直後の6月24日に急死した。
ナチスとの関係のため、第二次世界大戦後に彼の作品の演奏はタブーと化した。
プフィッツナーがアドルフ・ヒトラーに解決させようと試みたのは、なかんずく「猛烈な図々しさ」だった。反対者はプフィッツナーのうちに国粋主義や反モダニズムを認め、ナチスの権力掌握へのプフィッツナーの加担を批判する。
早くも1933年4月にプフィッツナーは、トーマス・マンが講演会や論文『リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大さ(Leiden und Größe Richard Wagners)』の中で、ワーグナーのさまざまないかがわしいイメージには、国家主義者の大ブルジョワジーが刻印されていると論ずると、それに反対する「リヒャルト・ワーグナーの都ミュンヘンの抗議(„Protest der Richard-Wagner-Stadt München“)」の提唱者に名を連ねている。翌1934年には、ドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクの死後に、大統領職と首相職の一元化をめぐる「国民投票」に対して、「文化人の声明」に署名した[1]。
1944年5月には、第二次世界大戦中にもかかわらず、ヒトラーより5万ライヒスマルク以上の贈与金を受けていた[1]。同年8月には、「天才名簿(„Gottbegnadeten-Liste“)」に掲載されただけでなく、ヒトラーによって作成された特別リストにも最も重要な他の音楽家3人とともに「天賦の才あり」として掲載され、戦時債務を完全に免除されている。
1909年 フルトヴェングラーはシュトラスブルク歌劇場の第三指揮者となり、ハンス・プフィッツナーと交わる。
プフィッツナーの理論的な著作においては、自身の芸術活動に裏付けられた根本となる動機が、ほとんど例外なく、非合理的、排外主義的で反ユダヤ主義的な論争に塗り込められる フルトヴェングラーはシリングス、プフィッツナーみたいな反ユダヤ、親ヒトラーのワグナー派に囲まれて育ったから、ワグナー派の演奏様式になったんだ。
ヒトラーもワグネリアンでフルトヴェングラーと趣味・趣向が全く同じなんだ。 ニーチェ、ヒトラー、フルトヴェングラーが熱狂したワーグナー思想
ワーグナーが19世紀に作曲した壮大で国粋主義的な作品は、反ユダヤ主義やミソジニー(女性への嫌悪や蔑視)、民族純化思想に満ちている。
民族純化は後にナチス・ドイツ(Nazi)が大々的に掲げ、その指導者アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)はワーグナーの愛好家だった。
出品される1869年4月25日付の手紙は、ワーグナーがフランス人の哲学者エドゥアール・シュレー(Edouard Schure)に宛てたもの。その中では、ユダヤ人がフランス社会に同化すれば「ユダヤ精神による近代社会への腐食的影響」を観察できなくなるとし、フランス人はユダヤ人について「ほとんど何も」知らないなどとも記している。
ワーグナーは1850年、偽名で「音楽におけるユダヤ性」と題した論文を発表し、激烈な反ユダヤ批判を展開。1869年にはこの論文を実名で出している。
そのワーグナーの熱烈な信奉者がニーチェだったのである。ニーチェは、学生時代にワーグナーの楽曲に感銘をうけ、個人的な交流が始まった。その後、ワーグナーを讃える書を書いて、インテリからひんしゅくを買った。
そして ・・・
ヒトラーも熱心なワーグナー信奉者だった。ヒトラーは、17歳のとき、シュタイアー実科中学校を放校処分になり、ウィーンに旅行したが、そのとき、友人のアウグスト・クビツェクに絵葉書を送っている。そこにはこう書かれていた。
「僕は今、ワーグナーに夢中だ。明日は『トリスタン』を、明後日には『さまよえるオランダ人』を観るつもりだ」
ヒトラーは、その後、ドイツの総統にまで上りつめるが、ワーグナー熱が冷めることはなかった。定期的に劇場に出かけ、ワーグナーの荘厳な歌劇に酔いしれたのである。
ということで、ニーチェはワーグナーをハブに、ヒトラー(ナチス)のお仲間とみられたわけだ。とはいえ、音楽の趣味が同じだからといって、ナチスシンパ呼ばわりされてはたまらない。
ところが ・・・
彼の代表作「ニーベルングの指環」は、天界と人間界をまたぐ、壮大な戦争叙事詩だが、モチーフは北欧神話。つまり、神々と北欧ゲルマン人を讃える物語なのだ。
北欧ゲルマン? じつは、ワーグナーは、北欧ゲルマン人至上を信じる偏屈な反ユダヤ主義者だった。しかも、彼の2度目の妻コージマも反ユダヤ主義者で、夫婦そろって人種差別主義者だったのである。
ゲルマン人最高&ユダヤ人最低?
ナチスの教義そのままではないか。
17歳のヒトラーがワーグナーに魅せられたのは音楽であって、偏屈な人種差別ではない。この頃、ヒトラーのユダヤ人に対する差別意識は、ヨーロッパ人としては平均的なものだった。驚くべきことに、21歳の時、ヒトラーには、ヨーゼフ ノイマンというハンガリー系ユダヤ人の親友がいた。彼に自分の描いた絵を売ってもらっていたのである。
ニーチェもしかり。はじめに、ワーグナーの楽曲に感動し、個人的なつき合いが始まり、彼の知性に魅了されたのである。
ヒトラーが好きだったワーグナーのオペラに、この伝説から取った『ニーベルングの指環』という四部作があるが、彼はこれを当時のドイツ楽壇のスターたちに命じて何度も上演させ、全てが滅びる幕切れが来ると必ず叫んだ。
「そうだ、ブラボー、みんな死ね! そして復讐に甦れ! ナチは不死鳥、私も不死鳥だ! 民族の血の怨みに選ばれた者だけが不死鳥になれるのだ……」
ヒトラーが愛したワーグナー『ニーベルングの指環』
「ニーベルンゲン復讐騎士団」が生まれたのもこれがきっかけである。
彼はその日、とりわけ興奮して、このオペラの「ジークフリート」の幕を見ていたが、美しいクリームヒルトが血をすすって復讐を誓うシーンになったとたん、そばのSS(ナチス親衛隊)の幹部たちに狂おしく言った。
「わかるか、あれがきみらだ。きみらの使命と未来があの中にある。だから、あの名をきみらの中の選ばれた者たちに授けよう。そうだ……。『ニーベルンゲン復讐騎士団』だ! これからのナチスと新しい人類を築く聖なる土台の将校団だ。それにふさわしい者だけを選んですぐ報告せよ。最終人選は私がじきじきに決める」
こうして、その特殊グループが生まれたのだった。ほかにも「ニルベの騎士団」や「ラインの騎士団」……いろんな名前の将校グループがナチスにはあったが、そういう同期会と「ニーベルンゲン復讐騎士団」は、はっきり違う性質のものだった。
人数はたったの120人。家柄も財産も年功序列もいっさい無関係。たとえ20歳の少尉でも、予知力や霊感や指導力──ヒトラーが認める何か特別な能力──があれば選ばれた。
並外れた体力、天才的な戦闘力、そして何よりも人に抜きんでた高知能、米ソやユダヤや既成の世界への激しい怨念を持っていること、これらも選抜の基準になった。それを表すプラチナの小さなドクロのバッジ。それを胸につけた純黒の制服と黒い鹿皮のブーツ。ベルトには特製の45口径13連の凶銃ユーベル・ルガー。
腕にはもちろん、血の色の中に染め抜かれた黒のカギ十字マーク。
SS隊員は褐色シャツに黒ネクタイ、黒上衣、黒ズボン、
黒長靴……というように、全身を黒で染め上げていた
「ニーベルンゲン復讐騎士団」は、ダンディだが不気味な集団だった。
だがその1人1人をヒトラーは、「マイン・ゾーン(私の息子)」と呼んで異常にかわいがった。公式の政策会議には参加させない。しかし内輪の集まりには、よく招いて意見を聞いた。狙った国にクーデターやパニックを起こさせるといった重大な影の任務もよく命じた。
「きみらならわかる」と言って、側近のゲッベルスにさえ話さない秘密の見通しや未来の世界を、熱っぽく話すこともあった。2039年の人類についての「ヒトラーの究極予言」も、そうした奇怪な積み重ねの上で、この騎士団だけに話されたものだった。
いつ話されたかは、ヨアヒム・フェスト(ドイツのヒトラー研究の第一人者)によって記録されている。それは1939年1月25日の夜だった。話された場所は、ミュンヘンのナチス本部という説もあるが、ヒトラーは「オーバーザルツベルクの山荘」を霊感の場としていたので、雪に閉ざされた山荘で話された、という説を私(五島)は採りたい。 哲学者ニーチェの妹
哲学者ニーチェの人生は波瀾万丈である ・・・ 皮肉に満ちて。
正気の時代は無名で、気が触れると「狂気の哲学者」で有名になり、死して後、「ナチスの予言者」となった。
じつは、ニーチェの名声は彼が正気を失った後、偽造されたものなのである。しかも、偽造したのがニーチェの妹だというから、皮肉な話だ。
とはいえ、偽造されなければ、ニーチェは無名で終わっていた。
ニーチェは、発狂した時点で、哲学者としての寿命は尽きていた。しかも、原稿の多くは未発表だった。このままでは、ニーチェが世に出る術はない。
ところが、その術を提供した人物がいた。ニーチェの実の妹、エリザーベト・ニーチェである。彼女は、兄ニーチェの価値を見抜き、一山当てようともくろんだのである。
エリザーベトは、兄ニーチェの2歳年下で、目がクリっとした愛くるしい女性だった。だが、問題はそこではない。彼女は羊の皮をかぶった怪物だったのである。
エリザーベトは、商売の天才、まれにみる辣腕プロデューサーだった。しかも、その小さな身体の中には、「鉄の心臓」と「小型原子炉」が秘められていた。それが、揺るぎない信念と無尽蔵のエネルギーを発生し、とてつもない大業を成し遂げたのである。
彼女がプロデュースしたプロジェクトは3つ。
1.哲学の至宝「ニーチェ・ブランド」を確立したこと。
2.南米パラグアイにドイツ人植民地「新ゲルマニア」を建設したこと。
3.ニーチェをナチスのプロパガンダに利用し、ナチスを正当化し、「ナチスの予言者」に仕立て上げたこと。
エリーザベト恐るべし ・・・
そもそも、エリーザベトには、尋常ではない信念があった。人の道にはずれ、利にさとく、日和見的ではあったが、その時々で迷いがみじんもないのだ。
発狂した無名の学者から、哲学史に残る「ニーチェ・ブランド」を創造し、ナチスのプロパガンダに利用し、「ナチスの予言者」に仕立て上げたのだから。 ニーチェ・ブランドとナチスの予言者はつながった。では、南米パラグアイのドイツ人植民地は?
じつは、この3つには共通項がある。
エリーザベトには3つの信念があった。人の道にはずれた「人種差別(反ユダヤ主義)」と「国粋主義」と「全体主義」である。この3つは、言わずと知れたナチスのテーゼ、だから、エリーザベトがナチスに加担したのも無理はない。
でも、それと、ドイツ人植民地とどんな関係が?
じつは、最初にこの植民地計画を立案したのは、エリーザベトの夫ベルンハルト・フェルスターだった。彼は、狂信的な反ユダヤ主義者で、ユダヤ人に汚染されたドイツを捨てて、南米パラグアイに新天地を求めたのである。それに、心から賛同し、率先して計画を推進したのが妻エリーザベトだった。
というわけで、ニーチェ・ブランド、ドイツ人植民地、ナチスの予言者は、すべて、エリーザベトの信念にもとづいている。
話をナチスとニーチェにもどそう。
エリーザベトが、ニーチェ・ブランドをナチスのプロパガンダに利用したのは、ナチスに心酔したからだが、理由はそれだけではない。彼女は利にさとく、商売上手だった。つまり、ソロバンをはじいたのである。
具体的には ・・・
ナチス政権に加担し、その見返りとして、国から資金を引き出し、ニーチェ・ブランドの諸経費にあてる。あっと驚く厚かましいソロバンだが、それが現実に成功したのだから、仰天ものである。
ということで、エリーザベトは、ナチスのイデオロギーをニーチェ哲学で理論武装しようとした。 神が死んで、道徳が崩壊すれば、よりどころを失ったルサンチマンは滅ぶ。しかし、超人は生きのびる。何事にも束縛されない「自由」と、自己実現の「意志」で、新しい価値観を生み出せるから。
これが、ニーチェの「超人思想」である。
こんな粗野で、暴力的で、背神的な思想をぶち上げ、大胆にも「アルコールとユダヤ教・キリスト教を二大麻薬」と言い切ったのである。
一方、ヒトラーは、第9回ナチス全国党大会で、「ボリシェヴィキ(ロシア共産主義)とキリスト教は二大麻薬」と宣言した。
なんか似ている?
似ているどころではない。
ニーチェの教義は、「力への意志」、「超人」、「背神」 ・・・
「力への意志」は、女流映画監督レニ リーフェンシュタールが撮ったナチスのプロパガンダ映画「意志の勝利」を彷彿させる。さらに、「超人」も「背神」も、ナチスの理念そのもの。力強く、斬新で、カッコイイ、でも、暴力的で危険だ。根っこにあるのは「力への賛美」、「反宗教」 ・・・ ナチスまんまではないか!
エリーザベトはココを突いた。
ニーチェの原稿から、文脈を無視して、大衆を惹きつける威勢のいい語句をピックアップし、断片的に散りばめて、ナチスのイデオロギーを正当化したのである。
つまり、エリーザベトにとって、ニーチェの創作物は便利な宣伝の道具にすぎなかった。もちろん、ナチスにとっても。
とはいえ、エリーザベトに悪意はない。彼女の名誉のために一言付け加えなければならない。
エリーザベトは、自己実現のために兄とナチスを利用したが、それに負い目も引け目も感じていなかった。神経が太いのではない。考えがおよばなかったのだ。エリーザベトは、兄ニーチェの哲理を心から崇拝し、それが、ナチスのイデオロギーと一致していると信じ、それを融合させようと真剣にプロデュースしたのである。ニーチェと違い信心深かったエリーザベトは、それが神の摂理だと、信じて疑わなかった。
この世で、もっとも恐ろしいのはこの手の錯覚である。
私利私欲ではなく、立派な大義があり、神の助けがあると信じているから、一切の迷いがなく、無敵なのだ。歴史に残る大業は、この手の錯覚から生まれたものが多い。そもそも、ふつうの信念、ふつうの努力、ふつうのやり方で、大業がなせるわけがないではないか。 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、優生学と反ユダヤ主義はいっしょくたにされた。それを真に受けたのが、哲学者ニーチェの妹エリーザベトと夫のフェルスターである。この二人は極めつけの反ユダヤ主義者で、ドイツ本国がユダヤ人に汚染されたと考えて、南米パラグアイで植民地「新ゲルマニア」の建設をもくろんだのである。
■ヴァーグナーの世界
そもそも、エリーザベトとフェルスターを結びつけたのは、他ならぬ「反ユダヤ主義」だった。しかも、その仲介者というのが、大哲学者ニーチェと大音楽ヴァーグナーというから驚きだ。しかし、断じて言うが、ニーチェは人種差別主義者ではない。
では、ヴァーグナーは?
夫婦そろって反ユダヤ主義者(フェルスターほどではないが)。
リヒャルト・ヴァーグナーは、19世紀ドイツの大音楽家で、ロマン派歌劇の王様である。「トリスタンとイゾルデ」や「ニーベルングの指輪」などの作品で知られるが、輝かしい名声の裏側に、アーリア人至上主義、国粋主義者という闇の部分がある。とはいえ、自ら、台本を書き、作曲、歌劇の構成、指揮まで手がけるのだから、万能型の天才だったのだろう。
さらに、ヴァーグナーには尋常ならざるカリスマがあった。この頃、ヴァーグナーはスイスのルツェルン湖畔にあるトリプシェンを拠点にしていたが、そこに、ヴァーグナー信奉者がおしかけたのである。トリプシェンの邸宅は、さながら「ヴァーグナー・ワールド」のメッカだった。
そのヴァーグナーの取り巻きの一人が、若き日のフリードリヒ・ニーチェだった。彼は、自著「この人を見よ」のなかで、こう書いている。
「ほかの人間関係ならば全部安く売り払ってもいい。しかし、あのトリプシェンの日々だけはたとえどんなに積まれても、私の人生から引き離して手放すつもりはない。信頼と解決と崇高な偶然の日々、深遠な瞬間に満たされた日々だった」(※1) という事で、ワグネリアンだったフルトヴェングラーはナチスの協力者になったんだ。 フルトヴェングラーの周りはどちらかというとユダヤ人が多くてそれをワーグナー家の反ユダヤ女
に咎められて無視していたらその女のつての評論家がカラヤンを持ち上げる記事を出して
フルトヴェングラーを怒らせたんだけど カラヤンの奇跡の演目はrトリスタンとイゾルデで
フルトヴェングラーの指揮したオペラで一番多い演目
次がフィガロの結婚 これもザルツブルグでレッグのせいでカラやんともめた >フルトヴェングラーの周りはどちらかというとユダヤ人が多くて
ヒトラーの周りもどちらかというとユダヤ人が多くて、ヒトラーがユダヤ人から好かれていたのは有名な話 欧米のインテリや資産家の大半はユダヤ人だから、ユダヤ人と仲が悪いと生きていけないだけさ。 ヒトラーがどうかはしらんけどフルトヴェングラーがそれが原因で嫌がらせを受けたのは
間違いないでしょ >>990
長文はスルーしやすいから楽
やっかいなのはIDを変えまくってひとりでぶつぶつするヤカラ >>988
ググったら、長文はまるまるコピペじゃねえか
http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-282/
引用にも限度があるし、許可取ってるのか?
いろいろ問題だぜ 長文コピペを読むと、フルトヴェングラーって軽い神輿だったんだなって思うわ。
晩年はKさんに仕事依頼すれば、フルトヴェングラーが何故か仕事してくれるというコントロール法が確立されているし。 長文書いてるキチガイの正体は、mixiで糞ブログやってる総括キチガイ団塊世代ジジイ このスレッドは1000を超えました。
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