幕末の幕府軍の兵器・兵装・戦術を語るスレ2
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幕末の幕府軍の兵器・兵装・戦術を語るスレ
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1235997408/
明治に創設された日本陸・海軍の活躍でいまやすっかり忘れ去られている幕府軍。
フランス流に調練された陸軍や、蒸気船を揃えた海軍や、軍事アカデミーともいえる講武所や兵書の翻訳機関など、
割と優れていた設備を整えていた幕府軍を語るスレがあってもよいのではないだろうか?
ズボン式軍服を採用する上で、刀剣の外装から金具を外すという、脱伝統の努力も垣間見られなど、
もっと評価すべき軍隊だと思う。
旗本のバカどもが役に立たないから農民をかき集めて脱走… やっぱりナポレオン式に隊列組んで一斉射撃やってたの? 旗本5000人 御家人20000人
これだけいれば大丈夫なはず
何であっさり負けたのか 8➢徳川軍は銃に対する対応に遅れたのでは^数は多くても近代戦では烏合の衆。
鳥羽伏見の戦いで長州軍の小さなナポレオン、総指揮官(諸隊総駆け引き役)山田市之丞の採った戦術は
切り込みは断固不許可。物陰に隠れての徹底した銃による射撃。
「僅かな兵を損ねてどうする!。」
敵に銃撃で十分怯ませてから突貫、切り込むと云うもの。
山田市之丞は負けることも考えていた。いや勝てるとは夢にも思っていなかったらしい。
徳川軍はあまりの大群だからね^。
負けた場合は青大将の山田市之丞がまんだ小僧?の天皇を背中にオンブして
山陰道を長州に逃げる手はずになっていました。
徳川慶喜にとっては戦に負けたというより
淀藩や津藩の裏切りの方が響いたんじゃあないのかな^。 将軍直参の旗元・御家人は確かに約25000いる
それらが軍備を整えれば80000の大軍勢になるだろうけど
そもそも腰抜けで使い物にならないのでいくら多くても意味無し >>11
旗本全体としては「腰抜け」だが、正式な軍令もないのに上京してくるくらいの連中は違うだろ。
戦意はかなり高かったといえる。
大阪城に退いた後も主戦論が大半だったわけだし。
やっぱり、意気と人数を活用できる指揮官がいなかったことだろうな。
それから錦旗を覆せるくらいの権威が不在だったこと。
それは徳川家当主である慶喜しかありえないが。 それでも大鳥圭介なんかは自分のベストは尽くしたと思うが。
伝習隊はシャスポー銃にヤタガン銃剣。高島流のようなナポレオン式一斉射撃ではなく、
猟兵式の散兵戦術。地形地物に遮蔽して伏せ撃ち。前進後退はラッパで統制。
庄内藩桑名藩南部藩は散兵戦術をマスターできたが、会津藩仙台藩米沢藩秋田藩はマスターできなかった。 仙台藩の主力は戦力外だが、最後まで温存していた額兵隊は蝦夷で戦果
挙げてる 函館を襲撃し、900の民家を焼いたんだよな。会津・仙台・新撰組は。
松前藩を襲ったのもこいつら。明治政府は、会津戦争前も函館戦争時も
寛大に処すからと交渉したのに、戦争やりたがったのはこいつら。 米沢藩は稲富流砲術が盛んすぎてライフル銃の採用が遅れた。
だが千坂多聞の指揮する散兵隊4個小隊は全員七連発のスペンサー銃を装備していた。
しかし米沢藩がスペンサー銃250丁を受け取ったのは北越戦争が始まってからの5月15日。
しかも隊長の千坂多聞は優秀な指揮官ではなかった。 久保田藩の有志隊2小隊90人と遊撃隊2小隊80人は吉川忠安からイギリス式訓練を受けていた。
これに対して盛岡藩は発機隊12小隊600人と鳥蛇隊12小隊600人が前装ライフル銃を装備していた。
訓練は高島流砲術免許皆伝の大島高任が担当した。 高島流はゲベール銃時代と同じ密集突撃戦法だから、まともなライフル散兵隊には勝てないだろう。
銃が良くても密集突撃に固執すると、鳥羽・伏見の戦いにおける幕府歩兵のようなことになってしまう。 「戊辰戦争書留」と言う本の中の、盛岡藩が雫石の農民を訓練したときの記述だと、
敵を撃つときは3、4人が一組になって草木に隠れて前進。指揮官の号令で一斉に立ち上がって同じ目標を射撃。
太鼓が鳴ったら一斉に前進。鉦がなったら一斉に退却。白兵戦のときは一人で戦わず互いに助け合って戦う。
盛岡藩ではそんな感じだったらしい。大島高任が実情に合わせて工夫したのかもしれない。
しかし雫石の農民はマタギも多く狩猟や狙撃にも慣れていた。マタギの与助は長崎振遠隊の斥候隊長を狙撃して射殺している。 奥羽鎮撫総督率いる官軍が仙台の経ヶ峰で軍事演習したのを
東北諸藩の間者が見て驚愕したらしいね。西洋式調練と大砲、銃の性能に。
秋田の農民は弘前藩兵がみんなダンブクロ着てるのを見て変なカッコだっていって笑ってたらしいからな。
東北の中でも差が大きい。庄内藩はブリューネの指揮で江戸の薩摩藩邸を四斤野砲で炎上させてるし。
会津寄りの作家星亮一の本にも、仙台藩なんて領主によって火縄から
最新式の装備・格好してたけど、完全洋式ではなく下は袴のままとか
陣笠から鉢巻とか・・・ 仙台藩の支藩でも一関藩はなぜかスナイドル銃100丁を装備して制服もダンブクロだった。
http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/h/118.html 幕府・東北・北越諸藩の鉄砲戦力
藩 名 石高 施条砲 大砲総数 後装銃数 前装銃数 小銃総数
徳川幕府 500.0 394 1,500 11,252 60,600 75,000
会津 28.0 23 86 332 3,394 4,200
庄内 17.0 14 51 201 2,061 2,550
長岡 7.8 6 23 92 945 1,170
白河 10.0 5 20 79 808 1,000
横計差異は計上しなかった銃器があることによる。
東北戦争主導的 西軍抵抗勢力の軍備
藩 名 石高 施条砲 大砲総数 後装銃数 前装銃数 小銃総数
仙台 62.6 0 84 533 5,727 6,260
米沢 15.0 0 18 60 900 960
出典:軍事史学 通巻49号第13巻第1号(1977年6月) 南坊平造論文
東京都立図書館蔵 注)銃横計差異は未計上の銃があることによる。
戊辰戦争初期に攻撃を受けた諸藩(上段)の装備
藩 名 石高 施条砲 大砲総数 後装銃数 前装銃数 小銃総数 一揆件数
泉(いわき市) 2.0 0 2 86 40 126
湯長谷(いわき市) 1.5 0 0 0 60 60 2
磐城平(いわき市) 3.0 0 2 0 50 50
棚倉(棚倉町) 8.0 3 10 0 65 65
守山(郡山市) 2.0 3 6 80 70 150
三春(三春町) 5.0 0 3 86 400 486
中村(相馬市) 6.0 1 4 0 360 360
二本松(二本松町) 10.1 2 12 0 60 60 6
福島(福島市) 3.0 ----報告無し---- 5
合 計 9 39 252 1,105 1,357
藩 名 石高 施条砲 大砲総数 後装銃数 前装銃数 小銃総数 一揆件数
仙台 62.6 0 84 533 5,727 6,260 0
米沢 15.0 0 18 60 900 960 0
山口 36.9 109 220 6,429 17,607 24,033 3
一揆件数は 嘉永4年(1851)〜慶応元年(1867)
軍事史学会誌 全国諸藩の鉄砲戦力(南坊平造論文より) 米沢後装銃は全てピストル
前装銃って言ってもゲベール銃とミニエー銃じゃずいぶん違う。 英国は最新式の銃を薩長に売却したのに
仏は2級品を幕軍に売ったってことかな?
長岡藩家老河合も江戸藩邸の牧野家ゆかりの品々売却してようやく最新鋭
買えたってことだから、幕府側の諸藩は金額ぼったくられたのか? 売るどころかまだフランス陸軍すら持ってなかったシャスポー銃を無償提供していたりする訳だが 鳥羽伏見の場合、旧幕府軍は銃は最新式でも、戦術は薩長が数段優れていた。
旧幕府軍の戦術はナポレオン時代と同じ密集突撃だった。
この方式は銃にライフルが適用され、銃弾にミニエー式拡張弾が使用されるようになって、
有効射程距離が格段に伸びたため、突撃の最中に敵に弾丸を受けて壊滅する時代遅れのものと化していた。
新潟港における武器貿易は、そもそも新潟港に現れた商人がボッタクリ系なのさ。
明治新政府の開港延期通知に従った外国政府及び商人が大部分で、新潟港に現れたのはスネル兄弟と
もう一人だけだったのだから。 幕末に来日した商人なんて南北戦争の在庫掃けにきた連中だろ?
どこかの記録にあったんじゃなかった?大村益次郎が銀の取引した詳細と
幕府側の取引詳細。 盛岡藩は箱館のフランス商人ファブル、ハルハラ、イギリス商人デュース、ブラキストンから、
スナイドル銃、エンフィールド銃、蒸気船を購入している。この前後にも兵器を購入している。
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-01/shishi_04-01-02-02-02.htm
交渉担当者はやはり大島高任で代金は尾去沢の銅で支払っている。 鳥羽伏見で戦術が劣っていたのは新型銃さえ持っていない京都見廻組や新撰組、会津藩兵で、
幕府歩兵隊や伝習隊はフランス人現役将校から直接ラッパを使った散兵戦闘を教育されている。
新撰組や見廻組の密集突撃はナポレオンとは関係ないただの白兵攻撃。
×幕府歩兵隊や伝習隊はフランス人現役将校から直接ラッパを使った散兵戦闘を教育されている。
実際は鳥羽・伏見の戦いにおける幕府歩兵隊の行動は散兵戦闘ではなく、密集突撃で犠牲だけを増やした。
フランス人軍事顧問は本国でも同様の過ちを犯し、普仏戦争でフランス軍大敗を引き起こした。 そもそもナポレオン時代だってフランス軍は散開した軽歩兵と密集したラインインファントリーを使い分けている。
イギリス軍・プロイセン軍=散兵、フランス軍=密集と言うわけではない。
広いところでは散開させるし、狭いところを通過、突入するときには密集させる。
普仏戦争のフランス軍の敗因は戦術レベルより戦略レベルにあると思うけど・・。
ところが、鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍は戦域を広げる余地があったのに
鳥羽と伏見の二箇所のみ、、しかもその地域の道のいくつかのみに密集して突破を狙いました。 大鳥が指揮した伝習隊や歩兵隊は宇都宮や日光ではバッチリ散兵戦闘できてるから、
見廻り組や新撰組、会津藩兵が余計な口だしして足ひっぱったんじゃなかろうか?
会津藩兵は白河でも正面突撃してしてないから会津の家老クラスが散兵戦闘を全然理解してなかったのは事実。
>>34
大村益次郎が購入した銃器の価格
銃種 挺数 洋銀 洋銀/挺 両/挺 1両
長ミニエー 160 3,360 21 13.125
短ミニエー 60 1,440 24 15.000
ミニエー弾 50発
カラベイン 49 2,450 50 31.250
大型拳銃 33 20.625
小型拳銃 25 15.625
マツノ書店刊行の資料でよければ ナポレオンの場合、前半の諸兵科連合、後半の横隊突撃ってな具合で戦術が劣化してるんだよね
精鋭が多数死んだロシア遠征後には特に顕著になってくる。
幕府の取り入れたのは後半の方 鳥羽伏見に来た旧幕軍って軍隊じゃなくて、有志一同なのよね。
だからこそ、攻撃されたらどうするかとか、突破に成功したらどうやって戦果を拡大するか、
とか全然決まってないし、誰が決めるかすら決めてないからその場で判断もできない。
有力な部隊があってもそれをどこに送り込むべきか判断する人がいないし、有利に戦闘を
進めてる部隊があっても、それを全体にどう活かすべきかわからない。
一方、薩長軍は前線指揮官に有能なのがそろって、部隊を有効に活用していた以上に
京に西郷どんがどっかりと構えて、全体の指揮をとってる。
なんつーか、鳥羽伏見以降の薩長軍の前線指揮官って日清・日露で大活躍した人が
揃ってるんだよね。その人達の上に圧倒的なカリスマで西郷。
同時代のどこの軍隊が相手でも負けないと思う。 >鳥羽伏見に来た旧幕軍って軍隊じゃなくて、有志一同なのよね。
それは封建時代軍制のなごり。
基本的に藩単位での組織であり、薩摩や長州はそれぞれの藩として統率されていた。
確かに幕府直轄軍の指揮命令系統は問題であったが、幕府は全体組織よりも部隊建設に注力していた。
旧幕軍全体の改革は否定しないよ。
あくまで鳥羽伏見の時に、作戦があるように見えなかったり、戦況をにらんで
全体への指揮命令をタイムリーに出せる軍になってなかった、という話。 幕末の頃って、どうしてピストルが普及しなかったのかね。
西部劇みたいに、腰からピストルぶる下げて、バンバンやってたら、
幕末の事件も随分ちがってたでしょうに。 桜田門外の変の水戸浪士はピストル装備だし、それなりに出回ってたはずなのよね。
当局の取り締まりが厳しかったのかな?
ただ、ピストルって殺傷距離が短いし、白兵戦で刀より圧倒的に強いとは言い切れなかったりするよ。 >>48
幕府軍の装備はよくても、指揮官の能力が疑問。 >>52
久しぶりにロングパスが。
前線指揮官レベルはフランス式教育受けた歩兵指揮官がいるんだから、大村に仕込まれた長州軍
歩兵指揮官除けば日本最強のハズ。
その上のレベルで作戦立ててるのが誰だかよく分からない編成だったのが問題。
大鳥圭介でも連れてきて、最初から戦闘するつもりだったらぜんぜん違う展開になっていたはず。 維新後の沼津兵学校のレベルを見れば、幕府の蓄積の大きさが分るはず。
新政府も優秀な幕臣を取り込まなければやって行けなかった。 松山藩建設の横浜・砲台跡、保存強化を要望ttp://www.ehime-np.co.jp/news/local/20111001/news20111001278.html
幕末に松山藩が築いた神奈川台場(現・横浜市)の遺構がマンション建設で破壊される恐れがあったとして、台場の
保存・研究を進める神奈川地域活性化推進協会(理事長・斎藤文夫元参院議員、会員・約100個人団体)は30日、林
文子横浜市長あてに保存の取り組み強化を求める要望書を署名約2150人分(うち約550人は愛媛県内)とともに出した。
神奈川台場は台形の人工島で、2本の連絡道路が陸地部とつないでいた。その後周辺の埋め立てが進み、台場の
大部分はJR貨物の駅になっている。3カ所計約100mで石垣が露出しているが、全容の本格的な調査はなされていない。
今回の要望は台場の北東部分で今年6月、マンション建設が始まり、破壊されかかったことがきっかけ。台場跡は文
化財保護法に基づく「周知の埋蔵文化財包蔵地」で、開発の際は市教育委員会への届け出が必要だが、施工業者らは
包蔵地と気付かず届け出がなかったという。ttp://www.ehime-np.co.jp/news/local/20111001/photo/pic18730505.jpg
着工直後に事実を知った市教委は記録保存のための調査を建築主に指示。屋内部分の地中に長さ約4・5m高さ約
2・5mの石垣を確認し、屋外にもつながっていることが分かった。建築主はこれらを一般の人も見られるよう建物の形状
変更を決め「来年2月予定の完成後は一般開放する」と話している。市教委によると石垣の破壊はなかった。
【写真】神奈川台場跡地のマンション建設現場。三角形の切り込みの下に石垣が見える。マンション完成後は一般にも
見学を開放する=30日、横浜市神奈川区 天皇こそ主人マンセー!
将軍家は親戚頭に過ぎない
という教育を叩き込まれた水戸徳川家の七男坊慶喜が大将なんだからどうしようもないなw
>>53
いや、幕府陸軍も中級指揮を担う下士官が極端に不足していた。 >>58
え、伝習所で促成教育受けた士官がゴロゴロいるイメージなんだが。
その下のレベルってこと?
そりゃ使える下士官は時間が作るんだから、士官より役に立つ兵卒から叩き上げの
下士官みたいなのは不足してたと思うが。
それはさすがにどうしようもないんじゃね? つか、この時代は元々の幕藩体制で
それなりの家出身の人が兵を直接指揮するのが、各藩当たり前だと思うし。
その点では、下関戦争以来実戦経験を積んできた長州軍の下士官は優秀だよね。
上士出身の士官を馬鹿にしながら戦争するというどこかで見たような光景がすでに
展開されてたらしいけど。 同時期の南北戦争でも密集して一斉射撃をやってるのに
日本の幕末の散兵戦術はどっからきたの?
最初の例は第二次長州征伐の長州兵?
ヨーロッパの兵学書から学び、フランス士官も教えてる。
つーか、フレンチインディアン戦争や独立戦争で新大陸軍は散兵戦をやってる。 幕末にライフリングのないゲベール銃は国産化されていたけど
ライフリングのある銃は当時の日本の国内でコピー生産できたっけ? 大村のすごさは軍事の指揮官というだけでなく全体を見通せる数学的というか
医者的というかそういう能力だな
江戸に乗り込んだものの勝の狸ぶりに手詰まりになっていた局面を打開し
終戦まで持って行った手腕は当時他に人はいなかっただろう
第二次大戦のイギリスが戦略爆撃でドイツの産業経済を麻痺させるのに
医学者を起用して計画をたてたのを思い出す
その能力は維新後こそ軍事にかぎらず近代国家を築くのに発揮されただろうに残念だ
>>63
> 第二次大戦のイギリスが戦略爆撃でドイツの産業経済を麻痺させるのに
> 医学者を起用して計画をたてたのを思い出す
あー、そうだったな。
質問です。
江戸城総攻撃が行われた場合、官軍側は余裕で江戸城落とせたんでしょうか?
>>67
余裕ではないが、落とせたでしょ。ただし時間はかかったと思う。
弾薬と食料さえあれば、籠城はできた。 鳥羽伏見の時、幕府軍の一部が亀岡あたりから攻めたら
勝ててた? 兵力が多かったのだから、あちこちからいっせいに京都に突入すればよかった。 >>59
士官がボンボン旗本で馬にも乗れないとか
兵隊は賤民出身者ばかりでどうにもならん。
長州の奇兵隊と比較にもならないダメ軍隊。 幕府軍の評価が低いのは半分は長州の洗脳によるものが大きいと思う。
徳川慶喜がドキュンならば長州と全面戦争し壊滅出来るくらいの軍事力はあったろう
しかし教養があり頭もいいので時流に逆らった無理はせず、上手に負けてやったのだよね
長州征伐は本格化する前に慶喜が身を引いた。
全面戦争に発展すれば長州も滅んだが日本も滅び徳川家も後世に悪名を残しただろう
現代ではドキュン長州よりも勝ちを譲った慶喜が評価されている
>>74
はぁ!?
尊皇派の水戸藩だから関東人の贔屓の引き倒しだろw
徳川慶喜の行為は従った東北諸藩にとっては裏切り行為に近い。 >>74
乱世になれば、賢いやつではなく、パワフルなドキュンが勝つのだよ。 >>71
馬にも乗れねえようなのは士官にしねえよ。
講武所・伝習所で教育受けた連中だ>歩兵隊指揮官。
問題はその上の司令官レベル。
あと、賤民出身の兵、って長州諸隊も半分ぐらいはそんな感じだが。 >>77
基本的に現在の志願兵制度とは違い
アウトローな職業だからね兵隊。
米軍もダウンタウンとかスラム出身者で編成されてるし。
空軍と海軍海兵航空隊以外。空軍とその他航空隊だけは
中産階級で編成されてるんだよな?
なんでだろ? >>78
民間機パイロットになるのに厳しい教育と養成過程があることを考えればわかるんじゃね?
もともと教育レベルの高い人間でないと、現代の航空機に必要な知識を身に付けられない。
だからこそ、パイロットは全員士官にして厚遇するわけだし。
高価な航空機材を扱う整備兵その他も同様。 >>78
基本的にどこの軍隊も士官は中産階級以上、
兵は下層階級にきまってる。
空軍も兵は下層階級 どこの国でも平均的な知能の高さは
空軍 > 海軍 > 陸軍
という説があるが、どうなの? だってたいていの国は人数自体が陸軍>海軍>空軍だからな。
でも戦闘機1機飛ばすにはだいたいパイロット1人以外に、機関工、火薬工、電気工、溶接工、プラスチック工、塗装工、給油所、消防士、滑走路補修のための土木工、
運転手その他で50人くらい必要なので、平均で言うと必ずしも知能高いとは限らない。空母も同じ。原子力空母の8割の乗員は20歳前後。
陸軍の歩兵も昔は小銃と銃剣だけで武装していたが、今は全自動小銃、銃剣、手榴弾、地雷、ロケットランチャー、対戦車ミサイル、対空ミサイル、機関砲、デジタル無線機、夜間暗視装置、
装甲車の運転まで要求され、ヘリコプターやホバークラフトで移動する。
ドゴールが言っていたように、今の歩兵は一年や二年の徴兵だと使い物になりにくい。 >>81
旧日本軍において、陸軍の半数は平均以下の知能しか持たないが
海軍は半数以上が平均以上の知性の持ち主だったそうな。 >>79
たしかパイロットが全員士官なのは条約(海戦条約の援用)で決まってたから
基本的に独立して戦う単位には指揮官(士官)をつける 英・独のパイロットが初期は貴族だったのは騎兵からの乗り換え
米のパイロットは大卒が絶対条件
どんな条約だよ(苦笑 軍艦の要件に士官の指揮下にある事って条約があることはホントだよ
当時の農民というものは、右足と左足を同時に出すという歩き方をして
います。右足と左手を前に出すという、ストライドをとった走り方という
のは、近代体操教育が普及して初めて人民の間に定着したわけであります。
いわゆる時代劇にあります「あの身のこなしは忍びの者だな」というのは、
あれはわれわれの基準でいいますと普通かそれ以下の速さで走っているん
です。
ただし、昔の農民や町人は本当に遅くしか走れませんから、われわれが
一〇〇メートルを一二秒ぐらいのスピードで走ってみますと、まさに飛んで
いるように見えるわけですね。
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20110715/p1
>>69
西国街道を経由し東寺を突けば、そこに西郷隆盛の本営があった。 >>84
帝国海軍のパイロットには予科練出の下士官もいたよ
鳥羽伏見は戦闘態勢にさえなっていれば、指揮官がボンクラでも負けようがない。
部隊は5群に分けられていたが、それは京都での目的地点単位で戦闘ではなく京都への移動隊形。 六角獄の虐殺張本人の滝川播磨守、
鳥羽伏見では発砲されただけで一目散に闘争w
幕府軍総崩れw
捕虜の虐殺は得意でも戦闘になると腰抜けw 捕虜の権利などと言う概念は当時ない。
捕虜の虐殺というなら薩長の方が遥かに多いだろ。
咸臨丸の乗員など末端の水夫に至るまで虐殺。 虐殺に容赦なかった滝川が弾丸飛び交う戦場になると
腰抜けとなって一目散に逃げ出したというコントラストw
腰抜けの虐殺者=滝川播磨 慶喜の命を聞かない一派は、尾張を立てても現体制維持を計ったんだな。
尾張公も尻込みし会津が貧乏クジ。そんなとこでしょ、
薩長軍大勝利は田舎の先生に聞いた話でしょ? だいたい徳川将軍本家を継げる正等な資格は
紀伊徳川家か尾張徳川家しか与えられて無かったんだよね
徳川将軍家本家を御三家の中で正等に継げたのは
紀伊徳川家の8代将軍徳川吉宗と14代将軍徳川家茂だけ
水戸徳川藩の水戸系徳川は副将軍なんて名目上の名だけ
与えられてただけなのに幕末のどさくさに紛れて
将軍本家を水戸の慶喜が勝手に乗っとった形だからね 勝手に乗っ取れるほど軽いもの?
尾張公が我が正当の将軍じゃ〜とやれば結構付いてったんでしょうが、
やっぱ内乱に。
紀伊は健常なお世継ぎがいれば・・・
シリアもアサド引けば良いんだけど ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。
ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。
ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。
ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。
ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。
ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。 外国人の武器商人が暗躍していたんだろうね。
詳しい本あったら教えて! 102
江戸末期は徳川一族でも他家からの養子を取ってるし
今の尾張徳川家の人は堀田家からの養子さんだが? >>101
だったら家茂と慶喜の将軍争いにならないでしょ
家茂の祖父は11代将軍の子→清水徳川家の養子→紀伊徳川家養子だから
家茂は紀州初代の血を引いてないよ >>101
あなたが南紀派のプロパガンダにまだ騙されている可哀想な人ですか? 幕府軍は装備で負けたというより、指揮官の質で負けたという感じ。
竹中重固とか、ヤバスギ。 >>110
むしろ指揮官は優秀。
ダメなのは下士官不足な点。
更に指揮より士気不足で、強度防衛とか勝てば出世できるとかのシステムがないのが幕府軍の問題。
日雇いの元人足が参勤交代の廃止などで求人不足になって、料欲しさに組織に集まっているだけだから。 そもそも 大政奉還後で 徳川家のメンバーの大半が新政府寄りって時点で 正規軍と言えたのかな
旧幕府軍 優秀な指揮官とかいたっけ?
官軍で活躍した指揮官は、そのまま日清日露と活躍してるから、目立たないな。 >>113
勝ってなきゃ優秀でない?
将軍じゃあるまいし、中級指揮官にそんな評価ねえだろ? >>74
どっちみち東北はろくな目に遭わんのだよ。
久保田藩を見よ。 >>113
旧幕府側でも、雷神隊の立見尚文なんかは戦後も活躍してるな
>>115
実は秋田藩の賞典禄2万石は佐賀藩(言わずと知れた)や岡山藩(鳥羽伏見前からの勤皇派)や
彦根藩(鳥羽伏見で真っ先に新政府側についた)とかと同格
それよりも、戊辰では思いっきり日和ったのに箱館で本気だしてちゃっかり1万石貰ってる弘前藩の要領のよさに脱帽する 詫びに値することって何かあったっけ
庄内藩軍が強すぎてサーセンwwwぐらい?
兵糧の現地調達は割と普通だしなぁ
逆に完全に現地調達なしで行動できた軍隊は、WW2の米軍ぐらいまで待たないといけない
例えば戊辰の新発田藩なんかは、官軍にも列藩同盟軍にも兵糧を差し出してる
むしろ根拠地が近いという好条件だったとはいえ、新潟での米沢藩みたいな行動のが珍しい
まぁ戦争やそれへの支援ひっくるめてご苦労さんって意味はあるかもしれないが、それって普通に恩賞じゃね? >>119
庄内戦線に送られるはずだった兵隊を、横取りして長岡で溶かしまくった陸軍の元勲がいたような記憶が 幕府軍の装備はおしなべて旧式だったのでは・・・
ゲベール銃には照星もついていなかったそうです。
ガトリング砲を数門持っていても、蟷螂之斧かと・・・ >>121
んなわけがあるか。長岡藩や庄内藩があれだけ強かったのは、状況が悪化した時点で金を突っ込んで新型の銃砲を買い込んでたから >>121
どう考えても幕府の装備は新しいのでは?
そりゃ中には古いのもあったかもしれないが。 旧幕府歩兵隊の装備は薩長と同等かそれ以上でしょ(少なくともミニエー、もしかしたらスナイドル)
列藩同盟側でも最終的な軍制改革行った年は長岡藩が慶応元年で早く、庄内藩と米沢藩が慶応3年ぐらいでギリギリセーフ
始動が遅すぎたのは仙台・会津で、会津藩は何とか格好だけ付けて部隊ぶっこんだけど、仙台藩は完全に遅刻で額兵隊の訓練中に終戦
発注した銃を新潟港で官軍に押収されてたり色々アカン
官軍側だけど、秋田久保田藩も多分間に合ってない。椿台の戦いの頃に新式銃がやっと届いて善戦できたらしい
あと紀州藩なんかも遅れてたが、支藩の紀伊新宮藩だけは早々に西洋化してたっぽい
第2次長州征伐で、同じ紀州藩軍なのに石州口と芸州口で戦いぶりに雲泥の差があるのは多分そのせい >>124
芸州は正面からガチの勝負だったから、数の利が生きた、
石州は陣地にこもって様子見してたら奇襲食らってぐちゃぐちゃにされて
訳が分からなくなった、ってのもあるけどね。 >>125
というか、石州口は先鋒が機能せずにいきなり後方部隊が襲われているし。 122 123
幕府の装備は近代化していたんですか・・・
戊辰戦争や宮古湾海戦での敗北のイメージが根強く残っていますから。
当時は兵器がすごいスピードで進歩しており、接舷捕獲などまず無理
だったでしょう。ストーンウォール(甲鉄)にガトリング砲が装備
されていなくてもです。 >>127
へえ?フランスの軍事顧問へ照会を取った上での戦術だし。
停泊中の軍艦が能力を発揮しきれないのも事実。
停泊中の接舷攻撃は劣勢側にとって実に合理的な戦術だと思うが? 幕府軍が鳥羽伏見の戦いで負けたのは、兵力・兵器・軍資金では薩長軍に
劣ってはいなかったが高杉晋作の奇兵隊等の近代戦法に敗れたのではないか。
徳川慶喜がその状況を判断して、京都守護松平容保・所司代松平定敬を
同行させ幕府軍艦で江戸へ撤退したのではないか。 薩摩側の日記で、幕府歩兵隊も散兵戦術使ってたと解釈できる描写もあるから
単に戦法だけで敗れたとも考えづらい
鳥羽伏見には幕府歩兵隊の当時一番頼りになる隊がそれだけで薩長軍と同等ぐらいの規模で参加してるから、
あれで連戦連敗するならどないせいちゅーねんと慶喜は思ったかもしれない そもそも 慶喜に指揮権があったかのか?
扱い的に人質モードなんやが ケイキ様 近代軍とか以前に、大砲撃たれたら逃げ出す前線指揮官とか
その逃げ出した奴の指示がないから何もしない中級指揮官とか
指揮官がクズばかりだったのが敗因だろ、どう考えても 134
幕府軍の戦死者の多くは逃げ遅れた人だったんですか・・・ いやいや、幕府歩兵隊はどこでも前線で頑張って戦ってたし
伏見奉行所から撤退した直後は、指揮する奴が逃げたんで反撃や防御をするでもなく中洲で一晩過ごしたりしたけど
会津も千本松辺りの土手道の葦原に槍兵を伏せて長州藩の中隊長を討ち取る金星挙げたし
伏兵してるってバレた後は対応されて大損害出したけど
桑名も会津とぶっこみで無理矢理近接戦闘に持ち込んで富ノ森では官軍を後退させたし
予備兵力出して貰えなくて録に追撃もできずに引き返したけど
他の連中は何してたのか知らん 幕府軍について、私を含め知らない人が多いんですね。 佐々木只三郎と見廻組(遊撃隊)
味方の監視と敵前逃亡者の抹殺を委託されてたってマジかな
まるでチェーカーな話だが >>136
それを指揮官がクズで戦争ができない状態というんだが。
前線が頑張ってるのに、指示が来ない、援軍が来ない。 【不買運動をしよう!】フジテレビは女性専用車両広告を使う反社会的企業:
フジテレビが男性の裸を売り物にして視聴率を稼ごうとした男性差別広告を女性専用車両で実施してます
この動画をご覧ください
https://www.youtube.com/watch?v=Zdfz2MhMO14&index=2&list=UUMD829vhByJS8XkCVzfgZEA >>146
イギリス軍や清軍が聞いたら泣く?
笑う?
怒る? 幕府軍は鳥羽伏見でシャスポー使った可能性すらあるから銃器的には遜色ない
指揮官、下士官の差とか言われてるけど一番大きいのは大本営だろ
というか大坂の本営が全面戦争想定してないから、前線への精鋭投入もせず部隊配置もせず 彰義隊って、どうして浜離宮かお台場に篭城しなかったの?
榎本の艦隊と共同したら上野のような無様な負け方をしなかっただろうに。 馬鹿だから
主人の邸宅に籠城するなど考えられない程頭が固い >>149
手代木勝任
「だって、囮の為の捨て駒ですもの」 >>149
尊王恭順有志会からの経緯で純軍事的観点から拠点を選べなかった
徳川家の墓所(とくに天璋院の夫の家定)があり、かつ輪王寺宮が座す寛永寺は政治的アピールの場としては絶好 あと榎本武揚は強硬派だったが徳川家の家名・封土の確保が第一目標で、
脱走を開始したのも慶喜が静岡に送られてから。奥羽や彰義隊には同情的だったようだが
だから彰義隊が品川に移動したら勝海舟とも接点がある彼の立場はかなり難しくなったはず
艦隊幹部が榎本派と即時抗戦派に分かれるリスクもあった 幕府歩兵も、新撰組みたいに鉄の規律により些細な事で切腹とかあったの?
土方みたいな誠の侍はいたの? 衝鋒隊で斬首はあった。隊規違反の掠奪や脅迫を犯すと、兵は士分ではないから斬首。
規違反での斬首は別に珍しいことじゃない。奇兵隊の半分は武家身分だけど、まず泥棒するでしょ。
すると掠奪に夢中になってすぐに帰ってこない。司令も連座するから探して連れ戻す。すると隊規違反+逃亡で、士分でも斬首。
縁者の嘆願があると切腹にしてもらえる。
幕府歩兵は農兵どころか博徒・無宿の人間が多かったから、まず斬首だっただろう。
忠義な農兵・博徒・武士はもちろんいたよ。小栗家の領地から集めた小栗歩兵なんてその典型。 新撰組って言われるほど厳しいわけじゃないしね。
幕末の結社では士道不覚悟のたぐいはたいてい切腹。金欠なので掠奪金策の類も多い。
日記に残ってる訓練や処罰の類を見てると、今の体育会なみに1日10時間くらい練習して、合間に講義受けて、
ミスしたら平気で体罰みたいな幕府歩兵や奇兵隊のほうがずっと厳しそうに見える。 >>155>>156
新撰組って些細な事や脱退も許さない感じだけど、幕府歩兵も脱退は許されなかったのかな?
良くもまあ、会津まで行ったりしたよね。 幕府歩兵の場合は恭順を命ぜられた幕府陸軍からの脱走兵だから、脱走するほうが違法なので、指揮官についていく義務はないんだ。
戦場でいくらでも脱落できるし。純粋に給料貰えるからとか、あるいは指揮官との個人的関係とか、
戦ってみたいとか、掠奪できるからとかw ヤクザの衝撃隊とか、庄内や秋田、盛岡の農兵も脱落者はあまり聞かないな。
出身農村の人間関係で縛られてたせいかな。
逃げ帰ったりしたら村八分になって生きていけないから。 最大の原因 錦の御旗 エンフィールド銃
数は少ないが薩摩はスペンサーやスナイドル銃もあったらしい
幕府はシャスポー銃はあったもの指揮官の無能この一言 指揮官の無能というより戦闘勃発初日から大本営が機能してないからな
戦闘が平面的・時間的に繋がってるだけで、戦争になってない。
大坂城の精鋭の前線要衝投入もしてないし各部隊が前線を押し上げても進撃を許さなかったり
シャスポーも日本に適した銃かと言われると若干疑問が残る 鳥羽伏見では薩摩藩兵も初の実戦が多く、薩摩藩側も幕府兵の健闘を褒めてるから、
隊長単位ではそんなに違いはないよ
ただ、混乱する歩兵を陣頭指揮しようとして佐久間、窪田の両連隊長が前線に出て狙撃されたのはどうかとも思うが、
幕軍の場合は戦争する気がなかったので大本営が存在せず、
当然、増援回さないので指揮官が独断で前進や防戦して犠牲になる例が多かった 薩摩も砲兵隊を率いてた大山弥助が斬り込みを先導してるし、
篠原冬一郎みたいに前線で銃撃する脳筋もいたから、現場指揮官の質はだいたい同じだな
大砲が壊れたら斬り込みするほかないわけで >>160
錦の御旗が出た時点で、旧幕府軍は撃退されてた。
だからこそ、日和見の朝廷が新政府についたわけで。
勝てそうな戦いが錦の御旗でひっくり返った、って言い方はおかしい。
鳥羽伏見での新政府の軍事的勝利が、官軍指定につながり、政治的勝利を確定させた、って表現であるべき。
そもそも、長州征伐の時は、幕府が官軍、長州が賊軍なのに、賊軍が勝ってる。
官軍・賊軍の指定は、軍事的に意味がない。 2ちゃんねるは今日もサーバーダウンすると思うので、
避難所のリンク集を貼っておくよ。
↓
避難先の外部板
ここでは2ちゃんねる各板が鯖落ち等により一時的に利用できなく
なった際にも利用できる、外部サイトにある避難所またはその一覧を
紹介する
http://info.2ch.net/?curid=1660 錦の御旗って3日夜半に嘉彰親王に錦旗節刀を賜り親王が5日に前線を視察に向かって
皆頑張ってねと言って引き揚げたというそれだけの話でしょ
賊はこれを見て逃げたと言ってる官軍側の証言はあるけどまず時刻が視察の時間とちょっと合わない
戦闘が激しいから宮さまも前線までなかなか行けないのに何で見えてんのと言う話になるし
それよりも、幕府軍はほぼ一藩で前線を支えてた会津藩兵が砲撃に消耗してしまって後退してるし、
この日は淀藩が入城を拒否したり色々あったから話が若干盛られてるだろうね 鳥羽伏見は負けた会津藩兵が勇猛さを薩摩側に認識された皮肉な戦いだな
一番戦意のある部隊が武器が槍と旧式銃だけで、兵力が消耗していくんだからまったくもったいない 3倍も兵がいたのに野戦で負けて勇猛果敢だといわれても 何で佐幕や奥羽越列藩同盟方の武器がショボいんだろうか?
マジで準備してたのか?というレベルだな・・・
庄内藩なんかは、本間家からの献金と軍艦の売却費を使い、スネル商会から大量に武器を購入して装備を整えていたけど。
主力のエンフィールド銃をはじめウィットワース銃や、シャープス、スペンサーなどの後装単発/連発銃を装備してたし、
各戦闘では負けなかったw >>169
旧幕軍の3割以上は大坂城にいたし、鳥羽・伏見方面の行軍に参加した会津藩兵は1000人程度だろ
半数が死傷したようだが
>>170
庄内も慶応3年になってからだろ
東日本諸藩は攘夷騒ぎとは無縁だから軍制改革は慶応2年頃に幕府が始めてからそれに倣う形になる
西日本でも佐賀・薩摩は別格として熊本、広島、紀州、長州あたりも慶応2年だと同じようなレベル グスタフ国王はノーベル賞の受賞式のプレゼンターをやるとき軍服を着ているが、
あれはどういう資格で着ているのか?
彼はもはや三軍の最高司令官ではないはずだが。 幕府 慶応2年購入分だけで、元込銃15000丁 小銃購入数3万丁 大砲1000門
庄内 慶応3年3月に銃隊化を決める(幕府の軍制改革に習う)、
翌年に幕府歩兵を連れ帰る、2月に本間家から6万両を借りて「7発銃」2000丁分の資金確保
会津 慶応3年2月に長崎でツンナール銃買付(取り分は1000丁程度?)→間に合わず
慶応4年2月に横浜で数百丁の小銃を調達、3月に軍制改革 → 多分新式銃そんなにない
仙台 慶応4年4月にミニエー2900丁到着、6800丁を配備する予定だった模様
軍艦3隻を購入、2隻の貸与を受ける
庄内も金持ちだが仙台も意外と持ってる 仙台ってなんでドンゴリって言われるの?
白河口の戦闘を見ると粘り強く戦ってるように思うが。
むしろ会津の方がよく逃げてね?おかげで新選組や幕府歩兵が迷惑してる。 ◆在日中国人
在日中国人(ざいにちちゅうごくじん、日籍華人)は、日本に在住している中国人である。
中華人民共和国または中華民国(台湾)の国籍を有する者は華僑であり、日本国籍を
取得したものは「華人」である。なお、中華民国(台湾)の国籍者は在日台湾人と呼ばれる。
広義には中華人民共和国(香港、マカオを含む)と中華民国(台湾)国籍者を指すが、
狭義には中華人民共和国国籍者のみを指し、中華民国(台湾)国籍者は在日台湾人と
呼ばれることが多い。
独立行政法人統計センターによると、2010年12月末時点では両地域合わせて687,156人が
外国人登録されており、これは565,989人の在日韓国・朝鮮人を超える規模である[1]。
既に2007年8月に人民網が、東京では100人に1人は在日中国人であると伝えている[2]。
2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。 2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。 >>174
指揮官は勇敢だけど大本営が機能してない
寄せ集めの軍勢を現場で河井が切り盛りしてた北越戦争との違い
(北越戦争でも千坂が指揮を執った作戦はダメだった)
だからバラバラに戦って指揮官が撃たれると兵がパニックに陥って逃げる
仙台藩だけが逃げたわけじゃないが大軍だから目立ったんだろ 東山道軍:薩摩、長州、大垣、忍 700(砲6門) + 増援=土佐など(最終的には2500人)
守備側:仙台、会津、旧幕、棚倉 2500〜2600
劣勢のうえ、薩摩藩の支援要請に対して大村益次郎は徹底的にケチる
この正面では6月頃まで政府軍のほうが劣勢だったはず
結局、6月16日からの平潟への上陸を許して戦局一転
これを阻止するために仙台海軍も2隻が出動してるが幕府艦隊が来ないと苦しいな >>178
仙台藩海軍については、あまり語られることがないな。 やっぱり実戦経験だな
幕府の歩兵も天狗党討伐の時は優秀な装備でも奇襲受けて壊乱してたのに
2年後の長州征討ではいきなり隊長が狙撃されても崩れず頑張ってる 仙台海軍は5隻。うち1隻を横浜で取られてしまった。 アームストロング砲を大量増産し
仙台海軍戦艦に多数搭載し
無敵艦隊化すべきですたな アームストロング砲の威力についての定説もかなり崩れてるな
実際に不発弾が発見されてるけど
最近では「アームストロング砲も含む大砲」と一括して記述され
決定打とはされてない
佐賀が作ってたのは本場のアームストロングじゃないのは確定だし 「本場の」アームストロングが何を指すのか知らんが、
後装砲のことなら作らなくて正解だな。
あれを大量生産なんてしたら、砲の自爆で海軍が消滅する。 上野戦争に関してはほとんど役に立ってない。
アームストロング砲が決め手になった説は間違い。
彰義隊は攻撃が近づくにつれて兵がどんどん減っている
黒門の銃撃戦で既に崩れてた劣勢の彰義隊がたまたま逃げただけの話。 彰義隊は戦闘部隊と言うより武装したデモ隊みたいなものだから、
上野で実際に戦闘するとなれば不利なのは分かってるからな
兵士は攻撃が近づくと普通に家に帰るか、関東の戦場に向かっている
中には良い銃を持ってた部隊もいたから、政府軍の損害が比較的多い部類だろう
大村って奥羽戦争の指揮もそうだけどそんな優秀と言う感じしないんだよな >>188
激動の中央政界では佐幕、尊王、公武合体派のいずれとも均等に距離を置いたため、
「肥前の妖怪」と警戒され、参預会議や小御所会議などでの発言力を持てず
(ウィキペディア) 最初に無があった
無は有を生んだ
これが全ての真理 結果的に見たら慎重論だった海江田・岩村の意見に大村が近づいて行った感じ
彰義隊には元込め銃を装備してる旧幕陸軍の部隊も参加してるし、
いくら1000人しかいなくても、3000の兵ではとても無理だった 大村は西郷の方針を覆滅するために派遣されたが何しろ人とカネがなく、
実際には大兵で包囲網を作り、彰義隊に退去を促すほかなかった。
だから海江田の指摘のほうが当たっている。
あと西郷が薩摩兵を全部殺すとか言ったという防長回天史の記述は、
木梨精一郎が「全員が黒門口に回りたがった。そんな対立はないはず」と否定している。
実際には長州藩兵のほうが器械をうまく扱えず佐賀藩兵に部署を譲ってしまったのは不本意だっただろうが。 鍋島藩で作ったアームストロング砲って、そんなに凄い兵器だったの? 幕府軍て数と鉄砲は揃えてるけど実際はどうだったのかな?
旗本に銃もたせようとしたら武士は弓だろjkって言って拒否したとか聞くともうね
長州兵が伏射してるの見て驚いたとか言ってる辺りに近代戦への無理解がありそう >>195
だから慶応3年に軍制改革して全部銃隊にしたの
というか慶応2年の段階でも幕府歩兵はかなり健闘してるんだが 幕府正規軍は完全に洋式の歩騎砲兵化してるのに、
鳥羽伏見で会津と新選組がボコられた映像ばっかり
ドラマで流すから、幕軍がみんな鎧兜で刀槍兵だと
思われてるよね。 ほんとは天狗党討伐の時が記念すべき初試合初白星になるはずだったが
その頃はちょっとアホな子だったので奇襲にやられてしまった。
ついてないな。 長州藩の遊撃隊と戦った時の幕府歩兵が凄いのは、
いきなり隊長撃ち殺されて高所から銃撃されたのに踏ん張ってる所だな
紀州藩の洋式部隊も優秀だったとはいえあれだけダメな子が急に頑張ったのが驚き
長州藩も彦根と戦った時の3倍くらい撃ってもかなわないと言って驚いてるからな 官軍兵士の回想を読んだら仙台藩が装備を一新していると言う噂が流れて、
結構気にしてたらしいが仙台市史にある新式銃6000丁のことかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています