X



松平嫡流の血筋を追う
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/08(土) 14:36:09
松平嫡流について語りませんか
0002日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/08(土) 14:41:52
>>1での松平嫡流は、家康の血筋(安祥松平家)を指してます。
語弊のある書き方をしてしましすいません。

私の思う嫡流の血筋は、

家康-秀康-忠直-(光長)-(綱賢)-永見長良-綱国-安藤国近-安藤近倫
--------松平(永見)国忠 だと思います。

ご意見ちょうだいできれば幸いです。
0003日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/08(土) 16:59:29
なぜに秀康?養子にいっとるがな。先に生まれただけでは嫡流とはいえんぞよ。
0004日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/08(土) 17:00:48
じゃあ家康の血が一番濃い家系なら如何ですか。
0005日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/08(土) 18:19:51
黒田綱政の子孫じゃね?
0006日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/08(土) 20:19:21
>>5 マジですか><ググっても小寺氏の流れだということしかわからんです><
0007日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/09(日) 00:20:44
本家 宗家 嫡家の使い方が難しいよな。
久松松平家でもどの系統を宗家にするか議論があるらしいな。
0009日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/09(日) 10:31:04
そもそも松平ではなくなった徳川家康の子孫で「松平嫡流」というのがよくわからん。
(信康は松平のままだったとも考えられるけど。)
無理矢理選ぶなら、改めて松平を与えられた越前家か会津家のどちらから選ぶのかな。
一般的に「松平嫡流」と言ったら太郎左衛門家か岩津家じゃないのかな。
0010日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/09(日) 10:31:26
>>8 一理あるね。現在の宗家当主は会津松平家の血筋な訳で、
秀忠以来の男系直系だからね。良いんじゃないの
0011日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/09(日) 10:36:29
>>6
「家康の血が一番濃い」
0012日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/09(日) 10:47:58
>>11 どういう意味ですか?
0013日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/10(月) 13:46:05
現在の徳川当主は母親が徳川の娘で女系
0014日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/10(月) 17:28:24
松平三河守の家系が正統松平宗家

よって、親氏から始まる宗家の血筋は、家康以降は
松平秀康・忠直が三河守を歴任したことからも越前家へ
松平宗家の流れが移ったと考えられる。

肝心なのはそのあと、庶子忠昌流(福井家)か長子忠直流(津山家)のどちらが
松平宗家であるか。
0015日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/14(金) 17:22:53
多古藩
0017日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/31(月) 03:34:22
age
0018日本@名無史さん
垢版 |
2011/01/31(月) 16:08:19
>>2
秀康は家康自身が出生を疑い、信康が無理やり父弟対面させるまで
長らく家康と父子名乗りできなかったんじゃなかったっけ?
そのために信康没後もさっさと秀吉の養子に出され、
秀康は実父の家康よりも養父の秀吉に懐いていた。
将軍にもなれなかった。

家康の子じゃなかったのならば嫡流も何もない気がする・・
0019日本@名無史さん
垢版 |
2011/02/03(木) 20:16:33
>13

確かに本家のという意味では女系ですけど、本人もれっきとした家康の
血を引く男系の二男だか、三男ですよ
0020日本@名無史さん
垢版 |
2011/02/09(水) 18:11:53
>>19
現在の徳川宗家当主恒孝氏は会津松平家の分家から迎えられた。
会津松平家も何度も断絶し養子が取られているが
恒孝氏の男系は遡れば紀伊徳川家に行きつくらしい。

0021日本@名無史さん
垢版 |
2011/02/09(水) 19:21:22
恒孝氏の男系を遡ると水戸徳川家だよ。
恒孝氏の母の男系を遡ると紀伊徳川家に行き着く。
0022日本@名無史さん
垢版 |
2011/02/17(木) 22:48:53
会津松平家の庶流筋が本家を名乗るなんて
江戸時代だったらあり得なかっただろうな。

将軍家ではなくなったからどうでもいいけど
どこが宗家なんだという意見も無理はない。
0023日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/09(土) 05:36:24.55
0024日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/12(火) 03:28:06.81
時代錯誤的なことを言うと思われるかも知らんが、
歴史板で「恒孝氏」はやはり、やめてほしい。
(せいぜい「恒孝さん」、くらいか)

「・・氏」というのは姓につけるものであって、名につける尊称じゃない。
0025日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/21(木) 09:46:05.74
徳川家でいえば、現在では田安家当主だけが、八代将軍吉宗系統だと聞いているが。
松平嫡流は、津山松平家でしょう。
0026日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/21(木) 13:17:16.78
「松平嫡流」という定義自体がおかしいがな。
松平家嫡流であった家康は松平を辞めて徳川家を起こし、
自分の異母弟や養子、庶子など徳川を継ぐに値しない傍流に松平を名乗らせた。
御三家や将軍の子息でも庶子は松平を名乗らされ、どんどん松平は増えた。
将軍家は「徳川宗家」として徳川家と松平家の上に君臨していたが、
松平家だけの上に君臨する筆頭松平家「松平宗家」は存在しない。
0027日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/22(金) 02:27:33.67
たしか、現在の津山松平家は、徳川家斉の男系子孫だったよな?
0028日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/23(土) 12:16:12.80
>>27
現在の津山松平家は徳川家斉の男系子孫だね
戦前生まれの現当主には娘しかおらず絶える予定
0029徳川綱吉
垢版 |
2011/04/23(土) 18:56:18.24
>>「・・氏」というのは姓につけるものであって、名につける尊称じゃない。

ただ、私の記憶が正しければ
貴乃花親方はお兄様の花田勝さんのことを
「花田優(まさる)氏」と呼んでおられましたが?
0030日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/25(月) 00:20:32.33
>>29
それは単に、その親方とやらが
正しい日本語を知らなかったってだけの話だろ?
0031日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/25(月) 00:29:36.00
○細川さん ○護煕さん ○細川護煕さん
○細川様 ○護煕様 ○細川護煕様
○細川氏 ×護煕氏 ×細川護煕氏
○細川殿 ○護煕殿 ○細川護煕殿


こう見ると、「氏」だけダメなんだな
0032日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/25(月) 08:40:19.26
氏名というぐらいだから、本来そうでしょう!
でもニュースとかでも、普通にフルネームでも氏をつけることは一般化している。
0033日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/25(月) 10:15:16.17
氏を名前につけることは一般化しているでしょう
天皇から頂いた本姓にしかつけてはいけない
とは言ってみても現在ほとんど本姓を名乗っている人はいない
本姓にしかつけてはいけないという主張のほうが
現代日本語にあってないでしょうね
0034日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/25(月) 10:26:24.05
>>33
>天皇から頂いた本姓にしかつけてはいけない

え??
そんなことは誰も言ってないだろ・・・
0035日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/25(月) 10:29:28.52
細川さんを「細川氏」と呼んじゃいかん、なんて誰も言ってないよね。

「姓名」に「氏」をつける」ことが現代ではある意味「一般化」している、というのは
言うまでもなくそうだけど
元々の日本語として間違っているのは明確だし、
そもそも、それなりの歴史的感覚のある人から見れば
ものすごく違和感ある、っていうのも事実。
だからせめて、歴史板ではそれは避けたいね、っていう気持ちはとてもよくわかる。

まあ、過去の歴史なんてどうでもいい、って考える人と
現在は過去からの蓄積の上に成り立つものであり、従って歴史は尊重すべき、って考える人とがいて
両者は決してわかりあえないものだから、
>>32-33さんみたいな人に話が通じなかったら、それはもう仕方がない。
0036日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/25(月) 10:56:33.82
>>35
日本史板では平安時代の言葉しか使っちゃいけないと言ってる人がいるなw

こういう人はどうしようもない、というのはこっちのセリフでは?
0037日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/25(月) 15:59:15.82
>>35
もともと間違ってると言っても、新聞表記で統一されていて
女性にだって普通に使われているわけで、
現代表記としては正しいものと言えるのではないかね。

ただ、徳川家康氏、徳川家達氏、みたいに故人に対して
氏をつけるのは違和感ありありだわな。
0038日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/25(月) 16:51:42.46
教科書に載っているような過去の人物には
氏も殿も様もあらゆる尊称がついていないのが普通

教科書や新聞に徳川家康殿、徳川家達殿とかないから
尊称がつくのは原則生きてる人だよね
0039日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/25(月) 23:20:02.16
この場合、確実に言えることは↓こんな程度か。

・少くとも明治・大正頃までは、「姓名」+「氏」という用法は誤用であった。
・現在、マスコミは普通に「姓名」+「氏」という用法をする。多くの人もそう。
・一方で、特に国語に対する一定水準以上の知識をもつ人の中には、
 このような言い方を決してしない人もそれなりに存在する。
・少くともこの用法が行われ始めた時には、それは無知から来る誤用に基づいていた。
・それが「正しい用法」であれ「誤用」であれ、いずれにせよ
 ある人の言語の使用を第三者が規制することはできない。

だからまず、
>日本史板では平安時代の言葉しか使っちゃいけないと

平安時代の古語は、今話していることとは状況が全く異なる、ということは明らかだね。


それから、この用法は
「一部の人にとっては正しい表記であり、別の一部の人にとっては明確な誤用である。
それ以上でも以下でもない(普遍的な「正」でも、普遍的な「誤」でもない)。」
ということも言えると思う。
そして、多くの場合その両者は、わかりあえない。
0040日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/25(月) 23:21:02.71
要は、「ら抜き」言葉と同じなわけだ。
「ら抜き」言葉は良くない!と(自覚的に)言う人は、言葉の<美意識>を問題にしているのであって、
そういう人に向かって「でもみんな使ってるから正しいんだよー」「言語は変化するものであります」
とか言っても、説得力を持たない。
言語が変化するものだなんてのは当り前の話だが、変化する中でも
より「美しい」方向に変化すべき、と考えている人のみが、今どき「ら抜き」言葉に対して
否定的な意見をもっていると思う。

今の場合もそれと同じで、論理的な整合性も含めた広い意味での美意識を主張したい人が、
「姓名」+「氏」というのは誤った用法である、と主張しているわけだね。


で大抵の場合、この両者は、わかりあえない。

だから、「旧守派」(とあえて言っておく)の可能な態度としては、
「いや、それなりの国語と国史の知識を持ってさえいれば、そんな言い方気持ち悪くてできないでそ。
違和感ありありでそ。」って言って、どの程度の人が賛同してくれるか、反応を見ることだけだと思う。

逆に、「革新派」(とあえて言っておく)の可能な態度としては、
「いや!こういう用法こそが美しいんだよ!なぜなら、・・・」と積極的に主張を展開するか
(ちょっとそれも想像しにくい気もするが)、
または「俺らは生活のことで手いっぱいなんだ。<美>だの何だのなんて、どうでもいいんだお」って
プロレタリアートな主張をしてみるか、
他にもあるかも知らんが、まあそんなところじゃないかと思う。


いずれにせよ、「新聞にも使われてるから、正しいでしょ」ってのが、もし現状を肯定するだけの、
単なる盲目的な体制順応しか示していないのであれば、
知識人として、そんな態度ありえねーだろ・・・・・とまあ、俺個人的には思う。
(もちろんそういう態度を取る人が多数いることは知っているし、そういう人を否定はしない。)
0041日本@名無史さん
垢版 |
2011/04/26(火) 01:03:14.73
氏名=姓名というのも違和感ある。

氏・源
姓・朝臣
名字・徳川
諱・家康
0042日本@名無史さん
垢版 |
2011/05/25(水) 17:38:51.85
age
0043日本@名無史さん
垢版 |
2011/06/07(火) 23:01:17.84
で、嫡流はどうした
0044本田
垢版 |
2011/06/12(日) 14:19:07.50
いわゆる中下級武士(足軽)は武士ではない
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1287805800/425-525
>521 :日本@名無史さん:2011/05/26(木) 20:17:17.19
> 足軽=賎民
> もともと朝廷の警察権力であった武士は戦闘にあたって土民を徴発できた
> 農民を動員しすぎると農業生産に障害が出るから山地や川地の賎民を狩り出すことも多かった
> 賎民は原住民系、渡来系双方あったが朝廷権力から捨てられていた階層が室町時代、初期戦国時代の原動力となった
> 応仁の乱でも足軽層の位置付けは、生きた盾であって正規戦闘員でない
> 住民皆兵に近くなるのは戦国後半である
> 信長は弾正つまり賎民監督官、豊臣秀吉と徳川家康は自身が賎民出であったから江戸時代にいたって古代の貴賎は逆転したとも言える
> やくざ文化が武士文化の影響を強く受けているのは
> 武家に付属した賎民が江戸時代に博徒となり武家屋敷で賭場を開いて武士の裏経済を支えていたからだ
> 系図は偽造と思ってよく江戸時代のほとんどの武士が戦国勝者になれた賎民の末
>
> したがって足軽も立派な武士である
0045日本@名無史さん
垢版 |
2011/06/30(木) 02:39:25.76
>>2のいう嫡流の定義が、家康の子孫のなかで、より年上の血筋を追って
いった場合こうなることは納得できた。この定義があってないというのもわかる。

もし、>>2の系譜の人々が「我こそが嫡家筋ではないのか」という悔しさ、のような
ものはあったんだろうか、と考えるのはおもしろいな。

安藤近倫なんて、津山藩主になれそうでなれなかったんだからかわいそうだよね。
いろいろ思うことあったんだろうなーって考えると歴史はおもしろいね。
0046日本@名無史さん
垢版 |
2011/08/02(火) 00:03:54.93
age
0047日本@名無史さん
垢版 |
2011/08/05(金) 15:43:48.47
松平家嫡流なんだから、松平郷1000石の松平太郎左衛門流を語るのが筋だろ。
なんで家康家系の流れを語るんだ?家康の家系は松平でも代々三郎を名乗る家なんだから、松平としては嫡流ではない。
0048日本@名無史さん
垢版 |
2011/08/14(日) 02:49:31.27
>>1だが、私の言いたかった松平嫡流は安城松平嫡流のことみたい。
0049日本@名無史さん
垢版 |
2011/08/14(日) 17:22:41.90

乞食坊主・徳阿弥の血の入っていない、純・松平家もあろう

0050日本@名無史さん
垢版 |
2011/08/18(木) 21:12:12.11
徳川家康ー結城秀康ー松平忠直ー永見長頼ー松平綱国ー安藤国近
以後津山藩城代家老安藤氏が嫡流。
0051日本@名無史さん
垢版 |
2011/08/21(日) 10:47:41.67
家康の男系曾孫の永見さんは八丈島で餓死か
0052日本@名無史さん
垢版 |
2011/08/22(月) 18:14:10.82
>>50
永見長頼は松平忠直が配流後に生まれた子だろ
松平の姓を許されずやむなく結城秀康の母方の姓永見を名乗った
松平忠直が藩主時代に儲けた嫡男で長男の松平光長が忠直の嫡流
光長の母は忠直の正室で徳川秀忠三女の勝姫
0053日本@名無史さん
垢版 |
2011/08/22(月) 21:26:33.03
>>52 光長→綱賢で断絶してるやん
0056日本@名無史さん
垢版 |
2011/08/27(土) 22:54:57.47
賀茂社の立ち葵紋は、本多の家紋で、
松平の葵紋はそこから派生したんと違う?

松平氏が賀茂氏を名乗っていたというのは、
何かで見た気がするな。
0059日本@名無史さん
垢版 |
2011/08/30(火) 21:51:15.40
スレチかもしらんけど松平が酒井氏の祖と聞いたのですが、なんで他の松平氏のように松平を名乗らなかったのですか?同様に尾張の平手氏も
0060日本@名無史さん
垢版 |
2011/08/31(水) 22:42:19.65
嫡流とは本家を継いだ系統を指し
みなさんが論議していらっしゃるのは
嫡流の話ではないですよ!
長兄系とでも呼んだらどうでしょうか?
0061日本@名無史さん
垢版 |
2011/08/31(水) 23:18:21.10

>>60

それもひとつの解釈に過ぎんでしょ? いくらでも異論が出ると思うよ

0062日本@名無史さん
垢版 |
2011/09/01(木) 00:03:22.85
永見なんとかってひと、少なくとも嫡子じゃないでしょ
嫡子なら松平を名乗ってるよね!
0063日本@名無史さん
垢版 |
2011/09/01(木) 03:10:02.40
>>59
細川氏とか斯波氏には疑問を持たないの?
0064日本@名無史さん
垢版 |
2011/09/01(木) 11:06:06.87
>>62
嫡子でないのは当たり前
松平忠直が藩主を廃されて流された先で侍女との間に儲けた子
幕府から松平の名乗りを許されず父の母方の養子にされた
0065日本@名無史さん
垢版 |
2011/09/02(金) 18:03:34.21
>>47
今でも子孫は松平郷に住んでるの?
0066日本@名無史さん
垢版 |
2011/09/02(金) 19:26:48.41
4年前に亡くなった当主の弘久さんは松平郷のある豊田市在住だった
ところで今の太郎左衛門家当主って誰?
0067日本@名無史さん
垢版 |
2011/09/25(日) 23:53:41.63
>>50 :徳川家康ー結城秀康ー松平忠直ー永見長頼ー松平綱国ー安藤国近
以後津山藩城代家老安藤氏が嫡流。

ご自分で書いていておかしいなというかむなしくなりませんか?
なんで松平の嫡流が城代家老で安藤姓なの?
殿さまでなく苗字も違うんだから嫡流なわけないでしょ!
あなたは嫡流と長系をはき違えている!

0069日本@名無史さん
垢版 |
2011/09/26(月) 12:14:25.99
結城秀康の子孫で最後まで大名であり続けたのは津山ぐらいだが
そもそも結城秀康自身家康から「嫡流ではない」と運命づけられて
豊臣秀吉やら結城晴朝やらの養子に出されている
結城秀康の血筋を辿ること自体が嫡流を辿ることではなくて
他家へ養子に出された庶子の血筋を辿ることに他ならない
徳川家康の血筋といえども庶子を辿れば大名から転落した家もそれは出てくる
0070日本@名無史さん
垢版 |
2011/10/01(土) 01:45:45.69
平野明夫『三河松平一族』って読んだ?
仮説ばっかだけど
なかなか興味深い内容で読み応えあった
0071日本@名無史さん
垢版 |
2011/11/11(金) 17:27:43.00
キック松平
0073日本@名無史さん
垢版 |
2011/12/16(金) 12:10:29.24
>>67
その安藤家は後に永見に改姓してる
ちなみに養子が入ってるから男系で忠直の血統は続いてないはず
0074日本@名無史さん
垢版 |
2012/02/11(土) 18:20:08.17
>>73 それって本当?どの代で養子が入ったのですか?
0075日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/03(火) 16:09:48.73
>>74
徳川家康ー結城秀康ー松平忠直ー永見長頼ー松平綱国ー安藤国近ー安藤近倫
近倫が11歳で夭折して断絶、美山松山藩から松平長熙(結城秀康の五男松平直基の系統。忠直の系統ではない)
が養子に迎えられるも16歳で子がないまま一代でまた断絶。
その後出雲広瀬藩から迎えられた松平長孝の系統が幕末まで続く。
松平直政は結城秀康の三男松平直政の系統。
松平忠直の血は引いていない(忠直の弟の系統)。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/03(火) 21:46:31.74
>>75 ウィキによると近倫は早世してないぞ
0078日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/04(水) 15:09:32.35
松平の本家は松平の松平家だが、
「嫡流」というには違和感が。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/05(木) 22:30:01.13
むしろ社会的に見ると、ドラマ部の松平容の方が迷惑なんですが
0082日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/06(金) 04:37:49.20
このスレでは
家康流松平(徳川)氏の嫡流と言う定義でOK?
0083日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/06(金) 09:28:17.79
>>82
他家へ養子に出された結城秀康が松平氏嫡流というのもおかしい話だけどな
秀康の系統もどんどん苗字が変わっていってるし
ここの人らは松平嫡流というより家康の長男系(松平を名乗る必要全くなし)
という意味で使っていると思う
0084日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/06(金) 10:06:11.60
>>79
「プライベートな意味の本家」と「社会的地位の高い家」の違いかな。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/08(日) 15:57:36.08
こんばんは。松平です。
松平宗家は越前藩→高田藩→津山藩に決定しました
0086日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/28(土) 02:27:58.63
松平嫡流には「広義の松平嫡流」と「狭義の松平嫡流」の二つ意味がある。

広義の松平嫡流については、広く松平一族の嫡流を指すものであり、源流でもあり、江戸時代も引き続き三河国松平郷の領主でもあった松平太郎左衛門家を指すのであり、これには異論のないところと解される。
問題は、狭義の松平嫡流であり、これはすなわち徳川家康を発祥とする徳川一族の内における松平のトップは誰か。
すなわち、徳川一門の中で、にもかかわらず徳川の姓を名乗らず、松平の姓を名乗った者の中で、そのトップにすべき家はどれか、ということであろう。
会津松平、光長流越前家、忠昌流越前家をはじめ、各候補をめぐる意見対立が生じたと見るべきであろう。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2012/04/28(土) 22:46:10.37
その通りにござる
0088日本@名無史さん
垢版 |
2012/05/08(火) 22:44:46.09
家康の息子たちの男系子孫で藩祖の男系血統を維持しているのは水戸だけ?
紀伊は断絶、尾張も何度も他系統から養子が入っているし越前はどうなんだろ?
0090日本@名無史さん
垢版 |
2012/05/09(水) 11:28:31.33
小藩は知らんが越前松平の主だった所は徳川宗家の近親から何度も養子入っているな。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2012/05/20(日) 03:03:43.14
>>88
紀伊の茂承は藩祖からの系譜だね。だいぶ飛んでるけど。
>>90
ほとんどが家斉の子供だね。
歴代将軍は跡継ぎ不足で余裕が無いw

0092日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/09(土) 09:18:44.65
徳阿弥って乞食坊主が松平家へ養子に入ったのが始まりだよね。
源氏はもちろん平家も元は天皇の子孫だから、血統だけでも偉いが、
徳川の起こりはどこの馬の骨かわからない一介の坊主にすぎないわけで
それを崇めろとか言うのは無理がありすぎる。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/17(日) 01:22:24.74
徳阿弥のことは
内密に願います
0094日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/17(日) 05:19:38.57
乞食が普通、そこそこの土豪の松平家の養子に入れるわけないだろうw?
何が何でも、徳川家を源氏にしたいために、そういう系図を偽った。
そのせいで、明治になって、長州のやつらから
徳川家は被差別民の末裔だとか言われ放題。

第二次大戦後の天皇家の境遇に似ている。
天皇家も出自のこと、あることないこと言われまくった。
崇神天皇の大叔母が卑弥呼なのに、中国の皇帝に朝貢したことが許せなくて
邪馬台国はヤマト朝廷と無関係だと宣言してしまって
そのせいで天皇家の系譜が崩壊、その結果
三王朝交代説だとか、騎馬民族征服王朝説だとか、出るわ出るわ。
やること完全に裏目だわなw

ちなみに、徳川家は源氏ではないが、元の出自は、地祇系の賀茂氏。
この系統は、大国主の末裔を名乗る三輪氏族系の大田根子命の系譜で
平安時代には陰陽道の名家として君臨、安倍清明の師匠でもあった。
鎌倉時代には、持明院統の天皇の近臣としても活躍、
その一族のもので三河に下って現地の松平家の養子に入ったのが
徳川家康の御先祖様。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/17(日) 05:35:25.68
賀茂在盛-賀茂在氏-賀茂在信-賀茂在久-賀茂在親-┐
┌-------------------------------------------┘
└松平親氏(徳阿弥=松平信重の婿養子にはいる)
0096日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/20(水) 00:20:40.13
あげ
0097日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/20(水) 01:12:44.30
徳阿弥は部下の石川孫三郎を従えて諸国を流浪し、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、在
原氏あるいは賀茂氏の血筋を引く同地の領主松平信重(太郎左衛門少尉)の客人となっ
た。信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたので、徳阿弥は還
俗して松平三郎親氏(次郎三郎とも)と名乗ったという。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/20(水) 01:26:44.56
親氏は関東(あるいは信濃国浪合村)で鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、足
利氏の追捕を避けるために父・有親とともに相模国の時宗総本山清浄光寺に入って出家
し、徳阿弥(とくあみ)と称したとされる。「乞食僧」「一種の賤民」と表現される場
合もある。しかし、清浄光寺での落髪が語られるようになるのは「武徳大成記」成立後
の元禄期以降であることが、煎本増夫により明らかにされており、後世になってから作
られたものと考えられる[4]。実際には、諸国を遍歴する職人であったという見方もある。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/21(木) 03:06:05.52
>>98
それら、wikiの情報だろう?
地方を遍歴する職人ごときが豪族の婿養子に入れるわけない。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/21(木) 03:14:40.95
>>99
じゃあソースを明示して編集してきたらどうだ?w
0102日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/21(木) 03:16:06.17
>「乞食僧」「一種の賤民」と表現される場合もある。
>「乞食僧」「一種の賤民」と表現される場合もある。
>「乞食僧」「一種の賤民」と表現される場合もある。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/21(木) 03:32:15.09
>>100

松平信重は、在原氏の流れの荒尾氏の出身だった?
彼が松平を名乗ったのは、賀茂氏の流れの松平信盛の養子になったから?

そこで、在原氏系の荒尾氏の出の松平信重は男子がいなかったので
松平信盛の兄弟の孫である賀茂親氏を婿養子に迎えた。
賀茂氏系に戻そうとしたんだな。
この人物が松平親氏である。

しかしながら、松平信盛は、もう一方で
清和源氏新田流の世良田泰親も婿養子に迎えた。
松平泰親のことである。

よって、松平親氏と松平泰親の兄弟は義理の兄妹で
どちらも、在原氏系の松平信重の婿養子である。
家康は松平親氏の男系子孫なので、賀茂氏系なのだが、
彼が欲しがったのは、清和源氏の世良田氏の家系だったんだなw
また、この松平親氏と松平泰親の義理の兄弟の経緯もあったのか、
松平親氏の男系子孫の当主たちには、世良田氏の女性を妻にむかえ、
女系で世良田氏の血を受け継いでいたので、このことを意識していた。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/21(木) 11:18:06.34
>>98 >>103
徳阿弥(得川氏)の話は代々松平家に仕えてきた譜代大名大久忠教が
松平家歴代史を描いた「三河物語」にある。

で、賀茂氏の系譜はどこから引っ張ってきた?
史料の提示が一切ないんだが。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/21(木) 17:40:09.70
まあ、血よりイエの方が大事だ。
イエの系譜が賤民でないのだから、ある代の養子が賤民だろう何だろうがどうでもいい話しよ。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/22(金) 05:05:25.60
江戸時代、水戸徳川家の家臣に
本当の新田系の徳川家(得川家)の人がいたそうだ。
で、三河の徳川家(松平家)とは別系統とし、
徳川を名乗ることを許されていた。
0107下馬将軍酒井忠清
垢版 |
2012/06/22(金) 12:51:27.62
わが酒井家は、東照神君以来の休診。徳川家の忠誠には、一点の曇りもございませぬ
0108日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/24(日) 05:31:02.22
家系を背伸びして、後世、逆に悪く言われるのは
徳川家だけじゃなくて、皇室や豊臣氏もそうだなw

豊臣氏も、本当は貧農なんかではなく、
尾張中村の庄屋レベルで
近江の浅井氏の庶流らしいしな。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/25(月) 23:39:49.92
源氏でもないのに天皇家をないがしろにした徳川はどう見ても左翼だよな。
ちなみに松平春嶽の五男で尾張家へ養子に入った義親は日本社会党の産みの親になってる。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/27(水) 22:08:27.18
くだらないウヨサヨ話しをもちこむな
0111國學院大學 学生
垢版 |
2012/06/27(水) 22:20:46.82
「松平氏と世良田氏」
というサイトに
江戸時代に徳阿弥親氏の墓が武蔵国で
発見された出来事が紹介されている。

教授は偽墓碑であると
論じられているが
みなさんの見解は如何に。
0112國學院大學 学生
垢版 |
2012/06/27(水) 22:29:21.60
ちなみに徳阿弥の時代、
古代や源平以来の名家が
素姓のわからない輩に
乗っ取られたり
すり替わったりする例は
他にもある。

国が二つに割れた
南北朝のカオスは
室町〜戦国へとむしろ
地方や庶民にまで
広がり続けていたのであった。
0113國學院大學 学生
垢版 |
2012/06/27(水) 23:10:08.96
松平太郎左衛門家の
家老神谷家に伝えられた
「松平由緒書」は
松平一族の由緒を記した資料である。

この文書には
親氏自身が
「自分は東西を定めずに
旅する牢浪の者」と
語ったとある。

この「牢浪の者」とは
すなわち「道々の者」
「公界人」などと呼ばれた
中世の漂泊の民である。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/28(木) 00:06:08.01
>>109
もうわけがわかりません
0115日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/28(木) 02:34:59.26
どう見ても、陰陽道の地祇系の賀茂氏の末裔だな。

松平信重は、在原氏系の荒尾氏の出身で
賀茂在信の次男の松平信盛の養子に入った。

その松平信重には娘しかいなかったので、
ここは賀茂氏系に松平家を返すべく
婿養子に、賀茂在親の子供の賀茂親氏をむかえた。
賀茂親氏は、松平信武に名前を変えた。
この人物が、徳川家康の祖先。

他方、松平信重は、もう一人の娘にも婿を取って養子に迎えている。
こちっは、清和源氏新田流の末裔である世良田泰親。
松平康親に改名する。
このことが、家康の家系が清和源氏を偽称する切欠になったと思う。
松平家には世良田氏から養子が入ったのだが、結局、
家康のほうは、賀茂氏系の親氏のほうで、世良田泰親の子孫ではない。
このへんが、系図の乱れの要因にもなっている。
実際に、親氏と泰親の関係を、兄弟といったり、親子といったり、系図がまちまちだが
実際は、二人は義理の兄弟で、奥方が姉妹だっただけである。

松平信武(賀茂親氏)は、長男の信広に本家の太郎左衛門家を継がせ、
次男の信光に岩津松平家をおこさせ、この家系がやがて十八松平につながる。
この十八松平家の一つが家康の家系。
0116115続き
垢版 |
2012/06/28(木) 02:49:49.06
では、家康の先祖の賀茂氏とは、どんな一族かというと

賀茂氏には大きく分け二系統あり
天神系(ヤマト朝廷譜代)賀茂氏と、
その婿養子に入って賀茂氏をなのった地祇系(ヤマト朝廷外様)賀茂氏の
二系統がある。

家康の先祖の賀茂氏は後者のほうであり、これの先祖は
西暦3世紀、三巻入彦(崇神天皇)の時代に
三輪山の祭祀を行っていた大田田根子命まで繋がる。
それよりも先は、出雲の大国主まで繋がるらしいが
そのへんは大田田根子命の自称で本当のところは分からない。

この家系は、平安時代は陰陽道の名家になり、
安倍清明の師匠でも有名な家系だ。
家康が陰陽道に詳しかったのも、彼の家系がそうさせる。

その後、北朝の持明院統の後宇多天皇なんかにも使えていたが
この一族の一人が宮中祭祀に必要な酒造りの位についていて、その米を得るためにも
三河の松平郷に領地をもっていたらしい。
それが松平家の祖先だ。

そんな家系だったから、京都に非常に近い一族で
足利幕府の執事だった伊勢氏の被官として
松平信光が活躍していたのも、うなづける話だ。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/28(木) 02:56:58.09
>>115-116
普通に考えて、諸国を放浪していた出自の怪しいものが、
そこそこの地主の婿養子に勝手に入れるわけない。
親氏は、松平家だけじゃなくて、酒井氏の婿にも入っていたらしいからw
あつかましいも何もw
でも、親氏が陰陽道の賀茂氏の出身ならば、驚くことはない。

また、婿養子に入ったあと、名前を松平信武にかえたのも、
その後の名前の付け方に繋がってくる。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/28(木) 12:52:02.19
>>116
親氏、泰親が
兄弟であることを示す
根拠となる資料を教えていただきたい。

また賀茂親氏なる
名称が出ている資料も。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/28(木) 12:56:12.43
>>117
婿養子の件が
「普通に考えて
〜なわけない」
と断じてしまうのは
中世の日本をわかってないから。

酒井氏の婿養子の件、
名前を武氏としたも
はじめて知りました。

どの資料に載っているのか
学術的に教えてください。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/28(木) 12:57:12.33
信武か
0121日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/28(木) 13:05:38.30
>>117
の出典はWikipediaに
適当な推測を混ぜて
書いただけだな。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/29(金) 21:58:26.93
>>122
のサイトの人も書いてるように
徳川系図は嘘だらけなので
賀茂とか在原とか
名族につながるなんて
まともに考えること自体
おかしい。

松平一族が勢力を
拡大していく途中で
創作した嘘てのが定説だろ。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/30(土) 00:11:20.42
>>123
いや、そんなこと言ったらキリがないんだけど
一番可能性ありなのは、賀茂氏の出身だろう?ということ。
その火とも言っているだろう?
あと、通じの付け方なんかでも、推測しているのは、おもしろい。

だいたいだな、そこそこの地方の豪族に
わけのわからない男が婿養子で入れるわけなかろうということ。
そりゃ、その地方では、有力者同士が養子縁組するもんだよ。

あと、徳阿弥の伝承で、信武という名前で伝承が残っているのは、おもしろい。
親氏ではなく、信武でだ。
どちらかというと、こちらが本名だろう?と。
あるいは、松平家の養子に入ったので、信武に改称したとも推測できる。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2012/06/30(土) 00:18:18.51
陰陽道の賀茂氏だから、源氏よりも歴史が長い旧家だ。
しかしながら、源氏は平安末期に誕生した皇別氏族の名門。
陰陽道の賀茂氏は、
崇神時代(おそらく、卑弥呼ぐらいの時代)の大田田根子命から続く
古い家系だけど、中世の武家にとっては、何の得のない下級貴族。
そりゃ、賀茂家康よりも、源家康のほうが、官位任官でも圧倒的に有利でしょうにw
0126國學院大學 学生
垢版 |
2012/07/01(日) 13:22:05.41
この時代、身元不明な
武将が世に現れるのは
不思議なことではない。
時の将軍を殺し
東大寺を焼き討ちした
松永久秀も
また身元不明の武将であり、
四国の出身だとも、
京都西南郊の西岡の
商人だったともいう。


松平一族が現れたのも
この旧来の常識が
覆った特異な時代で
あったということを
理解して考えねばならない。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/01(日) 14:30:23.20
当時の西三河に賀茂氏の有力な一族は他に見当たらない。
また有力な賀茂社も見当たらない。
賀茂社の神領だったという説はある。
鴨郡の音から賀茂氏を
連想し、賀茂氏の流れと自称したのが真実だろう。

よって
松平氏が賀茂氏の流れというのは
かなりあやしい説だと
考えられる。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/01(日) 17:03:50.34
駿河大納言忠長に謝れ。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/02(月) 12:46:21.34
>>127
京都では陰陽道の名家だったけど
家康の先祖は、その中でも支流の家系で、松平郷に来る前は
天皇の宮中祭祀の時の酒造りを任されていた家系らしいし。
政治的には完全に弱い立場。

だから、豪族としての勢力は非常に弱く、
初期の松平氏は、あんな山奥の狭い地域で、酒造りの米をつくって
祭祀に使う酒造りに頑張っていた。

宗家をついだ松平太郎左衛門信広の家系なんて、ずっと田舎の庄屋みたいな存在だったし。
だから、賀茂氏とは三河で有力になるはずもなかった。

松平家が勢力を拡大するのは、岩津で分家した松平信光の家系のほう。
次男坊のほうが、平野にでていって、そこで勢力を拡大していった。
その時は、もう賀茂氏など名乗っていない。
なぜ、勢力を拡大できたかは、京都も関係が深かったのもある。
足利幕府の有力者だった伊勢氏の被官をしていたぐらいだし。
0130國學院大學 學生
垢版 |
2012/07/02(月) 18:14:24.69
>>124
>だいたいだな、そこそこの地方の豪族に
>わけのわからない男が婿養子で入れるわけなかろうということ。
>そりゃ、その地方では、有力者同士が養子縁組するもんだよ。



この認識は現代か
近世では妥当かもしれませんが
この混沌とした日本史上
でも特異な時代では
あまり妥当ではなく、
この時代の日本のダイナミックな
歴史の動きを取り逃がしてしまい
日本史を矮小化してしまいかねません。

先に挙げた松永久秀や
油売りから身を興したともいわれる
斉藤道三、針売りから
身を興したとも言われる
豊臣秀吉など
日本史上の有名人だけでも
この時代あたりの人物の出自、正体不明さは
際立っています。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/02(月) 19:04:53.21
>>117
江戸幕府将軍の母親ですら庶民出身者がいたんだ
ましてや三河の豪族の跡取り娘を放浪する男が寝取っても
不思議はない

婿入りでこそないが諸国を放浪していた秀吉は
清和源氏の流れと言われる浅野家の養女ねねの婿となり
同じく諸国を放浪したといわれる斎藤道三は
美濃源氏土岐氏の流れと言われる明智氏の婿になっている
0132日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/02(月) 19:47:00.48
ところでスレタイが
微妙に変。
スレタイだと代々の
松平太郎左右衛門家を
語るスレになるわけで
かつて存在した
「徳川の源流と三河十六松平家」
みたいな名前のスレのが
よかった。

スレ主の勉強不足が
スレタイににじみ出ていて
恥ずかしい。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/02(月) 20:03:44.53
やはりどこの馬の骨か判らない乞食坊主が徳川の始まりという事実からは、一歩も出られないのかppppu
0134國學院大學 學生
垢版 |
2012/07/02(月) 20:07:25.36
もっと当時の時代を
リアルにどっぷり
浸かって語って欲しい。
ネット検索以外の資料や
事実も出てこなければ
掲示板の意味もない。


漂泊の民、道々の者として流れ歩く徳阿弥。
この漂泊の民には
商人や手工業者、芸能民がいたが
徳阿弥は阿弥号と伝承から
連歌をする芸能民だったと考えられる。
彼らは各地や都の最新情報とその芸能から
旅先で厚遇を受けた。

またこの時代、
日本の各地域には
旅人を厚遇し、夜に
娘に伽をさせる風習が
あったことを忘れてはならない。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/02(月) 20:08:38.16
ちなみに俺の祖先は14世紀には藤原氏の親類になってるよ。
和歌は詠めないし文章もろくに書けないんだが、紫式部の血が入ってる。
松平氏は14世紀にやっと松平邑を興したばかりで歴史的に言えば新参だよな。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/02(月) 20:12:45.99
>>134
下手な擁護はやめとけ。芸能民はヒニンだぞ。全国の松平さんに怒られても知らんぞ。
0137國學院大學 學生
垢版 |
2012/07/02(月) 20:15:33.72
この『漂泊の民』、『風習』の二つの
当時の事情から松平太郎左衛門信重
のもとに諸国遍歴の
徳阿弥が入婿したことは
当時としては奇異なことではなく、
事実として充分にありえることである。
0138國學院大學 學生
垢版 |
2012/07/02(月) 20:25:26.12
当時、室町時代あたりに
創られたと推定される
木製の『松平親氏坐像』を見たことが
ある人はいるだろうか。
個人蔵のためなかなか
機会がないかもしれないが
端正なフェイスにギラリと光る
玉製の眼は、この人物の
異能異才をよく現している。

このイケメンと当時の最先端ポップカルチャー
たる連歌の才能に
田舎成金の太郎左衛門が
入れ込んでしまったのは
無理からぬことであり、
この「たらしこみ」の才こそ
じつはこの人物の最大の芸能であり才能であったのである。
0139國學院大學 學生
垢版 |
2012/07/02(月) 20:28:56.85
以上の書き込みは
ネット検索しても出て
こない貴重な記事であるが
2ちゃんねるのルールに
従い、その著作権を
2ちゃんねるに帰属せしむものであるが、
願わくば転載の際には
我が母校國學院大學の
名前とともに転載されたし。
0140日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/03(火) 02:13:53.41
>>131
男と女とでは全く異なる、この時代。
身分の高い男性が、庶民の女性を妾にすることはあっても
身分の高い女性が、庶民の男性と結婚することは、なかった。
身分の高い女性の結婚相手は、自分以上の身分の高さか
自分より身分が低くても、そこそこ家系がしっかりしたものしかダメだった。
だから、適当な相手がいない場合、生涯、独身も珍しくない。

松平家が清和源氏というのは偽称かもしれんが、
だからといって、名もなき家の者が婿養子に、はいれるわけがない。

松平家は、三河の松平郷という山奥のド田舎で庄屋をしていた一族で
その本家は、京都で陰陽道で有名な地祇系の賀茂氏で
その中でも支流の一族、宮中祭祀で使う酒作りをまかされていたのが、
三河に所領をもって、そこで松平を名乗るようになる。

長男の信広の太郎左衛門家は、ずっと山奥の松平郷の庄屋のような存在で続き、
一方、次男の信光のほうは、
分家して、平野部で出て戦国大名化し、その末裔が家康の一族たちである十八松平。

信光の後胤たちは、どの家系も戦国大名として戦力をふるったけど
信広の家系は、松平家の創成期のまま、田舎の庄屋風情として、細々と存続していた。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/03(火) 11:57:21.31
>>140
だから
なぜ木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は格上のねねと結婚できたの?
なぜ斎藤道三は格上の小見の方と結婚できたの?

「三河物語」に徳阿弥が放浪の末入り婿したことが書かれ
それが徳川家の起源として普通に受け入れられていたこと自体そういうことは普通にあったんだろ
徳阿弥が「我はこそ清和源氏の流れ・・・」と言えばそれが通ったかもしれんし
自称「落胤」などそれこそ腐るほどいただろうしね
0143日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/04(水) 10:21:39.65
>>142
実在の新田源氏である世良田有親の系譜はごまかせず
松平親氏を世良田有親の落とし子として系図を繋いだからだろ
0144國學院大學 學生
垢版 |
2012/07/04(水) 21:48:57.45
この近年発見されたA級資料を参照ください。

☆『松平氏由緒書』☆

「通読して、徳川家康の祖先松平氏発祥地である
松平町に伝わる口伝書に、
江戸時代の凡ての徳川家の歴史書に
定着している『新田源氏末裔説』の痕跡が全く見当たらぬことに驚いた。
しかも所蔵者は、
交代寄合旗本松平太郎左衛門の家老の家柄の子孫である。」
0145日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/05(木) 00:34:18.98
>>141
実際は、豊臣秀吉と斎藤道三の出自について
これまでの通説が疑わしいけどな。
両者の出世物語って、
身分が固定されていた徳川時代に増幅されたものだろうし。

秀吉の家系は、近江浅井氏の分家の尾張浅井氏の末流で、
宇多源氏の木下氏に婿に入ったのが、木下国吉。秀吉の曽祖父。
だからこそ、近江浅井氏が滅亡した時に、そこの所領を与えられたという説もある。

斎藤道三も親父は、松波左近将監基宗。
代々、北面の武士になっていた家系らしいしな。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/05(木) 15:00:55.68
秀吉の出自
ttp://www.kakeiken.com/report001.html#秀吉の出自
豊臣秀吉のルーツ
ttp://www.kakeiken.com/report001.html#豊臣秀吉のルーツ
0148日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/05(木) 21:43:31.00
徳阿弥は時宗の遊行僧で非人層出身説があるくらいだもん。
松平一族の団結力もそういう出自から来てるのかな。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/05(木) 21:54:49.33
>>143
蜂須賀だって源氏にしてんだから
松平も強引に源氏に繋げればいいんじゃね
信長だって 藤原氏と言ったり平氏と言ったり
0150日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/06(金) 04:38:11.38
>>147
松平氏は、大田田根子命を祖とする賀茂氏の末裔。
この家系の本家は、平安時代以降は、陰陽道の名家であり、
その中でも傍流で、祭祀の酒造りを任されたのが、三河の賀茂氏。

そんな名家だといっても、中世以降の貴族社会では、源平藤橘以外は
出世の可能性が低い。
とくに源氏と藤原氏か、そうではないかで出世の道が違ってくる。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/06(金) 04:48:54.23
織田信長の家系は、忌部氏な。
忌部氏の家系も複数系統があるが...
織田信長の忌部氏は、タカミムスビを祖とする忌部氏で、
その嫡流に近い家柄だったはず。
まつては、宮中祭祀において中臣氏と双璧をなす一族だったけど
その後、どんどん衰退していった家系だな。
ttp://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02122.htm

一方、徳川家康のほうは、大田田根子命を祖とする賀茂氏で
陰陽道系の賀茂氏。
ttp://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02106.htm#001

まあ、どちらも古代豪族の旧家なんだけど、
中世以降の社会では、源平藤とそれ以外では、雲泥の差の扱いだから。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/06(金) 17:01:28.86
>>150
松平って女系だろ?
親氏が松平に婿入りしたから家康の男系はそれ以前の松平とは違う。

松平が賀茂氏だというのも後世の創作らしい。
松平信光が名乗ってたらしいが。
親氏が源氏、その嫁が賀茂氏って名家を適当にくっつけたらしい。

0153日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/07(土) 09:13:12.63
>>152
親氏が松平に婿入りする以前は、
つまり、松平信重は、男系で見ると在原氏。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/15(日) 09:23:30.80
江戸時代に整備された
大名旗本の家系物語をガチで
信じてる信者はよそで語れ。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/21(土) 21:07:05.64
ろくな家系でもない徳川が血筋のいい戦国大名を、いたずらに世を乱したとして断罪するのは許せない。
大日本史を書いて南朝を正当化した光圀だって、結局は源氏政権を否定したかったんだろ。
追い出した佐竹は源氏だからな。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/25(水) 07:55:11.25
賀茂氏とか言ってるやつ
詳しく論証してみろ。
人名を挙げて。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/26(木) 20:50:06.55
源平藤原の戦国大名がやった戦は、言わば身内の頂点を決める決戦で骨肉の争いだ。
何で徳川のようなよそ者が上から目線で平定してやったとか自慢をするのか理解に苦しむし、不快で仕方がない。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/26(木) 21:43:32.70
544 :日本@名無史さん:2012/07/01(日) 07:38:28.22
>>542
地元のテレビ局にCBCというのがあるんだが
そこのニュース番組が、10年くらい前に番組内でミニ特集を組んだ事があって
松平家は奥三河で代々林業を営んできた富裕な家柄だと土地の老人がはっきりと言っていた
記憶違いでなければ

>奥三河には松平郷というところがあるらしい。
>現在は豊田市に属しているそうだが、司馬氏の「覇王の家」はそこを訪問したところから始まっている。
>山間部にあったこの地方では林業やひえ、あわなどによって生活していたが、
>松平家の始祖の親氏という人物が現れてから戦闘集団化していったという。
>この松平親氏は本来「ささら者」と呼ばれる階級のものだったらしい。
>旧名は徳阿弥と称し三河に流れ着いて奥三河の松平、
>西三河にそれぞれ自分の子供をつくりそれをまとめて軍団化していったという。
http://youyou8.cocolog-nifty.com/app/2011/04/post-d84f.html

奥三河には松平郷というところがあるらしい、じゃなくて、実際にあるんだけどねw
豊田を走り続けると、切り立った山壁が現れて、どんどん山っぽくなったところに松平郷はある
とんでもない山の中で、まさに奥三河といった雰囲気の場所(奥三河は信濃と接するので、どこも山)
またこの「山間部にあったこの地方では林業やひえ、あわなどによって生活していた」というのは
土地の古老達が今も語り継いでいる口伝で、作り話ではない
『松平親氏は本来「ささら者」と呼ばれる階級のものだった』というのも確か口伝のはず

まあ、隠された歴史、という奴ですね
0160日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/26(木) 21:44:02.51
561 :日本@名無史さん:2012/07/01(日) 23:23:28.95
>>560
不都合な史実を闇に葬るには最適のロジックだよね
徳川家の作り話なんか、奥三河や南信濃に残る落人伝承を利用したものでしかないのに


562 :日本@名無史さん:2012/07/01(日) 23:31:21.01
>>558
南信濃でも伊那郡は南北朝時代の戦地の一つで、落人伝承が残っている特殊な土地柄
古戦場なども残されてる
実際、信濃坂部には新田義貞の子とされる熊谷貞直が落ちのびて定住してる
つまり徳川家の「新田義貞の子孫」云々の家系創作話は、それらが根源になってるって事
あの辺は多分そのせいだろうがきちんとした史料が残ってないんだよ
触れられると徳川家に都合が悪いって事だろうけど、詳しい史料編纂がきちんと行われてない


563 :日本@名無史さん:2012/07/01(日) 23:45:31.89
親氏がささら者かどうかは別として、少なくとも徳川家が平民の家系だったのは、疑いの余地はないよ
秀吉と同じく、出自が国の古代豪族や武家ではない、そういう意味では本当に平民の家系だったと言える
第一、徳川家が本当に由緒正しい家系なら、その証拠が奥三河にきちんと残ってる
奥三河はとんでもない山の中だけど、旧家が普通に残ってる地域なのでね

俺は思うんだが、平民出の家系が征夷大将軍になって天下獲っちゃいけないのか?
ただこの話題は触れるとよくないようなので、やめるけどさ
(この辺の話に興味ある人は奥三河や伊那郡の歴史について調べてみるといいよ)
0161日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/26(木) 21:45:04.30
568 :日本@名無史さん:2012/07/03(火) 16:12:29.78
>>565
まあこの言い伝えを全否定するという事は何らかの動機があるものと思うので
これ以上は意味がないから避けるけど

一応、補足しておくとだね
徳川家がはっきりした由緒ある家系なら、奥三河にその旨が確実に伝わっているし、そういう文章も残されてる
あなたはきっと、奥三河がどんな場所だか全然知らないと思うし、だから言い伝えの信憑性がわからないのだろうが
あの山深くて人が暮らす事が難しい土地で、後から余所者が入り込んで武家として自立するなんてまず無理
ああいう場所では、どの土地も古くからの武家が治めていて、人間関係もガッチリ押さえてるので、付け入る隙自体がない
余所者が何も言わずに入ってきたら、古くから奥三河に土着した武家に潰されるよ
仮に余所から財力を持ち込んで武士化したなら、やはりその記録がきちんと残る(その場合は偽系図を作る必要性がない)
現にすぐ近くの信濃国新野を治めた小名・関盛春は伊勢平氏の出と出自が明らかになっている

下伊那郡の城 〜阿南町・下条村〜
http://www.geocities.jp/sisin9monryu/nagano.simoinagun.html
>日差城
>城を築いたのは伊勢平氏の末裔・関盛春で応仁の乱で住処を失い各地を流浪して行き着いた新野の地で民に家柄を見込まれて領主になりました。

松平家は、松平郷で古くから林業を行っており、林業等で徐々に財力を蓄え、勢力圏を少しずつ広げて武士化したという言い伝えの方が、現実味がある
0162日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/26(木) 21:45:45.28
570 :日本@名無史さん:2012/07/03(火) 23:47:59.10
>>568
いや、言い伝えってものの信憑性なんてそんなものって程度の意味であって、特に動機があるわけじゃないよ。
松平家の祖先が古くから由緒のある名家だったとは思わないさ。

ただ、他の値域の場合も含めて、
>仮に余所から財力を持ち込んで武士化したなら、やはりその記録がきちんと残る(その場合は偽系図を作る必要性がない)
という想定には反対だね。

後世に名前が伝わらないような下級官人が土着して武士化する例は想定異常に多いと思うけど、
その多くは明白な記録なんて残ってないだろう。

特に疑わしいのは、
>林業等で徐々に財力を蓄え、勢力圏を少しずつ広げて武士化した
あたりかな。
ホントは財力を蓄えたことによるのではなく、動乱に便乗して成り上がったんだろうって意味。

三河は室町時代中期から一色氏と細川氏の争いがあったし、それ以前にもそれなりの動乱はあったからね。
たまたま当時の松平家当主が軍事的に有能だったとかで、
うまく勝ち馬に乗れたとかそんなとこじゃないの。

周囲の武士の多くが一色方についてるなかで、いち早く細川方に転身して勝ち抜いたとか。
0163日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/26(木) 21:48:32.29
>>158
>源平藤原の戦国大名がやった戦は

戦国大名の出自なんて怪しいもんだよ
ニセ源氏、ニセ平氏、ニセ藤原氏の山であって、成り上がり者達による狂乱の宴に過ぎない
その中でも最高に胡散臭い部類に入るのが徳川氏だったってだけの話で
0164日本@名無史さん
垢版 |
2012/08/14(火) 15:52:31.29
>>158
>>源平藤原
もしかして源平藤橘?
それとも橘姓を自称する戦国大名が少ないからそういう呼び方があるのか
0166日本@名無史さん
垢版 |
2012/08/18(土) 21:13:58.32
徳川家重って将棋に興味があったの?
著作もあるってwikipediaではないwikiの一ヶ所だけ
記載を見つけたけど、
将棋に関する著作もあるってかいてあるけど
タイトルも出てこないんだよね
その子供の家治の話は有名だけど家重の話は有名なの?
0167日本@名無史さん
垢版 |
2012/08/19(日) 17:18:21.76
ttp://gline.zapto.org/log/read.php/dataroom/1324189253/l50
0169日本@名無史さん
垢版 |
2012/08/28(火) 22:59:53.31
松平氏の出自は、古代貴族の地祇系の賀茂氏。
その中でも傍流の傍流で、三河の松平で庄屋やっていた家系。
ここには途中、荒原氏系の荒尾家から信重が養子に入ったりしているので
松平家の家系は混乱している。
本家の太郎左衛門家は、山間の庄屋のままだったけど
分家の信光の子孫が平野部に出て、戦国大名化した。
家康は、その信光に子孫。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2012/09/09(日) 17:43:02.30
文明9年10月17日(14770100170) 3条
【綱文】 松平道慶、其買得せる京都の屋敷地を安堵せんことを、幕府に請ふ、
【区分】 大日本史料
0174日本@名無史さん
垢版 |
2012/09/09(日) 18:03:28.13
松平道慶=松平益親

寛政譜によると。

0176日本@名無史さん
垢版 |
2012/09/18(火) 16:25:21.05
ttp://nishiokikaku.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-cc3f.html
0178日本@名無史さん
垢版 |
2012/09/23(日) 20:02:08.28
むしろ家康嫡男である信康の血筋を探るのが賢明だろう
つまり小笠原
0181176
垢版 |
2012/10/02(火) 16:24:02.89
ttp://nishiokikaku.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-9151.html
0189日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/28(日) 17:46:59.32
ttp://logsoku.com/thread/toro.2ch.net/sfx/1338291767/l50
ttp://logsoku.com/thread/ikura.2ch.net/dataroom/1324189253/l50
0190日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/30(火) 13:40:45.62
昨日の夕方関西テレビ、アンタデアンカー特集で大阪の全国の渡辺さんの氏祖、御伽草紙の源綱よりの武家屋敷解体で特集組まれてた。
二年前の所有者他界して、土地の税金未納2億に達していて、税務署が今の所有者に一日課税延滞金だけで
2、30万と言われ、解体以来し、近隣住民や市が気付いた時には、時既に遅しで解体開始・・
前の所有者のは、子も居なかったので、こんな事に成ったそうだ・・。
屋敷の文化財は、解体前に、市か府が保管保全したそうだ。
渡辺氏なのだから、早く、気付いていれば、2億なんて直ぐ、集まったろうに・・
分家の俺だけでも知ってれば、カンパ呼びかけでも出来たのに・・心痛に無念ッ
0191日本@名無史さん
垢版 |
2012/12/17(月) 16:17:32.66
フランコ「まさに夢のカードってやつだな、俺もこいつは楽しみだったぜ」
アクセル「お互いまだまだ全力出し切っていねえな、次までまた力つけねえとな」
0192日本@名無史さん
垢版 |
2012/12/18(火) 17:07:24.38
香緋「ふーん、テコンドーねえ、まあ多少は修行にはなるかな」
チェ・リム「子供だと思ったらなかなかやるな、よし、今日からおまえもマブダチだ」
0193日本@名無史さん
垢版 |
2012/12/24(月) 17:33:49.70
溝口誠「ワシがいない間好き放題やってくれたのう、ここらでシメたるわい」
城所剛「ナニ言うとる、そちらこそ人のナワバリ入りおって、吹き飛ばしたるわい」

溝口誠「ナニワ最強、いんや世界最強の座はワレごときにゃ渡さんでえ」
0194日本@名無史さん
垢版 |
2012/12/30(日) 12:32:37.82
嵐山長官「やぁ星川君、久しぶりだね。お子さん達は元気かね」
星川博士「実は近々一家で宇宙開拓の旅にでる計画でして、住居にもなる宇宙船を設計しています。
そこでご相談なんですが、以前私が地球平和守備隊に所属していた時に設計したサンバルカンロボの
技術を一部流用したいのですが…」
嵐山「ああ、平和利用なら大歓迎だよ…しかし、君なら大丈夫だろうが気をつけてくれたまえ。
過去にジャガーバルカンの設計図が異星人に盗まれ星間戦争に使われたという未確認情報もあるからな」
星川「わかりました」
0195日本@名無史さん
垢版 |
2012/12/31(月) 11:47:05.93
藤堂香澄「やはり柔道も力が必要なのでしょうか」
大門五郎「いや、十平衛先生に比べればワシもまだ児戯に等しい」
藤堂香澄「目標があることはいいことですね、私に力添えできるでしょうか」
大門五郎「君にも柔の素質がある。この大門、及ばずながら見てみよう」
0196 【1779円】 【だん吉】
垢版 |
2013/01/01(火) 12:11:26.75
ユリ「まずはあたしで腕試しかな、とりあえずはお願いしますね」
香澄「ええ、あなたとならばいい修行が出来そうですね」
0197日本@名無史さん
垢版 |
2013/02/01(金) 00:59:25.97
松平氏が源氏を意識したのは、
初代の賀茂親氏(入り婿に入って、松平信武)の義理の兄弟に
新田源氏の世良田泰親がいたから。
二人とも、在原氏系・荒尾氏出身の松平信重に婿養子に入った。
徳川氏につながる松平氏は、賀茂親氏(松平信武)の男系子孫。

世良田泰親の子孫ではないが、家督相続の過程で、
親氏→泰親→信光といった。
信光は親氏(信武)の次男だったので、分家した叔父(といっても血がつながっていない)の
松平泰親(世良田泰親)の養子に入り相続した。
親氏(信武)の後を継承したのは長男の信広でこれが太郎左衛門家になった。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2013/02/04(月) 12:02:44.71
>>99
徳阿弥の話は「三河物語」が出典のはず。
逗留した幡豆郡吉良の土豪松平家で宿を求めた徳阿弥はこの家の娘に手を出し、
若君を産ませた。これが松平泰親である。
また、この徳阿弥はこれ以前に、別の家(酒井家)でも娘に手を出して男子を産ませ、
松平家重臣酒井家の祖・酒井広親となったという。

家康はこの徳阿弥を新田源氏得川有親の子として朝廷に申請し、源氏を称した。
0199180
垢版 |
2013/02/12(火) 12:17:11.27
://toro.2ch.net/test/read.cgi/sfx/1355398022/618-
0200日本@名無史さん
垢版 |
2013/02/12(火) 19:16:20.29
松平和泉守源信光(1404〜1488)
・和泉守、左京亮、従五位下
・室は一色氏の娘
・政所執事伊勢氏の被官、京都に出仕
・弟が将軍足利義教の正室(日野裏松家)の被官

万松寺(愛知県岡崎市滝町松谷30) 滝山寺寺領内
1440年、夢のお告げに従い、曹洞宗の僧侶であった龍沢和尚に請願して七堂伽藍様式の寺を創建
本尊の台座に、慈応山万松寺本尊 永享十二年 松平和泉守源信光


滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)年表
1140年  藤原季範(源頼朝の祖父)、夫婦(夫人は源行遠の娘)で蓮華寺造営、仏性灯油料として額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進
1151年  藤原範忠(源頼朝の母の兄)、滝山寺の2度目の本堂を建替
1159年  藤原範忠(源頼朝の母の兄)、大檀那として滝山寺の四至を定める
1201年  寛伝(源頼朝の従兄弟、藤原範忠の息)頼朝公の3回忌に惣持禅院を創建。本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩
1222年  足利義氏(3代目足利氏当主)、滝山寺の3度目の本堂を建替
1226年  高階惟行(大平惟行)、坂上惟伴と連署で額田郡阿知波郷(愛知県岡崎市阿知波)の田8反を惣持禅院に寄進、惟行は高階惟長(源頼朝家来、三河国菅生郷郷司)の孫
1230年代 藤原俊経(初代伊勢氏・伊勢俊継の父)法名願仏、持仏堂を造営、古市場御油畠(愛知県豊田市古市場)を寄進、弟の相模法橋円辰とその子の大進法眼増恵も滝山寺僧侶
1255年  足利義継(初代奥州吉良氏)、故足利義氏(3代目足利氏当主)の法華堂造営、初代伊勢氏・伊勢俊継は田畠3町3段、初代斯波氏・足利家氏は碧海荘の所領を寄進
1257年  足利頼氏(5代目足利氏当主)、一切経蔵の経会料所造営、額田郡阿知波郷(愛知県岡崎市阿知波)の所領を寄進
1284年  足利貞氏(7代目足利氏当主)、故足利家時(6代目足利氏当主)の如法堂造営
1301年  足利貞氏(7代目足利氏当主)、正観坊跡大門屋敷大門屋敷(愛知県岡崎市)を寄進
1330年代 貞円(高師泰・高師直の弟)が大勧進として僧侶
1380年代 足利義満(3代目足利将軍)、滝山寺の4度目の本堂を建替
1440年  松平和泉守源信光、万松寺を創建
0203日本@名無史さん
垢版 |
2013/03/16(土) 17:36:32.15
ttp://bokete.jp/odai/165721
ttp://ameblo.jp/ultra-turezure/image-10405036873-10331888159.html
0205日本@名無史さん
垢版 |
2013/04/05(金) 21:24:43.94
徳川
0206日本@名無史さん
垢版 |
2013/04/07(日) 20:27:38.75
家康は松平宗家を秀康に譲り、自ら分家し徳川家を創設したといえる。
徳川家は秀忠が継承していく。
その後も松平の名は徳川別姓としても使用されてるからややこしくなってるが、
0207日本@名無史さん
垢版 |
2013/04/08(月) 11:34:20.32
松平三河守家と徳川大納言家な
この場合松平三河守家の嫡流は津山になる
0209日本@名無史さん
垢版 |
2013/04/23(火) 12:28:28.16
松平嫡流って太郎左衛門家? 越前家?会津家?のうちどれ?というスレッド?
0210日本@名無史さん
垢版 |
2013/04/25(木) 17:48:01.44
>251 : クルクルラボ
CURUS CURUS LAB
0211日本@名無史さん
垢版 |
2013/04/25(木) 19:12:12.73
松平嫡流なら
太郎左右衛門家だろ。

東京に行ったらしいが。
0212600
垢版 |
2013/04/28(日) 17:50:03.89
>296 : はじめてのチュウ
I will give you all my love
be in love with you
>509 : らき☆すた
LUCKY☆STAR
>520 : らぶドル
LOVELY IDOL
0213日本@名無史さん
垢版 |
2013/05/20(月) 22:50:23.38
松平郷の松平家は戦国期何してたの?
0214日本@名無史さん
垢版 |
2013/05/21(火) 00:26:38.34
半農半武士
0215日本@名無史さん
垢版 |
2013/06/07(金) 10:04:04.07
<ち サン  魔んション 第3仙台  観察日記>

俺の4面の住人
0時30に仲間wwに爆音ださせ
その文句をいってる俺がうるさいと
井戸端会議

そういうふうに想像しております^^
いいイメージは皆無
0216日本@名無史さん
垢版 |
2013/06/10(月) 07:02:22.89
徳川将軍家で世良田を名乗りしものがあると言う
0217日本@名無史さん
垢版 |
2013/06/10(月) 21:52:25.52
だれだ?
0219日本@名無史さん
垢版 |
2013/06/17(月) 09:28:25.81
仲間の糞袋君らに爆音ドアの音をださせておいて
わざとらしい演技をしだした
つけめんがおかしな味のラーメン屋がすんでいる
ち  さん   魔  んしょん第3  仙台

注意した直後
げらげら 糞袋少年とわらっていたくせにwww
0220日本@名無史さん
垢版 |
2013/06/24(月) 22:13:15.25
安祥松平家なら
家康→信康→家長(万千代)

なお万千代のソースは系譜纂要、家長はソース不明
0223日本@名無史さん
垢版 |
2013/06/28(金) 14:41:54.39
文亀元年酉辛八月十六日

        次第不同

丸根美作守  家勝(花押)
田原孫次郎  家光(花押)
上平左衛門大夫  親堅(花押)
岩津源五  光則(花押)
岩津大膳入道  常蓮(花押)
岩津弥九郎  長勝(花押)
岩津弥四郎  信守(花押)
岩津八郎五郎  親勝(花押)
岡崎左馬允  親貞(花押)
長沢七郎  親清(花押)
形原左近将監  貞光(花押)
牧内右京進  忠高(花押)
竹谷弥七郎  秀信(花押)
岡崎六郎  公親(花押)
細川次郎  親世(花押)
岩津源三  算則(花押
0224日本@名無史さん
垢版 |
2013/06/29(土) 01:53:01.26
>>211
松平一族にとっての「本家」でしかなく、「嫡流」とは違うんでは。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2013/06/29(土) 21:47:13.20
本家と惣領家が違うのはわかるが、嫡流と本家は同義なんじゃね?
0226日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
嫡流は血胤としての本流
本家、宗家は一族を代表する惣領権を得た家
これを越前松平で言えば、
津山が嫡流
福井が宗家
0231日本@名無史さん
垢版 |
2013/12/08(日) 10:01:35.10
>>198
>逗留した幡豆郡吉良の土豪松平家で宿を求めた徳阿弥は・・・・・・・・・・・
幡豆郡?寄宿したのは、賀茂郡松平郷の土豪松平家じゃなかったか?
しかし時宗の僧が寄宿先の女にを孕ませて、婿におさまるというのは、
ありふれた話なのか?倫理的にどうなんだ?
0232日本@名無史さん
垢版 |
2014/03/10(月) 14:16:51.90
>>231
作り話するなら、もう少しロマンティックなのにすればいいのに
無学な田舎豪族だから、野良犬の交尾みたいな話しか作れんかったwww
どこの馬の骨か分からん山賊のような血筋
0233日本@名無史さん
垢版 |
2014/07/31(木) 16:48:50.86
>26

松平宗家というのは、正月ドラマの妄想ね

嫡流という言葉は、昔でいえばあまたいる夫人の中の正室から生まれた子供のことだろう。
家康の場合には、正室の概念が築山殿以外にはないから、信康以外は嫡流に値しない。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/16(日) 20:17:24.17
もっとこのあたり調べた方がいいな
0236日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/16(日) 20:40:05.90
は?
0237日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/16(日) 20:52:29.52
>>231>>232
実際松平郷なんて三河のなんの変哲もない小さな村だぞw
そこの土豪程度の勢力なんて知れたもんだから、
そこに流れ者のやりチンの時宗の僧が娘と当主を手玉にとって入りこむなんてことは
あっても不思議でもなんでもねえんじゃねえの?w
酒井も家でも娘孕まして乗っ取ったとか、全くの嘘でこんな不名誉な伝承を作りあげるとは思えんw
0238日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/16(日) 20:54:21.57
ほ?
0239日本@名無史さん
垢版 |
2015/06/11(木) 21:24:00.54
>松平郷


■三河国高橋荘・高橋新荘

豊田市全域は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した


・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?


・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる
0240日本@名無史さん
垢版 |
2015/06/11(木) 22:27:32.20
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0241日本@名無史さん
垢版 |
2015/06/11(木) 22:28:11.84
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0242日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/14(金) 01:27:43.24
あげ
0243日本@名無史さん
垢版 |
2016/12/17(土) 23:58:15.90
あげ
0244日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/02(木) 20:42:51.00
あげ
0245日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/18(土) 23:27:47.43
あげ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況