香川敬三総合
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余り語られないこの人、幕末は何をやっていたのか、今一つわかっていない部分もあります。 香川敬三を良く知っていたであろう面々に、
大場一貫斎、原市之進、野村彝之介、岩間金平、長谷川作十郎、梅沢孫太郎、吉成恒次郎、山口徳之進といった人たちがいるのですが、
かれらとも敬三は別行動を取っていた印象もあり、興味深い人物ですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%B7%9D%E6%95%AC%E4%B8%89
香川 敬三(かがわ けいぞう、天保12年11月15日(1841年12月27日) - 大正4年(1915年)3月18日)は、水戸藩出身の勤皇志士。
東山道軍総督府大軍監・皇后宮大夫・皇太后宮大夫・枢密顧問官。諱は広安。旧姓は蓮田。幼名は、了介または徳松。旧名、鯉沼 伊織(こいぬま いおり)。
変名は、小林彦次郎。明治になり香川広安、のちに敬三に改名。士族だったが、華族に編入される。爵位制度ができると子爵となり、のちに伯爵位。
従一位勲一等旭日桐花大綬章。生年は天保10年(1839年)という説もある。
経歴
下伊勢畑(現在の常陸大宮市)の水戸藩郷士蓮田重右衛門孝定・袖の3男に生まれる。次兄には、蓮田東三(安政3年(1856年)にハリス要撃を計画するも発覚し入獄死)がいる。
上伊勢畑(常陸大宮市)の吉田神社の神官である鯉沼意信(綱彦)の養子となる。
水戸の野口郷校(時雍館)や藤田東湖の私塾で学び、安政6年(1859年)に起きた勅書奉還事件では、神官同盟の1人として、現在の茨城町長岡に集まった長岡勢に加わった。
翌、万延元年(1860年)には同志とともに攘夷を訴えるため、薩摩藩に駆け込み、これがもとで、水戸藩江戸屋敷において謹慎処分を受ける。
文久3年(1863年)、藩主徳川慶篤に従って神官同盟として上洛し、諸藩の志士達と交流を深めた。一時、一橋慶喜(徳川慶喜)の側近となったが、急進的であったため罷免された(京都本圀寺党に加わったと言われる)。
のち、京都にて柳の図子党として活躍。慶応元年(1865年)、公家岩倉具視と親しくなる。膳所事件に関わり、志士井上謙三宅に逃げたとされる。
慶応3年(1867年)、中岡慎太郎率いる陸援隊の副隊長格となる。同年11月、中岡が暗殺されると、今度は鷲尾隆聚の率いる鷲尾隊の副隊長格として翌月、高野山付近で義軍を挙げ、代官や諸藩と戦った。
その際、死を覚悟した香川は郷里に髪を送り、現在も上伊勢畑には「鯉沼伊織埋髪塔」が現存する。 戊辰戦争が勃発すると、岩倉具視の子である具定を総督とする東山道軍総督府大軍監として進軍。江戸より軍を率いて宇都宮へ出立。
途中、流山で甲陽鎮撫隊(新選組)陣屋を襲って、局長近藤勇を出頭させたと言われている。小軍監有馬藤太の証言によると、当時香川は旗役を務めていただけだったとも言われるが、
岡田家文書の発見によって、通説通り東山道軍総督府大軍監であったことが明らかになった。宇都宮城の戦いでは、大鳥圭介・土方歳三らに敗れ城を奪われ、救援を得て再び奪還している。その後、会津まで転戦した。
のち兵部権大丞となるが、軍務は不向きであるとして異動を申し出る。宮内省に移り、宮内権大丞、宮内少丞等を歴任。岩倉使節団への随行を希望したが選にもれ、宮内省を退官し自費で随行する。
のちに宮内省理事官随行心得として使節団の正式な一員となる。
のちに再び宮内少丞、宮内大丞、宮内大書記官、皇后宮大夫、有栖川宮閑院宮家政取締、皇太后宮亮、宮内少輔、華族局長、久宮御養育主任、主殿頭、諸陵頭、主馬頭、閑院宮別当、大膳大夫、
東伏見宮御用掛、大膳頭、議定官、枢密顧問官、皇太后宮大夫など、宮内官僚として要職を歴任した。
明治になると、ともに活動して落命した同志のための名誉回復や、遺族へ訪問するなど、謝罪のため各地を歴訪したという。浪士組に参加した粕谷新五郎の実家、
野口(現常陸大宮市)では粕谷家で戦死した者についての碑文を遺している。
大正天皇の生誕の際の御用掛や結婚の際には、御婚儀御用掛長を務めた。徳川慶喜の公爵授与に尽力し、徳川慶喜の娘を大正天皇の后候補として推した。
佐々木高行と下田歌子主導の皇女教育の方針に異議のあった明治天皇・昭憲皇后夫妻の意思で、敬三がその牽制役を担ったこともあった。伯爵となってからも、徳川家の連枝には席を譲ったという。
また日露戦争の際には、皇后の夢に坂本龍馬が出たという喧伝を行い、国民を鼓舞させた。
長女である香川志保子も、権掌侍取扱となり「呉竹の内侍」と言われた。明治33年(1900年)には東宮職を兼務している。英国に留学経験があり、通訳や服飾担当を務めた。 孫には、掌典次長を務めた香川朝男がいる。 敬三age水戸本圀寺党について詳しい方おられませんか? 水戸藩史料集に一分と、酒泉直滞京日記という資料で少しは内実が見えるんですが。 実は子孫に芸能人が多い。
舞踏家の岩村和雄(孫)(三女雪子の子)
ダンサーの岩村信雄(曾孫)(和雄の子)
歌手の梅木マリ(曾孫)(次男櫻男の孫)
アイドルの斎藤眞利奈(来孫)(次男桜雄の玄孫) 風見鶏のようにも言われたらしいけど、門閥の応援も得られない立場ながら
ずっと明治天皇・昭憲皇太后の最側近で地位を維持して一生を終えたんだから、
生き残る術を知っている人だったんだろう。
ちょっと興味深いのは、手紙類がきちんと保管されていて、皇学館大学に膨大
な資料が眠っていること。明治天皇のご落胤説など過去出たけれど、それらのす
べてを知る立場にいたのがこの人だ。そんな情報が公になったらすごい…。 新撰組立ち上げ人の一人、粕谷新五郎の同志で徳川慶喜の側近も勤め、
後に岩倉具視の配下となり慶喜の知恵袋・原市之進と岩倉の密談の仲介もしたという。
王政復古後、慶喜の罪状減免を本圀寺派と共に嘆願していた。
その影響もあったのか岩倉は薩摩の斬首要求に対し慶喜の処断には
一等を減じて謹慎を主張していた。
征東軍の指揮を執り近藤勇斬首を強硬に主張したのは坂本暗殺の容疑だけでなく
芹沢暗殺の一件にも含むものがあったという。
ある意味幕末の末端から裏の政局まで関わった男。
敬三と吉成、山口正定の係わり合いってよく分かりませんか? 坂本龍馬などの多くの志士の人物評が出ている、
「草莽姓名録」香川敬三筆(霊山歴史館)というの
が公開されてたそうですね。出版物などで、各人物
評が読めるものってあるんでしたっけ?
香川敬三の娘の雪子の婿が岩村俊武海軍中将(岩村通俊男爵の二男)。
陸援隊人脈で嫁いだって感じだな。 青山霊園
http://www.aoyamareien.jp/aoyama/aoyama.html
代表的な歴史上の人物に名を連ねているね。
それほどか?という気もするけど、墓の立地が良いからかな?
宮中晩餐会だの外人向けの行事に関わっていたからか外人墓地の前に墓がある。 香川敬三の二女の文子は、山井兼文(羽林家・子爵・貴族院議員)に嫁いだけれど、
その伯母の山井榮子が典侍として英照皇太后に仕えているのですね。
香川敬三も英照皇太后の皇太后宮亮をしていたので、仕事上の仲間の家どうしの結婚のような感じがします。
でも、香川家にとっては、公家・大名などとの初めての婚姻関係ということで政治的に重要だったように思います。
一方山井家の方は、岩倉具視の信頼厚く宮内官僚としてだんだん力をつけてきた香川敬三に期待したというところなのでしょうか? 下伊勢畑村
江戸期〜明治22年の村名。常陸国茨城郡のうち。はじめ佐竹氏領,のち慶長14年からは水戸藩領。村高は,寛永12年「水戸領郷高帳」757石余(ほか新田29石余),「元禄郷帳」1,088石余,「天保郷帳」1,261石余,「旧高簿」394石余。
「水府志料」によれば,鷲子【とりのこ】組に属し,戸数133,村の規模は東西32町・南北27町,那珂川の対岸野口との間に渡しがあった。
鎮守は吉田神社。井殿山神社は,もと寺であったものを,天保13年に寺号を廃して神社に改めたもの。
相川の上流に相川温泉があり,元禄11年に徳川光圀が来遊。
吉田神社境内には光圀が飢饉に備えて稗を貯蔵させたお稗倉がある。
安永7年下伊勢畑騒動が起こり,組頭3人が追放,百姓6人が入牢,名主1人・百姓4人が閉門,百姓70人が押込めという処分を受ける。
幕末期尊攘運動に活躍した人物に,蓮田善九郎・蓮田東三・香川敬三(鯉沼伊織)3兄弟がいる。
吉田神社の東側鯉沼家の墓地内に鯉沼伊織埋髪塔がある。
香川敬三が,慶応3年新政府軍参加に際し髪を切り,辞世の句を添えて錫高野の神官富田某に託したものを,敬三の死後に埋葬したもの。
明治4年茨城県,同11年東茨城郡に所属。幕末期に吉田神社の神官片岡吉彦が開いた家塾が,明治5年の学制発布以後下伊勢畑小学校となる。
明治22年伊勢畑村の大字となる。 坂の上の雲に岩村団次郎(俊武)登場。日露戦で活躍。
一方その頃、舅は皇后の夢の話か? 理事官(りじかん)
使節に同行した専門調査官です。政府の各省から派遣され、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国で分野別に実地調査をおこない、その報告を帰国後『理事功程』にまとめ提出しました。
>宮内省理事官随行心得
追加で宮内省からの理事官随行心得になったってことは、せっかくいるんだったら、王室の実態をちゃんとレポートして欲しいってことか。 皇后の坂本龍馬の夢の話って、香川敬三や田中光顕主導説と、本当に皇后主導説とあるみたいだけど、実際どっちなんでしょうか? 明治時代は天皇・皇后は神であった時代であるから、
皇后が神功皇后の如く予言を聞くという神話は
あらまほしい出来事だったでしょうね。
つまり、皇后を神を崇める皇后周辺と、幕末の志士を讃える勢力が
双方合致した結果であったと。
当時の新聞に載った話であるから、宮内庁もお墨付きの内容だったのでしょう。 香川敬三は、
皇后を崇める皇后周辺(皇后宮大夫)でもあり、
幕末の志士を讃える勢力(元陸援隊士)でもあるから、
自分の中で双方合致だな。 香川敬三は膳所城事件の首謀者らしいけど、
家茂の殺害に成功してたらどうなってたんだろう。
少し早く慶喜が将軍になっただけ? ■三十八浪士薩摩藩意見書提出事件
斉昭の死後、激派が次々に行動を起した。
万延元年(1860)8月、長岡勢残党の竹内百太郎・岩谷敬一郎・
林忠左衛門(のち天狗争乱に参加)、吉成恒次郎、鯉沼伊織(香川
敬三・のち陸援隊)ら激派38人が、「天下浪士」と称して江戸の薩
摩藩邸に駆け込み、攘夷の先鋒を務めたいとする意見書を提出した。
しかし、薩摩藩邸は彼らを拘留し、翌年7月、水戸藩邸に引渡した。 「昭憲皇太后と赤十字展」が明治神宮文化館でやっているとか。
両陛下も来たらしいけど、行った人いますか?
香川敬三は、岩倉とも伊藤博文とも近く、岩倉使節団に同行するなど、
欧化政策へも理解のあった宮内官僚ですが、いわゆる「機務六条」の政府
と宮中の対立の際は、どのような立場にあったかご存知の方いますか?
明治20年に子爵になってますが、その際の何某かの功績のためなんで
しょうか?あるいは政府側の懐柔策でしょうか? 【配役】
飯田 徹 六人の暗殺者(1955・日活)
三原 純 天皇・皇后と日清戦争(1958・新東宝)
松本朝夫(37) 新選組血風録(1965・NET)
田畑猛雄(32) 燃えよ剣(1970・NET)
平泉 征(33) 新選組始末記(1977・TBS)
松本きょうじ(50) 新選組!(2004・NHK) 香川は賞典録関係の仕事についてたんだな。
皇軍の大軍監をしてたけど、慶喜の側近でもあったっていう
絶妙な立ち位置にいた香川に任せるのがベターと思ったんかな。
http://kaken.nii.ac.jp/d/r/70072428.en.html 皇學館大の国史学科で、香川の史料をつかった研究会があるらしいけど、行ったことある人いますか? 新撰組の近藤の斬首に関与したという一方で、
その新撰組の初期の幹部だった粕谷新五郎の追悼の碑文を書いたという複雑ぶり
粕谷は香川と同郷というだけじゃなく、近藤との仲もあまり良くなかったのでは。 新島八重で大河ドラマが作れるくらいなら、敬三でもドラマを作れるんじゃないかな。
(最近ヒールっぽい人物に光を当てるスタンスも目立ってるしね。
裏のテーマは、旧皇族の復帰議論もあり、旧皇族に光を当てる作品になりそうなことか。)
徳川斉昭・藤田東湖との出会い。
徳川慶喜との関わり。
新選組との対決。
中岡慎太郎・坂本龍馬との出会い。
岩倉具視とのタッグ。
近藤勇捕縛。
宇都宮城の戦い(土方歳三・大鳥圭介登場)
明治天皇・昭憲皇太后とのタッグ。
明治維新で激変する宮中の様子。(香川志保子登場)
岩倉使節団。
伊藤博文・山県有朋などの首脳との関わり。
華族制度の設立と伏見宮系各宮家の設立。
徳川慶喜の名誉回復。
皇后の夢の一件。(岩村団次郎登場) 敬三大河、見てみたいですねえ。茨城県が全力でバックアップしたら面白そうです。 神官出身ということで芹沢鴨もだせるかもしれないし。
伊東甲子太郎は井上謙三の関係で出せますね。 幕末のみと藩は最初から最後まで分裂して内紛状態でまとまらなかったから。 芹沢鴨と敬三って、実際の絡みがあったと思わせる状況ってあったんでしたっけ?
同じ事件に関わったとか、同じ塾で学んだとか、すごく近くに住んでたとか…。 香川敬三は、明治天皇の5女(久宮静子内親王)の養育担当者
だった。
その生母の園祥子典侍は、キーとなる人物の一人だろう。
この内親王は亡くなってしまうけど、同じ園祥子から生まれた
のが、「あの」竹田氏の先祖の竹田宮妃昌子内親王(6女)ら
宮妃となった4姉妹。
昭憲皇太后崩御後、敬三は貞明皇后の皇后宮大夫に。園典侍
は、貞明皇后の女官長になっており、同じ貞明皇后に仕えてい
る。 >芹沢鴨と敬三って、実際の絡みがあったと思わせる状況ってあったんでしたっけ
香川が本圀寺に詰めていた頃、芹沢が新撰組の筆頭局長だったので面識はあったかも。 >>山本復一関係資料の発見報道。
岩倉具定と徳川慶喜のやり取りが発見されましたね。
岩倉公実記の作成にも香川が関わってたし、人脈的にも香川がかなり関わってた人なんだろうな。 香川敬三邸は、皇后宮大夫だけあってさすがに御所の近くだな。
ttp://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/1511/Default.aspx 明治日本のナイチンゲールたち 世界を救い続ける赤十字「昭憲皇太后基金」の100年(扶桑社・今泉宜子著)
の中に、「父娘で担った皇室外交 香川志保子と父敬三」という章があった。
親子で渡欧歴のある志保子と敬三が、皇室をどのように変えていこうとしたのか興味深い。 同じ人物でも幕末維新の志士というといいイメージがあるが、
華族とか宮廷官僚というとよくないイメージがある。 >>59
それなら花燃ゆの「文」は、吉田松蔭の妹とか久坂玄瑞の妻でもあるけれど、楫取素彦男爵夫人の話だね。
楫取は男爵で宮中顧問官で、貞宮多喜子内親王御養育主任(明治天皇第十皇女)。
一方香川は伯爵で枢密顧問官で、久宮静子内親王御養育主任(明治天皇第五皇女)。
イメージ的には楫取も香川も大差無い。 敬三は私塾、日新館の門人でもある
藤田小四郎や桜田・坂下浪士も門人
影の日銀と云われた川崎金融財閥の川崎定徳も
表の日銀も慶喜の家来渋沢栄一
結構繋がっている
因みに渋沢栄一の後継者は渋沢敬三、これは偶然? 北島以登子、山川操、香川志保子は、女性キャリアの先駆けっぽくて興味深い。
ttp://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-entry-3420.html ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています