【幸隆〜】真田氏について語る【〜近現代】
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・真田幸隆(幸綱)から近現代の話までOKです。
・少しでも真田氏と関係ある話題なら脱線もOKです。
・映画、ドラマ、小説、講談、軍記物等の話も歓迎、子孫ネタも歓迎です。 信利は10万石の松代藩に対抗するため、寛文2年(1662年)より領内総検地を断行し、
表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打出し幕府に報告した(沼田藩改易後、幕
府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった)。また、沼田城を修築して
五層の大天守閣を立て、江戸の藩邸も松代藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装したた
め、領民は重税を強いられ多数の餓死者を出すなど、ますます窮乏していった。 杉木茂左衛門
1681年、沼田領77村の農民のために直訴を決意。大老酒井忠清を訪ねるが門前払いにあ
う。茂左衛門は知恵をめぐらし、輪王寺の紋箱に入れた訴状をわざと茶屋に置き忘れ、
茶屋の主人に届けさせた。主人は将軍徳川綱吉に訴状を届け、沼田藩主真田信利は改易となった。
1686年、杉木茂左衛門は直訴の罪で妻子もろとも磔刑に処された。実は赦免の使者が出
ていたのだが、使者が到着する前に刑が執行されてしまったと言われている。 矢沢頼綱がいなければ昌幸は沼田を取れなかっただろうし、
取れていたとしても第一次上田合戦で北条に取り返えされていたと思う。
一族の年長者として、当主である甥の昌幸を良く補佐し、
その子の信幸、信繁兄弟の後見として歴史に名を残す武将に育て上げた手腕は見事だと思う。
自らの子である頼康も、昌幸、信之の右腕として活躍したし。
矢沢頼綱あってこその真田三代だと思う。 名胡桃事件があってもなくても豊臣秀吉は遅かれ早かれ北条は潰しただろうなー 信玄好きとしては、信繁より幸隆、昌幸のが好きだなぁ。信繁も信玄の弟を尊敬してて名をつけたんだよね昌幸が
信玄・謙信に天才と言われた幸隆格好よすぎ。信玄に、我が眼と言われた昌幸も格好よすぎ
真田の旗の六紋銭はあの世の駄賃という意味と生涯、信玄公の恩顧を忘れぬ為と言う意味もある
真田一族の仇敵であった武田家だが、若き日の信玄の才能を見抜き、真田家の復興をたくし、忠誠を誓い仕えた幸隆は真田家の名を残した中興の祖 大坂の陣で豊臣方には総大将レベルがいないよな。そういう連中は徳川につくか関ヶ原で没落しているし。 しいて上げれば長宗我部盛親。
しかし、かれを総大将とするのには反対する連中が多そうだな。
能力的なことでなくて、身分というか地位というか格というか豊臣政権との
かかわりにおいてというか。 武田信繁は昌幸が武人として最も尊敬していた武将であった。
武田信繁は兄・信玄をよく補佐していた名将であったが、川中島の合戦の折
窮地に立たされた信玄を守るために、信玄の影武者となり敵陣に突っ込み、
壮絶な死を遂げている。信玄と容姿・背格好ともによく似ていたため、合戦の
時には信玄の影武者として出陣していた。日ごろから、「兄の身代わりに
なって死ねれば本望」と話していたという。
昌幸は武田信玄・信繁兄弟の固い絆に感銘を受けており、
嫡男の信幸の後に生まれた男子にはためらうことなく
信繁とつけたのである。 真田信繁の人柄
「左衛門佐は、ものごと柔和忍辱、物静かで、言葉少なく、怒り腹立つことがなかった。」
とは信繁の兄・信幸の言葉である。
真田信繁というと、大坂の陣での家康陣への突撃が印象に強いために、
勇猛な将というイメージがある。
しかし、柔和で心やさしい人物であったようである。
また、大坂に入城した時もいろいろと周りに気を配っている。
日常は穏やかでありながら、いざという時は武勇を発揮する。
その性格が多くの人から信頼を集め、大坂の陣では、まとまりの
無い筈の浪人衆を見事にまとめたのであろう。
信繁にはカリスマ的な要素があったのである。
大坂夏の陣直前の手紙では、その必死の覚悟を述べているが、
悲壮がったりしておらず、淡々と述べられている。
その手紙は信繁の性格をよく表している。 真田昌幸が存命だったとしても
昌幸「城を出て戦うべきです」
淀殿「秀頼公は誰が守るのじゃ?戦線が伸びきっておる上に少なき守備兵の中で関東方に攻め込まれたら何とする! その上大坂城は太閤殿下が築きし(ry」 昌幸も軍団長レベルでの活躍を見てみたかったな。
部隊長としては十分過ぎるくらい有能なのはわかるが 謙信がワシに8千の軍勢を与えれば、この世のどんな軍でも打ち破ると言ってる
んだが、大坂の陣の信繁は、15万の軍に対して家康の目前までいってる。
急造の兵でなくて、越後兵クラスの洗練があれば家康を討ち取れていたのだろうか
謙信いわく、手・足の如く動かせる兵はせいぜい7、8千くらいのもんだということ
なんだろうけど。信繁の鬼神の突撃で、この言葉にも信憑性があるんではと思ってしまう。 >>111
籠城は兵力で劣りながらも援軍が来るのを耐え、援軍が来たら挟撃に持ち込む戦術
更に当時の情勢を見ると、援軍に当たる勢力が無いのと、豊臣の勝利条件が、
家康を倒して権威が消えたときに、家康の権威で集まった兵力と同等の兵力(豊臣方)の存在に対し
外様勢が秀忠に絶対の忠義を尽くして消耗戦を繰り広げるよりも、一端終結して群雄割拠の再スタートに落ち着かせるものと思われる
昌幸が大阪に入城していたなら、全面的な野戦に持ち込むよりも
大阪+昌幸の難攻不落の威光を持って、戦わずして家康との和睦になった可能性もある
開戦しても、大砲を撃ち込まれたくらいでは、淀を叱責し降伏は起こらず
籠城しながら隙を突いての不意打ちが、幸村よりも上手く運んだと思う
和睦による不穏分子がのさばりながらも徳川の治世か
家康討ち死による数十年太平の世が遅れたか
どちらにしても冬の陣で結果が出て、夏の陣は起こらない >>107-108
織田信雄か有楽斎が総大将に付く噂あったんみたいだけど
彼らなら一応亡き信長の親族てことで多少の威光はあったんじゃ 織田頼長
元和元年(1615年)4月、大坂夏の陣に際し、大坂城を退去する。一説には、豊臣家の
総大将の地位を望んだものの、叶わなかったためという。大坂城退去後は京都に隠遁
し、茶の湯(現在の茶道)に専念して有楽流を継承する。頼長は豊臣家の部将であった
ため、長益は領地を分与することを控え、幕府も領地を与えず、大名に列することはなかったようである。 真田信繁と徳川家康の違いは、楠木正成と足利尊氏の違いと似たようなものだ。
ゲリラ隊長と軍司令官に必要な資質は必ずしも一緒ではない。
人の将たる者と、将の将たる者の違いではなかろうか。 大坂の陣での大坂方に足りなかったもの
淀殿への恫喝役 >>118
豊臣方総大将って一応豊臣秀頼だよね。
大叔父の織田信長は14歳で家督を継いだというのに
秀頼は23歳にもなって子供2人もいて何してたの? 信繁は1570年生まれ説がある
理由は上杉に人質に出されるとき、元服前で
19歳で元服してないのはおかしいだろうということらしい
まだ弁丸を名乗ってたことを証明する書状があるそうな 信綱も昌輝も長篠で討死してなかったら昌幸並に活躍してそうだ 実際は武勇ばかりの信繁より、
信之の方が苦労したんだろうなあ。
それでも憎みあってたわけじゃなく,
きちんと兄弟として情もあったようだし。
互いにやるべきことをやったんだろうなあ。 >>54
譜代になれたのは、小松姫のお陰だな。
ただ老中になれたのは、当人が養子で将軍の曾孫だったからだろうね。 真田家の血筋は回りまわって伊達政宗・片倉景綱・真田信之の血を一応引いてる 真田信綱
通称:源太左衛門尉
生年:天文六年
没年:天正三年五月二十一日、長篠城にて戦死、享年39
追号:信綱寺殿大室道也大居士
葬地:小県郡横尾村大柏山信綱禅寺
父:真田幸隆
母:河原氏(丹波守藤原隆正妹)
室:於北(村上一門井上新左衛門養女高梨政頼妹・花翁妙栄大姉・天正八年二月十日薨)
子:与右衛門―五郎兵衛(松平昌家家中)―以後越前福井藩に伝承
子:女(信之室・信吉母)
真田昌輝
通称・別名:兵部丞・信輝
生年:
没年:天正三年五月二十一日、長篠城にて戦死
追号:風山良薫大禅定門
葬地:小県郡横尾村大柏山信綱禅寺
父:真田幸隆
母:信綱に同じ
室:
子:信武(五郎兵衛)―七之助―以後越前福井藩に伝承?
出典は「信綱寺殿御事蹟稿」 信綱は家督継いでる天正2年閏11月11日付「蓮華童子院宛所領安堵状」と
元亀4年(天正元年)12月22日付「河原綱家宛一字書出」と、信綱が残した書状が2通あるが
幸隆が死んですぐ家臣の河原又次郎に一字拝領の判物を発給してるから
すぐ継いだものと推測
ちなみに1574年は八月に改元してるが武田はそのまま元亀年号を使ってる
織田に対する明確な敵対表明 天正年号については、元亀四年七月二十一日に信長が元号勘文を奏上し
七月二十七日に天正改元の詔が発せられ
翌二十八日に改元された。永禄から元亀への改元の時も天正を奏上しているから
信長にとっては足掛け四年でようやく達成された意義のある元号
ということで「天正」は信長主体で実施された元号なので
武田は政治的意味合いで天正の使用を拒否しているわけ >>129
>>125は信之と信繁(→仙台真田家や秋田真田家)の書き間違えでは?
若しくは
真田家の血筋は回りまわって伊達政宗・片倉景綱・真田信之の血を一応引いてる
↓
真田家の血筋は回りまわって伊達政宗・片倉景綱の血を一応引いてる??? 現代まで続く信之の血筋は女系のみ
信繁の血筋は某家に姉夫婦の息子が養子に入った時点で女系のみとなった(しかし江戸時代に何度か養子が入っているので、果たして血筋は???) 北条が沼田や名胡桃などを欲しがる。しかし、昌幸は”北条のようなチンカス
どもに沼田等をやれるかー”と激怒。以後にらみ合い
↓
徳川は北条に沼田保証、真田にはそんなことないと二枚舌外交
(昌幸の弟が家康の家臣だったので多少の融通はできた)
というのも秀吉との戦いがあったため、信濃どころではない
↓
小牧・長久手がある程度、ケリがついたが、北条・真田は
徳川がくるのを待ってたかのように待機
↓
結果、大きい北条を取り、徳川が上田へ、北条が沼田へ
同時侵攻を画策
↓
黙ってやられるのを見過ごすわけにいかない昌幸は上杉、
そしてその先の秀吉を見据えて(当時は上杉も秀吉の傘下)同盟
信繁を差し出す
↓
ところが家康病気で上田は8千ほどで駿府を出撃
↓
昌幸、北条を含めて撃退 >>132続き
家康激怒で、自身も出陣を決断するが上杉も背後にいるし、
秀吉も尾張・三河への進入も考えられたから、断念
↓
家康も秀吉の傘下に収まるで、真田との和睦に応じる
↓
(秀吉なんかに頭は下げんと)基地外ぶってた北条よりも、
戦って勝った真田に相通じるモノを感じて稲姫(当時)を信幸の
嫁にすることで同盟をはかる。
↓
(それでも)北条は沼田を欲しがる
↓
できるだけ無血で終わらせたい秀吉・家康は昌幸に
沼田をあげるように要求、昌幸は認める(代わりの土地をその代わりにもらう)
↓
でも北条は秀吉には頭は下げない、さらに名胡桃城を要求
↓
(秀吉の調略説もあるが)北条、名胡桃を攻撃
↓
同盟を結んでた家康までも堪忍袋の緒が切れて、日本全国vs北条の戦いになる
↓
結果、北条家滅亡、結果名胡桃も沼田も取り返し 沼田城って結構攻め辛い城だったろうって思う
上杉謙信も冬に越後に帰れないときは沼田城に居たって話もある
だから徳川vs上田城(昌幸)、北条の大軍vs沼田城(矢沢頼綱)のとき
守り抜けたんだろうと思う >>81
一説によると、秀次自害→側妾斬首の一連の騒動の中で、三成、昌幸、佐竹義宣、北の政所が、秀次の幼い姫(隆清院とその姉)の助命運動をしたとか なぜ家康は、大坂城に近い九度山に、徳川家に危険な親子(昌幸・信繁)を蟄居させたのだろう。 幸隆には
嫡男信綱を主君として
次男昌輝を猛将に
三男武藤喜兵衛(昌幸)を軍師にして
三本の矢の如く真田家を盛り立てていこうという
ビジョンがあったんだろうな。 真田太平記(ドラマ)
主家武田家滅亡
真田昌幸「弟御は徳川につけと・・・」
矢沢頼綱「信尹殿が・・・」
真田信尹の登場はなかった。この台詞での登場一回のみだった。 信繁は一般的には過大評価されていて、2chでは過小評価だな。
大坂城防衛の大綱は、昌幸から授かっていたとはいえ、
真田丸の配置やら、また徳川方を数部隊も全滅させた斉射、
家康本陣を後退させた突撃など、戦術的にみて普通に優れている。
人間的にもなんとなく誠実さがうかがえる。
ただ、祖父と父が桁外れの鬼才だったためなんとなく凡庸にみえてしまうし、
昌幸のように、戦術面での勝利を戦略的勝利にもつなげるという計算ができなかった。
信繁の戦術は局地的な勝利にとどまり、それが大局に影響を及ぼすことがなかった。
それが昌幸との大きな違いで、評価が低くなってしまう原因。 真田って信玄に組しないで独自でやっていった方が覇権争いに食い込めそうなのにね しかし家康は、信繁が配流先に妻を同行するのをよく認めたなぁ。
子を産ませて自分を討つため決起しかねないって思わなかったのかな。、
宇喜多のように遠い離島に流せばまず心配ないけど、大坂に近い九度山でしょ。
実際大助が生まれてそうなった。
信之や北政所、母方の実家とかに引き取られなかったのかね。 昌幸正室の出自に関しては諸説あり、『沼田記』に見られる遠山右馬助娘説が可能性と
して考えられている。また、宇多頼忠の娘説のほか、『寒松院殿御事蹟稿』など昌幸正
室を公家の菊亭晴季の娘とし、長女から次男信繁までの母とする説があるが、婚姻時期
が武藤家の養子となる以前の小姓時代に想定されるため否定され、晴季には在京奉公時
の旧主信虎の娘が嫁いでいるため、旧主家との姻戚を示すための意図であったとも考え
られている。柴辻俊六『真田昌幸』、寺島隆史「昌幸の妻妾」『真田昌幸のすべて』 長篠の戦いは(そもそも無かった3段討ちや
武田軍は無謀にも特攻、全部鉄砲で死亡。
はたまた酷いのになると1万5千で上洛とかあって)
情報がいろいろ錯綜してるけど
昌輝が織田の柵を1つ突破したが、銃などで討死に
で、撤退命令により、信長軍の執拗な追撃にあい、勝頼をかばって信綱討死に
昌幸は説1・軍師のような立場なので勝頼の側にいたから助かった。
説2・病気ということで長篠には参戦してない。
説3・説2の追加だが、武藤家からは誰もでないのは申し訳ないから
9歳の信幸が代わりに参戦。(当然、後方待機で助かった)
ようは足利高氏が新田の鎌倉攻めのさいに息子を形だけでも
(新田だけに手柄を独占させないため)参戦させたような感じで。 第一次上田合戦における昌幸は評価できるけど、第二次上田合戦は昌幸が凄いってよりも秀忠がミスしただけな気がする。
第一次は徳川軍を撃退したけど、更なる援軍等がくる可能性があったからね。(家康が病に倒れて、何とか和睦に持ち込めたが)
第二次の昌幸の目的は時間稼ぎで、秀忠としても上田城を落す必要性はないし(前回、失敗したことを考えれば)5千程度の押さえを置いて素通りすればいいのに。 真田は、山家郷と称する村里の一角にある。狭まった谷の奥には、霊峰四阿山が
裾野を引いているのが望まれ、その山を源流に、清冽な流れの神川が、山家郷を
潤している。山家郷という雅な古名に表象されるような雰囲気が、この郷を包んでいる。
真田氏は、真田幸隆以前については確実な名が伝えられておらず、事績として伝
わるものもない。真田氏が海野氏の嫡流と称したことにより、本当の先祖の方が
抹殺されてしまったためともいわれている。『寛政重修諸家譜』では真田幸隆が
真田氏の祖としているが、鎌倉中頃に海野氏から分かれたとされており、室町時
代中期にも真田の名がいくつかの記録に残っているため、古くから真田に根づい
ていた一族であるという説が濃厚であり、真田幸隆が真田氏の祖であるという説
は現在では否定されている。
真田郷は古代の官牧地域であり、経営には大伴氏があたっていたとされており、
滋野氏が入部する前から根を張っていたという説もある。
享保16年(1731年)に江戸藩邸が類焼したとき、多くの記録や文書が焼失し
たこともあり、さらに他大名に比べて家史の編纂事業が大幅に遅れていたことも
あって、真田氏に関する史料はあまりにも貧弱であり、幕末にやっと家臣河原綱
徳らが命により編纂した『真田家御事蹟稿』ができあがるが、『綱徳注記』によ
れば、すでに関連史料の多くが散逸してしまっていたという。『真田家文書』
『群馬県史』『信濃史料』『新編信濃史料叢書』など、近年真田氏の研究が進む
につれて、江戸期の編纂物に頼ってきた真田氏の歴史が見直されてきている。 真田源太郎 *1390〜*1450年
永享10年(1438年)の結城合戦に、真田源太郎、真田源五郎、真田源六郎らの名が
見られることから、真田氏は真田幸隆以前より真田の地に土着していたことが明らかと
なった。応永7年(1400年)の大塔合戦にも真田(実田)の名が見られる。 安房守(安房)、伊豆守(伊豆、豆州)、左衛門佐、薩摩守、主計頭、清州侍従、弾正少弼、但馬、
長門守、治部少輔(治部)、刑部少輔(刑部)、大和守、三河守、武蔵守、美濃守、佐渡守、右府、
修理、木工頭、左京大夫、越前守、左近将監etc.
官職名をふんだんに使った真田太平記は名作 尾張家といえば、飛鳥時代までさかのぼれる、藤原家と肩を並べる名族である。
たかだか戦国大名の九男が名乗ってよい姓ではない。
その伝でいえば、真田家という豪族は源経基よりずっと前からあり、
それは河内の渡辺家や紀伊の鈴木家のように、血縁集団ではない。
それが大伴、海野、禰津などの豪族から婿や嫁を一人貰えば、
全員がその後裔を名乗るのも、織田、豊臣、徳川らと同様である。
幸隆の父親もそのような真田庄の半農半武の男だったのだろう。
つまり、何が言いたいかというと、
もし真田アサミが真田幸隆の子孫を称しても、何の差支えもないということだ。 昌幸と幸村については、その評価事跡がほとんど徳川とかぶっていて、結局のところ、"あの家康相手に"というのが根本にある。
家康嫌いの真田好きにとっては、そこが苦しい部分だ。
あと、真田家歴代最大版図を築き、上信にまたがる滋野領国、滋野姓海野氏嫡流真田家の夢、幸隆の夢を実現したのは真田信之であった。
関ヶ原前の犬伏以降も、三成や景勝は沼田経由で書状をやりとり(必ず沼田越しにするよう指示)していて、それらの書状は無事届いている。
とても興味深い事実で、幸隆以来の生き残り精神発揮、昌幸・信幸父子の深謀遠慮が見て取れる。
松代は、真田資料館が真田一色だったな。
海津城はしょぼかったし・・・・大本営の洞穴が松代では一番の見所だったと思う。 埼玉の忍城は真田に攻められながらも落城しなかった。
総大将は真田ではなく石田三成だが。 >>153
真田宝物館のこと?
そりゃ、当時の真田家当主の真田幸治氏(戦前は伯爵)が当時の松代町に真田家伝来のものを寄贈したんだから真田一色にきまってるがな
幸治氏は戦時中は松代に疎開していて、地元の旧制中学を卒業している
幸治氏の親父の幸正氏も、民間に払い下げられていた松代城の一部を買い戻して遊園地として開放しているし、維新後も松代と関りを持ち続けているよね
松代城は10万石クラスの大名の居城としてはしょぼいのは認める
信州で言えば松代藩以下の石高の藩の居城だった、松本、上田、小諸、諏訪の方が城としては立派だったと思う 信之は子や孫の教育には失敗した気がする
信綱、昌輝、昌幸、信尹を育てた幸隆の方が偉い。弟(頼綱)も立派だったし 幸隆が武田に仕官したのが河越夜戦あたりとかもう少し遅いってのが結構見るけど
昌輝が岩尾城で生まれていることを考えたら身重な夫人を歩かせたにしても
遅くとも天文十二年には武田に仕えてるはずだと思う 松代藩は幕末期において実石はどれくらいのものだったの?
戌の満水のあと、千曲川の河道を変えてからは大規模な水害もなくなって石高は増えてもいいようなもんだけど
新田藩として埴科藩が復活してれば面白かったんだが
でも、分知してやる男子がいなかったか・・・ 先祖は、清和天皇の皇子の貞元親王。
この皇子が関東に下り滋野の姓を名乗った。
その滋野氏の子孫が海野、祢津、望月。
ちなみに木曽義仲に仕えてた海野幸親は幸隆の父の先祖。
幸隆は最初海野幸隆という名だったが、武田信虎と村上に真田郷を追われ、
再起を願い武田晴信に仕えることを決めた時
故郷の真田の姓に変えた。
でも何の文献か忘れたけど、それよりもっと以前の文献に、
「実田」の名があり、それが実田=真田ではないかとも言われてる。 紀州藩初代の頼宣は信之を尊敬していて、よく信之を紀州邸に招いていたそうだ。
で、信之が格上の頼宣を訪ねる場合は、門の前で輿を降りるのが礼儀だったが
高齢の信之に配慮し、頼宣は玄関先まで輿で入るのを許していたそうだ。
頼宣の嫡男で2代藩主となる光貞に初めて甲冑を着させる儀式の際、兜の緒を締めたのも信之。
こういう縁もあり、頼宣の二男で西条藩初代の松平頼純の娘は、松代藩4代藩主真田信弘の正室となっている。
つまり、8代将軍の吉宗と信弘の正室は従兄弟同士。また、松代藩8代藩主真田幸貫は吉宗の曾孫。 >>159
その説は昔の通説では? 今は幸綱は海野氏説、矢沢氏説、元々真田氏説とか色々あってよくわかってないはず 幸綱の「幸」は海野家の通字である「幸」、
「綱」は棟綱の「綱」、
で、嫡男に与えるとしたら普通は「幸」?「綱」?
信綱の「信」は晴信からの偏諱だと思う 滋野氏が源氏というのは諏訪氏や木曽氏が源氏だというレベルでは? 真田太平記での信之の表現は感動・感心した。
昌幸・幸村のように派手な意地と野心は通さなかったけど、
水面下で家名を残すためにどれだけ辛抱し知恵を巡らせたのかが
伺える。
というわけで池波最高 第二次上田合戦
秀忠は昌幸の嫡男・信幸に命じて、まずは無難に昌幸に対して開城を求める。
老練な昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹する。
秀忠は数日を空しく費やした後で昌幸の真意を知り激怒、上田城攻略を決意したとされる。
数日時間を稼いだ時点で目的は達成している。
戦は徳川方が仕掛けたもの。
真田昌幸としてはもう時間は稼げたのだから、ぶっちゃけ素通りされてもよかったんじゃないか。
3万8千の大軍を食い止めて決戦に参加させなかったのだから(これは結果的に、だけど)
もし関が原で西軍が勝っていたら莫大な恩賞が貰えただろうに。 真田信之辞世の句 「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり 」 毛利勝永が奮戦したのはスゲーと思うよ
もっと評価されてもいい、彼が主力部隊と
五分に渡り合ったからこその信繁の家康本陣突撃
しかし、当初想定していた連携作戦が破たんしたのも
毛利隊の突出が原因とも言われている
まあ、信繁が立てた作戦がはまったとしても、
歴史が変わるほどにはなってない気がする しかし信繁公も、自分の巡り会わせた人生を生きたい様に生きて死んだだけなのに、勝手に其れを高く評価されたり低く評価されたり…。
“悲劇の英雄”に認定されたかと思えば、逆に“戦国最大の過大評価”と言われたり…。
大坂城内と同じで心が休まりませんなぁ。 信繁の評価は、大坂城に集まった浪人達を短期間でまとめ上げた手腕だよ。
家康本陣に特攻をかけたことは事実だが、江戸以降の脚色が一騎当千の武将像となってしまった。
「背は低く、白髪で、前歯が欠けていた」が実像 幸隆については、いろいろな説がある。棟綱の子・孫・娘婿とか。
最近有力視されているのは、棟綱の娘が真田氏に嫁いで産んだという説だと思う。 『真田家系図』
棟綱の子
『寛政重修諸家譜』
棟綱-幸義-幸隆(棟綱の孫)
『真武内伝』
棟綱の子、幸義と幸隆は兄弟
『浅羽本信州滋野三家系図』
鎌倉時代に幸春が真田。故に幸隆から始まったものではない。
『良泉寺矢沢系図』
棟綱の娘が真田頼昌に嫁ぎ、その子が幸隆(棟綱の孫)
『白鳥神社石和家海野系図』
良泉寺矢沢系図と似ている。幸隆は棟綱の娘の子(棟綱の孫)
『飯島家滋野正統家系図』
棟綱の娘が幸隆に嫁した(娘婿) 真田幸村の二男・大八を祖とする仙台真田家も現当主の爺さんまでは男系だったが、
ここで男系が絶え、姉夫婦の子が養子に入り、その子が現当主。
それ以前の問題として仙台真田家の江戸時代の系図が怪しい 大塔合戦に参加した「実田」氏、
結城合戦に参加した「真田源太・源五・源六」
海野氏から分かれた「真田幸春」
結局、幸綱へ繋がる正確な系譜は分かっていない訳で、
そうである以上、幸綱以降、真田氏が主張する海野氏嫡流を
真田氏の系統として語るのが自然かと。 武田家における幸隆の地位は外様(先方衆)
だけど城番を任されるなど実際の扱いは譜代に近い
信玄が出家すると自分も出家したように信玄との個人的な繋がりも伺える 大坂冬の陣のあと、4ヶ月の間に小山田壱岐守宛(妻は村松殿で左衛門佐の姉)
に出した真田左衛門佐の書状は2通残っています。
一通は、壱岐守の長男小山田之友が冬の陣に参戦していたが(当然東軍)、この
家臣が帰国の際に信繁を訪ねて、故郷の姉へ差し出す手紙の飛脚を務めた時のも
のです。
もう一通は信繁とその手紙に対する小山田家からの見舞い状が届けられて、その
返事として信繁が書いたものです。
最初の手紙は「思いがけなく戦となり、さぞかしけしからぬ事とお思いでしょう。
無事戦は終わり、私は死なずにすみました。お目にかかって是非お話ししたいこ
とがあります。(中略)近況を詳しく申し上げたいのですが、使いの者が急いで
いますので、いずれ機会がございましたら、また手紙など差し上げたいと思いま
す。」といった内容で、姉夫婦を始め、松代の真田家に迷惑をかけた事を詫び、
また会いたいですねと言っています。
ところが2ヶ月後の返事では「遠いところお使者とお手紙を賜り、忝なく思いま
す。私の身上は殿様の寵愛一通りではありませんが、何かと気遣いの多いことで
す。一日一日明日をも知れぬ暮らしを過ごしています。(中略)何かと承りたい
事もございますが、定めない浮き世ゆえ、一日先のことは分かりかねます。何
とぞ私ごときは、どうか浮き世に生きている者とはおぼしめし下さいますな。」
と、完全に遺書のような内容となっています。
和平成立直後はそれなりに喜んでいたのでしょうが、その後二ヶ月で死を覚悟し
たのでしょう。 かわいそうなのは、このとき信繁宛にこの手紙を届けた小山田家の使者。
信繁の手紙には追伸として「御使者が少々取り乱しており、取り急ぎ
このように一紙にしたためました」と断り書きが書かれている。
その時の信繁の周りは、使者がガタガタブルブル取り乱すような状況。
使者としては早々に立ち去りたくて、信繁にゆっくりと手紙を書く時間
を与えなかった訳だね。 慶長5年(1600年)の関ヶ原での敗戦報告(9月中旬)〜上田没収(開城)の12月12日まで昌幸・信繁親子は何してたんだろう 系図の整合と年代を考えて。
棟綱は幸綱の祖父ではなく伯父か舅またはその両方くらいが落とし処だと思う。
幸義は幸綱の義兄あたりで落ち着く感じで。 >>173
信繁の子、大助が片倉家に匿われて、片倉守信と名乗り仙台藩士となる。
1712年に真田を名乗るようになるが、男系は絶えて
(本家からの養子で途中一時男系が復活するが)女系で幕末を迎える。 武田家滅亡後、昌幸は自国の領民と滅亡した武田の旧臣達の為に
身の振り方を考えていたのである。
徳川から見れば信用なら無い奴でも
家臣、領民から見れば、「英断できる」トップ。
信頼されていなければ上田城で死んでいただろう。-
第一次上田合戦では領民が支援してくれなかったら、ひねり潰されていたのは確実だから。 ■昌幸時代の真田家家臣団概要
●譜代(幸隆・信綱の代からの家臣)
矢沢・常田・河原・春原・宮下・深井・矢野・丸山
●旧武田給人
大熊・浦野・海野・鎌原・池田
●吾妻衆
湯本・折田・唐沢・一場
●沼田衆
中沢・森下・田村
●寄騎衆(沼田攻略の際につけられた寄騎)
藤田・金子・恩田・渡辺・発地
●小県郡土豪(小県郡統一で臣従)
禰津・望月・室賀・出浦・丸子 ・長男
地場産業の経営者であり、見事に会社の土台を作り上げた偉大な人物である。
全国的な知名度は低い(除く財界)が知る人ぞ知る人物であった。
・次男
重役として勤務していた会社が突如倒産したのち、兄からの仕送りなどを頼って、十数年間にわたりニート生活を送っていたが、
ある日、フィールズ賞受賞の知らせが届く。その知らせと同時に死去し、全国を驚かせた。 真田氏の本姓は海野氏若しくは滋野氏。
もちろん清和源氏とは全く関係ない。祖とされる貞保親王は実在しない。
畏らく諏訪氏と同じく神官か、または安曇氏・小岩嶽氏と似た家系かも 島田 秀平(しまだ しゅうへい、1977年12月5日 - )は、日本のタレント、お笑い芸人、占い師。
先祖に真田信繁に仕えた島田太郎兵衛がおり、島田で9代目である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E7%A7%80%E5%B9%B3 >>185
いつ信之が会社の土台作るようなことしたんだよ、自分で親父捨てて徳川に付いたの?
弟がいなきゃもっと知名度低い人物を知る人ぞ知るとは言いません 真田信之は通説や真田太平記等とは違い、秀忠の下でも譜代格の大名としてむし
ろ優遇されていた。
(真田家自身は、正之の入ったことにより急拡大した保科家との、旧武田閥の中
での競争意識があったようだが)
観光面
真田っていうと西軍のヒーローって認識で広まってるし、そういうのを求めて上
田等にやって来る人もいるだろうから、どうしても徳川的なるものがまとわりつ
いてくる真田信之は観光面で扱いに困るのかもしれない。 家康移封の際に小笠原・諏訪・木曽といった面々は関東に領地替えとなったが、
真田だけは領地替えにならず、小県を安堵され更に吾妻・沼田を与えられた。
これは本来の滋野氏の領国であり、秀吉が滋野氏嫡流として本願地を真田に与えた事を意味する。
また、上田城からは金箔瓦や菊紋の瓦が出土されているが、
これは秀吉の許可がなければ出来ない事で、
真田家が特別な位置付けをされていた事が伺える。 昌幸の側近は参謀のような立場じゃあないよ
仮にそうだとすると高坂山県とかも一時期参謀だったってことになる 信繁は断片的な史料とか見ると、どうも秀頼の馬廻りみたいなことしてたっぽいんだよなあ。
華々しく戦った他の牢人衆と、ちょっと役割が違った感じ。
上田市なんかにしたら「真田信繁は大坂の陣では実際には何やってたか良くわからない人です」
なんて事にしたら大河にできないからなw 後藤基次の近習、長沢九郎兵衛の証言によると
真田丸は「真田と長宗我部で半分ずつ受け持っていた」という。 ・大坂の陣における信繁
信繁は昌幸の後継として元10万石大名待遇で
牢人衆の中でも大軍を率いるノウハウを持つ数少ない武将として
元20万石の長宗我部と元7万石の毛利とともに特別待遇を受けたとのこと
信繁自身はすかんぴんだが豊臣家が優遇してどんどん与力を付けてくれたわけだ
・大阪の陣の真田信繁の旗印は総赤に金線
http://www.interq.or.jp/red/yukimura/sanada/gunki.html
・真田氏の「信」は武田晴信からの偏諱由来
・幸隆(幸綱)、まだやっているのか?という話題↓
https://twitter.com/kurmacf/status/179058158399012866 六連銭の由来は、水島の戦いで幸広が戦死し、
その後、子の幸氏の代から使われた物だというのが
真田家文書である「御書上」にある。
これが正しいかどうかは定かじゃないけど、
1435年に記された「長倉追罰記」に海野一族の羽田氏が
六連銭を使用していたとあるので、
この頃には既に海野氏の家紋として使われていたようだね。
六連銭は六道銭で、幸綱が六道のいずれに落ちても構わないという
覚悟から六連銭を用いたという逸話は確かにあるけど、後付けだろうね。
ちなみに幸綱使用と伝わる六連銭の旗指物が残っているので、
昌幸が使い始めたってのは違う。 真田丸正面には、越前・松平忠直、彦根・井伊直孝、仙台・伊達政宗、伊勢・藤堂高虎、その他十余藩数万の大軍が布陣していたが、その中から、加賀・前田利常の軍一万四千が、主力となって総寄せが開始された。 松代
http://www2.pf-x.net/~sanraku/shinano03/images/0015.htm
http://www2.pf-x.net/~sanraku/shinano03/images/0016.htm
http://www2.pf-x.net/~sanraku/shinano03/images/0017.htm
http://www2.pf-x.net/~sanraku/shinano03/images/0018.htm
http://www2.pf-x.net/~sanraku/shinano03/images/0019.htm
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