【半年歴】春秋暦を語ろう【二倍年暦】
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西暦554年(皇紀1214年)、欽明天皇の時代に歴学者の交代という形で中国歴が
既に導入されていることがわかりました。雄略天皇、継体天皇あたりで導入されたと
噂される中国歴(1年が約365日)の前に使用されていた古代日本の歴、中国や半島と
の年代のズレや長命な古代天皇を説明するために有効な春秋暦(1年が約183日)を
話し合いましょう。 >>117
>応神天皇の時代は西暦528年から543年までなので、まったく矛盾はなくなる。
応神天皇の治世を528年〜543年まで引き下げるのは無理スジ 仏教伝来が538年(法王帝説)552年(日本書紀)だから
応神朝をそんな時代まで下げるのはありえない >>136 >>137
仏教伝来は宣化3年(法王帝説)または欽明13年(日本書紀)ですよ
>>116の一覧表で確認してみてください
半年暦では宣化3年は西暦615年の2月から7月まで、欽明13年は西暦622年の2月から7月までです
応神朝はそれよりも、西暦で70年以上、半年暦で140年以上前の話です >宣化3年は西暦615年の2月から7月まで、欽明13年は西暦622年の2月から7月までです
仏教伝来は538年か552年で615年か622年まで下げられないよ 厩戸皇子(聖徳太子)の生年が574年なのに仏教伝来が615年か622年ならば
仏教伝来が聖徳太子の生誕後になってしまう 聖徳太子の生年月日は敏達天皇3年1月1日
これを>>116の半年暦にあてはめると、西暦633年2月1日
仏教伝来はそれよりも10年以上前の話だ >>140は、>>116のオの謎が半年暦でなぜ解決するのかちゃんと理解してるのか?
聖徳太子の時代がじつは隋がとっくに滅んだあとの唐の時代だからこそ、日本書紀の推古記では一貫して唐王朝との交流記事になっている、という話なんだが 厩戸皇子の没年は622年ではなく
上宮王家の滅亡が643年ではなく
大化の改心が645年ではないって事ですか >>143
そのとおり。計算が面倒なので自分で一覧表で確認すればすべてわかる
そして、そのように解したとき、これまで日本史上の謎とされてきた>>116などの謎が、まとめて一気に解決する 日本書紀によると、持統4年に「元嘉暦と儀鳳暦とを行う」とあるのが中国暦法の公的採用の勅令であり、その実施は勅令の2年後の持統6年とされる。
この持統6年が西暦692年であり、それ以前の日本独自暦が半年暦だとするならば、持統4年は西暦では前年の西暦691年となる。
よって、改暦に足掛け3年もかかったのは謎でもなんでもなく、じつは1年で切り替わっているわけで、半年暦から通年暦への複雑な切替にしてはスムーズだったといえる。 年号に関連すれば、もうひとつ、半年暦で解決する問題があるな
日本の年号は、最初に孝徳天皇が「大化」を制定し、次に「白雉」を制定するも、孝徳天皇の崩御後新たに制定されなくなる
その後天武天皇が「朱鳥」を制定するも1年で廃れる
文武天皇の時代に「大宝」を制定して以来やっと定着する
年号は中国の制度だったから、日本の暦が半年暦だった時代には違和感があったんだな
692年の改暦以後、ようやくその違和感がなくなって、年号が定着したわけだ 古代、特に出雲王国時代は春分の日と秋分の日を正月元日としていた。
併せて祖霊祭祀を行っていた。
この名残が春と秋のお彼岸の先祖祭祀。 >>147
系図上の初代の天皇、神武の即位年代をより古く改竄が行われました。
日本列島で最初の王国で有った古代出雲王国の初代出雲王(オオナモチ)の「菅之八耳」さま(その正后は「稲田媛」命)が即位なさった年代を神武の即位年代に横領して引き伸ばしを行った。
出雲王国初代と系図上の神武迄は8〜9世代の隔たりと時代の齟齬が当然生じますが
そこに出雲王国時代から魏史倭人伝に描かれた時代迄一年二歳(春分の日と秋分の日をそれぞれ正月元日の半年を 一歳とする)が目に止まり、
採用。
すると懸案の世代の隔たりによる年代の齟齬が丁度都合よく解消。
神武〜応神前後あたり迄の百歳超えの天皇ほかは概ね半分の年齢に暗分すればおよそ現実的な数値の年齢に収まる話? もともとこのスレは、特定の説に特化したスレではなくて、半年暦を支持するいろんな説について語り合うスレとして始まったはずだったんだよな
それなのに、バカが現れて片っ端から難癖つけ始めたから、それに反論していくうちに、結局1つの説しか生き残らなかった
バカが半年暦を思いつき説だと罵倒して、年齢の問題だけ適当に拾い集めた詭弁だと言うから、年齢の問題以外をもたくさん解決していた説が生き残ったわけだ
で、バカが尻尾巻いて逃げたあと、バカへの反論として出した説にはもともと支持者がいなくて、誰もいなくなってしまった
>>148みたいな説をいろいろ出し合って語り合うのは、スレ本来の趣旨には合うんだけど、また同じようなバカが現れて終わりそうなんだよな
だったらいっそ、生き残った干支表をベースにしたほうがいい気がする
>>148の理論構造そのままを言うにしても、それは「改竄」や「引き伸ばし」ではなく、当時はそれがふつうだった、ということじゃないのかな
西暦692年の改暦以前は、その直前の改暦勅令からの期間の長さの問題も含めて、半年暦だと考えれば解決する問題があまりにも多い
だったら、>>148のようなことをいうために、べつに改竄や引き伸ばしだと主張する必要はまったくないことになる 中国と日本で正月がずれるのは
太陽暦か太陰暦の違いじゃろ? もともと二倍歴で
書記編纂上、二倍に引き伸ばした部分があるから、
書記の紀年はx倍歴になっている
これが実態と思うね。
貝田説宝賀説が
二倍歴と四倍歴が混在するとすれば実年代と合うという説だ。 >>149
仲哀紀のように16日以降の日付が出てくる箇所は後付けの改竄だと思うなあ >>150
>>116の半年暦は太陰暦だからそれは関係ない
もともと推古天皇や聖徳太子の没年が日本書紀とそれ以外の資料とで食い違うのを、日本書紀以外の同時代資料は半年暦の干支で記されているものとみて逆算した暦だから
なぜ中国の2月と8月を正月にしているのか、という理由の部分については憶測するしかない
>>152
仲哀よりはるかに以降の聖徳太子の時代が>>116説の主な対象で、そこでは半年暦の干支を、半年暦の存在自体が忘れられた日本書紀の編纂時点で、通年暦の干支だと勘違いして日付を逆算したことが判明している
だとすると、仲哀紀でも同じように通年歴だと勘違いして日付を逆算したと考えればべつに改竄である必要はない >>151
その説は改竄ありきで、>>76のいう「とってつけたような思い付き」の類いとなんら変わらないように見えるが
>>93もいうように、「(天皇の年齢に関しては)半分に解釈した方が理解しやすく見える」が「他の全ての史料の年齢の記事は、半分にしなくとも自然に理解しえる」
「自分にとって長大に思える年齢の記事を、適当に拾い集めて来て、半分の方が自然だと言い張ってるだけ。」という批判がそのままあてはまることになる
>>116の説が、これだけの反論を生き残ったのは、天皇の年齢以外に10を越える古代史の謎が一気に解決するからなのだが、
>>151は年齢以外の問題をなんら解決してないようにみえるし、そもそも2倍暦や4倍暦が実際にあったなら、それがどういう経緯で改暦されて今日に至るのかという疑問もある
改暦のタイミングは中国歴の正式導入である西暦692年以外にないようにみえるんだが、2倍暦と4倍暦を想定するなら少なくとも2回の改暦が必要のはず もともと当初
仲哀紀はなかったらしいよ。
書きつぐ中で増えたらしい。 >>154
いやいやちょっと誤解がある
もともと春秋で一年づつ倭人は1太陽年で2歳歳をとる暦を使っていたし記録もしていた。
そこに元嘉暦を導入した
元嘉暦以前の記録と導入後の記録ができた
儀鳳暦を導入した際に遡って暦の体裁を整えた結果過去が二倍に引き伸ばされた格好になった。
さらに古くしたいから過去の記録を儀鳳暦に当てはめる時に意図的に倍にした
のではないか?
ということ
四倍歴とか天文気象的に不合理で世界のどこにもない周期の暦は存在し得ないが
世間の時間の流れと記録は春秋のままが長く続いた形跡があるならなおさら四倍歴の出る幕はないのに
辻褄があうとするなら、そこには引き延ばす意図があったのだろう、ということ。
なににせよ
116の分析はすごいと思ってるよ >>150
古代日本(出雲王国時代〜雄略頃まて?)
一年は春分の日(元日)〜秋分の日の前日まで。と、
秋分の日(元日)〜次の春分の日の前日迄
の一年二歳。
この事象、風習は魏史倭人伝にも(表現は異なるものの)記載されているところ。 >>157
この名残が春と秋のお彼岸の中日の先祖祭祀(墓参り等) >>157
大雑把にいえばそうだろうけど、月の満ち欠けを日付の基準にしていたとすれば、若干のズレはあるんじゃないかと思う
春分または秋分を含む月を正月として、その区切りは新月と満月だった、と考えれば、自然な暦法になると思う
復元された半年暦はこれとは違っていて、中国の暦を機械的に半分にしたもので、閏月が2回連続するような不自然なものだけど、
おそらくは中国暦との換算を容易にするため、大陸と交流を始めた初期にそういう暦を採用したのであって、
それ以前はもっと自然な暦だったと思う
てことで、>>94の後半部分のように考えれば、グレゴリオ暦377年3月12日が、神武即位の有力候補日になるようで、
半年暦を前提とすればその後崇神までの間に120年ぐらい間があって、ここに欠史八代があったと考えて不自然ではないし
これを偶然とは考えづらいことから、この日が神武即位と考えていいと思う
日本書紀の編纂時は半年暦だったことが忘れ去られてしまったため、通年歴の正月1日の日干支を逆算して一致するものを
探した結果、紀元前660年まで遡らざるを得なかったのだろう >>116
この説はなるほどと思ったけど
692年まで二倍歴だったとしたら、白村江の戦いはどうなるの?
天智天皇じゃなくて舒明天皇になるよね >>160
白村江の戦いも肝心の中国に同時代の記録がなく、日本書紀からの孫引きと思われる記事が数百年後に現れるものなので、結局は日本書紀の記事がすべてのソース
なので、国内事件と同じように処理すべきかと 参考までに、こういう人もいる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E9%83%A8%E5%8D%9A%E9%BA%BB
白村江に出生して捕虜として捕らえられ、その後「30年間」奴隷生活をして690年に日本に帰国した人
当時の平均寿命から考えて、兵士として出生したぐらいの年齢の人がその後30年間も、そもそも生きていられるだろうか >>161
じゃあ白村江の戦は天智天皇3年、西暦678年になるのか。
百済が滅亡して18年後だけど、復興運動がそこまであとになって出てくるものかなあ。
神功皇后の新羅征伐は西暦527年ころになるけど、対応する記録は大陸にはあるのかな
広開土王碑だと100年以上前になるし
広開土王碑にある西暦400年ごろの倭の侵略は神武とかそのあたりの時代になるのかな。 >>164
朝鮮半島のこの時代の歴史書は、高麗時代の三国史記(1143年執筆開始)および三国遺事(1270年以降)に依存していて、じつは同時代の記録が存在しない
三国史記では、新羅、百済、高句麗の建国をそれぞれ紀元前としていて(新羅紀元前57年、百済紀元前18年、高句麗紀元前37年)、楽浪郡や帯方郡、辰国などを記す中国の歴史書と矛盾しており、それをどう解釈するか韓国でも論争になってる
案外、これも半年歴だったのかもしれない なるほど。そちらもずれている可能性があるのか。
広開土王碑も繰り上がる可能性があるか。
でも中国の記録からは、百済が660年、高句麗の滅亡年668年は変わらないはずだよね
舒明天皇時代に、友好国の百済が滅亡して何の記述もないのはどうだろうか。 中国の記録の話をすれば、白村江の会戦に関しては、そもそも旧唐書と新唐書で年代が1年違ってる。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho102/kai10204.html
朝鮮半島の記録によれば662年で、旧唐書はこれを採用している。当時は日本書紀は信用されてなかったわけだが、新唐書では評価が180度変わってしまい、日本書紀の663年が採用されている。
ようするに、この時期、朝鮮半島の記録と日本の記録のどちらを採用すべきかで中国内で争っていたわけだ。
唐が自ら出兵したはずなのに、その記録が中国に全く残ってなかったことは不思議なことだが、もしかすると今後、正しい年代に修正された上でその時期の唐の記録をみると、該当するものが発見されるかもしれない。 朝鮮半島の記録と日本の記録、という言い方をすると語弊を招くか
旧唐書ができたのは三国史記よりも前だから、その原資料と言ったほうが正確だろう アマテラス=卑弥呼としたら
スサノオ=卑弥呼の弟王、後に出雲に飛ばされる。
ニニギの天孫降臨は畿内から九州に飛ばされたってのが実情か https://ameblo.jp/kk28028hrk/entry-12478322681.html
持統6年の改暦以前を二倍歴としたら、倭王「武」は崇神天皇
欠史八代が「倭の5王」としたらすごいな
讃 六代考安天皇 418〜425年
珍 七代孝霊天皇 425〜438年 讃の弟
済 八代孝元天皇 443〜461年
興 九大開化天皇 462〜477年 済の弟
武 十代崇神天皇 477〜502年 興の弟
https://ameblo.jp/kk28028hrk/entry-12478323039.html
この表がすごい あー確かにありうるな
倭王武は東国55カ国、西国66カ国を平定して全国を統一したと中国の皇帝に書いてるけど、崇神天皇は四道将軍を派遣して初めて国を治めた天皇と呼ばれていて、辻褄が合う 倭の五王は中国に使者だして、朝鮮半島にも進出するくらい勢力あったのに
崇神天皇以前が欠史八代になるほど伝承がないのが残念
欠史八代の父子相続が、中国の歴史書によれば結構兄弟相続だったりするし
崇神天皇が壬申の乱とか靖康の変とかみたいに兄の正統の王朝を殺して、記録を抹殺したとかあり得る >>172
欠史八代の父子相続に関しては、その長寿命とともに、>>159のような経緯で逆算された紀元前660年という結論に整合させるために、こうせざるをえなかったんだろう
いわば、カンニングしてあらかじめ答えを知った制度が、それに合わせて途中の計算式をでっちあげるようなもので、あらかじめ知ったはずの答えがじつは見間違えだったためにおかしな途中経過になってるだけだろう ×カンニングしてあらかじめ答えを知った制度
○カンニングしてあらかじめ答えを知った生徒 百年歴史がずれていたら、歴史の辻褄が合わなくなるのだが・・・
それも捏造という事で言い訳るのだろうか。
流石に無理あるっしょ。
記紀の半分は物語ってことになる。 紀元前660年即位の神武が実は広開土王と同世代だったとしたら
1000年もずれてることになるね >>175
ここまでの流れをみたら分かるだろうに
むしろ、今まで辻褄の合ってなかったいろんなことが、半年暦にしたら一斉に辻褄が合いだすんだよ 個人的には、>>116のうち、壬申の乱の「7月の極寒」の謎が解決するのが衝撃的だったな
あと、歴史では聖徳太子の時代に派遣したのは遣隋使だと習うのに、日本書紀には一貫して相手国を唐と書いてある謎も、言われてみてハッとした
>>117の千字文なんか、従来、応神天皇の時代にはまだこの世にないはずだと言われていたのに、半年暦を認めれば簡単に矛盾がなくなるのも見事としか言えない
なんか、歴代天皇の異常な長寿が解決することなんか、オマケにしか思えない 天皇とそこに書いてある事績は
はめ込みの可能性があるってことでしょ。
系譜記録と事績は別と考えた方がいいのでは。 それを言ったら、それこそ文字記録の無い時代なんだし何でも言えるぞ。
捏造と言い出したらキリが無いんだよ。
真相など、文字がない以上分かりようがないのだしね。 むしろ半年暦を導入しないままの現在の日本書紀のほうが、そうとしか考えられない矛盾だらけだったんだよな
壬申の乱だって、ほかの事件の事績をはめ込んだからこそ、真夏に極寒で家を燃やして暖を取ったとかいうちぐはぐな記事になったんだ、という説明に説得力がでてくる
しかし半年暦を導入してみると、実際その時期は真冬だから、逆に辻褄が合ってしまう >>176
BC-660頃に即位した日本で初の王国の王は出雲王国の初代オオナモチの菅の八耳王。
系譜上のいわゆるジンム=初期大和王朝の海(天)ムラクモ大王の10代前の(母系の)先祖。
その大和王朝は
、、、3代目のタマテミ王(母親実家の磯城で即位したことから磯城津彦タマテミと称されました)以降は大王権力と大王家求心力が低下して実質上は大和の3割程度を領有する豪族に成り下がる。
磯城の大王家とムラクモを担いだ出雲神族(カモ族=王族)やムラクモの子孫(尾張氏)たちが狭い大和盆地に覇権を争って半ば内乱/争乱状態。(倭国乱))
「孝」の付く歴代(便宜上)天皇は、争乱状態の時代を表して居るようです
孝安天皇。こと、国押人命(オシヒト)は大和を平定する権威と大王と認めて貰う後ろ楯に後漢に自ら出向いて「倭国は後漢帝国の属国になるから大王に承認を」と皇帝に謁見、
その際の手土産品に安芸の国の生口島で奴隷狩りをして生口=奴隷を献上したらしい。
その為、生口島の名称となったとか。
例の金印、後漢の官位の叙任 妄想レスするにしても、せめて半年暦と関連のある話にしてくれよ 二倍暦を一番最初に言い出したのは、英国人ウィリアム・ブラムゼンであってる?
明治13年(1880年)著書『JAPANESE CHRONNOLOGI. CAL TABLES(日本年代表)』 により二倍年暦説が始まる
http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/kaihou/t145.pdf >>184
>>72が言ってるのはその人のことだろうね
ただ、その人の着目点が天皇の年齢だけだったせいで、それ以後の研究者が年齢のつじつま合わせばかりに気を使って、3倍歴4倍歴というへんな方向に議論が進んでいくことになったんだろう
日本書紀の原文を読める日本人研究者であれば、天皇即位の日付が年干支と日干支の併記で書かれていて、その両方の条件をみたす時点をさかのぼって確定させる形式だとわかるはずで、単純に倍数で伸ばすものじゃないことは分かったはずだった >>183
古代出雲王国時代(BC-660〜約700年間)〜少なくとも三国史、魏史に倭人伝に描かれた時代迄は
春分の日と秋分の日がそれぞれ正月元日。
それは、魏史倭人伝にも記述されまし
年齢もシナ人の倭人が2倍年齢を言うのでヒミコの年齢は長大などと書かれました。
因みに、出雲王国時代には春分の日と秋分の日に出雲王(オオナモチ) の王宮に各地の王族、豪族、有力氏族や役人らが新年の参賀して
併せて国会の出雲会議が開催されて、会議で採可された事案が
今度はオオナモチ后で国巫女/媛巫女が神々に御伺いを奉り、「吉」とでて晴れて執行/施行されました。
同時に王家が主宰する国大祭をオオナモチの正后が 祭主/媛巫女(今なら皇后陛下)として取り仕切って催行。
最後に出雲王国や参集した全員の弥栄を祈念して出雲の最高神が隠る神山に向かい万歳🙌三唱を行っていました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています