奴国は何処に存在したと推測しますか?

1名無しさん@恐縮です2012/11/20(火) 10:33:14.74
唐津を出立した古代天文学、暦に長けた中国からの訪問団は
次の旅程記録を残していますね。

東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。

ここに記述された伊都国及び奴国は何処に在ったとするのか
皆さんのご意見を頂きたい。

78筑紫次郎2014/10/20(月) 04:47:49.34
陳寿の時代は
不必要な文は極限まで削除して、簡潔、正確、明瞭に書くのが
優れていると考えられていたそうである。
だからその結果、
くどくどと補足説明をした文は駄文で、
事実だけを記載して補足説明をしなくても解る文章が優れていたのである。
つまり、
魏志倭人伝は読み解くのに不必要な意味のない文はなく、
記載してあるのは事実ということになるのだ。

事実として、倭人伝には補足説明などは一つもない。
記載された事実だけから、
邪馬台国の場所、魏の皇帝が大量の賜物を与えたり、
勅使を派遣までして卑弥呼を優遇した理由など全てを読み取れと、
陳寿は言っているのである。
事実だけを記載して、その意味する事を読み取れ、と言うからには
極めて正確な文章を書く必要がある。

つまり倭人伝に記載してある事柄には無駄な文は無く、
全て正確な事実と考えなければ何一つ解らないのである。
現在
倭人伝の謎が何一つ解けてないのは、倭人伝が曖昧で、
間違いだらけの文章だと考えられているからなのである。

79筑紫次郎2014/10/20(月) 04:48:27.36
それでは倭人伝を正しく、正確に読むためにはどのように読むべきなのだろうか。
第一には、
【東南陸行五百里到伊都國】と記載があるのに、
末盧国(唐津付近)の東南ではなく北東にある糸島を伊都国に比定したのが間違いである。
これにより、
方角が違う、距離があわない、伊都国の人口が間違っている、
船で直行できるのに、道のない悪路を五百里も歩くような場所に上陸する、
【南至投馬國水行二十日】とあるのに水行の出発点の不弥国の南は山であるから
南水行ができない、などと言うように
倭人伝は完全に信用のおけない出鱈目な文になってしまうのである。

しかし、本当は
出鱈目なのは倭人伝ではなく私達読者だったのである。
これでは、邪馬台国の場所すら解る訳がなかろう。
そして、これにより、
倭人伝の謎を解く手がかりは完全に消滅してしまったのである。

80筑紫次郎2014/10/24(金) 01:28:10.90
ところで、
邪馬台国の場所はどうやって知ることができるのだろうか?
ある人は末盧国から二千里という距離で推定する。
またある人は水行二十日水行十日陸行一月という日数で推定する。

しかし、これらは邪馬台国へ到着するまでに進んだ距離と日数を記載したに過ぎない。
両方とも間違いのない事実に違いないのだろうが、
不思議なことにこれにより邪馬台国の場所を特定することは絶対にできない。
これは、両方とも邪馬台国の場所を特定するための情報ではなく、
倭人伝の謎を解くための情報なのだからである。

どこにも比定できないような情報、
言い換えれば、どこにでも比定できるような情報が、位置情報である訳が無い。
どちらの情報を選択したとしても、邪馬台国の場所は特定できず、
無理な解釈、珍解釈を創作するしかないではないか。
しかも、無理な解釈、珍解釈を無理に採用したとしても邪馬台国の場所は特定できない。
邪馬台国の場所を特定するための情報でないものを、
邪馬台国の場所を特定するための情報として扱っているからなのである。
邪馬台国の場所を決して特定できないという事実が、これらが
邪馬台国の場所を特定するための情報ではないという証拠である。

それでは、邪馬台国の場所を特定する情報とは一体何なのだろうか?
本当にそんなものが、倭人伝に記載されているのだろうか?

81日本@名無史さん2014/12/23(火) 19:01:17.00
わしの心の中では、奴国は、ずっと那の津と言われた博多

82日本@名無史さん2014/12/23(火) 19:10:04.43
奴国は福岡市、春日市、那珂川町で間違いない。

83日本@名無史さん2015/01/05(月) 21:27:15.15
末盧国は本拠地は松浦だが、当時九州北岸を支配していた。
魏使は壱岐から松浦半島に寄ったが、そこからさらに東へ海岸沿いに博多沿岸まで進んだ。
これが壱岐国〜末盧国まで千里の理由。

伊都国は博多沿岸から内陸部へ五百里進んだところにあるが、ここは昔の倭奴国の王都であったが、
邪馬台国が一大率を置いて直轄領とした。すなわち広大な奴国の中(あるいは一角)にある。

奴国は東南に百里行ったところにあるとされるが、これは当時の奴国の中心地のことを指していて、
倭奴国の元王族が伊都国から移り住んだ場所である。

東に百里行ったところにある不弥国も元は奴国の一部。
ちなみにここまでの国の副官の名は、伊都国を除いて卑奴母離で共通している。

84日本@名無史さん2015/01/05(月) 21:29:16.27
魏志倭人伝で大国とみられる国は奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国の四つ。
一方、古事記では九州を筑紫国(白日別)、豊国(豊日別)、肥国(建日向日豊久士比泥別)、熊曾国(建日別)の四つに分けていて、
それぞれ、

筑紫国(白日別)=奴国
豊国(豊日別)=投馬国
肥国(建日向日豊久士比泥別)=邪馬台国
熊曾国(建日別)=狗奴国

に対応する。

85日本@名無史さん2015/02/24(火) 13:00:31.46
奴国。ナラ。重複した国、領域(ナ・ラ)の意

86日本@名無史さん2015/02/24(火) 14:30:17.80
投馬、、、、タジマ?

87日本@名無史さん2015/02/24(火) 14:34:47.99
投馬・・・當麻(=出雲)

88日本@名無史さん2015/02/24(火) 19:06:33.97
奴国。
ナカ/ナガの国。
那賀、那加、長、中(中つ国)、永、なが
級長津彦命(風神)に長が付くのが意味深?
(土佐一宮の土佐神社(味鋤高彦根命/賀茂の大御神)は地元ではシナネ様と呼ばれ親しまれている)

ナカ(ナガ)の国と言われたのが現在の徳島県南部地域。
紀伊水道の船舶の動向を掌握し、日(朝日)に向かう地勢。
橘湾、小戸の阿波岐原、
北部地域がアワの国。
那賀須泥毘古/長髄彦(倭大己貴命)のナガ(ナカ)であり支配地域だった?。
那珂郡、那賀川。海部郡とか長尾姓。

89日本@名無史さん2015/02/25(水) 00:15:08.50
投馬・・・當麻(=出雲)

90日本@名無史さん2015/02/25(水) 10:15:09.58
>>54
>2万戸が想定出来る国だという事を忘れるなよ。
>当時の住居適地では北部九州全部を含んでも足りない広さが必要だからな。

  計算もできない低能が一人前の顔して寝言言ってんじゃねーよ www
 俺が教えてやるよ。
  吉野ヶ里は、面積が約50ヘクタールで推定人口は5400人だ。
  邪馬台国は7万戸。1戸当たりの人口が問題になるが、5人説が多いので
 そうだとすると35万人だ。ということは、単純計算では65倍の人口だ。
 面積については、居住区域=集落の面積のほかに集落間の「緩衝地帯=非居住
 区域」の存在が必要となるので、これを合わせて10倍の面積が必要だと仮定しよう。
 すると、50ヘクタール×65×10=32500ヘクタール となる。
 これを平方キロメートルに換算すると、325平方キロメートルになる。
 ちなみに福岡市の面積は341平方キロメートルだ。福岡県の面積は4979
 平方キロメートルだ。
  計算もしないアホがバカ言ってんじゃねーよ wwwwwwwwww
  

91日本@名無史さん2015/02/25(水) 10:20:11.62
おっと、邪馬台国じゃなかったな。奴国だったか。7分の2でいいわけだから、
325×2÷7=92.8平方キロだ。大牟田市より少し大きい程度の国だぜ。

92日本@名無史さん2015/02/25(水) 10:33:42.74
>当時の住居適地では北部九州全部を含んでも足りない広さが必要だからな。

  これが畿内説のレベルだな www

93日本@名無史さん2015/02/25(水) 10:41:16.26
言っておくけど、精密に思われている天文学だって、星の数なんかこういう概算で
やっているんだぜ。理系に言わせれば、こういう計算は十分ありなんだよw
文系の石頭にはわからないだろうが。

94日本@名無史さん2015/02/25(水) 10:43:27.14
本当に文系、特に歴史系のヤツは使えない人間ばかりだな。」

95日本@名無史さん2015/02/25(水) 11:12:59.35
>2万戸が想定出来る国だという事を忘れるなよ。
>当時の住居適地では北部九州全部を含んでも足りない広さが必要だからな

この計算が成り立つための条件とは、次のとおり。
 奴国の人口は、2万戸×5人=10万人
 北九州を福岡県及び佐賀県とすると、その面積は7485平方キロメートル
 吉野ヶ里の面積は50ヘクタール=0.5平方キロメートル、人口は5400人
 したがって奴国の人口は吉野ヶ里の18.5倍。
 「緩衝地帯=非居住区域」の面積が居住区域に対してどれほど必要なのかが問題
 となる。
   0.5×18.5×k=7485  → k=809

  つまり、このド阿呆の主張が成り立つためには、「緩衝地帯=非居住区域の」の
 面積は居住区域の800倍の面積が必要だということ。
  石器時代じゃねーんだよ wwwwww

96日本@名無史さん2015/02/25(水) 11:22:46.54
結局このド阿呆は、邪馬台国の時代は稲作じゃなくて縄文時代の狩猟採集を
やっていたということなんだろw それならこれくらい低い人口密度じゃないと
生きていけないよね。

97日本@名無史さん2015/02/25(水) 16:47:56.12
その狩猟採集をやっていた原始的な国=邪馬台国が中国から金印を授けられていたと。
北九州では収まらないくらい広い国がねーw 

98日本@名無史さん2015/02/25(水) 20:15:16.57
>>90
>面積については、居住区域=集落の面積のほかに集落間の「緩衝地帯=非居住
>区域」の存在が必要となるので、これを合わせて10倍の面積が必要だと仮定しよう。

  この時代は10倍じゃ済まない。70倍くらいだろう。
 壱岐で計算すると200倍になる。これは離島だからどうしても人口密度が低くなる
 ので、九州本土ならその3倍の密度で70くらいだろう。それだと奴国は福岡県の面積の
 45%、約半分になるぞ。

99日本@名無史さん2015/02/25(水) 21:08:44.16
奴国→不彌国は百里だが、1里=80メートルで計算すると8キロしかない。
>>98 の意見では奴国の面積は650平方キロメートルと計算されるが、奴国の
形が正方形と仮定すると、25キロ四方となって、8キロという計算に合わない。
1里=70〜90メートルはほぼ確定しているので、>>98 の「この時代は10倍
じゃ済まない。70倍くらい」という仮定は怪しいね。

100日本@名無史さん2015/02/26(木) 08:57:02.49
国の面積をどうこう言ってもあまり意味はない。どこの国にも属さない場所があったのだろうし。
ある国に千戸の民がいたとして、その外側にはどこの国にも属さない民もいたかもしれないね。
だから、俺は倭人伝に出てくる国というのは集落の集合体で、その集落間の距離はさほど離れて
いなかった、だから >>90 の言う「非居住区域」は集落の10倍くらいがけっこう妥当じゃないか
と思う。後は、どの国にも属さない土地がどれだけあったのかということ。 

101日本@名無史さん2015/02/26(木) 10:18:50.07
別にお前らが主張したからってお前らの願いが叶うわけじゃないぜ

102日本@名無史さん2015/02/27(金) 13:43:54.20
倭人伝には一夫多妻制であることが記述されている。階級が上の者だけでなく、
階級が下と思われる「下戸」でもそうだったと。すると、妻を持てない男はどう
暮らしていたのか、という疑問が生じる。使用人に甘んじていた者が多かった
のだろうが、性格の激しい者は犯罪者集団を作っただろうし、世捨て人的な一匹狼
もいただろうし、自滅した者もいただろう。こういうアウトサイダーたちがおそらく
国=集落の外にいたのだろう。だから、この時代は迂闊に知らない場所=国の外側
に一人で入ることはかなり危険なはずだった。今のように国と国が論説してその境が
はっきりしているというイメージは間違いだろう。

103日本@名無史さん2015/02/27(金) 13:45:54.55
↑  ×  国と国が論説して     ○  国と国が隣接して

104日本@名無史さん2015/02/27(金) 15:40:07.50
だからこの時代陸路を1日に20キロ進んだはず、などというのは笑止千万なんだよ。
国の中は普通の速度で進んでも、国の外に出ればアブナイわけだから必要以上の大集団
で行かざるを得ない。そして道も案内人なしには進めない。馴れた者が行く速度の3倍
近くはかかったんじゃないだろうか。だから1日に7キロ程度というのが妥当だと思う。
とすると、博多から奈良の700キロ近い陸路は100日かかるわけで、奈良に邪馬台国
があって博多の港を使用していたなどというのは噴飯物なんだよw もちろんこの時代は
馬なんかなかった。

105日本@名無史さん2015/03/07(土) 20:34:10.01
>博多から奈良の700キロ近い陸路は100日かかるわけで

 その700キロというのは直線距離だろ。実際は直線では進めないからその
30%増しで900キロ。130日かかったと考えるべき。往復すると260日だ。

106日本@名無史さん2015/10/10(土) 16:51:00.98
戸二万の奴国は、佐賀県肥前山口です。

唐津に上陸したら、表記通り東南に進みます。500里ですから三十数キロです。そこが伊都国です。

そこは佐賀県多久市南多久庄集落です。
そこから表記は東南奴国に至る百里とあります。ところが、この文には行とかの動詞がありません。
ですから、行く必要はありません。二万戸もある大国なのでのせただけですが、邪馬台国への行路上にはないのです。
よって、伊都国から東行百里で不彌国に到着となります。

107日本@名無史さん2015/10/10(土) 19:00:15.76
>そこから表記は東南奴国に至る百里とあります。

その通りだ。東南へ行けば奴国へ到るよと、文字どおり方角を示しただけだな、、、

108日本@名無史さん2015/10/10(土) 19:04:48.03
てことは邪馬台国にも行っていないわけだな

魏の使者の最終目的地は不弥国だったのか

109日本@名無史さん2015/10/10(土) 19:21:30.19
たしかに、行程ルートの説明は不弥国で終わっているということだ。
ただ、だからと言って魏の人間は、
誰一人として邪馬台国女王之所都に行かなかったのかと言うことではない。
下記の通り、
魏の一人は卑弥呼、もう一人は台与に目通りしたと書かれている。」

・正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王、

・其八年、、、遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之、、、政等以檄告諭壹與。

110日本@名無史さん2015/10/10(土) 19:29:23.14
>>109
・行とかの動詞がないところには行ってない
・邪馬台国にも動詞がないけど、ここには特別に行ってる

ていうのと

・動詞があってもなくても行ってる

ていうのと、どっちが無理がないだろうね?

111日本@名無史さん2015/10/10(土) 19:57:25.96
これは伊作がたびたび論じていたことであるが、
「自郡至女王国万二千余里」で中締めさられた行程記事は、
卑弥呼がまだ邪馬台国の女王にすぎなかった時代のことを記述したものである。
つまりこの時代には、
到、至の後ろに動詞を付けないことで、魏の人間は誰ひとりとして邪馬台国へ到達していなかったことを示しているわけである。

しかし、景初二年、、、十二月、詔書報倭女王曰
「制詔親魏倭王卑弥呼、、、帯方太守劉夏遣使送汝大夫難、、、今以汝為親魏倭王、假金印紫綬」
「正始元年、太守弓遵遣た中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王」

この二つ記事は、卑弥呼が倭王に任じられたとき、及び任じられてからの記事となっている。
行程説明の記事とは明らかに時代設定が異なっている。
ゆえに、動詞のあるなしは、ここではもう関係無くなっているわけである。

112日本@名無史さん2015/10/10(土) 23:23:06.72
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

113日本@名無史さん2015/10/10(土) 23:23:36.35
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

114サガミハラハラ2015/10/11(日) 10:42:39.25
倭人伝行路記事は二種にわけられます。始めの部分は里数で表記されています。ところが不彌国
からは日数にかわっています。
つまり、日数表記からは別の資料からかかれたものなのです。
そうなった事情は、邪馬台国の遷都によるものなのです。

115サガミハラハラ2015/10/12(月) 09:24:50.52
邪馬台国の吉野ヶ里から小城甘木への遷都は242年です。
倭人伝の243年の貢献はその報告です。(国号のヤマイ国からヤマタイ国への変更も)
遷都の前は、里数でかかれていたが、遷都後は里数で計測しなかったので、倭人の計測法である日数表記で記述されているのである。
つまり、里数は前漢の時代に測ったものなのである。

116日本@名無史さん2016/07/12(火) 18:54:28.78
熊本県の人吉市だろ

117日本@名無史さん2016/07/12(火) 19:04:06.34
奴国(二万戸)(田川辺り)

118日本@名無史さん2018/01/30(火) 17:12:36.77
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

IFP3E

119日本@名無史さん2018/07/12(木) 17:09:48.42
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

O23

120日本@名無史さん2018/08/03(金) 18:12:37.30
今日、ふと思いついた事
https://dotup.org/uploda/dotup.org1601531.png

121日本@名無史さん2018/08/03(金) 18:18:57.11
ようは、早い段階で漢字が入ってきた地域は
独自に自国語での読みを決められるわけだ

122日本@名無史さん2018/08/04(土) 18:57:53.80
で、今日、思った事
https://dotup.org/uploda/dotup.org1602381.png

123日本@名無史さん2018/08/04(土) 22:39:57.12
奴国は吉野ケ里と博多に在ったというか、
お家騒動で2か国に分裂していたんだよ。
一方は邪馬台国に、もう一方は出雲国についた。
漢倭奴国王印の200年後の時代だ。時代は変わる。

124日本@名無史さん2018/08/06(月) 00:09:21.93
難しく考える必要はない。単純に考えればよい。
倭人伝の行程とおり進めば、伊都國と奴國に到着する。

末蘆國上陸地点(唐津中原)から東南方向に陸行500里(40km)行けば
伊都國城柵(佐賀大和町惣座肥前国庁跡付近)に到着。

伊都國城柵(佐賀大和町惣座肥前国庁跡付近)の東南100里(8km)に
奴國城柵(佐賀城跡)がある。

ちなみに、伊都國城柵(佐賀大和町惣座肥前国庁跡付近)から
東方向に100里(8km)行くと不彌國城柵に着く。

125日本@名無史さん2018/08/06(月) 08:18:52.50
不弥国の現在の地名は?

126日本@名無史さん2018/08/06(月) 08:50:31.44
>>125
>不弥国の現在の地名は?

不弥国は
築城五反田遺跡、上別府沖代遺跡、安武・深田遺跡、安武・土井の内遺跡、赤幡森ヶ坪遺跡
などがある「築上町辺り」だね。  @阿波

127日本@名無史さん2018/08/06(月) 12:42:15.42
地味

128日本@名無史さん2018/08/07(火) 09:45:13.20

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