倭國王帥升とは一体何者だったのか?
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『後漢書』孝安帝紀東夷伝に初めて出てくる日本列島にいた国王であるが彼は一体何者なのでしょうか?
北九州在住説が有力なのだが後にでてくる邪馬台国の卑弥呼と関係あるのか?
また記紀に書かれた神話上の人物と何ら関係あるのか?
この謎の倭王帥升について議論しましょう。 そもそも帥をスイと読むのは呉音であって漢音ではソツと読むわけだが。
なぜかスイショウという読み方が一般化してしまっている。 倭国王(帥升スイショウ) 高句麗(遂成スイセイ)両者は盛んに生口を献上、時代が近い、倭と関係が深い、気になるんだな。
『後漢書』孝安帝紀東夷伝に、安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うてきた(「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)
との記述があり、これが帥升に関する史料の全てである。帥升以前に日本史上の個人名は史書に見られない。
そのため、帥升が史上に現れる最初(最古)の人物とされている。帥升の次に現れる人物は卑弥呼である。
80年(AD132)秋7月、弟の遂成(スイセイ)後の、高句麗第7代次大王)が、『倭山』(未詳)で田猟し、近臣たちと宴会し、
この時に貫那部の弥 ... また同94年(AD146)秋7月、遂成は「倭山」で田猟し、家臣と謀叛を謀り、これに反対した家臣の一人を口封じのため殺しています。 実は上の後漢書のソース以外にも貴重な記載がある。「安帝の永初元年、倭の国王帥升等」の部分が、
『翰苑』所引の『後漢書』には「倭面上国王帥升」とあり、唐類函・変塞部倭国の条所引の『通典』には
「倭面土地王帥升」とあり、北宋版『通典』には「倭面土王帥升」とあることである。
つまり、この倭国王とは、倭全体の国王ではなく、倭の『面上国』『面土地』『面土』といった倭の極一部の
地域の国王の可能性が高い。
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32720152.html
「倭面上=邪馬台=大和」ではないか? >>5
西暦100年頃の近畿地方には大陸と交流の痕跡がない。
だから、帥升は九州の王とするのが普通。
また、帥升は日本史上初めて登場する「倭国王」。
そう呼ばれたのは、倭に数多くある一つの国の王ではなく、それらの総称と
しての倭国の王だったから。
これは、卑弥呼が三十カ国を従えていたというのと通じる。
恐らく、100年頃に倭国中を巻き込んだ大きな戦乱があり、帥升は
その勝者になりほかの国々を従えたのであろう。
だから、倭国王と呼ばれ、戦争捕虜としての多くの人間を抱えたから、
後漢に160人もの生口を献上できた。
それから、7、80年経ち、帥升の築いた地位をめぐる争いが起きる。
これが、いわゆる倭国の大乱で、その地位に就いたのが卑弥呼ということになる。
こう考えることにより、倭人伝の「その国もとまた男子を以って王と為す。
住すること7、80年、倭国乱れ、歴年にわたり、相攻伐。すなわち一女子を
共に立て王と為す」の文章も意味が通じるものになる。
ということは、倭面土国=邪馬台国ということになる。
昔、メリケンといった国が今はアメリカと呼ばれているよりは近いかもしれない。 >>3
俺はどの本で憶えたか忘れたが「ソッショウ」で憶えてたな。
明らかに帥は「元帥」の「スイ」だとしか思ってないヤツに引きずられてるな。 >>5
倭の面土国(メタ国)
筑紫の米多国(メタ国)
現在の吉野ケ里遺跡のあたり。 >>6
そのへんのところは邪馬台国東遷説でいいんでねえの? 倭面土国の読み方「付録11-6-2 倭面土国」
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106b.htm
やはり「倭面土」の発音は「ヤマト」だろ。 後漢から金印をもらったと言われる奴国を倒してそこの住民160戸を奴隷として後漢に送り込んだはいいが適当にあしらわれたって話だろ 倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
そもそもこれの読み下し方が間違っていたと思う。
倭國王の帥、升等し生口百六十人を獻じて見ゆることを願請す。
すなわち、倭国王に派遣されてきた将帥が「升等」=昇進した御礼に生口百六十人を獻じて謁見を請願したという記事なのだ。
升は昇に通じ、等は等級、勲等の等だから後漢皇帝による昇進、昇格を意味していたのであろう。
したがって、「帥升」などというまったくもって倭人らしくない人名が存在したと考えてきたのが大間違いなのだ。
百六十人もの生口を遠路はるばる引率してくるぐらいだから使節団はそれ相応の大部隊であり、上級の将帥が統率してきたと考えるのが自然だ。 >>11
無理有りすぎ。
倭面土をヤマトと読むのは、無理。 >>3
だよね、スイショウではなくszuds ɕjəng(スツション) 「面土」は国王を誤って重ね書きしただけって岡田の説が最有力だろうな
帥でも師でも同じ、スイでもソツでも同じ
なぜならこの文字は漢語の一部で固有名詞ではないから。
倭国の主帥で名が「升」、従って倭国王でもない 面土は吉野ヶ里の近くの目田原(めたばる)のことだろう。
近くの櫛田宮は櫛名田比売を祭ってるぜ。
あと櫛田宮は博多櫛田神社の本宮ともいうぜ。 バルって、古代朝鮮語では、偉い人の眠る光輝く場所という意味だそうだ。
北部九州で、バルっていう地名のところは、遺跡が多いぜ。 大和言葉のばるは平らな土地という意味
遺跡が多いのも納得だね @「面土」は吉野ヶ里の近くの「目達(めた)原」のことだろう。
墳墓が集中してあった所
A「面土」は吉野ヶ里の近くの「米多(めた)」のことだろう。
2世紀の若宮神社の南は有明海(港)だったらしい。
B「面土」は肥前風土記によれば「米多(めた)郷」のことだろう。
C「倭面土國」は旧事本紀によれば「筑志米(めた)多國」のことだろう。
D 吉野ヶ里遺跡は帥升王統の都(城柵)だったのだろう。
吉野ヶ里遺跡の墓制には漢文化の匂いがする。
吉野ヶ里遺跡は倭國乱の直前に衰退縮小している。 @「面土」は吉野ヶ里の近くの「目達(めた)原」として残っている。
墳墓が集中してあった所。旧陸軍が破壊。
A「面土」は吉野ヶ里の近くの「米多(めた)」として残っている。
2世紀の若宮神社の南は有明海(港)だった。
B「面土」は肥前風土記に「米多(めた)郷」として記載されている。
C「倭面土國」は旧事本紀によれば「筑志米多(めた)國」して書かれている。
D 吉野ヶ里遺跡は倭國帥升王統の都(城柵)である。
吉野ヶ里遺跡の墳墓配置には後漢思想の影響がある。
吉野ヶ里遺跡の衰退縮小後に倭國乱になっている。 誰か教えてあげよう、スイゼイ天皇の事だよ。
孝安天皇の可能性もあるかもな。 25
面白い考察だ。
大陸系の勢力から半島系の勢力へのシフトがあったのだろうか。 倭奴國の長が「漢委奴國王」の金印を貰って倭國王となった
倭國王の一人が帥升だ
「漢委奴國王」の発見された博多湾岸に帥升は居た そんな所にはいないよ。
倭王は本州でしか有り得ない。 >>29
後漢書 安帝紀
永初元年/冬十月、倭國遣使奉獻
帥升は倭国王ではなく、遣使の代表。
難升と続く海人族のリーダーで外務大臣。
後の阿曇族だろう。 >>29-31
「永初元年冬十月 倭國遣使奉獻」=「永初元年 倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見」
倭國遣使=倭奴國の帥
帥升は倭奴國の帥であり、倭奴國王をクーデターで倒した佐賀平野の覇者。 >倭奴國王をクーデターで倒した佐賀平野の覇者
根拠は?判断材料は?
何度も指摘されてるじゃん >>33
倭奴國は倭の代表で、倭の覇者ではない。福岡平野の覇者かどうかも怪しい。
帥升は、生口百六十人も献上し倭國王と認められた。
しかし、安帝の請見は叶わなかった。
名前は倭奴國の「帥」のまま。
生口百六十人は倭奴國の捕虜以外には考えられない。
神武の父等は、帥升に敗れた倭奴國の王族の一派が敗残難民となったものと考える。 >>34
「三雲遺跡」では、後漢代の王統を示す「玻璃壁、金銅四葉座飾金具」が出土している。
福岡県春日市の「須玖岡本遺跡」からも王統を示す「玻璃壁 」が出ている。
侯王の葬儀に用いられた中国からの下賜品である。
帥升の時代は、「井原鑓溝遺跡」に相当する。
福岡平野以外の何処から王統を表す出土品が出ているのか。
倭奴国を福岡以外の何処に相当できるのか。 後漢書「安帝永初元年、倭國王帥升等、獻生口百六十人、願請見」とある。
「願請見」は倭国側から願った事になるが、現実は逆だろう。
この時代は、中国の政変が韓半島に影響を与え、倭国にも大きく及んでいた。
当時の中国の状況を見てみると、後漢の帝位は父子直系相続であった。
第四代和帝に子がなく陰家の皇后が政権を担ったが、呪詛の疑いで廃位され、
美少女のケ家のスイに取って代わられた。
三年後和帝が死に一人息子も死んで、民間の和帝の落とし種で生後百日の
赤ちゃんを立てたが、すぐに死ぬ。亡父の弟の息子を連れて来て立てた。
「安帝」であり十三歳であった。
何んとか形を整えたが、運悪く数年の大雨で食料不足となり、姜族が造反して、
西域を放棄してしまう。高句麗国からは辺境に侵入され強奪を許す羽目になった。
また、周囲を自派で固めるが仲間割れを起こし分裂が生じた。
ケ皇后が女であり宦官が力を付けたため、排斥クーデターを起こすが失敗に終わり、
司空は自殺した。中国国内は散々たる状況で、この苦境を打破するため考え出されたのが、
数少なくなった友好国の中で紫綬の国の「漢委奴国」に働きかけ、友好使節団の
大朝貢パレードを演出し、国内を何んとか纏め上げることが企画されたと思われる。
「岡田英弘」
生口百六十人、帥升等とあり多くの酋長が参加した大表敬訪問となった。何時の時代も
人間の考えることは同じである。特に中国皇帝は朝貢を求めた。習近平が天皇謁見を
強引に行なったのもよく分かる。これが倭国王と格上の記載となっている理由であろう。 >>32
倭奴國王って何処から創り出したんだ?
歴史書には倭奴國と倭國王しか出てこんぞ! >>37
>倭奴國王って何処から創り出したんだ?
倭奴國王(5世紀の表記法)=漢委奴國王(1世紀の表記法)
倭奴國王は、倭奴國王統の王。
>>36
>「願請見」は倭国側から願った事になるが、現実は逆だろう。
捻じ曲げて憶測することはない。
後漢の不安定な政治状況の中だからこそ、
倭國王帥升一行を記録として取り上げたのである。
晋朝が成立して安定していた時の記録はそっけない。
「十一月己卯 倭人來獻方物」と記載されているだけ。
前朝の「魏正始元年春正月 東倭重譯納貢」と同じレベル。
「獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」
については一言もない。 >>35
>「三雲遺跡」では、後漢代の王統を示す「玻璃壁、金銅四葉座飾金具」が出土している。
> 福岡県春日市の「須玖岡本遺跡」からも王統を示す「玻璃壁 」が出ている。
> 侯王の葬儀に用いられた中国からの下賜品である。
AD100年迄の遺跡ですね。
>帥升の時代は、「井原鑓溝遺跡」に相当する。
>福岡平野以外の何処から王統を表す出土品が出ているのか。
>倭奴国を福岡以外の何処に相当できるのか。
出土品は未だ出ていませんが、
吉野ヶ里遺跡の墓制は漢文化の影響を受けているのは明らかです。
倭奴國は間違いなく福岡平野にありました。これを否定したことはありません。
帥升は福岡平野ではなく、佐賀平野なのです。
帥升王統の王都が吉野ヶ里遺跡なのです。
帥升王統は米多國の王です。
その港は有明海北岸の米多にあり、老松神社若宮神社の南側になります。 >>38
>倭奴國王(5世紀の表記法)=漢委奴國王(1世紀の表記法)
>倭奴國王は、倭奴國王統の王。
それでイイと思うね。
>吉野ヶ里遺跡の墓制は漢文化の影響を受けているのは明らかです。
吉野ヶ里の北内郭の東西・夏至・冬至の交点と角度はミクロの誤差。
当時の宗教的先進度は随一だろうね。
>帥升は福岡平野ではなく、佐賀平野なのです。
判断材料、根拠が必要だろう。
説明でなく説得だよ。 40・41
非常に興味深い説です。
ところで、吉野ヶ里が、漢文化の影響を受けているとのこと。
吉野ヶ里が漢文化の影響を受けているのは、どのような流れであるとご推察ですか。 >>40
>AD100年迄の遺跡ですね。
その時代に46,5cmの仿製鏡が作れたのかね?
3世紀までの幅があり、定説はない。
思い込みが激しいぞ。 >40
<整合性の意味>
「ずれがなく、揃うこと。」 や「矛盾点がないこと。」という意味です。 >>42
>吉野ヶ里が漢文化の影響を受けているのは、どのような流れであるとご推察ですか。
漢代には佐賀平野にも漢文化の流入が見られます。
ルートは二つ。壱岐→唐津→陸路東南→佐賀平野。
水行二十日ルート、壱岐→天草灘→有明海北岸米多の津。
しかし、交易の殆どは倭奴國等の福岡平野勢力が握っていた。
シナの認識も福岡平野が「倭國之極南界」であった。(倭國が極南界)
佐賀平野の米多國(倭面土國)が倭奴國と漢交易の利権を争い、倭奴國に勝った結果が107年の朝貢。
この時の米多國勝利のポイントは、倭奴國に虐げられていた一大國を味方に付けたこと。
福岡平野勢力が漢交易の為通過せざるを得ないのが一大國である。
その一大國が福岡平野勢力の大陸交易監視役。
米多國は末盧國を大陸交易の窓口として直轄支配。
これらは女王國体制にも引き継がれる。(卑弥呼は福岡平野勢力出身ではあるが) >>43
>その時代に46,5cmの仿製鏡が作れたのかね?
仿製鏡は銅鐸製造技術があれば製作可能。銅鏡より銅鐸のほうが鋳造技術が上。
3世紀までの幅を持たせたいのは、須玖岡本遺跡を奴國としたいからですね。 >>46
>仿製鏡は銅鐸製造技術があれば製作可能
あったのかい?
タラレバじゃ話にならんぞ
掲示板の適性が??? >>45 :大和 田直木
>壱岐→唐津→陸路東南→佐賀平野
佐賀に伊都国、邪馬台国があったのなら、何故入り口の唐津は衰退していくのか。
立岩遺跡付近は、素環頭太刀が17本も出土して繁栄を誇っているが・・・
考古学の裏付けが、まったく活かされていない。
>>40 出土品は未だ出ていませんが、
ないからだろう。 >>47
青銅の鋳造技術について専門家から学ぶべし。
ポイントは「糠」によるガス抜き技法。
「糠」によるガス抜き技法を知らない者は専門家ではない。 >>48
邪馬台国は佐賀平野ではないですよ。
米多國(倭面土國)が佐賀平野です。 >>50
入り口の話。
窓口の唐津が、何故衰退一途なのか? 肥前国風土記 神崎郡(佐賀県の東部、有明海北岸)米多の郷
「米多郷郡の南にあり。 此の郷の中に井あり。 名を米多井といふ。 水の味は鹹(から)し。
曩者(むかし)、海藻(め)、此の井の底に生ひたりき。
中略 井の底の海藻を御覧(みそなは)して、即て勅して名を賜ひて、海藻生ふる井といひ。
今は訛りて米多井と謂ひて郷の名と為せり。」
地下水が海水だったんだね
郷名は大国があったような由来じゃないけどね 中韓の歴史書では 倭国=倭奴国=伊都国
倭奴国は金印でも分かるように 博多湾岸 にあったんだよね。
伊都(倭奴国)や志摩(斯馬国)や不彌国や奴国の名残も現在でも残るしね。
そして倭人伝に 「伊都国 の北の 斯馬国〜奴国 まではあえて戸数や距離は省略する」とある。
これは 斯馬国〜奴国 までが密集してるということ。
そしてその 「斯馬国〜奴国までが女王が直接治めるところ」 とある。
つまりこれは 伊都国の北の志摩〜奴国の主に福岡平野又は福岡県域が女王の国であるという事。
これは 「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」 にも表れてる。
その南、「奴国の南に狗奴国あり」はつまり久留米付近の事。
「その他の国は遠絶にしてあえて詳しく書かない」←つまり南九州の事
「倭国の東、海を渡りそこにも国はある。それも倭種である」←つまり畿内等々
これは遺跡や出土品や様々な記述に全く矛盾しないという事実。
しかも新羅の4代王は半島の歴史書によると
「倭国の東北一千里の地から海に流され半島に辿りついた」とのこと。
倭国=博多湾岸の東北東北一千里は北九州市付近。 正に記述通りである。
更に、天孫族の筑紫は福岡であり、福岡には天孫族にかかわる寺社の総本宮や総本社
や天孫族の象徴が多数残ること。
記紀の記述でも筑紫国=福岡であることは容易にわかる事。
大国主は元々博多湾岸を治める、つまり倭奴国王からつながる筑紫の神々(豪族)の祖先神であること。
天孫族に筑紫の覇権争いに敗れ筑紫を追われ(国譲り)出雲に追放された事。
筑紫と出雲は大国主が祭事や天孫族が国産みで使った銅矛と同じ銅矛文化である事。
大国主が建てた出雲大社の本殿がなぜか西(筑紫)を向いてる事等々。
全てに矛盾が発生しないのはやはり博多湾岸が総ての答えだったという事実だろうね。 >>51
質問の意味不明
>>52
肥前国風土記の「米多」は「米田」の書き間違いでしたね。
老松神社と若宮神社で行われる他の浮流とは異なる米多浮流も興味深いですよ。 >>52
>地下水が海水だったんだね
台風で水浸しになる地に大国はねえだろな >>55
「>地下水が海水だったんだね 」は、
肥前國風土記の原文が作られた時代(6世紀?)でも海岸が近くにあり、
井戸を掘ると海水が湧き出して来たことを意味する。
佐賀平野と筑後平野は、規模の大きな低湿地農業地帯(沼田・牟田)。 水害
1742年 戌の満水:死者2,800人以上(長野県)
1885年 大阪・淀川大洪水
1896年 横田切れ:床下・床上浸水43,600戸(新潟県)
1907年 明治40年の大水害(山梨県)
1910年 関東大水害:死者・行方不明者900人を超える
1934年 室戸台風:大阪湾に高潮、死者行方不明3066人(昭和の三大台風)
1938年 阪神大水害:死者600人を超える
1945年 枕崎台風:広島県中心に死者行方不明3000人を超える(昭和の三大台風)
1947年 カスリーン台風(台風4709号):利根川氾濫、死者行方不明1930人(埼玉)
1953年 南紀豪雨(紀州大水害):死者1000人を超える
1953年 南山城の大雨(京都府)
1953年 昭和28年西日本水害は熊本を中心として死者行方不明1,001名。(福岡県・佐賀県・熊本県・大分県)
1957年 諫早豪雨:死者行方不明992人(長崎県)
1958年 狩野川台風:伊豆半島と東京付近に水害、死者行方不明1189人
1959年 伊勢湾台風:伊勢湾に高潮、死者行方不明5098人(昭和の三大台風)(愛知県、三重県)
1974年 多摩川水害:狛江市の堤防決壊で19戸が流出(山梨県、東京都、神奈川県)
1982年 昭和57年7月豪雨(長崎豪雨) 塩害
佐賀県の農作物に対する塩害は・有明海沿岸やその近隣干拓地を中心に発生しやすい。
また潮風害は台風等強風により海岸部から舞い上がった波しぶきが、農耕地に運ばれ農作物に付着し被害を及ぼす。
塩害の発生原因としては、海水の流入、塩分濃度の濃い用水の灌概、干拓地で見られる海水の湧き水、未除塩土、旱魃時の塩分の濃縮等によるものである。
本県での塩害は、主に新しい干拓地での未除塩土への作付けや灌概水への塩分の混入によって被害が発生している。
一方潮風害は、強風や雨を伴わない風台風の時に多く発生し、風とともに海水が飛散し農作物に付着して被害を与えるその範囲は海岸線のみでなく内陸部まで及ぶ。
作物は潮風害を受けると落葉、落果、葉枯れを起こし、さらに二次的に幹や主枝の日焼けをもたらして品質・収量に大きく影響を与える。
また被害がひどい場合には、枯死に至る。
塩害はその発生条件によって色々な場合があり、二つに分けられる。その一つは、土壌溶液の浸透圧の増加による作物の根に対する直接の障害である。
二つ目は、多量の塩分を溶存する土壌溶液からの特殊な成分の異常吸収によって引き起こされる作物栄養の代謝阻害である。
http://www.pref.saga.lg.jp/web/shigoto/_1075/_32933/ns-nousisetu/boujocenter/_10660/kisyougai/enngai.html 有明海干拓の歴史
日本最古の干拓は佐賀県で行われた。推古天皇の15年、605年大連秦河勝がおこなった九十九万代の干拓である。
下って鎌倉末期に佐賀市の南、熊本県天明村、旧銭堵村の文献が残されている。その後人工の干拓の時期に入るがその動機となったのは元寇である。
佐賀県は屈指の穀倉地帯であるが、江戸時代だけでも500箇所、6300ヘクタールの水田が作られた。長崎県の諫早平野も鎌倉末期以降醸成されたものである。
熊本藩の干拓事業は藩費の外藩主の私費、家老の出費、手永(村より大きい単位)の共同でおこなう大規模であったのに対し、
佐賀藩は零細であり、また諫早藩は藩営干拓も行った。その後公営の干拓、国の干拓が続いた。 >>45
>佐賀平野の米多國(倭面土國)が倭奴國と漢交易の利権を争い、倭奴國に勝った結果が107年の朝貢。
なんで米多國=倭面土國なん? 土はトだろ
>倭奴國に虐げられていた一大國を味方に付けたこと
何処に書かれてているの?
判断材料は?
>米多國は末盧國を大陸交易の窓口として直轄支配。
末盧國は>>48で衰退してるということだが >>60
面土は、メタと読む。
というか、中国語の音韻の変遷くらい勉強しろ、あほ。
日本語の常用漢字の発音で考えるな、ばかもん!! 倭国王師升はヤマトの葛城地方に居たんだよ。
まぁ簡単に判ると思うけどな。 >>60
>なんで米多國=倭面土國なん?
シナ人は、「音」よりも「意味」を優先する。
意味を優先する漢字を選択するので、発音は擬似音の漢字になることが多い。
委面の人の地の国 → 委面土國 → 倭面土[ト]國(シナ語表記)
メタ(米多・米田・目達)国 → 竹斯米多[タ]國(倭米多國)(倭語表記)
類例は東夷伝で多く見られるので省略
>判断材料は?
魏志倭人伝では、小国である壱岐対馬が対馬海峡交易を独占できている。
福岡平野の大国勢力が、鉄等がある対馬海峡交易を独占してしかるべきであるのに。
>>米多國は末盧國を大陸交易の窓口として直轄支配。
>末盧國は>>48で衰退してるということだが
末盧國は魏志倭人伝でも「官」不在。
これは、女王か伊都國の管理下にあったことを示している。
女王の直接管理下にある場合は一大率が管理。
伊都國の管理下の場合は伊都國の副官2名のどちらか。
なお、伊都國(倭都國)は、倭國乱で衰退した吉野ヶ里米多國が
佐賀平野を西へ10kmの惣座遺跡(肥前國庁跡付近)に遷都してきたもの。 >>63 :大和 田直木
>委面の人の地の国 → 委面土國 → 倭面土
三国志では「異面」と記載されている。
http://traitor.jp/china/3.html
「委面」を「倭面」に改竄したのは、范曄。
http://www.d3.dion.ne.jp/~mkpo/08.pdf#search='%E5%A6%82%E5%A2%A8%E5%A7%94%E9%9D%A2'
文献解釈20点。
>福岡平野の大国勢力が、鉄等がある対馬海峡交易を独占してしかるべきであるのに。
祭祀用となった「広形銅矛」の出土は、春日市と対馬。同勢力。
考古学の基礎0点。 >>63 名前:大和 田直木
綿津見の総本山は志賀島。
対馬には綿津見神社が77社あり、広形銅矛を御神体としている社が多い。
それが「漢委奴国王」の金印が下賜された理由だろう。
対馬郷土史家「永留 久恵」でも読んだら。 >>64
より詳しく説明すれば、
異面(如墨委面)→ 委面 → 倭面
「委→倭」は、范曄の改竄ではなく5世紀に合わせた表現方法の変更。
>祭祀用となった「広形銅矛」の出土は、春日市と対馬。同勢力。
同勢力ではなく、元同勢力。
対馬壱岐勢力の一部が福岡平野に移住したもの。
猿田彦を福岡平野から筑紫平野に追い出した後、1世紀までには主従逆転。
福岡平野側が壱岐対馬側を支配。
福岡平野側には壱岐対馬に対して特に対馬に対して祖先の地の意識があったと見える。 >>66
たまには根拠でも書いたら
殆んど妄想の類だよ >>65
昔読んだことがあります。
古田氏も阿麻弖留神社神社について述べていましたね。 >>67
>たまには根拠でも書いたら
根拠まで書くのは、確認作業が多くて面倒なんですよ。
2chには書ききれない。
ミニ結論の積み重ねだけで精精です。
短い説明で済む質問は受けられますが。 俺の友達にも、
木部(きべ)、本名木戸というひとがいたよ。
戦国時代、知恵で日本を国家転覆しようとしたろ。 >>69
根拠を示せないなら、受け手からすれば根拠の無い妄想と変わらない。
2chで書ききれない(投稿制限?)というなら、したらばでもどこでも好きなだけ書き散らして、リンクすれば良い。
言い訳がましく怠けるのなら、妄想呼ばわりされるのを甘受するんだな。 >>70
>田直木って意味わかるか自分自身で。
大和 田直木 = 奈良のどん百姓 奈良の土蜘蛛の成れの果て >>73
じゃあ、直津だとどういう意味になりますかね?
直江津っていう駅がありますけど。
「一大率」と「一大國」
「一支國」と「大率」が合成されて「一大率」
「一大率」と「一支國」が合成されて「一大國」 >>76
恥の上塗り
すでに恥をかいている上に,さらに恥をかくこと。 最低、こういう話題は、
その当時の古代中国語の漢字の音韻研究が重要なんだよ。
にも、かかわらず、現代の日本語の常用漢字の音韻で
解釈するやつ多すぎ。 >>78
○同意 その当時の古代中国語の漢字の音韻研究が重要なんだよ。
しかし、現状はろくな音韻研究しかない。出来ないのかも。 いや、逆に古代中国語の音韻研究での最重要資料で、最も纏まった体系を持つものって
日本語音の「呉音」ってヤツなのだがw 帥升とは当時の発音でシュセンと読むようです。
シュは福岡訛りでもとはスです。(福岡ではセンセイをシェンシェィと発音します)
よってスセンが正しいのです。(通訳がそうとう訛っていた)
天照の孫にににぎの命という人物がおりました。博多湾岸の葦原中国を領国としていました。
かれには三人の息子がいました。その一人(嫡男)の名がホスセリといいました。
ほは美称ですので、スセリが地の名前です。
スセリが訛ってシュセンと通訳しました。
糸島半島の近くに周船寺(スセンジ)というところがあります。
このスセンとは、彼の名に由来するものです。当時の倭国ではかなり著名な人物であったようです。
直接中国までいったようですから。 >>81
「伊都」(イト)は、3世紀の漢音(中原音)
「伊都」(イツ)は、6世紀の呉系音
>>80
>いや、逆に古代中国語の音韻研究での最重要資料で、最も纏まった体系を持つものって
>日本語音の「呉音」ってヤツなのだがw
私もそう見ている。
漢音と呼ばれるものが曲者である。
漢音と呼ばれるものは、現状では滅茶苦茶。 >>83
もっと近い人物がいるだろ、スイゼン天皇だよ、九州南部から入った葛城の王だ。
この辺りが半島と縁が深いのは言うまでもない。 >>83
いや「漢音」の本来の組織はむしろ体系的だよ。
ただし日本語の「漢音」が忠実なのは唐代の長安音に対してであって、
それ以前の中国語とは対応しない部分がある。
朝鮮音、ベトナム音、広東音なども唐の音韻を中心に整理されているが、
これらの言語では漢字の1字1音原則が比較的守られているから、波状的な
影響が混合してしまっていて唐代音だけに忠実とは言えない。
南北朝を北から統一した異民族系の隋唐は言語的にも秦漢の直接の継承者である
南朝の言語とは隔たりがあった。
日本語の呉音は百済音(実体不明)などの影響もあるだろうが、
基本、魏晋南朝系の音を反映していることは間違いなく、
現在に纏まって伝わる漢字音としては三国志や後漢書の書かれた当時の
中国語に一番近い体系を持つものなのは間違いない。
字音を元に話をするときには、まず辞書で呉音であることを確認してから
論拠にすること。
間違っても漢音ではイケナイ。ズーズーのとーほぐ弁である北京語で
解釈するのと大差ない。 倭の面土国の王なんだから、彼は。
これは当時の中国語の音韻で、メタ国とよぶ。
旧事本紀によると、吉野ヶ里遺跡のあったあたりは、
筑紫の米多国(メタ国)という行政区間だったらしい。 宗像渡海ルートが確立したのは4世紀と見える。
宗像 ⇔ 大島 → 沖ノ島西側 → 対馬北端 → 釜山
巨済島 → 対馬北端 → 沖ノ島東側 → 大島 ⇔ 宗像
沖ノ島には時計回り潮流が発生するので、
その潮流で渡海可能になるのは月齢の特定時期に限られる。
その特定時期以外は船が日本海に流される。 87
筑紫の米多国ですが、目田原という地名が吉野ヶ里付近に残っていますから、目田原付近が米多国であった可能性がありますが、吉野ヶ里町の旧名は三田川(みたがわ)です。これもメタに由来するものと思われますが以下がお考えですか。
また、風土記では隣の神埼は景行天皇により神幸(かむさき)と命名されたとされています。
神埼の旧名を調べていますが、ここも米多国であったのではないかと思っています。いかがお考えですか。 >>89
×目田原 ○目達原
提言
吉野ヶ里町「井柳」と上峰町「米多」の間を流れる川が「井柳川」。
「井柳川」が流れるところが元祖「三田川村」
「井柳川」の旧名が「三田川」か?
「三田」は「米多」に通ずる。 南極のピラミッドも知らないやつがもごもごもごもご、いい加減やめろと何度いわれたらわかるんだ?低脳! 90
ありがとうございます。
面白いですね。
久留米に高良山がありますが、高良山勢力と吉野ヶ里勢力は、どういう関係だったか考えています。
高良山には高木神から玉垂命へ変わっていますが、 これは吉野ヶ里にも影響があったとお考えですか。
質問ばかりで申し訳ありません。 久留米は豊姫、豊玉姫の伝承も根強いな。
これが気になって仕方がない。 豊姫とは台与のこと。これが九州説の大きな根拠だ。畿内には豊姫はいない。 久留米には豊姫神社があって、
周囲の神社で合祀されてるところも多い。
当然後世の製作だが、石の社に豊姫の人形が
祀られてるのを見て、ちょっとどきっとした >>92
高木神は歴代の吉野ヶ里勢力と同時代かより古い神です。
高良山の立地からみると、玉垂命(豊姫も)が筑紫平野東部内陸部の4ヶ国を
統合して邪馬台国(邪馬台国の原型)を作った人物ではないかと。
高良山(久留米)の勢力は新興勢力として吉野ヶ里の勢力と対立した。2世紀倭國乱の頃。
未だ裏付が不十分な仮説にしか過ぎません。 高良は孝霊だろ、他から来てるのだから
九州の人物ではないのだがw 『神社覈録』高良大社の項「高良は加波良と訓べし」(高良はカハラとヨムべし)
高良大社 祭神:高良玉垂命 配祀:八幡大神 住吉大神 合祀:豊比淘蜷_
水沼君が祀る神は宗像三女神
高良山の別名「高牟礼山」(たかむれやま)「不濡山」(ぬれせぬやま)
高牟礼の地名 鹿児島県出水市下大川内高牟礼
高牟禮神社 えびの市 出雲の孝霊山、別名カワラ山。または瓦山、韓山。
ここで半島からやってきた王と山比べして
大山に負けたと置いていったのが
孝霊山だという国引き神話の謂われ有り。 高良山、英彦山は非常に面白いですよね。
天忍穂耳と高木神の娘ヨロヅハタトヨアキチシヒメとの間にホヒカリ、ニニギの子が・・・
高良山の支配勢力の変遷が記紀により裏付けられたら、いいんですけどね。
高良山の地元の小学校の校歌に、タカムレという言葉が入ってるそうです。
地元では、タカムレという言葉に愛着があるってことでしょうかね。
いつか明らかにしたいなぁ〜 高牟礼は元々高良山にいた邪馬台国と親しい系列。
玉垂命は九州北岸から来た元祖大和朝廷系列で、
本拠地を福岡平野から
人口密度が高く、人口も多い筑紫平野に移した。 103
その話、非常に興味があります。
全体像がわかる資料など教えていただけませんか? 本当は、委奴面土國が正しい
つまり稲本
稲本という地名は宗像に在る
それ以外に稲本、稲元という地名は九州に無く
本州、四国でも4か所だけ
因みに稲本(INAMOTO)は大和(IAMATO)の語源に成った 肥の君の出自を教えて下さい。
できたら、邪馬台国や狗奴国、大和勢力との関係の点からだとありがたいです。 肥の君が火国造の一族のことを指すのなら、
初代神武天皇の第二皇子神八井耳命の後裔、建緒組命が10代崇神天皇のころ火国を征服し任じられたとされる。
日本書紀によると九州が大和勢力に組み込まれるのは12代景行天皇の親征、13代成務天皇の国造・県主整備なので
ウチはそれ以前からヤマト王権に従っていた由緒正しい家ですよ、と主張していることになる。
甥の速瓶玉命が阿蘇氏の祖。
崇神天皇は3世紀末〜4世紀前半の人なので、邪馬台国より後の話になる。
ほかに邪馬台国との関係でいえば火国造の流れから邪馬台国が出たという説を系譜研究の大家の太田亮が挙げていた。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm 北九州にあったのは宋人街
そこからのながれで石山本願寺とか発展してるから見てみろ
北条の政子なんかもそんときに帰依しとるわ 帥升について語るスレで本願寺とか政子とか馬鹿なの? 在日韓国人優遇より,まず日本人のための社会を!
「在日(日本に居座る韓国人,朝鮮人)特権」とは?
日本人の税金で,日本人の生活保護者以上に優遇!
・生活保護優遇・月額最低17万円無償で支給。
・在日韓国・朝鮮人64万人中46万人が無職。
・なお仕事を持っていても給付対象から外されることはない
・国民年金全額免除(“掛け金無し”で年金『受給』が可能)
・保険診療内の医療費は全額タダ(通院費も全額支給)
・市営交通無料乗車券給与・・仮名口座可(脱税の温床)
・上下水道基本料金免除
・JRの定期券割引
・NHK全額免除
・特別永住資格(外国籍のまま子々孫々とも日本に永住できる)
・公文書への通名使用可(在日隠蔽権獲得)
・公務員就職の一般職制限撤廃
・永住資格所有者の優先帰化
・公営住宅への優先入居権
・外国籍のまま公務員就職
・犯罪防止指紋捺印廃止
・朝鮮学校、韓国学校の保護者へ年間数十万円の補助金援助(所得に関係なく全額補助)
・大学センター試験へ韓国語の導入(朝鮮語受験者への異常な優遇)
・民族学校卒業者の無審査公私高校受験資格付与
・競争率の低い帰国子女枠で有利に進学可能
・朝鮮大学校卒業者の司法試験1次試験免除
・民族学校卒業者の大検免除 中世の肥前の豪族高木氏だが、火国造の後との説があるが、この高木氏はどういうわけか弟橘媛を祀っているようですが、両者はどのような関係かわかりますか? 「難升米」と「帥升」
これはどうやら、「海彦」と「山彦」に相当するようだ。
海軍の元帥と陸軍元帥と考えればうまく説明できるだろう。 >>111
高木氏がほかに祀る神として淀姫神があるが、この神は神功皇后の妹や豊玉姫命とされ、
ほかに氏流が鏡神社で神功皇后を、途中で養子に入ったとされる高向氏は宗像神を祀る。
これらに共通するのは海運に関連する女神であるということであり、その縁で弟橘姫を祀ることになったんだろう。 漢字二文字名だから何世代前からか倭国に住みついた中国系の支配者かも。
日本風の名前の記述なら漢字を五、六文字ぐらい使うじゃん。 二文字名ではなく「升」の一字名だろうな、王は主の誤写で。
倭国の王「帥升」ではなく倭国の主帥「升」 難升米の「難」は奴国の「奴」
難「升米」は倭国の主帥「升」の子孫だろう
倭国の主帥「升」の国は従って末盧国でも伊都国でもなく奴国だ 倭面土国をどう読むか。邪馬台国をどう読むか。
それぞれ時代が違うから、同じ国が違う表記になっているかもしれない。
ワメド国とヤマト国。
昔、ロバート・ミッチャムという俳優がいたが、アメリカ人が
発音しているのを聞いたらロバ・ミッチョンと聞こえた。 「面土国王」は「国王」を誤って二回書いただけだろう >>120
>倭面土国をどう読むか。邪馬台国をどう読むか。
倭面土國・・ヰメタ国・・倭米多國 吉野ヶ里を中心とした佐賀平野
邪馬台国・・邪馬壹國(ヤマヰ国) 北野地域と筑後平野内陸部の筑紫平野 「倭」も「壹」も「ヰ」とは読めないだろ
古田電波もたいがいにしろ
おまえは「冶」の字で与太話でもいてるのがお似合い >>123
>「倭」も「壹」も「ヰ」とは読めないだろ
3世紀のシナ人は、「倭」も「壹」も「イ」に近い音として聞き取ったのだ。 >>124
「イ」と「ヰ」じゃ発音が違うじゃん。その返事は適当すぎだろ 370 :日本@名無史さん:2014/09/28(日) 03:18:30.96
”委奴國”って、まともに読むと、イヌ国。
ソフバンCMの甲斐クンを連想しちゃった。(笑)
371 :日本@名無史さん:2014/09/28(日) 10:40:08.77
>>370
基礎から勉強しなおしなさいよw
372 :日本@名無史さん:2014/09/28(日) 23:53:04.18
>>370
はるかに後世の訛りまくった出鱈目な読み方を基準にする馬鹿丸出しの発想を捨てることが先決だ。 奴をドと読めるとしたら、倭面土国を倭面奴国と考えることはできるだろうか。
そしてこれを面奴国としたら、魏志倭人伝にある国の中で一番近いのは「彌奴国」となるだろうか。 倭国王師升。、、、
区切りを変えて 、
倭国の王師(軍師、国王の師(大師)で補佐)、升。 中国語の発音からすると
一番近いのは崇神天皇か垂仁天皇だろう
倭の奴の国の王とは異なり
師升は倭王だ
地位も一番高かったと推測できるな 『熊野』の読み(から転化の表記)。、、、イノ(伊野。井野。亥/猪、、、イノシシ?)。イヤ(弥。禮。祖谷。揖屋)。イヌ(狗(、、、天狗)。犬。去ぬ、伊怒(天村雲命の后が伊怒姫(伊加利に転化)))。
ユヤ(油谷とか)。ユヌ。ユノ(油野、湯野、)。 清湯山主狭漏彦八島篠命。
須賀の熊山の主、サロヒコ(サルタヒコ)、八島(日本列島)を統治した(所知食)命。 清湯山主狭漏彦八島篠命。
須賀の熊山の主、サロヒコ(サルタヒコ)、八島(日本列島)を統治した(所知食)命。 お暇なら♪読んでよね♪
倭国大乱における、
【新興「吉備」(塩)王国vs伝統「出雲」(鉄)王国】の対立→【邪馬台国vs狗奴国】の代理戦争に発展
【漢委奴国王〜帥升】までの伝統フィクサー・出雲(タタラ鉄王国)から、倭国大乱(帥升奪還)を経て、
【帥升〜卑弥呼〜天皇家】までの新興フィクサー・吉備(瀬戸内海の塩王国)へ、影の政権交代が起こり、
吉備の古墳文化を国家祭祀とした邪馬台国、そしてヤマト王権が誕生。その後の吉備の運命やいかに? @出雲では荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で、広形銅矛(北部九州)と銅鐸(近畿東海)の祭祀具が両方出土。
A倭国乱における新興吉備(瀬戸内海の塩王国)の台頭に危惧を抱いた出雲が、全国各地の国王の息子と娘を結婚させ、
その席で配ろうとしていた矢先、かつて自らが支援して建てた北部九州の奴国王・帥升「其国、本亦以男子為王、住
七八十年」の、(伊都国王を調略した)吉備による奪環事件が起こり、その墓(楯築弥生墳丘墓)を築造されてしまう。
Bその神威に乗じた吉備が出雲に攻め込んできて出雲は陥落。来るべき復活の日に備えて、広形銅矛と銅鐸を埋納。
→後に天皇家による「出雲の国譲り」として語られる。官(国造)弥弥が置かれ、魏志倭人伝に「投馬国」と書かれる。
C吉備はさらに出雲との関係が深かった東海の狗奴国を征服すべく、大和の唐古鍵遺跡を支援して邪馬台国を建てる。
D卑弥弓呼との戦争が始まり、想定外の大苦戦に見舞われた邪馬台国連合は239年魏帝に朝貢。「親魏倭王」となり、
銅鏡百枚を(厭戦気分&平和希求の)全国の王に配る調略が奏功し、形勢逆転。
E危惧を抱いた狗古智卑狗が寝返り、卑弥弓呼の首を台与に差出して、邪馬台国の勝利。台与は西晋に報告(266年)。
官(国造)だけとなった投馬国(出雲)と狗奴国(尾張)の故地では、前方後方墳が築造される。
F巫女(神とのみ交わる)台与の死後、跡継ぎが途絶え、吉備は磐余の崇神(天皇家)を倭王とし、ヤマト王権成立。
G吉備の全面支援で大王になれた天皇家は前方後円墳祭祀を続行。吉備は神功皇后の三韓征伐にも全面協力した功績で、
続く応神/仁徳の「倭の五王」時代、造山&作山古墳を築造。
Hしかしその末期、ヤマト王権が最盛期を迎える雄略(武)没後、建国の秘密を知る吉備は粛清され、一官(国造)へ。
I天武の時代(天皇家の万世一系に都合の悪い)吉備と邪馬台国は記紀から抹殺され、吉備津彦の鬼退治のみ語られる。 奴国の主帥だろうな、名は升。この子孫が難升米。この難(な)も奴国の(な)だろう 吉備自体が出雲と同じ、播磨による制圧対象だったんだよね。
播磨は吉備を制圧後、吉備を拠点に出雲を調略し、後顧の憂いを絶って、晴れて大和へ進出。『播磨国風土記』に欠損、書き換えがあって見られないが類推すると↑のようなことになる。 帥升=懿徳天皇と見る。
日本書紀は応神、景行、崇神、孝霊の即位年を120年ずつ過去に延長している。
107年から600年遡ると懿徳天皇在位の真ん中の年になる。 懿徳の和風諡号にはオホヤマトが含まれるが孝昭で途絶え、孝霊で復活する。
懿徳は倭面土国、孝霊以後は邪馬台国であろう。
孝昭・孝安・孝霊・孝元と「孝」が続くが、これは漢の皇帝と同じでまさに「漢風」諡号。
淡海三船は懿徳=帥升と考えていたのではないか。 帥升・師升は和語とは思えないから、倭人だとしても漢名を自称したんだろうな。
それなら「倭面土国」も自称と思われるが、なぜか「中華思想による蔑称」とされることが多い。
だが「面」も「土」も別に悪い意味は無い。
古事記の国生みで九州と四国が「身一つで面四つ」と表現されている。
「倭面土国」がこうした倭人独特の思想による自称ならば面白いと思う。
ただ、それを読んだ中国人が倭人の入れ墨を連想してしまった可能性はある。 成務天皇紀で山陽=影面(かげとも)、山陰=背面(そとも)というのもあったな。 「丑寅日本国に倭国の皇統を砕く書が残っている。秩父に残った蘇我一族の国記及び天皇記である。将門を討ったけれども、本命の国記、天皇記の奪取がならなかった。倭国朝廷の企ても不覚に終わったのである」 「帥」も「師」も神武紀に頻出するが、「升」が不明。そこで妄想。
「狭野尊」=「狭騰尊」(神功紀の神名)と考え、「ノボリ」の漢訳としておく(^^) ニニギの降臨がサオリで、神武がサノボリということか。 >>144
その神名は神功紀の一書に「表筒雄・中筒雄・底筒雄」(住吉三神)の別名として出てくるが、本文ではこの三神は日向の国にいるとされている。
「五御魂」は五瀬命を連想させる。ちょっと気になる名ではある。 神武伝承の五瀬命と、神功伝承の仲哀天皇は似ていなくもないわな。 ○○天皇という呼び方は後世に付けられた名前だから、当然その当時はそんな呼び方は
されてない訳で、帥升は王の本名の響きから当て字されてると思うな。
スシかソシか、そんな感じの本名だったんだろう。 スサの王、と言いたかったことは分かる。
判断は保留。 160人という生口が多すぎる。運ぶ手間を考えると日本ではないのでは?
王が直接行くのも不自然。そこまでやって金印もらえないのも不自然。
山海経に出てくる燕に属す倭なんじゃない? 王
帥・・・・・大名
升・・・・・小名
等・・・・・たち
役職であって、人名ではない
彼らが連名で生口を献上した 倭面土の帥升は武力だけのつまんねえ人だから、漢王は会ってもくれなかったんじゃないかな?
卑弥呼は並外れた霊能者か超能力者だもの。
会う前から魏王はそれを知ってたはず。
扱いが違うのは当然だろう。 帥って字が付く人名、中国史や日本史に出てくるのか?
普通は役職だと思うが ご近所の小国同士連れ立って
帥「升」等30名ほどの御一行は
160人の生口を引き連れて朝貢に行ったが
一つの大きな勢力とは思われておらず
印綬下賜には至らなかった。
30国まとまってからまた来てね、と。 30人で160人の生口を管理するのは難しいのでは? >>159
生口の中に小隊長みたいな人間を
置くんですよ。 >>165
現代中国語を論じているのではない。
シナ語の有気音と無気音について論じているのだ。
「トマト」
日本人の耳には、シナ語では「ドマト」と聞こえる。
「有気音+母音」は、日本人には濁音と聞こえ、
「有気音単独」は、日本人には清音と聞こえる。 >>167
シナ語は現代も古代も同じ。
漢字には、同音異義字が多い。
それらを判別するには、発音の種類を増やさなければならない。
その方法として母音と子音の種類を増やさなくてはならない。
*母音には4〜8種類の声調が必要。
(現代標準普通話の声調は4種類。現代地方話の声調は最大8種類)
*子音には有気音と無気音で種類を増やす必要。
これで、同音の発音は8〜16種類に増える。 べジタリアンの生口はおいしいんだそうな
パプアニューギニアの原住民は日本人が一番美味しいと言って
よだれをたらした 帥升は綏靖天皇だろう。後漢は安帝の時代だが、皇太后のケ綏が摂政をしていた。この「綏」が入っている。 ていうか同音異義語が多いと思ってるのは日本人だろ
中国の発音は36個あるからな 倭国の王師、升(霎?、、、最高巫女/ヒミコ)。ではないのか?
王師、、、王の最高顧問の師(幼少期)、師父(長じて、相談、教導役) 王師、、、軍団
軍隊。中国の周代の軍制では、二千五百人の一隊を師、五師を軍とする。 「師団・王師・舟師・水師・出師(すいし)」
結局のところ、倭国の王師(軍団、国軍)を率いる升(勢い盛んな者)
位な意味しか無い(個人名ではなく、地位を表した)のでは? 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
4Y4M8 後漢では105年に和帝が死ぬと、皇后の綏が摂政になった。121年に綏が死ぬと、安帝の親政となる。125年、安帝の死後に劉懿が少帝となる。
綏靖、安寧、懿徳天皇はこの一字ずつを取ったものか。 少帝懿が数ヵ月で死んだ後、順帝(孝順)・桓帝(孝桓)・霊帝(孝霊)・献帝(孝献)の4代で後漢は終わる(在位の短い皇帝を除く)。
懿徳天皇の後、孝昭・孝安・孝霊・孝元と「孝」で始まる天皇が4代続く。 摂政皇太后の綏が綏靖天皇、安帝が安寧天皇、少帝の劉懿が懿徳天皇の時代ならば和帝が神武天皇の時代になる。
日本書紀で景行天皇12年から19年の九州巡幸は西暦82年から89年、神武東征と同じく7年かかっており、和帝の永元元年に終わっているのは何かの暗示かもしれない。 西暦82年(章帝の建初7年)は劉肇(後の和帝)が兄の劉慶に代わって皇太子になった年だった。 景行天皇の九州巡幸が、神武東遷の実年代を意識して書かれているとすれば、日本書紀の編者は皇太后綏・安帝・少帝懿も意識していただろう。
漢風諡号は後世に作られたとしても、淡海三船は編者の意向を知っていたと言える。 日本書紀は後漢書を引用しないが、帥升をヤマトタケルの時代にした。ヤマトタケルと綏靖天皇は行動が似ており、編者は帥升=綏靖を暗示している。 後漢書・安帝紀(少帝懿も含む)には元号「永寧」もあり「懿徳」の語もある。皇太后・綏の名は皇后紀にある。綏靖天皇の「靖」を除き、安寧・懿徳天皇の諡号は解明できる。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
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