倭國王帥升とは一体何者だったのか?
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0001日本@名無史さん
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2013/09/24(火) 22:15:33.73
『後漢書』孝安帝紀東夷伝に初めて出てくる日本列島にいた国王であるが彼は一体何者なのでしょうか?
北九州在住説が有力なのだが後にでてくる邪馬台国の卑弥呼と関係あるのか?
また記紀に書かれた神話上の人物と何ら関係あるのか?
この謎の倭王帥升について議論しましょう。
0038大和 田直木
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2014/01/12(日) 02:18:17.04
>>37
>倭奴國王って何処から創り出したんだ?

倭奴國王(5世紀の表記法)=漢委奴國王(1世紀の表記法)
倭奴國王は、倭奴國王統の王。


>>36
>「願請見」は倭国側から願った事になるが、現実は逆だろう。

捻じ曲げて憶測することはない。
後漢の不安定な政治状況の中だからこそ、
倭國王帥升一行を記録として取り上げたのである。

晋朝が成立して安定していた時の記録はそっけない。
「十一月己卯 倭人來獻方物」と記載されているだけ。
前朝の「魏正始元年春正月 東倭重譯納貢」と同じレベル。
「獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」
については一言もない。
0040大和 田直木
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2014/01/12(日) 05:49:45.51
>>35
>「三雲遺跡」では、後漢代の王統を示す「玻璃壁、金銅四葉座飾金具」が出土している。
> 福岡県春日市の「須玖岡本遺跡」からも王統を示す「玻璃壁 」が出ている。
> 侯王の葬儀に用いられた中国からの下賜品である。

AD100年迄の遺跡ですね。

>帥升の時代は、「井原鑓溝遺跡」に相当する。
>福岡平野以外の何処から王統を表す出土品が出ているのか。
>倭奴国を福岡以外の何処に相当できるのか。

出土品は未だ出ていませんが、
吉野ヶ里遺跡の墓制は漢文化の影響を受けているのは明らかです。
倭奴國は間違いなく福岡平野にありました。これを否定したことはありません。

帥升は福岡平野ではなく、佐賀平野なのです。
帥升王統の王都が吉野ヶ里遺跡なのです。
帥升王統は米多國の王です。
その港は有明海北岸の米多にあり、老松神社若宮神社の南側になります。
0041日本@名無史さん
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2014/01/12(日) 08:28:41.76
>>38
>倭奴國王(5世紀の表記法)=漢委奴國王(1世紀の表記法)
>倭奴國王は、倭奴國王統の王。

それでイイと思うね。

>吉野ヶ里遺跡の墓制は漢文化の影響を受けているのは明らかです。

吉野ヶ里の北内郭の東西・夏至・冬至の交点と角度はミクロの誤差。
当時の宗教的先進度は随一だろうね。

>帥升は福岡平野ではなく、佐賀平野なのです。

判断材料、根拠が必要だろう。
説明でなく説得だよ。
0042日本@名無史さん
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2014/01/12(日) 10:33:09.82
40・41
非常に興味深い説です。
ところで、吉野ヶ里が、漢文化の影響を受けているとのこと。
吉野ヶ里が漢文化の影響を受けているのは、どのような流れであるとご推察ですか。
0043日本@名無史さん
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2014/01/12(日) 12:17:13.74
>>40
>AD100年迄の遺跡ですね。

その時代に46,5cmの仿製鏡が作れたのかね?
3世紀までの幅があり、定説はない。
思い込みが激しいぞ。
0044日本@名無史さん
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2014/01/12(日) 20:56:00.88
>40

<整合性の意味>

「ずれがなく、揃うこと。」 や「矛盾点がないこと。」という意味です。
0045大和 田直木
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2014/01/13(月) 10:56:38.58
>>42
>吉野ヶ里が漢文化の影響を受けているのは、どのような流れであるとご推察ですか。

漢代には佐賀平野にも漢文化の流入が見られます。
ルートは二つ。壱岐→唐津→陸路東南→佐賀平野。
水行二十日ルート、壱岐→天草灘→有明海北岸米多の津。

しかし、交易の殆どは倭奴國等の福岡平野勢力が握っていた。
シナの認識も福岡平野が「倭國之極南界」であった。(倭國が極南界)
佐賀平野の米多國(倭面土國)が倭奴國と漢交易の利権を争い、倭奴國に勝った結果が107年の朝貢。
この時の米多國勝利のポイントは、倭奴國に虐げられていた一大國を味方に付けたこと。
福岡平野勢力が漢交易の為通過せざるを得ないのが一大國である。
その一大國が福岡平野勢力の大陸交易監視役。

米多國は末盧國を大陸交易の窓口として直轄支配。
これらは女王國体制にも引き継がれる。(卑弥呼は福岡平野勢力出身ではあるが)
0046大和 田直木
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2014/01/13(月) 11:01:36.71
>>43
>その時代に46,5cmの仿製鏡が作れたのかね?
仿製鏡は銅鐸製造技術があれば製作可能。銅鏡より銅鐸のほうが鋳造技術が上。
3世紀までの幅を持たせたいのは、須玖岡本遺跡を奴國としたいからですね。
0047日本@名無史さん
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2014/01/13(月) 11:46:22.18
>>46
>仿製鏡は銅鐸製造技術があれば製作可能

あったのかい?
タラレバじゃ話にならんぞ
掲示板の適性が???
0048日本@名無史さん
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2014/01/13(月) 12:16:36.91
>>45 :大和 田直木
>壱岐→唐津→陸路東南→佐賀平野

佐賀に伊都国、邪馬台国があったのなら、何故入り口の唐津は衰退していくのか。
立岩遺跡付近は、素環頭太刀が17本も出土して繁栄を誇っているが・・・

考古学の裏付けが、まったく活かされていない。

>>40 出土品は未だ出ていませんが、
ないからだろう。
0049大和 田直木
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2014/01/13(月) 12:46:31.15
>>47
青銅の鋳造技術について専門家から学ぶべし。
ポイントは「糠」によるガス抜き技法。

「糠」によるガス抜き技法を知らない者は専門家ではない。
0050大和 田直木
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2014/01/13(月) 12:53:06.09
>>48
邪馬台国は佐賀平野ではないですよ。
米多國(倭面土國)が佐賀平野です。
0051日本@名無史さん
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2014/01/13(月) 13:12:09.88
>>50
入り口の話。
窓口の唐津が、何故衰退一途なのか?
0052日本@名無史さん
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2014/01/13(月) 14:19:01.26
肥前国風土記 神崎郡(佐賀県の東部、有明海北岸)米多の郷

「米多郷郡の南にあり。 此の郷の中に井あり。 名を米多井といふ。 水の味は鹹(から)し。
曩者(むかし)、海藻(め)、此の井の底に生ひたりき。
中略 井の底の海藻を御覧(みそなは)して、即て勅して名を賜ひて、海藻生ふる井といひ。
今は訛りて米多井と謂ひて郷の名と為せり。」

地下水が海水だったんだね
郷名は大国があったような由来じゃないけどね
0053筑紫倭皇帝
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2014/01/13(月) 14:50:34.78
中韓の歴史書では 倭国=倭奴国=伊都国
倭奴国は金印でも分かるように 博多湾岸 にあったんだよね。
伊都(倭奴国)や志摩(斯馬国)や不彌国や奴国の名残も現在でも残るしね。

そして倭人伝に 「伊都国 の北の 斯馬国〜奴国 まではあえて戸数や距離は省略する」とある。
これは 斯馬国〜奴国 までが密集してるということ。
そしてその 「斯馬国〜奴国までが女王が直接治めるところ」 とある。
つまりこれは 伊都国の北の志摩〜奴国の主に福岡平野又は福岡県域が女王の国であるという事。

これは 「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」 にも表れてる。

その南、「奴国の南に狗奴国あり」はつまり久留米付近の事。
「その他の国は遠絶にしてあえて詳しく書かない」←つまり南九州の事
「倭国の東、海を渡りそこにも国はある。それも倭種である」←つまり畿内等々

これは遺跡や出土品や様々な記述に全く矛盾しないという事実。

しかも新羅の4代王は半島の歴史書によると
「倭国の東北一千里の地から海に流され半島に辿りついた」とのこと。
倭国=博多湾岸の東北東北一千里は北九州市付近。 正に記述通りである。

更に、天孫族の筑紫は福岡であり、福岡には天孫族にかかわる寺社の総本宮や総本社
や天孫族の象徴が多数残ること。
記紀の記述でも筑紫国=福岡であることは容易にわかる事。
大国主は元々博多湾岸を治める、つまり倭奴国王からつながる筑紫の神々(豪族)の祖先神であること。
天孫族に筑紫の覇権争いに敗れ筑紫を追われ(国譲り)出雲に追放された事。
筑紫と出雲は大国主が祭事や天孫族が国産みで使った銅矛と同じ銅矛文化である事。
大国主が建てた出雲大社の本殿がなぜか西(筑紫)を向いてる事等々。

全てに矛盾が発生しないのはやはり博多湾岸が総ての答えだったという事実だろうね。
0054大和 田直木
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2014/01/13(月) 14:57:21.93
>>51
質問の意味不明

>>52
肥前国風土記の「米多」は「米田」の書き間違いでしたね。

老松神社と若宮神社で行われる他の浮流とは異なる米多浮流も興味深いですよ。
0055日本@名無史さん
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2014/01/13(月) 21:02:45.67
>>52
>地下水が海水だったんだね
台風で水浸しになる地に大国はねえだろな
0056大和 田直木
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2014/01/13(月) 21:54:38.36
>>55
「>地下水が海水だったんだね 」は、
肥前國風土記の原文が作られた時代(6世紀?)でも海岸が近くにあり、
井戸を掘ると海水が湧き出して来たことを意味する。

佐賀平野と筑後平野は、規模の大きな低湿地農業地帯(沼田・牟田)。
0057日本@名無史さん
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2014/01/13(月) 22:06:29.98
水害

1742年 戌の満水:死者2,800人以上(長野県)
1885年 大阪・淀川大洪水
1896年 横田切れ:床下・床上浸水43,600戸(新潟県)
1907年 明治40年の大水害(山梨県)
1910年 関東大水害:死者・行方不明者900人を超える
1934年 室戸台風:大阪湾に高潮、死者行方不明3066人(昭和の三大台風)
1938年 阪神大水害:死者600人を超える
1945年 枕崎台風:広島県中心に死者行方不明3000人を超える(昭和の三大台風)
1947年 カスリーン台風(台風4709号):利根川氾濫、死者行方不明1930人(埼玉)
1953年 南紀豪雨(紀州大水害):死者1000人を超える
1953年 南山城の大雨(京都府)
1953年 昭和28年西日本水害は熊本を中心として死者行方不明1,001名。(福岡県・佐賀県・熊本県・大分県)
1957年 諫早豪雨:死者行方不明992人(長崎県)
1958年 狩野川台風:伊豆半島と東京付近に水害、死者行方不明1189人
1959年 伊勢湾台風:伊勢湾に高潮、死者行方不明5098人(昭和の三大台風)(愛知県、三重県)
1974年 多摩川水害:狛江市の堤防決壊で19戸が流出(山梨県、東京都、神奈川県)
1982年 昭和57年7月豪雨(長崎豪雨)
0058日本@名無史さん
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2014/01/13(月) 22:07:20.60
塩害

佐賀県の農作物に対する塩害は・有明海沿岸やその近隣干拓地を中心に発生しやすい。
また潮風害は台風等強風により海岸部から舞い上がった波しぶきが、農耕地に運ばれ農作物に付着し被害を及ぼす。
塩害の発生原因としては、海水の流入、塩分濃度の濃い用水の灌概、干拓地で見られる海水の湧き水、未除塩土、旱魃時の塩分の濃縮等によるものである。
本県での塩害は、主に新しい干拓地での未除塩土への作付けや灌概水への塩分の混入によって被害が発生している。
一方潮風害は、強風や雨を伴わない風台風の時に多く発生し、風とともに海水が飛散し農作物に付着して被害を与えるその範囲は海岸線のみでなく内陸部まで及ぶ。
作物は潮風害を受けると落葉、落果、葉枯れを起こし、さらに二次的に幹や主枝の日焼けをもたらして品質・収量に大きく影響を与える。
また被害がひどい場合には、枯死に至る。
塩害はその発生条件によって色々な場合があり、二つに分けられる。その一つは、土壌溶液の浸透圧の増加による作物の根に対する直接の障害である。
二つ目は、多量の塩分を溶存する土壌溶液からの特殊な成分の異常吸収によって引き起こされる作物栄養の代謝阻害である。

http://www.pref.saga.lg.jp/web/shigoto/_1075/_32933/ns-nousisetu/boujocenter/_10660/kisyougai/enngai.html
0059日本@名無史さん
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2014/01/13(月) 22:26:32.98
有明海干拓の歴史

日本最古の干拓は佐賀県で行われた。推古天皇の15年、605年大連秦河勝がおこなった九十九万代の干拓である。
下って鎌倉末期に佐賀市の南、熊本県天明村、旧銭堵村の文献が残されている。その後人工の干拓の時期に入るがその動機となったのは元寇である。
佐賀県は屈指の穀倉地帯であるが、江戸時代だけでも500箇所、6300ヘクタールの水田が作られた。長崎県の諫早平野も鎌倉末期以降醸成されたものである。
熊本藩の干拓事業は藩費の外藩主の私費、家老の出費、手永(村より大きい単位)の共同でおこなう大規模であったのに対し、
佐賀藩は零細であり、また諫早藩は藩営干拓も行った。その後公営の干拓、国の干拓が続いた。
0060日本@名無史さん
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2014/01/13(月) 23:03:07.74
>>45
>佐賀平野の米多國(倭面土國)が倭奴國と漢交易の利権を争い、倭奴國に勝った結果が107年の朝貢。

なんで米多國=倭面土國なん? 土はトだろ

>倭奴國に虐げられていた一大國を味方に付けたこと

何処に書かれてているの?
判断材料は?

>米多國は末盧國を大陸交易の窓口として直轄支配。

末盧國は>>48で衰退してるということだが
0061日本@名無史さん
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2014/01/14(火) 01:35:43.24
>>60
面土は、メタと読む。
というか、中国語の音韻の変遷くらい勉強しろ、あほ。
日本語の常用漢字の発音で考えるな、ばかもん!!
0062日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/14(火) 08:30:55.76
倭国王師升はヤマトの葛城地方に居たんだよ。
まぁ簡単に判ると思うけどな。
0063大和 田直木
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2014/01/14(火) 10:57:19.52
>>60
>なんで米多國=倭面土國なん?

シナ人は、「音」よりも「意味」を優先する。
意味を優先する漢字を選択するので、発音は擬似音の漢字になることが多い。

委面の人の地の国 → 委面土國 → 倭面土[ト]國(シナ語表記)
メタ(米多・米田・目達)国 → 竹斯米多[タ]國(倭米多國)(倭語表記)
類例は東夷伝で多く見られるので省略

>判断材料は?

魏志倭人伝では、小国である壱岐対馬が対馬海峡交易を独占できている。
福岡平野の大国勢力が、鉄等がある対馬海峡交易を独占してしかるべきであるのに。

>>米多國は末盧國を大陸交易の窓口として直轄支配。
>末盧國は>>48で衰退してるということだが

末盧國は魏志倭人伝でも「官」不在。
これは、女王か伊都國の管理下にあったことを示している。
女王の直接管理下にある場合は一大率が管理。
伊都國の管理下の場合は伊都國の副官2名のどちらか。
なお、伊都國(倭都國)は、倭國乱で衰退した吉野ヶ里米多國が
佐賀平野を西へ10kmの惣座遺跡(肥前國庁跡付近)に遷都してきたもの。
0064日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/14(火) 18:29:26.66
>>63 :大和 田直木
>委面の人の地の国 → 委面土國 → 倭面土

三国志では「異面」と記載されている。
http://traitor.jp/china/3.html
「委面」を「倭面」に改竄したのは、范曄。
http://www.d3.dion.ne.jp/~mkpo/08.pdf#search='%E5%A6%82%E5%A2%A8%E5%A7%94%E9%9D%A2'
文献解釈20点。

>福岡平野の大国勢力が、鉄等がある対馬海峡交易を独占してしかるべきであるのに。

祭祀用となった「広形銅矛」の出土は、春日市と対馬。同勢力。
考古学の基礎0点。
0065日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/14(火) 18:41:11.42
>>63 名前:大和 田直木

綿津見の総本山は志賀島。
対馬には綿津見神社が77社あり、広形銅矛を御神体としている社が多い。

それが「漢委奴国王」の金印が下賜された理由だろう。

対馬郷土史家「永留 久恵」でも読んだら。
0066大和 田直木
垢版 |
2014/01/14(火) 19:08:44.32
>>64
より詳しく説明すれば、
異面(如墨委面)→ 委面 → 倭面
「委→倭」は、范曄の改竄ではなく5世紀に合わせた表現方法の変更。

>祭祀用となった「広形銅矛」の出土は、春日市と対馬。同勢力。

同勢力ではなく、元同勢力。
対馬壱岐勢力の一部が福岡平野に移住したもの。
猿田彦を福岡平野から筑紫平野に追い出した後、1世紀までには主従逆転。
福岡平野側が壱岐対馬側を支配。
福岡平野側には壱岐対馬に対して特に対馬に対して祖先の地の意識があったと見える。
0067日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/14(火) 19:35:17.11
>>66
たまには根拠でも書いたら
殆んど妄想の類だよ
0068大和 田直木
垢版 |
2014/01/14(火) 19:45:27.37
>>65
昔読んだことがあります。
古田氏も阿麻弖留神社神社について述べていましたね。
0069大和 田直木
垢版 |
2014/01/14(火) 19:58:47.80
>>67
>たまには根拠でも書いたら

根拠まで書くのは、確認作業が多くて面倒なんですよ。
2chには書ききれない。
ミニ結論の積み重ねだけで精精です。

短い説明で済む質問は受けられますが。
0071日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/14(火) 20:02:46.07
俺の友達にも、
木部(きべ)、本名木戸というひとがいたよ。
戦国時代、知恵で日本を国家転覆しようとしたろ。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/14(火) 20:04:57.71
>>69
根拠を示せないなら、受け手からすれば根拠の無い妄想と変わらない。
2chで書ききれない(投稿制限?)というなら、したらばでもどこでも好きなだけ書き散らして、リンクすれば良い。
言い訳がましく怠けるのなら、妄想呼ばわりされるのを甘受するんだな。
0073大和 田直木
垢版 |
2014/01/14(火) 20:53:43.02
>>70
>田直木って意味わかるか自分自身で。

大和 田直木 = 奈良のどん百姓  奈良の土蜘蛛の成れの果て
0074日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/14(火) 22:19:44.78
妄想劇は終わり?
0075日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/14(火) 22:45:40.66
>>73
じゃあ、直津だとどういう意味になりますかね?
直江津っていう駅がありますけど。
0076大和 田直木
垢版 |
2014/01/17(金) 19:39:19.55
  
「一大率」と「一大國」

「一支國」と「大率」が合成されて「一大率」
「一大率」と「一支國」が合成されて「一大國」
0077日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/17(金) 19:49:50.05
>>76
恥の上塗り
すでに恥をかいている上に,さらに恥をかくこと。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/18(土) 02:23:10.62
最低、こういう話題は、
その当時の古代中国語の漢字の音韻研究が重要なんだよ。
にも、かかわらず、現代の日本語の常用漢字の音韻で
解釈するやつ多すぎ。
0079大和 田直木
垢版 |
2014/01/18(土) 05:25:14.22
>>78

○同意 その当時の古代中国語の漢字の音韻研究が重要なんだよ。

しかし、現状はろくな音韻研究しかない。出来ないのかも。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/18(土) 06:28:43.62
いや、逆に古代中国語の音韻研究での最重要資料で、最も纏まった体系を持つものって
日本語音の「呉音」ってヤツなのだがw
0081日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/18(土) 07:25:32.13
>>78,79
じゃ、「伊都」を「イト」と呼ぶな
0082サガミハラハラ
垢版 |
2014/01/18(土) 08:39:42.31
帥升とは当時の発音でシュセンと読むようです。
シュは福岡訛りでもとはスです。(福岡ではセンセイをシェンシェィと発音します)
よってスセンが正しいのです。(通訳がそうとう訛っていた)
天照の孫にににぎの命という人物がおりました。博多湾岸の葦原中国を領国としていました。
かれには三人の息子がいました。その一人(嫡男)の名がホスセリといいました。
ほは美称ですので、スセリが地の名前です。
スセリが訛ってシュセンと通訳しました。
糸島半島の近くに周船寺(スセンジ)というところがあります。
このスセンとは、彼の名に由来するものです。当時の倭国ではかなり著名な人物であったようです。
直接中国までいったようですから。
0083大和 田直木
垢版 |
2014/01/18(土) 08:47:45.12
>>81
「伊都」(イト)は、3世紀の漢音(中原音)
「伊都」(イツ)は、6世紀の呉系音

>>80
>いや、逆に古代中国語の音韻研究での最重要資料で、最も纏まった体系を持つものって
>日本語音の「呉音」ってヤツなのだがw

私もそう見ている。
漢音と呼ばれるものが曲者である。
漢音と呼ばれるものは、現状では滅茶苦茶。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/18(土) 09:51:32.74
>>83
もっと近い人物がいるだろ、スイゼン天皇だよ、九州南部から入った葛城の王だ。
この辺りが半島と縁が深いのは言うまでもない。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/18(土) 17:24:45.50
>>83
いや「漢音」の本来の組織はむしろ体系的だよ。
ただし日本語の「漢音」が忠実なのは唐代の長安音に対してであって、
それ以前の中国語とは対応しない部分がある。
朝鮮音、ベトナム音、広東音なども唐の音韻を中心に整理されているが、
これらの言語では漢字の1字1音原則が比較的守られているから、波状的な
影響が混合してしまっていて唐代音だけに忠実とは言えない。

南北朝を北から統一した異民族系の隋唐は言語的にも秦漢の直接の継承者である
南朝の言語とは隔たりがあった。
日本語の呉音は百済音(実体不明)などの影響もあるだろうが、
基本、魏晋南朝系の音を反映していることは間違いなく、
現在に纏まって伝わる漢字音としては三国志や後漢書の書かれた当時の
中国語に一番近い体系を持つものなのは間違いない。

字音を元に話をするときには、まず辞書で呉音であることを確認してから
論拠にすること。
間違っても漢音ではイケナイ。ズーズーのとーほぐ弁である北京語で
解釈するのと大差ない。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/18(土) 21:20:54.79
不思議発見で、宗像氏の特集してるよ。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/18(土) 23:09:42.95
倭の面土国の王なんだから、彼は。
これは当時の中国語の音韻で、メタ国とよぶ。
旧事本紀によると、吉野ヶ里遺跡のあったあたりは、
筑紫の米多国(メタ国)という行政区間だったらしい。
0088大和 田直木
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2014/01/18(土) 23:21:56.91
宗像渡海ルートが確立したのは4世紀と見える。

宗像 ⇔ 大島 → 沖ノ島西側 → 対馬北端 → 釜山
巨済島 → 対馬北端 → 沖ノ島東側 → 大島 ⇔ 宗像

沖ノ島には時計回り潮流が発生するので、
その潮流で渡海可能になるのは月齢の特定時期に限られる。
その特定時期以外は船が日本海に流される。
0089日本@名無史さん
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2014/01/19(日) 22:06:09.19
87
筑紫の米多国ですが、目田原という地名が吉野ヶ里付近に残っていますから、目田原付近が米多国であった可能性がありますが、吉野ヶ里町の旧名は三田川(みたがわ)です。これもメタに由来するものと思われますが以下がお考えですか。
また、風土記では隣の神埼は景行天皇により神幸(かむさき)と命名されたとされています。
神埼の旧名を調べていますが、ここも米多国であったのではないかと思っています。いかがお考えですか。
0090大和 田直木
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2014/01/20(月) 06:20:00.48
>>89
×目田原 ○目達原

提言
吉野ヶ里町「井柳」と上峰町「米多」の間を流れる川が「井柳川」。
「井柳川」が流れるところが元祖「三田川村」
「井柳川」の旧名が「三田川」か?
「三田」は「米多」に通ずる。
0091日本@名無史さん
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2014/01/20(月) 13:17:27.27
南極のピラミッドも知らないやつがもごもごもごもご、いい加減やめろと何度いわれたらわかるんだ?低脳!
0092日本@名無史さん
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2014/01/20(月) 21:02:54.71
90
ありがとうございます。
面白いですね。
久留米に高良山がありますが、高良山勢力と吉野ヶ里勢力は、どういう関係だったか考えています。
高良山には高木神から玉垂命へ変わっていますが、 これは吉野ヶ里にも影響があったとお考えですか。
質問ばかりで申し訳ありません。
0093日本@名無史さん
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2014/01/20(月) 21:22:57.66
久留米は豊姫、豊玉姫の伝承も根強いな。
これが気になって仕方がない。
0094日本@名無史さん
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2014/01/21(火) 07:10:59.49
豊姫とは台与のこと。これが九州説の大きな根拠だ。畿内には豊姫はいない。
0095日本@名無史さん
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2014/01/21(火) 07:41:20.36
久留米には豊姫神社があって、
周囲の神社で合祀されてるところも多い。

当然後世の製作だが、石の社に豊姫の人形が
祀られてるのを見て、ちょっとどきっとした
0096大和 田直木
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2014/01/21(火) 20:03:14.47
>>92
高木神は歴代の吉野ヶ里勢力と同時代かより古い神です。

高良山の立地からみると、玉垂命(豊姫も)が筑紫平野東部内陸部の4ヶ国を
統合して邪馬台国(邪馬台国の原型)を作った人物ではないかと。
高良山(久留米)の勢力は新興勢力として吉野ヶ里の勢力と対立した。2世紀倭國乱の頃。


未だ裏付が不十分な仮説にしか過ぎません。
0097日本@名無史さん
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2014/01/21(火) 20:09:07.72
高良は孝霊だろ、他から来てるのだから
九州の人物ではないのだがw
0099日本@名無史さん
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2014/01/21(火) 21:08:32.44
『神社覈録』高良大社の項「高良は加波良と訓べし」(高良はカハラとヨムべし)
高良大社 祭神:高良玉垂命 配祀:八幡大神 住吉大神 合祀:豊比淘蜷_
水沼君が祀る神は宗像三女神
高良山の別名「高牟礼山」(たかむれやま)「不濡山」(ぬれせぬやま)
高牟礼の地名 鹿児島県出水市下大川内高牟礼
高牟禮神社 えびの市
0100日本@名無史さん
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2014/01/21(火) 21:17:04.40
出雲の孝霊山、別名カワラ山。または瓦山、韓山。
ここで半島からやってきた王と山比べして
大山に負けたと置いていったのが
孝霊山だという国引き神話の謂われ有り。
0101日本@名無史さん
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2014/01/21(火) 23:46:09.44
高良山、英彦山は非常に面白いですよね。
天忍穂耳と高木神の娘ヨロヅハタトヨアキチシヒメとの間にホヒカリ、ニニギの子が・・・
高良山の支配勢力の変遷が記紀により裏付けられたら、いいんですけどね。
高良山の地元の小学校の校歌に、タカムレという言葉が入ってるそうです。
地元では、タカムレという言葉に愛着があるってことでしょうかね。
いつか明らかにしたいなぁ〜
0102大和 田直木
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2014/01/28(火) 23:00:56.27
高牟礼と玉垂命がうまくつながらないのだな。
0103日本@名無史さん
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2014/02/19(水) 00:51:38.86
高牟礼は元々高良山にいた邪馬台国と親しい系列。
玉垂命は九州北岸から来た元祖大和朝廷系列で、
本拠地を福岡平野から
人口密度が高く、人口も多い筑紫平野に移した。
0104日本@名無史さん
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2014/02/26(水) 23:14:33.30
103
その話、非常に興味があります。
全体像がわかる資料など教えていただけませんか?
0105日本@名無史さん
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2014/03/02(日) 10:09:10.06
本当は、委奴面土國が正しい
つまり稲本

稲本という地名は宗像に在る
それ以外に稲本、稲元という地名は九州に無く
本州、四国でも4か所だけ

因みに稲本(INAMOTO)は大和(IAMATO)の語源に成った
0106日本@名無史さん
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2014/05/20(火) 00:17:57.86
肥の君の出自を教えて下さい。
できたら、邪馬台国や狗奴国、大和勢力との関係の点からだとありがたいです。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2014/05/20(火) 02:14:54.17
肥の君が火国造の一族のことを指すのなら、
初代神武天皇の第二皇子神八井耳命の後裔、建緒組命が10代崇神天皇のころ火国を征服し任じられたとされる。
日本書紀によると九州が大和勢力に組み込まれるのは12代景行天皇の親征、13代成務天皇の国造・県主整備なので
ウチはそれ以前からヤマト王権に従っていた由緒正しい家ですよ、と主張していることになる。
甥の速瓶玉命が阿蘇氏の祖。
崇神天皇は3世紀末〜4世紀前半の人なので、邪馬台国より後の話になる。
ほかに邪馬台国との関係でいえば火国造の流れから邪馬台国が出たという説を系譜研究の大家の太田亮が挙げていた。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
0108日本@名無史さん
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2014/05/20(火) 06:40:58.55
北九州にあったのは宋人街
そこからのながれで石山本願寺とか発展してるから見てみろ
北条の政子なんかもそんときに帰依しとるわ
0110日本@名無史さん
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2014/05/20(火) 15:13:42.28
在日韓国人優遇より,まず日本人のための社会を!

「在日(日本に居座る韓国人,朝鮮人)特権」とは? 
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・永住資格所有者の優先帰化
・公営住宅への優先入居権
・外国籍のまま公務員就職
・犯罪防止指紋捺印廃止
・朝鮮学校、韓国学校の保護者へ年間数十万円の補助金援助(所得に関係なく全額補助)

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・民族学校卒業者の無審査公私高校受験資格付与
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・朝鮮大学校卒業者の司法試験1次試験免除
・民族学校卒業者の大検免除
0111日本@名無史さん
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2014/05/20(火) 22:32:13.43
中世の肥前の豪族高木氏だが、火国造の後との説があるが、この高木氏はどういうわけか弟橘媛を祀っているようですが、両者はどのような関係かわかりますか?
0112日本@名無史さん
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2014/05/20(火) 23:47:52.86
「難升米」と「帥升」

これはどうやら、「海彦」と「山彦」に相当するようだ。
海軍の元帥と陸軍元帥と考えればうまく説明できるだろう。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2014/05/21(水) 04:29:48.05
ぽくぽくぽくチ〜ン!
0114日本@名無史さん
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2014/05/25(日) 15:30:54.48
>>111
高木氏がほかに祀る神として淀姫神があるが、この神は神功皇后の妹や豊玉姫命とされ、
ほかに氏流が鏡神社で神功皇后を、途中で養子に入ったとされる高向氏は宗像神を祀る。
これらに共通するのは海運に関連する女神であるということであり、その縁で弟橘姫を祀ることになったんだろう。
0117日本@名無史さん
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2014/09/14(日) 11:01:57.83
漢字二文字名だから何世代前からか倭国に住みついた中国系の支配者かも。
日本風の名前の記述なら漢字を五、六文字ぐらい使うじゃん。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/25(木) 14:29:58.00
二文字名ではなく「升」の一字名だろうな、王は主の誤写で。
倭国の王「帥升」ではなく倭国の主帥「升」
0119日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/25(木) 19:07:41.04
難升米の「難」は奴国の「奴」
難「升米」は倭国の主帥「升」の子孫だろう
倭国の主帥「升」の国は従って末盧国でも伊都国でもなく奴国だ
0120日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/26(金) 13:46:50.72
倭面土国をどう読むか。邪馬台国をどう読むか。
それぞれ時代が違うから、同じ国が違う表記になっているかもしれない。
ワメド国とヤマト国。

昔、ロバート・ミッチャムという俳優がいたが、アメリカ人が
発音しているのを聞いたらロバ・ミッチョンと聞こえた。
0122漢文天文学数学に長けた爺
垢版 |
2014/09/27(土) 16:07:56.23
>>120
>倭面土国をどう読むか。邪馬台国をどう読むか。

倭面土國・・ヰメタ国・・倭米多國 吉野ヶ里を中心とした佐賀平野

邪馬台国・・邪馬壹國(ヤマヰ国) 北野地域と筑後平野内陸部の筑紫平野
0123日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/28(日) 10:49:23.52
「倭」も「壹」も「ヰ」とは読めないだろ
古田電波もたいがいにしろ
おまえは「冶」の字で与太話でもいてるのがお似合い
0124漢文天文学数学に長けた爺
垢版 |
2014/09/29(月) 12:00:55.28
>>123
>「倭」も「壹」も「ヰ」とは読めないだろ

3世紀のシナ人は、「倭」も「壹」も「イ」に近い音として聞き取ったのだ。
0126転載くん
垢版 |
2014/09/30(火) 01:13:33.14
370 :日本@名無史さん:2014/09/28(日) 03:18:30.96
”委奴國”って、まともに読むと、イヌ国。
ソフバンCMの甲斐クンを連想しちゃった。(笑)

371 :日本@名無史さん:2014/09/28(日) 10:40:08.77
>>370
基礎から勉強しなおしなさいよw

372 :日本@名無史さん:2014/09/28(日) 23:53:04.18
>>370
はるかに後世の訛りまくった出鱈目な読み方を基準にする馬鹿丸出しの発想を捨てることが先決だ。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/15(金) 22:47:59.86
>>124
それって無根拠なアンタの妄想やんw
0128日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/16(土) 01:00:26.51
奴をドと読めるとしたら、倭面土国を倭面奴国と考えることはできるだろうか。
そしてこれを面奴国としたら、魏志倭人伝にある国の中で一番近いのは「彌奴国」となるだろうか。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/19(火) 13:31:10.25
倭国王師升。、、、
区切りを変えて 、
倭国の王師(軍師、国王の師(大師)で補佐)、升。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/19(火) 13:43:32.18
中国語の発音からすると
一番近いのは崇神天皇か垂仁天皇だろう
倭の奴の国の王とは異なり
師升は倭王だ
地位も一番高かったと推測できるな
0131日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/19(火) 13:44:01.16
『熊野』の読み(から転化の表記)。、、、イノ(伊野。井野。亥/猪、、、イノシシ?)。イヤ(弥。禮。祖谷。揖屋)。イヌ(狗(、、、天狗)。犬。去ぬ、伊怒(天村雲命の后が伊怒姫(伊加利に転化)))。
ユヤ(油谷とか)。ユヌ。ユノ(油野、湯野、)。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/19(火) 13:58:03.22
清湯山主狭漏彦八島篠命。
須賀の熊山の主、サロヒコ(サルタヒコ)、八島(日本列島)を統治した(所知食)命。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/19(火) 15:10:03.11
清湯山主狭漏彦八島篠命。
須賀の熊山の主、サロヒコ(サルタヒコ)、八島(日本列島)を統治した(所知食)命。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/19(火) 17:32:38.33
お暇なら♪読んでよね♪

倭国大乱における、
【新興「吉備」(塩)王国vs伝統「出雲」(鉄)王国】の対立→【邪馬台国vs狗奴国】の代理戦争に発展

【漢委奴国王〜帥升】までの伝統フィクサー・出雲(タタラ鉄王国)から、倭国大乱(帥升奪還)を経て、
【帥升〜卑弥呼〜天皇家】までの新興フィクサー・吉備(瀬戸内海の塩王国)へ、影の政権交代が起こり、
吉備の古墳文化を国家祭祀とした邪馬台国、そしてヤマト王権が誕生。その後の吉備の運命やいかに?
0135日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/19(火) 17:35:05.86
@出雲では荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で、広形銅矛(北部九州)と銅鐸(近畿東海)の祭祀具が両方出土。
A倭国乱における新興吉備(瀬戸内海の塩王国)の台頭に危惧を抱いた出雲が、全国各地の国王の息子と娘を結婚させ、
 その席で配ろうとしていた矢先、かつて自らが支援して建てた北部九州の奴国王・帥升「其国、本亦以男子為王、住
 七八十年」の、(伊都国王を調略した)吉備による奪環事件が起こり、その墓(楯築弥生墳丘墓)を築造されてしまう。
Bその神威に乗じた吉備が出雲に攻め込んできて出雲は陥落。来るべき復活の日に備えて、広形銅矛と銅鐸を埋納。
 →後に天皇家による「出雲の国譲り」として語られる。官(国造)弥弥が置かれ、魏志倭人伝に「投馬国」と書かれる。
C吉備はさらに出雲との関係が深かった東海の狗奴国を征服すべく、大和の唐古鍵遺跡を支援して邪馬台国を建てる。
D卑弥弓呼との戦争が始まり、想定外の大苦戦に見舞われた邪馬台国連合は239年魏帝に朝貢。「親魏倭王」となり、
 銅鏡百枚を(厭戦気分&平和希求の)全国の王に配る調略が奏功し、形勢逆転。
E危惧を抱いた狗古智卑狗が寝返り、卑弥弓呼の首を台与に差出して、邪馬台国の勝利。台与は西晋に報告(266年)。
 官(国造)だけとなった投馬国(出雲)と狗奴国(尾張)の故地では、前方後方墳が築造される。
F巫女(神とのみ交わる)台与の死後、跡継ぎが途絶え、吉備は磐余の崇神(天皇家)を倭王とし、ヤマト王権成立。
G吉備の全面支援で大王になれた天皇家は前方後円墳祭祀を続行。吉備は神功皇后の三韓征伐にも全面協力した功績で、
 続く応神/仁徳の「倭の五王」時代、造山&作山古墳を築造。
Hしかしその末期、ヤマト王権が最盛期を迎える雄略(武)没後、建国の秘密を知る吉備は粛清され、一官(国造)へ。
I天武の時代(天皇家の万世一系に都合の悪い)吉備と邪馬台国は記紀から抹殺され、吉備津彦の鬼退治のみ語られる。
0136日本@名無史さん
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2016/02/26(金) 21:44:03.48
奴国の主帥だろうな、名は升。この子孫が難升米。この難(な)も奴国の(な)だろう
0137日本@名無史さん
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2016/02/27(土) 12:37:17.73
吉備自体が出雲と同じ、播磨による制圧対象だったんだよね。
播磨は吉備を制圧後、吉備を拠点に出雲を調略し、後顧の憂いを絶って、晴れて大和へ進出。『播磨国風土記』に欠損、書き換えがあって見られないが類推すると↑のようなことになる。
0138日本@名無史さん
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2016/10/10(月) 10:55:16.12
帥升=懿徳天皇と見る。
日本書紀は応神、景行、崇神、孝霊の即位年を120年ずつ過去に延長している。
107年から600年遡ると懿徳天皇在位の真ん中の年になる。
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