満州から来た侵略者中臣氏について
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中臣氏は満州から来た侵略者だが、日本人のように扱われている。
あいつらは日本人じゃない。現在、中臣氏の子孫藤原氏の系統が
日本で政府、カルト、企業、金融、医療、教育、官僚、
公務員(警察、自衛隊、消防)、メディアに
君臨していまや日本国はひとつの同族会社と化している。
藤原氏の系統じゃないと出世も出来ないし公務員にもなれない。
中臣氏の先祖は女真族だ。ジュシャンと読むが、このジュシャン族は
イランのスーサ(シュシャン)から来た。
満州のジュシャン族が日本に志向した際、あいつらはジュシャンに
漢字で当て字して「中臣」と表記し、訓読みでナカトミ氏と呼ばれた。
あいつらはもともとジュシャンに「種子」を当て字していた。
だが、途中で「中臣」氏に変えたのだ。
変えてなけりゃ今頃「タネコ氏」と呼ばれてただろう。 「アジア人の人類史から見た日本人の二重構造」
http://www.ishikari-c-college.com/topics/2013/10/10-7.html
2重構造を調べていくと、地域によっていろいろ意外な特徴があることがわかる。
北海道・東北・沖縄の人達は当然、縄文人の特色が出ます。また西日本の人達は
渡来弥生人の特色が出るのは当然ですが、京都を中心に近畿地方の人達は平均的
な日本人のデーターと全く違う数値を示します。100%渡来弥生人の特徴を一段と
示すそうです。京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まな
かったと思われます。 満州では漢人・朝鮮人・日本人・モンゴル人なと平和に暮らしてた所にアーリア人が来て
漢人を侵略同化したのが中臣氏らしいんだけどアーリア人が大陸の歴史を書き換えて
日本では中臣氏が歴史を書き換えたとすれば納得する あのさ
朝鮮に中国人がきたのは高麗のときだろ
満州は知らん このときに易姓革命が起こってるんだろ
ほとんどの人間が漢字を使いはじめたり名字を持ち始めたり
仏教を捨て儒教に切り替えてるだろ
儒教に切り替えるってことは易姓革命が起こったということ 豊璋が初めから中臣氏のスパイだとしたらあり得ない色々な謎が解けるわけか 一時期蘇我氏渡来人説流行ったけど、
中臣は流行らんね。 アーリア人の内部紛争で勝利したクル族(日本人の先祖)の作り上げた歴史を破壊書き換えして来た
アーリア人の別の部族が中臣か? サーサーン朝ペルシアから来て佐々、佐々木、笹川、浅井等を名乗る族もいる。
こっちは海回りか? 蘇我氏って政を牛耳って天皇をないがしろにしたというより
大臣ってものが隋書にいう、日の出と共に政務を委ねられる存在だったわけで
隋の使者に謁見したのも大臣だった蘇我馬子だろう
そういう人物を暗殺した中臣鎌足に大義は無いわな 中臣氏は、各地豪族で藤原氏の祖。
中臣氏の祖が、出雲族の忌部・物部・千家などの出雲族で、出雲族の正体が・・徐福秦氏なだけ。
ここの奴が言う、満州人って・・斉国人で、大国主に一端組した、天穂日・天若日子の話の天若日子の事では・・ 又は、出雲国譲りの経津主神と武甕槌神の渡来・天照族とか・・ 人種が違いますんでね。人種が。
日本人←日本人種
韓国人←中央蒙古人種
北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人 あり?中臣氏って蘇我氏が熨した頃に滅ぼされちゃって氏姓も郎党も権益も全部蘇我氏に掻っ払われちゃったんじゃなかったっけ?分家が一部生き残れたものの 分家つうか、各地豪族の総称だからな・・
血縁無いのも居る。 陰謀論で「藤原の社長は藤原の姓の社員を採用する」話は聞いたことがある
長期乗っ取りを考えた場合は命令維持する組織団体が必要だと思う
まずそれが有るかどうかそして異文化の者が乗っ取る場合は
それまでと何か違った文化習慣に代えられてるかどうか そりゃまた新説だしてきたなお前らな〜w
どうやって調べたのかな〜、それとも妄想か? 21
つか現代で藤原姓を名乗ってるのっているのか?w
そういうのって大概、ニセモノじゃねえのか?w >>16
中臣氏の本貫は、現在の京都市山科区中臣町だろ? 中臣氏(漢人)が白村江で常駐したのか?
太平洋戦争で言うマッカーサーみたいなものか? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 佐藤、斉藤をはじめ、藤のつく奴らは命令に忠実な犬野郎ばかり。
こんなのばかりはびこる社会は糞食らえ! 以前、日本と韓国が竹島を巡って対立していたとき、朝日新聞に、
冷泉彰彦による、「日本と韓国が対立することは、我が身を引き裂かれる思いだ、」という
記事が載せられていた。 中臣は大王が授けた連姓で
それは神と人との間の意味を表し
大王がヤマト王権下での神職を中臣に任せたを意味してる
自分から中臣を名乗ることはないし
漢字が入って来たのは後なのでこの頃は音で意味を表しただけの「なかとみ」
だから当て字も何もない
あと女真は間違いで女直が正しい 正確には大和言葉の音の意味で授かった「なかとみ」に
その音の意味から漢字を当てたのが中臣だから
中臣が別の音読み漢字からの当て字もなにもない 妄想で言うならナカの臣ってのはどうよ
倭奴国王の子孫とか
卑弥呼連合時代にオミだったのが氏に含まれちゃって大和では二重姓みたいな中臣連になってしまった
筑紫と常陸のナカ川流域の他各地に勢力を持つ大和から見ても古代豪族に当たる氏族 妄想でいいなら忽然と消えた日本海海洋民の富氏の末裔とかでも良いよね 本当の古代史
辰韓の鉄=遼寧省鞍山市の鉱山地帯
公諱隆字隆百済辰朝人也=隆は遼寧省の百済人であり公州の百済人ではない
この文は辰韓の位置を間違えていたり遼寧省の百済を知らない人には理解不能
「辰王がいた方の百済人」とかっこよく書いたら未来人には意味不明となった
渤海の国号、震=大氏発祥の地が過去の辰韓だった
震が辰に通じるのは自明だが、辰韓を韓国東部と解釈して思考停止するのは踏み込み不足
帯方郡(4900戸)=営口市、半径5km
あとは魏書韓伝にそってならべる
多婆那國=倭国(大連)東北1千里=中朝国境の卒本地方
好太王の碑文にある倭、百残、新羅の位置=遼寧省から鴨緑江の下流域
倭の五王が南朝に派遣した倭国使は靴をはいていない
通説(痛説)では裸足の集団に広域大戦争をさせてしまった
「西暦391 - 412年」中に、「倭」は「高句麗」と「鴨緑江」にて職貢図によれば「裸足」で戦わなければならない
のちに坂上田村麻呂の東北遠征が西暦800年に行われ、異民族風のアテルイが捕まえられる
何なんですかこの古代史!順序が逆ならまだしもなぜこうなるの
西暦400年に鴨緑江を攻め、その400年後に東北地方を攻めるのは不自然だ
この時点で倭=日本列島説はアウト
そもそも日本列島は韓と界接していないので最初からアウト
2重の意味で倭=日本列島説はアウト
http://i.imgur.com/9GXhZ3N.jpg
http://i.imgur.com/zVOyZ0J.jpg 西暦400年代、倭、百済、新羅は好太王に故郷を追われ朝鮮半島に逃げ込み拡散分布する
東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五國=海北とは遼寧省南岸
東、西、海北には領土があるが南の領土はなぜ主張しない=南進中を意味する
ここで博多中心説を採ると博多の南には領土があるはずなのでアウト
ここで奈良中心説を採ると西側の国が少なすぎるのでアウト
つまり倭王武にとって帰る国などなかった
道遥百済(省略)句驪無道=倭国、百済、句驪は陸続き、句驪はひどいと南朝に泣きついた
故郷を奪ったので句驪無道なのです、倭王武の悲痛な叫びを曲解せずまじめに聞きましょう
半島各地で任那ができる、倭国本体南下する
最後の遣使記事は502年=引越し中を意味する
西暦500年代初頭、倭国本体は九州に上陸し、先住民を土蜘蛛あつかいする
天孫降臨記念日を太古の昔に設定した日本書紀はこの時点でアウト、証拠能力ゼロ
志賀島の金印=先住民にとられないように埋めて隠すも、埋めた場所を忘れる
前方後円墳は堤防の概念がない先住民が積み上げた塚を倭国人がこれ幸いと墓に転用したものだ
塚の作成年代≠墓になった年代、これ重要
ため池あるとこ古墳あり、ため池なければ古墳なし
倭国人は堤防の概念、その他中国文明を知っており最初から巨大古墳を作っていない
6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった(wikipedia参照)
上の理由は残土を堤防に使う
塚を墓であると主張するには副葬品などの提示が必要だ
塚はあっても墓はない、いわゆる空墓がかなりあるのはなんででしょう? 百済の熊津城=熊岳城
白江の口=熊岳城の南西、白沙湾
「百済辰朝人」であるところの「扶余隆」は百済五方「北方」の城「熊津城」で暮らしていた
熊岳城の南西に「白沙湾」という地名がグーグルマップでも発見できる
これはいったいどういうことだ!
熊津道行軍總管、右威衞將軍孫仁師等破百濟餘衆及倭兵於白江,拔其周留城
韓国西部の公州に行くには高句麗の中を通らなければいけない
つまり熊津道は高句麗の手前側(唐に近い側)にあったはずだ
詔發淄、青、萊、海之兵七千人=山東省の北側から出撃した
人怪其故,答曰:擬削平遼海,頒示國家正朔
劉仁軌自ら「遼海」と明示しており、どうみても渤海湾のことだ
公州の西の海を遼海と呼ぶのならインド洋も遼海だ
扶餘隆率水軍及糧船。自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口
熊津江(熊岳河)と白江(浮渡河)とは開口部が違う川である
熊津江を出て白江に向かったところ白江の口で倭兵と遭遇したのだ
通説の錦江説は合っていますか?白江の上流に熊津江があるのではありません
百済平定物語は渤海の東側にある遼東半島のお話しであり、公州を攻撃したのではなかった
(蘇)定方自城山濟海、至熊津江口=蘇定方が平定した百済もまた遼東半島である
通説が正しいならばこの箇所は「至白江口」となる。白江=錦江説、アウト
大連の北側にある白沙湾を日本列島から攻撃するのは西暦660年では不可能なはずだ
かの有名な白村江の戦いに作文疑惑が浮上した!
日本書紀には資治通鑑や三国史記を見ながら作文した箇所がちらほらある
特に天智紀は作文だらけ、白村江のくだりは全部作文
白村江への旅程については何も書かず、いきなりワープしているではないか!
宇宙船艦ヤマトのようにワープしている時点で作文確定!
http://i.imgur.com/5buzTh0.jpg
http://i.imgur.com/6Q0x678.jpg 倭=日本列島を主張する日本書紀のおかげで重要な比定位置はことごとく南東に平行移動した
日本で見つかっている古い木簡は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
日本で見つかっている古い石碑は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
楽浪郡は紀元前108年にできたはずで、いくらなんでも漢字の伝来が遅すぎる、はいアウト
仮説の検証2項目
武藝啓(省略)有扶餘之遺俗=渤海人は奈良の支配者の出自が遼寧省にあることを知っていた(ビンゴ)
いまだに奈良公園ではシカを放し飼いにしている
坂上田村麻呂の東北遠征800年=この仮説で無理なく説明可能、大和朝廷史観では遅すぎる(ビンゴ)
邪馬台国=近畿説九州説、大和朝廷史観全部まとめてアウト
500年上陸説が正しい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています