♪邪馬台国ドンと来い!♪126
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応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。
平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。
・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年
・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年
・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、
「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。
11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。
神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。 伊都クズにとっては学問的に適切であるかどうかなど関係ない
ただただ自分に都合がいい結論を連呼したいだけ 複数スレをageて順繰りに書き込んでるけど旗色悪いとageないらしい 漢文読めずに珍読を連発
考古学の成果を知らずに珍説を多数
歴史学の方法論を理解できずに珍論に固執
まるで珍獣 伊都クズ
連続句読点
「キナイコシ」
八咫バカ
矛バカ
珍獣
いろいろあるなw >>457
あなたのいう「学問」は、自分に都合のいい妄想による砂上の楼閣 しばらく前に、楼閣を楼蘭って書いてる人がいたけど、
どんな入力をしたらそんな間違いになるんだろう >>462
>自分に都合のいい妄想による砂上の楼閣
伊都クズの主張のことですね
激しく同意します >>462
マジレスしといてやると
伊都クズを批判してる側ってことは
歴史学の方法論通りあやしい史料には依拠しないということので
その上に妄想の楼閣なんか建つはずがない
論理的思考を訓練した方がいいぞ >>466
>怪しくない史料って何?
怪しいか怪しくないかは、0or1じゃないのは分かるよな?
いや、分かってたらそんな疑問は持たないかw
きちんと史料の限界を意識しながら、考古遺物等で裏付け、クロスチェックをして
信頼に足ると判断できる部分を精査しながら読む文献が怪しくない史料だよ
史料の限界を無視して魏志倭人伝原理主義的な読み方をしてたら、それはもう
怪しい史料だけれどw 怪しくない史料なんてない
だから最初に史料批判を行う必要がある 伊都クズが歴史学オンチの妄想チェリーピッカーだということを満天下に知らしめる良スレ 研究者でもなければ怪しいと判断することはあっても
怪しくないと決める必要がある機会なんてないと思うが ハイキングでたとえると
・この先は危なそうだから進むのは止めておこう
→一般人でもあり得る判断
・この先が本当に危ないのかあるいはルートとして使えるのか確認しよう
→一般人はまずしない判断 トンデモさんは、
地図もみないで「俺様が迷うはずがない」ないと自分を過信したあげく
あらぬ方向につき進んで別の山に登ってるのにまったく気が付いていない
ってところかなw 九州説がよく使うダメ論理
邪馬台国は魏志倭人伝にしか書いてないんだから、
魏志倭人伝を正しいとするのは絶対の前提
魏志倭人伝は正しいのだから、伊都国は末盧国の東南五百里でなければならない
末慮国は呼子
こんなやつw ありとあらゆる史料が畿内説を否定しているからね。
全てを史料批判の名の下に黒塗りしないといけないね。 >>477
>ありとあらゆる史料が畿内説を否定しているからね。
だったら、一つでも二つでも「具体的に」示してくれよ
どうしてそんな簡単なことができないんだい? >>476
>魏志倭人伝を正しいとするのは絶対の前提
邪馬台国論争は魏志倭人伝に記載内容を議論してるんだから
小さな誤記はあったとしても基本的に魏志倭人伝の記述内容は正しいとして議論しないと話にならないよ
大前提を否定したら議論にならなし何の結論も出ない。 >>476
神々や日本人の総歴史を著したといわれる古事記や日本書記に
邪馬台国や倭国群そして卑弥呼の記述が全く書かれていないのが原因でしょ
今や古事記や日本書記の信頼性信憑性に疑いを持つ人達が増えつずけてるけど >>481
>今や古事記や日本書記の信頼性信憑性に疑いを持つ人達が増えつずけてるけど
そりゃ、信頼性信憑性に疑いを持つのは当たり前。
だって、記紀は倭国(阿波)国内で起こったことを書いているんだから。 @阿波 >>481
記紀は神武以降は基本的に畿内の歴史書となっている。
だからこそ、邪馬台国は畿内ではなく九州だと考える根拠でもある。 >>480
>小さな誤記はあったとしても基本的に魏志倭人伝の記述内容は正しいとして議論しないと話にならないよ
その線引きがおかしすぎるって言うんだよ
しかも恣意的
末盧国が呼子とか言い出すのはいい加減にしろや >>484
魏志倭人伝の骨子を無視するなら、君は邪馬台国を論じなくて良いよ。 >>484
>末盧国が呼子とか言い出すのはいい加減にしろや
そうだね。 末盧国は世界文化遺産の福津・宗像方面だね。 @阿波 >>483
>神武以降は基本的に畿内の歴史書となっている。
神武の時点で、卑弥呼より前なんだから、卑弥呼の時代も畿内の歴史でいいんじゃないの それなのに卑弥呼が記紀に登場しないから、そもそも畿内の人物ではないのだろうという話。 >>484
原文を尊重してるだけです
原文を無視して恣意的に解釈してるのは君だ。 >>484
ちなみに末盧国を呼子とは言ってない
末盧国は現在の唐津市など東松浦半島付近の国邑で
魏使が末盧国に付いた場所が呼子付近。 >>490
>ちなみに末盧国を呼子とは言ってない
そうだね。 末盧国は世界文化遺産の福津・宗像方面だね。 @阿波 >>488
>それなのに卑弥呼が記紀に登場しないから、そもそも畿内の人物ではないのだろうという話。
いや、倭迹迹日百襲姫命という名前で記録されてるよ
崇神天皇代の、ヒメ王で祭祀王として描かれているし、その死が特別なもので
大いに墓を作ったことも記されている >>489
>原文を尊重してるだけです
>原文を無視して恣意的に解釈してるのは君だ。
>>490
>ちなみに末盧国を呼子とは言ってない
>末盧国は現在の唐津市など東松浦半島付近の国邑で
>魏使が末盧国に付いた場所が呼子付近。
呼子では、末盧国に着いたことにはならないし、呼子でも伊都国へは東南陸行にはならない
それでも間違ってないって強弁するから、おかしいって言われるんだよ 呼子は末盧国の北端で壱岐に一番近いから最短の航路を採って呼子に着いたんだよ
呼子は末盧国の一部だから末盧国に着いたことにる
呼子からほぼ南下し唐津市中心で方向をほぼ東に変えて進んだから伊都国へは東南陸行と記したんだよ。 末盧国に至る行程に方角がないだよね。
普通に考えたら南下だから松浦と考えがちだけど、次の陸路の行程考えると上陸地点は宗像しかないわな。 伊都国東遷スレ 9
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1532907357/
614日本@名無史さん2018/08/06(月) 22:38:58.11
祇園祭の山鉾はめちゃくちゃ大きいぞ。
でもちゃんと九州の矛からの進化をたどることができる。
↑
たどることができるといいながら、結局その過程を明示することはありませんでした
つまり、大嘘つき なぜ日本の歴史をそんなに分断・抹消しようとするの? >>495
>呼子は末盧国の北端で壱岐に一番近いから最短の航路を採って呼子に着いたんだよ
既にここから事実誤認がある、というか歴史が分かってない
この時期まだ領邦国家段階にはないから、面積を持った国とか
領土の範囲とかいう近代〜現代の概念で国を捉えるには間違い
中心となる集落と、そこと直接水管理などで関わる範囲が国だよ
末盧国は唐津平野の範囲で、東松浦半島の先端付近は無人の地では
ないだろうが名もなき集落だよ
これを末盧国と言い張る辺りがイタイ
>呼子からほぼ南下し唐津市中心で方向をほぼ東に変えて進んだから伊都国へは東南陸行と記したんだよ。
そこから北に行かないとどうやっても伊都国には着かない
こういうごまかしをしてまで、魏志倭人伝に書いてあることを
正しいとしなければならない辺りが史料の限界無視の原理主義だって
非難されてるのは分かるかい?
九州説は魏志倭人伝の「方角の間違い」を絶対に認められないんだよなw
まあ、もともと末盧国から東南陸行五百里は、伊都国行きの旅程では
なかったのだろうけれど >>496
>末盧国に至る行程に方角がないだよね。
ただ、壱岐のところで、南北市糴と書いてあるから、
壱岐から南へ行くと考えるのが素直な読み方だと思うがね こいつの「素直な読み方」は根拠のない妄想に過ぎない。
文献は無視するくせに、妄想は撒き散らす。 >>501
その通りだ
倭人伝では、壱岐から航行するのは、北と南に限ると限定しているわけだ。
もう一つ、末蘆国から東南とは、
東南の方角に至ることのできる道を行くこと五百里で・・・、という指示である。
エデンの東と同じで、五百里陸行した結果が東南の地であるべき、という意味なのだ。 >>500
>末盧国は唐津平野の範囲で、
それも間違い。 末盧国は福津・宗像方面 対馬海流を無視してはいけない。 @阿波 >>502
>文献は無視するくせに、妄想は撒き散らす。
どこが妄想なのか、「具体的に指摘」してね!
でなければ無意味
末盧国から東南陸行五百里で伊都国と書いてあるけれど、
比定地の紛れのない伊都国から見て北西五百里は、どうやっても海の上
これで、魏志倭人伝の旅程、方角は正しいって言い張っても無駄だろうに >>506
>比定地の紛れのない伊都国から見て北西五百里は、どうやっても海の上
その比定地が、まぎれもなく間違っているんだよ
東南陸行五百里は、素直に佐賀平野の川上さ、倭人伝の道理は正しい! >>505
>ずいぶん方向がずれてるね
方向って、なんの? @阿波 >>510
>おまいのアタマの中の羅針盤が、だよ
は、は、 そうかもね。 @阿波 >>508
>素直に佐賀平野の川上さ
その佐賀の川上で、一大率はどうやって、臨津搜露するんだい?
その川上の伊都国のどこに「津・みなと」があるんだろう? >>508
>素直に佐賀平野の川上さ
その佐賀の川上から、奴国はどっちに行くんだい?
その場合の奴国の比定地はどこ?
戸数二萬餘戸は、遺跡の発掘状況から考えて、定説どおりの
福岡平野以外には考えにくいと思うが? 松浦は現在の松浦郡唐津
伊都国が小城、多久付近
奴国が佐賀市大和町から佐賀市内
ウミ国が大川城島付近
あとは水行有明海へ >>512
>その佐賀の川上で、一大率はどうやって、臨津搜露するんだい?
末蘆国・唐津における渡海の好機は、倭人伝にある通り6月と12月
その時を見計らって、一大率は末蘆国・唐津へ出向き、舟を待って臨津搜露した。
>>513
>その佐賀の川上から、奴国はどっちに行くんだい?
倭人伝にある通り、東南の方角100里だ。
現在の佐賀県庁一帯。当時は水田開発で大にぎわいだったのだろうな。
>>515
その通り
倭人伝の主要な舞台となった国々は、肥前肥後(および日向)の肥グループだったわけだ >>516
>現在の佐賀県庁一帯。当時は水田開発で大にぎわいだったのだろうな。
その辺、弥生時代末期にはまだ海だよ
「北部九州における縄文海進以降の海岸線と地盤変動傾向」
下 山 正 一 1994年
第四紀研究 (The Quaternary Research) 33 (5) p. 351-360
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/33/5/33_5_351/_pdf/-char/ja
この論文、図7の遺跡分布の図が左右反転してたりして、実際の地図と重ねにくいけど、
その前の図6を現在の地図と重ねると、柳川市役所は弥生末期でもまだ海の中、
大川市役所も海岸まで500メートルくらい
この論文では筑後川の運んだ砂による鳥趾状三角州を弥生末期には陸化していると
しているけれど、その西側には大きな入り江が入り込んでいて、佐賀駅から500メートルくらいの
ところまで海になってる 弥生時代の筑紫平野は、筑後川は大きすぎて灌漑に利用できないし、まだまだ陸地化途上だし、
大きな国をそこに求めるのは無理がある >>517
リンク先の佐賀平野の陸地化図面見た
>・・・ど、その西側には大きな入り江が入り込んでいて、佐賀駅から500メートルくらいの
ところまで海になってる <
でもな、この解説レスは ↑ 縄文時代の海岸線を示すぶっとい黒線のことではないか。
弥生末期は点線だから、佐賀駅から南へ7-8qあたりまで陸地化しているようだよ。
再確認してくれ、、、 >>516
>末蘆国・唐津における渡海の好機は、倭人伝にある通り6月と12月
そんなこと、どこに書いてある?
12月の冬の日本海をなめてないか? >>520
>景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。
>其年十二月、詔書報倭女王曰、「制詔親魏倭王卑弥呼:帯方太守劉夏遣使送汝・・・
この通り倭人伝には、卑弥呼の使いは6月、その詔書報礼は12月と書いてあるだろ。
おれも不思議だったのだが、
近年の九大の観潮レーダー観測の結果、
6月と12月の新月?だか、満月?だかの前後数日間に発生する「離岸流」というのに乗れば、各海峡間を1日で渡れるのだそうだ。
九大の研究も素晴らしいが、
古代人の航海術にも、驚異的な知識技術の蓄積があったのだなあ・・・、と感激した次第。 弥生期の海岸線は、あまりよい推定ができないので、堆積層の暑さで適当に決めたって書いてあるだろ?
それに、海が堆積三角州で埋まったところは地下水の塩分が多いから稲作に向かない
いずれにしても、佐賀県庁あたりが弥生末期に大集落になってるってことはないよ >>522
>其年十二月、詔書報倭女王曰
これは、皇帝が詔書を作った(皇帝の行為)が12月という意味で、実際にその詔書を持って
対馬海峡を渡るのは12月じゃないだろう
よく読んで >>524
>其年十二月、詔書報倭女王曰
「制詔親魏倭王卑弥呼:帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利奉汝所献男生口四人。。。
今以難升米為率善中郎将、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見労賜遣還。。。
今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、装封付帯方太守假授。。。
又特賜汝紺地句文錦三匹、、、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤。。。
皆装封付難升米、牛利還到錄受。。。<
・景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。
(六月には、帯方郡経由で京都へ達した。皇帝は6月ころには到着を知っていたので)
・其年十二月、詔書報倭女王曰→→皆装封付難升米、牛利還到錄受
(12月には、倭女王に曰く。難升米、牛利が帰り来たらば目録を受け取れ)
再度、よく読みました。↑こんな時系列ではないでしょうか。
渡海のチャンスはかぎられていたので、
12月中には倭女王に伝わるよう取り計らった(そして、その通りに運んだ)・・・、でよいのじゃないの 基本大陸王朝側基準で書いてあるから、
景初二年六月は、(倭女王が大夫難升米等を遣わし郡に詣で、天子に詣で朝献するを求めたので)
「太守劉夏が吏将を遣わし京都に詣でるを送る」なんだよ
そこから半年がかりで洛陽について、その年の12月に皇帝から詔書をもらえる
6月に皇帝が倭の朝貢を知ってた訳じゃない >>516さんは、「唐津における渡海の好機は、倭人伝にある通り6月と12月」と
いう訳ではないのは確認できたかな?
冬の日本海はやばいよ 水行を考える場合の補助として「陸行」を見てみた方がいい
「漢書 後漢書 三国志 宋書 南斉書 梁書 魏書 北斉書 隋書 南史 北史
旧唐書 新唐書」の範囲の「陸行」の全文検索結果について、書いておく
この範囲に「陸行」は全部で15件
漢書 3件
「陸行載車,水行乘舟,泥行乘毳,山行則梮」
禹の治水エピソード
「轉粟西鄉,陸行不絕,水行滿河,不如海陵之倉」
陸を行くものは絶えず、水をいく者は河に満ち 人が非常に多い様子の表現
「孟賁,古之勇士也,水行不避蛟龍,陸行不避犲狼」
孟賁が、水を行くときは蛟龍を避けず、陸を行くときは犲狼を避けず 孟賁が勇猛な様の表現 後漢書 1件
「孟賁水行不避鮫龍,陸行不避虎狼」
注釈上の漢書の引用(上記)のみ
三国志 2件
「東南陸行 五百里,到伊都國」
「南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月」
上記2件はおなじみの倭人伝部分 宋書 1件
「以表歸コ之誠,或泛海三年,陸行千日」
皇帝の徳に帰するを表するを以って(皇帝の徳が遠くまで届きそこから朝貢するのに)
あるいは海を三年かけ、陸行1000日の距離を超えて(朝貢に訪れる) (泛は浮かべる)
梁書 3件
「以表慕義之誠。或泛海三年,陸行千日」
上記宋書のコピペ
「又東南陸行五百里,至伊都國」
「又南水行十日,陸行一月日,至邪馬臺國,即倭王所居」
魏志倭人伝のコピペ2件
陸行が「一月日」になっていて九州派の陸行「一日」の間違いという説の心の拠り所 北史 3件
「初發其國,乘船溯難河西上,至太沵河,沈船於水。南出陸行,度洛孤水,從契丹西界達和龍」
勿吉国のことで、難河は今の嫩江(アムール川の支流、もちろん大河)、太沵河は今の洮児河で嫩江の支流、洛孤水は西遼河で渤海に至る遼河の支流(これも大河だね)、和龍は今の遼寧省朝陽市
川を遡る旅程だが、水行とは書いていない
また川の遡上は困難で、船が沈んでしまい、南に出て陸行し、洛孤水を渡る
「又東南陸行五百里,到伊都國」
「又南水行十日, 陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都」
魏志倭人伝のコピペ2件 旧唐書 1件
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
ここでは、「水陸行を通し」で水行と陸行とを一緒にしている
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、東に水行陸行を通して成都に至る如し
(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 実際には東南 新唐書 4件
「千里至鴨淥江唐恩浦口。乃東南陸行,七百里至新羅王城」
唐恩浦口は仁川付近、そこから東南陸行700里で新羅王城
「又泝流五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北泝流二百里,至神州。
又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都」
丸都縣城:吉林省通化市集安市丸都山にあった高麗王都の故地
神州:吉林省臨江市西南葫芦套村の対岸(北朝鮮側)
どちらも、中国、北朝鮮国境の鴨緑江沿い
顯州:吉林省延辺朝鮮族自治州和龍
天寶中王所都は、天宝年間仁王が都を置いたの意味
「又西一日行,至烏剌國,乃大食國之弗利剌河,南入于海。小舟泝流,
二日至末羅國,大食重鎮也。
又西北陸行千里,至茂門王所都縛達城」
烏剌國:クウェート、大食國:イスラム帝国、弗利剌河:ユーフラテス川、
末羅國:バスラ、縛達城:バクダッド
クウェートまで海、そこからユーフラテス川を小舟で遡り(泝流)、
二日でバスラに着き、陸行1000里でバクダッドに着く
「江淮水陸轉運使杜佑以秦、漢運路出浚儀十里入琵琶溝,絕蔡河,至陳州而合,
自隋鑿汴河,官漕不通,若導流培岸,功用甚寡;疏雞鳴岡首尾,可以通舟,
陸行纔四十里,則江、湖、黔中、嶺南、蜀、漢之粟可方舟而下,繇白沙趣東關,
歷潁、蔡,涉汴抵東都,無濁河泝淮之阻,減故道二千餘里」
これは、唐代の漕運(主に食料などの水運)の話
杜佑が江淮水陸轉運使となり、漕運路を浚渫などでほぼ全体が舟で通れるように
なったので、陸行はわずかに(纔)40里で、故道を二千餘里減らした、という話 こうして見て来ると、水行何日とか、陸行何里とかいう、地理・旅程記事での「水行」「陸行」の使い方は、
三国志(魏志倭人伝を含む)がおそらく最初であることが分かる
それ以前の漢書・後漢書には、禹や孟賁の活躍を記したり、人が大勢いる様子を表現する部分でしか、
陸行の語は使われていない
そして、そうした陸行は常に水行と対の言葉として使われている
これまで「地理・旅程記事の水行」という言い方をしてきたのは、
この陸行と対となる言葉としての水行を考えるべきだということ 三国志以降の「陸行」は「陸行何里」あるいは「陸行何日」の形のみが見られる
魏志倭人伝以降の「水行」もこうした「陸行」と同じ使い方の部分について考えないと意味がない
また、地理・旅程記事で陸行と合わせて「川」を移動している部分では、ほぼ水行の語は
見られず「泝流(流れを遡る)」の語が多く使われていることも分かる
旧唐書で1例、通水陸行と、水行と陸行を合わせた表現があるが、これは例のソンホン川流域を
通ってハノイ(安南)に至る経路で、川沿いの陸行だったり川を行ったりしたのだろう >>536
普通にヤマト国だろ?
川の水行はない
=博多湾沿岸から南へは水行できない
=南至投馬国水行二十日は南ではない方角 までは確実
陳寿の認識、「倭国は會稽、東冶之東まで南北に長くつづく洲島」と合わせて考えれば、
投馬国へは東に日本海沿岸を水行したと考えるのが蓋然性が高い
そしてそこに出雲があるのだから、問題ないだろ >>538
>南北なのに東に行く?
南北市糴は、対馬と壱岐だろ?
北部九州から投馬国へは水行二十日で行くが、
北部九州博多湾岸から南へは水行できない←川の水行がないから
まあ北や西へも行けるけれども、北や西には
五万戸の投馬国にあたる場所が想定できない
なので、消去法で東に向かうことになるというのが、最も蓋然性が高い >>540
>まさに詐欺師の論法w
どこが詐欺師なのか、「具体的に指摘」してくれww
川の水行を言い出す方がよほどバカだろ?
川の水行は「ない」
川の水行がなければ、博多湾岸から南への水行はできない もう訳わかんねえから
だれかまとめてくれ。
ジジイのオレが死んじまう前にw。 >>543
古墳時代には日本列島の広い範囲で前方後円墳を作るという合意が為されており、
それが事実上倭国の範囲そのものと見なせる
そして古墳時代の全期間を通じて各時期の最大の古墳は畿内に作られ続け、畿内に
前方後円墳体制の盟主があることは明白
ここまでは、「ごく一部の九州説(九州王朝説:古田史学の一派)」以外は認めること
邪馬台国論争は、邪馬台国の絶対年代が古墳時代に入っているかどうかに焦点がある
そして、学究畑では編年研究の成果から3世紀初頭には前方後円墳体制が成立していたと
考えられるようになっている
これが全てだよ
既に決着済み >>542
>方角詐欺
だから、どこが詐欺なのか「具体的に指摘」してくれ
川の水行がない以上、博多湾岸から南への水行はできない >>544
>そして、学究畑では編年研究の成果から3世紀初頭には前方後円墳体制が成立していたと
>考えられるようになっている
年代詐欺 >>546
>年代詐欺
だから、どこが詐欺なのか「具体的に指摘」してくれ
一人二人の考古学者が言ってるだけの仮説じゃなくて、
これまでの多くの研究成果を総合した多数説だぞ 「具体的に指摘」してくれ って書くと九州説は消えるね
まあ、そんなもんだw >>548
古代中華帝国の7役人が残した魏志倭人伝の存在が致命的だっね寄生中内説 畿内説の学者なんて真っ当な学者じゃないだろ
"布留0式土器と古式新羅伽耶陶質土器とは共伴して出土している。
朝鮮の三国時代の陶質土器は瓦質土器よりも高温での焼成が可能となったもので、
慶尚南北道、新羅・加耶地域のものが日本列島に流入した。
地域性が発現する前のほぼ4世紀の慶尚南北道の「古式陶質土器」
は馬韓や百済の土器とはかなり異なっているので、
馬韓・百済の土器と区別するために,
武末純一がこれを古式新羅加耶土器と呼ぶことを提唱した。
その後5世紀初頭ごろ、古式新羅加耶土器は地域性が明確になり、
新羅土器と加耶土器が分立するようになる。
従って、古式新羅伽耶陶質土器はほぼ4世紀のものを指すので、
石野博信らの布留0式土器が3世紀後半であるとの主張とは合わない。" 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>544
>そして古墳時代の全期間を通じて各時期の最大の古墳は畿内に作られ続け、畿内に
>前方後円墳体制の盟主があることは明白
前方後円墳体制の盟主は3世紀後半以降。
それ以前、ヒミコを含めた盟主は前方後円墳ではないし纏向にはいない。
葛城である。
そうするとすぐ「遺跡は?」と聞いてくるだろ。
卑弥呼の時代の王宮跡は式内・名神大社になっている、だから掘れない。
逆に言えば謂れのない所を掘って出て来た纏向の大型建物の遺跡は王宮ではない。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています