九州の古代史【邪馬台国畿内説前提】 [転載禁止]©2ch.net
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古代九州の話となると邪馬台国論争に終始してしまうので、個別に語れる場所はないかと。
畿内説への反論は畿内説スレにて、九州説を前提とした古代九州の話は九州説スレにてどうぞ。 >>525
倭国より直接的に関係する高句麗なども二千里四方=東夷伝里記載ですから、
否定しようがないわけです。 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 >対馬海峡が三千里
あれ?なんで?
一大國と對海國の大きさは?
〇一大國と對海國(海域であって)
×一大島と對海島、あるいは
×壱岐島と対馬島 都合の悪いことには触れない九州説
>>513を再掲
魏志倭人伝
(末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國
現実
千々賀遺跡 北東30キロ 三雲遺跡群
1里=60メートル
魏志倭人伝
(伊都国から) 東南百里 至奴國 ちょっと語順入れ替え
現実
三雲遺跡群 東北東18キロ 比恵・那珂遺跡群
1里=180メートル
方角も、距離もメタメタじゃないか?
現実に合っていないよ?
東夷伝里なんてないんだよ >>513
>>529
魏志倭人伝
(末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國
現実
中原遺跡 東南39キロ 惣座遺跡
1里=78メートル
魏志倭人伝
(伊都国から) 東南百里 至奴國 ちょっと語順入れ替え
現実
惣座遺跡 東南東7.5キロ 佐賀城内
1里=75メートル
現実にピッタリ一致しているよ。 >>513 >>529 を再現
魏志倭人伝
(末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國
現実
中原遺跡 東南39キロ 惣座遺跡
1里=78メートル
魏志倭人伝
(伊都国から) 東南百里 至奴國 ちょっと語順入れ替え
現実
惣座遺跡 南南東7.5キロ 佐賀城内
1里=75メートル
現実にピッタリ一致しているよ。 >>531
>現実
>中原遺跡 東南39キロ 惣座遺跡
> 1里=78メートル
今、Yahoo!地図で測ってきたら
方角は南東の東南東寄り、距離は28キロで、1里=56メートル
>現実
>惣座遺跡 南南東7.5キロ 佐賀城内
> 1里=75メートル
こっちは、方角が南南東で、距離は9キロ、1里=90メートル
かなりいい加減に書いてるよな? 調べられなければごまかせると思ったのか?
そして、惣座遺跡をどうやったら伊都国にできるんだ?
周辺に「イト」って地名はないぞ?
それに、こんなに内陸で、一大率はどこで臨津搜露すればいいんだ?
佐賀城内に至っては、弥生時代の遺跡ですらないじゃないか
筑紫平野側には奴国を思わせる地名もないし
現実を無視して、魏志倭人伝に無理やり合わせても意味はないよ
ザラコクもよくこれをやるけどね
現在定説となっている比定地、伊都国ー糸島、奴国ー福岡(「那」の津、「那」珂川等)を
否定するなら、もっと厳密な論証がなければ、ただのトンデモの言いっぱなしにしかならない
そして、東夷伝里とかいう数値には、このいい加減なつじつま合わせ比定地でも合っていない
東夷伝里なんてないんだよ >現在定説となっている比定地、伊都国ー糸島、奴国ー福岡(「那」の津、「那」珂川等)を
ただのトンデモの言いっぱなし >>343
兄媛、弟媛、呉織、漢織は応神天皇の依頼で帯方系百済人の阿知使主が
朝貢の見返りに南朝の皇帝に懇願して下賜してもらったドレスメーカーだぞ。
それまでの倭人の服飾は布を体に巻き付けて結ぶだけか、布の真ん中に頭と手を
出す穴を開けて着るだけの服飾しかなかった。
応神期末頃だから、5C以降の話だぞ。
これが日本で一番最初の中国人の中国人の帰化であり、渡来定着だぞ。
このときには秦氏がすでに加羅新羅から渡来して、須恵器や土壁の住居などが
もたらされている。
弥生終焉までに中国大陸からの渡来定着した痕跡遺構など日本には一つもない。 >>537
佐賀城内を奴国っていうのはないわ
よく、恥ずかしげもなく書けるよな
面の皮の厚さがハンパない >>534
>方角は南東の東南東寄り、距離は28キロで、1里=56メートル
方向は東南ですよ。地図の再確認を。
ルートは、唐津街道R203 中原遺跡−笹原峠−多久−肥前国庁跡(惣座遺跡) で39q。
>こっちは、方角が南南東で、距離は9キロ、1里=90メートル
肥前国庁跡、佐賀城、地図で再確認を。
方角が南南東で、距離は7.5キロ、1里=90メートル
惣座遺跡には、城柵の壕(吉野ヶ里と同型式)や女王墓があり、弥生遺物の密集出土地と隣接しています。
佐賀城は弥生遺跡の上に築城したため、城跡の建築基礎工事時に弥生遺物が出土しています。
厳密な論証は省略しますが、非合理な定説も古田説も否定します。 >>541
>佐賀城内を奴国っていうのはないわ
佐賀城内は奴国の城柵跡です。
奴国環濠跡を佐賀城の堀として拡張したものと思われます。 >末櫨國の上陸地点は中原遺跡です。
どういう理由で? なんで墓地遺跡が? @阿波 元寇の頃まで港湾遺跡として存続しています。墓地遺跡はありません。 >>545
倭人伝の記述どうりに進むと末廬国の上陸地点は呼子付近となります。
@帯方郡の南の端の海岸から船に乗って出発し狗邪韓国の南の海岸(「其北岸」倭国の北岸ってことは狗邪韓国の南の海岸)に到着・・・7000里
A狗邪韓国の南の海岸から對馬国の北の海岸へ・・・始度一海1000里
B對馬国の北の海岸から南の海岸へ・・・800里(方可四百餘里)
C對馬国の南の海岸から一大国の北の海岸へ・・・又南渡一海1000里
D一大国の北の海岸から一大国の南の海岸へ・・・600里(方可三百里)
E一大国の南の海岸から末廬国の北の海岸へ(呼子付近)・・・又渡一海1000里
F末廬国の北の海岸へ(呼子付近)から末廬国と伊都国との国境へ・・・東南陸行500里
G末廬国と伊都国との国境から伊都国と奴国の国境へ・・・東南至100里
H伊都国と奴国の国境から奴国と不彌国との国境へ・・・東行至100里 >>550
>倭人伝の記述どうりに進むと末廬国の上陸地点は呼子付近となります。
呼子上陸地点の遺跡は? @阿波 >>551
上陸地点に移籍?
何で上陸してん地点に遺跡が残るの??? >>551
上陸地点に遺跡?
何で上陸してん地点に遺跡が残るの??? >>551
上陸地点に遺跡?
何で上陸地点に遺跡が残るの??? >>554
他の末廬国上陸地点候補地では、遺跡があるよ? 呼子だけなんでないの? @阿波 >>555
遺跡を上陸地点候補地にしたからだろ
別に遺跡を上陸地点候補地にする必要はないんだけどね
帯方郡の出発地点の港の遺跡もないだろ。 >>556
調べてないけど、そりゃ在るだろ。 名もないような港から魏使 一行が出航するとは思えんが。
呼子にそれらしき遺跡がないのは、末廬国上陸地点じゃなかったってこと。 @阿波 >>554
大陸からの表玄関「末廬国上陸地点」に「何で上陸地点に遺跡が残るの???」と開き直られるとは・・・ @阿波 >>542
>方向は東南ですよ。地図の再確認を。
>ルートは、唐津街道R203 中原遺跡−笹原峠−多久−肥前国庁跡(惣座遺跡) で39q。
でも、大陸史書の、地理・旅程記事は、直線方向、直線距離が基本
なので、方向は南東よりはかなり東寄り、東南東に近い
そして、「どのルートだから距離がー」というのは意味がない
>惣座遺跡には、城柵の壕(吉野ヶ里と同型式)や女王墓があり、弥生遺物の密集出土地と隣接しています。
ちゃんと発掘報告書を読んでみたけど、女王墓があるような遺跡には見えないぞ
『佐賀県文化財調査報告書』96(1990)
惣座遺跡 : 惣座遺跡 久池井B遺跡 春日遺跡
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/18554
惣座遺跡の墓って、土坑墓や甕棺墓なんだが?
「埋葬遺構は斐棺墓 3基・石蓋土境墓 I基の計 4基がある。
ただし明確な墓地を形成するといったほどのものではない。」
玉類の出方は
「その他、玉類はガラス小玉、ガラス管玉、めのう丸玉が
環濠および竪穴住居跡の埋土中から出土した。
ただし点数はあまり多くなく、一つの遺構から
まとまった状態での出土ではない。」
鏡類は
「379は内行花文小型仿製鏡で径7.5cm。
380も内行花文小型仿製鏡で、径9.1cm、縁厚O.4cm、残存重要40g
381は縁から櫛歯文帯にかけての一部のみ破片のまま出土した。 379に類する小型内行花文鏡
であろう。」
環濠は、全体が発掘されているわけではないが
「こうして推定した惣座遺跡の面積は外掘り
で測って最大約2.9ha、内濠で固まれた内郭は仮に方形とすると約0.7haとなる。」 と思ったら、現在の区分では惣座B遺跡って呼ばれる方なんだな?
惣座遺跡 立石泰久
[佐賀県大和町教育委員会編]
(大和町文化財調査報告書, 第3集)
佐賀県大和町教育委員会, 1986.3
こっちは、ちょっとネット上では読めなさそうだな
ただ、銀の指輪が出た「土壙墓」があるだけのようなんだが、
銀の指輪3本で、女王墓と言い張るのかな? >>557
遺跡は無いが港は今もあるよ
今も使われているから遺跡は無い。 >>561
>遺跡は無いが港は今もあるよ
そんな所、至る所に在るんだけどw
大陸からの表玄関「末廬国上陸地点」が「呼子」だってどう仕舞つけるの? まだやるの? @阿波 呼子付近に上陸したから伊都国が南東なんだよ、他の場所だと方向が合わない
また倭人伝の行程文も国邑の端に着くことを至と表現している
「始度一海千餘里 至對馬國」
「又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國」
「又渡一海千餘里 至末廬國」
全て国邑の北の端に到着したことを指している。 >>563
>呼子付近に上陸したから伊都国が南東なんだよ、他の場所だと方向が合わない
方角も距離も合うよ。
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り) @阿波 >>564
何を言わんとしているのか意味が全く分からんな? マジで「呼子」に船、安全に着けられるの? 荒波やばくないの? @阿波 >>549
提示の中原遺跡は、2003年頃発掘の古墳時代のもの。
1965年頃発掘の中原遺跡は、弥生中期から元寇の頃まで続くもの。 >>565
>何を言わんとしているのか意味が全く分からんな?
早く呪縛から解き放たれて、これが理解できるようになることを祈念する。 @阿波 >567
>1965年頃発掘の中原遺跡は、弥生中期から元寇の頃まで続くもの。
その資料、提示できないの? @阿波 >>560
>銀の指輪3本で、女王墓と言い張るのかな?
女王墓は大げさであった。
土壙墓の1基から純銀指輪と銀製指輪および大量のガラス製小玉6,810個が一括出土
高貴な女性墓である。
詳しくは、調査報告書を読めばよい。2000年前後頃にはでPCで読めた。 >>570
>高貴な女性墓である。
どうでもいいんだけど、どうして「女性墓」と決めつけられるの? @阿波 >>569
>その資料、提示できないの? @阿波
資料は九大にあると思う。
地元新聞にも記事が掲載された。 純銀指輪3個と9mの青い連珠は、高貴な女性のものだと思われる。 伊都國(惣座遺跡)には王も居たから男性の可能性もある。
この王は吉野ヶ里(倭面土國・倭米多國)から逃げてきた帥升王統の王とも考えられる。 >>577
甕棺墓もお墓。
大陸からの表玄関「末廬国上陸地点」がお墓ってw これ、どう仕舞つけるつもり? @阿波 >>566
呼子に行ったことないの?
天然の入り江があるから外洋船でも安全に着けられるよ。 何か知らないけど、九州の目ぼしい弥生遺跡ってお墓ばっかりなんだよね。 なんで?
奈良とよく似ている。 @阿波 >>568
他人に理解できないものは誤ってるってことだよ。 >>580
>天然の入り江があるから外洋船でも安全に着けられるよ。
波が荒らそうw そんな所より、遠浅の砂浜がいいと思うけどね。 弥生の木造船なら。 @阿波 福岡は典型なんだけど
長い期間に渡った複合遺跡なんであって
昔から人がいたところは今も人がいるから
今ビルが建ってるところ以外はほとんど墓しか出ないよ。 >>583
入り江の中は波静かで安全だよ
遠浅の砂浜だと大型外洋船は陸に近づけないから荷物を小舟に積み替えて浜に陸揚げする必要があるし、船を安全な港に入れなれないで波が荒い外海に放置するとか危険すぎる。 >>582
>他人に理解できないものは誤ってるってことだよ。
そうかもね。 お互いに。 @阿波 >>584
>長い期間に渡った複合遺跡なんであって
>昔から人がいたところは今も人がいるから
それ、なにも福岡に限ったことじゃないよ。
阿波もいっしょ。 阿波も昔から人がいたところは今も人がいるから。 @阿波 >>586
泡くんの説は支持者がいないが
俺の説には賛成してくれる人や真似た説を謂う人もいるよ。 >>585
>入り江の中は波静かで安全だよ
入り江に入り込むまでが危険と思うが? 入ってしまえば安全なんだろうが。
>遠浅の砂浜だと大型外洋船は陸に近づけないから荷物を小舟に積み替えて浜に陸揚げする必要があるし
実際、そうしたんじゃないの?
>船を安全な港に入れなれないで波が荒い外海に放置するとか危険すぎる。
いや、岩礁が無いから安全と思うな。 錨で係留したんだろう。 @阿波 >>519
>楽浪郡のある朝鮮半島の横幅が四千里なんだから、
単に半島の大きさ、里程を誤認してるだけなのに、
>東夷伝里で測定してるでFA。
とかお馬鹿な結論に走ってしまうのが末期症状 末慮国の上陸地点は、弥生後期まで松浦川の河口付近にあった潟湖っていうのが、通説じゃないの?
ただ、その後潟湖の入り口に砂がたまって、直接伊都国や奴国の港、西新町遺跡や博多遺跡に
船を回すようになったっていうのでいいと思うんだけど 万津浦が末慮ってのは、ただのトンデモだから気にしなくていいよ >>588
>泡くんの説は支持者がいないが
そう勝手に決めつけられてもw
>俺の説には賛成してくれる人や真似た説を謂う人もいるよ。
同じだね。 @阿波 それから、惣座遺跡が伊都国というのも、やはり無理でしょ
前にも書いたけれど、海がないから一大率が臨津搜露できないし
国として栄えた様子が見えない
吉野ヶ里と比べても、格落ち感は否めない
末慮国から東南陸行五百里で行く先としては、惣座遺跡より
吉野ヶ里遺跡の方が適していると思う
吉野ヶ里が伊都国だとはこれっぽっちも思わないけどね >>589
入り江にれ入港するのに危険はありませんよ
何が危険?
それより玄界灘に船を放置するとか考えられないなw
嵐が来たらどうするの?
>>590
5倍くらいあるんだから誤認するにもほどがあるし
1か所じゃなくて何か所もあり、全て5倍くらいだから
別の里があったと考えるしかないですよ。 >>593
泡説の支持者や真似なんて見たことないけどw >>591
末慮国の上陸地点はここだなんて説は見たことないけど?
末慮国の中心的な遺跡は云々はあるけど。 >>592
>万津浦が末慮ってのは、ただのトンデモだから気にしなくていいよ
万津浦の浜の沖に、外洋船が何艘も浮かぶ姿は壮大だっただろうな。 @阿波 >>591
潟湖説は通説ではない。
私が松浦川潟湖を地学的に検証する迄は誰もいなかった。
浜堤が2本(虹の松原・鉄道跡)あり検証が困難であった。 >>595
>入り江にれ入港するのに危険はありませんよ
>何が危険?
岩礁!
>それより玄界灘に船を放置するとか考えられないなw
>嵐が来たらどうするの?
嵐には、玄界灘だろうとどこだろうと、どうにもならんでしょ。 @阿波 >>600
呼子に入港するのに何処に岩礁がるんだよ?
入り江の中なら嵐の影響を受けないよ。 >>601
>呼子に入港するのに何処に岩礁がるんだよ?
結構、あるんじゃないの? @阿波 >603
まぁ、どう考えても呼子が「大陸からの表玄関」だったとは思えないんだよ。
だって、その痕跡が少しもないから。 @阿波 呼子付近は秀吉の朝鮮征伐の際は名護屋城とかが造られて
朝鮮への遠征軍の兵站基地として朝鮮への渡海する軍船が多数停泊してたんだよ。 >>605
「大陸への出航地」としてね。
決して、「大陸からの表玄関」じゃないから。 @阿波 >>606
「大陸への出航地」=「大陸からの表玄関」ですよ。
呼子付近が日本の出入り口だったんですよ。 海路で千葉に着いたって言うときに、房総半島の先っぽってのがあると思うかどうかだな
千葉の中心は千葉市 少なくとも古代国家では房総半島は先端部(安房)の重要度が高かった。古墳時代がピークだろうけど。
房総半島で内陸部が重要になったのは鎌倉時代頃からじゃないの? いやいや、そういう歴史的なことじゃなくて、思考実験として、現代で考えて
政令指定都市で県庁所在地の千葉市が東京湾の湾奥にあって、海路で千葉に着いたって言う場合、房総半島の先端付近に着いたって考える余地があるか?ってこと
房総半島の先の方にも、小さな漁港もそりゃあるけれど、そこで上陸して陸路で千葉市に向かうなんてのは不自然だろ?
千葉の中心は千葉市だし、千葉市にも大きな港があるんだから、そこまで船で行って千葉市に着くようにするのが自然だろ?
同じ状況で、東松浦半島の先端付近で末慮国に着いたっていうのは、不自然だと思う 房総半島の先端付近に着いたら千葉県に着いたというのが普通だと思うがな? 当時の千葉県での最重要エリアは太平洋側だよ。
鹿島と香取が内海の入り口を守る要害の地だった。
卑弥呼は筑波山にいたかもしれないぞw >>611
もちろん、目的地は千葉市だよ
房総半島の先っぽでは、千葉市で足すべき用(何でもいいんだけれど例えば県庁への
書類提出)は、何もできないんだし
その状況で、字数の限られた旅行日誌を書く時に、房総半島の先っぽまでの旅程(距離または日数)を
書いて、千葉に着きましたって書くかな? >>612
当時の話とは切り離して、今の、現代の話としての思考実験として考えてみて このスレの討論、止まっちゃったな
ここはわりにきちんと討論ができる場なのに >>613
>房総半島の先っぽでは、千葉市で足すべき用(何でもいいんだけれど例えば県庁への
>書類提出)は、何もできないんだし
行程の説明してるだけで千葉市で足すべき用なんて無いんだから
房総半島の先っぽまでの旅程(距離または日数)で千葉に着きましたって書くよ
房総半島の先っぽだって千葉だもん 。 シアトルに着いたらアメリカに着いたと書くよな
ワシントンに着かないとアメリカに着いたと書けないなんてことはないよな。 そうだね。
後漢書では帯方郡から七千里の狗邪韓から倭としている。
一万二千里の彼方が九州北部で女王の都だね。 >>618
狗邪韓から五千里も先だったら当然ながら北部九州ではないな >>619
帯方郡から狗邪韓国までが7000里ですから狗邪韓国から5000里先なら北部九州ですよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています