平清盛が源頼朝と義経を子供のうちに殺害していたら [転載禁止]©2ch.net
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母親に懇願され、情けに負けて平清盛は頼朝と義経を殺さず
伊豆と鞍馬寺に流罪としてしまった。そのため平家は滅びたと
されるが、もしこの2人を母親の懇願を無視し殺してしまって
いたら、果たして平家は存続したのか、それとも滅亡の運命
からは逃れられなかったか、考察してください 肖像画からすると白河天皇の子供じゃない
同時代を生きていた天皇・皇族系の遺伝的特徴がない 歴史にIfは無い、天地人そのもの。
人や社会、世界を知るに頭を巡らせれるのは結構。
終了。 平清盛が白河上皇の御落胤ってのは、
あくまでも虚構も多い平家物語での話にすぎない。
『平家物語』の成立は鎌倉時代以降。 源頼朝は平治の乱で平家によって打たれた源義朝の遺児なので
担がれとしては最適の人物だったけど、
仮に頼朝がいなくても別の人物が担がれていたな。
おそらく、東国の源氏の誰かさん。 >>58
その物語が事実関係を確認されないまま書かれてるだけ 幼少期の頼朝を殺害していたら
間違いなく平家一門が
天下統一をしていたから
信長や秀吉や家康も出てこなかった イザベラ・バードも『日本奥地紀行』に、「彼(義経)は蝦夷に逃れてアイヌ人と長年暮らし十二世紀の末に死んだ、
と信ずる人も多く、アイヌ人は何処のことを固く信じている人は殆ど無く、義経は彼らの祖先に文字や数学と共に、
文明の諸学芸を教え、正しい法律を与えた、と主張している」、等と和人からの伝承を記している。
ってWikipediaにあるんだが「何処のことを固く信じている人は殆ど無く」ここの意味がわからん
信じてるのか信じてないのかどっちなんだw 信じてる和人は多いが
信じてるアイヌはほとんどいない 大陸に渡ってチンギスカーンに謁見してイタリアでマルコポーロになったって伝説聞いた >>66
西国は平家
東国が木曽源氏
奥州が奥州藤原氏
長期の
三国鼎立だな >>70
あれだよ、蝦夷地併合するための正当性のある理由として
和人の義経が蝦夷地にわたってその地の人々に物を教えた恩人だから
和人が統治してもいいよねって感じだったんだろう
為朝が琉球の王になったとする捏造も、同じ理由で
義経がモンゴルにわたったのも、満州の手に入れる為の同祖論
戦時中のユダヤ同祖論も似たようなもんだ
朝鮮人が、天皇は朝鮮出身だからウリナラが日本を支配していいニダ!と言うのと似てる >>59
平忠盛と祇園の女との子供? 池禅尼は義母? 清盛のほうが頼朝より長寿だった。
>>1
そうすると残党が復讐する。以上。
じっさい、北条の乗っ取りって平家による復讐だろ。 >>77
平氏と平家を混同してる?(´・ω・`)? 別の源氏が神輿に担がれるだけだろ。希義、範頼、義経の兄二人とたくさんいる。義仲もいるし >>79
反平家と独立性の高さから坂東に注目するなら新田義重かな
頼朝に対しては遅れをとったけど
頼朝がいなかった場合だったら有力じゃないかな 史実では1183年に木曽義仲は幕府を開いているが、すぐさま義経に滅ぼされる。
>>1の仮定に従えばこの部分以降が「無い」ことになる。 関東も頼朝以外の源氏が群雄割拠して
どんぐりの背比べ状態となる。木曽義仲の京都幕府はおそらく足利幕府のさらなる弱体化バージョンとして
だらだら存続し南北朝時代のようなカオスが続く。
誰かも書いているが鎌倉・室町を経ずに戦国が来るというのは有り得るね。 そしたら、何処が天下統一するんだ?
平家が都“戻り”するか、それとも関東に戦国の北条のような新たな覇者が現れるか。
それとも藤原が一気に中央に進出を始めるか・・・
どうなんだろうな。 平家と京都幕府は東経135度で戦線膠着、後世これを「135度線」と呼ぶ。
平家は京都奪還を諦め、中国大陸 東南アジアとの交易を深める海洋国家路線を志向する。
一方 奥州藤原氏は中央政局には関心を示さず、適当に付き合いながらオホーツク経済圏を目指す。
近畿から関東は戦国時代へ突入。京都幕府も朝廷も形骸化する。史実より早く、そして長い戦国時代が続き、
真の天下人が現れる。
その男の名は、 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>84
油売りの方ではなくて、その油売りに乗っ取られた方か。
しかし、基本的に応仁の乱に乗じて領国を拡大して天下を取るってのは、乱が起きうるレベルの中央政権が無いと出来ない話だろう。
そう、史実より長期に渡る戦国時代になってしまったら、それぞれの領国が確固とした領域国家に固まってしまって統一は難しいんじゃないか?
妙な竦み状態で、図抜けた奴が出辛いだろう。 結局上洛を果たして朝廷の権威を担いだ者が天下を取る流れだろう。
でも俺の考えでは平家が都に返り咲いて戦国時代にはならないと思うけど。 平家が日本全土を統制できるだろうか?
多分、出来ない。
幕府のように独自のシステムを作ってるわけでもなく、基本的に形骸化した朝廷のシステムの流用だからね。
これじゃ武士の支持は得られない。
武士は、自分の領地を認めてくれない主は当然ながら認めない。
平家が滅んだのはそれだ。
しかし平家が都戻りしても、それを認めないだろう。
基本的に平家は、朝廷に寄生することで栄達し、生きている組織だからな。
なら、平家が全国を統一することは難しいだろう。 鎌倉幕府は承久の変を乗り切ったけど鎌倉幕府も頼朝もない関東武士団は
承久の変を乗り切れない。朝廷の権威(を担いだ平家)に従うしかない。 >>89
だから、武士は御恩の無い殿様には従わないよ。
土地の所有権すら保証できない、若しくはしない組織に何故全てを捧げねばならないんだ?
宣旨だけで武士が動いた時代は、乱世の始まりと共に終わってる。
というか、平家がある意味それを終わらしてしまった。
なら、自分の力で切り開くって方向に向かうと思うよ。
武士の所有権を認めない以上、平家に従う意味が全く無いもの。 >>86
ども。斎藤妙椿を出したのは「ただ言いたかっただけ」で深い意味はないです。勘弁してくださいよ旦那。
おいらは別レスでも並行してこの問題にコメントしているのだが、想定しているIF歴史は
治承・寿永の乱が終息せずにダラダラ長期間それも100〜200年というレベル。
後日この手の長文連投をするつもりなんだが、少し書いておくと、このIF歴史と史実の違いは
武家側が公家政権より勝ち取った権限、下地中分・地頭請・半済・守護請などが未だかちえていない社会を
考えてみた。 武士の成長が史実より未熟なまま戦国に突入するわけだな。守護領国制の前段階である荘園公領制の状態での
「戦国時代」を空想してみたわけだな。
周知のとおり、最初の戦国大名は北条早雲あるいは尼子経久(演:緒方拳 シビレル)を
挙げてよかろうと思うが、もう少しおもろい奴を思いつかなくて、誰かが後を書いてくれるだろうと
一旦退却したのだが、突然 斉藤みょうちんの名が頭に降りてきたので深い意味はない。
足利氏は鎌倉幕府の厚遇で肥大化した武士団だし、新田は勝手にすべってるのでIF歴史でも不合格。
あなたのおっしゃるとおり、山名も大内も守護領国制の申し子だから これもペケだすな。
あー、わかったよ。83の続き あんたが書いてくれよ。
んじゃあ、いくよ。
史実より早く、そして長い戦国時代が続き、やがて真の天下人が現れる。
その男の名は、 平治の乱で頼朝を処刑しておくべきだったという意見は正しいだろうね。
ただ、平治の乱は首謀者が藤原信頼でほぼ確定している。
信頼の方は、目の前で妻子を全て処刑してから、車裂きにされ、信頼は凄まじい
断末魔を上げながら死んだ、と残っているから、マジで怒りを買ったんだろう。
余りにも信頼一人に罪を押し付けた(あるいは事実そうだった)反動で、
他は甘くなってしまった。
>>1
これ、嘘。池禅尼と清盛はすさまじく仲が悪いので、清盛が池禅尼の意見など聞くわけがない。
朝廷が源義朝の罪を軽く見なし、頼朝を処刑するまでもない、としただけ。
最も、流されている途中で処分しておくべきだったと思うけどね。
後の藤原成親のように。 >>91
史実より200年長い戦国時代なら、流石にその間に大名も諸制度を整えていくだろうがどうだろうな。
史実だと、頼朝や北条という指導者が全国的に独自の制度を短いスパンで広めていった。
しかしそういう指導者がいなければ、戦国大名がそれぞれ制度を作っていく事になるだろう。
要は全国規模ではなく、地方それぞれにミニ幕府が出来るんじゃないだろうか。
<周知のとおり、最初の戦国大名は北条早雲あるいは尼子経久(演:緒方拳 シビレル)を
挙げてよかろうと思うが、もう少しおもろい奴を思いつかなくて、誰かが後を書いてくれるだろうと
一旦退却したのだが、突然 斉藤みょうちんの名が頭に降りてきたので深い意味はない。
なら、戦国一のド屑、木沢長政なんかどうだ?
戦国初期に突然現れ、あっという間に消えていった梟雄だが、畿内の諸勢力を戦わせるだけ戦わせて短期間に滅茶苦茶領国を拡大している。
ああいう倫理とか道徳とか一切関係ない信長タイプは、中世の破壊者と天下人をやれそうだが。 オツムが未整理なまま長文を書いてみる。おれがこのスレ来たのは先週が初めてなんで許してね。
連投長文嫌いな人はスルーしてちょ。
◆スレをざざっと読むに、>>2と>>3でいきなり結論が出てしまって
概ねこれを基調としたスレ進行になっている。2と3を読んで、ハッ!と気づかされたのは、
治承・寿永の乱が実は「プチ戦国時代」だということだった。
頼朝・義経のあざやかな政治・軍事手腕によって内乱が早期に収束したので
後世の我々は単純に「源氏と平氏(+奥州藤原)の10年戦争」と見がちだが、
実はそうではない、と目から鱗が落ちた思いがした。さらに読み進むと、
>>49が「鎌倉・室町を挟まずに戦国が来たかもしれない。」と書いてやがる。
「何いっ! 鎌倉・室町を経ずに戦国時代が来るだとお!?」 ベルム紀の大量絶滅の後に、
石炭紀・ジュラ紀・白亜紀をすっ飛ばして新生代が来るような話である。(わかりづらいか?)
もしかして49氏は天才なのか? これはもうじっとしておれない。
それで書いたのが>>81と>>83でござるよ。 (続きます ◆>>1の設定は可能性も十分あったし、「鎌倉幕府とは何か」を考えさせてくれる良い機会でもある。
49氏の言う「鎌倉・室町時代を経ないで戦国に突入する世界」とは
一体どんな時代(社会)なのか? これは有り得るIFなので非常に興味がわく。
治承・寿永の乱が終息せず数十年あるいは2,300年続く世界。なんかワクワク。
>94氏
史実の鎌倉・室町時代(応仁以前)は中世武士団の「進化」の過程だったと言える。
文治の勅許に始まり、下地中分・地頭請・半済令・守護請など、日本史の授業でお馴染みの
「武家の権限拡大、荘園・公領の侵略」を300年かけて行い、
その最後に待ってましたとばかりに「戦国」が到来するわけだ。
俺が>>81>>83で描いた世界は、史実の鎌倉・室町での社会発展が欠落したまま
未発達のカオス社会であり、>>94が描く世界は逆に、300年かかる「生物進化」を
数十年で遂げる急成長した社会だな。どっちに向かうんだろうねえ。
「戦国が300年早く、しかも長期に続く世界」を想像することは文明論の範疇だ。
スレ主の意図を超えた面白い議論になるね。(続きます) ◆たまにテレビで有名ではないが本当は凄い昔の偉人、みたいな番組を観ることがある。
来年 大河ドラマの主人公の井伊直虎も歴史秘話ヒストリアで初めて知ったし、
有名ではないが凄い歴史上の人物はまだまだ居そうである。 斉藤妙椿はずっと以前から
「すごい人なのになんでマイナーなのか」と考えていた人物だった。
今回 新テーマに取り上げた「治承・寿永から続く戦国時代」におれが彼を
エントリーしてやらないと誰も注目してくれない。
んで、 ――木沢長政―― いいねえ。今まで名前しか知らなかったよ。
ジャ二―細川のバックダンサーぐらいにしか認識が無かったが、ウィキで今回調べてみた。
「小物界の大物」感が漂ってデリシャスだ。俺もまだ修行が足りんね。
49氏が提唱し、>>83で妄想した仮想の戦国時代は一体誰が混乱を収拾するのだろうか?
斉藤妙椿、蓮如、木沢長政、桃井直常〔←NEW〕・・・・etc そして、
スレ主が気にしている平家の運命は? 鎌倉幕府の影の実力者 大内惟義の去就は?
歴史学界が無視している木曽義仲の京都幕府のその後は?
日ノ本将軍こと安東氏は渤海国と日本海経済共同体を結成するのか?
興味が尽きないね。 >平清盛が源頼朝と義経を子供のうちに殺害していたら
義仲を誰も止められない・・・・ ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>97
天下人候補に、桃井直常か・・・
悪くは無いな。
この人、上司の直義が負けたから奸臣扱いされてるが、もし直義が勝っていればそうはならないだろう。
恐らく直義が将軍になってれば確実に管領になっただろうし、戦国時代まで幕府が保てば細川政権ならぬ桃井政権になっていたかもしれない。
もし仮に幕府が未成立だとしても、立地は下野だし悪くはない。
木曽幕府が出来ていれば、越中守護だから上洛も容易いだろう。
<スレ主が気にしている平家の運命は?
平家は武家の台頭とともに、小弐や大友に牛耳られるんじゃないかと思う。
平家も地元の武士の台頭とともに、権限を渡さざる負えなくなるだろう。
すると、大友や小弐のような大名級の家臣に乗っ取られていくんじゃないだろうか。
そしてその内支配権も狭まっていき、後に島津や龍造寺が台頭していくと。
自分としては、平家は戦国の大内のような末路を考えている。
<日ノ本将軍こと安東氏は渤海国と日本海経済共同体を結成するのか?
安東氏は、藤原に取って代わるのか同時に併存するのか。
どちらかで大分運命が変わりそうだ。 >>102
なぜ、2位じゃダメなんですか? ・・・・・違う。もとい、
なぜ、新田じゃダメなんですか?
歴代当主がアレだからですか? 治承寿永の乱は木曽義仲が本能寺で源行家の謀反に合うことにより、
さらに300年以上も続くことになった。
やがて。この長い争乱を鎮め、泰平の世を築く男が現れる。
その男の名は、 その木曽義仲は
少年時代、オオカミ数頭に一人で抗戦し全て斬殺と伝わる武勇
人形劇『平家物語』vol.5 - 22〜24話
http://kiratemari.exblog.jp/4627472/
> 駒ヶ根の牧が狼の群れに襲われ、愛馬が餌食にされたことに腹を立てた義仲が、
> たった一人で狼数頭に立ち向かい斬殺する光景を目の当たりにして、
> 将来天下にはばたく武将の相を見て取り、その教育係を引き受けた…
参考までに、源氏のオオカミ退治の名声は、八幡太郎義家が「狼坂(おいぬざか)」 で
軍勢での退治例もある
源義家の狼退治伝説 - 地元あちこち
kacco.kahoku.co.jp/blog/m-katono/53770
> 八幡太郎源義家が後三年の役に奥州下向の折(1083年)、
> 万民を悩ます狼を退治し埋めた所と言い伝えられている。」
> 昔は中山の辺りには狼が多く住んでおり、 この辺りまで下りてきて
> 住民に危害を加えていたそうです。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 国時代が史実より300年早く到来すのではなく、平氏政権が300年続いてたら、
どうだったのだろうか?
鎌倉幕府の成立・承久の乱・南北朝の争乱と各段階で武士はその力を強めてきた。
平氏政権が300年続くとなると、先述の各ステージは当然ない。じゃあ、武家社会は平安末期のままで成長・進化をやめていただろうか?
俺が思うにこちらのIFでも史実よりは未成熟な「中世」はやはり進んでいたと思う。
『明治維新が無くても、ゆっくりした近代化は進んでいた』論の中世版ということだ。
従来の歴史観では平氏政権成立の評価が鎌倉幕府のそれより相当低い。「近世」を創設した織豊政権と徳川幕府が“同格”の歴史評価を得ているのとは大違いである。
平氏政権は存在期間が短かったゆえに、その誕生の意義をも過小化されてしまった気がしてならない。
平氏政権の歴史ポジションを“格上げ”してあげてもいいのではないか。 >>108
平家政権の評価が下がるのは、ひとえに武士出身の平家の政権であって、武士の政権では無かったということだな。
そう、政権を取った時点で最早平家は武士を辞めてるし、武士全体の・・・って発想は無い。
そう、あくまで平家の占有物だったからね。
だから武家の所有権を保証せずに、平安時代そのまんまな形骸化した土地制度に割り込む形で独占した。
勿論、上がりは平家の物だ。
コレじゃ下々の支持は得られない。
要は平家政権というのは藤原政権の後継でしかないのだから。
長続きは難しいだろう。
もし、平家が源平合戦に勝利して全国の維持に成功したら、矢張り第二の頼朝義経が出てくるのではないかな。
関東でなくとも関西に、源氏でなくとも木っ端武士にね。
ひょっとしたら、福原や奈良に幕府という歴史が見られたかもしれない。 >>110
基本的に激しく同意しますです。 終わり。 いや、つづく。
平氏政権(←「平家政権」と呼ぶべきなのは理解できるが用語としてはこちらが一般的なのでこちらを使用)が藤原政権の“亜種”であることはその通り。
しかし、藤原氏と違って直接の軍事力を持っているという「軍事政権」の本質は一貫していたし、
未だ研究途上で詳細ははっきりしないが、平氏政権では一部の国に「守護人」が設置されていた等の鎌倉幕府との類似性は無視してはならないと考える。
「本質」と言えば、平家も鎌倉将軍家も「軍事貴族」(比喩ではなく歴史用語の方ね。)という性格はその滅亡まで変わらなかった。
「平成政権も鎌倉幕府も本質は院政時代の軍事貴族である。」という認識を俺は持っている。
鎌倉開府や承久の乱について、従来の歴史観ではその断続性(非連続性)を強調し過ぎなのではないかという疑問を持っている。
もちろんこの2つの事件はエポックメーキングであることは言うまでもないが、社会の連続性の部分をも注視する視点も必要だと考えている。
そういう思いで>>108を投げてみた。 また連投するぞ。
>>110
平氏政権はやはり長続きしなかったとは俺も思うね。治承寿永の内乱を何とか乗り切ったところで、
第二・第三の頼朝は現れていただろうし、北条政権でさえ100年後には制度疲労と人心離反で滅亡したんだから、
300年続くわけがない。「300年早く訪れる戦国時代」に触発されて、逆に「300年続く平氏政権」を
夢想すればどういう視点が生まれるか。頭の体操としてはいい「お題」のはずだ。
「ありえない」とかバッサリ切り捨てられたら、あまりに俺が可哀相じゃないか。
過疎スレ,,もとい、IFスレなんだから柔軟思考でいこうや。 >>112
しかし、幾ら幕府の“萌芽”といえるような制度を含んでいたとしても、それは恐らく公式の制度や地位では無かったはずだ。
あくまで平家は幕府では無いのだから、朝廷の官位を蔑ろにして幕府のようにおおっぴらに守護地頭の設置は難しかったんじゃないか?
頼朝が征夷大将軍を望んだのも、独自の裁判権を持てる=独自の組織や官位をクリエイト出来るということだからね。
だから、やはり平家が朝廷の国司を飛び越えることは難しかったんじゃないかな。
と、なれば伊勢平氏による政権ではなく、同じ平氏系の一族に政権を禅譲し、ある意味平氏政権が続くといった形が精一杯ではないか。
同じ平家が幕府を開けば、平家は続いたという事が出来る。
そうなれば、現代には福原時代(六波羅政権→福原幕府)と表記されることになるだろう。
天下人の称号は征夷大将軍ではなく、畿内総官職になるだろうが。 義仲が個人でのオオカミ退治>>106から見て、木曽は遺伝的に戦闘能力高かったな 勧進帳がなくなるから
歌舞伎の有名な演目が1つ減る 京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」
『吉田定房奏状』
「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんやwwwww」 >>114
鎌倉幕府の諸制度について 基本認識の違いを感ずるが枝葉末節の話なので
これは置いておく。
>>94の時も感じていたが、貴方の平氏政権観はやや古い気がする。この数年、
従来とは違う視点から平氏政権を論ずる見解が出され、おれもそれに引きずられている。
前に「平氏政権は藤原政権の亜種」と書いたが、実はこの平氏政権観は過去のものとなりつつある。
この辺の参考URLを貼っておくので、暇な時にちょっと目を通してちょ。
平氏政権の位置づけ
http://singetu.ddo.jp/kiyomori/01/12.htm
平氏政権(ウィキペディア)の『意義と評価』の項 参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E6%94%BF%E6%A8%A9
これ読んでから下のいずれかのボタンをクリックしてください
【>>108に戻る】 【次のレスに進む】 【もうお腹いっぱい】 鎌倉幕府にしろ室町幕府にしろ、その存在期間中に「進化」や「業態転換」が見られ、
創設から滅亡まで決して一様であったわけではない。ここが近世の政権と異なる点でもある。
この時代 いくつかの争乱や政変があって幕府内部の権力構造のみならず武家社会そのものの構造変化が起こった由による。
平氏政権をみても、十数年という短命政権ながらかなりの構造変化をしている。
>>114にも出てきた「畿内惣官職」であるが、これが設置されたのは清盛逝去の直前である。
最初は藤原型の権力掌握で始まった平氏政権だが、最後は軍事独裁の麺を強く打ち出した政権となった。治承三年(1179年)のクーデターも合わせて短期間にここまで性格を変貌させた政権も珍しい。
史実においてもこうなのだから、歴史IFとしての平氏政権の可能性は相当な「振幅」や「伸びしろ」を勘定に入れてもよさそうである。 平安時代が続いていたら元寇にうまく対応できなかった
元寇の被害が最小限にできたのは武士政権になっていたおかげ
もしかすると今頃は九州の一部が中国の領土になっていたかもしれない >>119
とりあえず、その強く打った麺を食べたくなった >>123
また誤字っちゃったよwww 誰かおれのPCにAI搭載してクレヨン
「軍事独裁」味のかなりハードな麺だが、いいのかそれで? 福原から京への還都とともに園城寺や南都を焼討したり、
近江から東を鎮定したり、惣官職を設けたり、
荘園からの徴発体制を整えたり、最終段階になって急激に面白くなってくるね 勝てば・・・幕府になったのか?
いや、矢張り宗盛じゃダメな気がする。
いくら平家が勝っても、武家の棟梁が宗盛じゃなぁ。
持って二代じゃないかな。
そもそもそれが幕府と呼ばれるかどうかも分からんことになると思う。 >>129
宗盛無能は鎌倉幕府による捏造ではないのかな? >>130
鎌倉幕府による脚色を抜いても、あまり有能ではなかったと思うぞ。
何よりも平家方の負けっぷりがそれを物語ってる。
矢張り下っ端の武士からは、武家の棟梁に相応しくないって思われていたのではないかな。 >>497
平頼盛と源頼政がツートップの、穏やかで良識的な政権を夢想してみるも、これも長持ち要素はないやね 平家一門が源氏を押さえて天下を取っていれば
現代の日本の姿も自分達の生活も全く違ったと思う
平家はものすごい力と影響力をもっていたから
もしかしたら世界中が変わっていたかかもね >>1
頼朝はな〜
ぶっちゃけ頼朝以外のやつが傀儡にされてただろ
ぶっちゃけ頼朝義朝親子って没落源氏の貧困失業者を上総家が政治的な手段、対大和政治手段として買い込んだんだよ。
買った傭兵であり買った養子、これ今で言うと田舎財閥が没落議員を買う。幕末なら没落貴族や新撰組残党を婿養子にするようなもん。扱いはもっとした
極論で上総広常や千葉氏の盾として義朝を買ったようなもの。婿養子よりも扱い低く、下男傭兵のようなもんが源氏
ところがこいつら一味がほとんど山賊、ヤクザみたいなもんだったから、源氏ファミリーがクソヤクザみたいなことするんだよ。
それはいいとして、で義朝はむしろ坂東武士が矢面に立たないために作った傭兵で身分を上とする曲解がむしろ暴論であり、滅列じみて、身分的には傀儡傭兵なんさ
そして義朝を盾にしてほげんや平次の乱に介入する。言い換えれば天皇に警戒されつつも繋がりがある義朝を盾に大和介入体分を得てるだけで、それはより警戒された坂東武士が公家や天皇の反発を得ずに介入する為政の手段。
そしてこの傀儡義朝介入政治が義朝及び長男(但し長男は養父と秩父殺しで信用を損失してた)死亡で
三番目、四番目の候補として、明らかに頼朝を次のポスト傀儡とするために坂東武士団が頼朝のこうえんしゃである事を位置づけるために
頼朝成人の儀を坂東武士団が執り行う。この成人の儀もやり口としては大げさかつ異例なんだけど、予備の傀儡儀式とすれば納得
でこの対抗策として清盛が執権家によりともを婿養子強婚させて、平家の小飼として頼朝を離婚させて婿養子に強婚させた。
傀儡の封じ込めとして頼朝を使った。ここまで頼朝はあくまで天皇や中央政治に通じた(介入体分)は誰がいいか
そのための抜擢が頼朝であり、義朝を養子にした上総は後に平家ともパイプラインと政治外交のために接近する。これは盛大に裏切られる結果になって、この事があってから上総は強行的な手段に訴えるようになった
また上総御曹司義朝の兄と一旦秩父氏も協力してた
事実上の戦後の自民党+ヤクザ政治感覚で、このヤクザに当たるのが義朝家とその親族でこれらを傀儡にしたの つまりパイプラインとして使える家、飼いやすい没落貴族は誰かであり、それが義朝家であったというだけで、多すぎる義朝の子息であれば別に誰でも良かった。
だから頼朝、義経がいなくても他の多すぎた兄弟の誰かで良かった。
つまり義朝も頼朝も盟主じゃ一切ないんだ。元々は大和パイプラインの没落貴族
扱いやすい元貴族のヤクザでいかに政治に圧力かけるかが義朝抜擢の理由と義朝家であり
むしろこの傀儡が以下に扱われて、どう封じ込められてってのが重要な観点
もう大和では義朝が生まれる前に、連中を危険視して実質改易、解任しちゃうんだよな。
坂東武士というよりも、坂東武士を使って権力を作ろうとしてる危険人物とみなして義朝生まれる前に義朝家を解雇没落させるんだ。
でその後で上総=坂東武士最大の有力家が、千葉氏を一旦房総盟主に育てる気があったのだが、盟主がつかまり、知行を盗まれ、勢力を衰退させた叱責があった。でこの際ヤクザ手段を使われたために
大和とのパイプライン(政治介入)を作るため、没落貴族の源氏を総会屋感覚で雇ったのが義朝
そして義朝を傀儡の代表という身分的にはたいしたことない扱いとして政治介入させ
位置づけ的には上総田舎名士のし金がなければ活動できない総会屋ないし政治家でしかないからいくら出世しても駒なわけだ
そして上総家のように、秩父家も総会屋として義朝家に接近するんだけど、これを秩父跡目相続相続に悪用した結果、悪源太は養父と名士の秩父惣領を暗殺し、悪と言われる
しかしむしろこの悪源太は総会屋として依頼殺人を受けてる側とも言える。こうなると依頼殺人受諾者の悪源太と依頼殺人をして秩父総量になったあらたな依頼殺人依頼者の畠山氏では
力関係上どうしても源氏が下の総会屋になる
そしてほげんの乱は上総御曹司+坂東武士団(代表上総氏、傭兵傀儡議員の大和案内人義朝、坂東房総武士団御三家御曹司、総会屋源太)
と白川+平家(代表後白川+忠犬清盛)で包囲して、崇徳+藤原(代表崇徳、共謀貴族支援者藤原将軍、下っ端八幡悪太郎)を叩きつぶした しかし後に平家が事実上の対天皇クーデターを起こし太政大臣日本総量になり実質天皇を超える実権を獲得した
この際清盛は悪源太は総会屋で義朝は傀儡議員とわかった上で
強力な坂東武士と対抗せずに暗に相手の弱体化を図るために二人の傭兵を暗殺した。
その後子分を上総に接近し裏切らせ、坂東武士牽制政治を行う
そして頼朝は義朝の子であり、第二第三の坂東傀儡とわかってたから子分の北条に頼朝を離婚させて頼朝の子を殺害し婿養子として強婚させた
最も頼朝が離縁させられたのはいつ誰がやったか実はわからない。犯人は坂東武士か、清盛か、北条かわからないんだけど
そして天皇王子の挙兵と頼朝の支援、前後に関係性が分からないが千葉家がのっとり藤原を処刑して知行を回復させ、ここが鎌倉幕府坂東兵団の根拠駐留地となる。
そして明確に主導権と軍権を持ってたのは坂東御三家や秩父惣領などであったため
頼朝はただの天皇パイプライン連絡役で位置づけ低く、意見は聞き入られなかった
あくまで御三家は北の宿敵じょうりくいちみを打って牽制し、富士を制圧して独立国型持久交戦を画策してたからだ
よってわずか二ヶ月で富士、金砂城を攻略したものの、以後3年停滞して内政に務める。
しかし頼朝は自分の出世のために、扱いの低さに我慢がならず英雄になりたかったか、清盛を恨んでたから上総を暗殺した。
上総を暗殺して後悔したという逸話があるがむしろこれはパフォーマンス的で格下の頼朝は扱いに我慢ならず恨んでたんだろうな(逆恨み)
無論対清盛政治の和睦材料として主戦派で扱いの低い頼朝は暗殺されるのではという意見があったかもしれない そしてその後大急ぎで短期間で清盛を駆逐、もっとも活躍が低くいうだけ殿様の頼朝は自分の功績の低さを自覚し、むしろ可愛がられた義経やその他の兄弟に自分が取って代わられることを危惧して積極的に身内を処刑した
結果的に頼朝だからこそ代理の候補者が目立たないが、頼朝がいたこと、頼朝が積極開戦主張、頼朝が将軍になる下りはむしろ結果的なものでここに才覚、必要性なるものは存在しない。
むしろあれで将軍になれたことこそが以下にして傀儡であったかだけだし
結果頼朝がいなくとも別のやつを傀儡にしただけ
もっとも別のものであって、やはり開戦主張の可能性は存在したし、開戦とならずとも富士川金城の戦いは確定済みなので
坂東対立は不可避でそうなると長く持たない清盛が死ねば、いずれ一族対立や天皇との戦いで、そのうちまた坂東武士が介入して負けるだろ
むしろタイミング的に、頼朝のせいで対立が早くなったけど、頼朝いなくても何らかの形で敗戦して清盛を後退させる。
むしろ史実とうりの対じょうり→対清盛→対奥州→対天皇の戦いが一元的に纏めて、あるいは別の形で起きるだけだろ。
そういうの踏まえると必然的にやはり清盛一派は清盛ワンマンだけに不利であり、歴史は変われど結果は大差ないんじゃないのかな 義仲は史実の通り都人に嫌われて他の勢力に追い落とされる。
それが武田なのか、佐竹なのか。源範頼が最有力か? 長い戦国時代へと突入し、500年後 天草四朗時貞が天下統一 重盛が長命であれば奥州藤原・関東源・西国平の3派鼎立。 何だこのスレ・・・
あのなぁ・・・
天皇家、藤原、桓武平氏(伊勢平氏も)、源氏をちゃんと解ってください・・・
解らないならしようがないが、せめて、保元の乱、平治の乱、以仁王の挙兵、と勉強してくれ! 平氏政権は朝廷の支配機構に平家の人間を占めたのに対し、
鎌倉幕府は守護や地頭など朝廷から独立した役所を置いた。 >>147
源頼朝の兄弟が可哀想すぎワロタwwwスレと、
【源頼朝】ミスター大河・石坂浩二【柳沢吉保】 スレが落ちたよ。 >>150
自軍すら統率できないような奴に天下がとれるかよw ブレーンがいなかったから、宗盛も義仲も双方ともに天下を長続きさせるのは困難だったろう。
逆に頭の良い武士か坊主がいれば、スグに武士の領地を安堵する令旨を出させた筈だ。
そうすりゃ幕府なり公儀なりを築けたろう。 んじゃあ、平家が反転攻勢に成功し動乱を鎮圧する、に1万ペソ。
以下、このスレッドを「もしも平氏政権が150年続いたら?」にします。 日本史の中でも煌びやかな平家文化を見るに、鎌倉時代のような倹約文化にはならず
日本の伝統文化財、世界遺産が増えただろうとは思う
独特の芸術センスがあるよ。平家(清盛)には
秀吉以前に、もっと華美な文化が起こっていただろう 平氏政権はフビライと協調路線をとり、元寇は起きなかっただろう。
フビライは口では対日強硬派であるが、根は親日と考えられる。
元軍が日本に駐留する日元安全保障条約を結ばれる。 結局のところ平家が追い落とされたのは、藤原氏の専売特許であった
婚姻により天皇家朝廷を牛耳り、一族の栄華を極め維持する手法を
藤原氏から奪ったため、藤原氏から憎まれたからで
清盛を責めるなら、藤原氏はそれ以上に糾弾されるべきなんだが
歴史の勝者の地位を守り切った藤原氏は批判されないんだよな
藤原氏の我欲のせいで日本史はめちゃくちゃだし
天皇を私物化した不敬者国賊と責められるべきは藤原氏なんだがな 平清盛がオンナの言を聞き容れたのが間違いのもとぢや。
何事であれ、女ごときに口を挟ませては相成らぬぞ!
分かったナッ! >>157
平清盛が後白河法皇を幽閉したりしたからだろ
藤原氏は天皇家と持ちつ持たれつだよ >>157
平家の独占は、保元の乱で上皇方の貴族が大量処刑され、人材不足に陥ったのも
一因だけどね。平家が簡単に調停を牛耳れたのも、そういう事情もある。
摂関家では、忠道の息子たちは普通に健在だったが、頼長の血縁は断絶させ
られたし、その他上皇方についた者は悉く三族皆殺しになった。
なお、これは後白河法皇の責任であり、清盛とは関係ない。
清盛自身も、保元の乱では同族の頼盛、忠正、家弘の族滅を命じられているし。
>>159
後白河法皇は淫乱で暴虐で狡猾だったからね。そういう人間に取り立てられた
のに恩知らず、という批判は当たりかもしれないが、後白河法皇の破綻した
性格に耐えられなかったのも一因だろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています