承久の乱は幕府内部の東西対立だった©2ch.net
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教科書では承久の乱を後鳥羽上皇対鎌倉幕府という単純な構図で語ることが多いが
内情はちょいと複雑である。
承久の乱の裏の側面は、幕府内部の東西対立である。 目から鱗、磯田道史もビックリ。
今まで習ってきた歴史観がひっくり返ったねえ。
まずはこれ読んでちょ。
参照:「承久の乱は御家人どうしの争いだった」
http://www2.ttcn.ne.jp/kazumatsu/sub232.htm 【スレタイの訂正】
東西対立 × → 東西対決
こっちの方がスッキリ 大内氏 VS 北条氏
頼朝亡き後の権力争いで北条氏が覇権を握った。それをずっと横目で見ていた在京御家人たちが、
北条打倒のために立ち上がったラスボス決定戦、という見立て。 日本における「中世」のはじまりはいつか、というと以前は鎌倉幕府の創立が相場だった。
近年は「イイクニ」(1192)が「イイハコ」(1185)になったようだが、まあ大した違いはない。
歴史学界では摂関期の末期から12世紀初頭から中世が始まったとする見方があり、
俺もそれを支持している。
鎌倉開府や承久の乱はエポックメーキングではあるが、転換点というより通過点と捉える視点が。
俺の中では大きくなった。
承久の乱を「朝廷対幕府」という“昭和史観”から解放されると、日本の中世がよりはっきり見えてくる。 摂関期の末期から12世紀初頭 <誤>
摂関期の末期ないし12世紀初頭 <正> 訂正
荘園公領制の始まりを中世の始期と捉える見方である。政治史より土地制度史・社会発展史を重視する視点である。
まあ、鎌倉幕府も平氏政権や奥州藤原政権の発展形と捉えることもできるしね。
このスレでは中世を自由な視点で再評価するスレッドにしてみたい。「承久の乱」はそのとっかかり、
ちゅうことで。 あー、申し遅れました1です。 >>6
愚管抄だっけ?
「〜武者の世になりにける云々」
だから、当時の人々が時代の転換を肌で感じたのは保元の乱でしょ
学術的には鳥羽院政期には中世に移行していたとされてるね >>9
まさか、周防の大内氏と間違えていないよね? このスレの誕生を歓迎したい。
この視点から承久の乱を研究することに大きな意義があると思う。
今まで後鳥羽院ご自身の野望にばかり注目されがちだったが、京方に加勢した
京武者たちにも着目する必要がある。
また、京武者たちが目指したもの、後鳥羽院の戦後構想も研究したい。 ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´J`) ∧_∧
/文室 \ 鎌倉 \ 上総 \ 三浦 ( ) パンツ脱いで待ってる
| 忠光 .| |悪源太| | 曹司 | | 胤義 / ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄  ̄  ̄ ̄  ̄  ̄ / .| | | 藤原信頼
||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
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/ ヽ骨は拾ってやるよ . \| ( )
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藤原隆家 103 :日本@名無史さん:2015/08/30(日) 22:14:04.46 後鳥羽院の承久の乱勝利後の戦後構想では、京都に鎌倉将軍家を移して、
院政の下で、武家を束ねる家職として残すつもりだったとかいう説を何かで読んだ。
建武政権下の護良親王や鎌倉将軍府に近いものかな。院に近侍する京都幕府を作るつもりだと。
その際は三浦や大内が主軸になるのか。
後醍醐天皇は理想に走って、現実があまり見えていない人物だったが、後鳥羽は
もう少し現実味のある政権構想を抱いていたと思うね。ちょっと贔屓目かなw
後鳥羽は幕府をぶっ潰すのが目的ではなく、自分の言うことを聞いてくれる幕府に
再編することを目的としていたとする見方が最近多い。 京都幕府・・
左右の大将に大内(源氏)と三浦(平氏)がつくも、
源平合戦となり混沌。
東北に逃れた北条陸奥守は平泉で磨呂化。
大内VS三浦VS北条の三国志となる。 幻の「京都幕府」に何か惹かれるものがある。
治承・寿永の乱、承久の乱の敗戦によって西国武士団は壊滅的状態におかれ、
代わりに東国武士団が西国に進駐してきた。西国の東国化というか西国の東国植民地化が行われ、
元寇・南北朝時代を経て完成する。
もし、承久の乱で京方が勝っていたら、それとは逆に西国武士団が東国に進出するわけだ。
史実とは全く違う中世社会を観てみたいね。 京都幕府の将軍候補は誰だろうか?
源平交代思想なら
御輿として人脈広かった平頼盛の一族あたりから迎えるか
九州武士団だと上皇についた菊池は加増だな
支族は西郷と名を変えいち早く陸奥会津も加増されただろう 京都幕府将軍より
院庁の院執権や院別当のほうが力持ちそうな感じ >>13
敗戦時の言動があまりに糞なので後鳥羽上皇の
歴史的評価が低いが、文化面はもちろん、
政治手腕に長けた人物としてもう少し評価すべきと思う。少なくとも後醍醐天皇のようなDQNとは違う。
後鳥羽院の最大の失敗は院宣の効果を過信したことを挙げてよいが、
それは院に味方した武士たちも同じだと思う。小学校で初めて承久の乱を習った時、
「なんで武士の癖に幕府に背いて 公家側につくのか」不思議に感じた。
幕府に重用されない不満分子にとっては一発逆転のチャンスだったのだろうね。
100年後の新田や赤松に同じ臭いを感じる。 >>20
幕府と朝廷 両者の上に院庁が君臨する。
>>13
建武政権は中国の専制王朝を目指していたが、
後鳥羽院政はそういう国家ビジョンは特に無かったと思うね。
後醍醐天皇は理想主義に。突っ走って失敗した。京都幕府は後鳥羽院と西国武士の連合政権となろう。
建武政権よりは長く続いたと想像するが、
承久の乱に京方が勝利するIF歴史も結局は足利尊氏的な武将が出てきて、
史実と同じ歩みをするかもしれない。 後醍醐帝で思い出したが後南朝の黒幕の一人で源尊秀という人物は後鳥羽流を名乗ってたようだな >>18
源平交代思想はなかっただろうし頼盛の子孫たちはこの頃には
没落しすぎている
鎌倉には摂関家の三寅(九条頼経)が次期将軍としていたのだし
もし幕府存続でも摂家将軍だろう 後鳥羽直轄軍は坊門さんが大将軍だっけ?
ということは
坊門大将軍と葉室院別当という政権かな 坊門ではちと貫目が足りんな。 それと
後鳥羽直轄軍 <誤> 京方 <正> ね。
坊門は北面・西面の武士ではないっしょ。 武家を底辺労働者とすれば
上皇勝ち=労働者重視というのは間違ってないが
権力あった割には北条もそれほど贅沢華美なイメージはないな
内管領が権力握った後は完全に御内人(正社員)と御家人(派遣待遇)の格差社会となったがww 御内人(正社員)
中小御家人(契約社員・パート)
悪党 (日雇い・期間工) 京方が勝利に終われば、後鳥羽院の指揮下の「京都幕府」成立という意見に賛成する。
やはり摂家将軍が擁立されるのだろう。
「京都幕府」において、大江親広を中心とした実務官僚が摂家将軍を補佐する。
鎌倉から中原氏・二階堂氏・三善氏などが帰順し、参加するのかも知れない。
源氏御門葉の大内惟信が武家の代表格となり、新たな軍事貴族として幕府を
支えるのだろう。右近衛大将くらいの官位に進むかも知れない。
藤原秀康、三浦胤義、山田重忠などがその幕僚となるのかも知れない。
胤義の兄の三浦義村が約束通り、「日本国惣追捕使」となり、鎌倉にとどまって
「京都幕府」の関東出先機関の代表として関東を統括するのだろう。 平賀義信は源氏御門葉筆頭であり、源頼朝の信任は格別に厚かった。
平賀氏(大内氏)を中心とした御門葉が、源氏将軍の藩屏となることを
頼朝は期待していたのだろうかとも推測する。
そんな平賀氏(大内氏)は、頼朝死後の鎌倉政権の推移をどんな気持ちで
ながめていたのだろうか?
惟信の父・大内惟義は頼朝の死後も御門葉として鎌倉政権で重きをなす一方、
院・朝廷との関係を深めていっている。
平賀氏(大内氏)の心情を推し量ることが、承久の乱の伏線を考える上で
大切なのではないか、ということを別のスレで書いたことがある。
そのスレでは、博識な方から平賀氏に関する研究論文をご紹介いただき、
平賀氏について詳しいご教示をいただいたことが印象に残っている。 評定衆(経団連)
御家人(大企業経営者)
中小御家人(中小企業経営者)
悪党 (個人事業主)
譜代下人(正社員)
下人(非正規社員) >>31 >>32
最近の学校教育はどうかわからいが、我々おっさん世代の歴史教育では、京都守護は権限が小さな出先機関で、
六波羅探題は西国全域を統括する「西の幕府」的存在と教わった。 確かに役所の機能としてはその通りだが、
治天の君(後鳥羽院)と在京御家人との強い結びつき、特に畿内数か国の守護を務める大内(平賀氏)の軍事力と
家格を考えれば、大内氏こそ「西の幕府」ではなかったのか? という気がしてならない。
鎌倉幕府をもう少し多面的に捉える視点が、従来の歴史観には欠けている気がしている。
自分も「北条氏はなぜ将軍になれなかったのか?」を研究しているうちにこういう視点を持つようになった。 ある歴史サイトで尾張藩における徳川家康の深慮遠謀について述べたものを読んだ。
尾張徳川家が藩祖義直以来、勤皇を家風としている理由を、将来 幕府と朝廷(+外様大名)の戦争になった際、
幕府(徳川宗家)が敗北した時に備えた保険として尾張徳川家を敢えて「天皇側」に準備しておいた、
というものだった。どちらに転んでも徳川の名跡を残す戦略である。
少し徳川家康を過大評価しすぎで俄かには賛成し難いが中々興味深い視点ではある。
空想の翼をそこまで広げて良いのなら、源頼朝が御門葉筆頭の平賀(大内)氏を京都に据えたのは、
家康の深慮遠謀と同じ理由ではないかとも言える。源氏将軍家亡き後、
次の清和源氏嫡流の平賀氏をスペアとして配置したのではないか?
不可解な実朝暗殺事件の後、北条氏に幕府は乗っ取られ、新田氏の分家である足利氏が清和源氏を僭称しだした。
源氏将軍家滅亡後の権力の不安定状態において、元祖幕府(北条・東国御家人)と
本家幕府(源氏嫡流平賀・西国御家人)の両派が必然的に対峙する格好になったが、
考えてみれば後鳥羽院の「京都幕府」構想は、頼朝の源氏延命策と利害が一致しているのが興味深い。
京都幕府創設を後鳥羽院―源頼朝―大内(平賀)氏の共同作業とすれば、
承久の乱は、北条・足利に乗っ取られた鎌倉幕府に対する「頼朝の呪い」ではあるまいか? 関東における勢力は義国派の方が広がっていたんだけどね
頼朝の勢力ははっきり言えば鎌倉あたりだけ
佐竹を敵扱いしたのは義光時代の話
河内源氏の惣領家争いとなったのが為義ー義光の争い
為義の後見となったのが義国だったわけ それ以前の院政時代ってのは朝廷と仏教勢力の習合みたいなもんだからな
天皇を辞した人が上皇を名乗っていたわけだが仏教における法主なんかも兼ねていたわけ
天皇をやめた後にいわゆる出家をしちゃったんだね
それをよって何ができたかって〜と寺社勢力の持つ兵団を動かすことができたわけ
それ以前は京都なんかに乱入していたのは仏教兵なんかが主体だったりもしたんだが
京都武士団の結成も仏教兵団やら公家同士の争いの勢力争いからそれぞれが雇いいれたのが始まり 頼朝は身も心も京都人。
ここを押さえなければ歴史の本質は見えない。 131 :日本@名無史さん:2015/09/05(土) 12:41:13.42 後鳥羽院の戦後構想を想像してみる。
・鎌倉殿(藤原頼経)の京都移住。官位を授けて優遇し、若くして公卿に昇る。
・大江親広・大内惟信など上皇に近い御家人が鎌倉殿の補佐役となる。
・大内惟信の系統が清和源氏嫡流の扱いとなり、都の治安、謀反人の征討などで活躍。
・三浦義村が鎌倉殿の目代として鎌倉に常駐。
・幕府の文官に院近臣が多く加わるようになり、所領の訴訟に影響を与えるようになる。
・鎌倉殿は摂家・親王などに与えられるポストとなり、任免権を治天の君が持つ。 >>35
その視点は思いつかなかった。
頼朝の信任が厚く、鎌倉政権で重きをなした平賀氏(大内氏)が承久の乱で
京方について没落したことが、自分はずっと気にかかっていた。
もし仮に源義経が粛清されず、生き残っていたなら、西国に本拠を置き、
京都を活動拠点とし、相応の官位に昇った軍事貴族として、後鳥羽院の周辺では
かなりの重鎮になっていたはずだと想像したことがある。
もし承久の乱まで義経が存命だったとすれば、満62歳。
義経こそが後鳥羽院の討幕計画の中心人物となり、挙兵に当たっては総大将として
官軍を率いて獅子奮迅の働きであったのでは、と想像したことがある。
歴戦の勇将でありながら、頼朝に冷遇された悲運の人物だからこそ、ここまで
生き延びていれば、討幕の立役者となったであろうにと思ったものだ。 だが、史実は、実弟たちをさしおいて頼朝の信任最も厚く、源氏御門葉筆頭
として鎌倉政権でも席次第一位を占めた平賀氏(大内氏)が京方の主要人物
となった。
自分は源頼朝という人は、関東武士の利益代表であるとともに、朝廷・都にも
アイデンティティを持つ貴族であると考えてきた。その存在は、時として関東
武士にとって、違和感を生じさせる側面もあったのではと思う。
また、関東武士たちは、結果として頼朝の血統を守ることはできなかった。
頼朝の分身ともいうべき平賀氏(大内氏)が、討幕側の主要人物となったのは、
真剣に考察すべき課題と思う。 スレチで関係ないし、オイラ歴史に疎いけど、
清和源氏の河内源氏の八幡太郎義家の流れや摂津源氏の生き残りがいる中で、
新羅三郎義光の流れがどれだけ諸国の源氏らの支持を集められるのだろうか?
佐竹氏も坂東平氏の流れの者たちとよろしくやってるのに・・・
てか、河内源氏は坂東の平氏達と仲良しでしょ・・・
新羅三郎義光の流れだと、戦国時代の武田氏が有名だね。 >>41
同意。頼朝が幕府を鎌倉に置いたのは関東から離れられなかったためで、尊氏が京都から離れられなかったのと
同じ構造なんだね。別に好きで関東に骨を埋めたいと思っていたわけではなかったと思う。
「北条氏はなぜ将軍になれなかったのか?」スレでも書いたのだが、寿永の宣旨で東国独立路線を放棄したのがターニングポイントだった。
頼朝はやはり軍事貴族だったんだね。院政の下での軍事・警察を司る家職を世襲し、王家と源氏将軍家が手を取り合って
日の本を統治する姿こそが頼朝の本願だったのではないか?
娘を入内させようとしたり、土御門通親と組んでみたり、頼朝の本質は軍事貴族ではなかったのか?
北条義時やのちの足利尊氏とは明らかに違うニオイを感じてならない。
「京都幕府」は東国武士団にとっては絶対に容認できない代物だが、
頼朝にとっては案外受け入れやすいものではなかったのか?
我々は頼朝の政権を平氏政権と全く違った武士政権と解釈してきたが、少し先入観を外した方が
いいのかもしれない。 北条や徳川が真の幕府。武家政権。
鎌倉源氏や足利は磨呂生活。武家貴族。 義経より範頼の方が危険だったのは常識だろ
頼朝の読み通り、後鳥羽院側の首謀者は高倉、葉室と養父範季の身内、近い人物だった >>46
政権取ってしまえば一緒だろう
徳川歴代将軍は肖像画を天皇のお召しで内裏へ参内するときの
公家の正装である衣冠束帯で描かせたし
幼児やら身体障碍者やらとても武器を持って戦える状態ではない
奴でも将軍になってたし 徳川家継と家重か?
公家正装は冠者姓(かんじゃかばね)時代からの名残りだからな 始めて姓氏などを名乗る場合はまず公家だのの推薦がなきゃ無理だからな
自称ならありえるが公認はされんしな 学校の教科書の記述が読者に誤解を与えているのだろうが、上皇軍の中核を、
非御家人層だと勘違いしている人が多い。 この歴史板でもそう理解している書き込みが散見される。
上皇軍=北面・西面の武士という理解なんだろうが、北面・西面の武士たちは洛中の治安維持が主で
大きな合戦を行える規模ではないし、多くの在京御家人が北面・西面の武士に登用されてい事実も
まり知られていない。 尾張以西の西国(九州を除く)の守護の大半も京方に加勢した。幕府が東西に分裂したというのもあながち間違いではない。
京方に参加した御家人たちは、乱以前から後鳥羽院との個人的結びつきが強く、
意識的には幕府と院に僚属している気持ちがあったと思われる。後鳥羽院から見れば切り崩しやすい対象といえる。 >>55
ほんとこれ
上皇方が弱すぎるせいで上皇方の中核=北面西面の武士とか思われてんだと思う
そういえば草燃えるという大昔の大河ドラマを数年前に見たけど
その時も北面西面の武士を中心とする上皇方なんて言われ方をしてたな 「草燃える」では三浦胤義(演:柴俊夫)が大活躍してる。 本放送以来観てないが。 自分も承久の乱は鎌倉幕府の東西対立という面があると思う。
だが、京方は鎌倉方にくらべて兵士の動員力が少な過ぎる。
「幕府の西側勢力」と呼ぶには貧弱過ぎて、上皇の近臣がわずかな手勢を
率いて挙兵したという印象を抱かせてしまう。
「西軍」が「東軍」に決戦を挑んだのではなく、院宣によって関東武士たちを
切り崩すことに託した戦いであったように見える。
だが、上皇の目論見に反して、関東武士たちの結束は固く、切り崩しに失敗した
時点で京方の惨敗が決まってしまった戦いであった。
源氏御門葉筆頭・平賀(大内)氏も何の求心力も発揮しなかった。
だから、「幕府・御家人の東西対立」という構図は見えなくなってしまい、
時局を読み損なった愚昧な上皇が無謀な戦いを挑んで敗れた、という評価に
なってしまった。 京都武士200?
没落した幕府な足利義昭500にすら負けてしまうぞ
没落した奥州藤原でさえ30000集めたというに
上皇は気合入れてくだされ 2ちゃんねるはデマを信じる人が多いので困る。
>>59の「京都武士」という造語が何を指すのかワカランのだが、京方の兵力は
『吾妻鏡』では、2万騎
『承久記』では、3万騎
ちなみに尾張川の戦いで藤原秀康が率いた軍勢は1万7500 >北条・足利に乗っ取られた鎌倉幕府に対する「頼朝の呪い」(>>35)
大内氏もそうだが、京方には頼朝の近親者が多い。
頼朝の娘婿一条能保の子孫や頼朝の母方の実家の熱田大宮司家など。
まあ、偶然の産物なんだが、源氏将軍家滅亡後に創業者一族が鎌倉方に
反旗を翻す様は歴史の醍醐味ではある。 越後城氏の乱と連動できれば
二方面から行けたろうに・・ 京方についた守護
( )内は、管轄した国名を示します(一部推測も含む)
・大内 惟信(美濃、伊賀、伊勢、越前、丹波、摂津)
・佐々木広綱(近江、長門、石見)
・小野 盛綱(尾張)
・安達 親長(但馬、出雲)
・後藤 基清(播磨)
・宗 孝親(安芸)
・佐々木経高(淡路)
・佐々木高重(阿波) >>63
一条なんだが
上皇方についた一条信能と尊長は能保の正室(頼朝の姉妹)の子ではないんだよね。
頼朝姉妹の血を引く高能の子は鎌倉に亡命したし、
同じく頼朝姉妹の娘の夫西園寺公経は鎌倉方として幽閉喰らってる。
熱田大宮司家は上皇方と鎌倉方に分裂していた。 >>62
二万騎?
兵力なら二十万人くらいになりそうだが
当時の御家人全部かき集めてもそんなに集まるかな
威光が衰えたとは言え全国支配していた徳川幕府が第二次長州征伐で
集めた兵力が十五万程度なのに >>62>>68
富士川の兵力
「吾妻鏡」 頼朝20万騎+武田2万騎 vs 平家数万騎
「玉葉」 武田4万騎 vs 平家 1千騎
一の谷
「吾妻鏡」 範頼5万6千騎+義経2万騎
「玉葉」 官軍(源氏方) 2〜3千騎 vs 平家2万騎
吾妻鏡はどうやら兵力を盛る傾向にあるらしい >>68>>69
普通は馬上の武者1騎に従者4,5人の勘定となるが、この記述は1騎=1人
という理解でいいだろう。鎌倉方を19万騎と記述しているし、こちらも兵力100万人になってしまう。
鎌倉方19万(人)もかなり盛った数字であると言われている。
京方の数字も真偽は不明だが鎌倉方が圧倒的兵力差で完勝したことは間違いない。
ここで指摘しておきたいのは京方が、質はともかく、兵数では決してしょぼい数ではないことだ。
幕府軍が圧倒的な動員体制を持っていた事が後世の我々に
「上皇の近臣がわずかな手勢を率いて挙兵したという印象を抱かせてしまう。」(>>58)
要因となった。 70続き
後鳥羽院が北条義時追討の院宣を出した後、幕府軍進発の報に慌てて藤原秀康に
進軍を命じるまで約半月。この間に1万7500集めたのだから決して低い動員数ではない。
これは西国の守護たちが在京していたために後鳥羽院の動員令に即応できた。
ただ、これは鎌倉方と比べるとかなり遅い。
もともと京方の戦略は関東武士たちを北条から離反させて彼らに北条を討たせる戦略だった。
西国の上皇軍は畿内制圧の兵力だった。ところが鎌倉方の西上があまりにスピーディだったため、
畿内制圧部隊のほとんどを最前線に投入せざるを得なかった。
鎌倉方が当初の戦術に従って関東での防衛戦に転じていたら結果はわからない。 >>74
富士川の前に武田は駿河目代を撃ち取るなどなど駿河に進行していた。
また、石橋山で負けた面々も結構甲斐に逃げ込んだりもしていた。
時期不明だか安田義定も遠江に進出した。
駿河伊豆西相模(もしたきたら遠江も)の兵と平家軍からの脱走組を吸収してかなりの兵力になったと思われ。 自分は>>58で「京方の兵士の動員力が少な過ぎる」と書いたが、1万7500の
動員を達成したことは、緒戦において相当数の動員ができたと言うべきかも知れない。
上皇の主観においては、初期段階においては成功だったのだろう。
だが、「吾妻鏡」によると、奥州合戦で鎌倉方は28万4000の動員力があると
される。これは承久の乱における鎌倉方の動員数をも上回るものだ。
もちろん、両者とも誇張された数値であろうが、鎌倉方はすでに相当数の動員力で
奥州を制圧した経験がある。
上皇や公家はともかく、京方についた御家人たちは、鎌倉方のこの圧倒的な動員力を
警戒しなかったのだろうか? 仮に1万7500の動員があったとしても、それでは
「西軍」と呼べるほどの人数ではないということを、実戦経験のある武士はわからなかった
のだろうか? 奥州合戦と承久の乱の違いは、奥州合戦当時は源頼朝が存命であったが、源氏将軍が
断絶してしまっていたこと、相手が名分を持たない僻地の奥州勢であったのと違って
上皇を擁する官軍であることだ。
北条義時はじめ幕府首脳は、上皇が挙兵し、自分たちが賊軍となったことへの狼狽が
あった。だから、京方の御家人たちも、上皇を擁して官軍となったことへの過信があり、
奥州合戦で発揮した動員力は過小評価されたのであろう。
鎌倉方・京方を問わず、院宣の効果は絶大であることは、当時の社会においては想像を
絶する社会通念であったのではなかろうか。
院宣をものともせず、京都への先制攻撃を主張した大江広元が時代を超越した存在であり、
鎌倉幕府は社会通念を超越することができたのであろうか。
自分は別のスレで、御家人たちに団結を訴える北条政子の演説は、決して北条政子自身の
思いつきではなく、大江広元に導かれた幕府首脳が周到に起草した作文であり、安倍談話に
匹敵する巧妙な戦略であったと書いたことがある。
上皇やその近臣・京方の御家人たちは、当時の水準から見て、決して愚昧ではなく、
当時の社会通念では予想のつかない展開が、極めて短期間で発生し、押し流されて
しまったと言うべきなのだろうか。 新田義貞の鎌倉攻め
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(%E5%85%83%E5%BC%98%E3%81%AE%E4%B9%B1)#.E9.8E.8C.E5.80.89.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84.E3.81.AE.E6.88.A6.E6.AD.BB.E8.80.85
>>77
京方がイメージした北条追討がこれ↑
官軍の兵力は60万人でごわす。(ホンマかいな) !!注意換気!!
※常識的に事実でなければこの様な内容は書けません!
極悪人、押川定和の被害にご注意下さい。
我々は水戸のサポーターや関係者で押川定和の悪事の被害者を中心に集った団体だ。8割ぐらいはメインスタンドで観戦している。
押川定和は
『ゴール裏で戦う会』
のリーダーで元鹿島サポーター。
SNSで数千もの架空アカウントを作り水戸の関係者の情報を盗み出し個人のSNSを炎上させるなど攻撃を仕掛ける。
SNSで限界になると人を利用して情報を盗み出す。その人がその後どうなろうがお構い無しの使い捨て。押川に誰が騙されて巻き込まれるか分かりません。
皆さん注意して下さい。
Twitter、Facebook、mixi、超水戸、ニコニコ動画など可能な範囲で全てで悪行を行っている。
『悪行の事実を突き付けると全てを自演や同一扱いで煙に巻こうとする。』
悪行が事実の為、表舞台には出れないが2ちゃんねるで反応はする。
水戸の関係者になりすまして未だに水戸スレに書き込み続けている。
現在は悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
押川定和の悪事は犯罪の領域に達している。
押川は現在、悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
勤め先・株式会社WEIC(ウェイク)104-0053
東京都中央区3-1
http://www.ntt.com/bizhosting-basic/data/case2_1.html 承久の乱はスタアがいないから人気ないね。
三浦胤義なんかキャラ立ちしそうだが。 後鳥羽上皇の戦略は間違っていない。関東の団結力を甘く見ただけ
後醍醐天皇は出たとこ勝負のギャンブラー 別スレで承久の乱で朝廷が滅んだと強調している人がいたが、朝廷は滅んだわけではないよね?
元弘の乱を起こしたのは朝廷だから理屈が合わない。 >>82
もちろん、朝廷は滅んでいない。
別スレで言っていたのは、「治天の君に勝ったことで、北条義時は
朝廷をも制圧した。望みとあらば、関白を含むいかなる官位をも
得られる立場となった。それは、事実上の朝廷の滅亡を意味する」
という主張だったと思う。
だが、その主張にも反対意見があり、この主張で決まったわけではない。 比喩的な表現では滅んだと言っても過言でない状態。
後鳥羽院の血統は排除されて院政を支えた経済基盤である八条院領は幕府に一旦没収された。
そこから幕府に都合がいい朝廷を再編成した。
まあ朝廷も後鳥羽院政に批判的な勢力があったからそういう意味では朝廷の反幕府勢力を排除しただけともいえる。
単純に言葉遊びのレベルだと思うが。 政府としての朝廷は滅んだ、かな。
実際、承久の乱以降は幕府の下部機関だからね。 >>84
比喩として言うのなら、朝廷がその実態を失ったのは南北朝の後期だな。
国衙領や京都の支配権は承久以降も朝廷が握り、幕府の管轄外だった。
公家領・寺社領も同様。つまり、西国の支配権は依然として朝廷が握っている。
勿論 朝幕の力関係は逆転したが、形式上は朝廷が上位機関である構造に変化はない。
之が崩れるのは前述のように1360年代以降のこと。
>>85
君はゆとり世代かね? 形式上のことを言うなら江戸時代ですら朝廷が上位なのだが・・・ >>87
86を補足すると、言葉遊びをしたいのではなく、その逆なんだね。
まず、江戸時代ちゅーか室町中期以降は朝廷の政治的権能が幕府側に全部接収されて、
儀礼的な存在になった。たしかに形式的には江戸時代も朝廷は幕府の上に立つがもはや実体のない話。
形式的という単語の俺の使い方に誤解を生じせしめたなら撤回しておく。
国衙は足利義満時代まで存続し、基本的に西国は朝廷の管轄下にあった、
という事実を言いたいまで。 どんな科目でもそうだが、学校教育等のはざっくりであり、ことに歴史の授業においては
事件・年代暗記と大まかな流れを理解することに主眼が置かれる。
北条氏スレで件の「承久の乱で朝廷は滅んだ」氏と論争したが、その人はこの「ざっくり史観」の
申し子で少し基本知識に欠けている部分があった。
承久の乱についていえば、
@ 上皇軍は非御家人が主体
A 乱後、国衙領は解体し幕府に接収された
という誤った理解をしていた。 だから、「朝廷は滅んだ」というフレーズが出る。。
この2つの誤解は、この御仁に限らず、他にもいると思う。
まず基礎知識の棚卸から始めないといけない。 確かに日本史の教科書や史料集を読んでいると、「承久の乱は非御家人が主体」
という誤解を抱きかねない。
1.後鳥羽院・順徳院が自ら倒幕を主導していること。
2.院に近い藤原秀康が京方武士の中心人物であること。
3.大江親広は京方に加わるように強要されていること。
院を首領とする朝廷側がその配下の武士を率いて挙兵した、それに
呼応した御家人もいたが、強要されたり、一部の離反者が追随したに
過ぎないという理解をしてしまう。
そして、「朝廷側」は敗れ、上皇たちは配流された。それは事実上、
朝廷が滅亡したも同然だった、という理解をしてしまう。
そこには大内惟信をはじめ、京方についた御家人たちの全体像や
その思惑は見えない。
自分も学校の日本史の授業を受けたとき、この点が全く見えていなかった。 ヤフーの質問箱を読んでも、中学レベルの知識をドヤ顔で答えている「ベストアンサー」wも
沢山ある。
守護・地頭に対する知識が全くないのに、ベストアンサーに選ばれ、
後に他人から訂正されるケース。↓
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10150997435 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) >>89
承久の乱についていえば、
>@ 上皇軍は非御家人が主体
>A 乱後、国衙領は解体し幕府に接収された
>という誤った理解をしていた。
そんな主張みたことねえよ?w
お前大丈夫か?w >>96
低学歴は、承久の乱を知らん 笑
鎌倉幕府と江戸幕府の違いもわからん 後鳥羽上皇と升添さん。
あなたはどちらが嫌いですか? 後鳥羽って皇室歴代でも最強クラスの君主だからな。
その時代に中央政府としての朝廷が一挙に潰れたのだからわからんもんだ。
後白河とか、人間的に相当問題あるのに、のらりくらりと強かに生き抜いてしまったのと対照的。
政治ってのはなんというか単純なものではないとあらためて感じさせられる。 文武両道に長け、」政治手腕も相当だった英邁君主 後鳥羽上皇。
だが、人格はゲスの極みだった。
現代のトンキン知事と一緒 おい、ハゲトンキンと比べたら失礼だぞ。
ハゲトンキンは味方すら集まらず四面楚歌になっただろ。
ハゲトンキンは韓国に島流し。 自分に味方した連中が大敗して逃げ帰ってきても御所にいれずに
幕府軍が迫るとすべてこいつらが勝手にやったこととか言って見捨てる奴だぞ
舛添は政治家の常套文句であるヒショガーをやらなかっただけゴトバカよりはマシだろ >>105
前知事と上皇を同列に扱うなよ。
後鳥羽さんだって公家に鎌倉に勝てると吹き込まれてだな・・ なら、切腹しろよ。
せめてリーダーとして責任とって降伏しないと、暴君の評価は正当という事になってしまうぞ。 北条はあれだけ多氏排斥をやってて承久の乱では東国御家人を味方に出来たんだから
少なくともその頃までは東国の利益代表って認識はあったんだろうな 鎌倉幕末で鎌倉北条氏のほうに正一位諏訪氏が味方についてたりするので、
権威が無いように見えて有る北条氏。 北条氏はちょっと前の自民党の長老政治家なんだね。金丸とか竹下みたいに
利益分配政治の調整者だな。
時宗あたりまでは御家人たちの支持を得、分配政治も機能していたが
得宗専制になると北条一門で利益を独占する。これで御家人の支持を失い滅亡する。 公家と武家の間での戦争を、仮に「公武戦争」と呼称してみる。
公家と武家の覇権争いは大きなものでは次の4つを挙げてよろしかろう。
@ 法住寺殿合戦 (1182年)
A 承久の乱
B 元弘の乱
C 延元の乱
ここまででは武家側の3勝1敗だが、周知のとおり、延元の乱後に南北朝の争乱と言う長期戦が始まる。
この「公武200年戦争」の結果、公家側が完全敗北し、朝廷は政治権力と経済基盤を喪失。
その後は政治的・宗教的儀礼のみを行う存在に転落した。
法済寺合戦 × 法住寺合戦 ○
1182年 × 1184年 ○ 暇なので「鎌倉幕府」論をダラダラ連投してみる。
◆鎌倉幕府の創立と承久の乱をワンセットに考えると、その前後の変容は激しく、
日本史の大変革期であることは間違いない。
承久の乱の歴史的意義については教科書は過小評価ではないか、と以前のおれは考えていたが、
近年少し考えが変わってきた。承久の乱も鎌倉開府も通過点である、という視点を持つようになった。
鎌倉幕府は突然変異に生まれ出たものではなく、
奥州藤原政権や平氏政権、木曽義仲政権というプロトタイプが過去に存在している。
学校の授業で習う、<鎌倉幕府のしくみ>は公卿の家政機関をそのままにスライドさせたもの
であることを頭の隅に置いて「幕府誕生」を眺めれば、
少しクールダウンした鎌倉幕府論に自分が到達できた。
(続く) ◆『鎌倉幕府のルーツは院政にある。』という論を目にしたことがある。
院政(院庁)は二官八省から独立した全くの外部組織であり、上皇が中下級貴族や武士を
独自に組織化した、それまでには無かった異質の政権である、という内容だった。
朝廷とは別個の“外部構造”が史上初めて誕生したことにより、
それを前例として、同じく朝廷の外部構造である「幕府」も創設が可能となったということである。
幕府の淵源を院政に求めるこの視点は、中世の始期を院政時代に求める視点と通じるものがあり、
おれにとっては歴史の視野を大きく広げるものとなった。 昭和世代が学校で習った歴史観では、
中世お始まりは鎌倉開府からというのが通り相場だったが、そういう物差しは古くなった感がある。 ◆承久の乱と元弘の乱(鎌倉滅亡まで)は勝敗が正反対であることを別にすれば
ほとんど同じ内容の“相似形”であることは一目瞭然である。
他スレで「承久の乱で朝廷は滅んだ云々」の議論を読んで気が付いたのだが、
承久の乱のプロトタイプに法住寺合戦があったことを思い出した。
「朝廷は滅んだ」論でいくと、承久以前に朝廷は一度滅んでいることになる。
「滅んだ」論自体は言葉のあやを巡る論争なのでどうでもいいが、
「公武200年戦争」という新視点で承久の乱を捉え直すと、
その相方、セットの片方である「鎌倉開府」も中世の起点ではなく中継点という感がしてくる。
中世の起点を院政時代に前倒ししてみると、今まで見えなかった歴史の連続性が見えてくるようになった。 ◆従来の歴史観では [鎌倉開府+承久の乱]前後の断続性のみに目を奪われ、
連続性を軽視する風があるように思える。 例えば承久の乱以降も朝廷は西国の支配権を
握っていたことなどである。
このスレのテーマである「承久の乱は幕府の東西対決」という視点は、
おれにとっては従来の戦友感を捨てて新たに歴史を俯瞰できるきっかけを与えてくれた。
(おわり) ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 もしも三浦義村が上皇方に与していたら東国武士の結束は崩れ、北条と反北条の合戦が関東で起こった可能性がある。
歴史の趨勢から見て 義村が上皇方に与しなかったのは賢明ではあったが、後世の我々は30年後の三浦氏の運命を知っているものだから、
三浦義村のこの「選択」は失敗だったと言える。
関ヶ原時の小早川秀秋、石橋山後の梶原景時ではないが、ここで三浦義村が決起していたら・・・・
と考えるとワクワクする。 三浦義村は幕府草創期をリアルに知っている男だからな。
三浦家が勃興したとしても武家が以前のように公家の風下に立つようでは意味がないと考えたんだろ。
この辺が義村が単なる策謀家と一線を画している証拠だよ。 たまに見る論説で「 院宣は北条義時討伐で幕府討伐ではなかった。それを北条姉弟が
幕府討伐にハナシをすり替えて御家人たちを煽った」というものがある。
これはたしかに間違いではなく、マサコ姐は巧みに論理をすり替えアジったのは事実である。
だが、東国武士もバカではない。そんなこたあ理解でした上で北条を支持したわけだ。
北条を討って いくばくかの恩賞を得るより、現在の体制を維持する方がはるかに自分たちの利益に適うことは
バカでも理解できる。もともと頼朝についた武士というのは平氏政権では利権に預かれなかった不満分子であり、
後鳥羽院の天下になったところで再び反主流派に転落するだけだ。
後世の赤松円心がいい例だが、わずかな恩賞では全く割が合わない。
三浦義村を動かすには、弟胤義が上皇に申したように「日本国総追捕使」あたりを頂かないと乗れる話ではない。
まあ、後鳥羽院もさすがにここまでは手形は切れんわね。 京方の武将であった山田重忠も含めて、頼朝没後の清和源氏系在京御家人は、
「もうひとつの“鎌倉幕府本隊”」であった気がするね。
御門葉筆頭である平賀氏(大内氏)の滅亡と新田本宗家の没落によって、義国流の庶家である足利氏が
実朝亡き後の「清和源氏嫡流」を僭称できた。
また、北条氏にとっては御家人筆頭の格式を名実共に得ることができた。
北条・足利両氏(この両家は閨閥で固く結ばれている)にとって、承久の乱の最大の収穫は、
幕府が朝廷の上に立ったなどという、“試験の模範解答”ではなく、
この平賀氏(大内氏)を抹殺できたことではなかったか? 北条氏はなんでこの際に天皇制を廃止しなかったのだろう。あそこで無理して潰しておれば
後醍醐天皇の登場は無かったのに。 >>126
ウィキによると藤原秀康は、和田義盛の弟の孫みたいだけど、血統は桓武平氏三浦一族のはずなのに
藤原北家になっているのは、どういういきさつなのか気になります
名前は、田原藤太の流れみたいな感じなのに 親父の姓が藤原になってるね。父方の祖母が藤原氏でそっちの関係かな? あれは頼朝と雅子の出会いから始まっての1年間ドラマだからなあ。
実朝の就封から始めて後鳥羽院の配流までで1年はもたんな。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 承久の変で、なぜ上皇方に兵力が集まらなかったか不思議だったが、
挙兵したのが承久3年5月ってことで納得。
幕府方は情勢不穏てことで兵力が集まっていたけど、上皇は急に招集を掛け
檄を飛ばしたが、5月じゃもう農繁期に入ってて簡単に招集に応じられるわけない。 京方の武士って、大半は畿内周辺の武士でしょ? 元々 「畿内制圧軍」ってことで、
鎌倉打倒は関東の武士にやらせる算段だった。 100年後の新田義貞軍だな。
当時の農繁期は関西と関東では少しタイムラグがあったんだろうか?
1333年の幕府滅亡は5月だしねえ。 源氏将軍が滅亡したことで幕府の内部崩壊を期待したんだろうな
幕府内部の御家人たちが北条政権に反対し
後鳥羽上皇の院宣を盾に北条義時打倒に立ち上がると踏んでいたんだろう
農耕期に関東と関西でそこまで差はない
後鳥羽上皇はわざわざ京から征討軍を派遣する予定ではなく
御家人が北条につくわけないと思ったんだろうね 「承久の乱」と言えば、親子で敵味方に分かれた大江氏かな・・・
大江広元は幕府方、長男の大江親広は上皇方だった。 >>142
保元の乱で戦った源為義(親)VS源義朝(子)
など親子兄弟で敵味方はよくあるだろう
大江親広の正室は北条義時の娘で
親広は義時の娘婿だったんだよね
しかし上皇方についた
ややこしいが親広の嫡男は幕府方
親広が敗れた後正室とは離縁させられた 北条氏って、そんなに人望あったんかいね?
いくら将軍家の外戚とはいえ、伊豆の元在庁官人ごときが・・・・ って感じなんだが。 朝廷の支配に戻るくらいなら幕府のほうがってことでしょ すでに高麗が契丹をめぐってモンゴルと接触し、朝貢関係になるなど緊張状態にあったこの時期に、日本はこんな内乱をやってて呑気なものだ
もし高麗が、中央アジアの多くの国のようにモンゴルに協力し、日本への侵攻を手助けしてたら、この内乱中の日本が果たしてどうなったか 日本人が呑気ななのは現在まで少しも変わっていない。 北朝鮮がICBM開発に成功しても、
テレビは朝から晩までモンゴル人の喧嘩の話を1か月やってたからなあ。 承久の乱の頃に契丹はすでに滅んで跡形もないし
中央アジアはモンゴルに協力するなんてことなくカラキタイをはじめモンゴルに徹底抗戦してサマルカンドほか多くの都市が皆殺しにされている
日本遠征は他の廷臣たちが反対するなか高麗の忠烈王が青筋を立てて、がなり立てまくって決まったことだし
「その土地を得たいと思うならば、領民に手出しはするな」とクビライから厳命されたのにも関わず高麗軍は対馬壱岐で略奪や虐殺を行ったりと、こいつ等こそが元寇の諸悪の根源と言っても過言ではない つうか高麗何てモンゴルと戦ってる最中も文臣と武臣で権力闘争してるんだけどね
最後は高麗朝廷が多くの自国民と三別称をモンゴルに売り渡して終わりという下らない結末 モンゴルの高麗支配期はそれまでの日本と朝鮮の国力が逆転した転換点として重要。 国力というより、それまでは大陸から日本に賊が入寇してたのが、
元寇をきっかけに日本から大陸に略奪に行くようになったのが大きな変化じゃね? 日本が統治するまで半島北部では米も作れず
商品経済が未発達だから貨幣も流通しないので、江戸時代になっても半島は未開地
国力ってなんだろうな…
宋→南宋→宋人、倭寇に乗じる→宋人倭寇が優勢
っていう流れだろ
何で宋人がわざわざ日本に遠征すんだよという話 ?いや…だから何?
犯罪者が迷惑をかけることが国力? >>129
鎌倉幕府の御家人は、北条氏の家来じゃなかったから
どちらかというと仲間に近い
その仲間を従わせるには、天皇という存在が必要だった 天皇制廃止つーと、北条氏が皇位に就くという意味だと思うが、
御家人 公家 寺社 みんな総反対だわな。
東国御家人もそこまで北条に義理は無いわな。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
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