聖徳太子虚構説という邪説を徹底的に論破するスレ3 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>101
現代語訳した帝国憲法みたいなものちゃう、それ 後世法隆寺や四天王寺らが神格化したとか
業績はすべて馬子ら蘇我のものだったとかならまだわかるけど
居なかったとする積極的な論拠が全くわからんな 居なかったって言っても「日本書紀で述べられているような聖徳太子は居なかった」
という意味で「厩戸皇子が居なかった」まで言ってるのはごくごくわずかだから 景教徒の渡来人が推し立てた皇子と云う意味での聖徳太子は居ただろうな(`・ω・´)
母親の名前も何やらバタ臭い顔立ちをイメージさせるし上手い事オオキミに種付けさせたが姻戚間の格付けでは新参で低く世継ぎになれる程では無かったんだろ(´・∀・`) 聖徳太子て親が異母兄妹でその異母が姉妹なんでしょ?すげぇインブリードだけど病弱じゃなかったのかなぁ? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 聖徳太子というのは厩戸を神格化したときの
スーパーサイヤ人的な呼び名なだけなのに虚構説とかつまらないのぅ 呼び名はどうでもいいんだよ
実際に何を行ったのかが大事 聖徳太子は蘇我馬子の長男ですね。蝦夷の兄ということになります。
”厩戸”というのは「馬子んち」って意味です。 蘇我の血を引いていることは認めつつ男系だったのを女系に差し替え、
蘇我の男系の功績・功名が徹底的に歴史に残らないように造作した不比等の勝ちですね。
フジワラ(百・済+倭・国)は人類史上最強と呼んでもいいナンバーツーファミリーになれました。 >>115
何を言っているのかわかりませんけれど、
日本に朝鮮の血は入っていませんから。 聖徳太子が居なかったとかいう人は、韓国の反日史観に迎合してるイデオロギー的な人だし
百済が大和朝廷作ったとか皇室作ったとかいう妄言のレベルと一緒 (日本書紀に書かれているような)聖徳太子は居なかった
というのを理解出来てない奴がいるな 平気で蘇我氏を虐殺し何が和を以て尊しとなす、だw。日本書記が
律令制度植え付けるために必要だからデッチ上げた。 >>115
馬子、蝦夷、入鹿はやっぱり大王だったんかもね
それなら遣唐使についての記述の説明がつく 古事記が推古で終わってるのはそこで何かが終わったから 聖徳太子の事績も捏造されてるんだってね
厚く三宝を敬え 仏法僧である
これが捏造、 捏造ばっかりで嫌になる。
神儒仏を敬えというはずが
坊さんが気に入らなくて書き換えた… 推古が75歳で死ぬまで皇太子を決めてないって、いくら何でもおかしいだろ
しょせん推古は中継ぎですよ >>126
そこで出てくるのがヤマト王朝の推古絶滅説ですよ 皇太子なんてものはそもそもなかったと
そもそもこの時代はまだ天皇称号がなかった
初代天皇は天智かな?天武かな? 聖徳太子虚構説ぶちあげたオヤジがそれでメシ食ってかなきゃならんから
無理やり、白い巨塔バリに学閥押して、タブーを言ったら干されるぞ、みたいになっただけだろ?
それを言えば今の時流に乗れるとかみたいなかんじ。
聖徳太子は実在したんだよ。 大体、日本書紀の記述以前の人物を疑いだしたらきりがない。
蘇我馬子は存在したか、とか、蘇我入鹿がほんとうに中大兄皇子に暗殺されたか、とか、疑えばきりがない。
聖徳太子は贈り名であるから、日本書紀以前の史料で聖徳太子の名がないのは当たり前。
それでいて、厩戸皇子は存在し、彼が17条の憲法、冠位十二階を制定したことは認めている。矛盾している。
また、隋書に聖徳太子の名がないことが、聖徳太子はいなかったという説の根拠にしているにいたっては、むちゃくちゃである。
四天王寺や法隆寺を建立したのは聖徳太子であるという話を否定するには、じゃあ、誰が建立したのという疑問に資料で答えねばならない。
そんなもの、あるわけない。
厩戸皇子の存在を否定する史料を出さない限りだめだな。 この時期を確定できてさたなら
それはそれですごいが、妄想ばかりやな 畿内に厩戸皇子が、
筑紫にアメタリシヒコさんが、
居たってことだろ。 >>122
> 古事記が推古で終わってるのはそこで何かが終わったから
に賛成。これに付け加えると
古事記本文が顕宗天皇で終わっているのは当時実際に何かが変わったから。 聖徳太子虚構説は
裕仁という名前の人物はいても昭和天皇という人物はいないから昭和天皇は架空の人物って言ってるくらい屁理屈 その屁理屈で言ったら
孔丘という名前の人物はいても孔子なんて名前の人物はいなかったから孔子は架空の人物って言う孔子虚構説を提唱してもいいくらいだ それは虚構説ではないよ
聖徳太子不在説とでも言うべきで完全に別物 ちょっと、横レスさせてもらう。>>140
144氏の言う 虚構説と不在説の違いがわからんのだが、おれが理解するに、
「聖徳太子虚構説(不在説)」というのは
@ 厩戸皇子は存在した
A 「聖徳太子」の事績(冠位十二階の制定など)は存在しない、または他人の事績
B 日本書紀の編纂者が、厩戸皇子を推古天皇の皇太子だと捏造した
C 日本書紀の編纂者が、Aの内容を厩戸皇子の事績とした
ということだと考える。
どうもおまえさんは、この説に反証が出来ないために、虚構説(不在説)派が認めている厩戸皇子の存在を理由に
上記A〜Cに反証したつもりになっている。
このスレをわざと誤読しているのか、そもそも理解力が人より劣っているのかわからにが、
もう少し論理整理したほうがよい。 >>144
おれが理解している>>145は虚構説 不在説のどちらになるんかね? 厩戸皇子はいなかった、というのが不在説で
このスレでは不在説は無視していいよ >>147
今観れたw おれのパソが一時的に疲れていただけだったw
そのサイトの分類で行くと、俺の理解は第1の説に近いな。第2の説は、
「聖徳太子」の事績を厩戸皇子の事績としているから賛成できんな。
冠位十二階と十七条の憲法の存在有無と聖徳太子存在・不存在論争とは一旦切り離した方がいいな。
第2の説はここが整理できてないな。
>>149
じゃあ、おれの理解は「聖徳太子虚構説」だな。アリガト。 >>139の続き。
古事記と日本書紀を読むと、雄略天皇の時代に至ってまつりごとが不安定化し、顕宗、仁賢、武烈天皇と次第に「王権」が弱体化して遂に継体天皇に至ると言う事情がうかがえる。だから顕宗天皇時代あたりで実際に何かが起きたのではと想像したくなるんだよ。
しかしこれは単なる想像でしかない。きっかけ、を話してみた。 >>139を詳しく言うと
A 顕宗天皇当時に何らかの政治的社会的変動がありそれは口承の世界に及んだ。
B その影響がはるか後世の古事記編纂にまで及んでいるから、古事記本文は顕宗天皇で終わっている。 2016-12-0312:28
サイエンスZERO▽日本人のルーツ発見!〜”核DNA解析”が解き明かす縄文人 聖徳太子の生前、太子の等身大に作ったとされる
法隆寺の救世観音像を見ると、身長は180センチ
で顔立ちは日本人離れしてるな。
どういうことよ? >>155
聖徳太子らはユーラシアの覇者
「北方ユーラシア文明」から日本に降り立った一族。 顕宗天皇時代までの伝承と仁賢天皇時代以降の伝承。この2つは成立根拠とか性格がもともと違っていた。古事記はこの2種類をごっちゃにせずに前者だけを採用した。日本書紀は公平・冷徹であるべき歴史書だからすべての伝承・記録を公平・冷徹に判断し採用し採用しなかった。 以上が「古事記は古い形式を厳格に保存している」と言う仮説。
他方聖徳太子虚構説は「推古天皇時代は文明開化的な空騒ぎがあっただけの平凡な時代だった」と読み替える事が出来る。しかしそれに真っ向反するのが推古天皇記で終わる古事記。
すなわち古事記の信憑性と聖徳太子の実在は遠い所で繋がっている。 大ざっぱな話をするならば、歴史上の聖徳太子に特に謎と言うものは無い。しかし強いて謎と言うならば、なぜ日本書紀は聖徳太子を超特別扱いにしたのかが大問題だろう。
冷徹なる日本書紀編纂者が聖徳太子だけは超特別扱いに値する人物だと冷静に判断したから、がその答えだと俺は思う。 斑鳩寺を造り、海外と交渉していたのは、厩戸だと考えられる。
案外、法隆寺を掘り起こせばいろんななものが出てくるんじゃないか(世界遺産を壊せないからね…)
ただ、聖徳太子の末裔がひとりも残っていない事実が謎を助長する。
ひとりも?ひとりくらいは残らなかったか?
一族郎党が死ぬために戻ったとはやはり考えにくい。 >>158
注意)
仮説上に想像を架すと言うのはどうかと思うが一応、注意されたし、と言う事で。
いくら万機を以て悉く委ねられた聖徳太子と言えども、古事記と言うか原古事記と言うか伝承制度と言うか、それを終わらせる権限は持ってない。
古事記が推古天皇記でおわると言う事象は「おわりだのみやにましましてみとせあまりななとせあめのしたしらしめしきとよみけかしきやひめのすめらみこと」の判断のみにかかっていた
と想像される。そこは誤解無きよう。 歴史上の聖徳太子に対する疑いは、疑わしい、大した根拠は無い、すべて誤りと言うのが俺の見方だ。しかし積極的に聖徳太子の実在を証明する材料、複数の同時代史料とか考古学の成果とかが無いのも事実。
「推古天皇は実在したのか」などなど記紀全体を根こそぎ疑うのは別の巨大すぎる問題だね。 後継者指名の習慣はこれ以前もこれ以後もしばらくは、無いだろ。 ちなみに「推古天皇は聖徳太子を皇太子とした」と言う記事だけは、聖徳太子関連記事で唯一かも知れない日本書紀の捏造だと俺は思っている。 >167
何故そう思う?
厩戸好きの私は、推古が長生きしちゃっただけだと思いたい… 6世紀、皇太子制度は断続的ながら一応は有ったみたいだ。聖徳太子は摂政でなかったと仮定するならば、有力皇族である聖徳太子は一応、皇太子だろう。
無論、聖徳太子は摂政だった。その場合は難しい。言わば「6世紀の日本における摂政イメージ問題」だ。当時、万機悉委に関して周公旦か神功皇后のイメージしか無く、年長の聖徳太子が摂政に就いた場合、聖徳太子は天皇にならない。 実際には推古天皇の甥、蘇我馬子の妹の孫である十九歳(だと思うが)の聖徳太子が特別な地位に就いた。判断しかねる問題だが、少なくとも聖徳太子は次期天皇だったと断言するのは無理だと俺は思う。 うーん、でも、そもそも用明天皇の長男だし第一皇子だしお父さんが亡くなった時、19歳だったんだよね…
なんでそこで即位しなかったんだろうか? 聖徳太子と言う人物の在り方に摂政はせっせと勤めるが皇位には就かないと言う姿勢がある。江戸時代にたとえれば次期将軍候補の一人が蘭学に凝った挙げ句、ついには間違いだらけのオランダ語で「御公儀改造法度大綱」「和蘭陀国憲法義疏」を書いたようなものだ。 隋書倭国伝の解釈だが高位の人物が三人記述されている。日本では極めて稀な事だがその高位三人全員が隋使に接見したから特に報告されたのだろう。
隋称倭王は大臣蘇我馬子。
隋称王の妻は推古天皇。
隋称太子は摂政聖徳太子。
後宮の女六、七百人とは推古天皇が接見した際ぞろぞろついて来た天皇お付きの女官。
ついでだが「倭国」と言うも隋称。 日本書紀と隋書倭国伝の記述に大きな違いがある原因。
1 日本側が意図的に説明しなかった。
2 中国側が日本側の明快な説明を理解しなかった。
3 そもそも仮に流暢な通訳が存在しようとコミュニケーションが困難。
以上3つは外交の問題点。以下2つは記録・報告書・史書の問題点。
4 中国側が故意に事実をねじ曲げた。
5 日本書紀に巨大な歴史捏造がある。豊御食炊屋姫は天皇ではなかった。
4だが、隋唐にとってどうでも良いはずの遠い外国の内情を故意にねじ曲げるはずが無いと思うのはあまりにも素朴だ。記紀を疑うならば中国史書も疑われるべき。
5の立場は俺は取らない。もっとも日本書紀は第一回遣隋使とか日出処天子国書など、小さくない歴史隠蔽(≠捏造)ならば確実に行っている。 日本書紀と隋書倭国伝の記述に大きな違いがある原因。
1 日本側が意図的に説明しなかった。
2 中国側が日本側の明快な説明を理解しなかった。
3 そもそも仮に流暢な通訳が存在しようとコミュニケーションが困難。
以上3つは外交の問題点。以下2つは記録・報告書・史書の問題点。
4 中国側が故意に事実をねじ曲げた。
5 日本書紀に巨大な歴史捏造がある。豊御食炊屋姫は天皇ではなかった。
4だが、隋唐にとってどうでも良いはずの遠い外国の内情を故意にねじ曲げるはずが無いと思うのはあまりにも素朴だ。記紀を疑うならば中国史書も疑われるべき。
5の立場は俺は取らない。もっとも日本書紀は第一回遣隋使とか日出処天子国書など、小さくない歴史隠蔽(≠捏造)ならば確実に行っている。 ダブってしまった。それはともかく
隋書倭国伝の倭王・王妻・太子と言う実際に訪ねたにしてはいささか奇異な記述は、蘇我馬子・推古天皇・聖徳太子実在の証明にはならないだろうが傍証程度にはなると思う。 >>174-175
支那、な。
「中国」は支那の一般名称ではない。 されば拙案の足らざる所を御指南され沢存上候。
注)間違ひだらけの候文なり 皇位についていないという捏造をするために
あえて聖徳太子、摂政という肩書きを与えたという見かたもできる
何故その方向で誰も考えようとしないのか不思議なのだ 聖徳太子という存在は捏造側にとって今も邪魔だから
今度は無きものにしようとしているのではないのかとさえ思う >>1
殆ど作文だともうわな・・・・現実は全く違ったと思える >>140
この時代は文字も使える人は少ないし捏造し放題・・・殆ど作文の領域
現在でもトランプのイメージはマスコミによってなんぼでも変わる AD710以前は殆ど解らないというのが正しい歴史認識 聖徳太子は反漢人の姿勢だから亡き者にされつつある。 そもそもさあ、聖徳太子と馬子って純粋に業績で比べたら
どっちが偉人度、高いのかねぇ?
なんか遣隋使とか、まるで聖徳太子だけで派遣したかの
イメージ映像で語られる事あるけど
絶対、馬子とかかかわってるはずな訳でさ。
http://nihonsinwa.com/page/1860.html
年齢差的なこと考慮したら、
むしろ、馬子のがメインで聖徳太子のがお飾り臭い
そもそも日本書紀にあるような漫画チックな超人イメージがあるから
聖徳太子が馬子より活躍した雰囲気なんだろう
でもさ、その雰囲気って例えるなら、
織田信長は実は無能キャラで。その輝かしい業績はみんな
天才美形の森蘭丸のアイディアだった!……ってノリだろう
……まあ、漫画だったら、そういうノリの有りそうだけどさ
現実的にいって若者は若者なりに未熟だし。
馬子自身、どう差し引いても無能キャラじゃないし。もちろん権力もある。
業績が聖徳太子とネタ被ってるだけに。
(天皇記や国記も共同作業だし)
http://nihonsinwa.com/page/1903.html
素直に考えたら、偉人としては聖徳太子なんかより上なんじゃないの?
太子が自分でやったっていう十七条憲法なんかは
誤字や内容から、存在があやしいし。
http://nihonsinwa.com/page/1848.html
そもそも、聖徳太子の有無以前に
もっと馬子を再評価すべきなんじゃない?
それこそ評価が低いのは日本書紀の蘇我氏サゲ由来だろうし 日本書紀は乙巳の変を正当化するクーデター政権による
歴史書だったから、蘇我氏の業績は無かったことにしたかったのさ。 https://www.youtube.com/watch?v=LVXVla51ws0#t=25m22s
↑みたいなの再現みると、いかにも
聖徳太子が遣隋使を計画し、国書まで書いたかのように
思われがちだけど。日本書紀ですら、それらを太子が
計画・用意したとは書いてない(冠位十二階も)。
誰がやったとは書いてない。
http://nihonsinwa.com/page/1860.html
>(即位15年)秋7月3日。
>大礼(ダイライ)の小野臣妹子(オノノオミイモコ)を
>大唐(モロコシ)に派遣しました。
http://nihonsinwa.com/page/1847.html
>(即位11年)12月5日。
>初めて冠位を行いました。
書いてあるのは、厩戸皇子の紹介時に
「厩戸皇子はあらゆる事をぜんぶ任してもらった」と有るだけ。
……そもそも、これを字面どおりに受け取っていいか怪しい文言。
ましてや、直接そこに書いてない遣隋使や冠位十二階にまで
拡大解釈して、「聖徳太子がやった」として良いものなのかと?
(「全部任された」を好きなように解釈していいなら。
きっと給食当番も掃除係も、みんなウマヤド君に任されてたんだろう)
http://nihonsinwa.com/page/1808.html
>(即位1年)夏4月10日。
>厩戸豊聡耳皇子(ウマヤトノトヨトミミノミコ=聖徳太子)を
>皇太子としました。摂政を行いました。
>万機(ヨロズノマツリゴト=政治の全て)を全て委ねました。 一方で、天皇記も国記も馬子と一緒につくり。馬子と守屋との戦争に
参加して、馬子と一緒に祈願をかけてる。…どうも業績の多くが馬子とかぶってる。
聖徳太子は……まるで馬子の影というか、尻尾というか、
ミニチュアと言うか、あるいは金魚のフンみたい。
http://nihonsinwa.com/page/1903.html
>即位28年
>この年、皇太子と嶋大臣(シマノオオオミ=蘇我馬子)は合議して、
>天皇記(スメラミコトノフミ)と 国記(クニツフミ)、臣連伴造国造百八十部
>(オミノコムラジ トモノミヤツコクニノミヤツコ モモアマリヤソトモノ)と
>公民等の本記(モトツフミ)を録(シルシ)ました。
http://nihonsinwa.com/page/1771.html
>このとき、厩戸皇子(ウマヤトノミコ)は(中略)
>「今、もし、わたしを敵に勝たせたならば、必ず
>護世四王(ゴセシオウ)のために、寺塔(テラ)を建てよう!」
>蘇我馬子大臣はまた、誓いを立てて言いました。
>「すべての諸天王(ショテンオウ)・大神王(ダイジンオウ)たち、
>わたしを助け、守り、利益(=ここでは勝利のこと)を
>獲させたならば、願わくば、諸天と大神王のために、
>寺塔を建てて、三宝を流通(ツタエ=伝え=布教)しよう!」
他方、はっきりと「太子が(馬子と無関係に)やった」と
されるのは、十七条憲法。
http://nihonsinwa.com/page/1848.html
>(即位12年)夏4月3日。皇太子(=厩戸皇子)は
>自らが始めた憲法十七条を作りました。
https://www.youtube.com/watch?v=EiTDtB0U1vk#t=33m58s
https://www.youtube.com/watch?v=YvhQHOPDljc#t=33m32s
しかし、この十七条憲法じたいが
どうも後世の作品の可能性が少なくない。 ↓まとめると、こんな感じ。
「聖徳太子に全部まかせられた…とある」が
「遣隋使や冠位十二階を聖徳太子が計画したとは書いてない」
「全部まかされたとあるのに、馬子と一緒にやったとされる事が結構ある」
「太子、単独でやったとされる十七条憲法が、後世作られたもの臭い」
「ほか、伝説めいたネタが多いが。だからこそ色々、怪しい」
仏教派と言う点や歴史書編纂というキャラも馬子とかぶるし、
馬子の業績をもらってきてそうな……というか、どうも同一人物くさい。
仮に「太子は居た」って仮定しても、
年齢的にも馬子のが上だし。
2人が一緒にやった共同作業だって、
本来、馬子メインだった蓋然性が高いはず。
とりあえず、馬子はもっと評価されるべき。 善光寺に残る厩戸からの手紙の年号は「命長(640〜646年)だから、
書紀の「聖徳太子=厩戸」は造作。 漫画の話になるけど
北斗の拳 シン
聖徳太子の肖像画に似てない? その話か〜
星座 干支・・・
ほとんど渡来人と言われていた人々が
もたらしたものだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています