聖徳太子虚構説という邪説を徹底的に論破するスレ3 [無断転載禁止]©2ch.net
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古代には田村はタムラともタムリとも読まれてた
ワカミタムリだと隋書の記述により近い または神田村、上田村(カミタフリ)かもしれない
皇子の住む場所を「上宮(カミツミヤ)」といったりする
上宮に住む田村王を「カミタフリ」と言った わかみたふりは若御通りだよ
皇室の血の通った若様
平安時代でも宮中で訛って使われていた
源氏物語でわかんどほりと書かれている 会話として不自然だろ
太子の名はワカミタフリという と書かれてる
太子の名を聞かれたんだから、名を答えるのが自然で
「太子の名は『皇室の血の通った若様だ」なんて答えたら意味不明だ わかんどおりの用例は源氏物語一例だけ
しかも平安時代の本だろ
それを根拠とするのは薄すぎる >>900
大王の名を聞かれて答えた「アメタリシヒコ」号の「オオキミ」も個人名ではなく
代々の大王がそう呼ばれていたのだから
「ワカミタフリ」も代々の大兄の呼び名だろう >>896
舒明天皇は蘇我氏に擁立された
舒明天皇の妃の一人は蘇我馬子の娘だしな それにしても『ハトヤ』?
某徳永英明氏の『Wednesday Moon』『タイやヒラメの舞い踊り』 なぜ『たまごっち!』という作品なんだろう?
「ともみ」という名前の、
人間の女の子が出てきた話 砂漠?に行ったり、
図書館に行き、調べものをしたり
ロケット、スペースシャトルのようなものが・・・
ufoのようなものが出てきて・・・かぐや姫? 隋唐の使者に対して日本の天皇が名乗る必要はない。
小野妹子が皇帝の親書を盗まれたか日本の天皇が破り捨てたかは判らない。
戦争は始まらないw 使者裴世清に日本の名誉官位は与えたかもなw
倭の五王のように半島利権での中国の官位も求めていない。
天帝であるとはそういうことだ。
倭の五王が終わった500年に五経博士を百済に献上させた。
600年当時の聖徳太子やその周辺の王族は中国人学者を家庭教師に皇帝学施政を学んでいる。 皇帝の親書を使者じゃなく小野妹子も持ってきたというのが、そもそもあり得ない設定 小野小町について調べてみて
「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる(飢ゑたる)犬の腹を肥やせ(よ)」
モモタロウの話? ガンダムに登場するシャアだよ
黄金の像、大仏のようなものに乗っていたり 親書が無いから天皇に謁見した裴世清が皇帝の命を伝えたことになってるね。
隋帝はこんなもん読めるかで返書だし、白山羊さんと青山羊さんの歌状態だな。
こりゃ、開国派で親百済の聖徳太子じゃなくても戦争になる方向性だったな。
天智天皇はめんどくさい半島移民や百済皇太子送還して戦争したことにしちゃった
とかかもな? 古代にKの法則の起源発見www ^^v ソクラテスという人物は実在したか、という問題と似てるな 「国書を無くした」って資料と「これが国書かな?」って資料が有って
日本書紀は国書が有ったり無かったりと、矛盾した表記になってる
……まあ、ぶっちゃけ
掲載されてるアレ、本当は国書じゃないんだろうな まあ、正直いうと、もうずいぶん前から
アレの正体はわかっちゃってたんだけど……
http://up2.cache.kouploader.jp/koups23012.png
引用時に付け加わえられてそうな部分を取っ払ってみると
あっちの文書と対応されてるんで。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
HAVC1 朝鮮半島系の仏教と坊主、朝鮮半島系の漢文文書主義を推進
朝鮮半島系渡来民の権益拡大に尽力し
日本列島在来系豪族の祖神崇拝と口承主義を徹底して弾圧したのが
聖徳太子
ウヨがありがたがる理由がさっぱりわからんよw >882
青春時代丸ごとではないが
日本にいれなかった御仁はいっぱいいる
遣唐使船など無くても貿易船に乗り
海人族の力でちょちょいですな
その線は、皆無では無いのです お前ら久しぶり!このスレ最初に立てたの俺だわwもう三年ぐらい忘れてたわww 聖徳太子虚構説っていうのが、そもそも記紀に依拠してないか?
記紀は聖徳太子の仕事の後、これをある意味で否定しながら
白村江海戦に導いた、百済皇太子や渡来豪族の送還とか、天智天皇の敗戦処理とかあって、
これを以降の皇紀につなぐために捏造した修正主義の歴史だろ。
遣隋使で裴世清が謁見したのが男王なら、推古天皇の方がよっぽど虚構だろ。
歴史を直視するなら、聖徳太子より記紀が無い。 ファンタジーかいwww 昔から知られていたことなのかな、
天皇というのも、子がなく、何度も断絶しているとか
継体の頃の話とか
ネットが普及してから、
誰にでも、わかるようになってきた このような事を言っている人もいたでしょ、
書いてある?どこかに書いてあった
実際は誰が天皇になろうと構わない、
天皇になる人物(人間)よりも、三種の神器、天子神璽のほうが重要
人間よりも、道具のほうが重要 玉璽と同じ話なのかな
玉璽というモノのほうが大事、重要 虚構というよりは畿内にいた飛鳥の豪族の話に、
北部九州の豪族の話を組み込んだだけだろ。 聖徳太子と言えば、隋書倭国伝の記述が興味深い。
俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌
興味深いのは号。
大君の聞き間違いとされているが。
阿輩は普通に阿波、淡、嗚呼、烏のことじゃないかな。
王だったんだろうな。 現実の政治的中心人物をモデルに架空の人物を作るなんてありえない
安倍首相や菅官房長官をモデルにこんな人物を考えましたーなんて言ってもれも誰もまじめに受け取らない >>927
>現実の政治的中心人物をモデルに架空の人物を作るなんてありえない
記紀年代で事実の可能性のある事象 日本の古代史
57年金印、240年卑弥呼金印(九州統一以前=記紀の否定)
BC200~200? 銅鐸祭祀 (九州非統一=記紀記載なし)以降古墳考古学論考可
300〜 百済、新羅 皇太子人質 高句麗戦支援 牛馬移入 七支刀、和邇吉師献上
400〜500 倭の五王(王比定困難、記載曖昧)(記紀=神功皇后 嘘八百w)
500〜 任那割譲 五経博士献上 仏教仏法僧公伝 磐井の乱
600〜 遣隋使 裴世清斑鳩来朝
663 白村江海戦
架空の人物 記紀=神功皇后
現実=卑弥呼の記録みて、時系列崩壊での魏に難升米他遣使とか もはや致命的 嘘
その他は、わりとどうでもいい創作や、変異に即した脚色ともとれるものも若干有り。
推古帝=聖徳太子前位から白村江に向かう皇朝内の紛争を粉飾する意図が見える。 >>927
サンタクロース
思うにだけど、失脚した人間を歴史から消す場合に
架空の人間に置き換えるとかはありそうに思う
現代でも、特定の人物が
過去の写真から消える場合はあるし
その人物の業績を、歴史的に誰かに付け替えないと
いけない場合も出てくるだろう 日本書紀の記述を丸呑みしている人間ではなく
それに反対する人間が「粉飾」だの「歪曲」だのというやつが多いのがまったくもって不可解
「粉飾」だの「歪曲」だのというのは当該の連中が事実を知っていることではじめてなりたつが
日本書紀執筆当時の人間が曲がりなりにも系譜として把握していたのは雄略以降であり
第一巻は雄略記
雄略より前の記述はいわゆる歴史として書かれたものじゃない
同時代のヤマト政権を構成する氏族が誰も知らん作り話をいくら「捏造」したとこで
当時の人間がそれを史実だと考えるなんてことはありえない
後世の人間が間違えるように?
馬鹿馬鹿しいw 当時文化の最先端を行く唐国の文献と
違う性別の王を捏造とか
ファンタジー以外に記録として意味があるのか
正しい記録が焚書されてしまった以上
最先端国と異なる記述はどちらに信憑性があるか
それを立証できない以上、ただの世界最古のラノベなのだ 聖徳太子は西洋人だと言われてるね
飛鳥の宮にはペルシャ人官僚がいたことがわかってるし
世界情勢に通じ「10人の言葉(10か国語)を理解した」のが聖徳太子
中国に言った時に、姓を聞かれてとっさに「I'm a〜」と言ったのが
「倭王の姓はアマ」と記載されたのは有名な笑い話 >>930
21世紀の現代でも南北朝鮮や中共では「捏造」「粉飾」された自国史を教えている。
国史つーのは「こうありたい」「かくあるべき」もの、という理解は日本でも数十年前までそうだった。
記紀編纂時の支配階級全体が「聖徳太子」誕生で了解したならそれでいいんだよ。
「聖徳太子」は律令国家建設・発展のために“用意”されたキャラクターなんだ。 政治的に必要だったんだろうねえ。
神武天皇や武内宿祢(変換できぬ)とかと一緒。
戦後は聖徳太子は日本人のアイデンテティの象徴になってるから、ここを否定されると日本史の半分が崩れる。
ーー厩戸王は実在したが、 皇太子でも摂政でもなく、その政治的事績は極めて不明
まあ、現実を受け止める時が来たね。 推古は祭祀王
伊勢の斎宮のようなものなら
本来の大王は
摂政という役職で存在をすり替えられた
聖徳太子という人であると考えるのが妥当
なので一族も滅ぶ必要性が見出だせない
日本書紀はファンタジー文庫 結論を先に言うと
「聖徳太子=押坂彦人大兄皇子」で間違いない。
推古天皇が即位したことになっているが、日本に来た中国の皇帝の使者は
日本側の女帝の存在を認識すらしていない。つまり、推古天皇は実在ぜず
「聖徳太子=押坂彦人大兄皇子」が実際の第33代天皇である。 「聖徳太子=押坂彦人大兄皇子」である理由を説明する。
推古天皇(第33代天皇)は架空の人物で
押坂彦人大兄皇子が実際の第33代天皇である。
第34代舒明天皇は、押坂彦人大兄皇子の息子である。
第35代皇極天皇は、押坂彦人大兄皇子の孫である。
天智天皇と天武天皇は、押坂彦人大兄皇子の曾孫である。 押坂彦人大兄皇子は「太子彦人皇子」「忍坂日子人太子」とも呼ばれており
そもそも名前に「太子」が入る人物である。
これは聖徳太子が押坂彦人大兄皇子と同一人物だからである。
『延喜式』には押坂彦人大兄皇子の墓についての記載があるが
その墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。
これは『延喜式』では最大の大きさである。
父の敏達天皇が東西3町、南北3町、
天皇としては最も大きい天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。 『隋書』
開皇20年(西暦600年)、俀王あり、姓は阿毎(アマ)、字は多利思北孤(タリシヒコ)、阿輩雞弥(オオキミ)と号す。
王の妻は雞弥(キミ)と号す。後宮に女六七百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利(ワカミタフリ)となす。
大業三年,其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ』
阿毎多利思北孤
・姓は阿毎(アマ)、字は多利思北孤(タリシヒコ)
・阿輩雞弥(オオキミ)と号す
・太子を名づけて利歌弥多弗利(ワカミタフリ)となす
押坂彦人大兄皇子
・太子彦(タイシヒコ)と呼ばれる。
・大兄君(オオエキミ)と呼ばれる。
・子供(ワカ)の名前は田村(タフリ)である。
※日本書紀では「村」を「フリ」と読む >>938
トリップ入れ忘れましたがこれも僕の書き込みです 押坂彦人大兄皇子は
『隋書』に登場する俀王・阿毎多利思北孤であることがわかる。 押坂彦人大兄皇子が「皇祖大兄」と呼ばれていることにも注目したい。
天皇の祖である。
押坂彦人大兄皇子は、日本の歴史書では天皇の祖と呼ばれているのである。
(聖徳太子(押坂彦人大兄皇子)が日本で初めて「天子」を名乗った) >>938
その通り
権力争いに勝てなかった傍系の皇子が隋を援軍につけて形成逆転しようとした
ってのが第一回遣隋使の真実だよ
だから日本書紀に載らない
第二回からは正規の派遣だね
第二回のときの倭の使者は第一回からのゴタゴタを隋に対して必死にごまかしただろうけどね ここで第35代皇極天皇の『身分の低さ』に注目したい。
皇極天皇は、欽明天皇のひ孫であり、かつ敏達天皇のひ孫でもあるが、天皇の娘「皇女」ではない。
歴代の女性天皇たちはみな「皇女」だが、皇極天皇だけは「皇女」ではない。
梅澤恵美子の著書『女帝』には、「皇極天皇の皇族としての地位の低さは注目すべきで、敏達天皇の曽孫であり、女性であるところから、
よほどの事情がなければ、即位の可能性は低かった」とある。
ではなぜ、皇極天皇は、天皇になれるような身分ではなかったのに即位できたのか。
それは、皇極天皇の祖父が第33代天皇・押坂彦人大兄皇子(聖徳太子)であり、
皇極天皇の夫が、第33代天皇・押坂彦人大兄皇子(聖徳太子)の息子である第34代舒明天皇だったからである。 わかんとおりという名称が
女性のことであるなら
高貴な血筋はむしろ皇極と孝徳であって舒明ではない
簡単には解けないファンタジーなのである
私は誰もが考えるワカミタフリ=タムラではないと思う
諡に孝徳や皇極には天と豊があるが舒明にはない
姓はアメならアメを最初に持ってくるはずだ
用明の息子が天皇であったとすると
その系統に似たような諱が与えられるはず 押坂彦人大兄皇子の『身分は非常に高い』
第30代・敏達天皇の長男(第一皇子)なのである。
天皇になって当然の身分と言える。 高貴な身分なら誰でも大王になれるわけではない
新唐書では用明の名前が出てきている時点で
アメ姓を使ってない大王はタリシヒコの系統ではない 『新唐書』の成立は1060年で
聖徳太子の時代のこと正確に書いてるとは考えられない。 『隋書』の成立は636〜656年なのは非常に重要
『隋書』は『日本書紀』が完成する前に書かれたものである。 その超重要な『隋書』にはこう書いてある。
・俀王あり、姓は阿毎(アマ)、字は多利思北孤(タリシヒコ)
・太子を名づけて利歌弥多弗利(ワカミタフリ)となす。
押坂彦人大兄皇子
・太子彦(タイシヒコ)と呼ばれる。
・子供(ワカ)の名前は田村(タフリ)である。
押坂彦人大兄皇子が、『隋書』に登場する俀王・阿毎多利思北孤であることがわかる。 押坂彦人大兄皇子が、『隋書』に登場する俀王・阿毎多利思北孤である
物的証拠もあるよ。
墓は物的証拠だよ。
『延喜式』には押坂彦人大兄皇子の墓についての記載があるが
その墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。
これは『延喜式』では最大の大きさである。
押坂彦人大兄皇子の墓は、天智天皇の墓よりも大きい。 天皇制が始まったのは673年に即位した天武天皇からで
正確には聖徳太子の時代は、天皇はいなかったよ >>953
押坂彦人大兄皇子が「皇祖大兄」とも呼ばれている。
押坂彦人大兄皇子は、日本の歴史書が認定した"天皇の祖”だよ。
押坂彦人大兄皇子が聖徳太子だとすると辻褄が合うね。
日本で初めて「天子」を名乗ったのは聖徳太子で
聖徳太子はまさに”天皇の祖”であるから。 大王にならなかった有力王はたくさんおりましてな
延喜式もリアルタイムの情報ではないのいで眉唾物である
伝•欽明陵なども実際は伝の域を越えられない
伝は伝であり、証拠にはならない なんで利を和と変えるのか
それこそご都合主義で
そのままでも単語の意味は探せる
りかみ、りかび、いかび→いかしひ 重日、厳霊
たふり→たから 財、豊日
女性のあまてらすと書いてあるようにもみえる
そこで、おほきみのアメ姓が重要なのですよ あ、これは私のオリジナル説なので
パクリ禁止で
@羊太夫 >>955
皇祖の兄って意味だろ
弟が皇祖(既存王朝を滅ぼして征服した大王)で
兄は征服の途中で討ち死にしたんだろうよ >>956
太子なのに天子
少なくとも歴史学者は
聖徳太子が「天子」を名乗ったことは認めてるよ。
「天子」というのは中国の皇帝・天皇と同じ身分の人だよ 聖徳太子に関しては基本的に
『隋書』では「俀王」阿毎多利思北孤
聖徳太子の自称は「天子」で、中国の皇帝・天皇と同じ身分だからね。
あくまで後世に書かれた日本書紀だけが
聖徳太子は天皇になってないと書いてるだけで。 『日本書紀』に皇祖という表現は、天照大神と「押坂彦人大兄皇子」の二人だけである。
日本書紀公認のアマテラスと同格の存在、それが押坂彦人大兄皇子 「押坂彦人大兄皇子=俀王・阿毎多利思北孤」と考えると謎が解けるんだよな。
阿毎多利思北孤(アマタラシ ヒコ)
アマタラシが天照大神(アマテラス)のモデルになった1人
つまり押坂彦人大兄皇子が天照大神のモデルになった1人である >>969
トリップ入れ忘れでこれも私の書き込みです >>968
本人は天子(皇帝)としか名乗ってないでしょ。
本人は太子は名乗ってない。あくまで後世で太子扱いされただけで。 『天王宮 山王院』
この家の話なんだけど、どういう事だと思う
『ボーボボ』
グーグルで検索すると出てくる画像なども トリップ付けてまで自分の説を守ろうとは思わないんだが
ヒコヒトノオオエもマロコも
都合の悪い謎人物に付ける名前である >>974
そうだよ。
後世に太子彦と当て字されたくらいだから、
たぶんアマタラシヒコって名乗ってたんだろうね。
アマタラシって日本語で天子(皇帝)って意味だから >>975
お前の場合、トリップつけたら
つっこまれてあっさり終わるだろうねw なのに息子であり高貴な身分の舒明が天も豊も使ってないのですね
敏達系統の諡にはないですもんな このような話もあったり
>死ぬと○○院と呼ばれるわけですが、
>すべて地名がつきます。
>白川、堀川、醍醐、宇多、嵯峨、鳥羽、水尾、一条、二条、三条、花山、花園、伏見、朱雀
>・・・すべて都(京都)の地名です。ほんの少しの例外はあります。
>天皇号が復活したのは江戸時代、それも幕末です。
>死後、「光格天皇」と呼ばれまつられました。
>「光格」は地名ではありませんよね。
>その人の業績を漢字二文字で表す中国風の呼び方です。
>「天武」「天智」とよく似ていますでしょう。実に700年ぶりの「天皇号」の復活でした。
>現在の系図ではすべて天皇ですが、光格以前はその時代には「院」と呼んでいたのです。
>天皇と呼び始め、記載されるようになったのは明治以降です。 >初代・神武天皇から第62代・村上天皇までは、
>崩御後の漢風諡号・追号として「○○天皇」と呼ばれていたが、
>第63代・冷泉天皇から第118代・後桃園天皇までは、
>「○○院」(例では、「冷泉院」)と呼ばれ、
>「○○天皇」とは呼ばれていなかった(ただし、安徳天皇と後醍醐天皇を除く)。
>この「天皇」号が復活するのは第119代・光格天皇のときからである。
>明治時代になり、すべての天皇を「○○天皇」と呼ぶように改められ、
>以後、「○○院」という呼称は廃された。 >>976
>たぶんアマタラシヒコって名乗ってたんだろうね。
これ根拠なしに言っちゃあダメダメ 〉977
え?
記紀を通してじっくり何回も読んだことないの? >>981
それは卑弥呼を日巫女と思っちゃダメというくらい無理があるな 『河童バビィ』
バビィ(仮)が決定していたと書いてあるし、
あの写真の家の名前『天王宮 山王院』と同じだしな 本当に、この写真は何者なんだろう、バビィ?
誰も知らないのかな
農家になり?暮らしていたのかな、
機織りなどをしていたと言っていたり、寺院に通っていたとか
http://iup.2ch-library.com/i/i1908872-1526609513.jpg
http://iup.2ch-library.com/i/i1908873-1526609840.jpg
軍人などではないと言っているし、学校の制服でもない 『葱の華』?
『天王宮 山王院』『松傾』のような名前の家、
『亀戸天神』に行ったりもしたよと言っていた(老婆談)
受験などで言ったわけではないみたいなんだけど
このスレの人々に聞いてみても、わからないのかな 何宗(宗派?)だったんだろう、
肉も食べなかった
その写真に写っている母親だったかな、
ニンジン、イモ類を煮たようなものばかり食べていたとか 当時、住んでいた家には凄い刀が飾ってあったとか
手を横に広げて、こ〜んなだぞと言っていた
サイキバ?事件 コーヒー君は良くこんな状態では結論をドヤ出しできるな
わしにはまだまだ出来んわ ・・・UMA(うーま)、午(馬)年・・・
『何者にもなれない お前たち』? もれ(仮)の父親も、午年、弟(次男、二男)なんだけど、
ウーマ一族なのかな 父親の兄(わかりやすくいうと、おじさん)は、
かなーり前に亡くなっているし
ということは、
もれ(仮)の父親がウーマ(UMA)継承者なのかな 兄 弟(この書き込みをしている人物) 妹:5月15日生まれ せいんとせいや?
父親の星座は何だったかな、いて座?
確か11月〜12月・・・? レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。