日本の城郭と諸藩 其ノ1 [無断転載禁止]©2ch.net

1日本@名無史さん2016/12/10(土) 12:50:50.91
古代から近世までの日本の城郭と江戸時代の諸藩について勉強するスレッドです。旧分国単位で綴ってゆきます。
城郭の位置・画像および諸藩の藩主でたどる藩政史、さらに城郭や諸藩にまつわるエピソードも紹介してゆきます。

【凡例】
◎ 旧分国の国名の由来や概略について
▽ 城郭について
▼ 諸藩について

79日本@名無史さん2017/01/06(金) 05:38:38.68
金山城の三層の天主は、岡部又右衛門の縄張だな。

80日本@名無史さん2017/01/06(金) 05:42:54.38
兼山城(金山城)の天守が尾張犬山城の天守として移築されたという伝承があり、司馬遼太郎氏も、この伝承に依拠されて小説『国盗り物語』をお書きになっておられる。
しかし、『国盗り物語』連載開始前の昭和36年(1961年)に、犬山城天守の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、移築説は現在は否定されている。

81日本@名無史さん2017/01/06(金) 05:43:04.26
※移築の痕跡がまったく発見されなかった犬山城
http://www.shirofan.com/files/shiro/toukai/inuyama/100-9045S53B.jpg

82日本@名無史さん2017/01/06(金) 05:49:39.64
>>76
>元亀元年 (1570年) 朝倉・浅井連合軍に攻められ討死した。

信長は可成の死を悲しみ、直後に浅井・朝倉軍に協力した比叡山延暦寺の焼き打ちを行った。その時、可成の墓がある聖衆来迎寺だけは手出しを許さなかった。可成の死が、比叡山焼き打ちの原因の1つになった。
父を弔うため、長男森長可が創建した寺が可成寺(かじょう寺)である。
http://okikuyihsot.travel.coocan.jp/kajouji7.jpg

83日本@名無史さん2017/01/06(金) 06:15:50.67
信長は可成の死を悲しんだわけじゃなくて、愛稚児の蘭丸(可成の子)の悲しみを慰撫するために、叡山焼き討ちを挙行したんだよ。

84日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:07:53.97
《美濃と尾張の国境》
関ヶ原町……近江国米原市
大垣市……近江国多賀町/伊勢国員弁市(いなべ) 
海津市……伊勢国桑名市/尾張国愛西市(あいさい)
羽島市……尾張国稲沢市(いなざわ)/一宮市
笠松町……尾張国一宮市
各務原市……尾張国江南市/扶桑町/犬山市
坂祝町(さかほぎ)……尾張国犬山市
可児市……尾張国犬山市
多治見市……尾張国春日井市/瀬戸市
土岐市……三河国豊田市
瑞浪市(みずなみ)……三河国豊田市
恵那市……三河国豊田市
※当スレッドでは市町村名のひらがな表記を禁止しています。例:員弁市(いなべ) 

85日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:23:43.41
僕はピンポンパンのおねえさんの中では、渡辺直子さんがいちばん好きでした。
http://contents.oricon.co.jp/upimg/news/20130219/2021779_201302190297443001361274993c.jpg
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/hyper-kinchan/home2/w10.jpg

86日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:25:53.34

87日本@名無史さん2017/01/08(日) 15:26:18.08
幼稚園児なのに、すでにエロ目線www

88日本@名無史さん2017/01/09(月) 00:55:04.65
>>83
寵童という日本語があるよ。

89日本@名無史さん2017/01/13(金) 14:52:50.34
 ___ _
  ヽo,´-'─ 、 ♪
   r, "~~~~"ヽ
   i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆議院と参議院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
 __ '!从.゚ ヮ゚ノル  総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
 ゝン〈(つY_i(つ 日本国憲法改正の国民投票を実施しましょう。お願い致します。☆
  `,.く,§_,_,ゝ,
   ~i_ンイノ

90日本@名無史さん2017/01/18(水) 04:05:18.43
姫路城

91美濃国2017/01/25(水) 11:01:49.18
▽久々利城

岐阜県可児市久々利字薬師洞……美濃国可児市と尾張国犬山市とは隣接している。
http://uub.jp/47/gifu/gifu_map1.png
城は郷土歴史館の北にある尾根に築かれている。 郷土歴史館の建つ地は久々利城の根古屋跡で、江戸時代には千村陣屋が置かれていた。
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/kukuri-jyo/photo_003s.jpg
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/kukuri-jyo/indexb.jpg

92日本@名無史さん2017/01/25(水) 11:04:55.96
築城年代は定かではないが南北朝の頃、土岐康貞によって築かれたと云われる。 康貞は美濃国守護土岐氏の一族で土岐伊予守頼清の四男。三河守悪五郎と称した。その子行春の時より久々利氏を名乗ったという。

93日本@名無史さん2017/01/25(水) 11:07:30.94
天文の頃には鳥峰城主斎藤正義に従っていたが、天文17年(1548年)斎藤正義を久々利城へ招き、酒宴を催して暗殺した〔>>75〕。一説に斎藤道三の命によるものともいわれる。

94日本@名無史さん2017/01/25(水) 11:10:50.46
永禄8年(1565年)東美濃に侵攻した織田信長は金山城主として森可成を置き、久々利氏はその配下となった〔>>76〕。
天正11年(1583年)森長可〔>>77〕は悪五郎を金山城へ招いて酒宴を催し、その帰路悪五郎を殺害し、久々利城を奪って久々利氏は滅亡した。

95日本@名無史さん2017/01/25(水) 11:17:26.88
久々利氏は滅亡後は、森家家臣の戸田勘左衛門が城代となっていたが、慶長5年(1600年)に森家が信濃に転封となると、金山城とともに廃城となった。
その後、久々利の地は千村氏に与えられ、久々利城跡には千村良重が建てた千村陣屋がある。
千村氏は代々尾張藩に仕え、明治維新を迎えた。

96日本@名無史さん2017/01/25(水) 12:51:35.96
  −=≡ ∩彡 ⌒ ミ∩ 
 −=≡  ヽ(´・ω・)/  信濃国境に近い美濃の東端まで移動ー
−=≡    (    /
 −=≡   ( ⌒) 
  −=≡  c し'

97美濃国2017/01/25(水) 13:00:22.84
▽岩村城

岐阜県恵那市岩村町
岩村城は標高713mの城山山頂に築かれており、三大山城(備中松山城、大和高取城)の一つに数えられている。
山頂には本丸をはじめ、二の丸、三の丸などがあり総石垣の近世城館であるが、各尾根には堀切など中世の遺構も残る。また藩主は麓に近い居館に御殿を構えており、ここは現在歴史資料館が建ち、太鼓櫓などが復元整備されている。
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/iwamura-jyo/indexb.jpg

98日本@名無史さん2017/01/25(水) 13:04:06.19
源頼朝の重臣・加藤景廉の長男遠山景朝が築き、その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまでこの地を治めた。
景朝が遠山荘に赴任した鎌倉時代中期頃には平坦部に築かれた砦あるいは城館であり、織田氏・徳川氏・武田氏の抗争が激しくなった戦国時代末期の16世紀中に遠山氏・武田氏の手で本格的な城山が構築されていったとみられる。

99日本@名無史さん2017/01/25(水) 13:06:36.75
1570年(元亀元年) 城主は遠山景任であったが、甲斐武田氏の家臣・秋山虎繁(信友)が東濃に侵攻、上村での戦いに勝利し西進してきたが、織田信長の武将・明智光秀が小田子村でこれを撃退した(上村合戦)。

100日本@名無史さん2017/01/25(水) 13:12:28.61
1571年(元亀2年)に遠山景任が病没すると、信長は五男の坊丸(織田勝長)を遠山氏の養子とした。後見は信長の叔母・おつやの方(景任未亡人)で、幼少の養子に代わって女城主として差配を振るった。
おつやの方は絶世の美人であったが、好色絶倫で、遠山景任はそのために寿命を縮めた。
http://prod.akimg.video.rakuten.co.jp/content/43/88/173488/chapter_l_0123.jpg

101日本@名無史さん2017/01/25(水) 13:16:16.69
1572年(元亀3年)10月、信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に再び秋山虎繁(信友)に岩村城の攻略を命じた。しかし、城はこの際も容易に落ちなかった。
しかし、翌1573年(元亀4年)2月末に、秋山虎繁(信友)はおつやの方を色仕掛けで説得し、空閨をかこっていたおつやの方を妻に迎え、翌3月に岩村城は落城した(岩村城の戦い)。
http://hiroba.avximg.com/jp-xvideos-av.com/2015-06/thumb/jTkMLvAFgaKJrbf9.jpeg

102日本@名無史さん2017/01/25(水) 13:20:24.04
1575年(天正3年) の長篠の戦いの後、信長は岩村城奪還を試みた。信長は嫡男・信忠を総大将に攻城戦を行い、5ヶ月にわたる戦闘の後、城は陥落した。
開城の際秋山虎繁(信友)の助命が約されていたが、織田方はこれを翻し、虎繁(信友)・おつやの淫乱夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑された。
織田方の城となった後、河尻秀隆が城主となり城の改造を行い現在の城郭に近いものとなった。

103日本@名無史さん2017/01/25(水) 13:23:37.10
1582年(天正10年) 河尻秀隆が甲斐国に移封となると、団忠正の居城となるが、3ヶ月と経たぬ内に本能寺の変で忠正は戦死。
岩村城は信濃国から戻った森長可が接収し、長可死後は森忠政が引き継いだ。城代となった森氏家老・各務元正は、この後約17年を費やし近代城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成した。

104日本@名無史さん2017/01/25(水) 13:24:51.93
1599年(慶長4年)豊臣秀吉の死後、森忠政が信濃国松代に移封となると、田丸直昌が入城した。
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで大阪城番であった田丸直昌は西軍となり、城は本領復帰を狙う遠山利景に再度攻められる。戦後、田丸氏が改易されると、松平家乗が入城した。
1601年(慶長6年) 家乗は山上にあった城主居館を城の北西山麓に移し城下町を整備した。

105日本@名無史さん2017/01/25(水) 13:29:49.46
1645年(正保2年) 大給松平氏の上野国館林城転封に伴い、三河国伊保藩より丹羽氏信が入城した〔氏次系丹羽家〕。
1702年(元禄15年) 5代藩主・丹羽氏音の時お家騒動を起こし越後国高柳藩に転封となった。同年、信濃小諸城より再び大給松平家の松平乗紀が入城した。以後、明治維新まで再び大給松平氏の居城となった。

106美濃国2017/01/25(水) 13:41:26.92
▽苗木城

岐阜県中津川市
元弘年間(1331〜1334年)岩村城の遠山氏の同族である遠山一雲入道および遠山景長親子が、高森山(現在の中津川市苗木町)に砦を築く。
天文年間(1532年〜1555年)に遠山正廉が高森に苗木城を築く。
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/naegi-jyo/indexb.jpg

107日本@名無史さん2017/01/25(水) 13:44:54.29
代々苗木遠山氏が居城とするが秀吉により川尻直次に与えられる。
しかし、直次は関ヶ原合戦で西軍に属したため、遠山友政が1万500石で入城、以後明治維新まで続く。

108美濃国2017/01/25(水) 13:59:41.35
▽小倉山城

岐阜県美濃市泉町小倉山
慶長10年(1605年)飛騨高山藩主であった金森長近は、養子の可重に高山城を譲り隠居した。この城は長近の隠居城として築城された城である。別名「小倉居館」とも言われる。
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/ogurayama-jyo/indexb.jpg

109日本@名無史さん2017/01/25(水) 14:02:03.91
金森長近は、関ヶ原の戦いで東軍に属して郡上八幡城などを攻めた功により、美濃国武儀郡などに二万石の加増を得た。長近は飛騨高山を養子の金森可重に譲り、自身は小倉山城に築城して別家を興した〔上有知藩〕。
慶長13年(1608年)長近が没すると二男の金森長光が継いだが、慶長16年(1611年)わずか六歳にて没し無嗣改易となり、上有知藩はわずか二代で廃藩となった。
その後は天領になり、元和元年(1615年)からは尾張藩領となって代官所が置かれた。

110日本@名無史さん2017/01/25(水) 14:11:41.04
《地図を読む》
岐阜市の東南に、各務原市(かかみはら)がある。
※筆者駐:「かがみはらし」で漢字変換していたので、時間がかかった。
長良川鉄道に沿って北上すると、関市→美濃市〔>>108〕→郡上市→高山市→飛騨市→富山市となる。

111美濃国2017/01/25(水) 14:25:52.63
▽郡上八幡城

岐阜県郡上市八幡町柳町
郡上八幡城は吉田川と小駄良川の合流地点の北東に聳える標高350m程の山に築かれている。
郡上八幡城は模擬天守が建つ山上の遺構と、江戸時代に居館があった山腹の遺構とで構成されている。
http://castle.gujohachiman.com/wp-content/uploads/2015/10/00-1069x620.jpg
http://www.shirofan.com/files/shiro/toukai/gujyouhachiman/1P3J5120.jpg

112日本@名無史さん2017/01/25(水) 14:33:32.33
永禄2年 (1559年) 遠藤盛数によって築かれた。遠藤氏は承久の乱の功によって山田荘の新補地頭となった東(とう)氏の庶子・遠藤盛胤が、木越城主となったことに始まる。
遠藤胤縁の頃には主家・東氏を凌ぐ程の勢力となり、東常尭は遠藤氏と婚姻を結んで勢力の回復を計ろうとしたが、胤縁は娘を畑佐氏に嫁がせた。
これを恨んだ東常尭は永禄2年 (1559年) 赤谷山城で遠藤胤縁を暗殺した。
これに対して胤縁の弟・遠藤盛数は、胤縁の嫡子・胤俊を助けて赤谷山城を攻め落とした。その後に郡上郡を支配するために築いた城が郡上八幡城である。

113日本@名無史さん2017/01/25(水) 14:36:24.00
その後、遠藤盛数の長男・慶隆が城主となったが、本能寺の変後、羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため追放された。
慶隆追放後、天正16年(1588年)には稲葉貞通が城主となり、郡上八幡城の大改修を行った。稲葉貞通は、稲葉良通(一鉄)の次男である。

114日本@名無史さん2017/01/25(水) 14:39:50.97
その後、関ヶ原の戦いの功によって再び遠藤慶隆が城主となり、城の改修を行った。稲葉貞通は西軍に属したため、豊後国臼杵へ五万石で転封となる。
五代藩主・常久まで遠藤氏が城主となり、以後井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷したが、廃藩置県まで郡上藩の藩庁であった。青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、廃藩置県によって廃城となる。

115美濃国2017/01/25(水) 15:10:26.93
▼岩村藩

美濃国(現在の岐阜県)の岩村城を拠点として美濃国と駿河国の一部を支配した藩[>>97]。
岐阜県恵那市岩村町
http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/iwamura-jyo/indexb.jpg

116日本@名無史さん2017/01/25(水) 15:15:45.10
戦国時代の岩村〔>>99-103
織田信長は、元亀年間に敵対した武田信玄の領国・信濃との要衝にある岩村城の重要性を考えて、城主・遠山景任に美貌で知られた自身の叔母・おつやの方を妻として娶らせ、一門衆として遇していた。
やがて足利義昭との対立から各国に信長包囲網が敷かれると、岩村も元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦の際、その家臣・秋山虎繁(信友)に攻められることとなる。景任は懸命に防戦したが、不幸にもその最中に病に倒れ、死去してしまった。
信長は、当時は浅井長政と対峙していたため、援軍を送ることができなかった。

117日本@名無史さん2017/01/25(水) 15:20:49.93
城将がおらず援軍の望みもない岩村城はかくして武田軍の手に落ちた。しかしこのとき、秋山虎繁(信友)はこともあろうに景任未亡人のおつやの方を溺愛し、結婚してしまったのである。
これを知った信長は激しく怒り、信玄の死や長篠の戦いで武田氏が衰えると、嫡男・信忠を総大将にして岩村城に対して大軍を差し向けた。虎繁(信友)は懸命に防戦したが持ちこたえられず、捕らえられて岐阜に送られ、逆さ磔の極刑に処されてしまったのである。
このとき、信長は叔母のおつやの方、そして城兵全員までをも処刑している。信長の凄まじい怒りが虐殺というかたちで現われたのであった。

118日本@名無史さん2017/01/25(水) 15:25:52.00
その後、岩村城主は、河尻秀隆〔>>102〕→団忠正〔>>103〕→森長可→森忠政(城代:各務元正)→田丸直昌〔>>104〕と入れ替わった。

119日本@名無史さん2017/03/02(木) 23:27:01.25
もう息切れ?

120日本@名無史さん2017/04/09(日) 10:33:44.37
続きは?

121日本@名無史さん2017/05/01(月) 19:50:10.49
age

122日本@名無史さん2017/05/17(水) 13:48:42.92
こないだやってたピエール瀧の城下町へ行こう2hSP
狼煙台作っちゃったほうとう屋さん甲冑も店内に置いてある
二十四将の内藤の末裔が内藤新宿の内藤って言ってたけど別系統じゃね

123日本@名無史さん2017/05/17(水) 16:30:31.39
岐阜城へ行って来た。
あれは難攻不落だわ。登るだけで息が切れる。

124日本@名無史さん2017/05/23(火) 18:44:31.83
>>117
>城将がおらず援軍の望みもない岩村城はかくして武田軍の手に落ちた。しかしこのとき、秋山虎繁(信友)はこともあろうに景任未亡人のおつやの方を溺愛し、結婚してしまったのである。

これは俗説
最初に武田側に内通してた段階ですでに婚姻は決まってた
それと岩村方は武田と織田を行ったり来たりを繰り返してた信用のない連中でまぁ殺されて当然

125日本@名無史さん2017/10/06(金) 20:35:42.48
女城主直虎「紀行」にて、10ヶ月経った前回の放送で、「浜松城」が放送されました。
2017.10.01 放送  「No.39 静岡県浜松市」

静岡県「浜松市」。
のちに天下人となる 「徳川家康」 が 「最も長い年月を過ごした地」 です。
https://www.entetsuassist-dms.com/hamamatsu-jyo/images/top/img_slider03.jpg  http://livedoor.blogimg.jp/ono3535/imgs/9/1/910c7bb0.jpg
市の中心部にある引間(ひくま)城跡。
三河から遠江へと、勢力を広げていった家康は、永禄11年、今川氏の拠点であったこの城を制圧。
その後、家康は新たに浜松城を築城しました。

「近隣ではその比を見ない」 ほど、 「大規模で堅固な城」 だったといいます。
「自然石を積み上げた石垣」 は、400年経った今も、この城を支えています。
 《城内の徳川家康像》 https://cdn-news.asoview.com/pre/article/d12cf0a2-4784-45e3-95b6-6a6b85508fbd.jpg
 《大河直虎時代の大規模で堅固な浜松城主要部》 http://file.wingclub.blog.shinobi.jp/573622ad.jpeg
天下を制した 「家康の後に続く」 ように、浜松城を守る 「歴代の大名は何人も出世」 を遂げていきました。
そのため、この城は 『出世城』 として意識されるようになります。
若き日の家康とともに発展していった町、浜松。
「この地を足掛かり」 に、家康は 「戦国大名として飛躍」 していくのです。
http://www.nhk.or.jp/naotora/travel/article/39.html

浜松城の隣には「公園も整備」され、四季折々で開催されるイベントやプールなどを楽しめ、また「美しい日本庭園や芝生広場」もあり、市民に愛されている憩いの場。
「徳川家康時代の歴史」も、「色濃く残って」います。
秋は、「紅葉の名所」となります。
https://cdn-news.asoview.com/pre/article/d15d7132-1cc1-4655-85c3-eb801ca9e868.jpg  https://pbs.twimg.com/media/DAFZhSxUMAEzIlf.jpg
https://media-cdn.tripadvisor.com/media/photo-s/07/d2/44/b8/caption.jpg  http://hoshin-k.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/12/02/c1_dsc06432_2.jpg
http://img01.hamazo.tv/usr/h/a/m/hamaparkgreen/IMG_3215sk800x600k.jpg  https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/koho2/pr/fb/spot/images/2.jpg

126日本@名無史さん2018/01/30(火) 15:51:11.95
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

XN4WP

127日本@名無史さん2018/05/30(水) 19:43:41.27
太田金山城址の、隈研吾設計の公共施設の石垣モチーフ壁面デザインは、
東京五輪のあのマークより遙か先に存在してる。注目されたし!

128日本@名無史さん2018/06/04(月) 13:43:26.82

129日本@名無史さん2018/06/10(日) 10:52:34.82
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/-wF31xbwqPM

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