前方後円墳の鍵穴は銅鏡と銅鐸の合体 [無断転載禁止]©2ch.net

1八百万魔鬼向2017/03/08(水) 11:48:57.58
http://imgur.com/a/4p9mc
後円部が銅鏡、前方部が銅鐸。
前方後円墳の鍵穴デザインは、「出雲」と「纏向」2つの国の連合を象徴したもの。
神器である鏡と銅鐸を地面に伏せるように置いて神域とした。囲む堀も日本が海洋国家であることを象徴している。
後円部の円周上に埴輪を並べるのも銅鏡裏の飾りに似ている。銅鏡(道教)は残ったが銅鐸は三種の神器からはずされ結果的に出雲は吸収合併されたかたちか。

2日本@名無史さん2017/03/08(水) 12:41:58.62
銅鐸は高天原

前方後円墳も高天原

3日本@名無史さん2017/03/10(金) 11:12:08.88
土蜘蛛だって勝てば官軍負ければ賊軍だわ
筑紫の者→ちくしもの→つちぐも→土蜘蛛 と現場部隊の正しい言葉が宮中女官に届いた時には「土蜘蛛」と変わった例だと思う。

4日本@名無史さん2017/03/12(日) 10:04:15.19
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 |  |              |   |    お前を何かに例えるなら、
 |  |     お       |   |     この、開けると絶対
 |  |     好       | ―|     中身が飛び散る場所にある
 |  |     み     .| ↑ |     使えねぇ切口
 |  |     醤     .| 切 |
 |  |     油     .| 口 |
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5日本@名無史さん2017/03/13(月) 00:22:36.32
土蜘蛛は縄文人、日本の正当な住人だ。

6日本@名無史さん2017/03/14(火) 07:33:11.04
須恵器の壺の形、牛車の形とかいろいろな説があるけど、それに比べれば・・・ 鏡も銅鐸も作った直後は金ピカだからね、忌部はいいセンスしてる。

7日本@名無史さん2017/03/16(木) 09:51:15.06
>>4
時代が>>1に追いつくには10年かかるな。

8日本@名無史さん2017/03/16(木) 22:02:43.96
前方後円墳は天下った九州勢力によるその他勢力征服の証
征服された人々は奴隷として町のど真ん中にモニュメントづくりのため
動員され野垂れ死んだ

9日本@名無史さん2017/03/20(月) 08:00:26.79
古事記になぜ出雲神話が入っているのか? 宮廷に出雲の語り部がいたから。なぜ居たのか? 日本は二つの国が合併した国だから。その証拠が前方後円墳の形。

10日本@名無史さん2017/03/20(月) 11:34:47.37
おいらは円墳の前で法事をやる広場で、四角い広場を設けたのだと思っているけど。

11日本@名無史さん2017/03/20(月) 13:44:35.07
>>10
前の四角い広場は正方形じゃないのが引っかかる。神聖な形だけなら円に正方形だと思う。

12日本@名無史さん2017/03/20(月) 14:23:13.18
台形だってひし形だって神聖だろう

13日本@名無史さん2017/03/21(火) 07:31:17.76
「やまと」は「大和」「倭」とかの漢字が当てられていてやまととは読めない謎。

「や」おろず(八百万の神:出雲)
「ま」きむく(纏向)
「と」うごう(統合)

な事はないかw。

14日本@名無史さん2017/03/23(木) 07:46:41.47
>>13
山戸でも山門でもなく、「やまと」だったら九州説は消えるな。

15日本@名無史さん2017/03/23(木) 15:52:16.57

16赤岡龍男2017/07/02(日) 22:23:57.29
韓国の人が支持した前方後円墳百済説が崩壊して、
朝鮮式小銅鐸(馬鐸)に余波が来ている。

17日本@名無史さん2018/01/30(火) 17:01:23.87
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18日本@名無史さん2018/07/12(木) 17:13:56.25
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19日本@名無史さん2018/07/17(火) 01:45:48.86
鍵穴の形に意味は無く、円墳と方墳の地域の国が合体したから
墓の形も邪馬台国の円墳○と吉備、出雲などの方墳勢力◇が合体して
前方後円墳ができたのだろう。

20日本@名無史さん2018/08/07(火) 18:55:52.25
そもそも前方後円墳って、日本から韓国に伝わったんだってね。

21みずきの女子知韓宣言より抜粋2018/08/10(金) 04:47:26.58
■任那日本府と前方後円墳(主な内容抜粋)

大平 裕
1939年生まれ。大平正芳記念財団の代表。主な著書、「日本古代史 正解」(講談社)など。


現在、任那の存在は触れてはいけないものとなってしまっています。
日本が統治していたというニュアンスを含むことから、学会も隣国に遠慮しましょう、という暗黙の了解ができてしまったのです。

加えて、左翼に屈服したことが象徴的にあらわれているのが、広開土王碑改竄問題です。

これに関連し、左翼的な雰囲気に屈した象徴的な事件がまさに「広開土王碑操作」論争です。

西暦四〇〇年前後、日本は朝鮮半島東西で大規模な戦争に主力として参戦し、百済を高句麗から助ける一方、東海岸では任那とともに北上し、新羅を攻略しています。日本史上初の海外での大規模な戦争でした。

この戦争の模様は当時高句麗王だった広開土王(第十九代・在位三九二─四一三)の生涯を刻んだ石碑「広開土王碑」(四一三年建立)に記されています。
広開土王は好太王ともいわれ、北は北燕と、南は百済へ侵攻と、戦いに明け暮れた国王でした。
当然のことながら、碑文は王の功績を示すために、連戦連勝をアピールしていますが、倭国とともに任那の諸国名(加羅・安羅)がはっきりと刻まれており、任那の国際的認知がくみ取れるのが印象的です。
倭国に関連した記述は十一カ所ありますが、要約すると次の通りです。

・三九一年(辛卯)
倭が海を渡り百済・新羅を臣民とする。
・三九九年(己亥)
百済は高句麗との約を違え倭と通じ、平壌に来攻、一方、新羅より急使あり、倭人国境に満つ。
・四〇〇年(庚子)
新羅救援のため五万の兵を派遣、倭軍城中に満つ、倭兵を討つ。
・四〇四年(甲辰)
倭、不軌(無法)にも帯方郡に侵入。
・四〇七年(丁未)
五万の兵を率い(倭と)戦う、(倭は)鎧一万余を残し敗退。

ところが、この広開土王碑については、一九七二年、在日の学者李進熙がこれまでの碑文解釈・解読に対してとんでもない異論を唱え、学会は大騒ぎになりました。(つづく)

22つづき-衝撃の展開2018/08/10(金) 05:01:50.95
ところが、この広開土王碑については、一九七二年、在日の学者李進熙がこれまでの碑文解釈・解読に対してとんでもない異論を唱え、学会は大騒ぎになりました。
この碑文は一八八四年、旧日本軍参謀本部の酒匂景信が入手したものですが、近代日本の朝鮮半島進出を正当化するため、都合がいいように、旧陸軍が拓本を改変したというのです。
実物の検証ができない当時、李進熙の突飛な意見を否定することはできませんでした。そのため研究は四十年近くにわたり停滞せざるをえませんでした。

李進熙は、かねてから日本側の広開土王碑文を拠りどころにした「大和政権が四世紀後半に半島に出兵、百済、新羅を征服、伽耶地方に任那日本府という統治機関をおいて、二世紀の間支配していたのは歴史的事実」という論に強く反発していました。

しかし、二〇〇六年四月十四日の読売新聞(朝刊)に、「好太王碑の拓本発見……改竄論争に終止符」という、センセーショナルな記事が掲載されました。
古代日本の朝鮮半島進出を記録した、中国吉林省の広開土王碑最古の拓本が中国で発見され、倭国(日本)との関係を示す記述が、旧日本軍の入手した拓本と一致することが、中国社会科学院教授である徐建新の研究で判明したのです。

これによって、一九七〇年代以来論争が続いてきた、旧日本陸軍による碑文改竄説は、成立しないことが確定しました。
徐建新は、東アジア各国に散在する約五十種の拓本を確認する作業を続け、二〇〇六年、それまで最古とされていた酒匂入手の拓本より古い一八八一年作成の拓本を、北京のオークションで発見したのです。
それを酒匂拓本とともにパソコンに取り込んで比較したところ、意図的な書き換えの痕跡はないことが判明しました。その成果は『好太王碑拓本の研究』(東京堂出版)として発表されました。


李進熙の民族感情むき出しの反日史観は、植民地支配への贖罪観を抱く日本人学者たちを倫理的に追い詰める恰好の攻撃材料だったのです。
長い間広開土王碑研究にブレーキをかけた悪しき学者の例といえるでしょう。
そのブレーキのせいか、一九八〇年代、日本の歴史の教科書からはいっせいに広開土王碑の記述が消えてしまいました。
近隣諸国へのおもねりが、どれほど歴史学を捻じ曲げ、国益を損なうことになるか歴史家の猛省を促さざるをえません。(つづく)

23衝撃の真相2018/08/10(金) 05:07:31.50
(つづき)
一九八〇年代、朝鮮半島南西部の全羅北道、全羅南道、とくに南道の栄山江沿いに十四基の前方後円墳が次々と発見されました。
前方後円墳は日本に固有のものと考えられてきましたから、韓国の学者はここぞとばかりに、「前方後円墳の発祥地は韓国で、倭国へ伝えられた」と声高に主張しました。
しかし、その主張もほどなく破綻しました。

なぜかというと、日本では岩手県から鹿児島県までの広い範囲で前方後円墳が多数見つかっており、造営された年代も明らかに韓国の前方後円墳より古かったからです。

前方後円墳は日本で独自に発達した墓制(=墓のつくり方)であり、日本(倭国)から朝鮮半島に伝わったものなのです。
そして、朝鮮半島で前方後円墳が見つかった地は、『日本書紀』が記す任那西部の地なのです。

任那をめぐっては、その存在に言及することすらタブーとされる風潮がありますが、史実を政治的な理由で曲げてはなりません。

韓国では、「日本の文化はすべて韓国から渡来した」と主張する人々がおり、前方後円墳韓国起源説を唱える学者もいます。
韓国の学者達は、「韓半島の前方後円墳が日本から入ってきたのはありえないことだ」あるいは「認めたくない」という極端なナショナリズムを示す傾向があり、これに同調する一部の日本人学者も存在するのが現実です。

五世紀後半から六世紀前半にかけての任那・伽耶(加羅)地域が、倭国とどのような外交・軍事、そして社会的関係にあったかという文献的知見を見ることなく、ただ「前方後円墳否定」に走ってしまったのは残念なことです。
このような韓国側の改竄・捏造を日本人の学者も充分に知っているはずですが、なぜ「だめだ」と言わないのでしょうか。
なぜ迎合しているのでしょうか。
彼らは、指摘してしまうと韓国側から資料をもらえなかったり、お互いの学会の交流ができなくなってしまうであるとか、変なことばかり気にかけているのです。
教授の方針に逆らえば、准教授の立場もなくなります。当然、学生も逆らえません。


任那について否定する風潮が続いていますが、歴史というものは、善悪は別にして史実は史実として研究を重ね、明らかにせねばなりません。
その意味で、極端な左翼史観や、極端なナショナリズムにとらわれることのないよう、研究を積み重ねていってほしいものです。

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