妃のいない大王 [無断転載禁止]©2ch.net
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崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home 何で神武天皇の皇后をオホキミなんて書くんだ?
卑弥呼は女王であり、夫も子もいないぞ。 清寧天皇には妃がおりませんでした。なぜだかかんがえてみよう。? >>42
>卑弥呼は女王であり、夫も子もいないぞ。
【年已長大 無夫壻】
たったこれだけで夫も子もいないと考えてたアホが歴史を見えなくしてきた。
おい、アホ。反省しろ。
うちの母親は「年已長大 無夫壻」だが子も孫もいるわ。
おまえアホだろ。 6代孝安までは鴨王朝。
日本書紀は、3代安寧天皇の皇后である渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめ)の父親が、
「鴨王」であると思わず書いてしまっている。
事代主の子、鴨王だ。
普通、一豪族に「王」などとは書かない。
先代旧事本紀と照らし合わせると、この鴨王は天日方奇日方命の事だろう。
ヒメタタライスズのお兄さんだ。
この人物の事を、思わず王と書いてしまったのは、
日本書紀編纂者が、この時代が鴨王朝であり、
ヒメタタラが女王とされ、神武は入り婿である事を知ってたからなのだ。 ヒメタタライスズって刺青を珍しがったんだから
刺青の無い文化圏の人じゃないの? >>47
どうして?
>>48
ヒメタタライスズって刺青を珍しがったのではなく、大久米の大きな目に驚いた。
安曇や久米は黥利目をしていたのだろう。 やっぱりヒメタタライスズにとって黥利目は見慣れないものだったんでしょ
刺青の無い文化圏の人だよ >>49
だからそれが、多々良姫が邪馬台国と関係のない畿内の姫であった証拠なんだよ。
同時に、邪馬台国が畿内ではない証拠でもある。 >>45
卑弥呼は邪馬壱国初代女王
では、女王卑弥呼の偉大な夫の名前は?
正当後継者である子供の名前は?男?女?何人の後継者を産んだのだ? 「夫も子もいない」も「夫も子もいる」も両方思い込みだよ >>51
全然意味が分からない。
顔の入れ墨くらい当たり前だが。 >>53
ヒメタタライスズを検索すればすぐ分かる。 >>54
両方有りという事だが?
>卑弥呼は女王であり、夫も子もいないぞ。
と言ってたアホはおまえか? 畿内は、魏志に記録された邪馬台国ではなかったということ。 >>57
よく考えてから書き込めよ
そんな筈あるわけがないだろう >>60
【年已長大 無夫壻】
たったこれだけで生涯独身なのか?
寡婦の描写も含まれるよな。
何が言いたいのだ? >>59
つまり邪馬台国は畿内にないことにしたいから、適当に文句言っただけかw >>62
ヒメタタライスズが卑弥呼なら刺青で驚くかよ、って事だよ >>64
>刺青で驚くかよ
入れ墨に驚いたのではなく、久米の大きな目に驚いたのだ。
何を言ってるんだ。 「つばめ、せきれい、ちどり、ほおじろ。それにあなた。
どうしてそんなに縁取りのくっきりとした目なの。」
それを聞いて、大久米命も歌を返しました。
「ただ、あなたに会いたいと、探し求めて大きな目になりました。」 >>67
ずいぶん飛躍した訳だな。
もう少しいいものを頼む。 >>69
入れ墨に驚いたという訳を自分で探してみろ。 ヒメタタラが久米の大きな目に驚いたという話は有名なのだが。
いつの間に「入れ墨に驚いた」にすり替えてるんだよ、ハゲ。 ※下記は、現代語譯 古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳による現代語訳。
天地間の千人勝りの勇士だというに、
どうして目に黥をしているのです。 >>73
黥はいれずみと読み、刺青のことだからね。
念のため。 >>74
「あめ 鶺鴒(つつ) 千鳥 真鵐(ましとと) など黥(さ)ける利目 (とめ)」
黥(刺青)と書いてあるな。
畿内大和には黥の文化はなく、邪馬台国ではなかった。 何を食ってかかっているのかと思えば
黥利目が刺青だという事を知らなかったのか 顔の入れ墨は縄文、弥生、古墳時代まで一貫している。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/85/84d2f69bf14497a5afdc4d50e0a34359.jpg
卑弥呼がどこにいようと、当時の男の顔の入れ墨に驚くわけはない。
ただし顔のどこに入れるかで若干地域差があったのだろう。
目の周りに入れてた久米は安曇と同じく九州系。
こんなことが畿内説の反証になると思ってる時点でアホ。 畿内説はとりあえず置いておいて
ヒメタタライスズ卑弥呼説は諦めろ >>83
アホか。
卑弥呼なんて他に誰がいるねん、ふざけるな。 イスケヨリ姫が魅力的なのはわかるが、卑弥呼説は無理があるからやめておけ。 神武以前の畿内は出雲系。
出雲の加茂岩倉と兄弟銅鐸が奈良、淡路島、大阪、和歌山などに複数出ている。
大物主、事代主の「主」とは彼らが「王」であった証拠。
神武が畿内に来てからも大物「主」はいたので神武は王ではない。
10代崇神までは鴨王朝の時代。
神武は王ではなかったから天皇・皇后という称号を創って神武に与えた。
これは今の英国に例えれば、エジンバラ天皇、エリザベス皇后にして、
エジンバラ天皇の功績を10、エリザベス皇后の功績を1にしたらどうだ。
それと同じことを日本書紀はやった。
その理由はスサノオが107年に後漢・安帝に土下座した帥升だと知られたくなかったからだ。
すべてそれが原点。 >>86
卑弥呼はこの人物だというまともな対案もってこい。
持ってこれないくせにホザくな。 刺青は身分によって違うと魏志倭人伝に書かれている。
高貴な身分の人は刺青をしなかったかもしれないし、相手が高貴な身分の人がする刺青でなかったのかもしれない。 >>88
学問に対案は必要ない
政治じゃないんだから >>90
政治だって対案が必要とは限らない。
改憲案の対案を出さずに、護憲でも立派な意見になる。 >>90
つまり私は卑弥呼が誰かは分からない。
しかし君の意見には反対するという人間なのか。 >>91
そう言われてたよね、今までは。
しかし常識を疑ってみろ。
神武の時代には大物主、事代主、鴨王などがいた。
「主」「王」などは最高位の人物だ。
つまり神武は最高位の人物ではなかった。
だからこそ7世紀に新称号「天皇」にしてあげたのだ。 >>92
>護憲でも立派な意見になる
圧倒的な定説などない卑弥呼は誰か、邪馬台国はどこかという問題と、
護憲が何で同じなんだよw
例えがおかしずぎwww >>94
>そう言われてたよね、今までは。
いや、百襲姫だとか、イスケヨリ姫だとか、記紀の人物に比定しようとする方が多い。 >>96
>記紀の人物に比定しようとする方が多い。
それのどこが間違いなのだ?
卑弥呼が誰なのか見つけられないボンクラが「記紀に卑弥呼は登場しない」と言ってただけじゃないか。
それが固定観念になってるおまえはさらにボンクラだ。 >>96
卑弥呼がヒメタタラ=イスケヨリ姫だと言ってた人物を知らないか?
今探してるのだ。
図書館のレファレンスシステムを利用して聞いたが分からなかった。 >>99
いや安本説じゃあるまいし、それは無理だろう。 >>101
はいはい。時代遅れの昭和世代おつかれちゃんw 神武はいないんだよ、
頭のビョーインに行け
精神科 精神病院 コジキが、ふざけた事してんじゃねーぞ!
と言っている人がいたでしょ 存在しないと書いてあるでしょ、
頭の病院に行ったほうがいいぞ
その病院や施設から出てこないほうが良い 何度、言えばわかるんだ
頭の病院に行け、精神病院というらしいけど、そこだよ 崇神が4世紀初頭、
大和朝廷開始が庄内0期=2世紀末
この120年というスパン自体が、
欠史8代も神武もいたと考古学的に証明できるわけだが、
にもかかわらず、昭和の糞ジジイがいまだに神武はいないなどと言ってる事が、
いかに滑稽で精神病院に近い状況なのかお分かりいただけると思いますwww >>105
はいはい。時代遅れの精神病院・昭和世代おつかれちゃんw そもそも崇神が四世紀初頭である証拠が無い
実在するかもわからない 10代崇神天皇の時代を4世紀初頭とする根拠は、古事記に「山邉道勾岡上」と記される10代崇神天皇有力墓である西殿塚古墳、
または行燈山古墳が、考古学的に広義の布留式前半(4世紀初頭)の蓋然性が高くなっていること、
また、吉備津彦の墓としか考えられない中山茶臼山古墳、
崇神に反乱を起こした武埴安彦の墓の可能性が極めて 高い椿井大塚山古墳、
先代旧事本紀に交野連と記されてるタベノスクネ の墓である可能性が 高い雷塚古墳(森古墳群)、
四道将軍ゆかりとしか考えられない会津・一簣古墳群など、
崇神時代の人物の墓もことごとくこの時期である。
また 日本書紀と古事記では初期天皇の没年干支が違うが、
例えば崇神前後の開化天皇や垂仁天皇の没年干支を記載していない古事記は、
すべて記 載している日本書紀と比べ、むしろ伝承しきれなかった事を正直に伝えており、
逆に記載されている崇神の没年干支は、それ自体が強く伝承されてきたと判断し、
その没年干支は充分信用できると考える。崇神の没年は、考古学とも照合し、西暦318年が妥当であり、
崇神天皇の在位を西暦300年頃からとみる。 崇神はその通りだろう。
神武は2世紀末、大和討伐の中心人物ではなかったし、天皇の地位もなかった。
事績が全く違うんだろうね。
九州南部出身で、卑弥呼共立に関与した、それくらいだろうね。 >>114
まったく同じ意見。
神武の時代は魏志に書かれてるように女王国であった。
それを悟られてはいけないから神武東征を特筆大書して猛々しい男王のイメージを創った。
そういうことだろうね。 しかし、ヒミコ最有力候補がモモソ媛だという、この情けない現実。
4世紀初頭の崇神時代まで生きた人物が卑弥呼だなんて、もういい加減にしなければ。
しかもモモソ媛は寡婦の時期さえないわけだから。
卑弥呼が誰なのか分かりそうなものなのになぁ、
まぁ俺は分かったからこうしてスレを立てたわけだが。
しかしヒメタタラ説を定説にするにはその道のりは果てしなく遠い。 神武 ヒメ
綏靖 ヒメ
安寧 ヒメ
懿徳 孝昭 トヨ
孝安 トヨ
孝霊 孝元 開化
崇神
ヒメはヒメタタラ
トヨはアマトヨツ >>114
>神武は2世紀末、大和討伐の中心人物ではなかったし、天皇の地位もなかった。
討伐というか、ちょこっと隅に住まわせてもらった感じじゃないかな。
三輪山の神との関係とか見るとそんな感じ。
>九州南部出身で、卑弥呼共立に関与した、それくらいだろうね。
筑紫の日向は福岡だよ。
ただ、世嗣ぎではないから筑紫に居続けても無駄だったんだろう。
卑弥呼が天孫族ではないのに君臨していたという可能性を強く考えている。 >>118
>筑紫の日向は福岡だよ。
神武の先妻アヒラツヒメやタギシミミの痕跡は宮崎にしかない。
また宮崎神宮は崇神の代に社殿ができている。
したがって神武は宮崎。
福岡にそんな痕跡は皆無。 >>119
6代孝安までは葛城王朝だと思う。
7代孝霊は磯城の可能性が強いと思う。
当時の磯城(纏向を含む)を支配してたのはニギハヤヒの末裔である物部。
物部の女性であり天皇を産んだウツシコメやイカガノシコメが皇后を名乗る。 >>122
神武は九州ではウダツが上がらなかったから、足跡なんてない。 >>124
>足跡なんてない。
いや宮崎に神武の足跡(先妻や息子)があると言ってるわけだが。 とりあえず天孫族は博多だと思うけどな。
そうすると必然的に高千穂宮も福岡になる。 入れ替わった、入れ替わっている
というのは
ウマヤドか、
誰かの話だと思う
「俺はこいつと旅に出る」という曲 聖闘士星矢のスコーピオン?
なぜか自分の宮(家)を捨て、放棄して、
という謎の解説文があったり
ググってみると、
そういう謎の解説が載っているサイトがあった
他のセイントは、そういう設定ではない? 『太子流』
同じような手法だと思うよ、
本人にしか、わからないような流派
ガンダムのサングラスも同じ流派だと思う
他の人には認識することができない
しかし、わかる人はわかる 太子流と同じような流派、宗派
>シャアが自ら名乗らず、
>またノイズの激しいモニター越しであったため、
>ガトーはシャアと認識できなかった
それと『ボーボボ 田ボ』 >>131
肥国王家姫氏が徐福の末裔になってしまう。 >>126
どんだけ田舎者なんだよ。
恥ずかしくないかw
福岡って副葬品は最先端だが王墓らしきものが極めて希薄なんだよ。
せいぜい平原くらいじゃないか。
その平原も吉備の楯築遺跡あたりに比べたら貧弱そのもの。
弥生時代に群を抜いていたのは出雲、そして吉備。
それが大和に移る。 >>131
アー アナタ ジャカルタ カエル カエル
ジャカルタタイワン カエル カエル
アナタ ニホン デテク デテク
ニホン デテク デテク デテク デテク デテク デテク デテク >>133
どんだけ無知なんだよ。
弥生時代の王墓は九州北部が圧倒的だろう。
出雲や吉備を征して倭国の盟主となるのが筑紫だよ。
大和に移るのはそのあと。 >>135
例えば平原以外にどんな墳丘墓があるの?
周溝墓より墳丘墓の方が位が高いと見るよね、普通。 >>135
>出雲や吉備を征して倭国の盟主となるのが筑紫だよ
あのね、纏向石塚の前段階だけで見ても、
筑紫の平原は吉備の楯築より圧倒的に貧弱。
副葬品だけは立派だが。
でも楯築は盗掘うけてるだろうからあまり関係はないと思うね。 >>137
そもそも、文化が違うのに、同一条件で考える事が問題外
墓の様相が同じだったら比較できるが、全く別文化なのは一目瞭然
副葬品も盗掘でわからん、というなら尚更比べられないだろう?
あれだけの副葬品のある墓が平原遺跡である、という事実、井原三雲からの継続的につづいている様相という事
それは楯築と全く違う様相だ、という事
それに、別の国なら優劣つけるのに意味は無いのだよ
倭国の範囲に吉備が入っているかどうかも怪しいのだから。 >>135
>出雲や吉備を征して倭国の盟主となるのが筑紫だよ。
言葉から考えると、同じ西日本方言でも近畿言葉と北部九州のことばはイントネーションからして全く違う
そのことだけ取っても近畿人が北部九州から移って来たという考えには無理がある。 >>138
はぁ?
それなら、
>出雲や吉備を征して倭国の盟主となるのが筑紫だよ
というお前の話と矛盾するね。
吉備も出雲も平原のような方形墳丘墓ではないのだから。
というか九州は西日本の王ではない。 >>138
>墓の様相が同じだったら比較できるが、
なるほどw
ならば九州にも前方後円墳ができるよね。
その前方後円墳のルーツは東瀬戸内(讃岐、播磨、吉備)だと判明している。
九州よりも早いわけだ。
ということは九州が吉備に指圧されたことを認めるのかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています