司馬遼太郎 Part8 [無断転載禁止]©2ch.net
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司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきつつ読み進めてまいります。
Part8からは「ひとびとの跫音」が始まります。
前スレ
司馬遼太郎 Part7 [無断転載禁止]©2ch.net
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1488372192/ それは子規と律の関係を述べたところに、散々書いてあった。 >>797
にわか雨に遭って走りだすというのは中間や小者のすることであり、武士のすることではない。
その点、明治以前から続いてきた士族の躾をうけた最後の世代に忠三郎さんは属していた、といわれつつ忠三郎はフォームを走り回っていたのか? ★伊丹−遺物
▽加藤ひさ〔>>61〕
松山で教会関係の人を養子にした。
忠三郎という天理教に無縁の実子など、彼女の配慮の埒外に属した。 ▽加藤拓川の収集癖−盃と硯
▽重松清行
明治17年 - 昭和28年 地方政治家。
元蔵相勝田主計の随員として欧米を一巡したのがきっかけで市会議員になり、5代目松山市長に加藤恒忠の引っぱり出した。
加藤は当時病弱で、これを補佐する助役となって敏腕を振った。
加藤市長没後、助役を辞して上京し、加藤恒忠の伝記『拓川集』の編集刊行をやったり、帝室博物館の復興をやってのけた。
本章では、拓川の収集癖を語る人物として登場する。 ▽高浜
愛媛県松山市高浜町。
東京芝に自宅のあった加藤は郷党から松山市長就任の要請をうけて郷里に帰り、高浜に新居を構えた。
海を眺めることのできるその新居を加藤は「浪の家」と命名した。
※高浜の海岸からの風景(興居島・四十島)
https://blog-imgs-58-origin.fc2.com/y/o/m/yomodado/DSCF1558_convert_20130425152444.jpg ▽丹波市町〈たんばいち〉〔>>443〕
▽天理教
江戸時代末に成立した新宗教の一つ。中山みきを教祖とする宗教団体である。
一般教会は、主に中山みきの生前に信者により結成された講社をその端緒とするものであり、布教の系統にしたがって設置され、その規模に応じ大教会及び分教会と呼称される。 ▽天理教松山分教会
愛媛県松山市平和通4丁目2?2
https://geo1.ggpht.com/cbk?panoid=Bn9nF2-GAD8dBV7mHEZdDQ&output=thumbnail&cb_client=search.TACTILE.gps&thumb=2&w=408&h=200&yaw=351.0005&pitch=0&thumbfov=100 ▽子規庵
「昭和16年の律の死後、ひと手にわたった」と書かれてあるが、律の生前に律が所有していたわけではない。
子規の自宅は借家で、土地・建物の所有者は加賀前田家。
内藤鳴雪、中村不折、伊藤左千夫、河東碧梧桐 高浜虚子、寒川鼠骨等が設立した子規庵保存会が、大正14年7月に前田家より子規庵土地建物及び隣地土地建物を購入している。
正岡律は財団法人子規庵保存会の理事ではあるが、子規庵土地建物の所有者ではない。 養母律が、子規の死後、ながく守ってきた根岸の子規庵も相続しなかった。
なぜそういうぐあいになったかについては、法律に昏い私には幾度きいてもわからない。
「えっ、先生、ほんとうにお分かりになりませんか?」
「えっ、あなたは分かるのですか?」
「え、……ええ、……まあ」 忠三郎さんそのひとに、子規庵の所有権をめぐって他人と争うという気がなかった。
それもそのはずである。
子規庵所在の土地取得、家屋建築費を捻出のため、寄附を募ったのは保存会なのである。 ▽伊丹の自宅
戦後、宅地地主や家主が、財産税、あるいは家賃統制に関する法令などとの関係から、住んでいる借り手にそのまま買い取ってほしいという交渉が、あちこちで行われた。
伊丹の正岡家の場合、忠三郎に金がなかったので、あや子の実家の野上家〔>>23〕が出した。 ▽夏目漱石が子規に送ったクリスマス・カード
1882年に建てられたネオゴシック様式の王立裁判所を描いたクイントンの水彩画。
漱石の絵葉書と同一のものかどうかは知らない。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/d7/f605cf5739fdb93c0525cc4b55477bea.jpg ▽ハトロン紙
オランダ語のpatroonpapier。薬莢用の丈夫な紙。
薄茶色の丈夫な西洋紙。包装紙や封筒用紙に使う。
http://blog-imgs-11.fc2.com/t/o/r/torahanko/060926hanko2.jpg ▽富永太郎の髪
大正14年、代々木富ヶ谷の両親の家で永眠〔>>302〕。
※大岡昇平〔>>309〕『富永太郎 ー書簡を通して見た生涯と作品ー』〔>>312〕 >>818
>とらげられていた。
意味がわかりません? 広島弁講座 【とらげる】=しまう、納める、片付ける。
「本を とらげんさい」 ▽ユスティチア(ユースティティア)
ローマ神話に登場する女神。 ギリシア神話では女神テミス。
名前はラテン語で「正義」を意味し、英語形ジャスティス (Lady Justice) でも知られる。
正義の女神であることから、裁判所などでは、天秤と剣を手にし目隠しをしたユースティティア(あるいはテミス)の像 (Statue of Lady Justice または Statue of Jusctice) を飾る習慣がある。
法学部の学生におなじみの女神である。
http://livedoor.blogimg.jp/cookpine-maestrocollection/imgs/e/6/e62e3292.jpg ▽天理女学校〔>>449〕
大正9年、4年制の天理女学校が開設された。
これが大正12年に5年制の天理高等女学校となった。
昭和23年の学制改革に伴い、天理中学校及び天理高等女学校が統合され天理高等学校(男女共学)となる。
本章では、加藤たへが母ひさによって無理やり入学させた学校として登場する。
http://www.pocketbooks-japan.com/images/products/xe5001-9999/xe8222.jpg
http://uub.jp/47/nara/nara_map1.png ▽加藤あや
拓川の長女。結核を患い、高浜の家〔>>803〕で死んでいる。
忠三郎より2歳下。たへより4歳上。 ▽司馬の先輩の夫人
加藤あやの小学校の同級生。
聖心女学校に在学中、あやの妹たへと再会する。 ▽たへの学資
ひさの実家である樫村家〔>>453〕で面倒をみていたのではないかと司馬は推測している。 ▽聖心女子専門学校
東京都港区にある専修学校。
平成27年度より英語科を募集しない、平成29年度より保育科も募集はしない。おそらく廃校する。
安倍晋三総理大臣婦人の昭恵は、加藤たへと同じ聖心女子専門学校卒。
https://www.senmon-navi.com/sc_img/268459/pr_main.jpg ▽聖園テレジア〔>>450〕
たへを養女にした。
加藤家の祭祀を嗣ぐ者がいなくなったので、ひさは養子をとった〔>>801〕。 ▽母子寮
働く母親と婦人の休息所として、このほど全国でも珍しく《母子福祉センター》が神奈川県藤沢市の社会福祉法人聖心愛子会(会長:聖園テレジア)の手でつくられた。
ここは山あり谷ありの絶好の地で、聖園子供の家(養護施設)、聖園ベビーホーム(乳児院)、聖園母子ホーム(母子寮)などの施設がある。
……『助産婦雑誌』1964/3/1号の記事から
※聖園女学院附属聖園幼稚園
http://c.rakuraku.or.jp/img/upload/img_fac_505.png ▽フィリピン進攻作戦
フィリピンは1899年以降アメリカの植民地となっていた。
対米戦の基本構想としては、開戦後速やかにフィリピン主要部を占領し、極東におけるアメリカ軍の根拠地を奪う作戦が検討されていた。 アメリカも想定される日本による攻撃からフィリピンを守るため、1924年にオレンジ計画を具体化していた。
だが計画には根本的な限界があった。マニラ湾の港には大艦隊を支援できる能力はないので、海軍基地は5,000マイル離れた真珠湾を使うしかない。
日本の基地はフィリピンから1,500マイルしかなく、日本は短期間に大兵力を送り込むことができる。
このような実情に合わせて、1936年に改定されたオレンジ計画(WPO-3)では、フィリピン全土の防衛は断念して兵力をマニラ湾周辺に集中する案が採用された。 だが、ダグラス・マッカーサー司令官はこの案に不満であった。
マッカーサーは1937年にアメリカ陸軍を退役していたが、1941年7月にフランクリン・ルーズベルト大統領の要請を受け、現役に復帰してフィリピン駐屯のアメリカ極東陸軍の司令官となっていた。
マッカーサーは、10個師団にまで育て上げたフィリピン軍と、アメリカ軍の最新鋭機の戦力をもってすれば、フィリピンの防衛が可能であると考えていた。
マッカーサーは、フィリピン全土の要所に兵力を配置する積極的な防衛策に転換した。 日本では1941年11月5日、御前会議で対英米蘭戦争が決定され、6日に南方作戦部隊の戦闘序列が下令された。
シンガポール攻略を重視する陸軍はマレーに重点を向け、アメリカ主力艦隊の迎撃を重視する海軍はフィリピンに重点を向けることになった。
シンガポール攻略に開戦後100日を要すると考えられたのに対して、フィリピンは45日で主要部を攻略できると判断された。
フィリピン作戦を担当する部隊として第14軍が編成され、司令官に本間雅晴中将が任命された。
http://burari2161.fc2web.com/DSC022521.jpg
http://www.matsuyomi.co.jp/img/6813_1.jpg 本間雅晴中将の指揮する第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。
しかし、アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。
45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。 しかし、1942年5月7日にアメリカ極東陸軍(ユサフェ)の全軍が降伏を宣言した。
既にダグラス・マッカーサーと共にオーストラリアに逃亡していたマヌエル・ケソン大統領は、その後アメリカ合衆国に渡ってワシントンにて亡命政府を建てた。
日本軍は従来までの統治機構を出来る限り活用しようとしたが、政治的決定の多くは日本軍に委ねられていた。
このような背景において、修道女と慰安婦の徴用が同時におこなわれ、フィリピンに送られることになった〔>>797〕。 東南アジア島嶼部地域の最も北に位置し、オーストロネシア語系のタガログ語をはじめ、多数の現を使用する部族に分かれ、漁労中心の生活を送っていた。
南部のミンダナオなどにはイスラーム教が伝えられ、またムスリム商人や中国商人なども交易のために来航していた。
1521年、マゼランの率いるスペイン艦隊の渡来以来、スペインの植民地とされ、19世紀末までその支配を受け、カトリックが浸透する。
19世紀後半にホセ=リサールによる独立運動が開始され、1898年の米西戦争の時に独立を達成するが、独立を認めないアメリカとの間の戦争を経て、アメリカ領となる。
第二次世界大戦後の1946年に独立を回復したが、アメリカへの軍事的従属を強め、国内ではマルコス大統領による開発独裁が続く。
1986年、「ピープルパワー」といわれた民主化運動が激化し、マルコスは失脚、民主化が実現した。
現在は東南アジア諸国連合の重要な一員となっている。 第15章 洗礼
廊下の天井には電灯が一つついているきりで、暗かった。
その電灯の下で鳥打帽をかぶったまま立っているタカジの姿が、大きな鳥の影のようにも見えた。
ただ一声、忠三郎さんの意識の底にとどかせようとするのか、
「忠三郎が死んでたまるか。――」
と、大きく叫び、そのまま姿を消してしまった。鳥のような唐突さだった。
タカジが、松井勲に対し、やかましくせきたてはじめたのは、このときからであった。 娯楽小説の範疇から大きく外れてしまった『ひとびとの跫音』は、強面な感じがして、はじめはとっつきにくかった。
しかし最終章の前まで読みすすめてみると、登場人物に対する愛着がふくらみ、離れがたい気分になってきた。
筆者の気持ちをそのように変えたのは、ユスティチア・たへがスーパーで買い物をする描写だったように思う。
修道女の暮らしというものを想像したことがなかったので新鮮だったというのもあるが、
世間離れしている修道女の存在がかわいらしく思えた。 〔命日が続く〕
昭和51年7月2日 松井勲
昭和51年9月10日 正岡忠三郎
昭和51年9月18日 西沢隆二
昭和51年10月2日 福田是定(しじょう)〔>>28〕 ★子規全集
▽タカジ
「子規全集を出したいんだ」
「忠三郎の生きているうちに最初の一冊でも手にとらせてやりたいんだ」 ▽陸羯南全集全10巻(みすず書房 / 昭和43年)
http://www.tengyusakai-shoten.co.jp/wp-content/uploads/2016/03/26fe0ab2d61c2e3b57bbbd9bcc0f345d.jpg
▽丘浅次郎著作集全5巻(有精堂出版 / 昭和43年)
丘 浅次郎〈あさじろう〉 明治元年 - 昭和19年。動物学者。
遠江国掛塚(現・静岡県磐田市掛塚)生まれ。父親が大阪造幣局勤務であったため、少年期は大阪市内で暮らす。
明治37年に日本の大衆向けに書かれた初の進化論の解説書である「進化論講話」を著す。
http://www.biol.tsukuba.ac.jp/tjb/Vol2No1/TJB200301II2fig4.jpg ▽Tさん
昭和39年に三菱銀行の頭取となる田実渉〈たじつ-わたる〉のこと。
旧制二高時代の同級生で忠三郎の生涯の友となった。
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/tajitu02.gif ▽聖公会
イングランド国教会 (Church of England) の系統に属するキリスト教の教派。
日本聖公会によると「聖公会はローマ教皇の教権と統治に逆らった点でプロテスタントであるが、使徒継承の信仰と伝統を護持する点でカトリック教会である」としているが、カトリック側からはカトリック教会とは見做していない。
本章では、田実渉が「三人の友」のなかで、ある聖公会の牧師を三人の親友の一人として挙げている。 ▽忠三郎の見合い
田実渉が「正岡忠三郎のこと」のなかで忠三郎の見合いについて述べている。
忠三郎は見合いの席でげろを吐き、「見掛けだけで他人を信用してはならないということを相手に教えてやった」と嘯いた。
相当な変人である。 ▽忠三郎の年始挨拶
陸四郎〔>>486〕
土居健子〔>>80〕 ▽高浜年尾
明治33年 - 昭和54年。俳人。高浜虚子〔>>201〕の長男。
東京都神田猿楽町に生まれる。「年尾」の名は正岡子規の命名。
小樽商業高等学校(現・小樽商科大学)時代は、同期に小林多喜二〔>>661〕、1期下に伊藤整がおり、全員でフランス語劇に出演したこともある。
卒業後、旭シルクに入社。のち転勤により兵庫県芦屋に転居。
※左端が年尾(右から二人目が虚子)http://www.kyoshi.or.jp/images/sekai2.gif ▽佐藤紅緑〈こうろく〉
明治7年 - 昭和24年。作家、俳人。
本人の意に反して執筆する事となった「少年小説」の分野で昭和初期に圧倒的な支持を受け、「少年小説の第一人者」として知られる。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/a/abcd1603/20170308/20170308102604.jpg
作詞家のサトウハチロー、作家の佐藤愛子、劇作家の大垣肇の父。
3人とも母は異なり、大垣肇は愛人の子供であり、同居はしていない。
紅緑は少年たちに理想を説く小説を書き続けたが、皮肉にも長男ハチローをはじめとする4人の息子たちは、すべて道楽者の不良少年・不良青年となった。
ハチローは詩人として成功したが、他の3人は、乱脈な生活を続けた生活無能力者で破滅的な死に方をした。
http://www.bs-asahi.co.jp/kodomonokuni/images/prg_002.jpg
紅緑は生涯、彼らの借金の尻拭いをし続けた。その有様は、娘・佐藤愛子の小説『血脈』に描かれている。
http://img01.noramba.net/usr/hayaoki1951/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%84%9B%E5%AD%90.jpg
佐藤紅緑が住んでいた家を買い取った阪神タイガースの初代合宿所は、協和寮と名づけられました。
本章では、高浜年尾と佐藤紅緑とは、忠三郎さんが年始の挨拶に出向く相手として記されている。 ▽Establishment
「社会的に確立した体制・制度」やそれを代表する「支配階級」をいう。
政治学では、政治を「エスタブリッシュメント間の抗争」と捉える。 ▽久保田正文
明治45年 - 平成13年。小説家、評論家。
長野県飯田生まれ。日本大学藝術学部教授を経て、大正大学文学部教授。
石川啄木、芥川龍之介、石川達三についての論、正岡子規評伝や短歌論がある。
また文庫解説を数多く執筆した。 ▽和田茂樹
明治44年 - 平成20年。
愛媛県松山市出身の国文学者。愛媛大学名誉教授。
正岡子規に関する研究だけでなく、郷土文学研究に功績を残した。 ▽蒲池文雄
愛媛大学教授。歌手の松田聖子は親類である。 ▽監修者−4名
正岡忠三郎
大岡昇平〔>>309・>>312〕……富永太郎の書簡は、忠三郎が所有していたものを閲覧した。
ぬやま・ひろし
司馬遼太郎 ▽明石市大久保
大岡昇平は昭和20年1月、レイテで米軍の捕虜になります。
そして昭和20年12月、妻子が疎開していた兵庫県明石市大久保に復員します。
『俘虜記』もここで書き始められたのである。
http://p-ookubo.com/img/tmp-aboutphoto01.jpg ▽「俘虜記」
大岡昇平が昭和23年、文芸誌「文学界」に発表した小説。
太平洋戦争中フィリピンの山中でアメリカ兵を目前にしながら「射たなかった」私の心の動きを中心に、自分が何者であったかを精緻なまでに自己検証した。
冒頭いきなり〈米軍の俘虜となった〉と記した。それは〈生きて虜囚の辱めを受けず〉という戦中の「戦陣訓」に対抗する端的な戦後の宣言だった。 ▽神戸三宮の闇市
終戦の年である昭和20年8月の終わりごろ、三宮高架下に中国人が揚げ饅頭を1個5円で売りだしたのが、神戸におけるヤミ屋の一号とされています。
その後、食べ物の立ち売り人の数が増え、握り飯、蒸かし芋などが売られるようになり、天候に左右されない高架下に群集が満ち溢れ、やがて、三宮高架下から神戸駅までの約2キロに及ぶ日本一長い闇市が出現しました。
http://livedoor.blogimg.jp/mukashi_no/imgs/4/0/40e979bc.jpg
http://img.yaplog.jp/img/07/pc/o/s/u/osuman3/3/3272.jpg
本章では、大岡昇平が正岡家を訪ねたとき、あや子が闇市見物に出かけていたと叙されている。 ▽勝光院
世田谷区桜にある曹洞宗寺院。
旧世田ヶ谷村の字桜木と呼ばれた地域に位置し、現在の桜の区域全体はこの寺の寺領であった。
http://www.tesshow.jp/setagaya/images/sakura_shokoin2.jpg
松井勲の葬儀は学生時代に下宿していた勝光院で行われた。 ▽駒井皓二〔>>94〕
松井勲から子規全集の仕事を引き継いだ講談社の従業員。 ▽郵便貯金会館
松山市道後姫塚123−2に所在する格安ホテル。
現在は、「メルパルク松山」と呼ばれている。
「道後温泉本館」から約5分。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictM/00324172.jpg
本章では、松井勲が編集委員の和田茂樹〔>>862〕に仕事の督促をするために松山を訪れた際に宿泊した旅館として登場する。 ▽共立学校〔>>517-519〕
秋山真之の書簡から「共立」の読みが、キョウリュウではなくキョウリツであることを、松井勲が発見した。
国文学者の和田茂樹は、傍で「ほほう、そうかね」と言ったきりであった。 ▽ある日の来訪者
句会の句のなかから自分の亡父の句だけを削ってほしいと慇懃に要求した。
しかし、その来訪者の真意は金欲しさであった(忠三郎談)。 来訪者の名前が伏せられているということは、公務員か在日だな。 ▽著作権
著作権の原則的保護期間は、著作者が著作物を創作した時点から著作者の死後50年までである。
しかし、自筆稿を閲覧する場合、その保有者が閲覧を許可しなければそれまでである。
「法的には何も根拠がないと思います」と司馬も松井勲も述べている。
しかし、これは誤りである。
著作権法ないし文化財保護関係の法令に特別の規定がなければ、所有者は所有物を自由に使用・収益・処分できる(民法206条)。
子規の自筆稿の所有者は、それを他人に見せたくなければ断れるし、金をとって見せることもできる。 ★ユスティチア・たへ
▽チェラタ
ユスティチアの妹弟子。壮齢の活発な修道女。
関西医科大学〔>>773〕を中途退学している。 ▽浮世ばなれ
修道女にとってスーパーマーケットやレジスターは物珍しいものであった。
サンダルを購買するときは、子供が玩具売場で迷うように容易に決まらない。
※サンダル履きの修道女
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/da/692603d25e300d341919b64e0a5e7a52.jpg ▽浮世ばなれU
兄の友人が訪ねてくると、修道女である妹は、入浴を勧める。 ▽兵庫県立総合リハビリテーションセンター
昭和45年3月20日、忠三郎は洗礼をうけヨゼフとなる。
※ヨゼフ
ヘブライ語起源の人名。初出は旧約聖書の創世記。
ヤコブの妻ラケルが初めてみごもって男の子を産み、神が彼女の恥をすすいでくださったこと(yosep)にあやかってヨセフ(Yosep)と名づけたとされる。 ▽阪急沿線の教会の若い司祭
忠三郎に洗礼を授けた神父。
※洗礼
キリスト教で、信者となる時の儀式。
12世紀頃までは全身を水に浸したが,今日では頭部への灌水が一般的。 ▽兵庫県立総合リハビリテーションセンターの婦長
「親族に面会をさせないというのが規則ですから」とアウシュヴィッツの看守のような口調で洗礼を拒否する。 ▽兵庫県立総合リハビリテーションセンターの所長
「公共の施設のなかで宗教行事をおこなうことは建前としていいとは思いません」と政教分離(憲法第20条1項後段、3項、第89条)に配慮はするものの、「洗礼ならばかまわないでしょう」と『大脱走』のフォン・ルーゲル大佐のような甘さで許してしまう。
https://pbs.twimg.com/media/CzeCI5sVIAEzP8x.jpg ▽終油の秘蹟
古代から行われていた病者への塗油は、時が経つにつれて臨終にある者に対してのみ行われるようになったため「終油の秘蹟」と呼ばれるようになっていた。
しかし、第二バチカン公会議後の1972年に秘跡の由来と本来的な意味の見直しが行われ、対象を臨終のものに限らず行われる「病者の塗油」という名前に改められた。
https://veneremurcernui.files.wordpress.com/2012/05/extreme20unction-001.jpeg
本章では、入院中の忠三郎に「終油の秘蹟」が授けられた。 「終油の秘蹟」のときに、タカジの>>845の叫び。 第16章 誄詩
誄詩はやや長かった。その冒頭だけを、私は記憶している。
記憶しているまま、句読点は不明ながら、掲げておく。
死ぬということは
もう会えないということだ
それから上でもなければ下でもない
だから悲しいんだ ▽ぬやま・ひろし
「野山」を「ぬやま」と読んだのは、獄中で精読した『万葉集』の影響。
『万葉集』に出てくる東国なまり。 ▽明治34年
「瓶にさす 藤の花ぶさ みじかければ たゝみの上に とゞかざりけり」(子規)
意味的には、まことに他愛のない歌であり、あらためて考えてみると、この歌がなぜこれほどまでに人口に膾炙しているのか、よくわからない。
この一首がしばしば引用されるのは、斎藤茂吉、島赤彦をはじめとする「アララギ」同人たちにより、「写生」を標榜するために繰り返し引用されてきたことによるのだろう…
本章では、タカジが好んだ子規の一首として紹介されている。
https://t.pimg.jp/015/797/896/1/15797896.jpg ▽伊勢へ一泊旅行
昭和50年暮。幹事は須田剋太。
タカジはNHK紅白歌合戦を観るために29日に東京に帰る。 ▽数寄
古くは「すきもの」とは和歌を作ることに執心な人物を指したようであるが、室町時代には連歌が流行し、特に「数寄」が連歌を指すようになったとされる。
さらに桃山時代には富裕な町衆の間で茶の湯が流行し、「数寄」も連歌から茶の湯へと意味を変えている。
このため江戸時代には、数寄のための家「数寄屋」も茶室の別称として定着する。 「数寄」とは本来「好き」の意味であり、特殊な当て字として流布している。
専門業とはせずに何らかの芸事に打ち込む様を、特に「すき」と称している。
現代の俗語としては「あんたもすきね」「ものずき」などに通じる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています