邪馬台国畿内説 Part253 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1500745430/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
乃ち布留0期にあるとみることが出来よう ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
箸中山、行灯山並びに渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があり、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期に中国製威信財の入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である ◆5(倭国の形成と気候変動)
南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、
東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている
それが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型並びに楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
(この項続く) (続き)
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していることと、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料を突合すると、
対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題ない
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである
水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
魏使は九州を出ていないではないか
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか
A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる
A:誰も纒向遺跡=邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
信頼できる基準ではないか
これに基づいた里程論で邪馬台国は
九州島内に求められる
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く
A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
これは信用ならない
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)と土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない
箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している
方丘築造が後出であるという判断は
箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で
前方部盛土に遮られる形で消失していること
椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で
前方部に盛土がないこと
等による ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか
A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
卑弥呼の墓があるのは九州だ
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
弥生絹があるのは九州のみ
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる
九州説にとって不利な条件と言える ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
箸墓の築造と時間差があるだろう
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、並びに初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
伊都国は隆盛のさなかである
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿並びに禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である
弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)
これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)並びに庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
国産に決まっている
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果である可能性が認められる
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認されている(金原2011)SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯もしくは圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)が共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する微高地上の遺跡とされている
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない
(この項続く) (続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿る遺跡群として極めて重要視されている ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である
「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない
上古音nagが順当であろう
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある
建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点も、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ15,23を修文、◆FAQ49,50 長すぎ
さて下記Aの出典ぐらい述べよ
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す >>◆FAQ 50
>建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点も
スレ主の勝手な想起。 根拠無し。 このテンプレはスレ主の妄想を記したものだから、そのつもりでよろしく これ誰のカキコミ?スルドイ奴だ。
705日本@名無史さん2017/07/21(金) 07:28:23.25>>706>>752
>>3
>その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
>このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
>また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
>この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
>乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
記紀を参照しながらも、直接引用をせず批判をかわそうとする姑息なテンプレ。
それをくどくどと文字数だけ増やして、まとめる能力がないというよりも、洗脳のためむしろ長く書きなぐってある。
これは学問ではなく、カルトや詐欺の文書だよ。 さすがに>>53のイチャモンは発狂してるとしか・・・ >>55
>このテンプレはスレ主の妄想を記したものだから、そのつもりでよろしく
いいこと言った!
その通り! テンプレ嘘くさい
20年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」の
テーマをもって発掘作業に従事してきたひとが
逆のことを言ってる
最近、考古学関係者が近畿地方の弥生時代中期・後期について
語るのを良く目にするようになった。
その内容もだいたい同じで、近畿の弥生社会は階級意識の
欠如した社会であって、突如、巨大な古墳が出現する古墳時代とは
どうしてもつながらないとする意見。
中には、元桜井市教育委員会の清水眞一氏のように、
「私は、過去20年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」の
テーマをもって発掘作業に従事してきた。
別の地域の人が入ってきたと考えざるを得ないような状況であると見た。
ではどこから来たのか、考古学の史料からは特定の地域は限定できない。
とすれば、卑弥呼の邪馬台国は北部九州のどこかではないかと思われる。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku257fig2.htm#fig1
こういう意見も出てきている 252の>>783
>ホントの事言っちゃうとこれさ、皇国史観で朝貢がどうのじゃなくて九州も外国扱いで、
新羅と結んだ磐井の乱とか白村江後に記紀神話で九州島自国に編入したりとかしてるのも有るけど
戦前戦後の考古学が半島に配慮したんでおかしくなってると思うよ。
この文、ファビョられるに1ウオン。<
ダメだよ。
大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったのであり、
倭国は、倭王武の頃までに「東征毛人五十五國」して、倭王武は「倭武天皇」とも呼ばれたんだよ。
そして、大和が倭国を併合吸収継承したのは、ようやく白線江の後の事。 >>65
百済ないねえ
日本に教えたと主張するが、証拠になる元の物が何も残っていないので、
日本の物を見て、こういう物を教えたんだと思う馬鹿朝鮮。
百済は木造多重塔を作る建築技術が無かった可能性が高い
http://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?tname=exc_board_68&uid=123936&fid=123936&thread=1000000&idx=1&page=1&number=154&f=j_subject&word=%E7%99%BE%E6%B8%88
(写真がみられなくなってる 各自、検索してみてくれ )
朝鮮半島がこんな有様なら
法隆寺などの優れた文物がどこから来たのか??
それは、九州以外ありえない… 252の>>792
>>ずっと早くから楽浪系瓦式土器のような「陶器」的土器が伝わって来ており、
陶器と弥生土器や土師器との共存が幾つも発生しており、<
>これは瓦質土器をウロ覚えで間違えてるのかな 須恵器とは全然別のものだよ<
まず最初に、祇園山発掘報告者の問題点は、
「須恵器」と呼んだ土器の発掘場所や、
「須恵器」という判断根拠を、はっきりさせていない報告をしたから、
「須恵器だ」という説明が根拠にならない、という事。
また、中国では、「黒陶、灰陶」の伝統があるから、
大陸からの渡来系倭人や、楽浪住民らは、「陶器」を知っていた可能性がある、という事。 纒向は、卑弥呼がいた大集落。
邪馬台国はヤマト国、大和盆地一帯だな。
狗奴国から奪った地であり、対狗奴国の一時的な前線基地。
元々はそれだけの意味しかない。
民を教化し、王に忠誠を誓うようにするのが卑弥呼の役割。
纒向は、巨大な兵の駐屯地であり、民が住む大集落であり、教化システムでもある。
古墳時代にこの兵を使い全国平定を進めるんだな。(四道将軍)纒向が4世紀に突然消失し、武器が殆どでないのも説明がつく。もぬけの殻。 252の>>852
>倭人伝の南を東と誤認の古文書は無い
スレ主も変なの持ち出しかな?畿内説で南を東にするのは誤記か転写間違いが良い。<
「南→東」の確率は0,5%以下であり、全くないから、
「畿内説で南を東にするのは誤記か転写間違い」とする事も、
全く良くない。 252の>>853
>ブーーーー 海遊録読んだが、一切触れてない。 申維翰が誤記したのだと思う。
南→東は誤記か転写ミスは賛同・・これ以外あれば、教えて欲しい <
ブーーーー 。
三国志での、
類似文字間の転写ミスでも、発生確率は0.5%位。
「南と東」は、全く字形も意味も違うから、
転写ミスの発生する可能性は、0.5%よりもはるかに少ない。 252の>>874
>日本書紀の神功皇后記では、卑弥呼は大陸とも交渉した偉大な女王ということからか、
卑弥呼とは神功皇后のことであり、また、邪馬台国は大和であると示唆している。<
記紀は、始めから「倭国の存在や歴史」を否定抹殺して、
大和の歴史の中に盗用しようとしている半分偽書であり、
そのままでは、歴史での学問的な論拠には、ならない。
>古事記記載の祟神天皇の没年干支(戊寅の年)をもとにすると、祟神天皇は258年に亡くなった。
卑弥呼が没したのは、248年ごろと考えられるので、祟神天皇の時代は、ほぼ、卑弥呼の時代である。
祟神天皇の時代に巫女として活躍した倭迹迹日百襲姫こそ卑弥呼のことである。
また、倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓が、卑弥呼の墓である。<
「南≠東」であるから、倭人伝の卑弥呼は、始めから大和に存在しなかった。 252の>>875
>朝鮮から邪馬台国にいたる行程記述は、、伊都国以降も一直線に繋がったもの(順次式)と見るべきである。
不弥国から東は、船で行った。航路としては、瀬戸内海ルートだけでなく、日本海ルートを通った可能性もある。
この場合、投馬国として、出雲や但馬を比定する。<
魏志では、邪馬壹國も投馬國も、「不彌國の南」と書かれているから、
「東」になる出雲も但馬も大和も、✖。 >>66
五教博士を連れてきて皇族の家庭教師とした。
聖徳太子は工具とそれを扱える荒神 252の>>877 (長くなったので分割)
>朝鮮通信は関係ない。なぜかような根拠が出るのか不思議。 畿内説の方位の考え方の代表的な物は以下。
倭人伝の邪馬台国の方角の記述には、写本時の写し間違いがある。<
類似文字の写し間違い例でも0.5%であるから、
「南と東」のような全く字形も意味も違う文字の写し間違いの確率は、
ほぼ0%。
>不弥国から南へ行くと投馬国、さらに南に行くと邪馬台国という記述を、そのままたどると九州南方の海の中に行ってしまう。<
行かない。
投馬國は、途中移動の動詞が書かれていないから移動はなかったのであり、側副傍線行程説明。
女王の都は、行程での移動距離の合計と「自郡至女王國萬二千餘里」との一致に拠って、
不彌國のすぐ南にある事になる。
>正しくは「東」であるのを、誤って「南」と書いたと思われ、「南して」を「東して」に読み替えるべきである。<
この投稿子も、嘘つきダマシの「結論先にありき」の・・・・サギシ。
>こうすると、投馬国は瀬戸内海のどこかであり、瀬戸内海を船で行き、10日後に山陽のどこかに上陸して、 その後、陸行1月で大和に着いた、と理解できる。<
南≠東だから×。 >>75
誤爆
工夫を輸入した。
五教博士は蘇我馬子邸にいた。
遣唐使を送り、大和に初めて上った中国人
裴世清は倭都は人も都市も中国と変わらないと述べた。 252の>>877 の続き
>当時の人々は太陽が昇る方向を東と考えていた。船の航行が容易な夏の季節には、日の出の方向は、時計と反対まわりに45度ずれる。
だから、南は実際には東南である。<
嘘を付くな。
周髀算経は、日の出だけではなく、「日の入りと日の出の両方で東西を決めている」から、
何時であっても45度はずれない。
> 不弥国から邪馬台国まで水行30日というのは、当時は、邪馬台国まで1月かかったことを意味する。<
「女王之所都、水行十日、陸行一月」であるから、「水行十日、陸行一月 」は「女王之所都」の説明になり、
「從郡至倭〜女王之所都」になる。
>平安時代の記録に、平安京から大宰府までの公定所要日数が30日とされていることも、これを裏付ける。
15世紀の「混一彊理歴代国都乃図」に描かれたように、中国では、日本列島を東西に伸びているのではなく、九州が北に、本州は南にあるような、南北に長く伸びているという認識があった。
それゆえ、倭人伝の編者陳寿は、不弥国からみると、東にある大和を、南にあると思い込んでいたのである。<
後代文書や記録は、3世紀の魏使らの実地での計測記録を、覆せるようなものにはならない。 『鷹の像』
調べてみるとわかると思うけど、
その写真も出来すぎている?
あの先祖の写真なんかも、
何なんだろう 252の>>880
>なお、畿内説は九州王朝?は否定していない <
ダメだ。
大和は、
「倭国の盟主が九州王朝であった」という事を否定し、
「大和が、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であった事を否定している。
>倭国の大乱は、九州地域内の紛争ではなく、畿内と北部九州の二大勢力の戦いである。<
当然九州倭国内の戦いである。
>九州から瀬戸内海全体、さらには畿内にまで広がる高地性集落が、
倭国の大乱が全国的な戦乱であったことを物語っている。<
関係がない。
「自昔祖禰・・・東征毛人五十五國」の結果である。
>倭国では、大きな戦乱は3回あった。第1回は2世紀後半の倭国の大乱、2回目は3世紀中ごろの邪馬台国と狗奴国の紛争、3回目は卑弥呼の死後直後の倭国内の戦乱である。<
それも、大和には関係がなく、九州内の戦乱である。 252の>>886
>畿内説に賛同 テンプレは一個人の意見 テンプレへの反論でなく、畿内説への反論は相手する
九州説は明日までに反論、まとめておけ
少し助け舟を出してやるが1は「口は災いの元」を心得よ<
また、「南→東」の嘘つきダマシの・・・・サギシが現れたらしい。 252の>>893
>各説、お互い切磋琢磨し真実を探求するのが邪馬台国論争 少し逃げ道を作っておくのが俺流
確信なんて、学者や研究者の誰も持っていない だから説 <
元々、自然や歴史は、殆どが不可知なのであるんだから、
僅かに確認された史料事実や考古事実からの「帰納的な確率的推論」が、
最も確信根拠になるもの。 老婆が言うには
むかーし、住んでいた家には、
本や書が、ずらーっと、沢山並んでいたんだよ
と言っていた >>68
>纒向は、卑弥呼がいた大集落。 邪馬台国はヤマト国、大和盆地一帯だな。
狗奴国から奪った地であり、対狗奴国の一時的な前線基地。元々はそれだけの意味しかない。
民を教化し、王に忠誠を誓うようにするのが卑弥呼の役割。
纒向は、巨大な兵の駐屯地であり、民が住む大集落であり、教化システムでもある。
古墳時代にこの兵を使い全国平定を進めるんだな。
(四道将軍)纒向が4世紀に突然消失し、武器が殆どでないのも説明がつく。もぬけの殻。<
「南≠東」だから、始めから×だな。 >>75
>五教博士を連れてきて皇族の家庭教師とした。 聖徳太子は工具とそれを扱える荒神<
書紀の「聖徳太子」は、厩戸と善光寺との往復書簡に拠って、
書紀の「でっち上げ」であり、「タリシホコの治績の盗用」である事がはっきりしたから、
書紀の聖徳太子の記載は、根拠にはならない。 倭人伝では地理的に、女王の都が二つある。
九州北部二十数か国連合、共立の卑弥呼の都はそれらの南端で狗奴国の北。
もう一つは、政張が行っていない
伝聞では、水行20日の投馬国から水行10日陸行1月の女王の都。
これを、混同したママ記した編者が無能なのである。
卑弥呼の王権は世襲制ではない、軍事的にも脆弱な、筑紫地域の宗教上の神長官。
首都にある一大率が大和政権が置いた行政上の進駐軍であった可能性は有る。
吉野が里に銅鐸が出たなら、この時期に中央とつながりが有るのはそこだ。
倭の5王は皇統に比定し得るけれど、南朝の使者は大和に入れていない。
聖徳太子の裴世清600余年以前に大和の風土を記述した中国史書は無い。
唐の正規軍を九州に留めた天智天皇は君子であったwww
瀬戸内海航路は現代戦艦でも、渡れないだろうけど?
京都辺りが戦場になりそうだと、琵琶湖に逃げるのかw?
伊勢遺跡は多分出雲併合後の遠征とかで混乱の可能性での遷都じゃないかな。
対馬航路の独占と九州、半島外交が会心の出来だったんで纒向に戻った?
神功皇后が自分で戦争行くとか、記紀は絶対的ホラッチョ本だと思うね。 >>78
つまり周髀算経なんて
誰も使ってないというわけ 経歴詐称親父の小便で着色した聖典を崇めてる連中だから仕方ない ヤクザや暴力団関係者でもない、
付き合いもないのに、白い服を着ていた?
神職か僧だったのかな >阿波説の弱点は7万戸だけ??阿波の範囲はもっと広いと思う
>倭人伝に基く物証は畿内より多い
阿波丹山だけで十分証明されているが、以下は補足。
@倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
四国東部は帯方の東南に当たり、四周が海 山や島に人が居住し国を為している
A今倭水人好沈没捕魚蛤
徳島県南部海部地方などに古くから見られる漁法(海人の素潜り漁)
B文身亦以厭大魚水禽
入墨(文身)を表した土製仮面(顔面全体に丸い道具で突き刺した模様がある)が出土している
C種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
吉野川中流域(旧麻植郡)は古来より麻や桑を栽培し、古来より大嘗祭で麁布を調進している
D倭地温暖
徳島は黒潮が近くを流れ、温暖な地である
E其木有{木冉}杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠幹桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有爾猴黒雉
特に、橘は徳島県南部が古くからの産地である
F女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
徳島の東の海(紀伊水道)を渡る千余里で倭種国(紀伊半島)が位置する
G問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
徳島は離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる
H直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤
鳴門の萩原墳墓群などに中国産の真朱が使われている
I女王国への行程記述 >>93
I女王国への行程記述
帯方郡から水行10日陸行1月である I女王国への行程記述
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】 豊後水道 水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日(太平洋ルート)又は陸行1月(旧土佐街道) 途中、阿南の若杉山辰砂採掘現場視察
女王・卑弥呼のおわす《邪馬台国 阿波》到着(七万戸)
↓【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)
女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり 女王国への里程
帯方郡から1万2千里
女王国への行程
帯方郡から水行10日陸行1月
混ぜるな危険 >>68
すべての行がおそらく誤りと思われるすごい文章。 >東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえないこと。 >>100
>・・・をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない
説明してるけど?
過去の栄光だって
w 学者にとって邪馬台国は
調査費を捻出するための打ち出の小槌でしかない
纏向遺跡も発掘前から邪馬台国でないことは分かってた
邪馬台国にある筈のない馬具が出ても邪馬台国の可能性が高いと言い張り
NHKも同じく乗っかった
纏向遺跡ほどの歴史的に価値のある遺跡を調査する事は大切な事だが
やり方は汚いと思う >>99
伊都国に歴代王墓なんてないだろ
あるなら遺跡名を言ってみろ >>101
どこで説明している?
どうせ屁理屈をだらだら述べているだけだろうけど。
畿内からは九州のような威信材が出土しない。 >>102
そんな妄想で中傷をたれ流すのは頭の狂った人だな >このテンプレはスレ主の妄想を記したものだから、そのつもりでよろしく
いいこと言った!
その通り! キウスが日本語を読めない証拠は>>53
これは動かぬ証拠だな >政治的には維新の会が自民党寄りの発言が多く見られますが
>阿波説も畿内説に飲み込まれないように祈る
倭国(阿波)は大和朝廷の本貫地 邪馬台国畿内説など有り得ません @阿波 それにしても老婆だよ
ジングルベル?
冒頭の部分だけ鼻歌、よく歌っていた
昔からだったのかな、
年を取ってからなのかな
もれ(仮)と兄「好きなの?」
老婆「ジンゴベーの歌だよ」
よくわからないけど、
刑事ドラマ?の再放送がやっていて、思い出した 魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
重要なのは、魏志倭人伝当時九州北部は女王国ですらなく、もちろん倭国でもないことである。 畿内説を政党に例えるならどの政党でしょうか?
@自民党
A民進党
B維新の会
C公明党
D共産党
E社民党
F幸福実現党
G日本(ニッポン)の心党
Hその他、日本第一党などお好きな政党をどうぞ 関係あるのか、無いのか、わからないけど?
『神護寺』 考古学はもういい。
ほどほどにするべきだ。
2世紀前半から3世紀後半まで存在したヒミコを生んだ王権。
日本人が彼らを忘れるわけはない。
それは日本の神話に残ってるのだ。
単純明快な人物だ。
だから80歳のおばあちゃんを納得させる事ができる人物なのだ。
〇〇命、〇〇大神
馬鹿くさい、そんなもの存在しないと君が一番避けて来た神話に残ってるのだ。
ヒミコとは「えべっさん(事代主)」の娘さんだ。
纏向にはいないからね。 >>122
80歳のおばあちゃんとか新たなネタを仕込んだな 納得も何も無いも、
以前から書いているけど
『伊達郡 菅野』
この辺りに住んでいたんだよ、
赤い橋の写真も貼ってあげるよ、
あの写真は、どこに行ったんだろう
ちなみに名前の読み方は「ス」のほう
捏造 偽造?するなと言っている人がいたでしょ >>122
「延喜式式内社 阿波國美馬郡 鴨神社」
鎮座地 徳島県三好郡東みよし(旧三加茂)町加茂字山ノ上3650
御祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)
市杵島姫命 品陀和気命 天照皇大神
「下加茂神社」
鎮座地 徳島県三好市三野町加茂野宮492−2
御祭神 玉依姫命
※玉依姫は、鴨神社の御祭神「 別雷神 」の母にあたる。 式内社「事代主神社」 式内社 「建布都神社」は、同じ阿波市にあり、『ともに日本唯一 阿波にだけ在る式内社』です。
式内社「事代主神社」が全国で阿波にだけ(島根にさえ無い)あるように、事代主命は阿波の人物でしょう。
同じく、建布都神(武甕槌神)も全国で阿波にだけ(島根にさえ無い)あるように阿波の人物でしょう。 川崎に来て・・・
かなーり経ってからだと思う、旅行?遊びに行ったのかな?
家に赤い橋の写真 畿内説は、学問である。
真実が都合の悪いものであっても、真実を追究する立場。
その点、テンプレは恣意的で事実を反映していない。
纒向は、発掘に携わった考古学者の言葉を借りると、
◎2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。
◎外部勢力の侵入を考えざる得ない。
テンプレはこの事実をあえて無視している。
纒向は、平和的な市ではないし、聖都でもない。
纒向の柵で囲まれた居館エリア以外は、掘立柱家屋、高床建物が立ち並んでおり民が多数住んでいた集落跡と考えられる。
魏志倭人伝に卑弥呼は『鬼道にて衆を惑わす』とある。
大勢の民が住む集落に居を構え、祭祀を行い民を教化する、これが女王卑弥呼の役割だったんだね。
祭祀を行い被征服民などを教化し同化を進める、様々なルーツを持つ人々が住んでいた当時の日本列島では必要なシステムだったんだろうと推測できる。 「邪馬台国と大%s比売命」
邪馬台国阿波説の論拠として、日本最古の書、古事記と魏志倭人伝の記述が一致する根源に、阿波は食物(五穀)を司る穀霊(おおげつひめ)の国であり、高天原の物語は、すべて阿波(おおげつひめ)が舞台となっている
http://www.genbu.net/data/awa2/ooawa_title.htm >>126
全く根拠がないが?
君は何がしたいんだ? >>128
自演爺さんまたナリスマシの新キャラですか
w 画像を貼らなくても、
わかる人いないのかな?
『赤い橋 出羽』
ここと同じような場所、右のほうに長方形の石があって、
文字が掘られている
文字のところは赤、朱文字? 橋が架かったので来てくださいという
招待状が届いた話とか
老婆が若かった頃の話なのかな 「倭大国魂神社」が鎮座する阿波国美馬郡は、貞観ニ年(八六〇)までは、現在の三好郡と、木屋平村を除いた美馬郡を合わせた七郷からなり、
徳島県の中西部に位置し、山地が九〇lを超える山処(やまと)の地。
旧美馬郡では、土(はに)の神を祀る式内社「波爾移麻比弥(はにやまひめ)神社」、神々の母神である伊邪那美命を祀る式内社「伊刺奈美(いざなみ)神社」、
高天原に通じる橋を神格化した式内社「天椅立(あまのはしだて)神社」など、記紀神話草創の地方を示す神々が祀られている。
このように太古の神々が鎮まる美馬の地に、「倭大国魂神社」も祀られている。
「倭大国魂神社」の鎮座する美馬郡美馬町重清の境内には「大国魂古墳」数基と、下段に「八幡古墳群」が現存している。
また、神社の東側(重清城台地)からはサヌカイト製の石鏃や、
阿波の青石による石斧、石鎗の出土も確認されており、この地が古くから拓かれていたことがわかる。
「倭大国魂神社」を祀らせた「崇神天皇」は、「初国知(はつくにし)らしし、御真木(みまき)天皇… 」と称えられ、
また、和名は「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)命」と呼ばれて、「みま(き)」との関わりを示している。
天皇の尊号に「美馬(みま)」を用いたのは、神々の母神が鎮まる美馬地方に天皇が入り込んだため、由緒あるその名を冠したものである。 阿波国美馬(ミマ)郡美馬(ミマ)町には、延喜式内社の倭大国魂神社が鎮座する。
この事実は、阿波国が、かつて倭の国であり、歴代天皇が営んだ王都の地であったことを表す。
これは、「王都の地 倭」の決定的証跡である。
通説の「古代の王都は奈良盆地に営われた」とする確定解釈は、工作物(奈良盆地の巨大古墳)に惑わされた錯覚と言えるだろう。
延喜式内社に採択された国魂神社は、都合20社を数える。
うち倭大国魂神社については、その由来が日本書紀に納められている。
第10代崇神天皇(ミマキイリヒコ)は、疫病が流行し、民心が乱れた為、神祭りによって地勢の安泰を図ろうと、天神地祇のほか、倭の地主神である倭大国魂神を祀ったという。
まさに倭大国魂神社の鎮座地は、倭の地(国)の証明になる。
そして、その倭大国魂神社が、奈良大倭国ではなく、唯一阿波国に鎮座するのである。 赤い橋と招待状の橋
同じところではないと思う
橋が架かった、完成したからと来てくれという話、
年も取っていたし遠いからと言って断ったんだよ
と言っていた
出来すぎ? >>128は>>64が畿内説のフリをしてるだけだな
芝居ヘタすぎ 検索すると出てくる橋と同じような感じで、
右のほうに、少し太めの木があって、
その木には木で作られた札が、かけられている
その札にも文字が書かれている、黒い文字
どこなんだろう 物部氏・蘇我氏・葛城氏の祖、伊迦賀色許売(イカガシコメ)・伊迦賀色許男(イカガシコオ)姉弟は、
日本で唯一、忌部の郷、徳島県旧麻植郡の延喜式式内社「伊加々志神社」に祀られている。
伊迦賀色両神は、ここ阿波で生まれ、暮らし、葬られたのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/44664411.html 「倭大国敷神社」「倭大国魂神社」「事代主神社」「建布都神社」「伊射奈美神社」「伊加々志神社」
「多祁御奈刀弥神社」「天村雲神伊自波夜比賣神社」「弥都波能売神社」「天石門別八倉比売神社」等々
神社名からして、倭国(阿波)の神社は畿内や九州とは別格。 @阿波 >>137
は?64とは関係ないが?
人を馬鹿にするな 神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
※神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
※今、ここ。 どこの橋なんだろう
かなり色落ちしている、
剥げていてるところがある
検索して出てくる画像?
修復した橋なのか、他の橋なのか 野中・・・という文字に見えるんだけど、
赤い文字
橋を架けた人なのかな、会社?
どこの橋なんだろう >>112
根拠なく思い込むことを妄想という。
テンプレの主張には物証が何もない。 >>118
それぞれ何年ごろのものか挙げてみろよ。
あと、畿内説風に言えば、まだ見つかっていないものもたくさんあるはずだからw >>119
>一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
どこまで本気かわからないおめでたい妄想 >>120
見放されている点では
>A民進党
なのだが、
狂信的な点では
>F幸福実現党
にも似ている。
何れにしてもマイナー。 >>128
畿内説どうしの意見をまとめてもらえませんかね。 <国会議事堂の候補たち>
【万行遺跡(石川県七尾市)】 3世紀後半〜4世紀初頭
高床建物3棟が南北方向に軸を揃えて配置 (西3棟から東3棟への移築あり)
北極星を基準とする真北に軸が合っている
東は臼池川に、北は七尾湾に面する(水運に便利)
柱穴直径1〜2m(柱直径40cm)
床面積150平方メートル 2棟(南北9.3m×東西17.2m)
床面積320平方メートル 1棟(南北18.6m×東西17.2m) 3世紀最大!!!
【稲部遺跡(滋賀県彦根市)】 3世紀後半
琵琶湖に隣接(水運に便利)
柱穴直径0.6〜1.5m(柱直径:30〜40cm)
床面積188平方メートル(16.2m×11.6m)
床面積145平方メートル など7棟
【纏向遺跡】 3世紀前半〜3世紀中旬 (土器編年マジック)
高床建物4棟が東西方向に軸を揃えて配置
真北に対して西に5度ぶれている
南北はそれぞれ川に、西は水路に面する(水運に便利)
柱穴直径1〜1.7m(柱直径:30cm)
A:床面積6平方メートル 1棟(南北1.3m×東西4.8m)
B:床面積25平方メートル 1棟(南北4.8m×東西5.2m)
C:床面積42平方メートル 1棟(南北8m×東西5.3m)
D:床面積238平方メートル 1棟(南北19.2m×東西12.4m) 320+150=470
188+145=333
238+42+25+6=311
>>1
>これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない 大型建物群が見つかった
↓
やった!王都だ!
↓
全国各地で大型建物群を発見
↓
あれ?
↓
王都の大型建物群だから特別なんだ、微妙にちがう
↓
??? >>155
纒向は卑弥呼がいた王都なんですか?
見つかった建物群は卑弥呼の王宮なんですか? >>157
そう思う根拠は?
根拠がなければ妄想だよ。 >>159
畿内説が妄想を散発的につぶやき、九州説は雑談している。
阿波は平常運転。
あとは頭のおかしな連呼厨。 >>77
>誤爆 工夫を輸入した。 五教博士は蘇我馬子邸にいた。<
書紀の聖徳太子の記録は、タリシホコの事績の盗用であり、半分偽記録。
>遣唐使を送り、大和に初めて上った中国人 裴世清は倭都は人も都市も中国と変わらないと述べた。<
ちょっとややこしいが、史料実態を説明しておく。
俀國は、開皇20年と大業3年に遣隋使を派遣したが、
大和の小野妹子は、
開皇20年の俀國の遣隋使に同伴して、隋の文帝に初めて「大和= 日本国」を名乗って叱られた?が、
その記録は書紀になく、、
書紀には、大業3年に小野妹子を始めて遣隋使にしたように書かれているが、隋書や新唐初には記載がなく、
大業4年の文林郎の裴清は、
竹斯國と秦王國を見た時点で、
「其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也」という感想を記録したが、
その先の東方へは行っておらず、
九州の内陸方面に後10日行って、俀の都に到着した。
つまり、大業4年の裴清は、大和へは行った記録がなく、
書紀の大業4年の「「世清の大和訪問」の証拠がない。
そして、隋滅亡後の、唐初の「武徳中」に、
大和の「日本国」名が唐に認められた事が記録されているから、
書紀の大業4年の鴻臚寺掌客の裴世清の話は、
(古田さんが推論されたように)武徳中に唐客の裴世清が、大和を訪問した話であった、
という事になる。 政張は
九州二十数か国連合の共立女王、卑弥呼には謁見していない。
その居城は連合国最南端で敵国狗奴国の北。
これが、北部九州の地勢。
九州の首都、伊都には一大卒が有り、外交、貿易を仕切っている。
畿内政権が国造を置いた可能性より、むしろ進駐軍だと思う。
一世紀であれば、畿内ではなく海運国の出雲だったという可能性も高い。
出雲、大和の併合後に九州、半島に出兵しているのは明らかで
朝廷にとっての邪馬台国や筑紫の君は後の百済同様に九州の傀儡国家に過ぎない。
何度目かの来日で政張が謁見したトヨは、弱小すぎるローカルの傀儡王である。 畿内は無い。
これが、倭人伝だろ?
記紀の神功皇后は神話でデタラメ過ぎてこの時畿内に女王が居たとは思えない。
皇女の古墳を卑弥呼の墓にするとか、何のファンタジー?
戦前戦後の考古学、古代史が踏み込んだ迷宮は
日本の古代植民地『韓』に因んで独立させた『大韓帝国』
朝鮮半島への配慮が原因である。 >>161
頭のおかしいキウスも支離滅裂喚き散らしてるでしょ? ほら! >>88
>倭人伝では地理的に、女王の都が二つある。<
卑弥呼の都は一つだけの記載であり、
壹與の都の記載はない。
>九州北部二十数か国連合、共立の卑弥呼の都はそれらの南端で狗奴国の北。
もう一つは、政張が行っていない 伝聞では、水行20日の投馬国から水行10日陸行1月の女王の都。
これを、混同したママ記した編者が無能なのである。・・・<
陳寿は、
投馬國に対しては、きちんと「途中移動の動詞」を書かなかったから、
不彌國からの側副傍線行程を示しており、
不彌國で「行程移動の合計」がきちんと「萬二千余里」になるように書いているから、
不彌國の南に直ぐに邪馬壹國がある、という記載をしている事になる。
その事が分らないらしいこの投稿子も、
「南→東」の嘘つきダマシの大和説者の仲間。 >>91
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、
和田キヨエやその仲間の右翼組織やマスコミらが「小便で着色した一升瓶」を造って、
どこから金が出たのか?知らんが、不動産屋から買い取った旧喜八郎宅に置かれた、
その「小便で着色した一升瓶」を崇めてる連中だから、
・・・・サギシ仲間であっても、仕方ない 。 >>95
この阿波への行程説でも、結局「南→東」の嘘つきダマシをしている事になり、
「安全最短」という人類の常識外れの「危険な大回り」ルートにしているから、
×。 >>169
「安全最短」という人類の常識ルートで行くと、末羅國はどこ? @阿波 >>119
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。 <
この投稿子も、始めから「南→東」の嘘つきダマシ大和説の・・・・サギシだ、という事ね。 >>128
>畿内説は、学問である。<
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、学問ではない。
「皇国史観」という思想宗教的な「結論先にありき」の、似非学問である。 >>163
>政張は
>九州二十数か国連合の共立女王、卑弥呼には謁見していない。
会わなかったら皇帝からの詔書を渡せないよ。
>一世紀であれば、畿内ではなく海運国の出雲だったという可能性も高い。
出雲はもっと前に征服してしまい、その上に卑弥呼のいる筑紫倭国の繁栄があるんだよ。 記紀が、筑紫の日向=福岡であることをとぼけていたり、神功皇后を卑弥呼の時代にわざと持って行ったりしているのは、このスレのテンプレが話をそらしたり直接表現を避けたりして、責任回避の言い訳の余地を残しているのと同じ。
要するに詐欺、イカサマを意図的に行なっている。 ここ畿内説のスレと言うより
畿内説を追及するスレなんだ 纒向の年代比定は確立していない。
年代推定には技術的に誤差が大きく、また多くの遺跡は同じ場所に弥生時代のものと
古墳時代のものが見つかることが多いので、纒向遺跡で3世紀の遺物が出土したからといって、
箸墓古墳自体が3世紀のものとは断定できないことに注意する必要がある。
自体が農業用の大型水路や無数の土坑の中には、三輪山祭祀に関する遺物のセットが多数投げ捨てられており、
石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である弧文円板が出土している。ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。 >>176
テンプレは叩くためにあるのだろうけど、読むと頭がバカになりそうなんで、散発的な畿内説をモグラ叩きして、後は雑談する。 >>177
何も立証せず
あなたの思想信条を書いても
しようがない 現 纏向遺跡の範囲は年代的な誤差が多く
ひとくくりに纏向遺跡と断定するには根拠が無い。
大型建物付近を一つの遺跡とするのが正解であろう。 >>180
断定できないと言っているのに、何が信条なの?
意味わからず適当なことを言っている?
頭悪いんじゃない?
科学的な思考ができないのだね。
あのテンプレに言いくるめられるようではその程度なんでしょうが。
それともスレ主? あのテンプレがあるスレで畿内説を名乗るのは、私は馬鹿ですと言っているようなもの。 久しくモグラ叩きをしていないな。
ていうか、最近見ないな。 >>187
結局アンチに出来るのは変換ミスの指摘ぐらいってことね
畿内説勝利の例証か >>189
断定できないという信条が存在しないとでも?
頭悪いんじゃない? >>177
>石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である弧文円板が出土している。
「吉備の孤帯文遺物も阿波の影響」
徳島県内では、銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる思想を表現した弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)
が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土した土器にみられる。 キウスのバカっぷりをたっぷり披露した投稿
>>53
>さて下記Aの出典ぐらい述べよ
>
>◆FAQ 5
>Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
>
>A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
>対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
無知脳の証明 「南→東」の騙し、という以前に政張は畿内に入れてない。
漢時代に九州に渡った伝聞や政張の倭人との聞き取りの大和の方角が真実とは限らない。
一大卒が畿内の設置した進駐基地、防府であれば、余計にガセ情報だろうね。
日本には渡来人豪族が多く、中国王権を忌避している節が有る。
銅鐸は縄文人の農業従事に利用したが、殷〜秦の王朝内に伝わる祭器。
渡来した方士系豪族はこれを捨ててから九州、半島進出を決めた。
有名な始皇帝の詐欺師、徐福が日本の祖の一員ではいけないwww
重要なのは倭人伝が九州旅行の話しかしていない事。
神獣鏡が出ようが、倭人伝が畿内の遺跡と同定できる可能性は無い。
日本の遣使が紀元前から洛陽に行ったのに対し
中国使は600年の斑鳩宮まで畿内に入れていない。
畿内豪族が主に渡来系なのは既に常識。
韓国が伝えたニダ。 は、もはや無い。 邪馬台国は北部九州の久留米南部の王宮
大和は200年当時九州に一大率を置いていた可能性もある奈良。
なら、投馬国は出雲。 女王国は大和。 でも、大和の女王も方角もガセ情報。
始皇帝的な政治的軍事国家で宗教国家でもない大和に
世襲ですらないシャーマンの女王なんて無い。
どこの諏訪が邪馬台国だよwww 卑弥呼に永遠の命が有ればキングオブキングスで王朝は続いた。
卑弥呼は死んで国は乱れ、世襲制でも無いのに中国の辺境武官が推した屁タレのトヨが継いだ。
この王朝は継続可能性が無い。 間抜けな王の歴史は記紀には要らない。 >>204
支離滅裂。
もはや畿内説なのか九州説なのかすら判別できない醜いモノに成り果てている。 >>207
支離滅裂なのは倭人伝の地理記述であって
みんなが迷惑してんだぜw
倭人伝の記述には水行10日陸行一月に女王国が有る
という記述以外には畿内の可能性が存在しない。
考古学で九州紀行の文献を畿内と同定出来たらウリナラファンタジーだよwww
もう、知ってるんだけど。 >>208
一万二千里の方を見るといいよ。
ずっと具体的だから。 新たな畿内説の論者皆無
時間が纏向から時間が止まった
纒向以降の話題無いのが不思議
邪馬台国論叢が纏向で終着してないという事
纒向は調査段階だが、断定するバカは寺澤だけにしてくれんかのーーーーーーーーーーーーーー <国会議事堂の候補たち>
【万行遺跡(石川県七尾市)】 3世紀後半〜4世紀初頭
高床建物3棟が南北方向に軸を揃えて配置 (西3棟から東3棟への移築あり)
北極星を基準とする真北に軸が合っている
東は臼池川に、北は七尾湾に面する(水運に便利)
柱穴直径1〜2m(柱直径40cm)
床面積150平方メートル 2棟(南北9.3m×東西17.2m)
床面積320平方メートル 1棟(南北18.6m×東西17.2m) 3世紀最大!!!
【稲部遺跡(滋賀県彦根市)】 3世紀後半
琵琶湖に隣接(水運に便利)
柱穴直径0.6〜1.5m(柱直径:30〜40cm)
床面積188平方メートル(16.2m×11.6m)
床面積145平方メートル など7棟
【纏向遺跡】 3世紀前半〜3世紀中旬 (土器編年マジック)
高床建物4棟が東西方向に軸を揃えて配置
真北に対して西に5度ぶれている
南北はそれぞれ川に、西は水路に面する(水運に便利)
柱穴直径1〜1.7m(柱直径:30cm)
A:床面積6平方メートル 1棟(南北1.3m×東西4.8m)
B:床面積25平方メートル 1棟(南北4.8m×東西5.2m)
C:床面積42平方メートル 1棟(南北8m×東西5.3m)
D:床面積238平方メートル 1棟(南北19.2m×東西12.4m) 320+150=470
188+145=333
238+42+25+6=311
>>1
>これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない >>208
「水行10日陸行一月」は邪馬台国
12000里は女王国 邪馬台国論争で伏せようとしたのは
270年以降の半島進出の歴史だろ?
日本が高句麗馬の移入の為、任那から楽浪郡に道を開くのは必然だし
文献が廃棄されてる300年以降の考古学的国内事情もそうなってる。
考古学が韓国に配慮したいなら勝手にすればいいけど
ネラーには、そんなのかんけー無いよwww
北朝鮮で漢四郡の戸籍出たけど、どうなったんだろ?
中国が以外に考古の学問してるけど、考古学って政治外交なわけ?
有っても出さない鉄の遺跡が出て来てるけど、
無いから出ない馬の歴史がどうしようもなく騙せないだろ。
畿内説は戦後考古学者の半島配慮の賜物。 >>198
逃げるより、出典をスレ主に代わり回答すれば良い、
たぶん、君には無理だろうが・・・・・・
馬鹿でなければ出典出すべきだが、無理でしょう
荒らしてもいいよ、所詮君は馬鹿だから >>215
いや1が最初から出してるって
「と著書『海游録』に記す」 >>213
邪馬台国は久留米南部 魏使政張も行けるが謁見できない女王の王宮
「水行10日陸行一月」は畿内説の大和でも良いよ。
でも、魏使は行ってないし、何も説明していない。
女王か? 南か? も、知ったこっちゃない。
それが、倭人伝の邪馬台国。
これが論争のもと。
戦前戦後の日本史と考古学は270年以降の半島進出を伏せた。
これが、癌。 古代の日本には朝鮮半島から文化が伝わった。 これが嘘。
日本が鉄や馬を日本に移入するために半島を開拓した。
日本の古代史は馬の移動を基準に検証すれば事実は明瞭。
邪馬台国の対馬外交はこの焦点に有る為、ミスリードに利用されている。
600年までの中国、倭人伝は九州しか知らない。
これが、九州説だろ? >>222
魏志倭人伝に馬が居ないって書いてるじゃん(´・ω・`) >>223
楽浪郡は313年まであったが、漢、魏、晋、高句麗には乗馬文化が有る。
馬韓=百済には無い。
日本に馬が移入されたのは、邪馬台国の270年以降。
これまで楽浪郡帯方郡から未開の馬韓に馬の道が無かったから進攻されなかった。
馬韓、百済、辰韓、新羅が日本の勢力下に有ったのはこの為だ。
だがしかし、日本は邪馬台国以降、任那設置、馬の移入の為楽浪郡への道を創った。
国内の御牧の発展や高句麗牧童の遺跡、畿内系前方後円墳は甲斐にも有る。
日本神話の都合で消した歴史も実質的富国強兵である馬の移入の歴史は消せない。
もはや、神話や半島への配慮で伏せる必要などない。 >>224
コミュニケーションが通じない相手であったか。 邪馬台国時代に馬がいた考古学的証拠なんてないでしょ。 最近では「弥生時代牛馬移入説」は否定的方向に傾いており、
年代が明確な最古の事例は山梨県・塩部遺跡の歯牙標本(4世紀後半)となっています 数年前の、
とあるkpopのスレ
家の事を知っている人がいたのかな 『デンデン太鼓』
武士の画像というのが出てくるでしょ? ストーカーがいるのかな
家の先祖の写真でしょ
キュウリの葉、葱の華・・・が写っていたり
捨ててしまったから、家にはないけど、
デンデン太鼓(人形)とか 先祖の写真
葱の華があって・・・椅子に座っている人、
この人が母親だよと言っていた
その武士の写真の、
右のほうのにいる人物と、同じような椅子に座っているでしょ、
かなり古い写真だと思う 家の上の名前
わかりやすくいうと「□□力夫」氏と同じ読み方
だと言っている、何かの家だったのかな デンデン太鼓の人形の写真なども素人には、
わからないような配置だと思う
あと『福助』があったり、調べてみて 何だか、このスレでは、
文献考古の史料事実からの、学問的なまともな議論をする者が殆どいなくなって、
すっかり荒れ果ててしまったようだね。 >>239
そっちは畿内説勝利で勝負がついちまったからな サイバーパンクというコミック
も同じような話でしょ
雷雲〜落雷、ロトの勇者のようなキャラが出てきたり >>211
>【稲部遺跡(滋賀県彦根市)】 3世紀後半
>琵琶湖に隣接(水運に便利)
>柱穴直径0.6〜1.5m(柱直径:30〜40cm)
>
>床面積188平方メートル(16.2m×11.6m)
>床面積145平方メートル など7棟
床面積188平米の建物と
床面積145平米の建物って
立ってた時代が違うよね
切り合ってるもの
●畝傍山東南の橿原の地を都と定める。
本当は西南の柏原(御所市)ですね。
日本書紀は方角と漢字を意図的に潤色しました。
本居が言ったように畝傍山の東南にはカシハラなんて地名はありませんでした。
柏原なら高天原(御所市高天)の麓の根の国になります。
大和朝廷はそこから始まったことになり、それ以前の高天原に住む神々の世界に繋がります。
しかし神武の住んだ場所は根の国、黄泉の国、生口の郷になります。
だから潤色したのでしょう。
今の水平社博物館のお隣が神武社です。
この件、学者やマスコミは一切突っ込まないでしょう。
神武の権威づけのために高天原を九州に設定した。
したがって九州には天孫降臨の云われのある場所は存在しても、
高天原の云われのある場所は存在しません。
タカミムスビ、シタテルヒメ(タカヒメ・アマテラス)、スサノオ(アジスキタカヒコネ・迦毛大御神)
みんな高天原(御所市高天)に実在していた。
時代は2世紀前後ですね。 女王国の東、海を渡る千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。又侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り、人の長(たけ)三・四尺、
410 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/04/25(火) 15:29:08.37
侏儒國が高知県の西部の足摺岬方面。沖の島に「低身長部族が江戸時代まで存在していた」という記録がある。
すばらしい!!
又有侏儒國在其南
↑侏儒国は、高知県沖の、沖の島だよ
石切で有名な 強制労働でじっさいに小人が多かったらしい
江戸時代の地誌「沖の島記」に
それらしき描写がある >>200
>鸚鵡返しは敗者のしるし <
鸚鵡返しは、
相手の話が逆に「自分の首を絞める」事になっている、
というような、相手の論理の不完全さやアホさの指摘。 >>202
>漢時代に九州に渡った伝聞や政張の倭人との聞き取りの大和の方角が真実とは限らない。<
方向を記録したのは魏使らであり、
魏使らは、大体の方向を間違えない。
>一大卒が畿内の設置した進駐基地、防府であれば、余計にガセ情報だろうね。<
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
は、「里数」が書かれているし、侏儒國の見聞記録になっているから、
魏使らの実際の見聞記録。
従って、東方に関しては「倭種」の記載だけであり、
魏使らは、「大和」を特定した記載をしていない。 >>205
>卑弥呼に永遠の命が有ればキングオブキングスで王朝は続いた。
卑弥呼は死んで国は乱れ、世襲制でも無いのに中国の辺境武官が推した屁タレのトヨが継いだ。<
「中国の辺境武官が推した屁タレのトヨ」なんて、存在しないし、
「中国の辺境武官が推した」という事にもなっていない。
>この王朝は継続可能性が無い。 <
九州倭国は、白村江の後になって別種分家の旧小国の大和に併合吸収継承されるまで、
存続継続した。
>間抜けな王の歴史は記紀には要らない。<
倭国の存在や歴史を抹殺した記紀は、半分以上×書の偽書であり、
信頼性が全くない。 >>252
だったらアンタ鸚鵡に議論で負けちゃうじゃん >>208
>支離滅裂なのは倭人伝の地理記述であって みんなが迷惑してんだぜw <
「倭人伝の地理記述」は、非常に正確であり、みんなが信頼し重宝にしているが、
思想宗教にクルった大和説人種らばかりが、迷惑をしている。 >>240
>そっちは畿内説勝利で勝負がついちまったからな<
「南≠東」や
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」や、
大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
大和には、(九州に比べて)矛も鉄鏃も中国鏡も絹なども全くのように存在しない事などで、
大和説の敗退で勝負がついちまったからな。 >>259
つまり、
それが全部のこらず論破された今はもう
九州説は死んでるんだよね 閑話休題
「土製仮面」はこれまでに全国で約120点見つかっているが、出土地点は矢野遺跡が最西端に位置する。
同遺跡は縄文時代から中世にかけての県内有数の複合遺跡で、調査の結果、「土製仮面」は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。
この「土製仮面」作成時期も国内では最古のクラスにあたる。「貝製仮面」は5000年前の物が九州からも発見されているようだが、土製のモノはこれが最古級である。
「土製仮面」の使われた時期と地域の偏りから、今の状況では四国東部から発生し、近畿・中部・東北方面へと伝播していったことが明確である。
用途としては、土偶、石棒などが同時に出土している事を考えると、祭祀の時に使われたと考えるのが妥当である。
また、仮面表面の多数の穴の跡は、後年の魏志倭人伝にも「男子無大小,皆面黥面文身」とあるように入墨(文身)を表したものであろう。
さて、神武東征の際に活躍した「大久米命(おおくめのみこと)」が黥面だったことが古事記に記載されている。 「大久米命」は神武東征に随行した久米一族の祖神にあたる。
久米一族については、石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。
一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。
一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。
さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。
まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。
「矢野遺跡」
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%CC%F0%CC%EE%B0%E4%C0%D7 鷹、鷲、鳶、カラス・・・
何なのか知らないけど、あの写真
神武の話に似ているような気がする、
何なんだろう むかーし伊達郡の川俣町というところに住んでいたことがあるんだよ
と言っていて、戸籍もそうなっている
小手子の像というものが建てられているところがあるでしょ、
その周辺だよ
家に凄い刀(謎の刀)が飾ってあって・・・
本や書なんかも沢山並んでいた 古代のこと?だから、わからないけど
・小手子
・河上娘
・布都姫
このような事が書かれているでしょ 結局三世紀邪馬台国と言えば畿内以外に選択肢はない。
まぁそれだけの話だね。 wiki『タケミカヅチ』
ここに載っている、
画像(絵)のような感じもする >結局三世紀邪馬台国と言えば畿内以外に選択肢はない。
>まぁそれだけの話だね。
まぁその程度の説だね。 その程度の説に全く及ばないのが九州説その他という現実。 『葱の華』
橋、赤い橋などにも同じようなものが付いているけど、
何なんだろう わかりやすく言うと
□□力夫氏(上の名前は?)
同じ家だよと言っている、
力夫という名前の親戚はいないけど、同じ家 なぜ誰々さんの家は
収入がないんですか?と言ってる人がいたり
騙りがいるのかな? 「その程度の説」に満足な反論の一つも出来ず
中傷と嫌がらせに終始してゐるその他説は
なんと矮小なんでせう 他のスレの話になるけど
知的財産、・・・□□権・・・権など、
何やらと言っている人がいたような
詐欺師がいる? >>261
大阪では岸和田の久米田が久米物部の本拠であろう。
ここは久米田池という大きな池があるが、
昔あった物部田池と合わせたと言われてるから、
まぁ間違いはない。
神武の家来の大久米とは別系統であろう。
久米という名前は沖縄の久米島でもわかるように、
古来の海洋民に多かったのかもしれない。 震災後だったかな、△スレ
・使ってしまったものは、
どうにもならない(戻ってこない。何かの、お金の話)
・◎◎君、君は利用されている
このような事を言っている人がいたり 何か知っている人がいるんだと思う
また地震、災害のようなことが起きるぞ
と言っている人がいるでしょ 挨拶くらい、あっても良いと思う、
家に来たらどうなんだ?
と言っている人もいたような 📺などを観ていて、
気付いている人もいると思う
なんとなく気づいていると思う、
最近おかしいな〜とか >◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
テンプレに画期的や空前絶後という言葉あったか >>283
纒向を卑弥呼の都だと位置付ける根拠が全くない。 左目探偵eyeというドラマがあったはず
主人公「りん、りん」のような事を言っていたでしょ?
妹の子供の名前と同じ かなり前の話になるけど、
とあるゲーム内に作成したキャラクター 宮中式内社かなり興味深いな。
誰か詳しい人いないかな。
八十島祭の始まりも気になる。 最近、活躍している、
読売ジャイアンツのピッチャー(投手)
もれ(仮)の兄と同じような名前でしょ 気づいている人は気づいていると思う
戦国 muramasa?というゲームがあったりしない?
信on(こーえー?)からも行ける △ピラミッド?砂漠に出かけたり。
赤べこ。
田んぼのある家。
妹が登場した時の、たまごっち!
と言うアニメの話
スペースシャトルに乗り、出かけたり
・・・何かあったような 呟きアスペが大暴れを始めるスイッチは何なんだろうな その風見鶏とか
当時の風雲録にいた
キャラクター名のような気がする?
どこにでもいると言えば、
いる名前(キャラ名、ネーム)だけど それにしても老婆だよ、
選挙の話だったかな
公明から出ていない(立候補)ときは、
自民を応援することになってる
本当なのかな、
この辺りだけの話なのかな
創価? 107年に後漢・安帝に朝貢した帥升を名前の似ているスサノオだと仮定してみる。
間違っててもいいから一度仮定してみる。
魏志の卑弥呼の朝貢が238年。
スサノオから5世代100年後に歴史上ヒミコと言う名前にもっとも近い最高位の女性がいる。
しかも魏志の記述どおり寡婦。
そしてすぐ後にトヨという最高位の女性もいる。
邪馬台国論争なんてあっという間に決着してたのだ。
ところがそれを認めると大和朝廷および古代天皇が中華に朝貢したことになる。
実際、スサノオは安帝の前で土下座したであろう。
神武なんて朝貢してたヒミコの婿。
記紀はそれをごますために時代を大きく引き伸ばし編纂された。
本居宣長をはじめ江戸時代の国学者はそれを知っていた。
今の日本人は天皇が朝貢してたと知っても何とも思わないが江戸時代は違う。
ショックが大きい。
だからわざと九州説という虚構を創ってごまかしたのだ。
論争が続いてるうちは大和朝廷および古代天皇が朝貢したことが決定しない。
その「決定しない」という状況を永遠に創ろうとしたのだ。
これは天才の所為である。 天津国津、天神、天孫、神武・・・何の話なのか知らないけど、
あの写真のような気がする
鷹(・・・?) 雷(太鼓) 福助 笠?市? 川崎に来てからも、
寺院に通っていたみたいだよ
と言っている もともとは伊達郡のほうの出身だよ
と言っている
神職、僧だったのかな?
かなり詳しいような あの松の木(モミの木)の写真も、
出来すぎている? 家の裏のほうは、板で囲まれていた
もしかして祭祀関係だったのかな それにしても
宇宙皇子、フルート?せいんとせいや?
□□力夫氏の写真でしょ、親戚の仕業??なのかな、
むかーし宇宙皇子という本を読んでいたことがあったり 簡単に言うと、
いとこ(年齢は上)、父親の妹の子供
広島のほうに住んでいるんだよ >>260
>>「南≠東」や
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」や、
大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
大和には、(九州に比べて)矛も鉄鏃も中国鏡も絹なども全くのように存在しない事などで、
大和説の敗退で勝負がついちまったからな。<
>つまり、 それが全部のこらず論破された今はもう 九州説は死んでるんだよね
つまり、この投稿子も、
文献考古の史料事実やこれまでの議論実態に関する具体的な「論破」事実を示す事がしないし出来ずに、
口先だけで「それが全部のこらず論破された今は」と言いくるめて誤魔化して、
「もう 九州説は死んでるんだよね 」として、
世間の人々を騙そうとする大和説人種であったようだね。
まるで、相模原犯人や稲田や安倍や菅やトランプらの、
「口先で誤魔化し」のタカ派人種差別戦争狂人種らとそっくり。 >>265
>結局三世紀邪馬台国と言えば畿内以外に選択肢はない。 まぁそれだけの話だね。<
まあ結局、
「邪馬壹國→邪馬台国」や「大和説→畿内説」などの誤魔化しや、
「南≠東」や
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」や、
大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
大和には、(九州に比べて)矛も鉄鏃も中国鏡も絹なども全くのように存在しない事などで、
大和説の敗退で勝負がついちまったから、
大和説者は、(安倍らやスレ主らと同じように)、
口先で余裕があるか?のように誤魔化して、
世間の人々を騙すしかなくなってしまったんだよね。 >>312
この大量投稿爺いは
「邪馬壹國→邪馬台国」とか「大和説→畿内説」とか
「南≠東」とか「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」とか
「大和には『殉葬奴婢百余人』の墓がない」だとか
「大和には、(九州に比べて)矛も鉄鏃も中国鏡も絹なども全くのように存在しない」だとか
スローガンを並べるだけで
そんなことであたかも畿内説を「論破」でもしたかのように
何も具体的事実を示す事なしに
口先だけでただ連呼して
世間の人々を騙そうとするサギシ人種であったようだね。
z >>314
解説はいいから・・・・・
反論を述べた方がよい >>315
完璧な反論でもう解決済みじゃない項目って
なんかあるの?
????? 九州説の主張なんてこのスレで大半論破済みだしな。
ただ爺が現実受け入れられなくて納得出来ず
基地外のふりしたり、自演したり荒らしてるだけだからな。 閑話休題
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
徳島県国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354 >>318
まだ何が残ってるのか具体的に答えらんないなら
みんな論破済みってことだね >>321
ほらな
負け犬は何も具体的なことが言えない
惨めだなあ >>314
まあ結局、この投稿子も、
「邪馬壹國→邪馬台国」や「大和説→畿内説」などの誤魔化しや、
「南≠東」や
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」や、
大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
大和には、(九州に比べて)矛も鉄鏃も中国鏡も絹なども全くのように存在しない事などに、
反論もする事が出来ずに、
口先で議論に勝っているかのように宣伝する、
一種の「大和説の・・・・」である事を白状しているようなもんだね。 >>317
大和説の主張なんて、このスレでほぼ全部論破済みだしな。
ただ、思想宗教にクルった嘘つきダマシの大和説信徒が、
現実受け入れられなくて納得出来ず、
基地外のようになって、自演したり荒らしてるだけだからな。 >>320
>まだ何が残ってるのか具体的に答えらんないなら みんな論破済みってことだね<
「邪馬壹國→邪馬台国」のダマシや、
「大和説→畿内説」などの誤魔化しや、
「南→東」の嘘つきだましや
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の無視や、
大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
大和には、(九州に比べて)矛も鉄鏃も中国鏡も絹なども全くのように存在しない事などの指摘に、
具体的に答えらんないなら、みんな論破済みってことだね。 >>322
>ほらな 負け犬は何も具体的なことが言えない 惨めだなあ <
ほらな、この大和説の負け犬投稿子は、
「邪馬壹國→邪馬台国」のダマシや、
「大和説→畿内説」などの誤魔化しや、
「南→東」の嘘つきだましや
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の無視や、
大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
大和には、(九州に比べて)矛も鉄鏃も中国鏡も絹なども全くのように存在しない事などの指摘に、
何も具体的なことが言えない。
惨めだなあ 。 >>327
こんなふうに
罵ることしかできない無能しかいないから
九州説が滅んだ >>322
こんなふうに
罵ることしかできない無能しかいないから
畿内説が滅んだ やっぱりここでの偏執的な書き込みを見てると九州説の爺さんは
日本人じゃないよね?
メンタルは朝鮮人そのままじゃん。
畿内スレ=日本を荒らす朝鮮人そのままの図式。 畿内説は馬鹿を罵る以外のこともしてるので
>>329はウソ 朝鮮人が正しい歴史観を日本人に教えるニダ!
これわかりやすいよねw >>333
畿内説がいったい何に反論できないの?
具体的に言える? >>330
やっぱりここでの偏執的な書き込みを見てると大和説のガキは 、
普通の国民の精神構造じゃないよね?。
メンタルは人種差別的国粋民族主義の右翼そのままじゃん。
「大和日本国が倭国から別れた別種の旧小国だ」という史料事実が、
大和天皇家が天地開闢以来、日本の支配者であった、という思想宗教を、
否定する事になる、という事が、どうしても受け入れられない。
大和は、ずっと筑紫倭国の中の旧小国として頑張って発展し、
白村江の後になって、ようやく、大和は、倭国を併合吸収継承して、列島の盟主になれた、
という事で十分な筈であり、
(倭國には関係がなく)大和だけの独自の発展をしゃべるなら何も言わないのに、
頑強にそれを否定し、大和がずっと列島の盟主であった、と叫び、
相手を「朝鮮人だ」と叫んで、世間の人々にダマシの宣伝をしている。
「大和説者=人種差別的国粋民族主義の右翼」そのままの図式。
最近キウスがやらかした詐欺事案
>>152-153
なんで柱の穴ぼこがいっぱい見つかったらといって卑弥呼の宮殿になるんだ >>334
は?
九州説に反論できないから悪口言うんだろ? 梅の種が見つかったから卑弥呼の都だとも言っているな。
なんでもこじ付けて、誰も言っていない朝鮮半島に結びつけるのは、半島から来た工作員が畿内説に混じっているからだろう。 とりあえず
畿内説代表 → オリックス・バファローズ
九州説代表 → ソフトバンク・ホークス
これで優勝した方が邪馬台国で良くね? 常識で考えれば中国に一番近い九州に決まってんだろ
こんな簡単なことも分からんのか まずヒミコを見つけろ。
それからの話だ。
ならば魏志は南と東を間違えてたのか、
墳墓に槨があるのかないのか、
奴婢は埋葬されたかどうか、
全部わかる。
というかヒミコは簡単だし。
■2世紀から4世紀まで
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
(4世紀初〜前)崇神 倭人伝の地勢記述で邪馬台国が2つになる事態の修正案
伊都(居留地)〜奴国〜不弥国(出航地)
〜南、水行20日投馬国(宮崎仮定)〜南、水行10日名無し国(上陸地、鹿児島仮定)
〜北、陸行一月〜で、邪馬台国へ戻る(九州北部20数か国連合の南端)
つまり、陸行一月は九州北上の南部探検である。
邪馬台国より北の国は地勢や名は記せる。
その他は遠くの通過地であり、親交も無く詳らかには知らない。
鹿児島弁は通じないwww
2か月に及んだ九州南部探検と北部の二十数国の説明
張政の数回にわたる調査報告が混同している。
南部の地名も判らない報告はボツにされ、
南へ水行30日、(北へ)陸行一月が残ったwww
張政は九州から出ていない。
九州説でOK >>346
>まずヒミコを見つけろ。
>それからの話だ。
まずは倭国を見つけろ。
倭国として確実なのは福岡県内の地名しか記されていない。
首都機能は伊都国にある。
東に海を渡ったところ、つまり本州や四国にも倭種がいるとあるが、そこは倭国ではない。
卑弥呼が女王として即位した倭国は、九州北部、特に福岡県だった。
もちろん、卑弥呼がいたのも福岡県内。
そして、博多湾沿岸に王墓が集中するという考古学的証拠とも一致する。
奈良も京都も大阪も沼地の底だった時代の話である。 福岡県内だけだったら、日本はほとんどが敵で、仲間は半島南岸だけだろ 邪馬台国がどこにあろうと、こだわらないが、
畿内説というのは一見詳細になればなるほど、
嘘に嘘を重ねたようなアリバイ操作としか考えられない。
大きな墓をつくった、というだけの記述が
なぜ箸墓古墳に結びつくのか、
嘘を重ねれるほどいかがわしくなってくる。 >>334
>畿内説がいったい何に反論できないの? 具体的に言える?<
「邪馬壹國→邪馬台国」のダマシや、
「大和説→畿内説」などの誤魔化しや、
「南→東」の嘘つきだましや
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の無視や、
大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
大和には、(九州に比べて)、矛も、鉄鏃も、中国鏡も、絹なども、全くのように存在しない事など。 >>349
敵ではなく、交流相手かな。
海外からの文物は基本的に福岡県の倭国しか入手できないので、圧倒的に他より優位に立つ。
これには武器の材料となる鉄や銅も含まれる。
日本海ルートで覇を争った出雲を下してしまえば、あとは筑紫倭国の天下だよ。
この筑紫の支配者をめぐる椅子取りゲームが、畿内説がしばしば言うところの、小国の乱立とやらなんだが、一つ一つの小国が畿内の広域より豊かで、かつ筑紫の支配者がすなわち倭国王となるからこその現象に他ならない。 張政は伊都国または不弥国までしか来ていないし、通過した国は里程を書いたけれども、その他の国は行っていないから詳しくは知らないと書いている。
さらに倭国から東に海を渡った本州や四国にも倭種がいるとは書いているけれど、倭国には含めていない。
倭国の範囲は最大でも九州。
狭く見積もると福岡県程度。 >>344
>思考停止する九州説<
「邪馬壹國→邪馬台国」のダマシや、
「大和説→畿内説」などの誤魔化しや、
「南→東」の嘘つきだましや
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の無視や、
大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
大和には、(九州に比べて)、矛も、鉄鏃も、中国鏡も、絹なども、全くのように存在しない事などに、
反論出来ずに、思考停止する大和説者。 >>346
>まずヒミコを見つけろ。 それからの話だ。<
まず、倭人伝に拠って、卑弥呼は、筑紫の女王であった事は確定だ。
そして、松野氏姫氏系図に拠って、
卑弥呼は、刀良という人への「称号」であった、
と見つかっている。 >>349
>福岡県内だけだったら、日本はほとんどが敵で、仲間は半島南岸だけだろ<
元々、列島は、多種の部族の混在地域であったのであり、
倭地だけでも、百余国が30国位になってもまだ、30国にも別れており、
東方は、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」や、
「筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」などであり、
それらには「自昔・・・東征毛人五十五國」した国も混ざっている事になる。 福岡県内説は、九州の中部以南の狗奴国と敵対し、南九州ともほとんど物流もなく
本州の倭人と同盟することもせず、半島南岸の韓とだけ親しくするという説 >>357
畿内説の場合、敵対国が「南」の狗奴国だけになってしまう
畿内説だと、ヤマト王権は相当の大勢力になるから、
その分、敵も多く、敵が狗奴国だけのはずがない
九州邪馬台国は本州の西端の長門まで力を伸ばしてきたヤマト王権への
大綱として、魏から倭王に任命してもらおうとしたんだよ
だから魏へ説明する時には、「東の海千里先に倭種の人間がいます」というだけで、
東にある「国」の名前も規模も隠した
東の海千里先に、自分達邪馬台国より強大なヤマト王権があることを魏に知られたら、
そっちが倭王になってしまうからだ >>358
>筑紫倭国は出雲と同盟である
博多湾沿岸は出雲と畿内の影響を受け、終末期は畿内の影響のほうが強い >>360
>畿内説の場合、敵対国が「南」の狗奴国だけになってしまう
倭人伝には卑弥呼と敵対しているのは狗奴国だけしか書いていない
>畿内説だと、ヤマト王権は相当の大勢力になるから、
その分、敵も多く、敵が狗奴国だけのはずがない
畿内説は、物流が密な国間のネットワーク、首長連合説だから
武力で併呑して拡大したような倭国ではないということを再三言っているのだが
どうしても九州説はシャドウボクシングをしたがる >>358
出雲はアマテラスが征服したろ。
同盟ではなく属州になったんだよ。
結びつきが強いのは当然。 終末期とはなんだ、筑紫倭国ニホンは永遠に不滅である(ザラコクは絡むでない >>357
>福岡県内説は、九州の中部以南の狗奴国と敵対し、南九州ともほとんど物流もなく
>本州の倭人と同盟することもせず、半島南岸の韓とだけ親しくするという説
まあ、それが倭国の姿としては概ねそうなんだろう。
国際交流は対中国しか眼中にないだろう。
貧しく後進地域である畿内など、眼中にない。 >>362
>武力で併呑して拡大したような倭国ではないということを再三言っているのだが
>どうしても九州説はシャドウボクシングをしたがる
そんな夢みたいなユートピア論は根拠がなく馬鹿馬鹿しい。
魏志倭人伝によれば、倭国は戦いに明け暮れている国だぞ。
では西日本全体の大戦乱があったのかといえば、そうではない。
特に奈良盆地は戦乱の痕跡がない。
矛盾しているんだよ。 >>357
>福岡県内説は、九州の中部以南の狗奴国と敵対し、南九州ともほとんど物流もなく<
投馬國が、不彌國の南方にあって、水行二十日の距離にあるから、南九州であり、
記紀に拠れば、阿毎氏のウガヤフキアエズの頃から、日向は倭奴国の支配地になっていたようである。
>本州の倭人と同盟することもせず、<
本州は「自昔・・・東征毛人五十五國」の支配地域が中心であり、同盟など不要。
>半島南岸の韓とだけ親しくするという説<
半島南岸は原則として「倭地」であり、支配地。。 >>360
>九州邪馬台国は本州の西端の長門まで力を伸ばしてきたヤマト王権への
大綱として、魏から倭王に任命してもらおうとしたんだよ <
これも×。
大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の、(地方の市を監督する)旧小国であり、
「自昔・・・東征毛人五十五國」であったんだから、
ヤマト政権は、倭国の附庸国。 >>369
考古学的根拠がない加古川の反日人種の妄想 >>361
>博多湾沿岸は出雲と畿内の影響を受け、終末期は畿内の影響のほうが強い<
これも×。
大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の、(地方の市を監督する)旧小国であり、
倭国は「自昔・・・東征毛人五十五國」であったのであり、
白村江で唐と戦ったのは「倭国」や「倭衆」や「倭賊」であったんだから、
大和が倭国を併合吸収継承出来たのは、白村江の後であった事になる。
ヤマト政権は、倭国の附庸国。 >>362
>畿内説は、物流が密な国間のネットワーク、首長連合説だから
武力で併呑して拡大したような倭国ではないということを再三言っているのだが
どうしても九州説はシャドウボクシングをしたがる <
大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の、(地方の市を監督する)旧小国であり、
倭国は「自昔・・・東征毛人五十五國」であったのであり、
白村江で唐と戦ったのは「倭国」や「倭衆」や「倭賊」であったんだから、
大和が倭国を併合吸収継承出来たのは、白村江の後であった事になり、
結局、ヤマト政権は、倭国の附庸国であった、
ということを再三言って来たのだが 、
どうしても大和説者は、シャドウボクシングをしたがる。 >>362 畿内説は、物流が密な国間のネットワーク、首長連合説だから
畿内を中心とした、「邪馬台国広域連合説」というも成り立たない
少なくとも倭人伝的には…
女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置き、諸国を検察せしむ。
女王国の東、海(関門海峡のこと)を渡る千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり(銅鐸民)。
↑ふつうに考えて九州じゃね?? >>362
森岡秀人氏は私の尊敬する考古学者でした。弥生後期の土器年代は佐原真氏と共に編年された優れた業績として今でも有効です。
しかし芦屋市の教育委員会の職員の立場もあり邪馬台国畿内説であることは当然予測されるので積極的に氏の論文を検索しようとは思いませんでした。
たまたま小学館発行の「古代史の論点4」を開いたら氏の「年代論と邪馬台国論争」と言う論考があり一読いたしましたがその杜撰と
言うか厚かましいと言うか呆れてしまいました。
氏ほどの考古学者が知らない訳はありません。知ってて言うなら嘘ツキと言われても仕方ないでしょう。
氏に限らず邪馬台国畿内説の方は狗奴国東海説とセットで論を立てます。特定の方しか認めていない事実を互いに持たれあって
邪馬台国は畿内なのだから狗奴国は東海だ、狗奴国が東海なのだから邪馬台国畿内しかないと言った論理です。
−−6段階北部九州は各地の土器を積極的に受け入れが自らの土器を他地方に出してる気配はない。この点人・産物の動きまで示す
土器の分析から九州の一角に邪馬台国を想定することはかなり難しい相談となるだろうーー
魏志倭人伝に邪馬台国が土器の輸出をしていたと書いてありますか。邪馬台国は九州内部だけで完結した歴史です。狗奴国に
ついてはこんな書き方をしてます。
−−(狗奴国の領域について)纏向では内削りの大和庄内式土器であり(東海は)排他的位置を占めるS字甕地帯で高次元の独創性を
誇示しており他からの影響を拒んでいる(中略)いわゆる狗奴国の実質的範囲を示唆している。−−
驚いたことに氏はこれ以外の事実については全く触れていないのです。
邪馬台国問題を土器だけで結論付けた方は氏ただ一人です。森岡さん少しまともに邪馬台国に取り組んでください。
貴方氏本当はよく知っているのです。優れた考古学者なのだから纏向に邪馬台国がないことは一番よく知っている筈です。 >>372
日本の学者の研究を信用しない反日人種の妄想などは
学問ではなくて、反日街宣活動 >>375
文献的には一大率に検察されている北部九州沿岸がまず比定地候補から外れる >>374
無い
三輪山伝説からの引用なら、三輪山周辺の墓地はすべて女性の墓の候補になる 博多の王、すなわち倭王を目指して群雄割拠する筑紫の姿こそ、魏志倭人伝や記紀にある戦いに明け暮れる倭国の姿だよ。 筑紫は中期の甕棺墓が衰退してるから
優勢な勢力は交代している >>379
そうやってくだらない反撃しかできない畿内厨
書き込まないひともたくさんみてるんだぜ 特に一大率(いちだいそつ)を置き、諸国を検察せしむ。
って言うのが、なぜ国の首都に、諸国の監督者が必要なのか意味不明で、
この時すでに大和朝廷の支配下に有り、
徴税、対馬貿易を検察していた進駐軍ではないかと思える。
各地の市を監督した大倭と言うのも、畿内派遣の武官だろ?
九州を初期の百済や新羅同様に傀儡国にしていたなら
女王が卑弥呼でも日本の皇帝の傘下に有る訳で、畿内説の考古学的意味が、
邪馬台国はどこか? 卑弥呼の墓はどこか? じゃ間抜けだ。
人前に出ない卑弥呼は政治に無能な神長官のような扱いだろ?
狗弥韓国が倭地であるなら、半島進出が既に始まっている訳で
広域に軍事進出できそうもない、共立で世襲制でない弱体邪馬台国には無理だと思う。
邪馬台国が300年まで存続したとしても、畿内朝廷は400年までに
半島進出による、高句麗馬の移入や鉄の国内生産化を終えている。 >>382
>筑紫は中期の甕棺墓が衰退してるから
>優勢な勢力は交代している
優勢だった勢力は、阿波から進出した「筑紫忌部」に交代したんですね。 @阿波 >>386
「畿内」を「阿波」に置き換えましょう。 @阿波 福岡県内未満の偽倭国説は
福岡の考古学知識も土地勘すらもない 386 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2017/07/29(土) 19:39:19.17
特に一大率(いちだいそつ)を置き、諸国を検察せしむ。
って言うのが、なぜ国の首都に、諸国の監督者が必要なのか意味不明で、
この時すでに大和朝廷の支配下に有り、
徴税、対馬貿易を検察していた進駐軍ではないかと思える。
↑ 氏に限らず邪馬台国畿内説の方は狗奴国東海説とセットで論を立てます。特定の方しか認めていない事実を互いに持たれあって
邪馬台国は畿内なのだから狗奴国は東海だ、狗奴国が東海なのだから邪馬台国畿内しかないと言った論理です。
−−6段階北部九州は各地の土器を積極的に受け入れが自らの土器を他地方に出してる気配はない。この点人・産物の動きまで示す
土器の分析から九州の一角に邪馬台国を想定することはかなり難しい相談となるだろうーー
魏志倭人伝に邪馬台国が土器の輸出をしていたと書いてありますか。邪馬台国は九州内部だけで完結した歴史です。狗奴国に
ついてはこんな書き方をしてます。
−−(狗奴国の領域について)纏向では内削りの大和庄内式土器であり(東海は)排他的位置を占めるS字甕地帯で高次元の独創性を
誇示しており他からの影響を拒んでいる(中略)いわゆる狗奴国の実質的範囲を示唆している。−−
驚いたことに氏はこれ以外の事実については全く触れていないのです。
邪馬台国問題を土器だけで結論付けた方は氏ただ一人です。森岡さん少しまともに邪馬台国に取り組んでください。
貴方氏本当はよく知っているのです。優れた考古学者なのだから纏向に邪馬台国がないことは一番よく知っている筈です。 >>382
その交代劇こそ筑紫の歴史。
新たな強者が台頭するだけ。
なんと言っても福岡は最高の立地であり、そこを制覇したものこそ倭王。 >>386
伊都国より北の国を検察していたはずです。
つまり伊都国に最強の軍団がいたということ。
それこそ卑弥呼の軍団。 >>390
阿波って九州の東の倭種の国の南に有る侏儒の国だろ?
少なくとも三国志の魏の倭人伝ではそうだぞ。 >>382
>筑紫は中期の甕棺墓が衰退してるから
>優勢な勢力は交代している
優勢だった勢力は、阿波から進出した「筑紫忌部」に交代したんですね。 @阿波 >>393
>福岡は最高の立地であり
半島に近いから流入者も多く統制がとり難い
歴史的に常に外部から支配者が侵入している >>384
そうやって罵るだけで何も反論できないのは
畿内説に歯が立たないことを認めてるのと一緒 邪馬台国そのものよりもそれを探しているうちに
日本の色んな中心的存在が見えてきた
そっちのほうがもっと意味があることだった
筑紫・出雲・大和・伊勢・美馬・・そして三内丸山、ヒスイの里の新潟県
どれも無視できない >>395
>阿波って九州の東の倭種の国の南に有る侏儒の国だろ?
>少なくとも三国志の魏の倭人伝ではそうだぞ。
少なくとも三国志の魏の倭人伝では、「其山有丹」の女王国ですね。 @阿波 >>398
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27
臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 >>402 歯医者さんの小遣稼ぎの本
???????????????????????????
本居宣長(小児科の医者)や中山平次郎(おまえ、知らんだろ)も医者だった
477 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2016/09/02(金) 17:02:04.88
仮説からくる自論だからね。。オハナシにならない
247 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/03/31(金) 23:27:42.19
つい先日おバカな九州説じいさんが
九州説支持者が圧倒的に多いという現実だー!と叫びながら持って来たアンケート
http://v-183-181-162-19.ub-freebit.net./wakoku/surveys/top
の現実が、あらまあ
回答者の72.7%が自称「マニア・在野研究家」であったという
笑えすぎる現実
↑シュリーマンの例の発掘も、「仮説からくる自論」
「仮説からくる自論」を軽んじてはならない…
なぜか、差別主義者が多い畿内厨
なぜか、権威主義者が多い畿内厨 三内丸山遺跡の時代から、つまり縄文時代から
考古学的にわかっていることは
その時代にはすでに他の集落との海上交易が成立していたということ
この前提は重要だ
日本の歴史は陸で考えてもわからない
それらは非常に古くから海で互いにつながっていた >>404
帯方郡から東南
帯方郡から1万2千里
帯方郡から水行10日陸行1月(2倍暦により実質半月
異論は無いであろう >>406
事実を指摘したんだが?
九州説は説として崩壊してるわけだし 源流はもっと深いところにある
勾玉の原料、翡翠(ヒスイ)は新潟県の糸魚川でしか取れない
勾玉そのものに大して価値があるわけではないだろう
その勾玉の原料がヒスイであり、そこに穴を開けることが出来る
技術を誇ったのではないだろうか >>386
>狗弥韓国が倭地であるなら、半島進出が既に始まっている訳で
そうじゃない。
もともと倭国の最有力勢力である天津国(海人の国)は対馬海峡の南岸から北岸までを支配して、その交易を独占することで成長したんだろう。
そして博多を抑えることが、その最重要課題だったんだよ。
韓は南が倭に接していて、博多奴国は倭国の極南界としていたのは後漢書だったかな?
漢の時代は対馬海峡のみが倭国で、魏の時代には有明海沿岸の狗奴国まで倭国が拡大したのだろう。 >>408
崩壊してるのは畿内説
氏に限らず邪馬台国畿内説の方は狗奴国東海説とセットで論を立てます。特定の方しか認めていない事実を互いに持たれあって
邪馬台国は畿内なのだから狗奴国は東海だ、狗奴国が東海なのだから邪馬台国畿内しかないと言った論理です。
−−6段階北部九州は各地の土器を積極的に受け入れが自らの土器を他地方に出してる気配はない。この点人・産物の動きまで示す
土器の分析から九州の一角に邪馬台国を想定することはかなり難しい相談となるだろうーー
魏志倭人伝に邪馬台国が土器の輸出をしていたと書いてありますか。邪馬台国は九州内部だけで完結した歴史です。狗奴国に
ついてはこんな書き方をしてます。
−−(狗奴国の領域について)纏向では内削りの大和庄内式土器であり(東海は)排他的位置を占めるS字甕地帯で高次元の独創性を
誇示しており他からの影響を拒んでいる(中略)いわゆる狗奴国の実質的範囲を示唆している。−−
驚いたことに氏はこれ以外の事実については全く触れていないのです。 >>408
@箸墓古墳の円墳先行説は成り立たない@
桜井市教育委員会の1999年の第11次調査にかかわった橋本輝彦は、その報告書「桜井市立埋蔵文化財センター
発掘調査報告書、20集」に、
箸墓古墳が布留0式期に前方後円墳として築造を開始、完成していることは間違いなく長らく唱えられてきた
後円部先行説は否定されることとなろう」と書いている。
箸墓は卑弥呼の墓だという人たちがいる。
このような主張者たちは、「径百余歩」の墓と書く文献資料と、考古学上の箸墓古墳の墳型が、まったくちがうのに
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
敢えて文献資料の倭王卑弥呼の円墳に、前方後円墳の箸墓古墳を比定する理由を説明する必要がある 畿内説も九州説もどっちも正しいと思う
というのは、少なくともその地域がどちらも日本の中心的な場所のひとつだと思うから
ただ、二つだけじゃない、もっとあった >>408
近畿説って議論に負けると最後は「邪馬台国なんてどうでもいい」とか
ほざき出すからね。
まあとにかく話しにならない色々と。
近畿では鉄は溶けやすいんです(キリッとかね。
91 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2015/10/17(土) 15:54:01.43 ID:fynOFoqN0 [2/5]
箸墓卑弥呼説は見てて悲しくなってくる
纒向の発掘調査やってる人や桜井市奈良県の考古学専門家が発掘が進むにつれ
箸墓は卑弥呼の塚じゃない、誰の塚かさっぱりわからん、卑弥呼じゃなく台与の次の男王の墓だ、
などなど卑弥呼説に否定的な意見ばかり出てくるようになったた、市の広報は
予算確保や市民の興味引くために卑弥呼卑弥呼と連呼しなければならん、
でそれに踊らされてる一般人の図。
これは一般日本人が遺跡を軽んじてる証拠
卑弥呼が絡まないと価値がないとして無視してしまう知的探究心のとぼしさ、
卑弥呼に絡まない遺跡の発掘や保持なんかに金使うなという浅ましさ
見てて本当に悲しくなってくるわ
103 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2015/10/17(土) 16:22:40.01 ID:fynOFoqN0 [3/5]
91の続きになるが、奈良県や桜井市所属の考古学者はかなりキツイだろ
自治体ノータッチの考古学関連の集いなんかだと
箸墓は卑弥呼の墓じゃないっす、時代が卑弥呼じゃなく台与かそのあとっすとか言うが
次の日市のイベントで「纒向発掘〜卑弥呼の宮殿発見!」とかに出なきゃいけないからな
逆に言えば、公務員や市から金もらって発掘やってる学者の彼らが
こんな市 http://www.city.sakurai.lg.jp/himiko/ の意向によく逆らえると感心したりもする >>414
それを多元王朝説という。
その中でも列島を代表して金印を拝領したのが筑紫倭国ということになる。
卑弥呼は倭国の女王。 >>417
悪口コピペだけで畿内説には何にも反論できてないというこの事実
つまり畿内説には歯が立たない
ってことだよね >>409
歴史を語りたいからだ、ここは繁盛してるしな
例えば戦国時代版の本能寺の変の真実でコメ連発するといつの間にか誰も
反応しなくなってつまらん >>420
歴史じゃないのもを語ってるような・・・ >>411
後漢書では、極南界の倭奴國とは別に大倭王が居する邪馬臺國があり
卑彌呼は共立されている >>420
何が本能寺の変だよ
神も仏も無い、
ネタのような話?
本能 せめて人間らしく? >>421
いつも歴史の真実を語っている
マスゴミや歴史家が語らない真実のみに焦点を絞っている >>371
>考古学的根拠がない加古川の反日人種の妄想<
このような、
「反日人種」というヘイトスピーチが出て来るのが、
人種差別にクルったキョクウの殺戮テロ集団の特徴。
おそらく、大和説者らは、日頃から、
「反日」ヘイトスピーチの分裂幻覚の殺戮妄想で盛り上がる・・・・殺人鬼集団。 >>422
ほら
悪口いうだけで何んにも反論できてないというこの事実
つまり畿内説には歯が立たないって
ことだね >>426
日本人に対する反日ヘイトスピーチをしているのが加古川のお前 >>424
反論がないということは真実だと認めているということである
ここだと徐福ネタなどには反論がないから真実だと認めているということである 反日も何も、
日本なんて相手にされていないよ
モレ(仮)がいるから
相手にされているだけなんだけど
わかりやすくいうとモレ(仮)の妹
何の家なんだよ?
と思っている人もいると思う >>430
反論がないということは、相手にするのもアホらしいと思われているということ >>430
オフトピだから無視されてるだけじゃね?
w >>419
九州説には何にも反論できてないというこの事実
つまり九州説には歯が立たない
ってことだよね 『鷹の像』
があって白いケース?ガラスケース?
なかに・・・ >>377
>日本の学者の研究を信用しない反日人種の妄想などは 学問ではなくて、反日街宣活動<
文献考古史料を信用せず、
「南→東」の嘘つきダマシの日本の学者の話だけを信用する大和説人種の妄想などは、
学問ではなくて、思想宗教的な「反日ヘイトスピーチ街宣」活動の戦争・・・・。 >>436
孤独な老人のレスは見逃してあげてるということ >>437
はあ?
こじつけと言いがかり、妄想しか見たことないよ。 かなり詳しいでしょ、
数十年ほど前の写真だよ、40年くらい? >>379
>文献的には一大率に検察されている北部九州沿岸がまず比定地候補から外れる <
これも×。
一大率を命じたのが、共立女王であった、という事になる。 >>439
でも反論できないんでしょ?
そりゃ茶化されるわな
ミットもないもの >>440
お前程度の反日人種が50年間連呼してきたのは「南≠東」だけ >>442
ほら
また悪口だけで
具体的な反論が何もできない
それって九州説は畿内説に歯が立たないってことだよね
>>449
近畿厨は、朝鮮人…
朝鮮語には”約束”に相当する語彙がありません
今でも”ヤクソク”と発音します
併合後の日本式教育の中でもたらされた外来語なんです
つまり、100年ちょっと前まであの半島には”約束”が存在しなかったのです
それまではおそらく命令と服従(或いは反逆)で機能していたんです
だから連中は、自分が相手より上位であるかどうかを非常に気にします
チョンコたちの書き込みをよく見てください
かれらの人間関係は、勝った負けたの上下関係しかないのです
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
そんな連中と対等に対話が出来るわけがありません
関わらないのが最善なのですが、そうもいかない場合は
こちらが上位であることを叩き込んだ上で命令するしかありません
感謝(カムサ)、も日本人から教わった言葉です
それまで他人に感謝するという概念がなかったということです >>382
>筑紫は中期の甕棺墓が衰退してるから 優勢な勢力は交代している <
優勢な勢力は、
天孫族などの甕棺部族から、卑弥呼らの姫氏部族に交代した。 『鷹の像 白い』
人の家の写真などを集めていたのが、
いたんじゃないの?
ストーカー >>385
>九州説は 倭人伝を無視するんですか?<
「南→東」などの大和説者は、
倭人伝を無視するんですか?。 >>452
日本の九州とも本州とも仲良くしないのが北部九州説 かなり前に、とあるゲーム内に作成したキャラクター名
「りん、りん」と言っていたり
タワーの頂上のほうに『デスラー』のような人物 >>453
>筑紫は中期の甕棺墓が衰退してるから
>優勢な勢力は交代している
優勢だった勢力は、阿波から進出した「筑紫忌部」に交代したんですね。 @阿波 >>453
お前の言う「安全最短」という人類の常識であれば、北部九州の渡来人は朝鮮半島から来る ちなみに妹は
5月15日生まれ
兄と弟(もれ)がいる >>460
中国からに決まっているだろう。
卑弥呼も中国しか相手にしていない。
倭人は自称呉の太伯の末裔。 >>386
>特に一大率(いちだいそつ)を置き、諸国を検察せしむ。 って言うのが、なぜ国の首都に、諸国の監督者が必要なのか意味不明で、<
国の首都に置いたのではない。共立の軍事的中心であった伊都国に置いた。
>この時すでに大和朝廷の支配下に有り、 徴税、対馬貿易を検察していた進駐軍ではないかと思える。<
思えない。「南≠東」であり、大和は倭奴国から別れた別種の旧小国。
>各地の市を監督した大倭と言うのも、畿内派遣の武官だろ?<
大和が「大倭」。
>九州を初期の百済や新羅同様に傀儡国にしていたなら<
九州は傀儡國ではない。
>女王が卑弥呼でも日本の皇帝の傘下に有る訳で、畿内説の考古学的意味が、 邪馬台国はどこか? 卑弥呼の墓はどこか? じゃ間抜けだ。
人前に出ない卑弥呼は政治に無能な神長官のような扱いだろ?<
「日本の皇帝」なんてなかったし、「南≠東」であり、大和は倭奴国から別れた別種の旧小国。
>狗弥韓国が倭地であるなら、半島進出が既に始まっている訳で
広域に軍事進出できそうもない、共立で世襲制でない弱体邪馬台国には無理だと思う。<
伊都国が共立女王の軍事的中心であった。
>邪馬台国が300年まで存続したとしても、畿内朝廷は400年までに
半島進出による、高句麗馬の移入や鉄の国内生産化を終えている。<
大和が筑紫倭国を併合吸収継承出来たのは、ようやく白村江の後。 >>455
無視なんてしてない
その証拠に
史料批判してる >>456
筑紫こそ天皇家の起源、三種の神器の成立の地だけど?
それを辱めようとするお前は何人なんだ? 『矢羽根』
のような着物でしょ、キュウリの葉、葱の華・・・など
家の先祖の写真 奈良盆地は西日本で一番、朝鮮系の遺伝子が濃い土地だってな。
いつも嘲っている相手が自分の祖先だと知った気分はどうだ?
差別主義は自分に跳ね返ってくるんだぞ。 >>391
>福岡県内未満の偽倭国説は 福岡の考古学知識も土地勘すらもない<
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説学者は、文献だけではなく、
福岡の 考古出土の「解釈や説明」までもを、
大和説に合うように、恣意的な曲解捏造をしている。 胡瓜 胡 エビスと書いてあるでしょ?
埼玉名字辞典
大ノ国 百済となっている 王権の成立、稲作の導入など、すべて玄界灘沿岸における出来事である。
筑紫こそ倭国であり、倭奴国または伊都国こそ倭国の首都だ。 >>397
>(筑紫)半島に近いから流入者も多く統制がとり難い 歴史的に常に外部から支配者が侵入している <
いや、女王共立の軍事的中心であった伊都国の一大率が、統制した。 伊達郡川俣町という掲示板
香野という家の話をしていたり、
むかーし住んでいた事があって、
結婚した家だと言っている
蚕を飼ったり、機織りをしていた 3世紀には奈良も京都も大阪も、人の住まない沼地であったというのに、どうしてそんな沼地で邪馬台国が成立するだろうか。 >>472
延喜式 出挙稲数 >【稲作の分布】>古代は九州のほうが圧倒的に大きい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
西海道 5,990,581 @@@@@@@@@@@@@@
筑前 790,063 @@@@@@@@@@
筑後 623,581
豊前 609,828 @@@@@@@@@@
豊後 743,842
肥前 692,589 @@@@@@@@@
肥後 1,579,117 @@@@@@@@@@@@@@
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3920
延喜式は10世紀だから、古代3世紀ごろはもっと差が大きいんじゃない
弥生時代の農業生産はおそらく畿内全域と九州で10倍くらいは差があったでしょう。
九州に7万戸でも畿内には7000戸とかでしょう。
畿内の狭い見識を九州や他の地方に当てはめて論じています。 >>398
>そうやって罵るだけで何も反論できないのは 畿内説に歯が立たないことを認めてるのと一緒<
そうやって、
「邪馬壹國→邪馬台国」のダマシや、
「大和説→畿内説」などの誤魔化しや、
「南→東」の嘘つきだましや
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の無視や、
大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
大和には、(九州に比べて)、矛も、鉄鏃も、中国鏡も、絹なども、全くのように存在しない事などに、
反論せずに罵るだけで、
何も反論できないのは、九州説に歯が立たないことを認めてるのと一緒。
思考停止する大和説者。 >>399
>邪馬台国そのものよりもそれを探しているうちに
日本の色んな中心的存在が見えてきた
そっちのほうがもっと意味があることだった
筑紫・出雲・大和・伊勢・美馬・・そして三内丸山、ヒスイの里の新潟県
どれも無視できない <
魏が親魏倭王に任じた卑弥呼は、筑紫の女王。 法というものを知っているのか?
と言っている人がいたけど
死刑確定している人がいるの? >>404
>畿内説以外には説がないというのが現状だな <
「南≠東」などで大和は×になり、
九州説以外には説がない、というのが現状だな。 近代などの話
調べてみると暗殺事件があったり、
お金を持っていても・・・・・・仏が何やら・・・? >>407
>帯方郡から東南 帯方郡から1万2千里 帯方郡から水行10日陸行1月(2倍暦により実質半月
異論は無いであろう <
「帯方郡から水行10日陸行1月」は、中国人の魏使らの計測になるから、
二倍年歴ではなく、通常の日数計測。 >>408
>事実を指摘したんだが? 九州説は説として崩壊してるわけだし <
事実としては、「南≠東」などに拠って、大和説は説として崩壊してるわけだし。 その伊達郡と言う掲示板
『大川 競馬』などの話をしていたり >>483
そんな他愛もないもので崩壊すると思う理由は? >>409
>なんで畿内説スレに来るの?<
国民が、「南→東」などの嘘つきダマシの大和説に騙されて、
日本の針路や将来を間違える事が、黙過し難いから。 >>470
福岡の考古学者の研究を否定しなければ
加古川の反日人種のトンデモ歴史は成り立たない >>414
>畿内説も九州説もどっちも正しいと思う
というのは、少なくともその地域がどちらも日本の中心的な場所のひとつだと思うから
ただ、二つだけじゃない、もっとあった <
大和説はダメだよ。
大和は、筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国であったんだから。 >>487
スローガンだけで内容のないザラコクって
ただの政治狂いだろ >>487
>なんで畿内説スレに来るの?
偽書の会のパシリ反日人種の役割だから >>489
おまえは畿内説を勝手に大和説とかに歪曲してる時点でインチキなのが明白だ >>419
>悪口コピペだけで畿内説には何にも反論できてないというこの事実
つまり畿内説には歯が立たない ってことだよね <
「邪馬壹國→邪馬台国」のダマシや、
「大和説→畿内説」などの誤魔化しや、
「南→東」の嘘つきだましや
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の無視や、
大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
大和には、(九州に比べて)、矛も、鉄鏃も、中国鏡も、絹なども、全くのように存在しない事などに、
反論せずに、罵ったり悪口コピペだけで、九州説には何にも反論できてないというこの事実 。
つまり九州説には歯が立たない ってことだよね 。 >>495
3世紀に畿内なんて政治的枠組みはなかったよ。 >>495
3世紀には奈良も京都も大阪も、人の住まない沼地であったというのに、どうしてそんな沼地で邪馬台国が成立するだろうか。 中越地震、福島県
震度5・・・6など、
よく報道されていた埼玉、茨城?とか
調べてみると、ゆかりのある人の話じゃない >>498
おまえがウソついてるだけだから何の問題もない 畿内説は畿内の古代の地勢も知らずに盲信しているらしい。 >>501
このように
証拠も出さず言い張るだけなのが
トンデモ九州説 もののけ姫ではないけど
神殺しという話
誰が作れと言ったんだ?
と言っている人もいた >>502
自分がイチャモン付けたい説を
自分で作るという
マッチポンプ詐欺ね 成り上がり、下の人間なので、知るはずもない
誰々というのは、そんな家だったの?と 畿内説なんていう詐欺に引っかかるのは、考古学に無知な輩だけ。 >>428
ほら、「南≠東」などの指摘に対して、
悪口いうだけで何んにも反論できてないというこの事実。
つまり九州説には歯が立たないって ことだね 。 >>507
ほら、罵るだけで
なにも反論が出来ない
w >>509
「南≠東」だと、何か畿内説に反論になるの?
だから九州説は論が無いと言われる このような名前も書いてある
『埼玉苗字辞典 香野 浄誓寺』
『浄誓寺』 諸説あり!のアンケート最終結果 合計39票
九州説 62% (24票)
畿内説 26% (10票)
その他 13% (5票)
http://twitter.com/shosetsuari_bs/status/888676638237442049
投票期限切れたのでこのリンクは誰が見ても結果が表示されてるはず 老婆の話によると、
建設業の家ではないと言っていた
川崎に来てからも
寺院に通っていたみたいだよ
とか >>516
NHKだと機内説が強いかと思ったけど
意外と九州説が支持されてんだな
魏志倭人伝を何度も読んでれば
やっぱり九州説だと考えるのが普通だと思う 家は□□力夫氏?と
同じ家のような事を言っているけど
親の名前なども違うでしょ 九州説は文字を読むのが非常に不正確だから
白内障12人の投票かもな 関東大震災の話をしていた事もあった、
老婆が嫁に来るよりも前の出来事
老婆も舅(姑)に聞いた話
東京の、どこだったかに出かけて、
ちょうど関東大震災が起きて、転びそうになった
それだけ 民放だからアンケート調査で邪馬台国のようなジジイの視聴者数が多ければ
紙おむつや入歯、補聴器のスポンサーにプレゼンかけるんだろう まずヒミコを見つけろ。
それからの話だ。
ならば魏志は南と東を間違えてたのか、
墳墓に槨があるのかないのか、
奴婢は埋葬されたかどうか、
全部わかる。
というかヒミコは簡単だし。
■2世紀から4世紀まで
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
(4世紀初〜前)崇神
ヒミコが住んだのは大和朝廷発祥地の葛城。
ヒミコは記紀には登場しないなどとホザいてたおまえら天動説者は、
地動説者のワシにひざまずけ。
頭が高い。 >>530
紙おむつのジジイでも邪馬台国は九州であることは理解できるということか >>531
>まずヒミコを見つけろ。
>それからの話だ。
まずは倭国を見つけろ。
倭国として確実なのは福岡県内の地名しか記されていない。
首都機能は伊都国にある。
東に海を渡ったところ、つまり本州や四国にも倭種がいるとあるが、そこは倭国ではない。
卑弥呼が女王として即位した倭国は、九州北部、特に福岡県だった。
もちろん、卑弥呼がいたのも福岡県内。
そして、博多湾沿岸に王墓が集中するという考古学的証拠とも一致する。
奈良も京都も大阪も沼地の底だった時代の話である。 謎の311
マミチ、マサミチという役名の人が登場したでしょ、
手に扇、扇子のようなものを持っている人物、
たしかkpopドラマ?日本でやっていたドラマ
偶然なのかな 老婆の言う関東大震災の話に似ているだ
「どこかに出かけたときなんだよ、
ちょうど関東大震災が起きて、転びそうになったと言ってたよ」
上の名前 □□力夫氏と同じ、もじったような名前? >>535
天孫族ではないため、記紀には名前がない。
肥国王家の出身だろう。
筑紫の政権争いの結果だよ。
その時に天孫族は畿内に逃げ出している。 倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天孫族の国々は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。 『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』
このような人物が、
誰かを射殺しようとしているシーンもあったでしょ?
たしか兄で、弟と妹がいるような設定 チェーンソーのゲーム
敵の台詞「渡来人どもめ〜」となっているでしょ >>537
>天孫族ではないため、記紀には名前がない。
>肥国王家の出身だろう。
記紀のイの一番に載っている。
認めないのはおまえの人間性が最悪で屁が臭いから。
カッペは氏ね。 そもそも神武天皇の畿内での話は、記紀のいの一番ではない。
先代、先先代の王朝の話として、出雲や筑紫の話が延々とある。
偉そうなことを言う割に、実は記紀を読んだことがないのではないか? 他のスレにも書いたけど
もれ(仮)にも兄と妹がいる
よくわからないけど「弟だよ」と言っている人がいたり >>544
イの一番というのは大和朝廷の最高位の女性としてという意味だ。
細かい事で絡むなクズ。 デスラーでしょ死刑
法というのも・・・という書き込み >>546
『記紀のイの一番に載っている。』
そんな風には読めないなあ。
本当は記紀を読んだことなかったんだろ? だいたい卑弥呼が大和朝廷と関係あるという根拠ががが □□力夫
画像を検索してみて、何の家(職??)なんだよ、
と思っている人もいるはず >>548
へぇ、じゃぁ読んだことある自慢のお前ならヒミコは誰なのか答えれるよな。
誰なんだ? なぜか老婆も同じような事を言ってる
家に凄い刀、謎の刀が飾ってあった。
泥棒に入られたのか、何なのか、
わからないけど、刀が無くなっていた。
近所の人に、あげたのか、
誰かが持って行っちゃったのかな。 >>552
それはおまえの目がふし穴だから。
まぁその程度のやつだ。 これも、かなり前の書き込み
「おまえはデスラーかー!頭おかしくなるわ!!」
と言っている人がいた、言っていたというか、そういう書き込み
どのスレだったかな やまたいの話ではないと思うけど
偽の本尊の話、あったでしょ?
被災地に辺りに犯罪者が住んでいるとか 創価、何宗なのか知らないけど
そういうスレもあったでしょ 詳しいことは、わからないけど
□□力夫?のような名前の人を叩いているとか
『伊達の桃太郎』の門人の名前のような人 家から謎の刀や、本(書)などを盗んだ
・・・売ってもらった、または譲ってもらったりした家
じつは犯罪者だったとか?窃盗?
福島県、被災地周辺に、ゆかりのある人物?
創価?そういう宗派の話なのかな
家は創価(何宗?)ではなかったと言っているし 例えば『猫稲荷』
福島県福島市と出てくる、この辺り? 家は川俣町のほう、
東・・・西福沢・・・そっちのほうだと言っていた
泥棒のようなものに入られたとか 「土蔵造」の、お社?
むかーし、この辺りに住んでいた事があるんだよ
と言っている 家の先祖の写真
当時の軍の人なのか、警察なのか?
子供の着ている制服のようなもの
家に凄い刀が飾ってあって・・・、
東京のほうに出かけたり・・・職業は不詳? その伊達郡と言う掲示板
「ポリス、ポリス」
という書き込みもあるでしょ、何だと思う 川崎に住んでいるので・・・詳しい
と言っていたり
川崎区? とあるワードをググってみたところ、
かなり詳しい人がいたでしょ
いまの・・・明治頃に作られたものだから、
どうでもいいというような事を言っている人 >>478
>筑紫・出雲・大和・伊勢・美馬・・そして三内丸山、ヒスイの里の新潟県
>どれも無視できない
おさらい
「倭大国魂神社」が鎮座する阿波国美馬郡は、貞観ニ年(八六〇)までは、現在の三好郡と、木屋平村を除いた美馬郡を合わせた七郷からなり、
徳島県の中西部に位置し、山地が九〇lを超える山処(やまと)の地。
旧美馬郡では、土(はに)の神を祀る式内社「波爾移麻比弥(はにやまひめ)神社」、神々の母神である伊邪那美命を祀る式内社「伊刺奈美(いざなみ)神社」、
高天原に通じる橋を神格化した式内社「天椅立(あまのはしだて)神社」など、記紀神話
草創の地方を示す神々が祀られている。
このように太古の神々が鎮まる美馬の地に、「倭大国魂神社」も祀られている。
「倭大国魂神社」の鎮座する美馬郡美馬町重清の境内には「大国魂古墳」数基と、下段に「八幡古墳群」が現存している。
また、神社の東側(重清城台地)からはサヌカイト製の石鏃や、
阿波の青石による石斧、石鎗の出土も確認されており、この地が古くから拓かれていたことがわかる。
「倭大国魂神社」を祀らせた「崇神天皇」は、「初国知(はつくにし)らしし、御真木(みまき)天皇… 」と称えられ、
また、和名は「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)命」と呼ばれて、「みま(き)」との関わりを示している。
天皇の尊号に「美馬(みま)」を用いたのは、神々の母神が鎮まる美馬地方に天皇が入り込んだため、由緒あるその名を冠したものである。 芸能、旅芸人、相撲の話?
無名なので地方巡業、宣伝して回った >>569
「太古の神々」と自分で言っているように、それらは畿内政権が成立するより前の筑紫倭国の王達を祖先として祀ったものだよ。
イザナミは博多、八幡の神は宇佐というように。 >>520
魏志倭人伝を何度も読んでれば
やっぱり九州説だと考えるのが普通だと思う
純粋に魏志倭人伝にあたれば、九州説しかなくなってしまう
それでは、立つ手がないので、あれこれ言ってみる
その「あれこれ」が畿内説
壮大な虚妄である 南を東にする根拠
畿内説で統一的にまとめて欲しい
南を東にしないと成り立たないのはわかるが
根拠がバラバラ >>575
難くせばかり、畿内厨!!
書き込まないひともみてるんだぜ、おまえ 魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
◎重要なのは、魏志倭人伝当時九州北部は女王国ですらなく、もちろん倭国でもないことである。 結局、畿内説は時代錯誤なんだよ。
7世紀以降の奈良の文化と、紀元前からある筑紫倭国をごちゃ混ぜにしている。
そして3世紀の卑弥呼は筑紫倭国の女王に即位したのだから、九州と畿内のどちらにいたかは明らかだろう。 >>578 ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
??????????????????????????
ありえん
「兵用 矛 楯 木弓」
矛のでてこない畿内はありえない
竹箭或鐵鏃或骨鏃
↑鐵鏃のでてこない畿内はありえない
「邪馬台国畿内説」は、実証的根拠をもたない
出発点である「魏志倭人伝」の記述とあっていない
総じて、こうした↑負け犬の遠吠え的な物言いが多い畿内厨
「本職」のガクシャどももそうだから、日本の行く末がおそろしい >>578
>九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
大嘘。
倭王である女王卑弥呼の領土は、狗邪韓国かた始まり、壱岐、対馬、魏の使いの目的地である伊都も含む。
女王の領域の境界がそれより東にあるなら、魏の使いは女王国まで来なかったことになる。
そんなはずがないではないか。 >>576
>南を東にする根拠
単に間違えた。
今の世の中から地図と標識を無くしてみ。
みんな方向を間違う。
俺なんか標識見てても間違うし。
ごくごく自然な事。 >>577
書き込まないひとも大抵>>575と同感だろ >>583
茶化しかできない畿内厨!!!
「兵用 矛 楯 木弓」
矛のでてこない畿内はありえない
竹箭或鐵鏃或骨鏃
↑鐵鏃のでてこない畿内はありえない
「邪馬台国畿内説」は、実証的根拠をもたない
出発点である「魏志倭人伝」の記述とあっていない
総じて、こうした↑負け犬の遠吠え的な物言いが多い畿内厨 >>582
っていうか、南を東にしてるわけじゃない
「南って間違いだ」と言ってる >>584
なんでこうブザマなコピペを何年も続けるのかね
その思考停止ぶりは
恥の上塗り以外の何物でもない
>>585
根拠?
単に邪馬台国を畿内に持ち込みたいだけじゃないか。 586 返信:日本@名無史さん[] 投稿日:2017/07/30(日) 09:05:26.57
>>584コピペしかできない東遷説
587 返信:日本@名無史さん[] 投稿日:2017/07/30(日) 09:15:33.76
>>584なんでこうブザマなコピペを何年も続けるのかね
その思考停止ぶりは恥の上塗り以外の何物でもない
武器以前に、出土してないってとこが問題 何度も言わせるなアホ
武器以前に、出土してないってとこが問題 何度も言わせるなアホ
「兵用 矛 楯 木弓」
矛のでてこない畿内はありえない
「邪馬台国畿内説」は、実証的根拠をもたない
出発点である「魏志倭人伝」の記述とあっていない >>588-589
そういうのは
根拠がなければ ゲスの勘ぐり という
畿内説圧倒的優勢を裏付けるだけだな >>584
畿内説に反論する手立てが完全に枯渇したとおいうことか >>593
茶化しはもういいから
なんか反論してみ テンプレ嘘くさい
20年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」の
テーマをもって発掘作業に従事してきたひとが
逆のことを言ってる
最近、考古学関係者が近畿地方の弥生時代中期・後期について
語るのを良く目にするようになった。
その内容もだいたい同じで、近畿の弥生社会は階級意識の
欠如した社会であって、突如、巨大な古墳が出現する古墳時代とは
どうしてもつながらないとする意見。
中には、元桜井市教育委員会の清水眞一氏のように、
「私は、過去20年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」の
テーマをもって発掘作業に従事してきた。
別の地域の人が入ってきたと考えざるを得ないような状況であると見た。
ではどこから来たのか、考古学の史料からは特定の地域は限定できない。
とすれば、卑弥呼の邪馬台国は北部九州のどこかではないかと思われる。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku257fig2.htm#fig1 >>594
何に反論するんだ?
おまえ畿内説に反論の一つも出来てないでのに 軍部「皇紀2591年、柳条湖事件に端を発し、皇軍は5ヶ月の間に満洲全土を占領、軍事的にまれに見る大成果を収めた」
質問「皇紀2591年という事は、かつてシナに朝貢してたのは天皇家ですか?」
軍部「……」
軍部「あのいわくつきの金印をただちに国宝にせよ。朝貢してたのは九州と言う事にしたい」 >>594
邪馬台国伝ではなく倭人伝だから、で反論は終わってるよ。 それよりもサザエさん、ガンダム・・・白い猫を飼っている?
同じ家の話だという説 もんきーぱんち?
のようなキャラクターがいて・・・殺されるの?・・・不明
よくわからないけど、そのような話 古代天皇が中国に朝貢してた。
悔しい。
プライドとして認めたくない。
では邪馬台国は九州にあったという仮説を立てよう。
そして論争をずっと続けてもらおう。
そうしてるうちは天皇の朝貢という史実は決定しない。
決定しないという状況を未来永劫創ろう。
つまり、
九州説と言う幻、虚構は、畿内説者から出て来たウンコである。
まだ分からないのかw >>603
鴨厨は臭いウンコだということが分かった >>598
あの薄馬鹿は邪馬台国と倭国の区別がついていない
明らかに知能も低い
だから
奈良県は海がないのでアワビが獲れないから邪馬台国ではありえない
とか言い張る 帥升や卑弥呼は天皇と関係あるのか?帥升と卑弥呼どちらも畿内にいたとは思うが。
初耳だな。
根拠あるのか?捏造するのは、帥升や卑弥呼、天皇に失礼ではないか? >>606
帥升が畿内だなんて考えているのはお前くらいだ。
学会でも帥升は博多湾沿岸。 >>607
こんな内容のないクレームしか付けられないほど
九州説は窮地に立っている >>606
>帥升や卑弥呼は天皇と関係あるのか?帥升と卑弥呼どちらも畿内にいたとは思うが。
帥升は天皇ではない。
神武以前の神々になる。
弥生中期には出雲に王権があったと思われます。
この時代に墳丘墓で圧倒するのが出雲です。
その王権が弥生後期に防衛上の理由なのか畿内ヤマトに遷都する。
この王権は銅鐸族ですね。
弥生後期、奈良盆地には唐古鍵遺跡をはじめ複数の環濠集落がありますが、王墓らしきものがない。
当然です、王は高天原(御所市高天)に住んでましたから。
神武ことイワレヒコは2世紀末にその遷都した葛城王権に婿入りした人物ですね。
帥升ことスサノオことアジスキタカヒコネこと迦毛大御神は葛城にいたのです。
※『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけです。
ここ非常に重要 >>609
その自分が茶化ししかできていないという皮肉 >>606
大和朝廷の公式の歴史書である日本書紀によると、神武天皇は筑紫の日向の出身だよ。
天皇家の起源は筑紫というのが公式見解。 >>608
>学会でも帥升は博多湾沿岸。
天動説者が1万人集まって「学会」を形成しようとも、
地動説者の俺には関係ない。 >>611
>弥生中期には出雲に王権があったと思われます。
>この時代に墳丘墓で圧倒するのが出雲です。
>その王権が弥生後期に防衛上の理由なのか畿内ヤマトに遷都する。
日本書紀によると、出雲は高天原の軍勢に降伏し、それを受けて筑紫に王権が成立しました。
考古学的には弥生時代に博多湾沿岸に墳丘墓の中心が移動します。卑弥呼の墓といわれる平原遺跡もその一部です。
畿内の前方後円墳が広まるのはその後、古墳時代になってからです。 古事記も日本書記も、
最近の話なんじゃないの?と言っている人がいたけど
貝塚などの話とは別なのかな >>616
>天皇家の起源は筑紫というのが公式見解
またサラッとごまかす福岡半チョンカッペ。
天皇家の起源は日向。
崇神時代に神武は宮崎であると認識されていた。
だから宮崎神宮が建てられる。
福岡には天皇家の起源に関わるものは何もない。 >>615
日本書紀には筑紫に王権とか書いてないんだがね >>617 福岡には天皇家の起源に関わるものは何もない。
????????????????????????????????
日本で三種の宝物をセットでもつことができる富と権力
それが最初に現れるのが九州です。
それら三種の神器はやがて王権の象徴とみなされるようになり
王権に必須の神器として新たなものが加えられることもなく
のちの時代まで三種のままでありつづけたのは
九州のそれが権威の淵源とみなされたからに他ならないでしょう。
もし、畿内が新たに銅鐸を混ぜて四種の神器を王権の象徴としていれば
九州のそれは日本を統治する正統性に欠けた、劣った政権だったと
みなされていたでしょう。なぜ、銅鐸は廃され、三種に神器が限定されたのでしょうか?
それはのちの畿内政権が九州に出自をもつことにこだわっていたからです。 古い写本などもあるから、最近の話ではない。
古事記は偽書ではないかという批判もずっとあったが、奈良時代の編者の墓が見つかってからはそのような批判もなくなり、むしろ日本書紀よりも古い文献として参考にされるようになった。
日本書紀で日本と書いてある記事の多くが古事記では倭とある。
例えばヤマトタケルは日本書紀では日本武尊だが、古事記では倭建命だ。 >>617
あれだけ畿内一帯から出てくる銅鐸が全く魏志倭人伝の邪馬台国や倭国の国々に関しての記述に出て来ない
それどころか記紀にさえ出て来ない
たしかに、ああいう神器をはかいして山の中腹に埋めて、
「天を祭るを燔柴といい、地を祭るを??といい、山を祭るを?縣といい、川を祭るを浮沈という 」
↑白川静先生がいろいろ書いてるが、この場合には当てはまらない 記紀に銅鐸のことが書かれていないから
旧唐書倭国伝
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
↑全く別の勢力がやってきて新しく支配を始めた なりすまそうとしたが、あやしまれたということ >>620
そうですね。
卑弥呼がいたのは銅鐸圏の畿内ではなく、鏡文化圏の九州北部でしょう。
その中でも、史上最多の鏡と史上最大の鏡を副葬された女王墓である平原遺跡に注目するのは当然のことなのです。 >>619
>三種の神器
それ実質は崇神以降。
崇神の母親の物部が持ち込んだ。
しかも崇神は疫病が流行って気持ち悪いのか鏡と剣を放り出した。
これは神武から受け継いだものではなかったという証拠。
鏡と剣、今は伊勢神宮と熱田神宮にあるね。
それが何で自慢になるの? >>624
文化を伝えた人たちの移動があったんだろ。
それも王権の象徴が移動していたなら、王権そのものが移動したということ。
その上、畿内の銅鐸文化は破棄され歴史にも残っていない。 >>624
近畿の古墳の石棺のピンクの石って熊本産なんだろ?
これこそ東遷の証拠じゃねえか
おまえら、嫌いな国の、地方の産物に囲まれて死にたいと思う?
九州以外で確認された阿蘇ピンク石(馬門石)の石棺 5世紀後半〜7世紀前半(築造年代は推定)
〈1〉岡山市・造山古墳
〈2〉大阪府藤井寺市・長持山古墳 (伝・允恭天皇陵陪塚2号棺)
〈3〉大阪府羽曳野市・峯ヶ塚古墳 〈4〉奈良県天理市・鑵子塚古墳
〈5〉奈良県桜井市・兜塚古墳 〈6〉桜井市・慶雲寺
〈7〉桜井市・金屋ミロク谷 〈8〉岡山県瀬戸内市・築山古墳
〈9〉奈良市・野神古墳 〈10〉滋賀県野洲市・円山古墳
〈11〉野洲市・甲山古墳 〈12〉大阪府高槻市・今城塚古墳
〈13〉奈良県天理市・東乗鞍古墳〈14〉奈良県橿原市・植山古墳
・なぜ、大王のひつぎという重要な石棺に、九州のピンク色の石が使われているのか?
関西でとれる石ではなく、わざわざ赤い石を熊本から運んで来た理由は何か?
阿蘇ピンク石石棺の謎は「何故、九州から遙か東方へ運ばれ、使われたのか」ということのほかにもまだあります。
その一つに、地元の九州では石棺材として使われた形跡が現在のところ見つかっていないのです。 >>625
ヤマトという地名も北部九州から移った
森浩一、最後のインタビュー(足立倫行「倭人伝、古事記の正体」2012)
伊都国の平原古墓は、すべての銅鏡が破砕して墓に埋納されていたことで有名ですが
奈良県桜井市の前期の外山茶臼山古墳でも、2009年の再調査で、実に81面の
銅鏡が埋納され、ことごとく破片だったことがわかりました、2つの墓は
100年ほど年代が隔たっていますが、弥生時代の近畿には墓へ銅鏡を入れる風習も、
その銅鏡を割る風習もなかったことを考えると、北部九州の強い影響は明らかです
また「魏志倭人伝」では、中国人が倭地の朱や丹に関心を持っていたことが記されていますが、
伊都国の平原古墓や井原鑓??溝古墓では棺の中に大量の朱が使われました
近畿でも、前期の前方後円墳では遺骸の周囲に朱を撒くことが知られており、
奈良天理市の大和天神山古墳では約40キロもの朱がキビツに埋納されていた
これなども、北部九州からの風習の伝播でしょうね
そもそも、ヤマトという地域名、いずれ国名になる名称自体が北部九州からの東遷の結果です >>620
其の国が2世紀前半から存在する。
この時点で考えれば銅鐸族。
鏡はヒミコの時代に大和に持ち込まれた。
倭国大乱の相手側(物部)が持ち込んだ。
逆に考えろ、中国人が鏡祭祀を鬼道と呼ぶか? >>625
>それ実質は崇神以降。
畿内では崇神以降、つまりその頃に九州から権力が移ってきた。
4世紀だっけ?
博多湾沿岸では紀元前から三種の神器が王墓に副葬される。
つまり、考古学的には3世紀以前は博多湾沿岸に天皇家の前身となる倭国があった。 >>629
2世紀の畿内なんてますます王権ではない。
2世紀の「其の国」は博多湾沿岸しかない。
鏡だけではなく、平原遺跡ぬあるような三種の神器や鳥居を使った祭祀は魏の使いにとっても珍しかっただろう。 >>629
>鏡はヒミコの時代に大和に持ち込まれた。
それ実質は崇神以降。 >>626
>畿内の銅鐸文化は破棄され歴史にも残っていない。
完形も沢山出てるよね。
最近言われてるのは銅鐸=水源地説。
太古、湧き出る水の第一使用者が首長でありカミ。
だから山ノ神なんて言われてきた。
高天原とはそういう意味だ。
大和にある高天原(御所市高天)は見事な水源地。
大和の王はここに住んだ。
崇神以前は。 >>630
考古学者がだれも言わない「考古学的」?
w >>626
あったって根拠がないっていうか
なかったって根拠があるっていうか
東遷説終了 >>632
>>鏡はヒミコの時代に大和に持ち込まれた。
>それ実質は崇神以降。
ホケノ山は?
纏向石塚にも「あった」と仮定していいと思う。 >>629
>倭国大乱の相手側(物部)が持ち込んだ。
畿内にいた物部の祖であるニギハヤヒは八咫の鏡ではなく、十種の神宝を持って行ったはず。
その鏡は籠神社に現存しており、八咫の鏡ではない。
しかも神武天皇に示したのは天の羽羽矢だった。 >>633 最近言われてるのは銅鐸=水源地説。
??????????????????????????????????????
あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27
臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 >>633
>大和の王はここに住んだ。
金印などで王として冊封されないから王ではなく豪族。
王と呼べるのは正式に冊封された博多湾沿岸の倭王だけ。 >>630
>畿内では崇神以降、つまりその頃に九州から権力が移ってきた。
移ってきてねぇしw
逆に土師器などで分かるが、2世紀末には畿内に制圧されてる。
偉そうだな半チョンカッペは。w
というか筑紫なんて元々出雲王朝の防人集団の土地。
日本の歴史上、一度も王権が存在したことがないw >>644
>というか筑紫なんて元々出雲王朝の防人集団の土地。
>日本の歴史上、一度も王権が存在したことがないw
出雲王朝を倒して筑紫に王朝を打ち立てました、というのが大和朝廷の公式の歴史書である日本書紀の神代の巻のクライマックスだよ。
しかも考古学的にも王墓がたくさんある。 古代天皇が中国に朝貢してた。
悔しい。
プライドとして認めたくない。
では邪馬台国は九州にあったという仮説を立てよう。
そして論争をずっと続けてもらおう。
そうしてるうちは天皇の朝貢という史実は決定しない。
決定しないという状況を未来永劫創ろう。
つまり、
九州説と言う幻、虚構は、畿内説者から出て来たウンコである。
まだ分からないのかw >>643
金印は当然、政庁におかれた
皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない
印文のルールとは、二段国名が取られていたこと
「漢の委の奴の国王」
↑3段細切れ読み 根本的にまちがい!! イトまたはイドと読みます >>646
>出雲王朝を倒して
国譲りは時系列の問題。
>筑紫に王朝を打ち立てました、というのが大和朝廷の公式の歴史書である日本書紀の神代の巻のクライマックス
アホなのかwww
>考古学的にも王墓がたくさんある
日本最貧弱地だw
笑わそうとしてるのかw >>647
>古代天皇が中国に朝貢してた。
天皇制は7世紀。
倭国の朝貢は紀元前から続いているが、考古学的には出雲と筑紫しかない。
しかも出雲は弥生後期には衰退するし、記紀には筑紫が出雲を征服した経緯が細かく記録されている。 >>650
あなた考古学的には考古学的にはって連呼するけど、そんなこと言ってる考古学者はいない >>650
出雲の衰退は筑紫の衰退より後
考古学的には、な >>652 そんなこと言ってる考古学者はいない
バカばかり
ブリューゲルのめくらが、めくらたちを先導する絵を思い出す
最近の「邪馬台国=畿内説」の本
○白石太一郎「箸墓古墳と大市墓」(『天皇陵古墳を考える』学生社、2012年刊所収)
○大塚初重「東国の出現期古墳と大和政権」(『大美和』、2012年、第122号)
○大塚初重『邪馬台国をとらえなおす』(講談社現代新書、2012年刊)
○東潮(あずまうしお)著『邪馬台国の考古学』(角川学芸出版刊、2012年刊)
この四つの論著は、いずれも、国立歴史民俗博物館グループ(以下、「歴博研究グループ」と略す)の炭素14年代
測定法の結果を、みずからの「邪馬台国=畿内説」の論拠または、補強材料としてとりあげている。 >>653
出雲王朝の後に、高天原の分家の出雲国造家が成立するから。 >>654
東遷説って
くだらない中傷コピペ以外なにも出来ないの?
みじめだね >>657
現実にその末裔がいるのに、何がデマなんだ?
イミフ >>659
なにに反論しろと?
おまえ茶化しと中傷しかしてないじゃん >>655
するから何なの?
ちゃんと日本語の文章が書けない人? 662 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2017/07/30(日) 11:49:00.89
>>659なにに反論しろと?
おまえ茶化しと中傷しかしてないじゃん
惨めな畿内厨!!!
あわれー
久米邦武(1839〜1931)曰く
「邪馬台の考証時代は既に通過したり、今は其地を探験すべき時期に移れり」
(※其地とは神籠石)
「古代の地方史.西海編」の中で井上辰雄氏は「その狗奴国との交戦に備え、狗奴国に接する南をかためるために卑弥呼が
城柵を築いたのではないでしょうか。異常に多い七万戸という人々も単なる農村の人口だけでなく、諸国から徴発され、この地に
配され防備に当たった兵士や「婢千人」に象徴されるような、卑弥呼の周辺にあって彼女に奉仕する数多くの官人や官僚、守護兵を
含むものだったと思う。**黛弘道は筑後、佐賀の両平野に福岡県朝倉郡の杷木神籠石を頂点とする5つの神籠石が取り囲んでいる点
に注目していてのは、極めて興味深い指摘である。この神籠石が築かれた年代が果たして三世紀のさかのぼるかは疑問としても、女山
の産女谷の神籠石の列石から中広の銅矛2本が発見されたことは、女山は弥生時代の遺跡であったことを認めなければなるまい。
仮に神籠石の築造が6世紀以後のものとされても、それらの城柵は卑弥呼の時代の遺構を拡大し継承したことも考えられるからである。」と語っているが決定的な築造年代に及んでいない。
.
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27
臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に象徴された“民族戦争”
であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの労働力とされた。
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった。
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 >>658
>>>650
>記紀にそんなこと書いてないだろ
つ 出雲の国譲り 話の主旨がボケてきている気がしますが、
邪馬台国の位置論に関しては畿内以外に既にありませんよ。
特に都する場所というなら女王卑弥呼が誕生した、
選出されたという意味でもありますからね。
それは保津、保都、ホトという意味からも
田原本辺りを指す言葉です。しかもここは百襲誕生逸話もある場所です。
何度もいいますが、邪馬台国の位置論は既に終わった話ですよ。 >>670
だから九州説や東遷説は
論点を必死でボカすしか無いんでしょ >>669
つまりもう九州説には
自分の思考を文章にできるレベルの人が
残ってない
ってことでしょ また異常に阿波を強調する人もいますが、四国はむしろ
邪馬台国というより母体となった国という意味合いが強いでしょう。
卑弥呼を生んだ母の国、そういう解釈であって
邪馬台国ではないと思いますね。 >>668
女王国の東、海を渡る(関門海峡のこと)千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。(銅鐸族、蝦夷ほかのこと)
^^^^^^^^^^^^^^
↑だからその説は、少なくとも倭人伝的にはなりたないから
女王国の東、海を渡る千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。又侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り、人の長(たけ)三・四尺、
410 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/04/25(火) 15:29:08.37
侏儒國が高知県の西部の足摺岬方面。沖の島に「低身長部族が江戸時代まで存在していた」という記録がある。
すばらしい!!
又有侏儒國在其南
↑侏儒国は、高知県沖の、沖の島だよ
石切で有名な 強制労働でじっさいに小人が多かったらしい
江戸時代の地誌「沖の島記」にそれらしき描写がある >>671
三世紀の邪馬台国を九州に比定するなんて
どんなアクロバティックな解釈をしてももはや無理なのにね。
半島への窓口である伊都、奴国でしかないのに。 関門海峡を「海」と表現するには無理がありすぎる。
古代文献的にもあそこは「門」ですよ。 高天原は筑紫にはない。
俺は阿蘇ではないかとも思ってたが、それらしき根拠もない。
やはりヤマト朝廷発祥地の葛城だ。
金剛山(高天山)だ。
ここにはタカミムスビを祀る高天彦神社がある。
アマテラスの原像としか考えられないシタテルヒメ(高姫)を祀る神社が高鴨神社など多数ある。
スサノオの分神アジスキタカヒコネ=迦毛大御神(かものおおみかみ)が高鴨神社で祀られている。
高木神社という小さな神社の祭神はタケミカヅチ。
高天原候補は全国に多数あれどこれほど由緒ある地域はほかにない。
高天原は葛城に実在した。
御所市高天だ。
スサノオこと帥升はここから生口160人を引き連れ洛陽に行った。
しかし朝貢失敗。
恥ずかしいから出雲に引きこもったのであろう。 そもそも農民が偶然で金印を発見したというのは話に無理がある 少なくとも六世紀位の価値観、記紀においての高天原は
葛城山や高野山辺りを念頭にしてますよ。
少なくとも高野山辺りを攻め込んだような話は無いです。
神武伝承に至っても吉野入りして一度死んで蘇生する
記述がありますからね。 金印は江戸幕府による捏造。
あれほどの物を作るには相当な組織が関与した。
捏造した理由は簡単。
ヤマト朝廷が朝貢していたと認めたくなかったから。
幕府、知識人、総がかりで九州説を創った。 >>676
そもそも魏志倭人伝には穴門を通過したことが書いてない。
魏の使いは畿内まで行っていない。 >>681
豊前王朝―大和朝廷の前身 単行本 ? 2004/2
大芝 英雄 (著)
大和朝廷は豊前王朝を取り込んでつくられていた。21世紀の新しい文献学が、今、始まる。
内容(「MARC」データベースより)
「古事記」「日本書紀」は大和朝廷の誕生の記録とする通説に対処した異説の全面展開。「記・紀」は九州・豊前王朝の記録であり、第38代天智天皇紀を転回点とし、天武・持統天皇より大和朝廷は始まったとする説をとく。 >>682
偽造説は考古学的に否定されている。
他の国でも同様の印章が発見されている。 >>671
卑弥呼がいた「其の国」はどこにあったどのような国であったか。
これは話をぼかしているのではなく、本質の議論だよ。 >>428
>ほら 悪口いうだけで何んにも反論できてないというこの事実 つまり畿内説には歯が立たないって
ことだね <
「邪馬壹國→邪馬台国」のダマシや、
「大和説→畿内説」などの誤魔化しや、
「南→東」の嘘つきだましや
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の無視や、
大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
大和には、(九州に比べて)、矛も、鉄鏃も、中国鏡も、絹なども、全くのように存在しない事などに、
反論せずに、罵ったり悪口コピペだけで、九州説には何にも反論できてないというこの事実 。
つまり九州説には歯が立たない ってことだよね 。 まぁ結局私も女王の国なんて九州の南辺りにあった国と
思わせたかったという意見ですね。
そういう南下の流れもあって10世紀以降
琉球辺りにノロのシステムとして
後々残っていったのではないかと思ってます。 >>685
江戸時代にはそっくりに作る資料も技術もあった。
考古学的に否定などと適当な事を言うな。
それを言うならまず出所をはっきりさせろ。 >>690
それ以降に他国でも同様の金印が見つかっているっていうの。
お前のはただの根拠のない言いがかり。 >>684
>「古事記」「日本書紀」は大和朝廷の誕生の記録とする通説に対処した異説の全面展開。「記・紀」は九州・豊前王朝の記録であり、第38代天智天皇紀を転回点とし、天武・持統天皇より大和朝廷は始まったとする説をとく。
概ねこの通りだろうけど、豊前王朝などという造語ではなく、正しい国名である倭国という名称を使うべきだよ。
筑紫倭国の存在を明確にせず、大和朝廷と混同するからおかしなことになる。 卑弥呼は筑紫倭国の女王。
ヤマト政権とは関係ない。 >>429
>日本人に対する反日ヘイトスピーチをしているのが加古川のお前<
このような「反日だ」としてのヘイトスピーチ人種は、
トランプの白人至上主義やナチスの「世界に冠たるのドイツ」などと同じように、
人種差別的日本国家至上主義の、キョクウの殺戮テロの・・・・であり、
そのような・・・・には、議論をして、何を言って上げても無駄で無意味であるから、
相手にせずに、構わないようにしましょうね。
そして、大和説者や大和説学者らの中にも、同じような・・・・殺人鬼が多いんでしょうね。 >>435
>九州説には何にも反論できてないというこの事実 つまり九州説には歯が立たない ってことだよね <
大和説者は、
「邪馬壹國→邪馬台国」のダマシや、
「大和説→畿内説」などの誤魔化しや、
「南→東」の嘘つきだましや
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の無視や、
大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
大和には、(九州に比べて)、矛も、鉄鏃も、中国鏡も、絹なども、全くのように存在しない事などに、
反論せずに、罵ったり悪口コピペだけで、九州説には何にも反論できてないというこの事実 。
つまり、九州説には歯が立たない ってことだよね 。 >>694
この投稿を読んで、書いた人の頭がおかしいと思わない人がいたら
顔が見たい >>449
>ほら また悪口だけで 具体的な反論が何もできない
それって九州説は畿内説に歯が立たないってことだよね <
ほら、大和説者は、
「邪馬壹國→邪馬台国」のダマシや、
「大和説→畿内説」などの誤魔化しや、
「南→東」の嘘つきだましや
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の無視や、
大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
大和には、(九州に比べて)、矛も、鉄鏃も、中国鏡も、絹なども、全くのように存在しない事などに、
反論せずに、罵ったり悪口コピペだけで、九州説には何にも反論できてない 。
つまり、九州説には歯が立たない ってことだよね 。 >>690
江戸時代のそっくりに作れる資料って何よ >>452
>近畿厨は、朝鮮人…<
これも、
トランプらの白人至上主義や、ナチスの「世界に冠たるのドイツ」などと同じように、
人種差別的な「国家至上主義のキョクウの殺戮テロの・・・・」の投稿のようであり、
そのような・・・・には、議論して、何を言って上げても無駄で無意味であるから、
相手にせずに、構わないようにしましょうね。 >>456
>日本の九州とも本州とも仲良くしないのが北部九州説<
「大和が倭国の別種の旧小国であった」という史料事実を認めないのが、
「南→東」の嘘つきダマシの大和説。 >>698
そういう話は偽造説の本に書かれてる。
つまり偽造することは可能。
実際に偽造したかどうかの問題。 >>460
>お前の言う「安全最短」という人類の常識であれば、北部九州の渡来人は朝鮮半島から来る<
「安全最短の原則」であり、
気候変化や風や海流や、怖い部族の圧迫があれば、それぞれに対応した「安全最短」が有り得、
列島全域では、南洋からも大陸や半島からも、流入があった可能性が十分にある。 >>706
>「邪馬壹國→邪馬台国」のダマシや、
テンプレで論破されてる。
>「大和説→畿内説」などの誤魔化しや、
単なるウソ。
>「南→東」の嘘つきだましや
南は間違いだと言ってるだけ。
>「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の無視や、
そんな史料ない。
>大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
テンプレで論破されてる。
>大和には、(九州に比べて)、矛も、鉄鏃も、中国鏡も、絹なども、全くのように存在しない事
テンプレで論破されてる。
今さら歯牙にも掛ける必要ない。 >>488
>福岡の考古学者の研究を否定しなければ 加古川の反日人種のトンデモ歴史は成り立たない <
大学や公的機関に勤務する考古学者の殆どは、
思想宗教的な上司の「大和説ありき」の結論先にありきであるから、
考古発掘事実報告にはある程度の信頼が置けても。
それに対する「解釈や説明」は、全くのように信頼性がない。 >>491
>>なんで畿内説スレに来るの? <
>偽書の会のパシリ反日人種の役割だから <
国民が、「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・・的大和説者に騙されたり、
結論先にありきの右翼的組織の偽書説派の・・・・的策謀に騙されて、貴重な史料を失われるのが、
黙過し難いから。 >>495
>おまえは畿内説を勝手に大和説とかに歪曲してる時点でインチキなのが明白だ<
私が古代史の本を読むようになった55年以上前には、
畿内説とは言わずに、「大和説」と言っていた。
だから、大和説者は、
「大和」では都合が悪くなって、「旧小国」の範囲を広くする必要があって、
「旧小国の範囲」を「畿内」や「近畿」に広げるダマシをした。 >>708 >大和には、(九州に比べて)、矛も、鉄鏃も、中国鏡も、絹なども、全くのように存在しない事
テンプレで論破されてる。
今さら歯牙にも掛ける必要ない。
されてねー
わが国へ伝来した絹文化は、はじめの数百年間、北九州で醸成された後、古墳時代前期には本州の近畿地方と
日本海沿岸地方にも出現するが、それらは北九州地方から伝播したものと考えられる
…この結論に変わりなし >>503
>このように 証拠も出さず言い張るだけなのが トンデモ九州説<
このように 、
論点に関する議論もせず、反論も出さず、証拠も出さず、
口先での誹謗罵倒宣伝を言い張るだけなのが 、
トンデモ大和説 者。 >>512
>「南≠東」だと、何か畿内説に反論になるの? だから九州説は論が無いと言われる <
邪馬壹國や女王の都は、不彌國の南にあって、
「東」とは書かれていないから、東にある「大和」説の反論になる。
だから大和説は論が無いと言われる。 >>518
>逃げ回り九州説 <
逃げ回り大和説 。 まず畿内説をとる場合のネックは南に進む行程論だけなんだよね。
投馬国、邪馬台国と南へ進む記述があるのはやはり畿内説には弱点に映る。
でもこれは現在においての印象操作的な指摘に他ならないんですよ。
まず当時は中国において測量技術が正確とはいえないし、
それを証明する地図のような証拠もない。
また地勢感自体あくまで中国中心であり、
地球を球体とすら認識していない。それに天動説だしね。
更に倭人伝の記述上において作為的に間違えている可能性も大いにある。
これらをもって言えるねは「方角を間違えるわけがない」なんて意見は
やはり印象操作的な暴論にすぎません。 >>527
>九州説は文字を読むのが非常に不正確だから 白内障12人の投票かもな<
大和説は、文字を読むのが非常に不正確だし、読んでもそれを否定曲解するから 、
ハクチの・・・・サギシの10人の投票かもな。 >>694
反日人種はお前だ
他の人を巻き添えにするな、厚かましい >>716
ならば、三国志の方位はすべて疑義が残るよ また邪馬台国を南側に位置して倭を九州の南側にあたる
東治の東側あたりの国としている以上は
方角を間違えているとしか言えない訳です。
また間違える理由としては中国における神仙思想が
念頭にあるという事で説明可能です。
朝鮮半島の東側には神仙の住む扶桑の国があるという
事が頭にあると、邪馬台国を東側にあるとは言えませんからね。 >>716
当時、中国にかなり正確な地図はあったよ
倭国は載ってないけどね >>709
他の類例を知らない考古無知に解釈なんかできるか >>711
証拠はあるの?
あなたはウソばっかりついて来たから口先だけじゃ信用されないよ >>720
倭へは海を渡っている事と、神仙思想が
念頭にある事で説明がつくでしょう。
女王の国は扶桑国とは相容れない考えです。 >>722
意味不明。
概ね九州が東治東にあると思ったんだろう。
畿内を知っていたわけないだろ。 >>721
証拠もなく言い張っているのは畿内説だろ >>708
資料を引用して反論している相手に、ただ罵倒するだけでは、旗色が悪くありませんか? >>711
>私が古代史の本を読むようになった55年以上前には、
55年間で少しは成長しろよ、反日ボケ爺 >>703
>>>701
>そんな史料事実ないし
旧唐書は読んでいないのか?
畿内説は都合の悪い文献は無視するのが得意だよな。 >>724
だから私は敢えて願望を込めて南側に位置する国とした、という説です。
朝鮮半島の東側には神仙の住む男王のいる扶桑国があるはずだと。 卑弥呼は筑紫倭国の女王。
ヤマト政権とは関係ない。 >>729
ひとことも反論できず悪口いうだけ
なんと情けない九州説 >>735
中国と本州の間にある九州の存在は無視ですか。 >>734
またウソだね?
書いてあるというなら引用してごらん >>738
意味不明ですね。伊都や奴国の場所で何も無視してませんが?
九州を特別視してないだけですよ。 >>730
資料を引用して反論し って
なにを引用した?
何を指して、ただ罵倒するだけと言うの?
あなた、言ってることが歪みすぎでしょ >>737
いや、それはあなたでしょう。
>>721
>>>712
>反論も出来ず言い張るだけか九州説 >>730みたいな発言が出るのは
アンチの旗色が悪い証拠だな >>739
>>>734
>またウソだね?
>
>書いてあるというなら引用してごらん
旧唐書
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。 そもそも倭人伝の編纂者が実際見聞している訳じゃありませんからね。
位置や方角に関してはまず当時の知識人の常識を念頭にすべきですよ。
当然海を渡った東方に神仙が住む国があるという常識を念頭にすべきです。 畿内はヤマト王権の遺跡
邪馬台国の遺跡と示す遺物は皆無 >>747
言ってた
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」
と違い過ぎ ずっと航海測量技術が進んでもインドを目指して
アメリカに着く位だしな。 >>708
>>「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の無視や、
>
>そんな史料ない。
旧唐書からの引用なのに、そんな史料はないと言い張っていますよ。 >>753
旧唐書
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。 >>751
こうやって
トンデモ九州説は後代史料の
信頼性ひくい個所ばかりを
寄せ集めて
捏造されている >>755
そんなことが旧唐書のどこに書いてある? このように見え見えの嘘で塗り固められてるのが九州説 >>753
あえて言えば、大和は九州の地名を後に畿内に移転したのに、その前の段階で畿内の地名に大和と使ってしまったのが、ザラコクの間違い。
日本国が倭国すなわちかつての倭奴国の別種というべき。 >>752
鍵唐古から出た絵画土器なんてかなり重要でしょ?
少なくとも弥生後期までにあのような建物があの周辺にあれば
それは間違いなく候補地です。しかもあの辺りは
保津でもあり百襲伝承地ですからね。 >>749
あまりにも短絡的
あんたの結論は邪馬台国は無かったでも成り立つね
丹山も無くてもいいし・・・
あんたの根拠は倭人伝より神仙思想?????? >>766
鍵唐古から出た絵画土器とは楼閣船の楼閣だろ、建物じゃない、船である
周辺に豪華な楼閣船がとめてあったということである >>767
色々アプローチを変えてみても畿内以上の場所は
残らなかっただけですね。
邪馬台国の位置論自体は既に終了です。
丹山重視は元々九州だけで話を完結しがちな九州説に
対しての意見ですよ。倭の範囲は本州中央部までは見るべきですよ、と。 >>766孝霊厨
>鍵唐古から出た絵画土器なんてかなり重要でしょ?
>少なくとも弥生後期までにあのような建物があの周辺にあれば
>それは間違いなく候補地です。
あればねwww ところが、それが無いというwww >>769
楼船ってどんなもんだか知らないで適当に書いてるだろ >>770
船体の部分を隠して復元しているのはみえみえである
木製お面でもやらかすしな 鍵唐古周辺に大型船なんてさすがに存在しないですよ。
鍵唐古周辺は弥生集落の密集地なんですけどね。
それが橿原方面や桜井方面に向けて重なりあってると考えられてますよ。
何より保津という地名に、そこにも弥生集落や鏡作神社が
存在している事実を忘れてはいけないですね。 >>761
筑紫城の部分だけは新唐書からの引用でしょう。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。 >>771
女王国以北、周旋5千里である
九州から本州中央部までの周旋なら数万里だろ >>778
>鍵唐古周辺は弥生集落の密集地なんですけどね。
弥生集落は全国にあるのに、なぜそこを邪馬台国だと決めつける? >>778
その当時は鍵唐古周辺まで大型船でいけたんだ 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。 >>737
>>708 >大和には、(九州に比べて)、矛も、鉄鏃も、中国鏡も、絹なども、全くのように存在しない事
テンプレで論破されてる。
今さら歯牙にも掛ける必要ない。
弥生時代、九州からは各地で絹が出土している。
たとえば、吉野ヶ里遺跡。
また、福岡県甘木市の栗山遺跡
http://inoues.net/nyumon/amagi_kuriyama.jpg
近畿地方からの弥生時代からは絹は全く出ていない。
絹の出ない近畿地方は邪馬台国ではありえない。 卑弥呼の勢力がヤマトに侵入したのは、倭国大乱の最中の2世紀末だろう。
よって卑弥呼がヤマトの生まれである可能性はまずないな。
卑弥呼以前のヤマトの支配勢力は狗奴国だろう。 >>781
弥生集落の集中と保津という地名と各種伝承の存在。
ホツマとはその意味でしょ。
>>782
鍵唐古に関しては私も一応関与してますが、
船である意見なんて有り得ないですね。
そもそも大型船が入れたのは河内湖辺りまでだろうと言われてますよ。 九州は倭国でもないし、倭人の国でもない。
1世紀中頃に伊都国は畿内のクニから倭人の王を迎え入れているが。九州の民は倭人ではない。 大阪湾の倭人勢力が弥生中期に唐古鍵まで支配下に置いたんだろう。
唐古鍵から出た人骨は大陸系だし。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が潮岬→淡路島に渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。 >>708 >大和には、(九州に比べて)、矛も、鉄鏃も、中国鏡も、絹なども、全くのように存在しない事
テンプレで論破されてる。
今さら歯牙にも掛ける必要ない。
されてねー
>>168 :孝霊厨:2016/02/11(木) 10:01:20.22
>筑紫、北部九州が古代倭国の主要舞台なら
>国生み神話で真っ先にその事を述べますよ。
>だが現実は淡路島周辺が舞台となってますからね。
これは畿内説にとっては諸刃の剣だな。
天の沼矛でかき回して垂れたしずくで島が生まれたわけだが、矛を使っている点が畿内説ではまずい。
畿内で出土する矛の年代はいつだ? そもそもシキという地名からも河内から桜井辺りまでカバーしており、
信貴山はその象徴でしょう。その麓には
弥生中期最大級の多紐細文鏡も確認済みです。 >>786
>船である意見なんて有り得ないですね。
>そもそも大型船が入れたのは河内湖辺りまでだろうと言われてますよ
大型船が入れない大和盆地など候補地にすら、なれない >>790
矛と言っても六世紀の価値観に他ならないので深く考える必要ないですね。
箸墓伝承の箸が出てくるのもおかしいですし。
今戦国時代のマンガ作って髪染めたりするのが
出たりするようなもんですよ。 >>793
簡単に大型船なんて来たら攻め込まれてアウト。 >>785
>卑弥呼の勢力がヤマトに侵入したのは、倭国大乱の最中の2世紀末だろう。
其国は2世紀前半から男王が続いてる。
ヤマトに侵入した卑弥呼の勢力って何なんだハゲ。 >>790
そもそも矛とはなんだと聞かれて答えられないのが九州説 >>784
そんなレベルじゃ
テンプレに反論できないで
逃げ回ってるのも
納得だな >>794
都合の悪い記述は無視ですか。
畿内説の常套手段ですね。
オノゴロ島は博多湾の能古島のことだと言われています。
周辺は銅矛・銅鏡文化の中心地、三種の神器を持つ王墓がある倭国の都、倭奴国です。 >>796
だから、畿内説は東遷を前提にしないと成り立たないんでしょ。
あり得ない。 >>799
中国の史書は、倭国について一貫して倭奴国または伊都国にあった筑紫城を都としているのですよ。 >>796
2世紀末以前にヤマトに男王がいたのか?
初耳だな。
邪馬台国=ヤマト国は、ただ卑弥呼が都を置いたところだ。
卑弥呼以前は、ヤマトの地に王がいた根拠はない。
男王がいたのは、倭国。
ヤマトの地は卑弥呼以前も倭国の一部だろうが、倭国の男王がそこにいたかは別の話。 >>797
丹山は解釈の問題
兵用 矛 楯 木弓
↑矛のでてこない畿内はありえない >>797
>>>790
>そもそも矛とはなんだと聞かれて答えられないのが九州説
福岡の博物館にでもいったら?
言いがかりのレベルが低すぎ。 >>805
自分で漢書から新唐書まで読み直したらどうですかねえ。
畿内説なんて馬鹿らしくなりますよ。 >>805
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。 >>810
じゃ、なんで文献学者にも九州説がいないの? >>801
>だから、畿内説は東遷を前提にしないと成り立たないんでしょ。
>あり得ない。
あぁそれは纏向にヒミコがいたと言ってる畿内説の連中の事だね。
でも俺は違うから。
高天原(御所市高天)に2世紀前半からいた王族からヒミコが出たと思ってるから。 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。 結局、九州説ってのは
あちこちの史料からいちばん怪しい部分ばかり掻き集めて
ダンゴに丸めて主観で味付けしたものだな >>817
都合の悪い文献は無視するのが得意だよな。
じゃあ畿内説はどの文献を根拠とするの? >>816
>「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」
とは似ても似つかないな
やっぱり詐欺だ >>814
2世紀の畿内に王族なんていないよ。
考古学的証拠が皆無。 >>815
>>>812
>それの情報源は記紀だから意味なし
都合の悪い文献は無視するのが得意だよな。
じゃあ畿内説はどの文献を根拠とするの? >>820
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。 >>824
倭人伝では魏の使いは伊都までしか来ていないですよ。
そして卑弥呼に詔書を渡しています。 >>825
福岡の博物館にでもいったら?
言いがかりのレベルが低すぎ。 >>824
畿内に王墓(三種の神器や璧などの威信材を含む墓)はありますか? >>823
つまり宮崎の高千穂だって話を歪曲して
北部九州と書いてある一つの史料であるかのように
捏造したわけだ
九州説は悪質だなー >>829
嘘は良くありませんね。
記紀には宮崎だなんて書いてありません。
筑紫の日向と書いてあります。
後唐書では筑紫城とあり、日向は抜け落ちていますが、旧唐書では古の倭奴国のことだとも書いてあり、明らかに福岡のことです。 >>830
10世紀時点で筑紫日向が今の宮崎県だという説があると思う?
これだからトンデモ説は困る >>829
歪曲しているのは自分じゃないのか?
犯罪者は自分のおかした罪を他人がやったように言うんだな。 須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえないこと。 まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえないこと。
ホントな
これ、すごく感じる
だから、利権付きの痴呆公務員が多いんじゃないかな、畿内厨 >>838
崇神天皇と同じ大きさの墓に葬られてる大伯母さんなら女王だろう >>842
>>840
負けた九州説
近畿厨は、朝鮮人…
記事 日本人の観光客には「食事」に必ず小便やツバを入れてやるんだよ!
朝鮮語には”約束”に相当する語彙がありません
今でも”ヤクソク”と発音します
併合後の日本式教育の中でもたらされた外来語なんです
つまり、100年ちょっと前まであの半島には”約束”が存在しなかったのです
連中は、自分が相手より上位であるかどうかを非常に気にします
チョンコたちの書き込みをよく見てください
かれらの人間関係は、勝った負けたの上下関係しかないのです だから、ほら↓
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
【速報】韓国、日本人の観光客には「食事」に必ず小便やツバを入れてやるんだよ! 「日本人には天罰が必要」と笑う
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1376493473/291-
韓国では、日本人の観光客には「食事」に必ず小便やツバを入れてるのは普通です。そして
旨い旨いと全部食べるですから笑いが止まりませんよ(大笑い)。
東亞日報の報道によると、「韓国の外国人に対する接客水準は世界最低レベルですから。
小便やツバを入れることは、昔も今も韓国では常識ですから」と笑う。
「韓国では日本人だと見るやいなや、韓国人店員同士で韓国語で悪口を言いまくりながら
接客していますよ」。 「おいおい、日本野郎が来たぞ」「ああ、お前の小便か、毒でもいれて
やれよ」だなんて普通ですよ。 <東亞日報 2013/8/14> >>833の訂正
>>830
10世紀時点で筑紫日向が今の宮崎県じゃないという説があると思う?
これだからトンデモ説は困る つまり東大寺の坊さんが宋に持って行った本に書いてある「筑紫日向宮」は当然ながら宮崎県のつもりで書かれてる 古田説に依存するようになっちゃ
九州説も終わりだな >>821
>2世紀の畿内に王族なんていないよ。
>考古学的証拠が皆無。
いるよ。
王は水源地を支配するからね。
水源地を支配するのがカミ。
水源地である名柄遺跡が確か畿内X期だ。 >>848
古代史を疑う (古田武彦・古代史コレクション) 単行本 ? 2011/12/1
古田 武彦 (著)
↑そんなあなたに
巻末のシナ人学者の長文解説が出色 >>847
宋の時代とは、これまた随分と後世の文献ですね。
その時点までに誤解が広まっていたということですね。 福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や丹波、近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。 >>852
そんなもん使って邪馬台国がなんだカンダと言うのが
トンデモ九州説 >>578
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
>◎重要なのは、魏志倭人伝当時九州北部は女王国ですらなく、もちろん倭国でもないことである。<
「南→東」の嘘つきダマシをしているから、×ね。 >>857
「南→東」嘘つきダマシの典型は
古田の道標読法 >>582
>南を東にする根拠 単に間違えた。 <
魏使らは、周髀算経の「日の入りと日の出での棒の影端を結んで東西を決める」事を知っている」から、
間違えない。
>今の世の中から地図と標識を無くしてみ。 <
当然、案内をする倭人らもいた。
>みんな方向を間違う。 俺なんか標識見てても間違うし。 ごくごく自然な事。<
「大和説ありき」というような思想宗教的なサギシ群は、
当然、間違えようとするし、改竄する。
ごくごく自然な事。 残念ながら九州には王族の伝承がない。
筑紫から硯が見つかり文字があったのが確実であるにも関わらずない。
2世紀前半から存在するヒミコを生んだ王権なら必ず伝承されてるはず。
畿内にはある。
今も神様として庶民の信仰をあつめてる。
先日も尼崎で大物主神社を見つけた。
時間の都合で参拝しなかったが、
ヒミコを生んだ王権の伝承は畿内には存在するのだ。 >>860
おまいさん、そんな露骨なウソつくなよ
まあ、おまえもともと信用ないから困らないかもだけど >>862
>残念ながら九州には王族の伝承がない。
>筑紫から硯が見つかり文字があったのが確実であるにも関わらずない。
記紀に筑紫の日向に天皇家の祖である天孫族がいたと書いてありますよ。 >>585
>っていうか、南を東にしてるわけじゃない 「南って間違いだ」と言ってる <
っていうか、「南」が間違いである確率は、0.5%よりもはるかに少ない、と言っているし、
魏使らは、周髀算経の方法を知っているから、「南と東を間違える筈がない」と言っている。 だから九州にいる神様で説明してくれ。
吉竹高木、須玖岡本に何という神様がいたのだ。
平原は?
当然、誰でも知ってる神様なんだろうね。
だって王権なんだから。 >>592
>畿内説圧倒的優勢を裏付けるだけだな <
国民の6割位が九州説であり、
大和説は、3割位。 >>866
九州にいたヒミコの時代は何という神様がいたんだ?
ヒミコのお父さんも神様なんだろうね?
誰? >>593
>畿内説に反論する手立てが完全に枯渇したとおいうことか <
大和説者らは、九州説に反論する手立てが完全に枯渇した、と言うことか。 >>868
イザナギとか猿田彦とかニニギとか、記紀にいくらでもいる。 >>870
神というのは王族のことだよ。
だから卑弥呼の時代は卑弥呼だよ。
平原遺跡の主。 >>872
例として無理があり過ぎ。
それらの神様はヒミコの時代ではない。
神様にもちゃんとした時系列がある。
日本は実際に存在した人物が神様になるのだから。
九州のヒミコ、またはヒミコのお父さん、お母さんは何という神様なんだ?
ちゃんと祀られてるよね? >>873
具体的に平原近辺の何神社に祀られてる何という神様なんだ? 卑弥呼の親は倭国大乱の時代だから、王族だけれど王ではなかったのだろうね。
しかも天孫族ではなく肥国王家なら、記紀には記録されていなかった可能性が高い。 >>875
高祖神社は彦火火出見、細石神社は木花咲耶姫 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 >>877
だからそれらの神様は時代が違うってw
ヒミコのお父さん、お母さんは何と言う名前で祀られてるの? >>603
>つまり、 九州説と言う幻、虚構は、畿内説者から出て来たウンコである。 まだ分からないのかw<
つまり、
大和説と言う幻、虚構は、
「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」、
から出て来たウンコである。
まだ分からないのかw 。 九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
大和朝廷発祥地である高天原(御所市高天)である。
径百余歩の人為墓も存在する。
邪馬台国とは、この大和朝廷発祥地であり、これを疑う余地は全く無い。 >>605
>あの薄馬鹿は邪馬台国と倭国の区別がついていない 明らかに知能も低い
だから 奈良県は海がないのでアワビが獲れないから邪馬台国ではありえない とか言い張る<
この投稿子の薄馬鹿は、
「邪馬台国」なんて存在しない、という事も判らず、
明らかに知能の低いサギシ。 >>879
時代が違うという根拠は?
それらの神はいつ頃の人物だと思う? 九州では、
誰 も 祀 ら れ て な いwww
これは致命的欠陥wwwwww >>610
>こんな内容のないクレームしか付けられないほど 九州説は窮地に立っている <
こんな根拠も論理も内容もないクレームしか付けられないほど
大和説は窮地に立っている 。 >>883
彦火火出見、木花咲耶姫は神武より3世代前だ。
彼らを其国の男王とすることは可能だ。
ならばヒミコは誰になるのだ? >>879
>>>877
>だからそれらの神様は時代が違うってw
時代が違うという根拠は?
それらの神はいつ頃の人物だと思う? >>611
>※『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけです。
ここ非常に重要 <
記紀は、どちらも、「倭国の存在や歴史を抹殺」しようとしていますから、
歴史での「絶対的根拠」にはならず、半分×書しかでしかない。
これが、非常に重要。 >>886
倭国大乱で天孫族が筑紫を去った後に即位したんだよ。
だから記紀に名前はない。 御所市高天が高天原である根拠はない。
卑弥呼以前にヤマトの地に倭国の王がいた痕跡はない。
ヤマトの地は倭国の一部だろうが。
ヤマトの地が倭国の都であったのは、卑弥呼以降、台与の時代まで。
4世紀、四道将軍以降は、別の地に移った可能性も検討しないといけない。 >>614
>天動説者が1万人集まって「学会」を形成しようとも、 地動説者の俺には関係ない。<
「南→東」の嘘つきダマシの大和説者や学者らが、1万人集まって「学会」を形成しようとも、
文献考古の史料事実には、何の関係もない。 三雲南小路遺跡が筑紫の日向に建国された伊都国の最初の王墓。
後漢書では倭奴国と記載された。
金印を拝領して倭国王に任じられた。
天孫族が去った後も三種の神器の祭祀は筑紫で継承され、平原遺跡の卑弥呼も八咫の鏡を含む三種の神器を司っていた。 >>887
ニギハヤヒがイカガノシコオから6世代前。
神武も同じとして、2世紀末。
そこから3世代遡ってホオリは2世紀前半。
コノハナサクヤヒメもそれくらい
で九州説でヒミコは誰?
アマテラスは時代が違うよね。 >>617
>天皇家の起源は日向。 崇神時代に神武は宮崎であると認識されていた。 だから宮崎神宮が建てられる。<
ダメだね。
崇神も記紀も神社も、
8世紀の天皇家の、「倭国の存在や歴史を抹殺」するための道具でしかなく、
歴史の根拠にはならない。
>福岡には天皇家の起源に関わるものは何もない。<
天照の生誕や天孫降臨や神武ら兄弟の伝承が沢山ある。 >>878
>三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
>平原女王墓へと連続する伊都のみである。
それって連続してないじゃん >>890
>御所市高天が高天原である根拠はない。
>卑弥呼以前にヤマトの地に倭国の王がいた痕跡はない。
いたよ。
ちゃんと書いてあるし今でも祀られてるではないか。
大物主、事代主、鴨王。
彼等がヒミコまたはヒミコ以前の男王だ。
で九州説ではヒミコはだれ? 宮中式内社かなり興味深いな。
誰か詳しい人いないかな。
八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
八十島祭の始まりも気になる。 >>618
>日本書紀には筑紫に王権とか書いてないんだがね <
記紀は、「倭国の存在や歴史を抹殺し造作」しようとした半分偽書であり、歴史の論拠にはならない。
客観性と信頼性の高い歴代中国史書群の記録の方が、歴史の論拠になる。 >>898
大物主なんかいるのか?
事代主がヤマトの出自である根拠は?
鴨王って、鳥の王か? >>878
>考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
>筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
そんなこと言ってる考古学者が
誰もいないのは
何故? >>621
>古い写本などもあるから、最近の話ではない。
古事記は偽書ではないかという批判もずっとあったが、奈良時代の編者の墓が見つかってからはそのような批判もなくなり、むしろ日本書紀よりも古い文献として参考にされるようになった。
日本書紀で日本と書いてある記事の多くが古事記では倭とある。
例えばヤマトタケルは日本書紀では日本武尊だが、古事記では倭建命だ。 <
古事記も、
倭奴國王や卑弥呼や壹與や倭の五王の事を、隠して記載していないから、
半分×書である。 >>903
>大物主なんかいるのか?
いるよ。
日本は実在した人物が神様になるから。
ただこの「主」というのは「村長さん」のような代々名なんで何代めかがややこしい。
>事代主がヤマトの出自である根拠は?
これはヒメタタラのお父さん何で問題ない。
最初は率川にいたようだが葛城に移動したようだ。
大物主を襲名するためかもしれない。
>鴨王って、鳥の王か?
クシヒガタ。
事代主の子でヒメタタラのお兄さん。
日本書紀が神武の血統でない人物に「王」と表記している。
これは極めて異例。
実質のヤマトの王がこの人物。
神武は王ではない。
で九州にいたヒミコは誰?
畿内説に対する反論は
全滅ということで
よろしいね?
>>625
>>三種の神器 それ実質は崇神以降。 崇神の母親の物部が持ち込んだ。
しかも崇神は疫病が流行って気持ち悪いのか鏡と剣を放り出した。 これは神武から受け継いだものではなかったという証拠。
鏡と剣、今は伊勢神宮と熱田神宮にあるね。 それが何で自慢になるの?<
大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったから、
三種の神器に憧れがあったとしても、中心的な継承国ではなかった。
現在にまで継承しているのは、久留米の高良大社。 平原にヒミコがいたというなら、
近辺の何神社に何という名前で祀られてるの?
ぜひ教えてほしい。 >>626
>文化を伝えた人たちの移動があったんだろ。
それも王権の象徴が移動していたなら、王権そのものが移動したということ。
その上、畿内の銅鐸文化は破棄され歴史にも残っていない<
移動は、「筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種」であり、旧小国でしかなかった。 >>906
何の根拠もないけど。
妄想ならなんとでも書けるよ。
で、君の言う王とは倭国の王か? 何の謂れや伝承もない遺跡をヒミコの墓というのはむなしいだろ。
せめて近辺の神社から何か探してくれ。
平原に何という神社があってどんな謂れがあるのだ?
「ない」のなら俺の部屋から見える小山をヒミコの墓だと言ってるのと変わらない。
むなしくないか? >>629
>其の国が2世紀前半から存在する。 この時点で考えれば銅鐸族。
鏡はヒミコの時代に大和に持ち込まれた。 倭国大乱の相手側(物部)が持ち込んだ。
逆に考えろ、中国人が鏡祭祀を鬼道と呼ぶか?<
「南≠東」だから、卑弥呼は、大和に鏡を持ち込まない。 >>911
>何の根拠もないけど。
記紀に登場するではないか。
なにを言ってるんだ。
で九州ではヒミコはだれ?
答えられないのかな? >>912
君が言う大物主、事代主、鴨王は倭国の王なのか?
倭国の王なら倭人ということでいいのか? >>630
>畿内では崇神以降、つまりその頃に九州から権力が移ってきた。 4世紀だっけ?<
「九州から権力が移ってきた」のは、白村江の後。
それまでは、大和は、「自昔・・・東征毛人五十五國」のお手伝いをしただけ。 >>636
>(鏡)ホケノ山は?<
楽浪流民や鏡師の渡来であり、4世紀初頭以後。
>纏向石塚にも「あった」と仮定していいと思う。<
見つかってから言いな。 事代主、大物主、鴨王が王などと嘘をつくから、矛盾が生じて、答えに窮するんだよ。 >>644
>逆に土師器などで分かるが、2世紀末には畿内に制圧されてる。<
当然土師器も「都へ搬入集中上納」されるものであり、
だから、筑紫からの搬入のない大和は権力中心ではなく、
弥生銀座やハイテク工業地域の筑紫が権力中心。 >>645
>金印 偽 物 で すwww <
金印 、
本 物 で すwww 。 >>919
「都へ搬入集中上納」されるもの
だとかいう根拠ゼロ >>893
>>>887
>ニギハヤヒがイカガノシコオから6世代前。
>神武も同じとして、2世紀末。
>そこから3世代遡ってホオリは2世紀前半。
>コノハナサクヤヒメもそれくらい
>
>で九州説でヒミコは誰?
>アマテラスは時代が違うよね。
つまり、卑弥呼は磐余彦が筑紫を去った後に即位した。
記紀を編纂した天孫族の末裔としては黒歴史だったんだよ。 >>649
>(筑紫)日本最貧弱地だw 笑わそうとしてるのかw<
日本での最発展地だw。
笑わそうとしてるのかw。 >>652
>あなた考古学的には考古学的にはって連呼するけど、そんなこと言ってる考古学者はいない <
日本の考古学者は、殆どが「南→東」の嘘つきダマシのサギシであるから、
発掘事実報告にはある程度の価値があるが、
そんな人種の「説明や解釈」には、信頼性が全くない。 糸島市の弥生遺跡数は
奈良県の半分しかないからねえ >>653
>出雲の衰退は筑紫の衰退より後 考古学的には、な<
出雲は、梁代の文身國の記載までであり、
筑紫は、別種分家の旧小国の大和に併合吸収継承されたのは、白村江の後。
それで、文献考古共に、合致する。 >>670
>(孝霊9話の主旨がボケてきている気がしますが、
邪馬台国の位置論に関しては畿内以外に既にありませんよ。<
また「南→東」の嘘つきダマシの「孝霊」が、のこのこと出てきた。 >>671
>だから九州説や東遷説は 論点を必死でボカすしか無いんでしょ<
だから大和説者は、
論点を必死でボカすしか無いんでしょう。 >>672
つまりもう大和説者には 、
自分の思考を文章にできるレベルの人が 残ってない
ってことでしょ?。 >>677
「南→東」の嘘つきダマシの・・・・サギシの孝霊が 出てきた、と思ったら、
また今度は、人種差別的竹島戦争を鼓舞扇動する・・・・ssnも出てきた。 >678
>そもそも農民が偶然で金印を発見したというのは話に無理がある<
そもそも「有名学者だけの発掘だけしか認めない」という話に、無理がある。 >>915
>君が言う大物主、事代主、鴨王は倭国の王なのか?
>倭国の王なら倭人ということでいいのか?
当たり前じゃないかw
彼らは神=カミ=カムイ
だから鴨族と呼ばれる。
彼らの土地の名前は熊野にされた。 >>922
>つまり、卑弥呼は磐余彦が筑紫を去った後に即位した。
>記紀を編纂した天孫族の末裔としては黒歴史だったんだよ
なるほど時系列としては合っていると思う。
で、ヒミコはだれ? 九州説の爺さんが本当に哀れになってきたわ
もう反論されすぎて夢と現実の区別がついてないんだろ >>934
>なるほど時系列としては合っていると思う。
>で、ヒミコはだれ?
黒歴史だから削除されたんだよ。
天孫族でもないのに倭王に即位したからね。 >>933
>彼らは神=カミ=カムイ
>だから鴨族と呼ばれる。
>彼らの土地の名前は熊野にされた。
鴨とか熊は部族のトーテムだよ。
筑紫の天孫族は鷹、出雲族は鷲、壹與は鯰みたいに。 >>937
>黒歴史だから削除されたんだよ。
>天孫族でもないのに倭王に即位したからね。
ヒミコは誰なのか言えません、降参ですという事だな。
なんで削除されるんだよ。
2世紀前半から3世紀後半まで続いた王権を削除なんてできるかよw
民間信仰として何らかの形として残るはずだ。
冗談も休み休み言え。w というわけで九州説はヒミコが誰か言えずに降参した。
敗残兵とはこんなにぶざまなものなのかw >>942
ヒミコは卑弥呼に決まってるだろ、魏志倭人伝をよく読め >>696
>この投稿を読んで、書いた人の頭がおかしいと思わない人がいたら
顔が見たい<
このような、「朝鮮人」呼ばわり誹謗や、「反日」のレッテル張りのヘイトスピーチの、
・・・・的な投稿を読んで、
書いた人の頭がおかしいと思わない人がいたら
顔が見たい 。 >>941
>なんで削除されるんだよ。
その王権が天孫族ではないからだよ。 >>700
>ザラコくるってる<
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者や、
「朝鮮人」呼ばわりのウソ付きダマシの誹謗や、
「反日」のレッテル張りのヘイトスピーチ宣伝をする人種は、
クルっている。 >>941
>民間信仰として何らかの形として残るはずだ。
壹與に関しては地元の伝承に残っているね。
肥前国一宮の與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)の淀姫だよ。
壹與は卑弥呼の宗女とされているので、卑弥呼も肥国の女王から倭国王になったと推定される。 >>708
>テンプレで論破されてる。 今さら歯牙にも掛ける必要ない。<
その「テンプレで論破されてる」の内容を書かなければ、
論破した事にはならないし、
このような、言い訳だけの逃げ話など、今さら歯牙にも掛ける必要もない。 >>945
>その王権が天孫族ではないからだよ
天孫族って何だよ。
定義してみろ。 畿内スレで訳わからん妄想垂れまくる爺さんが全て悪いんだけどね。
日本に来て朝鮮人が講釈たれるのと全く同じ図式だろw >>949
アマテラスの孫である瓊瓊杵命から始まる一族だよ。
博多湾沿岸の倭国王の一族。 出雲地方ではアマテラスは東からやってきた伝承があるのにね。
筑紫とは真逆だよw >>951
分かったからヒミコはだれ?
言えないのは「降参しました」だからな。 >>721
>反論も出来ず言い張るだけか九州説<
「邪馬壹國→邪馬台国」のダマシや、
「大和説→畿内説」などの誤魔化しや、
「南→東」の嘘つきだましや
「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の無視や、
大和には「殉葬奴婢百余人」の墓がない事や、
大和には、(九州に比べて)、矛も、鉄鏃も、中国鏡も、絹なども、全くのように存在しない事などに、
反論も出来ず言い張るだけか?、大和説者。 倭国をめぐる議論からわかるように、卑弥呼だけではなく2世紀末から7世紀中頃までの筑紫倭国の歴史がごっそり抜け落ちているんだよ。 >>953
ヒミコは卑弥呼だって言ってるだろ
ところで飛騨王朝について調べたのか? >>737
ひとことも反論できず悪口いうだけ。
なんと情けない大和説者。 >>948
なるほど
テンプレ見たら論破されたことになっちゃうから
目をそらして逃げてるのかあ じつは別名[臣智人命]で卑弥呼の名は残されている
古事記の中にも[彌馬]絡みのちがう別名が残っているけどな
吉武高木の神さんは高木神だろ
須玖岡本の神さんは須玖那卑狗になるべし >>955
抜け落ちているというより
記紀神話のかなりの部分に
九州の話が組み込まれてると思っています。 >>956
>ヒミコは卑弥呼だって言ってるだろ
>ところで飛騨王朝について調べたのか?
言えないわけだな。
飛騨王朝って何だよ、知らないよそんなもの。 >>743
この投稿子みたいな発言が出るのは、
大和説の旗色が悪い証拠だな 。 >>745
またオウム返しをされている。
大和説はダメだな 。 >>962
神武より前についてはその通りだろうね。
でも卑弥呼以降は抜け落ちているだろうね。 >>746
「南→東」の嘘つきダマシの大和説は、
口先誹謗ばかりで、中身が無さすぎるね。 >>753
>言ってた 「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」 と違い過ぎ <
新唐書と、旧唐書や唐会要からの「内容説明」。 気づいている人はいる
国を経営していると書いてあるでしょ?
スサノオ・・・大国主・・・スクナヒコなどの話 >>757
>こうやって トンデモ九州説は後代史料の 信頼性ひくい個所ばかりを 寄せ集めて 捏造されている<
旧唐書も唐会要も新唐書も、
唐の滅亡後の、唐の記録や王年代紀などからの、客観性と信頼性の高い記録。 鷹の像、白いケースがあって
なんていうのですか?
と質問している人がいたり >>961
>吉武高木の神さんは高木神だろ
>須玖岡本の神さんは須玖那卑狗になるべし
おっと、目から鱗だな。
吉武高木はイザナギあたりだと思っていたが、高木の神か。
そのまんまだな。 >>974
羽白熊鷲は筑紫の倭王。
神功皇后に殺された。 >>973
いや。ゴミ集めて作ったフランケンシュタインの怪物。 >>762
このように、「南→東」だけではなく、
「旧唐書や唐会要や新唐書や王年代紀」などを、
見え見えの嘘で塗り固められてるのが大和説。 八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
「たぶらつひめ」と読ませて人をたぶらかしたからだとする説があるが、古墳時代前期であり万葉仮名すら危うい時代にこの読み方はありえない。
素直に読めば「たゆつひめ」であり、津は接続詞なので、名前の中心は「たゆ」。
壹與のおよそ半世紀後の人物であるが、ゆかりのある名前だったのだろう。
田油津姫の宮は銅を算出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔であり、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。 白いケースのなかに
電電太鼓、菅笠(市)の人形?に福助
『福助 意味』とか >>763
>あえて言えば、大和は九州の地名を後に畿内に移転したのに、その前の段階で畿内の地名に大和と使ってしまったのが、ザラコクの間違い。
日本国が倭国すなわちかつての倭奴国の別種というべき。<
新唐書:
日本、古倭奴也。
去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。
國無城郭、聯木爲柵落、以草茨屋。
左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。
置本率一人、検察諸部。
其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。
其官十有二等。
其王姓阿毎氏、 自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城。
彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州。 なぜか、むかーしの電話、ダイヤル式の電話?
机(デスク)の上に、電話が乗っていて、
某(不明)が椅子に座っている
このような写真があったり 新唐書は、筑紫倭国から畿内日本国への政権交代後の情報を含んでいるので、あちこちに矛盾がある。 >>785
>卑弥呼の勢力がヤマトに侵入したのは、倭国大乱の最中の2世紀末だろう。<
「卑弥呼の勢力がヤマトに侵入した」なんて、どこにも書かれていない。
>よって卑弥呼がヤマトの生まれである可能性はまずないな。
卑弥呼以前のヤマトの支配勢力は狗奴国だろう。<
これも、「南≠東」だから、×。 >>981
高天原から出雲や筑紫へは海路で行き来している。
飛騨ではそれはあり得ない。 >>787
>1世紀中頃に伊都国は畿内のクニから倭人の王を迎え入れているが。<
そんな記録は、どこにもない。 説明するのは難しい
片腕をデスクの上に乗せて、
クルッと、椅子を回転させ、こっちを向いている
このような写真 写りで、そのように見えるだけなのかな、
なぜかモミアゲだけ伸びているように見える
白いモミアゲ、白髪? >>789
>倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。<
倭人の分布は、半島南岸から九州が中心であり、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
>畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。<
どちらかと言えば、出雲系銅鐸部族や毛人になる。 >>790
>これは畿内説にとっては諸刃の剣だな。
天の沼矛でかき回して垂れたしずくで島が生まれたわけだが、矛を使っている点が畿内説ではまずい。
畿内で出土する矛の年代はいつだ?<
成程。 >>797
>そもそも矛とはなんだと聞かれて答えられないのが九州説<
そもそも、矛が大和にあるのか?と聞かれて、
答えられないのが大和説。 モミアゲ?
アゴの辺りまでは伸びている
ふわふわしたような感じのモミアゲ(毛)だよ
そのように見えるだけなのかな >>804
>また陰謀説か 九州説はレベルがひくい <
また陰謀説か ?。
大和説者は、レベルがひくい 。 毎日ヒゲを剃っていたから、
伸びているところは見たことがない
と言っていた、伸ばした状態の写真なのかな >>813
>じゃ、なんで文献学者にも九州説がいないの?<
日本の文献学者も、大部分が、
「南→東」などの嘘つきダマシの「教授」や「学会」に逆らう事をしないし、
出来ないから。 >>815
>それの情報源は記紀だから意味なし <
新唐書の記載は、
王年代紀と、それとは別の唐代の別の情報の組み合わせ、だよ。 以前から書いているけど
キュウリの葉・・・葱の華・・・の写真と同じ家だよ >吉武高木の神さんは高木神だろ
高木神を祀ってる神社を言えよ このスレッドは1000を超えました。
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