邪馬台国畿内説 Part261 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
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◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
乃ち布留0期にあるとみることが出来よう ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である ◆5(倭国の形成と気候変動)
1つに、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2つに、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した
その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある
(この項続く) ◆6−2(続き)
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
(この項続く) ◆7−2(続き)
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
(この項続く) ◆7−3(続き)
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
(この項続く) ◆8−2(続き)
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 /⌒'\
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.|;; i ...;;イ
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/;;; /' '' ;;;X
|;; ;i;;.. 〜 ;;|
X〜 ;i;;; ;;,. ;;;/
ヽ;;__\_;;/ ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題ない
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである
水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
魏使は九州を出ていないではないか
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある __,,,,、 .,、
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(´゛ ,/ llヽ | ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか
A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる
A:誰も纒向遺跡=邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している __,,,,、 .,、
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_, _/ / .l ゛ ._/ :l゙ ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
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●●●●●-‐‐ ''^~ ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
信頼できる基準ではないか
これに基づいた里程論で邪馬台国は
九州島内に求められる
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く
A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない(白鳥1910) ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く) ゙'. '.;`i i、 ノ .、″
゙'. ,ト `i、 `i、 .、″
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` .,-''ヽ"` ヽ,,,、 !
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、/ヽヽ‐ヽ、;,,,,,,,,,-.ッ:''` .,"-、
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,.イ:、ヽ/ー`-、-ヽヽヽ、−´ .l゙`-、
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、、::|、、、ヽ,、、. ```: : : ``` 、.、'` .|丶、
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j".、'ヽ,".、".、"`''`ー、._、、、 、._,、..-‐:'''′ .、,:" 丿
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``ヽン'`"` : `~``―ヽ::,,,,,,,,,,.....................,,,,.ー'``^ ,、‐'"`
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: `‘"`―---------‐ヽ``"''''''"" (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
これは信用ならない
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない
箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している
方丘築造が後出であるという判断は
箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で
前方部盛土に遮られる形で消失していること
椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で
前方部に盛土がないこと
等による ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか
A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
卑弥呼の墓があるのは九州だ
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い ⊂_ヽ、
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ノ ) し' ・ * (__) * ・。・
(_/ 。*.;; ・( ・∀・) ★.* ’★ ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
弥生絹があるのは九州のみ
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる
九州説にとって不利な条件と言える ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
箸墓の築造と時間差があるだろう
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
伊都国は隆盛のさなかである
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である
弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)
これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう
(この項続く) (続き)
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
国産に決まっている
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認されている(金原2011)SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する微高地上の遺跡とされている
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない
(この項続く) (続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である
「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない
上古音nagが順当であろう
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い
五畿の出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する
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★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない
-------------------------------------------------------------------------
という事は>>1は東遷説なのか?www 260の>>521
>畿内説がそんなこと言ったって証拠は? また根も葉もない中傷 <
大和説者らのこのような、史料事実関係を述べずに、
皇国史観人種差別的な口先でのヘイトスピーチ街宣をするだけの投稿は、
明らかに・・・・である事が自明ですから、放置しておきましょうね。 テンプレで
箸墓=初期ヤマト政権の初代王墓
初期ヤマト政権と新生倭国の誕生
と言っている以上、連続性ある次の王都を比定しないといけない 9881 ◆q8leUXpsw. 2017/08/18(金) 06:39:00.51
>>984
>✖初期ヤマト政権(結びつける材料無し)
さすがにこれは間違いでしょう
常識的に誰が見ても、ヤマトにある初期的な政権です
☝
曖昧な表現に変換しましたね!
それでは、畿内説では邪馬台国以前に政権は無かったという事でよいですね。
群雄割拠の地か、秩序の無いど田舎でよいですね。
あなたの理論でいくと纏向を王都とする政権が突如現れ、いつの間にか消え去ったことになりませんか? >>70
>それでは、畿内説では邪馬台国以前に政権は無かったという事でよいですね。
>>1は纏向に固執するから矛盾がでる。
俺は纏向が女王の住んだ都だなどと思ってない、あれは物部の郷だから。
女王の住んだ都は葛城。
日本書紀でも神武が事代主の神の娘と結婚したことが書かれてる。
あのあたりに神が住んでいた。
高天原(御所市高天)の中腹から麓あたり。
長柄神社(姫の宮)が最有力だ。 >>69
どうして
>初期ヤマト政権と新生倭国の誕生
と言っていると
連続性ある次の王都を比定しないといけないの?
理由が
わからない 庚申年秋八月癸丑朔戊辰、天皇當立正妃、改廣求華胄、時有人奏之曰
「事代主~、共三嶋溝橛耳~之女玉櫛媛、所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命。是國色之秀者。」
天皇ス之。九月壬午朔乙巳、納媛蹈韛五十鈴媛命、以爲正妃。
記紀では神武を天皇と表記。
一度も大王と呼んでない。
ここはおおきなポイント。
かれは大王ではなかったから。
神武の時代の「王」とは鴨王ことクシヒガタ。
神武の義理兄だ。
つまり王権は葛城にあった。
高天原(御所市高天)だ。
女王とはクシヒガタの妹のヒメ踏鞴。
トヨは天トヨ津。
葛城王朝なのだ。 テンプレのウソをひとつづつ暴く者が現れた
↓
当事者であるスレ主も論破されてるので名無しで書き込んみ抵抗 根拠は?証拠は?ぐらいの抵抗で反論無し
↓
だが、ことごとく無視された
↓
スレ主は図星を突かれ悔しくなったが名無しで通すしかなかった
↓
❓❓❓ ❓❓❓
. /スレ主 \ ❓❓❓
/ \
. / (゚) (゚) \
| )●( |
. \ 廿 /
. ノ \
👆
↑
以上、スレ主「思考停止で賞」および「名無しで通すで賞」 ●神武から6代孝安まで
正后(奥さん)はいても妃がいない。
宮が葛城
●7代孝霊以降
複数の妃
宮は葛城を出る
ここは大きなポイントだ。
ヒミコとトヨは前者にいた。 >>74
さすれば、
纒向とヤマト朝廷は関係無いと言いたいのですね(別の王国?) 朝っぱらから、畿内説ケチョンケチョンにやっつけるなよ
イジメに近い 崇神が4世紀前半の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home もし本当に
テンプレのウソをひとつづつ暴く者
とか現れてたなら
>>76はAAで荒らしてたり
・・・しない
w 朝貢年
266年 台与 アマトヨツ
・
238年 卑弥呼 ヒメタタラ
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
倭国王帥升とはスサノオである。 >>82
畿内説では
纒向≠初期大和朝廷(初期天孫族の都)
纒向=突然現れ、突然消えた邪馬台国の王都
という事でいいのですよね >>87
すくなくともテンプレは
そんな説明してないと思われ >>74
次がなく断絶していれば、ヤマト政権とは別の王権だよ。 >>85
以前のスレでやったろ。
一つもスレ主は反論できなかったよ。
寄せ集めのテンプレを書くのがせいぜいの小物だから。 >>89
>>>87
>すくなくともテンプレは
>そんな説明してないと思われ
じゃあ何なんだよ。
ああ言えばこう言う、カルト詐欺の典型だな。 >>90
どうして?
纒向にあったのはヤマト政権じゃない
と言うわけは? 邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や丹波、近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。 >>93
なにって、テンプレに書いてあるとおりでは? 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後 >>95
あいかわらず、証拠をなにひとつ出さない馬鹿 >東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。 >>96
畿内説は逃げてばかりだな。
何のためにスレを立てたのか。
畿内説は何も説明しない。
説明する中身が何もないから。
畿内説はただの妄想。 >>101
また嘘ついてら
テンプレに説明があるだろ >>96
そのテンプレに疑義を投げつけているのだが回答皆無・・・説明がつかないという事 >>104
あんまり初歩的だと普通放置されるけどな >>100
>魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
さすがに、このウソは酷いね 寺澤も纏向が邪馬台国の王都までは良かったが
「纒向はヤマト王権の最初の大王都」と言ったから批判を浴びている
彼でさえ、明日香に向かう王都の変遷は答えられない
スレ主に聞いてもムダ、彼は張り付けただけだから >>109
答えられない、とか決め付ける理由は何よ? >>109
>彼でさえ、明日香に向かう王都の変遷は答えられない
だから、「遷都」以外無いんですよ。 @阿波 >>109
寺澤も纏向が邪馬台国の王都までは良かったが
彼でさえ、世界でいちばん美味しいカレーの作り方は答えられない
スレ主に聞いてもムダ、彼はコックじゃないから
キウスは脳タリン >>98
邪馬(壹)國 から ヤマトは連想できない
倭国からもヤマトは連想できない 倭・・・訓読みではヤマトだが、訓読みは邪馬(壹)國からずいぶん後の日本独自の読み >>97
>鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
それは関係がない。
最新兵器は防衛省・自衛隊が持ってるもので宮内庁・皇居にはないのと同じ。
むしろ北九州は防人の地であり、そんな所に王都などはない。 ハイハイ
畿内説の逃げ技炸裂
テンプレに書いてある
どうして
理由は
誰彼構わずキウス連呼
まともに論じられない >>115
当時から筑紫倭国をヤマトと呼んでいて、そこに文字を当てはめたのでは? こうして今日もスレを消費して誤魔化すのであった。
これで世間で畿内説の指示が増えると思う? >>123
理由なく妄想を事実と言いくるめているのは畿内説 弥生時代から日本人はおおよその地理を把握、
大陸からの巨大勢力が日本を攻めてきたら北部九州や瀬戸内で迎え撃つ体制を整えてきた。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG
北九州は防人の地であり、こんな所に王都などはない。
万が一、大和に危険が及ぶと、もう一つの天然要塞・近江に都を移転することも考えたであろう。
伊勢遺跡とはその役割があったのかもしれない。
実際、白村江の敗戦後に全く同じことがあったではないいか。
繰り返す。
北九州は防人の地であり王都などはない。 >>132
>実際、白村江の敗戦後に全く同じことがあったではないいか。
時代錯誤 >>132
だから、「遷都」以外無いんですよ。 @阿波 罵声???畿内説はイカン
ここまで、何も論じていない
何も答えて無い スレ主が泣いている
>>1
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう >>135
弥生時代から白村江の7世紀までにどれほど正確な地図が作られたというのだ?
ほとんど地理感覚は変わっていない。
時代錯誤はおまえだ。 >>1
>奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり
巨大祭祀空間である根拠が示されていない。
>また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
各地の文物が集まり、現地の文物が各地に出ていく。
これはどの地域にも当てはまる「一般現象」にすぎない。
例えば土器に関して見ると、
畿内外部からの土器は全体の30%以下に過ぎず、肝心の北部九州の土器は1%にすら満たない。
対して北部九州では、圧倒的に畿内を初めとする各地の土器が集積しており、
巨大な権力に向かって物資が集中していく、都の存在を証明している。
>現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)
>これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
万行遺跡ならびに稲部遺跡との比較考証から逃げ続けている。 >>2
>前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
王宮であって、ヤマト政権の始まりであれば、当然後継の王宮が存在しなければならない。
だが、無い。
>血統による相続原理が未確立な社会において、
古代は血統による相続原理が全てであって、前提からして大間違い。
前提が間違っているのだから、その後の論理も大崩壊。
>単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)している
あれ?
大王と同じものを皆が作っちゃっていいの? >>3
>その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
帝王陵である行灯山、渋谷向山と古墳の規模として同等である箸中山が記紀において帝王陵でないと明記されている。
つまり、記紀作者の概念に置いては、古墳の規模が帝王陵の条件ではないということ。
>このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
記紀時代の感性として、古墳の規模が帝王陵の条件ではないということ。
>換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
新規創作できないから、記紀に記されている通り、
記紀に置いて陵墓ではないとされている箸中山は陵墓ではなかったんだね。
>乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
つまり記紀にするされている通り、箸中山の被葬者は帝王じゃなくって、モモソ姫。
>紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
>箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう
改竄しきれなかったという推測など不要。
箸中山の被葬者は記紀の言う通りのモモソ姫。
手づかみで食事していた邪馬台国より後代の、箸を使い始めた時代のモモソ姫≠3世紀卑弥呼。 >>143
これはひどい。
こんな人間だから、畿内説なんていうデタラメを持ち出せるんだ。 >>4
>乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
乃ち、大市の倉庫と自分で言っている。
祭祀空間であって大市?
どちらを取るのか?
>威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
>しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
国家形成には文字が必要だね。
考古学的には北部九州から文字使用の証拠が多数見つかっているね。
で、畿内は?
>定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
>もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
北部九州をディスるために吉備を持ち上げておいて吉備の手柄を横取り?
その根拠が土器?
>初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である
3世紀における最重要物資である鉄器の通商圏に参加してない >過去の財産を鋳つぶして作った誰にも何の影響も与えてないオナニー鏡がなんだって?
スレ主のありがたいお言葉ですぞ 奴隷なら奴隷らしくしろ
と言われたことがあるでしょ
半島のほうが上なんだよ >>143
3世紀と7世紀の地理感覚の違い。
関門海峡が通過できなかったので、倭国の主要交通は日本海の海運。
奈良、京都、大阪はまだ沼の底。 >>143
だから、「遷都」以外無いんですよ。 @阿波 90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。 >>154
それ言っちゃうと反日スレ主が発狂するからw >聞いててもう説でも何でもないのがよく分かる
>流石はただのインチキ小便着色本を崇めてる連中の思想だわ
>見ててもうなんていうか乾いた笑いしか出てこないわ
スレ主のありがたいお言葉ですぞ 受け売りかつ、いろんな本の継ぎはぎだらけのテンプレ
これじゃ、疑義も出るさ SNSに代表される情報化社会
纒向もこんな社会でなければ、畿内説の研究者が本を書きまくれば
それが本当のように国民に移っただろうが、残念なことに
情報化社会で嘘がばれるようになった 日本ができるまでの成り立ち
@スサノオから大国主までの時代(スサノオ系統)
中国(厳密にいうと出雲)→出雲連合の本国の意味
九州→出雲連合の直轄地(役人を置く)の意味
四国(高天原かもしれない)→4つの国があった(もとから4人の王または王女がいた)
A大和政権時代(アマテラス系統)
ヤマト政権(畿内)が誕生する過程では過去において国譲り(争乱と権威・権力の移譲)があった。
譲った方が@のスサノオ系統。
引き継いだのがAのヤマト政権のアマテラス系統。
系統は元を辿れば同じご先祖様(イザナギとイザナミ)で姉と弟の関係から
誓約(おそらくチョメチョメ)してできた子孫同士の系統。
欠史8代あたりにあったのが >>160
だから、倭国(阿波)からの「遷都」以外無いんですよ。 @阿波 史料上の欠史8代あたりにあったのが、邪馬台国と卑弥呼の存在。
年齢とか在位が100年を超える天皇は、60か120をひいた年数が正式な年数。 >>144
なんだ
それみんな前スレで回答あったじゃん 充実の時を迎えているトップスター明日海りおに、新トップ娘役となった仙名彩世の新たなコンビを中心とした
宝塚花組公演古代ロマン『邪馬台国の風』レビュー・ファンタスティ―ク『Sante !!〜最高級ワインをあなたに〜』が、日比谷の東京宝塚劇場で上演中だ(27日まで)。
【物語】
3世紀半ばの古代日本──日本列島が「倭」と呼ばれ「王」を指導者とする幾つものクニと、クニとの争いが長く続いている時代。クニグニの連合の中心である邪馬台国と、対抗勢力の狗奴国との勢力争いは日増しに激しさを増し、民の苦しみが続いていた。
その一人であり狗奴国との戦で両親を失い天涯孤独の身となっていた少年タケヒコ(華優希)は、大陸から渡来してきた李淵(高翔みず希)に助けられ、彼の元で戦術と生きる術を学ぶ。
時が経ち、戦術にも長け凛々しい青年に成長したタケヒコ(明日海りお)は、李淵からもう教えることはない、旅立つ時が来たと諭された折も折、狗奴国の将クコチヒコ(芹香斗亜)の率いる兵に李淵を殺され、新たな運命へと足を踏み出す日を迎える。
ある日タケヒコは、やはり狗奴国の兵に襲われていた娘マナ(仙名彩世)を助ける。神の声を聞く霊力を持つマナは、巫女となる為に邪馬台の里に向かう途中で、
マナはタケヒコがいつか海を渡り、遠いクニに行くこと、タケヒコと自分は遠い昔に出会い、再び巡り合う日を誓い合っていたと告げる。 不思議な運命を感じた二人はたちまちにして惹かれ合うが、マナは自分の霊力を人々が平和な暮らしを取り戻す為に役立てたいと語り、邪馬台の里へと向かう。
マナを迎えに来た邪馬台国の兵の長アシラ(鳳月杏)は、タケヒコの優れた武術を認め、邪馬台国の兵となることを勧める。
邪馬台国の平和に尽力することは、亡き両親、李淵、更にマナを守ることにもなると決意したタケヒコは邪馬台国の兵となり、ツブラメ(水美舞斗)フルドリ(柚香光)イサカ(城妃美怜)ら、仲間を得て更に力を発揮するようになる。
ちょうどその頃、倭国連合の中心となる邪馬台国の王が亡くなり、諸王たちは次の王を誰に定めるかを議論するが、
我こそがその任に相応しいと自負する奴国の王ヨリヒク(瀬戸かずや)の思惑は諸王の支持を得られず、大巫女(美穂圭子)より、次の大巫女に指名されたマナを、女王卑弥呼として即位させる案が決着する。
だが、ヨリヒクはこれに憤慨し、同じように自分こそが女王となるべきだと考える邪馬台国の亡き王の娘アケヒ(花野じゅりあ)の讒言に乗り、狗奴国の王ヒミクコ(星条海斗)に通じ、狗奴国に邪馬台国を攻めさせ、卑弥呼を追い落としその地位にとって代わろうと企てる。
そうした策謀が渦巻いているとは露知らぬまま、マナは女王卑弥呼として即位。その宴の席でタケヒコは初めて新しい女王が、あの日運命の相手だと感じたマナその人だと知る。
遠く身分を隔ててしまった二人。
だが、互いを想う気持ちは変わらず、二人は禁じられた逢瀬の時を持つ。だがそれこそが、女王卑弥呼の失墜を狙う者たちの計略に他ならず…… >>151
>関門海峡が通過できなかったので、倭国の主要交通は日本海の海運。
何言ってんだ、わけわからん。 >>151
>関門海峡が通過できなかったので、倭国の主要交通は日本海の海運。
関門海峡が通過できなかったので、福岡の東部を陸行して、豊後水道→太平洋ルート @阿波 関門海峡は人工の運河だと言い張ってるクレージーか
やれやれ 正統派畿内説以外でこのスレに来る奴は
圧倒的に発狂者が多いよ 面土国の後継が邪馬台国
面土も邪馬台も中国人の当て字
日本語的に書くと八女津
国が乱れてるのに、畿内まで使者が行けるわけがない。 どうやっても魏志倭人伝には九州のことしか書いてない。 >>169
関門海峡は4世紀に仲哀天皇が開削したもので、それまではトンネル状で船は通過できなかった。
出典は日本書紀。 >>174
しかも伊都までしか来ていないよね
のどかな景色と王宮の遠景どまりで、
奴国弥生銀座の描写が一切ない 鉄器はおろか青銅器すらない銅鐸集落のことが書かれていないじゃん
3世紀に新人類大発見だろ もはや九州説は伊都までか奴国までかで議論しているというw 日本語→八女津or山都
中国語→邪馬台
もともと中国から見て倭国を意味する地域は九州あたりで、
倭国と邪馬台国の関係と区別と意味は倭国>邪馬台国であると見える。
(倭国を全体とし、その全体の中にある1つの国が邪馬台国。)
何故なら毛人国も黒歯国も倭国とは別に認識されていて存在するからね。 面土国が邪馬台国の前身。
面土国が大きくなる→八面土国。
そこの女王が姫で御子でもあり、巫女でもある(じゃなければ、肥か火の国の皇女or姫+巫女の意味)ので卑弥呼。 >>187
全国、広しと言えども
「倭」と明記された「物証」があるのは、唯一「阿波」だけなんですね。
当然、倭国でない、九州にも畿内にも有りません。 @阿波 本州は、東に海を渡ったところにも倭種がいると書いてあるだろ。 「若杉山遺跡:弥生時代終末〜古墳時代初頭にかけての辰砂採掘遺跡」
1950年代には遺跡の存在は知られていたが、1984年(昭和59年)からの徳島県博物館による発掘調査で、その実態が明らかとなった。
全国的にみても辰砂を採掘する遺跡として唯一のもの。
以後、邪馬台国問題は一気に解決してしまいました。 @阿波 >>178
大阪や奈良にまで湖が進行してたのなら関門海峡も今よりもっと大きいよね。
それくらい分かれよ。 防人の土地(北部九州)に都なし。
子供でも分る話。
元寇の時に博多幕府なんてなかったよね。
何でないのだろ?
それと同じ。
都は天然の要塞、ヤマト。
第2の都は近江。
伊勢遺跡だろうな。 >>182
>銅鐸集落のことが書かれていないじゃん
卑弥呼の鬼道。
中国人が中国発祥の鏡祭祀を鬼道などとは呼ばない。 >>195
>都は天然の要塞、ヤマト。
だから、倭国(阿波)からの「遷都」以外無いんですよ。 @阿波 それで
芸能人か何かの話でもしているの?
警察署、刑務所があるから、そこへ行け、
頭の病院でも良い >>196
中国と異なった様式の祭祀を鬼道と呼んだのだろう。
鏡を使っていても、榊や鳥居など、郡使にとってもの珍しかったのだろう。 ツーチャンネルの話ではない、
いちいち説明しなくても、わかっているだろう
と言っているんだよ お前たちが死刑になったという報道がないだろう
何度言えばわかるんだ >>195
>防人の土地(北部九州)に都なし。
時代錯誤 >>194
海水面が変化したわけではなく、開削や埋め立て造成などで地形が変化した。 テンプレは、意図的に纒向遺跡に関する重要な事実を無視している。
◎纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないとも言っている。
卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
纒向遺跡全体でも3キロ平米、後世の京に匹敵する巨大さ。
湧水土壌であることを考えれば、民の住居は竪穴式住居の採用は難しかったんだろう。
高床式建物や掘立柱建物が延々と連なって建っており、住居や食糧庫だったんだろうね。
巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。
農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。
◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。
さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
◎纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。 >>201
>鏡を使っていても、榊や鳥居など、郡使にとってもの珍しかったのだろう。
神道? 鳥居? 神道、鳥居と言えばやっぱり忌部でしょう。
忌部の郷 忌部山黒岩 忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg テンプレはいらないけど、うんこちんこ荒らしも同じくらいいらないな 他のスレッドにも書いた
もれ(仮)は川崎区に住んでいる、川崎区の南部のほう 260の>>523
なにも証拠を出せないのが大和説。 260の>>528
>言うのは馬鹿でしょ? 理由がない
>他人に意味のわからないことを言ってる それ、キ印だから <
「南≠東」が、理由でない筈がないし、
「意味がよくわからない」筈もないし、
要するに、それは、キ印だから。 260の>>538
オウム返しされたのは、
された人の投稿の論理の方が×であり、
・・・・アホであった、
という事の証拠。 260の>>544
大和説者らは、嘘ばかりついてるね。 260の>>548
>安本は畿内説と関係ないだろ <
安本の東遷説は、「皇国史観の畿内説」と殆ど同じだよ。 同じような名前でも、
違うものは違うし、別人なんだよ
家の先祖の写真、
軍人でもない、警官でもない
それで、お前は新興宗教か何かの信者?
それとも工作員なのかと聞いているんだよ 260の>>559
>しかもこれを最後に九州からそれまでのような大量出土は無くなり、<
共立女王としては最後であったが、
その後も糸島地域では、黄金鏡の銚子塚や、那珂八幡地域の弥生銀座がある。 260の>>566
ほら、この投稿も、具体的に言えない。
それが大和説者の詐欺の表れ。 260の>>568
>畿内説と皇国史観のどこに接点があるんだ? デタラメもいいとこだ<
大和が「倭国の別種の旧小国 」であるのを、
大和が列島の支配者の盟主であったかのようなダマシをしているから、
皇国史観だ。 260の>>575
大和説者は、
一度「南→東」などのウソをつくと 、
皇国史観の保身のために、
どんどんウソがひどくなってく、 ってのが、
典型パターン。 何度、言わせればわかるんだ?
精神障碍者か何かなのか どの時代からなのかは、わからないけど?
いま一般人というだけなんだろw
このような
謎の?書き込みをしている人もいたよ
どのスレッドだったかな、かなり前の話だよ 260の>>582
じゃあ「大和説者や2chは、皇国史観の性犯罪者だ」の
主語をかえたら、それだけで真実になるのか? 、アホ。 260の>>602
いくら証拠の存在を書いてあげても 、
知らん振りして「証拠は?」と言って、膨大な文などの転写を要求し、
自分の方からは、決して証拠を出さないで、相手への誹謗罵倒ばかりを繰り返すのが、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説サギシの、スタイル 。 260の>>604
大和説者の言うことって、その対象の前レスの引用をしないから、
一々探しに行かなくてはならなくて、面倒臭くて、
わけわかんない。 260の>>605
「南≠東」とかの嘘つきダマシを言われれば言われるほど、
大和説の根拠がないことが浮き彫りに。 260の>>606
「南→東」などの、病的な嘘つきであるだけではなく。
頭もおかしくないと、
皇国史観大和説に入信できないなw。 稲作の起源は猪苗代湖
文明を発明したのは縄文人(シュメール人)
古代エジプト王国(邪馬台国)を作ったのは縄文人(シュメール人)
揚子江文明を作ったのは縄文人(シュメール人)
揚子江文明は黄河文明より古い
天皇(スメラミコト)はシュメール人のミコト
シュメール=夏
夏王朝を作ったのは縄文人(シュメール人) 260の>>609
大和説の人は、常識と違う考えをするらしいよ。
史料批判をせずに、
都合の悪い史料事実を否定隠蔽したり、曲解捏造をした意見をいうと、
反論になると思ってるらしい 。
しかも結論だけでよく、理由は一切言わなくていいと思ってるらしい。
世間とぜんぜん違う考えだね。ふしぎだ。 この無意味な連投をしてるザラコクが
異常者だと言うことしかわからない 260の>>617
鸚鵡返しをされる、という事は、
元の文を書いた投稿子の批判の論理が、その投稿子の自分の投稿自身に当てはまっている、
という事を示すのであり、
その投稿子が嘘つきダマシのアホであった、という事の証拠。 260の>>623
病的嘘ツキでないと大和説者になれないって、
それってどんな狭き門?。 トヨトミ、トヨトミミ?
そのような事を言っている人もいたような、
親戚なのかな 260の>>633
>・鏡の大半は既存の鏡を鋳つぶして作った国産鏡<
「大半」でもない。
http://www.ne.jp/asahi/morimoto/itl/yukue.html
参照。21面の方格規矩鏡は、「卑弥呼への下賜鏡」とされている。
>・周囲からの供献物もなく、自らも周囲に何の影響も与えていない <
大量の「玉」類は、供献でなければ、有り得ない。
>・祭祀の規模は小さく周辺地域からの参加も見られず個人の葬礼の範囲を出ない <
当然、「共立的女王」の個人の墓。
>・この後に続く墓には副葬品もほとんど見られなくなる
・九州全体でもこの墓の後には大量の副葬品は見られなくなり
数枚の規模の国産の小型鏡主体の時代になる <
那珂八幡や、黄金鏡の銚子塚がある。 このような画像ガ出てきたり
「交野山」
『交野山 祭祀』? 何か関係しているような
むかーし、発電、電気を起こしていて、
何々様なんて言われ、奉られていた。
寺院に通っていた。
老婆談 >>240
>参照。21面の方格規矩鏡は、「卑弥呼への下賜鏡」とされている。
おいおい
「されている」って・・・
安本がいくら言ったてダメだろ 平原の方格規矩鏡は粗造だからこそ魏鏡なのだな
違うというなら根拠を示せ 260の>>642
一生懸命に、平原を、
「卑弥呼のちょっと前の時代には九州が決定的に衰退していた」という証拠だと、
ドヤ顔で吹聴する大和説者を見てると、
本当に哀れになってくるなぁ。
http://www.ne.jp/asahi/morimoto/itl/yukue.html
でもよく読んでみな。 260の>>649
スレ主は、「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・・サギシだから、
スレ主のご託宣は、皇国史観的な戦争勧誘の怖いお言葉ですぞ 。 260の>>652
近隣の首長たちを、仲直りの宴会に誘って、皆殺しにした、
怖−い大和説。 260の>>656
「南→東」の超嘘つきダマシか!!!!。
大和説はSF。 260の>>659
>5,6世紀ごろの九州の副葬品は「規模の小さい古墳」から出てくる <
田舎の大和のご大尽のような・・・・ではない倭國では、
中国の薄葬令に合わせたサイズの墓で十分であった。
>江田船山古墳の鉄剣からも分かるように
九州が畿内を中心とした勢力のヒエラルキーの下位に属している事の証拠にしかならない<
江田船山は、銀象眼であり、倭国内の次官クラスの武将であった事を示す。 260の>>664
>九州の大型古墳はちょうど応神、仁徳期に后を出した日向地域にようやく現れる <
日向地域は、
大和の「筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」と同じように、
伊都国の阿毎氏系であるから、
大和の田舎のご大尽と同じく、「巨大古墳」を造る傾向があっただけ。
>「朝廷との繋がりによって地位を得られる」「史書の記述に則した古墳規模」<
まるでスレ主のような、半分×書の記紀信仰を吐露して、
「大和は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」という史料事実の否定曲解をしてはいけない。
>と言う九州の姿を見る事が出来る ここに畿内の影響を排した独自の王朝の存在など見出す事は出来ない <
大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国。 260の>>666
「南→東」などの嘘つきダマシで、
皇国史観ろいう願望と妄想を喚き散らしてれば、それが本当になると思ってる程度なのが、大和説。
その中でも、最も愚かで程度の低いのが、畿内説のダマシの醜態 。 ヤマトという地名も北部九州から移った
森浩一、最後のインタビュー(足立倫行「倭人伝、古事記の正体」2012)
伊都国の平原古墓は、すべての銅鏡が破砕して墓に埋納されていたことで有名ですが
奈良県桜井市の前期の外山茶臼山古墳でも、2009年の再調査で、実に81面の
銅鏡が埋納され、ことごとく破片だったことがわかりました、2つの墓は
100年ほど年代が隔たっていますが、弥生時代の近畿には墓へ銅鏡を入れる風習も、
その銅鏡を割る風習もなかったことを考えると、北部九州の強い影響は明らかです
また「魏志倭人伝」では、中国人が倭地の朱や丹に関心を持っていたことが記されていますが、
伊都国の平原古墓や井原鑓??溝古墓では棺の中に大量の朱が使われました
近畿でも、前期の前方後円墳では遺骸の周囲に朱を撒くことが知られており、
奈良天理市の大和天神山古墳では約40キロもの朱がキビツに埋納されていた
これなども、北部九州からの風習の伝播でしょうね
そもそも、ヤマトという地域名、いずれ国名になる名称自体が北部九州からの東遷の結果です 260の>>667
>いつも疑問なのだが、九州王朝説って何を指して言ってるんだ?<
白村江までは、九州の筑紫の倭国が西日本の盟主であった。 あのゲームの話
「渡来人どもめ〜」と言っているでしょ、北斗の拳の台詞とか 騙り?がいるという事もわかっている
「金返せ」と言っていたり 260の>>670
>また九州に限らず古墳時代に入るとそれまでの庄内期以上の斉一性を見せる「畿内発」の布留式土器の時代になる<
庄内は、三雲が発祥のようだし、
布留は、南加賀説もあるが、
常識的には、弥生銀座のハイテク工業地域があった筑紫が発祥。
>九州も当然その影響を強く受け九州から発する文化は無く一方的な関係をより強くするようになる <
庄内や布留のような高温焼成が必要な土器は、
半島での鉄や青銅や陶器の焼成技術の学習が出来る地域でないと、発症が難しい。
>時代をズラせばズラすほど九州の主体性は消え日本全国的な斉一性が強くなる
これは古墳に限る話ではない<
九州は、横穴式石棺墓や装飾古墳など、常に西日本の墓制もリードしていた。 ほとんど同じような話ばかりでしょ、
検索して出てくる話?
『聖化 日神 日霊 津』 260の>>672
>大規模古墳は動員力と土木技術の象徴だからな <
動員力は、筑紫倭國の東征戦のお手伝いでの「大量の墓守り人の獲得」のご褒美。
土木技術は、半島からの古韓尺技術者などの渡来と援助。 はやく仕事をしろと言っているんだよ、
お前に言ってるの
いつもの騙り?
私は上の人間だよという・・・系図なども偽造 260の>>673
>単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)している <
箸墓が那珂八幡を模倣拡大したように、同じ部族内(阿毎氏)では、
後から造るものは、先に造られたものより「より大きくより豪華」にしようとするもの。
それは、「セレモニーは進化拡大するもの」とされる人類に非常によく起こる現象。 >>265
またザラコクがウソをついている
模倣拡大してない
なぜって形状が違うから 260の>>678
>平原遺跡に見られるように「九州は弥生時代後期から中心的勢力を失い崩壊、衰退し」
「まとまりを失った小勢力に分裂している」という状態が、
古墳時代以降にまで続き<、ここに統合的な勢力など現れる事がない<
筑紫倭國では、二人の共立女王の後も、那珂八幡などや銚子塚の統合的な勢力が続き、
317年頃には、久留米付近に遷宮して、東海姫氏國が始まった。
>そして畿内の強い影響を受けた土器、古墳が広く分布し<
土器も古墳も、筑紫の先行性と、大和などの「追従模倣拡大」傾向がはっきりしている。
>畿内からの一方的な影響が時代を追うごとに強まる状況が浮き彫りとなっている <
筑紫での、大和の影響が出て来るのは、継体の反乱以後。 そんなに偉い人(凄い)だったの?
と思っている人もいる
かなり前の話になるけど、
どこかのスレでも言っていた このようなサイトもあったでしょ、
見たことがあるはず
誰かの兄弟?親戚?の家、
発電、電気を起こしていた 260の>>682
>このように肝心の弥生時代後期からその後に至るまでずっと
九州の統合(北部九州のみでさえも)も中心性も見出す事が出来ない以上、
九州王朝説も邪馬台国も成り立ちえないと分かる<
このように、この投稿子も、
「南→東」や、
那珂八幡付近の弥生銀座や、銚子塚や、
久留米付近の東海姫氏國の事を隠している、嘘つきダマシの・・・・である事がよく判る。
>このような状態でなにを持って九州説だの九州王朝説だのを唱えるのか皆目見当がつかないと言うほかない <
このような状態で、
なにを持って大和説だの畿内説だのを唱えるのか?、皆目見当がつかないと言うほかない。 >>267
またウソをついてるね
形の違うものが模倣拡大ではありえないし
前からあったものが後から出たものを模倣るすることもありえないのに >>247
平原の鏡のうち、少なくとも9面は華北で生産されたということだね。
こりゃあ、平原が卑弥呼の墓で確定だね。 >>273
そういうトンデモにかまけているから九州説は破滅した >>275
「安本がうっかり本当のことを書いてしまった」と言う
に200ザラコ
>>274
考古学を無視するから畿内説は支持されなくなった。 >>275
ケチつけるばかりではなく、畿内説の正当性を証明してみたら?
もし可能なら、だけどw 260の>>702
>平原とか九州の決定的な衰退を示す遺跡だからな
これを持ち出して何を叫んでるのか失笑しか出ないな <
平原は、「共立女王」たちの最終的な形態であり、
それ以後は、天孫族系の那珂八幡や銚子塚の王が後継し、
317年頃からは、卑弥呼の姫氏系の東海姫氏國が久留米付近に遷宮したからな。 その後、移動、移住したという話を知らないのか?
と言っている人がいたけど
頭の病院に行け >>278
だから、それがキミのまったく反論できないやつ
テンプレだよ 260の>>706
>奈良時代の税収台帳から8世紀初頭の<
8世紀初頭と言えば、大和が倭國を併合吸収継承が完成した後ではないか。
そんな時期の税収台帳なんて、3世紀頃の根拠になど、なるもんかい。
>関西地区の人口は90万〜100万だったことが判明している それに対して北九州の人口はたったの30万<
どういう計算をしたのか?も判らんが、
倭国は、白村江で大敗し、唐の官と軍が進駐したし、
大和が倭國を併合吸収継承したんだし、
そのために、禁軍や禁書があって、民が逃散した可能性があるし、
筑紫大地震があって、民もさらに逃散した可能性もある。
>GDP=経済力だった時代にこの人口差は致命的 北九州エリアでは関西エリアに全く歯が立ちません <
この・・・・男も、3世紀と8世紀の話を一緒くたにしたダマシをやっている。 260の>>709
>あと魏志倭人伝の諸国の人口を足すと倭国の人口は100万になる ・・・<
ならんよ。
古田さんの三国志での「戸」の分析では、
「戸」は、魏政府への「納税や兵役」単位の戸数の数え方であり、
だから、ほぼ「家屋を所有する成人男子」の数え方であり、
だから一戸当たり1〜2人の人口であり、
合計15万戸だったとすれば、15〜30万位の人口になる。 260の>>709
>・・・まさに九州説そのもののシンボルとしてふさわしいなw <
http://www.ne.jp/asahi/morimoto/itl/yukue.html
にあるように、
卑弥呼か壹與の墓になるんだよ。 260の>>713
>北部九州の背丈は30cmなので食料は関西ほどいらない <
こりゃ全くの(大和説者に有り勝ちな)・・・・の投稿だね。 260の>>720
>古代社会では大和の経済力は突出していて 北九州など対抗勢力にもならない<
鉄、矛、絹、鏡、弥生銀座、ハイテク工業地域、大道、庄内布留など、
古代社会では筑紫の経済力は突出していて 、大和など対抗勢力にもならない 。 260の>>729
>方角こそ嘘が多いでしょう <
誰にでも判るようなウソは、魏使らは記載しない。
>政治家なら魏使が狗奴国の味方に着いた時に備え、
大和の都が攻められないように嘘を付くのは 当たり前ではありませんか?<
「南≠東」に拠って「大和」は×。 260の>>735
>倭人伝では鉄は鏃だけ<
五尺刀二口。 >>290
誰にでもわかるウソを
つくのはザラコク 260の>>742
このスレの大和説論者は、「皇国史観」カルト宗教信者の・・・・だから、
テロされるかも知れんし、怖いので、
相手にすんな 。 260の>>745
>これ見てふと思ったんだけど、邪馬台国って卑弥呼がいたってだけでバチカン市国みたいに小さい国だった可能性ってあるんじゃね?<
これ見てふと思ったんだけど、邪馬台国って卑弥呼がいたってだけで バチカン市国みたいに小さい国だった可能性ってあるんじゃね?<
「邪馬台国」なんてないし、
邪馬壹國は、7万戸の大国。
大和は、倭國の筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国。 260の>>751
>平原は他地域との交流もなく、他地域に影響を広める事もなくそこで終わる孤立した遺跡でありその時代の中心とはとても言い難い <
大量の玉は、交流搬入があった証拠。
>そしてその後には九州は各地域がバラバラのまままとまる事なく古墳時代を迎える事となる <
弥生銀座の那珂八幡地域→糸島地域→久留米付近、と首都圏が移って行った。 260の>>772
>いつ、どこで?<
室見川の銘盤。 260の>>779
>しかもそれに続くとする平原が「肝心の邪馬台国の時代の前に決定的な九州の衰退を示している」遺跡
つまり、紀元前から続く九州北部に影響力を持っていた中心的勢力が邪馬台国の時代の前に(150年ごろ)に衰退をハッキリと示した<
平原は、魏帝が銅鏡100枚を下賜した後だよ。
http://www.ne.jp/asahi/morimoto/itl/yukue.html >>291
うち1本は阿波にあった。 千代ヶ丸山 観音山古墳(反正天皇の御陵跡) @阿波 260の>>790
妄想トンデモだからな 。
大和説には、根拠も理路もないな。 >>300
それ・・・
あらゆる歴史学、考古学が頭から否定してるんてますけど 260の>>811
アスペへの無理解と、「南→東」の嘘つきダマシを正当化しようと足掻く、インチキ・・・・ガキさん 。
それが大和説。 260の>>830
>須玖岡本とかの時代に中国との交流や北部九州全域に影響力を及ぼしてた事なんてそれこそ何説だろうが了解済みの話
こんな話して何が言いたいのかね?<
民間交流での中国絹の可能性も否定しないが、
最も明解なのは、魏帝が下賜した「絹」だよ。
>まさこれで邪馬台国だとか言うつもりなのかね もう何言いたいのやら<
「邪馬台国」なんてないし、大和には邪馬壹國はない。 260の>>833
田舎の人が分からんのは仕方ないけど、 筑紫こそ日本文化の本当の源流やで。
日本文化の発祥なら筑紫ですわ 。 畿内説とかマトリックスの世界みたいだな
中の住民は夢を現実だと思い込んでる。 >畿内説とかマトリックスの世界みたい
matrixは母体,基盤,発生源だからあながち外れてもいない
無学者には理解し難いのは確か >>303
平原遺跡の鏡は後漢鏡からさらに独自に発展、大型化している。
倭国大乱より前ということはない。
考古学的な鏡の編年からは、平原遺跡は魏またはそれ以降の女王墓だ。 アタマのビョーインに行け
と言っているんだよ
言っていることが理解できないんだろう、
だから言っているんだよ
頭の病院、精神科というの?
そこだよ >>132
北部九州が勝者の九州内戦があったとしか見れない
それ以前に弥生時代で中国朝鮮が日本を侵略しようとした事があるのか? スレ主変わった?
過去スレで、「私は書き込むときは必ずコテハンつけます」とか言ってたのだが・・・ >>325
『元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させているんです。』 >>326
遣隋使・遣唐使は阿波から派遣?
大化改新はどこで? >>330
ありがとう
説は説として心起きました
阿波説は一つづつ証明するのに相当な時間がかかりますね。
ロマンがあってよいですね。 260の>>836
>上代なら三輪山の麓
古代からは京都が日本の文化的中心地
邪馬台国は関西やろな <
そんな「〜やろな」程度の願望で、歴史を捏造する宣伝して、
世間の人々を騙して、
キミは何をやりたいんだい?。
おそらく、戦前の殺し合い戦争国家に、また戻したいだろ?。 260の>>838
>その九州北部にあった中心勢力が150年前後に崩壊して九州が中心もまとまりもない小勢力の集まりになるのが弥生時代後期 <
嘘を付くな。
倭国が大和日本国に併合吸収継承されたのは、ようやく白村江の後の、701年だ。
>そして山陰、瀬戸内海、四国、畿内と言う周辺勢力の影響を一方的に受けてその干渉下に入っていく<
入って行かない。
「南≠東」であり、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」でしかない。
>まさにその時期が「邪馬台国の前夜」<
嘘を付くな。
「邪馬台国」なんて存在もしない。
要するに、この男も、史料事実を曲解捏造して、世間の人々を騙そうとする・・・・サギシ。
>邪馬台国の頃の九州は日本の中心どころか分裂してまとまりもないまま他地域の影響下に呑み込まれていく「地方」でしかないのが分かる<
白村江の後まで、筑紫倭國が、大陸との窓口であり、西日本の盟主であり、
大和は、別種の旧小国の「市」で儲けた田舎のご大尽。 >>319
>平原の大型鏡はきちんとした編年はされてないよね
でも倭国大乱前の後漢時代ということはないだろ。
やっぱり卑弥呼の墓の可能性は高い。 260の>>845
>北九州が日本の中心地なら北九州の神さんが日本神話のトップでないとおかしい
神道も仏教も本社や大本山は殆どが関西に存在している
博多近辺が日本の文化的中心地だったとはとても考え難い
出雲ならともかく博多は無いよ <
記紀も、唐書群も、
大和の神さんは、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国だった、
と証言しているんだよ。 260の>>849
畿内説だの偽書説だのは、もう考古学も史書も無視した妄想でしかないな。
聞いてて、もう説でも何でもないのがよく分かる。
流石は、ただの「和田キヨエと偽書説派の捏造謀略のインチキ小便着色一升瓶」を崇めてる連中の思想だわ 。
見てても、もうなんていうか「戦前のj皇国史観殺戮戦争」狂の・・・・妄想ばかりで、
乾いた笑いしか出てこないわ。 260の>>851
>ぜんぶ海人族の神様じゃん それこそ当時の博多地区が海上交易者の町だった証拠
太陽神、天空神、国土神がいない 権力の中枢としての証拠が全く無い <
何だ?、この男は。
「太陽神、天空神、国土神」なんて、どこから引っ張り出して来たのか?は知らんが、
とどのつまりは、日本は「太陽天地国土を支配する国=皇国史観国家」という、
宗教的な「結論先にありき」の・・・・人種であり、
ナチスやトランプやISイスラムらと同じではないか。 260の>>855
ここまで読んで「反九州説?」とか言う連中が喚いてるのって、
須玖岡本、三雲小路とかを何百年も前の話に摩り替えたり、
倭人伝では「大和が倭国の首都だ」と言い張ったりするようなパーばっかりだな。
これが?畿内説?。
なに?、笑わせに来たのか?。
それともマジもんのバカなの? 。
まぁバカどころかキ〇ガイなんだろうな 。 >>338
畿内説は戦前の亡霊が復活したカルトだよ。
非科学的であっても盲信してしまう。 260の>>864
はい、みなさん、
これが、皇国史観戦争狂の大和説の、バカです 。
コピペして使ってあげましょう 。 >>337
同意する 畿内説は皇国史観から抜けきれない
なのに、邪馬台国から明日香、藤原へ続く空白の畿内の歴史の変遷を解明できない
大型古墳を根拠も無く、陵墓として立ち入り禁止にしている宮内庁も説明できない 神武天皇が大和に遷都されてから2600年、だから3世紀以前から大和が京都なのが当たり前。
それが畿内説の本音。
最初の皇后がどうとか、神仙思想とかでカムフラージュしているだけ。
だから考古学も魏志倭人伝も無視する。 260の>>865
>過去の財産を鋳つぶして作った誰にも何の影響も与えてないオナニー鏡がなんだって?
スレ主のありがたいお言葉ですぞ<
「尚方作」と書かれた平原の21枚の方格規矩鏡も抹殺しようとする、
「南→東」の嘘つきダマシのスレ主らの、
「戦争勧誘」の、怖い怖ーいお言葉ですぞ。
・・・・は、無視して逃げましょうね。 260の>>866
>>宮地嶽古墳の副葬品などを知っているのかどうか <
>6世紀の古墳が何だって?<
筑紫倭國の王家の墓だよ。
>朝廷に嫁を出して地位を得てる豪族の墓が何だって?<
大和にも、大皇弟として迎えられた倭國の王家一族だよ。 260の>>869
>大和朝廷が抱えていた伊勢神宮や三輪大社に比べ
国家的レベルの巨大神殿というには宮地嶽神社は 規模的に無理があるとおもう <
後から造って威張りたい方は、
前よりも「大きくて豪華にする」傾向がある、というだけだよ。
「セレモニーというものは進化する方向性」があり、
その進化は、常に経済的社会的に限界になったときに、破綻するもの。 まあそれでも、平原遺跡の副葬品からは、その葬祭が国家的行事であったことがうかがえるな。
八咫の鏡を惜しげもなく何枚も割っているから。
卑弥呼の死という喪失感がいかほどであったかを知ることができる。 260の>>881
>井原鑓溝の後に平原
その平原では漢鏡も手に入れられず他地域とも関係しない孤立遺跡になる
須玖岡本などから続く九州北部の勢力の終焉の流れを示しているのが分かる
なんでさっきから時代が全然ズレてる遺跡出して邪馬台国だと言い張ってんのか意味が分からない<
http://www.ne.jp/asahi/morimoto/itl/yukue.html
なんかもう畿内説以外の人間って、大半は気が狂ってるんだろうか
>>331
>阿波説は一つづつ証明するのに相当な時間がかかりますね。
そうですね。でも、「本格的」に主張し始めたのは、つい最近からですからね。
その点、九州説・畿内説は全然進展がないですね。
今後、今以上の科学的分析の進歩に期待しています。
阿波には卑弥呼時代の考古資料が豊富ですから。 @阿波 >>348
周りがみんな狂っていると思うのなら、自分が狂っていないか疑うといいよ。 260の>>898
>平原が須玖岡本、三雲小路、井原などから続く九州の大量出土の最後 しかもその内容は大半が国産鏡
それ以降は九州のどこからもそんな場所はなくなる 他の地域も国産の小型鏡中心になる
その動きは副葬品のみならず銅矛や甕棺の分布と言うそれまでの九州の中心性や統合性の崩壊も同期している
つまり邪馬台国の100年ほど前に既に九州はまとまりも中心もない雑多な小集落に分裂したことを示している
邪馬台国も九州王朝もない事の証にしかならない 九州のどの遺跡を出そうが結果は同じ <
平原の後は、那珂八幡や銚子塚。
その後で、317年頃に久留米付近への遷宮があり、姫氏の東海姫氏國に変わった。 260の>>904
>九州説とか言う連中は現実無視して時代を変えれば誤魔化せると思ってるから救いがたい
「どこの時代に移しても」「どの地域に移しても」「どんな遺跡を持ち出しても」 結果は同じ
九州は弥生時代後期にそれまでのまとまりも中心も失い崩壊して他地域の影響下に入る
その動きは古墳時代になってさらに強まり九州の中心性など見出せない
「どこのどの時代に逃げても結果は同じ」 <
平原の後は、那珂八幡や銚子塚。
その後で、317年頃に久留米付近への遷宮があり、姫氏の東海姫氏國に変わった。 むかーし、
ツチグモとか妖怪がいたという話があるでしょ、
雷獣とか
雷は雷でも系統が違うとか? 260の>>907
>5,6世紀ごろの九州の副葬品は「規模の小さい古墳」から出てくる <
大和は、田舎のご大尽で、
セレモニーは後からの方が進化する。
>江田船山古墳の鉄剣からも分かるように九州が畿内を中心とした勢力のヒエラルキーの下位に属している事の証拠にしかならない <
江田船山は、銀象眼だから、倭j国内の地方の武将クラス。
>交易をしやすい場所であるという点から外来品を手に入れやすかったというだけ
それをもってしても政権内での地位はその程度しかなかったという証拠 <
大和は、単なる田舎の旧小国のご大尽。
>九州の大型古墳はちょうど応神、仁徳期に后を出した日向地域にようやく現れる <
応神仁徳は、倭國内の武将クラス。日向地域は、倭奴国の阿毎氏の分家の系列。
>「朝廷との繋がりによって地位を得られる」「史書の記述に則した古墳規模」と言う九州の姿を見る事が出来る
ここに畿内の影響を排した独自の王朝の存在など見出す事は出来ない<
大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
倭国の地方の市を監督する田舎のご大尽で、
倭國の東征のおこぼれ頂戴で巨大古墳を造った。 最近の話になるけど、
ツチグモというのが自衛隊を作ったの?? 八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を算出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔であり、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。 違います^^^^^
ツチグモの上に他の人たち?がいます^^^^^
その人たちが^^^^^^^^^^^^^^^
と言われるだろう 260の>>917
>前方後円墳と言うシステム内の独自性に過ぎない 結局中央から出された枠内に収められている
しかもその規模や格は決して高いものではない <
大和は、ほぼ全て母国筑紫の「学習模倣」であり、セレモニーを進化拡大しただけの事。
>九州で見られる大型古墳は朝廷との関係の深い場所に限られそのシステムが機能している<
箸墓は、那珂八幡の模倣だじ、
応神仁徳は、九州倭國系の武将。 仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 なぜ老婆は詳しいんだろう
「クモスケみたいだな」と言っていた事があったり
日本にもいたでしょバンド、じーぐ、じぎー? 260の>>942
大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国でしかなかった。 >>350
あんたら少数派だから
その必要はないな 260の>>943
大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国でしかなかった。 かなり昔の話
📺を見ていたとき、何かに出演していたのかな
「なんだ、あの髪の毛に着ている服、クモスケみたいだな」 武内宿禰は住吉の神や高良の神と呼ばれ、それぞれ筑前国一宮住吉神社、筑後国一宮高良神社の祭神。
すなわち筑紫倭国の覇者であり、邪馬台国から権力を奪った勝者。
その息子の応神天皇が現在の天皇家直系の祖先となる。
諡号に神とあるのがそれぞれの王朝の祖先神。 260の>>959
大和説者って本当に、口を開けばバカを晒すな。 家の隣に住んでいたのが高野さんでしょ、
うちだ・ゆーや・・・ドラムをやっているんだよ
とか もれ(仮)が小学生の頃の話だよ
「クモスケみたいだな」
当時から詳しかった 老婆の旧姓:ワタナベ
家は▢▢力夫?のような名前、
むかーし芝居や歌舞伎が・・・よく観に行っていたとか 基地害が荒らせば荒らす程畿内説の正しさが実証されてゆくよねw 倭人伝でも、カリスマ卑弥呼が亡くなると
小国がそれぞれ勝手に戦争始めてるからね。
小国がそれぞれ軍を持ってて
中央軍らしきものがないか
かなり小さいことがわかる。 ドラムをやっている、
高野さんに聞いてみるとわかる
川崎区の南部のほうに住んでいた、
産業道路・横羽線
家の前(横)は現在、駐車場になっている、
コンビニもある >>346
>まあそれでも、平原遺跡の副葬品からは、その葬祭が国家的行事であったことがうかがえるな。
何の謂れもないミカン畑で国家的行事などあるわけない。あきらめてください。
あと、2世紀前半の男王の墓はどこ? 『伊達の桃太郎』
この辺りに住んでいた事もあるんだよ
と言っていた 伊達郡?
その辺りに住んでいた事があって、その後、川崎区に来たと言っている 260の>>966
>どうして古墳の規模が帝王陵の条件ではないの?<
後からの模倣では、「セレモニーの進化」の原則で、
前よりも「大きく豪華なものにする傾向がある」だけだから。 書き込みなんかしていないで、
仕事をしろと言っているんだよ
お前の仕事は?やまたい研究家?土木関係? 260の>>980
>文字が普及していないなら邪馬台国じゃないってところから
ひたすら逃げ回ってるね<
一般住民には文字が普及していなくても、
倭人上層部は、上表文など、漢文を読み書きしているから。 それにしても、どうなっているんだろう、
力夫という親戚はいないと言っていたり
家の先祖の写真でしょ、
本人(制服を着ている子供)も、
父親も軍人ではないと言っている、警官でもない 260の>>986
>九州は交易の拠点だから財物が手に入りやすいのなんて当たり前
だがここは全国規模の規格の支配下に入っている地域で、この地域自体の中心もまとまりも存在しない
この動きは弥生時代後期から古墳時代、飛鳥、奈良と変わることなくドンドン中央の影響強まる一方でしかない
ここに日本の中央も、九州一つまとめた勢力さえも存在していない
中央に従う証である古墳から出る財宝とやらを持ち出してそれが主張できると思ってるのだから度し難い <
大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国であって、
白村江の後で筑紫の倭國を併合吸収継承した、
という事が、史料事実であり、実態。 戦争などにも行ってないよ
と言っていた
参加?もしていない
とか >>379
考古学的証拠を無視してはいけない。
これだから畿内説は世間から支持されなくなる。 ガンダムとウマヤド?(仮名の人物)
関係しているでしょ >>392
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。 >>394
考古学者が誰も知らない考古学的証拠ってなに? シャアではないけど猫を飼っているキャラもいたでしょ、
赤い服?
よくわからないけど、
病魔に侵されているキャラとか >>396
旧唐書
倭国(阿波)はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国(阿波)に属していた。倭国(阿波)の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国(奈良大和)は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国(阿波)がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本(奈良大和)とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本(奈良大和)は古くは小国だったが、倭国(阿波)の地を併合した。」とも。 なぜか『ワンピース 粉雪』という動画に登場したり
電気を起こしていたという話? 『サイバーパンク special』同じような話でしょ >>400
つまり
「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国であって、
白村江の後で筑紫の倭國を併合吸収継承した、」
という事が、史料事実だと言うのは
真っ赤なウソだよ >>73
大和説者は、説として以前に人間として
もうダメだな。 >>397
平原遺跡は鏡40枚、玉2000個など、日本の考古学史上、弥生時代で最高の出土品を誇る女王墓だよ。
知らなかったかな? >>403
大和説者は、説として以前に人間として
もうダメだな。
事実に目を向けようとしない。 特別出演(ゲスト)のようなキャラがいるのかな、
そういう作品とか >>399
大和説者は、説として以前に人間として
もうダメだな。
やけになって荒らしてばかりだ。 ジョジョに登場した大統領とか
そういう説があったでしょ >>408
国権の象徴である八咫の鏡が埋葬されていたことは、国家的祭祀として葬祭が行われたことの証拠だよ。 つまり平原遺跡の被葬者が倭国の女王である卑弥呼であったということだ。 >>406
トンデモ九州説は相変わらず嘘ばかりついているね
ありもしない架空の史料事実とやらを振りかざして他人を騙そうとしているよ
そんな堕落しまくった九州説は
当然もう学問の世界にいられない >>98
あいかわらず、具体的な史料事実の反論証拠を、
なにひとつ出さない大和説のアホ。 >>102
>ウソが、多いね <
あいかわらず、
具体的な史料事実での反論証拠を、
なにひとつ出さない大和説の、
口先ダマシのサギシのアホ。 >>418
そんなことをしたって証拠は?
また嘘を重ねて誹謗中傷連発? >>103
>また嘘ついてら テンプレに説明があるだろ<
それなら、テンプレの史料事実に拠る説明を書き出せばよいんだよ。
テンプレは、「南→東」などの嘘つきダマシのサギシである事がはっきりしているので、
全く信頼性がなく、読む気も起きないから、
「テンプレに説明があるだろ」と言うんなら、
その部分を書き出せばよい。 >>422
>全く信頼性がなく、読む気も起きないから、
「畿内説は何も説明しない。
説明する中身が何もないから。
畿内説はただの妄想。」
と言っていたのが、真っ赤なウソだと
バカが自白した
w 高野さん?
家の隣に住んでいて、
赤いもの(クルマ)に乗っていた
全体が黄色、黒い馬のようなエンブレム
近所に浅野セメント?(関連の会社)というものがあって 全く旧習説のボケ老人は毎日のように嘘をついては露見
嘘をついては露見の繰り返しだね
そして恥多き人生を近いうち
そのまま終わるのか
可哀想だね >>411
>国権の象徴である八咫の鏡が埋葬されていたことは、国家的祭祀として葬祭が行われたことの証拠だよ。
九州は天皇家・宮内庁と今も昔も縁が無く、今以って天皇家祭祀(大嘗祭等)において蚊帳の外。 推して知るべし。 @阿波 >>394
>考古学的証拠を無視してはいけない。
平原を卑弥呼だというなら2世紀前半の男王墓はどこ? >>430
そしてキウスが来て、ツブヤキは1だとデマを流す
>>411
>国権の象徴である八咫の鏡が埋葬されていたことは、国家的祭祀として葬祭が行われたことの証拠だよ。
ミカン畑で? 謎の伊達郡という掲示板
奈良、平安の話をしているけど、
移ったりしたのかな
香野という家の話とか、
むかーし結婚した家だよと言っている それにしても老婆だよ、詳しい
「昔、クガだったかコガという女優がいて」 他の意味なのかな
『宮城』
川崎に住んでいると言っていたり、家は川崎区 ほとんど老婆談と同じ
伊達郡に飯野というところがあって、
広瀬川だったかな、川があるんだよ >>116
>>鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね <
>それは関係がない。
最新兵器は防衛省・自衛隊が持ってるもので宮内庁・皇居にはないのと同じ。
むしろ北九州は防人の地であり、そんな所に王都などはない。<
関係がない。
倭人伝には、倭國亂や、狗奴國と戦いや、
「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人」の戦いが書かれており、
大和に関しても、宋書に「自昔・・・東征毛人五十五國」があった事が書かれている。 >>438
ザラコクの言うことはいつも意味不明だな >>438
それのどこが>>116への反論なんだ? >>440
ザラコクに問いかけても無駄だよ 過去レスにイチャモン付け専門だから 議論を逃げる卑怯者 宮城 きゅうじょう?
宮殿 王宮・・・このような話? 福岡県内は宮だらけだな。
香椎、宇佐、筥崎、高良、朝倉、住吉、、、 >>433
>ミカン畑で?
くだらん書き込みをしていて虚しくならないのか?
昭和にミカン畑だったからなんだ?
纒向は昭和にはなんだった?
ばかだろ、こいつ。 高祖、香春、岡田、蚊田、鷹尾、風浪、玉垂、、、
調べると福岡県内の宮はいくらでも出てくるな。 畿内の神社は、仏教が伝来して宗教施設と王宮が分離してからのものがほとんどだが、九州北部では仏教伝来以前の王宮が神社として残ったものが多くある。
しかも王ごとにしばしば立て直したので、たくさんある。
特に重要な宮は後世においても各地の一宮として崇敬を集めている。
筑前 住吉
筑後 高良
豊前 宇佐
肥前 河上
肥後 阿蘇
肥前だけマイナーな気がするが、祭神である淀姫が壹與であれば、高い位にあるのもうなづけるというもの。 そのうち
秀吉の本拠は名護屋城でのちに愛知県を征服した
とかいう馬鹿が出るかもな >>449
神社名からして、倭国(阿波)の神社は畿内や九州とは別格なのである。 @阿波
「倭大国敷神社」・「倭大国魂神社」・「事代主神社」・「建布都神社」・「伊射奈美神社」・「伊加々志神社」・
「多祁御奈刀弥神社」・「天村雲神伊自波夜比賣神社」・「弥都波能売神社」・「天石門別八倉比売神社」等々 >>454
畿内説が言うわけないでしょ
知能ないの? >>455
福岡県糟屋郡久山町猪野には天照皇大神宮ってのがあるがなw 数年前、忍者アニメで見た
オレを祀れ(奉れ)
と同じような話なのかな
どのような字を書くのかは、
わからないけど
たてまつられていたと言っている かなり詳しい人がいたでしょ?
誰々の家は工場などで仕事をしていた人間ではないよ
このようなことを言っている人 >>455
畿内の神社よりは古そうな名前が並んでいるけど、所詮は九州からのコピーだな。
まあ、奈良盆地が栄えるより前に、筑紫の傘下で阿波が繁栄した時代はあったかもしれない。 川崎に来てから、
そういう仕事をするようになった
というだけ
他の人もそうかもしれないけど >>462
理由なしに断定するのは知性のない奴だな >>447
>昭和にミカン畑だったからなんだ?
謂れもなく忘れされてていた地域だね。ヒミコがいるわけがない。
>纒向は昭和にはなんだった?
古墳群はあったよね。
しかも日本書紀に箸墓古墳の謂れが書かれてるよね。
おれは纏向にヒミコがいたなんて思わないが、
平原ごときカッペと比べるのは失礼だろ。 詳しい人がいなかった?
いまの・・・は明治時代頃に作られたものなんだから、
ありがたがるものではない
何かの制度のようなもの?
おかしいでしょ、
あの伊達郡という掲示板
奈良、平安の話をしていたり >>466
でも君は学者じゃないでしょう。
まともに反論もできないみたいし。
自分の頭で考えずに金魚の糞みたいにぶら下がっているだけ。
このスレを見て、一般人は畿内説に中身がなくて空っぽだと思うだろうね。 >>468
金印が元々は糸島の神社にあったとか創作にいとまもないけどなー >>468
箸墓古墳と纒向遺跡を同一視するなら、平原遺跡と高祖宮もセットで考えなよ。
天孫降臨や日向三代の王家の記紀伝承に彩られた王家の谷の姿が見えてくるだろう。 >>470
まともに反論もできないみたい
とか悪口しか言い返せないんでしょ?
それ
キミがまともに反論もできない人だって証拠だから
トンデモ説の人って何時も簡単に論破されちゃうね
藁 >>472
イミフ
箸墓古墳と纒向遺跡は同じ遺跡なんだから同一視して当然
平原遺跡と高祖宮は同じ遺跡でも何でもない
ムリヤリのゴリ押しもいいとこだ 邪馬台国は四国にあった、吉備にあった、出雲にあった、
宮崎にあった、熊本にあったならまだわかる。
北部九州にだけはあるわけない。
都とは防衛上の奥津城だ。
北部九州は防衛上の最前線だ。
こんな所に都があるわけない。
くだらないお国自慢演歌歌手は田舎に帰りなさい。 >>472
>高祖宮
しょぼ過ぎ。
明神大社とは言わないがせめて式内社であってから考えようねw >>470
この人の脳の構造がわからない
>学者はみんな知性がないわけ?
は
>知性がないと畿内説のようなカルトに引っかかる。
への
正確な反論になってるが
論理を理解する能力が無いのだろうか
??? 【「旧唐書」の日本国条】
「日本国条」は行を変えて、
『日本国は倭国の別種なり』で始まっている。
「日本国条」の冒頭は日本国から来た使者の証言を列挙している。
『その国日辺にあるを以て名となす』、
日が昇るところにあるので日本と名付けた。
『倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となす』、
倭国は「倭」が優雅でないのでその名を嫌って日本という名前に変えた。
『日本は旧小国、倭国の地を併せたり』、
もともと小さな国だった日本が倭国の地を併合した。 >>472
>天孫降臨や日向三代の王家の記紀伝承に彩られた王家の谷の姿が見えてくるだろう。
見えない。
日向とは宮崎。
根拠は300基を超える西都原古墳群。
景行や仁徳に妃を輩出した諸県の君一族の墓であろうが、
この畿内の天皇と強い結びつきは神武のルーツが宮崎であった証拠になる。
北部九州にはそのような古墳群はない。
日向まで北九州にしようなんて朝鮮人並みの泥坊根性だ。
さすがは半チョンwww >>477
まさに論理的思考が出来ないから九州説なんだよ
論理に反応しない
九州説の学者がいないというコンプレックスだけが反応して、オマエは学者の金魚のフン!という罵声を飛ばすしか出来なかった
つまり馬鹿ってこと 隋書 東夷伝倭国条
有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭
阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天にとどく。人々はわけのわからないことだとして、祈って祭る。 >>480
>日向とは宮崎。
誤読。
日向国が命名されるのは景行天皇の御代だから。
それまでは筑紫の日向は福岡県西部のこと。
そもそも筑紫と言っているのだから、福岡県内に求めなくてはいけない。 >>483
>日向国が命名されるのは景行天皇の御代だから。
だから何なんだろう。
明治以降に東京と呼ばれる場所を東京と呼んで何の問題があるのだ? 中国の史書によれば、「魏書」から「隋書」まで、ずうっと「倭」と中国は国交していたと書かれてる
そして、その倭の場所は、阿蘇山とか出てくるし、どうも九州っぽい。
続いて
旧唐書 東夷伝日本国条
日本國者 倭國之別種也
日本国は倭国の別種であると記述が出てくる。
東征で併合された国々も含め日本としたとうかがえる それとネットなどで見かける、
トンキンというのは何なの?
どの地方の人が考えたんだろう 崇神が神武をしのんで宮崎神宮を建てている。
この時点で日向とは宮崎。
また神武の先妻アヒラツヒメの痕跡、
例えば油津港という地名、アヒラツヒメやタギシミミを祀る神社が存在する時点で日向は宮崎。
ほんと隙があれば何でも北部九州にしようとする。
この歴史泥棒ぶりはチョンコそっくり。 伊達郡という掲示板
蚕、機織り。
香野という家が何やら。
亀戸に行ってきた。
家の話だと思うんだけど
『伊達の桃太郎』
門人と書いてある家? >>485
馬鹿じゃね?
隋の頃の倭国(もちろん都は飛鳥)の領内に阿蘇山がある
なんの不合理もない >>485
個人的イメージ論で他人を説得するのは原理的に無理 >>484
それより前の記事では、筑紫の日向は福岡県西部のことだということだよ。
そもそも考古学的に古代の王墓が見られるのも、宮崎県ではなく福岡県だからね。
イザナギが禊をした筑紫の日向の橘の小戸が現在の福岡市西区小戸のあたり。
これが博多住吉神社の起源。
宮崎県なんかじゃないよ。 >>492
イメージ論ではなく、正史の記述だよ。
それを無視して歴史の何を語ろうというのか。
畿内説はとことん捏造史観だな。
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。 倭国はいにしえの倭奴国のことである。
大事なことなので二度言いました。 先祖の写真
きゅうりの葉、葱の華・・・
一般人ではないでしょ むかーし住んでいたというところ、
周辺に小手姫?の像というものが建てられていたり 畿内説はもう何も無いのですか・・・・・・畿内=邪馬台国でしょ、纒向=王都でしょ
九州説は
伊都も有力だが、他を唱える九州説の研究者もいる
まだまだ、解明すべきことが多くのロマンが九州にある。
現段階だけでも畿内説に比べ、文献、物証は圧倒的に九州に利がある。
確定なのは、九州に邪馬台国があったという事 >>494
あ、イメージ論じゃなくて詐欺王朝説なのね
倭国が日本に改名したという史料を無視しまくるゴミ説ね あの写真の話
何々様なんて言われて、
たてまつられていた家だよ >>501
どんな利があるの?
あるある詐欺?
w 旧唐書 東夷伝倭国条
倭國者 古倭奴國也
(倭国は、昔で言うところの倭奴国である。)
金印・・「漢委奴国王」 >>501
>畿内=邪馬台国でしょ、纒向=王都でしょ
だから九州説消滅な 高祖宮は背後の高祖山の山頂を含む怡土城の中にある。
この城は中国式山城で、山頂と山腹を含む領域を囲んでいるのが特徴。
知られている限りでは奈良時代の吉備真備が建造したが、高祖宮の祭神が彦火火出見であり、博多湾を望む要害であることから、それ以前から存在していた可能性もある。
伊都国への陸路は日向峠しかなく、ここを抑えている限りは伊都国の防衛は確実となる。
これこそが記紀に筑紫の日向の高千穂宮とうたわれた古代の王宮である。
なお、クジフル岳は高祖山の山頂の一つである。
伊都国には多数の王墓があり魏の使いも滞在した外交都市でもあった。
卑弥呼は高千穂宮でクジフル岳を背にして君臨して、その目の前の平原遺跡に三種の神器とともに葬られたと考えられる。 >>504
利権ズブズブで歴史を歪曲しまくる畿内説と一緒にしないでいただきたいですねえw >>504
あまり、文献や発掘物に詳しくないですね
まず、倭人伝に記されたものの産物・出土物から勉強したら如何かと
其の後、大陸の文献が良いと思います。記紀もいいですが創作が多いので注意して読んでください >>505
それ
倭国として統一される前に
倭人の国々の中の一つの小国である倭奴国が朝貢してきたことあり
って話だけど
それが何か? >>461
>畿内の神社よりは古そうな名前が並んでいるけど、
そりゃ、九州より畿内の神社のほうが古いでしょ。 大和は倭国(阿波)が本家なんだから。 @阿波 >>493
>イザナギが禊をした筑紫の日向の橘の小戸が現在の福岡市西区小戸のあたり。
>これが博多住吉神社の起源。
そんなの宮崎にもあって宮崎市阿波岐原町の江田神社と言われてる。
だいたい福岡なんて日に向かってないじゃん。
チョンの地には向かってるけどwww >>509
ほら、また議論に負けて中傷にはしった
だから九州説はダメなんだよ >>511
創作しちゃダメ
倭奴国が倭国と呼ばれるようになったの
倭国とは福岡のことなの むかーしの、▢族。
むかーし、▢族が〜。と言っている人もいない?
その謎の掲示板 なお、テンプレではあまり中国の文献を研究していないように思います
テンプレの記紀を参考までにとどめるとの記述は理解できます。
ならば、中國の文献も参考にしないと・・・・・・・・・・・・・・・・・ >>515
いや、中傷しているのは畿内説の方だから。
>>504
>どんな利があるの?
>あるある詐欺? >>510
ほら、また具体的なことが言えないで逃げた
しかも相手の悪口を言いながら逃げるって毎度のパターン
みっともないね
上から目線気取って辛うじてプライド守ろうとしてるけど内心ズタボロでしょ
負けてばかりだから >>519
記紀と中国の史書が矛盾なく合致すれば最も良いとは思いませんか >>521
誰が逃げたのかなw
何人を相手にしているか理解していない? >>519
また根拠もなく中傷か
そんなこと、やっててミジメにならない? >>131
大和説者は、
始めから「南→東」の嘘つきダマシをしているんだから、
根本的に、態度が邪悪な人種だな。 >>523
倭國者 古倭奴國也
(倭国は、昔で言うところの倭奴国である。) >>527
ちゃんと引用して貼り付けても目に入らないのなw
Botなのかな? そこに住んでいたころの戸籍に
香野という名前があったでしょ
飯野というところの生まれ 老婆が言うには
昔、結婚した家・・・そんな名前だったよ
と言っていた
悪く言うとストーカーがいるのかな >>535
>>>529
>どれ?
>>504
>どんな利があるの?
>あるある詐欺? 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。 >>491
有阿蘇山其石無故火起接天者です
畿内の阿蘇山はこれに該当しますか? >>132
>弥生時代から日本人はおおよその地理を把握、
大陸からの巨大勢力が日本を攻めてきたら北部九州や瀬戸内で迎え撃つ体制を整えてきた。・・・
北九州は防人の地であり、こんな所に王都などはない。
万が一、大和に危険が及ぶと、もう一つの天然要塞・近江に都を移転することも考えたであろう。
伊勢遺跡とはその役割があったのかもしれない。
実際、白村江の敗戦後に全く同じことがあったではないいか。
繰り返す。 北九州は防人の地であり王都などはない。<
根本的にこの男も、
縄文〜弥生期に、列島全体を統一した天皇家の大和政権があった、
というような、皇国史観の前提でしか考える事が出来ない・・・・人種であった、
という事だな。
弥生の頃の列島は、縄文系も弥生系も一元的な統一権力があったのではなく、
列島は、「多元」であったのだよ。 理由はわからない、職もわからないけど、
凄い土地を持っていた。
山の上のほうに住んでいた。 >>540
はい、出ましたね
倭国と倭奴国は別モノです
統一される前の倭人諸国の中の小国の一つが倭奴国 >>541
そういうウソを平気で言うから九州説は信用をなくした >>542
畿内の阿蘇山とか、誰か言ったか?
九州説は捏造ばかりだな >>149
>過去の財産を鋳つぶして作った誰にも何の影響も与えてないオナニー鏡がなんだって?
スレ主のありがたいお言葉ですぞ<
・・・・大和説者が、また同じものを貼り付け宣伝しているね。
それなら貼り付けのお返しね。
http://www.ne.jp/asahi/morimoto/itl/yukue.htm >>542
いま、実在しないニセの畿内説を捏造したね? >>157
>流石はただのインチキ小便着色本を崇めてる連中の思想だわ 見ててもうなんていうか乾いた笑いしか出てこないわ
スレ主のありがたいお言葉ですぞ <
ふーん?、スレ主も「嘘つきダマシの右翼の偽書説派」であったと?。 >>549
素人のトンデモ説ホームページを貼り付けると
なんか御利益でも、あるの?
そんな馬鹿な真似する暇があれば
なんか反論を考えてはどうなの? 数年前、
このような謎の書き込みがあったでしょ
そんなことだから中国にやられるのよ。
やられたのよ。
だったかな そして
「九州説が畿内説に何も反論できない」歴
だけが伸びていく 九州説の根本的な間違い
あるいはカンチガイ
畿内説に反論する代わりに
オレ様独自説を演説してしまう
だから九州説は永遠に畿内説に歯が立たない むかーしの話を、いつまで言ってるんだ
と言っている人もいた >>522
>記紀と中国の史書が矛盾なく合致すれば最も良いとは思いませんか<
同意します。それに越したことは無いです・・・
しかし現状古代は記紀では無理です、(日本国内の議論は良いですが)
記紀は日本独自の皇国史観ですから。そりを合わせることは??????
単発的にここは一致はあるかもしれませんが、あくまで偶然だと思います。
中国の文献の方が第三者的で有用かもしれません。・・・中國の文献と日本の地理や物証をすり合わせるのが良いと思います
中国の文献倭人伝が無ければ邪馬台国は無かったのですから
以上私見ですのでご勘弁を
>>557
ほら、いつものキウス節がでた
そんなデマで他人が騙せると思うの? >>553
>そんな馬鹿な真似する暇があれば
>なんか反論を考えてはどうなの?
これって、畿内説に対するブーメランだよ。 >>558
畿内説の側にまともな論がそもそもない。 詳しいことは、わからないけど、
中華にやられたんだろう 桃の種があったから邪馬台国だとか、どう反論しろとw >>545
君だめだねーー
文句を言うなら
>>540 でなく後漢書でしょ >>160
>日本ができるまでの成り立ち・・・<
これも、日本は、
出雲と天孫族の阿毎氏しかいなかった、という前提でのアホ話。
列島縄文からの部族や、東テイ人や姫氏や猿田彦や侏儒國人や毛人蝦夷などは、全くいなかったような、
・・・・アホ話。 >>571
根拠を聞かれるのが
九州説には一番こたえるようだ
無理もないが 畿内説って、中國の史書に文句付けすぎじゃない。
中国とやりあってくれよ。 畿内説って、主張もなければ反論もない。
空っぽ。
だって遺跡もないし文献もない。
後世に奈良に都がおかれたことがある、ただそれだけ。 >>581
悪口だけ
反論できない
だから九州説は、滅んだ 魏志によると、邪馬台国から東に海を渡ったところにも倭種がいるそうだ。
本州や四国のことだよな。
逆に、邪馬台国が本州にあったら、当時の中国人がハワイやアメリカ大陸まで認識していたのか? >>172
スレ主を始め、このスレに来る大和説の奴らは、
圧倒的に発狂者が多いよ。 >>584
あると主張する方が証明しなくてはね。
畿内説にも何か根拠があるんだろう?
ほらほら、見せてみなよ。 >>586
いや、スレ主は極めて慎重に詐欺師の話法を習熟して初心者を煙に巻こうとしている。
奴は計画的犯行だ。 >>585
南関東とかだとテンプレに書いてある
反論はない 南関東ってどこだ?
東京湾を渡って房総にも倭種がいるって?
そんなこといちいち書くか?
スケールを間違っているだろう。 >>587
ないって証拠が出せないんだね
なら九州説の負けだ >>186
邪馬壹國は伊都から近い。
これはガチ。 >>594
帯方郡から伊都まで一万五百里だから、あと千五百里以内だな。
短里で120キロ以内。
ギリギリ筑後山門に届くか? 漢人系?小手子と関係していそう
何か知っている人がいるのかな >>600
ザラコク氏は古田氏に追従するなら壱岐などの島の大きさを含めるので伊都までちょうど一万二千里のはずなのに、なぜか伊都ではなく筑後を持ち出すんだよなあ。 老婆も立子山の話をしていたことがあったり
『小手神社』? >>195
>防人の土地(北部九州)に都なし。 子供でも分る話。 元寇の時に博多幕府なんてなかったよね。
何でないのだろ? それと同じ。 都は天然の要塞、ヤマト。 第2の都は近江。 伊勢遺跡だろうな。<
「南≠東」だから、大和は都ではない。
子供でも分る話。 帯方郡から伊都國まで〆て一万一千九百里
足し算くらい出来ないと駄目だろ >>606
ほら、反論ができない
だから、九州説はダメなんだよ 九州説の根本的な間違い
あるいはカンチガイ
畿内説に反論する代わりに
オレ様独自説を演説してしまう
だから九州説は永遠に畿内説に歯が立たない
これに尽きるわ >>200
それで、未だに「南→東」の嘘つきダマシの犯罪者的な大和説を、宣伝してるの?。
警察署、刑務所があるから、そこへ行け、
頭の病院でも良い 。 九州説の問題点
論理的に結論まで書けるヤツが誰もいない 伊都國は一都國とか壹都國とかで記すのも良し
壹大率が壹都國王のなかみ
自女王國以北は壹界と呼ぶべき海の民の世界で
壹界を統べる所が壹都すなはち伊都[yi-tu] >>608
どこからどこまで足すかは異論のあるところ。 >>207
>運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。<
それで、1000人の婢は、運動場で卑弥呼に仕えるかい?。 >>616
伊都の原義は倭都だろうね。
もしくは倭奴国からの書き換えだな。
いずれにしても、王墓が集中する伊都国が倭国の都であることにかわりはない。
邪馬台国はヤマトと読み、倭の訓読みだし。 >>207
>卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。
高祖宮を含む伊都城の城域は200ヘクタールあるけどね。
もちろん、山の斜面も含めてだけど。 陳壽本人が「自女王國以北 其戸數道里可得略載」といって断言している
[道里]というのは[みちのり]を[里]を単位にして表現したもの
[里]を単位にして表現されたものは漏れなく美味しくいただかなくちゃ駄目
理由無く好き嫌いして食べ残ししちゃ駄目だろ で、その纒向の市場からは、桃の種と魚の骨以外には何が出たの?
有害物質でも見つかって売却価格を下げたの?
(いろいろごっちゃになってきた) >>621
ああなるほど、里程が書いてあるところが女王国だな。
じゃあ伊都できまりじゃないか。 高祖でも何でも良いけど、
入れ替わったりしているのかな 倭国大乱の時に一度入れ替わったとみているよ。
天孫族が逃げ出して、肥国姫氏王家にかわった。 昔は濃尾平野や海だった。大垣のあたりまで海。
したがって、大和の東の海を渡ると名古屋や知多半島に着く 伊都できまりじゃなくて
いっこのは
怡土できまりということです 一部の本、ネットの情報によると
何度も入れ替わっています 最近、頭の弱い畿内説の子いなくなったね、トンズラかな >>626
そんな細かいことを書いて、四国や瀬戸内海、関門海峡のことが書いてないなんて、おかしいだろ。 >>246
>平原の方格規矩鏡は粗造だからこそ魏鏡なのだな
違うというなら根拠を示せ <
漢文の読み書きができた倭人の上層部は、
「尚方作」の鏡は魏政府の工房で造られた、
という事を知っているから、
21枚の方格規矩鏡は、魏帝からの下賜の100枚の銅鏡の一部が元になっている、
という事も判っていた、
という事だ。
大和付近での「尚方作の三角縁神獣鏡」の三角縁神獣鏡は、
洛陽から殆ど出ず、
呉付近や楽浪で「「尚方作」鏡が多く出ているんだから、
呉系楽浪鏡師の中に、「呉の工房で造られた」事を示すために、「尚方作」と刻んだ可能性が高い、
という事だ、 有名な話なのかな
そういう話がなかった?
当時のテンノウ?皇子ら、皆、滅んでしまった その後、乗っ取られた、乗っ取られていた
という話とか >>633
二枚舌もいいとこだよね
三角縁でも「尚方作」はあるのに
そっちは頑として国産だと言い張る 九州北部は、魏志倭人伝で女王国(親魏倭王卑弥呼を王とする国)ではないと明記されてるからな。もちろん倭国ですらない。
九州説者は、他の地域の歴史を奪うなよ。日本人として、九州説者の欺瞞は許しがたい。
魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
北部九州を直接支配下に置いたのは神武の本貫九州南部の投馬国と吉備。
畿内は関係ない。恨むなら、その両国を恨みな。
吉備も投馬国も畿内の卑弥呼を王として共立した国だけどね。 >>630-631
そんなふうに悪口しか言えなくなったら
議論に負けたと言う証拠
わかりやすくいうと
日本の本当の大王、大王クラスの家系は滅びた、
・・・落ちぶれた? >>620
水増しダメじゃん
しかも3世紀の遺跡じゃないし >>621 >>623
>ああなるほど、里程が書いてあるところが女王国だな。
>じゃあ伊都できまりじゃないか。
「里程」の最終国は不彌國であるから、不彌國が女王國の入口国となる。
帯方郡から不彌國までの里程の和は12000餘里となっている。
帯方郡から伊都國までの里程の和は11900餘里
「里程」とは、移動の動詞(行、度、渡)がある文の「里」。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が東シナ海の海流→黒潮→潮岬→大阪湾、淡路島、伊勢湾に渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内や伊勢尾張が中心だろうね。
倭国大乱以前は、倭国はクニ=クナ(狗奴)と同一だろう。 >>638
女王国は魏志倭人伝では九州北部であると明記されている
九州説は畿内の鴨王朝や畿内ヤマトの歴史を奪っていない 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 >>1
速く気付けよ
家族や親族は安心してるよ
ここで遊んでくれてるから
ここで遊ばないと、親族に何をするやら
俺 >>1の親族のボランティアだから、時折かきこんでるアンチ >>1の親族も>>1が飽きないでネットに張り付くように陰で協力してる >>646
近所があんしんしてんでねーの
騒音おじさん卒業させたよ、見事に >>642の追加説明
伊都國と奴國の間の「100里」は、移動の動詞を伴っていない文であるので、
2地点間の距離を示しているから、「里程」とならない。 >>606
あんた倭人伝の距離はどのように理解してる 山王というのは何の話なんだろう
山王宮 山王院
神代? >>1って
仕事サボりの公務員か
近所迷惑の老人ジャネーノ >>650
九州信者は理解などしない
ただ信ずるのみ >>635
>その後、乗っ取られた、乗っ取られていた
それこそ倭国大乱だな。
大乱とは、王統を揺るがす内乱を指すからね。
それで魏は漢の頃からの倭奴国と同じ国かどうか訝しんだので、勅使を派遣して確認したんだよ。
その結果、大乱を経て、現在は卑弥呼が倭奴国の王であることを確認したんだよ。 老婆は詳しすぎない?
山の上のほうに住んでいて、
凄い土地を持っていたんだよ 閑話休題
35代斉明天皇は、四国道後温泉と紀州白浜温泉の両方に行幸している。
それ以前の天皇は、道後温泉だけ。
第35代斉明天皇の御代頃から、畿内への行幸がはじまっていることから
第35代斉明天皇の御代頃から、倭国(阿波)から奈良大和への引越し準備が始まったとみられる。 >>638
すげー
嘘をこれだけ並べられると、面倒になって反論しにくくなるな >>640
王統はしばしば交代した。
仕方がないことだ。 >>642
途中に余りがあるから、それでつじつまが合うのだろうと考えている。 >>274
そういう口先ダマシのトンデモや、「南→東」などの嘘つきダマシにかまけているから、
大和説は破滅した。 倭国大乱も中国の史書
畿内説は中国史書も都合の良いように解釈するし、文句も言うし困ったもんだ >>652
なんとなくわかる
畿内説の大家なら2ちゃんなんて>>1スレ立てないもんな
スレ主、研究発表の場も無いし、研究もしてない受け売り、ネット病 >>650
帯方郡から狗邪韓国まで7千里
狗邪韓国から末盧国まで三千里
末盧国から伊都国まで五百里
しめて一万五百里 >>1
☝
2ちゃんに張り付いていてくれて、親族も近所も安心で賞 猫稲荷?
山のようなものがあり、ツタが絡まっていて、
電柱、そこに鳥居? 閑話休題
厩戸皇子(聖徳太子)だけでなく、景行天皇・仲哀天皇・神功皇后・舒明天皇・斉明天皇(皇極天皇) ・中大兄皇子(後の天智天皇)
・大海人王子(後の天武天皇)など多くの皇族方が病気療養のため四国の道後温泉に行幸、来湯している。
それは、道後温泉が倭国王都(阿波)の隣国に在り、湯治場として近かったからに他ならない。 閑話休題
四国の道後温泉への天皇の行幸:第12代景行天皇から
播磨有馬温泉への天皇の行幸:第34代舒明天皇から
南紀白浜温泉への天皇の行幸:第35代斉明天皇から
なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?
なんで畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、四国よりずっと遅れたのだろうか? @阿波 数年前の話になるけど
家の裏にあった建物?
みたいな感じなんだよな
ツタが絡んでいて、電柱・・・ 閑話休題
「南紀白浜温泉」
日本書紀に、当時の歴代天皇が訪れたことが記載されている日本屈指の古湯である。
· 658年 - 斉明天皇
· 690年 - 持統天皇
· 701年 - 文武天皇
· 万葉集に牟婁の湯が登場している。 >>668
帯方郡から狗邪韓国まで7千里
狗邪韓国から末盧国まで三千里
末盧国から伊都国まで五百里
しめて一万五百里
そして邪馬台国迄1500里
キロ換算だと畿内までいかない >>668
邪馬台国は倭国と同義
邪馬台国、女王国は後世の筑紫とほぼ同じ
陳寿は言い換えが好きだな。 数年前だったかな
塗装?塗り替えをした、
いまはツタも生えていない
建てられたばかりのころ
エンバーミングを作る?
そういう施設になるとか、ならないとか、言ったりもしていた >>658
狗奴国も台与の時代に、女王国に取り込まれるからな。河内彦の裏切りもあって。
狗奴国の卑弥弓呼の系統は、滅ぼされたのかな。
台与の後の王統は謎だよ。崇神とされているが怪しい。四道将軍の持ち回りではないかと推測。
忍熊王子の件以降、畿内の勢力図は大幅に変わったのかもね。 >>675
いやはや、時代錯誤な名詞が並んでいるな。
魏志倭人伝の名前と似ても似つかないだろう。
おかしいと思わないのか? 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣秀吉の淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の辺縁であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 いつ頃、建てられたんだったかな
1990年代・・・だったのは確実 閑話休題
「
摂津有馬温泉」
有馬温泉の存在が知られるようになったのは、第34代舒明天皇(593〜641年)、第36代孝徳天皇(596〜654年)の頃からで両天皇の行幸がきっかけとなり有馬の名は一躍有名になりました。
日本書紀の「舒明記」には、舒明3(631)年9月19日から12月13日までの86日間舒明天皇が摂津の国有馬(原文は有間)温湯宮に立ち寄り入浴を楽しんだという記述があり、それを裏付けています。 閑話休題
四国の道後温泉への天皇の行幸:第12代景行天皇から
播磨有馬温泉への天皇の行幸:第34代舒明天皇から
南紀白浜温泉への天皇の行幸:第35代斉明天皇から
なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?
なんで畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、四国よりずっと遅れたのだろうか? @阿波 閑話休題
厩戸皇子(聖徳太子)だけでなく、景行天皇・仲哀天皇・神功皇后・舒明天皇・斉明天皇(皇極天皇) ・中大兄皇子(後の天智天皇)
・大海人王子(後の天武天皇)など多くの皇族方が病気療養のため四国の道後温泉に行幸、来湯している。
それは、道後温泉が倭国王都(阿波)の隣国に在り、湯治場として近かったからに他ならない。 閑話休題
35代斉明天皇は、四国道後温泉と紀州白浜温泉の両方に行幸している。
それ以前の天皇は、道後温泉だけ。
第35代斉明天皇の御代頃から、畿内への行幸がはじまっていることから
第35代斉明天皇の御代頃から、倭国(阿波)から奈良大和への引越し準備が始まったとみられる。 @阿波 硯4か所→ペンダントだ中国人が使った墨がついていないから使っていない
ベニバナ→赤染料を作って魏に絹を献上した決定的証拠
素晴らしい学問的態度だな 宮中式内社に詳しい人いないかな?
表舞台から消された真実の歴史が反映されていると思うんだよね。 >>686
ほとんどの宮中祭祀は明治になってから捏造したから意味なし >>275
>そのブログは安本美典の「三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か」からの引用、データの孫引き<
誰かがそんな事を言っていたから、一応知っている。
>安本美典の他の著書もよく読んでみな。・・・<
嫌だ。
古代史でも、安本は、(嘘つきダマシの大和説者と同じように)
「大和日本国は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」という、
九州王朝説を示す根幹的な史料事実を否定しているから、
半分×以下の人間だ。
しかし、どんな人間でも人間である限り、間違った事をしゃべる事もあれば、
「ついうっかり」正しい情報をしゃべってしまう事もあるものだ。
盗人も三分の理、と似たような事だ。
要するに安本は、本質的には「アホなサギシ」であり、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者らと同じように、
そんな人間の著書など、表題を見ただけでもサギシだ、と判るから、
読まない。 >>688
>ほとんどの宮中祭祀は明治になってから捏造したから意味なし
践祚大嘗祭は、天武天皇の時から始まってますが。 @阿波 >>283
>考古学者が畿内説唱えてるんですけど <
大和説を唱えた考古学者は、
「南≠東」の事を知らないか?、
上司の権力学者の説を妄信盲従するアホであるだけだ。 >>685
>硯4か所→ペンダントだ中国人が使った墨がついていないから使っていない
あらら、また捏造で中傷?
九州説の品性は下劣だなー >>303
>それ・・・ あらゆる歴史学、考古学が頭から否定してるんてますけど<
それ・・・否定した「あらゆる歴史学者、考古学者」の脳の方が心配ですけど。 >>692
ソウルより南の方角(対馬海流で流されるけど)船で20日間、出雲へ
出雲から中国半島の南側へ船で10日間(もし陸上移動なら一月)、大和へ
陸行一月ってw、北九州の何処だろう? むかーし、住んでいた家には、
本や書なんかが沢山並んでいた
近所の人に、
あげたのか?持って行っちゃったのかな・・・売ったのかな?
と言っていたよ >>695
安本美典を盲信するザラコク
面白い光景だ
wwww >>698
しかしここまでデタラメ書く人ってよっぽど無知か
さもなきゃ詐欺師だ >794日本@名無史さん2017/08/20(日)
>硯が出たのは楽浪土器が出てるところだから使ったのは楽浪人だろう
>筑前町の中原遺跡のは墨が付いてないから割れたのを砥石に使ったんだろう 白い服の写真の裏、
同じような名前じゃなかった?
暴力団でもヤクザでもないし、付き合いもなかった >>350
>周りがみんな狂っていると思うのなら、自分が狂っていないか疑うといいよ。<
国民の、6割が九州説で、大和説は3割なんだから、
大和説者は、自分が狂っていないか疑うといいよ。 むかーし、どこそこに住んでいた事があるんだよ
という話などは
何度も書いた >>371
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説のガキらは、
「南→東」の嘘つきダマシの師匠や、皇国史観国家国粋戦争狂の右翼らと同じように、
クルっているよ。 >>374
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説の基地害が荒らせば荒らす程、
九州説の正しさが実証されてゆくよねw。 以前NHKの行ったアンケートでは7割が九州説で、大和説は3割だったな。 >>375
大和は、筑紫倭國の別種の旧小国であったから、
卑弥呼亡き後の戦闘にも、全く関係がなかった、
という事が判る。 >>377
九州説以外には、
正常な人がいない 。 貼り付けなかった?
胡瓜の葉、葱の華・・・の写っていたもの >>713
実は倭国大乱で天孫族が伊都高千穂宮を出て畿内に向かったのではないかとも思うけれどね。
その後の崇神、景行などとの年代のズレがあまりなくなる。
そうすると、天孫族を伊都から追い出した卑弥呼などは畿内勢力にとっては黒歴史だったろう。 >>413
トンデモ大和説者は、相変わらず嘘ばかりついているね。
唐の史書群の史料事実を、口先で「なかった」かのように吹聴して、
他人を騙そうとしているよ。
そんな堕落しまくった大和説は、
当然もう正当な学問の世界にいられない 。 彦火火出見の系図には異説が多い。
彦火火出見とは、伊都国代々の王の称号なのではないかとも思う。
筑紫の高千穂宮は、ニニギからイワレヒコまでずっと使用していた。
彦火火出見が彼ら全員の称号であるなら、つじつまが合う。
考古学的にも、三雲南小路から平原まで、少し時間が長いようだ。
日向三代ではなく、もう少し人数がいたのかもしれない。 ス・・のほうの
読み方だよと言っている
老婆がカ・・と言っていたから、
そのままにしているとか >>719
唐の史書群の史料事実?
あるなら見せてみな >>424
>>(テンプレは)全く信頼性がなく、読む気も起きないから、<
>「畿内説は何も説明しない。 説明する中身が何もないから。
畿内説はただの妄想。」 と言っていたのが、真っ赤なウソだと バカが自白した
テンプレは、2回も読んで個々の反論はしてあったから、知っていた。 >>426
全く大和説のボケガキらは、毎日のように、
嘘をついては露見 嘘をついては露見の繰り返しだね 。
そしてその内病院か刑務所に入れられて、恥多き人生を近いうち そのまま終わるのか。
可哀想だけど、自業自得だね。 まあ日本書記が書かれたの800年だからな〜
卑弥呼の時代さらに600年前だぜ >>430
大和説が論破されると、
呟き荒らしや、
阿波や孝霊やssnらのシンパが、登場する 。 >>724
ふーん
「読む気も起きないから」って
ウソついてたんだ! >>723
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。 >>431
>2世紀前半の男王墓はどこ?<
キ鳳鏡の須玖岡本などが、可能性があるな。 >>730
ほらね
「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国であって、
白村江の後で筑紫の倭國を併合吸収継承した、」
という事が、史料事実だと言うのは
真っ赤なウソだよ 親(母親)は寺院に通っていたと言っているから
出家でもしたのかな >>726
ましてや10世紀とかのやつは・・・なあ
ダメだね九州説 >>441
>ザラコクに問いかけても無駄だよ
過去レスにイチャモン付け専門だから 議論を逃げる卑怯者<
忙しいから、
何の話か?の論点や問題点を書いていないクズ投稿は、
原則として、放置する、と宣言しておいた筈だよ。 >>458
知能があったら、大和説などしてない 。 >>466
>学者はみんな知性がないわけ? 藁 <
よくご存じで。
大和説学者は、みんな知性がないわけで。 >>467
理由なしに「南→東」などの嘘つきダマシを断定する大和説者は、
知性のない奴だな。 >>468
>>昭和にミカン畑だったからなんだ?<
>謂れもなく<
2000年近く前の「謂れ」の全てが残っている、とは限らないよ、
アホssn。
>忘れされてていた地域だね。ヒミコがいるわけがない。<
卑弥呼は、九州の地下に埋葬されたのであり、
「南」ではない「東」の大和に埋葬されたのではないよ、・・・・ssn。 >>471
大和説者という人種は、
金印の伝承が元々は糸島の神社になかった、とかの、
嘘つきダマシの創作にいとまもないけどなー。 >>473
大和説者らは、事実関係を書かないで、
「まともに反論もできないみたい 」とかの口先ダマシの悪口しか言い返せないんでしょ?。
それ キミがまともに反論もできない人だって証拠だから。
トンデモ大和説の人って、何時も簡単に論破されちゃうね 藁 。 >>475
>邪馬台国は四国にあった、吉備にあった、出雲にあった、 宮崎にあった、熊本にあったならまだわかる。<
「邪馬台国」なんて存在しないから、この投稿子が・・・・サギシである事が判る。
>北部九州にだけはあるわけない。<
「南≠東」だから、大和にもある訳がない。
>都とは防衛上の奥津城だ。 北部九州は防衛上の最前線だ。<
半島南岸から見れば、始めから筑紫城は奥津城だ。
>こんな所に都があるわけない。<
大和のような田舎に都がある訳がない。
>くだらないお国自慢演歌歌手は田舎に帰りなさい。<
「南→東」などのようなウソ付きダマシの犯罪者は、病院か刑務所に帰りなさい。 ・どうした聖人でも殺したのか?
・親戚でも殺されたのか?
このような書き込みをしている人がいたでしょ 学術的には、九州に決まった、、、、
あとは、ピンポイントで絞り込まなければね。。。 かつては畿内説を主張していた
考古学系の研究機関も
邪馬台国の主張を引っ込めちゃったからねえ。 嘘をつくことが自らの信用を落とすことだと気がつかない、
羊飼いとオオカミの童話の教訓を理解できない、
そんな九州脳 >>476
>>高祖宮<
>しょぼ過ぎ。 明神大社とは言わないがせめて式内社であってから考えようねw<
倭国の存在や歴史を隠蔽盗用しようとした記紀の大和政権が決めた「式内社」なんて、
ダマシと一緒だから、
古代史においては、何の価値もない。 >>480
>日向とは宮崎。<
日向は、宮崎の日向と、筑紫の日向の両方の意味の可能性がある。
>根拠は300基を超える西都原古墳群。<
筑紫の日向の伊都国の阿毎氏の分家の古墳群。 >>759
文献も考古学遺物も
人じゃないから
何も決めない >>481
「南→東」のような嘘吐きダマシのように、
まさに論理的思考が出来ないから大和説なんだよ。
脳が論理に反応していない 。 >>755
九州の研究者は畿内説
筑紫説は加古川と東大阪のジジイ >>753
確かに、、、、
でも、畿内説にも、最後まで抵抗した何らかのねぎらいの言葉を、かけてあげようよ。。。 >>764
悪は滅ぶべし。
畿内説に情けは無用。
特にここのスレ主は悪意のある詐欺師だ。 >>767
反論の一つもできないで中傷にかまけてるってことは
あんたもう惨敗してるんだよ 畿内だと日食が起こらないから邪馬台国があったはずがない 畿内説の書き込みは初心者か無知が多くなりました
だから、単発的な中身のない書き込みになる
中国の史書(含む倭人伝)もろくに読んで無い
テンプレ読む前に、まず中国の史書に目を通すことを進める
そんなに大変じゃない、中國の史書で日本(倭国)に関する部分だけでも良い
当然国内で見つかった遺産も調べる事・・・これも大変じゃない
基本は倭人伝に変わりないが
、また、古代に関する倭国や邪馬台国のことは記紀神話じゃほとんど解明できない
骨のあるカキコミを求む >>771
なにも証拠がない
故に>>771は中身のない書き込み 何でキウスはいつも自分から進んで自滅するんだろう・・ 倭國(倭奴國)と大和朝廷は民族的にも全く関係のない別王朝ではないか。
『魏志倭人伝』では倭人の習俗として「鯨面文身」を挙げている。『隋書』東夷伝俀国条でも「男女多黥臂點面文身」とやはり同じ習俗を挙げている。ところが、『日本書紀』によれば、「文身」は「毛人(蝦夷)」の習俗であり、大和の風ではないとしている。
『隋書』東夷伝俀国条では、「婚嫁不取同姓」とされ、「婦入夫家」となっているが、『記紀』に記された風俗からすると、この頃は「妻問婚」で、同姓であっても妻にしている。このことも国、民族が違うと考える根拠となる。
『舊唐書』東夷伝では、倭国条と日本国条を分け、この二つの国が別の国であると述べている。
『魏志倭人伝』以来『舊唐書』東夷伝倭国条に至るまで、同じ倭國(倭奴國)が朝貢を続けていたことが述べられている。ところが『古事記』にはそのような記載がないばかりでなく、『日本書紀』では、推古十五年(西暦607年)に小野妹子を「大唐国に致す」とあるのが初出である >>775
こんなふうに九州説は永遠の初心者で無知ばかり 張り付けです参考程度に・・・・
『後漢書』東夷伝に光武帝が下賜したと記されている金印が志賀島から出土している。
九州から出土したのだから、その金印を拝辞した王朝は九州に存在するのが当然ではないだろうか。
『魏志倭人伝』にはその国土の特徴として「依山島為國邑」とあり、山がちで島が多いことを示している。
『後漢書』東夷伝でも「依山嶋爲居」とあり、『晋書』四夷伝でも「依山島爲國」とされ、『隋書』東夷伝俀国条でも
「於大海之中依山㠀」とある。『舊唐書』東夷伝倭国条にも「依山島而居」とある。
そのような条件を地理的に満たすのは、九州だけではないのか。
『魏志倭人伝』には「種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑綿」とあり、絹織物が生産されていたことは明らかである。
また、景初三年の朝貢の際、莫大な絹製品が下賜されている。畿内からは絹製品はほとんど出土せず、北九州に偏っている。
『隋書』東夷伝俀国条には「有阿蘇山」とあり、わざわざ阿蘇山に触れているが、阿蘇は富士山などのように遠くからでも見ることができる山ではない。
それが王朝に近しい場所にあるから特に注記したのではないか。
やはり『隋書』東夷伝俀国条で、小徳の「阿輩臺」を(竹斯國に)遣わしてその十日後に都の郊外で大禮の「哥多毗」が出迎えたとあることから、
裴世清一行は九州を出ていないことがわかる。
『舊唐書』東夷伝倭国条には、「四面小島五十餘國」とあるが、そのように四方を海と小島で囲まれた地理条件を持つのは九州だけである。 でしょう
畿内説の書き込みは初心者か無知が多くなりました
だから、単発的な中身のない書き込みになる 深酒はよろしくないですよ
また、誤りをおかしますよ >>778
>山がちで島が多いことを示している。
違いますね。島の上にあると言ってる。
幾内が島と認識されたのは平安時代くらいかな
初心者か無知による中身のない書き込みの典型が>>779
781
本州なんて下手すりゃ島なんて認識できるやつなんていないって >>778
記紀詳細に読んで無いが本当?本当なら邪馬台国≠大和?
>『日本書紀』によれば、「文身」は「毛人(蝦夷)」の習俗であり、大和の風ではないとしている。< 黥面文身
倭人伝には倭人の風俗について重要な証言がある。
倭人は身分の貴賎無く、皆黥面文身をしていたと書いてある。
ところが日本書紀によると神武天皇が畿内に入った時、天皇が連れていた家来が黥面をしていた事に
畿内の女性が驚くシーンがある。この時、畿内には刺青が無かったと言う事になる。
畿内の古墳出土の人物埴輪の入墨らしきもののあるが、何れも身分の低い人物だ。
黥面に驚いた女性は身分が高く、、下賤の者達の入墨に遭遇した事が無かったのだろう。
また、日本書紀に雄略天皇が部下のちょっとした失策を怒って罰として黥面をさせたと言うのである。
3世紀に全員がやっていた黥面文身の風俗が5世紀には刑罰になってしまうなど有りうるだろうか?
これは大陸からの渡来人の影響を考えなくてはならない。
私は黥面をしない渡来人がやって来て支配したからこの風俗が消えたものと考える。 一方、九州には8世紀頃も刺青の風俗があった事が判っている。
さすがの九州でもその頃は少なくなっていたらしいが、隋書によれば多くの男女が刺青をしていたと記載されている。
隋書に書かれた「イ妥」国は大和王朝でない可能性が高い。
只、倭人伝と違って男が全員入墨をしていたような書き方になっていないから、多少の減少はあったかもしれない。 黥面でしょ
それやってたなら大陸この場合は支那大陸ってことになるがそいつらは犯罪者扱いされたやつらが黥面になってる >>488
>崇神が神武をしのんで宮崎神宮を建てている。<
記紀伝承は、8世紀の造作であり、阿毎氏のウガヤフキアエズやその子らの伝承があったから。
>この時点で日向とは宮崎。<
当然、記紀は、筑紫の日向の事を知らず?、
筑紫=九州と思い込んで、日向を宮崎と勘違い?した。 >>491
>馬鹿じゃね? 隋の頃の倭国(もちろん都は飛鳥)の領内に阿蘇山がある なんの不合理もない<
馬鹿じゃね?。
隋の頃の大和は、小野妹子が文帝に「日本国」を称して叱られ?たのであり、
唐の武徳中になってから裴世清の大和訪問に拠って、「日本国」を認められたばかりであり、
白村江で唐は、倭国や倭衆や倭賊と戦ったのであり、
だから、もちろん都まだ筑紫であって、大和ではなかった。
だから俀國の領内に阿蘇山がある。
なんの不合理もない 。 >>492
大和説者らのように、史料事実に基づかず、
皇国史観国家国粋戦争主義と言った個人的イメージ論で、他人を説得するのは、
・・・・である事がバレバレであり、
原則的に無理。 >>494
>イメージ論ではなく、正史の記述だよ。
それを無視して歴史の何を語ろうというのか。
畿内説はとことん捏造史観だな。<
賛成です。 >>502
>あ、イメージ論じゃなくて詐欺王朝説なのね <
記紀や皇国史観国家国粋戦争狂らが、詐欺大和王朝説。
>倭国が日本に改名したという史料を無視しまくるゴミ説ね <
倭国が「日本国」を名乗ったのは、釈日本紀に拠って、西晋の惠帝の時。
大和が日本国を名乗ったのは、小野妹子が隋の文帝に名乗った時であり、それを認められたのは唐の武徳中。 >>506
>>畿内=邪馬台国でしょ、纒向=王都でしょ<
>だから九州説消滅な <
「畿内=邪馬台国でしょ、纒向=王都でしょ」の投稿者は、
「畿内=邪馬台国でしょ、纒向=王都でしょ」を結局否定しようとしていたのであり、
だから、この投稿の投稿子は、
「南→東」の嘘吐きダマシと同じように、
他人の投稿の言葉尻を切り取って、世間の人々を騙そうとした、嘘つきダマシの大和説の・・・・サギシでしょ?。 >>515
>>イザナギが禊をした筑紫の日向の橘の小戸が現在の福岡市西区小戸のあたり。
これが博多住吉神社の起源。<
>そんなの宮崎にもあって宮崎市阿波岐原町の江田神社と言われてる。<
記紀は、「筑紫→九州」の拡大解釈をした半分×書であり、
神社の殆どは、記紀のウソで造られたから、その伝承は、そのままでは論拠にならないんだよ。
>だいたい福岡なんて日に向かってないじゃん。 チョンの地には向かってるけどwww <
だいたい宮崎なんて、天孫降臨が「韓国に真来通って」いないじゃん。 >>515
ほら、また議論に負けて中傷にはしった。
だから大和説はダメなんだよ。 >>537
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は、
誤魔化ししか出来ないようだな 。 >>538
「南→東」の嘘吐きダマシの皇国史観国家国粋戦争狂の大和説が負けてくると、
でるでる 呟きあらし。 >>788
倭人伝で男子無大小、皆黥面文身と記述有る >>778
> 『魏志倭人伝』にはその国土の特徴として「依山島為國邑」とあり、山がちで島が多いことを示している。
そのような条件を地理的に満たすのは、四国だけである。 @阿波 >>778
> 『舊唐書』東夷伝倭国条には、「四面小島五十餘國」とあるが、
そのように四方を海と小島で囲まれた地理条件を持つのは四国だけである。 @阿波 閑話休題
「土製仮面」はこれまでに全国で約120点見つかっているが、出土地点は矢野遺跡が最西端に位置する。
同遺跡は縄文時代から中世にかけての県内有数の複合遺跡で、調査の結果、「土製仮面」は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。
この「土製仮面」作成時期も国内では最古のクラスにあたる。「貝製仮面」は5000年前の物が九州からも発見されているようだが、土製のモノはこれが最古級である。
「土製仮面」の使われた時期と地域の偏りから、今の状況では四国東部から発生し、近畿・中部・東北方面へと伝播していったことが明確である。
用途としては、土偶、石棒などが同時に出土している事を考えると、祭祀の時に使われたと考えるのが妥当である。
また、仮面表面の多数の穴の跡は、後年の魏志倭人伝にも「男子無大小,皆面黥面文身」とあるように入墨(文身)を表したものであろう。
さて、神武東征の際に活躍した「大久米命(おおくめのみこと)」が黥面だったことが古事記に記載されている。 「大久米命」は神武東征に随行した久米一族の祖神にあたる。
久米一族については、石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。
一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。
一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。
さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。
まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。
「矢野遺跡」
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%CC%F0%CC%EE%B0%E4%C0%D7 ※鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
※木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
※今、ここ。 ※鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
※今、ここ。 なぜ、纏向学研究センターなるものが桜井市にあるのか。
税金の無駄遣い
奈良県立橿原考古学研究所で研究は十分できるのに 「AはBに統属する」という文章を、畿内説は「BはAを支配する」という意味にとっているが、「AはBに含まれる」と読むべきだろう。
伊都国や奴国など多くの国の名前が出てくるが、全て女王国に含まれると説いている。 >>789
>当然、記紀は、筑紫の日向の事を知らず?、
>筑紫=九州と思い込んで、日向を宮崎と勘違い?した。
読者が勘違いするように誘導したんだよ。
当時も紛らわしいという批判はあったかもしれないが、我々はちゃんと書いてますよと言い張っただろう。
現代になって、編者らの誘導に乗って畿内説が主張されている。
これらは意図的に詐欺を働くために書かれ、意図的に主張されている。 桜井市財源(H.27)…収入の主なもの
市税 62億
地方交付税 61億
国庫支出金 37億
市債 20億
県支出金 13億
纒向の研究は圀・県に任せればよい 古代中国人「歴史書おいとくでー」
現代中国人「昔のはただの神話、殷は伝説だし始皇帝陵もなかった」
古代日本人「歴史書おいとくでー」
近代日本人「昔のはただの神話、実在の天皇は継体天皇あたりから、出雲に高い建物とかなかった」
なぜ古代の人が歴史残して、年代付きで神武天皇から書いてくれてんのに、勝手に邪馬台国を近畿に持ってくんのか本当謎 桜井線を廃線にしないためにも、纒向の観光強化は不可欠 桜井市にふるさと納税しましょう
返礼品は卑弥呼まんじゅうで >>815
>桜井線を廃線にしないためにも、纒向の観光強化は不可欠
邪馬台国抜きでやれ >>817
勝手にありもしない中国語を捏造しちゃいかんだろう
これが解らないんなら、文献を手にする資格はない >>819
あなたの書く日本語はよくわかりません。 統属の統と属のどちらに重きをおくかだが、属するなら包含関係を表すと解釈できる。
そして統も同じ意味がある。
倭人伝でそこまでの間に出てくる国は全て女王国を構成しています、という意味である。 >>821
予測変換がたまにヘンな変換をする。
ごめん。 >>545
>はい、出ましたね 倭国と倭奴国は別モノです 統一される前の倭人諸国の中の小国の一つが倭奴国<
「別モノ」ではない。
隋書や通典や旧唐書や唐会要では、倭國は倭奴國の後継國。
そして、新唐書や松野使姫氏系図では、倭奴國王は、阿毎氏と姫氏の双方の出。 >>546
そういう、史料事実に反するウソを平気で言うから、大和説は信用をなくした。 >>547
>畿内の阿蘇山とか、誰か言ったか? 九州説は捏造ばかりだな <
この投稿子は?、「阿蘇山が畿内の領内にある」かのように言った。
「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・大和説者は、曲解捏造ばかりだな。 >>825
賛同
畿内説は文献も物証もダメ
時代違いの古墳と、大和朝廷だけが頼りだからコジツケでしか成り立たない説 >>548
大和説者は、皇国史観国家国粋戦争狂の・・・・の、ウソの塊。 >>826
これも捏造だ
どうしてすぐバレる嘘ばかりつくのだろう >>550
いま、大和説者は、実在もしないニセの「畿内説」という文言を、造作捏造したね?。 >>553
>素人のトンデモ説ホームページを貼り付けると なんか御利益でも、あるの?
そんな馬鹿な真似する暇があれば なんか反論を考えてはどうなの?<
安本は、「大和説の仲間」側の人間だよ。 >>547
>>491日本@名無史さん2017/08/21(月) 16:36:08.34>>542>>790
>>485
馬鹿じゃね?
隋の頃の倭国(もちろん都は飛鳥)の領内に阿蘇山がある
なんの不合理もない >>555
そして
「大和説が九州説に、何の史料事実的反論も出来ない」、
という履歴 だけが伸びていく 。 >>556
ほらな
大和説者、敗勢で呟きが出る w 。 >>558
大和説者の根本的な間違い あるいはカンチガイ。
九州説に、史料事実に拠って反論する代わりに、
皇国史観国家国粋戦争狂の大和説学者の説を、
オレ様独自説として演説してしまう 。
だから大和説は、永遠に、九州説に歯が立たない 。 >>754
史料事実根拠がないから、大和説はダメだよね 。 >>833
>隋の頃の倭国(もちろん都は飛鳥)の領内に阿蘇山がある
史料解釈の歪曲。
大和説は歪曲の積み重ねでできている。 >>578
史料事実根拠を聞かれるのが、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説には一番こたえるようだ 。
皇国史観国家国粋戦争狂の・・・・だから、無理もないが 。 大和説の根底には、2600年前の神武東征以来、ずっと大和が大日本国の中心であるという信念が根幹にある。
テンプレはわざとそれをおくびにも出さないように注意しているけどね。
真意を隠して、科学的な装いで(でも見かけだけ)人を騙す、詐欺師の論法。 >>583
悪口だけ。史料事実の拠っての反論ができない。
だから。皇国史観l国家国粋戦争狂の大和説は、
国民の3割の支持しか得られず、
滅んだ。 >>589
(倭種は)南関東とかだとテンプレに書いてある そうだ。
勿論、史料実根拠ははない 。 >>593
史料事実根拠があるって証拠が出せないんだね ?。
なら大和説の負けだ 。 >>602
明らかに,、史料事実根拠が出せない大和説の負けだね 。 >>843
神奈川のことなのか千葉のことなのかで意味合いも違うが、どちらにしても矛盾だらけだ。
嘘をつき通すためにさらに嘘を重ねている見本だ。
いずれにしても、スレ主は首都圏の地理を知らない田舎者。 >>604
>ザラコク氏は古田氏に追従するなら
壱岐などの島の大きさを含めるので伊都までちょうど一万二千里のはずなのに、
なぜか伊都ではなく筑後を持ち出すんだよなあ。<
古田さんは、
「伊都までちょうど一万二千里」ではなく、
「不彌國の南でちょうど一万二千余里」説であるし、
邪馬壹國は、「福岡平野の中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地」説であって、
「筑後」でもないよ。 >>609
ほら、また、史料事実に拠った反論ができない 。
だから、大和説はダメなんだよ。 >>610
大和説者の根本的な間違い あるいはカンチガイ 。
九州説に史料事実で以って反論する代わりに 、
皇国史観国家国粋戦争狂の大和説学者らの説教からの、
オレ様独自説を演説してしまう 。
だから大和説は永遠に九州説に歯が立たない。
これに尽きるわ。 新興宗教、新宗教?
そういう類の信者か何かなのか? >>847
>古田さんは、
「伊都までちょうど一万二千里」ではなく、
「不彌國の南でちょうど一万二千余里」説であるし、
邪馬壹國は、「福岡平野の中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地」説であって、
「筑後」でもないよ。
古田さんって演歌歌手の? >>613
大和説者の根本的な問題点 。
史料事実を根拠にして、それからの推論論理や帰納的確率的結論までを、
書けるヤツが誰もいない 。 >>615
史料事実からの反論のできない大和説者は、中傷しか出来ない。 >>626
>昔は濃尾平野や海だった。大垣のあたりまで海。
したがって、大和の東の海を渡ると名古屋や知多半島に着く <
大和説では、
始めから「南≠東の矛盾」だし、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」の、
侏儒國がも、太平洋のど真ん中に沈没してしまう。 気づいていると思うけど
系図など
▢氏・・・△氏と氏や姓が変わっていたりする家があったりするでしょ、
偽造だと思わない?盗んだもの
『瓜の蔓に茄子はならぬ』直系〜直系 中国製の小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/images/image-11/031.jpg
十数点の出土のうち九州はわずか1点、残りはすべて畿内。
当時の日本にこんな精巧な冑は作れない。
おそらくトヨの朝貢時に入手したのだろう。
この時点で中国と通交してた主体は畿内であり邪馬台国論争は決着する。
この小札革綴冑は山城の椿井大塚山古墳から出る。
崇神に反乱を起こした武埴安彦命が挙兵した場所であり、
椿井大塚山被葬者が武埴安彦である可能性が高い。
もう一つ面白いところから出る
大阪柏原の玉手山3号墳だ。
この時代に河内の首長が中国製の小札革綴冑というお宝を手に入れていた。
被葬者の該当人物がいる。
孝元天皇の妃・埴安媛の父、河内青玉繋だ。
武埴安彦の祖父になる。
河内青玉繋→埴安媛 →武埴安彦(崇神時代)
祖父と孫、つまり同じ一族が小札革綴冑を手に入れてたのではないか。
ということは河内青玉繋はトヨの時代を生きていた。
トヨの朝貢団の一人ではないのか。
どちらにしても「欠史」などと言われてきた初期8代天皇は確実に実在した、
そして魏志の台与と大和朝廷がこの冑によって結びつくのだ。 >>637
>二枚舌もいいとこだよね 三角縁でも「尚方作」はあるのに そっちは頑として国産だと言い張る <
洛陽付近から殆ど出土しないしから、始めから、
「魏帝の下賜鏡ではなく、呉系の鏡だ」と言ってある。 オニ退治の話をしているわけではないんだけど
『伊達の桃太郎』この家の人とか 「家は、ス・・だよ」と言っている、その写真の家、ホンモノだった? >>638
>九州説者は、他の地域の歴史を奪うなよ。日本人として、九州説者の欺瞞は許しがたい。<
大和説者は、「南→東」などの史料事実に対するウソを付いてまでして、
他の地域の歴史を奪うなよ。
日本人として、大和説者の欺瞞は許しがたい。
>・・・ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。<
嘘を付くな、皇国史観国家国粋戦争狂の大和説サギシ。
「邪馬台国」なんてのも、史料事実にないし、
「南≠東」だから、邪馬壹國」も「狗奴國」も大和付近の国ではない。 >>639
そんなふうに、史料事実に拠る反論が出来なくなって、
悪口しか言えなくなったら、
大和説者が、議論に負けた、と言う事の証拠。 松の木(モミの木?)
同じ家、聖造の人みたいじゃない? 大体が最初から奈良にしか大勢力がなかったっていう飛躍が
キチガイなんだよね
その論法で筑紫権力を無視してしまう
そこが最初にして最大の失敗
昔の学者は出雲権力もなかったことにしてたんだぜ
大好きな大和政権が作った記録にすら書かれてるのに
訓詁注釈学って言葉があるが、大和信者は馬鹿w
古田の「多元的古代」の何が不愉快かって、こいつらにとっては
「ヤマト一元絶対主義」で、単純な脳みそにはそれしか理解できない
っていうクソみたいな理由なんだぜwww
どこの国の歴史も、世界中あまねくクニの発生とその離合集散は
普遍的史実
大和説はそれを何も説明してくれない
例えばずっと後になっても生産力に限ってだけでも突出する九州を、
じゃあヤマトはどうやって滅ぼし従えたのか
誰も納得できる説明などしていない
それで「学者先生」とか、ほんとのほんとに馬鹿なの? >>643
>倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内や伊勢尾張が中心だろうね。<
ダメだよ。
「南≠東」だから。 いつ頃の話なんだろう
橋が架かったから来てください、
という招待状が来たりもしたんだけど、
そのときは年も取っていたし、遠いからと言って断ったんだよ
老婆談
日本昔話? >>860
>「魏帝の下賜鏡ではなく、呉系の鏡だ」と言ってある。
ど素人じいさんが言ったって何の価値もないでしょ。 そんな幼稚で単純な脳みそで、モラルもないからゴッドハンドは
放置してきたくせに古田や安本はキチガイと公言する程度の低さ
テンプレ見ろよ、なんだよこれ
出土事実に対する最大限の賛辞で埋め尽くされてる
これお前らが忌み嫌う古田の好むレトリックだろ
しかも構造が単純で、知性も学問性も感じないじじむささ
推定の上に推定を重ねた砂上の楼閣、しかも結論は「女王」wwwww
お前ら普段「邪馬台国などどうでもいい」とほざいてるんじゃなかったっけ?
トポロジー的に驪山を想起? (爆) 意味不明だが、何を言いたいんだかw
「初期大和政権の初代の墓」
これがまた難しい。何故三輪地域の首長ではなく「大和政権」なのか
後の統一大和政権がここから始まったかのような印象操作
例えば平安時代を「初期室町政権」とか「初期豊臣政権」などと呼ぶか?普通
頭が悪い&悪質としか言いようがない
また、何を持って初代というのか
例えばアレクサンダーは初代ではない
でかい古墳一つでよくもここまでぺらぺらと大騒ぎできるもんだな >>645
>難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。<
仁徳は、九州倭國の武将格の人物であり、当然「オノコロ島=能古島」を知っている。、
>古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。<
国生み神話では、「オノコロ島」と「淡道」とは書き分けられており、
違うものだよ。 >>866
これがおバカさん系九州説の典型だね
誰に反論するでなく
ただ自分の頭の中にいる架空のキナイセツに喧嘩を売っている
いわゆる老いぼれシャドウボクサー この写真の家は、何々様なんて言われて、
たてまつられていた家だよ
おかしな話でしょ そもそも「万世一系」などという妄想が元凶なんだよね
天皇家だって断絶は複数回あるし、天皇って呼称も継体朝以後の、中国から
下賜された呼び方でしかない
それをあたかも最初から天皇であったかのような印象操作
未だに戦前のイデオロギーに縛られてる馬鹿は、亡国の論理として天皇制を
利用した権力をいまだに批判的に乗り越えることができない
だから今の天皇陛下が高齢で退位を希望されても無視する非人権政党の
一党独裁を許してしまってるんだよ
無能学者、古代史研究だからって現代と無関係を装ってもダメ >>876
で?
いったい何処の誰がそれを主張してるの?
???? 脳の活動が停止しちゃってる九州説ゾンビ爺ちゃんたちは
相手の話をなにも聞いてないから
言ってることが的外れ
具体性がない
延々と自分の思想だけ語っちゃう
それで生きてると言えるの? ほらでた
抽象的な罵倒w
だからお前らはクズとしか呼ばれないんだわ
中身に一つでも反論してくれ
平安時代は「初期織田政権」なのか?ああ? 写真を他のスレに貼り付けたとき、
宮さまじゃないの?という書き込みもあった
何々宮だったのかな?むかーし・・とか >>653
大和説信者は、理解などしない。
ただ、皇国史観国家国粋戦争狂の大和説学者の説法を信ずるのみ。 >>870
>後の統一大和政権がここから始まったかのような印象操作
統一大和政権って新たな造語がどういう定義なんのか知らんけど
考古学的見地から
この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた
ってハッキリ言ってんだろ
印象操作とか関係ない 以前から書いているけど、
何宮という名前ではないよ 弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。 >>870
>出土事実に対する最大限の賛辞で埋め尽くされてる
賛辞って、どれ? 主観的すぎてトンチンカンってことだね
いつものイチャモン爺さんだろ >>870が「初期大和政権の初代の墓」とか書いてるのを見れば
ちゃんとテンプレ読んでないのはバレバレだけどな 抽象的な悪口ばかりで、まさに幼稚で単純な脳みそだわ >>870
>何故三輪地域の首長ではなく「大和政権」なのか
ってことが説明してあるのがテンプレでしょ
読んでないの? >>870
>また、何を持って初代というのか
だからそれ書いてあるって >>870
「でかい古墳一つで」って
これで読んでないことが露見
w 謎の資料があったでしょ
蚕を飼い、機織りをしていた家があって、
そこで仕事をしている人は、顔に白粉を
そういう家と
結婚したんだよと言っている >>675
>狗奴国も台与の時代に、女王国に取り込まれるからな。河内彦の裏切りもあって。
狗奴国の卑弥弓呼の系統は、滅ぼされたのかな。
台与の後の王統は謎だよ。崇神とされているが怪しい。<
これも、始めから「南→東」の嘘つきダマシをやっているから、
皇国史観国家国粋戦争狂の大和説者の、分裂幻覚の妄想なんだね。 >>896
皇国史観国家国粋戦争狂の大和説者
とか現実を見ていないから
正常と信じてもらえないよ、 九州説じいさんってボキャブラリー一つ見ても無教養丸出しなのに
妙に上から目線で勉強しろとか連呼したり
自分のことがわかってないってか
身の程わかってない
しかも他人の話を聞かないで
畿内説のことを何も知らないから
これじゃ、議論に負けないはずがないわ >>891
初代大王は天村雲命。(神武の1人目のモデル/
父系は渡来系、母系は出雲系の王家ないしはその血筋。この図式はこの後ある程度、祖法的に引き継がれた。天村雲命の王家はいわゆる欠史8代に当たる)
原初は葛城地域が原大和で高天ヶ原(国都。ヤマトも国都の意味が原儀)
天村雲命は丹波但馬の首長(王)で民を率いて原大和に移住して来て勢力を誇ったのを見た
先に出雲から葛城地域に移住していた出雲の王族(出雲の分家ら)が是非もなし?と
天村雲命を大王に推戴。后には葛城の登美家(出雲東王家の富家の分家。天日方奇日方(父親は八重波津身命(いわゆる事代主/少彦名/後に大物主/他))が創設。)天日方奇日方命の妹君が入第。
この方が姫タタラ五十鈴姫命。 >>901
時代的には渡来人徐某の孫が天村雲命なので紀元前2世紀〜1世紀頃。 >>693
>>硯4か所→ペンダントだ中国人が使った墨がついていないから使っていない <
>あらら、また捏造で中傷? 九州説の品性は下劣だなー <
あらら、何これ?、
また、意味不明な口先ダマシでの中傷?。
大和説の品性は、下劣だなー。 >>903
意味不明な口先ダマシなら鸚鵡返しザラコクが専門家でしょ >>696
>ソウルより南の方角(対馬海流で流されるけど)船で20日間、出雲へ
出雲から中国半島の南側へ船で10日間(もし陸上移動なら一月)、大和へ
陸行一月ってw、北九州の何処だろう?<
何これ?。
魏志の「南」を、「北東」に変えて出雲へ行っているし、
「中国半島の南側」は、南を東に変えずに「南」のままにして、大和へ行っているし、
「北九州」の北は、どうやらそのまま使っているようだから、
全くの分裂であり、
大和説者に特有の、幻覚妄想の病気らしい。 >>700
>しかしここまでデタラメ書く人ってよっぽど無知か
さもなきゃ詐欺師だ <
どうぞどうぞ。
皇国史観国家国粋戦争狂の大和説者と偽書説派とは、同じ宗教同士の同じ穴の貉同士だから、
ご自由に、
喧嘩でも戦争でもしていてくれ。 謎の伊達郡(川俣町)という掲示板
>機織り
>奈良 平安
>香野という家が
>川崎に住んでいる
もれ(仮)の書き込み、川崎区でしょ、移住したりしたのかな >>707
確実に、皇国史観国家国粋戦争に狂ってるのが大和説者だし。
国民の3割しか支持されなくて、当然だわ。 老婆の話を調べてみると
そこで仕事をしていた人々は、
顔にオシロイ(化粧)を塗り >>717
>実は倭国大乱で天孫族が伊都高千穂宮を出て畿内に向かったのではないかとも思うけれどね。
その後の崇神、景行などとの年代のズレがあまりなくなる。
そうすると、天孫族を伊都から追い出した卑弥呼などは畿内勢力にとっては黒歴史だったろう。<
神武東征は紀元前1世紀であって、
卑弥呼の時代ではない。 >>723
>唐の史書群の史料事実? あるなら見せてみな <
見たかったら、天誅の、
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/menu01.html
でも見な。
しかし、彼も、皇国史観国家国粋戦争の大和説者だから、
都合の悪い細かいところを、あちこちでこっそり書き換えているからな。 >>728
>ふーん 「読む気も起きないから」って ウソついてたんだ!<
今は、テンプレは「読む気が起きない」と言っていたの。 >>729
>で? いつ論破された?<
Part180位からずっと。 気づいていると思うけど
対象(aならa)となる人物のことを、
よく知らない人間が、話を作っているだけだよ
本人??ではないからなんだよ 以前から書いているけど
その写真、何だと思う?家の先祖の写真 >>732
>ほらね 「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国であって、
白村江の後で筑紫の倭國を併合吸収継承した、」 という事が、史料事実だと言うのは
真っ赤なウソだよ <
旧唐書などには、
白村江で唐と戦争して大敗したのは「倭國」とか「倭衆」とか「倭賊」とか書かれていて、
その頃には既に日本国名を承認されていた大和の「日本国」ではなかった、
事になるから。
その他は、前投稿子が紹介された通りだよ。 『輿』
グーグルで検索してみて、
ほとんど出てくるでしょ?
画像 検索 >>735
>ましてや10世紀とかのやつは・・・なあ ダメだね九州説 <
唐滅亡が907年の10世紀なんだから、
滅亡後にそんなに時間が経っておらず。
唐代記録が十分に残っている時期だよ。
ダメだね、「南→東」などの、史料事実を改竄した前科者の、
皇国史観国家国粋戦争狂の大和説者は。 老婆談
飯野というところがあったんだよ、
そこにも川が流れていて
そのようなことも言っていた >>744
>大和説なんて、いませんが。<
昭和45〜50年頃までは「大和説」であったんだよ。
それ、大和説学者らは、
人口問題で「大和」では都合が悪くなって、「大和→畿内」という説に拡大させて、
世間の人々を騙そう、としたんだよ。
だから、現在でもマスコミなどは「大和説」という文言を使ったまま。 >>755
学術的にも、大和説には、史料事実的な証拠はない、 >>756
史料事実に反する嘘をつくことが、自らの信用を落とすことだと気がつかない、
羊飼いとオオカミの童話の教訓を理解できない皇国史観国家国粋戦争狂、、
そんな大和脳 。 >>757
>誰が決めたの? ???????<
マスコミなどでの国民投票で、国民が決めたの。 家も川崎に来てから、
普通に仕事?をするようになっただけだよ
むかーし住んでいた家は、
そのような仕事はしていない 浅野セメントというところがって、
そこの関連企業(会社)で仕事をしていたんだよ
と言っているけど
凄い上の人間でしょ ここに来る前までは、
自給自足のような生活をしていたのかな
泥棒のようなものに入られたとか
どういう話なんだろう >>763
>九州の研究者は畿内説<
九州の公的研究者は、
当然、皇国史観国家国粋戦争狂の文部省や権力学者や右翼マスコミらに逆らえないから、
6割の国民の意思に反して、大和説。 山の下のほう一面、
畑なんかが、ダーッと、あったと言っている
米を作ったり、機織りをしたり >>921
>昭和45〜50年頃までは「大和説」であったんだよ。
>それ、大和説学者らは、
>人口問題で「大和」では都合が悪くなって、「大和→畿内」という説に拡大させて、
>世間の人々を騙そう、としたんだよ。
へえ、そうだったんだ。
沼地ばかりだから、畿内でも7万戸は厳しいかもしれないね。
稲作先進地の九州北部なら、奴国だけでも3万戸あったらしいから、それを含めて7万戸は余裕だろうけどね。 >>769
史料事実での反論の、一つもできないで中傷にかまけてるってことは、
あんた方大和説者は、もう惨敗してるんだよ。 当時、土地などを荒らすような存在もいなかった
という話でしょ
そういう地域があったとか アンケートの数少ない投票者でも九州人は地元説だったな
九州外で一般人の九州説は天孫降臨の日向国だろうから
人気投票でも筑紫説は畿内説よりかなり少ないだろうな >>921
ザラコクは作り話ばかりしているね
もう誰も信用しないだろう 『自給自足』
wikiを読んでいると、
関連するような人物が出てくる 話が繋がっているでしょ?
「むかーし、発電、電気を起こしていたりしたんだよ」 「何々様なんて言われていたんだよ」
老婆はかなり詳しいような? 敗勢の九州説は
嘘をついたり誹謗中傷したりばかりで
畿内説の前に手も足も出ないという現状がネットで天下に公表されている
かわいそうだな >>775
>倭國(倭奴國)と大和朝廷は民族的にも全く関係のない別王朝ではないか。<
大和が支配者的には、「筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であった事は、動かしようもない史料実態。
>『魏志倭人伝』では倭人の習俗として「鯨面文身」を挙げている。『隋書』東夷伝俀国条でも「男女多黥臂點面文身」とやはり同じ習俗を挙げている。ところが、『日本書紀』によれば、「文身」は「毛人(蝦夷)」の習俗であり、大和の風ではないとしている。<
根本的には、倭人は、
元々燕の南にいて、燕に属していた事と、
会稽の鯨面文身習俗と「所有無與tan耳、朱崖同」であるから、中国の東シナ海〜南シナ海の出である可能性や、
東テイ人や侏儒國人や、猿田彦などの毛人蝦夷や、梁書に書かれた出雲の文身國や越の大漢國とは(扶桑國として)区別されている事。
また、呉王不差の遺民の姫氏も火の国山門に渡来して来て、呉の習俗が大きく伝えられた事。
だから、大和は、出雲系文身習俗と倭國の習俗と毛人蝦夷や半島渡来部族や越の大漢國の習俗の混合になっていた可能性が高い。
>『隋書』東夷伝俀国条では、「婚嫁不取同姓」とされ、「婦入夫家」となっているが、<
秦王國などの風俗が中国とそっくりだから、俀國では中国風俗。
>『記紀』に記された風俗からすると、この頃は「妻問婚」で、同姓であっても妻にしている。このことも国、民族が違うと考える根拠となる。<
地理的に、記紀や大和の習俗は、東北アジアの習俗であったのでは?。 >>775
>『舊唐書』東夷伝では、倭国条と日本国条を分け、この二つの国が別の国であると述べている。
「別種の旧小国」と証言されている事は、否定しようがない。
>『魏志倭人伝』以来『舊唐書』東夷伝倭国条に至るまで、
同じ倭國(倭奴國)が朝貢を続けていたことが述べられている。
ところが『古事記』にはそのような記載がないばかりでなく、
『日本書紀』では、推古十五年(西暦607年)に小野妹子を「大唐国に致す」とあるのが初出である<
記紀は、白村江の後で、白村江の敗戦責任を回避するために、
母国の倭国を併合吸収継承して、
倭國の存在や歴史を隠蔽盗用した半分×史書であったんですよ。
そして、大和が初めて中国に、日本国としての遣使を派遣したのは、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の時。 >>776
こんなふうに大和説者は、永遠の初心者でアホな無知ばかり 。 >>945
などと思考停止してオウム返しする永遠の初心者古田盲信75歳 「むかーし何々様なんて言われていたんだよ」
パトラのような衣装を着ていた家の話だよ、親戚?
発電、電気を起こしていて・・・戦闘機? >>833
>馬鹿じゃね? 隋の頃の倭国(もちろん都は飛鳥)の領内に阿蘇山がある なんの不合理もない<
アホじゃね。
隋の頃は、竹斯國以東は「皆」俀の附庸國であるから、
大和も附庸國であって、
俀の都もない。
だから、阿蘇山は竹斯の南の俀國にあった。 老婆は大正の一桁の生まれで
謎の葱の華・・・家の先祖の写真でしょ なんで大和説のスレってどこも面白くないの?
アカデミックな議論なんて皆無
九州諸説のスレの方がよっぽど面白くて具体的な議論してるのに >>951
それはね、負けた九州説が暴れて荒らすからだよ >>951
九州説じいさんが、具体的な内容話を徹底的に避けるからだな
すれば確実に負けるのを知ってるから 邪馬台国はヤマト国で間違いないんだけどね。卑弥呼がいたのも纒向。
問題は、ヤマトの範囲だな。少なくとも大和盆地は含まれるが。
対の河内も現在は大阪平野南東部になっているが、古代はもっと広いからね。
倭人の元々の拠点は淡路島などの島嶼部や沿岸部、すなわち大阪側。
ヤマトの地は、大阪側から見ると山の向こう側(外)。
ヤマトに漢字を当てるとしたら、本来は山外かもしれない。
ヤマトの範囲、難しいな。大和盆地、宇陀、ひょっとしたら伊賀や甲賀辺りまで指していたのかな。 >>951
>九州諸説のスレの方がよっぽど面白くて具体的な議論してるのに
そうでもない。 @阿波 まあ具体的な話のできる九州説の奴なんて見たことないけどねー 邪馬台国の場所も指定できないのに畿内スレを荒らすと九州に邪馬台国が出現すると思ってる程度のアホの集まりだからな
飲尿カルト九州説は 電気のwiki
>「俺が・・・プリンスだ」「原住民(先住民)から崇敬を集めた」
と書いてあったり 『日本の文字 漢字』
漢字から作られたというのは定説。
トンデモは信じないほうが良い。 文字がなくても、言葉は存在するからな。
少なくとも魏志倭人伝の時代には、コウチ(河内)、ヤマトという言葉は存在した。
日本語の成り立ちは複雑。
単語なんかルーツは様々なんじゃないかな。
現在でも内→チ、外→トって発音する場合もあるからね。 謎の秦氏にも言える事なんだけど、
古代のことだから、知っている人が、いないのかもしれないよ
この話も『ワイによって助けられる』 >>859
>中国製の小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。
当時の日本にこんな精巧な冑は作れない。 おそらくトヨの朝貢時に入手したのだろう。<
中国が、東夷の国に、小札革綴冑のような「武具」を与える筈がないし、
実際には、中国製ではなく半島に類似武具が存在するから、
倭国は、半島の武具を学習模倣したものだろう、と反論済み。
>十数点の出土のうち九州はわずか1点、残りはすべて畿内。<
「畿内」と言って誤魔化しているが、大和盆地ではなく、倭國の支配下。
という事は、倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」で、倭國下の武将が使ったものらしく、
九州や半島では余り使わなかったらしいもの。
>この時点で中国と通交してた主体は畿内であり邪馬台国論争は決着する。<
決着しない。倭国の東征武将が使ったもの。
>この小札革綴冑は山城の椿井大塚山古墳から出る。
崇神に反乱を起こした武埴安彦命が挙兵した場所であり、 椿井大塚山被葬者が武埴安彦である可能性が高い。
もう一つ面白いところから出る 大阪柏原の玉手山3号墳だ。
この時代に河内の首長が中国製の小札革綴冑というお宝を手に入れていた。<
いずれも、大和王ではなく、倭國の直接的支配地だ。 >>869
>>(三角縁神獣鏡は)「魏帝の下賜鏡ではなく、呉系の鏡だ」と言ってある。<
>ど素人じいさんが言ったって何の価値もないでしょ。<
10年以上前から、呉系の画文体神獣鏡が楽浪からt列島に齎された、という学者の説を読んでいたし、
三角縁も呉の系統の型であったし、
列島の三角縁は、楽浪の戦乱から逃れた呉系楽浪鏡師らの渡来以外に理由がない事や、
最近での、楽浪に多い「尚方作」鏡は、呉政権の工房の作を意味する、
などという事が判った事から。 >>873
>これがおバカさん系九州説の典型だね 誰に反論するでなく
ただ自分の頭の中にいる架空のキナイセツに喧嘩を売っている
いわゆる老いぼれシャドウボクサー <
対象や論点が不明確な投稿に対しては、
自論を世間の人々に説明するきっかけとして、
利用させて貰っている。 >>885
>弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。<
関係がない。
大和は、倭國から別れた別種の旧小国の、地方の市を監督する田舎のご大尽であり、
母国の倭国のセレモニーを学習模倣して、「より大きくより豪華に」しただけの事。 >>891
>>何故三輪地域の首長ではなく「大和政権」なのか<
>ってことが説明してあるのがテンプレでしょ 読んでないの?<
テンプレは、「南→東」などの嘘つきダマシしサギシである事が確定してしまっているから、
もう読まない、って。 経歴詐称ジジイの小便着色本を崇め奉るカルト教団
それが九州説
今日も飲尿聖典を掲げて妄想を垂れ流すのだった >>970
>小札革綴冑って、4〜5世紀だよね
なんでそうサラッと嘘をつくのか。
3世紀後半から4世紀前半。 >>975
独立行政法人 国立文化財機構
奈良文化財研究所
東アジアにおける武器・武具の比較研究
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/1767/1/BA87922583.pdf
日本列島においては、古墳時代を通じて800基を越える古墳から各種の鉄製甲冑が出土
している。大別して、甲には短甲と挂甲、冑には衝角付冑と眉庇付冑等があり、各種の付
属具も出土している。そのなかで、短甲と冑は、主要部を構成する地板の形状と鉄板の結
合方法の違いによって分類することができる。一部3世紀代に遡る例もあるが、主として
4世紀代の古墳から出土する初期の甲冑は、竪矧板革綴短甲、方形板革綴短甲と小札革綴
冑である。 以前から書いているけど
本物は伊達郡というところに
住んでいるんだよ、住んでいた
言っている意味が、分からない? >>975
http://gunsight.jp/c/sankou-02.htm
このサイトの「甲 類」の表を見るとイメージしやすいかな?
3世紀だと木製になるね >>973
つまり、ザラコクは頭がおかしい
ということか その写真の家の話だよ
家に凄い刀が飾ってあったんだけど、
泥棒に入られたのか、近所の人に、あげたのか 伊達郡という掲示板、
このような質問をしているでしょ
何々時代に、ここへ来た・・・・・・・
いましたか?まだいますか?
機織りはしていますか? >>954
畿内説が勝ち目がないと見るやくだらない中傷に走るからだろ。 >>965
>少なくとも魏志倭人伝の時代には、コウチ(河内)、ヤマトという言葉は存在した。
根拠なし。 >>970
そうだね。
畿内説が時代錯誤な証拠を提示して、畿内の遺跡の年代を捏造するのは、今に始まった事ではない。 結局、畿内説には捏造か妄想しかないから、具体的な突っ込んだ話ができない。
だから畿内説は世間一般からも支持されない。
カルトだからしょうがない。 おなじような人物がいるでしょ?
親戚?
本や書なんが沢山並んでいた。
泥棒のようなものに入られた。
聖人でも殺したのかと言っている人がいたり 畿内説がピンチになると呟きの書き込みがひどくなるな。 ワニさん・・・何やら・・・だったのか?
このような事を言っている人もいた もれ(仮)の書き込みと、
その写真を見て、
何か??・・・わかる人がいたんだよ
このような書き込み
「どうした親戚でも殺されたのか?」 >>988
現実を見ろよ
実際いま九州説が中傷を連発してない? 詳しいことはわからないけど
『わに』
漢字に変換してみて、ワニさん? 証拠ひとつも出さない中傷投稿の山を見るにつけ
九州説はなんで畿内説の勝ちを宣伝してるんだろうと
不思議に思う
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