邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part8 [無断転載禁止]©2ch.net
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水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1501461665/l50 里数の行程と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したもの
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明している
続けて読むから意味不明の文章になる
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。 帯方郡〜倭の世界
帶方郡 郡 治
↓
-↓--水行7,000里----↓---------------------水行20日---
萬 投
到 狗邪韓國 馬
二 水 國
- ----------------↓---------------------- --------
千 度海1,000里 行
對馬國 方可400里(800里)
餘 渡海1,000里 ↓ 10
一大國 方可300里(600里) 女
里 海渡1,000里 ↓ 日 邪
↓ 末盧國
↓ 陸行 500里 ↓ 陸行1日(1月) 王
↓ 到 伊都國(女王の都) 馬
↓ 100里 ↓ 100里
自女王國 奴 國→不彌國→斯馬國 國
↑ ↓ 壹
烏奴國 周 已百支國
↑ 旋 ↓
支惟國 可 伊邪國 國
↑ 五 ↓
巴利國 千 都支國
↑ 里 ↓
・・・・・・・・・・・・・・・・・
-------------------------------------------------------
狗 奴 國 「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
周旋とは次の経路
奴國→不彌國→斯馬國→已百支國→伊邪國→都支國→彌奴國→好古都國→不呼國→姐奴國→對蘇國→蘇奴國→ 呼邑國→華奴蘇奴國→
鬼國→爲吾國→鬼奴國→ 邪馬國→躬臣國→巴利國→支惟國→烏奴國→奴国
参問とは問を集めることで、倭人から聞いた情報に基づくもの
実際には周旋してないので五千餘里は魏使が倭人の話を基に計算した推定の距離
五千餘里の計算方法は
末廬國→伊都國→奴国→不彌國までの各距離 500里、100里、100里で平均距離700/3里を出し
遠回りの不彌國〜奴國の国の間数である21倍し(4900里)
最後に奴国〜不彌國100里を足したもの。 世有王
@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の治世には増減があったでもOK
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についていて、これも魏の治世には冠をつける役職についていてでもOK
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の治世の王が、と訳すのが適当。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國自武帝滅朝鮮
使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里
倭に有る三十余国には皆世襲王が有るが、その代表の大倭王は邪馬台国に居る。
(だから皇帝が印綬した。 中国の史書は皇帝の威厳と正統性を記録する為の史書である)
その国土の南北は楽浪郡から七千里の(対馬北西岸の)狗邪韓國から1万2千里までである。
(ちなみに対馬渡海は合計三千里、邪馬台国の領土は南北で九州北部の二千里しかない。)
倭人伝の
世有王皆統属女王国 は
世の(当時の三十国の)王は皆すべからく女王国に属する。 だよ。 >>006
確かにその解釈も有力と思う
重要なのは伊都国の説明文の中に入っている所
後に続く文が「郡使往來常所駐」
つまり、「女王国=伊都国」の説明になるね
有千餘戸 世有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐 「女王国=伊都国」の説明
故古田氏にも久留米大学講座の時に説明したが、邪馬壹國は自分が解決した
「世有王皆統属女王国」は他の人と以前論争した
で話を効いてくれなかったな
賛同してくれる人がいることはうれしいですね。 周旋は「一周すると」という意味で
倭人伝の記述で周旋に対応するのは奴国から奴国まで
奴國〜不彌國〜斯馬國〜已百支國〜・・・・・・〜烏奴國〜奴國
對馬國、一大國、末廬國、伊都國は周旋のルート上になく
国邑間の距離も別に書いてるから周旋には入らない。 伊都国説はかなり成熟して、文句のつけようがなかなかないな。 伊都国には一大卒がいて吉野ヶ里には卑弥呼がいたで問題ないんだろ >>2
水行10日は帯方郡から末蘆国、一日航海千里の規定により一万里 吉野ヶ里区域で王の涌きそうな地区というと
吉野ヶ里丘陵の東側に位置するブリヂストンの工場のあたりとか
北にすぼまって石動地区とかそのあたり
ここいらへんは北側峠越えで那珂川上流域(奴國)に繋がるから
魏書で出てくる烏奴國に比定可能とはなる >>12
一大率がいたのは自女王国以北です
伊都国には一大率はいません
伊都国では自女王国以北の地域を一大率と使って治ていたんです
当然、治めていたのは倭王の卑弥呼ですね。 >>19
自女王国以北は女王国を含むけど全部じゃない
女王国の北側だけだよ。 女王国の北側・・・・・・狗邪韓國〜不彌國の国邑です。 なんで女王国以北が女王国の北半分なんだよ。
そんな言葉の使い方は日本にも中国にもないだろ。
女王国は伊都国の言い換えなんじゃないか? 不彌國[生]の南に接して[女王國]があります
[山門]より南側にその一帯は位置します
魏の官として記される女王の呼称は[伊支馬]になります
これは[邪馬壹國女王]と形容されて呼ばれる[壹與]のことです
[邪馬壹國女王]とは[邪馬界]と[壹界]をまとめて締上げる[壹與]のことです
ところでこの[壹與]の[女王國]のあったあたり
いまなんと呼ばれているか知っていますか
それはなんと 壱岐なんですよね
地名がとりかえっこになっているのが興味深いでしょ >>22
女王国は女王卑弥呼の治める国だから倭國の言い換えであり
伊都国の言い換えではない [伊都國]というは[伊][一][壱][壹]のシマ=なわばりを
統べ纏め上げる拠点の称でしょ
そんなところというか
郡から〆て11900里のところに女王がいるわけとかないでしょ >>18
吉野ヶ里歴史公園でよみがえる邪馬台国の特別展をやっているそうな
一度いくといい >>17
>伊都国には一大率はいません ・・・・・
なんで、そーなるの まあ邪馬台国に関連ありそ〜な🐴の埴輪群が群馬の古墳から出てるからね
後押ししちゃってるんだわな 群馬っちゃ〜実際には藤原氏が真っ先に勢力を誇った地域
つかな >>27
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 」
自女王國以北 特置一大率・・・・・・一大率は自女王國以北に置かれていた
檢察諸國 諸國畏憚之・・・・・・一大率は諸国を観察してただけで治めてません
常治伊都國・・・・・・伊都国で常に(自女王國以北を)治めていた
諸国を治めるのは倭王卑弥呼ですね
つまり伊都国で常に自女王國以北を治めてたのは倭王卑弥呼です。 >>25
伊都=倭奴=壹都=倭都ですね
倭人伝の場合の伊は卑弥呼のことですね。 >>25
12000里は女王国最大の国邑の奴国までの距離ですね。 伊都国と奴国をあわせると筑紫の日向、これを女王国と呼んだのであろう。 >>34
「女王國東渡海千餘里」・・・・・・女王国の東には海があるのですよ
筑紫の日向の東には海はないでしょ、倭国全体を女王国と呼んでいるのです。 >>36
自女王国以北の諸国に一大率はいたということで問題ないですよ。 >>33
12000里は女王の所都までの距離ですね >>33
じゃ、伊都国にはいないね。ぴみちゃんは。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>39
>ぴみちゃんwwww
一度吉野ヶ里歴史公園にいくといい >>38
「自郡至女王國 萬二千餘里」
この場合、自郡は郡治のことだが女王國は女王國の中心地の奴国までのことだ
奴国は二万戸もある女王國最大の国邑ですから。 >>31
>諸国を治めるのは倭王卑弥呼ですね
治めているのは男弟 「有男弟佐治國」
卑弥呼の役目は引きこもり 「自爲王以來 少有見者」 >>45
佐治國・・・・・・国を治めるのを補佐してただけで、治めていたのは女王卑弥呼ですよ。 >>42
伊都国より北だったら壱岐、対馬、狗邪韓国だけになるぞ >>44
奴国の中に女王国があるということか
邪馬台国は七万戸だから最大だろ >>47
自女王國の場合は起点が奴国になってるから
奴国より北の諸国
不彌國、奴國、伊都國、末廬國、一大國、對馬國、狗邪韓國が自女王國以北の諸国となりますね。 >>49
>狗邪韓國が自女王國以北の諸国となりますね。
狗邪韓國は「其戸數道里可得略載」がないけど以北なの? >>40
伊都国には女王卑弥呼もいますから一大率いなかったんじゃないですかね。 >>49
20余国が抜けてるだろ
ところで九州王は何か本でもだしているのか? >>52
確かに狗邪韓國には戸数はないですね。
自女王國以北の諸国から外した方がいいですかね?
参考にします。 >>54
傍國は自女王国以北の諸国には入りません
考えがだいぶ纏まったので本出したいが
書くの大変そう
ウィキペディアの九州王朝とか書いてます。 >>55
>参考にします。
うん、まだ成長する可能性を持ってるね。
大筋では合っていると思う。もう少し勉強だね。 >>47
女王国以北とは、女王国より北ではなく、女王国から北だよ。
日本語も中国語も苦手なようだね。 >>55
戸数はなくても里程は書いてあるから、含めても構わないでしょうけどね。 >>60伊都国女王
以北の国は全部書かれている。狗邪韓國だけは例外なの?
郡から水行して来て、次に瀚海へと漕ぎ出す。
狗邪韓國では休息、水、食料の補給、天候などで滞在した可能性は高い。
戸数は記載されていたはずだ。陳寿は意識して外した。
それは狗邪韓國は仲間であり、一大率を畏憚する国ではなかった。
代わりに、「其北岸」を記載して倭地を表した。
范曄は「其西北界狗邪韓國七千餘里」と倭地表記をしている。
が、自説だけどね。 >>58
スタートは古田説ですけど
古田説の朝鮮半島内陸行とか受け入れられなくて
里程と日程が同じ行程を説明しているとだけの説明を弟にしたら
弟が勝手に新説を想像してた >>60
狗邪韓國は投馬国の中の国邑とすれは
投馬国の戸数は書いてあるので戸数が書いて無いともいえないかも
微妙ですね。 >>58
古田説みたいに分岐や放射状読みは無いとしてます
里程も日程も一本道
同じ行程を単に距離と時間で二重に説明しているだけ。 >>63
「更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人」
誅殺は王命で殺すこと。国と国、王と王が戦っている。
その勢力図を想像してみるのも面白いと思うよ。
卑弥呼以前の乱も勝負付かずだろ? >>61
「楽浪郡徼 去其国万二千里 去其西北界狗邪韓国七千余里」
楽浪郡の堺まで倭国の中心地から12000里、倭国の西北界狗邪韓国から7000里
狗邪韓国を『後漢書』倭伝でも倭國扱いしてますね。 >>65
勝負が付いたから卑弥呼が共立されたんじゃないの。 >>67
だから勝負付かなかったと言ってるじゃん。
何が言いたいの? イミフ。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。
卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 [年已長大]の[長大]の読み直しで[倭國大乱]を補正してあげると
[倭國大乱]は210年代
この時に結果[壱太𡨧][壱太宰][一大率]に化ける[爾支]が
おおいにジャイアンした
倭國にいたアマ系の倭王は弾き出されて狗邪國王になった
アマ系の倭王の出自は元祖ヤマトの山口 [卑彌弓呼」は減画しないで正規表記してあげると[卑彌彌呼]
[投馬國]=[彌彌奴]=[彌彌那]の[利]を称する人とコモン
[都市牛利]=[都師鉾利]と同一人物で
卑弥呼の実の父の[大毘古]の名で古事記に盛られた人物ではあろう >勝負付いたら卑弥呼の出番はないでしょう
其國本亦以男子爲王と本来男王なのだから >>70
倭国大乱の時代は動かせないよ。
『後漢書』卷85 東夷列傳第75
「桓 靈 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。 >>67
失礼、読み違えていました。
正史の個人編纂から、史家の集団編纂へ代わったのが晋書からです。
「漢末、倭人亂、攻伐不定。乃立女子爲王、名曰卑彌呼」
晋の史家達は、「不定」勝負がつかなかったと判断してます。 アマ系って石棺墓人
宗像から向こうに分布
本部は阿那門
多婆那の名で半島系史書に名を残し後の世には秦國に化ける
倭國の王権は甕棺墓人と石棺墓人のコラボによって成り立つ
甕棺墓人の裏にいてマリオネットしているのが木棺墓人ね >>76
天孫族でしょ。
弾き出された天孫族は畿内まで落ち延びて行った神武らのことでしょう。
それが山口県起源というのは、高天原が山口県であると言っているのに等しいでしょうが、まったく根拠はないように思います。 >>79
もしかして志賀島から遠賀川にかけていた海神、すなわち豊国王家をアマ系と呼んでしまっている?
そこはせめてワダツミ系とでも呼んで欲しいところ。
アマ系と言うと、普通は天孫族でしょう。 高天原は爾支のコンケストに関しての出発地でしょ
奴國と投馬國とのつきあいは紀元前からで古いよ
爾支のコンケストは2世紀末以降3世紀の10年代までのイベント >>82
それでは卑弥呼までの間に日向三代が入らなくなってしまいますよ。
考古学的証拠とも一致するものがなく、無理がありすぎます。 大穴牟遲~は広域のシマをもった海運を御する広域首長だけど
記紀に誘導されて出雲に目がいきがちだけど
阿那が本部で海運を御する広域首長だと考えるのが本筋でしょ なるほど。
大己貴を穴戸の王として捉えているのですね。
確かに興味深い。
それにしても邇々藝の年代比定には無理がありますよ。 >>78
晋書は漢末の倭人乱とかは三国志や後漢書を参考にしてる書いただけでしょうね。 [自女王國以北]の[伊都國]や[不彌國]は海岸域にあって海の民の巣だから
そこいらへんだけちゃんとおさえてね
三雲地区が[伊都國]だとかあほおなことぬかすのとかやめてね
三雲地区はもとのが委な奴國の中心地区で
広域化した二万戸の奴國の重要な中心地だしね
三雲を除いて奴國を語ることなかれ 大帶日子 淤斯呂和氣 纏向之日代宮
倭建命 小碓命
帶中日子 (仲哀)
この3代も穴戸の王でしょ >>86
そうでしょうね。
どうしてもその時代の知識の影響を受けるんでしょう。
「至魏時 有三十國通好 戸有七萬」 倭国全体で7万戸としてます。
特に隋書以降はひどい改変と思います。 奴國は二万戸だから筑前地区は伊都國や不彌國以外全部奴國だよな
築後や豊前にも一部奴國の領土が在ってもおかしくないぐらいかな
もしくは既に商業都市で多くの人口を養ってた? 三雲が倭奴国の中心というのはいいけれど、奴国は別に記載されているから、当時の魏使には別の集落に見えたのでしょう。
女王国と言う表現が伊都国および奴国、すなわち倭奴国なのではないかとは思います。
このあたりは日本側も微妙に言い換えを駆使して、王墓群の福岡平野側から糸島平野側への移動を誤魔化しているようにも見えますけどね。 >>88
ああ、その三代は明確に穴門の王ですね。
真ん中は若垂彦であるべきですけどね。
でもその纒向日代宮って実態は何なんでしょう。 >>79
多婆那国は土井ヶ浜だろ、倭國の北東千里だから [伊都國]から東南8kmほどのところが[奴國]だと記されていますね
[三雲地区]を[伊都國]とすると[奴國]は山の中
[三雲地区]を[奴國]を代表するような[奴國]の一部と考え
[三雲地区]から北西8kmほどのところに真の[伊都國]のありかが求められます >>92
そこのところで元祖ヤマトが山口のことだってばればれなのですね
変則読みの[マキムク][纒向]の本来の読みは[マトムク]あたりかもね
[マトムク]の[マト]は[ヤマト]の[マト]で[馬門]あたりのがぴったりかも このスレの説に対する批判は無くなったなw
平和過ぎる 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)で決着がついたんだから
その後の歴史について研究を進めるべきだよな。 世有王 = その時代に伊都国に王がいた
皆 = 倭の国々
ここまでは正解だがその先が間違ってる
正しい解釈は
「魏の時代に伊都国に王がいたが、倭の国々は(伊都国ではなく)女王国(=邪馬台国)に従った」 >>82
>>83
日向三代は2世紀〜3世紀だよ
畿内王統と九州王統は並立していた
7世紀に統一されたとき、九州の歴史を畿内の歴史の前段階に置いてしまったから
日向三代が神話上でものすごく古いことになってしまった >99
「丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
「皆」が倭の国々と訳すなら、「所駐」も全国に在ったんだな >>99
倭国に王が何人もいない
倭国の女王卑弥呼が伊都国の王であり邪馬壹國の王です。 >>101
伊都国の説明文なんだから
「所駐」も当然伊都国 >>102
邪馬台国に女王がいるのに伊都国にも王がいたから魏の使者はわざわざそれを書き残したんだよ
古代は王は何人もいたんだよ
小国の支配者もみな王を自称した
だから王をまとめる王として「大王」という存在、名称が必要になったんじゃん たとえば6世紀においても「筑紫君磐井」という人間がいたわけだ
「君」というのは「キミ」でありオオキミ=大王の「キミ」だからな
小国の支配者も王を自称するのは古代においては普通に行われてたこと
「倭王はひとりしかいないんだから伊都国の王が女王なんだ!」なんてぜんぜん古代を理解してないアホの妄言だよ 伊都国の王が女王だとしたら
「世有女王」 になるはずだろ
皆が伊都国に従っていたのなら
「世有王 皆統属王国」 になるはずだろ
でも現実の記述は
「世有王 皆統属女王国」
明確に 王≠女王、王国≠女王国 として書いてるだろ
そこをわざと見ないふりして逃げて持論ばっかごり押ししても誰も納得しないよ >>98
>邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)で決着がついたんだから
邪馬壹國は北部九州(筑紫平野東部)に在った。
邪馬壹國の城柵は八女室岡、
女王國の王都は久留米南部、
伊都國は、帥升王統倭國の王都(肥前国庁付近・惣座遺跡)である。
景初二年六月(238年)以前の女王國=奴國+不彌國+投馬國+邪馬壹國
景初二年(238年)に女王國(4ヶ国)は倭國(28ヶ国)となる。
景初二年十二月(238年)以降の倭國=倭28ヶ国(除く 狗邪韓国・狗奴國) でヒミコは九州にいた誰なのか、
どこに住んでたのか、
墓はどこなのか、
それぞれの根拠は? >>107
「世有女王」 じゃ代々女王になっちまうw >>81
遠賀川の水源は筑前町で元の朝倉郡夜須町。
天の安川原かもしれないところ。 「世有王皆統属女王国」 論点がおかしくないか?
張政が来た時には混乱の末共立されたかつての女王卑弥呼は死んでいた。
伊都国に到着した時、この文を書く必要が有るか?
邪馬台国=女王国=女給千人の女王の砦
自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國
死んでる女王卑弥呼によって一大率が伊都に置かれ国土を治めていたのか?
これを見たのは誰が何時? こんな報告有るかよ?
張政は何故終わってる女王国の説明を延々としているんだ?
時代の変化が理解できていない嘘つきの張政がちゃんと仕事した可能性はほぼ無い。
むしろ、常に駐する伊都への、副次の来日によって報告はしたが、最後の来日で
魏の冊封国であった邪馬台国は既に滅び大和朝廷による一大率統治が始まっていた。
と考える。 (;一一) あやしい >>107
ここの世は縦の流れじゃなく横の広がりで、世代ではなく世界の世
伊都の伊は司法官庁の意味、王と自称する大夫達の仕事場。
その自称王達は皆女王の部下 >>114
自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國
女王によって一大率が自女王國以北に置かれ伊都国で国土を治めていた
卑弥呼の死後は壱与が伊都国で国土を治めていた
倭人伝読んだ? >118
>倭人伝読んだ?
新唐書読んだ?
一大率のことを何んて書いてあった? >>117
「世有」
@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載)
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についていて、
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世、Dは当世で、純粋な世有ではない。
@ Bは代々の意、Aは今の世の中の意。
したがって、三国志における「世有」は「代々」と解釈するのが正しい >>121
なぜ?
お前の挙げた五例のうち、代々と訳すのは@とBの二例だけじゃん
なぜそれで「代々と解釈するのが正しい」なんて結論になるんだよw
解釈は複数あり「世有」だけでは「どちらとも言えない」ってことだろ
結論は「世有をどう解釈するかは文脈に頼るしかない」になるはずだろw >>121
@「それぞれの帝によって」じゃ意味が通じない「魏の治世にも」(漢の治世と比較を記載)
Aは一般論
B貴方たちの先祖は、「魏の治世」には冠をつける役職についていて
C は三世、Dは当世で、純粋な世有ではない。
「代々」との解釈は誤り。 >>122
www
CDは「世有」の文字は入っているけど、明らかに例外「三世有」と「当世有」
Aはことわざ
前例とし得るのは@とB、両方とも「代々」とするのが正しい そして、文脈に頼るなら
「世有」の解釈は「その時代」になるわな当然
もし仮に「世有」を「代々」と訳せばおかしなことになる
代々王がいたとすれば、「皆」は代々の伊都国王ということになり
「代々の伊都国王が皆女王国に従った」ということになるが、
邪馬台国は代々女王国というわけではないので、おかしな文章になってしまう 5つの用例をあげて正解はこの中にあるというのもまたおかしな話で
意味なんて文脈によって様々に変化するものと解釈すべきではないか? 同一の文書の中での一般的解釈に従うべきでしょ、著者の意図はそこにあるわけだからね >>125
@とAは倭人伝の世を代々と読ませる為に無理に代々と訳した感がある
「魏因漢法 母后之號 皆如舊制 自夫人以下 世有搗ケ」
魏は漢と同じ法と言って、但し夫人以下は魏の治世では搗ケしましたとの意味ですね。
代々なんて意味はありませんね。
B今汝先人 世有冠冕
この貴方たちの先祖が冠をつける役職についていたのは魏の治世のことですね。(一部漢末も含む)代々なんて長い時間じゃないですね。 訂正
@とB3は倭人伝の世を代々と読ませる為に無理に代々と訳した感がある
「魏因漢法 母后之號 皆如舊制 自夫人以下 世有搗ケ」
魏は漢と同じ法と言って、但し夫人以下は魏の治世では搗ケしましたとの意味ですね。
代々なんて意味はありませんね。
B今汝先人 世有冠冕
この貴方たちの先祖が冠をつける役職についていたのは魏の治世のことですね。(一部漢末も含む)3代程度で代々なんて長い時間じゃないですね。 >>128
同一文章内に於ての二つの解釈があれば、それは三番目の解釈だよ
以下その文章は三つの解釈を基本とするわけだよ >>123
それも違う
@の世有は「在位中に夫人の増減があった」
Bの世有は「あなたの先祖たちが現役だった時代には、あなたの先祖たちは冠を被っていた」
つまりどちらも「その時代に」
世有は「魏の治世」ではなく、単に「その時代に」
世有王 皆統属女王国は「その時代に伊都国には王がいたが、皆(倭国の皆)は女王国に従った」 >>133
全然見当違いだろw
>@の世有は「在位中に夫人の増減があった」
在位中・・・・・・何処から在位中とか出てきたんだ?夫人の増減があったのは魏の治世のことですね。
>Bの世有は「あなたの先祖たちが現役だった時代には、あなたの先祖たちは冠を被っていた」
現役だった時代には・・・・・・この現役も意味不明だな、あなたの先祖達が冠を被っていたのは魏の治世でのこと。 丗有王
→魏の三人の皇帝の時代、伊都には狗奴国、女王国と同じように王という官職が有った。だから「在」ではなく「有」
皆統属女王國
→皆とあるので伊都で王と称する者達は、狗奴の男王のように女王は嫌いなんてへそ曲がりてはなく、女王は無論のこと国そのものの支配下だった。 >>133
>世有王 皆統属女王国は「その時代に伊都国には王がいたが、皆(倭国の皆)は女王国に従った」
「丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
「常所駐」の主語は何? >>138
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
伊都國 >>140
ワンステップ上の話だから理解できないと思う >>133
@は、「それぞれの帝によって」じゃ意味が通じない「魏の治世にも」(漢の治世と比較を記載)が正解
Bは、王昶(おうちょう)が魏初代帝から仕えていて、その先祖(叔父王柔、父王沢ら)のことを指しているので、
明らかに漢代の話 >>137
女王国の王は魏から贈られた官職だけど
狗奴国の王は自称してるだけだから官職でも何でもない
伊都国の王は自称ではないようなので官職だけど
伊都国に王の官職を与えたなんて記述はないから
伊都国の王=女王
「在」は場所にあり
「有」は物や人があり
皆は倭の国々ですから伊都国のことではない >>147
>狗奴国の王は自称してるだけだから官職でも何でもない
どこに自称と
>伊都国の王は自称ではないようなので
その「ようなので」とは?
>伊都国の王=女王
三段論法にもなってないけどそこに落としたいがために?
>「在」は場所にあり
「有」は物や人があり
有は無の相対的。
在は概念。だから在は不在とし相対的なことばが存在しない
>皆は倭の国々ですから
どこに倭の国々が出てくるの? >>147
「王」は中華に於いての官職であり、日本にはそういう概念はなかった。
だから中華の史書に「王」と書かれればそれは下賜されたものであれ自称であれ
中国で言う王という官職に相当するものとして扱うのが筋
もしその王という位が中華のそれに相応しくないものであれば「王と称し、太夫に相当する」という書き込みが
入る 伊都において統治していた女王に親魏倭王の称号を与えてますよ。 >>145
>@は、「それぞれの帝によって」じゃ意味が通じない「魏の治世にも」(漢の治世と比較を記載)が正解
でしょw
>Bは、王昶(おうちょう)が魏初代帝から仕えていて、その先祖(叔父王柔、父王沢ら)のことを指しているので、
明らかに漢代の話
漢末から魏代に掛けてですけど世有は「あなたの先祖達は魏代でも冠を被っていた」との意味です。 >>148
狗奴国の王に王号た与えたとの記述はない
伊都国は女王国の圏内にある
女王卑弥呼がいるのに王を自称することは許されない
>どこに倭の国々が出てくるの?
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國 >>150
魏志倭人伝を書いたのは日本人じゃありませんよw >>151
>伊都において統治していた女王に親魏倭王の称号を与えてますよ
どこにそんなことが書いてあるの?
>>154
>魏志倭人伝を書いたのは日本人じゃありませんよw
小学生じゃないんだからそんなレスいらんわ
>>153
書いてないだろ
ここって小学生のたまりばかい >>156
親魏狗奴國王とか貰ったのかよw
今使譯所通三十國・・・・・・これ何処の国?
www >>150
>もしその王という位が中華のそれに相応しくないものであれば「王と称し、太夫に相当する」という書き込みが
前例プリーズ >>158 は漢籍史料とか読むの不慣れなのですか
王が勝手に涌いてくるみたいな寺沢レベルのまぬけさんなのかなあ >>158
例えばの話しね。だから日本語で書いただろ >>160
なんじゃそりゃ、適当なことカキコムンじゃないよ >>157
>www
まだそんな幼いことしている人がいたとわ >>161
そんなに適当なこと書いてないことぐらい理解できないの?
それほどレベル低い人なの? 残念 陳壽の筆では狗奴國王はかなり丁重な扱いで記されている
狗奴國王は奴國の南側の女王境界の外側の直近
博多の南方のかなり近い位置におったということだ
狗奴國王は奴國王統の正統な相続者レベルの扱いで
魏への調停依頼の結果
もと一大率の男王難升米はすなおに調停受け入れて譲位するにいたる こんなことしてもなんの解決にもならないのに
もう何年こんなこと繰り返しているの?全然進歩ないね [伊都國王]=[一大率]=[壹太𡨧]=[壹太宰]=[女王佐治王]
[伊都國王]=[爾支]=[邇支]=[太邇の末]
[yi-tu] で
[wi-to] ではない >悪口だけで反論はないのかよ
反論しても反応鈍いからしないだけ
少しレスすればその人の器量わかるし
やってる内容が余りにも初歩過ぎてあきれちゃったよ @とB3は倭人伝の世を代々と読ませる為に無理に代々と訳した感がある
「魏因漢法 母后之號 皆如舊制 自夫人以下 世有搗ケ」
魏は漢と同じ法と言って、但し「夫人以下は魏の治世では搗ケしました」との意味ですね。
代々なんて意味はありませんね。
B今汝先人 世有冠冕
この貴方たちの先祖が冠をつける役職についていたのは魏の治世のことですね。(一部漢末も含む)3代程度で代々なんて長い時間じゃないですね。
「あなたの先祖たちは魏の治世にも冠を被っていた」 との意味ですね。
代々なんて意味はありませんね。 >>178
爺に華を持たせるのも年下の宿命だわな
勝ちたいと思いたいなら冥土の土産にどうぞご自由に 鉄器の無い領地に
鉄製武器を大量に副葬した古墳。
領地に鉄器が皆無の理由は、北部九州邪馬台国と敵対したから。
第二次大戦末期の日本と同じで(金属類回収令:昭和18年8月12日勅令第667号)、
領内の金属器をかき集めて鉄製武器に転用し尽くした。
鉄器古墳の主が先に君臨していて、それから邪馬台国と敵対したのか。
それとも
邪馬台国と敵対した土地が鉄器を使い果たして敗北占領され、そこに鉄器古墳の主がやって来たのか。
その答えは、鉄鏃でわかる。
ある程度大きな鉄器はかき集めることが出来ても、
細かい鉄鏃を見つけ出すのは容易ではない。
つまり、鉄鏃すら皆無の遺跡では、鉄鏃軍隊による教練が行われていなかった。
よって、鉄器が皆無の遺跡は、北西にある銅鐸環濠集落と同盟して、
領主が作ったのは、北西側の古墳群。
そこに鉄製武器の邪馬台国軍が進駐してきて、南東側に古墳を新築した。
ということが鉄鏃からわかる。 説明が長杉。
内行花文鏡があるんだから平原女王が派遣した将軍でしょうが。 え?
平原女王墓なら魏志倭人伝に謂れが明記されてるだろ?
副葬品目録まで一致している丁寧さ。
しかも邪馬台国と卑弥呼は記紀に出てこないから、
卑弥呼の墓は記紀で触れられていない墓で正解。
一方の、謂れの「物語の中に」箸が出てくる古墳は鉄器古墳のさらに後だね。
馬具もあるし。 ×銅矛も銅鐸も倭人伝に出てこない
魏志倭人伝に出てくるのは、鉄矛ではなく「矛」
鉄矛も北部九州から出土するが、
儀仗兵が儀式で用いる銅矛が記載された可能性もある。 >>177訂正
@とB3は倭人伝の世を代々と読ませる為に無理に代々と訳した感がある
「魏因漢法 母后之號 皆如舊制 自夫人以下 世有搗ケ」
魏は漢と同じ法と言って、但し「夫人以下は魏の治世では搗ケしました」との意味ですね。
代々なんて意味はありませんね。
B今汝先人 世有冠冕
「現在、貴方たちの先人は冠をつける役職についています」ですから魏の治世のことですね。
代々なんて意味はありませんね。 >>187
@は、魏代の皇帝ごとに違ってるんだよ
Bは、先人なので漢代に死んじゃった祖先のお話 B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人 世有冠冕
この文章は、王昶という人が、自分の息子と兄の息子に教訓を述べる文章の中の一節。
王昶は若き曹丕に仕え、曹丕が魏の初代皇帝・文帝となって取り立てられた。
ということは、王昶と息子たちにとっての先人とは、
曹丕の前の漢に仕えていた先祖達のこととなる。
私も北部九州説なのだが、
世有王は、倭王は代々伊都にいる、と訳すのが適当と思われる。
そしてその方がむしろ、
>其国本亦以男子為王 住七八十年
の一節と潤滑に繋がると思われる。 >今汝先人 世有冠冕
>王昶という人が、自分の息子と兄の息子に教訓を述べる
汝=王昶の息子と王昶兄の息子
先人=息子たちにとっての先人だから、魏代に出世している王昶も含む先祖 >@は、魏代の皇帝ごとに違ってるんだよ
魏代の皇帝毎に自夫人以下の人数に増減があっただと
魏では皇帝が変わる毎に自夫人以下だけは必ず人数を変えないといけないし
一人の皇帝の間は増減がないって意味になる
代々じゃなくて魏の世には増減があったですね。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人 世有冠冕
今と現在の話だと冒頭に書かれているので
この先人は今もいる先人のことで漢の時代の先人のことではない
世有は代々の意味ではなく今の世、つまり魏の世のことである
つまり、先人とは今現在の魏の世でも存命中の先祖のことです。 >>192
根拠を揚げずに言い張ってるのは
>>188とかだね。
>>189
>の一節と潤滑に繋がると思われる。
何がどう繋がるの? 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國自武帝滅朝鮮
使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里
倭の30国にはそれぞれ世襲の王が有るが
邪馬台国を居所とする大倭王を共立している んだろ。
倭人伝は 世有 王皆 統属 女王国
『世に有っては、王は皆、すべからく女王国に属する』 だぞ。 >>194
おもしろい意見だけど
「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」とあるから建武中元二年以後は倭の王は倭奴国の倭國王しかいない。
だから「世有王 皆統属女王国」で意味は「魏の世に王がいました、(倭の国々は)皆、女王国に統属していました」ですね。 和名類聚抄 西海道
筑前 15郡
筑後 10郡 筑紫 計25郡
肥前 11郡
肥後 14郡 肥 計25郡
豊前 8郡
豊後 8郡 豊 計16郡
日向 5郡
大隅 8郡
薩摩 13郡 熊曾 計26郡
壱岐嶋 2郡
対馬嶋 2郡
合計 96郡
これは平安時代の集計だから
幾つか合併して数が減ったと考えればどうだろうか? >>196
壱岐も対馬も2郡に分割されてるね
倭人伝に書かれてる国邑は郡2〜3個分くらいのおおきさかな。 >>198
漢代のことは書いてないから
王が居たか居ないかは分からない。 >>200
倭奴国王はいただろ
卑弥呼共立の前の男王もいただろ >>197
今とあるのに、何で代々と過去に訳せるの?
今いる汝の先人の話だろ。 >>202
先人とあるのに何で生きたことにするの?
前例を出してくれ >>201
別の文献や倭人伝内の別の所には書いてありますね
「世有王 皆統属女王国」だけでは、漢代のことは書いてないから王が居たか居ないかは分からないですね。 >>204
先人が必ず死んでるなんて決まってないですよ。 >>205
漢代に王がいたかどうか分からないのはお前だけだろ
陳寿は漢書も読んで当然知ってる、それを前提に魏志が書かれてるんだよ >>207
「世有王 皆統属女王国」だけでは、漢代のことは書いてないから分からないが
別の文献や倭人伝内の別の所には書いてありますねと言ってるんだすけど。 >>208
著者は知ってるんだから、著書内の記事はそれが前提だろって言ってるんだけど
だから、「世有王」が魏代のことに限定している理由にはならない 漢〜魏の時代において、
邪馬台国が九州の北部にある30国の王が共立する大倭王の居所
という認識が有る。
九州のたかだか北部3分の1しか領土の無い国が倭王であるわけがない事は帯方郡使が渡来した時点で理解されてるだろ。
親魏倭王 だの 漢の倭奴国王 だの倭王認定印綬した皇帝のメンツは帯方郡使のせいで丸潰れなんだよ。
邪馬台国の南限は自郡から1万2千里、馬韓域7千里、対馬渡海が3千里
九州北部2千里までポッキリが30国の王が居る、中国の知り得た邪馬台国の領域だ。
倭人伝や後漢書読む限りで九州すら統一されていない時代なのに、
なんで邪馬台国畿内説が出て来るのか謎だろwww
中国人は遣隋使の帰還に同行して初めて瀬戸内海から東西五月行を見たんだよ。
まあ、史学者や考古学者が記紀の九州起源説に騙されてるだけなら
ただの馬鹿、ってことで、5ちゃんネラーも笑って許すwww 30国の王と言われてもなあ。
魏志倭人伝に出てくるのは
伊都にいる王=邪馬台国女王=倭国王と、狗奴国男王の2人だけ。
考古学的に漢〜魏の時代の王と言えるのは、
須久王
伊都王=魏志倭人伝
唐津王<伊都王の完全下位
くらい。
銅鐸平等社会の畿内はもちろん、吉野ヶ里にだって王はオランのダ。 後漢書ってのは三国志より150年くら後の書物だからな。
三国志に比べると信頼度が落ちる。 >後漢書
>倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國自武帝滅朝鮮
>使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
>楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里
興味深いのは、
@楽浪郡は、邪馬臺國から一万二千里、
かつ楽浪郡は、倭領の西北端の狗邪韓國から七千余里。
と並列記載されている点。
つまり、行程論において地名が連続するからといって、
邪馬臺國から一万二千里で狗邪韓國、そこからさらに七千余里で楽浪郡、のように
直列でない場合もありうる、という実例になる。
ましてや里程と日程の場合は単位が異なるのだから、並列でもよい。
A後漢書は、漢代のことを、5世紀南北朝時代に記載した歴史書。
魏代に帯方郡が設置され、魏が何度か朝鮮半島へ出兵しているので、
中国王朝にとっての朝鮮半島の地理についての理解は
5世紀にはかなり詳しくなっているはず。
その中ですら、東夷の縮尺はいわゆる短里で記載されており、
中国の歴史家にとっては、短里の存在が認められていたことになる。
B狗邪韓國は倭の西北端である。
任那や加羅が存在する時代の学者である范曄にとっての理解ではそのようである。 三国志はいろいろ政治バイアスが強そうなので、他の史書で補強するのは必須だと思うけどね >>210
「上以報國家 下不負先人 書功竹帛 遺名千載」
この場合も死んだ先人に限定してないでしょ。 「世」というのはある程度の時間幅を持つが、昔から代々の意味ではないな
昔から、とする説明が何もないからね
倭人伝の内容からみると、卑弥呼〜トヨの間の「世」であって、あくまで2〜3代とするのが常識的解釈でしょうね
この「王」が"伊都国"の王か、"倭国"の王か、または"各国"の王かは議論が別れる所 >後漢書
>使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
邪馬台国が統一国家ではなく30国の王が有ってそれを代表するのが邪馬台国である。
対馬フロントとして朝貢した王に印綬したが、実際見ると倭王としての正統性は疑わしい。
女王卑弥呼はチンカスw それを言えないのが、中国皇帝の正史である。
なんで、マジの倭王の畿内に邪馬台国が有るよ? 倭人伝が北部九州で解読されたから後漢書を持ち出して必死だなw 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 >つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
なるほど。
だから畿内説が「漢委奴国王の金印」が偽物だとか
志賀島で出土したからと言って博多湾に倭奴国王がいたわけじゃないとか
必死なんだな。 その中で都にふさわしいのは、倭奴国(伊都)しかないからね。
つまり伊都国が倭国女王卑弥呼の都。 >>223
「東南陸行五百里 到伊都國 女王之所都」
間抜け! 女王之所都は投馬國に対して邪馬壹國に女王の都があるとの意味だ >>229
「女王の都が伊都国」って、何処に書いてあるの? 邪馬壹國女王=壹與の都が女王國
伊都國はその100里手前 卑彌弥の所都ももうひとつの女王國
伊都國はその100里手前 >>230
伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 >>235
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。 >>236
丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
「常所駐」は何処にあるの? >>238
東南陸行五百里 到伊都國 ・・・ 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
「常所駐」が伊都国なら、王、皆も伊都国になるんじゃないの?
全部伊都国の説明だろ? 王は伊都国にいる
皆は女王國(伊都国を都とする国)に統屬していた。
全部伊都国の説明。 王は卑弥呼のことだからね。
それを前提とした文章だよ。 >>240
>皆は女王國(伊都国を都とする国)に統屬していた。
全部伊都国の説明。
「皆」も伊都国の説明。だね? 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>245
>すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。
示していない >>244
皆は女王國(伊都国を都とする国)に統屬されていたものだから倭の国々
「今使譯所通三十國」のこと。 倭国が邪馬台国と狗奴国に分裂して戦っている、という前提条件を無視するから
理解しがたくなる。
邪馬台国女王卑弥呼と、
狗奴国男王卑弥弓呼が、
倭国王の座をかけて争っていて、
魏と外交を結んで親魏倭王金印を入手した卑弥呼が倭王になるわけだ。
>到伊都國 ・・・ 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
(旧倭国の首都であり、現邪馬台国の首都である)伊都国に到着する。
(旧倭国の代々の王達も現邪馬台国の女王卑弥呼も、首都である)伊都にいた。
(現在の伊都国の皆は、「狗奴国ではなく」)女王卑弥呼の邪馬台国に服属している。
帯方郡使が邪馬台国を訪れる時にはいつでも(首都である伊都に)駐する。 >>247
「皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
今使譯所通三十國は、女王国の統ベルに属していた。郡使往來常に駐する所である。
「常所駐」は何処? 後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
倭奴国より南は後漢の頃は倭国ではなかった。 >>249
女王国以北は「女王国、伊都国、奴国、不禰国、投馬国、一大国、對馬」
女王国と伊都国は別の国。 >>251
倭国の中に狗邪韓國が含まれているのだから、
後漢の頃は、半島側に狗邪韓國など、九州側が倭奴国(奴国じゃなくて、でかい集合体)
魏の頃は、半島側に狗邪韓國など投馬国、九州側が邪馬台国と狗奴国 >旧倭国の代々の王達も現邪馬台国の女王卑弥呼も、首都である)伊都にいた。
参勤交代したんか >>255
漢代の王は常に1人だけだよ。
魏代は女王卑弥呼と男王卑弥弓呼の2人の王がいるから、
最重要な首都である伊都の項に、皆統屬女王國とわざわざ注を入れた。 >>256
>最重要な首都である伊都
何処に首都の記述があるの
そこんとこ論証したら 漢代に倭奴国王が任命されてそれまで多数いた倭の自称王は消え
倭に王は一人だけとなった
魏代でも定式な倭の王は卑弥呼一人だけで卑弥弓呼は自称王。 >>260
過去スレ嫁
あ、お前のくだらんバカスレじゃなくて、
九州王様のありがたい過去スレのことだぞw >>256
>1「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
「皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
倭の国々は皆、女王国に統屬していた
郡使の往来時には、常に駐する所である。
「常所駐」は何処? >>253
>女王国と伊都国は別の国。
ここが間違いだから矛盾だらけになる。 >>257
伊「都」と書いてある。
わざわざ皆が統属するとも書いてある。
都であることが誰が読んでもわかるように念を押している。 カナとして使うなら、都はツなんだが、倭奴国が金印をもらった時の都は考古学的には伊都国なので、倭奴国は伊都国のことだとわかる。
では、なぜ表記を変えたかといえば、倭人が漢字を理解するようになったから。
都にわざわざ都の字を当てたんだよ。 >>268
自称王がいなくなった理由になってないんだが 伊都國 〜 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國
伊都は千余戸
伊都には王がいる
伊都の皆は邪馬台国に所属している
なにがわからんの? >>271
今は伊都にしか王がいないんだから、他は倭国大乱などでいなくなったんだろ。 >>272
その頃は京と呼べる存在は、、奴国か。
でも王都は伊都ですよとくどくど描写しているんでしょ。
奴国は大きいだけで、小さいけど伊都国が女王の都だと。 >>275
自称王がいなくなったと強弁する根拠を聞いてるんだけど >>278
実際、狗奴国王以外はいなくなっているだろ。 丗有王が魏代じゃないと詰むのは他説なんだがな。
丗有王が漢代の場合、
伊都の丗有王とは三雲南小路や井原鑓溝など、1世紀2世紀の王となる。
その丗有王が「女王国」に従属していたのなら、
当然「女王国」には1世紀2世紀の王墓があって、三雲南小路や井原鑓溝を従属させていなければならない。
他説は詰む。
丗有王が魏代に限定される場合のみ、
魏代のみで勝負できるから、
と、真面目に期待させておいて・・・
>其國本亦以男子為王 住七八十年
があるから伊都しかないんだよんwww 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)で決まると
畿内説だけでなく他の九州説(築後説、南九州説)や四国説全部詰む 九州説の他説は最近あまり論戦しなくなったし、首都は伊都ってのが共通認識になってきたんだろうね。
同じ九州だから伊都の王墓群を間近で評価できるし、平原女王墓が決定的すぎる。
あとはどこまでが邪馬台国でどこまでが狗奴国だったかの線引き合戦かな。 >>286
そんなのはどうでもいいわ
倭国の首都がいつまで北部九州にあったのかが大問題だろ 倭国の首都が北部九州にあったのは、684年まで。
倭國が分裂し、684年、倭國筑紫首都と倭國難波副都が奈良明日香に移転した(逃げ込んだ)。 筑紫の日向の件があるし神武東征だし邪馬台国北部九州説はむしろ記紀と矛盾しない。
考古学出土物をうまく記紀に回収できる。
首都云々については白村江以降というのは一説としてはごもっともに見えるけれども
好太王碑文の頃をピークに半島経営は衰退して任那滅亡するから、
領土の中の重心はもっと早くに東へ移す必要があったはず。
好太王碑文の侵攻敗北が実は最後の輝きだったかもしれんし。 >>289
根拠はほぼ全て記紀を読め、で済んでしまう。
その内容の解釈に差がある程度。 継体の件などがあり、重心がどんどん東に移動していることは間違いないが、白村江の時は斉明天皇が九州の朝倉橘広庭宮にいたなど、筑紫が首都と言っても良い状況を見だった。 >>292
記紀にある根拠とは?
都合良く解釈してるだけでしょ 壬申の乱の実態に諸説があるし、最終的に畿内政権が権力を掌握したことが確認できるのは、701年の大宝律令や710年の平城京の建設から。
少なくとも近江政権ができるまで、白村江で負けるまでは筑紫が倭国の都として太宰府を中心に繁栄していただろう。
伊都から太宰府に移動したのはいつか、その間に他の都はあったかなど、検討事項も多い。
高良玉垂宮の存在など、徐々に倭国の都はしばらく南下していたようにも見える。
一時的に倭国の中で筑紫に加えて肥国の力が強かった時期があったのだろう。 倭人伝に見るのは
九州が250年まで大和朝廷によって平定されていないという事実であって
記紀が完全にデタラメであることが明らかなのに記紀に根拠を求めるってアホですか? 伊都国、つまり福岡県糸島市から志賀島までかなり近いね
糸島市の細石神社には、「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたが江戸時代に外部に流出したとの伝承(口伝)があるらしいね 白村江は記紀が編纂されるわずか数十年前のことなので、脚色や無記載の部分があるだろうとはいえ、さすがにウソ八百は書けなかっただろう。
数百年前の邪馬台国とはわけが違う。 「漢委奴國王」金印の王都は、倭奴國で、
倭奴國は、107年に帥升により滅ぼされる。
107年帥升が後漢安帝に献上した「生口百六十人」は、
帥升が倭の倭奴國を滅ぼし、倭が倭國となったことを安帝に示す証拠品。
女王國時代の「伊都國」は、帥升倭國の都であった「倭都國」のことである。
何故、伊都國に「郡使往來常所駐」があったのか?
女王國成立前の帥升王統倭國の「倭都」であったからである。 倭奴國王が倭國王のことだろ
帥升は「漢委奴國王」金印を持つ倭奴國の後裔だろ
倭奴國を滅ぼして奪ったたか、子孫かは想像でしかない。 白村江まで九州倭国と本州ヤマトと完全に別の国だったんじゃね >>301
倭奴國王と倭國王は別もの
帥升は「漢委奴國王」金印を持つ倭奴國を滅ぼした
107年に帥升が安帝に献上した「生口」とは何か?
「生口」となるのは、戦争で敵を滅ぼした時の敵の捕虜。
この敵とは、160人と人数が多いので、帥升にとって大きな敵であった倭奴國である。
帥升は倭の覇者であることを示す為に生口を献上したのである。
景初二年六月(238年)の女王國を倭國として請願した時の「生口」は10人。
この生口10人は、狗奴國との戦争で得た捕虜と考えられる。 >>302
交流くらいはあったろうけどね。
白村江には参戦しているし。 >>303
>倭奴國王と倭國王は別もの
そんなわけあるか! >>306
そうそう。
実は援軍を十分に送らなかった中大兄は新羅と通じていた売国奴なのかもしれない。
戦後は唐の傀儡になるし。 >>307
普通に倭奴国の倭王だよ。
その後の卑弥呼も伊都国(倭奴国)の倭王だし。 伊都国が倭奴国なら中国の文献にそう書かれるんじゃないの?
倭奴国も伊都国もそれぞれ金印で有名なんだから >>307
>>308
帥升は、倭面土國出身の倭王。倭面土國は倭都。
倭面土國=筑志米多國
=倭米多國【米多(現代地名)・米田(肥前國風土記)・目達(現代地名)】
=吉野ヶ里遺跡(米多・米田・目達の地名が残っている場所)
倭國王帥升(後漢書)
倭面上國王帥升(翰苑所引後漢書)
倭面土地王帥升(唐類函辺塞部倭國条所引通典)
倭面土國王帥升(通典:北宋本、明抄本、明刻本)
倭面土地王帥升(通典:杜佑)
倭面上國(日本書紀纂所引後漢書)
倭面国(釈日本紀開題所引後漢書)
委面(漢書地理志倭人条注:如淳)
倭面土国王師升(通典:宮内省図書寮尊蔵北宋版)
筑志米多國(先代旧事本紀)
米多(地名:三養基郡上峰町)
米田郷(肥前國風土記 三根郡)
目達原(地名:三養基郡吉野ヶ里町)
米多浮流テンツク(天衝)舞 上峰町前牟田 老松神社 伊都國の発足は210年代の倭國乱のあと
伊都國は後着の天孫族の占領区であって沿岸域に展開する
伊都國王は爾支の率善中郎將の難升米
銀印ゲットできるレベルの東夷の首長といえば
不耐濊王なんかもそのレベル
難升米の母は先代の女王だから「世有王 皆統屬女王」
伊都國王は女王の血統に属しているのだ 後漢書
その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。
魏志倭人伝で伊都国と呼ばれているところを邪馬台国と書いている。 >>313
伊都国の王墓群はもっと前からあります。
あと、卑弥呼の前は倭国大乱の前に男王が続いていました。
先代の女王はいません。 三雲地区を伊都國に比定したところが
銅像になってさらされている発掘家の大いなる負の遺産
三雲の倭國風の元表記はたぶん[澐]ではないかな >>314
>魏志倭人伝で伊都国と呼ばれているところを邪馬台国と書いている。
どこに書いてある? 指摘して 南至邪馬壹國女王之所都
南至[邪馬壹國女王]之[所都」←ここが〆て12000里の壹與の女王國
〆て12000里のもうひとつの卑彌呼の女王國は奴國の中心域である三雲地区 大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里
倭國之極南界也
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 邪馬台国と伊都国と倭奴国はほとんど区別されていない。 倭奴国は書いてある。
伊都国は書いてないけど、邪馬台国と書いてあるところが魏志倭人伝の伊都国の説明の場所になっている。 倭國の実態が「倭都國」から「伊都國」へ変わったのは、190年から220年頃。
倭國乱終結の卑弥呼共立のあと
「伊都國」は魏の呼称、「倭都國」は後漢の呼称。
倭米多國(倭面土國)の湊は老松神社(若宮神社)の南側で有明海の最北端。
老松神社の祈りは、出雲大社と同じ古式形態(老松神社は2世紀には既に現在地にあった) [伊都國]といふは[伊]の[所都]
[伊]は[壹]と等価で音のは[yi]
[自女王國以北]が[伊]=[壹]のバウンダリーで
後着系天孫族の占領区 女王國は筑紫平野
女王國=邪馬壹國+投馬國+不彌國+奴國 聖化 日神・・津は天神という説明がない?
天神というのも、
もともとは天津神のことだと書いてあったり
もしかして盗まれた? 最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、
井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある(年代は暫定的なもの)。
これらの遺跡からは、全国に先駆けてすでに三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。 天津神〜三貴子、神?同じだと思うんだけど
天津〜天孫? (年代は暫定的なもの)
最近売り出し中の汚染された年代観がひどすぎ [あま]と[やま]がセットで機能しているのが倭國王権の基本構造
7世紀初頭の兄弟二王統治システムに繋がっている >>334
帥升の系譜とは別の誰かだろうな
倭奴国の系譜に帥升がいたのならあえて貢ぎ物を再度中国にあげる必要がない
金印が欲しくて貢ぎ物をあげるわけだからな 朝貢貿易だから定期的にやり取りしていただけ。
全て一連の伊都国王家だよ。
倭奴国の朝貢以降、都が動いた形跡はない。 三雲から平原までは、三種の神器と方形周溝墓という様式が維持されているし、九州全体でもこれらに匹敵する王墓はない。
平原は単体では鏡の数が最多だが、王と王妃のペアの墓の合計では、三雲の方が鏡の数が多かったはず。
一貫して伊都国が王都であり、それは倭奴国や帥升の時代を含むんだよ。 >朝貢貿易だから定期的にやり取りしていただけ。
>全て一連の伊都国王家だよ。
定期的な朝貢貿易なら生口160人も差出すことはない。
帥升はそれまでの倭國王統とは全く異なるので生口160人の大型貢獻をした。 >>337
吉武高木も須玖岡本も三種の神器と方形だよ。
そして須玖岡本と三雲は時代が極めて近接している。
須玖岡本からは弥生時代唯一の中国産絹が出土しているし、金印は志賀島出土。
文献では漢委奴国王は委奴国もしくは通説では奴国。
帥升は倭国王もしくは倭面土国王。(面土→伊都に見える) 金印は糸島の細石神社の伝世品との話がある。
そうすると話が変わってくる。
奴国から伊都国への遷都があったと考えているけれど、年代的には倭奴国は伊都国の方なのではないか。
倭奴国以降、卑弥呼まで一貫して倭国の首都は伊都国つまり倭奴国で説明がつく。 >>342
>倭奴国以降、卑弥呼まで一貫して倭国の首都は伊都国
何故首都なの? >340
>倭国の首都は伊都国
根拠、判断材料は? 王宮があり、王墓があり、外交官が滞在し、国家的祭祀が行われていた。
都だなあ。 【卑弥呼の王宮】
候補はいくつかあるが、いずれも魏の郡使が駐在する伊都国から遠くないことが条件となる。
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市の高祖神社が掲げる宮号。
糸島平野と福岡平野の間にある高祖山の南の峰をクシフル山と呼び、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮が記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城は高祖山・クシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられ、平原遺跡からはニニギ王家の家宝である八咫の鏡が出土している。
平原遺跡は卑弥呼がいた3世紀の女王墓であり、卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
伊都国までの移動は日帰りではやや厳しいか。
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡であり、平原遺跡に見られる鳥居や御柱などと合わせて、3世紀においてすでに神道が成立していたことをうかがわせる。
魏志において卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。 >>345
3世紀の時点では伊都国に王宮があり卑弥呼が居たのは確実だな
王墓の候補地としては平原遺跡もあるしその他の出土品も伊都国で当時の日本での最先端の品が見つかっている。 他にも北部九州には、筥崎宮、老松宮、岡田宮、豊浦宮、玉垂宮、橘広庭宮、宇佐神宮、天満宮などがある。
その中でも、後世に最大で200ヘクタールを擁する伊都高祖宮は別格で、おそらく筑紫城とか高千穂宮と呼ばれたものだろうね。 伊都国は伊都国、邪馬台国は邪馬台国
むちゃな説は九州説派の恥さらし >358
ただただ唱えるだけ
根拠も無ければ、判断材料も皆無
崇高な九州説の恥晒し >>359
倭人伝を矛盾無く読むと必然的に伊都国が卑弥呼の都となる
倭人伝以上の根拠はない。 >>351
すべて?
どこがどう劣るのでしょうか?
当時、平原以上の副葬品の墓はどこかあるのでしょうか? 平原は2世紀末
卑弥呼が死んだのは3世紀中盤
ミミナリ、耳垂の名の通り、古代において耳飾りは男の権力者が主に身につけるものだった
平原は倭国大乱前後の伊都国王の墓 因果で言えば伊都国の大王が死に、国内で覇権争いが起きて倭国大乱となったという流れも想定できよう 畿内説は、違う違うと叫び続ければ反論したことになると思っているのかな?
伊都国つまり倭奴国が倭国の都というシンプルで合理的な理解に揺らぎはないだろう。
後漢書から魏志倭人伝まで、一貫して矛盾のない解釈が可能だよ。 九州説と言わずに「伊都国首都説」と呼ぼう
九州説の鼻つまみ >>364
倭国大乱より前ということはない。八咫の鏡ば後漢鏡からさらに進化しているからね。
そして、王ではなく女王の墓。
倭国大乱後の女王の墓なのだから、卑弥呼が最有力候補。 >>367
ザラコクと一緒にされるよりはいいかもね。 >>365
>因果で言えば伊都国の大王が死に、国内で覇権争いが起きて倭国大乱となったという流れも想定できよう
そうだな。
倭国大乱の前の男王の墓に相当する王墓もあるし。
倭奴国と呼ばれていた頃の王家が筑紫日向三代だろう。
記紀と魏志倭人伝が矛盾なくまとまる。 >366
>伊都国つまり倭奴国
なんじゃ、それ!
勝手に決めつけるなよ >>371
武器が刀一振りだけで、多数の装飾品が副葬されていた。
特に耳飾りは魏で流行った女性専用のもの。
よって、被葬者は女性と考えられている。
その上、威信材としても使われる内行花文鏡があり、それを含む三種の神器が揃っている。
特に世界最大となる八咫の鏡が含まれており、王位にあったことは間違いない。
つまり、平原遺跡は倭国大乱後の女王墓なのである。
これが王墓でないなら、王墓とは何かということになってしまう。
全国に数百もあるような前方後円墳は、有力者の墓ではあるだろうが、倭国王の墓ではないだろう。 >>371
勿論知っていると思うがジトウの存在は大きい
女性の墓の可能性がかなり高い墓で、副葬品も間違いなく王墓クラス
……女王だろうな >>377
>……女王だろうな
だったら、倭国(阿波)は、女王さんだらけ? @阿波
耳環:山田古墳群A・忌部山古墳群・柿谷遺跡・大里1号墳・ひびき岩16号墳・ひびき岩17号墳・八坂神社古墳 こういう事実を示せるのは、何故か倭国(阿波)だけ。 @阿波 ジトウがiPhoneで出なかったんだよ。
平原遺跡が卑弥呼の墓でないなら、倭国大乱の後のこの倭国女王は誰なんだっていう話だよ。 そして、倭国(阿波)は、女王さんだらけっていう話だよ。 @阿波 だから、倭国(阿波)は、女王さんだらけっていう話だよ。 @阿波 >>376
女性墓とは限らない
男の権力者が耳飾りをつけるのは倭では一般的 倭人伝で卑弥呼に贈られた品で満たされた女王墓
平原遺跡が決定的な根拠。
平原の超大型内行花文鏡を頂点として、各地に内行花文鏡片を下賜された古墳が進出していく。
対抗したければ、対抗できる考古学的根拠を示せばいいだけだが、
ここまで提示なし。 >>385
それを言いたいなら、じとうが出た王墓の例、という根拠を示す必要がある。 >>387
なぜ?
ジトウと女性墓の関係を言いたいならお前が示さないと >>387
耳環:山田古墳群A・忌部山古墳群・柿谷遺跡・大里1号墳・ひびき岩16号墳・ひびき岩17号墳・八坂神社古墳
こういう事実を示せるのは、何故か倭国(阿波)だけ。 @阿波 女性用アクセサリーであるじとうが出た男王の墓を示せないのなら、
単なる畿内説の駄々こねだな。 耳飾りは男の権力者が主に身につけるものだったってのは常識だと思うが だよな
じとうってのは女性用耳飾りってのは常識
その常識を覆したいなら、男王墓からじとうが出たという根拠を示さないと >>393
だから、倭国(阿波)は、女王さんだらけっていう話だよ。 @阿波 畿内説と議論してもほんと勉強にならんなあ
根拠もないし何もない ジトウと女性墓の関係について説明できる九州説派はいないのか? ジトウは女性の耳飾り。
男性の耳飾りとはデザインが違う。 >>397
説明してあるだろ?
平原遺跡の被葬者が女性用のジトウをつけていたから、被葬者は女性なんだよ。
あと何が知りたいんだ? 平原遺跡の被葬者が女性だという常識に畿内説が噛み付いているスレはここですか。 東夷伝世界に迷惑かけちゃうから
畿内説は迷惑料どうすんお? 健久費カツカツだしハニトラは受け取っちゃったし投馬国とついでに狗邪韓国も隣国へ贈呈しちゃいまするでござるの巻 健久費カツカツだしハニトラは受け取っちゃったし投馬国とついでに狗邪韓国も隣国へ贈呈しちゃいまするでござるの巻 やべえw
畿内説=阿波説(一人自演
が黙ってしまったw 棺内から出土した耳璫は、中国や朝鮮半島で流行した女性用耳飾りであることなどから、被葬者が女性であることがわかる。
耳璫は晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から出土したものと同型である。
墓の築造年代は、副葬品の中で一番新しいものによって決まる。管玉と耳璫から判断すると、この墓は、3世紀のものであろう。
1号墓から土器は出土しなかったが、周溝の一部を共有して、ほぼ同時期に作られた土壙墓(2号墓)から西新町式土器が出土している。この土器は、弥生時代末期から古墳時代にかけて作られたもので、この点からも、2世紀に作られたという従来の説を否定することができる。
ttps://www.nagaitoshiya.com/ja/2010/queen-himiko-tomb-hirabaru/
より引用、改変 247年に卑弥呼がこれを付けていたのなら、当時の最新流行であったことになる。
また、平原遺跡が2世紀の墓であるとする仮説は棄却される。 >>411
>棺内から出土した耳璫は、中国や朝鮮半島で流行した女性用耳飾りであることなどから
根拠無し >>413
お前が無知なだけ。
不満があるなら、中国の考古学界に意見でもしてくれば? >>414
中国の考古学界?
ttps://www.nagaitoshiya.com/ja/2010/queen-himiko-tomb-hirabaru/
の受け売りで眉唾もん >>414
中国で女性向けだからって倭でもそうとは限らない >>416
そうだね
だけど、中国で主に女性が使用していたというなら、可能性的にはかなり高い確率で女性でしょう
後、玉類もかなりの量が副葬されてるしね >>418
>だけど、中国で主に女性が使用していたというなら、
だから、ttps://www.nagaitoshiya.com/ja/2010/queen-himiko-tomb-hirabaru/ が眉唾もん >>419
あまり深く考えるな
そのころ畿内では、阿波の朱を使い、鉄器はゼロ
北部九州の卑弥呼平原遺跡とは500年くらいの周回遅れだったんだぜw 伊都には中国人が滞在していたわけだから、男王が女性向けの装飾品をしていたら奇異に思われたでしょう。
ジトウを持ち込んだ人物は、ちゃんと使い方もわかっていないと装着できなかったはずで、女性ものの装飾品であることを伝えたことでしょう。
平原遺跡には大量の中国製の丹が使われており、被葬者は中国文化に造詣の深い人物であったはずです。
卑弥呼は公孫淵が滅んですぐに魏に朝貢しており、国際情勢にも詳しい人物でした。
平原遺跡の中国文化への傾倒は、卑弥呼の人物像に合致するのです。 ジトウについての部分の出典は、高山純. 「古代東アジアにおける耳璫の流伝」.『考古学研究』第14巻 第2号. 1967年10月.とのこと。 硯もそうだし楽浪土器も伊都から出土しているからなあ。
耳璫が出土して、装飾品が多くて武器が刀一本ならそれは女王の墓だろう。 ついでにその刀とやらは、魏から卑弥呼がもらった五尺刀のうちの一振りと思われる。
魏の時代の五尺の長さなんだそうだ。 >>424
その女王の墓に伊都産の朱があれば良かったのにね。 残念。 @阿波 >>421
なるほど
ではなぜ卑弥呼は伊都国の地に葬られたんだ?
邪馬台国ではなく 邪馬台国の首都が伊都だからだろ
テンプレに書いてある 耳璫は朝倉の岩立遺跡からも出土しているね。
三雲南小路と同時期と言われているので、
三雲南小路の王の母や姉妹だったのか
三雲南小路の妃の母や姉妹だったのか
なんにせよなーんもない地域ではなーんも話ができないけど
耳璫が出土しているから根拠のある推論が成り立つわけだね 邪馬台国は伊都国や奴国を含む九州北部の総称、倭国と同義です。
邪馬台も倭も、訓読みはヤマトです。
邪馬台国の人口七万戸は、奴国の二万戸を含みます。
宮崎県妻の投馬国の五万戸は九州北部ではないので含みません。
倭国すなわち邪馬台国の首都が伊都国です。
邪馬台国伊都説というより、伊都首都説の方が適切なのはそのためです。 >428
>邪馬台国の首都が伊都だからだろ
なんで伊都国が首都になるのかい >>420
なんで九州邪馬台国では九州産の水銀朱使わないの? @阿波 外国大使が滞在し、王が宮を構え、歴代王墓があるのだから、首都だろう。 >430
>倭国すなわち邪馬台国の首都が伊都国です。
なんで伊都国が首都なの?
理由は? >>433
中国文化が至高のものであり、珍重されていた。
だから中国からの宝飾品や刀も副葬された。
例外中の例外が、国産の八咫の鏡。 >>430
それは倭人伝の筆者が勘違いしてたと言いたいの?
倭人伝では明らかに倭国の中の国として伊都国や邪馬台国や他の国があると
つまり並列関係で書いてるけど >>433
中国から大量の朱が入手できたから。
まだまだ埋蔵量が豊富な日本の炭鉱が閉鎖されたのも
オーストラリアから大量の石炭が入ってくるから。
それと同じ。 >>420
倭人伝にあるように、なんで九州邪馬台国では九州産の水銀朱使ってないの? @阿波 >434
>王が宮を構え、歴代王墓
宮は何処にあるの? 歴代の王墓があるのが伊都しかないから、
日本全国で邪馬台国首都の候補は伊都しかない。
以上。 倭人は倭国のことを邪馬台国と呼んでいたでしょう。
だから二重表記になったのかも知れません。
女王国も意味が重複しています。
女王が都するところ、
という表現もありました。
里程と日程を二重表記したり、陳寿はかなりねちっこい性格だったようです。 >>443
なるほど納得です。
中国表記:倭国(やまと)
日本表記:邪馬台国(やまと)
里程
日程
総距離
陳寿は持てる情報を多面的に盛り込んでくれたわけですね。 >>440
伊都にいたなら高祖宮でしょう。
久慈古山の麓、日向峠の側にあるのだから、これこそ記紀にある倭国の王都、高千穂宮です。 >>441
>倭人伝にそのような記載はない。
阿波では、倭人伝の記載通りに阿波産の水銀朱、ふんだんに使っているんだけど。
九州では水銀朱、採れなかったんだね。 @阿波 >442
>歴代の王墓があるのが伊都しかないから
須玖岡本遺跡も伊都国か? 耳璫は丹後の桃谷古墳からも出土している。
が、
これははるか後世の古墳時代のものであり、
先祖の使っていた耳璫が伝世して、それを副葬されただけであろうと言われているね。
平原卑弥呼と丹後の繋がりを示すものではあるけど。 結局、日本の歴史書も中国の歴史書も、筑紫の日向の伊都を倭国の都として記述していて、その内容は矛盾しないのです。
記紀では日向三代の男王がいたことになっていて、魏志倭人伝では男王が70〜80年続いていたとあります。
その王家にまつわる伝承の宝物が、平原遺跡から出土した八咫の鏡です。
ここが倭国の都、高千穂宮ですよと言っているようなものです。
しかもすぐ側に久慈古山、日向峠が揃っています。 帯方郡より1200里は奴国だから女王国は奴国で卑弥呼はそこに居たんだろ
それで墓が伊都国にあっても別に不思議はないよ >魏志倭人伝では男王が70〜80年続いていたとあります。
これを満たすのは伊都しかない。
対案があるなら是非示してほしいね。 >>447
須玖岡本は三雲南小路と同時代で、格下になります。
>>448
>>442
>漢委奴国王も伊都国なのか?
時代的には伊都国の時代なので、倭奴国は伊都国と同義です。
好字に置き換えたのでしょう。
漢委奴国王は伊都国王のことです。 卑弥呼の宮殿が伊都国にないといけない理由にならない >>451
その可能性もゼロではないけれど、伊都から簡単に出かけられるところでなければいけません。
魏の使いが行ったところといえば、あとは奴国と不弥国で、奴国は一番大きな国だから見に行ったということで理解できますが、不弥国まで足を伸ばした理由がよくわかりません。
位置的には香椎宮のあたりだと思いますので、そちらが卑弥呼の王宮という可能性もなくはないです。
でも、それにしては描写が少ないですね。
やはり伊都国こそ都にふさわしいのではないでしょうか。 楽浪土器のほとんどが伊都までで、奴国に入っていない。
倭人伝に奴国の描写が無い。
これ以上なにかあるの??? >>450
平原の鏡がヤタの鏡ならなぜその一枚が皇室の神器になり四枚は平原に埋められたのか
平原の王の分家が大和朝廷ということでは?
平原の王の本家の系統が残ってるのだとしたら四枚を埋めて一枚を残す理由がわからない
ヤタの鏡なんてのは平原王家にとっては「埋めていいもの」「残すほどではないもの」だったから四枚もを埋めたわけだ 平原王家ったって、所詮は共立された女王に過ぎないからね。 九州北部には高祖宮の他にも、住吉宮、筥崎宮、老松宮、豊浦宮、岡田宮、宇佐宮、天満宮、香春宮など、いくらでも宮があるわけですが、それらに特定する根拠がありません。
平原遺跡の目の前で、魏の使いの滞在地にもっとも近いので、可能性としては一番高いのが高祖宮だと思います。 >452
>対案があるなら是非示してほしいね。
それは三雲遺跡などを伊都国と仮定しての話だろうよ
伊都国の範囲をどのくらいと考えているのかい?
因みに伊都国は「有千餘戸」だぞ。 >453
>時代的には伊都国の時代なので、倭奴国は伊都国と同義です。
好字に置き換えたのでしょう。
漢委奴国王は伊都国王のことです。
根拠と判断材料は? 漢鏡なんてのは九州ではさして珍しいものでもなかったから平気で埋めたが
平原の王の葬儀に参加した畿内王権の女王にとっては見たこともない宝だったので
「埋めるなんてもったいない、大切にするので先代の王との思い出に一枚を下賜してくれ」
とでも言ったのではないか? 卑弥呼が一生同じ宮殿にいる理由もないから
魏使が来たときは奴国に居たとも考えられる >>463
で、そこで畿内王権の女王が「鏡すげえ」「鏡かっこいい」となって
魏に「うーん鏡百枚くれ!奴隷何人でも献上するから!」となったわけだな >>457
>平原の王の分家が大和朝廷ということでは?
神武は畿内大和に下った時に八咫の鏡を持っていませんでした。
饒速日との会談では天の羽羽矢を見の証に用いていました。
また、4世紀の筑紫の女王である神夏磯姫は、まだ八咫の鏡を持っていました(卑弥呼の死後、70〜80年後くらいの頃)。 >>460
アメリカ合衆国 3億1700万人
首都(ワシントンDC)60万人
最大都市(ニューヨーク)817万人
オーストラリア 242万人
首都(キャンベラ)37万人
最大都市(シドニー)462万人 >>464
魏の使いが来た時だけ高祖宮でもいいかも知れません。
確かに、複数の宮を所有していたかもしれません。 >>465
これが
畿内説=阿波説(一人自演
の全力投球www 平原の王の葬儀には倭国の各地の首長が集まったはずだよな
もちろん出雲も、吉備も、三輪も、葛城も、唐古鍵も、そして半島南部の首長も
それは盛大なものになっただろう >453
>須玖岡本は三雲南小路と同時代で、格下になります。
銅剣 2 銅矛 4 銅戈 1
銅鏡(前漢鏡) 32面以上(方格四星草葉文鏡 1、重圏四星葉文鏡 2、蟠螭(ばんち)鏡 1、星雲文鏡 5面以上、重圏文銘帯鏡 5面以上、内行花文銘帯鏡 13面以上、不明 5面)
ガラス璧(瑠璃壁) 2個片以上ガラス勾玉ガラス管玉
どこが格下なの?
瑠璃壁って知ってるのか? 山王宮 山王院?
正式なものと書いてあったりするけど、何なんだろう >>462
倭奴国の金印をもらったのは、三雲南小路遺跡や須玖岡本遺跡の時代ですが、三雲南小路の方が格上で王墓と考えられています。
なので、金印をもらったのは伊都国王、三雲南小路遺跡とその祭殿である細石神社の主です。
細石神社は金印を江戸時代まで保管していたとの口伝がある神社です。 このような説明
>信夫山の上の古い家々は、昔は院号・房(坊)を名乗っていたが、
>後に新たに京都から官職名を授かり除地(無税)の恩典を受けた。 >475
>三雲南小路の方が格上で王墓と考えられています。
誰が考えているの?
どちらも瑠璃壁出土だぜ。 >>473
なるほど。
確かに璧は王権の象徴です。
しかし三雲南小路遺跡にも璧は出ています。 では、須玖岡本も三雲南小路も倭国王の墓ということにします。
何れにしても、倭国側が奴国から倭奴国、伊都国へうまくすり替えをしていったのだと思います。 >>441
>倭人伝にそのような記載はない。
あれ、風呂に入っている間に返事あると思ったんだけどwww
阿波では、倭人伝の記載通りに阿波産の水銀朱、ふんだんに使っているんだけど。
九州では水銀朱、採れなかったんだね。 @阿波 >>480
中国の朱が入手できなかったので、地元のもので間に合わせたのですよ。 もうどうやっても筑紫が倭国の都であることは間違いないと。
そして3世紀には伊都国に女王墓である平原遺跡があると。 >479
>何れにしても、倭国側が奴国から倭奴国、伊都国へうまくすり替えをしていったのだと思います。
また感想文かい。
もう少しシッカリしろよ。 >>481
>中国の朱が入手できなかったので、地元のもので間に合わせたのですよ。
あれ、阿波の中国産朱、無視?無知?どっち? @阿波 三雲南小路遺跡のWikiより
拝殿の「細石神社」の祭神は「石長姫と木之花咲耶姫」の女神二柱である。この遺跡は男女の、夫婦の墓と考えられる事から導いて、この「王墓」の主は「彦火瓊々杵尊と木花開耶姫」となる。 >486
一応応援のつもりだから
誤解のないように 金印をもらったのは委奴国王だろ。
卑弥呼は倭国王になって、その前王達も倭国王だろ。
だったら、
須玖岡本=委奴国王
三雲南小路〜平原=倭国王
だろうな。 記紀によると、ニニギは高千穂の西に葬られ、以後は日向三代が続くので、須玖岡本が奴国最後の王墓、三雲南小路が倭奴国もとい伊都国の最初の王墓。
高祖宮の祭神はニニギの息子の彦火火出見ですが、ニニギの名前にも彦火の文字が含まれ(彦火邇邇芸尊)るため、称号だったのかもしれません。
この日向三代の神宝が八咫の鏡なのですが、三雲南小路の頃にそのような大きな鏡を作っていた痕跡がないため、後世に混同されたのかもしれません。
三雲南小路の主(ニニギ)もすでに八咫の鏡を所有していたけれど、勿体無いから副葬しなかったいう可能性もゼロではありませんが。 >>485
導き方がまぬけ
花咲姉ちゃんのキャラは8世紀に造作されたものたるべし >三雲南小路の主(ニニギ)もすでに八咫の鏡を所有していたけれど、
それだと中国の内行花文鏡を追い越してしまうw
逆に言うと、平原遺跡は卑弥呼の墓じゃないと
未来人になってしまうw すると、日向三代の男王の時代が終わり、神武らが高千穂宮を出たのが倭国大乱の時になり、卑弥呼が共立されるのがその後になります。
伊都国王だった天孫族の一部が大和に落ち延びて、一部が伊都国の官である禰宜(祖先の邇邇芸に由来する名前か)として卑弥呼の下にいたことになります。
記紀には、神武らが去った後の筑紫の日向がどうなったかは書かれていませんが、それが天孫族にとっての黒歴史である卑弥呼の時代ということになります。
これこそ、記紀に卑弥呼が登場しない理由でしょう。 出たからといって落ち延びたとは限らない
内行花文鏡を持って行ったのだから派遣された可能性のが高い >日向三代の男王
甕棺墓だろ?
平原は木棺墓だから、外部からの侵入だな。
ヒント>畿内は昔から方形周溝墓 >>491
卑弥呼の偶像をニニギの二代前のアマテラスに重ねる時に矛盾が生じたのでしょう。
まさか現代人が墓の副葬品の検証をするとは思わずにw >>493
可能性もなくなはい。
でも、筑紫から畿内への侵入は何度も波状に行われているので、どれがどの世代のものかはまだわかりません。
畿内説がゴッドハンドを振るいすぎ。 >>494
>甕棺墓だろ?
その通り。
甕棺墓は天孫族の墓です。
百済の始祖東照王の生誕伝説との関連性が興味深いところ。
>平原は木棺墓だから、外部からの侵入だな。
その通り。
倭国大乱の末、天孫族の末裔は伊都国の官になり、外部から女王が共立されるのです。
どこからか。
筑紫の隣は豊国と肥国ですが、豊国は三雲南小路の2号墓の王妃(これもジトウと大量の玉があった)の木花咲耶姫の実家で、すでに実権を天孫族に取られていました。
残るのは有明海沿岸勢力の肥国です。
肥国山門の女王が筑紫の女王に共立され、伊都に入ったと考えれば、矛盾は無くなります。 そうすると、女王国の南にあった、卑弥呼とよく似た名前の男王が支配する狗奴国も、同じ肥国の一部の肥後熊本が反旗を翻したものと理解できます。
夷狄ではなく身内の反乱で、しかも肥沃な熊本平野を抑えられて、卑弥呼も苦労したのでしょう。
ちなみに狗奴国の官の名が菊池彦とあり、おそらく前線基地は菊池城だったでしょう。
卑弥呼の側の城は、魏志倭人伝にそれらしき名がある基肄城と大野城です。 では狗奴国はその後どうなったのか。
卑弥呼の次の男王では争いが絶えず、再び女王として壹與が共立されます。
これが肥前河上のヨド姫神社の淀姫という説があり、もしそうなら肥後も吸収する形で筑紫と肥国と豊国の全てがその支配下に収まったのでしょう。
こうして、対馬海峡から始まった倭国は、九州北部全域に拡大しつつ、その主人が激しく入れ替わるのです。
同時に、卑弥呼の時代に平原で確立した神道が全国に波及していきました。
そう言えば禰宜は神主に次ぐ役割であるとする神社がありますが、伊都国の禰宜が倭王から降格されたナンバーツーだからかもしれませんね。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。
卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔であり、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。 >古くは出雲がその盟主であったが、
考古学的根拠なし・・・ 神夏磯と書いて、九州ではカンカシと読む名字があるそうです。
卑弥呼から神夏磯姫まで70〜80年、神夏磯姫から神功皇后、田油津姫まで40〜50年といったところ。
記紀は神功皇后を120年繰り上げて卑弥呼とイメージを擦り合わせようとしているのは、有名な話。 >>504
大国主がいた豊葦原中国が福岡のことであるという可能性については留保しておきます。
ニニギも豊葦原中国に降臨したつもりが筑紫日向の伊都に降臨しているので。
須玖岡本の被葬者が猿田彦ではなく大国主という線もありますね。
しかし、出雲にも荒神谷遺跡や巨大神殿が発掘されており、無視できないところです。 何度指摘しても八女津姫を無視するんだね。
妄想はいいから、考古学的根拠をあげてくださいね。
九州説の信頼度が落ちますから。 >出雲にも荒神谷遺跡や巨大神殿が発掘されており、無視できないところです。
>古くは出雲がその盟主であったが、
古くは出雲がその盟主であった根拠にはならない。
年代を無視した妄想は、九州説にとって迷惑以外の何者でもない。 出雲から直接半島に向かうのは無理だろうね
壱岐または沖ノ島から対馬を経由しないと
出雲の地政学的な強みってほとんどないから繁栄も短命で終わった 景行天皇の時代、九州中にたくさんの女首長が登場しています。
八女津姫もその一人ですが、同時代に筑紫の梟師(王)の称号を持ち、八咫の鏡を保有していた神夏磯姫がいるので、そちらの方が格上です。
八女津姫について報告した水沼の県主も、伊都の県主や岡田の県主と同列なので、本来は王家の一員でしょう。
倭国の都が水沼に置かれていた時代があったと主張する人たちもいます。 悪く言うと、
成り済まし、騙り、詐欺師、何も知らない紛いモノ・・・
ほとんど同じ意味 >>509
出雲は日本海交易の中継地としては便利なところ。でも博多や対馬以上の利点はないですね。
大国主がいたのは福岡という線も捨てきれない。
でも他に大山積らも博多湾沿岸にいたはずなので、かなり福岡周辺はうるさいことになりますね。
まあ、記紀にも豊葦原中国は群雄割拠して騒がしいと書かれていますけど。 肥国が完全に倭国に組み込まれると、都も伊都から南下して、水沼や高良などに王宮が置かれることもあったでしょう。
その極致が、恒久的な京師である太宰府なのでしょう。 >>512
黒曜石の産地である隠岐に近いという利点がある >>509
出雲の繁栄って縄文時代からだから短命という事はないだろ >>516
>そもそも大国主ってもともとは丹波だろ
最初から最後まで、倭国(阿波)の長国。 @阿波 >>481
>中国の朱が入手できなかったので、地元のもので間に合わせたのですよ。
あれ、阿波の中国産朱、無視?無知?どっち? @阿波 北部九州では阿波産の朱も中国産の朱も
盛んに利用されています。
朝鮮半島の鉄も利用されており
鉄の多く出土する地帯でもあります。
各地の産物が集められているのが
北部九州なのです。 >>519
>北部九州では阿波産の朱も中国産の朱も
>盛んに利用されています。
九州産の朱はないの? 採れなかったの? 女王国じゃなかったの? @阿波 >>503
息長帯姫の妹はまさに肥国に落ち着いているからな。
肥国vs伊都ではなく、肥国内での争いの勝者が息長帯姫であると考えることも出来る。 >>521
肥国産の朱はないの? 採れなかったの? 女王国じゃなかったの? @阿波 >>507
八女津姫って誰だ?と思って調べたけど名前が日本書紀に書かれてるだけで邪馬壹國とは関係ないみたいだけど???
l >>523
だね。
田油津姫も関係ない。
倭人伝ー卑弥呼ー平原遺跡ー八咫の鏡ー神橿日姫ー記紀
という繋がりだけ。
神橿日姫が八咫の鏡を景行天皇に献上した時点で邪馬台国は終了。 >>524
>神橿日姫が八咫の鏡を景行天皇に献上した時点で邪馬台国は終了。
九州だ 畿内だと喧しいが、「丹山」一つだけで、とっくに決定してしまってるでしょ。 @阿波 >>521
占領地に入植したともとれますけどね。
もともと神功皇后は九州より東の人物らしいので。
景行天皇の頃は、九州北部のあちこちにプチ卑弥呼がいたらしいです。
八女津姫のように山の中や岩山を神奈備とする巫女のような存在でした。
肥前の淀姫も岩山が近くにあったはず。
そんな巫女の中でも、筑後山門から最高位の倭国王まで登りつめたのが卑弥呼だったのでしょう。
門司の神功皇后も肥前の淀姫も、干珠満珠で潮の満ち引きを操ったと伝えられています。
淀姫=壹與なら、壹與の方が古いはずなので、その末裔の田油津姫を倒した時に神功皇后が奪ったのか。
それとも、卑弥呼や壹與の事績を神功皇后に習合したのか。
ちなみに、淀姫神社を大阪に勧請して淀川の名前がつき、豊臣の淀君もそれに因んだ名前なので、淀君は壹與にゆかりのある名前ということになります。 ディスるわけではない。
出雲出雲と言うが、荒神谷遺跡は銅鐸と銅剣が大量に見つかっただけであり、
王墓はおろか大規模集落すら見つかっていない。
ある程度の集団がいたことは確実であろうけれども、王国が存在した根拠にはならない。
そもそも銅鐸文化圏は身分階級の発達が未熟であるのだから、
加茂岩倉遺跡も併せて銅鐸が大量にある時点で、
銅鐸があるからこそ王がいなかったと考える方が妥当。
同時出土した銅矛は北部九州製であり、
北部九州王の命を受けて短期間出雲で活動していた銅鐸銅剣製造集団と考えるのが妥当。 >>524
田油津姫は神夏磯姫の末裔なので、神夏磯姫ではまだ終わりません。
神功皇后がわざわざ倒しに来るくらいには勢力があったはずです。
田油津姫より後は、類似の勢力が見当たらなくなります。 ディスるわけではない。
出雲の巨大神殿は平安時代のものであり、
考古学的には弥生時代の神殿跡は見つかっていない。
この辺りもきちんと押さえて考察しないと、
7世紀大和政権をもって3世紀に投射するどこぞの説と同じことになる。 銅鐸圏にとって九州と交易するのに出雲を窓口にしてたんだろ
しかし瀬戸内海〜関門海峡ルートが開発されて出雲は用済みになり衰退した
出雲は自分達は矛や剣で威圧的な祭祀を行いながら、他の銅鐸圏の国々には銅鐸しか渡さず
その威力で銅鐸圏を支配したが、瀬戸内海の吉備の台頭により下克上された 天孫降臨を伊都国の成立譚としてとらえるなら、そのきっかけとなった出雲の国譲りにも史実との対比が必要。
ただ、その出雲が今の出雲と同じところなのか?から考えなくてはいけない。 >>530
銅鐸が大量に出土しているのだから威圧していない。
銅鐸が大量に出土しているのだから王もいない。
考古学的にも王はいない。
おそらく銅産地の近くにあった青銅器製作拠点に過ぎない。 吉備が筑紫に対して下剋上した記録も痕跡もない。
ただ、九州に攻め込んできた景行天皇がどこの出身なのかとかは疑問がある。 >>528
神橿日姫が八咫の鏡を景行天皇に献上=邪馬台国の支配権が景行天皇に献上された
わけだ。
交戦せずに出迎えていることから、親族同士の政権移譲だろう。
さらに景行天皇は(南)九州征伐をぐるりと行って筑後へ凱旋帰還しており、
九州はここで景行天皇によって統一されている。
次の時代に田油津姫が息長帯姫に歯向かったのは、
意味合いとしては単に反乱を起こしただけのこと。 >>532
それならそれでいいけれど、では記紀神話の出雲はどこなのか。
豊葦原中国とはどこなのか。
福岡でいい? >>534
神夏磯姫が八咫の鏡を示して、我こそは倭国王なので、戦闘を止めよと指示したのを、日本書紀が捻じ曲げたのかもしれません。
結果を見ると、神夏磯姫が指定した相手を景行天皇が倒していくので、景行天皇は神夏磯姫の下の将軍のようにも見えるのです。
少なくとも対立はせず、両者は共闘しています。 考古学的には福岡県しかない。
新発見があれば別だが。 >>536
そう、共闘している。
そして九州を統一している。
息長帯姫にとっては九州は既に統一されているわけであり、
田油津姫はその一部で反乱したに過ぎない。 妻木晩田遺跡は鳥取県だし、荒神谷が滅亡?した後の時代だからな。
四隅突出型墳丘墓はあるものの、その規模は北部九州の王たちに遥か及ばない。
邪馬台国時代に鉄器など使用しているのだから、
北部九州王から鉄資源を融通されているわけであり、
卑弥呼の支配する属領、つまり東方倭種。 神功皇后こと息長足姫が田油津姫に対して反乱を起こしたようにも見えます。
時の筑紫の倭王が羽白熊鷲だったのでしょう。
神功皇后はこの二人を倒して筑紫の実権を手に入れました。
仲哀天皇こと足仲彦の皇后は、本来は従兄弟であり、仲哀天皇と同じ景行天皇の孫である足仲姫であったはずです。
名前もペアですし。
息長足姫は足仲彦と、足仲姫の二人の王子を殺して、筑紫北部の実権を奪いました。
続いて羽白熊鷲と田油津姫を殺して、筑紫南部の実権を手に入れたのです。
日本書紀は神功皇后の立場から書いているので田油津姫が反乱分子に見えますが、実際には息長足姫によるクーデターだったのです。
そしてその仕掛け人は、愛人でありヤマトタケルのモデルでもある武内の宿禰です。八幡の神として祭られる応神天皇の実父であり、蘇我氏の祖でもあります。 >>538
景行天皇は北部の制圧だけ。
そして、北部の統一というのは、前後で何度もやり直す。
記紀から読み取れる筑紫倭国の王統は、激しく入れ替わっている。
畿内説からは、九州北部は勢力が細かいと言われるが、まさにそれが倭国の姿といっても良い。
筑紫という最善のロケーションを巡って、激しい争いが続いていたのだろう。 >>532
大量に出土してるのなら栄えてたってことだろ
銅鐸と銅剣の両方が出る限られた地域の一つが出雲で、その中で出雲は最大 景行天皇は九州中に種をまいて歩いたけれど、その孫の代で息長足姫により断絶するのです。
武内の宿禰は孝元天皇の末裔とされるのですが、どこまで本当なのか。
少なくとも景行天皇の家系ではありません。
応神天皇は、諡号の神が示す通り、新しい王朝と見なされていました。
なので、現在の天皇家の直接の祖先は応神天皇ということになります。 >>541
大分→宮崎→熊本→筑後
鹿児島以外は統一している。 >>542
銅鐸と銅剣が大量に出た「だけ」
王の痕跡はないし、大規模集落もない。
銅鐸があるのだから王がいなかったことが強く示唆される。 >>545
意味不明
銅鐸があるから王権がないってどういう理屈だよ >>533日本
>ただ、九州に攻め込んできた景行天皇がどこの出身なのかとかは疑問がある。
そりゃ、倭国(阿波)の出身ですよ。 筑紫忌部の地ならしによって熊襲平定。 @阿波 8世紀に畿内で書かれた記紀で3世紀の九州を語るのは無理があるな。 筑紫城でアメタリシヒコが隋使に語ったことが本当なんだろ
記紀は後付けだろ >>526
>淀姫=壹與なら、
ありえない。
壹與の頃にはまだ肥前淀は海かもしくは開拓し始めたばかりのど田舎。 >>543
>武内の宿禰は孝元天皇の末裔とされるのですが、どこまで本当なのか。
武内宿禰は、第八代孝元天皇と伊迦賀色許売命との間に生まれた彦太忍信命(ひこふとおしのま)の子とある。
また伊迦賀色許売命は、次帝の開化天皇の妃ともなり、崇神天皇を生み、孝元天皇と波邇夜須比売(はにやすひめ)との間に生まれた建波邇夜須比古(たてはにやすひこ)との皇位争いに勝利し、閨閥を拡げていったのである。
「先代旧事本紀 巻五 天孫本紀」では饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖神と仰ぎ、六代目にあたる伊迦賀色許売(いかがしこめ)、
伊迦賀色許男(いかがしこお)姉弟は、 日本で唯一、忌部の郷、徳島県旧麻植郡の延喜式式内社「伊加々志神社」に祀られている。
よって、第八代孝元天皇も伊迦賀色許売・伊迦賀色許男姉弟も武内宿禰も倭国(阿波)の人。 @阿波 >>1
倭人伝では、王都は伊都国じゃないでしょ?
後漢書も王の居所を邪馬臺国と言うが国名として使われる、
倭国、委奴国、邪馬臺国、女王国、の使い分けにおいて
中国風名称の命名で混乱が有るかと思うが
伊都国は里程、戸数規模からも場所が固定可能。
伊都国には一大卒をおいて貿易を管理した。 魏使も居住させた。 王都は王の居所。
女王の居所、後漢書の倭奴国は狗奴国と接する国土の南限、極南界とされている。
九州北部2千里、陸行1月の南界として八女以南。
その伊都は壱岐から千里の上陸点、良港となる糸島では無く、
さらに南東5百里の内陸、の軍事好適地、早良〜那珂川。
奴国は博多、不彌国は大宰府辺り。
確証不能の考古学のご都合主義で文献を読み替えたら頓珍漢の畿内説と変わらんよ。 >>543
成務と同じ日に生まれたというのが匂う。
古代は双子は忌み嫌われた。
ヤマトタケルも双生児で
景行天皇は双子が生まれたショックで臼(碓)に向かって叫んだ。
だから大碓命・小碓命。
昭和もそうだし天皇家は基本的に双子を忌むらしい。 >>549
1000年以降に成立した新唐書で700年の記紀が後付けしたら偽書だろ?
まあ唐も記紀のデタラメ読んだら日本の歴史相手にしたくないのは当たり前だけどね。
天子の元祖、中国史だって、天孫降臨なんてあんのかね?
漢帝の時、日本の神々が淡路島創ったり、
九州で稲作始まってるのに、天孫が高千穂に降臨してたりなwww だから旧唐書の方が信用できる。
日本の使いの言っていることは尊大で信用できないとか書いてある。
天孫降臨とか喋ったんだろう。
しかし、祖先は倭奴国を征服しました、とも言えなかったんだろうな。
一応、記紀では出雲から禅譲のような形をとってはいるけど、年代が合わなくなるしな。 中国の倭人条は外交史だから嘘つく理由がないなぁ
記紀に関しては、普段は神武東征は出鱈目と言ったりもするからなぁ
国書だから政治的バイアスそのものだから でも、唐に対して倭国と日本国の関係について、うそをついたんだよ。
日本書紀は、唐に提出した歴史書だからね。 中国側は嘘をつく理由がないよなぁ
「日本」側にはあったろうね >>556
>記紀に関しては、普段は神武東征は出鱈目と言ったりもするからなぁ
出鱈目ではないけれども、神武東征が倭国(阿波)国内での出来事であって、
九州から畿内へ侵攻などというそんな壮大なスケールのお話じゃないってこと。 @阿波 >>560
>つまりそもそも阿波が出鱈目フェイクなんだろ
なんだろ・・・じゃなくて、 出鱈目フェイクをズバッと指摘すればいいのに。
そして、出鱈目泡厨をコテンパンにやっつければいいのに。 なんかつまらんな。 @阿波 だって阿波って記紀にしか由来がないんだろw
記紀の編者が遠い未来で阿波厨が攪乱工作をしてくれることを期待して
あんたが期待に答えたんだろw
でもあんた以外は最初から攪乱工作なんて詰まらないんだよ >>557
記紀は天孫降臨の九州起源は嘘だけど、倭国と大和朝廷の関係で嘘を書いてるか?
むしろ邪馬台国は無視だろ?
漢や魏の楽浪、帯方郡の間抜け官吏が九州の小国を倭王と誤認、冊封してたわけで
東方の天子として奏上した天皇の遣使に同行して、皇帝の命で天皇に謁見した隋唐使として
皇帝の威厳の為の中国史書に泥を塗れなかったのは、隋使の無能な嘘つき裴世清だろ。
記紀ほどのデッチアゲでは無いにせよ
中国史書には、使者が皇帝のメンツをつぶさない為には嘘が有る。
嘘言わないと死刑だし。 >>562
>だって阿波って記紀にしか由来がないんだろw
阿波は魏志倭人伝にこそ、由来がある。
阿波丹山だけで十分証明されているが、以下は補足。
@倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
四国東部は帯方の東南に当たり、四周が海で、山や島に人が居住し、国を為している
A今倭水人好沈没捕魚蛤
徳島県南部海部地方などに古くから見られる漁法(海人の素潜り漁)
B文身亦以厭大魚水禽
入墨(文身)を表した土製仮面(顔面全体に丸い道具で突き刺した模様がある)が出土している
C種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
吉野川中流域(旧麻植郡)は古来より麻や桑を栽培し、往古より践祚大嘗祭で麁布を調進している
D倭地温暖
徳島は黒潮が近くを流れ、温暖な地である
E其木有{木冉}杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠幹桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有爾猴黒雉
特に、橘は徳島県南部が古くからの産地である
F女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
徳島の東の海(紀伊水道)を渡る千余里で倭種国(紀伊半島)が位置する
G問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
徳島は離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる
H直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤
鳴門の萩原墳墓群などに中国産の真朱が使われている
I女王国への行程記述
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 阿知使主と息子の都加使主については吟味されてるのかな。
阿知使主は漢皇帝の末裔だが、「魏に迫害」されていた。
そのため応神天皇を頼って、朝鮮半島経由で日本へ亡命した。
応神天皇は後に、阿知使主に依頼して、呉(中国南部の意)へ派遣して縫工女を募集させた。
阿知使主は呉から筑紫へ到着した際、宗像氏に縫工女を分けてくれと頼まれて
4人のうち1人を宗像氏に譲った。
阿知使主は摂津に着いたところで応神天皇の崩御を知った。
阿知使主は縫工女3人を仁徳天皇へ献上した。
阿知使主と都加使主は魏に迫害されていた
→敵の敵は味方で呉と仲が良かった
→阿知使主が最初から呉の鏡職人を連れてきていた
もしくは縫工女と一緒に鏡職人を連れてきた
三角が突然出現するのはそういうわけですね。 治世の絶対年代が確定しないから阿知使主その人が鏡職人を連れてきたかどうかは
なんともいえないが、
初期ヤマト政権にとっては、神獣鏡の本場である
呉から職人が来る環境にあったことは記紀に明記されているわけだなあ。 普通の商取引(物々交換)を通して入ってきた呉の神獣鏡を
真似てコピっただけだろ。
もう、弥生時代末期には複製できるようになってるし 伊都国に女性の王墓があるのは事実だね
金印が出た、志賀島も近い
このあたりが倭と呼ばれていた中核かね >>571
中国で州土しないんだから商取引で入ってくるわけなかろう >>552
文献解釈に正解はないよ
倭人伝においては特にね
日程記述からは別文献を参照している可能性もあるからね
ただ、一大率が置かれたのは女王国以北
伊都国に置かれたとは書いてないよ
伊都国は治めている所
文献解釈は色々と解釈ができてしまうから、考古学で合致するか?が問題となる
まず、楽浪土器が大量に出土するのは糸島だから、何らかの重要拠点なのは明らか >>574
>伊都国は治めている所
伊都国にはいないのか? >>574
>伊都国に置かれたとは書いてないよ
伊都国にはいないんよね。 >>573
画文帯神獣鏡をベースに幾つかの漢鏡を組み合わせれば可能
三角縁にしたのは、量産する時都合が良いから >>577
そういや畿内説が
刺史は地方へ派遣されたのだから
刺史に相当する一大率が伊都にいたのなら伊都は首都じゃないとか騒いでいたな。
伊都にいなくて、伊都から指令しているわけなら、
伊都を首都、その他の地域へ一大率を設置ということになって、
そのまんま刺史と同じだな。 >>574
>ただ、一大率が置かれたのは女王国以北
>伊都国に置かれたとは書いてないよ
>伊都国は治めている所
女王国以北は女王国を含むよ。
すなわち伊都国を含む。
伊都国に置かれた一大率が対馬海峡に目を光らせていたんだよ。 >>579
応神天皇が呉の職人を招聘した経緯が詳しく書かれているのだから、
鏡職人もやって来たのだろうか。
新参渡来人の東漢氏にとって
昔からの部族がひしめいている北部九州には居場所が無いから
畿内に新規入植して、呉の職人もそこで仕事開始したんだろうか。 >>583
鉄器がふんだんに普及した先進文化圏である北部九州の女王である平原卑弥呼の宮のある首都である伊都のお膝元で働く一大率の役目 >>582
中国の青銅鏡研究の第一人者の王仲殊氏も
青銅鏡に刻まれてる銘文から、同じことを言ってるね 滅ぼされた銅鐸集落出身の失業した銅鐸職人達が
呉から来た銅鏡職人の仕事始めを手伝うように命じられ、
お互いに技術を教え合って
銅鐸職人は日本伝統の同笵技術を用いて魏年号の鏡を作り、
呉職人は呉年号の鏡を作ったのだろうか。 糸だから伊都か いっそ、糸島市じゃなくて糸市にしとけばよかったのに。 イト郡とシマ郡が合併して糸島市
伊都国はイト郡の方だね
古代の糸島半島は昔は海で分断された島だったので、陸側がイト郡で島側がシマ郡と行政区分も別れていた
島嶼文化にありがちな海女の素潜りなんかも盛んに行われていただろうな
アワビやサザエを食ってたんだろう 怡土郡+志摩郡
伊勢志摩
伊都→怡土→糸
時代と共に変遷しているね。 伊都→怡土→糸
なんで変名したのかね 由緒ある名だったら変えんだろ普通 大和とか筑紫とかさ 邪馬台国の中枢を占めていた勢力が権力を失ったからだろ。
記紀に記載されていないし。 >>597
残るも残らないも
大和や筑紫なんて名称は後漢書や三国志の倭人伝には出てこないよ 伊都はあまりにも都的な名前だったからかな。
都であったことを畿内政権は隠したかったのだろうから。
筑紫だと、地方の名前だと言ってしまえばそれまでたからね。 畿内説
勝負のついた試合会場で
抗議の座りこみ
乙w 国宝の金印が偽物とか
耳璫が女性用じゃないとか
それはもう勝てないだろうというところで
根拠もなく勝負を挑んでくるおこちゃま >>567
記紀に記載されているのは、
もう日本にいる阿知使主と都加使主が
応神天皇の命令で呉へ職人勧誘へ行ったという話。
魏に迫害された阿知使主が
七つもの部族を引き連れて帯方郡から日本へ来たと書いているのは
続日本紀だね。
阿知使主と都加使主は日本名だから、
続日本紀に書かれたのは阿知使主の先祖で、
阿知使主と都加使主は日本に帰化した応神時代の子孫、という説がある。
どちらにせよ、
帯方郡から日本列島へ亡命してくる有力者=呉の関係者も多かったろうし、
その後の応神時代にもまさに呉(江南)から職人を招聘していたわけだ。 怡土[yi-to][yi-do]に揃えて
伊都「yi-tu」[yi-du]を[yi-to][yi-do]と読む愚かさ 律令制下の怡土郡は
三雲を委奴[wi-na]・奴[na]から引き離したいという姑息な偽装工作による命名なんだろ [奴佳鞮]は現代風表記にすると[那珂智]あたりなんだろうけど
[奴佳]というのは
[涓奴部(消奴加)] [絶奴部(絶奴加)] [順奴部(順奴加)] [灌奴部(灌奴加)]の
[奴加][奴部]のとコモンで
[奴]の[組]くらいの意味だろ
本家は[奴]で分家が[奴加]という関係で
三雲が奴の本部
須玖あたりはスサノヲ・スヨリからみの[奴]の新設の分家で
[須玖那卑狗]が半島から来て居座らずにご帰還みたいなかんじだろ @三国志東夷伝韓伝
>韓在 帯方之南 東西以海為限 南與倭接 方可四千里
韓人は帯方郡(ソウル)の南にあって、東西は海、南は倭人と接している。
南北はそれぞれ四千里。
ソウルの南側での朝鮮半島の横幅が、約260kmだから、
260000÷4000=65m @-1三国志東夷伝韓伝:裴松之注・魏略曰
>燕乃遣将秦開攻其西方 取地二千余里
(箕氏朝鮮が横暴になったので)
燕は将軍秦開を派遣して箕氏朝鮮を攻略し、その西方の土地を二千里ほど取得した。
燕の領土が遼東半島手前までと過小評価すると、朝鮮半島西方まで250kmだから
250000÷2000=125m
燕の領土が遼東半島までと普通に評価すると、朝鮮半島西方まで150km弱だから
150000÷2000=75m弱 A三国志東夷伝高句麗伝
>高句麗 在遼東之東千里 南與朝鮮濊貃東與沃沮北與夫餘接 都於丸都之下方
>可二千里 戸三萬
>多大山深谷 無原澤 随山谷以為居食澗水 無良田 雖力佃作 不足以實口腹
高句麗は遼東の東千里にある。
南は朝鮮と接している(朝鮮半島の北部に収まる)
二千里四方
朝鮮半島北部の横幅180kmに限定するなら
180000÷3000=60m
鴨緑江を起点としたら
270000÷3000=90m
追記:
・首都を置くことを都で示している=「伊都」は首都であることを補強する材料
・耕作不適地であることが強調された2千里四方に3万戸も居住 B-1三国志東夷伝東沃沮条
>東沃沮在高句麗蓋馬大山之東 濱大海而居
>其地形東北狭西南長 可千里 南與濊貃接 戸五千
東沃沮は高句麗の東にあって、日本海に港を持っている。
千里の細長い領土で、南の陸境は濊と接している。
朝鮮半島の北東端から、日本海沿岸に沿って千里。
>又使大加統責租税 貃布魚塩海中食物千里担負致之
(東沃沮を支配する高句麗は)大加を使って東沃沮から租税を取り立てて、
貃布や、「魚」や、塩や、「海産物」を、千里を担いで運ばせた。
腐りやすい「魚や海産物」を租税として「陸路かつ徒歩で」千里運ばせた。
東京〜大阪 400km
東京〜箱根 75km
・・・後者でなければ腐る・・・ B-2
>北沃沮 去南沃沮八百餘里
北沃沮は南沃沮から八百余里
>夏月恒在山峻深穴中為守備 冬月氷凍船道不通乃下居村落
北沃沮は(さらに北方からの海賊を恐れて)夏は深山にこもって防備し、
冬になって海が凍り、船が来なくなってから村落へと山を下りてくる。
冬に海が凍ることから、北沃沮はナホトカやウラジオストク以北を領土に含む。
東沃沮=南沃沮であれば、
朝鮮半島北東端からウラジオストクまで千八百余里
東沃沮の次に南沃沮があって、さらにそこから八百余里で北沃沮であれば、
朝鮮半島北東端からウラジオストクまで千八百里をかなり超える
朝鮮半島北東端からウラジオストクまでが440kmなので、
ここでの1里は、
440000÷1800=244mをなるべく下回る計算となる C三国志東夷伝夫餘条
>夫餘在長城之北去玄菟千里
>南與高句麗 東與挹婁西與鮮卑接 北有弱水方
>可二千里 戸八萬
夫餘は玄菟郡(遼東郡の東、楽浪郡の北にあった郡)から北に千里。
南は高句麗と接し、北部に松花江がある。
二千里四方で、(北方の寒冷地なのに)八万戸も居住する。
玄菟郡の北限は諸説あるが、鴨緑江を起点とする。
鴨緑江から北に千里+南北幅二千里=三千里
鴨緑江〜松花江が450kmなので、
450000÷3000=150m D三国志東夷伝挹婁条
>挹婁在夫餘東北千餘里 濱大海 南與北沃沮接未知其北所極
挹婁は夫餘の東北千余里にあって、日本海に港がある。
南は北沃沮に接しており、北限は不明である。
東沃沮条において、挹婁は海賊として北沃沮沿岸を荒らしており、
だから北沃沮の人々は夏は深山にこもって防備している。
鴨緑江から150km千里が高句麗
そこから松花江までの300kmが夫餘で、だいたい300km四方。
高句麗と夫餘の東に、日本海沿岸に南西から北東へ向かって、
東沃沮(半島北東端)(〜南沃沮)〜北沃沮(ウラジオストク)〜挹婁が配列。
指標が少なく、距離判定は不明。 E三国志東夷伝倭人条
>従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って航海して韓国を通り過ぎ、
倭の北岸の狗邪韓國に到着するまでが七千余里
ソウル〜半島南西端〜対馬対岸が、620km
620000÷7000=88m
>始度一海 千余里 至対馬國
60000÷1000=60m
>至対馬國 方可四百余里
南北82000÷400=205
東西18000÷400=45
>又南渡一海 千余里 名日瀚海 至一大國
50000÷1000=50m
>至一大國 方可三百里
南北17000÷300=57m
東西14000÷300=47m 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)に対する反論は全く無くなったなw 邪馬壹國は筑紫平野東部(筑後平野・北野地域)にある内陸国で、
唐津(末盧國)から陸行1月(陸行1000里)、伊都國から陸行500里。
伊都國は、帥升王統の倭の首都である倭都國(倭奴國)の新呼称。 >>627
対馬海流に流されて、唐津(末盧國)は有り得ない。
大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面
だから、世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。
子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。 @阿波 奈良湖っていつ頃まであったの?
滋賀県みたいだったんだよね >>628
対馬海流に流されて、唐津(末盧國)は有り得ない
朝から@阿波の妄想か。 >>627
女王国の東には海がある
内陸ではないね。 >>631
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。
子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。 @阿波 >>633
沖ノ島が重要なので世界文化遺産になっただけで宗像はおまけだよ
宗像だけではで世界遺産になんかなることはないよ。 >>634
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。
子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。 @阿波 世界遺産登録に当たって宗像を外すように勧告を受けていたのを知らんのか
結局は宗像をごり押しして登録成功したんだよ。 >>636
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。
子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。 @阿波 @阿波は「卑弥呼は阿波にいた」とかに改名したらどうかね 「目の上のたん瘤」でごめんね。
早く覚醒してね。 @阿波 @阿波とか気にしてませんから
建設的意見じゃなくて妄想だからな。 三社揃っての沖ノ島だと思うけどね。
もちろん、一番重要なのは沖津宮だとは思うけど。
あの祭祀は、結局のところ、何を祭っているんだ? >>642
>あの祭祀は、結局のところ、何を祭っているんだ?
結局のところ、忌部にまつわる神様を祀っているんですよ。 @阿波 >>642
>>567
応神直々の命令で呉まで行って連れてきた縫工女4人の1人を
応神に断りもなく宗像に譲るなんて通常なら切腹ものだよね。 沖ノ島がアマテラスの都である高天原だと思うけど、根拠はない。 >>645
>沖ノ島がアマテラスの都である高天原だと思うけど、根拠はない。
沖ノ島は筑紫忌部によって、忌部にまつわる神様を祀っているんですよ。 @阿波 沖ノ島の神は女神様だから忌部にまつわる神様じゃない。 ☆☆☆ @阿波は単なる荒らしです ☆☆☆
反応を釣りだすのを楽しんでいるだけで、
理をもって説き伏せても同じ内容を何度も書きこんで煽ってくるクズです。
@阿波には根拠もないし、真面目に議論する気もありません。
他説が反応しやすいコピペをひたすら繰り返すだけです。
スレ汚しになるから相手しないように。
どうしても反論したいなら、四国説スレに吐き出せば@阿波は必ず目を通します。 >>648
>理をもって説き伏せても
理があるのは倭国(阿波)だけ。 理をもって説き伏せているのは倭国(阿波)だけ。
相当、意識過剰になっていますね。 目の上のたん瘤でごめんね。 @阿波 >>644
宗像の協力のもと呉に行けたのだとしたら、分け前を渡すのは当然だろう
航海の技術や地理的な知識、大陸側との顔繋ぎに宗像をはじめ沿岸の海洋民の協力を必要としてたのが倭王権なわけだから ここでの呉は海南の意味で中国南部を表す、というのが定説。
丁度我々が、魏や帯方郡、楽浪郡という言葉で当時の場所を示しているのと同じ。 島に上陸していない
→ 島の形状には沿わず、沖合を通過しただけの可能性あり=1辺のみ
島に上陸している(島についての記載があるから)
→ 島に近接して接触しているので、島の形状に沿って移動した=2辺を通過
船で渡海してきて、島を通過して、船で渡海していく。
島に上陸したのだから、船は島を迂回するわけだ。
正方形を書いてごらん。
例えば左上の頂点に到着して、右下の頂点へ抜けるなら、
左上→右上、右上→右下、と抜けるから、1辺×2で2辺。
上の辺の中央に到着して、下の辺の中央から去っていくなら、
時計回り(もしくは反時計回り)で、
上の辺の中央→右上(左上) 1/2辺
右上(左上)→右下(左下) 1辺
右下(左下)→下の辺の中央 1/2辺
で、合計2辺。
陳寿倭人伝の計算はこれ。 >>650
宗像時代的にもっと後世だから関係ない。 >>650
>航海の技術や地理的な知識、大陸側との顔繋ぎに宗像をはじめ沿岸の海洋民の協力を必要としてたのが倭王権なわけだから
「宗像をはじめ沿岸の海洋民」とは、倭国(阿波)から進出した「筑紫忌部」なんですね。 @阿波 >>656
宗方は地理的に当初から重要な経由地だったろう。
祭祀が盛んだったのは5世紀とかだったかもしれないけどね。
3世紀でも重要だったはず。
ただ、魏志倭人伝では経由していないので、別の勢力の支配下だったかもしれない。
卑弥呼の倭国は領土的にはかなり狭く、筑紫と肥前だけだったのではないか。
肥後は狗奴国として反抗していたし。
宗方は豊国だから、敵対はしなくても直轄地ではなかったのだろう。
畿内?
知らない子ですね。 >>658
大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし @阿波 >>658
>卑弥呼の倭国は領土的にはかなり狭く、筑紫と肥前だけだったのではないか。
投馬国のほうが広かったりして >>660
投馬国の人口からすると、あり得なくもない。
宮崎県なら広さも十分にあっただろう。 投馬国は朝鮮半島南岸の地域だな
けして宮崎や鹿児島では有りえない
行程を説明するのに突然、行程と無関係な場所が出てくるはずがない
日(時間)での説明は里(距離)で説明した行程を再度説明し直したものに過ぎない
この辺の説明は古田はおかしい。 基本的に、中国人にとって「北九州」はわかりやすい位置にある。
実際に北九州の不弥国まではけっこう正確に書かれている。
仮に邪馬台国が北九州にあったとしたら魏志倭人伝にもっとわかりやすく正確に書かれているはずだよ。
だって中国人にとって北九州はわかりやすい場所にあるのだから。 もう一回言うけど
中国人や朝鮮人が北九州にある国の位置を間違うはずがないんだよ。
伊都国、奴国、不弥国、北九州にある国は正確に書かれている。
邪馬台国は北九州になかったから不正確な記述になったんだよ >>663
韓伝によると韓には馬韓が十万戸、弁韓、辰韓が四〜五万戸の計十四〜十五万戸しかいない。
それに対して倭には邪馬壹国だけで七万戸、更に別に狗奴国もある。
投馬国五万戸は容易に朝鮮半島の南岸に収まるな。 >>663
帯方郡の南に韓人がいて方可四千里。東西は海、南は倭と接する。
方可四千里のうち西半分の馬韓だけで、十余万戸もある。
東半分の弁辰韓が四五万戸。
倭人伝にある通り南ほど温暖で作物が育ちやすいから人口を支えやすい。 >>664
>>665
>実際に北九州の不弥国まではけっこう正確に書かれている。
邪馬壹国の記述も正確に書かれてるよ
不正確な記述なと思えるのは誤読してるから。 >>664-665
結論ありきの駄文の代表例。
倭人伝には北部九州のことだけが正確に記述されている。
あとは東方倭種として日本海沿岸の存在が触れられているくらい。
逆に、瀬戸内海のことや、
湖だらけだった畿内のことなどは一言も書かれていない。
つまり、里程+日程+総里程として、
北部九州邪馬台国のことが多重的に詳述されているわけだね。 >>669
阿波丹山だけで十分証明されているが、以下は補足。
@倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
四国東部は帯方の東南に当たり、四周が海で、山や島に人が居住し、国を為している
A今倭水人好沈没捕魚蛤
徳島県南部海部地方などに古くから見られる漁法(海人の素潜り漁)
B文身亦以厭大魚水禽
入墨(文身)を表した土製仮面(顔面全体に丸い道具で突き刺した模様がある)が出土している
C種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
吉野川中流域(旧麻植郡)は古来より麻や桑を栽培し、往古より践祚大嘗祭で麁布を調進している
D倭地温暖
徳島は黒潮が近くを流れ、温暖な地である
E其木有{木冉}杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠幹桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有爾猴黒雉
特に、橘は徳島県南部が古くからの産地である
F女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
徳島の東の海(紀伊水道)を渡る千余里で倭種国(紀伊半島)が位置する
G問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
徳島は離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる
H直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤
鳴門の萩原墳墓群などに中国産の真朱が使われている
I女王国への行程記述
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>671
>日本なら何処でも当てはまるな。
こういう事実を示せるのは、何故か倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>672
阿波だけじゃないよw西日本なら何処でも当てはまる。 >>673
>阿波だけじゃないよw西日本なら何処でも当てはまる。
こういう事実を示しているのは、何故か倭国(阿波)だけ。 @阿波 女王国が九州北部であったから、魏志倭人伝には九州北部のことが詳しく紹介されている。
これが単純明快な事実だよ。 >>675
丹山が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。 @阿波 >>676
丹山馬鹿、四国説で一人で妄想をたれてろよ。
ここに来るなよ、鬱陶しい。 >>677
目の上のたん瘤でごめんね。
カリカリせずに、楽しませて。 @阿波 自分の妄想を繰り返し述べるだけで阿波の意見は全く参考にならないし
成程と同意出来る点も無い
独りで淋しいの? >>679
そんなにカリカリしなくてもw
阿波説に対し、意識過剰。 分からんでもないが。 @阿波 あれだけ栄えていた全国の炭鉱が
豪の安いのが輸入できるようになって一気に閉鎖されただろ。
だからこその北部九州なんだよ。 ・比喩を理解できない。
・議論ができないから壊れたロボットのように同じコピペを繰り返すだけ。
連打していた@阿波が比喩で完全反論否定されても何も言い返してこないのが証拠www
狂人を相手にしても時間の無駄。
比喩攻撃で排除しようぜw あーあー河の流れのようーにー
皮の主流はますぐ流れても周囲のでは淀みで乱流するわけだ。
ナルトの大渦とかそう。
對馬のではイキのいいのと九州との間が乱流してるのが
科学的データで証明されてる。
だから海龍の流れを読むと加羅津に到着。
考古学的のもあぴょー糸巻き巻きまでで終着点。終了だよ。 当て字しただけで沈黙の艦隊なのな。
セガールは大阪にいたんだぞw
なんも井伊かえせな井出やんのw
明日屁なんだな重しれーwww 倭寇と倭人の活動範囲は同じなんだよ
ただ活動の順序が逆なだけ
前期倭寇と後期倭寇の順序が倭人倭国では逆なんだよ
共通点はピーク時の拠点は北九州での活動で
これが倭人倭寇と言われる人達が主導権を握ってた
所謂、本物の連中で
後はコピーキャット 楽浪は漢からあるから楽浪周囲の地形は古くから認識されていたわけだから
>>617
>>618
は確度の高い実測値である可能性が高いから中国王統支配外の東夷での里=65-75mで陳寿を初めとする史家は記載していると家えるね。 >>686
>共通点はピーク時の拠点は北九州での活動で
倭寇が倭国による半島への侵攻なら、倭国の都の所在地は九州であったことになるね。 甕棺墓は倭国大乱の頃に消滅する=敗者なのだから
甕棺墓が天孫族というのはありえないだろ。
前方後円墳のように、天孫族が「一時期採用」していた、ならありうるが。 敗者だから筑紫を出て、先に東征した饒速日を頼って東征したのだろう。
大乱は王統の交代を示唆する語だから、卑弥呼は別の王統から共立して、伊都と倭国の王権を継承したのだろう。
神武は畿内に行ってからは、文化的には居候先の饒速日の政権に飲み込まれてしまったのだろう。 >>690
>神武は畿内に行ってからは
神武はなんで湿地で不便な畿内へ行ったの? @阿波 >>690
おいおい・・・
それだと
筑紫は卑弥呼が継承
畿内は饒速日の政権
日本はどうなっちまうんだw >>691
そりゃ、主流派争いに負けたりして
九州に住めなくなって新天地を探していたけど
瀬戸内沿岸は既に先住民がいるから
そこにお世話になりながらも
不便だけど先住民がいないところを見つけたんだろ。
それでも相当戦わなければならなかったし。 >>694
なんか子供の言い訳に聞こえるんだけど。
もうちょっと、アカデミックな説明できないの? @阿波 >>695
放浪する理由としては
一番ありふれた理由だと思うよ。 ローマの建国神話もトロイの遺臣だから
ありがちではある >>696
そんな落ち武者みたいに湿地で不便で先住民がいないところへ行かなくても
ど田舎の阿波に来れば良かったのに。
丹もあるし、温暖で豊かな海に面し、豊富な森林資源もあって、住みやすいのに。 @阿波 >>694
先住民がいないところを探して
饒速日のところに居候
先住民がいるほうがいいのかいないほうがいいのかw >>698
あのへんは当時はそれなりに人口は多いだろ。
よそ者数十人、あるいは数百人に
ただで土地やるとも思えんが。 >>701
そんな湿地で、不便で、人も住まないようなところで、
一体、なにをするつもり? @阿波 >>703
神武さん、落ち武者みたいに、人のいないところを探すような非力だったの?
人の大勢いる良地を奪い取れなかったの? @阿波 よそ者数十人、あるいは数百人が、九州くんだりから畿内までよく無事で来られたもんだ。
たいがい、身ぐるみ略奪されて、殺されるか生口だろう。 @阿波 >>706
そうだねえ。
記紀読んでも苦労してたからねえ 人の大勢いる良地を奪い取れなかった非力の神武さんが
湿地で、不便で、人も住まないようなところで、どうして力をつけたんだろう? @阿波 >>714
そんなこと言わずに東遷説を探究しようよ。 @阿波 だいたい一人で複数レスに嫌味レス返ししてるのが居る時は流れは変わらんよ 私のレスが嫌みか・・・
嫌みなんだろうな・・・
ごめんね。疑問点をぶつけてしまって @阿波 だいたい阿波糞なんて関係ないじゃん
揚げ足を取りなだけでさ まじレスすると、ちゃんと親戚の饒速日を頼って畿内に向かったと記紀に書いてある。
塩土爺とやらに教えてもらったんだったかな。
饒速日が先住民の上に君臨していたのが畿内だから、そこにしか厄介になれなかった。 饒速日が君臨していたのなら
長髄彦が勝手に攻撃してこないっしょ。
最後まで言い争ってるし。 >>719
>まじレスすると、ちゃんと親戚の饒速日を頼って畿内に向かったと記紀に書いてある。
まじレスしなさい。 親戚の饒速日を頼って「畿内」に向かったと記紀に書いてない。 @阿波 >>720
長髄彦は、阿波国鳴門市萩原周辺が拠点。 @阿波 >>720
だから戦闘終了を指示して、指示に従わなかった長髄彦を最後は殺してしまった。 >>720
東征の参謀役となった速吸の門(鳴門海峡)の大人・宇志比古尊が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
何の縁も所縁も無ければ、こんなところに 「宇志比古尊」を祀るはずがない。
こんな事実を示せるのは、なぜか倭国(阿波)だけ。 @阿波 神武を佐けた霊剣・建布都神は、全国唯一、戦闘の地、阿波市の「建布都神社」で祀られている。
「建布都神社」 御祭神 武甕槌神
こういう事実を示せるのは、なぜか倭国(阿波)だけ。 @阿波 神武の神剣はフツノミタマノ剣、実物は石上神宮にある。 1世紀
倭奴国 漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
近畿銅矛圏の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
倭国大乱→卑弥呼即位により銅矛圏と銅鐸圏が和睦し同盟
出雲、吉備は従わず(狗奴国)
銅矛圏の王も廃されず伊都国に残る
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
3世紀前半
邪馬台国連合=北部九州、近畿
出雲、吉備は銅輸入ルートから締め出され、銅器を使わない独自の祭祀を開始
(出雲=四隅突出墓、吉備=特殊器台)
3世紀後半
吉備と畿内が和睦、前方後円墳体制スタート
4世紀前半
崇神らによる出雲征伐
4世紀後半
景行、神功、武内宿禰による九州・朝鮮遠征 4世紀中〜後半
九州・朝鮮遠征
メンバー:景行、神功、武内宿禰
(遠征の間、大和には大王が不在であるはずはなく、当然別の大王が在位し政治を行っていた)
4世紀後半
神功、武内宿禰、応神畿内帰国
応神の出生の秘密により大和からは腫れ物扱い、河内に王朝を立てる
河内大和二朝分裂(幕府と朝廷のように二重の権力が並立)
歴代河内王朝の王
初代 倭王禰=武内宿禰
倭王武の上奏文「祖禰は・・・」禰を祖と認識
二代目 倭王旨=ウマシウチ宿禰=武内宿禰の弟
百済から贈られた七支刀に「倭王旨に贈る」と記される
三代目 倭王讚=応神=ホムタワケほか諸説
四代目 倭王珍=仁徳ほか諸説
五代目 倭王済=反正ほか諸説
六代目 倭王興=允恭ほか諸説
七代目 倭王武=雄略
熊本と埼玉からワカタケルの鉄剣
「東は毛人の五十五国を征し、西は衆夷の六十六国を服し、渡りて海北の九十五国を平ぐ。」
八代目 清寧天皇→滅亡
6世紀前半
継体天皇が即位し二朝統合
地方を武力で押さえ付けていた河内王朝の滅亡により、中央集権が弱まり九州が半独立
→筑紫君磐井の乱 6世紀中盤
磐井の乱鎮圧により九州は独自の外交権を失う
三韓の争いにより朝鮮からの難民が増加
→仏教が伝来し皇族・豪族の一部が信仰を始める
蘇我氏が物部氏を滅ぼす
6世紀後半
仏教徒である聖徳太子が台頭
高い知能と行動力を有し尊敬を集める
聖徳太子派閥(推古天皇・聖徳太子・蘇我氏・秦氏)を作り次々と改革を行う
聖徳太子派閥の蘇我馬子が崇峻天皇をころしてしまう
(→再び二朝分裂)
7世紀前半
遣隋使のスタート(倭国が中国と結びたがるのは国内が内戦状態のとき)
新唐書「用明(アマタリシヒコ)初めて中国と通じる」
=河内王朝と聖徳太子王朝は継続した王朝ではない
蘇我馬子死亡、聖徳太子死亡
7世紀中盤
聖徳太子王朝はツートップの死亡により勢力を失う
→大化の改新によりとどめ、蘇我氏滅亡(秦氏も没落)
7世紀後半
蘇我氏、秦氏の没落により九州が再度半独立(蘇我氏は九州を支配し、阿蘇ピンク石を畿内輸入)
筑紫君サチヤマが白村江出兵→敗戦し捕虜にされる
九州、唐に占領される
天智、百済残党とともに唐軍引き上げ後の九州を支配
近江王朝を立て「日本国」を名乗る 7世紀後半
天智の近江王朝樹立(再び二朝分裂「倭国」と「日本国」)
天智死亡、壬申の乱勃発
天武が二朝(および九州)を統一し、改めて「日本国」を国号とする
旧唐書「日本は倭の別種 小国ながら倭を併合した」
新唐書「倭が日本を併合し、その名前を取り日本を名乗った」
8世紀前半
大宝律令制定
古事記、日本書紀の作成
「天皇」号成立 >>727-730
気持ちは分かる
が、鉄器が無いから4世紀まで北部九州と接続していない
以上。 一か所を月→日だけで、全て説明可能になるのですね。
もはや反論もなく、
考古学的にも確定でしょう。 月→日に変える必要は全く無い。かえって説明がおかしくなっている。 九州説でも畿内説でも、陸行一月は陸行1日の誤りだとするのが一般的だね。 そりゃあ弥生時代の日本に一月歩ける土地なんてないし
20日 10日 とくりゃ 1日だろ 食料とか下賜品とか荷物持ってるから、1日15kmくらいでしょ
30日で450kmですよ そもそも外国から招いた使者が通れるような道があったのか? ねーよ
陸行一日もほんの数時間か数十分歩いただけだろ
議論する価値すらない
伊都糸島首都で決定だろボケうぜえ >>736
邪馬台国を長野県にでも置くつもりかよ。
ボケ。 >>740
船で行くよ。
そもそも関門海峡を歩いて渡る気かよ。 >>741
水行なら10日、陸行なら30日でしょ
倭人伝は読んだほうがいいよ
当時関門海峡はつながってたのよ 全行程12000里を水行に換算すれば十日、陸行に換算すれば一月
と言う解釈も一般的ですよ。 『計其道里 當在會稽東治之東』 は、
邪馬台国への『道里』の説明であり場所の特定ではない。
楽浪帯方から邪馬台国の『道里』は洛陽から會稽東治への『道里』を東に移動したものに等しい
であり
その特定される道里行程の場所にある 『儋耳』=海南島 のような島
である、と言っている。 九州の説明として充分であり、
南水行十日=対馬海峡域三千里、陸行一月行=九州北部2千里、と同様に間違いではない。
中国人が知らなかった当時日本の首都は奈良だったはずだという、歴史学説のご都合主義で、
中国正史が定める方位道里を勝手に読み替えることがおかしい。
考古学的にも糸島を起点に5百里辺りの遺跡が該当していくだろう。
250年当時、大和朝廷は九州平定を終えていないし、九州の中国外交を知らない。
記紀は九州が古代から日本固有の領土と主張するが、捏造である。 >>742
>当時関門海峡はつながってたのよ
煽りか冗談ですね。 >>746
本居宣長が古事記伝で書いてるよ
「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」 関門海峡は岩場が続いていて船で通過はできなかった
岩を取り除いて整備したのが4世紀の神功たちだろ? だから関門海峡の上に陸地があって陸路で往来できたというわけではない >>751
関門海峡の最深部は45m
氷河期には深度120mくらいまでは陸地だったので、1万年前に陸続きだったのは確実
弥生時代の海進の進行度合いがどの程度だったかは不明 たぶん海進が進んでも、穴門と言われていたことからすると、海峡の狭いところの上部は続いたままだったんだろう
それを船が通れるように後の世に工事したと 4世紀の仲哀天皇の事績ですね。
あと、神功皇后は本当の皇后ではないでしょう。
仲哀の和風諡号は足仲彦ですが、神功皇后より前に足仲姫と結婚しています。
二人は景行天皇こと大足彦の孫であり、皇子も二人いました。
神功皇后は天皇家の血筋が非常に薄く、仲哀の存命中は皇子もいませんでした。
それが仲哀の死後、10ヶ月してから応神が産まれたのです。
また、神功皇后は仲哀の皇子二人を殺害しています。
天皇の諡号で神の文字が含まれるのは、新しい王朝の祖先神の意味だという説があります。
応神は、仲哀とは血縁ではないのでしょう。 那珂の女首長を嫁にだから 足仲姫ではなくて大中津比賣命, 大中姫な もうそれでいいよ
王墓もあったし、女性の装身具もあるんだから >>28
庄内式土器の分布や移動から、当時の権力の所在が分かる。
・畿内には河内と大和に局在
・九州は広範囲に分布、南限は熊本
・河内式は西方との交流が強く、九州にも分布
・大和式は東方との交流が強く、大和に局在
>>116-118
銅戈将軍は唐古鍵首長と結婚同盟して大阪湾上陸を果たした。
大阪湾に高地性集落が上陸=大阪湾の森林を伐採して
淡路島鉄工房へ燃料供給。
完成した鉄器ならびに、畿内からの租庸調=河内式の動きは、
北部九州内で同じように動いている。
瀬戸内海の輸送船で一緒に運ばれたのだから、
それを献上する地域も似てくるわけだ。
ここで注意が必要なのは、
北部九州で河内式が行き渡る地域とは、倭国権力者のいた地域。
よって、倭国そのものの領域はもっと広く、
それ以外の九州地域については、倭国に編入はされていたものの、
河内式を受け取る側ではなく、倭国権力者に納税する側だった、ということになる。 一方の大和式は動いていない。
>>28の原則を当てはめるなら、
大和には銅戈将軍とは「別の権力者」がいたことになる。
銅戈将軍が、唐古鍵と同盟して大阪湾上陸を果たしたのとおあいこに、
唐古鍵の首長も、銅戈将軍の援軍を利用して、周辺集落を従えたことになる。
銅戈将軍は、倭国のために、
>>283
黒歯国(河内式)や朱儒国(淡路島阿波紀伊)を運営した。
倭人なので、倭人伝に記載される。
唐古鍵の首長は内陸を支配し、周囲から徴税したのが大和式。
大型倉庫を作り、占領民を動員して古墳を作り、
つまりは大物主として一定期間君臨した。 黒歯国といえば河内から出土した弥生時代唯一のお歯黒は保存されてるのかな。
稲部遺跡の大型建物みたいなことになってなければよいのだが。 >>761
>稲部遺跡の大型建物みたいなことになってなければよいのだが。
Kwsk そういや銅鐸って一番作られてたのはどこなのかな
青銅器なら生産中心が権威の中心だよね 銅鐸が熊除けの鐘だとしたら銅鐸が多い地域は単に熊が多い地域に過ぎないのかもしれない
銅鐸単体で考えても意味はない
青銅器全体で考えないと 銅鐸の中心は出雲から畿内で
多いのは兵庫県付近だね。 九州はあるにはあるし鋳型も出ているが
古墳から出ているわけでもなく
数も少ないのであまり興味はなさそう。
他の銅器も多いからね。 材料となる銅が九州北部を経由しないと入手できないのだから、畿内の青銅器は全て九州北部産か、九州北部を経由した輸入品、それを鋳直したもの。 材料となる銅が九州北部を経由しないと入手できないし
銅鐸の鋳型も九州北部で出土してるから九州北部で販売用に作られたんだな。 九州の銅鐸は小さめで舌がついている
のもあるようだから、
音を出すのに使用された実用品で、
基本形というか原始形的な物だろう。
九州ではあるにはあったが、
重要視されることもなく
出雲から畿内にかけて伝わってから
祭祀具になり、大型化していった、
というところではなかろうか。 >>771
その通り
九州と近畿は仲の良い交易相手
九州と兄弟国の出雲は、近畿と領地を接していて仲が悪い
出雲と近畿の戦争を治めるために奈良で女王になったのが九州の卑弥呼 >>773
マクモニーグル説ですな
それしか考えられない >>771
出雲、隠岐は古代海洋国家。 出雲が後の大和政権でないならば、
奈良遷都建国以前の大和政権が出雲調略以前には九州の対馬交易を知らなかった。
糸魚川翡翠の流通は見えているので、
出雲は半島東部、まあ金海としても、直接交易可能だった可能性は高い。 >>775
出雲を倒して日本海側の交易権を独占して成立したのが筑紫伊都の倭国なんだけど。
わかっているのかな? 出雲は倒されてないよ
九州と出雲は銅矛圏の仲間だし 出雲が九州の傘下に入っても、結果的には同じように見えるはず。 いや銅矛圏から弥生後期に抜けてるんだよ出雲は
そのまま出雲抜きで前方後円墳時代に突入してる 四隅突出型墳が、大国主を倒した後の出雲国造家の墓だと思っているんだけど。 いや四隅始めたときは銅矛圏にも銅鐸圏にも属さない独立勢力になってるから
国造みたいな他国の任命を受けた人間ではないでしょ 平原の王の弟が出雲王で、平原王の娘が卑弥呼
卑弥呼からしたら出雲王は叔父
つまり長男筋の平原が本家で、出雲が分家だが、
出雲の王のほうが年上で長老的に振る舞ってたんだろう >>778
倭人伝が伝える250年の九州の状況で東征や半島進出は無理だ。
魏使を返した後、邪馬台国が存続可能だった可能性はほぼ無い。
九州王朝東遷説というのは畿内説のデタラメの上塗り的に異常。
倭の五王がわざわざ半島利権交渉で南朝に出向く理由も無くなる。
百済や高句麗との関係は物証が残るわけで高句麗馬の移入は北方馬賊の侵入じゃないよ >>784
平原遺跡の被葬者は女性だから、根本的に間違えている。
卑弥呼の前の王は倭国大乱より前になるし。 甕棺墓が広域に分布して甕棺墓王が伊都にだけ存在=中央集権
鉄器入手ルート独占
硯=文字使用
むしろ東征しないほうが説明を要する というか、はじめから西日本全域が筑紫倭国の支配下で、たまにうるさいのがいると叩いて、あとは全部植民地だったんじゃないかというくらい、九州北部と他の地域に格差がありすぎるんだけど。
鉄器も青銅器も外交も貿易も全て筑紫倭国が独占できるもんな。 倭人伝、後漢書の女王国は世襲制ですらなく九州北部三分の一の領土に二十数国
王位継承に二十数国の王が干渉し殺し合い隣の狗奴国と紛争の絶えない小国である。
この紛争に帯方郡の小役人に介入させる?どんだけ日本の概念の倭国王と程遠いか。
これが統一国と言えるか? ただの糞田舎の首長国の共立リーダーだろ。
卑弥呼の朝貢に対して倭王を任せた魏がアホであり滅びて当然である。
100年後には東国も九州も半島も平定して、百済から楽浪に道を開き
高句麗とも戦争して高句麗馬の移入を完了してるのが、畿内中国関東勢力だよ。
倭人伝の紛争絶えない250年の小国邪馬台国には東遷なんてしてる時間はない。 >>788
九州北部から日本各地に植民して行ったんだろうね
この植民行動に対抗した跡が畿内や瀬戸内海の高地性集落だな。 九州北部は狭いけれども、富というか利権が膨大だったんだよ。
博多湾岸を征したものが倭国王だったんだろ。 >>789
東遷じゃなくて九州北部からの東方植民だな。 それなら東征でいいんだよ。
そして、記紀に書いてあるのは東遷ではなく東征なんだよ。
記紀は虚々実々がギリギリのバランスで書かれていて、神武が大和に行ったことは書いてあるけど、都を移したとは書いてなく、あくまでも東征としているんだ。
当時の人から突っ込まれた時の逃げ道だったのかもしれない。 神武が大和に行った時には既に別の入植者が居たんだよな
次々と何回も入植が行われていたんだ。 水路として使いたいからくみ出してなかったんじゃない 気の農具しかない時代は水路も掘れなかっただろう。
まともに土地改良が進んだのが7〜8世紀だったんじゃないか? 上町台地の北端、現在の大阪城の北の水路は自然に形成されたもので、弥生時代には存在していたことが確認されており、難波の堀江は人工的に掘削されたものではない。 >>797
全国各地の平野が3世紀末から4世紀に一斉に作られてるみたいなんだよね。
平野に限ると、日本の国土は江戸徳川を除いてほとんどが
天孫族など北部九州海人族によって作られた気がする。
何らかの技術革新があったんだろうと思うけど、検討中。
知ってたら教えて。 農耕具として鉄器が使用され
弥生中期までは福岡、佐賀、大分で多く出土するが熊本では少ない
弥生後期になると熊本で急激に出土数が増える。
古墳時代に奈良で急に出土するようになるが、他の畿内ではほとんど発見されない。
農地の開発は弥生中期までには福岡、佐賀、大分地域で進み、弥生後期になると熊本で開発が進んだ。
更に遅れて古墳時代に奈良地域の開発が進み、その後に畿内も開発された。
古墳時代に九州北部の鉄器出土数が減少するのは朝鮮半島での戦闘に多くの鉄製の武器が消費されたことによる。
畿内の土地改良が進んだのが7〜8世紀だな。 神武東征は、武装難民船団による東方植民。
@安藝広島では入植失敗
A児島岡山でも入植失敗
B阿波徳島では阿波の敵である河内に侵攻を紹介され追払われる
C神武戦闘船団は、河内の外れ日下生駒山麓で敗戦し、河内湾から阿波傘下の和泉方面に敗走
E紀ノ川河口にて、阿波に残した女老子船団と再合流。 >>803
>農地の開発は弥生中期までには福岡、佐賀、大分地域で進み、弥生後期になると熊本で開発が進んだ。
倭国が筑紫を中心に成立し、豊国、肥国の順に拡大した。
卑弥呼が女王となる頃までに肥国は倭国の一部となり、4世紀以降はむしろ肥国よりも発展している。
卑弥呼が肥国出身と想定することは不可能ではない。
墓制から見ると、卑弥呼が筑紫の天孫族とするのは無理がある。
もちろん、倭国の都が伊都であり、平原遺跡が卑弥呼の墓であるという前提での話だけれど。 >>805
相変わらず「根拠となるデータがゼロ」の文章ですね。
墓制から見たら筑紫しかありえないでしょ。
肥国王家は無いね。 107年の時点で倭国が存在している。
ということは、倭国の王墓は甕棺墓だった。
で、平原卑弥呼が木棺墓だから、倭国を滅ぼしたのかと思いきや
魏志倭人伝でも卑弥呼の国を倭国と表現している。
つまり、倭国は倭国のまま、甕棺から木棺へ様式が変わっただけ。
ということはだ、筑紫王家ないでの系統争いに過ぎないってことだ。
肥国王家なるものが別にあるのなら、
倭国が消えて肥国なりなんなりに変わってるはずだろ。 てか、肥国王家の証拠が皆無なのによく粘るね。
野ヶ里関係者か地元の人なの? 筑紫から肥国に王家が移っても、都が伊都のままなら倭国だろう。
卑弥呼の直前に王統を揺るがす大乱があったことは魏志倭人伝にあるし、古事記では九州北部の国として筑紫、肥国、豊国などを明記している。
墓制の変更は考古学的な状況証拠になると思うけどね。
4世紀以降も筑後や肥国にそれなりの勢力が存続しているし。 >>810
ほらね。
何の根拠もない。
>卑弥呼の直前に王統を揺るがす大乱があったことは魏志倭人伝にあるし
倭国乱だね。
筑紫倭国王家での争いだね。
肥国なんて出てこないし存在しない。
>古事記では九州北部の国として筑紫、肥国、豊国などを明記している。
それがなに?
根拠になっていないことをわかっていないんだね。
>墓制の変更は考古学的な状況証拠になると思うけどね。
なんの?
じゃあ前方後円墳が終了したら天皇家はどうなったというの?
>4世紀以降も筑後や肥国にそれなりの勢力が存続しているし。
存続ではないね。
ようやく豪族が登場し始めただけ。
存続と言いたいのなら、3世紀以前の肥国勢力の考古学的証拠を示してね。 九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
少なくとも肥後は豊前より優勢に見える。
筑紫が倭国の始まりだが、数百年かけて倭国は拡大した。
佐賀熊本に入植した分家が力を蓄えるには十分な時間だと思うけどね。 >>812
何度も指摘されてきたでしょ?
その分布地図は5世紀6世紀の副葬品も入ってるって。
その地図の元データを見ると、熊本に威信材が副葬されるのは、4世紀以降。
それにもかかわらずその図を何度も呈示しては
3世紀の論争に使うのは、詐欺行為じゃない? 簡単に言えば、3世紀まで熊本には何らの宝物も副葬されていない。
王はいなかった。
>>812
繰り返すけど、その図を持ってきて3世紀のことを論ずるのは、
詐欺行為じゃないの? >>812
その図のデータを3世紀以前と以後に分けて正しく解釈するとこうなるよ。
×狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、
〇熊本には何の威信材も無かったのだから、伊都卑弥呼とは全く別の文化圏だった。
×上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
〇上記の地図は邪馬台国と狗奴国それぞれの王となりうるのは筑紫王家しかありえないことを示している。
〇北部九州の国、倭国の3世紀における中枢は、当然ながら、図の中で3世紀以前の副葬品が集中する筑紫であった。
×少なくとも肥後は豊前より優勢に見える。
〇3世紀まで肥後は何もない。
〇5世紀6世紀は肥後は豊前より優勢だったかに見える。 4世紀には筑後も筑豊もそれぞれの勢力がいたことが記紀から分かる。
しかも景行天皇や神功皇后など、王統の交代を示唆する話に事欠かない。
それよりも荒れていた2〜3世紀に王統の交代がなかった保証はないだろう?
4世紀の政変だって考古学的には証明が困難なんだから。 あと、地域としての筑紫への富と権益の集中を否定しているわけではないから。
肥国出身であっても、卑弥呼が伊都国にいれば、考古学的には筑紫でカウントされるのだろう?
天孫族が何かチョンボをやらかして権威が失墜して、遠縁の肥国の、久留米あたりの巫女首長が担ぎ出されたら、考古学的には証拠なんて残らない。 5〜6世紀になっても
畿内では誰も持っていないような宝物が
福岡や熊本からざくざく出てくるわけですな。 5〜6世紀に畿内より
遥かに裕福な王都が福岡や熊本に
複数あったというわけです。 3世紀に肥国はないでしょうね。
熊本はむしろ6世紀7世紀奈良飛鳥の石文化との共通点が興味深いところです。 まあ、7世紀までの九州の王都が
8世紀に畿内に移るのを
示しているのでしょうね。 4世紀はじめ、八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。 細かい国内の政治状況までは考古学ではわからない。
九州北部の筑紫倭国の一強時代であっても、その内部では大変な権力争いが行われていたはず。 考古学でわからない部分は記紀から再構築するしかないだろ?
記紀に描かれている、畿内というフィルターを通した九州北部は、倭国王権の座を巡って戦乱に明け暮れる土地じゃないか。 >考古学でわからない部分は記紀から再構築するしかないだろ?
考古学で分かる部分は認めない
記紀を恣意的に解釈して結論ありきの妄想を垂れ流す 記紀から再構築っつっても景行天皇以後の話を持ち出してどうする気なんだ。
邪馬台国の出てこない記紀でしかも景行時代からの逆算で推測となれば
いくらでも妄想が成立してしまう。
逆に考古学の補完が必要。
卑弥呼と神橿日姫が同じ系統である保証が無い。
甕棺から木棺卑弥呼に倭国王が変わるくらいだから、
卑弥呼と関係ない香椎の女性がたまたま倭国女王だっただけかもしれない。 神橿日姫と田油津姫の繋がりも根拠が無いうえに、
田油津姫は八咫鏡を持っていない。
百歩譲って神橿日姫と田油津姫が血縁だったとしても、
倭国王だった神橿日姫の子孫が各地にいて、
たまたま筑後にいた田油津姫だけが反乱を起こしただけの可能性もある。
なんで筑後の田油津姫が滅ぼされて、
神橿日姫の大勢いるかもしれない子孫が断絶したと断定できるのか。
日本の文献には邪馬台国は一切記載されていないことから、
かように穴がありすぎなわけで、妄想諸説だらけになるから、
考古学だけで勝負しようと言い出したのが大型建物を見つけた頃の畿内説。 考古学だけで決まるわけないじゃんw
妄想仮説が重要なんだよ だが、肥国に3世紀まで王は皆無。
という考古学的事実は揺るがせない。 記紀からの再構築をしていいのなら、
邪馬台国は伊都を中心とする九州北部沿岸の国家で、
狗奴国は筑後を中心として大分熊本などの国家。
景行天皇や息長帯姫が討った領域こそが、狗奴国領域。
とも読める。 >>835
この場合は、平原女王墓の前身とするにふさわしい木棺墓でしょ。 >>822
これ。
阿蘇ピンク凝灰岩を含めて石造文化が畿内進出。
まあ熊本や阿蘇を誰が制したかきになる。 神夏磯姫は八咫の鏡を持っていたのだから、血縁はともかく、倭国王の地位にいた「筑紫の梟師(たける)」すなわち女王であり、卑弥呼の後継者でしょう。
同様に、熊襲梟師(くまそたける)やヤマトタケルも王でしょう。
熊襲梟師がいたのは肥前河上(殺されるときに川上梟師に改名)で、実質的には肥国王です。
ヤマトタケルに襲われる前は筑紫野にいたとか。
記紀の記事の向こう側には、明示されていない別の王家の存在が透けて見えますよ。
それに、仲哀の頃の伊都高祖宮や筑紫岡田宮の主も、穴門豊浦宮の仲哀と同じく王家と呼べる存在だったでしょう。 >>834
>景行天皇や息長帯姫が討った領域こそが、狗奴国領域。
筑後平野(当時は肥国?)や豊前(豊国?)ですね。
筑紫の一族が肥国や豊国を攻略していますね。
でも、攻略相手にも邪馬台国の影が見え隠れするんですよね。
耳垂とか田油津姫とか。
そうすると、景行の九州征伐は天津神がリベンジして九州北部に再び足がかりを取り戻した戦いなのではないかと。
そうすると、卑弥呼即位から100年余の間、筑紫を治めていたのは何者? でも景行は阿蘇では戦わずに対談だけで終わるんですよね。
しかも九州南部には興味がなかったらしく、北部だけ巡幸して終わっています。
熊襲の支配域と肥国がほとんど被っていることなどを合わせると、熊襲は肥国王家の称号なのではないかと。
仮説だらけなのは承知の上で、一番矛盾が少ない説明を探さないと。 >>831
>神橿日姫と田油津姫の繋がりも根拠が無いうえに、
これは田油津姫らの支配地域だった夏吉の伝承。
>倭国王だった神橿日姫の子孫が各地にいて、
>たまたま筑後にいた田油津姫だけが反乱を起こしただけの可能性もある。
これはあり得ます。
仲哀の頃の香椎宮の主は息長垂姫だったわけで、こちらも神夏磯姫の末裔だった可能性はあります。
親戚同士の相続争いだった可能性もあるわけです。
巫女的性格の女性首長同士ですからね。 神阿蘇=カムアソ=クマソ=熊襲 でしょうな
神の阿蘇 中国の文献にて、107年に倭国があったことが明確なわけです。
日本の考古学にて、伊都に王墓があったことが明確なわけです。
そして伊都以外に九州において独立王と思われる王墓は無い。
その250年後に邪馬台国と狗奴国が争っている。
ということは、邪馬台国王も狗奴国王も出自は倭国王家=伊都王墓の系譜なわけで、
>>839
>攻略相手にも邪馬台国の影が見え隠れするんですよね
これは当然です。
両国の源流で、倭国の官制や倭国王の血筋が共有されているわけですから。
魏志倭人伝では台与と狗奴国はまだ争っており、
>>841
が真実なのでしょう。
そう考えると、神橿日姫=台与ということになり、
卑弥呼高祖宮→台与香椎宮となります。
狗奴国は筑後を本拠に、最初は奴国まで支配していたのが、
次第に敗走して南下し、最後の末裔のようなものが熊襲梟師。
南北朝時代の南朝に似ています。
邪馬台国は領土の拡大と共に、台与は300年使った伊都から不弥国へ遷都した。
畿内など東方への影響力が拡大した時期とも一致してきます。 >>844
大筋において同意します。
高祖宮の次が香椎宮でしょう。
筑紫倭国が拡大して行く過程で、肥国にも同祖である勢力が成立したでしょう。
>>844
>狗奴国は筑後を本拠に、最初は奴国まで支配していたのが、
>次第に敗走して南下し、最後の末裔のようなものが熊襲梟師。
ちょっと違うのは、のちに熊襲と呼ばれる勢力が筑後平野を中心に成立し、それが伊都まで進出して卑弥呼政権が成立していたのではないかという点です。
筑紫天孫族は男尊女卑だし、神武を最後に筑紫高祖宮を去っています。
一方、卑弥呼は卑弥弓呼と一文字違いで元より不仲というのは、同祖というよりさらに踏み込んで同系なのではないか。
そして女性首長といえば肥国の特徴です。
もう一つの傍証は、肥前河上のヨタ姫が壹與なのではないかということ。
これも卑弥呼、壹與らが筑紫ではなく肥国を中心とした勢力ではないかと考えた根拠です。
そのヨドヒメ神社は肥前一宮であり、先述の熊襲梟師がヤマトタケルに殺された屋敷は(落成祝いに女装したヤマトタケルが忍び込んで殺した)ヨドヒメ神社のすぐ裏手だそうです。
これはもう、卑弥呼と壹與と熊襲梟師、ついでに筑後から筑豊に進出していた田油津姫まて同族ということでしょう。
これを筑紫天孫族と区別するとき、なんと呼ぶべきか。
まあ、熊襲でもいいのかもしれませんが、あえて肥国王家と呼んでいるわけです。 あと、熊襲梟師の娘は景行天皇が火国造に娶らせているため、女系としては肥国王家を継承したという見方もできます。
まあこの辺りは書により内容がやや異なりますが。
あとは、神夏磯姫の称号の筑紫梟師や、熊襲梟師には、師という語が含まれているのが気になります。
梟師(タケル)が賊の頭領を意味するというのは後世の解釈であり、そもそもは筑紫倭国の王またはそれに準ずる立場を示していたのではないか。
一大率や太宰の帥と同じですね。 1つ気になることがあるのは神夏磯姫
カムナツシと訓読されることがあるようだがこれは カシ とも読める。そして神はミワとよむこともあるのでミワカシ=ミハカシ=御刀姫
ミハカシに刀を当てるのは
編纂時の当て字であろう。
音が先にあって漢字が当てられる
ミハカシ姫は景行天皇に妃の1人
豊国別を生む。日向のミハカシ姫とも呼ばれるが
この場合の日向は カシ 橿日と関係することばのような気がする。 高祖神社も香椎宮も調べると面白いので
ついそこが古代の重要ポイントと
思ってしまうことがあるが、
その他の無数の遺跡や宮もよく調べると
同じくらい興味深い資料があって
重要ポイントが増えすぎて困る。 高良玉垂宮や大善寺玉垂宮と
御塚権現塚古墳も興味深い。
御塚権現塚古墳は円墳あるいは
帆立貝式の可能性もあるほぼ円墳だが
お隣の郡の岩戸山古墳もほぼ同時期だが
こちらは前方後円墳なのだ。 ヨドヒメは伝承通りヨドヒメ。
神功皇后の妹であり、それ以上でもそれ以下でもない。
佐賀平野はもともと無く、
吉野ヶ里など甕棺墓集落が海沿いに並んでいた。
甕棺の単なる辺縁に過ぎない。
恵比寿信仰=コトシロヌシが多いのが、奴国オオクニヌシ政権の支配下にあった名残りだろう。
つまり須久岡本の領有する北部九州領土の最端だった。
倭国乱の後半にようやく佐賀平野の平地化が始まり、ポツポツと人が住み始める。
邪馬台国と狗奴国の戦いの最前線になって荒廃した跡地に、
邪馬台国側の海神族が入って来て、先進技術で干拓していったのだろう。
台与の時代にはまだ佐賀平野はほとんど水地。
神功皇后の時代になってようやく石高が増え、
振興土地としてヨドヒメに下賜され、
ヨドヒメが佐賀平野初の領主となったのだろう。 ヨドヒメ神社も妙に山奥にあるでしょ。
神功皇后の頃ですら、あの辺りくらいじゃないと貴人が住める状況では無かったんだよ。 【日本の歴史】
1世紀
倭奴国 漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
近畿銅鐸圏の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
銅矛圏の一部勢力(安曇氏)が大阪侵略(大阪湾型銅戈)→倭国大乱
→卑弥呼即位により銅矛圏と銅鐸圏が和睦し同盟
出雲、吉備は従わず(狗奴国)
銅矛圏の王も廃されず伊都国に残る
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
旧宗主国倭奴国王族の住吉氏、領地の朝鮮半島南部に亡命、新羅王として即位
(住吉神 中筒男=新羅王2代目 南解次次雄)
3世紀前半
邪馬台国連合=北部九州、近畿
出雲、吉備は銅輸入ルートから締め出され、銅器を使わない独自の祭祀を開始
(出雲=四隅突出墓、吉備=特殊器台)
丹波地方にいた住吉王族残党が新羅合流(丹波〜若狭湾は四隅突出墓の空白地帯)
(住吉神 底筒男=新羅王4代目 昔脱解) >>847
>カムナツシと訓読されることがあるようだがこれは カシ とも読める。そして神はミワとよむこともあるのでミワカシ=ミハカシ=御刀姫
>ミハカシ姫は景行天皇に妃の1人
>豊国別を生む。日向のミハカシ姫とも呼ばれるが
なるほど。
福岡には神夏磯と書いてカンカシと読む苗字があるので、それだと思っていましたが、景行天皇の妃ならピッタリですね。
私は卑弥呼(ピミカ)は日向のことだと思うので、その後継者の神夏磯姫も日向のミハカシ姫と呼ぶなら納得できます。
景行天皇は九州北部中の女性首長と子供を作り、その数80人と言われますが、その中でも筑紫女王であった神夏磯姫の子がそのまま豊国王になったということになります。 >>850
日本書紀は、九州北部の歴史を神功皇后で上書きしようとした。
卑弥呼を神功皇后に、壹與をその妹に見立てている。
伊都の語源にも適当な説を創作している。
本来の淀姫は、肥前の河上で干珠満珠という宝玉で潮の満ち引きを司り、聖地である岩山を磐座とする巫女首長だった。
干珠満珠の話は神功皇后に乗っ取られ、本人は神功皇后の妹に習合された。
すべては魏志倭人伝の九州邪馬台国がなかったことにするため。 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 與止日女については、久留米地名研究会のページが詳しいのですが、ここには貼れません。
ググってください。 >>857
時代観が無茶苦茶。
考古学を無視
文献は改竄
いくら長文を書こうが、
信用すべき土台が無い。 >>857
>與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
>後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
自分で自説の首を絞めてるじゃないか。
畿内にまで勧請された事実がある以上、
遥か後世にあちこちへ拡散したことが証明されてしまう。
3世紀には適用できない。
>この領域は邪馬壹国連合の一部であり
そもそも邪馬台国の領域が確定していないのに、この条件を設定すると
循環論法になるよ。
>その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
邪馬壹国連合の一部であることと、
壹與であることとが全く関連しない。
論理構成が極めて稚拙。 どこが改竄?
ちなみに後半はほぼ佐賀県の伝承そのままだから。
時代についても、壹與から景行天皇なら、3世紀末から4世紀初めであり、無茶苦茶というほどではない。
無茶苦茶と言うなら、4世紀末の神功皇后を絡めてしまった日本書紀の編纂者や後世の歴史家に文句を言うべきだ。 與止日女が畿内に勧請されたのは平安以降であり、それ以前から九州北部に分布していたのはもともとの支配域を反映している。
邪馬台国の範囲は、魏志倭人伝にある傍国のリストを福岡、長崎、佐賀に比定しているから(周旋5000里)。
その中でも、與止日女や田油津姫など、南側の方が邪馬台国に関連していると思われる人物が多く、九州北岸が筑紫天孫族と豊国王家の関連であるのと対照的です。 >>861
伝承のみを根拠に話してるの?
じゃあ、「與止日女が神功皇后の妹である」という、
とてつもなく重要な条件を消したらダメだよね。
でなければ、肥国王家を捏造するために、都合の良いデータだけを
チェリーピッキングしていることになる。
ただでさえ信頼性の乏しい伝承を元にしていて、
さらにチェリーピッキングまでして手を加えたら、
それはもうただの妄想作り話。
で、神功皇后の妹である與止日女=壹與であれば、
八咫鏡=倭国王(邪馬台国女王)の系統はどうなるの?
神橿日姫→與止日女=壹與?
與止日女=壹與→神橿日姫?
>時代観が無茶苦茶。 >>862
與止日女は神功皇后の妹で、田油津姫の敵でしょ。
旧邪馬台国系が、神功皇后や與止日女
旧狗奴国系が、田油津姫
八咫の鏡を持つ神橿日姫と、景行はお出迎えするほど仲良し。
当然、景行の跡を継ぐ仲哀+神功皇后+與止日女は、八咫の鏡=邪馬台国系
南の旧狗奴国系である田油津姫を滅ぼして、
新規獲得した肥前に與止日女が占領軍として入ったのでしょう。 >>863
久留米地名研究会のページで検証されているけど、神功皇后の妹説は、比較的新しい説になる。
與止日女が壹與だとして3世紀後半。
神功皇后、田油津姫は卑弥呼の120年後なら4世紀後半。
神夏磯姫は田油津姫の祖先とされていて、景行天皇と同世代なので、2世代遡って4世紀初め。
なので、卑弥呼、壹與、神夏磯姫、田油津姫の順で、間にも数人いるかも。
神夏磯姫までは八咫の鏡を持っていたけれど、そこで景行天皇と合流してしまう。
その後は九州に八咫の鏡は姿を見せない。
香椎宮の主は、壹與、神夏磯姫、仲哀、神功皇后など。
田油津姫の宮は香春宮とのことで、香椎宮ではなくなっている。 モモソを卑弥呼にしようとしてた時よりは大分レベルが上がったな >>865
信頼性ゼロ
久留米に卑弥呼を持ってくる結論ありきなわけですね。
よくわかりました。 景行天皇と神夏磯姫は共闘していたが、孫世代では仲哀、神功皇后と田油津姫は対立している。
内紛状態で、九州北部をさらに南北に分けて戦っている。
神功皇后は香椎宮、豊浦宮を拠点に、田油津姫は香春宮を拠点にしている。
決戦の地は筑後の山門(ヤマト)。
ttp://lunabura.exblog.jp/16637306/ >>867
あくまでも卑弥呼の宮は伊都高祖宮、墓は平原遺跡という前提ですよ。 >>852
【日本の歴史】
1世紀
倭奴国 漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民による海洋国家
後漢書「倭奴国(イト国)は倭の極南界」
2世紀前半
九州銅矛圏and近畿銅鐸圏
倭奴国の後継者の倭国王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「(倭面土国(イメント国)= 倭奴国(イト国))王帥升」
3世紀前半
邪馬台国連合=北部九州
出雲、吉備は倭種
4〜6世紀後半
銅矛圏の一部勢力が東方植民 肥国が最大限まで勢力を北に伸ばしたのが、卑弥呼から神夏磯姫までの時代で、伊都も香椎も門司も勢力下に治めていた。
それは畿内に逃避行して倭国の政権から脱落していて、後に記紀を編纂することになる天孫族にとっては、あってはならない黒歴史だった。
だから神功皇后の歴史で上書きして消そうとした。 おらが村が最大限まで勢力を北に伸ばしたのが、卑弥呼から神夏磯姫までの時代で、伊都も香椎も門司も勢力下に治めていた。
(ざまあw卑弥呼は久留米出身だぜぃ!
それは畿内に逃避行して倭国の政権から脱落していて、後に記紀を編纂することになる
天孫族にとっては、あってはならない黒歴史だった。
(ざまあw久留米>>>>>九大>京大だぜぃ!
だから神功皇后の歴史で上書きして消そうとした。
(久留米最強伝説の始まり 応和年間(961年〜963年)に僧千観が佐賀から勧請した京都市伏見区の與杼神社は
桂川右岸の川原になっているあたりで、古来より大荒木の森と呼ばれていた
「大荒木の森の雑草が生い茂れば、そんな場所は馬も好まず、刈りに来る人もいない」
河原者(かわらもの)
日本の中世社会において穢(けがれ)視された集団の呼称。
無縁的・境界的領域である河原に集住し,斃牛馬処理や葬送のほか寺社など〈聖なる場〉の清掃,
刑吏役,癩者の管理など,清め機能に深くかかわった。 >>872
肥国に王墓がない、という考古学的事実は無視でしょ。
伝承だけを元に肥国王家を主張しているのに、根幹の神宮皇后を否定したら、
田油津姫との対立など全ての話がパー。 神功皇后を丸々否定しているわけではないが、時代はとりあえず120年繰り上がっているね。
あとは地名などの由来もだいぶ怪しい。
しかし登場する他の人物との関係は手掛かりにはなる。 卑弥呼が担ぎ出されたことで肥国の地位か向上しても、卑弥呼が平原遺跡に葬られれば、肥国には王墓はないことになるね。 肥国の地位は向上してないじゃん。
吉野ケ里遺跡はどうなりましたか? 吉武高木の木棺王家が残ってて、担ぎ出されたと考えるのが妥当だろうな。
宗像の田熊石畑にも木棺墓の有力者が存在しているし。
地域は世界遺産にもなりました。 >>877
>だいぶ怪しい。
>手掛かりにはなる。
つまり妄想全開 >>880
つまり国津神の復活だよねえ。
古い王家が復権したわけだ。
それが肥国か宗像か誰なのかという話だろ。 国津神が木棺であるという根拠が無い。
>それが肥国か宗像か誰なのかという話だろ。
だから肥国に木棺の有力者は「ゼロ」。
吉武高木か宗像かという話にはなりうる。 弥生後期の王墓と思われる遺跡で
装飾品の出る女性王墓の候補
五丁中原遺跡群 縄文-平安 弥生後期-弥生土器+小型和製鏡+ガラス製小玉 熊本県熊本市北区和泉町
荒毛遺跡 弥生+古墳 鉄剣+ガラス玉+鉄鏃+人骨+刀子+土器(黒髪式+免田式) 熊本県人吉市下原田町荒毛
下山西遺跡 弥生 短剣+剣+小玉(ガラス製)弥生小型倭製鏡(内行花文鏡)銅鏃 熊本県阿蘇市乙姫下山西
平松遺跡 弥生後期 剣2+管玉1 熊本県上天草市波多/平松
本目遺跡 弥生後期後葉-古墳前期 土師器+弥生土器+銅鏡(破鏡、方格規矩四神鏡)+管玉1+ガラス玉18+鉄剣1+鉄鏃13)熊本県球磨郡あさぎり町免田 天津神以外は全て国津神だよ。
宗像は天津神の配下で役割があったから、天津神に分類してもいいかもしれない。 >>887
だからその根拠は?
天津神が甕棺って言いたいの?その根拠は?
国津神が木棺である根拠は? >>886
かなり立派だね。
熊本を中心とする勢力がいて、それが筑紫王家に反乱を起こした、
というのは誰しもが考えるストーリーだけど、
それだと10年ももたないんだよね。
だって鉄器も何もかもが壱岐対馬ルートなんだから。
だから、
壱岐対馬+伊都+東方倭種日本海沿岸
vs
筑後+熊本大分+瀬戸内海沿岸
くらいじゃないと、
狗奴国が弱すぎて倭国乱が成り立たない。
免田式土器の分布や石文化を持ち出すなら、
それこそ北部九州には入らずに(平原卑弥呼とは無関係で)
一線を画して繁栄してるんじゃないの? >>891
>だって鉄器も何もかもが壱岐対馬ルートなんだから。
そのための一大率なんじゃないの。
結局、倭国王を名乗るためには、筑紫伊都に入って対馬海峡と博多湾を支配する必要があるんだよ。
そんなんの関係ねえ、と独自路線を取ろうとしたのが狗奴国だったんだろう。 >>892
独自路線を取りたくても取れないでしょ。
結局、一大率の取り合い。
弥生熊本で挙兵しても取れるわけがないし、取れた形跡もない。
つまり伊都王家の内紛にすぎない。南北朝。 「各有名號 可得詳紀」と宣言したその口で
「一大率」の「名號」が取り沙汰されている
「一大率」の「名號」の所以の案くらいは考えられて然るべきだろう
残念ながらそのレベルに達するような先学がおったことはしらね >>893
>つまり伊都王家の内紛にすぎない。南北朝。
まあ、南北朝でもいいけど、結局天孫族が周りに愛想をつかされていられなくなったんじゃないの?
なんでかは知らん。
神武らが筑紫を出た理由こそ、大きな謎だよ。 謎ってどこが?
神武が赤ん坊で
卑弥呼が後見人として女王になったら
思いのほかうまくいきすぎただけだろ
魏が誤認して倭国王認定しちゃった
神武=崇神は全軍を委任されて
大分〜瀬戸内海〜畿内を制圧
景行が帰還して南部九州も制圧
卑弥呼の子孫が丁重に倭国王権を返上して
あとはそのマンマ 狗奴国と対峙中に全軍をやるわけないじゃん。
神武が引き連れて行ったのはせいぜい数十人程度だろう。 狗奴国が熊本だけなら全軍連れてっても問題ないっしょw 神武は十何年もかけて、行く先々でいろんな豪族のところにやっかいになりながら、先に東に行ったという饒速日大叔父さんを頼って行ったんだ。
都落ちだよ。 都落ちというのは中央での権力争いに敗れて落ちのびることを意味するが、
それで瀬戸内海を東進して兵站がもつのかね?
熊本狗奴国で成立する脳みそだから疑問を感じないのだろうねw 何年かけて行ったか知ってる?
あちこちに世話になったりしていたんだろ。 何年かけて行ったか知ってる?
あちこちに世話になって兵站がもつのかね? もたないから、住み込みで畑仕事の手伝いとかしてたんだよ。 あらら
肥国お得意の妄想ですかw
落ちのびる軍隊がバックアップなしに継戦できないでしょ。
倭国の正式軍隊として東征したんだよ。
そこを隠したいだけ。 戦ったのは畿内にたどり着いてからでしょ。
いやまあ、山の中で全滅したりしそうなこともありましたね。 宇佐古伝によると
神武ら一行は宇佐族の海民、のちの佐伯氏と戦闘。
継戦を嫌った宇佐族が和議を申し入れ
宇佐族の土地を与えて「屯田制」をしいたという。
(屯田制は記憶によると三国志でいう曹操の発案施行が初だから時代が合わないのだが)
要するに、養ってはやれんが、土地はやるから自力で生きていけと。
記紀の神武視点だと宇佐を服属させたことになると言う言葉のあや。
宇佐古伝では神武は東征途中で亡くなるので
いわゆる記紀の東征は時代を遡って記述されている疑いがある。
というのは、
出雲口承では宇佐古伝とその点一致しており
先に畿内入りしたのは、ウマシマジで
黒潮ルートで紀伊にたどり着いて
先着していた真の初代大和王朝初代 天村雲から始まる アマ王朝を打倒したという。
記紀の神武東征の瀬戸内ルートは崇神・垂仁の時代でちょうどそこが親魏倭王の卑弥呼の時代、3世紀だという。 天皇皇后両陛下 宗像大社参拝
他の神社は無視 価値なし >>916
理由は?
頭のビョーインに行ったほうが良いんじゃないのか? 日本の神話でも歴史でも良いけど、
何か知っていることは? >>904
九州内にも少しばかりの領土を持っていて
それを兵站基地に少しづつ瀬戸内海を東進して植民地を拡大していき
最後には植民地の方が広くなったんで植民地に永住したんでしょうね
何十も掛かって東方の植民地と九州の間を往来しなから東に移動した。 >>920
まず九州を拓けよ。 なんで九州を出たんだよ。 >>886
これをみると
熊本には一勢力があったとみなしても良い感じ。
墓制からいうと
南九州は人吉盆地より南と宮崎平野の
南九州の東西で違う分布だから
熊本 薩摩 日向 は別勢力か
豊領域は宇佐族
福岡は オオクニヌシの出雲族と天孫族?
熊襲の襲族は阿蘇外輪山から日向高千穂あたりのスサノオ系っぽいんだよなぁ。 >>922
>熊本 薩摩 日向 は別勢力か
>豊領域は宇佐族
>福岡は オオクニヌシの出雲族と天孫族?
>熊襲の襲族は阿蘇外輪山から日向高千穂あたりのスサノオ系っぽいんだよなぁ。
スサノオという部分を除けば正解だろう。
スサノオは大国主と同じ福岡だよ。 >>923
まず九州を拓けよ。 なんで九州を出たんだよ。 >>922
>>886は熊本をリストアップしたものですが、
結構条件が厳しく、かなりの遺跡が外れます。
条件は弥生後期、墓又は古墳、ガラス、玉が出土していること
福岡県 14
佐賀県 1
長崎県 13
大分県 4
熊本県 5
山口県 1
鳥取県 1
島根県 6
岡山県 11
広島県 5
奈良県 0
大阪府 11
兵庫県 11
京都府 26
京都府京丹後市大宮町周枳字左坂の
左坂古墳群がすごいですね。
ここだけで該当するものが11墳あります
あと、なんとなく、当時の領域が見えるような気もします >>921、>>924
九州内には有力が豪族が割拠して割り込む場所が無かったが
東を支配してる豪族は鉄の武器も十分に持っておらず弱そうだったから。 すでに親戚の饒速日が安定した政権(>925の京都)を確立していたから、お世話になったんだよ。
ちゃんと記紀には塩土爺から饒速日の話を聞いて旅立ちを決意したことが書かれている。
征服しに行ったんじゃないんだ。
都落ちなんだよ。 まあ、でも500年後にうっかり政権を取ってしまったので、祖先の歴史として過剰な演出とともに記録されたわけですよ。 九州莫迦は九州内では威勢がいいが、いざ畿内へとなると急にショボくなる >>931
過剰な演出が行き過ぎて歪曲になったんでしょう。
天皇家から見ると饒速日はあくまでも外戚の目の上のたんこぶで、しかも記紀を編纂したのは乙巳の変で饒速日の末裔の物部を失脚させた後なんですよ。 >>925
おお
これを見ると長崎が目を引く
令制国で分類とまた明確になるのかもしれんね
京都との繋がりを考えると
博多 出雲 丹波 の日本海ルートで
島根が薄い割には岡山が多い。 律令制というよりむしろ、もっと前の倭国創世の名残かもしれないですよ。
天津国が福岡県と長崎県なのでしょう。
以下、引用
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。 岡山は吉備ですかねえ。
考古学的にはいろいろあるのに、記紀などの史料での扱いが薄いですよね。
なんででしょう。
畿内説では重要視しているみたいですが、それにしても情報不足です。 >>940
千葉県もだな
前方後円墳の数多いのに記紀に言及がない 兵庫、京都、大阪も弥生時代の痕跡は多いのですが
各集落の関係や推移についての研究は余り見かけないような気がします。
ちゃんとした学問として行われている資料などがありましたら
教えていただけないでしょうか? >>925
どこか抜けてる県ない? あえて外してる? >>943
宮崎県、鹿児島県はゼロでした。
奈良県も書かなくてよいのですが、
知りたい人が多いだろうと思ってあえて入れました。 >>939
うーんわかるけど
長崎というと 島嶼部 と 有明海沿岸地域で別れるような気もするからね、、、
今の県境よりは
令制国の境の方が地形的な意味で自然な区分になってる部分があるから。
兵庫言うたら丹波丹後但馬播磨摂津を部分の寄せ集めで 一口に兵庫の西東で 全然意味が違うからね、、、 >>925
これは古墳という条件だから
3、4、5世紀ということかな?
玉造は元は出雲にあって次第に北陸に移って
継体大王以降の蘇我氏が奈良大和に
持ち込んで管掌したらしい出雲口承によると。 福岡県も博多湾岸、筑後、北九州で区別すべきでしょうね。
数はそれほど多くないので、地名で割り振りは可能ですが。 >>940
>>941
全く同意。有力な豪族が育たなかった?
吉備については、元二系統
吉備津神社と吉備津彦神社神社があるように。
神功皇后以降早い段階で韓地遠征に関係して、
上道田狭など吉備嫡系が大王家に征伐された事情が影響しているのかも。
下道の方は現地に細々と残ったけど、
神功皇后以前に東国遠征の主体となったのはこちらの方で、下道の系統は北陸東海に分布してる。 千葉は香取と鹿島が祭られているから、吉備よりは優遇されているかも。
でも具体的な伝承は何もなし。 >>942
まともに研究したら〇〇説がまったく成り立たないのがバレバレですからね。
考えないようにしているのでしょう。
>>925
街道の無い弥生時代に、水上交通にて長崎←福岡→丹後と広がっていった様子がよくわかります。
肥国王家なるものが存在しないのもよくわかります。 >>925
どこか抜けてる県ない? あえて外してる?
徳島県や香川県は? 女性王墓は奈良県にはないが
あとはだいたい、
どこにでもあるってことだな。 大和説が無理筋だとわかったので畿内説に広げたくらいだからね。
海上交通が主力の弥生時代に、海のない奈良盆地は発展のしようがない。 勾玉、管玉、ガラス玉などが出る墳墓は
鉄鏃や鉄剣もかなりの確率で出るようですね。
それだけ戦乱も濃いのでしょうか。 鉄剣は威信財だけれど、鉄鏃はなんだろうと考えて見たら、神武と饒速日が見せ合った威信財が天の羽羽矢だった。
もしかして鉄鏃は筑紫の天神の末裔の証として入れていたのかもね。 >>942
近畿V期の庄内直前の土器が二重口縁なのだが
口縁部は
東播磨 河内地域には大和地域との折衷型があって
東播磨から河内へ土器様式の影響があったかも
っていう論文を読んだことある。
なんとなれば前方後円墳の元も吉備にあるわけで
文化的な影響は一貫して西から東だったのではと
漠然と想像した覚えがある。 >>952
これは何か佐賀か鹿島の現地に
そうした伝承があるの?有名?? >>961
勾玉も近畿V期の二重口縁土器も前方後円墳の元も全部
阿波でしょ。 >>960
いやむしろ銅鏃の可能性も。
銅鏃はカルヤ
鉄鏃は真カゴヤと言われてたことから
ハハヤの音にはカルの方が近いし
産銅所としての香春岳もカハルが元で
kh音でkが脱落するとハ音になる。
そうすると近畿の銅鏃出土状況と照らし合わせないといけないけれども、、、
神武が持ち込んだのが鉄鏃なら近畿ももっと鉄鏃が出土していてもいい気がする。 近畿での鉄の生産が遅れていたからこそ、貴重な身元証明になったかもしれない。 当時は鉄器の原材料は朝鮮半島で調達してたから九州から関西に行ったら手に入り辛いからな。 >九州から関西に行ったら手に入り辛いからな。
そんなら、なんのために関西に行ったんだ? あほだったのか? 豊かであれば他所に行ったりはしないよ。
よほど貧しい土地柄だったか
主流派を外れて、好適地から
追い出されて新天地を目指しただけだろ。 やっぱり、九州説は畿内へ行く段になるとアホをさらすね >>968
倭人伝を読んでみろ
罪を犯した倭人は奴婢に落とされる
じゃあ、生口はどこからやってくるんだ?w >>972
じゃあ、九州を追われた神武が生口第一号だな やっぱり、九州説は畿内へ行く段になるとアホをさらすね 神武の東征は都落ちだが、饒速日は天孫族の絶頂の時だからな。
なんで東征したのか少し気にはなるが、やはり領土拡大ではないだろうか。 >>974
倭人伝を読んでみろ
罪を犯した倭人は奴婢に落とされる
じゃあ、生口はどこからやってくるんだ?w >なんで東征したのか少し気にはなるが、やはり領土拡大ではないだろうか。
いきなり遠方の関西まで飛ばさずに、まず手近の山口とかにしとけ! アホ九州 弥生時代は海上交通だからな。
生口を獲得しても一括輸送は難しかっただろうな。
送りきれない生口が反乱を起こさないように
常に酷使し続ける必要があっただろうな。 968
関西の連中は鉄の武器を余り持ってないから占領はし易い
占領は容易いが関西に定住すると鉄の武器が入手し辛い
饒速日はそれで神武に降伏した
その後に滅ぼされなかった神武は既に製鉄の技術を持っていたのだろ
つまり神武の東征の時期は製鉄技術が日本に伝わった後
製鉄が始まったのが北部九州で3世紀頃
本州で6世紀頃だから東征の時期は6世紀頃であろう。 >>991
倭人伝を読んでみろ
罪を犯した北部九州倭人は奴婢に落とされる
じゃあ、生口はどこからやってくるんだ?w やっぱり、九州説は畿内へ行く段になるとアホをさらすね >>986
畿内説のカキコだけがアホっぽくて内容も無くて
レスの無駄遣いだから、
帰っていただけると大変ありがたいです。 >>988
あなたがアホをさらしてるだけですけど。
あなたが現れるまで、普通の考古学論議が淡々と続いていましたよね?
何の情報も呈示できずに煽るだけなんて、
自分で惨めだと思いませんか?
恥ずかしいと思いませんか? 畿内説さんは知的障害者だから
スルーが一番だよ。
実社会では相手にしてもらえない分、
罵倒でもなんでも、相手してもらえるのが
一番嬉しいんだから。 神武の東征が6世紀頃となw あっぱれ馬鹿九州
ってことでおk? >>983
神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、天武がヤマト朝廷の系譜だ。 いきなり遠方の関西まで飛ばさずに、まず手近の山口とかにしとけ! アホ九州
ってことでおk? >>992
いやだめだ、九州説はもっとアホをさらすのだ やっぱり、九州説は畿内へ行く段になるとアホをさらすね
ってことでおk? このスレッドは1000を超えました。
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