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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part8 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001九州王
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2017/09/23(土) 22:50:54.37
水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。

邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1501461665/l50
0820日本@名無史さん
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2017/10/27(金) 19:38:50.43
5〜6世紀になっても
畿内では誰も持っていないような宝物が
福岡や熊本からざくざく出てくるわけですな。
0821日本@名無史さん
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2017/10/27(金) 19:40:57.41
5〜6世紀に畿内より
遥かに裕福な王都が福岡や熊本に
複数あったというわけです。
0822日本@名無史さん
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2017/10/27(金) 19:42:14.92
3世紀に肥国はないでしょうね。
熊本はむしろ6世紀7世紀奈良飛鳥の石文化との共通点が興味深いところです。
0823日本@名無史さん
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2017/10/27(金) 20:19:21.77
まあ、7世紀までの九州の王都が
8世紀に畿内に移るのを
示しているのでしょうね。
0824日本@名無史さん
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2017/10/27(金) 20:29:49.08
4世紀はじめ、八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 21:06:50.57
細かい国内の政治状況までは考古学ではわからない。
九州北部の筑紫倭国の一強時代であっても、その内部では大変な権力争いが行われていたはず。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 21:34:10.25
根拠の無い話は妄想だな。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 21:58:38.29
考古学でわからない部分は記紀から再構築するしかないだろ?
記紀に描かれている、畿内というフィルターを通した九州北部は、倭国王権の座を巡って戦乱に明け暮れる土地じゃないか。
0828日本@名無史さん
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2017/10/27(金) 22:38:04.19
考古学で分かる部分:肥国に国王はいなかった
0829日本@名無史さん
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2017/10/27(金) 22:40:30.13
>考古学でわからない部分は記紀から再構築するしかないだろ?

考古学で分かる部分は認めない

記紀を恣意的に解釈して結論ありきの妄想を垂れ流す
0830日本@名無史さん
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2017/10/27(金) 23:02:26.88
記紀から再構築っつっても景行天皇以後の話を持ち出してどうする気なんだ。
邪馬台国の出てこない記紀でしかも景行時代からの逆算で推測となれば
いくらでも妄想が成立してしまう。
逆に考古学の補完が必要。

卑弥呼と神橿日姫が同じ系統である保証が無い。
甕棺から木棺卑弥呼に倭国王が変わるくらいだから、
卑弥呼と関係ない香椎の女性がたまたま倭国女王だっただけかもしれない。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 23:08:52.03
神橿日姫と田油津姫の繋がりも根拠が無いうえに、
田油津姫は八咫鏡を持っていない。

百歩譲って神橿日姫と田油津姫が血縁だったとしても、
倭国王だった神橿日姫の子孫が各地にいて、
たまたま筑後にいた田油津姫だけが反乱を起こしただけの可能性もある。
なんで筑後の田油津姫が滅ぼされて、
神橿日姫の大勢いるかもしれない子孫が断絶したと断定できるのか。

日本の文献には邪馬台国は一切記載されていないことから、
かように穴がありすぎなわけで、妄想諸説だらけになるから、
考古学だけで勝負しようと言い出したのが大型建物を見つけた頃の畿内説。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 23:11:50.87
考古学だけで決まるわけないじゃんw
妄想仮説が重要なんだよ
0833日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 23:13:17.85
だが、肥国に3世紀まで王は皆無。
という考古学的事実は揺るがせない。
0834日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 23:13:49.38
記紀からの再構築をしていいのなら、
邪馬台国は伊都を中心とする九州北部沿岸の国家で、
狗奴国は筑後を中心として大分熊本などの国家。

景行天皇や息長帯姫が討った領域こそが、狗奴国領域。

とも読める。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/27(金) 23:41:15.16
>>835
この場合は、平原女王墓の前身とするにふさわしい木棺墓でしょ。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 00:10:06.11
>>822
これ。

阿蘇ピンク凝灰岩を含めて石造文化が畿内進出。

まあ熊本や阿蘇を誰が制したかきになる。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 00:11:20.24
神夏磯姫は八咫の鏡を持っていたのだから、血縁はともかく、倭国王の地位にいた「筑紫の梟師(たける)」すなわち女王であり、卑弥呼の後継者でしょう。
同様に、熊襲梟師(くまそたける)やヤマトタケルも王でしょう。
熊襲梟師がいたのは肥前河上(殺されるときに川上梟師に改名)で、実質的には肥国王です。
ヤマトタケルに襲われる前は筑紫野にいたとか。
記紀の記事の向こう側には、明示されていない別の王家の存在が透けて見えますよ。
それに、仲哀の頃の伊都高祖宮や筑紫岡田宮の主も、穴門豊浦宮の仲哀と同じく王家と呼べる存在だったでしょう。
0839日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 00:17:46.12
>>834
>景行天皇や息長帯姫が討った領域こそが、狗奴国領域。

筑後平野(当時は肥国?)や豊前(豊国?)ですね。
筑紫の一族が肥国や豊国を攻略していますね。
でも、攻略相手にも邪馬台国の影が見え隠れするんですよね。
耳垂とか田油津姫とか。
そうすると、景行の九州征伐は天津神がリベンジして九州北部に再び足がかりを取り戻した戦いなのではないかと。
そうすると、卑弥呼即位から100年余の間、筑紫を治めていたのは何者?
0840日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 00:21:50.58
でも景行は阿蘇では戦わずに対談だけで終わるんですよね。
しかも九州南部には興味がなかったらしく、北部だけ巡幸して終わっています。
熊襲の支配域と肥国がほとんど被っていることなどを合わせると、熊襲は肥国王家の称号なのではないかと。
仮説だらけなのは承知の上で、一番矛盾が少ない説明を探さないと。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 00:28:48.35
>>831
>神橿日姫と田油津姫の繋がりも根拠が無いうえに、

これは田油津姫らの支配地域だった夏吉の伝承。

>倭国王だった神橿日姫の子孫が各地にいて、
>たまたま筑後にいた田油津姫だけが反乱を起こしただけの可能性もある。

これはあり得ます。
仲哀の頃の香椎宮の主は息長垂姫だったわけで、こちらも神夏磯姫の末裔だった可能性はあります。
親戚同士の相続争いだった可能性もあるわけです。
巫女的性格の女性首長同士ですからね。
0842subo
垢版 |
2017/10/28(土) 00:30:48.77
>>839

秦氏
0844日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 07:17:50.19
中国の文献にて、107年に倭国があったことが明確なわけです。
日本の考古学にて、伊都に王墓があったことが明確なわけです。

そして伊都以外に九州において独立王と思われる王墓は無い。

その250年後に邪馬台国と狗奴国が争っている。

ということは、邪馬台国王も狗奴国王も出自は倭国王家=伊都王墓の系譜なわけで、
>>839
>攻略相手にも邪馬台国の影が見え隠れするんですよね
これは当然です。
両国の源流で、倭国の官制や倭国王の血筋が共有されているわけですから。

魏志倭人伝では台与と狗奴国はまだ争っており、
>>841
が真実なのでしょう。
そう考えると、神橿日姫=台与ということになり、
卑弥呼高祖宮→台与香椎宮となります。

狗奴国は筑後を本拠に、最初は奴国まで支配していたのが、
次第に敗走して南下し、最後の末裔のようなものが熊襲梟師。
南北朝時代の南朝に似ています。

邪馬台国は領土の拡大と共に、台与は300年使った伊都から不弥国へ遷都した。
畿内など東方への影響力が拡大した時期とも一致してきます。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 08:47:39.01
>>844
大筋において同意します。
高祖宮の次が香椎宮でしょう。
筑紫倭国が拡大して行く過程で、肥国にも同祖である勢力が成立したでしょう。

>>844
>狗奴国は筑後を本拠に、最初は奴国まで支配していたのが、
>次第に敗走して南下し、最後の末裔のようなものが熊襲梟師。

ちょっと違うのは、のちに熊襲と呼ばれる勢力が筑後平野を中心に成立し、それが伊都まで進出して卑弥呼政権が成立していたのではないかという点です。
筑紫天孫族は男尊女卑だし、神武を最後に筑紫高祖宮を去っています。
一方、卑弥呼は卑弥弓呼と一文字違いで元より不仲というのは、同祖というよりさらに踏み込んで同系なのではないか。
そして女性首長といえば肥国の特徴です。

もう一つの傍証は、肥前河上のヨタ姫が壹與なのではないかということ。
これも卑弥呼、壹與らが筑紫ではなく肥国を中心とした勢力ではないかと考えた根拠です。
そのヨドヒメ神社は肥前一宮であり、先述の熊襲梟師がヤマトタケルに殺された屋敷は(落成祝いに女装したヤマトタケルが忍び込んで殺した)ヨドヒメ神社のすぐ裏手だそうです。
これはもう、卑弥呼と壹與と熊襲梟師、ついでに筑後から筑豊に進出していた田油津姫まて同族ということでしょう。

これを筑紫天孫族と区別するとき、なんと呼ぶべきか。
まあ、熊襲でもいいのかもしれませんが、あえて肥国王家と呼んでいるわけです。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 08:56:04.00
あと、熊襲梟師の娘は景行天皇が火国造に娶らせているため、女系としては肥国王家を継承したという見方もできます。
まあこの辺りは書により内容がやや異なりますが。

あとは、神夏磯姫の称号の筑紫梟師や、熊襲梟師には、師という語が含まれているのが気になります。
梟師(タケル)が賊の頭領を意味するというのは後世の解釈であり、そもそもは筑紫倭国の王またはそれに準ずる立場を示していたのではないか。
一大率や太宰の帥と同じですね。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 08:57:15.87
1つ気になることがあるのは神夏磯姫

カムナツシと訓読されることがあるようだがこれは カシ とも読める。そして神はミワとよむこともあるのでミワカシ=ミハカシ=御刀姫

ミハカシに刀を当てるのは
編纂時の当て字であろう。
音が先にあって漢字が当てられる

ミハカシ姫は景行天皇に妃の1人
豊国別を生む。日向のミハカシ姫とも呼ばれるが
この場合の日向は カシ 橿日と関係することばのような気がする。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 09:13:08.81
高祖神社も香椎宮も調べると面白いので
ついそこが古代の重要ポイントと
思ってしまうことがあるが、

その他の無数の遺跡や宮もよく調べると
同じくらい興味深い資料があって
重要ポイントが増えすぎて困る。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 09:17:58.94
高良玉垂宮や大善寺玉垂宮と
御塚権現塚古墳も興味深い。

御塚権現塚古墳は円墳あるいは
帆立貝式の可能性もあるほぼ円墳だが

お隣の郡の岩戸山古墳もほぼ同時期だが
こちらは前方後円墳なのだ。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 09:28:33.71
ヨドヒメは伝承通りヨドヒメ。
神功皇后の妹であり、それ以上でもそれ以下でもない。

佐賀平野はもともと無く、
吉野ヶ里など甕棺墓集落が海沿いに並んでいた。
甕棺の単なる辺縁に過ぎない。
恵比寿信仰=コトシロヌシが多いのが、奴国オオクニヌシ政権の支配下にあった名残りだろう。
つまり須久岡本の領有する北部九州領土の最端だった。

倭国乱の後半にようやく佐賀平野の平地化が始まり、ポツポツと人が住み始める。
邪馬台国と狗奴国の戦いの最前線になって荒廃した跡地に、
邪馬台国側の海神族が入って来て、先進技術で干拓していったのだろう。

台与の時代にはまだ佐賀平野はほとんど水地。

神功皇后の時代になってようやく石高が増え、
振興土地としてヨドヒメに下賜され、
ヨドヒメが佐賀平野初の領主となったのだろう。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 09:37:22.17
ヨドヒメ神社も妙に山奥にあるでしょ。
神功皇后の頃ですら、あの辺りくらいじゃないと貴人が住める状況では無かったんだよ。
0852日本@名無史さん
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2017/10/28(土) 12:40:41.55
【日本の歴史】

1世紀
倭奴国 漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」

2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
近畿銅鐸圏の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」

2世紀後半
銅矛圏の一部勢力(安曇氏)が大阪侵略(大阪湾型銅戈)→倭国大乱
→卑弥呼即位により銅矛圏と銅鐸圏が和睦し同盟
出雲、吉備は従わず(狗奴国)
銅矛圏の王も廃されず伊都国に残る
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」

旧宗主国倭奴国王族の住吉氏、領地の朝鮮半島南部に亡命、新羅王として即位
(住吉神 中筒男=新羅王2代目 南解次次雄)

3世紀前半
邪馬台国連合=北部九州、近畿
出雲、吉備は銅輸入ルートから締め出され、銅器を使わない独自の祭祀を開始
(出雲=四隅突出墓、吉備=特殊器台)

丹波地方にいた住吉王族残党が新羅合流(丹波〜若狭湾は四隅突出墓の空白地帯)
(住吉神 底筒男=新羅王4代目 昔脱解)
0853日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 13:13:48.23
>>847
>カムナツシと訓読されることがあるようだがこれは カシ とも読める。そして神はミワとよむこともあるのでミワカシ=ミハカシ=御刀姫
>ミハカシ姫は景行天皇に妃の1人
>豊国別を生む。日向のミハカシ姫とも呼ばれるが

なるほど。
福岡には神夏磯と書いてカンカシと読む苗字があるので、それだと思っていましたが、景行天皇の妃ならピッタリですね。
私は卑弥呼(ピミカ)は日向のことだと思うので、その後継者の神夏磯姫も日向のミハカシ姫と呼ぶなら納得できます。
景行天皇は九州北部中の女性首長と子供を作り、その数80人と言われますが、その中でも筑紫女王であった神夏磯姫の子がそのまま豊国王になったということになります。
0854subo
垢版 |
2017/10/28(土) 13:21:57.30
熊襲は熊・楚
0855日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 13:33:02.82
>>850
日本書紀は、九州北部の歴史を神功皇后で上書きしようとした。
卑弥呼を神功皇后に、壹與をその妹に見立てている。
伊都の語源にも適当な説を創作している。

本来の淀姫は、肥前の河上で干珠満珠という宝玉で潮の満ち引きを司り、聖地である岩山を磐座とする巫女首長だった。
干珠満珠の話は神功皇后に乗っ取られ、本人は神功皇后の妹に習合された。
すべては魏志倭人伝の九州邪馬台国がなかったことにするため。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 14:38:25.50
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 14:57:39.41
與止日女については、久留米地名研究会のページが詳しいのですが、ここには貼れません。
ググってください。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 15:59:04.95
>>857
時代観が無茶苦茶。

考古学を無視
文献は改竄

いくら長文を書こうが、
信用すべき土台が無い。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 16:06:13.40
>>857
>與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
>後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。

自分で自説の首を絞めてるじゃないか。
畿内にまで勧請された事実がある以上、
遥か後世にあちこちへ拡散したことが証明されてしまう。
3世紀には適用できない。

>この領域は邪馬壹国連合の一部であり
そもそも邪馬台国の領域が確定していないのに、この条件を設定すると
循環論法になるよ。

>その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
邪馬壹国連合の一部であることと、
壹與であることとが全く関連しない。

論理構成が極めて稚拙。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 16:09:51.87
どこが改竄?
ちなみに後半はほぼ佐賀県の伝承そのままだから。

時代についても、壹與から景行天皇なら、3世紀末から4世紀初めであり、無茶苦茶というほどではない。
無茶苦茶と言うなら、4世紀末の神功皇后を絡めてしまった日本書紀の編纂者や後世の歴史家に文句を言うべきだ。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 16:21:41.66
與止日女が畿内に勧請されたのは平安以降であり、それ以前から九州北部に分布していたのはもともとの支配域を反映している。
邪馬台国の範囲は、魏志倭人伝にある傍国のリストを福岡、長崎、佐賀に比定しているから(周旋5000里)。
その中でも、與止日女や田油津姫など、南側の方が邪馬台国に関連していると思われる人物が多く、九州北岸が筑紫天孫族と豊国王家の関連であるのと対照的です。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 16:22:38.87
>>861
伝承のみを根拠に話してるの?

じゃあ、「與止日女が神功皇后の妹である」という、
とてつもなく重要な条件を消したらダメだよね。
でなければ、肥国王家を捏造するために、都合の良いデータだけを
チェリーピッキングしていることになる。

ただでさえ信頼性の乏しい伝承を元にしていて、
さらにチェリーピッキングまでして手を加えたら、
それはもうただの妄想作り話。

で、神功皇后の妹である與止日女=壹與であれば、
八咫鏡=倭国王(邪馬台国女王)の系統はどうなるの?
神橿日姫→與止日女=壹與?
與止日女=壹與→神橿日姫?

>時代観が無茶苦茶。
0864日本@名無史さん
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2017/10/28(土) 16:26:58.16
>>862
與止日女は神功皇后の妹で、田油津姫の敵でしょ。

旧邪馬台国系が、神功皇后や與止日女
旧狗奴国系が、田油津姫

八咫の鏡を持つ神橿日姫と、景行はお出迎えするほど仲良し。
当然、景行の跡を継ぐ仲哀+神功皇后+與止日女は、八咫の鏡=邪馬台国系

南の旧狗奴国系である田油津姫を滅ぼして、
新規獲得した肥前に與止日女が占領軍として入ったのでしょう。
0865日本@名無史さん
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2017/10/28(土) 16:35:25.80
>>863
久留米地名研究会のページで検証されているけど、神功皇后の妹説は、比較的新しい説になる。

與止日女が壹與だとして3世紀後半。
神功皇后、田油津姫は卑弥呼の120年後なら4世紀後半。
神夏磯姫は田油津姫の祖先とされていて、景行天皇と同世代なので、2世代遡って4世紀初め。
なので、卑弥呼、壹與、神夏磯姫、田油津姫の順で、間にも数人いるかも。
神夏磯姫までは八咫の鏡を持っていたけれど、そこで景行天皇と合流してしまう。
その後は九州に八咫の鏡は姿を見せない。
香椎宮の主は、壹與、神夏磯姫、仲哀、神功皇后など。
田油津姫の宮は香春宮とのことで、香椎宮ではなくなっている。
0866日本@名無史さん
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2017/10/28(土) 16:39:21.26
モモソを卑弥呼にしようとしてた時よりは大分レベルが上がったな
0867日本@名無史さん
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2017/10/28(土) 16:48:25.84
>>865
信頼性ゼロ

久留米に卑弥呼を持ってくる結論ありきなわけですね。
よくわかりました。
0868日本@名無史さん
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2017/10/28(土) 16:51:08.02
久留米地名研究会っておらが村の村興し?
0869日本@名無史さん
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2017/10/28(土) 17:01:16.92
景行天皇と神夏磯姫は共闘していたが、孫世代では仲哀、神功皇后と田油津姫は対立している。
内紛状態で、九州北部をさらに南北に分けて戦っている。
神功皇后は香椎宮、豊浦宮を拠点に、田油津姫は香春宮を拠点にしている。
決戦の地は筑後の山門(ヤマト)。

ttp://lunabura.exblog.jp/16637306/
0870日本@名無史さん
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2017/10/28(土) 17:02:28.45
>>867
あくまでも卑弥呼の宮は伊都高祖宮、墓は平原遺跡という前提ですよ。
0871日本@名無史さん
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2017/10/28(土) 17:05:05.59
>>852
【日本の歴史】

1世紀
倭奴国 漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民による海洋国家
後漢書「倭奴国(イト国)は倭の極南界」

2世紀前半
九州銅矛圏and近畿銅鐸圏
倭奴国の後継者の倭国王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「(倭面土国(イメント国)= 倭奴国(イト国))王帥升」

3世紀前半
邪馬台国連合=北部九州
出雲、吉備は倭種

4〜6世紀後半
銅矛圏の一部勢力が東方植民
0872日本@名無史さん
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2017/10/28(土) 20:05:40.99
肥国が最大限まで勢力を北に伸ばしたのが、卑弥呼から神夏磯姫までの時代で、伊都も香椎も門司も勢力下に治めていた。
それは畿内に逃避行して倭国の政権から脱落していて、後に記紀を編纂することになる天孫族にとっては、あってはならない黒歴史だった。
だから神功皇后の歴史で上書きして消そうとした。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 20:49:37.42
伊都平原に久留米のおらが村が便乗
0874日本@名無史さん
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2017/10/28(土) 20:55:38.71
おらが村が最大限まで勢力を北に伸ばしたのが、卑弥呼から神夏磯姫までの時代で、伊都も香椎も門司も勢力下に治めていた。
(ざまあw卑弥呼は久留米出身だぜぃ!

それは畿内に逃避行して倭国の政権から脱落していて、後に記紀を編纂することになる
天孫族にとっては、あってはならない黒歴史だった。
(ざまあw久留米>>>>>九大>京大だぜぃ!

だから神功皇后の歴史で上書きして消そうとした。
(久留米最強伝説の始まり
0875日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/28(土) 21:38:00.76
応和年間(961年〜963年)に僧千観が佐賀から勧請した京都市伏見区の與杼神社は
桂川右岸の川原になっているあたりで、古来より大荒木の森と呼ばれていた
「大荒木の森の雑草が生い茂れば、そんな場所は馬も好まず、刈りに来る人もいない」
河原者(かわらもの)
日本の中世社会において穢(けがれ)視された集団の呼称。
無縁的・境界的領域である河原に集住し,斃牛馬処理や葬送のほか寺社など〈聖なる場〉の清掃,
刑吏役,癩者の管理など,清め機能に深くかかわった。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/29(日) 09:36:26.67
>>872
肥国に王墓がない、という考古学的事実は無視でしょ。
伝承だけを元に肥国王家を主張しているのに、根幹の神宮皇后を否定したら、
田油津姫との対立など全ての話がパー。
0877日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 10:13:22.51
神功皇后を丸々否定しているわけではないが、時代はとりあえず120年繰り上がっているね。
あとは地名などの由来もだいぶ怪しい。
しかし登場する他の人物との関係は手掛かりにはなる。
0878日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 10:14:45.10
卑弥呼が担ぎ出されたことで肥国の地位か向上しても、卑弥呼が平原遺跡に葬られれば、肥国には王墓はないことになるね。
0879日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 10:23:40.20
肥国の地位は向上してないじゃん。
吉野ケ里遺跡はどうなりましたか?
0880日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 10:26:06.86
吉武高木の木棺王家が残ってて、担ぎ出されたと考えるのが妥当だろうな。
宗像の田熊石畑にも木棺墓の有力者が存在しているし。
地域は世界遺産にもなりました。
0882日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 12:02:30.74
>>880
つまり国津神の復活だよねえ。
古い王家が復権したわけだ。
それが肥国か宗像か誰なのかという話だろ。
0883日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 13:44:17.45
国津神が木棺であるという根拠が無い。

>それが肥国か宗像か誰なのかという話だろ。
だから肥国に木棺の有力者は「ゼロ」。

吉武高木か宗像かという話にはなりうる。
0884日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 14:10:34.42
吉武高木は国津神だろ。
宗像は微妙だな。
0885日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 14:12:52.00
>吉武高木は国津神だろ。
根拠は?
0886日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 14:22:16.08
弥生後期の王墓と思われる遺跡で
装飾品の出る女性王墓の候補

五丁中原遺跡群 縄文-平安 弥生後期-弥生土器+小型和製鏡+ガラス製小玉 熊本県熊本市北区和泉町
荒毛遺跡 弥生+古墳 鉄剣+ガラス玉+鉄鏃+人骨+刀子+土器(黒髪式+免田式) 熊本県人吉市下原田町荒毛
下山西遺跡 弥生 短剣+剣+小玉(ガラス製)弥生小型倭製鏡(内行花文鏡)銅鏃 熊本県阿蘇市乙姫下山西
平松遺跡 弥生後期 剣2+管玉1 熊本県上天草市波多/平松
本目遺跡 弥生後期後葉-古墳前期 土師器+弥生土器+銅鏡(破鏡、方格規矩四神鏡)+管玉1+ガラス玉18+鉄剣1+鉄鏃13)熊本県球磨郡あさぎり町免田
0887日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 14:23:16.39
天津神以外は全て国津神だよ。
宗像は天津神の配下で役割があったから、天津神に分類してもいいかもしれない。
0888日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 14:28:19.18
>>887
だからその根拠は?

天津神が甕棺って言いたいの?その根拠は?
国津神が木棺である根拠は?
0889日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 14:34:04.21
>>886
女性の根拠は?
王墓の根拠は?
0890subo
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2017/10/29(日) 14:43:01.69
甕棺墓は徐福一族(秦氏)である
0891日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/29(日) 15:01:11.38
>>886
かなり立派だね。

熊本を中心とする勢力がいて、それが筑紫王家に反乱を起こした、
というのは誰しもが考えるストーリーだけど、
それだと10年ももたないんだよね。
だって鉄器も何もかもが壱岐対馬ルートなんだから。

だから、
壱岐対馬+伊都+東方倭種日本海沿岸
 vs 
筑後+熊本大分+瀬戸内海沿岸
くらいじゃないと、
狗奴国が弱すぎて倭国乱が成り立たない。

免田式土器の分布や石文化を持ち出すなら、
それこそ北部九州には入らずに(平原卑弥呼とは無関係で)
一線を画して繁栄してるんじゃないの?
0892日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 15:04:15.58
>>891
>だって鉄器も何もかもが壱岐対馬ルートなんだから。

そのための一大率なんじゃないの。
結局、倭国王を名乗るためには、筑紫伊都に入って対馬海峡と博多湾を支配する必要があるんだよ。
そんなんの関係ねえ、と独自路線を取ろうとしたのが狗奴国だったんだろう。
0893日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 15:19:04.10
>>892
独自路線を取りたくても取れないでしょ。
結局、一大率の取り合い。
弥生熊本で挙兵しても取れるわけがないし、取れた形跡もない。
つまり伊都王家の内紛にすぎない。南北朝。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/29(日) 17:23:13.42
「各有名號 可得詳紀」と宣言したその口で
「一大率」の「名號」が取り沙汰されている
「一大率」の「名號」の所以の案くらいは考えられて然るべきだろう
残念ながらそのレベルに達するような先学がおったことはしらね
0897日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 18:17:46.40
>>893
>つまり伊都王家の内紛にすぎない。南北朝。

まあ、南北朝でもいいけど、結局天孫族が周りに愛想をつかされていられなくなったんじゃないの?
なんでかは知らん。
神武らが筑紫を出た理由こそ、大きな謎だよ。
0898日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 18:23:46.37
謎ってどこが?

神武が赤ん坊で
卑弥呼が後見人として女王になったら
思いのほかうまくいきすぎただけだろ

魏が誤認して倭国王認定しちゃった

神武=崇神は全軍を委任されて
大分〜瀬戸内海〜畿内を制圧

景行が帰還して南部九州も制圧

卑弥呼の子孫が丁重に倭国王権を返上して
あとはそのマンマ
0899日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 19:51:56.26
狗奴国と対峙中に全軍をやるわけないじゃん。
神武が引き連れて行ったのはせいぜい数十人程度だろう。
0900日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 19:53:33.07
狗奴国が熊本だけなら全軍連れてっても問題ないっしょw
0901日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 19:58:29.12
神武は十何年もかけて、行く先々でいろんな豪族のところにやっかいになりながら、先に東に行ったという饒速日大叔父さんを頼って行ったんだ。
都落ちだよ。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/29(日) 19:59:55.17
その証拠は?
0903日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 20:00:56.97
記紀くらい読めよ。
そのまま訳しただけだぞ。
0904日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 20:04:44.02
都落ちというのは中央での権力争いに敗れて落ちのびることを意味するが、
それで瀬戸内海を東進して兵站がもつのかね?

熊本狗奴国で成立する脳みそだから疑問を感じないのだろうねw
0905日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 20:21:32.50
何年かけて行ったか知ってる?
あちこちに世話になったりしていたんだろ。
0906日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 20:22:33.38
何年かけて行ったか知ってる?

あちこちに世話になって兵站がもつのかね?
0907日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/29(日) 20:23:28.38
もたないから、住み込みで畑仕事の手伝いとかしてたんだよ。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/29(日) 20:27:30.81
あらら
肥国お得意の妄想ですかw

落ちのびる軍隊がバックアップなしに継戦できないでしょ。
倭国の正式軍隊として東征したんだよ。

そこを隠したいだけ。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/29(日) 20:34:00.10
やれやれだぜ
こいつも反日か
0912日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/29(日) 20:43:04.68
戦ったのは畿内にたどり着いてからでしょ。
いやまあ、山の中で全滅したりしそうなこともありましたね。
0915日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/29(日) 23:43:18.62
宇佐古伝によると

神武ら一行は宇佐族の海民、のちの佐伯氏と戦闘。
継戦を嫌った宇佐族が和議を申し入れ
宇佐族の土地を与えて「屯田制」をしいたという。

(屯田制は記憶によると三国志でいう曹操の発案施行が初だから時代が合わないのだが)

要するに、養ってはやれんが、土地はやるから自力で生きていけと。

記紀の神武視点だと宇佐を服属させたことになると言う言葉のあや。

宇佐古伝では神武は東征途中で亡くなるので
いわゆる記紀の東征は時代を遡って記述されている疑いがある。

というのは、
出雲口承では宇佐古伝とその点一致しており
先に畿内入りしたのは、ウマシマジで
黒潮ルートで紀伊にたどり着いて
先着していた真の初代大和王朝初代 天村雲から始まる アマ王朝を打倒したという。

記紀の神武東征の瀬戸内ルートは崇神・垂仁の時代でちょうどそこが親魏倭王の卑弥呼の時代、3世紀だという。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/30(月) 08:03:23.74
天皇皇后両陛下 宗像大社参拝

他の神社は無視 価値なし
0917日本@名無史さん
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2017/10/30(月) 08:34:28.08
>>916
理由は?

頭のビョーインに行ったほうが良いんじゃないのか?
0918日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/30(月) 08:36:52.74
日本の神話でも歴史でも良いけど、
何か知っていることは?
0919日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/30(月) 08:42:13.93
>>917
理由は参拝価値なしだから。
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。

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