邪馬台国畿内説 Part305
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1511957328/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核と した東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古ー 河内庄内W〜X ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、
メスリ、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
よって、倭人伝の里程にも「南」という方位にも、致命的な誤りが含まれていることに疑問の余地がない。(※)
具体的には、三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて「南至邪馬壹國」の「南」にも錯誤を認めない限り、倭地は会稽はおろか許都ほどの南としか認識出来ないことから、倭の中心地が「會稽東冶之東」と記述されることは有り得ない。
或いは、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※ 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里
楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里
南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪起点として、会稽より稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 1#okuyama
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BV型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BW型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蝉県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし
★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆q8leUXpsw. は今後、トリップを
1 ◆UiepmfCeDJqf に変更します。
★★★★★★★★★★★★★★★★★
識別かたよろしくお願いします。 何 慌てるの??????????
>>33と>>35
かぶってるよ
>>331 ◆q8leUXpsw. 2017/12/05(火) 18:28:58.73
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
>>351 ◆q8leUXpsw. 2017/12/05(火) 18:31:28.36
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
スレ主本当に人の意見聞かないね ブログがいいよ
下記も削除すべきと言ったでしょ
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる! ほんとだ
ニセスレだな
>>33と>>35
かぶってる 失礼しました
>>33と>>35は重複してました
心よりお詫び申し上げます エセすれ
>>321 ◆q8leUXpsw
FAQ29飛ばしてんな 奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>72
違う
奥山が1 ◆q8leUXpsw.を解読してしまった
★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆q8leUXpsw. は今後、トリップを
1 ◆UiepmfCeDJqf に変更します。
★★★★★★★★★★★★★★★★★
識別かたよろしくお願いします。 奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 裏切者
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ
奥山のバカ 奥山のバカ 奥山のバカ >>78
似非スレだ!
>>33と>>35 かぶってる
FAQ28から29が無くFAQ30に飛んでる
奥山???がトリップ解読してしまった 32 1 ◆q8leUXpsw. 2017/12/05(火) 18:27:05.16
1#okuyama
↑これか? 1 ◆q8leUXpsw. 2017/09/12(火) 06:05:40.18
Q 3世紀に畿内に馬はいたと解釈してよいか。
A 可です。 821 ◆q8leUXpsw. 2017/08/31(木) 19:28:57.38
私は逃げません
いつも必ず帰って来ます。 テンプレ不要
テンプレは個人の感想になってる
スレはコテハン個人の所有物ではない >>1さん
懐かしいですね
4棟連続して計画的に建築された大型建物群は3世紀前半のものと公式発表された
⇩
数棟連続して計画的に建築された大型建物群は、3世紀前半のものと公式発表された
⇩
計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)
「六拾弐病」 が一番古いネ・・・ここからスレ主さんが変な方向に向かいましたね >>85
えーーーー
このスレ岡上に乗っ取られたの どうでもいいじゃん
このスレのいいところは、畿内説を介して日頃のウップン晴らすスレ
学問的な事は時折出せばいい
上司に馬鹿と言えないから、ここでは誰彼構わずバーーーカと叫べるじゃん
24時間張り付いてる奴は本物のバーーーカ ここはエセスレ確定 キウスが仕組んだエセスレ
ここはエセスレ確定 キウスが仕組んだエセスレ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 1 :日本@名無史さん:2015/01/22(木) 00:07:58.84
邪馬台国の鉄板、畿内説のスレです 奥山誠義
オクヤマ マサヨシ / okuyama, masayoshi
研究者情報
研究者番号
日本の研究.com 研究者ID 日本の研究.com : 188804
科研費研究者番号 : 90421916
所属
2017年度
(平成29年度) • 奈良県立橿原考古学研究所 その他部局等 指導研究員
• 奈良県立橿原考古学研究所 資料課 指導研究員
※日本の研究.com内の研究課題情報などから、最近の所属情報を取得しています。研究者の現在の所属とは異なる場合があります 邪馬台国畿内説 Part1
1 :日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
畿内説の人、他説の批判ばかりしてないでここで思う存分語りましょう 私は奥山某ではありません。
トポロジー的な意味で(笑) 阿保か
奥山誠義じゃねーよ
もし本人なら 公務員倫理規定違反じゃねーーー 991 ◆q8leUXpsw. 2017/12/06(水) 00:24:30.32
テステス
1001 ◆q8leUXpsw. 2017/12/06(水) 00:26:53.24
私は奥山某ではありません。
トポロジー的な意味で(笑)
⇩
★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆q8leUXpsw. は今後、トリップを
1 ◆UiepmfCeDJqf に変更します。
★★★★★★★★★★★★★★★★★ ここはエセスレ確定 キウスが仕組んだエセスレ
ここはエセスレ確定 キウスが仕組んだエセスレ 👀 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>107
お早うございます。
今日は朝からでっかいウンコが出たので、
皆にご報告致します。
勿論トポロジー的な意味で(笑) >>109
本物のスレ主だな
狂ったんだろうな
家族に迷惑かけんなよ >>116
奥山で通せばいいんでねーの
何も悪い事してねえから
誰もトリ解読してねーよ
ちょっとしたミス
其の後の悪あがきはイカンがな >>120
岡上のせいにしようとしてるんだよ
⇩
1091 ◆q8leUXpsw. 2017/12/06(水) 07:33:30.80>>110>>115
>>107
お早うございます。
今日は朝からでっかいウンコが出たので、
皆にご報告致します。
勿論トポロジー的な意味で(笑) トリ変えないとこのトリで岡上がニセスレ乱立させるよ 前スレのまとめ
丙寅、司馬宣王囲公孫淵於襄平、大破之,
伝淵首于京都、海東諸郡平。 ←海東の諸郡が平定された
冬十一月、録討淵功、太尉宣王以下増邑封爵各有差。
初、帝議遣宣王討淵発卒四万人。
議臣皆以為四万兵多、役費難供。 ←兵站コストの議論
帝曰「四千里征伐、雖云用奇、亦当任力。不当稍計役費」 ←採算度外視を決定
遂以四万人行。
四千里征伐は洛陽から遼東に遠征する距離が多大だ、というコスト談義である
景初二年の宮廷で 1里=約400m前提の議論がされてた
したがって古田の魏晋朝短里説は崩壊 >>125
★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆q8leUXpsw. は今後、トリップを
1 ◆UiepmfCeDJqf に変更します。
★★★★★★★★★★★★★★★★★
と宣言されてるから
今後◆q8leUXpsw. を使う奴はナリスマシだ あのーー
再三 テンプレ指摘受けてるんだが
このままでいいの・・・・
>>33と>>35 >>134
今後の奥山さんは◆UiepmfCeDJqf
◆q8leUXpsw. を使った岡上は悪質ナリスマシ >>128
>>60で◆UiepmfCeDJqfに変えてたのか
見落としてた >>138
奈良の観光業界や役所と関係あるのではないのかな、、、 丙寅、司馬宣王囲公孫淵於襄平、大破之,
伝淵首于京都、海東諸郡平。 ←海東の諸郡が平定された
冬十一月、録討淵功、太尉宣王以下増邑封爵各有差。
初、帝議遣宣王討淵発卒四万人。
議臣皆以為四万兵多、役費難供。 ←兵站コストの議論
帝曰「四千里征伐、雖云用奇、亦当任力。不当稍計役費」 ←採算度外視を決定
遂以四万人行。
四千里征伐は洛陽から遼東に遠征する距離が多大だ、というコスト談義である
景初二年の宮廷で 1里=約400m前提の議論がされてた
したがって古田の魏晋朝短里説は崩壊
ザラコク号泣 奥山誠義
オクヤマ マサヨシ / okuyama, masayoshi
研究者情報
研究者番号
日本の研究.com 研究者ID 日本の研究.com : 188804
科研費研究者番号 : 90421916
所属
2017年度
(平成29年度) • 奈良県立橿原考古学研究所 その他部局等 指導研究員
• 奈良県立橿原考古学研究所 資料課 指導研究員
※日本の研究.com内の研究課題情報などから、最近の所属情報を取得しています。研究者の現在の所属とは異なる場合があります。 304の>>985 (どうやらスレ間違いをしたようだからこちらに転写)
>丙寅、司馬宣王囲公孫淵於襄平、大破之,
伝淵首于京都、海東諸郡平。
冬十一月、録討淵功、太尉宣王以下増邑封爵各有差。
初、帝議遣宣王討淵発卒四万人。
議臣皆以為四万兵多、役費難供。
帝曰「四千里征伐、雖云用奇,亦当任力。不当稍計役費」
遂以四万人行。<
違うよ。
丙寅、司馬宣王囲公孫淵於襄平、大破之, 伝淵首于京都。
(こうして明帝は)海東諸郡平。
冬十一月、録討淵功、太尉宣王以下増邑封爵各有差。
(それは)
初、帝議遣宣王討淵発卒四万人。 議臣皆以為四万兵多、役費難供。
帝曰「四千里征伐、雖云用奇,亦当任力。不当稍計役費」 遂以四万人行。
(という事があったから)。
という文面なんだよ。
海東の楽浪帯方の討伐は、司馬懿には関係がなかったんだから。
>平定対象は海東諸郡 議論の議題は兵站コスト<
御前会議の議題は、遼東での征伐の困難さとその可否。
>平定対象は海東諸郡 議論の議題は兵站コスト<
明帝の平定対象は、公孫氏の直接的支配地の遼東と、楽浪帯方の海東の、両方。
司馬懿の征伐対象は、その内の遼東の方。 。304の>>988
>古田説の「遼東の東西(の征伐距離)≒4000里」説を、否定しよう、
明らかにインチキな言い訳説だから、否定しよう <
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、大和説者の、
「遼東の東西の征伐距離≒4000里」説の否定を、
否定しよう。
明らかにインチキな言い訳説だから、否定しよう 。 304の>>989
>>世間の皆様、魏志には征伐対象をは「遼東」だと、はっきり書かれているんですよ。<
>どこに?<
二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東。・・・
遂以四萬人行。及宣王至遼東、霖雨不得時攻、議臣或以為淵未可卒破、宜詔宣王還。
帝曰:「司馬懿臨危制變、擒淵可計日待也。」卒皆如所策。 304の>>990
>ここが崩れると、古田説は崩壊ですな <
古田説は、
始めから「南≠東」で盤石であり、
里程でも、魏志の韓の方四千里でなどとの一致や、
倭人伝伝の7000余里や渡海千余里や方四百余里やや方三百里や五百里や、
自郡至女王國萬二千餘里でも盤石であり、
このため、大和説は、既に崩壊しており、
ここでも崩れて、大和説は完全壊滅ですな。 304の>>992
景初二年の宮廷で、
韓の方四千里(短里)と一致する「四千里」を使って、
明帝の「四千里征伐」の議論がされてたんだから、
明帝や司馬懿や何晏らの魏朝も、確実に短里を使っていた、
という事になるな なる。 >>126
前スレのまとめ
明帝紀
丙寅、司馬宣王囲公孫淵於襄平、大破之, 伝淵首于京都。
(こうして明帝は)海東諸郡平(した事になった)。
冬十一月、録討淵功、太尉宣王以下増邑封爵各有差。
(それは)
初、帝議遣宣王討淵発卒四万人。 議臣皆以為四万兵多、役費難供。
帝曰「四千里征伐、雖云用奇,亦当任力。不当稍計役費」 遂以四万人行。
(という事があったから)。
という文面なんだよ。
海東の楽浪帯方の討伐は、司馬懿には関係がなかったんだから。
>平定対象は海東諸郡 議論の議題は兵站コスト<
御前会議の議題は、遼東での征伐の困難さとその可否。
>平定対象は海東諸郡 議論の議題は兵站コスト<
明帝の平定対象は、公孫氏の直接的支配地の遼東と、楽浪帯方の海東の、両方。
司馬懿の征伐対象は、その内の遼東の方。 >>135
祝、
長里説の死去と、
「邪馬台国畿内説」の大和説者の、仲間割れでの分裂分解、消滅。 >>149
違うよ。
明帝紀
丙寅、司馬宣王囲公孫淵於襄平、大破之, 伝淵首于京都。
(こうして明帝は)海東諸郡平。
冬十一月、録討淵功、太尉宣王以下増邑封爵各有差。
(それは)
初、帝議遣宣王討淵発卒四万人。 議臣皆以為四万兵多、役費難供。
帝曰「四千里征伐、雖云用奇,亦当任力。不当稍計役費」 遂以四万人行。
(という事があったから)。
という文面なんだよ。
海東の楽浪帯方の討伐は、司馬懿には関係がなかったんだから。
>平定対象は海東諸郡 議論の議題は兵站コスト<
御前会議の議題は、遼東での征伐の困難さとその可否。
>平定対象は海東諸郡 議論の議題は兵站コスト<
明帝の平定対象は、公孫氏の直接的支配地の遼東と、楽浪帯方の海東の、両方。
司馬懿の征伐対象は、その内の遼東の方。 >>150
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、スレ主や大和説者なら、
「四千里征伐」の「四千里」が「韓の方四千里」と同じだ、という事が判って、
論破された事が世間の人々にバレバレになってしまったので、
仲間割れして分裂して壊れてしまって、
逃亡したらしいよ らしい。 >>154
またウソついてる
どこにも
「征伐」対象が遼東だなんて書いてない >>162
>またウソついてる どこにも 「征伐」対象が遼東だなんて書いてない <
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者は、
またウソついてる。
明帝紀の「征伐」の対象は、遼東の事ばっかり書かれている。 >>163
>相変わらずどーでもいいレス。 レベルが低い <
可哀そうに。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、議論に勝てそうもない、と判ったのか?、
「どーでもいい」と、反論を諦めて、
「レベルが低い」という捨て台詞で逃げたようだな?。 とあるスレ参照
「ともみ教」だと言っている人がいたけど、これが正解 兄 弟(次男。書き込みをしているモレ。仮名。)
妹の本名 >>157
>海東の楽浪帯方の討伐は、司馬懿には関係がなかったんだから。
すべて明帝が決定して命じたものだよ あ-まdやってますのん?詔の標的は遼東(まちがいありません!
ただし伝いう字は主語の人の位置は変わっとらんよ?
公孫の首送ったあと海の東も平らげたんやな(たぶん
平らげる前にナンショウマイくんらはそこらへんとおってたんや(だいたいの公孫の兵士は本拠地に籠城してがら空きやったんやろ? せんそーのプロは兵站かたりアマはドンパチかたる(明帝さんらはどっちやったんやろなー?
とにかくプラズマせんせーには降参じゃ^^(参りました
他にさからっとるひとも降参せー(目くばせ 夫餘在長城之北去玄菟千里南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接北有弱水方可二千里戸八萬
里単位の話はここらへんからやりなはれ
だいたい160km四方のくくりなら8まんこいうのが妥当じゃろ? 数年前の信onというスレ
「国か、何かで宣伝しているんだろw」
代理人(役者。芸能。)が役を演じているんだろ、というような事を言っていたり 『たまごっち!』という作品を観てみるとわかる
ウサギ(ムーン?)のようなキャラクター、
妹と同じ名前の人間の女の子が出てきて・・・ ジョジョでいうと、
ディオ?のような技を使用したり、
正確には技ではないけど
時計が止まっているのか、
逆回りしているのか、そのようなシーン 『ボーボボ』
でググると、アメフト選手?のようなキャラが出てきたり
『たまごっち!』
というアニメにもあったような、アメフト・・・ラブリン 時をかける少女?
本当の名前「ともみ」だったという話なのかな、
何かの本当の子孫、末裔 5月15日生まれ
マイク・オーの某曲のMV、観てみた?
カブキロックスと同じ >>165
>明帝紀の「征伐」の対象は、遼東の事ばっかり書かれている。
公孫淵の本拠は遼東にあるんだから当然
でも公孫淵の勢力範囲は遼東だけじゃない
だから4000古田里しか討伐しないという不合理な珍説は不成立だね 確かウラシマンの関係者だよ
時間、時が何やら〜
遡る、若返り・・・そのような台詞 『日本昔話 姥清水』
清水を飲んでいる老婆がいたり、
観てみるとわかる 古田は「征伐」という言葉の意味を間違えてる時点でアウトなんだが 古田さんはムーの元ライターで自称学者のデムパです
東日流外三郡誌という本がネタ元でした ちなみに家は、
むかーし伊達郡というところの
山の上のほうに住んでいたと言っている
確かに、そうなっているし そんな事よりも
『山王院 山王宮』
などの話だよ
後に京都のほうから何やら〜、
無税で〜と書いてあるけど、特権階級? 公孫淵側は遼隧を20余里の環濠で補強するけど、古田でたった1キロ半?
ってことは直径500m?
そんなちっこい砦で、魏軍4万を食い止める気だったの?
公孫淵ってアホですか?
いえ、アホは古田信者です >>192
長里だと100キロ近い防衛線になる。
その方があり得ない。 邪馬台国の場所を知るには大事だろ。
帯方郡から朝鮮半島南岸まで七千里、対馬海峡が三千里だ。
邪馬台国は帯方郡から一万二千里なので、九州北部に収まるよ。 >>160
>ザラコクは無視しませんか<
世間の皆様、
大和説者は、議論に負けた事を自覚して、反論を諦めた、
ようですね。
スレ主や、春成や、奥山や、(東大の)斎藤ら、に対しても、忠告して上げて、
無視しませんか?。 >>195
>邪馬台国の場所を知るには大事だろ。
あほ >>196
ザラコクは>>192に反論できない
w >>194
この際、短里というトンデモ説を潰しとこうぜ >>205
20里が何キロかパッと出ない程度のオツムだし >>173
>夫餘在長城之北去玄菟千里南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接北有弱水方可二千里戸八萬
里単位の話はここらへんからやりなはれ
だいたい160km四方のくくりなら8まんこいうのが妥当じゃろ?<
短里説、有難うございます。 >>213
200キロとは現在の地名でどこからどこまでなんだ? >>181
>>明帝紀の(司馬懿の)「征伐」の対象は、遼東の事ばっかり書かれている。<
>公孫淵の本拠は遼東にあるんだから当然
でも公孫淵の勢力範囲は遼東だけじゃない
だから4000古田里しか討伐しないという不合理な珍説は不成立だね <
楽浪帯方は、「景初中、明帝密遣帶方太守劉kin、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡」」であり、
明帝は司馬懿には命令していない。
また、高句麗方面への「公孫淵の逃亡」も司馬懿は否定的であり、それを明帝は了承している。
だから、明帝の意図する「司馬懿の征伐」範囲は、ほぼ遼東付近だという事になり、
明帝の「四千里討伐」の「四千里」を、魏の東部から高句麗や韓にまで広げて、
「長里だ」とする大和説者の説も、✖。 >>184
大和説者は、「征伐」という熟語を、
「征して伐する」というように、中心的な行為は「伐」である、
という事の、
意味を間違えてる時点でアウトなんだが。 >>185
ここのトピ主や、大和説者や、春成や斎藤や奥山ら、というのは、
どこの三流学者なんだ?。 >>219
「征して伐する」でよい
辞書もそうなってる >>218
公孫氏の勢力範囲は遼東郡だけじゃないから
古田珍説は、ペケ >>216
唐津の中原遺跡か、唐津から前原までいくらなんでも200キロもないぞ
30キロもないな なんか昨夜から奥村で盛りがってるな
スレ主 奥村で通せばいいじゃん
オクムラ1#・・・・でいいじゃん
奥村で通して都合悪い理由なんて皆無 >>186
大和説学者らは、
安部自民政府や文部省や学会や教育界や読売産経NHKなどの、
人種差別的殺戮戦争のキョクウの国粋皇国史観の、高慢なタカ派の・・・・の勢力の、
まるでムーの元ライターの自称学者のデムパのような存在であり、
安本らの「東日流外三郡誌偽書説」という詐欺本に共鳴応援した・・・・アホでした。 >>224
やりとりが馬鹿らしいからでしょう
こいつは叫ぶだけで議論する気ないからね 奥村先生は自分で#okumuraでばらしてるじゃないか >>192
>公孫淵側は遼隧を20余里の環濠で補強するけど、古田でたった1キロ半?
ってことは直径500m? そんなちっこい砦で、魏軍4万を食い止める気だったの?
公孫淵ってアホですか? <
勿論「1.5kmの環濠の補強」なら、十分有り得る話だが、
そもそも、この話の出典は何?。 奈良県職員服務規程
奈良県教育委員会所属職員服務規程
桜井市職員服務規則 これか、保存した
321 ◆q8leUXpsw. 2017/12/05(火) 18:27:05.16
1#okuyama
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう! >>225
倭人伝は距離も方位も怪しい
というのが畿内説だから
何の問題もない >>235
奥山って誰?
明日奈良県教委に聞いてみる
別人じゃないか
服務規程違反までしてカキコしないだろう 夜間しかスレ立てしないのは服務規程違反を避けるためかな? 勤務中にきちがいみたいな利益誘導カキコしていいの?
職場の人から失笑されないの? 奈良県庁 〒630-8501 奈良市登大路町30
県庁代表電話番号: 0742-22-1101
桜井市役所
〒633-8585 奈良県桜井市大字粟殿432-1
Tel.0744-42-9111 奈良県立橿原考古学研究所
〒634-0065
奈良県橿原市畝傍町1番地
Tel:0744-24-1101
Fax:0744-24-6747
纏向学研究センター
〒633-0085 奈良県桜井市東田339番地
電話番号 0744-45-0590
okuyamaが公務員かどうかすら不明だというのに…
なんでここまで思い込みが正しいと信じられるのか >>223
公孫氏の勢力範囲は遼東郡だけじゃなかったけれども、
明帝が司馬懿に征伐を命じたの「遼東」だけだから、
大和珍説は、ペケ。 ザラコクじいさんは勤務時間中に社用PCから散々書き込んでるようだが ザラコク氏は退職して悠々自適に自宅でコーヒー片手に書き込んでいるのであろう。 >>246
>明帝が司馬懿に征伐を命じたの「遼東」だけだから、
そんな史料事実な無いな 文科省 研究振興局
〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号
代表電話:
03-5253-4111
一般社団法人日本考古学協会
〒132-0035 東京都江戸川区平井5-15-5(有)平井駅前協同ビル4階
日本考古学協会事務局 本人かどうか未確認なのに憶測で問い合わせようと思う思考に慄然 問い合わせの仕方によっては名誉毀損、威力業務妨害になる可能性があるな >>247
度重なると懲戒処分
ここ、けっこう見てるから、住民訴訟??? >>250
本人が何度も会社のパソコン使ってるって書き込んでるのに アクセスだけでも勤務時間中に怠慢しているわけだから
厳しい組織なら内部評価つまりボーナスや昇進に影響するの?
ましてはかきこみはやばいかも? >>257
職員が書き込むことで何らかの不利益をこうむっていなければ訴訟は無理でしょ
その前に書き込んでる人物を特定できなければ、ただの言いがかりだし >>236
>倭人伝は距離も方位も怪しい というのが畿内説だから 何の問題もない<
「倭人伝の距離も方位も怪しい」という事その事が、史料実態そのものから否定されたし、
大和説の距離は6倍位違うし、」であるから方位も「南≠東」であるから、
大和説は、問題大有り。 特定できてもいないのに、よくここまで突っ走るよな
九州説の思考回路はやはりおかしい このスレ立ったの2013年夏
2013年に何があったの? >>261
>「倭人伝の距離も方位も怪しい」という事その事が、史料実態そのものから否定されたし、
循環論法 >>244=>>1
テメーが「全一病」って言い出したのは何時だったっけ?
今では
「全奥山病」でいいんでねーの(笑) >>232
せんせー昨夜は酔ってしまい嘘はき大和説の肩をもってしまうよーな結果になってしまいましたことを深くおわびもーしあげます(いまもよってるが
1.5kmどころか周囲1000mの砦と兵1まんを任せてもあれば不肖それがしが4まんの軍勢を3年はくぎづけにしましょうぞ
出典巻8じゃね?こうそん伝ありますやろ? >>251
>>明帝が司馬懿に征伐を命じたの「遼東」だけだから、<
>そんな史料事実な無いな<
二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東 ・・・
帝曰「四千里征伐、雖云用奇、亦當任力、不當稍計役費」遂以四萬人行。及宣王至遼東 スレ主=奥山でいいじゃん
奥山もこだわる必要ないじゃん
奥山なんて名はどこでもあるじゃん じぶんのなまえトリップにつかうかのー(つれはふるねーむつこてたが^^
きらいな人の名前じゃね(てきとー >>267
ほらね
明帝は司馬懿に「遼東」の「征伐」を命じたりしてない >>268=>>271
釣られちゃいけないよ
ここは我慢することも覚えないとスレ主失格 >>262
方向も「南≠東」であるし、「6倍位も違うも里数」であるのに、
それでも尚も大和説とは、よくここまで突っ走るよな。
大和説者の脳の思考回路はの、やはりおかしい。 このスレ立ったの2013年夏
2013年に何があったの? みーつけたかも
渊遣将军卑衍、杨祚等步骑数万屯辽隧,围堑二十餘里。
これや! まえよんだとき直前に読んだ覇王の家(りょーたろー
とかぶったのおぼえとる(小牧長久手のくだり >>264
>>「倭人伝の距離も方位も怪しい」という事その事が、史料実態そのものから否定されたし、<
>循環論法<
「倭人伝の距離も方位も怪しい」という「結論先にありき」での解釈をして、
その結果「「倭人伝の距離も方位も怪しい」というのは、
循環論法そのもの。 >>276
2chじょーほう流出事件やん
テンパってた人いたなー >>273
詔ありましたやろ?(三国志よみかえしなはれ巻3 >>284
明帝は司馬懿に「遼東」の「征伐」を命じたりしてない ようわからんが
「全一病」ってアンチスレ主??????
だとしたら「全一病」と連投するのはスレ主???? >>286
どういういみやろ(なぞかけかのー(深いのー >>284
「遼東を討て」という詔だな
「遼東を征伐せよ」ではない >>292
その違いは4000里論争にどう影響しますのや?(不毛の積み重ねのような気がしますが >>293
通説のとおり
征伐の四千里は洛陽〜遼東ってこと >>291
奥山くん 暴れんなよ
本論にもどろう
距離はあきた >>296
それやったら征伐の方が都合ええと思うんじゃが(つかどっちでもええでしょ? >>299
>名誉のために言う・・5ちゃんだから
関係ないんだよ >>302
討伐するのは遼東を本拠にした公孫淵勢力だよ
そのために洛陽から四千里のかなたまで出征する 横から失礼いたします。
桜井市埋蔵文化財センターと纏向学研究センターの違いは?
纏向に特化したのが纏向学研究センター?
県立橿原考古学考古学研究所との関係は?
税金の無駄遣い???????????????????????????? >>266
>せんせー昨夜は酔ってしまい嘘はき大和説の肩をもってしまうよーな結果になってしまいましたことを深くおわびもーしあげます(いまもよってるが<
了解。
>1.5kmどころか周囲1000mの砦と兵1まんを任せてもあれば不肖それがしが4まんの軍勢を3年はくぎづけにしましょうぞ
出典巻8じゃね?こうそん伝ありますやろ?<
ご紹介、有難う御座います。
「漢籍の書棚」に、「『三國志』魏書 二公孫陶四張傳 公孫度」があったので、
取り合えず、流し読みして、
「二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。
淵遣將軍卑衍,楊祚等歩騎數萬屯遼隧、圍塹二十餘里。
宣王軍至、令衍逆戰。
宣王遣將軍胡遵等撃破之。
宣王令軍穿圍、引兵東南向、而急東北、即趨襄平。
衍等恐襄平無守、夜走。・・・」
の付近の記載の確認が出来ました。
司馬懿の遼東到着は、難升米らの帯方到着と同じ6月であったんですね。
また「淵遣將軍卑衍,楊祚等歩騎數萬屯遼隧、圍塹二十餘里」、ですから、緊急の 圍塹であり、
短里でよいようですね。 >>306
それやったら征伐でええやん(文句ないですがな >>307 okuyamaがスレ主だよな
>>308 その辺の事情はokuyamaに聞け >>310
勿論であります!(鼻ほじりながらの失礼お許しください! 奈良県の地方公務員の一部かほとんどか知らんが
出退勤デタラメと聞いたたことあるけど・・ >>311
言葉にいいかげんな奴は、アタマもいいかげん もう止めにしないか奥山、
寺澤先生に失礼だよ
終わり良ければ総て良し >>314
煽り杉や(とばっちりうけとるのほとんどわえやん?(こっちはどーでもええことでリャンメン圧力やで^^ >>273
>ほらね 明帝は司馬懿に「遼東」の「征伐」を命じたりしてない<
二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東・・・
初、帝議遣宣王討淵、發卒四萬人。
議臣皆以為四萬兵多、役費難供。
帝曰:「四千里征伐、雖云用奇、亦當任力、不當稍計役費。」
遂以四萬人行。及宣王至遼東、 >>285
>先にないよ<
スレ主が、
先に「方向も里数も信用出来ない」という事を先に決めていて、
その結果、「方向も里数も信用出来ない」という結論を出していたから、
循環論法。 >>306
>討伐するのは遼東を本拠にした公孫淵勢力だよ
そのために洛陽から四千里のかなたまで出征する<
洛陽から遼東までは、「征伐」の主たる行為の「伐」自体が、発生しないんだよ。 >>276
>このスレ立ったの2013年夏 2013年に何があったの?<
⇩
纏向で調べるといいよ 2012あたりから
畿内説が先走った感はいがめないけど 寺澤先生とは無関係です
先生は直接調査には携わっていません >>321
ほら
「遼東」の「征伐」を命じたなんて史料事実はない >>319
ごもっとも
研究機関がここ数年何も発表してない
もし発表するなら歓迎するが
畿内はもう無理、研究しても税金の無駄遣い
悔しかった、最近の研究成果述べよ・・畿内スゴイ税金投入 >>308
県の広報で5ちゃん利用したらだめなの? >>328
「伐」が「征伐」の主たる行為だっていう根拠は何よ? 奥山君 寝ようぜ
よかったじゃん小汚い爺が払拭できて
奥山君、明日はどうするの 小汚い爺で書き込むか 収集がつかないから
邪馬台国畿内説 Part305 を誰か立ててくれ
テンプレは長くて良し >>340
ここが邪馬台国畿内説 Part305だろ >>322
>古田短里20余じゃ遼隧を囲めないよ <
遼隧という場所の大きさも判らないし、
緊急撤退口を造っておかなければ、袋のネズミになって全滅してしまうから、
完全な円形ではないだろうし、
司馬懿が遼東に着いてから、圍塹をしたようだから、
8〜9kmもの圍塹は造れないだろうし・・・。 >>326
>(遼東を)命じてないね <
二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東・・・
初、帝議遣宣王討淵、發卒四萬人。
議臣皆以為四萬兵多、役費難供。
帝曰:「四千里征伐、雖云用奇、亦當任力、不當稍計役費。」
遂以四萬人行。及宣王至遼東、 >>332
>ほら 「遼東」の「征伐」を命じたなんて史料事実はない <
明帝紀
二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東・・・
初、帝議遣宣王討淵、發卒四萬人。
議臣皆以為四萬兵多、役費難供。
帝曰:「四千里征伐、雖云用奇、亦當任力、不當稍計役費。」
遂以四萬人行。及宣王至遼東、・・・。 >>334
>「征」が発生してます。<
「征伐」では、
「征」は「伐する事への大義名分的文言」であり、途中移動の大小は無関係であり、
「征伐」の実態的実行行為は「伐」する事。 >>335
>(スレ主の循環論法問題)先に決めていたという証拠は? <
スレ主は、
「魏志倭人伝の方向や里数」が信頼出来ないから、それを置いておいて、
別の情報から邪馬台国(zara注、邪馬壹國の事)の位置を決めたから、
「魏志倭人伝の方向や里数」は信頼出来ない、と決まった、
という事を、
テンプレにも記載してあった事と、
スレ主との議論でも、スレ主自身がしゃべった事。 >>337
>「伐」が「征伐」の主たる行為だっていう根拠は何よ?<
漢字での二文字以上の「合成熟語」では、
原則として、最後の文字が「主たる中心的意味」であって、
その前に書かれた文字は、「付加的形容詞的」若しくは「等価的意味」であるに過ぎず、
最後の文字を覆すような文字ではない、
という事。 >>352
明帝紀
二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東・・・
初、帝議遣宣王討淵、發卒四萬人。
議臣皆以為四萬兵多、役費難供。
帝曰:「四千里征伐、雖云用奇、亦當任力、不當稍計役費。」
遂以四萬人行。及宣王至遼東、・・・。
ほら 「遼東」の「征伐」を命じたなんて史料事実がない >>354
>スレ主は、
>
>「魏志倭人伝の方向や里数」が信頼出来ないから、それを置いておいて、
>別の情報から邪馬台国(zara注、邪馬壹國の事)の位置を決めたから、
>「魏志倭人伝の方向や里数」は信頼出来ない、と決まった、
>
>という事を、
>テンプレにも記載してあった事と、
>スレ主との議論でも、スレ主自身がしゃべった事。
テンプレのどこにそう記載してあって
スレ主が何時そうしゃべったの? >>350
>司馬懿が遼東に着いてから、圍塹をしたようだから、
根拠なし >>350
>緊急撤退口を造っておかなければ、袋のネズミになって全滅してしまうから、
>完全な円形ではないだろうし、
おいおい
城って城壁は巡ってないのか? >>350
>遼隧という場所の大きさも判らないし、
遼隧は県城だよ。吏民も住んでる。
前年に毌丘倹が攻めてきた時も、公孫淵はここで守り勝った。
そして数万人の軍が籠城する。
直径500mばかりの空堀で、この県城を囲めるものか。 当時の城なんてそれほど大きくないぞ。
500メートルもあれば十分。 公孫淵は遼隧に数十里(『三国志』には二十里、『晋書』には六・七十里ほどと記されている)の塹壕を掘り、司馬懿の軍を迎え撃ったと言われる。
遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固と見た司馬懿は、東南に退却したとみせかけて、国都の襄平に侵攻する。
公孫淵は遼隧の軍を撤退させ、都の守備に当たらせたが、防戦一方となり敗退を繰り返して、 司馬懿に襄平を包囲される テンプレの初歩的誤り。文献を読んでない誤り。
倭人伝 從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
狗邪韓國は倭の北の岸 (南岸ではない)
後漢書 倭在韓東南大海中 西北界狗邪韓國
狗邪韓國は倭の西北界 (東南界ではない)
1の書くような「半島南岸」ではなく
「西北界」 であり 「北岸」。
南岸ではなく北岸、西北界。
倭人伝 倭人在帶方東南大海之中 帯方郡の東南大海之中
後漢書 倭在韓東南大海中
「西北界」「北岸」が半島にあっても整合的
◆FAQ 55 Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融) 山東省の刺史が遼東と「接」訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 >>365
そんなちっちゃな砦に数万の兵隊が立てこもって魏軍4万に備えたんか? >>368
ごちゃごちゃ書いてるけど
何が誤りなのか不明だなあ >>368
もう少し自分の考えを整理してから書き込んでくれます? >>368
史料には「倭の北の岸」とか書かれてない件について >>365
それのどこが
司馬懿が攻略を諦めるくらい
堅固なんだ?
w
w
w >>357
>今自分の言った「合成」は?<
漢字での二文字以上の「合成熟語」では、
原則として、最後の文字が「主たる中心的意味」であって、
その前に書かれた文字は、「付加的形容詞的」若しくは「等価的意味」であるに過ぎず、
最後の文字を覆すような文字ではない、
という事の、
「その前に書かれた文字で付加的形容詞的若しくは等価的意味である文言。 >>358
>明帝紀
二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東・・・
初、帝議遣宣王討淵、發卒四萬人。
議臣皆以為四萬兵多、役費難供。
帝曰:「四千里征伐、雖云用奇、亦當任力、不當稍計役費。」
遂以四萬人行。及宣王至遼東、・・・。
ほら 「遼東」の「征伐」を命じたなんて史料事実がない <
司馬懿は、「討遼東」を詔書で命じられ、「及宣王至遼東」した。 >>359
>>スレ主は、
「魏志倭人伝の方向や里数」が信頼出来ないから、それを置いておいて、
別の情報から邪馬台国(zara注、邪馬壹國の事)の位置を決めたから、
「魏志倭人伝の方向や里数」は信頼出来ない、と決まった、
という事を、
テンプレにも記載してあった事と、
スレ主との議論でも、スレ主自身がしゃべった事。<
>テンプレのどこにそう記載してあって スレ主が何時そうしゃべったの? <
最近の「邪馬台国畿内説」スレで。 >>360
>>司馬懿が遼東に着いてから、圍塹をしたようだから、<
>根拠なし <
記載の順番。 >>375
>司馬懿は、「討遼東」を詔書で命じられ、「及宣王至遼東」した。
ほら、「遼東」の「征伐」を命じたなんて史料事実がない >>361
>>緊急撤退口を造っておかなければ、袋のネズミになって全滅してしまうから、
完全な円形ではないだろうし、<
>おいおい 城って城壁は巡ってないのか?<
おいおい、「城壁」なんて書いてないし、
城壁であっても出入り口のないものを作る筈もないだろ?。 >>374
いま自分の言った「合成」という言葉は
最後の文字が「主たる中心的意味」で
その前に書かれた文字で付加的形容詞的若しくは等価的意味である文言なの? >>362
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの・・・・アホの大和説者は、
嘘ばかりついてるね。 >>379
なら、堀であっても出入り口のないものを作る筈もないし
「完全な円形ではないだろう」
なんて空想は意味ないよな >>363
>そんなこと、誰が決めたんだ<
言語や漢文での言葉の並べ方に関する、人類の常識が決めたの。 >>383
そういうのが人類の常識だって
誰が決めたの? >>376
>>テンプレのどこにそう記載してあって スレ主が何時そうしゃべったの? <
>最近の「邪馬台国畿内説」スレで。
つまり、全く証拠がないのに
「循環論法だー」とか
中傷したのか >>377
じゃあ、自分の城が遼東郡の西端近くにあるのに、公孫淵は仲達が遼東郡に到着してから迎撃の軍前を出発させたと?
公孫淵ってアホですか?
いいえ、古田信者がアホです >>383
ザラコクは
「往復」って言葉を
その人類の常識に則って理解してるのか? >>364
>>遼隧という場所の大きさも判らないし、<
>遼隧は県城だよ。吏民も住んでる。<
それで、直径何メートル位の町なんだ?。
>前年に毌丘倹が攻めてきた時も、公孫淵はここで守り勝った。<
軍隊の人数からして違うんだろ?。
>そして数万人の軍が籠城する。<
籠城なんかしたら全滅だから、しないよ。
要するに、駐屯陣地だよ。
>直径500mばかりの空堀で、この県城を囲めるものか。<
県城って、そんなに大きいものなのか?。 >>390
>籠城なんかしたら全滅だから、しないよ。
>要するに、駐屯陣地だよ。
じゃあ何で城の守りを固めたんだ >>356
>原則として、最後の文字が「主たる中心的意味」であって、
ウソばかりつくな >>378
>>司馬懿は、「討遼東」を詔書で命じられ、「及宣王至遼東」した。<
>ほら、「遼東」の「征伐」を命じたなんて史料事実がない <
年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東。 >>398
二>年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東。
ほら、「遼東」の「征伐」を命じたなんて史料事実がない >>380
>いま自分の言った「合成」という言葉は
最後の文字が「主たる中心的意味」で
その前に書かれた文字で付加的形容詞的若しくは等価的意味である文言なの? <
違うね。
二字以上の語で出来た「熟語」では、
最後の文字が「主たる中心的意味」で、
その前に書かれた文字や文字群は、付加的形容詞的若しくは等価的意味である文言なの。 >>384
>そういうのが人類の常識だって 誰が決めたの?<
「正常な神経回路を持っている動物」が、何らかの情報を(周囲に)伝えようとした時の、
最も分かりやすく合理的な音声や語順を選択する事がや、
決めたの。 >>385
>>>(方向や里数に関しての、大和説の循環論法に関して)テンプレのどこにそう記載してあって スレ主が何時そうしゃべったの? <
>>最近の「邪馬台国畿内説」スレで。<
>つまり、全く証拠がないのに 「循環論法だー」とか 中傷したのか <
証拠がない、と言うんなら、
先にスレ主に聞いてみな。 >>406
やはり真っ赤な嘘だったか
さすがザラコク こんなふうにいつも
証拠を出すことを異常に嫌がるから
九州説は信用を失って亡んだ >>386
>じゃあ、自分の城が遼東郡の西端近くにあるのに、公孫淵は仲達が遼東郡に到着してから迎撃の軍前を出発させたと?
記載順であれば、最低、司馬懿が遼東到達前は、圍塹を造った事にならない。
>公孫淵ってアホですか? いいえ、古田信者がアホです<
いえ、公孫淵と「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つきダマシの大和説者が、
アホだったんです。 大群が迫ってるのに、公孫淵は喉元に迫るまで何もしないでいたの? >>392
>>籠城なんかしたら全滅だから、しないよ。
要するに、駐屯陣地だよ。<
>じゃあ何で城の守りを固めたんだ <
籠城は、
一カ所弱いところを見せて誘って攻め込まさせて全滅させるか?、
暗殺隊を遠くに迂回させて、背後から敵大将を直接やっつけるかしないと、
必ず負けるの。 >>409
「圍塹二十餘里」は「宣王軍至」の前に書いてあるよ。 >>412
>籠城は、
>一カ所弱いところを見せて誘って攻め込まさせて全滅させるか?、
>暗殺隊を遠くに迂回させて、背後から敵大将を直接やっつけるかしないと、
>必ず負けるの。
そんなこと誰が決めたんだ 九州説の爺さんは、そろいも揃って思い込みが強いなあ >>413
長里だと100キロだよ。
あり得ない。 >>417
100キロだって、1里は何メートルのつもりなんだ? >>417
九州説信奉者は限りなく白痴に近いという結論が出てしまうぞ 九州説のお人は東日流外三郡誌(笑)とか好きそうですなぁ〜 九州説老人は他人によく質問し
答えがないとか文句を言うが
自分は質問されても答えない >>429
畿内爺は偉そうなことをつぶやくくせに、質問には答えられない。
答えるとボロが出るから。 1 ◆q8leUXpsw.
1 ◆q8leUXpsw
スレ主は奥山だよ ★★★★<重要なお知らせ>★★★★
1 ◆q8leUXpsw. は解読されました
1 ◆UiepmfCeDJqf も解読されました
以後
1 ◆rnhO8n2QH2
★★★★★★★★★★★★★★★★★
識別かたよろしくお願いします。 >>448
okuyamaは実名でスレ主
岡上も実名だが、okuyamaは誰かれ構わず岡上連呼 >>393
>「征伐」は「出征」+「討伐」<
「征伐」は、「征して伐する」。 >>451
つまり、伐が始まる前の征だけの時でも
もう征伐は始まっている >>453
つまり「復」が「主たる中心的意味」だとか言うのは
ウソ八百 まだ距離談義
余所でやれよ 長すぎる 意地の張り合い
爺2人で占領 >>405
じゃあ、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する「人類の常識』外れの、嘘吐きダマシの大和説者が、
「〜は人類の常識外れだ」なんて、決めてはイカンな。 >>455
畿内説を罵倒し攻撃してるアンチ男が
どうして畿内説スレにやって来て
スレを仕切ろうとするんだ? >>455
畿内説のスレ
他説の談義は不要
テンプレも読め
>>17
>実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される
糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。
検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)<
>倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪起点として、会稽より稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。< >>407
やはり、スレ主には尋ねてみる事も出来ないし、しないような、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
大和説の下っ端のアホサギシであったか?。
さすが・・・・大和説者。 >>461
いや、ある意味で九州説の代表
九州説の悪徳を体現してる >>408
「南→東」などの史料事実の否定抹殺の嘘吐きダマシの大和説者は、
こんなふうにいつも証拠を出すことを異常に嫌がるから、
、大和説は信用を失って亡んだ 。 >>465
必要ないことは、しないのが普通
その説が正しいという証拠は
その説を主張する者が出す
他の人には
出す義務がない、 >>467
ザラコクは、ウソばかりついてるね
畿内説が、というよりマトモな人間が
自分説のの証拠を出すことを嫌がるわけがない
したというなら証拠を出すこと >>410
>大群が迫ってるのに、公孫淵は喉元に迫るまで何もしないでいたの?<
公孫淵は、毋丘儉の時と同じように、遼隧で防げる、と思ったんだろうし、
「歩騎數萬屯遼隧、圍塹二十餘里」すれば更に確かだろう、と思ったんでしょうね。 >>413
>「圍塹二十餘里」は「宣王軍至」の前に書いてあるよ<
問題になったのは、
「六月、軍至遼東。淵遣將軍卑衍,楊祚等歩騎數萬屯遼隧、圍塹二十餘里。宣王軍至、令衍逆戰・・・」
の「軍至遼東」と「圍塹二十餘里」との順番だよ。 >>414
>籠城は、
一カ所弱いところを見せて誘って攻め込まさせて全滅させるか?、
暗殺隊を遠くに迂回させて、背後から敵大将を直接やっつけるかしないと、
必ず負けるの。<
>そんなこと誰が決めたんだ<
歴史が決めた。 >>469
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの・・・・アホの大和説者は、
そろいも揃って、分裂幻覚の妄想の思い込みが強の。 すいません、トリ変えるの忘れてました
中身のある議論をお願いします >>419
「南→東」などの史料事実の否定曲解をしている嘘吐きダマシの大和説信奉者は大和、
限りなく白痴の詐欺師に近い、
という結論が出てしまうぞ 。 >>466
九州説といってもいろいろある。
ザラコクは古くて、現在ではむしろ少数派。 1 ◆rnhO8n2QH2 =スレ主
次回はテンプレ短くしろよ a round trip
往路と復路のルートは関係ないよ
往復100キロで片道50キロは単なる平均値
往路が70キロ 復路が30キロ
でも 往復100キロ >>420
大和説のお人は、
和田キヨエをダブらかして沢山の尿入り?一升瓶を和田家宅においたり、
詐欺師の桐原を使って古田さんから200万円を詐取したりした、
「東日流外三郡誌=偽書」説派とか嘘吐きダマシや、
「南→東」などの嘘吐きダマシが、
好きそうですなぁ〜。 >>422
大和説のお人は、
和田キヨエをダブらかして沢山の尿入り?一升瓶を和田家宅においたり、
詐欺師の桐原を使って古田さんから200万円を詐取したりした、
「東日流外三郡誌=偽書」説派とか嘘吐きダマシや、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシが、
事実好きだし、・・・・アホサギシに近い。 下記で書き込め
匿名はイカン
奥村1 ◆rnhO8n2QH2 >>429
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの九州説者は、
他人によく質問し答えがないとか文句を言うが、
自分は、「南→東」などの嘘吐きダマシの指摘をされても、
答えない。 >>932
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者には、知能なし。
あるのは、タカ派で高慢な唯我独尊の醜い怖い顔の、
キョクウヘイトスピーチの・・・・の脳だけ。 >>438
「南→東」なども史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者は、
大体いつも事実と反対のことを言ってるな。 >>452
>つまり、伐が始まる前の征だけの時でも
もう征伐は始まっている<
ほぼ同時に起こっている。 151日本@名無史さん2017/12/06(水) 10:53:49.52
奥山誠義
オクヤマ マサヨシ / okuyama, masayoshi
研究者情報
研究者番号
日本の研究.com 研究者ID 日本の研究.com : 188804
科研費研究者番号 : 90421916
所属
2017年度
(平成29年度) • 奈良県立橿原考古学研究所 その他部局等 指導研究員
• 奈良県立橿原考古学研究所 資料課 指導研究員
※日本の研究.com内の研究課題情報などから、最近の所属情報を取得しています。研究者の現在の所属とは異なる場合があります >>454
>つまり「復」が「主たる中心的意味」だとか言うのは ウソ八百<
「往復」の「往」と「復」とは反対語だから、同時に起こらないし、
「往」は何時でも起こり得るが、
「復」がなくては「往復」は成立しないから、「復」の存在の方が大事。
それに対して「征伐」の「征」と「伐」は類似語の関係だから、
「ほぼ同時」に起こり得る。 >>458
>「征伐」=「出征討伐」・・・辞書を否定するアホ<
辞書は、常に「違う文言での近似的な言い換え」での説明であるから、
」100%の完全は一致、にはならない、
という事も判らないのが、
人種差別的殺戮戦争の国粋皇国史観に狂った、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者。 奥山誠義 =纏向学の共同研究員
しかし5ちゃんには来ないよ
5ちゃんで論破されたら恥だもん >>462
>畿内説を罵倒し攻撃してるアンチ男が どうして畿内説スレにやって来て
スレを仕切ろうとするんだ?<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシをする、
人種差別的殺人戦争の国粋皇国史観のヘイトスピーチキョクウの大和説者が、
世間の人々を騙そう、としている事が、黙過し難いから。 俺、最近桜井駅前へ行ったことないんだ
だからグーグルストリートビューを見てる
あのエルトの壁面の汚れは何よ。ゴーストタウンそのものでしょう
いっときでもああいう汚いところを写真撮られて全世界放送させるなよ
電車の窓からも見えるでしょうに
あれは、ね、「来るな、近寄るな」と言ってるのと同義なのよ
ドヤ街、スラム街が胡散臭さを醸しだしてる
「ようこそ」と人を呼びたいのなら、掃除しろよ。メンテナンスできないのならああいう建物を作るな >>464
>畿内説のスレ 他説の談義は不要 テンプレも読め<
嫌だ。
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシをする国粋皇国史観の、
人種差別的殺人戦争狂のヘイトスピーチキョクウの大和説者が、
世間の人々を騙そう、としている事が、
黙過し難いから。 あと
箸墓のどぶさらい止めて欲しい
ゴミ増えるだけ 近所に悪臭したら訴えてやる >>1
okuyama、自分では判らんだろうけど臭いのよ。におうのよ >>464
>実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される
糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。<
自明ではない。
3海峡の間隔も、始めから有効数字1桁近似値であるから、
その範囲内の概数である、と理解しなければならないのであり、
各計測値の出発点と到着点も明確ではないのに「等距離」とはインチキであるし、
スレ主は、陳寿の行程記載の規則性も読み取れていない、のだから、「自明」という事もおこがましい。
>このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。
検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)<
いや、十分に実用に耐える。
実用に耐えないのは、「1里=434m」位の度量衡で解釈して、6倍位の差異が出てしまった大和説者の解釈。
>倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。<
変な男。始めから、帯方〜狗邪韓国が大体「東南7千里」であり、残りは5千里だ。
>楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、<
「楽浪が東北5,000里」なんて、どこから出て来たんだい?。
>楽浪起点として、会稽より稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。<
ダメだよ。
9000里は長里で3900km位であり、南北緯度差では35度位になり、
楽浪付近は北緯40度位だから、9000里南は、北緯5度位であり、
広東は北回帰線付近の北緯23.5度付近だから、全く合わないよ。 >>466
いや、スレ主や彼を応援する大和説者らは、ある意味で大和説の代表。
大和説の「南→東」などの嘘吐きダマシの悪徳を体現してる。 >>468
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は、
本来必要な必要な検証や反論に対する説明をすべきなのにしない、というのが普通らしい。
その説にとって都合の悪い証拠があれば、
本来はそれは、その説を主張する者が出すべき。
他の人は、出してなけければその事を批判すればよく、出す義務がない。 >>470
スレ主や大和説者は、ウソばかりついてるね。
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説は、
というよりマトモはでない大和説詐欺師人間が、
自分の説を否定する証拠を出すことを、好むわけがない 。
皆、それを隠す。
したというなら証拠を出すこと >>481
「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者の・・・・くん、
いい加減にしてくれませんか。 偽診断書で465日休暇、奈良 香芝市職員を懲戒免職
奈良県香芝市は24日、医師の診断書を偽造し、病気休暇や病気休職として不正に計465日間休んだ
福祉健康部保健センターの男性職員(24)を懲戒免職とした。不正は昨年4月から始まり、同8月からの1年余りは全く出勤していなかった。
あと、これどうなったの?(平成20年)
橿原考古学研究所の研究費が175万円紛失したということで、一昨日、急遽記者発表をさせていただきました。 okuyama、自分では判らんだろうけど臭いのよ。におうのよ >>482
卑弥呼や邪馬壹國の所在地といってもいろいろあった。
しかし、この掲示板の「南→東」の嘘吐きダマシの大和説は、
現在ではの、国民の3割位の支持者しかおらず、
むしろ少数派。 ご注意
>>506 >>515 >>516
書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。 >>519
まず「南→東」などの嘘吐きダマシのスレ主や大和説者らを追い出せら。
議論が進まん。 >>521
「南→東」などの嘘吐きダマシし大和説者を弾劾するスレだ。
ばかもん。 渡来人の支配
歴史を通じて、戦後まで半島に土着勢力による政権が存在したことは一度もない。
箕子朝鮮:中国人
衛氏朝鮮:中国人
新羅:秦人(中国人) 日本人
百済、高句麗:扶余(中国少数民族) 日本人
高麗:中国人
李氏朝鮮:女真族(中国少数民族)
朝鮮総督府:日本人
終戦後:アメリカ人 >>522
アホカ倭人伝で南に行ったら邪馬台国は海だぞ 南に行って黒潮に乗るのだ。
このスレは議論できる環境ではない。 >>525
阿保だろ
魏志の前に大陸からの文化は日本に来てるんだ
魏使だけが黒潮かい 理解不能 >>526
ごもっも
春秋戦国時代に銅鐸の技術は大陸から来てる 日本海側も瀬戸内海も敵だらけなのだ。いつ戦闘に巻き込まれるか分からない危険なルート。
卑弥呼を共立した勢力は30ヶ国。
日本列島には100ヶ国。
続く古墳時代は、戦を重ね全国平定に向かう時代。 ありゃりゃ(まじめに議論せー(プラズマせんせーに失礼やろ? >>528
ちゃう
古墳時代は群雄割拠
前方後円墳は流行
戦国期のお城よ同じ流行 追記( >> 1 も真剣に取り組んでるやん(あんまり荒らしたるな ザラコク程度のツッコミに対応できない畿内説が悪い。 草ぼーぼーはやして罵ってくる人みんけどどーしたん(ジョーカーやらなにやら
数日前にニュー速+で似たよーな癖のレスみかけたけど? >>532
せんせーに失礼やろ?(5chでは結局泥臭い粘りがさいきょーなんよ? フィリピンではっけん!(まーこじんじょーほーさらすのよしたれ とりっぷはおのがなひとのなしよーせず(シークレットまいはーと(くらきまいちゃんえーこえじゃの(そーとー呑んだ とーだいのつれにきーてもみかいけつ
ぷらずまなんじゃぷらずまなんじゃ そもそも弥生時代そのものが韓半島からの稲作伝来に由来するからな とらんぷはむすめむこけーゆであやつられてるんやね?(めるけるさけべどもむりやろ? >>541
おこめはだいじだよー(じょーもんはきのみにあらずくまやまんもすや(ききのがしてください 東京で邪馬台国女王卑弥呼一族の子孫(女系だけど)である女性宮司が刺されて殺されたらしい。 テンプレの初歩的誤り。文献を読んでない誤り。
「韓」 韓は帯方の南にあり、東西は海を以って限りとなし、南は倭と接し
「弁辰」其瀆盧国與倭接界 その瀆盧国倭と界を接す
「辰韓 」國出鐵韓濊倭皆従取之 国、鉄を出す、韓・濊・倭皆従いてこれをとる。
「倭人伝」從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
狗邪韓國は倭の北の岸 (南岸ではない)
「後漢書」 倭在韓東南大海中 其西北界狗邪韓國七千餘里
狗邪韓國は倭の西北界 (東南界ではない)
1の書くような「半島南岸」ではなく「西北界」 であり 「北岸」。
崇神天皇65年7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。
西暦200年頃「西北界」「北岸」からの朝貢。
後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始める。
『朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉』東京大学考古学研究室研究紀要. 第25号
◆FAQ 55 3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)倭人の国ではあり得ない。 >>546
朝鮮半島における弥生系土器の様相は、須玖T式古段階と須玖T式新段階の堺を画期として一変する。
弥生系土器の分布の中心地であった金海地域では、
須玖T式新段階以降の土器は集落遺跡内から出土することがなくなり、
T期に沿岸部や島嶼部において散発的に見られた擬弥生土器の分布も見られなくなり、
須玖U式の袋状口縁壺(A類・搬入)が在来の墓制である甕棺墓に副葬品として副葬されるなどの、
限定された分布様相となる。
弥生時代中期以降、勒島遺跡で弥生系土器は急激に減少する。
弥生時代後期初頭段階の土器もわずかに確認されているのみで、
時を同じくして勒島遺跡自体が解体され、交易拠点としての役割を終えると考えられる。
一方、原ノ辻遺跡では中期後葉段階までに環濠の埋没と船着き場の機能停止などの現象が見られるが、
後期前葉に再整備が行われるなど交易拠点として機能し続け、
4世紀中ごろ、楽浪郡の滅亡と時を同じくして集落が解体すると考えられている。
朝鮮半島での弥生時代後期初頭以降の弥生系土器の出土は極端に少なくなる。
「朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉」石丸あゆみ おはよう 奥山君
少しマシなスレになってきた
あとはテンプレを短くすることとザラコクを瞬殺すること
アラシはどこでもあるので無視 >>549
>>548
金海地域は弥生系土器の分布の中心地 ー 金海地域は弥生系土器の分布の中心地
ー 弥生式土器が在来の墓制の墓の副葬品になる >>553って、マジ日本語読めない人?
こりゃダメだ >>553
あのね・・・
「金海地域は弥生系土器の分布の中心地」ってのは
金海地域の土器の分布の中心が弥生系ってのとは
違う日本語だからね
わかる? >>553
しかも
>須玖I式新段階以降の土器は集落遺跡内から出土することがなくなり・・・限定された分布様相となる。
って書いてあるから、よく読んどけ。 ー 後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始める。
ー 金海地域(釜山任那あたり)は弥生系土器の分布の中心地
ー 弥生式土器が在来の墓制の墓の副葬品になる
「倭人伝」從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
狗邪韓國は倭の北の岸 (南岸ではない)
「後漢書」 倭在韓東南大海中 其西北界狗邪韓國七千餘里
狗邪韓國は倭の西北界 (東南界ではない)
1の書くような「半島南岸」ではなく「西北界」 であり 「北岸」。
「南岸」とは書いてない。「北岸」。
<解釈の違いではなく文献に書いてある「日本語」笑い。テンプレの初歩的な過ち> >>559
自分でなに言ってんの
まったく
九州説者って、高校生程度の基礎学力も無いのかよ >>558
あんたさぁ、石丸論文に何が書いてあるか
全く理解できてないっていうのは
かなり悲惨じゃないのか? >>559ですが
>>558とは別人です
石村論文は一研究者の意見であり、オーソライズされたものではない 韓人の国である金海のかたすみに交易に来てる倭人町があって、そこが半島での弥生系土器の分布の中心になってたが弥生中期も末には消えた
って話を、九州説の劣等脳はどんだけ誤解できるのか
朝から笑った >>561
石村論文より倭人伝、後漢書に何が書いてあるかが重要
まず、倭人伝を理解できないほうが悲惨
倭人伝無かりせば邪馬台国も無い・・これ常識 >>564
時代錯誤 倭人町があったの何時頃? 弥生中期って何時頃? >>566
何が、どう錯誤してる?
論旨を明確にしてね >>548
>朝鮮半島における弥生系土器の様相は、須玖T式古段階と須玖T式新段階の堺を画期として一変する。
弥生系土器の分布の中心地であった金海地域では、 須玖T式新段階以降の土器は集落遺跡内から出土することがなくなり、
T期に沿岸部や島嶼部において散発的に見られた擬弥生土器の分布も見られなくなり、
須玖U式の袋状口縁壺(A類・搬入)が在来の墓制である甕棺墓に副葬品として副葬されるなどの、 限定された分布様相となる。 <
石丸が、大和の事を一切触れない事を別にすれば、 T期とか須玖T式やU式とかの絶対年代をどうしているのか?が不明だが、
大体、古田説と整合性があるな。
金海地区の倭人は、当初は韓人と共存的集落を造っていたが、
その後、(倭人系の?)甕棺祭祀部族の支配、という状態になった、という事らしい。
>弥生時代中期以降、勒島遺跡で弥生系土器は急激に減少する。
弥生時代後期初頭段階の土器もわずかに確認されているのみで、
時を同じくして勒島遺跡自体が解体され、交易拠点としての役割を終えると考えられる。<
白井らの解釈と大体同じだな。
>一方、原ノ辻遺跡では中期後葉段階までに環濠の埋没と船着き場の機能停止などの現象が見られるが、
後期前葉に再整備が行われるなど交易拠点として機能し続け、
4世紀中ごろ、楽浪郡の滅亡と時を同じくして集落が解体すると考えられている。<
海峡交易の中心になっていた天孫族系の一大國や伊都国の倭人から、 博多湾岸の不彌國や弥生銀座の姫氏系になった、という事のようだな。
そして、姫氏系が317年頃に久留米付近に遷宮した事で、集落の解体が起こった、 という事だな。
>朝鮮半島での弥生時代後期初頭以降の弥生系土器の出土は極端に少なくなる。 「朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉」石丸あゆみ<
「日韓交渉」と書いているようなら、こりゃ、石丸は、古田本を読む事を上司から禁じられ、
石丸も「南→東」などの嘘つき騙しの上司の大和説に染められているアホであるようだな。 オレ様だけが倭人伝を理解できてるのだエヘン
という無教養からくる傲慢が
九州説の癌 >>572
禁じられなくても
学者はトンデモ本を読まないって 金海市には、良洞里遺跡や大成洞古墳群などの弥生時代に掛かる遺跡があり、
竪穴式住居や弥生式土器などの他に銅矛、銅剣、銅鏡、巴形銅器、石鏃形石製品、紡錘車形石製品なども出土しており、
北部九州の遺跡と共通する点が多い
邪馬台国は北部九州ってことでヨロシク 倭国大乱後だな、金海の弥生式土器は
金海の遺物は九州北部の遺物と共通点が多い
邪馬台国は九州北部で決まり >>560
自分でなに言ってんのかが判ってないの?。
まったく、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者って、
小学生程度の基礎学力も無い・・・アホの詐欺師なのかよ。 >>561
あんたさぁ、石丸論文がどういうスタンスで書いてあるか?が、
全く理解できてないっていうのは、
かなり悲惨じゃないのか? 。
「朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉」を見た瞬間に、
ああ、この女も、「倭韓交渉」と書かずに「日韓交渉」と書いたから、
列島は弥生の頃から大和日本国の支配下にあった、
という「大和説先にありき」の教育に洗脳されていたアホ大和説者だな、
と判るんだよ。 >>564
>韓人の国である金海のかたすみに交易に来てる倭人町があって、そこが半島での弥生系土器の分布の中心になってたが弥生中期も末には消えた
って話を、九州説の劣等脳はどんだけ誤解できるのか 朝から笑った<
金海付近での倭韓共存地域が、「須玖U式副葬の甕棺」部族支配時代に変わった、
という事が、判らんらしい大和説人種の頭はどうなっているのか?。
朝から笑った。 >>573
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者らの、
オレ様らだけが倭人伝を理解できてるのだエヘン
という無教養からくる傲慢が、
日本の古代史学会組織の癌。 九州説って
どうしてこんなに
知的レベルが低いの?
多少なりとも
歴史知識のある者なら
思わずこう慨嘆するだろう >>574
上司からて「大和説者以外の本は全部トンデモ本だ」と洗脳教育されて、禁じられて、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説本しか読まないって、
そりゃ、大和説学者の弟子学者も、皆、
国民のためにならず、国民の敵であり、・・・・アホだわな。 >>582
ザラコク、偏向してるなぁ
反社会勢力っぽいね
>>581
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘吐きダマシのの大和説者って、
どうしてこんなに 知的レベルが低いの?。
多少なりとも 歴史知識や良識や良心のある者なら
思わずこう慨嘆するだろう。 >>581
>多少なりとも
>歴史知識のある者なら
歴史知識のある者じゃなくて妄想にどっぷり漬かった者だな。 >>583
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説者って、
偏向してるなぁって。
人種差別的殺人戦争を鼓舞扇動するヘイトスピーチのキョクウ人種や、
やくざ暴力団のような、
反社会勢力の・・・・アホっぽいね。 最後は九州説、いつも>>584-586みたいに歴史の話から完全に離れちゃうね
いわゆる負け犬の遠吠えってヤツ? >>585
>>多少なりとも 歴史知識のある者なら<
>歴史知識のある者じゃなくて妄想にどっぷり漬かった者だな。<
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説者は、
歴史知識のある者じゃなくて、国粋皇国史観という分裂幻覚妄想に、
どっぷり漬かった・・・・アホサギシだな。 >>587
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシのの大和説、
いつも人種差別的殺人戦争国粋皇国史観みたいに、
「南≠東」問題などの歴史の話から完全に離れちゃうね。
いわゆる負け犬の遠吠えってヤツ?。 >>590
大和説さん、
「南→東」などの史料事実の曲解否定の嘘吐きダマシの指摘に対して、
反論が出来なくなって、
罵るだけですか?。 >>591
史料事実を吟味するのが史料批判で、歴史学では普通にすることだし、それを理由も言わずに嘘よばわりするのは、ただの中傷 >>592
>史料事実を吟味するのが史料批判で、
それを怠っているのが通説の人達じゃないんですかね。 >>592
>史料事実を吟味するのが史料批判で、歴史学では普通にすることだし、
それを理由も言わずに嘘よばわりするのは、ただの中傷 <
「南」に関する史料批判は、
これまでどの考証学者も校勘学者も、誰も「間違いだ」とはしなかった、
という史料実態や、
「南」という字形は、「東や北や西」と間違う可能性が全くない事や、
周髀算経や礼記などに書かれた東西南北を決め方が書かれているから、
魏の役人らの教養人が間違える可能性が全くない、
という事などの、史料批判は、
何度も書いた。 >>595
>「南」という字形は、「東や北や西」と間違う可能性が全くない事や、
>周髀算経や礼記などに書かれた東西南北を決め方が書かれているから、
>魏の役人らの教養人が間違える可能性が全くない、
>という事などの、史料批判は、
>何度も書いた。
それ、史料批判じゃないから >>596
>>「南」に関する史料批判は、
これまでどの考証学者も校勘学者も、誰も「間違いだ」とはしなかった、
という史料実態や、>「南」という字形は、「東や北や西」と間違う可能性が全くない事や、
周髀算経や礼記などに書かれた東西南北を決め方が書かれているから、
魏の役人らの教養人が間違える可能性が全くない、
という事などの、史料批判は、
何度も書いた。<
>それ、史料批判じゃないから<
何だ?、自分の方は、何故「それ、史料批判じゃない」のか?の理由を書かないのかい?。
卑劣な自己矛盾の・・・・サギシ男だなあ。
史料批判とは、対象史料の信頼性や、可能性の高低や、正否の確率などを吟味すること。 >>595
・・・
>という事などの、史料批判は、
>何度も書いた。
書くたび論破されてましたよねー。 >>599
>ムー古田の場合は南は関係無い <
古田さんは、第1書で「南」1にも史料批判されている。
そして、大和説者は、「南」の史料批判の議論では、的外れな批判ばかりで、直接的批判は全くなく、
完全に逃げている。 ほー石丸君ひっぱったのダックやろ?
つうか石丸君の素敵なデーター紹介みても弥生中期以降はなんたらかんたら(生ふいたわ^^
単純に交易ルートからはずれたんやろ?
それとそこらの縄文系は全滅したんちごて政くんから逃げてきたちゅおんくおれんらと混血文化融合天神化し馬を投げて暴れたんや?
一方長崎佐賀縄文人は黒潮で漂流したる刺青族と混血文化融合天孫化しジャマイカやクナとなっていたのであった(解決したな >>600
>史料無批判だろ?><
大和説者は、「南」に関しても史料無批判であり、
完全に逃亡。 >>602
>>・・・ という事などの、史料批判は、 何度も書いた。<
>書くたび論破されてましたよねー。<
と、口先でいくら「嘘つき誤魔化し宣伝」をしても、
このように、「論破した」という内容を全く書き出す事が出来ない。
それが、大和説者の」・・・・的な陰湿な詐欺性。 石丸さんは
倭国大乱後の金海の事を書いてるかどうか聞いてるが
聞いても、返事ないなぁ畿内説から >>605
>大和説者は、「南」に関しても史料無批判であり、
まさか
批判してるでしょ >>609
>>>>・・・ という事などの、史料批判は、 何度も書いた。<
>>>書くたび論破されてましたよねー。<
>>と、口先でいくら「嘘つき誤魔化し宣伝」をしても、
このように、「論破した」という内容を全く書き出す事が出来ない。
それが、大和説者の」・・・・的な陰湿な詐欺性。<
>出来ないって証拠は? <
「南→東」に関しての直接的な論拠は、見た事がない。
魏使らの記録とは全く関係のない話や、日の出方向の勘違い説を書いたアホはいたが、
いずれも史料批判にはならず、史料批判が出来なかった。
>出来ないって証拠は? < 史料批判の意味が分からない中卒
今日も安定の足手まとい >>610
>>大和説者は、「南」に関しても史料無批判であり、<
>まさか 批判してるでしょ<
「南→東」に関しての直接的な論拠は、見た事がない。
魏使らの記録とは全く関係のない江戸期の朝鮮通信使の話や、
日の出方向の勘違い説や、
スレ主のような「信頼性は不明だと言って、一旦棚上げをして、循環論法の騙し」を書いたアホはいたが、
いずれも史料批判にはならず、史料批判が出来なかった。 >>612
史料批判の意味が、「史料の信頼性の批判」である、
という事が分からない、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの、
国粋航行史観の戦争狂の・・・・アホの大和説詐欺師。
今日も安定の足手まとい。 576日本@名無史さん2017/12/08(金) 07:50:32.39
倭国大乱後だな、金海の弥生式土器は
金海の遺物は九州北部の遺物と共通点が多い
邪馬台国は九州北部で決まり 聖化(浄化)ね〜、
どこかから帰ってきた、戻ってきた話なんだよな〜
と言っている人がいたけど
いざなぎ?いざなみ?
穢れ→聖化 浄化 >>613
>「南→東」に関しての直接的な論拠は、見た事がない。
テンプレに書いてあるし
>スレ主のような「信頼性は不明だと言って、一旦棚上げをして、循環論法の騙し」を
テンプレに書いてないし >>617
>>「南→東」に関しての直接的な論拠は、見た事がない<
>テンプレに書いてあるし<
何と?。
>>スレ主のような「信頼性は不明だと言って、一旦棚上げをして、循環論法の騙し」を<
>テンプレに書いてないし<
3回も、批判反論しておいたし。 >>618
>>テンプレに書いてないし<
>3回も、批判反論しておいたし。
相手の言ってないこと3回も言ったらダメだろ
3回ウソついたってことだから 4世紀以降はヤマト王権が朝鮮半島に進出して高句麗と戦ってんじゃん >>618
>実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
>このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
とか、たくさん書いてあるよ >>620
>4世紀以降はヤマト王権が朝鮮半島に進出して高句麗と戦ってんじゃん<
これも✖ね。
大和は、
倭国の筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったのであり、
7世紀後半の白村江の後まで、倭国の附庸国であったのであり、
だから、4世紀に高句麗と戦ったのは、母国の倭国であったのであり、
大和は、参戦があったとしても、倭国の附庸国として少し応援した程度。 スレ主は4世紀以降も朝鮮半島での倭国の領土を否定するの? >>614
>史料批判の意味が、「史料の信頼性の批判」である、
>という事が分からない、
古田信者は
自分たちが採用した史料の信頼性について
批判を受けてるのが
分からないの? >>624
畿内説とか関係なく、歴史学界全般が否定してるだろ、それ >>623
>>大和は、
倭国の筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったのであり、
7世紀後半の白村江の後まで、倭国の附庸国であったのであり、
だから、4世紀に高句麗と戦ったのは、母国の倭国であったのであり、
大和は、参戦があったとしても、倭国の附庸国として少し応援した程度。<
>それ、何も証拠ないから<
隋書、旧唐書、唐会要、新唐書の史料記載事実であり、実態。 >>629
やっぱりザラコクは史料事実ってなんだか知らない
恥ずかしい老人 >>625
>>(大和説者は)史料批判の意味が、「史料の信頼性の批判」である、
という事が分からない、<
>古田信者は 自分たちが採用した史料の信頼性について 批判を受けてるのが
分からないの?<
大和信者は、自分たちが採用した、
「南→東などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシ」、
が批判を受けてるのが 分からないの?。 >>630
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説者は、
やっぱり、史料事実ってなんだか知らない、
恥ずかしいアホの・・・・。 >>631
「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者って、
老若男女を問わず、こういう・・・・アホの詐欺師ばかりなの? 。 >>639
わたしみちゃったんですの宇能鴻一郎かい なぎ なみ夫妻の話?
『何者にもなれないお前たち』
これも同じような設定になっているし、
記紀神話(コミック。なぎ なみ夫妻の生活。)が何やらと書いてない?
本当に頭の良い人は気づいている
牛のような存在が、日本の神なのかな 神牛?
調べてみると道真(菅原)との関係
という話が出てきたり
『黄金の子牛』
アイドルのような存在の意味なのかな 『神牛』
天王の話が出てこない?
スサノオ、牛頭とか・・・後の天皇? 家にある、あの写真は天王?の写真なのかな、
キュウリのような葉、葱の華・・・などの写っている写真 >>637
ぼーぶんもんせつ(おいしゃさんごっこy?^^ それにしても、おかしいんだよな
『山王院 山王宮』
この辺りに住んでいたと言っているし、
むかーしだよ >>620
やーやーやーわれこそはつくしのおーたけちゃんまんじゃー(?? 遡ると京都のほうに住んでいたのかな?
『山王院』・・・『』『』調べてみると、
その後、京都のほうから・・・と書いてあるし ありゃアンカーつけられるの嫌いな人やった(すまん^^ >>612
史料のなんたら?(んなもんころころひっくりかえってきましたえーあーん(まいこふー >>624
ダックはねとうよ?(3せいきまでにしとけ 結論 馬投げ族のてんじんさんははんとー東南でうまれた(牛なんか? 天王→後の天皇だとすると、
一系ではないという事になるんじゃないの? ちな(そこから大海にジャンクで南にこぎ出すと出雲や丹羽や(ほあかりさん? >>661
天神さんはせーぜーもののべやろ?
とぎれたんはたえうちくんと携帯さんのときや 老婆が言うには仏教のような話をしているんだけど、
寺院に通っていた?とか
神社の話はあまりしていない てーせーします(できるかどーかじしんなし
途切れたのは武内くんとおおどくんののときや 蘇我vsもののべかい!(はなしぶったぎるのはすきやが逆はいやじゃ てんだいしゅーていつから(えろいひとしゅってんぷりーず
つぶやきやろーのあいてしたるわ 供養のようなことをしていたのかな、
自分の家(当時の結婚した人、嫁?)で落雁のようなものを作っていたとか
当時の職業も、わからないと言っていた ひえは一回ロープウェイでいった
おわりへーはよくかけあがったのー(みつひではわりとすき wiki『仏像』〜『落雁』
調べると似ているものが出てこない?紋様(文様)
邪馬台国が、どうこうという話でもない、
〜後の時代になり、出家したんだよと言っている人もいた 出家した家(人)?というのが、
その山王のほうに住んでいたという事になる 日本昔話『姥清水』
というのも、なぜか、そのような話 天王=天皇だとすると・・・スサノヲ=ジンムという事になる
サルタというスレでも、
そう言っている人ばかりだし >>626
高句麗と朝鮮半島で戦っていたんだから
4世紀以降も朝鮮半島に倭国の領土が在ったんだろ
でないと半島で戦う意味が無い。 【本当のスサノオ】
というスレッドも同じような話ばかり ジンムというのは将軍のような存在だよ
と言っている人もいた
鎮圧だか何だか知らないけど、
どこかから、使わされて、やって来た将軍 サルタと言うスレにも
書いてあるはず
すがのゆやまぬし、
すがのみやまぬし? >>676
まずはよしだたかしくんに菊をささげたうえで
(勉強せーなげかわしーぞなもし(4世紀には混血で倭人DNA薄れすぎやろ あ!こじんじょーほーこぴぺすんのはやめたれな?(かんちがいされとるわ^^(もちつけダック(4せーきにはもーそこらへんはしらぎや(たぶん ス、サはどういう意味だろうな。
素、本来の、元々の、かもしれないね。
スサノオー、スクナヒコ、サツマ にいたかやまじゃ
こーこくのこーはいこのいっせんあり!かくいんいっそーふんれーどりょくせよ(ねます(われはおくやまなり(どーでもえー てーせーしmっs
zきはじだいがちがうし沖のしまやった(にかいどーはみょーに薄い みんかんじんこーげきしたら絶対悪や(イスラエルしね 日本の領土が韓半島にあったなどと抜かしてる野郎は戦前回帰の国家主義者なんだろうよ
この手の国家主義者の主張というのは古代に日本の領土が半島にあったとする事で、韓半島にジャップ勢力が及ぶことを歴史的経緯を理由に正当化するのが目的なのさ
日本の領土が韓半島にあった事はない
もし倭奴の居住地が半島にあったのならば、それは既に滅びて滅亡した九州倭国の土人であり、今の日本とは歴史的連続性がない
ネトウヨ残念だったな 半島の南端までびっちり韓人の国なのは学問的に確定してるんで、右翼さんの望みの綱は既に虚しく消えてるよ >>694
遺伝子研究では、今の韓国人は、中国「元」の頃までに「高麗」に侵入したエベンギ族等である。
それまで朝鮮半島に住んでいた民族のDNAが、ほぼ消えている(虐殺、淘汰による民族のすり替わり)。
14世紀末に、エベンギ族出身の李氏が「高麗」を滅ぼし、朝鮮を建国すると、土地は一族が私有化した。
朝鮮の国民は、路上や空き地を占拠して、乞食同然のような小屋を密集させ、地べたで寝て暮らした。
李氏の両班(支配者)など一族は、労働を卑下して働かず、奴婢や賎民(白丁など)に、板の首かせを
はめて、奴隷として使用し、自分たちは、体を動かすのを嫌い、医者仕事さえ労働とみなし、軽蔑した。
また、毎年、三千名もの若い女性たちが、中国(明や清国)に献上させられたので、朝鮮国内には
女性が極端に少なく、国民は、自分たちの性欲を解決するために「試し腹」の風習ができた。
その風習は、李氏一族の崩壊まで、何百年間も続き、韓国人は「近親相姦」に明け暮れてきた。
おまけに、朝鮮人には、トイレを作る発想が無く、家の内外に糞尿があふれ、悪臭で不潔を極めた。
しかし、韓国人は、糞尿まみれの日常生活を、当たり前と考えて暮らした。
また、「見てくれ」に良いと信じて、「小便」で顔を洗い、結核の特効薬として「大便」を食べ、
万能薬として人糞を溶かした酒(野人乾水)を飲んだ。19世紀に朝鮮で布教した「白人宣教師」の報告書によると、街の中は不潔で耐えられなかった。
新渡戸稲造や福沢諭吉でさえ、明治初期に韓国を訪問して、「朝鮮人とは付き合うな」と書き残している。
李朝末期には、「清」の影響で、皆、アヘンに耽り、国土は欧米列強の借金の抵当に入り、経済破綻した。 >>695
日本人「日本書紀に『391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。』」
韓国人「捏造だ。」
日本人「三国史記「新羅本記」にも慶州を倭兵に包囲されたと言う記録がある。」
新羅は何回も王子を人質に差し出している。百済の武寧王は人質の子として日本で生まれた。」
韓国人「捏造だ。」
中国人「満州にある碑文にも倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。」
韓国人「捏造だ。」
中国人「中国の歴史書の宋書にも倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。」
韓国人「捏造だ。」
中国人「中国の歴史書の魏志倭人伝には既に3世紀から倭国では鉄の鏃を使ったと書いてある。」
韓国人「捏造だ。」
中国人「中国の歴史書の随書にも倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。
百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてある。」
韓国人「捏造だ。」 日本人「日本や中国の歴史書や発掘品は全て捏造なのか?」
韓国人「そうだ!韓国に都合の悪い歴史書は全て捏造だ。」
中国人「中国の歴史書まで捏造か?」韓国人「捏造だ!」
日本人「三国史記に「670年の十二月に、倭国が国号を日本と改名した。日の出る
所に近いから、これをもって「日本国」としたとの事である。」とあるが?」
韓国人「捏造だ!
中国人「中国政府も外交部のホームページ(www.fmprc.gov.cn)で「5世紀はじめ、
大和国が隆盛した時期に、日本の支配が朝鮮半島の南部にまで拡大した。」
と公式に認めている。」
韓国人「中国人の捏造だ!!」
英国人「イギリスのオックスフォード大学の出版社(www.oup.com/ca)の教科書が、
「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した。」 書いている。
それを世界50か国の学校に発行している。」
韓国人「オックスフォード大学の捏造だ!!」
韓国人以外の一同「ではそれらの捏造を裏付ける証拠は?」
韓国人「・・・・・・。」全て捏造と言うがそれを裏付ける証拠は全く出せないバ韓国人w 畿内説が根強いわけだな
ネトウヨだらけ
在日を見下して何が楽しいんだか
ネトウヨが大好きな天皇も在日なんだぜ
歴史を直視しろよ >>701
同胞韓国人は嘘つきばかりである。私はそのことが恥かしく、情けない。
「韓国は独力で近代化を成し遂げた」って。馬鹿を云うな。韓国の近代化は日本の莫大な資本と人材の投与によって成し遂げられたものである。
「韓国は日本の統治に抵抗をもって対抗した」だって。馬鹿馬鹿しい。同胞韓国人はロバのように日本の統治を甘受したのが実態だ。
ごくごく一部の抵抗はあったが上から下までみんな日本にあこがれ、日本人になろうとしたのだ。
「韓国が独立したのは韓国の手によるものだ」にいたっては呆れてものも言えない。
誰も日本からの独立など望んでいなかったのにアメリカに強制的に独立させられたというのが真実だ。
「漢河の奇蹟」だって!笑わせる。日本から賠償金という名目で莫大な経済援助と技術援助で成し遂げられたものだ。
これだけお膳立てしてもらえばどんな未開民族でも経済成長するだろうよ。
「日本文化の祖が韓国」とは恐れ入る。一体、併合前の朝鮮半島のどこに「文化」なるものがあったのか。
併合前、我々先祖は乞食同然の生活をしていたではないか。
現在の韓国の姿、まさに他人により作られた砂の楼閣だ。
虚飾と偽善と歪曲とおごりに満ち満ちている、真似と依存と歪曲が全てである。
このような韓国の本質を知らず「韓国こそ世界一」などとほらを吹いて自己満足している
本国、在日の韓国人は正気の沙汰ではない。これが恥でなくてなんであろうか。
韓国の評論家 金満哲 Wikiの邪馬台国を読んでたらおかしな記述があったわ
嘘編集はいかんだろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD
編集日時とIPアドレス
2017年8月27日 (日) 13:35 119.170.115.19
また会稽の東(緯度的にはほぼ鹿児島県に一致する)にあるとしていること
古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、年輪年代学等の知見から、
現在の考古学では3世紀に繰り上げられるとする説があること。
ただし糸島の平原遺跡からは八咫鏡との関係が考えられる超大型の大型内行花文鏡をはじめ合計40枚の後漢鏡が出土していることから、
少なくともこの時期の銅鏡の出土状況に関しては北九州に優位性は揺るがない。
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD&diff=65277852&oldid=65277647 >>705
畿内説だが東遷はあったとみる立場だが・・・
独りよがりはイカン 畿内説だが東遷はあったとみる立場・・・ みたいな
独りよがりはイカン >>700
>>この板これだけコテコテのネトウヨいたか <
>反論できないね <
反論は簡単。
遺伝子的に、人類は皆兄弟。
アフリカ一元発生は、アフリカ以外の全大陸に、
ネアンデルタールの遺伝子が2〜10%位存在していた事で破綻しており、
一応多元発生だ、という事になったが、
しかし、その多元の進化の元をたどれば、結局哺乳類から35億年位前の単細胞生物になってしまうから、
結局は、元をたどれば人類皆兄弟。
だから、それが判らないネトウヨは、
唯我独尊の高慢なタカ派で、人種差別的な近親憎悪蔑視して、何でも殺人戦争をしてでも、
自分が「世界で唯一の支配者」になりたい、
というやくざ暴力団的な考えしか出来ない・・・・人種である、
という事。
また、トランプやナチスやISイスラムや戦前日本のようなキョクウ国家主義者は、
結局、近親憎悪殺戮戦争を繰り返す事によって、結婚相手をも全滅させてしまって、
最後は、勝ち残った唯一一人だけが残って、、その人の寿命が来れば、
それで人類は全滅してしまう事になる。
それが、ネトウヨや安部自民やトランプらのたどる道。 >>694
3世紀の議論をするのに
なんで戦前や国家主義者という言葉が出てくるの?
君の国では大事な時代かもしれないけど、
だからといって3世紀の議論とは無関係。
「土人」というのも聞きなれない言葉だなあ。
なにかの裏返し? 東遷
伊都→出雲→→葛城(倭人伝に記述された邪馬台国の所都は葛城) 根拠厨が消えてスレの迫力が弱々しくなった・・・テンプレの異変のせい? >>711
出雲の国譲りを受けて伊都国が成立した。
出雲→伊都 >>710
現代の政治思想で
古代史を語るのは
イカんな >従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國
帯方郡から倭に至るには〜〜〜倭の北岸の狗邪韓國に到着する >>707
>畿内説だが東遷はあったとみる立場だが・・・ 独りよがりはイカン<
「畿内説」と言うだけでも、「大和説→畿内説」の誤魔化し詐欺であり、
「南≠東」に拠って、嘘吐きダマシ説であり、
独りよがりはイカン。 >>718
>従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國
帯方郡から倭に至るには〜〜〜倭の北岸の狗邪韓國に到着する >>711
>東遷 伊都→出雲→→葛城(倭人伝に記述された邪馬台国の所都は葛城)<
「邪馬台国」も✖だが、
「南≠東」などに拠って、出雲葛城も✖。 >>715
>コテコテのネトウヨは一人だけだな<
いや、大和説を死守しようとする人種は、全員「コテコテのネトウヨ」であり、
人間ではない・・・・ケダモノ。 >>722
ザラコクは特高だから言論統制やりたい人 古代九州倭国は朝鮮半島南部を支配していた
なんて言う方が、よっぽど右翼だろうに >>694
九州倭國の土人とはなんだ、ネトウヨは沖縄までいって土人発言するからどうもならん
同和のヤクザ=人権ビジネス、在日のヤクザ=愛国ビジネス
まあ、えせ同和、えせ右翼というのがありますね >>719
>現代の政治思想で 古代史を語るのは イカんな<
現代の「人種蔑視差別の殺戮殲滅志向の、右翼国粋皇国史観」の政治思想で、
古代史を語るのは イカんな。 >>734
アカの学者の言うことなど聞いちゃいかん
と言ってた人種と同じだよ 古代韓半島に日本府があったことを認めない畿内説が
ネトウヨから目の仇にされてるんですね?
そう言うことで荒らされてるんですか
そうですか >>737
悪くない
ドイツで「あいつはナチだ」と言うのと同じ 逆だろ
倭人伝にそう書いてあるから言及しただけで
工作員が火消ししてくる >従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國
帯方郡から倭に至るには〜〜〜倭の北岸の狗邪韓國に到着する >>737
街宣右翼は日本に対する褒め殺しなんですよ
ネットでの右翼としてはネトウヨ、ネトサポ、アメポチなどがあげられます
ネトウヨの例は在特会、ネトサポは自民党ネットサポーターズ(チームせこう
アメポチは統一教会、ユナイト統一2世
反韓、反中、親米の度合いが若干違います
反米、自主独立は右翼からすれば左翼だそうな >>738
新羅は出雲が作り百済は畿内ヤマトが作った 任那日本府を否定する畿内説がネトウヨの攻撃目標になってるな 畿内説の在日考古学者は徐福を無視するから実にけしからん(ぷんぷん まあ、否定されてるね
朝鮮総督府をイメージ的に重ねるような旧説はねー >>751
お前が否定しているというなら、否定されていないのだなw 任那日本府は九州倭國の支配地であり畿内ヤマトは関係ない >>757
ヤマトノミコトモチは在外駐留武官みたいなもんでしょ >>722
>言うだけすら許されないのかw <
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシである事を、
言う事も、黙過し難いし、
そのダマシに拠って、国民を「憲法違反の特定思想」に誘導しよう、とする事も、
黙過し難い。 >>762
ダマシだって証拠でもあるの?
あなたのやりたいのは単なる言論統制でしょ >>724
高慢な唯我独尊のタカ派の、
人種差別殺戮戦争狂の国粋皇国史観の政治思想狂いの大和説者は、
もはや国民に対して言葉狩りの段階に・・・。
これって、戦前の軍事体制へのだね。思想強制と全く同じだね。 >>728
大和説ネトウヨは、戦前の特高と同じだから、言論統制やりたい人。 畿内説はそんなこと、してないよおね
やりたがってるのはザラコク
証拠がある >日本の領土が韓半島にあったなどと抜かしてる野郎は戦前回帰の国家主義者なんだろうよ
>この手の国家主義者の主張というのは古代に日本の領土が半島にあったとする事で、韓半島にジャップ勢力が及ぶことを歴史的経緯を理由に正当化するのが目的なのさ
>日本の領土が韓半島にあった事はない
>もし倭奴の居住地が半島にあったのならば、それは既に滅びて滅亡した九州倭国の土人であり、今の日本とは歴史的連続性がない
>ネトウヨ残念だったな 国家主義者
ジャップ
九州倭国の土人
こういった言葉を使う奴が任那日本府が無いというのなら
ますますあったのだと思われる。 九州倭国とか言ってるから
九州説のやつの血迷った妄言だな 九州説のやつが九州倭国の土人なんて言わないだろうな。
>>770
お前みたいなやつはお前しかいない 他スレにマルチで晒し上げとかやって議論妨害してこのスレに誘導しようとしてるのもお前だろ >>769
そんなこと言ってない人が
「任那日本府は無い」
と言ってます
>>774
このスレで妄言吐くのはご自由に
他スレ荒らすのやめてね はよこのスレ終わらんかな
次スレのテンプレを早く見てみたいw立つとしたらだがw >>773
あなたは、それらのスレを立てた人ですね? 毎回大量に大変だろうに
テンプレ短くすりゃいいのにな
あまり説明にもなっていないのが多いし 何言ってんの?日本嫌いのお前が頑張ってるじゃないか >>729
ネトウヨ大和説者は、
国粋皇国史観支配教の政治思想狂でのレッテル貼りのヘイトスピーチ魔の、
脳の神経がおかしくなった・・・・病であり、
死ぬまで治らんな 。 >>735
ネトウヨ大和説者の特徴、
「南→東」などの嘘吐きダマシと、
ヘイトスピーチでの国民へのダマシ。 >>736
現代の「人種蔑視差別の殺戮殲滅志向の、右翼国粋皇国史観」の政治思想は、
「反アカ」人種の思想だよ。 任那日本府などあったわけ無かろう
日本の植民地支配を正当化するためのインチキ学説だよ
文化度の高い方が文化度の低い連中に支配される道理が訳わからん >>737
>疑問なんだけど、右翼のなにが悪いの?<
特定個人や特定宗教への崇拝だけではなく、
それに拠っての殺人戦争的な世界支配を志向する事が、
憲法違反でもあり、悪いの。 中国人「中国の歴史書まで捏造か?」
韓国人「捏造だ!」
日本人「三国史記に「670年の十二月に、倭国が国号を日本と改名した。日の出る
所に近いから、これをもって「日本国」としたとの事である。」とあるが?」
韓国人「捏造だ!」
中国人「中国政府も外交部のホームページ(www.fmprc.gov.cn)で「5世紀はじめ、
大和国が隆盛した時期に、日本の支配が朝鮮半島の南部にまで拡大した。」
と公式に認めている。」
韓国人「中国人の捏造だ!!」
英国人「イギリスのオックスフォード大学の出版社(www.oup.com/ca)の教科書が、
「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した。」 書いている。
それを世界50か国の学校に発行している。」
韓国人「オックスフォード大学の捏造だ!!」
韓国人以外の一同「ではそれらの捏造を裏付ける証拠は?」
韓国人「・・・・・・。」
全て捏造と言うがそれを裏付ける証拠は全く出せないバ韓国人w >>739
>(右翼は)悪くない ドイツで「あいつはナチだ」と言うのと同じ<
ナチスも、日本右翼も、当然、人種差別的な、排他的殺害的殺戮戦争志向を持っており、
高慢な唯我独尊のタカ派で世界支配志向を持っているから、
それが付き進めば最後は人類全滅であり、
どちらも悪い。
人類は皆兄弟。
人は、皆、ひとりでは、生きて行けないものだから。
諸行無常。万物流転。栄枯盛衰。盛者必滅。
驕る右翼、久しからず。 >>741
右の猫でも左の猫でも、
組織化され宗教化される事が一番危険なのであり、
その組織宗教至上主義が戦争の根源であり、
憲法違反であり、
組織宗教に狂った猫は、悪い猫だ。 ケ小平の猫かい、歴史を捏造までして利益を誘導するのは良い猫ということか
歴史を捏造するのは悪い猫だよ >>763
>>「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシである事を、
言う事も、黙過し難いし、
そのダマシに拠って、国民を「憲法違反の特定思想」に誘導しよう、とする事も、
黙過し難い。<
>ダマシだって証拠でもあるの?<
「南≠東」が証拠。
>あなたのやりたいのは単なる言論統制でしょ<
憲法違反や犯罪的行為ではない限り、言論は個人の自由。 人類皆兄弟、一日一善の笹川良一は戦犯であり国際勝共連合の反共なんですよ
統一教会とずぶずぶだったんですね(ザラコクはからむでない >>802
>「南≠東」が証拠。
結局あなたのやってることは史料批判の否定なんですよ
つまり歴史学の否定です 古墳時代以降、朝鮮半島南部に倭国のテリトリーがあったのは間違いないだろう。
2世紀から鉄鉱石もとりにいってるしね。日本列島の土器しかでない採掘跡も見つかっている。
魏志倭人伝でもそうだが、九州は倭国ではない。
倭国から見たら、九州も朝鮮半島も大して変わらない。
言葉も全く違っていた可能性もある。 政治思想を持ち込んだら、歴史はもう学問じゃいられないよ >>806
魏志倭人伝見たら九州北部は、親魏倭王卑弥呼を王とする女王国の属領だからな。
倭国ではないが、倭国の支配下にある地。現在の植民地みたいなものだろう。 日本人「日本書紀に『391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。』」
韓国人「捏造だ。」
日本人「三国史記「新羅本記」にも慶州を倭兵に包囲されたと言う記録がある。」
新羅は何回も王子を人質に差し出している。百済の武寧王は人質の子として日本で生まれた。」
韓国人「捏造だ。」
中国人「満州にある碑文にも倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。」
韓国人「捏造だ。」
中国人「中国の歴史書の宋書にも倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。」
韓国人「捏造だ。」
中国人「中国の歴史書の魏志倭人伝には既に3世紀から倭国では鉄の鏃を使ったと書いてある。」
韓国人「捏造だ。」
中国人「中国の歴史書の随書にも倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。
百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてある。」
韓国人「捏造だ。」 魏志倭人伝でもそうだが、本州は倭国ではない。
倭国から見たら、本州も朝鮮半島も大して変わらない。 >>814
魏志倭人伝見たら本州は、親魏倭王卑弥呼を王とする九州の属領だからな。 魏志倭人伝見たら本州は、親魏倭王卑弥呼を王とする九州の属領だからな。
倭国ではないが、倭国の支配下にある地。現在の植民地みたいなものだろう。 >>816
こういうのが宗教
万葉集は韓国語で読めると言う連中と同じだ >>827
そう言うのは
「証人は?」と問う判事に
「太陽だ、お天道様が見ていた」と言うのと同じ ザラコク
嘘をつくことを“思想”だと心から信じる在日老母
老母「私は12で日本きた。12で日本徴兵で来たの!」
息子「あの時代はまだ徴兵はなかったの!」
老母「なんでないの!!」
老女は激怒。息子も呆れを通り越して怒りをみせる。
息子「はっきりしてる証拠があるのに何言ってるの。
当時まだ法律がなかったの!なんで法律がない時代に徴兵があるの?!
あん時は自分の意思で(日本に)来る時代なのに…!」
老女「ナニ言ってんよのアンタ!!(興奮して朝鮮語)工場で働いたんだよ!」
息子「本人も、○○さんも(徴兵が無かったことを)みんな解ってるよ!
なんで徴兵、徴兵って言うの?!」
老女「(興奮した朝鮮語で)私は徴兵で来たんだよ!友達が知ってるよ!」
最後に取材スタッフに一言。
老女「息子には“思想(ササン)”が無い」 実際に奈良時代の機内は百済の分国みたいなもんだったろ
そもそも平城京をナラ(古代韓語で国という意味)と呼んでいた訳だしな
某国の百済が本拠を日本列島に移したんだろ >>824
いつもだけど
こんなふうに異常に同じ言葉を連呼する奴って
精神的に何か問題を抱えてるんじゃないのか? 三国史記に出てくる古代百済や古代新羅の倭人というのは九州倭国の出身者であり、ネトウヨが大好きなヤマトの日本国じゃないからな
ネトウヨは邪馬台国畿内説で古代日本の主権が韓半島に及んでいたという事にしたいのさ
畿内説というのは日本帝国のアジア植民地支配の正当性を作るための政治学説だよ >>836
そう言ってるのは誰?
あんたの思想じゃなくて具体的事実は? 白村江で負けて百済残党は幾内に逃げ込んだんだろな
九州倭国も弱体化したから百済残党の天智が近江王朝を造った
その後反発した旧倭国勢力天武が壬申の乱で列島支配を勝ち取ったと
畿内は蘇我氏の頃から百済の傀儡政権だったんだろう >>838
郡県支配を狙う中華帝国の遠交近攻政策だよ 九州倭国は支配層が扶余系の韓人で
被支配層が倭奴のいわゆる征服国家
だったのだろう >>844
伊都国は南韓人の国な可能性が高いな
二世三世だろうけど >>839
自分のクソ長いテンプレでなんの根拠も示せないくせに、他人のレスには脊髄反射のように根拠を聞く奥山 >>847
実は南江あたり(のちの安羅)だということまで判ってる >>847
根拠もなく自国の王権を辱めるのがキナイセツなのか >>848
根拠を認めたくない老人
まるで>>829の婆さんとソックリ
w
w
w >>850
伊都国なら、ヤマトに降伏した地方政権の一つだろ? 天智が韓人である事に間違いない
ネトウヨが崇めてる天ころは在日なんだよね
この矛盾を突くと何故か激怒する低脳ネトウヨ >>859
愛国(笑)しながら在日へのヘイトを撒き散らしてる事だろうよ >>855
>>>850
>伊都国なら、ヤマトに降伏した地方政権の一つだろ?
ヤマトが弥生時代にあったと言い張る極右畿内説 高麗大学教授 金鉉球・鄭大均
わが国の中・高等学校教科書を見ると、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝えられた話が出てきますが、
その内容は日本古代史書である「日本書紀」を土台にしているもので、わが国の史書にはありません。
(そもそも韓国に古代の文献はほとんどない)
ところが、日本の学者が「日本書紀」を土台にして、古代日本が二百年余り朝鮮半島南部の伽耶(日本名任那)地域を支配したという
「任那日本府説」を主張すると、韓国の学界ではそれは信じることができないと主張しています。
これは明白な矛盾であり、こうした姿勢ゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見るのではありませんか、という身の程を知らぬ質問をした。
そしたらL教授は黙り込んで答えず、横に居られたC教授が「自信がないんだよ」とおっしゃった。
「日本書紀」には日本が「任那日本府」という機構を置いて朝鮮半島南部を支配しつつ、三国文化を運んでいったようになっている。
しかし、韓国の中・高等学校では三国文化が日本に伝播される国際関係に関しては何の説明もされず、
ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた事実だけを教えている。
そこで学生達は日本を客観的に理解できずに、無条件、対日優越意識だけを助長する結果をもたらせた。
外国に出かけたわが国の学生が「任那日本説」に接して戸惑うのも無理はない。
実際の歴史は、日本に支配されたいわば「属国」であったにも関わらずだ。 >>804
>>「南≠東」が証拠。<
>結局あなたのやってることは史料批判の否定なんですよ
つまり歴史学の否定です <
結局あなたのやってることは、
史料批判された結果、99.9%以上間違えていない、
という「南」の史料事実の否定なんですよ。
つまり、学問的科学的歴史学の否定する・・・・です。 >>805
>古墳時代以降、朝鮮半島南部に倭国のテリトリーがあったのは間違いないだろう。
2世紀から鉄鉱石もとりにいってるしね。
日本列島の土器しかでない採掘跡も見つかっている。
魏志倭人伝でもそうだが、九州は倭国ではない。<
「南→東」という嘘つき騙しをやっているようだから、この男も×人間ね。
>倭国から見たら、九州も朝鮮半島も大して変わらない。
言葉も全く違っていた可能性もある。<
九州倭国から見たら、半島南岸も、別種分家の旧小国の大和も、大して変わらない。
言葉も全く違っていた可能性もある。 >>807
>ほら、同じことをしてる レッテル貼り><
ほら、またネトウヨ大和説者は、同じことをしてる!。
理由や根拠を全く説明せずに、レッテル貼り。 >>808
>反論できる証拠でてくるといいね<
ネトウヨ大和説者は、反論証拠も反論理由も出さないで、
ヘイトスピーチ文言だけを書く。 >>809
>政治思想を持ち込んだら、歴史はもう学問じゃいられないよ<
ネトウヨ大和説者らのように、人種差別的、排他戦争的、国粋皇国史観的な、
政治思想を持ち込んだら、歴史はもう学問じゃいられないよ。 >>810
魏志倭人伝見たら、大和は、親魏倭王卑弥呼を王とする女王国の属領だからな。
倭国ではないが、倭国の支配下にある地。現在の植民地みたいなものだろう。 >>813
ネトウヨ大和説者は、単なる・・・・荒らし。 >>869
>史料批判された結果、99.9%以上間違えていない、
無謀肯定だろ >>817
と言うよりは、「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘つき騙しのネトウヨ大和説者は、
まともな筈もなく、狂人だろう 。 >>821
>こういうのが宗教
万葉集は韓国語で読めると言う連中と同じだ <
こういうのが宗教。
半島南岸や大和は、筑紫倭国の支配地でもあり、附庸地であるから、
共通語も沢山あるから、万葉集は韓国語で読める可能性は十分に有る。
万葉集は韓国語で読めると言う連中と同じだ 筑紫倭国は韓人の支配層を持っていた
ヤマトは奈良時代まで後進地域であり
昔から筑紫倭国の附傭国であった。
ナラの都で作られた万葉集が韓語であっても
不思議ではないし、むしろ韓語であって
当然と言って良い >>877
史料批判すると狂人扱いされるの?
九州説って、とんだ宗教団体だな >>880
結論だけ言わせると実に朗々と語るが、理由を聞かれると石のようにおし黙る
そんな九州説が歴史学だと思うかい? >>880
だから言われるんだよ
韓国の非学者がマスコミに垂れ流してる珍説と
日本の九州説は
兄弟のように似てると >>883
そう思う理由は?
口喧嘩する幼稚園児でないなら
理由を言う努力をしようね 九州説って、みんなザラコク並みの脳しか持ってないのかな 韓国の非学者がマスコミに垂れ流してる珍説と
日本の畿内説は
兄弟のように似てると
根拠なく自国の優位性だけを強調して、
でかい墓を作れる強大な政権があったとか妄想を開陳する >>888
>でかい墓を作れる強大な政権があったとか妄想を開陳する
韓国にそんな説はないけど? >>888
でかい墓を作れるってのが
強大な政権があったという根拠なんだが >>890
国粋的?
任那日本府が実在で3世紀から半島南部が九州倭国とやらの領地だった、と言い張る九州説のことじゃないの? 九州説による畿内説批判は
想像の上に建った虚構
自体は無い
その証拠に、誰も具体的根拠を出さない 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 古代から畿内にヤマトなる王権があって、九州を含む列島を支配していて、現在の天皇家につながるんだろ?
畿内説は万世一系説そのものだな。 >>897
畿内説の、誰がそんな主張をしたの?
証拠は? 日本が韓半島を支配した形跡は微塵もない
三国史記に出てくる倭人は韓人を支配層に懐く九州倭国の人間であり、日本の半島植民地支配を正当化する根拠とはなり得ない 任那日本府なども戦前の軍国主義が生んだ邪説
九州倭国の真の根拠地であった伽倻本国の存在を隠すために伽倻本国の政庁を日本の統治機構であるかのように言い張った 倭国の本拠地である高天原は、半島ではなく対馬海峡のどこかだよ。 >>828
そう言うのは、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシのネトウヨ大和説者が、
「証人は?」と問う判事に、
「太陽だ、お天道様が見ていた」と言うのと同じ。 >>831
いつもだけど 、こんなふうに、同じ言葉や、
「南→東」などの嘘吐きダマシの内容の話を、
異常に連呼するネトウヨ大和説者って、
精神的に何か問題を抱えてるんじゃないのか?。 >>832
「南→東」などの嘘吐きダマシのネトウヨ大和説は、
ヒトラーやトランプや安倍自民らの俗流史観の愛弟子。 >>835
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説者の、
ネトウヨさんの「何でも質問ばっかり」の日本語は、
いつも意味不明な質問であり、不完全だな。 >>843
とにかく自分の説の根拠を言わずに質問ばかりするのが、
「南→東」などの史料事実の否定曲解に嘘吐きダマシの大和説ネトウヨの特徴だね。 対馬海峡の権益を独占して王となったのが天津神、特にアマテラス。
そして陸に登って王となったのがスサノヲ系の大国主ら国津神。
アマテラスはライバルとなった出雲の大国主を倒して日本海交易を独占した。
本拠地はもちろん博多。
半島側じゃないぞ。
半島南岸だけは領土としただろうけど。 >>855
大和なら、
筑紫城の倭奴国(後に伊都国と奴国とに分かれた)から別れた別種の旧小国の、
倭国の附庸国の地方政権の一つだろ?。 伽倻国から対馬海峡を渡って九州倭国が産まれた
支配階級は韓人
まぁ伽倻国は故地といった方が良いかもしれないな 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1512805088/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
今回よりトリップを改めました。お見識り置きください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>861
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの理由は、言えず、
相手には「何を聞いているのか?意味不明な質問ばかり」して、
返事を書く暇もない位の直後に「答えないからお前の負けだ」、
と叫ぶ・・・・サギシなのが大和説。 >>912
いまの韓国人とはだいぶ違うかもしれないけどね >>916
そんな事を言っても韓人が日本に文化を与えた歴史は揺るがない >>881
「南」などの史料事実の史料批判をして、
「南→東」の嘘吐きダマシの大和説の批判をすると、
狂人扱いされるの?。
ネトウヨの大和説って、とんだ宗教団体だな。 >>882
結論だけ言わせると実に朗々と語るが、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの理由を聞かれると、
石のようにおし黙る。
そんな、大和説が歴史学だと思うかい?。 >>884
だから言われるんだよ。
韓学者がマスコミに垂れ流してる珍説と、
日本の、大和説は、
「九州倭国の存在を全く隠蔽」しているから、
兄弟のように似てると。
どちらも、現在のそれぞれの政府の「建前や主張」のそのまま、なんだから。 九州倭国を消し去りたいネトウヨ畿内説
ヤマト王権が韓半島を支配していたという政治学説を正当化したい曲学阿世の反動主義
畿内説は学問ではない >>886
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘吐きダマシの大和説って、みんな、
麻原や、ヒトラーや、トランプや、安部自民などや、北朝鮮や、ISイスラムや、
右翼マスコミや、右翼教育界や、右翼学会並みの脳しか持ってないのかな。 >>921
そんなもんが実在するの?
あんたの脳内だけのものでは?
だって証拠ないし >>922
やっぱ九州説は、政治思想
学問ではないな >>919
ここ、畿内説のスレですから
大和説とか関係ないですから >>891
>でかい墓を作れるってのが
強大な政権があったという根拠なんだが<
わざわざでかい墓を作るってのは、そうしなければならなかった理由があったのであり、
それの説明が出来なければ、
強大な政権があったという事の根拠ならないんだが。 >>927
誤魔化してはダメ
動員力があるんだから
強大な政権だよ >>892
>畿内説の、どこが国粋的なの?<
「南」という「ほぼ絶対的な史料事実を敢えて否定」してまでして、
「東」だと言い換える嘘まで付いて、
「大和」を「畿内」と言い換える事もして、
大和天皇家が太古の昔から列島の支配者であったのだ、という皇国史観を主張するから。 >>929
史料事実って、べつに絶対じゃないですから
街道が整備された奈良時代以降であれば、
遠隔地の人員を自分で歩いてこさせることができるから、
動員力があった=強大な広域政権
と言える。
だが、街道が整備されていない弥生時代には、
自領の限られた人員を何に費やすかという問題であるから、
動員力があった=自領の限られた人員を墓作りに浪費していた
ということであり、
遠隔地に影響をおよぼす広域政権の候補からは逆に外れてしまう。 >>929
大和天皇家が太古の昔から列島の支配者であったのだ
とか、誰が言ったの?
ザラコクの脳内小人さんとか?
????? >>931
>だが、街道が整備されていない弥生時代には、
それ、だれが決めたの? 纒向は卑弥呼がいた集落であり、ヤマト征伐の証であり、初期ヤマト政権誕生の証であり、全国平定の先駆けにして全国平定の原動力となった遺跡である。
伊勢遺跡は当時最先端の技術を投入された遺跡であり、各地の首長が集っていた証左である。技術的にも政治的にも最先端を示す遺跡である。
また倭国大乱前の倭国が存在した証であり、倭国が首長連合であったことを示唆するものであり、神無月の伝承や高天原のモチーフとなった遺跡である。 >>893
>国粋的?
任那日本府が実在で3世紀から半島南部が九州倭国とやらの領地だった、
と言い張る九州説のことじゃないの?<
国粋的という文言は、
現在の日本国の国家支配の状態に価値観を置く、という意味であり、
その国家支配体制が太古の昔から継続して来たから価値あるものだ、
という意図も持っているから、
大和天皇家の列島一元支配を肯定しようとするのであり、
九州倭国が列島の盟主敵存在であった、という事を拒否する事になるものだ。 >>894
>九州説による畿内説批判は 想像の上に建った虚構
自体は無い その証拠に、誰も具体的根拠を出さない<
はい、これも「南→東」の事を隠蔽している嘘吐きダマシだから、
✖であり、・・・・サギシね。 >>937
どうやって隠蔽できんの、そんなこと
w >>899
>>(万世一系)畿内説の、誰がそんな主張をしたの? 証拠は?<
東大と京大を渡り歩いて、京大の教授クラスになった、
というような事を豪語した、
「天誅」というネームを称した大和説者。 任那日本府は伽倻と九州にまたがっていた王国の半島側の統治機構だ
Korea Strait(日本だけは何故か対馬海峡と呼んでいるが)ここを支配していた韓倭の一大王国があったのだよ
それがアマテラスの元になった天孫族だ
天孫降臨とは韓人の支配層が文明を九州に齎した故事が伝説化したものだ
九州倭国と呼ばれているものは韓倭両国をまたにかけた日本海王国だったのだろう >>923
>>九州倭国を消し去りたいネトウヨ畿内説
ヤマト王権が韓半島を支配していたという政治学説を正当化したい曲学阿世の反動主義
畿内説は学問ではない <
>そんなもんが実在するの? あんたの脳内だけのものでは? だって証拠ないし<
「邪馬壹國→ヤマト」と言い換える嘘吐きダマシをしたり、
「南→東」などの嘘吐きダマシをしたり、
「大和説→畿内説」という「支配領域を大きく見せる」嘘吐きダマシをしたりした。 九州倭國が半島にまたがっていたのは政治思想とまったく関係ない
韓国はその当時存在してなかったのだから >>924
>やっぱ九州説は、政治思想 学問ではないな<
やっぱり「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説は、
万世一系の皇国史観の国粋主義の宗教的政治思想であり、
学問ではないな。 >>928
>(巨大古墳)誤魔化してはダメ 動員力があるんだから 強大な政権だよ<
誤魔化してはダメ。
史料事実は、
大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国であって、
倭国の附庸下の弱小国であったのである。
だから、大和は、
倭国の東征のお手伝いで獲得支配した出雲銅鐸民や毛人蝦夷を、
威圧する事が必要であった事と、
扶余や東沃沮や楽浪流民の受け入れで古韓尺などの技術流入があり、
威圧するために巨大墓が造れた。
動員力があるんだから
強大な政権だよ 倭国大乱まで
壱岐→対馬→朝鮮半島のルートを抑えていたのは、伊都国だろうな。
天孫降臨。
畿内を中心とした倭国から、伊都国への婿入り。
上記ルートを自由に使わせてもらう取引があったんだな。
倭国と伊都国の婚姻、天孫降臨、時期は1世紀初め。
天孫降臨は記紀にいくつもある婚姻話の一つに過ぎない。 >>930
>史料事実って、べつに絶対じゃないですから<
「南」という魏使らの記録は、殆ど絶対的に間違える筈がない史料事実ですから。 天孫降臨とは韓半島から九州倭国への文明渡来でもあった 倭国大乱は倭国の旧体制、主要国&伊都国の討伐。
反旗を翻したのは、瀬戸内海勢力と伊勢湾の勢力。新たに九州南部の投馬国も九州北部征伐に加わったんだな。 >>932
>大和天皇家が太古の昔から列島の支配者であったのだ とか、誰が言ったの?
ザラコクの脳内小人さんとか? ?????<
古田説以前までは、
記紀を勉強し盲信した国内の記紀以後の学者らは、
「大和天皇家が太古の昔から列島の支配者であった」という事を疑ったものは全くのようにおらず、
ほぼ全て、皇国史観信仰者であった。 >>934
>纒向は卑弥呼がいた集落であり、ヤマト征伐の証であり、初期ヤマト政権誕生の証であり、
全国平定の先駆けにして全国平定の原動力となった遺跡である。・・・<
こりゃ全くの・・・・アホサギシだね?。
「南≠東」だから✖、だよ。 >>939
その人が、そんなこと言ったって
証拠ないでしょ? >>938
>>(「南→東」)どうやって隠蔽できんの、そんなこと<
スレ主や大和説学者に聞いてみな。
どうやって隠蔽出来たんですか?、と。 巨大古墳を作れるほど動員力があるのに
クナ国に負けかけて魏に助けを求めたり
卑弥呼の死後は各小国が分かれて戦乱に
なったりするわけですが
兵士として使えなかったんでしょうかね? 巨大な陵を築いた始皇帝は一代で滅亡
曹操も諸葛亮孔明も自分の墓にとにかく費用をかけるなと言い残した >>942
>九州倭國が半島にまたがっていたのは政治思想とまったく関係ない
韓国はその当時存在してなかったのだから<
「歴韓國、乍南乍東」という表現があるから、
「韓國」という言い方は最低あったみたい。
「韓国」という固有名詞であったのか?、
「韓の国々」という普通名詞的であったのか?は不明だが。 >>956
もともと韓人の王がいた、という記述は有りますね。
卑弥呼の時代には分裂していたようですが。楽浪郡のせいでしょうか。 >>945
>・・・畿内を中心とした倭国から、伊都国への婿入り。・・・<
と書いた瞬間に、「南≠東」だから、✖だよ、
竹島戦争鼓舞扇動のキョクウのssnくん。 奈良県教育委員会所属職員服務規程
奈良県教育委員会事務局職員の職の設置に関する規則
職員の任用、分限、懲戒等の手続に関する規則
桜井市職員服務規則
桜井市職員の懲戒処分に関する指針の制定について 奈良県教育委員会所属職員服務規程
奈良県教育委員会事務局職員の職の設置に関する規則
職員の任用、分限、懲戒等の手続に関する規則
桜井市職員服務規則
桜井市職員の懲戒処分に関する指針の制定について 奈良県教育委員会所属職員服務規程
奈良県教育委員会事務局職員の職の設置に関する規則
職員の任用、分限、懲戒等の手続に関する規則
桜井市職員服務規則
桜井市職員の懲戒処分に関する指針の制定について 奈良県教育委員会所属職員服務規程
奈良県教育委員会事務局職員の職の設置に関する規則
職員の任用、分限、懲戒等の手続に関する規則
桜井市職員服務規則
桜井市職員の懲戒処分に関する指針の制定について >>948
>倭国大乱は倭国の旧体制、主要国&伊都国の討伐。
反旗を翻したのは、瀬戸内海勢力と伊勢湾の勢力。
新たに九州南部の投馬国も九州北部征伐に加わったんだな。<
これも、「瀬戸内海勢力と伊勢湾の勢力」としゃべった時点で、
「南≠東」であるから、✖。 奈良県教育委員会所属職員服務規程
奈良県教育委員会事務局職員の職の設置に関する規則
職員の任用、分限、懲戒等の手続に関する規則
桜井市職員服務規則
桜井市職員の懲戒処分に関する指針の制定について これはもう日本考古学史に残る神降臨かも試練ね
見出し
「匿 名 掲 示 板 で 大 暴 れ」
. >>952
>(天誅)その人が、そんなこと言ったって 証拠ないでしょ?<
勿論、Yahoo掲示板時代に天誅が自分で言った事であり、
Yahooは、前の掲示板時代の投稿を全て抹消して、
textreamという体制に変更して、検索も出来ないようにしたから、
探す事も出来なくなった。
しかし、Yahooで、大和説のmkpoや、sagami noや、、ハイエナは、
天誅を「先生」とか「大先生」、とか呼んでいたし、
pikupopodemiという大和説者は、私が天誅のついうっかり発言を読んで、
それじゃすぐに判る、と言って探したらしいが、彼も、それっきり投稿しなくなってしまった。 やばいぞ やばいぞ 奥村
やばいぞ やばいぞ 奥村
やばいぞ やばいぞ 奥村
やばいぞ やばいぞ 奥村
やばいぞ やばいぞ 奥村
奈良県教育委員会所属職員服務規程
奈良県教育委員会事務局職員の職の設置に関する規則
職員の任用、分限、懲戒等の手続に関する規則
桜井市職員服務規則
桜井市職員の懲戒処分に関する指針の制定について 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 倭国は東の未開人から巻き上げて北に攻め込むなんて
ゲームでいうと
角に位置して東から補給、北のみに攻撃でしょ
ズルいよもう 奈良県立橿原考古学研究所
消えた公金 どうなった?
奈良県立橿原考古学研究所
消えた公金 どうなった?
奈良県立橿原考古学研究所
消えた公金 どうなった? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 中国で一枚出土したね
農民がなんで証言してくれたの? 同じ平原遺跡から
世界最大まで「進化した」大型内行花文鏡と、
後漢鏡よりも「退化した」方格規矩鏡が
同時出土。
どっちも国産にすると、技術が上がったのか下がったのか意味不明だろw
大型内行花文鏡は北部九州伊都で発達して、
それが日本国内で東方にも拡散した。←畿内説ガチギレやばー
方格規矩鏡は董卓が焼き払った洛陽に魏が都を戻して
生産再開されて間もない頃のまさに魏鏡。 青龍三年の方格規矩鏡がでてるからな。
方格規矩鏡は1世紀の鏡と言われるが
紀年が正しければ卑弥呼の時代まで、
糸島で多く出土した方格規矩鏡が
作られていたと判断できるし
紀年が間違いなら、他の紀年鏡も
間違いの可能性が高まるわけだ。 >>954
>巨大古墳を作れるほど動員力があるのに クナ国に負けかけて魏に助けを求めたり
卑弥呼の死後は各小国が分かれて戦乱に なったりするわけですが
兵士として使えなかったんでしょうかね?<
まず、巨大古墳は、4世紀以後であって、卑弥呼や壹與の時代ではない事と、
捕虜の一部は「生口」として使ったが、
大部分は地方の市を監督する「大倭」職の支配下に下げ渡された事と、
やはり扶余や東沃沮の「槨」部族や楽浪流民らの流入と、支配層に加わった、
という事の影響が大きい。 >>921
>九州倭国を消し去りたいネトウヨ畿内説
>ヤマト王権が韓半島を支配していたという政治学説を正当化したい曲学阿世の反動主義
>
>畿内説は学問ではない
同意する。
畿内説はカルト。 >>934
誰がヤマトを征服したんだよ。
九州北部しかないではないか。
所詮、畿内説は東遷説。
夢物語さ。 >>940
その当時に半島側にもそれほど大きな勢力はなかった。
対馬海峡に成立した倭国の起源は、中華に遡るしかない。
稲作とともに伝来した彼らは、徐福や呉の太伯になぞらえられるような華南の民族だよ。 >>945
1世紀の天孫降臨は、伊都国に王墓が作られ始める時期と一致する。
最初の王墓である三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓。
中国から冊封された証である威信財が多く、倭奴国も実は伊都国のことであった。
伊都国が倭国の都であり、倭国大乱の前の男王70〜80年が記紀の日向三代。
その権威を継承して即位した卑弥呼も伊都国にいた。
邪馬台国とは、筑紫の日向と同じ。 >>973
>中国で一枚出土したね
>
>農民がなんで証言してくれたの?
橿原考古学研究所が謝礼を払ったから。 >>957
>もともと韓人の王がいた、という記述は有りますね。
卑弥呼の時代には分裂していたようですが。楽浪郡のせいでしょうか。<
三韓の書き分けがありますから、
やはり統一「韓國」という国名ではなく、
「韓の国々」という普通名詞であったように思います。 >>981
日本人の王や貴族の先祖は半島渡来だよ
中国からの渡来人なんてごく一部に過ぎない
例えば秦氏は新羅系だが中国系だと歪曲されている >>985
秦氏はかなり後になって半島から来ただろ。
もっと前、いわゆる神代の世代の話だよ。
イザナギが初めて博多湾の能古島(オノコロ島)に領土を獲得した(国生み)が、それ以前は対馬海峡だろ?
その前はどこだ?
半島ではなく大陸だよ。
何しろ稲作とともに来日したのだから。
彼らは稲作という先進技術と、製鉄製銅という技術と武力をもって、九州北部に倭国を建設したんだよ。
奈良盆地にそれらの技術が導入されたのは、卑弥呼より後になる。 伊都国=委(倭)奴国。
後漢書に倭奴国は倭国の極南界也とある。
倭国の南の境界の果て。
伊都国と倭国は別の国。 対馬海峡に成立した倭国の極南界が倭奴国、つまり伊都国のこと。
伊都国を王都として一大卒がそこから北にある対馬海峡を支配した。
海運国家である倭国において、対馬海峡とそれを抑える博多湾沿岸が最重要地域だった。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の倭人の話であるのを当たり前のように理解していた。 倭国は倭人の国。
倭人は呉の末裔を自ら名乗っている。
つまり中国南部から春秋時代以降に渡来した集団。
中国南部に由来する可能性が高いもの。
銅鐸、下戸遺伝子、国生み島生み神話のモチーフなど。
これらは大阪湾に分布の中心を示す。
春秋時代と同時代の弥生時代前期末、環大阪湾の風習は一変する。
淡路島でBC4世紀の銅鐸が出土。
銅鐸などの金属加工の技術、金属器を使った製板技術が必要な木棺、方形周溝墓、井戸の技術、灌漑技術を伴った水田、分銅の製作などが一斉に認めるようになる。
方形周溝墓、木棺も畿内中心に広がっていく。
九州を素通りし、倭人が中国大陸から畿内に直接渡来したと考えられる。
倭国とは倭人の国、環大阪湾〜畿内に跨る国です。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。 もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、前方後円墳如きで邪馬台国を名乗るんじゃねーよ、平和ボケが。
なんか川の中州の倉庫なんて持ち出すし。一家揃って歴史歪曲か。おめでてーな。
よーしパパ勝利宣言しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、三角縁神獣鏡やるからその席空けろと。
倭国ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
筑後川の向かいに座った奴といつ戦争が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。畿内爺は、すっこんでろ。 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。 同じ平原遺跡から
世界最大まで「進化した」大型内行花文鏡と、
後漢鏡よりも「退化した」方格規矩鏡が
同時出土。
どっちも国産にすると、技術が上がったのか下がったのか意味不明だろw
大型内行花文鏡は北部九州伊都で発達して、
それが日本国内で東方にも拡散した。←畿内説ガチギレやばー
方格規矩鏡は董卓が焼き払った洛陽に魏が都を戻して
生産再開されて間もない頃のまさに魏鏡。 このスレッドは1000を超えました。
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