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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part11
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0001九州王
垢版 |
2018/01/05(金) 22:09:07.00
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1512812042/l50

水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。

邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
0002九州王
垢版 |
2018/01/05(金) 22:10:02.64
世有王

@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味

A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。

B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味

C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)

D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。

C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切

以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが妥当である。
0003九州王
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2018/01/05(金) 22:10:31.26
2か所目は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の文である。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。

全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。

伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。
0004日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 06:46:47.98
魏略という文献から女王国について抜き書き。魏志倭人伝よりも成立が早い。
魏略は喪失しているが、翰苑(かんえん)という文献の中で「魏略曰く」と
いう形で記述が残存している。翰苑は太宰府天満宮にあり、最終巻「蕃夷
(ばんい)部」のみ残存している。(国宝指定)
【倭在帯方 東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国 皆倭種】
 倭は帯方東南の大海中に在り、山島に依って国を為している。
 海千里を渡るとまた国があり、みな倭種である。
【従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国 到拘邪韓国 七千里】
 帯方より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経由して
 拘邪韓国に到る。七千里
【始度一海 千余里 至対馬国 其大官卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市糴】
 始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。その大官は卑狗で、
 副は卑奴という。良田なく、南北で交易して穀物を買い入れている。
【南度海 至一支国 置官 与対(馬)同地方三百里】
 南また海を渡り、一支国に至る。官を置く、対馬と同じ。
 地は三百里四方
【又度海 千余里 至末盧国 人善捕魚 能浮没水 取之】
 また海を渡る。千余里。末盧国に至る。人は魚捕りが上手く、
 水に浮き沈みすることができて、これを取る。
【東南五百里 到伊都国 戸万余】
 東南五百里。伊都国に到る。万余りの戸数がある。
【置 曰 爾支 副曰 洩渓觚 柄渠觚 国王皆属女王也】
(官を)置く。いわく爾支といい、副いわく洩渓觚・柄渠觚という。
 国王はみな女王に属す。
【女王之南 又有狗奴国 以男子為王 其官曰 拘右智卑狗 不属女王也】
 女王の南また狗奴国があり、男子をもって王としている。
 その官いわくコウチヒコという。女王には属さない。
【自帯方 至女国 万二千余里】
 帯方から女王国に至るには、一万二千余里である。
0005日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 06:55:16.97
>>1-3
文献の勝手読みに過ぎず、考古学的裏付けが全く無い妄想説の一つ。

鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。   @阿波
0007日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 07:57:38.14
「広志」これも脚注の形でしか残存しておらず、魏略と同様の古文献。
さらに断片的。しかし女王国に関していくつか注目すべき箇所がある。

【倭国 東南陸行 五百里 到伊都国】
 倭国(帯方郡から末盧国まで中略)東南陸行 五百里で伊都国に到る
【又南 至耶馬嘉国】
 また南に、山鹿(やまか)国に至る。(これは邪馬台国ではない)
【□女国以北 其戸數道里 可得略載】
 百女国以北、其の戸数道里は、略載するを得可
 百女国=八女(やめ)国の北は、其の戸数や道里は大まかには記載できる。
【次斯馬國 次巴百支國 次伊那國】
 次に斯馬国、次に巴百支国、次に伊邪国
(魏志倭人伝の二十カ国を述べたうちの冒頭の3国のみ記載)
【安倭西南 海行一日 有 伊那分國】
 安(案)ずるに、倭の西南、海行一日にして伊邪分国(屋久島)有り。
【無布帛 以草為衣 盖 伊耶國也】
 布綿無く、革を以て衣と為す。けだし伊耶國也
0008日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 08:01:37.94
>>7補足 伊都国から南は、女王国の傍国として、耶馬嘉国などが列記
されている注記の箇所であるため、肝心の女王国の位置は載ってない。
0009日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 08:15:38.00
>>7を読み返して気付いたが、最後の方に
伊那國、伊邪国、伊邪分国、伊耶國と似たような国名が連続してる。
倭の西南、海行一日ということで、海行一日がキーポイントになり、
屋久島。伊邪の分国ということで、元は伊邪または伊耶だろう。
以草為衣は、革と草の誤字だろう。鹿の皮を着ていたか。
0011日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 11:23:50.40
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点  ※12000余
0012日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 11:37:59.34
「自郡至女王國萬二千餘里」

文の流れから、
帯方郡から女王国までの「直線」距離は一万二千余里である。
0016日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 14:03:34.17
直線以外をどう記載するのか、むしろ教えてほしいね。
駄々っ子のようなイチャモンだな。
そう記載されているのだからしょうがないだろ。
0017日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 14:11:11.91
だから、どうして直線だと判断したの?
でたらめかもしれないし、実測かもしれない
0019日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 14:14:13.10
なんか最近ろくに根拠もないのに妄想、断定するやからが出没するね
0022日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 14:28:29.36
>>17
でたらめかもしれないし、直線かもしれない 
が、実測はない(海上は実測できない) 
0024日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 14:33:31.21
帯方郡から南に四千里、東に三千里で狗邪韓国に着く。
だから直線距離ではない。
0025日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 14:37:32.57
>>24
ちがうだろぉ〜
南へ行ったり東へ行ったりして、7000里だろぉ〜、はげ〜
0026日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 14:39:02.98
>>24
ただし、実測じゃねーぞ
0030日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 14:42:40.71
>>27
でたらめかもしれないし、直線かもしれない 
が、実測はない(海上は実測できない)
0031日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 14:44:13.96
>>30
そもそも概算だろ。
実測できないからなんだというのか。
荒らしだな。
0033日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 14:46:42.42
>実測できないからなんだというのか。

文の流れから、
帯方郡から女王国までの「直線」距離は一万二千余里である。
0034日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 14:47:34.42
韓国は四千里四方で、南は倭に接していると。
ならば、帯方郡から南に四千里、東に三千里で倭人の地、狗邪韓国に到る。
0036日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 14:51:25.49
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点  ※12000余
0037日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 14:52:58.77
>韓国は四千里四方で、南は倭に接していると。

ちがうだろぉ〜  うそこくなぁ〜、はげ〜
0038日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 14:59:12.88
>>35
行程記述は>>36の行程で一旦完結している。
そして、のちにいきなり「自郡至女王國萬二千餘里」ときている。
0040日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 15:05:12.33
スレタイ見てみろ

伊都が首都って結論が書いてあるだろ?

畿内説はなにアホなこと言ってるんだ?w
0042日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 15:32:00.39
>>41
ちがうだろぉ〜
南へ行ったり東へ行ったりして、7000里だろぉ〜、はげ〜
0043日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 15:34:39.45
>>39
>それがどうして直線距離だという理由になるんだ?

でたらめかもしれないし、直線かもしれない 
が、実測はない(海上は実測できない)
0045日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 15:42:26.06
>>44
見たけど? なにか?
0047日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 16:01:35.40
>>46
でたらめかもしれないし、直線かもしれない 
が、実測はない(海上は実測できない)
0048日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 16:07:58.73
考古学的に確定して、倭人伝は読み直してみるとたしかに北部九州でしたねという程度の補足にすぎない。
畿内説みじめーw
0049日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 16:08:42.42
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点  ※12000余
0051日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 16:09:31.25
直線距離と言い張ってるやつは、どうやって計ったのか説明してね
0052日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 16:14:07.59
>>51
わかんねー  しかし、でたらめかもしれないし、直線かもしれない 
が、実測はない(海上は実測できない)
0054日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 16:17:07.79
>>53
わかんねー  しかし、実測はない(海上は実測できない)
0058日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 16:44:50.00
>>57
うん、倭人伝に書いてあるとおり
帯方郡から女王国までの「直線」距離は一万二千余里だな
0060日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 16:53:35.53
>>59
だからわかんねーって言ってんだろが   しかし、実測はない(海上は実測できない)って言ってんだろが
0063日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:01:37.13
オレは実測とは言ってないし、このスレでここまで実測だと言ったやつもいない
0064日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:03:05.30
>>58
直線距離だって?w

直線で一万二千里も突き進んだら

鉄器ゼロで髭もまともに剃れない「毛人の国」に行っちまうだろwww
0065日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:20:29.23
平原ニャ倭人伝まんまの副葬品やら殉葬墓があるからなあ
0068日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:30:56.19
>>66
どうやって一万二千里を直線計測すんの?w

漢楽浪郡があったんだから、韓四千里四方は信頼性高いだろうね。
数百年のうちに測った実測だろう。
それで狗邪韓国までの七千里は説明できる。

あとは目測でしょ。
千里千里千里。
0069日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:32:08.75
>>67
だよな。

一万二千里を直線だと、弥生先進地域の北部九州を抜けて、
鉄器ゼロの未開地域になってしまう。

当然、北部九州邪馬台国じゃないから、直線計測は間違い。
0070日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:32:31.36
>>68
なら、「デタラメ」じゃん
0071日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:33:53.39
九州王も微妙に投馬国から逃げてるからな。
日本人じゃないキナイコシが必死なのも
半島南部が倭人領だったかどうかを必死に防衛しているわけで
結局はそこが争点になる。
0073日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:35:58.59
えっ、出鱈目をあーだこーだ言ってたのか?  あほやん
0076日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:38:55.40
>>74
だから目測がデタラメである根拠は?

島から対岸が見えるんだが
どれくらいデタラメになりうるのだ?
0078日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:41:25.86
>>77
デタラメの定義は?

10kmの距離を100kmだったらデタラメ?

それとも11kmと言ったらデタラメ?w
0081日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:43:37.72
まともな議論がでたらめ
0082日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:44:43.31
目測でも10倍は間違えない

そして東夷伝の里表示は現代地図と照らし合わせて
10倍以内に収まる正確さを持っている

でもって、里表示が示す終着点は北部九州


それが悔しい畿内説が何も示せずにゴネてるだけw
0084日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:45:54.85
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点  ※12000余
0085日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:46:55.10
淮南子に、
「東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。」
とある。
同様に中央、南、西、北も萬二千里が最果ての地なんだ(もちろん妄想)
ただ、当時の中国人はこれが共通認識だったんだろう
東方から倭国が朝貢してきて、最果ての地、萬二千里のかなたから来たらしいと
だから、最初に萬二千里ありき
これを適当に割り振ったのが魏略、魏志
0086日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:47:26.69
里程は10倍以内の正確さを持っている

でもって、方角は間違えようがない

なにも示せない畿内説かわいそーw
0087日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:48:10.35
一万二千里を直線だと、弥生先進地域の北部九州を抜けて、
鉄器ゼロの未開地域になってしまう。

当然、北部九州邪馬台国じゃないから、直線計測は間違い。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 17:49:44.06
>目測でも10倍は間違えない

そういう理由は?

>10倍以内に収まる正確さを持っている

それをでたらめという
0089日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:03:12.62
里程は出鱈目で根拠無し
0090日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:07:55.25
>>88
東夷伝全体で、10倍以上間違えた部分がなーいw

畿内説かわいそーw
0091日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:10:20.16
>>90
そんなら、里程は出鱈目で根拠無し
0092日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:11:59.67
>>91
弥生時代だよ?

現代地図と照らし合わせて
驚くほど正確だねえ!

残念ながら、邪馬台国は北部九州にありました

平原遺跡で決着決着パチパチパチ
0094日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:15:00.68
>>93
へー、畿内説の世界ではそうなんだ。
じゃあ、一万二千里を直線距離ってのも×ねw

北部九州説は里程は正しいと思うんだ。
だからそのまんま、「北部九州邪馬台国」で◎

平原遺跡だね!
0095日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:16:47.85
一万二千里を直線距離ってのも×ねw だな。
弥生時代の里程は出鱈目で根拠無し
0096日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:17:30.13
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点  ※12000余
0097日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:20:01.00
>>95
なんで出鱈目なのかを証明できない限り未来はないぞw

証明しても考古学的に未来が無いんだけどwww
0099日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:26:12.83
>>98
対岸が見える渡海での目視が
科学的にどのくらいのデタラメなのか証明もせずに
連呼するキナイコシに

それとはマッタク関係なく考古学的に未来はない
0101日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:27:58.26
考古学考古学連呼してるが
まあ遼東燕つまり北京あたりからのダイレクト亡命だろうな
0102日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:29:46.70
>>100
出航しました

洋上で出発してきた岸が見える間に振り返ると
目的地が見えますね

はい、目視は科学的にどのくらいのデタラメなのか証明証明w
0103日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:31:46.92
>直線で一万二千里

あきらめるな!

まだ早い!

あきらめるなキナイコシ!

だが







直線で一万二千里もイッちっまったら

鉄器ゼロで髭もまともに剃れない「毛人の国」に行っちまうだろwww
0104日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:33:19.52
>洋上で出発してきた岸が見える間に振り返ると
>目的地が見えますね

見えないばあいは?
0105日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:34:25.92
>>104
見える時しか出航しない

見えなくても航海時間>日照の数時間以内
で体感時間でわかるねえ

はい、デタラメの証明は?
0107日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:36:07.07
>見えなくても航海時間>日照の数時間以内
>で体感時間でわかるねえ

それがデタラメの証明だわ
0108日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:37:13.88
弥生時代の里程は出鱈目で根拠無し
0109日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:37:27.37
>>106
え?

紀元前から鉄器が普及していた

金印ゲットの北部九州倭国の頭ごなしに

鉄器ゼロで髭も剃れない「毛人の国」とやらが

日本人じゃないキナイコシの主張する邪馬台国?
0110日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:38:38.18
>>107
体感時間で10分と100分を間違えるかな?

体感時間で1時間と10時間を間違えるかな?

倭人伝の里程は現代地図と照らし合わせて10倍の誤差はない

で、

出鱈目の証明ができてないねえキナイコシさんw
0111日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:39:37.53
えっ、出鱈目をあーだこーだ言ってたのか?  あほやん
0112日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:39:45.08
里程は畿内説スレでやれや
考古学遺物の全てで九州説で決着している
0113日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:40:39.79
>>111
えっ、出鱈目の理由も説明できずに負けたから出鱈目連呼してるの? あほやん
0114日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:41:10.57
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点  ※12000余
0115日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:41:24.85
>体感時間で10分と100分を間違えるかな?

間違えないという理由は?
0116日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:41:50.16
万二千里の4千里が馬韓西岸、3千里は半島の倭地だが主に南岸を東行することになる。
したがって、韓と接する半島南岸はことごとく倭地であった。
ならば、帯方郡から7千里にある狗邪韓国以西の南岸倭地が邪馬台国ではないとすると何?
邪馬台国に属さなかった入会植民地で後の加羅諸国ってことだよね?
で、弥生渡来人だった奴らはなんで南韓に移民すんの?
0118日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:07:40.05
朝鮮通信使の実際の記録で照合してみるわ。

第七回朝鮮通信使
5/08 漢城(ソウル)を出発【釜山まで陸路】
5/26 釜山着
6/18 釜山発 対馬(佐須奈)着
6/24 対馬 府中着 滞在14日
7/08 対馬発 壱岐着【対馬から壱岐まで船で1日】
7/09 壱岐発 藍島(相島)着
7/26 大阪着 5日滞在

上記詳細
5/08 晴 ソウルで出発式【釜山まで陸路】行程30里( 約12km) 良才駅泊
5/09 不明 龍仁?泊
5/01 晴 行程80里(約33km) 竹山泊
5/11 晴 崇善で昼食 行程120里(約50km) 忠州泊
5/12 晴 昼食後出発 行程40里(16km)安保駅泊
5/13 晴 行程40里(16km)開慶泊
5/14 晴 行程70里(29km) 龍宮泊
5/15 晴 關禮、行程30里( 約12km)醲泉泊 宴会
5/16 晴 豊山で昼食 行程70里(29km) 安東泊 宴会
5/17 晴 行程70里(29km) 義城泊
5/18 晴 行程50里(20km) 義興泊 つづく
0119日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:08:05.28
5/19 晴 行程40里(16km)新寧泊
5/20 晴 行程40里(16km)永川泊 宴会
5/21 晴 行程75里(31km) 毛良で昼食 慶州泊
5/22 晴 慶州泊
5/23 晴 行程70里(29km) 蔚山泊
5/24 雨 龍堂で昼食 行程120里(約50km)東莱泊
5/25 晴 東莱泊
5/26 雨 行程20里(8km) 釜山泊【釜山に到着】
5/27 晴 釜山泊
5/28 晴 釜山泊
5/29 晴 釜山泊 宴会
6/1 雨 釜山泊 倭館で關禮と渡航打ち合わせ
6/2 晴 釜山泊
6/3 晴 永嘉台で安全祈願の海神祭
6/4 大風雨 釜山泊
6/5 雨 釜山泊
6/6 晴 船に荷を乗せる 釜山泊
6/7 雨昼晴 釜山泊 永嘉台で宴会
6/8 晴 倭館の市場を見物:倭館の開市は3と8の5日間隔
6/9 大雨 釜山泊
6/10 大雨 釜山泊
6/11 雨 釜山泊
6/12 大風雨 釜山泊
0120日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:08:25.06
6/13 晴 釜山泊 副使病危篤
6/14 雨 釜山泊
6/15 晴 關禮、釜山泊 副使死亡
6/16 晴 釜山泊
6/17 晴 釜山泊 埋葬
6/18 晴 出航 対馬の佐須奈泊【ようやく釜山から出航。1日で対馬到着】
6/19 小雨 佐須奈泊
6/20 曇 佐須奈泊
6/21 晴 府中(厳原)向け出航、風浪で大浦に避難 行程20里(8km) 大浦泊
6/22 晴 波高く 大浦泊 小船で周辺見物
6/23 晴 行程10里(4km)至る鰐浦口。風不順なので櫓船で曳航し鴨瀬着 船内泊
6/24 晴 行程70里(29km)府中泊
6/25 晴 府中泊 奉行と打ち合わせ 宴会
6/26 晴 府中泊島主、西山寺主と会う
6/27 晴後雨 府中泊 牛1頭貰う
6/28 晴夜雨 府中泊
6/29 晴 府中泊 宴会
7/1 晴 關禮、府中泊 
7/2 晴 府中泊 
7/3 小雨 府中泊 
7/4 夕雨 府中泊 
0121日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:09:48.88
7/5 晴 府中泊 
7/6 晴 府中泊 
7/7 晴 府中泊 
7/8 晴 出航 壱岐泊【ようやく対馬出航 一日で壱岐に着く】
7/9 晴 出航 行程350里(146km) 藍島(相島)泊【福岡市の沖合の島に到着】
7/10 晴 最初は西風で順調、風が東に変り終日櫓で曳航 行程240里(100km)下関泊
7/11 晴 阿弥陀寺泊(下関)
7/12 雨 阿弥陀寺泊(下関)
7/13 朝雨午晴 阿弥陀寺泊(下関)書を求める人多数
7/14 曇雨 阿弥陀寺泊(下関) 東風が強く出航できない
7/15 晴 關禮、西風になり出航、行程180里(75km)向浦(長門)泊
7/16 晴 風勢悪く帆が使えないので櫓 行程170里(71km)上關(周防)泊
7/17 晴 北風で帆が使えないので櫓 行程120里(50km) 津和村(周防)泊
7/18 晴 北風で帆が使えないので櫓 行程80里(33km) 鎌刈(安芸)泊
7/19 晴 行程200里(83km) 韜浦(備後)泊
7/20 晴 行程100里(41km) 下津(備後)泊
7/21 晴 東風で帆が使えないので櫓 牛窓(備前)泊
7/22 晴 行程100里(41km) 室津(播磨)泊
7/23 風待ちで待機 室津(播磨)泊
7/24 風待ちで待機 室津(播磨)泊
7/25 晴 行程130里(54km)明石(摂津)泊
7/26 晴 水深が浅いので川船に乗換、行程130里(54km) 大阪城泊

たっぷり2ヶ月はかかってる。水行一月・陸行一月とでも記録しそうだな。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:18:22.40
>>118-121
対馬藩お抱えの雨森芳洲にとって
一世一代の朝鮮通信使接待業務だったからな。

6/18に釜山を出港して、7/8に対馬を出るまでに20日
でもって、
7/8に対馬を出港して、翌7/9には壱岐を出て北部九州に到着している。

つまり、
対馬藩お抱えの雨森芳洲が
自身の見栄のために対馬で接待漬けをしていただけの話。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:20:28.36
対馬役人による、
対馬での接待漬け
が無ければ、まあ、水行10日で丁度くらいかな。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:21:30.10
逆に弥生時代であれば、
考古学的に船着き場があり、大量の威信材が出土している、
「原の辻遺跡」に逗留したであろうし、

「原の辻遺跡」で大量に出土している
卜占で占ってもらったであろうな。

残念だったなキナイコシw
0125日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:21:40.87
>7/09 壱岐発 藍島(相島)着

対馬海流に流されて、末盧国は藍島(相島)・福津市方面。

朝鮮通信使
通信使一行は,都がある漢陽(ハニヤン,現ソウル)を出発,陸路で釜山浦へ下り,永嘉台(ヨンカデ)から乗船して対馬に渡ります。
対馬・壱岐を経て筑前の藍島(あいのしま,福岡県新宮町相島)に至り,日本本土の最初の停泊地,赤間関(あかまのせき,山口県下関市)に到着する。
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka17.html#b

相島 (福岡県)
中国大陸と九州を結ぶ航路の要衝にあたり、古くから知られていたと見え、『万葉集』や『日本書紀』などの中に「阿恵島」「吾瓮(ミアヘ)」の名で表れている。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:23:14.24
対馬海流に流されて、末羅國(呼子、唐津)は有り得ない。  @阿波
0127日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:23:21.53
壱岐には一大卒の役所である住吉神社がある。
原の辻の近くにね。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:24:48.63
>>122
対馬海峡の島ごとの横断そのものは
それぞれ1日ずつで済ませているね。
滞在のときの日にちがやたらと長い・・・接待漬けだ。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:30:22.87
なるほど
対馬海峡渡海は、条件さえ整えば3日くらいしかかからない。

江戸時代の朝鮮通信使は、
対馬藩の役人が接待役だったから、対馬で20日も費やしたわけだ。

じゃあ、
原の辻遺跡やカラカミ遺跡が出土している
弥生時代の魏使は、
壱岐住吉神社が対応役だったから、壱岐で数日を費やしたわけだ。

接待の一環として、
原の辻遺跡やカラカミ遺跡で大量に出土している「卜占」で占って
吉兆を接待表示して
魏使をさぞかし喜ばして、
魏使は日誌に上機嫌で記載したことだろうなあ。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:30:27.58
>>123 ソウルから海路で良さそうなのに
わざわざ陸路で釜山に向かっているんだよな。
約20日間。荷物も大量にあったはずだが不思議。
5月だから航海の季節も良いはずなんだが。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:32:28.47
>>129
魏志倭人伝の陸行一月も、あれは
ぜったい接待漬けで滞在してるぞ多分。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:41:56.02
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点  ※12000余
0134日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:42:32.92
>>121
長門の向浦はどこだろう?
距離的には周防の防府あたりだと思うのだが…

周防の津和ってのは伊予の津和地島じゃなかろうか?

安芸の鎌刈は、現在は蒲刈の表記
多分、下蒲刈島の御手洗

備後の韜は、鞆の間違いだな

下津は、多分、下津井のことだろう
そうなると備後じゃなく備前だな

明石も播磨なんで旧国間違ってるな
0135日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 19:59:21.24
>>134 地形と地名がよくわからんな。
http://www.geocities.jp/saigokuh16f6/5100kaieki_fig001.gif
主な寄港地は、赤間が関(長門国)、上関(周防国)、蒲刈三ノ瀬(安芸国)、鞆(備後国)、牛窓(うしまど 備前国)、室津(播磨国)、兵庫(摂津国)をへて大阪につくという。
鞆の浦しか知らん。(名前だけな)
0136日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 20:06:30.40
鞆の浦(とものうら) wikiなどから引用、まとめ。
瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道や紀伊水道から瀬戸内海に流れ込み、
瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には
鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。つまり鞆の浦を境にして
潮の流れが逆転する。「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が
主流の時代に、瀬戸内海を横断するには、鞆の浦で潮流が変わるのを待たな
ければならなかった。このような地理的条件から、古代より潮待ちの港として
知られていた。
また、鞆は魏志倭人伝に書かれる「投馬国」の推定地の一つともなっている。
魏志倭人伝によれば、投馬国は、不弥国から南へ水行20日の位置にあったと
記述されている。

地理的な潮の条件からいっても、鞆の浦は要注意な地点だな。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 20:16:18.55
キナイコシ

朝鮮通信使がブーメランになって

必死の火消しw
0138日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 20:52:15.50
>>125 使節団の人数がすごい。数百人規模か。
魏の一行もこれぐらいあるだろう。船団を組んだろうな。
あと、将軍が新しく就任したときの挨拶のために
来る事が特に多い。

台与が使節を送ったのは266年の記載があるが、これは
張政の帰路のときのことではなく、このときは魏から
晋に中国王朝が代わったときの挨拶のための使節派遣。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 20:55:38.57
>台与が使節を送ったのは266年の記載があるが、これは
この前に何回も使節ありって書いてあるじゃん
0141日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 21:13:55.76
>>139
書いてないわ。たった2回しかないよ。
記録に残っているのは、魏志倭人伝の最後のところ。
「壱与は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、
 張政等が帰るのを送らせた。そして、臺(中央官庁)に至り、
 男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、
 模様の異なる雑錦二十匹を貢いだ。」年号なし。

そして中国の文献および日本書記に記載される266年の使節。
そしてそのあと、じつに西暦413年まで
倭から使節なし、というか、使節派遣の記録なし。
朝鮮半島で高句麗などとの戦争が起きたため、中国本土へ
行きづらかったためもある。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 22:01:25.94
晋書倭人伝 というものを読んでみた。
--------------
その(王)家は昔は男子を君主としていた。漢末に倭人は乱れ戦いあって安定しなかった
ので、女子を立てて王にした。名は卑弥呼という。宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建
国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると、その女王は遣使して帯方に至り朝見した。
その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。文帝(司馬昭)が魏の首相になると、また、
何度かやって来た。晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、通訳を重ねて貢を納めた。
--------------
とある。最後の晋の元年のところは台与の使節だな。(266年)
「この前に何回も使節あり」って、魏の末期のときのことだな。司馬氏がクーデターで
魏の実権を掌握(249年 卑弥呼も同じころ死亡)して、魏の首相になる。
張政が帰国したとき使節を同伴させたが、その後も送ったようだな。
つまり、「文帝(司馬昭)が魏の首相になると、また、何度かやって来た。」という部分が、
年ははっきりしていないが、何度か遣使しているわけだな。
その後、司馬昭の息子(司馬炎)が、晋を成立させる。
つーか、中国王朝が代替わりした節目のときは(徳川将軍が代替わりしたとき朝鮮使節が
くるのも同様)、日本からも使節を送るのが通例だから(卑弥呼が初めて魏に使節を送ったのも
同様の事例がきっかけ)、絶え間ない遣使でも特に大きな遣使のときは文献に残るのだろうね。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 00:01:50.64
>>141
さらに言えば、
倭国との明記はないけど、東夷の朝貢とまとめられている中にも倭国朝貢はあるとの見解もあるね

(晋書武帝紀)
泰始 二年(266)十一月已卯、<倭人>來獻方物。
咸寧 二年(276)二月、東夷八國歸化。秋七月癸丑、東夷十七國内附。
   三年(277)是歳、西北雜虜及鮮卑、匈奴、五渓蠻夷、東夷三國前後十(千)餘輩、各帥種人部落内附。
   四年(278)東夷六國來獻。是歳、東夷九國内附。
太康 元年(280)六月甲申、東夷十國歸化。秋七月、東夷二十國朝獻。
        (3月に呉を滅ぼし天下統一)
   二年(281)東夷五國朝獻。夏六月、東夷五國内附。
   三年(282)九月、東夷二十九國歸化、獻其方物。
        (282-287、張華が都督幽州諸軍事をつとめる)
   (張華伝)東夷馬韓新彌諸國、依山帯海、去[幽]州四千余里、歴世未附者二十余國、并遣使朝献。
   七年(286)八月、東夷十一國内附。是歳、扶南等二十一國、馬韓等十一國、遣使來獻。
   八年(287)八月、東夷二國内附。
   九年(288)九月、東夷七國詣校尉内附。
   十年(289)五月、鮮卑慕容隗來降、東夷十一國内附。是歳、東夷絶遠三十餘國、西南二十餘國來獻。
虜奚軻男女十萬口來降。
太熈 元年(290)二月辛丑、東夷七國朝貢。
永平 元年(291)是歳、東夷十七國、南夷二十四部、竝詣校尉内附

(東晋)
成帝紀咸康二年(二月)   高句驪遣使貢方物。
康帝紀建元元年(十二月)   高句驪遣使朝獻。
簡文帝紀咸安二年(春正月)  百濟、林邑王、各遣使貢方物。
        (六月)       遣使拜百濟王餘句、爲鎭東將軍領樂浪太守。
孝武帝紀太元七年(九月)(382) 東夷五國遣使來貢方物。
    太元九年(秋七月)  百濟遣使來貢方物。
太元十一年(夏四月)     以百濟王世子餘暉爲使持節、都督、鎭東將軍、百濟王。
安帝紀義熈九年(是歳)(413)  高句驪、<倭國>、及西南夷、銅頭大帥、並獻方物。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 03:16:48.32
なるほど。
東夷からは何度も朝貢しているが、
魏や晋が倭に通信使を送ったとは一言も書かれていないな。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 07:46:41.37
三国時代の抗争の後、ようやく中国を再統一した晋の司馬炎だったけど、
統一後はだらしなくなって、中国本土が「五胡十六国」の大乱に突入。
倭が使節を送ってもろくな下賜品ももらえないわな。
そんな滅茶苦茶な争いをやっているうちに、倭ではいつのまにかヤマト政権に
よる建国がすすんで、天皇や日本の始まりが不明朗になってしまった。
0148日本@名無史さん
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2018/01/07(日) 07:58:25.42
>>145 東夷○国とかひとまとめで朝貢の
記録がなされているね。倭があるかどうか。
それっぽいのは、289年五月の男女十萬口か。
生口だろう。
(漢の時代ほどではなかったにしても)思えば
隋の皇帝は、下賜品も多く、使節も記録も立派だった。
その後の晋はまだなんとかそれっぽい体裁をしているが
その後は混迷がひどいというか北方騎馬民族などに蹂躙されて
いる有り様。隋の時代まで統一なし。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 08:11:31.05
台与は、卑弥呼の「宗女」とある。卑弥呼は夫がいないから、卑弥呼の娘では
ない。が、宗女とは正当な血統のある後継者、という意味があるから
卑弥呼の親戚だな。

卑弥呼は伊都国の南方にいたようだから、「宗女」という表現がキーワードになって
その親戚となると遠い畿内とは思えないから、台与も九州にいたということになる。
張政も直接会話したし。「政等以檄告喩壹與」(張政らは激文を発し、壱与に告諭した)

魏志倭人伝も魏略も広志もそれらの文献からは、畿内のことはほぼ皆無。
(唯一それっぽいのが、水行十日陸行一月だけ) 畿内説は無理じゃね?
0150日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 08:18:38.60
畿内説で確定 という言葉はすごくひんぱんに見るけど、
その根拠は思ったよりもずいぶん弱いし、
ヤマト政権に関連づけるという結論をつくるために、無理に強弁してるわな。

大宰府天満宮蔵 国宝『翰苑』(かんえん)は、もろに九州説。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 08:51:21.34
>>147
そうですな。
魏だって帯方郡を占領して戦争の真っただ中(帯方郡太守の弓遵も戦死しとる)
一兵すら惜しい状況であって、朝鮮通信使を持ち出して数百人の使節だったと主張するなど失笑もの。
0152日本@名無史さん
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2018/01/07(日) 09:14:13.65
>>115
>>体感時間で10分と100分を間違えるかな?

>間違えないという理由は?

バカじゃねーの
0153日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 09:30:39.48
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点  ※12000余
0155日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 10:50:40.29
>>151 小国の朝鮮通信使でも数百人の使節を送るほどだから、
大中国の使節ならそれ以上じゃね?。古代と戦時を考慮するとしても。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 11:11:39.09
>>155
恥の上塗りをするキナイコシw
0158日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 13:26:10.07
>>154
「帰化」とは、
「君主の徳に教化・感化されて、そのもとに服して従うこと」(後漢書童恢伝)で、歴史学的な定義としては、以下のものがある。
1.化外(けがい)の国々から、その国の王の徳治を慕い、自ら王法の圏内に投じ、王化に帰附すること
2.その国の王も、一定の政治的意思にもとづいて、これを受け入れ、衣料供給・国郡安置・編貫戸籍という内民化の手続きを経て、
   その国の礼・法の秩序に帰属させる一連の行為ないし現象のこと

「内府」とは、
 ある国に従属すること。服属。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 13:39:39.92
なるほど
対馬海峡渡海は、条件さえ整えば3日くらいしかかからない。

江戸時代の朝鮮通信使は、
対馬藩の役人が接待役だったから、対馬で20日も費やしたわけだ。

じゃあ、
原の辻遺跡やカラカミ遺跡が出土している
弥生時代の魏使は、
壱岐住吉神社が接待役だったから、壱岐で数日を費やしたわけだ。

接待の一環として、
原の辻遺跡やカラカミ遺跡で大量に出土している「卜占」で占って
接待の吉兆で魏使をさぞかし喜ばして、
魏使は日誌に上機嫌で記載したことだろうなあ。

北部九州邪馬台国スレなんだから、壱岐も当然邪馬台国の領内でござるよ。
伊都の女王卑弥呼様から接待卜占するよう厳命されたでござるよ。
0162日本@名無史さん
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2018/01/07(日) 16:27:37.06
魏志韓伝
韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千里

つまり、馬韓の西岸は4千里しかない。
邪馬台国北西対岸の狗邪韓国まで7千里の半島南岸3千里は倭。ほぼ東行となる。

倭人の中国外交は前漢を遡る。
BC200年付近も弥生時代なら半島経由の弥生渡来人は倭人である。おいおい?
弥生渡来人自体が国境のない九州〜半島で成立し繁殖して全国に広まった。
記紀の日本九州起源は倭人伝により平定前だが許せるかもw 
0163日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 16:59:43.60
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 19:35:51.43
>>163
これは狗奴国を熊本とした場合だな
狗奴国を鹿児島、宮崎とした場合は異なる文化圏の異民の国だな。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 20:41:05.00
>>166
狗奴国は長國  邪馬台国は粟國
敵対する近在の国どうし。
同じ文化圏の同民の国だな。
弥生時代に遠方の国と戦う兵站など不可能。   @阿波
  
0168日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 21:04:33.12
>>162
>魏志韓伝
>韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千里
>つまり、馬韓の西岸は4千里しかない。
>邪馬台国北西対岸の狗邪韓国まで7千里の半島南岸3千里は倭。ほぼ東行となる。

全面同意 さらに追加事項

韓の南には倭があるから、半島西岸には倭の西岸になる部分がある。
つまり、韓の西岸+倭の西岸+倭の南岸=7000里となる。
其北岸狗邪韓国を巨斉島南岸とすれば、半島南岸(倭の南岸)は3000里(230km)となり
半島西岸から半島南岸に乍東する地点は珍島南西の海になる。
珍島北4000里(320km)の帯方郡は京畿湾内となる。
帯方郡はソウル付近でなく、京畿湾内の徳積島となるのである。

從郡至倭 到其北岸狗邪韓國七千餘里
從は距離の起点を示すだけでなく、移動の経由点も示す。
訳:郡を過ぎて(経由して)倭に至るには
  郡から其北岸狗邪韓國(巨斉島南岸)までは7000余里である。

郡は経由地であることから、魏使は洛陽を出発して、
山東半島経由で黄海を東へ渡り、
京畿湾内の徳積島(帯方郡)に着き、
其処で魏使船の進路を乍南したのである。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 21:25:59.17
>>166
狗奴国は熊本平野  邪馬台国は筑後平野
境界は矢部川。 南岸と北岸で敵対する近在の国どうし。
少し異文化の国だな。
弥生時代に遠方の国と戦う兵站など不可能。


狗奴国は八代海沿岸や人吉盆地と同質文化。東テイ人20国
女王国は有明海沿岸(筑紫平野)や福岡平野と同質文化。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 21:27:50.11
キナイコシに日本人はもういないよ

日本人じゃない交錯院が両度揉んだいで必死になってるだけ

日本人はみーんな考古学的に気づいて騙されなくなっちゃったから
南をあきらめて
鋳語句人の領土に矛先をむけたんでしょね
0172日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 21:29:34.10
遼東 高句麗
楽浪郡 濊
帯方郡 濊
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点  ※12000余
0174日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 21:39:10.12
中国出土ゼロの銅鏡は日本製?
0176日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 21:44:13.92
>>175
日本人じゃない人が日本史に介入
0177日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 21:50:41.17
同じ平原遺跡から
世界最大まで「進化した」大型内行花文鏡と、
後漢鏡よりも「退化した」方格規矩鏡が
同時出土。

どっちも国産にすると、技術が上がったのか下がったのか意味不明だろw

大型内行花文鏡は北部九州伊都で発達して、
それが日本国内で東方にも拡散した。←畿内説ガチギレやばー

方格規矩鏡は董卓が焼き払った洛陽に魏が都を戻して
生産再開されて間もない頃のまさに魏鏡。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 22:08:10.13
>>177
銅鐸も鏡も古墳も寺も神社も古い時代の物は小さく、時代が経つにつれて大型化する。
内行花文鏡も倭国(阿波)では小型で、筑紫忌部の時代に大型内行花文鏡。   @阿波
0179日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 22:27:45.99
女の人なら全身がうつる大型の鏡が欲しかっただろうよ。
直径20センチぐらいじゃ小さすぎ。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 00:12:04.11
洛陽
山東半島
黄海横断
京畿湾(徳積島)

從郡(帯方郡(徳積島))至倭 
乍南 循海岸南水行四千餘里(320km) 南部半島西海岸
   韓西海岸 韓在帯方之南東西以海為限 方可四千里
   倭西海岸 南與倭接
珍島西南海域
乍東 循海岸東水行三千餘里(230km) 半島南海岸
 其北岸狗邪韓國(巨斉島南岸海域) ※7000

 (東 渡海千里) ※8000

 対海國(対馬)(方可四百余里) ※8800余

 (南渡海千里) ※9800余

 一大國(壱岐)(方可三百里)  ※10400余

 (南渡海千里) ※11400余

 末盧國(五百)伊都國(百)不彌國(吉野ヶ里)  ※12000余
0182日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 09:02:21.85
>>168
>從は距離の起点を示すだけでなく、移動の経由点も示す。

これの根拠は?出典は何ですか?
調べても出てきませんが。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 09:16:19.91
>>159
10日は魏使が日誌に記載した日数でしょうね。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 10:04:52.03
>>181
>吉野ヶ里が邪馬台国といいたいことはわかった。

違います。
吉野ヶ里は女王國内のひとつの国です。

邪馬台国の領域は、筑後平野内陸部と北野地域です。
邪馬台国の城柵は、八女です。
女王國の城柵(卑弥呼の居所)は、邪馬台国の中央地域(久留米)と推定されます。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 10:08:24.75
「後漢書」にも女王国のことが載っているので一応調べてみた。
当時、三国志の魏志倭人伝がすでに書かれてあったので、その魏志倭人伝を
見ながら後漢書の中に転写したような記述がかなりある。
金印について書かれているのはこの「後漢書」。

【倭在韓東南 大海中】 
 倭は韓の東南、大海の中にある。
(この時代は、帯方郡は中国の支配下になかったので、帯方東南を韓東南に書き換え)
【依山㠀為居 凡百餘國】
 山島に居住する。およそ百余国。
【自武帝 滅朝鮮 使驛通於 漢者三十許國
 武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。
【國皆稱王丗丗傳統】
 国はみな王を称し、代々受け継いでいる。
【其大倭王 居邪馬臺國(案今名 邪摩惟 音之訛也)】
 その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)
【楽浪郡 徼去 其國 萬二千里 其西北界 狗邪韓國 七千餘里】
 楽浪郡の境界から去って、其の国まで万二千里。その西北界の狗邪韓国まで七千余里。
【自女王國 東度海 千餘里 至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王】
 女王国より東、海を渡って千余里で拘奴国に至る。
(魏志倭人伝にあった「南」を、「東」に書き換えた。)
 みな倭種であるけれども女王には属していない。

三国志の魏志倭人伝を見ながら「後漢書」を書いたというのが明らかである。
魏志倭人伝から150年ほど経ってから書かれた「後漢書」であるが、
「水行十日陸行一月」の記述がなくても女王国に行けることを明示している。
翰苑の魏略や広志と同様である。
水行十日陸行一月とは、朝鮮半島を陸行および九州まで渡海、筑紫まで陸行を
の実際の行程を暗示しているね。(朝鮮通信使はさらに遠い大阪まで倍の2ヶ月
かかっている)
0186日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 10:10:51.51
>>184
九州には、全国に進出した「阿波の忌部一族」のようなものが存在しない。

そんな力の無いところに邪馬台国など、有り得ない。   @阿波
0187日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 10:18:48.19
>>186
秦氏は?
0188日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 12:28:13.05
秦氏はもっと後
0189日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 12:36:20.26
秦氏はもっと後で、渡来人
0190日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 12:47:34.49
>>185
とってつけたような最後の二行なんなんだよ
そこだけ唐突で根拠なしじゃん
0191日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 13:20:18.05
>>190
そうか?
帯方郡から九州北部までおよそ一月、畿内までおよそ二月。
魏志倭人伝の邪馬台国は九州北部。
わかりやすいじゃん。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 15:06:37.23
>>182
>>從は距離の起点を示すだけでなく、移動の経由点も示す。
>これの根拠は?出典は何ですか?
>調べても出てきませんが。

介詞「從」について

@ 從A至B 構文   Aを従えて(過ぎて、通って)Bにいたる。
  從郡至倭
  郡を通って倭に至る

A 從A到BC 構文   AからBまではCである。
  從郡 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
  郡から其北岸狗邪韓國までは七千餘里である

現代中国語では簡略文字化があるので、從=从となっている。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 15:34:57.25
>>193
従えてがなんで過ぎて、通ってになるんだ?
0196日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 15:44:32.69
>>191 邪馬台国は九州北部だろうね。
朝鮮通信使は10回以上あるし、日本からの使節など
(秀吉の朝鮮出兵のとき、伝令が大阪と朝鮮を盛んに往復)
行程の裏付けをとれば、関門海峡のあたりから
ソウルまで航海j平均7日、陸行平均一月という
実態の記録であれば、裏付けがとれる。
秀吉による朝鮮出兵のときは漢城(ソウル)にいる
日本軍までの伝令は釜山から陸路だったけど。制海権なかったから。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 15:54:01.24
>>196
九州には、全国に進出した「阿波の忌部一族」のようなものが存在しない。

そんな力の無いところに邪馬台国など、有り得ない。   @阿波
0198日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 15:57:59.24
>>197
日本の全ての人々が九州からの移民ですよ。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 16:13:36.88
九州北部の鏡文化が伊勢や宮中の祭祀として継承されているのだから、そうなんでしょうねえ。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 16:37:13.94
>>196 文禄の役
名古屋浦などからの一番隊の出発は順次、壱岐を経由して対馬へ移動し、
対馬に集結したまま待機。
文禄元年(=天正20年)4月12日 午前8時、一番隊は700艘の大小軍船で
対馬・大浦を出発、午後2時過ぎには釜山に上陸。開戦となった。
5月2日 朝鮮の首都・漢城府は陥落。【開戦からわずか21日】

第七回朝鮮通信使
5/08 漢城(ソウル)を出発。釜山まで陸路
5/26 釜山着 【出発から18日】
0201日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 16:57:30.02
>>193
从の方が從の初文とあるから
從の元が从で簡略文字化ではないようですよ。

從郡至倭
郡から倭に(迎えに来た倭人の船に付き)従って至る
0203日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 17:38:53.41
日本往還日記(秀吉の朝鮮出兵に伴って朝鮮使節による記録)
初四日〔八月四日〕、
この日陰(くも)る。夕、正副使一行船に上る。〔釜山にて乗船。釜山まで陸路〕
この夕、絶景島に宿す。島は釜山の越偏に在り。(絶景島は巨済島か?)
初五日、
この日、乍(たちまち)陰(くも)り、乍(たちまち)晴る。平明〔夜明け〕、
船を発し洋に出ず。一行倶に船酔いを患い嘔吐し転げまわる。唯だ軍官権克烈、
金蘭瑞は安坐して常の如し。
午後風順ならず、還(また)絶景島の西に泊す。
初六日、
この日乍(たちま)ち晴れ乍陰(たちまちくも)る。西風連(しき)りに吹き、
船を発するを得ず。幄(とばり)を絶景島に設け、正史下陸し、一行の人と閑話す。
暮には乃ち船に還る。金善慶、状啓を持し去る。
初七日、
この日暁雨ふり晩に晴る。風を阻み留泊す。崔世?(言+甚)、状啓を齎(もたら)
し去る。○夕、絶景島の越偏に宿す。

初八日、
平明〔夜明け〕船を発す。風勢極めて順、雨帆を張りて行くに、その疾きこと飛ぶが如し。
夕、対馬島の西浦〔上対馬町〕に抵(いた)る。
倭語の利時都麻婁〔西泊〕とは是なり。
同浦は釜山を去ること五百里と云う。浦中、人の居ることを甚だしくは多からず。
0204日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 17:39:35.79
初九日、
この日或いは陰り、或いは雨ふる。朝下船し〔船に乗ることを下船。上陸を下陸と
表記する〕纜(ともづな)を解くも、未だ洋に出づるに及ばず。雨に因つて還(また)
泊す。又徐福寺に宿す。

初十日、
この日朝陰るも晩に晴る。早朝船を発し、三百里を行き、夕府中〔対馬厳原町〕に到る。

乃ち島主平義智の居る所。・・・同島は、甚だしくは広からず、四面山険なり。
府中の居民僅かに三、四百戸。その余の八郡、居民倶に百余戸に過ぎず。屋廬残破し、
家家窮乏、皆芋糠を以って飯と為す。小輩と雖へども、亦た全く米飯を喫し得ず。皆言ふ、
兵興の後、大軍出入し、以って此くの如きを致すと云う。
十一日、
この日晴れ。風勢好からず、因って留る。・・・
十二日、
この日晴。・・・
十三日、
この日陰る。仍(よ)って町中に留る。
十四日、
この日陰り、洒(さい)雨あり。・・・
十五日、
この日陰る。・・・
十六日、
この日朝晴れ晩は雨ふる。・・・
0205日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 17:40:16.24
十七日、
この日陰雨。・・・
十八日、
この日陰る。朝府中浦を離れ、開船して洋に出づ。風濤甚(はなは)だ緊(きつ)く、
已むを得ず、内浦に回り泊す。
此れ府中を距(へだて)る、幾(ほとんど)二十余里に至る。・・・
十九日、
この日乍ち陰る。風順ならず。・・・
二十日、
この日晴。・・・
二十一日、
この日晴。・・・李中軍、海を祭り、豚肉(ひもろぎ)を致す。
二十二日、
この日晴。・・・
二十三日、
この日晴。暁に船を発し、還(また)府中浦に泊す。・・・
二十四日、
この日陰雨。夜半始めて晴る。・・・
0206日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 17:40:57.91
二十五日、
この日晴。朝、船を発し、洋に出ず。風勢過猛、驚浪洶湧す。中洋に到るに、
帆索風に勝へず、幾たびか絶へんと欲す。船欹(ふねそばだ)ち幾たび覆る。
檣竿〔帆柱と竿〕の上頭曲りて鉤の如し。
竿頭は海濤と相接し、浪沫の噴き濺(そそい)いで、船中は雨の如し。船行奔突し、
馬の如き有り。船中の人、色を失はざるなし。
正使、乃ち海に誓う文を作り、以って海神に誓ひて曰く、・・・四千里の行役、
何ぞ敢えて一毫も憚労せんや・・・
俄かにして風勢偶(たまたま)稍(や)や定り、船行恙無(つつがな)し。

夕、一岐島に到る。此れ対馬を距(へだて)る五百里。
周回比ぶるに対馬の半ばなり。居民を見る所、僅かに三百余戸なり。・・・
二六日、
この日晴。大風、船を発するを得ず。・・・
二七日、
この日晴。風を阻む。仍つて留る。・・・
二八日、
この日晴。朝船を発し、皆先ず去る。而るに風勢の順ならざるを以って、正使の乗る
ところの船、体大にして決行するあたわず。夕、班島〔加唐島あたりか?〕に泊す。
島は名護屋を距る六、七里と云う。
二九日、
この日晴。平明船を発し、晩に名護屋〔佐賀県東末浦郡鎮西町〕に至る。
0207日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 17:41:59.87
倭に言う浪耶地方(帰路では浪古耶と記す)なり。この処は、関伯調兵せし時の館宇有り、
山に因り城を為す。甚だ峻にして固。その城を環(めぐ)りて壕を鑿(うが)ち、水を引き
之を貯ふ。城中の四面は石を累(かさ)ねて階と為し、上は五層楼為り。此は一岐
一百三十余里をへ距て、飛蘭島〔平戸〕・五島と相望む。・・・地方頗る広潤、人居極めて
稠盛、その市塵楼店鱗次して村を成す。対馬、一岐の比にあらず。
○此より以東は、則(すなわ)ち陸に縁(よ)つて行船し、更に大洋に渉(わた)らずと云う。
閏八月一日、
この日陰る。夕船に上り、五里許りの海店に移泊す。倭は要後口地方〔呼子〕と言う。
二日、
この日晴。朝、発船櫓行し、夜深くして唐浦〔福岡市西区宮浦唐泊〕に到る。
倭に言う加羅都麻婁なり。留宿す。
三日、
この日晴。朝発船し、午後藍島〔福岡県北九州市藍島〕に到泊す。島に関伯の館宇有り。
倭将平衛門留守と云う。
四日、
この日雨。風勢順ならず。発船するを得ず。夕、遂に馬に乗り、覚海山の禅寿寺に移寓す。
寺傍の民居極めて盛んなり。
初六日、
この日晴。風順ならず、仍つて留まる。
初七日、
この日晴。朝、禅寿より発し、馬に乗つて船所に到り、遂に発船して赤間の関に到る。
一名下関、関は海路咽喉の地に在り。各処往来の船、必ず皆この処を経由す。形勢極めて
阻隘(そあい)〔せまい〕、民居亦た稠盛(じゅうせい)〔繁盛〕なり。海畔両山相対し、
中は広野為り。・・・
0208日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 17:43:05.70
初八日、
この日晴。晩発船す。夜に達し、行くこと一百五十里なり。
初九日、
この日晴。暁に発船し、夕に上関〔山口県熊毛郡上関町〕に到る。関、下関と一様に繁盛し、
館舎甚だ宏敞(こうしょう)〔広く高い〕なり。守倭は毛利、これ大将の位の高き者、
方に国都に在り。守倭に代り、接待頗(すこぶ)る心を尽し、酒饌(しゅぜん)を呈せら
るるに甚だ濃厚、他処に倍す。乃ち毛利の分付せる所と云う。
初十日、
この日晴。朝、調信〔対馬の将、宗義智の重臣で日本側案内役〕通信使の乗る所の船の
大に過ぎ、快行に難きを以つて、遂に小船に換乗す。
午後発船、夕に倭の言う所の甘夫老地方〔?〕に到り、船に宿す。上軍官白雲英、
状啓を齎(もたら)し去る。
十一日、
この日晴。早に発す。昨換船せし所は、太(はなは)だ狭くして小、動揺し不安なり。
午に我国の船に換乗し、夕に倭の言う所の加亡加里地方〔広島県安芸郡蒲刈町〕に到る。
留つて船上に泊宿す。この処関伯の茶房有り。極めて清潔と云う。守倭酒饌を呈す。
十二日、
この日朝晴。午に陰る。早に船を発せんとし、帆を張って行く。・・・夕、都毛に到る。
未だ二十里許りにも及ばざるに、逆風頗る緊(きつ)く、驟雨(しゅうう)〔にわか雨〕
交(こもごも)作(おこ)る。昏艱に乗じて小島に泊す。
址邦浦(ともうら)〔広島県福山市鞆ノ浦〕と名づく。

〔中略〕 
0209日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 17:47:10.68
【帰路】
初九日、
この日陰り晩雨ふる。午に浪古耶〔佐賀県鎮西町名護屋〕に到泊し、又訳官をして
差するを以って報事せんとし、両天使に稟すも、許されず。
(先発隊を出して本国に早く連絡をと申告したが却下されたの意)
初十日、
この日雨、仍つて名護屋浦に留る。・・・
十一日、
この日晴。朝正成酒一桶、猪二頭、鶏十隻、魚一盤を送る。○甲斐守、已に昨夕
ここに到り、長崎、倭に言う浪加沙、そこに往かんと欲し、軍器を留めりと聞く。
十二日、
この日晴。軍官趙徳秀・朴挺豪等を差し、前後の状啓を齎(もた)らし、先発して去る。
十三日、
この日晴。朝、名護屋浦を発す。午、一岐島の綿羅〔郷ノ浦町渡良〕、倭に言ふ
臥多羅に到泊す。
十四日、
この日晴。綿羅に留る。
十五日、
この日晴。朝船を発す。午、一岐島の風本浦に留る。夕、景直橘を送る。調信朝巳に
先ず対馬に往くと聞くと云う。
十六日、
この日晴。行長橘を送る。仍つて風本浦に留る。
十七日、
この日晴。仍つて留る。
十八日、
この日晴。行長梨九顆を餉る。大なること数升の瓢の如し。
一九日、
この日晴。仍つて留る。
0210日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 17:48:43.30
二々日、
この日晴。行長橘を餉る。この島橘多し、銀子一銭、橘一千五百顆に直(あたい)す。
その賤(やす)きこと知るべし。
二一日、
この日雨。仍つて留る。
二二日、
この日晴大風。仍つて留る。
二三日、
この日晴。行長牛を餉す。
二十四日、
この日晴仍つて留る。
二五日、
この日晴暁に船を発す。午、対馬島に到る。調信、義智等、小船に乗じ、
親しく問候に来り、仍つて上岸に留歇せんと請う。向夕、両天使、倶に下陸し、
府中〔対馬厳原〕の館舎に寓す。正使亦た西山寺に下寓す。副使は慶雲寺に寓す。
二十六日、
この日陰る。昏に平義智来見し、且つ言ふ、使臣を寓する所に請(まみえ)、
一に穏話を倣(な)さんと云う。
二十七日、
この日雨。平調信の使人来り言う。明日、島主酌を設けんと欲す。専ら両位の
使臣の光臨を請ひ、早枉を万望すと。通信使答うるに、気の平かならざるを以つて、
招きに赴くを得ずと。・・・
二十八日、
この日雨。・・・
二十九日、
この日或は雨ふり或は晴る。仍つて留る。
十一月初一日、
この日乍ち雨ふり乍ち晴る。仍つて留る。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 17:50:06.21
初二日、
この日陰る。仍つて留る。
初三日、
この日陰る。朝発船するも、未だ開洋に及ばず、風順ならず、還た泊す。
初四日、
この日晴。大風あり。
初五日、
この日陰る。・・・
初六日、
この日晴る。・・・○この日船を発し櫓行。夜深く西の浦〔上対馬比田勝港〕
に到る。
初七日、
この日晴。昏に雨。朝発船し、午に豊崎郡の大浦〔上対馬町大浦〕に到る。
昏、天使船し亦た到る。
初八日、
この日朝晴、暮に陰る。大浦に留り、風を待つ。
初九日、
この日晴、昏に雨ふる。留泊して風を待つ。正成、長崎より追い到る。
初十日、
この日下雪。仍つて大浦に留る。
十一日、
この日陰る。大浦に留る。
十二日、
この日陰る。大浦に留る。
十三日、
この日晴。大浦に留る。
十四日、
この日朝陰り、暮に雨ふる。大浦に留る。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 17:51:24.52
十五日、
この日乍ち陰り乍ち雨ふる。大浦に留る。
十六日、
この日晴。大浦に留る。
十七日、
この日陰る。朝船を発し、未だ出洋に及ばざるに、風順ならず、
還(ま)た大浦に泊す。
十八日、
この日晴。大浦に留る。
一九日、
この日陰。大浦に留る。
二十日、
この日晴。大浦に留る。
二一日、
この日晴。大浦に留る。
二二日、
この日晴。大浦に留り風を待つ。○対馬に回りてより後、風に阻まれ
留ること二十六日。一行皆帰を思い、悶欝として日を度(は)かる。
盖(けだ・蓋?)し渡海には須(すべか)らく東南風を得べくも、
冬月はこの風を得難し。故に留滞してここに至る。嘆ずべし。
二三日、
この日陰る。朝両天使と同じく発す。未だ二十里許りも至らざるに、風勢便ならず、
天使回船して大浦に泊す。唯通信使一行、乗る所の我が国船四焦は櫓行を止めず。
倭を指路する等、極力諌止し、以為へらく、我輩最も海行に慣る。
而れども未だ尚無風にして渉洋せず。中洋にとまり、日黒或は逆風に遇い、必ず
他処に漂到を得んと。唯だ都訓導金得言、今日天気甚だ清、必ず終日無風ならん。
若し力櫓せば、則ち釜山に到るべしと云う。遂にその言に依り、回船を為さず。
頻(しき)りに軍に酒飯を饋格(きかく)し、櫓を促して行く。夜深く釜山に艱到す。
0213日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 18:18:15.05
>>194
>従えてがなんで過ぎて、通ってになるんだ?
>>201

從A至B
A地を従え(服従させ)た後にB地に至る
A地の後にB地に至る
A地を通ってB地に至る

「從」の本字は「从」ですが、文字の簡略化の為、
中共政府は、「從」を本字の「从」に変えた。
文字の簡略化をしない台湾では現在も「從」を使っています。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 18:35:24.22
>>213
>A地を従え(服従させ)た後にB地に至る
>A地の後にB地に至る

それ違いますよ
A地からB地に従って至る
A地からB地に案内されて至る
中共政府が「從」を本字の「从」に変えたんじゃなくて
「从」は「從」の元字ですから簡体字ではありません
「从」の方が古い字体なんですよ
台湾は「從」日本は「従」ですね。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 19:34:48.09
>>203-212
大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路  出航地(平戸周辺) 壱岐を飛ばして対馬へ

対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。   @阿波
0217日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 20:57:01.02
〔長文コピペまとめ〕
通信使、この年八月初四日に於いて、釜山より乗船、閏八月十八日お以つて
堺浜(大阪)に到る。(約一月半かかっている)
大阪に留ること一九日。
復路はまた乗船し、十一月二三日を以つて釜山に回到す。
(帰路は九月十日に堺で出発し、11月23日に釜山到着。2ヶ月余りかかっている)

盖し釜山より対馬島に抵(いた)る。水路五百里なり。
対馬より一岐島に抵る又五百里。
一岐より名護屋に抵る、一百三十余里なり。
凡そ三たび大洋を渉る。
而も対馬・一岐の間、海路最も険、波濤極めて悪し。

名護屋より以後、則ち凡そ数千余里。皆陸に傍(なら)ひ行く。
下関以西、則ち陸地南に在り。
上関以東は、則ち陸地北に在り。我が国の東西海の如きは、但一辺これ大洋。

故に風濤稍緊(ややきつく)、則ち船行の艱、渉洋に甚だし。通信の往返するや、
行船の日子、則ち倶に二十日を過ぎず、而して風を待ち留泊の際、遂に久滞に至る。

尚名護屋に由り、旱路に従ひ下関にい抵る。又下関陸従り、界浜に抵る。
則ち亦た須らく数十日子を費やすべしと云う。・・・

※ ソウルから釜山まで海路でもいいのに、陸路である。しかし海路となると
 風待ちや天候不順などで、待機する日がとても長い。里で距離を表示できても
 舟で一日1000里で10日あれば1万里行けるという計算は、現実には無理。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 21:14:36.35
從A至B

自A至B

の違いは?
0219日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 07:47:02.51
>>218
自 起点。 至 到着。 従 経由。
自至は普通に使われてる。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 09:01:09.30
>>219
自A至B〇〇は、A地点からB地点に至るは○○
從A至B〇〇は、A地点からB地点に至る経路は○○
ですかね?
0221日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 09:25:19.03
自らのご都合主義を径て文献解釈不能に至る畿内説的疑問だけど
從郡至倭 に関し、自、径、至 にちなんだ倭人伝の構文について記す。
本文はドン来いスレとかググりで・・・

倭人伝
『從郡至倭』=帯方郡から倭に至るには、から、以降経路説明
末羅国は到着港、伊都国は入国管理一大率のある首都で、ここまでが『從郡至倭』
で、倭国に至った。 余談として近隣に奴国、不彌国が有る。

南至投馬國水行二十日官日彌彌副日彌彌那利可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有(略)可七萬餘戸
は、九州説では邪馬台国への経路の再説明とされるのだが、
実は『從郡至倭』の文節としての倭国への経路ではなく、

『從郡至倭』以南(伊都国迄500里、で、残りの1500里)も含む、
女王国南限の女王之所都=邪馬台国までの行程である。

で、次文節は『自、女王國以北』だが、これ以降はこの女王国を 自=起点にした
女王国=極南界の女王の砦、邪馬台国、以北の女王に属する国を紹介している。

九州説スレには老婆心だが、邪馬台国は九州北部なのである。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 09:45:37.67
>>221 3回読んだがわかりづらい。
地図をつけてそれに矢印や日程を書き込んで公開するか、
または、>>221の意図で解釈した翻訳文を
このスレに書き込むかしないとな。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 10:50:20.49
>>222
南至投馬國水行二十日官日(略)萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有(略)可七萬餘戸
は、『從郡至倭』の文節の、倭へ至るための行程の別の説明ではなく
段を改め、旅行記ではない倭の女王国の全体像を記している。
これを前提に、倭人伝を先入観無しに3回読めばわかるんじゃないかな?

ついでの老婆心だがもう一つヒント、話を解りにくくしている『投馬国』について
この投馬国が現代人に知られていないということが面白いと思うのだが、
歴史学、考古学、皇国史観、半島配慮、戦後レジームの賜物なのだろうか?

帯方郡の南7千里に女王国北岸の狗邪韓國
狗邪韓國から水行10日=3千里の島領と九州島の陸行一月=北部2千里が女王国である。
韓伝曰
韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千里有三種
つまり、三韓は方可四千里で南を倭と接するのであり、
歴韓国4千里以降、狗邪韓國までの残り、ほぼ東へ3千里は倭である。
無ければならない空白部。 それが『投馬国』である。

珍島から釜山以南はというか島領全部と沿岸は倭であったと言える。
女王国に属さない半島南部の倭人国が投馬国であり、この当時万余戸である。
後の加羅、任那と考える。 

日本人ならこれ、卒論にしていいぞ
ソースは2ちゃんwww
0224日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 11:04:45.79
魏志倭人伝の女王国から遠く離れた周辺国はほとんどが位置を特定
できないけれど、冒頭の「斯馬國」だけは特定できる。

資料1
次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好
古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次
有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣
國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡

資料2 翰苑の広志曰く「邪届伊都 傍連 斯馬」
意味は「ななめに伊都にいたり、かたわら斯馬につらなる」

資料3 正倉院にある日本最古の戸籍「筑前国 嶋郡 川邊里」
    嶋郡=しま郡

地形的に糸島半島(元の地名は怡土[いと]・志摩)は古代は陸続きではない
ため、松浦→伊都→奴国とあるく際に、島である斯馬國には立ち寄ら
なかったと考えられること。旁国としてトップに紹介されるのは妥当。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 11:16:47.18
>>223
>>倭人伝を先入観無しに3回読めばわかるんじゃないかな?
>>半島南部の倭人国が投馬国であり

わかんねーよ。九州北部までは里や方角まで
大体わかっているのに投馬国がその間にあるわけないだろ
0227日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 11:28:14.98
>>224 ついでにいえば、
斯馬國の「斯馬」は、当時倭人が「しま」と
発音していたから、「斯」は「シ」と発音して
読むとわかる。他に「斯」の文字ないが。
「馬」は「マ」と読んで、マの発音には馬を当てた
ことがわかる。だから邪馬台国の馬は「マ」でいいし、
投馬のはとうまかつまかは判断できないが、馬は「マ」で
いい。ともの浦ではないだろう。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 11:46:57.42
>>225
それだと3回読んでも無理かも?
確か弥生ミュージアムってページだと全文写真であったかも。
改行どころか文節句読点無いんで恣意的な訳出の改行は判定する必要がある。
っていう、原文解釈の話。

畿内説判定の南=東は無茶苦茶としても、
里程や日行、月行の定義は皇帝の史書で示すって意義もあったはず。
千里は半島〜対馬、対馬〜壱岐を均せば概ねであって、九州上陸後2千里が邪馬台国。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 12:08:33.97
>>227 対馬もツシマだから、マの発音には馬をあて
馬とあれば「マ」と読むのが基本だね。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 12:29:45.46
投馬国は宮崎県西都市妻(都万)でいいだろ。
戸数から言っても広大な平野が必要。
末盧国で上陸せずにそのまま水行。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 13:08:46.37
書紀の景行天皇のところ
火の国の由来の場面で「これは八代県の豊村です」とあるので
卑弥呼の後のトヨはこの八代という可能性ありますか
0232日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 13:12:15.85
>>230
倭人伝
其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里
定義1=帯方郡から邪馬台国は万2千里 
定義2=里程が特定され得る半島〜壱岐は2千里

>投馬国は宮崎県西都市妻(都万)でいいだろ。
帯方郡から邪馬台国への全行程が万二千里であって、
帯方郡〜九州上陸後の一万五百里以上地点の不彌国から、
さらに定義なしの水行30日陸行一月は1500里以内である? 無理。

そういう風に中国正史を無茶解釈するとしたら投馬国は九州邪馬台国のさらに南
到達すべきもう一つの邪馬台国は太平洋の向こうのムー大陸になります。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 13:25:54.65
>>230 一理ある。耳川とかの
ミミという表現があるからな。宮崎県
美々津もな。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 17:09:51.58
>>228 九州上陸後2千里が邪馬台国だね。
海路を通って韓国南端まで行き、
1万2000里で女王国で到達、というのが
古文献の記述だった。
陳寿はそれをベースにしたが、大問題が発生して、
魏使節一行は陸路で釜山まで行ったことだ。
ソウル方面から釜山まで平均して20日余かかる。
ソウルまで水行だと遠回りになってしまうので、後世になっても
韓国西海岸を通るルートは数少なく、陸路が主になっている。
陳寿は仕方なく、その使節一行がかかった日誌を見て、
そのルートも日数表示で併記(追記)しただけ。
きりのよい数字で、水行十日陸行一月。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 17:36:05.63
>>237
陳寿の倭人伝の主文は主に卑弥呼に招請された帯方郡の役人、帳政の記録だが?

魏使節一行というのは何の話? 
ソウルから釜山に歩く? 高句麗馬の移入陸路は高句麗戦時、後世に倭人が作った。
魏は直前の韓四郡の公孫氏討伐も馬賊の居る陸路ではなく船で帯方郡に渡っている。

>韓国西海岸を通るルートは数少なく
じゃなくて、倭人が帯方郡と交易する時くらいしか使っていない。
0239日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 18:00:52.52
難升米、牛利は遠きを渉り、道路勤労す。と書いてあるからじゃないの
歩いてきたんだよ
0240日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 18:27:20.55
>>218
>從A至B
>自A至B
>の違いは?

@ 自A至B
Aは起点
AからBに至る

A 從A至B
言外に起点Sがあり、Aは経由点
Sから見ると、Aを通って(Aに立ち寄って)Bに至る

從郡至倭
洛陽にいる倭人伝の読み手は、「帯方郡の向こうの倭に至る」と読む。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 18:29:20.99
>>237前スレで見たことがある。魏使の行程って書いてあるね。
ttp://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho121/ma1215.png
水行は風待ちや天候不順による滞留が多いから、半島を縦断するのは
陸行にとってかわられたという意味でしょ。後世になって朝鮮通信使も
日本往還日記でも半島では陸行してるんだから。
0242日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 18:36:09.03
網野善彦の本で
大和朝廷から徳川幕府まで主流派の権力は陸地、道路、農民を重視してきたけど、
後醍醐天皇とか薩長土肥は海路、交易、商人を重視。

薩長土肥の共通点が海とすると、古代も地理はそう変わってないし
アナロジーとして倭国時代に当てはめることで何かヒントにならないだろうか
0243日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 18:48:40.34
伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。

大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路  出航地(平戸周辺)

伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。 
だからそこに一大率が置かれたんですよ。  

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0244日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 20:30:43.75
>>こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

倭国というペンネームの人物が居るのか?
邪馬台国は阿波国にあったといいたいのか? 日本語になってないぞ。
0245日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 22:05:35.72
>>240
これは酷い!
0246日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 00:31:09.19
陸路何日とか何千里とか現代文明の感覚で考えてたらいろいろと間違えてそうだ
ただでさえ日本は平坦な土地が少なく起伏にとんだ地形だし、当時の交易ルートの道も草木が生い茂りとてもスムーズに進めるとは思えないけど、どうなんだろう
歴史やこのての事に詳しくはないが、当時の人の履き物て1日に何キロも歩いても大丈夫なものなのかねぇ
0248日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 06:26:46.09
>>227魏志倭人伝と関係ないが、斯は
埼玉の鉄刀で
獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮
しきのみや 
がある
0249日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 06:50:32.20
>>247
「陸行一月」

投馬国(土佐国宿毛) ➡ 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ➡ 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)

距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波
0251日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 07:05:13.68
>>250
陸行で 宿毛 ➡ 阿南市 ➡ 徳島市(鮎喰川下流域集落群)
0253日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 07:40:48.17
朝鮮通信使のルートをさんざんググったが、韓国内は陸行しか見つからなかった。
http://islands.chicappa.jp/goto-web/img/chejugotokouro.gif
日本でも遠州灘はかならず陸行だし、対馬海峡の波の荒さを思えば、
韓国の南岸を延々と海行して西回りで迂回するのは、
航路や里は大体わかっているとしても、使いたくなかったのではないか?
0255日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 08:40:53.50
>>247
古代の旅でも20〜30qは普通だからな。
0256日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 08:50:17.41
>>252
>>253
朝鮮通信使が朝鮮国内を陸行するのは普通のこと
日本から中国に使節を送るのに朝鮮国内を陸行はしないし
中国から日本に使節を送るのに朝鮮国内を陸行はしない
「循海岸水行 歷韓國 乍南乍東」で朝鮮国内を陸行したとするには無理がある
水行した七千餘里に20日掛かったのだ
陸行した場合と日数は変わらず歩くより楽
>>237
伊都国、奴国付近で12000里ですから
女王国には既に到着してます。
0257日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 09:02:41.14
>>246
日本の場合は草鞋は消耗品で何足も持ち歩いてて
駄目になると次から次へと履き替えて1日に何十qでも歩いていた。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 09:25:28.69
(舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國)
從郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里

倭人伝の話なら半島は水行しかない。
訳=帯方郡が(今使譯所通三十國の女王の)倭国に至るには、
水行で韓の沿岸を過ぎたら、ちょっと南に行ってすぐ東行で北岸の狗邪韓國に到る。

帯方郡以南の韓の南北は韓伝によって4千里であり、
残り3千里の東行は女王国に属さない半島倭人国の沿岸である。

そもそも、通信使時代とは開拓度合い時代背景が全く違う。
東夷伝全体も、ちゃんと読むべき。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 09:38:13.49
江戸時代の宿場町は殆どが、
16km以下の距離で配置されている。

壮年の健康な男性なら2つか3つ飛ばせそうだが
女子供や老人が交じると16km程度でもきつく
中間地点に宿場ができた例もある。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 09:58:55.98
吉野ケ里付近の国邑と言われる遺跡集中地帯を見てみると

吉野ケ里−安永田遺跡(鳥栖) 16km
吉野ケ里−総座遺跡(佐賀市大和町) 11km
総座遺跡−小城遺跡(小城市)10km

といった間隔になっており、一日で行ける距離となっている。
もし、一日で行けない距離で、かつ頻繁に行き来する必要があれば、
おそらくその間の何処かに、宿泊場所ができ、そこが集落になるだろう。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 10:08:11.09
基本的に無理なく日帰り出来る範囲までが
国邑の影響範囲であり
一日で無理なく到達できる距離が
国邑間の距離だと思う。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 11:20:34.44
>>255 軍隊の行軍は1日24kmを平均とするそうだから
重い荷物を持ってそれは軍隊らしく道なき道の荒れた道路を
進むと思えば、古代の旅でも20キロから30キロという説に同意
0264日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 11:43:22.46
>>256 うーむ。ごもっともだ。
朝鮮通信使が朝鮮国内を陸行するのは普通・・だわな。
遣唐使ルートを見ると確かに半島は陸行してしないな。
http://blog-imgs-106.fc2.com/a/s/i/asiareaction/170620-1-001.gif

>>中国から日本に使節を送るのに朝鮮国内を陸行はしない

確か魏の使節である張政は、帯方郡の役人だったはず。
(wiki 帯方郡の武官で肩書は塞曹掾史、帯方郡太守の王頎の部下)

金印を預けたのは帯方郡の太守だったはず。
(魏の使節は梯儁)

帯方郡から水行説は要検討だ。ひょっとして黄海横断の水行の
日数まで加えたか・・・・のわけないか。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 11:47:02.87
宿場町や遺跡の間隔は
15キロ程度で、やや短いと思うけれど、
日帰りで往復できる範囲、
だと思えば、ちょうどいい距離だな。
1日で実質30キロ歩くことになる。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 11:57:54.57
>>258
魏志倭人伝を書くのに資料とした魏略で
すでに水行七千里のデータが記載されている。
【従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国 到拘邪韓国 七千里】
しかし帯方郡の太守や役人の使節が関わったことにより、
陸路で進んだらどうなると思う?。
魏志倭人伝には水行七千里をまず記載すると同時に
水行十日陸行一月と追記せざるをえないではないか。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 12:00:15.07
A 洛陽 
  南路東水行 or 北路東陸行
B 山東半島 
  東渡黄海横断 
C 京畿湾(徳積島)  帯方郡

@C 從郡(京畿湾徳積島)至倭  
  乍南 循海岸南水行四千餘里(320km) 南部半島西海岸 
   韓西海岸 韓在帯方之南東西以海為限 方可四千里 
   倭西海岸 南與倭接 歴韓國 
A 珍島西南海域 
  乍東 循海岸東水行三千餘里(230km) 半島南海岸 歴韓國 

B 其北岸狗邪韓國(巨斉島南岸海域) ※7000余里 

C (東 渡海千餘里)   ※8000余里 

D 対海國(対馬)(方可四百餘里) ※8800余里

G (南渡海千餘里)   ※9800余里 

F  一大國(壱岐)(方可三百里)  ※10400余里 

G (南 渡海千餘里)   ※11400余里

H 末盧國(五百里)伊都國(行程百里)不彌國(吉野ヶ里)  ※12000余里
I 末盧國(五百里)伊都國(距離百里)奴國(佐賀城)     ※12000余里
0268日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 12:15:38.65
>>267 漢や魏の知識層としては、中国と倭の往復は
船を使って朝鮮半島の沿岸ルートが常識。(例 遣隋使)
http://history.kaisetsuvoice.com/images/Kenzuishi.jpg
なのに、帯方郡の役人らに下賜品などを任せたところ、
韓国内陸行で報告書を出してきた。陳寿はよりもよって
その日程情報を不弥国の記述のうしろに突っ込んだものだから
現代日本の研究者は邪馬台国の位置が支離滅裂になった・・・
ということでいいんじゃね
0269日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 12:29:17.36
韓国内陸行説には、根拠がある。卑弥呼は当初、帯方郡に使いを送っているからだ。
その帯方郡から魏に向かっている。帯方郡が取り次ぎ役として重大な役割りを果たして
いるので、倭から帯方郡へ向かうとなると、定番の陸路を使ったと想定されるからだ。

原文
景初二年六月 倭女王遣大夫 難升米等 詣郡
求詣天子朝獻
太守 劉夏 遣吏将送詣京都 

書き下し
景初二年六月、倭女王は大夫、難升米等を遣わして郡に詣り、
天子に詣りて朝献せんことを求む。
太守、劉夏は吏を遣わし、将(ひき)い送りて京都に詣る。

現代文
 景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、
天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。太守の劉夏は官吏を派遣し、
難升米等を引率して送らせ、都(洛陽)に至った。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 12:34:53.61
>>268
>その日程情報を不弥国の記述のうしろに突っ込んだものだから
>現代日本の研究者は邪馬台国の位置が支離滅裂になった・・・

倭国(阿波)の研究者は除く。   @阿波
0272日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 12:56:20.82
>>270 邪馬台国が北九州で韓国内陸行なら、
投馬国は北九州沿岸ですぐわかるはずなのに
わからないからな。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 13:11:10.79
>>270
忌部のルーツは壱岐対馬?
藤原ルーツが壱岐対馬って神道の本に書いてあった
0274日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 15:55:29.58
>>268
>その日程情報を不弥国の記述のうしろに突っ込んだ
違います。

倭人伝の構文で 從郡至倭 の行程文は郡使が常駐する所の伊都国で終っています。
東南100里奴国、東100里には不彌国が有ります。 は、余談。

南水行20日投馬国。水行十日陸行一月邪馬台国 は
自女王国以北の30国紹介の段落の前置きとして、女王国の全体像を示しています。
魏使の行程の段は実際に移動して訪れた伊都国で終りです。邪馬台国まで行ってません。
伊都国までは万五百里、邪馬台国までは万二千里です。

自女王国以北 以降で使訳=郡使を通じ知るところの九州北部30国情報の段です。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 16:36:05.65
其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王 自郡至女王國萬二千餘里

倭人伝では、女王の所都を邪馬台国と称し、女王の領地の南界にあります。
後漢書 においても30国の大倭王はその極南界の倭奴国に住む とあります。

魏使が行ってないのは、戦場だったか用件の新女王が伊都に来ていたからかと。
卑弥呼の墓もおそらく南限の邪馬台国じゃないで出身地に有りそう、ってこと。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 16:51:38.39
なんでそんな面倒かことを考えるのかな。
女王国は伊都国と奴国、平原遺跡が卑弥呼の墓で全て丸く収まる。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 17:02:21.88
>>277
九州には、全国に進出した「阿波の忌部一族」のようなものが存在しない。

そんな力の無いところに邪馬台国など、有り得ない。   @阿波
0279日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 17:27:05.55
東南100里奴国、東100里には不彌国が有ります。 は、余談で、
伊都国で終っている・・・ウム。
魏使が邪馬台国に行ってないのは、新女王が伊都に来てたからと。
うん、話のつじつま合う。
0280日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 17:37:32.02
>>279
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
延々と無意味な論争は時間の無駄。   
こういう痕跡を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0281日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 17:41:09.16
なんだよ、新女王って。
魏志倭人伝は卑弥呼の時代の話だろ。
魏と交通する前から女王だぞ。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 17:42:45.40
阿波

の文字を見かけた瞬間に、2行目からは読んでないよ。
原文・読み下し文・口語訳 の3つを提示するなら読むが、
妄想の口語訳だけなら、いらん。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 18:40:44.61
>>274-279

A 洛陽 
  南路東水行 or 北路東陸行
B 山東半島 
  東渡黄海横断 
C 京畿湾(徳積島)  帯方郡

@C 從郡(京畿湾徳積島)至倭  
  乍南 循海岸南水行四千餘里(320km) 南部半島西海岸 水行4日 
   韓西海岸 韓在帯方之南東西以海為限 方可四千里 
   倭西海岸 南與倭接 歴韓國 
A 珍島西南海域 
  乍東 循海岸東水行三千餘里(230km) 半島南海岸 歴韓國  水行3日

B 其北岸狗邪韓國(巨斉島南岸海域) ※7000余里 水行7日 

C (東 渡海千餘里)  ※8000余里   水行1日 

D 対海國(対馬)(方可四百餘里) ※8800余里

G (南渡海千餘里)  ※9800余里   水行1日 

F  一大國(壱岐)(方可三百里)  ※10400余里 

G (南 渡海千餘里)   ※11400余里   水行1日

H 末盧國(陸行程 五百里)伊都國   ※11900余里

I 伊都國(陸行程 百里)不彌國(吉野ヶ里)女王國   ※12000余里
I 伊都國(距離 百里)奴國(佐賀城)女王國      ※12000余里
0284日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 18:41:51.30
倭人伝が九州北部しか紹介していないのは帯方郡から一万2千里が女王国で確定ですが
謎は 南水行20日投馬国水行十日陸行一月至邪馬台国 が、なぜ不彌国起点なのか?
ですが、

前置きの 從郡至倭 が郡使が倭国を訪れる場合、であり、以下が説明の段落。
隣に奴国不彌国が有る入国管理の伊都までで、不彌国は行程中ではありません。
郡から倭への行程とその説明の段落はここで終了しています。

次の
南水行20日投馬国水行十日陸行一月至邪馬台国 は魏使の行程ではなく
情勢説明の次の段落への前置きで南限狗奴国までの女王国全体像を示しています。
次に国名を連ねますが、統べて女王国の付属国であり行程でないのは明らかです。
段落は変わっています。

これが、文節改行が無いために読みにくい、問題の倭人伝構文の構造です。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 18:44:57.53
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。

だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。   @阿波
0286日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 19:11:12.88
頭がもう一つ良さそうでない@阿波さんの推測はいつもお笑い種
0287日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 19:11:41.85
大陸からの玄関口「末羅國」の痕跡 「田熊石畑遺跡」   @阿波
0288日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 19:23:10.35
大陸からの玄関口「末羅國」の痕跡 「新原・奴山古墳」   @阿波
0289日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 19:27:12.65
>>284
不弥国が起点?何が根拠?
帯方郡が起点だろ。
投馬国は伊都に立ち寄らずに宮崎まで行くんだよ。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 19:32:21.67
>>284
投馬国水行十日陸行一月至邪馬台国 は・・・・
・・・南限狗奴国までの女王国全体像を示しています。

女王国全体は、端から端まで
水行十日陸行一月かかる、という解釈か。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 20:49:29.72
投馬国さえわかれば、と思ってググっていたら、
於投馬国という表記がされたものがあるという。魏志倭人伝の転写か?
『太平御覧』にみえる「於投馬國」
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-83-7c/longwestlonghigh/folder/1513659/10/60878510/img_0

於投馬國は、「投馬國に於いて」という意味じゃなくて、単に発音「エ」を漢字を
当てたが、「至投馬國に於いて至って」という表現だと思われて、くどいため
於いてを削除して、「至投馬國」(投馬國に至って)と書いてしまったのだという説。
1930年の説だというから古い。
ともあれ、これで投馬國は於投馬國(えづま)と判明。
現代でも、出雲の人は出雲を「エヅモ」となまって言うそうだから、投馬國=「いずも」。
「ミミ」という官名は出雲独特でもある。
となると、南水行二十日というのは、沿岸航法であるから、出発地は狗邪韓国になる。
もしくは帯方郡か。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 21:33:19.10
>ともあれ、これで投馬國は於投馬國(えづま)と判明。

判明しとらん
0293日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 21:46:39.30
>>259
通常は2つか3つ飛ばして宿泊してたんだよね
途中出でぐわいが悪くなったり、体調不良ななることもあるから
16km以下の距離で配置されているんだよな。
0294日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 21:49:05.21
>>263
>水行は1000里/日だから

デマだな。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 21:56:32.25
>>291
ミミという名は出雲ではなく九州。
都万は宮崎の地名。
水行二十日は帯方郡が起点。
0297日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 21:59:42.01
>>28
伊都国、奴国付近で12000里に到達して距離の説明は終了してますから
日数も帯方郡が起点ですよ
投馬国は朝鮮半島南岸で、女王の都する所は北部九州ですね。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 22:02:43.74
從郡 南至投馬國 水行二十日
郡より投馬國までの行程が水行二十日(2万里)
水行二十日=水行一日×20日=1000里×20=20000里
方向「南」の起点は不彌國
投馬國の位置は有明海東岸筑後平野

從郡 南至邪馬壹國 水行十日陸行一月
郡より邪馬壹國までの行程が水行十日(1万里)陸行一月(1千里)
水行十日=水行一日×10日=1000里×10=10000里
陸行一月=海行一月=一月行=1000里
方向「南」の起点は不彌國
邪馬壹國の位置は筑後平野内陸部八女
0299日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 07:18:15.19
30日行+1月行が一万二千里
30日行は一万里、1月行は二千里
九州説倭人伝の定義
0301日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 08:54:20.13
>>297
>>伊都国、奴国付近で12000里に到達して距離の説明は終了してます

この言い方いいね。きっちり合計12000里に足し算する必要ない。
「付近で12000里に到達して」で、簡潔にして明瞭。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 09:01:29.33
女王の都する所は北部九州だろう。九州ではどうしたわけか、
古代において女王(女酋長)がブームになった時期がある。その数は10人以上。
卑弥呼もその一例。
http://trakl.exblog.jp/17646990/
0303日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 09:15:26.11
20日行投馬国=6660里≒狗邪韓國 巨済島〜釜山あたりの諸国の一つか港町も国だな?
狗邪韓國は加羅、投馬国は任那の前身ではないかと推測する。
邪馬台国は女王の砦の地名、ローカルでの国名は後漢書の倭奴国

魏が帯方郡を支配したのは邪馬台国の238年以降268年まで
ここでは、たいした大国評価だが、当時の東夷ではたいしたことない。
邪馬台国印綬は魏が藁を掴んだwww
(阿波さん、阿波は当時の中国人じゃ届かないもっと大国だよwww)
0304日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 10:10:07.07
【卑弥呼の王宮の候補】

・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。

・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。

・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
郡使が滞在した伊都国までやや遠いのと、魏志倭人伝に該当する記事もないのが不利。
すると祇園山は壹與の墓か?

いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡である。
平原遺跡に見られる鳥居や御柱などは、3世紀において神道が成立していたことを示す。
卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。
0305日本@名無史さん
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2018/01/11(木) 10:10:29.82
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 10:12:31.59
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 11:25:22.68
ここの説で全て矛盾無く説明できてるのに
何で訳の分からん説を主張する人いるんだろうな?
0309日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 11:29:50.73
>ここの説で全て矛盾無く説明できてるのに

おめでたい奴
0314日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 19:53:46.04
>>310
「福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。」

もうこれだけでアウト。以下読む気もしなかった。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 20:19:05.08
感情論であり、批判になっていない。
日中の双方の文献が伊都国と奴国周辺を王都として記録していることになるのですよ。
逆に、それ以外の読み方をすると、どちらかもしくは両方とも間違えているということになってしまいます。
矛盾のない読み方ができるのに、わざわざ記事が間違っているとしなくてはいけないのは、おかしくないかな?
0316日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 20:21:45.34
>日中の双方の文献が伊都国と奴国周辺を王都として記録していることになるのですよ。

勝手読みすんな
0317日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 20:23:11.07
筑紫が倭国の王都であったことを認めたくない畿内説が、根拠もなく駄々をこねている。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 20:23:12.37
筑紫の日向の橘の小戸のあわぎはら、
だからねえ。

筑紫国の中に日向という地名があると考えるのは
当然だな。

そして実際に日向峠に立花山、小戸港
があるんだから、古事記を書くときに
太宰府あたりの人が近場の地名から
創作したのかもね。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 20:31:19.93
古事記の編者の太安万侶は奈良の人。
墓が見つかっているはず。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 20:33:25.35
記紀だけじゃないよ。

祓詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す
0324日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 21:09:53.79
古代人なんか新聞もwikiもないから、
身を守るためにデカい鏡持ってるやつらにとりま従うって処世術に決まってる
で、世界最大の鏡持ってたのが伊都国なんだろ
0325日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 21:12:13.29
利益がでるか、軍事力が強いか、それでなびくのが人間。現代でも同じ。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 21:40:05.34
>>322
太安万侶は九州から取り寄せた古文書を基に編集したんだろうな。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 21:42:52.98
>>327
暗記のすぐれた爺さんから
口頭でしゃべるのを文字にしたんじゃなかったか。
文献も見ただろうけど。中国文献は見ただろうけど、
日本の文献は当時あったかな。少しはあったろうけど。現存なし。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 21:43:29.56
つまりは、昔から筑紫が都と認識されていたわけですね。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 21:52:58.40
>>328
倭人伝には倭では文字が使われていたとの記述がある
実際に3世紀の硯が伊都国跡や出雲で出土している
国内での文字使用は3世紀には行われていた
当然文献も多数残っていたはずだ
暗記のすぐれた爺さんとか完全な作り話だ
参考にした文献を全て処分した言い訳だな。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 21:54:48.93
>>331
>>暗記のすぐれた爺さんとか完全な作り話だ

ひえだのあれ
はどうなるんだよ? 
0333日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 21:59:13.41
>>332
3世紀には文字を使ってたんだからそれは明らかに嘘話だよ。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 22:03:26.89
稗田阿礼

生没年不詳。
7世紀後半から8世紀初頭の人。大和(やまと)国添上郡(そうのかみのこおり)稗田邑(ひえだむら)(奈良市南稗田)の出身。
天岩戸(あめのいわと)神話で有名な天鈿女命(あめのうずめのみこと)の後裔(こうえい)猿女君(さるめのきみ)の族で、天武(てんむ)朝に舎人(とねり)として仕えた。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 22:05:36.08
8世紀の奈良の朝廷がわざわざその起源を筑紫としたことを重く見るべきだ。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 07:53:57.51
卑弥呼の時代は文字はあったが、漢文表記ができなかった。のちに古事記を書くとき
になっても変体漢文で書いて四苦八苦しているくらいだから。帝紀も旧辞も
読み方も字すらも書誌としてまともに読めない状況だったとみなすべき。
「詳しくは稗田阿礼が口上で申しあげる」といったところか。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 07:58:04.73
古事記前は漢文そのものを使っていた
古事記以後は漢字を使って日本語を表記しようと革命を起こしたんだろうな
0338日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 09:19:39.36
>>337
日本書紀はは純然たる古典中国語の文体。
古事記は古典中国語を基本に日本独特の表記を交えた、いわゆる「変体漢文」
それよりも前は、漢文以前のレベル
0339日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 09:27:42.69
三国志には、冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻

とあり、この表記だけは俾彌呼と書いて、卑の字ではなく「俾」。
にんべんのついた俾は高尚な意味があるから、(「使」と大体同じ)
この一カ所しか使われず、このあとは、ただの「卑」弥呼。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 09:58:15.06
卑は俾の減筆か。
卑・・・かしずく

彌・・・とおい

呼・・・よぶ

俾彌呼・・・遠くから傅いて呼ぶ
0341日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 11:00:46.36
卑弥呼の所在地が伊都国と判明したんだから
1〜4世紀の北部九州から8世紀にヤマト朝廷が誕生するまでが歴史の謎だな。
0343日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 11:56:17.57
>>341
>1〜4世紀の北部九州から8世紀にヤマト朝廷が誕生するまでが歴史の謎だな。

倭国(阿波)の歴史に謎なんてない。   @阿波
0347日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 12:50:18.23
>>343
所詮アワは泡沫ですからw
0350日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 13:16:52.23
【王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國】
(邪馬壱国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に詣るとき、
【及郡 使倭國】
及び帯方郡の使者が倭国に行くときは、
【皆臨津捜露】
いつも港に出向いて調査、確認する。
【傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯】
文書、賜遺の物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。

一大率は文書を読むことができる。文書に書いてある品目や数を読んで、
現物を確認する作業をしている。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 14:20:33.72
伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。

大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路  出航地(平戸周辺)

伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。 
だからそこに一大率が置かれたんですよ。  

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0352日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 16:57:21.48
>>351
伊都国には一大率は置かれていませんでした
一大率が置かれていたのは女王国の北の諸国です
魏志倭人伝をちゃんと読みましょうね。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 17:33:23.80
一大率なんだから一大国なんじゃないの?
0356日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 17:45:43.86
ちゃんと読みましょうね。とか、
理由を教えて進ぜよう。 とか、

言っててそれがおかしい内容だから、苦笑せざるをえないわな。かと言って
指摘するとマジ切れするし。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 18:25:54.16
二中歴の九州王朝年号と推測できる部分では


517年の継体年号から始まり
700年の大化で終わっている。
さらに、次の大長年号が
あったという説もある。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 20:40:25.12
一大國は一支國の写し間違い。

一支國は壱岐國。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 21:38:36.08
>>356
まさか伊都国に一大率が置かれていたなんて言ってるの?
それは誤読じゃなくて捏造だな。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 21:46:09.71
このように
九州説とは

理由もなく
世間常識と
反対のことを
言い張る人々

なのであります
0362日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 21:54:12.91
>>359
魏略だと「南度海 至一支國 置官至對同 地方三百里」
一大國は一支國の写し間違いですね。
>>361
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之」ですから
どう読んでも一大率は自女王國以北に置かれ諸国を檢察する監察官ですね
理由もなく変な主張をしてるのは>>361さんですね。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 21:56:12.53
>>360
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國

女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。
0364日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 21:59:26.73
>>362
このように
九州説とは

学問上の定説を
理由のない変な主張
よばわりする

おかしな人々です
0366日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:09:26.00
>>364
そんなの定説じゃないよ
畿内説の人のいい加減な訳だな
どうやったら伊都国に一大率いたと訳せるのか
その訳をした人に聞いてみたいものだw
>>365
諸国は自女王國以北の諸国でしょ。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:12:31.15
>>366
なら、そう訳さない人が誰もいない理由は、なに?
0368日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:13:26.08
>>367
何でそう訳さない人が誰もいないとか言えるの?
0369日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:13:39.23
>>366
>諸国は自女王國以北の諸国でしょ。
おかしな訳をするからそうなるw
0370日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:16:57.78
古今東西の学者たちよりも自分が正しい
そう主張する既知害が集うのが九州説
0371日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:19:45.04
>>369
じゃあ訳してみてよ
説明できなくて偉い人が言ってるからじゃあ話にならないな
ただの権威主義で議論する能力が無いってことだから
黙っといた方がいいよ。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:24:39.01
>>370
それは昔より今の方が情報が豊富だからだよ
昔の学者さんの誤りを指摘することが容易なんだよ
今は知識が少なくてもネットで検索が簡単だからな
昔は何年も掛けて調べていたことが経ちどころに分かるからね。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:25:26.75
>>363
いちだいそつ?そんな名詞ないやろ?(
よみとけんからいうて名詞にすな(東治もしかり
国々に市あってタニハをしてコレを監するを女王国以北に特に一つおく
大いに率い検察するに諸国コレをいたんす
つねに伊都国をおさむ(或いは大いに率い検察するよって諸国コレをいたんしつねに伊都を治水す

くにくにに市あって
0376日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:25:29.48
>>372
前の文から訳してみろよw
0377日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:25:56.58
>>374
???
0380日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:27:20.51
あーそれからチンジュは倒置よーつことるし
0381日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:28:53.21
ありゃこみあってるときに荒らすのよくないか^^
idないからごちゃごちゃになるなー
0382日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:29:19.17
>>363
大率は女王国より以北にいるんだから、
常に伊都国で政務を執っているのは大率じゃないよな
一人の大率じゃあ同時2か所にはいられないからな。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:29:44.80
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。

治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。

では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。

「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。

女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:29:58.16
>>379
誰も反論出来ないからな。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:31:52.57
いっこだけいわせてくりゃれ
ふたつめの伊都はいづもの一字ぬかしのまちがいかもよ(はなほじ
0387日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:33:06.63
>>383
いつも論破されてるアレか

学習しろよ
0389日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:37:01.60
つーか
一大そつてなんや?大学でもあったんか?^^
0390日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:38:05.43
大いに率いるであかん理由が全くわからん
0392日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:43:05.98
>>386
>女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し
>常に伊都国で政務を執っている。

>>387
今まで論破なんてされたこと無いんだがw
お前らいつも逃げてるだろwww
0393日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:51:49.67
>>391
マジ?(
ソースください
0396日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:56:58.38
>>394
虚勢を張るなよw
0397日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:59:00.99
>>395
>>394
ののしりはこーさんのサイン(つーか邪魔(だっくのほーがいーせんすやぞ
0398日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 23:04:27.45
>>393
隋書東夷伝百済条
「官有十六品:長曰左平,次大率,次恩率,次コ率,次?率,次奈率,次將コ,服紫帶;
次施コ,p帶;次固コ,赤帶;次李コ,青帶;次對コ以下,皆?帶;
次文督,次武督,次佐軍,次振武,次剋虞,皆用白帶。」
0399日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 23:07:25.25
>>398
ひゃはー百済か!(しらんかった(トン
0400日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 23:16:47.13
>>398
百済に大率があったから
大率とは言い切れないな
大率や一大率って名前の役職があってもいい
率はひきいるの意味だからな。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 23:40:13.91
前の世代の大夫に相当する職だろうしね
大倭、大人、大臣。。。
並びは良いよ
0402日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 06:04:26.57
>>383 伊都国=邪馬台国
というのは無理があると思ったが
(以北=出発点の国を含む の論理)
文章や根拠は見事だ。評価したい。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 06:30:54.77
水行10日陸行1月は、帯方郡から筑紫平野まで。
(半島陸行を含む)

南至投馬國 水行二十日は、帯方郡から出雲まで。

それぞれ別の資料から、陳寿は引用して魏志倭人伝に入れただけだろう。
放射説だな。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 08:16:16.28
>>402
ありがとうございます。
伊都国と奴国をあわせて女王国と呼んだのだろうと。

まあ、伊都まで来ることができる範囲に卑弥呼がいたという可能性も少しは考えていますけどね。
それだと具体的に絞る情報が少なくなってしまう。
0407日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 08:23:00.52
>>406
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。

魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。

延々と無意味な論争は時間の無駄。   

こういう痕跡を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0408日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 08:48:41.11
>>406
朝鮮半島南岸の投馬国に対して
北部九州を邪馬台(壱)国と呼んだんだ
女王国とは投馬国と邪馬台(壱)国を合わせた地域
伊都国と奴国は女王国の首都圏。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 08:53:03.34
>>406
クナ国と戦争やってて、卑弥呼が死んだあとも
またクナ国と戦争やって、魏の使節が来て
台与に面会して、と、卑弥呼も魏使も台与も
九州北部でごちゃごちゃやってるんだよ。
卑弥呼が奈良の山奥にいたとはとても思えない。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 12:15:01.46
九州北部の諸国から南方にある邪馬台国が首都で
伊都国が本国に準じた直轄地じゃね
0413日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 12:43:14.72
邪馬台国の南にある狗奴国が熊本なら、南と言っても限度がある。
せいぜい邪馬台国の領域は筑後平野まで。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 13:02:45.70
筑紫平野か筑後平野か区別はわからなかったが(同じか)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7c/Tsukushi_Plain_Relief_Map%2C_SRTM-1.jpg
九州北部海岸の諸国のすぐ南には稲作に適していそうな平野が広がって
いるのだから(左下は当時はまだ海)、筑後平野の右上(ちょっと盆地状)には
なにかありそうじゃね? 邪馬台国はここじゃ?。
博多方面と結ぶ回廊には、太宰府がある。要所だな。
狗奴国は熊本とすれば、邪馬台国と接する国境も長くて、長年紛争しそうだ。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 13:25:14.39
筑紫説も魅力的だが、考古学も重視すると、弥生終末期には北部九州の方が優勢なので矛盾がある。
邪馬台国は7万戸。奴国の3倍の人口があるが九州内にそんな遺跡や遺物が見当たらない。
ここが九州説の弱い所ではある。
しかし、邪馬台国=連合国の解釈ならこの問題は解消され、中心地区が北部九州なので考古学的にも問題がない。

よって今の所は伊都国+奴国=女王国説を支持。
しかし、発掘結果によって今後変わるかもしれん。
0417日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 13:44:24.59
>>392
>女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し
>常に伊都国で政務を執っている。

一大率 (一人の大率?)は女王国より以北にいて諸国を検察している
一方、伊都国では常に国の政務を執っている人がいる
この二人は職務も居る場所も違い明らかに別人ですね
一大率が伊都国とか言ってる人は頭がおかしい。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 13:49:35.59
>>417
どうして別人なの?

理由は?
0419日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 14:16:50.87
倭国女王卑弥呼は外交を、一大率は内政を。
簡単じゃないか。
0421日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 14:32:15.73
>>419
一大率は地方官だろ
0422日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 14:38:31.47
>>418
居る場所も職務も違うと書いてあるだろ。
0423日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 14:46:00.45
>>422
違うという理由が書いてないだろ。
0424日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 15:00:18.09
>>423
女王国より以北にいて諸国を検察して回ってる人と
常に伊都国にいて国の政務を執ってる人が同じな訳ないだろ
これが理解できないの?
頭おかしいの?
0425日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 15:05:24.09
まあ一大率が官職名でもえーけどそのくだりはイヨさんの時代の話やし(いよさんがいたのは邪馬壹や
女王がいたとしても卑弥呼さんかその前やなー(土を成したあとと柵あとさがすべし(伊都が卑弥呼さんの都でも三国志に矛盾なし
0426日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 15:08:18.04
30の王あるときみな(このちの)じょうおうにすべからくぞくす
0428日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 15:12:56.84
>>424
ところで・・・
常に伊都国にいて国の政務を執ってる人とか
どんな史料に書いてあるんだ?


???
0429日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 15:13:11.89
ぎのよのおうはみなでもええか(こっちのが類例ありそやな(よーしらんが
0430日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 15:15:16.20
>>428
表意の可能性はあるんかもなー
0431日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 15:17:55.43
いみふめいなのだな
0432日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 15:22:27.81
>>427
何処にそんなこと書いてあるの?
>>428
常治伊都國
0433日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 15:22:48.69
>>409
そうなんやなー
しかもイヨさんの使者が京都に到着した年が書き漏れてるわけちゃうんや
全部一年間のできごと(つまり檄は玄関口
0434日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 15:31:41.05
山東にイ族あり!いんしゅうの古よりある夷の大元にして今もあるなり
毛沢東を襲いて毛沢東降参し血盟をむすぶ

伊都の伊は夷なり
0436日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 15:34:18.26
>>432
「常治伊都國」を、どう読んだら
「常に伊都国にいて国の政務を執ってる」になるんだ?
0437日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 15:40:43.64
卑弥呼さん亡き後イヨちゃんは檄のせーで中国人が嫌いになって1つきは歩かんとこれないような場所に都を移すことにしました
彦根のひみきゅうこくんに近づかないようにも気をつけて(いずもじゃね?
0438日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 16:02:37.41
>>435
誤訳ですね。
>>436
では何と?
0439日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 16:32:20.36
>>438

常に(平常時は)伊都国に役所を置いている
0440日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 16:58:59.06
>>420
>内政は弟がやってんだろ

弟は伝言役だろ。
内閣官房長官みたいなもの。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 17:02:24.91
>>383
>では「自女王國以北」とはどこか。
>以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
>つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
>要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 17:12:31.09
>>439
誤訳ですね
治を役所を置いているなんて訳せません
落第。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 17:36:46.71
>>444
伊都は地方政府の所在地だったということですね。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 17:59:01.64
>>449
倭王から見てだよアホ
0451日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 17:59:03.92
>>446
アホというか
頭を丸めて故郷に帰る必要があるくらい
無学無能だな
0452日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 17:59:04.45
>>446
アホというか
頭を丸めて故郷に帰る必要があるくらい
無学無能だな
0453日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 19:54:08.14
どこもかしこもののしりあいかい(もーやめれ
国々に市あって有無交易する(くやかん対馬壱岐呼子なこくいづも丹後
タニハをしてコレを監せしめるんと女王国より以北に特に1つおく(南はくな
おおいに率いて検察するに諸国いたんす(大官や官や副官を率いてた
常に伊都を治める(交易の要衝伊都国を一括管理
貿易利権独占してたんや
0454日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 19:56:50.53
じょうおうこくは貿易国家や(もーかったんやろ
0456日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 19:59:42.18
絹翡翠と鉄の交換やね?
0457日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:00:37.62
>>455
まーな
中国語は書き下すためにはあらず
0458日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:02:21.93
>>454
倭国(阿波)は貴重な地下資源が有ったからね。   @阿波
0459日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:03:26.24
彦根は鉄が欲しくて米と生口供給した(残酷な話や
0460日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:04:10.67
>>458
水銀か?
0461日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:05:17.55
戦争の原因はレートやな(マジレス
0462日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:06:05.70
>>453
このようにただ自説を主張するだけならまだましだが、
>これが理解できないの?
>頭おかしいの?
とか個人攻撃をするから反撃されてるだけ。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:07:58.65
瀬戸内がどーだったかよーわからん
0464日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:09:36.69
>>462
まし?(ひっかかるなー^^
0465日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:14:03.57
瀬戸内は銭つこてたらしーなー(吉備とか大阪
0467日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:18:27.36
>>464
生ゴミは医療性廃棄物よりましです
誇りを持ってください
0468日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:20:21.29
>>460
女王国「阿波」の貴重な地下資源
@水銀朱の原料となる「辰砂」
A勾玉となる「翡翠」・「蛇紋岩」
B勾玉の内磨き(内側へ湾曲部)の砥石として必須の「紅蓮石」
C石包丁や石斧に活用された「青色片岩」   @阿波 
0469日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:27:39.09
>>466
丹後は重要やぞ
若狭敦賀もいれたかった
0470日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:30:20.69
>>468
弥生までの翡翠はぬなかわひめのじゃろ?(ばれたろ^^
0471日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:33:40.77
つーか彦根が瀬戸内に対して無力ならいよちゃんは四国えらんだに1000勾玉
0472日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:36:50.54
しらふのうちにもう1れす
伊都が表意語も兼ねてたら卑弥呼さんの都一択やね^^
0473日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:44:32.40
>>472
古田が「伊都」は「都にちかい」という意味だと主張したのは傑作だった
笑えた
0474日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:46:03.92
>>470
日本で唯一、阿波だけで祀られている神々の一つ。 阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社 御祭神 建御名方命

大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神   @阿波
0475日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 20:59:35.59
>>473
伊の絵は棒もって天意をさぐってる姿らしいよ
卑弥呼さんが火おこしの棒もって卜してるのイメージやろ
0476日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:02:10.09
>>474
以てよったわ^^
つまどいこんやし
たけみなかたくんは糸魚川出身か?(たいかお見舞い
0477日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:06:03.42
>>473
古田氏のトンデモ説は、一般人を引き付ける魅力が
あったのさ。月刊「ムー」がふさわしいかも。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:14:32.45
卑弥呼は皆既日食の予言を外したから殺された、という説もあったな。
太陽が欠けたまま海に沈む・・・伊都の海岸から見たのか?
『卑弥呼以死』の以死だが、「以て死す」という意味に解釈しがちだが、
以と已は本来同じ象形文字から発生した単語だそうで、以死は「すでに死んでいた」
と訳すのが正しいんだそうだ。(以北は知らない)
死んでいたのでは張政は檄文を女王に渡すことは不可能。No2の なしめ に渡す
しかない。そのあと台与が即位すると、いよはまだ13だから
優しく勅諭して、ようやく張政は日本から帰国することになる。ちっと長居したと
思う。伊都国が主な舞台と思われる。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:17:43.35
うぃきだけ読んだが阿波とたけみなかた君の関連わからん(あわがスゴいことはしっちょりますが
0480日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:22:07.59
>>478
すでにしすかー
それ吉備桃太郎いうイケメンが風疾時一月到で否定的な記事うっぷしてました(まーわえやが^^
0481日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:25:28.67
皇帝の意志携えずして何人たりともしんぎ倭王にげきすることあたわず(要約
0482日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:26:39.29
いよちゃんは自称倭王
0483日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:30:10.42
あわには記紀にくわしき富豪あrて神社たてまくるの可能性ありませんか?
0484日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:30:32.59
>>479
長野県諏訪市にある「諏訪大社」は光仁帝の宝亀10年(779年)に阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社」 「御祭神 建御名方命」
から移遷された、と社伝にあるそうだ。その頃、現在の長野県にある諏訪大社は「南方刀美(みなとみ)神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられている。
つまり大国主命の息子神である建御名方神はここ徳島県石井町諏訪に祀られ、ここから各地に広がっていった、ということである。
それにしても観光地として多くの参拝者が訪れる諏訪大社のご祭神が阿波から移遷された神様だと知っているひとはどれだけいるだろうか。   @阿波
0485日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:31:34.65
りょーまやってるぜよ
0486日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:33:54.59
>>483
倭国(阿波)は富豪豪族がごろごろ居たから、神社を建てまくった。   @阿波
0487日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:34:01.29
ふくいにりょーまがゆく
0488日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:35:02.09
しゅんがくがなぜに護衛つけんかった(なみだ
0489日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:36:28.84
>>484
おおなむちさいとうたんのこんせきにあわのかげあり(まじ?
0490日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:38:23.10
みまわりぐみめー(
さつまかー
0491日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:39:28.42
ながいげんばのかみー(
だれや?
0492日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:41:04.78
ここはどこや?わからんくなってるわ^^
0493日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:46:35.25
りょーまもってしす
0494日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:48:09.98
ほくぶきゅうしゅうせつがこわれた?
0495日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:48:27.66
らすとくえすちょん
阿波やん(りょーまのさいごのてがみ
0496日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:52:00.70
よのなかはかきがらか(不正解でした
0497日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:53:26.62
>>494
わえが荒らしてるだけや(べつにこわれとらんのちゃう?(
てきとー
0498日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:56:30.19
>>480
http://www.lun.ac/history/gyakusetsu/motteshisu.php
というサイトで、三国志から「以死」という単語を
検索して17箇所みつけて、片っ端から検証してる。
それらの用例から、結果がでた。

張政の告諭とは関係無く卑弥呼は自然死し、遺体を葬るために国を挙げて墓が作られた

と言う事に なる
0499日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 21:59:12.07
>>498 あ、張政が来る前に死んだのか、
来てから死んだのか、それは判別つかないや。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 22:54:12.80
どーもおじーちゃんらの争点はつまらん
ひみこもってしす(ゆーたらどーでもえー(とうちかとーやもしかり
アマとクナどちらも津つまり貿易拠点もってた神や(独占権えるには対馬とるか帆船えるか
ごたごたしてたのが3世紀
0501日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 22:57:58.45
ひこねがひこいますをしてなぜにみみを討たねばならんぞな
0502日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 11:32:55.91
>>445
「常に伊都国で治めた」とありますから
伊都国のオフィスに何時も居た人と
女王国以北で諸国を検察してる一大率は別人ってことですね。
>>446
刺史の如くは一大率を伊都国のオフィスで管理してる有様のことですね。
>>447
間抜けなことをw
>>449
当然のことですね。
>>450
倭王が一大率を使って国を治めている様子のが
中国の皇帝が刺史を使って国を治めているが如くですね。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 11:33:12.63
>>473
伊を「これちかし」とか無茶苦茶なことを書いてましたね
伊は「これ」とかに使われることがあっても「ちかし」なんて意味ありませんね
伊は霊能者のことを指すって漢字研究家の白川静さんが書いてましたね
伊は卑弥呼のことで伊都とは卑弥呼の都の意味でしょうね。
>>475
初めて聞いた、その出典は?
>>477
古田氏は変なことをちょくちょく言ってますね。
0505日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 12:41:41.72
誤読@
「常治伊都國」
伊都国に役所を置いている、とあるね

誤読A
常に(平常時は)伊都国に役所を置いている

誤読C
伊都は地方政府の所在地だったということですね。

恥ずかしいw
0507日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 12:58:53.77
>>506
自分のことでしょ
論にもなってない
根拠不明の妄想じゃんw
0510日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 13:02:56.52
>>507
自分のことだって証拠は?

論にもなってない、という理由は?

根拠不明の妄想だと断定する理由は?


???
0511日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 13:06:56.54
>>510
何か主張したいなら
理論立てて説明してよ
結論だけ言われてもねw
0512日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 13:07:27.15
根拠を明示されても平然と「根拠不明の妄想」だなんて嘘を放言するから>>1は嫌われる
0516日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 13:17:29.50
>>511
>何か主張したいなら
>理論立てて説明してよ
>結論だけ言われてもねw

何か主張したいくせに
理論立てて説明できず
結論だけ言ったアホの典型が

>>505 であり

「まったく反論できない恥ずかしい人がいます 」
と失笑を買った
0517日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 13:36:16.71
>>509
読めてないのは君でしょw
0518日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 13:37:11.88
>>512-516
馬鹿丸出しw
0520日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 13:39:54.57
>>518
まったく反論できないで悪口だけを垂れ流すここの>>1って
ちょっと足りない人とか?
0521日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 13:50:16.79
>>519
自分で出した資料が読めないのかw
0523日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 13:52:30.83
クズオって漢文ぜんぜん読めないから
そうやって誤魔化してんの?

恥ずかしいジジだなす
0525日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 13:58:34.66
>>523
やはり理由が説明出来ないのかw
誤魔化すなよwww
0526日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 14:06:11.18
ここのアホ1は
反論されたらグウの音も出なくて

反論したいが出来なくて
ただ「誤読」「誤読」とだけ連呼したが

理由が説明できないので
さらに赤恥をかき続けている
0527日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 14:17:37.57
悪いことは言わん

このスレ、もう畳んだら良いのと違うか?
0529日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 15:17:23.30
>>526
それ君だろw
>>528
「常に伊都国で治めている」・・・これ以外にはないよw
0530日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 15:58:00.61
>>>528
>「常に伊都国で治めている」・・・これ以外にはないよw

散々ここが誤読と指摘されてるのに
まだわかってない。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 16:05:05.55
>>530
何が言いたいの?
0532日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 16:28:58.43
>>530
何処が誤読だとw
0533日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 16:40:33.69
>>530
どんな理由で何処が誤りか全く指摘してないな
嘘しか吐けないのかw
0534日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 17:10:02.92
>>533
「常に伊都国で治めている」は初歩的な誤読


「治」を「治める」の意味に使うなら、目的語が伊都国になるので
「常に伊都国を治めている」になる

「治」を「政庁を置く」の意味に使うなら、場所目的語が伊都国になるので
「常に伊都国に成長を置いている」になる
0536日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 17:39:07.86
誤字修正

>>533
「常に伊都国で治めている」は初歩的な誤読


「治」を「治める」の意味に使うなら、目的語が伊都国になるので
「常に伊都国を治めている」になる

「治」を「政庁を置く」の意味に使うなら、場所目的語が伊都国になるので
「常に伊都国に政庁を置いている」になる


該当する「治」の用例

「又州郡所駐曰治,如蜀刺史曰治成都,揚刺史曰治會稽」
http://www.zdic.net/z/1c/kx/6CBB.htm

「旧称地方政府所在地」
http://www.zdic.net/z/1c/js/6CBB.htm


「刺史の如く」とちゃんと対応している
0537日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 17:49:42.88
>>531
誤読と言いたい

>>532
伊都国「で」

>>533
誤りの理由?
漢文で動詞の目的語を「で」という格助詞で書き下すことはないから。

文意については
>>536
で完璧。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 18:31:52.68
>>503
>>475
初めて聞いた、その出典は? <
わえのれす一行目は普通のごげんじてん(ネットにもある(棒ゆーか杖やった
2行目はわえのイメージ

伊都が表意語なら杖で天意を探る者の都でええんちゃう
0539日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 18:48:30.71
svOやな
じじいどもくだらんことで争うな(一句
0540日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 18:49:55.18
SV於場所ちゃうなー
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 18:55:38.50
あーそーか
ダックはじょうおうが伊都にいて大卒を北の諸国に派遣して治めているとしたいんやな
それやったら伊都に治すと書き下せばええやん?(中国人そこまでこだわらんし
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 19:00:19.88
争点は主語は何かやろ?
くだらないことで揚げ足とったほーが悪い(はなほじ
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 19:06:49.16
>>536
漢文を全く読めない超弩素人だなw

>該当する「治」の用例
恥ずかしい奴だな
それは用例じゃなくて解説だよw
0546日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 19:20:53.34
主語は女王或いはタニハ或いは一大率或いは諸国
諸国もあるでー(驚いたろ?
0547日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 19:20:54.67
>>545
「こう読むんだよ」と自分で
翻訳文を提示すればいいのに。
見たことないわ。出したらボロクソに言われるだけ。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 19:24:33.74
>>547
あーそれが本当ならおしおきもんやなー
おたかくとまったおばかさんはむしがすかん(はなぢ
0551日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:03:57.60
>>550
反論できていないのはそっちだろ。
女王が伊都にいて一大率で伊都から北を治めた、以外の読み方を上げてみろ。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:15:46.83
>>545
清代の用例だよw
0553日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:20:49.43
>>551
異常なウソツキだな
自分で

>誤読@
>「常治伊都國」
伊都国に役所を置いている、とあるね

>誤読A
>常に(平常時は)伊都国に役所を置いている

>誤読C
>伊都は地方政府の所在地だったということですね。

って書いてたくせに
0554日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:24:46.25
>>547
>「こう読むんだよ」と自分で
>翻訳文を提示すればいいのに。
>見たことないわ。出したらボロクソに言われるだけ。

ここの1は異常なウソツキだな
そういう病気なの?
0555日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:36:52.18
伊都国の南に邪馬台国があって、伊都国には邪馬台国から一大率が派遣されていて
周囲の国々を監視している、という解釈がノーマルだろ。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:43:10.11
>>552
頭おかしい?
0558日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:43:12.84
伊都国には帯方郡からの使節などが行き来の往来のときに常に立ち寄る場所で、
品物が届いたときは、品目や個数をチェックしている。
伊都国で陸揚げしているように読めるが、呼子の方で陸上げする荷物もあって
陸送されてくるので、それらも含めて伊都国にて検査している、ってことだろな。

女王国は伊都国の南にあって、伊都国ではないという解釈が一般的だと
思うがね。どのみち1000戸しかない狭い地域だ。邪馬台国の飛び地(遠方だが直轄地)
と解釈してしまってもいいと思う。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:44:05.91
>>553
気が狂った?
0561日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:53:11.14
>>560
論破病だなw
妄想論破www
0563日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:56:44.56
真面な議論できる畿内説の人はいないな。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:58:23.94
畿内説の人は何が言いたいの?
自分の主張を説明できないの?
意味が分からん???
0566日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 21:16:47.39
邪馬壹國は薩摩やった(ちぇっすっつぅ!
じじいどもはせごどんもみんのか
0567日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 21:30:11.90
邪馬台国は薩摩の南の島にある。魏志倭人伝のとおり!。そのとーり。
ピアノ売ってちょうだい。
0568日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 21:34:41.14
>>565
悪口じゃないでしょ
自分の主張を説明できもしないで
論破とか頭が変としか言えないでしょ。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 21:39:06.39
ちょっと脳の認識力がおかしい人がいますね。
>>555
そうですね。これがノーマルでしょう。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 21:41:44.97
>>569
自分の妄想を述べるだけで
根拠を言わないのが畿内説だな。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 21:45:53.27
畿内説にはグズしか残ってないみたいだな
「常治伊都國」
常に伊都国で治める
これに付いては以前議論して
用例を揚げて確認して畿内説の人も皆納得してたんだが。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 21:52:06.93
>>571
>畿内説にはグズしか残ってないみたいだな
>「常治伊都國」
>常に伊都国で治める
>これに付いては以前議論して
>用例を揚げて確認して畿内説の人も皆納得してたんだが。

それは嘘でしょう。
「皆」納得してないから。
例えばここに1人。

常に伊都国で治める
って訳す前に
まず、普通の感覚で書き下し文にしてみてよ。
話はそこからだよ。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 21:58:03.74
>>573
勝手に言ってていいよ
でもよそで言ったら馬鹿にされるだけだよ。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:11:07.61
>>573
>まず、普通の感覚で書き下し文にしてみてよ。
>話はそこからだよ。

自分でやってみろよ。
できないくせに。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:12:26.20
「常治伊都國」
常に伊都国で治める

これに付いては過去に散々議論したんで
また同じ話するのは勘弁して欲しいな
各自自分で調べてね。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:14:03.60
>>580
「東南陸行 五百里 到伊都國」
(東南陸行 五百里。伊都国に到る。)
「官日爾支 副日泄謨觚 柄渠觚」
(官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。)
「有千餘戸」
(千戸余り有る。)
「丗有王」
(世(代々)、王有り。)
「皆統屬女王國」
(皆、女王国に属する。)
「郡使往來常所駐」
(郡使の往来常に駐(とど)まる所。)
0583日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:19:02.47
>>582
進歩の無い訳だなw
0584日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:21:11.15
よよはない
むりだよじじい
やりなおし(失礼^^
0585日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:24:00.67
じぶんで昔の字形で30てれすしてるやん
30は30年なら世だいこうたいの平均値やろ
0586日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:26:21.37
直前の30はいましえきつうずる国のかずやね(よくやる手法や
0587日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:27:47.52
すべからくがぬけてるのはまーえーわ(めんどーじゃ
0589日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:31:04.42
「常に伊都国で治める 」は初心者以下の誤訳


いくら説明されても頭が悪すぎて理解できない1がかわいそう
0590日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:35:17.16
ふつーに
30ねん王がいた
或いは
30国に王がいた
それ以外はない(まじれす
0591日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:40:11.50
>>580
常ニ伊都国ヲ治ム

かな

では
常に伊都国で治めるの元になった
書き下し文をどうぞ。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:40:14.13
>>582つづき
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之
女王国より以北は、特に一大率を置いて検察し、諸国はこれを畏れ憚る。

常治伊都國
常に伊都国に治す。

於國中有如刺史
(魏)国中に於ける刺史の如く有り。

王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國
王が使を遣わし、京都(洛陽)・帯方郡・諸韓国に詣らし、及び、(帯方)郡が倭国に使するに、

皆臨津搜露
皆、津に臨みて捜露す。

傳送文書 賜遺之物
文書、賜遺の物を伝送し

(文1、それらの使節は港で文書や賜物をあらため、文書、賜遺の物を伝送し)
(文2、いつも港で文書や賜物をあらため、文書、賜遺の物を伝送し)
(文3、みなで港へ出掛けて文書や賜物をあらため、文書、賜遺の物を伝送し)

詣女王 不得差錯
女王に詣らすに、差錯するを得ず(錯綜が起らないようにする)。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:42:07.45
いよのまえの一世代(まーだいたい30ねん
ひみこさんが伊都に王としてあった(ふつーの和訳
30こくにおうありてみなすべからく女王にぞくす(これもある(このときはくなもぞくしたかともとれる(ひみこさんきょうりつのとき
0594日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:43:42.04
>>591
つねにいとこくにちす(よこやり
0595日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:46:16.29
問題は
やはりしゅごやん
わからんか(いっく
0596日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:49:28.85
ちなみに主語は一見省かれてるが
まえの節の主語は諸国やん
大穴ながらも文法的には治水するの意味になります(はなぢ
0597日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:59:34.60
>>589
そう言って世間で恥をかきなさいw
0598日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 23:04:26.27
>>597
まったく反論できない無能者だな
これだから九州説は世間で相手にされない
0599日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 23:15:41.36
吉岡 斉氏(よしおか・ひとし=九州大教授)1月14日、
肝神経内分泌腫瘍のため死去、64歳。
告別式の日取りなどは未定。喪主は弟、拓氏。
専門は科学史、科学社会学。2010年4月から14年3月まで九大副学長を務めたほか、
東京電力福島第1原子力発電所事故をめぐる政府の事故調査・検証委員会委員だった
https://www.nikkei.c...70230U8A110C1ACYZ00/
0600日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 23:22:01.25
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯

皆臨津搜露
について、「皆」はわかりづらい。「みんなで」という意味だけでなく「いつも(常に)」や
「一大卒」や「使節たち自身」のこともあるからである。

そのため「皆」とあれば、「皆」はその直前の人物や國をさしている。

その前に書かれているのは今回の場合は「使倭國」(倭使節)である。
そのため区切りは皆臨津搜露ではなく、使倭國皆臨津搜露になる。

となると、王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡というのは、
 王 遣 使 詣 京都 帶方郡 諸韓國及郡
「王、使を遣して、京都、帯方郡、諸韓国及び郡に詣る。」帯方郡だけでなく楽浪郡も含む。
つづいて、
 使倭國皆 臨 津 搜露 傳送文書賜遺之物 詣 女王
「使倭國(倭国への使者)は皆、津に臨みて、伝送する文書、賜遺の物を捜露し、女王に詣る。」

この場合の「皆」は、みんなで、という意味ではない。その前に書かれているのを
反映するので、「皆」は、あるから(倭への)使節たち自身のことである。

不得・差錯
「差錯を得ず=これなら、まちがうことはない」

「差」は過不足。「錯」は入り交わる。
「不得差錯」とは運んでいる文書や物品が足りないとか揃っていない、などが生じないという意味

(倭への)使節たちが、伊都国で陸揚げまたは入国検査で、運んできた品目や個数を
自らチェックしなおして、女王へ届けている、と書いている。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 23:24:09.73
  スレあげんなカス

  そこまで日本史板 汚したいんか?


  ヤマタイ板の新設 申請しろ!!!

  クススレ乱立して いちいちアゲんな

  南海も言わせるなニートども
0603日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 23:44:48.00
皆は、使倭國のことではなく、もっと前からのことを指す。一大率そのものを指す。
(女王国より以北は、特に一大率を置いて・・・)
(常に伊都国に治す。)
(刺史の如く有り。 )
と、一大率の話題が続いているからである。
よって、
刺史のようである、というところから引用すると下記である。

於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

国中に刺史の如くの役人が有る。(女王だけとは限らないが)王が洛陽・帶方郡・諸韓國に
使節を遣わしたり、及び(ならびに)、(帯方の)郡の使者が倭国に遣わす場合に、
(この役人は)いつも(=皆、その使節往来はどれも全て皆)港で検閲して、文書・賜物を
女王に伝送して、決して間違えないようにする。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 23:50:10.84
一大率が品目名やその個数を文書を読んで、現物でも数えて確認して
女王への贈り物は間違えないようにしているってこった。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 00:28:35.15
王遣使詣京都というのは、[王]と[女王]は区別されているのが魏志倭人伝では一般的だが、
このあと京都(魏の首都=洛陽)とある。魏まで派遣したのは卑弥呼であるから、
王と表記されていてもこの場合は女王のことを指す。
王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 とは
魏の洛陽まで使節を出したり、帶方郡 諸韓國へも使節を派遣している。
およびに、帶方郡からも倭へ使節がきている。
於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國  皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
刺史のようだと言っていて、そのあと、使者派遣が行ったり来たりの話が急に入る。
「皆」はこのあと、そのうち特に、女王への贈り物の品目や個数に
間違いがないように、という説明をつけているのだから、
皆=複数、という意味もあるから、
国や郡へ遣いを送ったり又は来たり、という使節の往来の積み重ねのことを
「皆」と言っている。
その「皆」=「使節たちの出入国」は、津で搜露している、という意味になる。

「一大卒が」「港で(伊都国の津と思われる)」「女王への贈り物については」
間違いの無いようにしている、という意味になる。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 00:38:03.96
>>605
>このあと京都(魏の首都=洛陽)とある。魏まで派遣したのは卑弥呼であるから、
>王と表記されていてもこの場合は女王のことを指す。
魏とはまだほとんど交流がないじゃないか
0607日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 07:12:48.64
>>598
教えてくださいなら
教えてもいいけど態度が悪すぎ。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 07:38:34.58
>>606それまでにも男王が中国に使節を送ったことがあるから。
魏志倭人伝が書かれたのは、台与の時代だぞ。
卑弥呼が魏に初めて使節を送ってから、台与の時代までは
大がかりな魏使節が2回来ているし、倭からはそれ以上の回数で
送っている。帯方郡や半島の諸国までならもっと数が多い。
0609日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 07:50:06.53
>>600
使倭國皆 臨津搜露 傳送文書 賜遺之物詣女王 不得差錯 」
「王が使を遣して、京都、帯方郡、諸韓国及び郡に詣るさい及び郡の倭国への使者のさいは、みな津に臨んで搜露して、文書を伝送する、賜り物や遣わし物を女王に詣でるにまちがうことはない」

伝送するのは文書ですね
賜遺之物は伝送しませんよ
>不得・差錯
>「差錯を得ず=これなら、まちがうことはない」 。
文書で確認するからまちがうことはないんですよ。
賜り物だけじゃなく、遣わし物もですね

>>605
皆とは倭の家臣団のことで一大卒ではない
「於國中有如刺史」までで前の文は終わっている。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 08:03:52.21
皆臨津搜露の皆は、同じ説明をしないように省略された表現。
国語でいえば「それらは」で、問題なら「それとは何を指しているか答えなさい」と
出題されるところだ。
繰り返し表現を省略するためであるから、たいていその前にある。港での行為
しかも毎回という意味もあるから、中国や半島の郡や諸韓国との外交交流のこと。
女王への品をよく確認して間違いのないようにしているという文意がつづくことから見て、
魏や帯方郡からの贈り物が届けられた度々の行為のことを「皆」と指すと判断できよう。

皆といっても、使節の人たちのことを「皆」と訳すと、
「国家使節の人たちが津に到着したら、品物を自ら点検しはじめて品名や数の間違いなく
 女王へ間違いなく届けるようにしている」となっておかしなことになる。
確認作業というのは、受け取る側の人がやるものだからだ。
だから、「皆」=魏や帯方郡からの贈り物が届けられた度々の行為
だれ?が検査するとなると、一大卒となる。諸国を見張って恐れられているのは
確かであるが、女王への貢ぎ物の確認する仕事も合わせて行っていた、
というのが文意になる。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 08:18:36.62
>>609
津(港)で陸揚げしたとき、女王への賜り品など荷物を
水夫たちが運び上げてガヤガヤしているとき、
倭の有力家臣が文書で確認してまちがうことのないように
している。
という単なる普通の話を魏志倭人伝は書いただけのようですね
0612日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 08:25:38.47
>>611 追記
>>609のコメントが斬新なところは、
魏や帯方郡への出す品物(生口など)のときも、
津で確認作業があって、間違うことのないようにしている、
そして、その報告の文書を女王に伝送している、
間違いのないように、という文意であることが
卓越しているような気がする。言われてみると
そういう文意に思えてきた。
於國中有如刺史王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
0613日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 08:35:11.30
傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯

伝送文書 賜り品や遣わすの品 女王に詣でるに過不足やまちがうことのないように。

区切りを検討すると下記だな。
傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
女王に文書を送る 賜り品や遣わすの品(このあと詣女王とあるので、半島方面へ
送る品のことではなく、女王へ運ぶ品だけだな。)
不得差錯=間違いのないように。

よって、出発のときは、検査を(あまり)しないということになる。
現代の空港での検査でも、出国よりも、入国審査の方が厳しいのと同じ。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 08:42:08.84
>>613
過不足やまちがうことのないように・・・これは賜り品や遣わすの品にかかり
伝送文書にはかからない、伝送文書で物品の確認をしているんだよ
文書の過不足や間違いって変だろ。

語学力が無いな。
0615日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 08:46:34.41
>>610
一大率の業務は諸国の検察であり
入出国の管理じゃないでしょ

>女王への貢ぎ物の確認する仕事も合わせて行っていた、
というのが文意になる。

自分勝手な解釈だなw
0616日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 09:52:09.68
今、読み直してきたけど
交易有無 使大 倭監之 であって、
自女王国以北特置一大率 の主語は 使 じゃないのか?

常治伊都国 諸国が恐れ敬う、張政・・・ これ、パクってるなwww
やっぱしな、邪馬台国は国体を為していない。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 10:11:48.91
◆◆  レス投稿者の皆さんへ  ◆◆

邪馬台国関連スレ 類似スレが乱立され、同一人物によるage連投によって

日本史板の上位スレが常時 邪馬台国類似スレで占められて不快を感じている方が

多くおられます。

周りの方の不快感払拭のために、できるだけ sage進行でお願いします。

自己顕示欲 公開オナニーを見せたいのは解りますが、

ウザいので、 やめてくれ

分ったか、 カス
0619日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 10:18:40.62
逆効果なのが判ってないカスw
0620日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 11:27:24.90
>>591
常ニ伊都国ヲ治ム
これは基本的な事を知らない人の誤訳
常ニ伊都国デ治ムが正解
>>592
>常治伊都國
>常に伊都国に治す。
常ニ伊都国ヲ治ムよりはましな訳だな。

みなで港へ出掛けて検めて、文書を送伝するので
賜り物や遺し物は女王に詣らすに差錯するを得ず
だな。
0621日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 11:47:14.25
>>620

根拠は?
0622日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 12:17:40.93
>>620
常ニ伊都国デ治ム
なんつー書き下し、あるわけねーだろ
漢文勉強したことねーな?
0624日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 12:54:18.28
>>623
デは使わないから
0625日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 13:05:45.87
>>614
文書の過不足や間違いって
考えたお前が変。
文書の枚数が足りないとかよくそんなこと考えるね。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 13:08:29.49
>>620
「みなで港へ出掛けて検めて、文書を送伝するので
賜り物や遺し物は女王に詣らすに差錯するを得ず」

この訳文ひでえ。こんなのを書く人が
他人を攻撃してんのかよ。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 13:43:34.34
ここで漢文が読めるといっても
たいしたことないのはわかった。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 13:49:53.51
>>620
>>>591
>常ニ伊都国ヲ治ム
>これは基本的な事を知らない人の誤訳
>常ニ伊都国デ治ムが正解

あなたの思ってる基本的な書き下し文には
助詞のデを使うようだけど、
他の用例を挙げてみてくれないか。出典付きで。

漢文の書き下しルールを逸脱するので
「デ」がここでは適切だという
論証がいると思うよ。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 14:05:22.61
>>630 返事はたぶん来ないと思う・・・。
答えられないから逃げるだろうね。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 14:21:45.34
>>628
おまえの話す言葉が日本語として通用してないから問題なのだが
0635日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 14:28:04.66
現代口語訳まで訳せばわかりやすが、そのときに
思い込みの補足説明が加筆されるからな。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 14:29:03.59
>>633
どのくらい漢文に慣れてるかは
よくわかる
0638日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 16:19:37.71
なんで諸国を検察する一大卒が常に伊都国で治めるになる?
倭人伝日本語訳が意訳を含んでご都合主義になるから論争になってるのは重々承知だがw

一大卒は女王国以北の諸国を検察し諸国は恐れ憚るが、
通常は伊都国に居て、その役職は国の中央に有る刺史の如し。
だろ。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 16:30:50.17
>>638
刺史は中央にいない
地方官だから
0641日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 17:19:17.83
国中を「国の中央」と訳せば
突っ込みを入れるのが当たり前だろうよ。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 17:20:16.58
伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。

大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路  出航地(平戸周辺)

伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。 
だからそこに一大率が置かれたんですよ。  

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0646日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 18:12:40.31
普段は王都である伊都にいて、伊都から北を検察するのが一大卒。
王(倭王卑弥呼)は伊都にいるともわざわざ高らかに宣言してあるしね。
0647日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 18:14:06.79
>>645
いないよ
0648日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 18:14:35.44
>>646
宣言してない
0651日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 19:41:06.77
タニハをしてコレをかんせしむを女王國より以て北にただひとつのみ置く
大いに率いて検察す
諸国これをいたんし常に治まる
伊都国はなんたらかんたら(だれかこここじつけられるか
0652日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 19:45:02.27
国中における伊都国はししのごとくある
0653日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 19:45:24.94
むりか
0654日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 19:49:53.24
よにおうあり
ここはダックのが正解ぽいの(あくまで素直にやくせば
時制は過去完了(なぜなら三〇年=世と期間が確定している
0656日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 20:00:35.28
自分のこと素直とか言う人間に
ロクなのいたタメシないわー
0657日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 20:10:48.02
こうごやく
かつて一世の期間王がいた(伊都国に
みなその女王にすべからく属していた
0659日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 20:17:57.69
ちんじゅが執筆してた時期がイヨちゃんの時代ならひみこさんのことやね
イヨちゃんのつぎのじだいならイヨちゃんのことやが可能性ひくそう
0660日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 20:21:59.24
かっかしてるおじーちゃんがどっちかよーわからん^^
だっくの訳は時制考えたらパーフェクトやな
0661日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 20:24:52.60
自分で言うんだから間違いないよな
0662日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 20:27:03.68
あーそーか
だっくもこの女王は卑弥呼と思ってるんやな(珍しく一致したな(訳は違うが結果おーらいか
0663日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 20:28:16.18
>>661
はいはいわえもダックじゃ(よかったな^^
0664日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 20:33:25.11
伊都にいた王は一世やから皆たりえず
ただし!
30こくにおうありもあるかも(こっちやったら過去完了ちゃうなー
0665日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 20:39:48.53
30にあるおうはみな女王にすべからくぞくす
文脈的にここにいれる理由が見つからんか?(よってきた
0667日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 20:47:55.28
えーとさっきみつけた伝送なんたら
ダックはここも変わった訳してたな(しらふのとき考えます
0669日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 22:04:19.40
>>668
まーおじーちゃんもがんばれ
0670日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 22:47:03.56
常時、伊都国に居ておさめている卑弥呼
女王国以北を検察している一大率

魏の世に伊都国で倭の国々を皆、統属していた王である卑弥呼
0671日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 22:53:25.09
アゲんなカス


そこまで板汚したいんか?


ヤマタイ国がどこにあろうが
そんなもん 何がおもろいねん??
0672日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 23:01:49.63
>>670
ごまかすな
だいそついても
いよのとき
時制にりゅういし
さんごくしよめ(いっく
0673日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 23:03:33.93
>>671
やまたいこくはなかった
0674日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 23:05:29.42
そーいえば
なぜにあげなん
でふぉるとが
あらしすいしょう
ひろゆきのさく
0675日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 23:09:11.90
あげてこそ
ひみこもいよも
うかばれる
りょうま大谷
みな日本人
0676日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/15(月) 23:11:13.74
まんように
じつはとうじょう
ひみこいよ
きごもあるぜよ
しゅんかしゅうとう
0677日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 08:33:00.63
>>670
伊都国に女王がいるなら、対馬、壱岐の順番で
伊都国まで道のりを説明したときに、そのとき女王が
いると明示するわい。
魏略では、その南に女王国があるといってたろ。
そのときは、その距離がわからなかったが、
技師倭人伝を書くときには、別資料に水行十日陸行一月
という情報があったので、それを挿入した。
それは間違った情報であったにしても

伊都国≠女王国というのが魏の時代の認識なんだよ。
このスレ主旨を否定だけどさ・・・
0678日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 08:50:43.98
>>638
一大卒は女王国以北の諸国を検察し諸国は恐れ憚るが、
通常は伊都国に居て、その役職は国内中にある刺史の如し。

自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史
0680日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 09:10:44.21
魏略
東南五百里 到伊都国 戸万余
東南五百里。伊都国に到る。万余りの戸数がある。
置 曰 爾支 副曰 洩渓觚 柄渠觚 其国王皆属王女
(官を)置く。いわく爾支といい、副いわく洩渓觚・柄渠觚という。
国王はみな女王に属す。

魏略の認識では伊都国≠女王国である。伊都国に女王の古墳はあるけどさ。
伊都国=女王国 という説は、「女王国以北」という一文だけが根拠だろ。
○以上●未満といえば、○を含むが●は含まない という現代の判断からみて
玄界灘周辺の国々は、女王国以北である。○以上●未満といえば、○を含むから
玄界灘周辺の国々は女王国である。という論理。
ここは単純に筑後平野に女王国があると見なすのが無難だろう。
以北というからにはすぐ隣接しているみたいだし。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 09:13:10.89
伊都国=女王国 という説は、魏志倭人伝の「女王国以北」という一文だけが根拠だろ。
○以上●未満といえば、○を含むが●は含まない という現代の判断からみて
玄界灘周辺の国々は、女王国以北である。○以上●未満といえば、○を含むから
玄界灘周辺の国々は卑弥呼のいる女王国である。という論理。
0682日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 09:17:16.84
>>679 つづきの記述あるよ。
自帯方 至女国 万二千余里
帯方から女国に至るには、一万二千余里である。
(ここまででもう1万500余里使っているけど)
女王之南 又有狗奴国 以男子為王 其官曰 拘右智卑狗 不属女王
女王の南また狗奴国があり、男子をもって王としている。
その官いわくコウチヒコという。女王には属さない。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 09:18:32.55
>>682
自帯方 至女国 万二千余里
帯方から女国に至るには、一万二千余里である。
(伊都国まででもう1万500余里使っているけど)
0684日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 09:21:16.72
>>678
治がなくなってるし、その役職はとか書いてない事を付け足してる
捏造ですねw
0685日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 09:23:01.70
魏略 補注の形で残存なのでバラバラだが、順序立てると以下のようになる。
【倭在帯方 東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国 皆倭種】
 倭は帯方東南の大海中に在り、山島に依って国を為している。
 海千里を渡るとまた国があり、みな倭種である。
【従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国 到拘邪韓国 七千余里】
 帯方より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経由して
 拘邪韓国に到る。七千里
【始度一海 千余里 至對馬国 其大官卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市糴】
 始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。その大官は卑狗で、
 副は卑奴という。良田なく、南北で交易して穀物を買い入れている。
【南度海 至一支国 置官 至對(馬)同 地方三百里】
 南また海を渡り、一支国に至る。官を置く、対馬と同じ。
 地は三百里四方
【又度海 千余里 至末盧国 人善捕魚 能浮没水 取之】
 また海を渡る。千余里。末盧国に至る。人は魚捕りが上手く、
 水に浮き沈みすることができるので、これを取る。
【東南五百里 到伊都国 戸万余】
 東南五百里。伊都国に到る。万余りの戸数がある。
【置 曰 爾支 副曰 洩渓觚 柄渠觚 其国王皆属王女】
(官を)置く。いわく爾支といい、副いわく洩渓觚・柄渠觚という。
 国王はみな女王に属す。
【自帯方 至女国 万二千余里】
 帯方から女国に至るには、一万二千余里である。
【女王之南 又有狗奴国 以男子為王 其官曰 拘右智卑狗 不属女王】
 女王の南また狗奴国があり、男子をもって王としている。
 その官いわくコウチヒコという。女王には属さない。
0686日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 09:26:52.15
>>684 書き下し文を書いたわけじゃないから。
代わりに自説の訳を示せない>>684の能力は大したことない。

常治伊都國於國中有如刺史
通常は伊都国で統治していて魏国中にある刺史のようだ。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 09:30:49.65
>>680
魏略
其国王皆属王女
その国(倭)の王はみな女王に属す。

魏志倭人伝
世有王 皆統屬女王國
世の王はみな女王に統属す

比較すると魏志倭人伝の世有王「世の王」は魏略の「その国(倭)の王」達のことだと分かる
世有王は「今使譯所通三十國」を指しているんです。
0689訂正
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2018/01/16(火) 09:34:02.90
>>687
>>680
魏略
其国王皆属王女
その国(倭)の王はみな女王に属す。

魏志倭人伝
世有王 皆統屬女王國
世の王はみな女王に統属す

比較すると魏志倭人伝の世有王「世の王」は魏略の「その国(倭)の王」達のことだと分かる
魏志倭人伝の皆はつまり「今使譯所通三十國」を指しているんです。
0691日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 09:35:15.93
於國中有如刺史

(魏)国中にある刺史のようだ。
魏とは限らないが呉や蜀も含んで、この場合は中国のこと。

於國中有如刺史には「魏国中にある刺史のようだ。」と訳すと、
魏の文字が入ってないから捏造だ!と言われたのでは辟易するしな。
0692日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 09:38:09.74
>>687 うむ、こういう分析は好きだ
(アナと雪の女王 におけるハンス王子のパロディ)
0693日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 09:40:41.13
>>688
代わりに訳を示してみい?

その訳はまだ見てないが君のは誤訳だから。
見るまでもないし、訳が書けないから見ることも
できないが。出るのはクレームだけかな。
0694日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 09:57:37.83
>>690 そんなこと書いてない。
置 曰 爾支 副曰 洩渓觚 柄渠觚 其国王皆属王女
(官を)置く。爾支といい、副いわく洩渓觚・柄渠觚といい、その国王はみな女王に属す。

魏略の認識では伊都国=女王国
と書いた>>690は壊れたカセットテープの再生。
0696日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 10:32:42.17
>>695が漢文を読めないことはわかった。
読めるなら「知性が必要だね」なんて憎まれ口を
言わずに、正しい訳を書き込んで無駄な討論を防ぐ。
0697日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 10:36:34.80
というか、「出るのはクレームだけかな。」と書いてやったのに、
「知性が必要だね」という一文で出して返すようでは、
自覚はないようだ。認知症かなあ。
0699日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 11:30:31.14
>>684
常治 通常時は(伊都国で)執務している。 国を統治するのは王 
一大卒は官職なので治は職務を執行との意訳で良く、捏造とは言わない。

>>691
の 於國中有如刺史 については 国における刺史の如し
だと、中と有りの必要性が微妙だが
有如刺史 刺史の如く有る官職 
於國中 国の中央においての
の意訳 (伊都を首都とするご都合主義解釈の意図有りw)

倭人伝の問題は主に文節と段落の欠如だが、漢文に不足する助詞によって
直訳したのでは文の意図が通じない文節に於いて
和訳の読み下しが生まれ議論が成立する。
0700日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 11:49:31.71
>>687
後漢書
凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國
國皆稱王丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國 楽浪郡徼去其國萬二千里
魏略も後漢書も邪馬台国に属する30国にはそれぞれ王を称するものが居る。 だね。

世有王皆統属女王国 
そもそも倭人伝が紹介する邪馬台国は小国でたいして旨く統治されている国体ではない。
魏が認定した王以外は王じゃない? ご都合主義の解釈は要らない。
0702日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 11:53:46.64
漢字だす
0703日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 12:19:36.65
>>700
自分がおそろしくはずしているコメントをしてることに気づかないのかな
0704日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 13:08:39.21
>>700
後漢の頃は30カ国それぞれに王がいたが、倭国大乱を経て魏の時代には伊都国にだけ王がいたと書いてあるよね。
0705日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 13:09:41.74
>>700
>そもそも倭人伝が紹介する邪馬台国は小国でたいして旨く統治されている国体ではない。

九州北部の小国でいいよ。
畿内から九州、朝鮮半島南岸まで支配する強大な邪馬台国なんて、妄想。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 14:07:33.10
>>705
帯方郡から一万二千里が女王国の南限で九州上陸後の北部二千里の国だもんね。
周旋可五千餘里 だし。
で、
2千里だと往復で4千里になっちゃうんで本当は北部2千里全部じゃないと思うね。

多分、不彌国の北とか奴国の東、
宗像北九州宇佐とか東部は女王国に属してないという感じ。
0707日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 14:19:14.37
>>705 言われてみればそのとおりだ。
100国にも分裂して、そのうち
魏と通じる国が30カ国。
こんなにも小国が乱立しまくっているのに、
九州北部から近畿まで広大な範囲を支配する邪馬台国が
あったなんてとてもとても無理だろう。
0708日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 14:22:55.16
邪馬台国は畿内論で確定している、
なんてよく言えたものだ。
0709日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 14:34:39.17
>>706
頭がおかしいの?


なあ  さげてえなあ


アゲんと希ガすまんか ヤマタイ厨


ヤマタイ国より ノアの方舟の話の方が


おもろいことないか?
0711日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 14:43:21.40
助けて!九州に邪馬台国はなかったの!!
0712日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 14:50:36.99
>>711
せめて sage進行してえな

九州説に1票入れたるからww

板のトップによう似た糞スレが並んどったらキムチ臭いし

お長居します
0714日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 15:45:55.44
文献見る限り九州説だな。邪馬台国本国がわからないといっても、周辺国の記述から
本国の位置は推定できるものなのに、
畿内説は周辺(播磨や淡路島、河内)のことすら載っていないんだから。
0715日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 16:28:21.67
>>690
そうですね
魏略には邪馬台国なんて出てきませんしね。
>>699
誤訳と言うより捏造レベルの訳ですね。
0716日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 17:34:54.59
>>714
>文献見る限り九州説だな。

魏志倭人伝見る限り、丹がないので九州説はない。   @阿波
0718日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 18:42:01.96
>>699
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」を訳すると
「女王国から北の諸国には、特別に一大率を配置して諸国を検察させており、諸国は一大率を畏れ憚っている。 伊都国で常に治めていた。国中に於ける刺史の如し。」
これを意訳すると「伊都国から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して諸国を検察させており、諸国は一大率を畏れ憚っている。
(女王卑弥呼は)伊都国で(一大率を使い伊都国から北の諸国を)常に治めていた。(この様子は)魏に於ける(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めている)の如し。」となる。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 18:58:39.26
>>716
>魏志倭人伝見る限り、丹がないので九州説はない。

九州には鉄丹がある。

丹は身体に塗っても健康に害を与えないものである。
水銀丹と鉛丹は毒性が強く身体に有害である。
一方鉄丹は健康を促進する働きがある。

倭人伝に出てくる丹は、鉄丹で健康を促進する働きがあるのである。

九州は鉄丹の原料である良質なリモナイトの大産地である。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 19:10:04.27
「以朱丹塗其身體 如中國用粉也」
これを水銀の朱丹とすると倭人はみんな病気になるな。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 19:11:45.24
>>718
完璧な訳ですねw
0724日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 19:17:40.79
>>721
見苦しい。   @阿波
0725日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 19:18:02.44
畿内厨によるアゲ嵐が横行してるな
0726日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 19:28:36.41
弥生時代の水銀朱も鉄丹も
福岡のほうが多い。

福岡の41ヶ所と比べて
奈良は2ヶ所である。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 19:31:20.78
奈良でも鉄丹くらいは入手できるはずだが、
それさえ無いところを見ると、
そもそも赤色塗料を使うという
文化そのものが非常に薄いのであろう。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 19:32:53.14
>>727
銅鐸文化圏www
0729日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 19:37:28.76
>>726
畿内と比較してどうするつもり? 畿内にも丹山はないんだから。  @阿波
0730日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 19:37:38.50
>>718
(女王卑弥呼は)伊都国で常に治めていた。
=女王卑弥呼は伊都国に居た
という文章にも見えるのが唯一気になるが、
完璧な訳文であった。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 19:41:18.15
>>727
>>赤色塗料を使うという
>>文化そのものが非常に薄い

アワ説を完封したな。
0732日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 19:45:25.36
>アワ説を完封したな。

どういう意味?  @阿波
0733日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 19:51:53.74
>>730
それを誤訳というんじゃないのか?
0734日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 19:55:39.54
>>732
>弥生時代の水銀朱も鉄丹も福岡のほうが多い
>福岡の41ヶ所と比べて奈良は2ヶ所
>奈良でも鉄丹くらいは入手できるが、
>それさえ無いところを見ると、 そもそも赤色塗料を使うという
>文化そのものが非常に薄いのであろう

丹の産地があったとしても、
遺跡の出土も乏しく赤色塗料を遣う文化も乏しいことから、
近畿で(四国の東部も含めて)丹がどうこう言っても無駄。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 19:59:36.88
>>733 そんな全否定などしない。
(カッコ)を外して読み違いしないよう言い換えれば済む。
(女王卑弥呼は)伊都国で(一大率を使い伊都国から北の諸国を)常に治めていた。
 ↓
 女王卑弥呼は伊都国に一大率を派遣して伊都国から北の諸国を常に治めていた。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:00:45.43
女王卑弥呼は伊都国に一大率を派遣して伊都国など北の諸国を常に治めていた。
0738日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:01:41.23
>>734
古墳の石室には人骨が残ることが少ないので、赤く染まった人骨は甕棺(かめかん)などから出土した弥生時代のものが多く知られていますが、
徳島市の鶴島山2号墳からは辰砂で顔面が朱に染まった人骨が出土しています。

徳島では、鶴島山古墳群(徳島市)、犬山天神山古墳群(同)、カンゾウ山古墳群(板野町)から出土した人骨が朱染めであった。
http://www.tokushima-maibun.net/modules/xpwiki/?%B8%A4%BB%B3%C5%B7%BF%C0%BB%B3%B8%C5%CA%AF

徳島市・犬山天神山古墳 石棺から水銀朱で彩色された女性埋葬骨を発見
http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/f617dcd9430bb88875f8dfd27726cb09
0740日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:06:29.83
>>737
>>734
>どうしてそんなに無学なの?

ほんとに、なんにも知らない人が邪馬台国を語るんですよね。 困ったもんです。   @阿波
0741日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:07:29.11
>>736
「治めて」と訳した時点で
もう誤訳
0742日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:11:55.44
>>718
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

女王卑弥呼は自国から北には、特別に一大率を置いて諸国を検察させ、
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚っている。(一大率)は伊都国で常に治めており、
中国の国中に有る(全土にある)刺史のごとしである。
0746日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:21:57.07
>>738 丹が使われていることはわかった。
で、
肝心の魏志倭人伝から、「丹」を検索してピックアップしてみた。
皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗其身體
(みな裸足である。家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており)
出真珠・青玉。其山有丹(真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり)

丹の記述あるとき、その前後には必ず暖地の表現あり。
丹で近畿説は壊滅。
0747日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:22:51.55
「治める」なんて訳してる無学が
学問板にいること自体
おおきな間違いだろ。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:24:52.26
>>742
>自国から北には、特別に一大率を置いて

>(一大率)は伊都国で常に治めており

一大率は自国から北に居て、同時に常に伊都国にいるのかw
一大率は治めてる自分を自分で検察してるのかwww
クレージーな訳ですね。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:29:11.83
>>746
狂った?

暖地って何?
0750日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:29:58.60
>>742 常治伊都國
(一大率)は伊都国で常に治めており、
      ↓
(一大率)は常に伊都国で統治しており、
0751日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:30:08.17
>>748
アホ訳「治める」がクレージー
0752日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:30:32.71
>>750
もっとクレージー
0753日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:31:09.95
>>749
素足でいること。真珠はかなり高水温の
海でしか採れない。それが暖地。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:32:57.09
言い負かされた人が、相手を「クレージー」と罵っております。
狂人がクレージーとわめいている様子は、まさに精神病の世界ですね。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:33:58.92
>>753
こいつバカだ
倭国津々浦々で真珠が採れるとか
倭人伝のどこに書いてある?
0757日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:35:43.08
>>748
>>一大率は治めてる自分を自分で検察してるのかwww

よくそういう解釈ができるね。wwwとあるから
笑いましょうか。アハハ
0758日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:35:46.10
この馬鹿、アワビマンだろ
0760日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:38:35.99
>>756
真珠は遺跡発掘でわかる。古代遺跡の貝塚で
真珠貝が採れたのは、鹿児島湾にしかないんだよ。
アコヤ貝という貝でしか、立派な真珠はとれない。
そしてアコヤ貝1万個とって、そのうち真珠は1.5個しか入ってない。
だから巨大な貝塚になる。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:44:27.13
>>757
解釈も何もそう言ってるでしょ。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:48:04.86
>>746
べんがらか
0763日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:49:50.36
一大率は物流をチェックし文献をチェックする

鉄器分布の中心であり
硯が出土した

考古学的に伊都しかない
0764日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:50:30.54
一大率を置いたのは卑弥呼なのか魏使なのか?

官有 は明らかに魏の任命者
九州フロントの卑弥呼は魏の冊封によりただ単に倭王である。
日本に訪れた張政は失望し詐欺師と化したwww

公孫氏を倒したばかりの魏は速攻で滅びる。
邪馬台国という藁を掴んだのである。

畿内は直後に大和朝廷だぞwww
0765日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:52:54.52
はい!質問
にほんさいこのべんがら土器はどこ産?(べつにためしとらん(純粋に疑問
0767日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 20:57:56.77
あーよっぱらうまえに考えましたが伝送したのは文書だけちゃうやん
文書直後で文完結させると次の構文むりや(説明できるならやってみれ
0768日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 21:01:52.83
千人の女子がいたひみこさんの都が伊都やったの決定したんやからダックはじゃまいかまでよくばるな(むりや
0769日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 21:03:39.65
真珠のアコヤガイは、天神山貝塚でも
採れたとネットにあり。糸島半島にある。
アコヤガイはアサリと違って、浅瀬には居ないので
必ず海に潜らないと採れない。
皆沉没取之(みな沈没してこれをとる)
ただし魏略では浮没と書かれている。(能浮没水取之)
あと大村湾でも取れる。
三重県の志摩半島では古代では確認されてない。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 21:05:27.63
べんがらはベンガル地方由来やね(しゅたん文化は黒潮経由やな(はなほじ
にゅーそく+でまたたってるでー(くなこくねた
0771日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 21:22:05.33
北部九州にあったとされる邪馬壹國は
南にあった邪馬台国の属国扱いされてたんでしょ
魏志倭人伝に記録されてある記述よると
「邪馬台国より以北には,特に一大率を置き,諸国を検察せしむ。」
邪馬台国より北方の国々を検察する為に
北方の国々に派遣され部署も存在し官人も駐留してたぐらいだから
卑弥呼を中心に倭人の邪馬台国はある程度の官僚制度が整っていたのがわかる
0773日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 22:01:06.27
>>722
>「以朱丹塗其身體 如中國用粉也」
>これを水銀の朱丹とすると倭人はみんな病気になるな。

皮膚から浸み込んだ水銀で、倭人はみんな有機水銀中毒になる。  水俣病
0776日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 22:17:28.93
>>771 もし畿内の奈良に邪馬台国が
あったとすると、
「邪馬台国より以西には,特に一大率を置き」
と書かねばならない。北を西を書き間違えた、
という南→東の誤り説を、今度は北を西と言い換えねばならなくなる。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 22:26:28.89
>>778
何処に?!
0780日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 22:29:36.92
平原古墳では副葬品が出ているんだから、
骨から男か女かDNA鑑定できないのだろうか。
骨は現存してないかもしれないが。
0782日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 22:34:10.09
自女王國以北 特置一大率檢察

北に、特に置く とある。女王が自分の国に置いたんじゃない。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 22:41:33.68
>>780
聖遺骨は7世紀に移管された
0785日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 22:42:18.85
自女王國以北 特置一大率檢察
これは一大率を自分の国の北側に置いたってこだよ。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 22:43:10.74
>>781
読めないよ、どう読んだら読めるの?
0787日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 22:45:07.33
>>776
ほーおかげで気づいた^^
南が東なら北は西は同変換か
0789日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 22:47:55.57
一大率は、戦国時代の目付(めつけ)に似ているな。
目付は横目ともいう。類似:軍目付(いくさめつけ) 軍監 監察官 

辞書から引用
目付(めつけ)とは、ある人物が不行跡をしないよう見張る側近のこと。
戦場での将兵の監視役、戦国大名が配下が合戦中の勝手な行動を取らないように
する見張り、合戦後の論功行賞を行う為、一番槍や首実検をするなど勲功を確認
する役職。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 22:48:07.03
一大率という名称
そんなものは邪馬台国にはない。
誰が置いたんですか?
0791日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 22:48:40.31
ニニギとニギハヤヒ
0792日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 22:57:08.50
>>786
リストラ用に、本社以北の地に馬鹿阿呆専用部署というのを特別に設置した。
おまえのアタマが腐っていたので、その部署に任命した。
そのとき、おまえは、本社にいるのか?僻地にいるのか?
本社以北といえば、以北なら本社を含むというなら本社の建物の中で
窓際に移っただけなのか?。
0793日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 23:11:01.32
リストラ?
なにそれw

一大率は全てをチェックするエリート部署じゃんw
0794日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 23:17:40.85
>>792
>>>>>>女王卑弥呼は伊都国に一大率を派遣して伊都国から北の諸国を常に治めていた。
>>>>>派遣して、なんて書いてないよ。
>>>>何処に?!
>>>文意がそうだろ。読めないの?
>>読めないよ、どう読んだら読めるの?
0797日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 23:45:21.61
>>795
如刺史か。すごい指摘だ。気付かなかった。
刺史は地方の役人だからな。それの如しということは
離れた場所に派遣されているわな。
(県知事に例えようとしたが、中央から任命されているのではないので違う)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 刺史の用語解説 - 中国の官名。
元封5 (前 106) 年,前漢の武帝は全国を 13の州に分け,刺史を派遣し,
6ヵ条の条文に従って地方行政を監督させた。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 23:52:37.17
<世界大百科事典>
刺史
中国の地方官名。漢の武帝の元封5年(前106)創設。全国を13の州部に分け部刺史(略称刺史)を派遣して管内を巡察,
郡守や豪民の監察に当たらせた。後漢になると,刺史は治所を持つとともに,軍政長官も兼ね,明・清時代の総督・巡撫の
ように,最高の地方行政官化していった。南北朝以後州の数が増加し,隋・唐に入って州が郡に代わると,刺史も郡の太守
すなわち知事に変化。宋代には武官の上級位階名となる。元代以後は州知事の雅名としてのみ残る。  
0799日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 00:01:24.80
>>798
最高の地方行政官化か。多数ある国のなかでも
伊都国は邪馬台国のナンバー2の最重要拠点だな
0800日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 00:24:13.76
如刺史か。すごい指摘だ。気付かなかった。

刺史は地方の役人だけども
それの如しということは

そのまんまじゃないってことだ

首都の伊都にいながら
水軍を駆使して
刺史の役割を果たしたのが一大率

それの如しということは
そういうことだね
魏の刺史みたく地方の役人じゃないけど
首都にありながら同じ機能をはたしていたんだ

フムフム
0801日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 00:29:21.60
>>800
>首都の伊都にいながら

その場合なら司隷校尉と言う
刺史に喩えた以上は
一大率は地方行政官
伊都国は地方
0802日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 00:38:35.60
>>801
それの如しでしょ
機能さえ似ていればいい

東夷蛮族の女王の機関が司隷校尉だとまずいんじゃないの?
0804日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 00:51:24.42
>>803
地方官吏でしょ

魏からみて東夷の蛮族にピッタリじゃん

邪馬台国は伊都を首都として
一大率が睨みをきかしていたのだな
0806日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 06:48:52.99
>>771
行政機構を作ってたんだ
倭人の邪馬台国たる風格がわかる記述
0807日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 07:34:54.49
>>800
小国乱立の九州北部において、他国を畏れさせるには
軍事力を背景にするしかない。でも伊都国には
大軍が駐留していたようには読めない。水軍は、
陸軍に比べると、兵の数はずっと少ないのが普通だから
津(港)で確認する審査の仕事も含めて、強力な水軍を持っていた
と意訳することもできるわな。入国審査せずに女王への品目や数を
ちょろまかす奴がいたら、制裁を加える力が無ければ、どんどん中抜きされてしまう。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 07:58:46.51
>>807
伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。

大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路  出航地(平戸周辺)

伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。 
だからそこに一大率が置かれたんですよ。  

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0809日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 08:01:29.62
地形図からいって、女王國の北の諸国(女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7c/Tsukushi_Plain_Relief_Map%2C_SRTM-1.jpg
を畏れさせるほどの多数の人口を養えるのは、久留米市あたりだな。
中央の平野部の「くびれ」のあたり、画像中央付近に久留米市がある。
博多湾はまだ埋め立てが進んでおらず海が奥まで入り込んでいたので、
海に面した北部諸国はいずれも耕地が乏しそうで、コメの増産もままならず
多数の戸数は養えなかったと思われる。
対馬も壱岐島も穀物を買い入れていたわけだが、それは貿易の要地を占めていて
収入があったから買い入れることができて、島の割りには多数の人口を維持できた
ことを意味するから、奴国の2万人というのも貿易によって耕地のわりには
人口が多いと判断できる。北部沿岸諸国を背後から(南方から)脅かすことのできる
(邪馬台国があったと思われる)久留米市あたりからは、右上の回廊から
すぐに奴国へ進出できる。その狭い場所に太宰府天満宮があるのだから、太宰府は関所としてもふさわしい。
魏の使節は邪馬台国本国へは到達していないように魏志倭人伝からは読めるが、
女王は伊都国まで出向いて対応したのではなかろうか。駐在の一大卒は諸外国との対応に
大変手慣れているようだから。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 08:16:29.53
主観ばっかりというのは>>808のことを言う。
根拠や文献をいちいち明示してくれないとね。
0814日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 08:20:25.14
>>813
潮の流れからいくと、壱岐から真東に向かって末羅國(福津市)が正解。
@ 往路は潮流に流されて呼子唐津あたりは無理 

A 復路は壱岐に対してできるだけ西の地点(松浦市以西)から出航


末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)

↓【東南】陸行500里  福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)

伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)

↓【東南】100里

奴国(二万戸)(田川辺り)

↓【東】100里

不弥国(千戸)(築上町辺り)
0815日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 08:31:26.08
>>814
福津市と松浦市をグーグルマップで表示してみたが、
ただでさえ難行の海行だというのに
壱岐からそこまで行くかねえ。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 09:06:58.14
>>815
>壱岐からそこまで行くかねえ。

そこって、どこのこと?  @阿波
0817日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 09:34:00.01
>>816 福津市
奴国も不弥国も越えてその先だぜ。
壱岐から福津市へ直行とか、対馬から半島へ
渡と同じぐらい50キロはあるぞ。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 09:38:08.52
>>817
>奴国も不弥国も越えてその先だぜ。

なに言ってんの?
潮の流れからいくと、壱岐から真東に向かって末羅國(福津市)が正解。
@ 往路は潮流に流されて呼子唐津あたりは無理 

A 復路は壱岐に対してできるだけ西の地点(松浦市以西)から出航


末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)

↓【東南】陸行500里  福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)

伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)

↓【東南】100里

奴国(二万戸)(田川辺り)

↓【東】100里

不弥国(千戸)(築上町辺り)
0819日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 10:49:37.52
あのなあ


朝から 何個もヤマタイスレ

挙げんなカス


他の住人の迷惑や


考古学板 でやれ

わかttかカスども
0820日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 11:16:33.14
>>814
>>818

海の流れ
@表層流
A潮流
B海流

上記三流の違いについて学びなさい。
仮説を立て議論ができるのはそれからだ。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 12:03:13.51
>>820

往路は「海流」だろうが「表層流」だろうが、どのみち流されて末羅國が呼子唐津あたりは有り得ない。  @阿波 
0823日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 12:53:10.41
>>800
>首都の伊都にいながら
>水軍を駆使して
>刺史の役割を果たしたのが一大率

対馬海峡は半島や大陸との交易の生命線だから、特別な体制で支配していたんだな。

もっと穿った見方をすれば、天孫族の故地を、天孫族に代わって伊都の王となった卑弥呼が強力に支配したのかもね。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 12:58:57.03
>>801
>刺史に喩えた以上は
>一大率は地方行政官

後の倭王は、中国に都督の称号を要求している。
刺史は後の都督の如しとも説明されている。
中国の都から見て、倭の都は地方行政区に相当するということだよ。
卑弥呼の都に刺史のような大率がいるのは不思議ではない。
むしろ、唐が白村江の後に設置した太宰府都督の長官である帥まで、一貫している。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 13:21:06.57
>>818 対馬から壱岐へと渡ってその次は
末羅國 伊都国 奴国
とそれぞれ大体確定しているのに、
末羅國 伊都国 奴国 の3カ国の従来の位置を
全否定するとは、たいした度胸だ。覆すだけの根拠は
示せてないな。なに言ってんのと総攻撃で言われるのがオチ。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 13:39:08.87
>>826
九州説の根幹「行程」は崩壊している。
対馬海流に流されて「末蘆国が呼子や唐津」は有り得ない。   

大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然。 
もし古代より、呼子やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって呼子周辺が世界文化遺産になっている。

子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。    @阿波
0830日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 14:33:25.49
>>824
都に刺史のようなもんがいたら不思議だよ
中国の官僚制度に無知な日本の現代人が考えた
トンデモ説だよ
0831日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 14:36:49.88
>>829@阿波馬鹿確定。
「子供みたいに何時までも空言を繰り返してるんじゃないの。」と
言い放ったことが致命的。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 14:38:14.67
阿波の文字がチラッとでも見えたら全無視することにしたよ。読むと害悪。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 16:14:52.46
久住いわく、卑弥呼が死んだ頃から「原の辻=三雲貿易」から「博多湾貿易」への移行がみられるらしい。
なんか気になるね
0834日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 16:15:03.48
@阿波は情緒感情だけでしか考えることができない。

まるで、チョンみたいな基地外。

いや、人種的にはチョンその者。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 16:20:52.23
>>833
年代はあてにならないから、卑弥呼の即位の頃かもしれないし、もっと違うタイミングの可能性もあるよ。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 16:22:10.20
卑弥呼が死んだ頃から「原の辻=中原(松浦川)貿易」から「博多湾貿易」への移行がみられる。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 16:39:32.22
>>833
そりゃ、対馬からは
壱岐によらずに沖の島経由(船から見るだけ。寄港は
や上陸は基本的にできないというか港が不適)
で、博多湾に直行するルートができたからな。
夜間航行もあるから難しいが、卑弥呼から後の時代には
実用化している。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 17:18:45.61
「博多湾貿易」が主流になり、
原の辻が貿易中継地でなくなったことを意味する。

対馬からのルートは、原の辻に立ち寄らないで、
壱岐と小呂島の中間を通って直接博多湾に入る。
現在の博多ー比田勝航路。
0839日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 17:22:48.98
海が荒れた時は、小呂島に退避する。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 18:52:09.15
天孫族が凋落し、卑弥呼の即位により高天原は用済みとなったわけだな。
東に落ち延びた天孫族の末裔が神武だろう。
魏の目が届かないところで畿内の歴史が始まる。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 19:03:59.13
>>832
>阿波の文字がチラッとでも見えたら全無視することにしたよ。読むと害悪。

倭国(阿波)はトンデモ説にとって心臓に悪いから、くれぐれも見ないように!  @阿波
0844843
垢版 |
2018/01/17(水) 20:02:46.04
常治伊都國の訳はこうやるんだボケ野郎。

常 治伊 都 國
常に自慰の都の国
0847日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 21:50:03.60
>>795
一大率は女王国以北にいるから
伊都国に何時も(常)居て治めるこは出来ない
これを無視して一大率が伊都国にいたなんてトンデモ訳してるな
於國中有如刺史
(この様子は)魏に於ける(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めている)の如し
>>827
妄想ですね。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 22:35:39.01
>>847
伊都国に何時も(常)居て治める
なんて珍訳が妄想ですね。

 
0849日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 23:05:17.60
>>848
常治伊都國
常に伊都国で治めている
何時も伊都国に居て治める。
常=つね。変化や例外が無い。不変。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 23:09:40.63
治・・・もと治水の義で、それより理治の意となり、官治・政治の意となった。
白川静
0852日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 23:15:08.48
>>849
0点
0853日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 23:44:25.73
>>847
>一大率は女王国以北にいるから
>伊都国に何時も(常)居て治めるこは出来ない

女王国をどこだと思っているんだろう。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 05:21:36.22
>>849
>常に伊都国で治めている
>何時も伊都国に居て治める。

無教養な者の考えることは、よくわからない
一体なにを治める気だ

w
0856日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 06:20:12.06
まあ少しは言い分を認めてやろうや(そうしないとうるさいから)。
一大率はまず奴国にも出掛けるわな。すぐ隣国だし戸数も多い。
魏志倭人伝の元になった魏略では伊都国は戸数が万余とあるので、
伊都国と奴国は一緒にされていたのかもしれない。
あと、末盧国(壱岐からの船が到着することがある)と、不弥国(投馬国へ向かう船
が出ることがある?)の2つの国も一大率の管轄だから、出掛けることもあったと
思われる。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 07:00:51.13
>>857
強力な権力を持った一大率が伊都国だけ
やってたわけないだろ。
諸国が畏れ憚っていたんだから、
諸国の内政にも口出ししていたというか、
女王の意に添わない政治はやらせなかった見なすのが妥当。
共立だから専制君主まではいかないが。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 07:45:42.86
んだ。実務バリバリの役人だから、占いでどうこう言ってくる卑弥呼は
ウザイと思っていただろうな。伊都国から離れた場所に居てくれた方がいい。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 08:24:28.44
魏の皇帝から見た地方官だからね。
倭王は歴代、都督を称していた。
大率は刺史のようなもの、刺史は後の都督と同じ。
卑弥呼の大率から筑紫太宰帥まで一貫している。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 08:37:13.85
>>853
一大率は女王国以北にいるから
伊都国に何時も(常)居て治めるこは出来ない

反論は無いようですね。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 09:06:07.28
>>863 だけが思っていればいいお。
そんな珍説に賛同したらこちらまでガイキチだと思われてしまふ
0866日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 09:13:38.41
そんな誤訳・誤解釈の強引な主張は早く消えてくれればいいんだが、
福岡県糸島市にある弥生時代後期のものと考えられる平原遺跡の
1号墓からは、鏡多数、首飾り用の管玉、勾玉、ガラス丸玉が多数出土したので
この墓に埋葬された人物は女性であると考えられていることだ。
伊都国に女王がいたかもしれないし。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 09:17:24.09
魏の使節は、邪馬台国の本国には行ってないようにも思われる記述であること、
それなのに、卑弥呼が死んで墓を作ったところについては、見たようであること、
台与もその近くにいたらしいこと(勅諭している)、
などから、伊都国が舞台みたいなんだよね。推測だが。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 09:25:00.60
>>867
推測というより、トンデモ
0869日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 09:52:08.84
>>865
反論とかしてないよね
関係ない話して逃げてるだけだろ
常と通常じゃ意味が全く違うしな
常=つね。変化や例外が無い。不変。
通常=特別の事情がなく,いつもどおりであること。普通。
通常だと通常でないこともあり例外もあるが、常だと例外無くの意味
常を通常に書き換えたら内容の改竄になる。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 12:11:37.29
>>870
反論も出来ずに嘘しか吐けないくせにw
少しは真面なことを言えよ。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 12:34:38.50
>>870
自分の言ってることが反論か妄想かの区別もつかないの?
0876日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 12:46:24.71
>>874
誰からも否定する反論や代替論が出ないな。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 12:47:25.50
>>876
などと平然とウソをつくのが
九州説
0878日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 12:55:36.07
>>877
反論出来ずに平然とウソを吐いて誤魔化してるのは君みたいな畿内説の人でしょ。
0880日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 12:57:59.70
一大率は女王国以北に居て
伊都国では常に治める人が別に居た
これが魏志倭人伝に書かれていること
この事実は変えられない。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 12:59:29.12
>>879
故意の誤訳とかしてますから全然反論になってませんね。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 13:00:22.98
>>881
反論を書いてよ
反論が無い。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 13:01:46.30
>>880に対する反論せずに自分の妄想書いても反論にはならん。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 13:10:18.03
一大率は女王国以北を
伊都国で常に治めてた

これが魏志倭人伝に書かれていること
伊都とは別のところに女王がいたなんて書いてない
0886日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 13:11:32.69
>>880
>伊都国では常に治める人が別に居た

勝手に「別に」なんて追加するなよ。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 13:23:46.60
>>885
「自女王國以北 特置一大率」はどうなったの?
>>886
「別に」は一大率は女王国以北に居て、伊都国に常に治める人が居るからの結論。
0890日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 13:25:21.60
>>888
妄想を書いてるだけで全然反論じゃないだろ
論理的な思考が出来てないな。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 13:27:49.11
女王国以北に居て、伊都国は女王国だというなら、一大率がいるのはその北、海の中
0893日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 13:51:12.85
>>890
いくら悪口言っても実在する反論は消滅してくれない
0895日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 14:01:07.72
>>889
>「別に」は一大率は女王国以北に居て、伊都国に常に治める人が居るからの結論。

勝手な妄想だろ。
直訳になってない。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 14:05:09.53
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 14:06:25.45
>>898
>建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

ちなみに考古学的には伊都国王墓群の時代。
後漢書の倭奴国は、魏志倭人伝の伊都国。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 16:39:23.02
日本列島の中で早くより大陸と交流のあった九州北部は高い文化を持っていた。
新天地を求めて東に向かう一団もあり、その一団は開拓を進めながら畿内周辺までたどり着いた。
その行程で土盛り墳墓から、開拓土砂を利用した古墳文化も育った。
時は進み、大陸の脅威を警戒して九州勢力も東を目指した。
道中ではいざこざがあったが、鉄の武器など高い文化を持った九州勢が武力又は平和的に吸収。
それが、銅剣が大量に出土したなどにつながる。
武器を捨て従えば悪くしないよと平和的に。
畿内とも摩擦はあった。
しかし正当な血筋に国を治めてもらおうとの合意に至り大和政権の土台となった。
この流れに殆どが無理なくおさまるから好き。
今は専門家も趣味人もどうせ真実にはたどり着けないのだから、それぞれ好きな説を楽しめばいいよ。
専門家は必死でやれ。
うちが生きてるうちにどっちでもいいから、絶対にこれだって結論出してくれ。

死ぬまでに見たいもの。
邪馬台国論争の誰もが納得する結論。
中国の崩壊。
朝鮮半島の崩壊。
0901日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 17:21:00.40
>>900
>>開拓土砂を利用した古墳文化も育った。

ねーよ。掘をつくって、その土を利用して
内側に盛り上げる。これは古墳および、
日本の城郭のお掘り(水掘、空掘)もこのやり方だ。
掘った土をすぐそばに盛り上げれば、工期の短縮になるし、
城郭の場合は、土盛りと掘り底からの合計した高さを
高くとれるので合理的だからだ。
開拓の土砂を遠くから持ってきたりしない。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 17:36:46.82
>>901
古墳の周辺に水田とかザラにあるよね。
その言い分は成り立たないよ。
堀が同年代に作られたわけではなく後になって、古墳を守るために作られた可能性もある。
どちらにしても断定できないよ。
現時点では断定こそ妄想。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 17:38:01.66
>>901
間違った。断定こそ盲信。
歴史を研究するにしても趣味としてたのしむとして、盲信は視野を狭めていいことなしよ。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 18:11:49.96
>>902
古墳の堀を水田の用水に利用してたんだよな。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 18:38:20.96
>>902
古い古墳にいちいち堀を追加したりしないよ。
のぼうの城を見ていたら、古墳を改造して城攻めの拠点に利用しちゃっていたな。
あと、あれを見て思ったのだが、人数を動員すれば前方後円墳は意外と短い日数で作れるんじゃないか?
利根川などの堤防の方が、ずっと土砂の量とか多いだろう。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 18:59:31.88
>>905
張政は卑弥呼の古墳ができあがるまで居たと
魏志倭人伝から伺えるので(伝聞も可能性もあるが。)
径100歩の古墳は1年以内で作ってしまったみたいだよ
0907日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 19:06:25.26
>>905
追加する理由があったのかもよ?
盗掘とか定番だけど。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 19:12:05.19
古墳に掘りを追加工事した例とか確認されてるの?
0909日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 19:22:52.57
堀を掘ったくらいでは盗掘は防げないよ。
やはり本体と同時だろう。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 19:27:55.06
>>895
直訳じゃないよ
>>896
壱岐、対馬、松浦とかだな。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 19:59:26.09
>>908
知らんよ。
水田開拓 残土で古墳、ため池もつくっちゃった。てへ。
って流れかもね。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 20:18:50.83
女王國を構成する国々 4ヶ国

奴國・・・・帯方郡からの距離が12000餘里
不彌國・・・帯方郡からの行程が12000餘里
投馬國・・・不彌國の南側
邪馬壹國・・不彌國の南側、女王の居所がある

参考:伊都國・・・帯方郡からの行程が11900餘里


女王國以北の倭の国々
伊都国・末蘆國・一大國・對海國・狗邪韓國・其餘傍國21ヶ國・・計26ヶ国
0913日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 21:06:39.31
>>912
また変なことを主張するのかと思ったが
内容はまともなのでほっとした。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 21:49:35.15
>>912
不彌國・・・帯方郡からの行程が12000餘里???

不彌國は帯方郡から一万里末羅港から500里の伊都国1万500里 から東100里でしょ?

で、伊都国の東の不彌國〜邪馬台国の
南水行30日と陸行1月は南北で1500里w

これが、中国皇帝による正史が示す定義である。
0915日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 22:01:09.51
地理的に比定すると伊都国の東の不彌國って、内陸だよね。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 22:38:54.41
>>915
ほんとに東ならな
0917日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 23:23:12.60
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0919日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 00:37:22.72
そうだな

ガチ確定の北部九州邪馬台国説にまともに反論できない
サギが騒いでいるだけだな
有効な反論すらできずにw
0920日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 00:41:40.42
ここまで北部九州邪馬台国に対する有効な反論なし
0923日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 00:48:04.20
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0924日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 00:49:56.46
南=東 説な。 知ってる。

伊都国の東=南だともっと内陸だしw
まあ、内陸に南東500里向かって東に百里だよ。

何言ってんだ俺? 畿内説の方位は考えたくないな。
そんな間違いの有る中国皇帝の正史は無い。

畿内説によるなら
内陸の不彌國から南水行30日と陸行1月は南北で1500里以内と中国皇帝は定義した。
頓珍漢だろw
0926日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 07:18:29.10
あんな敗残説を今頃持ち出したら恥ずかしいよなw
何も説明できずに罵るだけのw
0928日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 10:35:21.92
>>914

>不彌國は帯方郡から一万里末羅港から500里の伊都国1万500里 から東100里でしょ?

不彌國は、帯方郡から末羅港11400里、末羅港から500里の伊都国1万1900里、伊都国から東行100里です。

@半島循海岸水行が7000里
A渡海3回が3000里
B対馬方可400里を循海岸水行が800里
C壱岐方可300里を循海岸水行が600里
合計、帯方郡から末羅港まで11400里
0930日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 14:08:37.59
一万二千里で邪馬台国の墓探し用なら反論する気も無いけど
A渡海3回が3000里 だけでいいよ。
海峡三等分できる航路って意味

対馬って方可400里って、無いし。 
400はほぼ横断面で見てると思うけど
地図上で対馬の循海岸水行だと南北で千里位有る。
壱岐は方可って言っても南北一辺で通貨でそ。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 14:47:34.77
>>930

対馬の面積
方可400里=400里×400里=160000方里
=(東西)200里×(南北)800里(対馬及び其の周辺島の実際の海域)

壱岐の面積
方可300里=300里×300里=90000方里
=(東西)300里×(南北)300里(壱岐及び其の周辺島の実際の海域)

対馬循海岸水行距離
方可400里=400里+400里=800里

壱岐循海岸水行距離
方可300里=300里+300里=600里
0933日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:20:33.06
対馬と壱岐
対馬島と壱岐島
對海島と一大島
ではなくて
對海國と一大國
だから
島そのものの大きさじゃなくて
海域だったわけだな

對海國の人々や一大國の人々が日常で漁などを行う生活域が
方可四百余里や方可三百里だったということだ
0934日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:35:53.84
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0935日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:31:59.41
A 洛陽 
  南路東水行 or 北路東陸行
B 山東半島 
  東渡黄海横断 
C 京畿湾(徳積島)  帯方郡

@C 從郡(京畿湾徳積島)至倭  
  乍南 循海岸南水行四千餘里(320km) 南部半島西海岸 水行4日 
   韓西海岸 韓在帯方之南東西以海為限 方可四千里 
   倭西海岸 南與倭接 歴韓國 
A 珍島西南海域 
  乍東 循海岸東水行三千餘里(230km) 半島南海岸 歴韓國  水行3日

B 其北岸狗邪韓國(巨斉島南岸海域) ※7000余里 水行7日 

C (東 渡海千餘里)  ※8000余里   水行1日 

D 対海國(対馬)(方可四百餘里) ※8800余里

G (南渡海千餘里)  ※9800余里   水行1日 

F  一大國(壱岐)(方可三百里)  ※10400余里 

G (南 渡海千餘里)   ※11400余里   水行1日

H 末盧國(陸行程 五百里)伊都國   ※11900余里

I 伊都國(陸行程 百里)不彌國(吉野ヶ里)女王國   ※12000余里
I 伊都國(距離 百里)奴國(佐賀城)女王國      ※12000余里
0937日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 01:10:26.39
>>936
だよな

鉄器ゼロ住居ゼロ遺跡が首都と詐欺ってみたり
洛陽から学術出土ゼロ銅鏡が中国産と詐欺ってみたり

ひどすぎる・・・
0940日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 09:10:38.50
畿内が遺物ゼロということはない
極めて少ないだけだ
0941日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 19:58:27.94
>>940
鉄の普及していなかった弩田舎だったってことだな。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 08:36:35.93
>>942
それは超弩田舎だったってことですね。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 17:53:48.80
ここの考えでは、畿内は九州勢の一部が移住して栄えて大和となったでいいのかな?
0945日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 18:34:15.82
邪馬台国は北部九州にあった、でいい
0946日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 18:38:53.23
(500年くらい)後に奈良に都が置かれたのは事実だからね。
その勢力がどこから来たのかといえば、九州しかない。
騎馬民族説というのもあるが、根拠があるとは思えない。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 18:53:08.97
>>946
>その勢力がどこから来たのかといえば、九州しかない。

九州にそんな力はない。  奈良に都を置いたのは倭国(阿波)。  @阿波
0948日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 19:08:49.44
うちとしては、日本で最も文明が高かったか争いも多かった九州が女王と信仰の力でまとまったが、大陸の脅威に対策が必要となり、距離を置くために機内と移り日本を1つにまとめ力を得ようとした。
という流れにロマンをかんじてる。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 19:13:54.57
卑弥呼は平原1号だし
台与までは北部九州だな
0950日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 19:15:00.70
>>948
妄想を楽しむだけにしときなさい。  @阿波
0951日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 19:16:14.68
>>949
妄想を楽しむだけにしときなさい。  @阿波
0953日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 19:22:09.88
祇園山
0954日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 19:24:14.26
>>948
だいたいあっとる
0955日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 19:25:16.77
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0956日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 19:26:40.35
「漢委奴国王印」 江戸時代の作の可能性が高そう。 NHKニュース
0957日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 19:27:29.15
「漢委奴国王印」 2000年前漢代の作の可能性が高そう。 NHKニュース
0959日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 19:37:11.58
倭人伝の邪馬台国は九州北部の26国で九州島の3分の一に満たない小国。
同時期に銅鐸時代が終わって関西関東東海北陸山陰瀬戸内海勢力が統合して
古墳時代に入った事が明らかなんだから、畿内と九州邪馬台国勢力が並立してるのは当然だろ。
日本の考古学や歴史学は時系列無しでご都合主義の日本史創ってるのかよのかよ?
学者が先導して妄想で遊ぶのもいい加減にしろ。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 19:49:54.69
並立しとらん

北部九州倭国は鉄器強国

畿内は無鉄器で征服された
0961日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 19:58:12.76
うちも九州勢が畿内に移り住みヤマトとなったと考える者ですが、何年ごろに国の中枢が畿内に移ったと考えますか?
600年に九州から独自に隋へ使者を送っていることが引っかかってるけど、そんな遅かったら、記紀編纂の時、もっと詳しいことが書けたのではとも思い分かりません。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 20:10:55.85
畿内へ移る動機を考えたらいい

一つは、海外からの脅威
これは白村江で負けるまで皆無だな
逆に九州から攻めまくりで九州が中枢のほうが便利

もう一つは、東方への領土拡大
つまり台与の代で狗奴国が滅亡して南が安全になって、
九州を中枢にして北へ攻めるか
畿内に中枢を映して東へ攻めるか
0963日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 20:12:22.42
>>956
真贋論争のシンポジウム開催→江戸時代の作の可能性高そう

…脳内変換とは恐ろしいものだ
0966日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 20:48:46.24
>>962
>逆に九州から攻めまくりで九州が中枢のほうが便利

倭国は4年に一回程度の割合で朝鮮半島に攻め込んでいたからね。
博多から攻め込む方が有利。
畿内からいちいち出かけていたら国内移動の方がはるかに長くなってしまう。
0967日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 20:56:50.56
ありがとうございます。
かなり納得ですよ。
では畿内が九州勢力の統治になったのは、いつと考えますか?
鉄の増加が影響力の増加と重なっていると見ていいでしょうか?
0969日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 21:04:59.84
九州政権の統治下にはいるのと別にして
そもそも畿内の方形周溝墓集落の支配者あるいは集落民全部かもしれんがの
出自が筑紫だからな
出身地の王の支配下には入っていなかったものの
0970日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 21:30:11.38
>>962
>畿内に中枢を映して東へ攻めるか

西日本各地のなかで、敢えて湿地帯の畿内に中枢を映す理由は?  答えられないだろうが聞いてみる。  @阿波 
0971日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 21:44:15.07
弥生時代前期に九州が発展した事実は否定しないが
九州は邪馬台国時代まで統一国家を形成できてないのも事実。

弥生人は邪馬台国時代までに九州人であるのは間違いない事実であって
吉備、出雲、阿波、関西に向かった九州の弥生人が大和朝廷の起源であっても良い。
記紀の統一に係る時系列的なデタラメも、
日本人形成の意味でなら完全なデタラメじゃない憶測は可能。

ただし倭人伝によって、邪馬台国に九州統一や
瀬戸内海諸国、出雲、能登、畿内に進展できる軍事力が無いのは明らか。
邪馬台国時代には、銅鐸時代を経て並立してこれらの地域に王権が成立。
軍事国家による統一王権を象徴する、古墳、前方後円墳が出来始めている。
平原の卑弥呼の墓は普通に支石墓のでかい塚、盛り土だろ。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 21:55:19.06
壱岐対馬ルートによって弥生時代の朝鮮半島からの鉄器入手を完全支配する
北部九州邪馬台国

平原遺跡に超巨大内行花文鏡と
魏から贈られた倭人伝そのままの副葬品

それにケチをつけるなら
無鉄器の畿内なんざ

サヨナラバイバイwww
0973日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 21:56:27.09
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0974日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 22:08:10.65
交通の便が悪かったから、分家を増やしても、なかなか意思疎通は難しかったんだろね。
磐余彦と饒速日が同じ筑紫の天神の子どうしで戦って五瀬が戦死したくらいだからね。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 22:09:30.32
>>969
なるほど。
そうなると、畿内に至るまでの鉄の文化エリアは皆、九州北部から旅立った人たちが作り上げた文化圏と見て良いでしょうか?

あと宇佐神宮のポジションが昔から気になります。
神社としては古代は関係ないと見えますが、本殿の下に石棺があると言うレアケースで、記紀でもその後の世でもど田舎なのに大切にされています。
古代で一体どう言う場所だったのでしょうか?
畿内と九州北部を結ぶ交通の要所ではあったと思いますが。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 22:18:27.71
もう一つ連続質問ですみません。
やよい末期から古墳時代初期、鉄器の出土が阿蘇山ぐらいのところで九州を横に切ったように偏ってます。
と言うことはそのラインより下は敵国。
だけとそのラインより遥かに南ら神武が登場しています。
そこに何か意味があるのでしょうか?
0978日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 22:27:44.56
古墳の上に神社というのは、全国的にはよくあること。
筑紫倭国ではしばしば王統が交代するが、最後の交代が仲哀の暗殺から応神の即位までの間。
すなわち天皇家の直接の皇祖が応神。
新しい天皇が即位すると、勅使を立てて宇佐の祖先の宗廟に報告するのが伝統だった。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 22:30:42.83
>>976
熊本が狗奴国、宮崎が投馬国。
ここまでが魏志倭人伝で確認できる倭人の土地の南限。
ちなみに後漢の頃は福岡の倭奴国が南限と書いてあるので、これでもずいぶん拡大している。
畿内はまだまだ未開の地。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 23:19:57.19
委奴(ヰト)

倭奴(ヰト)

倭都(ヰト)

伊都(イト) 旧倭都の意 現倭都は卑弥呼の居所
0981日本@名無史さん
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2018/01/22(月) 00:26:03.98
女王國(14万千戸)・・・筑紫平野 女王國構成国(奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國)

狗奴國・・・・熊本平野菊池盆地(菊池川流域が中心地)

狗奴國と女王國の境界線・・・矢部川南岸

狗奴國に隣接する国・・投馬國に東接南接・邪馬壹國に南接
0982日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 07:04:55.74
>>962
>畿内に中枢を映して東へ攻めるか

西日本各地のなかで、敢えて湿地帯の畿内に中枢を映す理由は?  答えられないだろうが聞いてみる。  @阿波
0983日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 07:21:41.45
>>982
ある程度湿地の方が、開拓して水田にしやすいだろ。
むしろ好都合な環境だったかもしれないぞ。
そもそも大きな都市にするときは大量の水がないと困るぞ。
関東平野が広大な湿地だったのに世界一の密集都市江戸が出来たようにな。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 07:43:04.68
開拓には道具が必要。
纒向には建築土木に必要な鉄器が絶対的に不足している。
0985日本@名無史さん
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2018/01/22(月) 07:43:29.59
>>983
>ある程度湿地の方が、開拓して水田にしやすいだろ。

弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。
灌漑水田稲作は壊滅です。 
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。  @阿波
0986日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 07:55:27.39
>>985
ところで阿波説ってネタなの?
たまに出てくるけど。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 08:07:43.00
>>984
証拠は?
0988日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 08:23:22.67
>>986
>ところで阿波説ってネタなの?

そんなにとぼけなくてもいいのに! 

弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。
灌漑水田稲作は壊滅です。 
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。  @阿波
0989日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 08:26:08.41
>>988
洪水はのりこえたのでしょ。
洪水あったからすべて成り立たないような発想はおかしい。
筑紫平野も大規模な洪水がある土地だが日本最大の古代都市。
0990日本@名無史さん
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2018/01/22(月) 08:32:46.53
>>989
>洪水はのりこえたのでしょ。

弥生時代の終わり頃にね。


>筑紫平野も大規模な洪水がある土地だが日本最大の古代都市。

「日本最大の古代都市」の痕跡がないのが痛々しい。  @阿波
0991日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 09:56:03.36
博多の街は弥生時代から現在まで連続してるそうだから
洪水とか大した事なかったんでしょうね。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 09:57:09.24
>>990
博多の地下に「日本最大の古代都市」の痕跡がある。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 10:16:39.20
>>991
>博多の街は弥生時代から現在まで連続してるそうだから

倭国(阿波)から進出した、筑紫忌部の雑穀(アワ・キビ・ヒエなど)栽培技術によって、生き永らえたんですよ。  倭国(阿波)に向かって礼拝!  @阿波
0994日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 10:17:01.79
>>991
つい最近周辺で大洪水。
現在の治水であれだけの洪水。
過去もし右辺で繰り返してきたと考える。
0995日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 10:27:28.83
博多遺跡や那珂遺跡なんか
弥生中期から平安時代まで積層して
ものすごいことになってる。
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