伊都国東遷スレ
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ないので立てました。
<要点>
1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、だたし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」は伊都国の関係者
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の葟として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html >>97
そんなふうに
罵倒オンリーに堕ちたら敗北者 >>98
>金印なのは国王印の当然の格式であって、倭国王だなんて理由にならない
つまり倭国王ですね。 委奴国王を倭王に冊封したわけだよ。
他に勢力があろうとも、皇帝が王に権威を与える、それが冊封制度。 >>104
じゃ、なんで倭王のハンコ貰えてないの? >>105
金印が与えられていることが根拠でしょ。 >>98
>金印なのは国王印の当然の格式であって、倭国王だなんて理由にならない
金印は国王の格式だと言っているね。 >>112
だから委奴国王だって。
なんども書かせんなよ げきをなしこれをこくゆするもひみこもってしす
おおいに塚をつくる(ひみこのみやこは福岡県西部沿岸のおっづ1.2 しらふにて
かきくだしたり
せいかいを
ぶろぐうっぷを
はやまりにける(風疾一月到(by吉備桃太郎 金印を本物として考えると、そこにあるのは「委奴国」ですからね。
「委奴国」に下賜したと考えるのがまずは本筋ですね。
後漢書の「倭奴国」というのが前提に来るのがそもそもおかしい。
後漢書自体、文飾に拘って小細工を弄すことが多い書ですし、怪しいもんです。 単に異体字程度の認識で良いかと。
細かい字体の違いにこだわって著者の意図を読み違えるのはどうかと。 >>119
後漢書には奴国なんて出てこないんだよな
出てくるのは倭奴国だけ。 >>120
なにが言いたいのか良くわかりませんが、
金印に関しては、まずは「委奴国」有りきで考えないと。
細い字体といいますが、音韻が異なるのだから、
通用は普通はしませんね。 その時代の遺跡が伊都国にあるのは事実。
日本語は掛詞みたいに多少の音韻や意味のズレはむしろ楽しんで積極的に取り入れるしね。
中国人相手には奴国と倭奴国と伊都国をいろいろ言い換えて、政権交代などを隠して正統性をゴリ押ししたようにも思える。 伊都国は漢に冊封され、また各国の使者がいたから、滅ぼされなかったんだろう。
不幸中の幸いだな。
伊都国は1世紀半ば〜2世紀中頃にあった近畿圏を中心とした倭国の宮家だな。
神功皇后、応神で本来の倭国の再建が始まる。 >>128
「近畿圏を中心とした倭国」
近畿圏を中心とした国があった魏志当時あった根拠なし。
仮にあったとしてもそれを倭国とする根拠なし。
ましてや伊都国以外の九州北部が滅ぼされた根拠なし。
小学生の作文作文以下。 畿内説はまともに反論もできないのか。
なら、「近畿圏を中心とした倭国」は、単なる妄想でFAだな。 >>135
くなのはかばあるやん(ひこにゃんより4ほうをしんりゃくせり >>134
あえて3せいきの倭国を定義するなら対馬海峡日本海沿岸糸魚川以西
くなはひこにゃんきないいせ
後期はクナがおおひことそのむすことひこいますで切り取った 伊都国が遷都したなら倭国内やね?(出雲orたには
あるいは倭国外なら三次吉備あわ
ひょっとしたら大分熊本宮崎(可能性ひくいのー さがはよーわからん(よしのがりのひとらはえーひとらや^^ 倭国の盟主は筑紫
同盟国に肥国、豊国
属州として出雲、越
あとは無名の番外地 お早うございます。
畿内を倭国の中枢として見た場合、纏向はイリ王朝の日代宮跡遺跡としては、ほぼ合格点とおもいますが、魏志の時代まで遡り、それが邪馬台国と呼ばれたのかという点には、やはり少し疑問があると思いますね。
また、纏向とその前の唐子鍵では明確に断絶のあとがありますからね。ホケノは鉄器+銅鏡ですから、イリ王朝は唐子鍵の系譜でなく、平原の系譜と考えるのが順当です。
結局、記紀のイリ王朝の時代に魏と交流した痕跡があるかどうかが、邪馬台国の所在を決定するのだと思います。 じゃあ、イリ王朝で最も卑弥呼とその男弟に近いモデルを探してみると、やっぱり辿り着くのは、
モモソヒメとミマキイリヒコなんですよね。
結局そこの結論でいいのだと私は思います。ミマキイリヒコは、「ハツクニシラス」天皇であって、
このコンビ(ヒメミコ)が伊都に由来を持つのでしょう。
伊都国での記憶(天孫降臨から日向三代)とイリ王朝の間にある神武東征と欠史8代は、編纂時の挿入でしょうね。 私は別に確定の事実を主張しているわけではないんですよ。
仮定として置いてみて、矛盾が出るかどうをみているだけ。
平原から纏向イリ王朝に、継続的に発展している。
記紀の神武東征と欠史8代は後世の創作で、天孫降臨・日向三代から十一代ミマキイリヒコにつながる。
と仮定すれば、矛盾なく日本古代史が説明できるというだけです。 >>147
矛盾箇所を創作と仮定すれば、矛盾なく日本古代史が説明できるというだけです。は。 舶載・倣製でいろいろ議論のある三角は無視することにしても、
例えば、丹後半島にある大田南五号墳や大阪府高槻市の安満宮山古墳からでた
青龍年名の方格規矩鏡です。
これは魏志の時代に畿内との連絡を示していると考えるのが自然です。
しかも、それは瀬戸内ルートではなく、日本海ルートを示唆しています。 >>148
神武東征や欠史八代が、いろいろ怪しいのは、別に私が独自に言ってるわけでもなくて、
特段、恣意的な仮定では、ありません。
欠史八代なんかは噴飯もので、歴史にかけているから、ネーミングからしてそもそも歴史ではあり得ないですね。 私がいま、肯定的に考えている仮説は下記の通りです。
1.伊都国に巫女王による銅鏡を依り代にした太陽祭祀があった
2. 纏向は危機におけるイリ王朝日代宮
3. 記紀における神武東征と欠史八代は怪しいので無視する
これだけで矛盾なく、日本の古代史が綺麗に説明できます。
1.2.3 とも別に私独自の珍説というわけではなくて、最大公約数的な性質を持った仮定と思いますが。 3.が怪しいというのもどうかと。
初代天皇という肩書きを外してしまえば、筑紫日向から大和への幾次かの東征の一つとして矛盾はないでしょう。
崇神と年代が近く、実権をあまり持たなかっただけ。 1.2.3. はどれも相反的な仮定ではないのですから、全部肯定しちゃって構いません。
平原を肯定して、それを根拠に纏向を矮小化しようとしたり、
纏向を肯定して、それを根拠に平原を矮小化したりする必要はなにもないんですよ。 説明は、矛盾がなくて当たり前
矛盾した説明する人が論外 >152 さん
レス有難うございます。
イワレビコは、漢風諡号に、「天下」なる如何にも中国的な語彙が入っていますし、
イワレの地にあるメスリ山古墳からは、大きな鉄弓が出てきています。
私は特大の鉄弓をもったメスリ山古墳の主、イワレビコが初代天皇に繰り上げ登板させられたのだと思っています。 神武の橿原神宮は、言うまでもなく、ゴニョゴニョですしね。
あれは歴史ファンタジーの一種。 >>155
どうして漢風諡号に中国的な語彙が入らないと思うんだ >>157
ハツクニシラススメラミコト という一人の人物を、二つの漢風諡号で表したと言うことです。
そう考えると「馳天下」なんて方が、怪しいですね。
こんなん、別に私が特段主張しているものではなくで、wikiあたりにもかいてるんじゃないですか? おや、>>151 の三つの仮定のどれが無茶苦茶でしょうか?
それても別の点でしょうか??
具体的に指摘お願いします。 神武東征の虚構性は、別に私が独自に主張している内容ではありません 普段、記紀など信用ならん、考古学的事実のみが事実だと言わんばかりのこの板で、
神武東征の虚構性を指摘して、反発されるとは思いもしませんでしたね。 ねえねえ、
神武天皇の漢風諡号って、なんていうの?
教えて また、つまらない揚げ足取りですか。
お付き合いはしませんので、悪しからず。
>>151 の3つの仮定を肯定的に捉えると、伊都国東遷説となり、
それでほぼ綺麗に日本古代史が分かってしまうことについての反論なら
いくらでもお返事します。
もしくは、東遷の経緯としての日本海ルートについてでも良いですよ。 諡号ではなくて、称号ですか。訂正してお詫びします。
ま、ハツクニシラススメラミコトに中国風の味付けをしたのが、
始馭天下之天皇、ということです この程度の人が言っていたとしても、
>>151 の仮定をすべて肯定的に考えると、古代史に特段の謎がなくなることは変わりません。 >>171
この程度の人に、古代史に特段の謎がなくなると言われても、な >>170
内容はちゃんと読んでないのでなんとも言えないが、
>この程度の知識のひとが言ってる説かよ、ってこと
これは少し違う。
結果出す学者は無知な人が多い。信じられないレベルで呆れることが多い。
たまたま見た何かに疑問感じて、その疑問一点に絞って調べて論文書くやつがラッキーパンチで結果出していくのがほぼ全て。
人の論文を真面目に読んで知識が豊富な学者ほど、自分の論文を書く時間なくなって結果出していない。
ある有名な考古学者が一般人を対象にした公募コンテストの審査員をやったとき、素人がプロより真面目に様々な論文を読んでいて驚いていた、じゃなくて驚いていなかった。
プロがそうなんだから専門外の素人が過去に何度も大発見しているのも当然。
知識の穴を指摘し合うのは生産的じゃないよ。 のちの天皇家/物部王家は佐賀の吉野ヶ里か近隣に都していた。(佐賀、、、神の意味)
伊都はその出先機関、衛星国でお代官さまが治めていたと聞いた気がする。
その歴代当主らはホホデミを襲名していたとも。
神武天皇?の神名に、神倭磐余彦ホホデミの命ともされるのもそういった理由からか? >>171
〇〇のナゾが解けた!と言われれば具体的にわかるが
特段のナゾがなくなった!と漠然と言われても
なに言ってんだかワカラナイよ >>173
専門外の素人が過去に何度も大発見
って、具体的になんのこと? 東遷の理由は何?
幾内と北九州は並列してんじゃないの? >>151 の命題をよく見てください。
どれも肯定しておくのが、一番無難な回答になっているはずです。
伊都国東遷は、柳田先生の説であって私独自の説の要素なんて殆どありませんよ。
敢えていうなら、東遷当時の有力ルートとして、日本海ルートをとること、
投馬国をイズモ(於投馬)と考えることぐらいです。
それにしても、御覧魏志を重視する三木の著作や紀年鏡からルートたどる北條論文なんかが論拠にあります。 >>182
文献と考古学の整合性を考えると、3世紀前半までは東遷は難しいのでは?
この時代、北部九州とのかかわりは「鉄」の存在が必須になる。都には「鉄」が必然的に集まる事は当然なのだが…ここが弱すぎる。
卑弥呼までは厳しい、トヨも届くかどうか…この頃に畿内は北部九州と交流し始めたかもしれんが、押さえるほどの力があったとは思えない。 >>184
そうですね、ただ、平原のイト倭国から纏向のイリ王朝という流れ自体は
考古学的な事実として認めてしまって問題ないと思います。
つまりは、畿内が九州を抑える必要はないんです。有り体に言えば、九州が畿内を抑えたんですから。
あとはその時期ですね、私はすでに述べたようにモモソヒメとミマキイリヒコの関係が
魏志に現れていると思考えますので、その方向から柳田の想定する200年頃の平原巫女王の死後、
纏向で次代が立ったと思います。 >>185 さん
貴方のような方ですよ。
一度 >>151の内容をご自身でも考えて見てください。 >>186
>そうですね、ただ、平原のイト倭国から纏向のイリ王朝という流れ自体は
>考古学的な事実として認めてしまって問題ないと思います。
根拠は何かあるの?
柳田はダメでしょ
200年頃死んだ卑弥呼の母親女王って誰? おっと、訂正します。
X 纏向で次代が立ったと思います。
◯ 纏向を含む、狭義のヤマトの地で、次代が立ったと思います。 >>188 さん
>柳田はダメでしょ
という論拠が不明です。 >>192
200年頃死んだ卑弥呼の母親女王って誰? >>193
私は母親とは別に書いてませんし、柳田先生もそうではないでしょうか?
少なくとも私は、先代と書いていますよ。
太陽祭祀を司る巫女王(斎宮)には子供はいないのでは? >>195
そうならそれは私と柳田先生の差ですね。
ちょっと外にいってきます。
ではまた。
今度は日本ルートについて突っ込んで書いてみます。 言い張るばっかりで、突っ込まれると
それは他人の説だから〜みたいな逃げ
どーしよーもない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています