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邪馬台国はどこにあったか初心者に説明するスレ3
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001◇cTVFTrvr8M代理
垢版 |
2018/01/12(金) 12:13:41.58
前スレとは別の初心者です
もういらっしゃらないようなので立てました

当方、魏志倭人伝の現代語訳だけは読んだレベル也。
日本書紀は読んでない也。
お互い議論しなくていいから
自分の説の説明だけやってくれ。(重要だと思います)
投稿が分割するほど長いなら名前欄を使ってくれ。
できれば初心者がググらないでいいようにしてくれ。 (できればでいいです(前スレはググりながら読んでいました))
初心者が口を挟むとベテランの方同士が喧嘩になるようなので読むだけにします

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1484705598/
0002日本@名無史さん
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2018/01/12(金) 12:17:20.70
スレッドタイトルが長過ぎると受け付けてもらえず
邪馬台国は結局どこにあったか初心者に説明するスレ3
とできませんでした
0003日本@名無史さん
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2018/01/12(金) 13:44:52.50
魏志倭人伝を読んだ限り、九州にあったことは間違いない
0004日本@名無史さん
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2018/01/12(金) 17:46:55.85
邪馬台国と大和朝廷との関係をどう解釈するかで変わってくる

@畿内にあった邪馬台国がそのまま大和朝廷になった
A九州にあった邪馬台国が東遷して大和朝廷になった
B阿波にあった邪馬台国がちょっと東遷して大和朝廷になった
C畿内にあった邪馬台国を大和朝廷が滅ぼした
D九州にあった邪馬台国を大和朝廷が滅ぼした

どの史観を取るかで同じ文物を見ても反応が違うわけだが
発言者の多くは自分の史観を明確にしないので発言がわかりにくくなる
0005日本@名無史さん
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2018/01/12(金) 17:48:46.94
但馬説、石川説、近江説、山城説、任那説なんかもある
0007日本@名無史さん
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2018/01/12(金) 18:05:20.25
その程度で失笑してたら、沖縄説、台湾説、ハワイ説、山形福島説、関東説では卒倒してしまうぞ
0008日本@名無史さん
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2018/01/12(金) 18:29:15.07
邪馬台国問題を解決させないのが目的で書いてる人が多いからね
0009日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 00:17:05.59
魏誌以外の中国史書を読んだら、ズバリ書いてあって笑った。
0010日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 09:38:18.41
邪馬台国論争を混乱させようとする謎の力は歴史修正主義皇国史観のウヨ勢力だよ
0011日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 09:50:50.62
魏志倭人伝には根拠がないデタラメだというのが
アホウヨどもの基本的な主張だよ
0012日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 18:43:57.49
徳島の剣山が高天原です
大嘗祭のこと調べたらわかります
倭人伝の邪馬台国も四国で間違いない
0013日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:08:01.59
北部九州30ヵ国の総称が邪馬台国ということ。
0015日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 21:42:53.54
魏志倭人伝を読めば北部九州で間違いない
0017日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 21:54:10.91
郡より女王国まで一万二千里
帯方郡から一万二千里は奴国
だから女王国は奴国になる
0018日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 22:13:01.78
しょしんしゃや
邪馬壹のおうは
壹与としれ
卑弥呼のみやこ
べつにある
0019日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 22:41:17.71
邪馬台国は北部九州30ヵ国の総称で卑弥呼の墓は平原で間違いないよ
0021日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 14:38:15.92
頭がおかしいの?


なあ  さげてえなあ


アゲんと気がすまんか ヤマタイ厨 ?


ヤマタイ国より ノアの方舟の話の方が


おもろいことないか?
0022日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 14:46:23.36
>>1
それから お前

5ちゃんねるに何を期待してるねん  アホか?

虚実ごった煮の匿名掲示板で 何を知りたい 言うねん。

>>1の文章 注文大杉

邪馬台国のこと勉強したかったら 図書館で本借りるか 専門書買えや

邪魔くさい言うて 5ちゃんねるで 何が勉強できる?  無いが知りたい?

おまえの本気度わからんわwwwwwww

糞スレ立てる暇、 今後も読む暇があったら、 市民講座でもイケや

そっちの方がよっぽどおまえの向学心を満足させるやろ

このくらい小学生でもわかる話やなのに、お前アホすぎる
0023日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 16:28:40.64
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
0024日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 18:04:43.02
>>22
スレ主を恫喝。通報しました。
0027日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 19:02:32.00
>>21を通報しろよ。
マルチうざい。
0028日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 19:21:48.28
>21は意味不明だけどこれも恫喝なのか?
0029日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 21:50:12.49
アラシの目的が何なのか知りませんが
偽スレではない、邪馬台国スレでは 基本 age 進行で行きます。

皆さま、ご協力お願いします。
0030日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 18:27:39.67
魏志倭人伝では邪馬台国は七万戸
晋書に魏の時代に至って、三十国が通好してきた戸数は七万。とある
よって邪馬台国は対馬から奴国及びその周辺の三十国の総称
0031日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 18:37:59.07
>>23

朱崖、儋耳は何処だ。

朱崖
福建省寧コ市霞浦県赤岸村

儋耳
福建省寧コ市霞浦県東沖半島
0032日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 18:56:36.22
女王国は北九州で確定
卑弥呼は邪馬台国にはいなかったので、どこでもいいよ
0033日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 20:57:29.90
卑弥呼が天照大神のモデルだから
天照大神の神霊である八咫鏡が
出土した平原の被葬者は卑弥呼以外有り得ない
0034日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 21:15:13.12
>>31
海南島みたいな島 って言ってるんだから九州の事だな。
0035日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 21:28:43.21
>>23
>畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけ

同意 なんだけど、その古墳の導入には
大陸の中央集権の理解や鉄生産、高句麗馬移入の富国強兵政策が伴うんだけど
九州より先にこれを成し遂げるのに対馬航路は必要じゃないかな?

倭人伝が紹介する邪馬台国には半島開拓の可能性は無いので
魏志韓伝に見る同時進行で半島南部に進出していた倭人諸国の背景に本州連合諸国が有る。
という仮説は、成立し得ると考えるがどうだろう。

初心者向きじゃないけどw
0036日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 22:27:45.79
当時はまだ渡海ルートが対馬海峡だけだったからムリだね
0037日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 23:03:37.21
一応黒曜石や翡翠の隠岐出雲系の日本海ルートは、縄文時代から
能登、糸魚川、佐渡、青森から沿海州も廻って、半島東岸から戻ってるみたいだけどね。
200〜300年に始まる高句麗馬の移入は半島南岸の投馬国〜対馬航路だよね。
無理と言っても400年には鉄も牛馬も国内自給化してるんだよ。
0039日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 00:38:31.25
>>35
>九州より先にこれを成し遂げるのに対馬航路は必要じゃないかな?

畿内の前方後円墳の副葬品を見るに、平原のおこぼれと思われる内行花文鏡やそのかけらをだいじそうに服装している。

>倭人伝が紹介する邪馬台国には半島開拓の可能性は無いので
0040日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 03:18:26.44
邪馬台国論争は実に初心者向けだ。
文献はたった3つ。魏志倭人伝、好太王碑文、記紀。
だから、シロート好事家がここに集う。誰もがいっぱしの専門家気取りだ。

これが、奈良時代とか平安時代とかになると、膨大な文献を読み込まなくてはならない。
専門業者の世界で、シロートには敷居が高い。
0042日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 12:04:59.05
>>39
つまり、平原が独占していた対馬ルートを畿内が奪ったってこと?
平原以降に全国に広がる前方後円墳勢力は平原を滅ぼした、だな。
まあ、九州王墓は短期間に繁栄したであろう遺跡にしかならんね。
0043日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 12:57:02.49
前方後円墳に内行花文鏡が祭られている以上、前方後円墳を作った勢力も平原の女王の配下、眷属であったということ。
0044日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 13:01:46.11
祀られてるんじゃなくて墓だろ?
0045日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 13:06:41.18
内行花文鏡だけ絹の袋に入れられて飾られて、他の鏡は無造作に並べられていたのは畿内のどこだっけ?
0046日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 13:21:08.51
3世紀末から4世紀にかけて、畿内には大型内行花文鏡を副葬する前方後円墳が出現する。
これは最大の内行花文鏡を有する平原女王の眷属が畿内まで征服してその威光を知らしめたのだろう。
0047日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 13:45:41.06
平原は3世紀末に滅びた集落の遺跡と思ってたよw
畿内まで女王が遠征してそのまま戻ってこなかった?
いや、埋葬されてるだろ。
0048日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 14:19:16.52
卑弥呼は引きこもりだからね。
本人ではなく、眷属だと書いたよ。
0049日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:20:14.09
魏の使いの者(官僚?)が倭国を訪れた際の記録
その40〜50年後に中国人によって書かれたとする倭人伝
そこに記された道のり(距離や方角)を論点とするなら
その記述の正確さと日本人によって書かれたものではないという点も
考慮しないといけない
0050日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:45:02.25
都合の悪い記事はすべて信用できないと喚くしかない畿内説の情けなさよ。
0051日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 15:59:47.27
「邪馬台国」「卑弥呼」等と蔑語を当て字するような他国の
最も古い時代の歴史書、その片隅に僅か2千字余りで書かれた記述
それだけを頼りに論争しているもはYOUたち、どうなんだい?
と思いました
0052日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:19:31.19
記紀でも筑紫の日向は神代の王都だよ。
0053日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 16:30:14.65
漢字の当て字は機械的にやってるので通常は蔑視の意図はないよ
0054日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:20:51.31
いやいやいや
「邪」「卑」を辞書で引いてみてよ

お人良しかw
0056日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:25:40.36
>>55
知りませんでした、ご教授ありがとう
という訳で、その韻書が使用されたか否かをサクッと調べてみたところ

韻書云々と言うのは「倭人伝」には関かかわり無い事である
何故なら、倭人伝は韻文では無いからで ある
と言う事はつまり、倭人伝 には卑字が使用されていると言う事になる

という文献がありましたよ
実際はどうなんでしょうね
魏人が倭人を格下に見ていた故の蔑語だと思えてなりません
ヤマト国→「邪」馬台国
日巫女、姫巫女?→「卑」弥呼
0057日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:36:28.01
韻文でなくても外来語には韻書を使うよ
ちなみに倭人伝に出てくる漢字はほぼ韻書の筆頭漢字を機械的に選んだもの
0058日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:36:56.33
当時の中国人が特に日本を憎んでいた訳じゃないよ。中華思想の慣習だよ
0059日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 19:44:17.05
匈「奴」とか倭「奴」とかの「奴」は蔑視だったかもね
でも他の漢字は機械作業だな
0060日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:06:32.86
そうなんですね、ありがとう
興味深いので、もう少し深く勉強してみたくなりました
0061日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:08:42.17
>>57
ということは、傍国30カ国の読み方はわかるんだね。
教えてほしいな。
0063日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 21:20:04.71
そんなこと言わずに。
0065日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 00:56:07.67
>>64
「漢字古音手冊」はどうよ
説文解字の全漢字の上古音、中古音が載ってる
0067日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:18:35.49
【墳丘墓の分布】
弥生時代の墳丘墓、古墳のある遺跡数
一つの遺跡に複数の古墳あり
奈良は関西の中でも特に少ない

筑紫国
 福岡県 1945件
肥国
 佐賀県 415件
 長崎県 224件
 熊本県 166件
豊国
 大分県 310件
熊襲国
 宮崎県 145件
 鹿児島県 109件

大和国
 奈良県 198件
山城国
 京都府 616件
摂津国他
 兵庫県 638件
0068日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 14:22:40.14
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は?
12番 華奴蘇奴国は?
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番 支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。

狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
0069日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 19:13:39.47
>>38
これらの国の総称が邪馬台国=ヤマト=倭国=日本と言うことなんだ
初心者向けに基本的に言えば。
0071日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 19:31:01.43
豊受大神という天照大神の姪が台与なんだろうな単純だが。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 19:37:51.60
>>71
伊勢神宮ですね。  倭国(阿波)ですね。  単純だが。  @阿波
0073日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 20:31:41.93
>>1

(1)記紀を書いた渡来人の特徴として確定しているのは以下の事項

  ・寒冷地適応済みの民族だった
  ・文字(漢字)を持たない民族だった
  ・中国語とは違う(今の朝鮮語と同じ)文法の言葉をしゃべる民族だった


(2)日本人のルーツは大雑把に分けて二つ

  @寒冷地適応する前の縄文人 
  A寒冷地適応後の弥生人   

https://i.imgur.com/18pxDbh.jpg
https://i.imgur.com/Djb1fIr.jpg

https://i.imgur.com/Ikthpen.jpg
https://i.imgur.com/8hOQ8uD.png

https://i.imgur.com/uOxs25F.jpg
https://i.imgur.com/68iBfEY.jpg
0074日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 09:05:01.12
初心者は、畿内説・九州説どちらも読んで
「自分なり」の予測をして楽しむといいよ。
それ以外を調べてもいい。

記紀を大切にかんがえ、九州からの流れが大和地政権に継続すると考えるか
記紀を無視して最初っから畿内だったと考えるか。

最近はこのあたりが面白いよ。
0075日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 09:55:52.12
初心者で、九州・近畿共に故郷でもなければ縁もゆかりもありませんが
九州説の方が納得できる
0076日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 15:13:10.21
畿内説っていうのは卑弥呼が日本の皇族だ、って言ってんだろ? 違うよ。
九州説でも東遷させたりしてそれに迎合してるんだろ? 違うよ。

本土や九州がまだ統一出来てないときに
邪馬台国と大和朝廷の前身となる国々は並立してたし
バリバリの弥生系渡来人だった九州の邪馬台国が帯方郡と親密だったってことだ。

畿内説は瀬戸内海沿岸諸国や出雲北陸諸国が奈良に共立王権作ったのを
たまたま藁をも掴む状態の魏が、この一小国王を倭王に認定した事に当て嵌めてるんだろ。
卑弥呼ごときを倭王として皇帝に紹介したら帯方太守は死刑だよwww
0077日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 16:31:48.27
30国はのろし上げたら木の上から見て確認できる連絡網の範疇だろうな
0078日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 16:49:40.77
>>77
ついつい誇大妄想をしてしまい、その「幾つかの王族」を、記紀にあやかって付けた地名に惑わされ、 西日本全域で考えてしまう。
卑弥呼や壹與を共立した30国とは、倭国(阿波)国内の30国にすぎないのである。 これが現実的な見方。
吉野川中流域勢力(旧阿波郡・美馬郡・麻植郡) 対 吉野川下流域右岸(国府・石井) 対 吉野川下流域左岸(板野・鳴門) 対 県南勢力(阿南・小松島)
の勢力分布が考えられ、それらの中から卑弥呼や壹與が共立されたのだろう。   @阿波
0079日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 22:01:06.32
平安時代の和名抄郡名では、
筑前筑後の筑紫で25郡
肥前肥後の肥国で25郡となり
倭人伝の女王国30国に近い数になっている。

また、九州全体で96郡となっており
倭国百余国に近い数字でもある。

平安時代までにいくつかの小国が
合併したとしたらこんなもんかもね。
0080subo
垢版 |
2018/01/22(月) 22:30:05.22
邪馬台国は佐賀の田んぼだよ
0082日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 06:10:00.91
>>79
『和名抄』阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。
この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。この村にある「大麻山」、「大麻比古神社」の名も衣手(職業集団)に関係するとみられる。
また、田上山は、田上郷(坂東村)の背後(北)にそびえる大麻山と推定されている。  @阿波
0083日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 06:57:02.42
>>81
倭人伝に一致しているじゃん。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 07:02:51.81
>>83
九州説はこのような嘘ばかり書く
0085日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 07:36:21.47
「田上郷戸籍断簡」は日本で最初の戸籍。
この中に「建部」と見えますが「建部」とは景行天皇御宇に日本武尊命の功名を記録しようと定められた御名代部です。
日本武尊命の西討東伐の道筋に置かれました。
この「田上郷戸籍断簡」には11名の「建部」が見えます。

阿波に日本最古の戸籍。
阿波に「建部」
阿波って一体なに?  @阿波
0086日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 19:50:47.53
阿波も邪馬台国論争を混乱させるのが目的のウヨ勢力の工作員だろ
0087日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 20:33:46.80
>>86
>阿波も邪馬台国論争を混乱させるのが目的のウヨ勢力の工作員だろ

あれっ? 倭国(阿波)の痕跡で混乱させちゃったのかな?  @阿波
0089日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 21:34:09.49
>>88
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)

南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)  @阿波
0090日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 22:44:37.31
狗奴國・・・・熊本平野 菊池川流域が中心地

女王國・伊都國・・・・筑紫平野(佐賀平野・筑後平野・北野地域)

奴國・不彌國・投馬國・邪馬台国・・・・女王國

其餘傍國21ヶ国・・・・玄界灘沿岸(宗像〜糸島〜筑紫野)
              白石平野・嬉野盆地・武雄盆地・多久盆地
              日田盆地・黒木盆地

伊都國・奴國・不彌國・・・・佐賀平野

投馬國・・・・筑後平野有明海沿岸部

邪馬台国・・・・筑後平野内陸部・筑紫平野北野地域(筑後川中流平野)
0091日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/24(水) 05:36:22.69
>>89
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地

【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・福寺山遺跡           @阿波
0092日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/24(水) 14:18:14.53
帯方郡より女王國までの行程文より

奴國・不彌國・投馬國・邪馬台国・・・・女王國

女王國・伊都國・・・・筑紫平野(佐賀平野・筑後平野・北野地域)

伊都國・奴國・不彌國・・・・佐賀平野

投馬國・・・・筑後平野有明海沿岸部(佐賀県三根〜大牟田) 

邪馬台国・・・・筑後平野内陸部(久留米〜八女)・筑紫平野北野地域(筑後川中流平野)

其餘傍國21ヶ国・・・・玄界灘沿岸(宗像〜糸島〜筑紫野)
            白石平野・嬉野盆地・武雄盆地・多久盆地
            日田盆地・黒木盆地

狗奴國・・・・熊本平野 菊池川流域が中心地
0094日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/24(水) 16:06:09.25
なるほど。
では初心に帰って。

邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から邪馬台国まで一万二千里
そのうち、帯方郡から九州上陸までで一万里であり、邪馬台国の位置は九州北部になる

邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1日
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

魏志倭人伝によると、邪馬台国は九州北部。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/24(水) 17:12:30.22
>>90
なんで具体的に弥生集落遺跡を示さないの?   示せないの?  @阿波 
009690
垢版 |
2018/01/26(金) 13:07:38.45
>>96
筑紫平野は弥生遺跡の密集地域
筑紫平野は、いたる処弥生遺物は此処掘れワンワン状態。

弥生時代の大きな集落のあった処は人々の生活しやすい場所。
その多く場所は現代では都市の下。
我が家の庭を掘ると弥生遺物が出てくる方々が多くいる。
かれらは遺物出土にダンマリを続ける。
下手な発言をすると隣近所に迷惑をかける。
私もその一人。学芸員の方々にもいますね。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:04:02.53
北部九州は遺跡を発見しても
深く掘って壊す可能性がなければ埋設保存。

ほぼ全域に遺跡があるのできりがないし
金もない。
ついでに発掘して博物館や資料館に保管しても
すぐに一杯で廃棄するしかなくなる。

だから必要に迫られなければ埋めたまま。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:10:10.94
>>97
>北部九州は遺跡を発見しても
>深く掘って壊す可能性がなければ埋設保存。

そんなことはどこも同じ。
埋め戻してもちゃんと記録は残す。
なんで具体的に弥生集落遺跡を示さないの?   無いから示せないの?  @阿波 
0099日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:13:23.19
>>98
名前はつけてないけど、
どこに遺跡があるかは記録してるよ。
遺跡地図って知らないかい?


www.pref.saga.lg.jp/kiji0031873/index.html
0100日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:16:18.39
>>99
なんで具体的に弥生集落遺跡を示さないの?   無いから示せないの?  @阿波 
0101日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:18:57.33
>>100
遺跡地図に弥生集落遺跡がいっぱい載ってますが
見たくないのかな?
0102日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:21:35.77
>>101
これですか?

【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地

【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・福寺山遺跡           @阿波
0103日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:24:41.49
倭国(阿波)乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。

北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)
0104日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:27:03.27
こういう痕跡を提示できるのは倭国(阿波)だけ。  @阿波
0105日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:29:42.29
こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。  @阿波
0106日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:30:54.90
阿波にはこれだけしかないの?
少ないね。

遺跡地図見てみなよ。
佐賀県だけでも数百あるから。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:35:59.90
>佐賀県だけでも数百あるから。

なにがあるの?  @阿波
0108日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:43:22.80
>佐賀県だけでも数百あるから。

弥生集落遺跡って知ってる?  @阿波
0109日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:43:35.38
【墳丘墓の分布】
弥生時代の墳丘墓、古墳のある遺跡数
一つの遺跡に複数の古墳あり
奈良は関西の中でも特に少ない

筑紫国
 福岡県 1945件
肥国
 佐賀県 415件
 長崎県 224件
 熊本県 166件
豊国
 大分県 310件
熊襲国
 宮崎県 145件
 鹿児島県 109件

大和国
 奈良県 198件
山城国
 京都府 616件
摂津国他
 兵庫県 638件
0110日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:48:34.29
>>109
【弥生集落遺跡の分布】は無いの?  やはり邪馬台国を論ずるなら弥生集落遺跡でしょ。  @阿波    @阿波
0111日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 18:56:06.87
倭国(阿波)乱とは

旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。

卑弥呼の時代に大軍を率いて西日本一帯を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。   @阿波
0112日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 19:01:11.55
全国、広しと言えども

「倭」と明記された「物証」があるのは、唯一「阿波」だけなんですね。

当然、倭国でない、九州にも畿内にも有りません。  @阿波
0114日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 19:16:01.06
阿波とかいてあったら、ちょうせんと読んであげるのがしんせつ。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 19:21:22.04
>>113-114

それを「負け犬の遠吠え」と言うらしいよ。  @阿波
0116日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 22:30:50.47
阿波(アホ チョウセン チョン)は、下記が見えないらしい。

http://www.pref.saga.lg.jp/kiji0031880/index.html

見たくないものを目にすると急性一時盲目になるらしい。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 22:52:48.72
>>116
で、そのなかでどれが弥生集落遺跡?

弥生集落遺跡って知ってる?  @阿波
0118日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 06:49:27.20
>>117
ちゃんと見なさいよ。
時代も種別も載ってるから。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 06:52:53.58
阿波説も捨てがたいと思う
畿内説よりいい線行っていると思う
0120日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 07:26:56.08
>>118
確かに遺跡の数は多いなかで、集落遺跡も少しだけ散見されるが
で、卑弥呼がいたと思われる「めぼしい遺跡」はどれ? やっぱり吉野ケ里遺跡なの?  @阿波
0121日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 08:07:48.03
肥国邪馬台国説だと
肥前国の佐賀周辺は一大卒の地域で
いる場所は小城ですね。

肥国全体が女王国三十国。
肥前肥後の旧郡で25郡と近い数になっており
そのうちの肥前国が統一過程で小国乱立を
一大卒が睨みを聞かせている状況。

肥後国が邪馬台国本国で
記録が残る奈良時代の資料では
西日本最大の生産量を誇ります。

倭国100余国、九州全体の旧郡は
96郡で近い数字になっております。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 08:14:23.60
肥前国風土記によると
佐賀市大和町にある肥前国庁。
これが建てられる以前は小城に
小城国府があったと書かれています。

小城は北に唐津、南に長崎、
東に佐賀、鳥栖、西に佐世保と
交通の要衝になっており、
肥前国を治める要所にふさわしいものであり、

小城市街地もまた、弥生遺跡の集中する場所ですね。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 08:19:11.18
卑弥呼は肥国女王から倭国全体の女王に共立され、伊都に移動したんだろう。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 08:20:00.70
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 08:23:54.14
>>121
>記録が残る奈良時代の資料では
>西日本最大の生産量を誇ります。

お米の生産量のこと? しかも奈良時代の?  弥生時代は? 弥生時代の水田はほとんどなら壊滅ですよ。  @阿波
0126日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 08:25:05.67
>>125
では、弥生時代の生産量がわかる資料がありますか?
0127日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 08:26:56.35
>>126
ありません。  @阿波
0128日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 08:43:08.71
素直でよろしい。
畿内説よりはマシ。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 08:43:31.30
【稲作の分布】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000

◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920

畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 09:43:37.83
>>129
>九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。

弥生時代の米の収量など無意味。
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。
灌漑水田稲作は壊滅です。 
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。  @阿波
0131日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 09:48:16.72
>>129
延喜式・・・畿内の開発が進んだ900年代でも九州の方が遥かに生産性が高かったんですね
この時代より600年〜700年前の卑弥呼の時代だともっと差が大きかったでしょうね
壱岐とかは3世紀から江戸時代まで変わってないようですね。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 09:50:05.14
>>131
弥生時代の米の収量など無意味。

弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。
灌漑水田稲作は壊滅です。 
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 09:52:38.87
旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
阿波 506,500・・・肥後の3分の1
0134日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 09:53:45.22
>>132
根拠がないねw
0135日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 10:17:15.57
>>134
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。  @阿波
0136日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 12:19:46.26
暖かい時期に稲作が広まったが
寒冷化したので別の穀物で代用したという事か
0137日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 12:28:13.41
>>136
>寒冷化したので別の穀物で代用したという事か

もちろん、寒冷化もあるが、
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水。
灌漑水田稲作は壊滅です。 
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。  @阿波
0138日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 13:37:01.24
>>132
卑弥呼の時代も延喜式の時代も、その洪水の後だから関係ないよね。
0139subo
垢版 |
2018/01/27(土) 13:41:12.11
水田稲作は佐賀の田んぼから広がったの知らんのか?
0140日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 13:49:07.62
確認された遺跡から言えるのは、稲作の伝播は玄界灘沿岸からだよ。
もちろん、将来において有明海側で新しい遺跡が見つかれば常識も変わる可能性がなくはない。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 17:44:51.68
>>138
>卑弥呼の時代も延喜式の時代も、その洪水の後だから関係ないよね。

なにが関係ないの? 3世紀と10世紀だよ?  @阿波
0144日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 17:50:10.17
>>142
九州じゃん
0145日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 17:53:56.44
どのスレだったかな、
アニメの話ではないけど

シンクロ現象と言っている人がいたり、
何かの曲なのかな

・同じ言葉で、同じ拳で(某徳永氏英明氏の曲)

・同じ痛みを (これは、よくわからない。日本の曲ではない?)

とか
0146日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 18:38:25.13
>>142
九州だ 畿内だと喧しいが、「丹山」一つだけで、とっくに決定してしまってるでしょ。  @阿波
0147日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 19:18:20.21
丹が一番使われているのは
北部九州ですね。
0148日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 19:19:53.85
>>147
いや、倭国(阿波)でしょ。  @阿波
0149日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 15:19:50.66
九州説  東夷伝 漢書 後漢書 隋書 記紀 さらには平原遺跡など古い遺跡に支えられる。
畿内説  デカイ古墳 その後の時代の大和朝廷への関連 学会勢力に支えられる。
阿波節  ネタ。

畿内説がどうも学会研究者の、畿内説以外評価しない風潮で支えられてるように見えるのが気持ち悪い。
0150日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 15:24:53.07
北部九州で主に使われた「丹」は鉄丹で、消臭用と身体塗付用である。

「鉄丹」には健康増進作用があるが、「水銀丹」は猛毒である。

「鉛丹」は主に「白丹」として白粉(おしろい)に使われるが毒性がある。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/28(日) 15:36:02.06
丹生都比売は 九州の伊都の国(現在の福岡県糸島郡や前原市)で誕生したという。
これらの伝えをつき合わせると 日本列島における水銀鉱業は九州の博多湾近郊で始まり 中央構造線にそって東進開発し 紀伊で最も盛んになったということになる。
この博多湾周辺と紀伊の丹生都比売神社周辺の地名を拾ってみると 九州には伊都の国と博多の那珂 それに安曇族の根拠地志賀島があるが 
一方 丹生都比売神社は 和歌山県の伊都郡かつらぎ町にあり 同町に志賀があり また 伊都郡の隣に那賀郡があるように 
伊都・那珂・志賀の地名が 丹生都比売の誕生地ともいわれる博多周辺と 丹生都比売神社総本社周辺とに共通して在る。

ttps://ameblo.jp/314416tg/entry-11931526120.html
0153日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 17:01:42.72
なんで和歌山県にも伊都なんていう地名があるんでしょうね〜
0154日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 18:28:28.11
>>153
>なんで和歌山県にも伊都なんていう地名があるんでしょうね〜

それはね、両方とも倭国(阿波)の属国だったからですよ。  @阿波
0155日本@名無史さん
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2018/01/29(月) 21:03:10.22
阿波は1レスいくらもらってるんだ?
0156日本@名無史さん
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2018/01/29(月) 22:34:15.00
【段落1 張政による行程記 伊都迄】(解説)
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國漢時有朝見者
今使譯所通三十國從郡至倭 (郡使の説明では魏と通じる30国が有、使による倭への行程は)

循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里 至對海國 所居絶㠀方可四百餘里 
土地山險多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活乗船南北市糴
又南渡一海千餘里名日瀚海 至一大國方可三百里 
多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食亦南北市糴

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 
濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之
東南陸行五百里 到伊都國 有千餘戸
 
丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐(郡使張政の目的地は伊都でした)
東南至奴国 百里 有二萬餘戸
東行至不彌國 百里 有千餘家

【段落2 梯儁による行程 女王之所都迄 及び旁國紹介】
南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸(梯儁は金印紫綬他を授けに来た)
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
 
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
(以上が郡使の説明による魏の冊封した女王国に属する30国です)
此女王境界所盡 其南有狗奴國 男子為王 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里 (九州島まで一万里、残り二千里が女王国の範囲
後出の 参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里)
(官有略)
0158日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 00:22:02.16
>>157

「卑弥呼も倭の五王も朝鮮半島にいた」は、捏造チョンの妄想。
0159日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 00:27:51.90
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は?
12番 華奴蘇奴国は?
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番 支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。

狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
0160日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 07:14:05.44
>>157
古代、朝鮮半島まで進出できる航海術を持っていたのは、「阿波の忌部一族(海人族)」だけ。  

一方、今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した阿波の「忌部一族」のように、畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。  @阿波
0161日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 13:43:48.18
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

0EOJY
0162日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 18:47:21.91
?
0164日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/01(木) 18:13:52.76
>>159

狗邪韓国 朝鮮半島南岸 巨斉島
対海国 長崎県対馬市 厳原町
一大国 長崎県壱岐市 原の辻遺跡
末廬国 唐津市 中原遺跡
伊都国 佐賀市大和町 惣座遺跡、奴国 佐賀市城内
不彌国 吉野ヶ里町 吉野ヶ里遺跡
投馬国 筑後平野有明海沿岸(大川市 〜 みやま市 〜 大牟田市)
狗奴国 熊本平野(菊池川流域が中心地 矢部川南岸 〜 緑川北岸)
邪馬台国 北野地域 筑後平野内陸
     (うきは市 〜 朝倉市 〜 小郡市 〜 久留米市 〜 八女市)

東鯷人20余国(矢部川南岸 〜 緑川 〜 八代海沿岸 〜 人吉盆地)
0165日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/01(木) 18:58:17.84
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土

北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡

北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地

南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・福寺山遺跡           @阿波

こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。  @阿波
0166日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/01(木) 19:28:29.25
>>164の修正

>>159

狗邪韓国 朝鮮半島南岸 巨斉島
対海国 長崎県対馬市 厳原町
一大国 長崎県壱岐市 原の辻遺跡
末廬国 唐津市 中原遺跡
伊都国 佐賀市大和町 惣座遺跡、奴国 佐賀市城内
不彌国 吉野ヶ里町 吉野ヶ里遺跡
投馬国 筑後平野有明海沿岸(大川市 〜 みやま市 〜 大牟田市)
邪馬台国 北野地域 筑後平野内陸
     (うきは市 〜 朝倉市 〜 小郡市 〜 久留米市 〜 八女市)
狗奴国 熊本平野 菊池川流域が中心地(矢部川南岸 〜 緑川北岸)

東鯷人20余国(矢部川南岸 〜 島原湾沿岸 〜 八代海沿岸 〜 人吉盆地)
   東鯷人は、内海で主にカタクチイワシを漁労するカタクチイワシの様に小柄な漁労民。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/01(木) 19:30:43.27
>>166
こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。  @阿波
0168日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/02(金) 00:00:34.44
>>167

>>166は、「対海国」〜「邪馬台国」と「狗奴国」を「弥生集落遺跡」に根拠をおいて提示している。

裏付け「弥生集落遺跡」「弥生遺跡」が十分でないのは、
對海國と奴国と投馬国の三ヵ国だけ。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/02(金) 06:17:53.15
>>168
>「対海国」〜「邪馬台国」と「狗奴国」を「弥生集落遺跡」に根拠をおいて提示している。


北の「邪馬台国」 と 南の「狗奴国」  根拠をおいた具体的な「弥生集落遺跡」群の遺跡名提示がないのでは?  

そして、「其山有丹」はなんという山?  @阿波
0172日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/02(金) 08:10:43.09
>>166
「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」と「其山有丹」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。  @阿波
0173日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/02(金) 19:01:27.56
>>171
>侏儒国、裸国、黒歯国は?

侏儒国:土佐  高知県高知市 南国市(物部川下流域)

裸国::相模  神奈川県相模湾沿岸 相模川下流域

黒歯国:武蔵  東京都23区神奈川県横浜市 東京湾沿岸 多摩川荒川中川江戸川(利根川)下流域 
0174日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/02(金) 19:24:34.91
>>173
それって、忌部一族の進出地と一致ですね。  @阿波
0175日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/02(金) 20:19:25.73
>>172
>「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」と「其山有丹」を「弥生集落遺跡」で提示できる

邪馬台国:室岡遺跡群・平塚川添遺跡・他2ヶ所

狗奴国:方保田東原遺跡・他2ヶ所

其山有丹:弥生集落無 
 丹原料産出地:現朝倉市付近(筑後川中流古湖水跡)・現菊池市付近(古菊池湖跡)・阿蘇カルデラ(カルデラ湖跡)
0176日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/02(金) 20:51:19.74
>>175
>邪馬台国:室岡遺跡群・平塚川添遺跡・他2ヶ所

たったそれだけ?  それで7万戸は無理でしょ。  @阿波
0177日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/02(金) 20:53:39.78
>>175
>狗奴国:方保田東原遺跡・他2ヶ所

これもえらい少ないですね。  @阿波
0178日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/02(金) 20:57:01.32
>>175
>其山有丹:弥生集落無 
>丹原料産出地:現朝倉市付近(筑後川中流古湖水跡)・現菊池市付近(古菊池湖跡)・阿蘇カルデラ(カルデラ湖跡)

それ、もしかしてベンガラ産地?  「其山有丹」の山は?  @阿波
0179日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/02(金) 21:35:13.69
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。

魏略逸文
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
0180日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 00:54:00.83
>>176
>>177

弥生後期水田が平野に面で広がっているので、小さな集落は平野全体に散在しています。

邪馬台国では大規模な環濠環壕のある大きな集落は数ヶ所にあります。
その集落が前記四ヶ所です。未発見の大規模集落はまだまだあるはずです。

なお、邪馬台国は4ヶ国連合国ですから卑弥呼の居所(城柵)を加えると、
大規模集落は筑後平野北野地域に少なくとも5ヶ所に環濠環壕城柵があります。

吉野ヶ里遺跡は不彌国の大規模環壕環濠集落です。
不彌国は戸制度ではなく千家の家制度ですから女王國の中で特異なポジションにあったのです。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 01:02:09.13
そもそも邪馬台国が九州北部なら、邪馬台国の七万戸は奴国二万戸を含む合計。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 01:20:20.84
>>178
>それ、もしかしてベンガラ産地?  「其山有丹」の山は?

ベンガラの原料である沼鉄鉱(リモナイト・阿蘇黄土)の産地です。

「其山」は具体的にはわかりません。
朝倉市北東方向の山、菊池市東方向の山、阿蘇山のどれでしょう。
最大規模高品質リモナイトは阿蘇カルデラ湖跡になります。
小規模低品位リモナイトは九州北半分のあちらこちらに分布しています。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 06:49:11.24
>>180
>未発見の大規模集落はまだまだあるはずです。
>邪馬台国:室岡遺跡群・平塚川添遺跡・他2ヶ所

たったそれだけ?  それで7万戸は無理でしょ。  @阿波

※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)・・・「未発見の大規模集落はまだまだあるはずです。」

【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
0184日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 06:57:31.53
>>182
>「其山」は具体的にはわかりません。

徳島県阿南市水井町若杉山遺跡・丹波坑口・長生町奥ノ谷遺跡
出土遺物
@石器(石臼・石杵)
A土器
 甕・広口壺・二重口縁壺、小型丸底鉢、鉢、高杯、器台=生活用具のほとんどがそろっている
 小型丸底坩(弥生X様式後半〜布留式まで)庄内式並行期がほとんど
 土器胎土(結晶片岩・石英・雲母)
B玉類
 蛇紋岩製勾玉
C鉄製品
 刀子・不明鉄製品(やりかんな?)
D自然遺物
 貝片・獣魚骨・人骨片

想定される生産形態
・土器以外の生活用具が少ないが、生活用具のほとんどが揃っている
・籾痕の付いた土器や鹿・猪・貝類=一定期間生活
・岩盤直上に営まれる→近くの集落の人間が農閑期に行う特産的生産レベルのものではなく、
 分業化された専門工人集団の生産
・ハマグリ・オキアサリの成長線分析→採取時期は夏期後半から秋期後半

 若杉山遺跡の採掘作業は、夏季後半から秋季後半に行われていた可能性
              (徳島県立博物館1997・岡山1998)

朱の近畿や吉備への移出
 集落の水銀朱精製遺跡、水銀朱を多用する墳墓、古墳の時期および集落の同一遺構における石臼、石杵、朱容器のセットでの出土確認により、
 若杉山遺跡(阿南市)で辰砂採掘→鮎喰川下流域(徳島市)で叩き潰し・すり潰し→黒谷川郡頭遺跡(板野町)で叩き潰し・すり潰し→近畿や吉備  @阿波
0186日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 10:04:34.44
水銀朱は水銀の化合物(硫化第二水銀)でできた顔料で、赤色顔料としては
ベンガラに次いで歴史が古い。

ベンガラは暗い赤色であることに対し、水銀朱は鮮やかな赤色が得られる。
そのため水銀朱は稀少で高価であるにもかかわらず重宝されたが、「水銀」という
法規制の多い重金属の化合物であることから、現在では文化財の修復用途を目的に
わずかに生産が続けられているにとどまる。

普段使いの漆器(赤く塗った茶碗など)に使用されているケースも一部にはある。
でも水銀朱といっても、「水俣病」を引き起こしたメチル水銀とは別の種類であり、
硫化水銀はメチル水銀と違って、体に入っても吸収されることはないし、
もし吸収されたとしても害を与えることはない。それは科学実験でも証明されている。
また、縄文以来、朱の漆器を使うことで健康被害が起こってこなかった歴史からも
言えるので、赤い漆器を使っても何ら問題がない。

水銀朱は純粋に「顔料」としては、発色や分散性、混練した朱漆を塗った時の塗膜の
平滑性なども良い。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 10:16:50.81
>>187
しかし九州の王墓に使われるのは中国産の朱でしょ。
いかに九州北部が魏など中国と結びついていたかがわかる。
0190日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 10:53:47.59
>>189
外国からの輸入品というものは、基本的に高価なんだよ。
王墓に使うならありえるが。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 10:59:41.46
巨大な古墳を作れることは、古代から多くの人が住んでいた証拠だから、

祇園山古墳(久留米市)や岩戸山古墳(八女市)のある一帯

が、九州説における邪馬台国の有力地だろうね。吉野ヶ里も筑紫平野だし。
筑紫平野が妥当な候補地。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 12:13:04.51
筑前・豊前・豊後は大陸から倭国(阿波)への往路で発展し、

肥前・筑後は倭国(阿波)から大陸への復路で発展したんだろう。  @阿波
0193日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 12:46:02.40
筑紫平野に反対するわけではないが、岩戸山は新しすぎだろ。
それでは畿内説のアホと同じになってしまう。
むしろ平原遺跡とかの方が年代は近い。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 13:21:44.74
岩戸山は5世紀だね。
0195日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 13:31:44.11
>>193
岩戸山古墳の埋葬者は「磐井」だとすでに判明している。
要点は、巨大な古墳を作れる=多くの人が住んでいた
という点にある。
多くの人が住んでいる、ということは大きな権力を生み出すからな。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 13:43:58.42
>>196
ほら、こういう馬鹿が現れる。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 13:47:03.61
5世紀は巨大古墳ブームのときだね。
大仙山古墳とかもこのくらいの時代だろ。

それ以外の時代は大体20m四方から40m四方の範囲に収まるもんだ。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 13:56:12.89
女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、
其の他の傍国は遠くへだ)たっていて、詳に得ることができない。

斯馬国(しま国=志摩=糸島半島)
己百支国●、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、
姐奴国、對蘇国●、蘇奴国、 呼邑国●、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、
鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、
奴国。
此れが女王の境界が尽きる所である。其の南には狗奴国がある。

戸数・道里を略載することができた伊都国などは女王国の以北であるが、
女王国の南には狗奴国がある。
つまり、己百支国から烏奴国までのじつに19国は、
ほとんどが筑紫平野という狭い地域に集中してある、と考えられることだ。
表音表記であるから、佐賀県人なら聞き覚えのある地名もあるだろうね。

呼邑国●(小城市=おぎ)
對蘇国●(鳥栖市=とす)
己百支国●(ぃわき=福岡県 杷木町 はき)
この3つはとりあえずネットで拾えた。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 14:07:04.45
ネットでさらに拾ってみた↓
http://itest.5ch.net/daily/test/read.cgi/newsplus/1474920315/
魏志に邪馬台国傘下の国々として書かれている21国とかを比定すれば、
おのずと邪馬台国の場所も 大体分かる。分かる人は穴を埋めていって欲しい
斯馬国(しまこく)           =旧志摩(しま)郡【福岡県】
已百支国(いわきこく)       =
伊邪国(いやこく)           =
都支国(ときこく)           =
弥奴国(みなこく)          =旧三根(みね)郡【佐賀県】
好古都国(をかだこく)       =
不呼国(ふここく)          =小郡市津古(つこ)【福岡県】
姐奴国(さなこく)          =
対蘇国(とすこく)          =鳥栖(とす)市【佐賀県】
蘇奴国(さがなこく)         =佐賀(さが)市【佐賀県】
呼邑国(おぎこく)          =小城(おぎ)市【佐賀県】
華奴蘇奴国(かなさきなこく)   =神埼(かんざき)市【佐賀県】
鬼国(きこく)             =旧基肄(きい)郡【佐賀県】
為吾国(いごこく)          = 
鬼奴国(きなこく)          =
邪馬国(やまこく)          =旧八女(やめ)郡【福岡県】
躬臣国(くじこく)           =
巴利国(はりこく)          =筑紫野市針摺、旧地名針磨(はりま)【福岡県】
支惟国(きくこく)           =菊池(きくち)市【熊本県】 or 旧企救(きく)郡【大分県】
烏奴国(あなこく)          =
奴国(なこく)             =旧那珂(なか)郡【福岡県】
0203日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 14:19:32.00
支惟国(肥前国 基肄(きい)郡、基肄城きいじょう 古代の山城)
0204日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 14:27:47.92
躬臣国 くす または きゅうしん。
豊後国玖珠(くす)郡または久津媛(大分県日田市)


>>202 降雪が残っていて外出しづらい。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 14:31:01.93
邪馬国(やばこく)=耶馬渓(ヤバケイ)のあたり。

魏志倭人伝では「次有○○国」「次有○○国」と、次々に順番に述べているから
隣接しているとも考えられる。よって、主に筑紫平野の中で順番に探すことになる。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 14:38:56.18
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は?
12番 華奴蘇奴国は?
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番 支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。

狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
0207日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 14:42:55.42
狗奴国の菊池彦が菊池城にいたなら、九州の三代古城の菊池城、大野城、基肄城が揃っていたことになる。
邪馬台国側に大野城と基肄城があるから、筑後平野が狗奴国との古戦場。
弥生時代の戦争遺跡があったはず。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 15:06:00.73
>>206 根拠を言わないとね。証拠不十分だよ。

>>207 大野城と基肄城(きいじょう)はセットか。
ググると
http://www.tokyocactus.org/mino/asuka/02onojoato05.jpg
https://public.muragon.com/qzkugr6d/5ksnt64q.jpg
支惟国=基肄(きい)とすると、隣の巴利国は、筑紫野市針摺で間違いなさそうだな。
大野は、訛ったとしてもせいぜいオーノだな。傍国に該当なさそう。
鞠智城(菊池城=きくち城)はだいぶ南だな。
山鹿と近くだ
0209日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 15:12:42.73
>>206
>20番 烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)

鳥(トリ)じゃなくて、「う」。カラスのような黒い鳥。
烏奴國と書いて、うーの国。大野と似ているわな。
次は奴国に戻るから、円周状に順番に述べていったと考えられるから
奴国に隣接して、烏奴國は大野城のある地域、と考えることは充分根拠がある。

>19番 支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
>20番 烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
>21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

この3国は順番どうりにできる。博多から太宰府のあたりになる。
すなわち、
>18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
これは間違っている。急に離れ過ぎている。
筑紫野市針摺だな。
0210日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 15:19:21.19
基肄城と大野城がむしろ順番から外れて特別扱いで末尾に並んでいるような気がする。
>18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
は字も似ているし、かなり確実かと思っていたが、意見としては針摺も参考にしたい。
ありがとう。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 15:29:28.23
斯馬国から始まって、奴国に戻る。
筑紫平野かその周辺で円周状に順番に述べていったと思われる。
斯馬国=旧志摩(しま)郡【福岡県】
已百支国=          ※下方に支惟国や烏奴国などの太宰府方面を
伊邪国=            述べているから、已百支国は伊都国南方の山地
都支国=            もしくは末浦国の西方から順番に述べたかも。
弥奴国=旧三根(みね)郡【佐賀県】?
好古都国=
不呼国=小郡市津古(つこ)【福岡県】?
姐奴国=
対蘇国=鳥栖(とす)市【佐賀県】 ※筑紫平野の中央部
蘇奴国=佐賀(さが)市【佐賀県】 ※筑紫平野の中央部
呼邑国=小城(おぎ)市【佐賀県】 ※筑紫平野の中央部
華奴蘇奴国=神埼(かんざき)市【佐賀県】?
鬼国=
為吾国= 
鬼奴国=
邪馬国=旧八女(やめ)郡【福岡県】?
躬臣国=
巴利国=筑紫野市針摺、旧地名針磨(はりま)【福岡県】 ※太宰府の回廊
支惟国(きい)=基肄城趾(きい 佐賀県三養基郡基山町)※太宰府の回廊
烏奴国(うーの)=大野城趾あたり           ※太宰府の回廊
奴国=そのまま
0213日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 15:53:12.75
奴国がスタートなら、志摩は反時計回りでは?
0214日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 15:59:12.00
反時計周り説 という考えに準拠している。傍国については
発音にそのまま漢字を当てたことしか情報がないからな。

しかし、次有○国という順番で書いているから隣接している、と考えることは合理的だ。
傍国が確定できれば、邪馬台国の位置もおのずからわかるというものだ。
https://stat.ameba.jp/user_images/20180107/10/makoto-kodama/36/a8/p/o1898189614106964086.png
○数字の(20)(19)(18)などはかなり確定できる。
(3)の伊邪国は、広志で見かけたな。
次斯馬國次巴百支國次伊那國安倭西南海行一日有伊那分國無布帛以草為衣盖伊耶國也
シマ国の次は、西の国を言ったようだ。「西南海行一日有伊那分國」とある
伊邪国と伊那(分)國が同じとすると、西南海行一日というのは有明海を渡った先だ。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1605206/12/51243812/img_0
伊邪国はとりあえず長崎県諫早市と仮定しておく。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 16:08:36.05
>>214
随分と東まで取るんだな。
ちょっと意外かも。
でもまあ、狗奴国や葦原中つ国との国境とかはいい線いっているかもね。
自分でも作ってみるかな。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 16:11:01.26
無布帛以草為衣盖伊耶國也か。
草と革の誤字の箇所のところだ。伊耶國也 とあるからこれは魏志倭人伝の伊邪国だな。
西南海行一日とあるから、屋久島ではなくて、島原半島(もしくは天草)のことを
指していたのだ。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 16:13:48.80
>>215の取り組みなんだか凄いぞ。
ひょっとしたら、>>215の作ったのが
畿内説を滅ぼすかもしれない。邪馬台国確定か?
出て来るのは九州の地名ばかりになるからな。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 16:24:53.93
周防が出雲に含まれてる所は評価できる
0219日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 16:40:56.17
斯馬国
己百支国 伊邪国 都支国 彌奴国 好古都国 不呼国 姐奴国 
對蘇国 蘇奴国 呼邑国 
華奴蘇奴国 鬼国 爲吾国 鬼奴国 邪馬国 躬臣国 
巴利国 支惟国 烏奴国 
奴国
少しまとめてみる。魏志倭人伝に載っている遠い傍国の約20カ国について。
斯馬国から始まって奴国で終わる。
4行目は筑紫野市針磨(はりま)、基肄城趾(きい)、大野城趾(烏奴=うーの)
と想定できる。
3行目は、鳥栖(とす)市とサガ市と、小城(おぎ)市。
2行目の伊邪国は、翰苑(かんえん)の廣志に載っている伊耶國で
有明海を渡った先だ。
次斯馬國 次巴百支國 次伊那國 安倭西南海行一日有伊那分國 無布帛以草為衣盖伊耶國也
(訳 次ぎは斯馬国、次は已百支国、次は伊邪国。案ずるに、倭西南海行一日に伊邪久国あり、布帛なし。革をもって衣となす。けだし伊耶国なり)
已百支国は、長崎方面だな。傍国20カ国は半時計周りだ。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 17:14:26.10
畿内説の死亡は近いぞ。畿内のことは魏志倭人伝には
まったく載っていませんでした。畿内も 纒向遺跡も卑弥呼とは全く関係なかった
ということが判明してしまうからな。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 19:16:12.11
彌奴国 投馬の彌彌と同じで、「ミ」である。ミノ国とも読めるが、
新井白石の意見として三根郡(みねぐん)の説がある。
あいにくい大化の改新のあとに、三根郡が作られており、その前は神崎郡だった。
神崎の元の名前は和名抄によると「加無佐岐」。
これは華奴蘇奴国(かなさきのくに)だろうとのこと。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 19:20:27.35
彌奴国(ミノ国)は、福岡の御井郡(みいぐん)、もとの表記は
延喜式 神名帳にある三井郡(みいぐん)らしい。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 19:21:29.84
九州で大化の改新後とか、70x年に創建とかあったら、だいたい嘘だよ。
そこまでしか辿れないという程度。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 19:27:49.83
>>224
王都の池だから三井よりも御井がオリジナルだろうなあ。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 19:29:04.89
>>224
あと、ミヌとミイはそもそも違うじゃないか。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 19:29:09.85
大宰府の観世音寺がそんな感じだね。
完成は8世紀中期だけど初願は7世紀中期で、
その頃から度々法要などが行われていて
活動は7世紀中期から行われていることがわかる。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 19:40:59.32
>>219
>有明海を渡った先だ。
>次斯馬國 次巴百支國 次伊那國 安倭西南海行一日有伊那分國 無布帛以草為衣盖伊耶國也

現代の地名ではどこ?
0230日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 19:42:32.05
>>223
>これは華奴蘇奴国(かなさきのくに)だろうとのこと。

カナソナとカナサキはなんか違うなあ。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 19:44:58.91
>>223
神崎郡からは嶺と曽根がすでにエントリーしているし。
その間の好古都国と不呼国が神崎郡のどこかならまだわかるんだが。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 19:55:03.32
>>227 ○奴国は、○の人が住む国
という意味があるよ。国家の形が不十分で
国境がはっきりしていないときによく使われる。
倭奴国もその一例。卑字というわけでもない。
奴は「の」と解釈してもいい。
日本語は○○のみこと など、「の」がよく名詞に
使われるので、中国の官僚もそれはわかっていて
表音文字であてはめるとは限らない箇所。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 20:11:29.60
>>231 吉野ヶ里遺跡という巨大な遺跡でさえも
1000人ぐらいしか居住してなかったみたいだよ。
邪馬台国は7万人だから、神崎郡からは3つも
4つも国があったと考えるべきだろう。

佐賀県について土地感がなくて、どれが西で東だか
よくわからぬ。平野部だとなおさら。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 20:14:09.03
地図に印をつけて、印と印の間で、表音にあった古地名を探せば
場所が確定できると思う。

斯馬国=糸島半島
已百支国=斯馬国と伊邪国の中間?
伊邪国=筑後川河口付近?。廣志に伊那国とあり、伊那国の西南海行一日で諫早付近。
都支国=?
彌奴国=福岡の御井郡(みいぐん)
好古都国=?
不呼国=?
姐奴国=?
対蘇国=鳥栖(とす)市
蘇奴国=佐賀市? 対蘇国と呼邑国の中間。
呼邑国=小城(おぎ)市
華奴蘇奴国=かなさきの国 神埼市 古地名は加無佐岐(かむさき)
鬼国= ?
為吾国=?
鬼奴国=?
邪馬国=旧八女(やめ)郡?
躬臣国=?
巴利国=筑紫野市針摺、旧地名針磨(はりま)
支惟国(きい)=基肄城趾(きいじょうし 佐賀県 三養基郡 基山町)
烏奴国(うーの)=大野城趾
奴国=そのまま
0237日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 20:38:53.33
吉野ヶ里は環濠集落内で500戸
支配地域全体で5000戸程度の小国。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 20:44:05.04
次「伊邪國」=伊佐早だろ

伊那国とかショボい書き換えするのやめてくれよマジで
0239日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 20:44:42.96
>>237 一戸あたり平均4人いたとして、
500戸として2000人。そんなものだろうね。
やや高台にあって田んぼから遠いので、あまり多くの人口は
無理だわ。とはいえ吉野ヶ里は戦前から大きな遺跡だということが
わかっていたそうだから、周辺国に比べれば大きな方だろうよ。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 20:49:04.75
吉野ヶ里は全域だと5000戸だろ
それでも圧倒的強者の北部九州にしては珍しく環濠集落

博多福岡市では攻められる心配なんてないから環濠なんて無くって
面状にびっしりと住居や工房が出土してるけどね
0241日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 20:49:40.81
>>238 あのな・・・
次斯馬國次巴百支國次伊那國安倭西南海行一日有伊那分國無布帛以草為衣盖伊耶國也
という古文献があるんだよ
最初に斯馬國、次に巴百支國、次に「伊那國」だよ。

おまえの知能はわかったよ。人を馬鹿にして
おのれの馬鹿さを披露するという低能だな。
0242日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 20:55:48.40
『翰苑』蕃夷部倭国条 が引く『広志』倭国条記事

広志曰倭国東南陸行五百里到伊都国
又南至耶馬嘉国
女国以北其戸數道里可得略載
次斯馬國 次巴百支國 次伊那國
安倭西南海行一日有伊那分國
無布帛以草為衣盖伊耶國也

広志に曰く、倭国は東南して陸行すること五百里にして伊都国に到る。
又、南して邪馬嘉国に至る。
女国より以北、其の戸数道里、略載するを得べし。
次は斯馬国、次は巳百支国、次は伊那(邪)国。
安ずるに倭の西南海行すること一日にして伊那(邪)分国有り。
布綿無く、革(草)を以って衣と為す。蓋し伊耶(那)(邪)国也。

諫早は、海を一日渡った先だから、伊那分國が該当する。伊那(邪)国の分国だな。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 21:00:22.73
地名の字や大字は江戸時代の村の地域の名残。
一つの村で200戸から500戸程度。

ここから周囲の田畑に「通勤」するわけだから
村をあまり大きくできない。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 21:11:05.21
>>240
なるほど、全域だと5000戸だとすると
一戸平均4人として2万人はいただろう。
奴国と互角だ。筑紫平野は博多の平地よりもずっと広いから
吉野ヶ里以外にも集落はあるだろうから
奴国2万戸を上回るわな。
邪馬台国が戦争をしていたのは、南のクナ国。
女王国以北とは戦争をしていないから(睨みは効かせていたが。)
博多福岡市は戦争も少なく、交易でも栄えて、良い場所だったのだろう。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 22:14:02.10
奴国と互角じゃないっしょ

吉野ヶ里は環濠集落で、その外部の影響圏もすべて合わせて5000戸

奴国は環濠なんて不要の
東夷世界で最大ダントツの繁栄した地域で
びっしりと住居と工房が存在していて
全部あわせたら2万戸以上

奴国春日に王がいた時もあるようだが
奴国の喧騒を嫌って、伊都に遷都した時期もあったようだ

どちらにせよ奴国か伊都は環濠のいらない強者の立場であって
吉野ヶ里は周辺の衛星都市(それでも弥生では最先端だけどねー
0246日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 22:18:53.95
>>242
>安ずるに倭の西南海行すること一日にして伊那(邪)分国有り。

倭国(博多湾)から西南に海行一日で伊那分国
近くて唐津、遠くて平戸や佐世保あたり。

諫早に付くためには倭が八女でないといけない。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 22:26:36.70
八女だと海に出るだけで数日かかるだろ
なんでそんなのを持ち出すのさ

どちらにせよ
伊万里も諫早(伊佐早)も伊都が首都だった時代の
卑弥呼邪馬台国の影響を反映しているわけだから、
周旋の前半では確定部分だと思うよ

あと斯馬が糸島の島=志摩郡であるのも、まあ確定だろうね
0248日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 22:33:23.67
お遊びはそれぐらいにしておけ
0249日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 22:41:57.46
>>247
諫早が伊都から遠すぎるんだよ。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/03(土) 22:44:48.70
平戸島は島
大村湾の西は外海に開けていた

1日で陸路海路の集束する伊佐早へ着けますです

で、対案は?
0251日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 07:23:14.12
伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。

大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
※大陸への復路  出航地(平戸周辺)

伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。 
だからそこに一大率が置かれたんですよ。  

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0252日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 07:48:36.55
共産革命の“役に立つ白痴”津田左右吉の大害毒
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/02/153406

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

「神武天皇から開化天皇までの記紀は嘘八百の歴史創作である」との津田史学を錦の御旗にする井上光貞/直木孝次郎らの共産党系学者のプロパガンダ言説は、
「邪馬台国・九州説」と手に手に取り合って、荒唐無稽な歴史偽造を画策している。
いうまでもなく、大和朝廷は、紀元後250年の三世紀半ばまで、畿内の大和盆地には存在していなかったという、
これこそトンデモ“嘘八百の歴史創作”をするためである。

魏志倭人伝にある「邪馬台国」という漢字表記は、紀元後230年代、
「奈良県/大阪府/兵庫県/岡山県/香川県/愛媛県」等をすでに武力統合した大和朝廷が、まだ「日本国」と言う国号はできていないが、
自国名を我流の“宛て漢字”で作った初の“日本製の漢字表記国名”である(注2)。
楽浪郡の支那が、「奴 な」国からの遣使に「国名は?」と問うて、「わがくに」と答えたこの「わ」を表音漢字として「倭」を宛てたが、
それから二百年、日本はついに国名表記変更を願い出た。
が、魏はこれを一蹴し、「親魏倭王」として「倭」を変えなかった。こんなトリヴィアなことは、どうでもいい。
問題は、「邪馬台国・九州説」が、紀元後すぐの頃にはすでに畿内大和に歴史事実として君臨した神武天皇と、その後の八代の天皇を実在しないとする詭弁やトリックになっている問題。

 「邪馬台国・九州説」の根拠に真っ当なものは一つもない。例えば、人口わずか六千人規模の吉野ケ里遺跡(佐賀県)をもって、
人口35万人以上の「邪馬台国」だと騒ぐのは、「六千人」と「35万人以上」の区別がつかない幼児と変わらない。
『魏志倭人伝』には「邪馬台国は7万余戸」とある。鬼頭宏は、「一戸は10名で換算せよ」とするから(注3)、この場合は邪馬台国の人口は「70万人以上」となる。
多くの研究論文では「一戸5人」で計算しているので、これに従えば「7万戸以上×5人=35万人以上」となる。
人口「35万人以上」を擁する「くに 国」は、九州のどこにも煙すらない。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 08:51:19.86
>>252
>人口「35万人以上」を擁する「くに 国」は、九州のどこにも煙すらない。

九州で無理なら、畿内には絶望的なまでに無理。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 09:17:22.22
>>253
>人口「35万人以上」を擁する「くに 国」は、九州のどこにも煙すらない。
>九州で無理なら、畿内には絶望的なまでに無理。

人口「35万人以上」を擁する「くに 国」は、恐らくどこにもないだろう。

人口「35万人以上」の真偽はさて置き、倭人伝時代に於ける最大人口国は弥生集落遺跡数からも倭国(阿波)。  @阿波
0258日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 11:27:26.20
>>4
邪馬台国=ヤマト王権なのかどうかって話と、どこにあったかは
それぞれ語られるべきだけど、
畿内説のヒトって問答無用で邪馬台国=ヤマト王権なんだよね
0259日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 11:39:48.37
>>4
>発言者の多くは自分の史観を明確にしないので発言がわかりにくくなる

倭国(阿波)説は従来より明確にしてきている。

B阿波にあった邪馬台国がちょっと東遷して8世紀に藤原朝(大和朝廷)になった  @阿波
0260日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 11:53:56.68
>>258
>畿内説のヒトって問答無用で邪馬台国=ヤマト王権なんだよね

当たり前だろ
邪馬台国畿内説っていうのは
邪馬台国とは当時ヤマトにあった王権なんだって説なんだから

そのくらい分からないのか?
頭が異常に悪いのか?
0261日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 11:58:12.97
邪馬台国が例え畿内にあったとしても、ヤマト王権とはイコールと限らない
0262日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 11:58:21.92
邪馬台国=ヤマト王権なのかどうかって話と、どこにあったかは
それぞれ語られるべきだ
という考えの方が非論理的で
おかしいだろう
0263日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 11:59:25.62
>>261
どうして?
その主張は支離滅裂じゃないか
0264日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 12:01:55.69
>>261
どういう場合に、イコールでないケースがあり得るの?
0265日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 12:12:56.16
「ヤマト王権」って、どうして「ヤマト」と中途半端にカタカナ表記するの?
「ヤマト」=「大和」じゃないからでしょ?
「ヤマト」=「倭」なんでしょ? 本当は。
「倭」=「倭大國魂神社」が鎮座する「阿波」しかありません。  @阿波
0266日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 12:14:47.78
>>262
ヤマト王権はどこにあったか
これは定義で決まってる事なのだから
どこにあったかをべつに語るのはナンセンスだな
0267日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 12:18:34.35
>>257
平安時代の辞書『和名類聚抄』の掲載だからな。
もっとも古い地名だといっていい。
0269日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 12:37:49.99
>>261
ヤマト王権って、いつからあったの?
0270日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 13:54:28.61
どっかで見たが好古都国を
好=ニーハオのハオなのでハ、
古=コ
都=ト
でハコト≒ハカタで博多って説が
ミョーにしっくり来たw
他は忘れた。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 14:55:30.37
九州王朝 出雲王朝 大和王朝

これ3つに分けて考えないとだめよ

出雲王朝が何者かに乗っ取られて畿内に移ったのが大和王朝
この何者かというのが継体一派とみられる
0272日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 15:30:06.97
>>271
時代とかデタラメだな。
出雲を倒して筑紫が台頭、畿内は出雲や筑紫からの落伍者の吹き溜まり。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 15:35:16.56
>出雲を倒して筑紫が台頭

単なる妄想 まったく根拠無し
0275日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 15:35:45.14
便宜的にそう呼んでいるんだよ。
それぞれに王がいて、筑紫の王だけが倭王として列島を代表して中国と交渉していた。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 21:13:39.72
>>276
根拠はある
日本書紀の筑紫都督
0281日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 22:29:54.87
中国皇帝から見て、倭王は地方行政を担う司令官なんだよ。
長らく倭王は冊封を受けていたということを忘れてはいけない。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 22:40:43.79
>>279
都督ってなにかわかってんのか?w
0283日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 22:41:57.23
>>280
そりゃあ日本書紀が編纂されたのが8世紀なんだかそれより前の話だろ
0285日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 22:43:24.87
予備知識もないやつが混じってるのか
邪魔だから出てけ
0286日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 22:48:02.45
倭の五王はずっと都督の位を要求していた。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 22:51:28.38
卑弥呼が倭王であった時代、対馬海峡を支配していたのは一大率。
大率は位の一つで、刺史に似ている。
刺史は後世の都督と同じ。
そしてその後の倭王も都督の位を要求していた。
7世紀には筑紫都督が存在していた。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 22:53:51.05
大都督ってレッドクリフの中で周瑜の役職名だったよな。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 23:00:08.31
>>287
一大率は倭王が対馬海峡を管理して貿易を独占するために置いたもの
倭王は後に、都督に任じられて太宰府に都督府としている。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 23:51:15.52
中国の柵封体制から見た
倭国支店長かなあ?
0292日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 23:52:53.63
そうすると、卑弥呼を含めた歴代倭王は博多湾周辺勢力であることが確実となる。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 01:11:22.23
一大国の率って事じゃないの?
0295日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 01:39:40.14
邪馬台国・卑弥呼は
正史三国志のヒーロー司馬仲達の創造物
つまり司馬仲達の頭の中にしか存在しないんだよ

中国人は後漢の時代に南北緯度のほぼ正確な計測の手法を発見している
経度は非常に難しいから計測ができるようになるのはずいぶん先の話
実際に現地へ行けばこの計測が可能となりその地図の精度は大幅に向上した

ところが三国志魏志倭人伝の邪馬台国の位置は福建の真東
司馬仲達の同時代あるいは正史が書かれた次王朝の晋の時代までに
中国人が実際に「邪馬台国」へ行っているとしたら
このような記述はあり得ない
0296日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 02:47:25.42
>>288
じゃあ本店はどこだよ?
0297日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 04:02:16.06
>>296
大和
0298日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 04:11:43.06
>>297
まじで都督の意味わからないんだな
数レス前のレス読んでみろ

答えが書いてあるから
0299日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 04:14:21.44
もっとはっきり言えば都督という文字は確か日本書紀では一回しか出てこない
これは編纂者のミス
つまり歴史改ざんし損ねてる
0300日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 04:33:02.80
邪馬台国論争はほぼ終了。
卑弥呼に直結する唯一の物証、中平銘鉄刀(国宝)が天理の和邇氏の東大寺山古墳から出た。

2世紀前半の其国の男王からヒミコ・トヨまでの王権と和邇氏は繋がるか。
繋がるのだ。
なぜなら和邇氏はトヨの末裔だからだ。

                トヨ津
                 ┃
                孝昭天皇
                 ┃
              天足彦国押人命
                 ┃
              和邇日子押人命
                 ┣━━━━━━━┓
               彦国姥津命    姥津媛(開化天皇妃)
   ┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
 伊富都久命          彦国葺命   小篠命 =@  乙国葺命
  ┏━━━━━━┳━━━━━━━┫   【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
 彦忍人命   建耶須禰命    大口納命        【飯高氏祖】
(武社国造)    ┃       ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
       八千宿禰命  難波根子武振熊命   彦汝命     真侶古命
      (吉備穴国造)  【和邇氏祖】  【葦占氏祖】  (額田国造)
0301日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 04:42:17.44
ヒミコからトヨそして和邇氏の系図はこうだ。

イワレヒコ(神武)なる男は単なる女王の婿であったことが分かる。
だから複数の妃を持っていなかったのだ。

    事代主
     ┣━━━━━━━┓    
   クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
     ┣━━━━━━┓
     建飯勝  ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
     ┃            ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没) 
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津
     ┃            ┃
   大御気主          孝昭
     ┃            ┃
    阿田賀田須      天足彦国押人命
                  ┃
                和邇日子押人命
0302日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 23:48:27.70
>>295
>中国人は後漢の時代に南北緯度のほぼ正確な計測の手法を発見している

「周髀算徑」によるとBC1120年頃に黄道北極点を使って正確な緯度を測定している。

上記以前の商代には、夏至の棒(周髀)影の長さを測って緯度相当の値を得ている。
0303日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/06(火) 00:07:40.99
畿内説、九州説どっちのヒトも、自分に都合の良い証拠だけを正しい史料とし、
都合の悪い証拠は誤った史料と決め付ける

>>300
なんで中平銘鉄刀が唯一の物証なのか?
唯一の物証だとしても、移動可能なものをなぜ邪馬台国のあった証明になるというのか?
天叢雲剣だって伊勢に行ったり、東征に使われたり、尾張に預けられたりしてるやろ
0304日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/06(火) 22:10:12.07
>.286
それが征夷大将軍であっても
皇帝が南朝であれば、都督だろうが、ただの紙屑。
これは、北朝を圧迫し朝鮮半島利権を維持しようとした単なる軍事同盟。
500年に終わりを見た倭の武王の使はまあセンスが有ったと思うよ。

万葉集とかに有ればよかったのにね。
聖徳太子の蔵書が見た〜い。
宮内庁さん、よろwww
0305日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/06(火) 23:10:10.84
>>300
感動です。

卑弥呼に直結する唯一の物証、中平銘鉄刀(国宝)が
天理の和邇氏の東大寺山古墳から出た。

それって、大和朝廷が300年位までに邪馬台国を滅ぼした証拠ですよ!
0306日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/06(火) 23:11:43.03
鉄器ゼロ
0308日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 00:32:08.19
はっきり言っておく
天皇の歴史はほぼ嘘
明治時代に仕組まれた罠
0309日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 05:09:22.01
>>305
古墳がずっと時代を下るから
あとから中平って彫っただけだろ
0310日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 06:01:24.04
まあなんだ記紀を読んでみれば大和の政権にとって九州っつたら
征伐の対象だったり反乱起こされたりと相当後まで厄介なとこだった訳で
2,3世紀の石器と木鏃の時代じゃ九州を支配下にするのは無理
旧唐書の通り当時は小国だったって事だ
0311日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 06:12:03.00
まだ、その話をしているの?
それにしても、どうなっているんだろう

『戦国時代 皇族』
0312日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 07:23:29.16
>>310
天皇家は大和の前は筑紫にいたと書いてある。
0313日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 07:45:30.86
>>312

筑紫は古代から続く天皇家祭祀(践祚大嘗祭等)において蚊帳の外。 推して知るべし。  @阿波
0314日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 08:01:27.78
ヒミコもトヨもいる2世紀末から4世紀の系図

ヒミコもトヨも住んだのは葛城。
卑弥呼直結の唯一の遺物、天理市東大寺山古墳出土の中平銘鉄刀は和邇氏が受け継いでいた。

    事代主
     ┣━━━━━━━┓    
   クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
     ┣━━━━━━┓
     建飯勝  ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
     ┃            ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没) 
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津
     ┃            ┃
   大御気主          孝昭
     ┃            ┃
    阿田賀田須      天足彦国押人命
                  ┃
                和邇日子押人命
                 ┣━━━━━━━┓           
               彦国姥津命    姥津媛(開化天皇妃)
   ┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
 伊富都久命          彦国葺命   小篠命    乙国葺命
  ┏━━━━━━┳━━━━━━━┫   【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
 彦忍人命   建耶須禰命    大口納命        【飯高氏祖】
(武社国造)    ┃       ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
       八千宿禰命  難波根子武振熊命   彦汝命     真侶古命
      (吉備穴国造)  【和邇氏祖】  【葦占氏祖】  (額田国造)
0315日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 10:26:22.41
和邇氏は2〜3世紀初頭に畿内に鉄鋼技術をもたらした渡来豪族なわけで
卑弥呼の五尺等の独自性を真正面から比定できる材料だろ?
当然、家伝の宝刀は持ち込みでOK
0316日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 12:41:51.13
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。

その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。

この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 15:51:40.00
鴨王の祖先が出雲や九州から開拓に来たということを隠している詐欺師がいるからね。
読む人は読むよ。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 16:28:47.57
>>318
>鴨王の祖先が出雲や九州から開拓に来た

そんなところから来る訳ないでしょ。 阿波國三加茂町加茂山の「丹田古墳」は鴨王「阿遅志貴高日子根神」の神陵。


御所市高天の高鴨神は、阿波国加茂の「鴨神社」からの勧請である。 
「阿遅志貴高日子根神」は、大国主命と、須佐之男命の娘・多紀理毘売命との間に生まれた長男。 「迦毛大御神」とまで呼ばれた実力者である。
阿波国三加茂町加茂山の高い尾根上に占地する「丹田古墳」は「阿遅志貴高日子根神」の神陵。
その麓に鎮座する式内社「鴨神社」はその拝所。


「延喜式式内社 阿波國美馬郡 十二座 鴨神社」
鎮座地 徳島県三好郡東みよし(旧三加茂)町加茂字山ノ上3650  
御祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)・市杵島姫命・品陀和気命・天照皇大神
「阿波志」に「鴨祠延喜式小祀と為す。加茂村に在り旧事記にいわゆる事代主の神孫、鴨王是也」とある。

「郷社 下加茂神社」
鎮座地 徳島県三好市三野町加茂野宮492−2
御祭神 玉依姫命

※玉依姫は、鴨神社の御祭神「 別雷神 」の母にあたる。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 16:48:48.58
畿内勢力の成立の経緯が書かれているんだよ。
畿内説の連中は、畿内に有力勢力がいたと言うけれど、彼らの名前や出自は語らない。
その名前も出自もちゃんと記録に残っているのにね。
筑紫や出雲から入植したことが明白なんだよ。
そりゃまあ、何もない空間や木の股から人間が生まれるわけはないから、どこからか来たのには違いない。
そして、それは西から来たとはっきり記録されている。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 16:55:15.80
ちなみに四国を開拓したのは鴨王らの末裔にあたる。
つまり、筑紫、出雲→摂津→大和→阿波、土佐と移動している。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 16:59:57.81
>>321
>筑紫や出雲から入植したことが明白なんだよ。

根拠なし。


>そして、それは西から来たとはっきり記録されている。

西の倭国(阿波)からですね。 正解です。 はるばる筑紫や出雲から来る訳ないでしょ。  @阿波
0324日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 17:04:30.47
各地の伝承や文献を自分で調べて繋げてみるといい。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 17:08:40.21
>>324
だから、延喜式式内社で祀られているでしょ。

「延喜式式内社 阿波國美馬郡 十二座 鴨神社」
鎮座地 徳島県三好郡東みよし(旧三加茂)町加茂字山ノ上3650  
御祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)・市杵島姫命・品陀和気命・天照皇大神

※ 「阿波志」に「鴨祠延喜式小祀と為す。加茂村に在り旧事記にいわゆる事代主の神孫、鴨王是也」とある。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 17:25:47.92
普通は、賀茂別雷神社と言えば、京都の上賀茂神社のこと。
分社のくせに元社を忘れるなよ。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 17:53:34.12
>>326
それは逆。
京都の上賀茂神社は「延喜式式内社 阿波國美馬郡 十二座 鴨神社」の分社。

「阿波志」に「鴨祠延喜式小祀と為す。加茂村に在り旧事記にいわゆる事代主の神孫、鴨王是也」と。
また、「寛保改神社社帳」には「加茂村式加茂大明神神主加茂村 白川信濃同長太夫、同助大夫、同権之進」とあり、
更に「阿府志」には、「鴨神社小社三好郡加茂村に在り祭神一座別雷神、神主白河信濃社侍宮川某堂河原某」とある。
鴨神社の鎮座は白河氏らとともに六世紀ごろとみてよかろう。 「徳島県神社誌」

京都、上賀茂神社の創立が、天武天皇7年(678年)と伝えられているので、「鴨神社の鎮座は白河氏らとともに六世紀ごろとみてよかろう。」を信じれば
「京都、上賀茂神社」より「阿波國 鴨神社」の創立が古いということになる。  @阿波
0328日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 18:14:30.86
賀茂別雷神社の祭神の賀茂別雷は賀茂健角身の娘の玉依姫の息子である。
賀茂健角身は別名を三島溝杭といい、摂津三島の開拓者。
もともと関西の神だよ。
年代はあてにしてはいけない。
阿波の賀茂別が6世紀なら、畿内の3世紀の鴨王よりずっと末裔。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 18:18:47.63
>>328
>畿内の3世紀の鴨王

文献根拠は?  それとも妄想?  @阿波
0330日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 18:21:13.78
>>328
郷社 下加茂神社」
鎮座地 徳島県三好市三野町加茂野宮492−2
御祭神 玉依姫命

※玉依姫は、鴨神社の御祭神「 別雷神 」の母にあたる。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 18:44:43.00
>>321
>その名前も出自もちゃんと記録に残っているのにね。

どこに?。どの文献で?
妄想お疲れ。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 19:17:07.25
>>329
葛城スレへ行って勉強してこい。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 19:19:25.85
明治の式内社とか嘘っぱちだぞ
国家神道を推し進めるため国学を援用した糞神道
騙され続けてる日本
0337日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 19:33:43.78
>>334
あっちへいっても、どうせその文献根拠、ないでしょ?  @阿波
0338日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 19:34:28.29
>>336
明治で式内社は一回ブラッシュアップされてる
都合のいい神社を利用したいから
0339日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 20:12:04.61
日本の歴史の資料破棄と歴史改竄は、大きく三回ある。
7世紀末から律令制整備の頃、戦国時代、明治維新だ。
ここで大きな政変があり、歴史や文化が断絶している。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 20:32:59.46
>>339
>7世紀末から律令制整備の頃、

この頃に、忌部が表舞台から消されたんですよ。  @阿波
0341日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 20:46:20.19
>>339
>7世紀末から律令制整備の頃、

この頃に、「忌部=倭国(阿波)」が表舞台から消されたんですよ。  @阿波
0342日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 21:09:36.72
>>339
そのとうりです
今の日本が明治から抜け出せない不幸
更にアメリカからも抜け出せないw
0344日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 21:26:08.13
現在に伝わる万葉集は雑歌からはじまるが、これはおかしい。
実は本当の第1巻があったと言われている。
そこには、筑紫倭国の栄華を伝える歌の数々が収められていたはずだと言う。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 22:41:31.44
万葉集の作者である大伴家持さんは
父親の旅人さんが太宰権卒に任命されて
大宰府に住んでいたことがありますね。

旅人さんは白村江から奈良時代前期の
時代の人で、大和朝廷設立時を見ていた人でもあります。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 22:48:51.60
>>346
>大和朝廷設立時を見ていた人でもあります。

そうですね。 倭国(阿波)の人です。 柿本人麻呂も倭国(阿波)の人。
「板野命婦」(いたののみょうぶ)も倭国(阿波)の人。
生年:生没年不詳
奈良時代の女官。粟凡直国造若子とも。外従五位下。藤原房前の7男楓麻呂を出産。
阿波国板野郡貢上の采女で,光明皇后の御所に仕え、写経事業のための経典貸借などの責任者として活躍し、
造東大寺司との連絡係などを務めた。出家し、尼となった。  <参考文献>『正倉院文書』、「板野命婦」(『角田文衛著作集』5巻)

「板野命婦」も奈良遷都に伴い、阿波国板野郡から移住したことが分かる。   @阿波
0349日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/08(木) 20:21:19.36
焦点は九州も含めて王朝がどこにあったかだな
日本列島だけで考えてるのって無理がありすぎる

近畿は100%ない
0350日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/08(木) 21:08:20.88
>>349
畿内説が憎いのう
すでに通説になってる畿内説を認めたくないからケチをつけるのみ
知識の乏しいド素人の雑魚がいくら喚こう畿内説の優位性に何の影響もない
0351日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 20:44:13.76
日本書紀など日本の文献は無視して魏志倭人伝と中国の記録で
見た方が邪馬台国問題は分かりやすい。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 21:07:15.80
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
0353日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 21:08:02.18
【筑紫の日向】

そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 21:08:46.03
あれだけいた畿内説コテハンがほんと消えたなあ。
高齢さんとかも最近見なくなったし。
あの人の世界観は好きだったけど、考古学的証拠が出そろった最近はやっぱり反論できずに言い張るだけになってちょっとかわいそうだったよね。
ジョーカーもあれはあれで頑張っていたけど意外と判断思考は科学的だったから
議論が煮詰まってくると九州説そのまんまの発言をし始めてそれは九州説じゃんと指摘されて本人絶句したり相当悩んでるっぽかったよね。
ここでまだ頑張ってるのはスレ主と根拠厨くらいで科学的議論を放棄してのテンプレ死守の印象操作作戦に徹底してもはや議論が成り立たない。
岡上は東遷説とはいえ畿内説なわけで真っ向から取り組んでなんとか畿内説に持っていこうとしているのだけど、
もう味方であるはずの岡上程度の東遷説議論ですら許容できないほど畿内説は追いつめられているのだな。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 21:56:42.14
>>354 畿内説でほぼ確定
って散々報道されていたのにね。
纒向からは思ったほどには貴重な発掘品がでなかったからだろう。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/09(金) 22:08:45.97
纒向は崇神の纒向日代宮だから当然、邪馬台国よりずっと後世なんだよ。
それを年代比定まで捻じ曲げて3世紀にしようとしている畿内説の学者は、学問の風上にもおけない詐欺師。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 00:40:08.35
崇神の東国平定の拠点だな
0359日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:17:25.53
畿内説は畿内の歴史も破壊しようとしているな。
歴史詐欺だ。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:48:52.17
危険な九州説に対抗する最も有力な手段は暴力であろう
0361日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 07:52:31.16
>>315
>和邇氏は2〜3世紀初頭に畿内に鉄鋼技術をもたらした渡来豪族なわけで

何を根拠にそんな戯言を言ってるのだおまえは。

>卑弥呼の五尺等の独自性を真正面から比定できる材料だろ?

否定か?
誰もできない。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 19:42:01.15
大和朝廷が古墳時代の日本の中心なのは間違いないし、古墳時代の始まりは卑弥呼の邪馬台国時代と重なる
その状態で、九州に邪馬台国を持ってくるには
1.古墳時代の開始を4世紀と言い張って、邪馬台国が畿内に移動したと主張する(東遷説)
2.あくまで九州政権と畿内政権は別だと主張する(九州王朝説)
の二つしかない

ということで、九州説の人は以下の問いに答えてくれるとうれしい
・東遷説を採るのか採らないのか?
・東遷説を採るとするなら、邪馬台国の東遷なのか、神武の東遷なのか?
・神武と邪馬台国は関係すると考えるのか(≒邪馬台国はどこで神武はどこにいたのか)?
・九州王朝の存在を主張するのか?
・主張するなら倭の五王が大和朝廷の大王でないことをどのように論証するのか?
0364日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 19:46:39.07
大和朝廷が中心になるのは奈良時代から。
703年の大和朝廷の唐への使者が自国を、
日本国は元小国だが後に倭国を併合した、
と言っているからね。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 19:58:37.51
>>364
倭国(阿波)がその痕跡を残している

倭国=7世紀までの「阿波」

日本国=8世紀の持統朝以降の「大和」  @阿波
0366日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 20:47:15.21
>>364
古墳時代に最大の古墳が作られ続けるのは畿内なんだが?
これが中心ではないというなら、どこに中心があるんだ?
364は九州王朝説を採るのか?

旧唐書の記述は筋が通らないぞ
「九州王朝説批判」を読んでみて
倭国が日本を名乗るようになったという情報は遣唐使の粟田眞人によってもたらされたと考えてよいそうだ
粟田眞人が大和朝廷と関係がないとは言わないよな?
ttp://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm
0367日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 21:11:57.55
ここの九州説の人は弥生時代の九州の遺跡から国産の丹(水銀朱)が出ないことをどう思っているんだ?
其山有丹をベンガラだと強弁するものも居るようだが、ベンガラなら丹土と書かれる
丹が九州島で出ない以上、魏志倭人伝に依拠するなら九州だけの倭国は成り立たない
0368日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 21:20:11.32
このスレで平原1号墓を卑弥呼の墓に当てる人がいるが、伊都国は邪馬台国とは違うとはっきり書かれているのに、なぜ邪馬台国に都した女王の墓が伊都国にあると考えるのか?
伊都国と邪馬台国の間は、水行陸行合わせて2月の距離があるのに?

九州説の人は墳墓を軽視しすぎだと思う
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル、出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある

畿内の纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、どうしても見劣りする

これを「大作冢徑百餘歩」とするのは無理だろう
0369日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 21:45:55.18
>>366
古墳時代に日本列島最大ではあったが、中心ではないってことだな
かといって九州が中心でもない
つか、その当時に日本列島の中心など無い
近畿に中心が大和朝廷、北九州の中心が邪馬台国ってこと
0371日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 22:22:38.54
>>369
では、邪馬台国=九州王朝説を主張するんだね?

次に教えて欲しいのは369は倭の五王を大和朝廷の大王と認めるのかい?
それとも倭の五王は九州王朝の王という考えなのかい?
0372日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 22:25:49.91
>>370
南至邪馬壹國女王之所都と書いてあるのに、女王=卑弥呼が邪馬台国と別の場所にいるのはどうして?
0373日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 22:28:19.21
>>369
その考えが成立するには魏が最大勢力の大和を知らないことが必須になるんだがそこはどう考える?
0375日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 22:42:58.26
>>374
魏皇帝の詔書・金印を携えてきた魏使が邪馬台国まで行かずに、途中で倭人に託したと主張するのか?
封泥で封印された魏皇帝の詔書を?
それで魏使の役目を果たせるのか?
0376日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 22:52:29.18
>>374
建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國「拜假倭王」と書いてあるから梯儁は女王に会ってると思うんだが
0378日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 23:25:17.80
九州説では使譯所通三十國すべてが九州島内だと主張しているが、弥生時代から明らかに山陰地方は半島や大陸との交流が見てとれる

出雲の弥生遺跡からは外来の搬入土器が多く出ており、倭国内の人の移動を伴う交流の結節点であったことが、考古学的出土遺物からも見て取れる
出雲の山持遺跡からは北部九州系の土器とともに、半島の勒島系土器や楽浪土器も出ている
論文ではないが、ソースとして山持遺跡の紹介パンフのpdfのURL貼っておくよ
ttp://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/tayori/kankoubutu/hakkutupanhu.data/1-P1-11.pdf
半島に置かれた楽浪郡、帯方郡の漢人、魏人が出雲まで来ていないと考えるのは難しい

となると、四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートルの西谷9号墓を作れる出雲の勢力を差し置いて、平原1号墓の14×12メートル程度の墳墓しか作れない北部九州の勢力が「倭王」とされるのは無理だろう
0379日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 23:30:43.03
>>377
なぜ?
奴国が福岡平野の須玖岡本遺跡の辺りだというのは問題ないと思うが、玄界灘・響灘に面していて北にしか海がない北部九州から、どうやったら南に20日+10日の水行ができるのか教えてくれ
0380日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 23:35:21.32
>>368
>このスレで平原1号墓を卑弥呼の墓に当てる人がいるが、伊都国は邪馬台国とは違うとはっきり書かれているのに、なぜ邪馬台国に都した女王の墓が伊都国にあると考えるのか?

そんなこと、書いてないですよ。

>伊都国と邪馬台国の間は、水行陸行合わせて2月の距離があるのに?

それも読み間違い。

>九州説の人は墳墓を軽視しすぎだと思う
>平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、どうしても見劣りする

墓は大きさではなく副葬品で判断するべき。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 23:36:29.00
>>378
中国と直接交渉していたのは九州北部だけ。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 23:37:12.47
>>371
倭とあれば、全て九州のことですよ。
倭の五王の系図は、畿内ヤマト王権に一致するものがありません。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 23:41:45.45
>>378
交流してるから、イコール日本列島がどこかに統一されているということにはならない
0385日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 23:49:46.74
>>379
>どうやったら南に20日+10日の水行ができるのか教えてくれ

それ女王国の位置と関係ないから
0386日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 00:01:14.76
>>382
>倭の五王の系図は、畿内ヤマト王権に一致するものがありません。
倭王武は雄略天皇であるとする定説に真っ向から反論するのですね?

では、九州王朝のでの倭王武は誰ですか?
0387日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 00:04:41.88
ヒミコ=日女命は各地の地方政権にそれぞれ存在していたらしい。(複数)

魏史に言う、卑弥呼とは、
我(妾)こそは 大倭国の女王だと潜称して足留めした魏の使節団からまんまと大倭国女王と認めさせて黄旙(皇帝幡)と金帯を直接授受した
豊国宇佐の豊玉媛命。(先祖は出雲王国の分家、宗像家、市杵島媛命?所以にまんざらウソでもない?)
0388日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 00:08:20.01
>>380
>>伊都国と邪馬台国の間は、水行陸行合わせて2月の距離があるのに?
>それも読み間違い。

では正しい読み方を教えてください
中国の方が読むと放射読みとか、起点からの全旅程とかの読み方は、中国語としては成り立たないそうですが?

>>385
>それ女王国の位置と関係ないから
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月 と書いてあるのは邪馬台国までの旅程だと思うのですが、邪馬台国と女王国は別だと主張するつもりでしょうか?

では、女王国の位置ではなく、邪馬台国の位置なら関係あるんですか?
0389日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 00:17:03.47
>>383
なぜ行っていないと断言できるのですか?
383がそう思う以外の理由で根拠があるなら教えてください

では改めて、畿内の勢力の存在を魏が知っていたかどうかを考えてみてください
378で論じたように、楽浪郡の人は出雲までは確実に来ていると考古学的遺物から確認できます
出雲と畿内の往来は記紀の出雲神話や、三輪山に祀られた神が大国主神と同神とされる大物主神であることから、弥生時代からのものだと考えられます

こうして見れば、楽浪郡まで畿内の情報が届かないとする方が不自然でしょう
0390日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 00:28:02.63
>>384
>交流してるから、イコール日本列島がどこかに統一されているということにはならない

畿内説では、
1 卑弥呼が共立されたと記されていること
2 前方後円墳が各地の墓制を統合したものであること
3 大和朝廷の初期が豪族連合であって武力統一された統治機構ではないこと
から、権力機構の統一ではなく、単に祭祀の統一と考えます

その祭祀の統一が共立された倭王・卑弥呼の権威の下になされたと考える訳です
実際、前方後円墳は古墳時代に入ると同時に北部九州でも作られますが、その時点で北部九州が大和王朝の支配下ということはないでしょう
卑弥呼を共立した各勢力はそれぞれの地域を王として支配していたと考えれば何も問題はないでしょう
0392日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 00:47:32.58
>>380
>墓は大きさではなく副葬品で判断するべき

平原1号墓の出土鏡40面のうち38面が仿世鏡だというのはご存じでしょうか?
舶載鏡は漢鏡5期の「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」と漢鏡3期の「四螭二朱雀龍虎鏡」の2面のみで、どちらも卑弥呼の時代より100年以上も前のものです
これを副葬品が立派だから卑弥呼の墓だというのは苦しくないですか?
魏皇帝から銅鏡100枚ももらったのに、古い鏡2面と仿世鏡ばかりで新しくもらった権力の象徴の鏡を1枚も副葬しないというのはおかしくないですか?
0393日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 00:50:22.04
>>391
畿内がないとする根拠は何ですか?

其山有丹だけで九州のみの倭国は成り立たないと思うのですが?
関門海峡を九州北部の人は渡れなかったと考えるのですか?
0396日本@名無史さん
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2018/02/13(火) 01:18:16.34
>>394-395
では九州にあるものを教えてください

そして九州にないものは
丹(水銀朱)
径百歩の大きな墓

この2点だけで九州のみの倭国は無理でしょう
0401日本@名無史さん
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2018/02/13(火) 05:37:39.75
>>400

1里≒76.5mであるから、

百歩≒25.5m 
0403日本@名無史さん
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2018/02/13(火) 07:06:14.15
>>390
>畿内説では、
 1 卑弥呼が共立されたと記されていること
 2 前方後円墳が各地の墓制を統合したものであること
 3 大和朝廷の初期が豪族連合であって武力統一された統治機構ではないこと
   から、権力機構の統一ではなく、単に祭祀の統一と考えます

阿波説では
1 邪馬台国内(卑弥呼勢力内)での共立。
2 各地へ展開した忌部一族の墓制が集まったもの。
3 忌部一族(豪族)の連合統治機構。
0405日本@名無史さん
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2018/02/13(火) 07:18:25.84
>>372 連合国だから。鬼道で人を惑わし?
その力で傘下の国々を掌握しているのだから
あちこちの国々を回っていかなければならない。
0406日本@名無史さん
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2018/02/13(火) 07:23:39.24
>>367
魏志倭人伝の原文を検索してみたが、
丹は、単に「丹」としか書かれてないわ。
形容してもせいぜい朱丹、鉛丹。
九州の丹で出土するのは8割以上がベンガラ。
水銀丹は1割少々。朱色が鮮やかな鉛丹は中国からの輸入品だな。
おまえの説は成り立たない。
0407日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 07:31:08.67
>>406
九州では九州産の丹が採れていない。 九州説は成り立たない。  @阿波
0408日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 07:31:44.02
>>375
卑弥呼が伊都国まで出迎えにきていて
そこで受け取った可能性がある。
出迎えのため女王は邪馬台国には不在だったら、
魏使は邪馬台国まで行くわけにはいかないだろう。
邪馬台国への道のりは、口頭で倭人が説明。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 07:34:47.56
>>397
径の字源が小道・歩道なのは構いませんが、百歩の歩道はどこにあるんですか?
卑弥呼の墓まで百歩だとでも言いたいのでしょうか? その場合は起点がなければ無意味ですから、そのような意味にはとれないですよね?

大作冢の直後にあるからには、塚の大きさの表現のはずですし、塚を巡る歩道があったとして平原1号墓のサイズだと1周回っても36歩、1周回るならむしろ「周百歩」と書かれるでしょうから、縦横分だとして18歩で百歩には全然足りません

それに何度も書きますが、出雲の情報は楽浪郡まで届いていますから出雲の西谷墳墓群のでかい墓も知っています
その状態で14×12メートル程度の成人男子を10人集めれば2、3日で作れる程度の墳墓を「大作冢」とは表現しないでしょう

誇張表現と言ってもそれより遙かに大きな墓を作る勢力の存在が知られていて、九州の王が倭王に除せられるのは無理ですよ
0412日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 07:37:01.34
>>381 九州北部が中国と直接交渉していた
回数が多いことは事実だろうが、
青龍3年(卑弥呼が魏に使節を送った数年前)の
鏡の出土は、近畿の古墳から。
だから畿内も中国とのやりとりはあった。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 07:37:32.28
>>398
交易で手に入れたとしても其山は移動しないですよね?
交易先も倭国だということでよろしいでしょうか?
結局、九州のみの倭国は無理ということになります
0414日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 07:40:04.71
>>411
平原の古墳は卑弥呼の時代よりも少し前らしいから、
当時はまだ大きな古墳を作る流行がきてなかったんだよ。
祇園山古墳などの方が可能性が高いだろうね
0415日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 07:44:45.54
>>409
今採れていても意味がないんですよ
九州の丹(水銀朱)の鉱脈は飛鳥時代になってから畿内豪族の手で「発見」されていて、それ以前(弥生時代から古墳時代)には見つかっていない、つまり「ない」んですよ

そして、弥生時代の九州の遺跡から出る水銀朱は、国内産のものがないことが同位体分析で確認されています
つまり国内から交易で手に入れた丹も、九州では確認できません

「九州限定の倭国」を前提とする九州説は、「其山有丹」という魏志倭人伝の記述が誤りであるとしない限り成り立たないんですよ
0416日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 07:51:36.06
>>408
>卑弥呼が伊都国まで出迎えにきていて そこで受け取った可能性がある。

魏志倭人伝の記述では、「自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食傳辭出入」とあって、宮室奥深くであまり人に会わずに過ごしていると書かれている

女王の都の邪馬台国から2ヶ月もかけて伊都国まで来るはずがないだろう

自説に都合のよいように、勝手に牽強付会な捏造を言い募って済ませるのはよくないよ
0417日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 07:52:14.04
>>392
>平原1号墓の出土鏡40面のうち38面が仿世鏡だというのはご存じでしょうか?
柳田が言ってるだけで定説じゃないね
0419日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 07:57:27.42
>>414
>当時はまだ大きな古墳を作る流行がきてなかったんだよ。

弥生墳丘墓の段階で
吉備の楯築墳丘墓 二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓 四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓 東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
畿内の纒向石塚古墳 全長96メートル
東田大塚古墳 墳丘長120メートル
という大きな墳丘墓が作られています

>祇園山古墳などの方が可能性が高いだろうね

卑弥呼の墓が古墳時代の古墳でよいのなら、さらに他所との格差が大きくなります
北部九州の初期古墳は箸中山古墳の三分の一サイズが最大ですから
0421日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 08:00:27.36
>>372
女王は卑弥呼だけじゃないよ
陳寿と同時代の女王はトヨ
倭人伝で単に女王とあればトヨのこと、卑弥呼は執筆時には死んじゃってるからね
0422日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 08:00:33.45
716日本@名無史さん2018/02/12(月) 11:32:21.49
10代崇神天皇は纏向に宮を構えた。
それ以前、特に6代孝安天皇以前は葛城である。
だから卑弥呼がいたのは葛城である。
何も難しい事はない。

しかし我々は「天皇」という名称にだまされてしまう。
女王国と天皇のイメージが頭の中で合わない。

「天皇」という名称は7世紀に出来た。
卑弥呼の時代に「天皇」という名称はない。

だから崇神以前の女性から普通にヒミコとトヨを探せばいい。

トヨ津        E孝安 D孝昭
トヨ津   (250年頃)C懿徳 
ヒメ踏鞴        B安寧
ヒメ踏鞴        A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武 

はい、邪馬台国論争終了。
長い間、ご苦労様でした。

発見者はわしだからね、邪魔しないでね。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 09:40:13.68
>>417
>柳田が言ってるだけで定説じゃないね

九州説の人は専門家の研究を、よくこのように切り捨てますが、だからといってより妥当性の高い見解を示すことをしません

例えば在野の方の研究で「鏡の考古学」という漢鏡の編年に関してよくまとめられたウェブサイトがありますが、そこでも
「方格規矩四神鏡に関しては、I〜VII式の分類は、ほぼ年代順に並んでおり、問題がないように見えます。従って特に、I〜IV式までの方格規矩鏡の製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらないことは、この検証によって一応確かめられたといえるでしょう」
としていて、平原1号墓の方格規矩鏡32面が全て舶載鏡だったとしても、卑弥呼の遣使の3世紀半ば(239年)まで1世紀半の隔たりがあり、これを卑弥呼の鏡に当てるのは困難だし、平原1号墓の編年も3世紀ではないとする方が整合性が取れる

以上は、方格規矩鏡が全て舶載鏡だった場合で、現状では北部九州の編年の専門家でもっともよく出土鏡を観察して報告書にまとめた柳田先生の「2面を除き残りは仿世鏡」というのが、議論の前提です
柳田先生の見解以上に「説得力のある根拠」があるなら教えてください
0427日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 09:52:33.91
>>423
>「其山」は倭人の山でしょうね

その「倭人の山」は倭国の中ですか?
丹の出る山が九州にない以上、「九州のみの倭国」が成り立たないことに、同意いただけますか?

>いずれにしろたいした話じゃない

これがたいした話ではないのであれば、九州説の人がよくいう「鉄鏃が畿内での出土が少ない」というのはもっとたいした話じゃないですね?
もともと倭国で鉄族を使うという話ですから、畿内説の畿内から九州まで倭国、という枠組みとなんら矛盾しませんし
そして、2015年から淡路島の舟木遺跡の発掘調査が行われていて、弥生終末期の鉄工房遺跡としては最大級のものだと確認されていたりしています
2016年には滋賀県彦根市の稲部遺跡でも鉄器工房群が発掘されていますし、畿内に鉄製品を供給するには十分な規模でしょう
0428日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 09:57:49.45
>>426
九州説の素人さんがそう言ってるだけ
理由は、九州説に都合が悪いから
0429日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 10:04:18.63
>>406
>九州の丹で出土するのは8割以上がベンガラ。
>水銀丹は1割少々。朱色が鮮やかな鉛丹は中国からの輸入品だな。
>おまえの説は成り立たない。

つまり、九州にはベンガラ=丹土しかないんですよ
そして、倭国から魏への献上品にも丹が入っています
上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布「丹」木犭付短弓矢
ベンガラ=酸化鉄は献上品にはふさわしくないですよね?
丹は大陸では仙薬扱いですから、間違えないですよ
単に「丹」と書いてあれば、水銀朱(辰砂)を指します

後漢書で「其山有丹土氣温腝冬夏生菜茹無牛馬虎豹羊鵲」と書いてあるのをもって、やはり「丹土=ベンガラ」が正しいと主張している人もいましたが、406はこの説を支持しますか?
0430日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 10:11:35.13
>>426
>岡村編年はさらに信頼性がない
一行で切り捨てて悦に入っていないで、425で紹介した「鏡の考古学」を読んでみてください
これは基本的には「岡村編年への反証」を目的としています
ただ、2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」以前に書かれているので、柳田先生の見解については触れていません
0431日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 10:17:11.62
後漢書では、「丹土」に修正されてるね
「其山有丹土。氣??,冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲。」
0432日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 10:17:42.53
>>380
いまだに「伊都国と邪馬台国の間は、水行陸行合わせて2月の距離」が
「読み間違いである理由・根拠」と
「正しい読み方」を教えてもらっていません

ぜひ教えていただきたく存じます
0433日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 10:19:54.74
>>389
>378で論じたように、楽浪郡の人は出雲までは確実に来ていると考古学的遺物から確認できます

逆に、畿内まではきていないことになる。
また、卑弥呼が即位した2世紀末において畿内に大きな勢力があったと考える根拠もない。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 10:20:48.02
>>386
>では、九州王朝のでの倭王武は誰ですか?

そのまんま。
武だよ。
他の誰かにこじつける必要はない。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 10:22:35.06
>>392
>魏皇帝から銅鏡100枚ももらったのに、古い鏡2面と仿世鏡ばかりで新しくもらった権力の象徴の鏡を1枚も副葬しないというのはおかしくないですか?

もっと新しい権力の象徴として八咫の鏡があったから。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 10:24:05.78
>>396
>そして九州にないものは
>丹(水銀朱)
>径百歩の大きな墓

水銀朱の使用量は圧倒的に九州北部。
径百歩の大きさについては諸説ある。
里と同様に5倍の差があれば平原遺跡となる。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 10:28:59.67
>>436
>水銀朱の使用量は圧倒的に九州北部。

丹山が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。   @阿波
0438日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:08:07.04
>>433
>>378で論じたように、楽浪郡の人は出雲までは確実に来ていると考古学的遺物から確認できます

>逆に、畿内まではきていないことになる。
出雲まで来たのは確認してもらえましたか?
この時点で、九州説の前提である「九州のみの倭国」が破綻しているのは確認できますか?
「出雲まで来ている=畿内まで来ていない」を意味しません
畿内まで来たかどうかは、また別に論証が必要です
一方で、畿内様式の土器が出雲で出土しますし、逆に出雲の土器が畿内で確認できます
出雲と畿内の往来は、土器で確認できます
楽浪郡の漢人・魏人が出雲に来ていれば、出雲に来た畿内の人と出会うことになります
畿内の勢力のことが、楽浪郡まで情報として届くのは確認してもらえましたか?

土器の交流という考古学遺物に基礎をおいた単純な論証で、「九州のみの倭国」は簡単に破綻します

>また、卑弥呼が即位した2世紀末において畿内に大きな勢力があったと考える根拠もない。

滋賀県守山市の伊勢遺跡はご存知でしょうか?
大型建物群が円形に配置されており、魏志倭人伝の「宮室樓觀城柵嚴設」の様子に最も合致する遺構が発掘されています
ただ、これは2世紀末前後に廃絶されており、卑弥呼の都には時代が合いません
そして、伊勢遺跡が放棄されるのと時を同じくして建設が始まるのが纏向遺跡です
九州説の人は「3世紀初頭の纏向遺跡はまだ小さい」とよく言いますが、伊勢遺跡から纏向遺跡に権力中心が移動したと考えれば、最初から大規模な方がおかしいことになります
纏向遺跡では、纏向大溝と呼ばれる物流のための運河から建設が始まったと見られており、そこに高度の計画性と大きな勢力の存在が確認できます
伊勢遺跡から纏向遺跡への移動が、卑弥呼の共立を契機としたものであると考えるのが、最も合理的です
0439日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:12:03.97
>>434
>そのまんま。
>武だよ。
>他の誰かにこじつける必要はない。

ということは、434は九州王朝論者で倭の五王は大和朝廷の大王(雄略天皇ほか)ではないという主張ですね?
定説では、倭王武を雄略天皇に当てるのですが、そうではないと主張するのであれば、ぜひ「根拠」を挙げてその理由を教えていただきたく存じます
0440日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:13:12.96
>>411
>誇張表現と言ってもそれより遙かに大きな墓を作る勢力の存在が知られていて、九州の王が倭王に除せられるのは無理ですよ

中国に知られていなければ意味はない。
また、実際には大型古墳は4世紀からなのではないか。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:14:27.78
>>414
それではザラコク氏になってしまうではないか。
九州説の大半は考古学的に平原遺跡。
文献的には伊都国。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:16:01.73
>>419
>北部九州の初期古墳は箸中山古墳の三分の一サイズが最大ですから

九州が窓口となっている以上、他所で大きな墓を作っていても、魏は知らないだろうし、意味はない。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:17:39.88
>>421
倭人伝は魏の時代のことを書くのが役割だよ。
あと、祇園山より平原の方が古いと思うが、平原は倭国大乱よりは後。
0444日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:23:30.38
>>431
>後漢書では、「丹土」に修正されてるね

という九州説の人がいるんですけど、それ、大間違いですよ

魏志倭人伝と後漢書の対応箇所を並べて書きます(魏志倭人伝は3箇所に分かれて記載)
後漢書
出白珠青玉 其山有丹 土氣温腝 冬夏生菜茹 無牛馬虎豹羊鵲
魏志倭人伝
出真珠青玉 其山有丹
倭地温暖 冬夏食生菜
其地無牛馬虎豹羊鵲

後漢書の「土氣温腝 冬夏生菜茹」が魏志倭人伝の「倭地温暖 冬夏食生菜」にそのまま対応しています
「丹土」と読むのは、訓点の打ち間違いです
「土氣」というのは「その土地の気候」くらいの意味で、倭人伝と同じ魏志烏丸鮮卑東夷傳の挹婁の項に「土氣寒」という記述があります
0445日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:28:57.23
>>435
>もっと新しい権力の象徴として八咫の鏡があったから。

でも、平原1号墓の大型内向花文鏡(俗称八咫の鏡)は破砕供献されていますよ?
権力の象徴を、破砕するものでしょうか?
それと、魏の後ろ盾を求めて遣使したとされているのに、魏鏡(舶載鏡)よりも仿製鏡の方に権力の象徴を求めるというのは、論理矛盾していませんか?
0446日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:34:10.96
>>436
>水銀朱の使用量は圧倒的に九州北部。

これ、「根拠となるデータ」を示してもらえますか?

>径百歩の大きさについては諸説ある。

436が何か言うだけでも「一つの説」ですから、「諸説ある」のは間違いありませんが、倭国内にいくつも地域王権の大きな墳丘墓がありそれが楽浪郡に伝わっているのにそれよりもはるかにしょぼい墓を「大いに塚を作る」と書くでしょうか?

>里と同様に5倍の差があれば平原遺跡となる。

歩は、実際の「複歩の長さ」という裏づけのある単位なので、簡単に5倍も狂ったりはしないと思いますよ?
「里が5倍の差」というのもできれば「根拠をつけて論証」していただきたく存じます
0447日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:37:20.31
>>438
>大型建物群が円形に配置されており、魏志倭人伝の「宮室樓觀城柵嚴設」の様子に最も合致する遺構が発掘されています

倭国(阿波)の西長峰遺跡では、14棟の大型建物群が規則的に配置されています。 そこが「宮室樓觀城柵嚴設」の様子に最も合致する遺構なんて思っていませんが。 


>伊勢遺跡から纏向遺跡への移動が、卑弥呼の共立を契機としたものであると考えるのが、最も合理的です

共立した弥生集落遺跡群を提示するべきです。
卑弥呼の共立は倭国(阿波)の卑弥呼勢力内での共立とであると考えるのが、最も合理的です
0449日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:44:31.50
>>440
>中国に知られていなければ意味はない。

何度も書いていますが、出雲まで楽浪郡の中国の人が来ています
出雲の西谷墳墓群が、中国に知られていないとするのは無理ですよ

>また、実際には大型古墳は4世紀からなのではないか。

これも何度も書いていますが、古墳時代に入る前の弥生墳丘墓といわれる時点で、平原一号墓などよりもはるかに大きな首長墓が、出雲や吉備、丹波、大和で作られています
平原1号墓は伊都国王墓とされる三雲南小路遺跡の王墓よりもはるかに小さいんですよ
三雲南小路遺跡は溝で囲まれ一辺30メートル以上の墳丘を持っていたとされています
須玖岡本遺跡D地点の王墓も三雲南小路遺跡と同程度の墳丘を備えていたと推定されています
平原遺跡よりも100年以上古い王墓よりも、平原遺跡の墳丘は小さいんですよ

古墳時代に入って墳墓が大きくなるとかいう話ではないんです
平原一号墓のこの小さな墳丘が、大倭王の墓にふさわしいかということです
0452日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:50:29.14
>>448
>「九州のみの倭国」って誰か言ってたっけ?

古いところでは>>13
「北部九州30ヵ国の総称が邪馬台国ということ。」というコメントがありますね
北部九州以外の国が「使譯所通三十國」に入ると、出雲や吉備や丹波や大和の方が、首長墓の大きさ一つとっても明らかに3世紀の九州よりも巨大な勢力なので、北部九州の王が倭王に除せられるのが無理になります
0455日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:53:18.92
>>451
>中国中央研究院も中国哲学書電子計画でも
>「丹土」だね、残念!

そこから間違っている、という話ですよ
「土氣」という言葉が中国語にないなら、そのような訓点もありえますが、444で論じたように三国志でも「土氣」という言葉は普通に使われています

中国中央研究院や中国哲学書電子計画に、間違いを指摘すると誉めてもらえると思います
0456日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:55:58.04
>>454
>大きさじゃないでしょうな

では逆に、大倭王である卑弥呼の墓が、ローカルな首長墓より小さくなる理由を教えてもらえますか?
畿内説では、大倭王の墓はどの時代でも国内のどの地域よりも大きな墳丘墓がありますよ?
0459日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 11:59:30.96
ここまでのまとめ

九州では丹が出ない
魏志倭人伝の丹はベンガラではない
交易で丹を手に入れる場合はその範囲が倭国でなければならない
交易で丹を手に入れるとすると、その丹は四国または紀伊半島産なので、そこまでの交易=倭国の範囲を考えるなら、北部九州よりも吉備、出雲、丹波、大和の方が大きな勢力が倭国内にあることになり、九州の代表が倭王に除せられるのは無理
0460日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:00:52.55
>>427
>そして、2015年から淡路島の舟木遺跡の発掘調査が行われていて、弥生終末期の鉄工房遺跡としては最大級のものだと確認されていたりしています
>2016年には滋賀県彦根市の稲部遺跡でも鉄器工房群が発掘されていますし、畿内に鉄製品を供給するには十分な規模でしょう

淡路島や近江は先進地域だけれど、畿内の特に纒向あたりは後進地区なの。
海がないからね。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:02:33.60
>>432
日程の情報は魏志倭人伝だけで追加されている。
その他の史書は九州北部までの一万二千里で終わり。

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:03:26.17
>>438
>畿内まで来たかどうかは、また別に論証が必要です
>出雲と畿内の往来は、土器で確認できます

魏の使いが畿内に来た根拠にはならないよ。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:03:39.35
>>457
それがね、中国中央研究院や中国哲学書電子計画でも、通典(唐代の成立)だと「其山出銅,有丹。土氣溫暖,冬夏生菜茹,無牛、馬、虎、豹、羊,有薑、桂、橘、椒、蘘荷,不知以為滋味。」と訓点が振ってあるんだよ
確認してごらん
私は中国語ができないから、中国中央研究院や中国哲学書電子計画に報告できないんだけど、これは通説の方が変更されると思う
中国語に詳しい人、ぜひ中国中央研究院と中国哲学書電子計画に連絡して欲しい
0464日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:04:47.48
>>438
>畿内の勢力のことが、楽浪郡まで情報として届くのは確認してもらえましたか?

魏志倭人伝では海の東にも倭種がいるとあるので、出雲も畿内もそれで説明できてしまう。
情報がなかったわけではない。
しかし代表していたのは九州北部。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:05:37.76
>>460
>淡路島や近江は先進地域

北部九州が先進地域だから、という九州説の根拠は、この時点で意味をなさないという理解でいいですね?
0466日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:06:18.68
>>438
>纏向遺跡では、纏向大溝と呼ばれる物流のための運河から建設が始まったと見られており、そこに高度の計画性と大きな勢力の存在が確認できます

九州倭国とは別にそんな勢力も居たんだなあ。
終わり。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:07:22.42
>>439
>定説では、倭王武を雄略天皇に当てるのですが、そうではないと主張するのであれば、ぜひ「根拠」を挙げてその理由を教えていただきたく存じます

そっちのこじつけの根拠はなんだい?
前後の王との兄弟親子関係が合わないよ。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:08:31.93
>>445
>権力の象徴を、破砕するものでしょうか?

沢山あるとかえって揉めるからかな?
あとは、そういう儀式だったとしか言いようがない。
破鏡と呼ばれる。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:09:05.11
>>464
>魏志倭人伝では海の東にも倭種がいるとある

またごまかしですね
魏志倭人伝には「女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種」とあります
幅600メートル程度の関門海峡を「東渡海千餘里」とは「短里を唱える人」でも言わないでしょう
出雲を渡海千餘里の倭種のうち、とするのは、牽強付会もはなはだしいですよ
0470日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:10:53.73
>>445
>それと、魏の後ろ盾を求めて遣使したとされているのに、魏鏡(舶載鏡)よりも仿製鏡の方に権力の象徴を求めるというのは、論理矛盾していませんか?

本来は冊封体制に基づく派兵などを期待したのだろう。
魏の鏡は漢より粗悪になっていたと言われるし、魏が思っているほどには魏の鏡はどうでもよかったのだろう。
何しろ、卑弥呼の時代までに漢や魏を超える鏡の生産技術を達成していたわけだから。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:11:48.07
>>446
>「里が5倍の差」というのもできれば「根拠をつけて論証」していただきたく存じます

何度も示されている。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:12:10.03
>>449
>何度も書いていますが、出雲まで楽浪郡の中国の人が来ています

倭種でしょ。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:12:44.14
>>450
失礼。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:13:42.93
>>449
>何度も書いていますが、出雲まで楽浪郡の中国の人が来ています

それ、「楽浪郡の中国の人」じゃなくて、楽浪郡へ行って鉄鋌などを持ち帰った出雲忌部ですよ。  @阿波
0475日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:14:54.73
>>449
>平原遺跡よりも100年以上古い王墓よりも、平原遺跡の墳丘は小さいんですよ
>古墳時代に入って墳墓が大きくなるとかいう話ではないんです

墳墓が大きくはずというのが畿内説の思い込み。
副葬品としては平原遺跡は三雲南小路に劣らない。
というか、ほぼ同系列の倭王の王墓。
畿内にはそれらに匹敵する同時代の王墓はない。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:16:03.16
>>452
墓の大きさを勝手に自慢しているのは畿内説だけ。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:18:16.75
>>456
九州を含めた各地に100メートル級の前方後円墳が作られています。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:19:30.50
>>459
水銀朱の使用量が圧倒的に九州北部であることに注目してください。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:21:13.42
>>463
>それがね、中国中央研究院や中国哲学書電子計画でも、通典(唐代の成立)だと「其山出銅,有丹。土氣溫暖,冬夏生菜茹,無牛、馬、虎、豹、羊,有薑、桂、橘、椒、蘘荷,不知以為滋味。」と訓点が振ってあるんだよ

おや?
畿内には銅はあるのかな?
九州は古代から香春岳の銅が有名なのだが。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:22:16.13
>>469
そもそも関門海峡が魏志倭人伝に出てこないから、魏の使いは九州から出ていないし、畿内にも行っていない。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:25:11.64
>>436
>水銀朱の使用量は圧倒的に九州北部。

丹山が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。   @阿波
0483日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:35:02.92
>>481
正史じゃないから唐代に唐の歴史が書けた
よって、後代史料より正確
0484日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 12:37:40.40
>>480
じゃあ博多湾が出てこないから北部九州ではなく
阿蘇山がでて来ないから中九州でもないな
0485日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:00:25.88
>>484
じゃあどこ?
0486日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:01:34.65
畿内説って、大した根拠がないんだな。
なんで邪馬台国近江説とか邪馬台国淡路島説にしないのかな?
0487日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:01:51.98
丹山が出てるから倭国(阿波)。  @阿波
0489日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:27:43.19
>>467
>そっちのこじつけの根拠はなんだい?

逆質問ですか? 根拠のない人のすることの定番ですね!

倭王武に雄略天皇を当てるのは「定説」ですから、ググってもらえばいくらでも出てきますよ
例えば、ウィキペディアのページはこちら(ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6_(%E5%80%AD%E7%8E%8B))
おもしろいところでは、高城修三氏の紀年解読(ttp://takiren.sub.jp/kodaisi02htm.htm)では、紀年論から倭の五王の比定の妥当性を示しています
また、住吉十楽氏のおもしろそう記(ttp://www.omoshirosoki.com/wao/bsoki2_2.html)では、日本書紀の淡路巡狩記事が遣使に対する答礼使の来朝を記したものと考察しており、日本書紀に倭の五王が記載されていないというのを否定している

こちらは「根拠(こじつけの、ではないですが)」を示しましたよ
ということで、467の「九州説としての倭の五王が大和朝廷の大王ではないことの『根拠』」が示されるのを期待しながら待っています

>前後の王との兄弟親子関係が合わないよ。

宋書は倭国からの遣使があるたびに、その聞き取りの内容を記しているだけで、親子兄弟関係の系譜を記すのが目的ではないというのが先ず第一点
多数説では、讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、武=雄略となっていて、仁徳の子、反正の兄の履中は、遣使していないとされている
讃=仁徳の遣使のあと、珍=反正の遣使があるまで、仁徳が薨じて履中が即位したことは宋には伝わらないし、仁徳がずっと倭王であるという認識になる
そこへ、珍=反正の遣使が、先王の兄が死んだので弟が皇位に就いたと述べれば、先王が讃だと思っているので、「讃死弟珍立」という記述になるのは何の不思議もない

兄弟親子関係が合わないのを百も承知で、多数説を多くの人が支持しているのは、十分な妥当性を持つ説明が既にあるからですよ
それを認めないのは、九州王朝説を奉じる少数派の人たちだけでしょう

私は、十分に納得できる論拠を示してもらえば、考えを変えるのは吝かではないですよ
ということで、十分な妥当性を持つ「論拠」を示した上で、倭の五王が大和朝廷の大王ではないことを論証してください
期待していますよ!
0490日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:32:36.17
>>489
根拠がないことを指摘されたか逆ギレ。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:33:59.02
>>489
>ということで、467の「九州説としての倭の五王が大和朝廷の大王ではないことの『根拠』」が示されるのを期待しながら待っています

もともと関係がないわけだからねえ。
悪魔の証明だね。

聖徳太子が織田信長ではないことの根拠を示せというのとかわりない。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:35:22.57
>>489
>こちらは「根拠(こじつけの、ではないですが)」を示しましたよ

こじつけにしか聞こえない。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:36:21.43
>>481
>なるほど、通典は正史じゃないから適当なんだろね

正史かどうかではなく、同じ文脈の対応箇所がはっきりしている中国の史書で、「其山(出銅,)有丹。土氣溫暖」という訓点が公式に付けられているという話です
中国中央研究院や中国哲学書電子計画が、この訓点を付けています
なので、魏志倭人伝の中国中央研究院や中国哲学書電子計画の訓点が「其山有丹土、氣温腝」だから、「丹土が正しい」というのは根拠にならないということです
0494日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:36:33.73
なぜ倭武が雄略となるのか。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:37:29.86
>>492
>こじつけにしか聞こえない。

そういうのはいいからww

こじ付けでもなんでもいいから、「九州説としての倭の五王が大和朝廷の大王ではないことの『根拠』」を示してくださいな
0496日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:43:40.97
>>491
>聖徳太子が織田信長ではないことの根拠を示せというのとかわりない。

聖徳太子は、飛鳥時代の皇族
織田信長は、戦国時代の守護代の家系の傍流(元姓は平氏)

時代も、血統も異なるので聖徳太子は織田信長ではないと考えるのが妥当である
QED
簡単じゃないですか?
聖徳太子が飛鳥時代の人物であること、皇族であることを示す文献は多数ありますし、叡福寺北古墳が聖徳太子の墓である可能性が高いと認められています
織田信長は、信長公記に詳しい記述があり、同時代の公家の日記にも登場するので戦国時代の人間であること、平氏の流れである織田一族の人であることは客観的に認められます

先ずはこの程度でも構わないから、逃げ回ってないで「倭の五王が大和朝廷の大王ではない」ことを論証してごらん

「僕がそう思ったからそうに決まっている」というのは、論証とは言いません
がんばってください!
0498日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:44:39.16
畿内説というか、ヤマト王権の万世一系説を盲信して、古代史は嘘を嘘で塗り固めてきたんだな。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:47:31.19
>>493
>なので、魏志倭人伝の中国中央研究院や中国哲学書電子計画の訓点が「其山有丹土、氣温腝」だから、「丹土が正しい」というのは根拠にならないということです

それは、「土氣が正しい」というのも自ら否定しているねw
0500日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:48:44.06
>>495
後漢書では倭は九州北部だけど、それからも移動したという記事は旧唐書まではない。
だから倭とは九州のことと考えるべき。
倭王も九州王であり、畿内の「ヤマト王権」と関係するという根拠がない。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:53:54.68
>>480
>そもそも関門海峡が魏志倭人伝に出てこないから

その前に
南至投馬國「水行二十日」
南至邪馬壹國 女王之所都 「水行十日」陸行一月
の「水行」はどこを移動するのですか?
432でも訊ねたのですが、いまだに教えていただけません
九州説では、これをどのようにごまかしているのか教えてください
0503日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 13:56:30.14
>>430
仮に岡村編年が正しくても、畿内から出土した鏡が畿内勢がタイムラグなしで入手したものだとする証拠はあるのか?
九州勢が入手したものが後世になって畿内に移った可能性もある
ホケノが3世紀だとしたらいくつかの鏡はタイムラグなしで畿内に移っているが、大半は4世紀か5世紀の出土
岡村編年を畿内説の根拠にするなら畿内勢が直接入手した証拠を出さなければ根拠にならない
0504日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 14:01:38.85
>>499
>それは、「土氣が正しい」というのも自ら否定しているねw

いいえ、いちいち一度書いた文を再掲はしませんが、
魏志倭人伝と後漢書は、対応関係がはっきりしていて、後漢書は「土氣温腝」と読むのが妥当
魏志烏丸鮮卑東夷傳の挹婁の項の「土氣寒」にあたる倭国の後漢書の記述が「土氣温腝」
通典では「土氣溫暖」と中国中央研究院や中国哲学書電子計画も訓点を付けている
と、後漢書は「土氣温腝」と読む方が妥当であることを複数の論拠から示しています

単に「後漢書の中国中央研究院や中国哲学書電子計画の訓点はこうなっている」というのは、ただの権威主義で論証を放棄しているだけです
0505日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 14:04:27.76
>>501
水行は朝鮮半島の西岸と南岸、対馬海峡の渡海。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
0506日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 14:07:40.74
そもそも後漢書では水行の記事そのものがなく、九州北部で里程が終わっている。

後漢書における里程

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 14:39:18.43
>>507
>それはあなたが勝手に読んでるだけだね

魏志倭人伝と後漢書の対応関係は、「私」だけでなく誰の目にも明らかだと思いますが?
字数も揃っていますし、後漢書が魏志倭人伝の記述(あるいはその元本)に倣って記述しているのは明らかです
そして、烏丸鮮卑東夷傳の挹婁の「土氣寒」と後漢書倭の「土氣温腝」が、同じ形式の記述であることも明らかでしょう

これくらいのことすら、読み取れないのですか?
そして、通典では中国の本場の方も「其山出銅,有丹。土氣溫暖」と訓点を付けています
多数決ではないですが、後漢書の訓点の位置が間違っているとする方が、妥当でしょう

中国語は書けませんが、英語で中国中央研究院に、訓点の位置の訂正の提案を送っておきました
訂正されるかどうか、しばらく待ってみてください
0509日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 14:44:49.36
>>505
まずは簡単なところから
>水行は朝鮮半島の西岸と南岸、対馬海峡の渡海

朝鮮半島のところは循海岸「水行」と書いてありますが、「渡海」はわざわざ用語を変えているのに、それを「水行」にまとめる理由は何ですか?
0510日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 14:45:07.90
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 14:51:06.16
>>509
渡海も大まかには水行に含まれる。
後の方の水行は、ずっと船旅という程度の意味だろう。
里程と日程だから、まとめ方も違うのだろう。
水行10日はそもそもは不要な書き込み。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 14:54:22.16
>>511
なんで不要?
0513日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 15:01:10.30
魏略や後漢書にはないから。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 15:20:17.84
>>511
ずいぶんと都合のいい考え方ですね

それはとりあえず置いておいて、帯方郡からの総距離(日)数だと言うのが正しいとして、
邪馬台国行きは、「半島沿岸7日+渡海3回を3日」と見て「水行10日」という主張だとして
陸行一月はどのように換算するのですか?
末慮国から伊都国が五百里、伊都国から奴国が百里で、何日使うのですか?

それから、投馬国までは水行だけで行くとなると、末慮国では上陸しないのですか?
末慮国まで来てしまうと唐津湾に入り込んでしまって南へは水行できないと思うのですが、どこをどう通るのですか?
末慮国への旅程は無視するのですか?

疑問だらけですね!

さらに、帯方郡からの総旅程だとすると「南至邪馬壹國」の南至は、どのような意味になるのですか?
魏志倭人伝の冒頭に「倭人在帶方東南大海之中」と書いてあるのですから、総旅程なら「東南」に進まなければおかしいのではないでしょうか?

疑問は尽きませんね!

全て解決していただけると助かります
根拠は付けてくださいね!
0515日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 15:26:24.40
九州説の人は萬二千里を連呼するけど、その後ろの「計其道里、當在會稽、東冶之東」をどうして無視するんだろう?
魏志倭人伝の撰者の頭の中では、帯方郡から萬二千余里行くと、まさに會稽、東冶之東に行き着くはずなんだけど

會稽、東冶之東には北部九州はないよね?
0516日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 15:28:24.04
>>430
レスないけどギブアップでいいか?

仮に岡村編年が正しくても、畿内から出土した鏡が畿内勢がタイムラグなしで入手したものだとする証拠はあるのか?
九州勢が入手したものが後世になって畿内に移った可能性もある
ホケノが3世紀だとしたらいくつかの鏡はタイムラグなしで畿内に移っているが、大半は4世紀か5世紀の出土
岡村編年を畿内説の根拠にするなら畿内勢が直接入手した証拠を出さなければ根拠にならない
0517日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 15:35:01.40
>>513
>魏略や後漢書にはないから
という論法でよいなら、北史では
又南 水行 二十日,至投馬國
又南 水行十日,陸行一月,至邪馬臺國
と「又」の字が追加されていて、総旅程ではなく逐次の旅程であることが明示されているよ

「南至邪馬壹國(女王之所都)水行十日、陸行一月」式の書き方では、
まずある場所にいて     (投馬国)
そこからどちらの方角に行くか(南)
どこに着くか        (至邪馬壹國)
その間の距離(に当たる表記)(水行十日、陸行一月)
という形式で統一されている
大陸正史の旅程・地理の記事は、基本的にこのフォーマットに従っているよ

『水行十日陸行一月』を帯方郡からの全行程とする説は、漢文としては明らかな誤読
0518日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 15:41:26.07
>>514
>陸行一月はどのように換算するのですか?

大変な問題ですね。
畿内説や九州説のどちらでも、ここは1日の誤りとしているようです。
クレームが来るのは仕方ないけど。

>それから、投馬国までは水行だけで行くとなると、末慮国では上陸しないのですか?

投馬国までは末盧国による必要はないですね。
あくまでも倭人からの聞き取りの部分でしょう。
関門海峡の話も描かれないので、信頼性の低い話です。

>疑問は尽きませんね!

疑問はありますが、無理やり畿内にするよりはマシです。
畿内説がありなら、阿波説や吉備説でもよくなってしまう。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 15:41:57.10
>>503
>岡村編年を畿内説の根拠にするなら畿内勢が直接入手した証拠を出さなければ根拠にならない

私はそんなことは一切主張していませんよ?
岡村編年は関係なく、平原1号墓は卑弥呼の墓に比定することはできないと言っているのです

鏡が豪華だというのは、意味がないことは示したつもりですが?
そして何より、小さすぎます
0520日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 15:43:37.14
>>515
中国人の理解を表しているに過ぎないですね。
元の資料の作成者は短里で報告したのに、記録する側は調理と理解してしまっているのでしょう。
だから、案ずるに、と断ってあるのです。
0521日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 15:46:26.06
>>516
>仮に岡村編年が正しくても、畿内から出土した鏡が畿内勢がタイムラグなしで入手したものだとする証拠はあるのか?
平原1号墓に副葬された、漢鏡5期の「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」と漢鏡3期の「四螭二朱雀龍虎鏡」をどのように考えていますか?
岡村編年の絶対値が多少ずれていたところで、卑弥呼の時代よりざっと200年くらい古い鏡です
長年伝世していた鏡をなぜ平原の墓に埋葬しようとしたとお考えですか?
0522日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 15:46:37.58
>>517
>と「又」の字が追加されていて、総旅程ではなく逐次の旅程であることが明示されているよ

北史の編纂者も、魏志倭人伝から引用するときに畿内説と同じ読み間違いをしてしまったのだね。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 15:48:02.99
>>520
>元の資料の作成者は短里で報告した
ここの論証が、圧倒的に不足しているのですよ
九州説の人は「短里に決まっている」としか言いません
はっきりとした「論拠をつけて」論じてくれると助かります
0524日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 15:48:08.58
>>519
>鏡が豪華だというのは、意味がないことは示したつもりですが?

豪華なだけでなく、日中双方が王権の象徴として理解していたものです。
豪華だから、という表現は過小評価です。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 15:49:25.61
>>523
里程と実際の地理を比較すれば、短里で計測された記事であることは疑いの余地がないのだけれど。
0526日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 15:51:00.43
>>521
それだけ卑弥呼が偉大だったという可能性。
あとは、新しい鏡の国産化が進んでいたから。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:10:29.79
弥生時代の墓制は、家族墓として次々に追葬されていくある意味平等な集合墓から、有力家系の墓が特定領域に営まれるようになり、さらにただ一人の特別な人物=首長の卓越した墳墓へと、社会構造の変化に伴って移り変わっていく様子が見られる

北部九州では、早良平野の吉武高木遺跡では、有力家族墓が認められその中でも特に卓越したものが王墓とされることもあるが、後に続く応募が見られなくなる
末慮国では 宇木汲田遺跡 中期前半(前二世紀前半)
伊都國では三雲南小路遺跡 中期後半〜中期末(前一世紀後半?)
      井原鑓溝遺跡 後期中ごろ(一世紀終わりごろ)
奴国では  須玖岡本遺跡 中期後葉〜末(一世紀初めごろ)
が王墓と見られるだけの卓越性を示している
前述のように、三雲南小路遺跡、須玖岡本遺跡の王墓は、一辺30メートル規模の墳丘があったと考えられている
しかしこれらは、吉武高木遺跡同様に、後に続く王墓が見られなくなる

一方、北部九州以外では1世紀頃までの「王墓」は見出せない
その意味で、北部九州は確かに先進地域「だった」と言える

しかし、北部九州で王墓が見られなくなった後、各地の王権が成長し巨大な王墓が作られるようになる
繰り返しは避けるが、出雲、吉備、丹波、大和には数代に渡って王墓が連続して営まれ、巨大な墳丘が作られる
この地方王権の成長は、卑弥呼共立前の倭国乱の前後の時期にあたると考えられる

巨大な墳丘墓は、他地域に対する動員力=戦力の誇示であり、国力を端的に示すものだ
平原1号墓は大きくないけれども副葬品が豪華、という書き込みもあるが、丹波の大風呂南一号墳墓の副葬品はガラス釧に加え 全国最多の11本の鉄剣が出土しており、平原一号墓よりも充実している

北部九州がかつて先進地域「だった」のは私も認めるが、3世紀の時点では見るべき王墓もなく、各地の地域王権の成長から取り残された地域と見るべきで、邪馬台国に比定すべき遺跡も固有名詞を挙げられない
0530日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:11:34.50
むしろ日本国内を魏の里で
表記した例はない。

倭人伝でも倭の習慣である日数で表記している。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:18:04.48
>>524
>豪華なだけでなく、日中双方が王権の象徴として理解していたものです。
>豪華だから、という表現は過小評価です。

「鏡が豪華」ではないというのは、九州説論者がよく平原1号墓には舶載の漢鏡が多数副葬されていて、北部九州が大陸との交流が盛んだったことの証座だと主張していたことへの反証です
平原1号墓には、舶載鏡は2面しか副葬されていません
残りは全て仿製鏡と判定されています
舶載鏡1,2面程度の弥生墓は多数あるので、舶載鏡の量を以って平原1号墓を王墓と判断するのは無理、ということです
0532日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:19:41.04
>>528
>単に伝世された鏡も副葬しただけ
それでよいのであれば、畿内の古墳から出る鏡も「単に伝世した鏡を副葬した」だけで問題ないですね!
0533日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:22:22.91
>>522
>魏志倭人伝から引用するときに畿内説と同じ読み間違いをしてしまった

いいえ、中国の史書編纂にあたる人が、普通に読めば普通にそう読めるということですから、
九州説で「水行十日陸行一月を帯方郡からの総旅程と読む」というのが、恥ずかしい読み間違いってことですよ
0534日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:35:33.22
>>525
>里程と実際の地理を比較すれば、短里で計測された記事であることは疑いの余地がない

いいえ、現実と合わない数値が記されていることが分かる「だけ」です
九州に上陸後の比定地でほぼ異論がないのは
末慮国(松浦)
伊都国(糸島)
奴国(福岡平野)
くらいですが、それぞれを代表的な王墓遺跡の位置を基準に直線距離で計ると
末慮(宇木汲田遺跡)−伊都(三雲南小路遺跡)間 26キロ
伊都(三雲南小路遺跡)ー奴国(須玖岡本遺跡)間 20キロ
になります
これが、それぞれ魏志倭人伝では五百里と百里なので
末慮−伊都間 26キロ/五百里  一里=52メートル
伊都ー奴国間 20キロ/百里   一里=200メートル
となって、4倍程度違ってしまいます

「短里」という魏晋里を一定の割合で縮めた「きちんとした尺度」があると考えるのは無理で、
里程はあてにならないとするしかありません
0536日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:40:46.14
>>518
>畿内説や九州説のどちらでも、ここは1日の誤りとしているようです。

畿内説でも日本海経路を採用する人は、1月のままでよいとしていますよ?
その場合は、投馬国に四隅突出墓の王国、出雲国をあて、五万戸の大国だからわざわざ投馬国を経る経路を選んだと考えます
1月のままで解釈できる旅程が具体的に挙げられるのですから、1日の誤りとする必然性はありません
0537日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:43:37.06
>>518
>関門海峡の話も描かれないので、信頼性の低い話です。

信頼性が低いといってしまったら、「なんでもあり」になりませんか?
考古学的証拠は圧倒的に畿内説有利で、魏志倭人伝の解釈以外に九州説の寄る辺はないのですが、信頼性が低いと切り捨ててよいのですか?

単に、水行20日、水行10日陸行1月を、帯方郡からの総旅程としたのが間違っているだけではありませんか?
0539日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:46:57.31
>>518
>無理やり畿内にするよりはマシです。

畿内説の旅程は、日本海経路では特に無理やりではないですよ

福岡付近から、出雲まで水行20日
ただし出雲の場所が決めがたく、
出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野か、
熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野か、
あるいは妻木晩田遺跡のある大山付近か、いずれかが候補

そこから丹波へ行くまでが水行10日
丹波の上陸地点は、網野銚子山古墳のある網野町か、神明山古墳のある丹後町竹野の竹野川河口付近
地名からすると記紀に丹波竹野媛(開化天皇妃)があることから竹野が有力、地形的には離湖という潟湖がある網野かな、とも思う

どちらに上陸したとしてもそこから陸行で京丹後市役所のある峰山付近を通って丹後半島を横断
横断したところが籠神社のある与謝野町、そこから野田川沿いに遡っていくと蛭子山古墳がある
福知山付近を通って、山陰本線に近いルートで亀岡まで来ると、丹波国一ノ宮の出雲大神宮がある
亀岡から桂川沿いに京都盆地に入り、巨椋池を経て木津川を遡り平城山を越えて奈良盆地に入って纏向ってルートでいいだろう

水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい

こんな感じで、それほどの不自然なく、大和盆地まで届きます
ご自分でもこの経路を確認してみてください
0541日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:52:42.25
>>535
>畿内勢には入手ルートがない

一行レスでしたり顔をして済ませずに、根拠を書いてくださいと何度もお願いしているのですが?
出雲が、半島大陸と交流があったのは出土土器からも確実
そして、出雲と畿内の交流も確実

であれば、日本海経由で大陸の産物を入手できるのはそれこそ議論の余地もなく、当たり前にできると思うのですが?

それができないと主張するのであれば、「根拠」をつけて論証してください
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:53:03.73
>>532
>>528
>>単に伝世された鏡も副葬しただけ
>それでよいのであれば、畿内の古墳から出る鏡も「単に伝世した鏡を副葬した」だけで問題ないですね!

その通りです。
だから、畿内の大型前方後円墳が3世紀のものと考える根拠はないのです。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:55:27.23
>>531
>残りは全て仿製鏡と判定されています

弥生期においてはむしろ傑出した墓だということです。

>舶載鏡1,2面程度の弥生墓は多数あるので、舶載鏡の量を以って平原1号墓を王墓と判断するのは無理、ということです

三雲南小路以降は、1、2枚程度では王墓とはみなせません。
時代をごちゃ混ぜにした論議は良くないですね。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:56:24.16
>>540
>大和盆地に人が暮らした痕跡がないのはなんで?

いつの時代のことをおっしゃっているのでしょうか?
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
を読んでみてください
大和盆地の集落の消長についての、現時点で最も詳しい論文です

「縄文時代晩期後半の突帯文土器様式」の出る遺跡から、ヤマト盆地には人が住んでいますよ
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:56:33.08
>>529
>この地方王権の成長は、卑弥呼共立前の倭国乱の前後の時期にあたると考えられる

根拠なし。
卑弥呼の亡き後の混乱かもしれません。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:57:07.59
>>529
>平原1号墓は大きくないけれども副葬品が豪華、という書き込みもあるが、丹波の大風呂南一号墳墓の副葬品はガラス釧に加え 全国最多の11本の鉄剣が出土しており、平原一号墓よりも充実している

武器が多いのは女王墓ではありません。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:58:37.87
>>543
>三雲南小路以降は、1、2枚程度では王墓とはみなせません。
>時代をごちゃ混ぜにした論議は良くないですね。

???
だから、舶載鏡が2枚しか出ない平原1号墓は王墓とはみなせないと主張しているのですが?
平原1号墓は「三雲南小路以降」で「舶載鏡1、2枚程度」ですから
0548日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 16:58:46.91
>>531
>平原1号墓には、舶載鏡は2面しか副葬されていません
>残りは全て仿製鏡と判定されています

だからこそ平原遺跡は画期的であり、卑弥呼政権下での新しい秩序を示しているとも言えます。
他にめぼしい墳墓がなくなることも、平原女王への中央集権化を示すものです。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:00:05.83
>>533
>いいえ、中国の史書編纂にあたる人が、普通に読めば普通にそう読めるということですから、

陳寿が余計なことを書き加えたので、後世の誤解を招いたのです。
しかし、魏志倭人伝より前の魏略に日程情報はありません。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:01:28.13
>>545
>卑弥呼の亡き後の混乱かもしれません。

例えば、丹波の首長墓は6代程度の連続した造墓が数えられ、そのまま古墳時代に入ります
卑弥呼後の混乱も、共立前の倭国乱も6代あれば十分入るでしょ?
一世代20年としても、6代で120年になるので
0551日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:03:02.47
>>548
それは弥生ほう製鏡の古い秩序で、大陸と交流できなくなってた最末期だよ
鏡を配ることも出来ない弱体化した地方政権だ
0552日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:04:14.41
>>541
出雲経由で入手とは笑止
ただの妄想
出雲から中国鏡がほとんど出ないのに何を言ってるんだ?
九州勢を経由する以外に畿内は入手ルートはない
0553日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:05:47.36
>>549
それは根拠が無い
魏略は断片しか残ってないんだから
0554日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:06:31.81
>>548
>他にめぼしい墳墓がなくなることも、平原女王への中央集権化を示すものです

ほかにめぼしい墳墓がないのは九州ローカルの話で、倭国全体では地域首長の王墓級墳丘墓が多く作られています
九州限定で時代を語るのは、恣意的であり無理があると思いませんか?

邪馬台国の時代の直後には古墳時代に入るのですが、そのときには九州も定式化した前方後円墳を古墳時代初期から作り始めています
九州でも古墳時代の開始と同時に他地域と協調的な墓制の転換があって、それでいてその直前の時代には倭国は九州だけで、他地域とは交流がなかったとするのは無理があると思いませんか?
0555日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:09:52.05
>>549
陳寿が書き加えた余計なことって、なに?
0556日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:13:18.73
>>552
>九州勢を経由する以外に畿内は入手ルートはない

だとしても、畿内説では伊都国に一大率を置いたのは畿内勢力なのだから、九州と通り道として経由しても鏡は手に入るよね?

では、以下の鏡の入手経路をどのように考えるのが説明してくれ

桜井茶臼山古墳から出た鏡は、判定できたものだけで81面
その内訳は
三角縁神獣鏡       26面
内行花文鏡(国産)    10面
内行花文鏡(舶載)     9面
画文帯・斜縁・四乳神獣鏡 16面
半肉彫神獣鏡        5面
環状乳神獣鏡        4面
だ龍鏡           4面
細線獣帯鏡         3面
方格規矩鏡         2面
単き鏡           1面
盤龍鏡           1面

平原1号墓よりも、鏡の種類も枚数も圧倒的に多いよ
平原1号墓の舶載鏡2枚が伝世鏡だというのだから、これらも伝世鏡で問題ないよな?
0558日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:14:55.08
>>544
>いつの時代のことをおっしゃっているのでしょうか?

当然、ヤマト王権の時代のことだよ。 ざっと読んだが消滅したことしか書いていない。
ヤマト王権があったなら、人が暮らした痕跡があるはず。 だが無い。

>「縄文時代晩期後半の突帯文土器様式」の出る遺跡から、ヤマト盆地には人が住んでいますよ

縄文時代にヤマト王権はないので、無関係。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:18:02.64
>>546
>武器が多いのは女王墓ではありません。

「女王」かどうかを問題にしているのではなく、権威材をどれだけ副葬できるかという、「王としての権力の大きさ」を問題にしています
大風呂南墳丘墓が、卑弥呼の墓だと言っているのではなく、大風呂南墳丘墓以下の副葬品で大倭王の墓と考えるのは無理だろう、という話です
0560日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:18:32.61
>>556
>だとしても、畿内説では伊都国に一大率を置いたのは畿内勢力なのだから、九州と通り道として経由しても鏡は手に入るよね?

循環論法www
一大率を置いたのが畿内勢だということを先に証明しろよw
0561日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:22:33.50
>>558
>当然、ヤマト王権の時代のことだよ。 ざっと読んだが消滅したことしか書いていない。
>ヤマト王権があったなら、人が暮らした痕跡があるはず。 だが無い。

纏向遺跡を何だとお考えですか?
人もいないのに大遺跡が作られたとお考えですか?
纏向編年の基礎となる、庄内式土器や布留式土器が、飯炊き甕であることはご存知ですか?
編年に使えるほど大量にいろんなところで出る飯炊き甕で炊いたご飯を食べる人がいなかったとお考えですか?

もう少し、九州説ありき、ではないものの見方ができるようになるといいですね
寝ぼけたことを言う暇があるようなら、「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)をきちんと読んでみてください
あなたの疑問に対する答えは一通り書いてあると思いますよ
0562日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:28:04.69
>>560
どこにも循環は無い。

一大率を置いたのが畿内勢だ、というのが畿内説なんだから
「九州勢を経由する以外に畿内は入手ルートはない 」などと言っても畿内説への反論にならない
ってこと。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:28:16.72
>>560
>一大率を置いたのが畿内勢だということを先に証明しろよw

逆質問ですか? 根拠のない人のすることの定番ですね! (2度目)

そもそも、九州説の言うように邪馬台国が北部九州で伊都国に程遠からぬところにあるのであれば、一大率をおく必要がないんですよ?
ここのところ、理解していますか?
邪馬台国が伊都国の近くにあるのなら、一大率などという代官を置かずに、直接統治すれば済むというのは理解できますか?
水行、陸行合わせて2ヶ月かかるような遠地に、女王の都邪馬台国があるから、一大率を置く必要があるのです

この論証では、畿内勢だという論証にはなりませんが、水行20日+10日、陸行1月が、北部九州からの旅程であり、帯方郡からの総旅程という読み方が間違いというのと合わせて、九州説の言うような近隣には邪馬台国はないことの論証には十分ですよ
0564日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:29:02.35
>一大率を置いたのが畿内勢だ、というのが畿内説なんだから

そりゃ、無茶だろ
0565日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:31:02.22
>>557
>そもそも平原王墓は三世紀じゃないだろう。
557さんは畿内説の人ですか?

とりあえずは、平原一号墓が卑弥呼の墓であるという九州説の妄言を否定するのが、現状の目的です
3世紀ではないことを認めていただければ、それだけで「卑弥呼の墓」は否定されますね
0566日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:31:05.95
>>564
なんで無茶?
0567日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:33:29.64
>>563
>水行、陸行合わせて2ヶ月かかるような遠地に、女王の都邪馬台国があるから、一大率を置く必要があるのです

その園地に一大率(筑紫忌部)を置いたのは、当然倭国(阿波)  一件落着しました。  @阿波
0568日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:34:04.61
>>542
>その通りです。

その通り(畿内の古墳の鏡は伝世品)であれば、畿内に十分に大陸の舶載鏡が届いていたことを認めてくださるんですね?
つまり、九州だけが独占的に大陸との交易をしていたというのは意味がない、と
0569日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:34:09.54
>>565
というか、なんで平原王墓が三世紀だと主張するのか聞いて、根拠がなければ「卑弥呼の墓だー」説は終わりでしょ
0570日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:36:18.03
>>542
つか、なんで根拠がなくなるわけ?
0571日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:36:52.90
>>568
畿内に十分に大陸の舶載鏡が届けていたのは、倭国(阿波)の忌部一族ですね。  @阿波
0572日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:38:49.91
>>562
つまり反論の根拠は畿内説が正しいという「仮定」だということだな
その仮定はこっちからすると妄想にしか見えないがな
0573日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:41:12.93
>>572
ちゃうちゃう
反論ちゃう

あんたの主張が畿内説を否定してないってだけ
0574日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:42:30.16
九州も畿内も無駄な論争はやめにしたら? 西日本の交流はみんな忌部一族の仕業だから。 
みんな忌部一族に振り回され過ぎ。  @阿波
0575日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:42:33.60
>>572
妄想に見える、という理由は?
0576日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:43:59.65
>>563
質問なんかしてないぞ
循環論法で反論してるから論破しただけ

一大率を伊都国に置いてるから邪馬台国は遠くにあるはずというのもただの仮説に過ぎない
しかも論点とはずれてる
0577日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:44:48.07
少なくとも、弥生時代に日本中を駆け巡ったのは、忌部一族しかいないんだから。  @阿波
0578日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:48:06.64
>>576
循環論法で反論してると証明できてないので
だれも論破できてない
0579日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:48:53.94
>>573
意味不明すぎる
こっちの主張
九州勢を経由する以外に畿内は入手ルートはない

おまえの反論
畿内説が正しければ一大率を伊都国に置いていたのだから入手ルートはある

見事に循環してるw
0580日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:49:07.66
>>576
どう論点とずれてるの?
0581日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:50:00.64
>>579
ひとの主張をねつ造しちゃダメでしょ
0582日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:52:37.72
九州説の人は根拠なくいろんなことを言うけれど、根拠を問われると逆ギレするんだよなぁ

そして、とにかく論破したから論破したんだーって言い出す

もう少し、論証というものができるといいのだけれど
0583日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:53:49.05
>>579
>九州勢を経由する以外に畿内は入手ルートはない

これの、論拠つきの論証を求められているのは分かりますか?
あなたの脳内ではそうなっている、では誰も論破できませんよ?
0584日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:55:35.39
>>579
なにが循環してるの?

「九州勢を経由する以外に畿内は入手ルートはない 」
という主張は

「畿内勢力が一大率を北部九州に置いて外交を統制していた」
という畿内説に対して、なんの反論にもなっていない

まったく無力ってことだけど?
0586日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:58:49.71
>>539
>陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい
1日5.67kmか、すごい藪漕ぎだねえ
0587日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 17:59:40.73
>>534
>里程はあてにならないとするしかありません

当時はそれくらいの測定誤差があったということ。
測定器を使ったわけではないのだろう。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:00:49.42
>>579
例えばよく、九州説の人は「鉄がー」って言いますよね?
579の言い分に合わせて書けば「畿内では九州経由以外で鉄は手に入らないんだー」って
でも例えば、546にも書いたように大風呂南一号墓では、九州でも見られないほど多くの鉄剣が出土しています
これらは、九州経由での入手だと証明できますか?
九州以外でも、多くの鉄を入手している地域がありますよね?
鉄が入手できて、他の物が入手できないとする理由がありますか?

たぶん579は「理由がある」という主張をなさるのでしょうから(∵九州経由ではないとダメだから)、その理由を根拠をつけて論証してくださいと行っている訳です
ほら、逆質問に逃げたりせずに、さっさと答えてみたんさい!ww
0589日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:00:54.44
>>536
>畿内説でも日本海経路を採用する人は、1月のままでよいとしていますよ?

九州説でも一部の人はそのままです。
しかし、それはお互いに主流派ではないようです。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:01:36.59
>>579
>九州勢を経由する以外に畿内は入手ルートはない

そうですね。畿内には忌部一族のようなものがいないから。  @阿波
0592日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:04:11.01
>>537
>考古学的証拠は圧倒的に畿内説有利で、魏志倭人伝の解釈以外に九州説の寄る辺はないのですが、信頼性が低いと切り捨ててよいのですか?

考古学的に畿内説、特に纒向はないですよ。

>単に、水行20日、水行10日陸行1月を、帯方郡からの総旅程としたのが間違っているだけではありませんか?

その可能性を完全に否定するわけではありませんが、魏の使いが伊都国まではあれほど細かい報告をしながら、関門海峡などを記載していないのは、そもそも関門海峡より東に行っていないためです。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:04:34.38
>>587
>当時はそれくらいの測定誤差があったということ。
>測定器を使ったわけではないのだろう。

ごまかしがひどいな
測定誤差云々の前に、きちんと検証できる二点間距離が2箇所しかなくて、それが4倍違ったら意味のあることは「何も言えない」ということ
「短里」などという「測れる距離」は想定できない
それだけのことがなぜ理解できないんだろう?

といいつつ、理由は分かってるんだがな
それだけが、九州説の最後の拠り所だから、「短里」などというトンデモを捨てられない
0594日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:05:07.55
>>589
べつに瀬戸内ルート説でも1月のままだし
みだりに1日に変えるほうが一部の人でしょ
0595日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:05:17.41
>>588
>でも例えば、546にも書いたように大風呂南一号墓では、九州でも見られないほど多くの鉄剣が出土しています

だから、忌部一族しかいないでしょ。  @阿波 
0596日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:05:55.29
>>539
>畿内説の旅程は、日本海経路では特に無理やりではないですよ

無理やりというのはルートの問題ではありません。
考古学的に纒向が貧弱すぎるからです。
日本海ルートそのものは存在していたし、当時の主要交通路だったはず。
でも、その物流中心は九州北部です。
0598日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:07:00.94
>>541
>であれば、日本海経由で大陸の産物を入手できるのはそれこそ議論の余地もなく、当たり前にできると思うのですが?

日本海の国々は大陸の産物にアクセスできたでしょう。
でもそれは王都であるかどうかとは別の話です。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:07:35.06
>>592
>・・・関門海峡などを記載していないのは、そもそも関門海峡より東に行っていないためです。

じゃ、糸島富士や博多湾を記載してないのは北部九州に来てないから、でいいな?
0601日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:08:05.12
>>599
どう問題?
0602日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:08:05.54
>>544
>「縄文時代晩期後半の突帯文土器様式」の出る遺跡から、ヤマト盆地には人が住んでいますよ

人が住んでいないとは言いませんが、九州北部の圧倒的な物量と比較すると、ただの田舎です。
田舎自慢にしかなってません。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:08:52.50
>>602
なんか客観的根拠あるの?
0604日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:09:04.50
>>553
畿内説にとって都合が悪いから無視しているだけ。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:10:05.09
>>602
箸墓古墳建設って、圧倒的物量なんだけど
0606日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:10:36.83
>>604
だと言う証拠は?
0607日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:10:36.87
>>554
>ほかにめぼしい墳墓がないのは九州ローカルの話で、倭国全体では地域首長の王墓級墳丘墓が多く作られています

王墓級というのは大きさですか?
王墓の定義は大きさではないと思いますよ。

>邪馬台国の時代の直後には古墳時代に入るのですが、そのときには九州も定式化した前方後円墳を古墳時代初期から作り始めています

つまり、魏の使いがいた九州を含めた全国的な変革は、卑弥呼の死後なんです。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:10:51.97
>>555
>>549
>陳寿が書き加えた余計なことって、なに?

日程情報
0610日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:12:07.30
>>596
>日本海ルートそのものは存在していたし、当時の主要交通路だったはず

であれば、九州のみの倭国はありえないし、出雲も使譯所通三十國に入るのが当然だし、そうなると西谷墳墓郡が作れる出雲国の方が、3世紀にめぼしい王墓の作れない北部九州(伊都国、奴国)の方が大きな勢力な訳です
この状態で、北部九州に大倭王がいる余地がありますか?
0611日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:12:18.06
>>609
とりあえず畿内説スレのテンプレ読め
0612日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:13:06.27
>>608
それが、なんで余計なの?
0613日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:14:05.45
>>607
大きさでないと思う理由は?
0614日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:16:05.07
>>607
>王墓の定義は大きさではないと思いますよ。
大きさだけではないと主張するのは607の自由ですが、大きな墳丘墓を作るには大量の人数を動員する必要があり、その動員を可能にする権力を王権と見る訳ですから、それぞれの地域で突出した巨大な墳墓はそれだけで背後の王権を想定できます
なので、数十メートルを超える墳丘を持つものは、それだけで王墓級として注目されることになります
0615日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:18:02.52
結局、倭の五王が大和朝廷の大王ではないという論証は、黙って逃げるのかな?

聖徳太子と織田信長ではないという論証はやって見せたよな?
0616日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:18:07.53
>>607
>>邪馬台国の時代の直後には古墳時代に入るのですが、そのときには九州も定式化した前方後円墳を古墳時代初期から作り始めています

>つまり、魏の使いがいた九州を含めた全国的な変革は、卑弥呼の死後なんです。


どうして?

王の墓があるということは、その前に
王の治世があったということ、なんだけど?

全国的な変革って
王が退場時に始まる?
王が登場したときに始まる?
0617日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:21:32.05
そもそも、北部九州で王が居そうなところ(あるいはかつて居たところ)が、奴国と伊都国、おまけしてついでに末慮国くらいしかない

畿内勢は、九州経由でないと文物が手に入らないとか言っている人がいるが、奴国、伊都国、末慮国以外で、舶載鏡や鉄剣などを奴国、伊都国、末慮国より多く持っている地域が九州にあるのか?
あったら教えてくれ

なければ、その時点で九州説は机上の空論以下の、妄想の産物でしかない
0618日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:26:55.75
>>598
>日本海の国々は大陸の産物にアクセスできたでしょう。

実際、アクセスできていますし、漢鏡4期、5期あたりの舶載鏡が出土する古墳もあります
つまり、552以下の「九州勢を経由する以外に畿内は入手ルートはない」というのは552の妄言ということでよろしいですね

>でもそれは王都であるかどうかとは別の話です。

漢鏡4期、5期あたりの舶載鏡が出土する古墳と、同程度の舶載鏡2枚しか出ない平原1号墓は王都の王墓とは見られないというのはよろしいですね?
0619日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:29:27.29
>>591
>大倭王は卑弥呼だろ

そうですよ?
だから、大風呂南1号墳以下の副葬品しかない平原一号墓は、大倭王の墓ではない=卑弥呼の墓ではないと言っているんですが?
大風呂南1号墳を、卑弥呼の墓であるとか、女王の墓であるとか、大倭王の墓であるとか、誰が主張していますか?
0620日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:35:14.86
>>615
倭の五王が大和朝廷の大王という論証は、黙って逃げるのかな?
0621日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:38:10.59
>>617

奴国、伊都国、末慮国以外で、舶載鏡や鉄剣などを奴国、伊都国、末慮国より多く持っている地域が畿内にあるのか?
0622日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:38:29.59
>>620
同じころ列島最大級の古墳がある地域の大王
ということで問題なし
決着ずみ
0623日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:39:33.30
>>621
奈良県
0624日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:41:38.66
>622
列島最大級の古墳があるが大王がいた痕跡がない
0625日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:43:11.49
>>624
ないと言う理由は?
0626日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:45:23.17
>>557
>そもそも平原王墓は三世紀じゃないだろう。

根拠は?
0627日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:45:54.60
ないものはない あればだしてみろ
0628日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:46:21.53
>>624
一体なにがあれば、九州説は大王がいた痕跡と認めるわけ?
0629日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:48:07.35
人が暮らした痕跡
0630日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:48:16.06
>>563
>そもそも、九州説の言うように邪馬台国が北部九州で伊都国に程遠からぬところにあるのであれば、一大率をおく必要がないんですよ?

ありますよ。
卑弥呼はあくまでも祭祀と外交を行うわけですから、現在の象徴天皇制と似ています。
実務者が必要であり、それが一大率です。
卑弥呼が福岡にいても、それは必要です。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:48:16.79
>>627
まるで駄々っ子だな
0632日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:49:23.55
>>626
土器と鏡の編年ですが、何か?
0633日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:49:28.64
>>565
>3世紀ではないことを認めていただければ、それだけで「卑弥呼の墓」は否定されますね

平原を2世紀と言う人もいれば4世紀と言う人もいる。
でも、2世紀と言うのは無理がありますよ。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:49:51.19
>>620
>倭の五王が大和朝廷の大王という論証は、黙って逃げるのかな?

逆質問ですか? 根拠のない人のすることの定番ですね! (3度目)
本当に恥も外聞もないんですね(呆れ)

大和朝廷の大王であるという論証は、私がしなくても世の中にいくらでもあるでしょう
倭王讃の比定はともかく、倭王武が雄略天皇というのは鉄板の定説です

そして、概略は489に、私説も含めて概説してあります
489を認めないと強弁しておいて「黙って逃げるのかな?」と615のオウム返ししかできないのは、正直哀れに思うよ

ということで、620も自分の信ずるところがあるなら、稚拙でも恥さらしでもなんでもいいから、とにかく自分の思うところを書いてごらん
それすらできないなら、倭の五王は定説どおり、大和朝廷の大王であると認めればいいよ
0636日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:49:53.36
>>569
イミフ
0637日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:50:32.99
>>630
それじゃ、刺史の如くであるという倭人伝はウソ書いてるの?
0638日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:50:34.29
畿内説の人は根拠なくいろんなことを言うけれど、根拠を問われると逆ギレするんだよなぁ

そして、とにかく論破したから論破したんだーって言い出す

もう少し、論証というものができるといいのだけれど
0639日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:51:15.06
>>638
とうとうオウム返しまででたぞw
0640日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:51:41.51
>>588
>これらは、九州経由での入手だと証明できますか?
>九州以外でも、多くの鉄を入手している地域がありますよね?

九州経由以外でどう入手するのか教えてください。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:52:24.82
>>605
>>602
>箸墓古墳建設って、圧倒的物量なんだけど

井の中の蛙
0643日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:52:40.16
>>634
>倭王讃の比定はともかく、倭王武が雄略天皇というのは鉄板の定説です

だからなんでそれが大和朝廷の大王ってきめつけるんだよ?
0644日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:53:01.65
>>613
>>607
>大きさでないと思う理由は?

大きさだと言う根拠は?
全国に大型前方後円墳があるのに?
0645日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:53:27.54
>>636
なんでイミフなんだ?
三世紀の墓だという根拠が無ければ
卑弥呼の墓だと主張するの無理でしょ?

思考停止?
0646日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:53:34.70
>>614
>なので、数十メートルを超える墳丘を持つものは、それだけで王墓級として注目されることになります

王墓級と王墓をごちゃ混ぜにしている。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:55:25.92
>>644
前方後円墳には築造企画に統一性があり、規則的なサイズで序列が明らかだから
0649日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:55:38.01
>>616
平原女王の即位により集権化して、文化水準が向上し、死後は各地に在地の勢力が増えるわけですよ。
しかし、倭国大乱より後でそのような影響を持ちうる女王は、卑弥呼しかいないわけです。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:56:19.36
>>646
混ぜてない
王墓は王墓級である
0651日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:56:32.23
>>617
>畿内勢は、九州経由でないと文物が手に入らないとか言っている人がいるが、奴国、伊都国、末慮国以外で、舶載鏡や鉄剣などを奴国、伊都国、末慮国より多く持っている地域が九州にあるのか?

ないでしょう。
だから、それらの地域が女王国なんですよ。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:57:06.96
>>649
そんな事実がある、という根拠は?
0653日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:57:07.90
>>618
>実際、アクセスできていますし、漢鏡4期、5期あたりの舶載鏡が出土する古墳もあります

九州経由の伝播です。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:57:39.58
>>621
>奴国、伊都国、末慮国以外で、舶載鏡や鉄剣などを奴国、伊都国、末慮国より多く持っている地域が畿内にあるのか?

逆質問ですか? 根拠のない人のすることの定番ですね! (4度目)

この時点で、九州説全員がそうだとは言いませんが、621は語るべき根拠もなく九州説を妄信しているだけの人ってことでいいですね?

例えば、鉄鏃はホケノ山古墳一つで、60本出ています
鏡は先に記した桜井茶臼山古墳が一つの墳墓からの出土量としては圧倒的
畿内の大古墳は軒並み天皇陵指定を受けていて発掘できない&その直前の纏向古墳群は埋葬主体部が既に失われていて発掘できない、だけで、鉄製品にしても舶載鏡にしても、畿内大和盆地の出土量は圧倒的ですよ
天皇陵指定されていない大古墳である桜井茶臼山やメスリ山古墳、それから畿内としては大古墳ではないので天皇陵指定されていないホケノ山程度でも、九州よりも多くの遺物が出ます

それを九州説の人は、「古墳は時代が違うから」で思考停止して認めないだけです
0655日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:57:41.61
>>623
根拠は?
0656日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:57:57.50
>>628
三種の神器
0657日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:58:01.01
>>651
奴国は畿内の影響下なんだけど?
0658日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 18:58:22.84
>>628
金印
0659日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:00:29.44
>>647
中国の刺史のようなものだ、という倭人伝を九州説が無視するなら、九州説は終わりでしょ
0660日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:00:35.52
>>643
>だからなんでそれが大和朝廷の大王ってきめつけるんだよ?

違うと主張するなら、「根拠」を挙げて論証してください
それができず、ただ言い募るだけなら言葉の不自由な幼児と同じレベルですよ

違うと主張すること自体は咎めませんから、根拠つきの論証を早よ!!
0661日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:01:07.76
>>637
後の倭王が都督の称号を要求したのと同じで、中国から見た地方官は、その地域の王です。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:01:33.24
>>658
じゃ、卑弥呼の金印も五王の金印もない九州は失格確定だね
0663日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:01:53.99
>>645
むしろ、2世紀の可能性が低いから、3世紀でしょう。
ザラコク氏は4世紀らしいですが。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:03:06.89
>>648
その序列を捻じ曲げて、全国に中小の前方後円墳が作られるよりも前に箸墓が作られたことにしてしまったのがおかしい。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:03:37.20
>>650
王墓級であっても王墓ではないのに、王墓であったかのようなものの言い方をしている。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:03:48.64
>>635
>あんた

もう、635を日本語で論理的な思考のできる人間と思うのはやめにします
あとは生温かく適当にあしらうので悪しからず
0667日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:04:51.39
>>661
>後の倭王が都督の称号を要求したのと同じで、中国から見た地方官は、その地域の王です。

中国から見て、倭王はべつに朝鮮半島の王ではないが?
0668日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:05:38.04
>>654
卑弥呼より少し後に、九州から畿内に攻め込んだ人たちが九州と同じような副葬品を使っていただけ。
畿内が九州の文化的影響を色濃く受けていた証拠を並べて、どうして畿内説になるの?
0669日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:06:05.50
>>665
王墓でないって根拠は?
0670日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:06:46.12
>>657
>>651
>奴国は畿内の影響下なんだけど?

根拠は?
0671日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:07:56.54
>>660
>>643
>>だからなんでそれが大和朝廷の大王ってきめつけるんだよ?
>違うと主張するなら、「根拠」を挙げて論証してください

大王だと主張する方がその根拠を示してくれよ。
悪魔の証明かよ。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:09:20.53
>>667
おいおい、ぜんぜん違うだろ

倭王は中国にとっての都督になった
一大率は倭王にとって刺史に似た官

根本的に違う
0673日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:10:06.78
>>663
低いって理由は?
0674日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:10:41.17
>>651
>ないでしょう。

ないことまでは認めるのですね?

>だから、それらの地域が女王国なんですよ。

魏志倭人伝では「卑弥呼を共立した倭国連合」という意味で、女王国という言葉を使っている部分があるので、この一行自体は間違いとは言いません
しかし、女王之所都=邪馬台国へは、水行20日+10日、陸行1月の距離が、伊都国・奴国からはあることが魏志倭人伝に明記されているので、伊都国・奴国周辺が、邪馬台国であるというのは、魏志倭人伝の記述を否定しない限り通りません

「ない」ことを認めるなら、九州に邪馬台国があるとする説は、成り立ちません
0675日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:13:09.60
>>661
誰が倭王を都督の称号を授与した?
だれが一大率を置いた?

デタラメもたいがいに
0676日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:14:24.88
>>642
だという理由は?
0677日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:16:20.98
>>656
アホですか?

王位のしるしが土から出て来たなら、滅んでるでしょ、その国
0678日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:17:17.64
>>630
>卑弥呼はあくまでも祭祀と外交を行うわけですから、現在の象徴天皇制と似ています。
>実務者が必要であり、それが一大率です。
>卑弥呼が福岡にいても、それは必要です。

卑弥呼が福岡にいたとして、外交を行う実務者が必要なら、その実務者は当然福岡にいるでしょ?
福岡でも実務は必要なのだから
実際、魏志倭人伝でも有男弟佐治國と書かれていて、実務者たる彦王の存在が明記されています
でも、この男弟は一大率とは別の存在ですよね?
そして、福岡に邪馬台国があって、実務者の男弟が福岡にいたら、隣の伊都国に一大率を置く必要がないのは分かりますよね?
福岡にいて伊都国ににらみを利かせるとか、あるいは必要なときに通えばいいのですから

近かったら、一大率をおく必要がないというのは、お分かりいただけたでしょうか?
0679日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:17:20.55
>>670
墓制と祭祀形態
0680日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:19:42.61
>>643
>だからなんでそれが大和朝廷の大王ってきめつけるんだよ?

大和朝廷の大王って、誰か言ったか ?
0681日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:21:03.36
>>668
畿内では九州と同じような副葬品を使っていないが?
0682日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:22:17.16
>>680
>大和朝廷の大王って、誰か言ったか ?

620が言った。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:22:26.22
>>641
でたらめ呼ばわりする根拠は?
0684日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:23:19.11
>>670
>根拠は?

オウム返しクンには悪いけど、ちゃんと根拠はあるんだよなぁ
「奴国は畿内の影響下」ということを示す、ちゃんとした論文が出てる

これが根拠だよ
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
ttps://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf

この論文によると、
布留式甕になる前から、畿内第X様式、庄内式、布留傾向甕、布留式甕の順できっちり九州から出てるよ
畿内の胎土で作られた本当の意味の搬入土器、正確に畿内の製作技法で九州の胎土で作られた土器、畿内の様式に倣っているがある意味適当な畿内系模倣土器、のそれぞれが確認できるそうだ

畿内からの搬入土器(広義)は、特に奴国、伊都国の領域で多く見つかり、奴国の恵・那珂遺跡群では畿内様式土器の九州での生産拠点になっていた様子が伺える
伊都国の三雲サキゾノ1−1区1号住居床面出土資料では三雲遺跡内でも突出して早期から畿内系土器(庄内大和型甕)が出土しており、このあたりに「一大率」の居館があったのかもしれない

この後、九州の土器が畿内様式(布留式甕)に取って代わられることからも、影響の方向は畿内⇒九州であることは明白

「根拠は?」って逆質問すれば、ごまかせると思ったのかい?
0685日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:24:49.63
>>640
九州に行って、韓人から直接買った
0686日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:25:51.24
>>643
>だからなんでそれが大和朝廷の大王ってきめつけるんだよ?
0687日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:26:43.19
>>684
根拠が無ければ、あんたの主張がポシャるだけ
0688日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:29:43.24
>>671
>大王だと主張する方がその根拠を示してくれよ。
>悪魔の証明かよ。

何度目だナウシカ(呆れ)

大和朝廷の大王(オオキミ)だとする根拠は既に481に示してあると何度言えば!

こっちは既に示したから、次は671の番!
491の「聖徳太子が織田信長ではないことの根拠を示せ」というバカなご下問にも既に>>496で答えてあるぞ!
「聖徳太子が織田信長ではないことの根拠」が示せるなら、倭の五王が大和朝廷の大王ではないことが論証できるんだろ?

さあ、グダグダと逃げ続けずに早く「根拠」を示してよ!
0689日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:30:31.71
>>633
>平原を2世紀と言う人もいれば4世紀と言う人もいる。
>でも、2世紀と言うのは無理がありますよ。

九州説は
なんで定説を無理だと言うんだ?
理由も言わずに
0690日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:31:15.99
>>653
>九州経由の伝播です。

こういうのに対してこそ訊かなきゃいけないんだよ
「根拠は?」
0691日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:32:51.97
>>664
なんで捻じ曲げたことになるの?
0692日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:33:05.55
>>684
畿内説は土器の後ろに支配者階級の存在を見ているようだが、本当にいるのだろうか。
確実なのは土器を作った労働者だけ。つまり奴隷の存在。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:34:21.61
>>690
いや、伝播で構わない。
文化の伝播で問題ない。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:34:45.66
>>633 えっ、平原遺跡は卑弥呼の時代よりも
100年以上前って言ってたばかり。(西暦100年から200未満)
0695日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:35:43.41
>>688
>大和朝廷の大王(オオキミ)だとする根拠は既に481に示してあると何度言えば!

481だと? うそこくな
0696日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:35:45.50
>>692
土器が政治的祭祀に使われてることを知らない人だけの妄想です
0697日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:39:17.41
>696
土器は生活用品  祭祀は祭祀用土器
0698日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:39:24.83
>>638
オウム返し、楽しい?
>>634で「オウム返ししかできないのは、正直哀れに思うよ」と書かれたあとに、絵に描いたようなオウム返しをするなんて、自分には相手を茶化すことにおいてさえ独創性がありませんって言ってるようなものなんだが
恥の感覚が違うのかな?
0699日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:39:27.63
結局また九州説は
結論を言い張るだけで
根拠はぜんぜん出さないは
0700日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:43:49.43
>>692
>畿内説は土器の後ろに支配者階級
>>684をちゃんと読んだか?
奴国で、畿内様式の甕を作り始めているんだぞ
>確実なのは土器を作った労働者だけ。つまり奴隷の存在。
と主張するならそれでもいいけどさ、それはつまり畿内の勢力が奴国の人を奴隷として使えるってことだぞ?
どう考えても、畿内の方が奴国より上位の存在ってことにしかならないぞ?
0701日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:44:44.50
>>678
一大率は遠い辺境ばかりに配置されていたわけじゃないぞ。
県知事みたいなもので、東京が首都だからといって
近いから神奈川県や埼玉県に県知事を置く必要がない、、
というものじゃないだろ。
近くても一大率は配置される。これは中国でも同様。
たんに首都だけは一大率を置かないだけ。
首都には司隷校尉(しれいこうい)を置く。
0702日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:47:10.66
>>643
>だからなんでそれが大和朝廷の大王ってきめつけるんだよ?
0703日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:47:23.67
>>695
>481だと? うそこくな
ああ、489だった、ごめんごめん、私の間違いだ、謝るよ

でも、>>489には書いてあるよな

というか、倭王武が雄略天皇ってのは鉄板の「定説」なんだからggrksで終わりにしてもいいところを、なんて親切なんだろうね
で、>>489に書いてあることが確認できたら

「さっさと、倭の五王が大和朝廷の大王でないことを『根拠』をつけて論証してくれ」
0704日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:51:02.75
>>672
どう違う?
大率は刺史に似て、刺史は後の都督。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:51:34.82
>>703
>というか、倭王武が雄略天皇ってのは鉄板の「定説」なんだからggrksで終わりにしてもいいところを、なんて親切なんだろうね

畿内説論者が勝手に言ってるだけじゃないか。 そんなものが根拠になるか!
0706日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:52:10.74
>>677
金印なら江戸時代になって博多湾から出てきましたよ。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:52:30.02
>>700
九州から畿内へ人の移動は極めて少ない。
むしろ反対に、多くの畿内の住民たちは遠く九州に赴き在地の労働者とともに在地の人間のために土器を作った。
つまり、はるばる移動してきたのは奴隷。
0708日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:53:04.38
>>678
>実際、魏志倭人伝でも有男弟佐治國と書かれていて、実務者たる彦王の存在が明記されています
>でも、この男弟は一大率とは別の存在ですよね?

彦王なんてあなたの想像でしょ。
言葉を伝える弟がいただけ。
大率とは別。
0709日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:54:26.74
>>701
>近いから神奈川県や埼玉県に県知事を置く必要がない、
近いからといって、外務大臣を神奈川県に置いたりはしないでしょ?
中国のことをいろいろ書いてくれているけれど、魏志倭人伝に書かれた一大率は全権大使だと見た方が分かりやすいんじゃないかな?
外国だからこそ大使館を置くのであって、国内には外務大臣(これが男弟に当たる)がいるから、一大率は置かないでしょ?

県知事くらいを誰も怖れたりしないよ

まあ、大使といってしまうと支配権がないから、これはこれでうまい例ではないけれど
0710日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:54:53.31
>>678
>福岡にいて伊都国ににらみを利かせるとか、あるいは必要なときに通えばいいのですから

伊都国にいた大率が対馬海峡を監視していたんですよ。
大陸との交易を独占するために。
大率が荷物も管理していたと書いてあります。
九州を経由せずに抜け荷、密輸することは禁じられていたのでしょう。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:55:17.83
>>703
>「さっさと、倭の五王が大和朝廷の大王でないことを『根拠』をつけて論証してくれ」

無駄な論争だ。 何説だろうがだれも決められんよ  単に想像するだけ
0712日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:57:08.06
>>708
>言葉を伝える弟がいただけ。

魏志倭人伝をよく読んで
有男弟佐治國は、「男弟あり、国を治めるをたすく」だよ
言葉を伝えるだけって、どこからの聞きかじりだい?
0713日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:57:52.17
>>689
>>633
>>平原を2世紀と言う人もいれば4世紀と言う人もいる。
>>でも、2世紀と言うのは無理がありますよ。

>九州説は
>なんで定説を無理だと言うんだ?
>理由も言わずに

倭国大乱の後の女王は卑弥呼ですよ。
平原遺跡の被葬者の候補は卑弥呼しかいない。
畿内説は平原遺跡の被葬者についてどう考えているの?
0714日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 19:58:43.34
>>694
>>633 えっ、平原遺跡は卑弥呼の時代よりも
>100年以上前って言ってたばかり。(西暦100年から200未満)

ないないw
0715日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:04:01.68
>>709 全権大使という表現いいね。
怖れさせるほどの権力というのは、当時は
まず武力だろうね。
全権大使もしくは征夷大将軍レベルかな。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:04:05.76
王墓級と、王墓は違うとかこだわっている人がいたけどさ、平原1号墓は王墓級ですらないんだから、それこそ王墓のはずがないだろ?
それだけのことだよ
0718日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:05:22.01
>>707
>在地の人間のために土器を作った

ではそこで、なぜ畿内様式の土器を作る必要がある?
九州が上位で畿内から奴隷を連れて来るほどなら、なぜ奴隷の分際の文化である畿内様式の甕を作らなければならないのか、説明できるかい?
もともと九州には九州様式の西新式土器とかあるのに?

こういう、ちょっとしたことからも、どちらが上位者かってのは判断できるんだよ
それに、纏向遺跡という大集落・弥生都市を建設中の大和の人間が多数北部九州に来てたら、大陸の人間にも大和に大都市があるってばれちゃうよ?
そうしたら、昔の栄光はあっても、3世紀には王墓すら作れない地域の代表が親魏倭王に除せられるのは無理になるよ?

九州説は、九州だけの倭国で閉じていることにして、出雲も吉備も丹波も大和も、魏に見つからないことが肝心なんだから
0719日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:09:14.75
>>714

>>425に「1世紀半の隔たりがあり」とある。
卑弥呼の没年は西暦250年ごろだから、
1世紀半前となると、西暦100年前後。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:13:32.29
>>713
>畿内説は平原遺跡の被葬者についてどう考えているの?

そんな質問をされることに、正直びっくりだよ
伊都国中枢部に、端山古墳、築山古墳と、伊都国王の後裔と考えられる豪族の首長墓が古墳時代になっても、三雲遺跡近くの平地に作られている
普通に、伊都国首長の血縁の女性だろう
「卑弥呼しかありえない」とか、そこまで特別視する必要を感じないんだが?
3世紀の首長墓の大きさを見るに、平原1号墓は王墓級の範疇には入らない

どうして邪馬台国に都を置いていた卑弥呼の遺体を、はるばる伊都国まで運んで葬る必要がどこにあるのか分からない
0721日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:15:30.50
>>719
>「1世紀半の隔たりがあり」
これ、少し遠慮して書いてる
「1世紀の中頃より繰り下がらない」ってことは、西暦50年より前だから、より具体的にはほぼ200年前だよ
0722日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:15:36.97
畿内説が致命的なのは、魏志倭人伝の水行十日陸行一月だけが頼りであることだ。
方位や里がおおまかにはわかる、というのは不弥国あたりまで。
方位や里がおおまかにはわかる国々(つまり末ら国や伊都や奴国や不弥国)は、
女王国からみて「北」にある。
邪馬台国は畿内であるとは、魏志倭人伝では想定されてない。
女王国は筑後平野あたりだと思われて書かれている。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:17:26.95
>>721
200年もずれたのでは、一族とか王族とか
いっても途絶えるころだな
0724日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:19:41.92
>>711
>何説だろうがだれも決められんよ

つまり、逃げるんだね? 自分では論証できないから? 根拠もないし?

だったら、おとなしく鉄板の定説に噛み付くなんてしなければいいのにww
0725日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:20:39.90
>>721
今気付いたけど、金印の時代じゃないか。
金印をもらったのは西暦57年だぞ。
それをもらったのはすぐ隣りの国の奴国の王だから、
平原の国王はそれ以下の勢力だろう。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:23:42.40
>>720
平原遺跡の被葬者は女性であることが有名だが、
卑弥呼の墓だとはほとんど言われてないよ。
5chでさえもだ。
せいぜい「卑弥呼かも?!」というボカした表現が
キャッチフレーズで使われるだけ。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:27:42.62
>>705
>畿内説論者が勝手に言ってるだけじゃないか。 そんなものが根拠になるか!

705はお見受けしたところ、畿内大和王朝とは別に九州王朝があったとする考えの九州説のように見えるんだが、それでいいかい?
世間的に有名な、九州王朝説を主張する集団として「古田史学の会」という人たちがいるんだが、この人たちはもともとは古田武彦氏の九州説を指示していた人たちだ

でも、古田武彦氏本人が、晩年に九州王朝仮説を撤回して、「古田史学の会」とは袂を分かっている
九州説の2大巨頭の一人、古田武彦氏(故人)も倭の五王が九州王朝というのは無理と、最終的に判断してるんだよ

まあ、誰だ言ったから正しいという話ではないし、古田氏は既に故人だから私の引用が間違っているかもしれないけれど、倭の五王、特に倭王武が雄略天皇というのは、稲荷山古墳の金錯銘を有する鉄剣という物証もあって、鉄板の定説になってるよ

別にそれに異を唱えるのは構わないけれど、異を唱えるなら信念を持って「誰にも分からない」などと言わずに真っ向から根拠を挙げて論じてくれれば「おもしろかったのにな」と残念に思っているよ
0728日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:29:40.58
>>694
平原の年代については
国産大鏡への技術革新も鑑みないと
他の遺跡では平原レベルの国産の鏡はどの時期から出土するのか?
元鏡から技術的に成長する時間も必要

後、出土した瑪瑙の管玉が朝鮮半島の3〜4世紀で大量出土しているとの報告あり
調査中との事だが、ここはかなり重要
0730日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:33:09.73
>>722
>方位や里がおおまかにはわかる国々

実はここで既にごまかしがある
末慮国はともかく、伊都国も奴国も、単に地名からの類推で比定地とされているに過ぎないよ
だいたい、末慮国から伊都国は魏志倭人伝では東南と書かれているのに、現状の比定地では北東になる
距離に関しては>>534で示したように、まったくあてにならない

この、東南が北東に「90度間違えている」ことを前提に考えれば、東に水行、陸行すれば、普通に畿内にたどり着く訳だ
0731日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:33:41.00
>>727
倭の五王が九州王朝?!。そりゃ無理だわ。
稲荷山古墳の金錯銘剣と江田島?の銀錯銘剣からいって
倭の五王の時代には近畿を中心として
大和朝廷の時代になっているわな。
0732日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:34:44.23
>>728
>瑪瑙の管玉

それよりも金層ガラスの耳飾はいいのかい?
0733日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:36:13.24
>>731
そうだろ? びっくりだろ?

でも、倭王武が大和朝廷の大王だって誰が決めたんだーって言って駄々を捏ねた挙句に逃げたやつがいるんだぜ
おもしろいよな、九州説の言うことはww
0734日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:36:24.76
>>727
>別にそれに異を唱えるのは構わないけれど、

異を唱える以前に、何人にも分からんものは分からん。 素直になれ
0735日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:37:08.96
>>729
>王墓級の方は王墓じゃないだろ
そして、平原1号墓は王墓級にすら劣ると言っているんだが、分かってもらえたかな?
0736日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:37:14.21
>>730
伊都国も奴国の現在の通説(比定地)を
否定するとはたいした度胸だな。
くつがえすだけの根拠は>>730の短い文中には示せていないようだ。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:39:09.08
誰にも分からんものを定説にすんな
0740日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:40:33.44
>>734
この言葉、読めますか?
「鉄板の定説」
誰にも分からん、どころか、普通に日本史をざっと習った人たちまでほぼ全員疑っていないんだが?

散々っぱら、「大和朝廷の大王だと誰が決めたんだ」って繰り返しいきっておいて、ひよるなんて情けないww

>>731も読んどいてww
0741日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:42:28.60
>>740
>誰にも分からん、どころか、普通に日本史をざっと習った人たちまでほぼ全員疑っていないんだが?

それは畿内説論者だけ
0744日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:44:47.76
>>736
相変わらず、日本語を日本語として論理を読み取れないようだな
>>730に書いてあるのは、「現状の比定地の否定」ではなく、現状の比定地を導けない「魏志倭人伝の不完全さ(資料の限界)」について述べたものだぞ

九州説の根拠の基本は、魏志倭人伝を金科玉条のように間違いがないとしてその上で「勝手な解釈」を加えて九州に持ってくるというものだ
九州説の多くは、南を東に読み替えるというのを、「方角を間違えるはずがない」と鬼の首をとったように批判するが、奴国までの旅程で既に方角が間違っているのは明らか
0745日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:45:10.28
>>731
>倭の五王の時代には近畿を中心として
>大和朝廷の時代になっているわな。

またまた、希望だけを言う! あほか 
0747日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:48:47.77
倭王武って、江田船山古墳の
熊本の人じゃなかったかな?

倭の五王は5世紀以前の肥国で、
6世紀初頭から、二中暦年号にあるように筑紫九州王朝へ。
8世紀からは大和朝廷へ移行する。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:51:59.90
記紀の大和朝廷以前の話は
聖徳太子のアメタリシヒコのように
九州の話がちょくちょく混じってるからね。
景行天皇から神功皇后まで
九州統一したり
朝鮮半島に出兵したりして
そもそも畿内にいないからね。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:54:02.27
>>748
記紀の大和朝廷以前の話は倭国(阿波)国内のお話ですね。  @阿波
0751日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:56:40.56
>>703
>というか、倭王武が雄略天皇ってのは鉄板の「定説」なんだからggrksで終わりにしてもいいところを、なんて親切なんだろうね

定説は根拠にならないよ。
西暦700年より前の古代史については、その定説がいろいろ嘘くさい。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:57:08.94
>>746
>畿内から九州にお上りさんが押し寄せただけだろ
そのあと、九州様式の土器が廃されて、畿内様式に統一されるという「事実」がなければそういう解釈でも通る余地があるんだけど
実際には、布留式土器の時代にいわゆる倭国の領域(蝦夷を除く)は、畿内様式の布留式土器の土師器に統一されるから、どこに中心があったのかは明らかだよ
0753日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:57:15.47
>>707
たまに王族が東征しますね。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:58:52.63
>>750
大和朝廷以前の倭国(阿波)の政庁は観音寺遺跡ですね。 役人が習字をしています。  @阿波
0756日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:59:03.44
>>709
>県知事くらいを誰も怖れたりしないよ

都知事や内閣官房長官、防衛大臣、総務大臣、国土交通大臣を兼ねたいるようなのが大率でしょ。
恐れはばかると明記されているし。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:59:09.40
>>745
>またまた、希望だけを言う! あほか 

そうやって管を巻くくらいなら、自分なりの根拠を挙げて論証してごらん

って言われると逃げるんだよな
本当に傍から見ていても「みっともない」こと、この上ない
0759日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:00:56.40
>>717
今日の意気がっている畿内説さんは、何人を相手にしているのか理解していないようだよ。
九州説の方が多数の支持を得ているという事実を受け入れられないから。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:01:42.00
>>718
>九州が上位で畿内から奴隷を連れて来るほどなら、なぜ奴隷の分際の文化である畿内様式の甕を作らなければならないのか、説明できるかい?

作りやすいのを作らせたんだろ。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:02:40.31
>>752
>そのあと、九州様式の土器が廃されて、畿内様式に統一されるという「事実」がなければそういう解釈でも通る余地があるんだけど

勝手に「畿内説様式」っていってるけど、実は「東阿波型土器様式」なんですよ。  @阿波
0763日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:03:22.28
>>759 すごく頭のいい人だよ。
罵倒の話なんかよりもずっとためになる話だった。
ただ、攻撃性がやや強過ぎたな。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:03:37.57
>>751
>定説は根拠にならないよ
と、751が考えるのは構わないが、定説が定説とされるのにはそれだけの「根拠がある」んだよ
それを否定しようとするなら、覚悟を決めて否定するだけの根拠を自分で集めてくれ
それで、その根拠が定説を覆すのに十分な論証だと思えば、私は考えを変えるのに抵抗はないよ

でも、定説はあてにならないーって、寿限無か呪文のように唱えても、論証なしならただの戯言だから
で、定説だからというのが根拠にならないと主張する>>751は、定説を覆すに足る根拠のあてはあるのかな?
0765日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:03:49.69
>>720
>伊都国中枢部に、端山古墳、築山古墳と、伊都国王の後裔と考えられる豪族の首長墓が古墳時代になっても、三雲遺跡近くの平地に作られている

伊都国王って、倭王だよ。

>3世紀の首長墓の大きさを見るに、平原1号墓は王墓級の範疇には入らない

大きさではなく、副葬品だよ。

>どうして邪馬台国に都を置いていた卑弥呼の遺体を、はるばる伊都国まで運んで葬る必要がどこにあるのか分からない

伊都が王都だから。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:05:37.46
>>725
後漢の頃の王墓は三雲南小路など、他にある。
平原遺跡はそれよりずっと後。
おそらく倭国大乱や三国時代に日中の交流が断たれた後。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:05:56.23
>>748
東国や四国の話は乏しいな。大和地方は別格として、
記紀の話で多いのは、中国地方と九州だな。とくに九州。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:06:38.35
>>764
声の大きいものが「定説」となるんだよ。 単なる想像でも。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:07:01.54
>>759
>九州説の方が多数の支持を得ているという事実を受け入れられないから。
出た!!
九州説お得意の、「多数決で決めよう」(ただしネット上に限る)

これ、事実上の敗北宣言だから

根拠と論証で、相手を説得してごらんよ
それが人文科学であっても、科学のあり方だろう?
0771日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:08:46.67
>>767
平原遺跡は、卑弥呼よりもずっと前なのか
それとも、卑弥呼が死んだ後のことなのか。
いったいどっちなんだ?。
鏡に「年」が入ってないから、年代が特定できんわな。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:08:47.20
>>759
>何人を相手にしているのか理解していないようだよ
日本人じゃないのかい?
日本人を相手にしているつもりだったんだけどな

ナンニンって読むのは分かってるけどさww
0773日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:09:27.78
>>727
>まあ、誰だ言ったから正しいという話ではないし、古田氏は既に故人だから私の引用が間違っているかもしれないけれど、倭の五王、特に倭王武が雄略天皇というのは、稲荷山古墳の金錯銘を有する鉄剣という物証もあって、鉄板の定説になってるよ

獲加多支鹵王が列島を支配しただろうけれど、卑弥呼はそれよりずっと前。
あと獲加多支鹵が倭武や雄略と同じという根拠に乏しい。
記紀を読めば、むしろタケルとワカタケルは別人の名前だよ。
普通は息子に、ワカとつけられる。
あと、倭武は訓読みだよヤマトタケルになってしまう。
このあたり、だいぶひどいこじつけが横行している。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:10:33.48
>>770
>これ、事実上の敗北宣言だから

根拠と論証で、多数を説得してごらんよ
それが人文科学であっても、科学のあり方だろう?
0775日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:11:04.01
>>750
大和朝廷以前の倭国(阿波)の政庁は観音寺遺跡ですね。 役人が習字(観音寺木簡)をしています。  @阿波
0776日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:12:10.00
>>771
鏡が80面以上も出土したライバル?の
桜井茶臼山古墳では、正始元年(240年)の
鏡が出土。
桜井茶臼山古墳は奈良県にある。平原遺跡を圧倒だね
0777日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:12:48.40
倭王武の鉄剣と言われてる国産鉄刀が出土していますが
当時の江田船山古墳のある熊本北部は
日本国内でもっとも鉄器や鍛冶遺跡が存在する場所でもあります。

鉄刀の製作されたところは
どこだと思いますか?
そして送り元、送り先はどこだと思いますかね?
0778日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:13:02.49
>>728
そうですね。
平原遺跡の副葬品は主に3世紀のものみたいですね。

鏡にしても、後漢鏡からの進歩が著しいのに、畿内説は後漢の頃のものだと言い張りますね。
根拠ないのに。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:13:20.10
>>718

> ではそこで、なぜ畿内様式の土器を作る必要がある?

デザインは少しづつでも変化をしている。だから編年ができる。つまり、そもそもデザインに大した拘りがないんだよ。
ある物を使う。使いやすいと思えばインド製でも中国製でもそちらを使う。
茶碗から金属の器に変わるような変化なら抵抗があるかもしれないが。


> それに、纏向遺跡という大集落・弥生都市を建設中の大和の人間が多数北部九州に来てたら、大陸の人間にも大和に大都市があるってばれちゃうよ?
> そうしたら、昔の栄光はあっても、3世紀には王墓すら作れない地域の代表が親魏倭王に除せられるのは無理になるよ?
> 九州説は、九州だけの倭国で閉じていることにして、出雲も吉備も丹波も大和も、魏に見つからないことが肝心なんだから

ばれて何か問題あるかな?東の倭種や付庸国で片付く話。

巨大墳墓の築造は辺境や植民地から始まり、そこでこそ大型化する。
先ず巨大墳墓などというのは大量の労働力確保の問題をクリアして初めて実現できるもの。
その問題を最初にクリアできたのが辺境を支配下においた強権的な地方の諸侯たち。
そして中央からすれば、地方の諸侯は納めるものさえ納めれば(物資・奴隷)、彼らが住民をどう酷使しようと関知しない。
むしろ墳墓の築造を競わせておけば、諸侯も満足して、何より地方の反乱の抑止になる。
0780日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:13:35.60
>>765
>伊都国王って、倭王だよ。

ここで、多くの人があまり気にしていないことがあるんだが、魏志倭人伝には伊都国の官と副(官)の名前が明記されているのに伊都国王の名が記されていないんだよ
官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚
副官二人分までしっかり書かれているのに、王の名がない
素直に考えれば、邪馬台国に仕える官は居ても、王は既に居なかったということになる
あるいは、官とされる爾支が伊都国としての王で、倭国としての官なのか?

この辺は、九州説ではどう考えているのか教えて欲しい
気づきもしていなかったのなら、それでも構わないけれど
0781日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:16:35.79
>>774
また真似っこのオウム返しかい(ヤレヤレ)

私の書き込みは、あおり文句以外(笑)の書き込みには全部「根拠」がいちいち付けてあるだろ?
>>774の方にそれを読み取る能力が欠けているだけで
0782日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:17:12.02
>>773
獲加多支鹵王は雄略天皇ではないという説は
読んだことがある。また江田船山古墳の銘文は
獲加多支鹵王ではないという説も読んだことがある。
それらは一理はあるが、古代は資料が少な過ぎるので、
わからないでは読んでても不満がたまるばかりなので、
とりあえず獲加多支鹵王=雄略天皇ということにしておくのが
いいのではないか。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:21:58.64
>>777の文章を読んだ限りでは、
熊本北部で作られたと言いたいみたいだな。

通説では、中央の畿内で作られて、埼玉と熊本に
送られた、ということになっているけど。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:23:31.41
>>778
>平原遺跡の副葬品は主に3世紀のものみたいですね
金層ガラスは古墳時代後期だよ
そして、舶載鏡2面は「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」が1〜2世紀半ば、「四螭二朱雀龍虎鏡」はさらに100年古い
「主に3世紀のもの」とはとても言えないよ
残りの「方格規矩鏡」は仿製鏡で、国内でいつでも作れるからあてにならない
0786日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:23:44.19
>>775
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
徳島県国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。

ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。

それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。

阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0787日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:27:09.44
倭国(阿波)が存続していた痕跡 : 「阿波国板野郡田上郷の戸籍」・「 観音寺木簡」・「複数の白鳳寺院跡」・「白鳳瓦焼き窯跡」・「曽我氏神社古墳群」・「板野命婦」
「厩戸皇子(聖徳太子)、景行天皇他多数の天皇の四国道後温泉への行幸、来湯」  @阿波
0788日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:31:04.64
>>782
治天下大王が日本列島のあっちこっちにいたかどうか
常識に立ち戻って考えればいいだけの話
だと思うけどね
0789日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:33:17.24
>>785
三国志も始まっておらず、漢の時代が
長く続いているころですね。
交易によって、奴国のみならず
人口の少ない伊都国にも鏡などの貴重品が
入手できたのでしょう。その漢が滅ぶと
奴の国ともども不安定に。(金印は志賀島に埋められてしまった)
0790日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:34:11.65
>>783
ありがとう

あと、垂仁紀の都怒我阿羅斯等来朝説話の中で、伊都々比古に邪魔をされたという話がある
これは、いわゆる彦姫制での伊都の彦王の名前のつけ方だから、この頃には伊都を代表する伊都々比古が居たことになる
ただ、これを王と呼んでよいのかは、はっきりしたことは言えない
0791日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:36:03.76
>>778
>鏡にしても、後漢鏡からの進歩が著しいのに

さすがにこれは恥さらし過ぎ
九州説の人って、なんにも知らないんだ・・・
0792日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:40:52.74
>>788
治天下大王は、大和朝廷の王だろ。
大王というくらいだし。
日本列島のあっちこっちにいたかなんて
考える必要もないというか、あちこちに居ると考えることの方がおかしいわ
0793日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:44:17.63
>>792
>治天下大王は、大和朝廷の王だろ。

それを言うなら、>>787のようなものを示さなくちゃ。  @阿波
0795日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:47:23.43
北部九州は畿内を通り越して関東と関係があった。

古墳時代の列島は装飾古墳のタイプによって大まかに地域を分けることができる。
彩色古墳が多く見られる地域と線刻古墳の地域。

北部九州グループ(+関東) 彩色
南部九州グループ(+瀬戸内、畿内) 線刻
0796日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:48:25.89
>>784
送られるとすれば、
普通は鉄の豊富な所から
鉄の少ない方に送るでしょうね。

鉄の少ないところで
無理して鉄刀をつくって
鉄の多いところに送られても
別にありがたくはありませんからね。
0797日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:51:01.55
>>796 えっ!。鉄の加工はかなりの技術力が必要だぞ。
原料がたくさんあるからといって作れるようなものじゃないぞ。

七支刀の専門書を持っているが、刀を再現しようとして
ものの見事に連続失敗して何本も無駄にしまくった記述は
読んでて笑える。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:51:17.82
>>795
>北部九州は畿内を通り越して関東と関係があった。

関東に進出したのは、阿波の忌部一族でしょ。 北部九州には筑紫忌部。  @阿波
0799日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:54:11.66
>>797
>えっ!。鉄の加工はかなりの技術力が必要だぞ。

矢野遺跡の鉄鍛冶炉はT類鍛冶炉ですよ。 卑弥呼時代は他にないのでは?  @阿波
0800日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:55:12.85
>>797
技術は必要でしょうね。
北部九州の真似をして、畿内で
鍛冶炉を作った跡があるが
フイゴの吹込み口が設計ミスだったとか。
0801日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 21:59:21.59
>>795
>北部九州は畿内を通り越して関東と関係があった

んじゃなくて、九州の首長が召し出されて東国討伐に送られた結果だよ
のちに東国から防人が九州に送られたのと同じ
0802日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:00:39.43
>>800
埼玉の鉄剣も再現しようとして、当時のままのやり方で
ようやく鉄剣ができて、いざ金の銘文を彫ろうとしてタガネで
トントンと純金の針金を埋め込んでいったら、
文字数が多いので、やっていくうちに刀身が反り返ってしまい、
元に戻らなくなって、けっきょく一から作り直しという実話があったわ。
銘文を掘り込む人と刀鍛冶はそれぞれ別人が担当するけど、
せっかく作った鉄剣を再び作り直された鍛冶屋も苦笑しただろうな。
5本は作ったらしい。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:00:58.97
>>800
北部九州の真似じゃなくて、足並み揃えて韓国の真似なー
0804日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:06:50.80
>>802
なるほど、
溝彫って打ち込むようなやり方だと
どんどん広がる方向に力がかかってしまいますね。

書の専門家によると、隷書文字だが
原画を真似しただけで
彫り職人は書としての文字は
習っていないと推測できるそうです。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:08:39.52
>>801

逆かな。この背景があったから、初期の防人にわざわざ東国の人間を充てた。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:13:13.11
>>748
景行も神功皇后も九州の倭王でいいじゃないか。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:15:32.71
>>806
>景行も神功皇后も九州の倭王でいいじゃないか。

言ってることが、畿内説とおなじレベルですね。  @阿波
0808日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:20:44.01
>>780
>副官二人分までしっかり書かれているのに、王の名がない
>この辺は、九州説ではどう考えているのか教えて欲しい

王の名は卑弥呼と他のところで紹介されている。
伊都が王都であることは当然の前提として描かれた文章に読める。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:21:24.30
>>782
>とりあえず獲加多支鹵王=雄略天皇ということにしておくのが
>いいのではないか。

あからさまに間違い。
なぜなら系図が合わない。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:21:51.02
>>784
>通説では、中央の畿内で作られて、埼玉と熊本に
>送られた、ということになっているけど。

根拠は?
0811日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:25:35.78
>>785
>残りの「方格規矩鏡」は仿製鏡で、国内でいつでも作れるからあてにならない

2世紀にはそこまでの銅鏡製作技術はなかったと思うよ。
2世紀末に仮に作られたとしても、もう卑弥呼の治世になってしまう。
そうしたら副葬されたのは3世紀。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:28:45.53
>>811
いや、銅鐸制作より簡単じゃないの?  @阿波
0813日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:33:57.18
>>811
なんで?
0814日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:35:17.88
>>808
あなただけにね
0815日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:37:16.46
>>774
賛成
0816日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:39:46.99
超大型内行花文鏡が、倭国大乱より前の後漢代に作られたとは考えにくい。
後漢からたくさんもらっていた時期だから。
倭国大乱の後の倭王はもう卑弥呼になる。
つまり、平原遺跡の副葬品は、卑弥呼のものとしか考えられない。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:55:44.32
結論!
別にどこでもいい
強いて言うなら四国っぽい
0818日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 22:58:20.09
>>816
たくさん貰えてたのは、ずっと昔
0819日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 23:05:13.22
>>816
倭国乱が終わる頃から7期の鏡が入って来るよ
つまり平原1号は2世紀末で小型ホウ製鏡の時代
0821日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 23:16:39.01
>>820
アホ
邪馬台国女王なんて魏志倭人伝にも出て来んわ
0822日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 23:37:10.29
>>808
>王の名は卑弥呼と他のところで紹介されている。
>伊都が王都であることは当然の前提として描かれた文章に読める。

どこに?
そして誰のこと?

こういう具体的なところは単に引用として原文をコピペすればそれで済むんだから、議論を速やかに進めるために「論拠」を書いてってずっと言ってるのに

女王之所都が邪馬台国と明記されているのに、「伊都が王都」が前提ってどういう思い込みだ?
説明する気があるなら「根拠」を付けて!

ただ脳内妄想を書きたいだけなら好きにしてくれ
0823日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 23:37:22.40
>>820
魏略
東南五百里到伊都国戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王也
女王之南又有狗奴国女男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王也

魏略の文脈では「女王」は伊都国の女王だな
0824日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 00:01:08.39
>>823
>魏略の文脈では「女王」は伊都国の女王だな

違うよ
其国王「皆」属女王也 の「皆」をもって、狗耶韓国から対馬國、一支國、末廬國、伊都國にそれぞれ王がいて、その国王(たち)が皆女王に属するなり、と読むのが通釈

伊都国の王が女王などというのは、きわめて恣意的な読み方
0825日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 00:06:57.74
>>822に自己レス
>>808の「王の名は卑弥呼と他のところで紹介されている」って、伊都国王が卑弥呼だって言いたいのか!
思いもしなかったよ!
トンデモ説だな! 思いも寄らなかったよ!
0826日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 00:15:22.60
>>823
それ、原文を不正なつなぎ方した捏造行為だな
0827日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 00:16:31.95
>>822

横ですまんが、そもそも倭人伝の解釈が違うんだよ
伊都国が都説は、「邪馬台国」は女王連合国の解釈

日程記述部分は別文献参照又は別ルートの説明とする説もあるからね。

倭国には邪馬台国(女王連合)と投馬国(連合?)があり、女王の都は邪馬台国の方という意味
→私はこれに同意するが、ここは違う意見もあり。

文献的には「世有王」の「王」が卑弥呼&男王&イヨを指す、で十分
ちなみに「伊都」の意味もそのままの"錫杖を持つ人(首長)の都"だね
0828日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 00:23:29.53
支離滅裂は説だなあ
0830日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 00:37:45.70
>>827
そんなら「伊都国が女王の都する所で、邪馬台国の中の一国だ」と書くよ
頭が狂ってなければ
0831日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 00:42:52.75
せっかくだから魏略の逸文、現在知られているものを全部貼っておくよ
>>823の引用は結構変な字が入ったりしてるし

倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
(前漢書 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注)

従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里
始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴
南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里
又度海千余里 至末廬國 人善捕魚 能浮没水取之
東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚 其國王皆属女王也
女王之南又有狗奴國 以男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
自帯方至女國万二千余里
其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後
昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
(翰苑 卷三十)

倭國大事輒灼骨以卜 先如中州令亀 視坼占吉凶也
(北戸録 卷二 鶏卵卜)

其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀
(三國志 魏書 東夷伝 倭人 裴松之注)

倭南有侏儒國 其人長三四尺 去女王國四千余里
(法苑珠林 魏略輯本 所引)
0832日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 00:46:46.63
>>829
すまん、誤り
錫杖ではなく、"杖"か"神杖"
0833日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 00:50:27.55
>>827
>そもそも倭人伝の解釈が違うんだよ

教えてくれたことには感謝だが、解釈が違うどころじゃないぞ
南至邪馬壹國、女王之所都 は、「邪馬台国=女王が都を置いているところ(の地名)」と読むよりないだろう

どうやったらこれ(邪馬台国連合と投馬国連合がある)の同意できるのか、も不思議
0834日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 00:57:13.69
あと>>831への注記
魏略の逸文は、翰苑に引用されている部分が一番多いが、翰苑自体が長年の写本で誤字だらけだから、翰苑の部分をあまりそのまま真に受けないように注意して

いきなり出だしから
従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 「七十里」
だから

逆に言うと、魏略を典拠に何かを言うのは実は難しい
何が正しくて、何が間違っているのかを判断できないからね
0837日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 01:12:04.69
>>830

一旦不弥国で行程説明が終了
ここは岩元先生の説でも同じ

日程記述部分は別文献参照とする解釈なら、
意味合いが重なっていてもおかしくない

また、別ルートの説明の可能性もあり
「都」は"都とは旧宗廟の有るを曰う"の意味だから、邪馬台国は遷都前の都とする説や、卑弥呼の故郷という説もあるよ

文献解釈には色々あるから、正解は陳寿しかわからないけどね
0838日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 01:21:10.37
>>837
岩元って誰?
0839日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 01:23:10.48
>>833
だから解釈が違ってるw
不可解な解釈だもの
0840日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 07:21:10.92
>>810 あまりにも常識的な一般的風潮。下賜品と同じ。
地方の有力豪族が上京する。中央政権は刀などを与える。
その豪族はその品を持って地方にもどる。
戦国大名でも江戸時代の大名でも大変よくある。信長もやってたな。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 07:22:39.96
>>819
平原遺跡の鏡は小型じゃないよ。
だから、2世紀末の小型仿製鏡の後に、3世紀前半の大型仿製鏡の時代を想定するべきだね。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 07:24:29.20
>>824
伊都と書いた時点で、それが女王の都なんだよ。
「都」だからね。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 07:25:40.93
>>827
>倭国には邪馬台国(女王連合)と投馬国(連合?)があり、女王の都は邪馬台国の方という意味
>文献的には「世有王」の「王」が卑弥呼&男王&イヨを指す、で十分

まあ、これが正解でしょう。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 07:28:38.20
>>837
>「都」は"都とは旧宗廟の有るを曰う"の意味だから、邪馬台国は遷都前の都とする説や、卑弥呼の故郷という説もあるよ

その意味なら、伊都から少し離れたところに卑弥呼がいたけれど、墓は伊都国にあることになる。
平原遺跡が卑弥呼の墓でいい。
王宮は不弥国(香椎宮?)かもしれないが。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 07:32:50.52
>>834 妄想を元に言われるよりは
魏略の方がよほどまし。
誤字はあまりにも意味が通じないので
誤字であることがかえってわかりやすい。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 07:40:03.20
>>837
>日程記述部分は別文献参照とする解釈なら、
>意味合いが重なっていてもおかしくない

同意である。ルートも重複してまた
改めて最初から日程で記述した可能性が高い。
つまり、帯方郡から里で記述してきたが、
一旦不弥国で行程説明が終了して、
今度は日程で記述するとなると(しかも途中寄港地を書かずに
女王国までの総日数だけの情報だ)、
帯方郡から不弥国までの日数を差し引いてから、
不弥国から女王国までの日数を書く、なんてことはできない。
帯方郡から不弥国までの日数じたいがわからないからだ。
参考した資料には女王国までの総日数だけの情報しかなかったのだから
そのまま載せたと考えられる。不弥国からじゃなくて
帯方郡からだと考えると、ぴったり合う。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 07:43:07.87
>>835>>836
ありがとう

従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 「七十餘里」

だね

魏略を典拠にするなら、万二千里のうち伊都国までで二千五百七十餘里しか使ってないから、伊都国から女王国まで九千四百三十里程度ってことだね
まあ、魏志倭人伝の「七千餘里」の方が正しいんだろうけど

魏略を魏志倭人伝以上に重視する人がたまに居るけど、魏志倭人伝以上に「資料の限界」を意識しないといけない

魏略逸文の旅程記事がすべて翰苑という、太宰府の写本一部しか現存しない「天下の孤書」であり、長年の写本で「脱漏や誤字がやたらに多いぐだぐだな書」に依存していることを忘れないようにして
0848日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 07:58:05.38
>>837,>>844
>「都」は"都とは旧宗廟の有るを曰う"の意味だから、邪馬台国は遷都前の都とする説や、卑弥呼の故郷という説もあるよ

普通の辞書には載ってないんだが?
普通の中国語の名詞としては、普通に首都、都会という意味が第一義だろ?

できれば典拠を示してもらえるかな?
最後に「曰う」が付いているところを見ると、どこかの註記か何かじゃないかな?

魏志倭人伝の「女王之所都」には註記は付いてないから、普通に首都(王の居処)でいいと思うんだが
0849日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 08:00:17.42
>>847
魏志倭人伝以上にということはないよ。
ただ、魏志倭人伝にだけ追記された日程を根拠にして、邪馬台国が伊都国や不弥国からさらに遠く離れた畿内だという主張に反論するには、魏略や後漢書を引用する他ない。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 08:06:51.83
>>844
>平原遺跡が卑弥呼の墓でいい。

宗廟の地であるとするなら、台与の墓もなければいけないんじゃないの?
0851日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 08:11:26.24
>>849
>畿内だという主張に「反論するには」、魏略や後漢書を「引用する他ない」。

「  」は私が付けたけれど、為にする議論はあまり意味がないと思うな
いろんな史書を比較検討することは大事だけれど、字数も少なく端折って書いてあるまたはいろいろ欠けているのが明らかな書に「書いてない」ことを根拠にするのは、根拠として弱いよ
0852日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 08:27:42.90
>>850
探せばあるんじゃない?
0853日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 08:29:04.74
>>851
里程は明確に九州北部で完結している。
書いてないわけではない。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 09:16:52.99
>>853
そういう客観性のない信念を聞かされてもな

w
0856日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 09:31:30.42
魏略、魏略というが、『翰苑』の

「分職命官、統女王而列部」

に付いた註だぞ。
つまり意味があるのは文末の「皆統屬王女也」である。
行程として引用されたわけじゃない。
雍公叡が卑弥呼に統属する国が列挙されている箇所だと考えてた引用した文なのだ。

行程がそこで終わっている、というのは読み間違いだ。
誰でも知っていることだよ。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 09:35:49.09
>>855
白川静の研究の方が為になるな。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 09:37:03.25
>>855
じゃ、都尉ってのはどこに駐屯してる官?
0859日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 09:39:30.70
>>856
「其國王皆属王女也」で終わるから行程は言い尽くされてるね
それから細注も含めてほぼ張楚金が書いたと考えるのが最近の主流かな
0860日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 09:51:31.94
>>852
>探せばあるんじゃない?

王墓が探さないと「ない」っていうのは、九州説の信頼性にとって問題なんじゃないのかな?
平原1号墓が弥生時代末期の王墓級に達していないという話になってるのに、見つからないくらいの小さな墓ってことでは、そんな大倭王は情けないと思わないのかな?
0861日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 09:55:28.94
>>859
トンデモ説は平気で史料を無視するんだね
0862日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 09:56:31.26
>>859
つまり伊都国王は女王の配下だと書いてあるわけだが
0863日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 09:57:55.33
>>859
行程を書いた引用文じゃないんだから
行程は言い尽くされてることにならない
0867日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 10:05:03.02
>>865
どうして行程は続けようがないの?


理由は?
0869日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 10:09:27.86
>>866
つまり不弥国も投馬国も入ってないので
行程が伊都で終わるという珍解釈はペケ
0870日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 10:09:45.09
>>866
つまり不弥国も投馬国も入ってないので
行程が伊都で終わるという珍解釈はペケ
0872日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 10:13:06.68
>>871
いつ、どこに降臨したの?
0873日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 10:14:03.51
トンデモ糸くず厨ムダに粘りますw
0874日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 10:17:56.17
>>845
>誤字はあまりにも意味が通じないので
>誤字であることがかえってわかりやすい。

脱字衍字は、わからないだろ?
0875日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 10:17:56.64
それよりもサルタヒコというスレだよ、
そのスレでも

「九州の話はしていません」と言ってる人がいたり
0877日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 12:59:32.46
>>862
>>859
>つまり伊都国王は女王の配下だと書いてあるわけだが

そりゃ女王の都なんだから配下だろw
0878日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 12:59:54.11
>>863
>>859
>行程を書いた引用文じゃないんだから
>行程は言い尽くされてることにならない

それは屁理屈
0879日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 13:00:37.15
>>870
魏志倭人伝でも終着地は伊都国。
奴国と不弥国はおまけ。
0880日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 13:03:09.86
>>878-879
罵っても反論にはならないよ

結論を言い張るだけなのは「論」じゃない
理由がないとね
0881日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 13:04:48.85
>>877
伊都国王が女王の配下なのに
どうして伊都国が女王の都なの?

伊都国が女王の都だという理由は?
0882日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 13:15:51.56
>>877
伊都国が壱岐や対馬の国と同様に
女王国の傘下であることをお忘れなく
0883日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 14:18:03.33
>>855
あのさ、文字の「成立ちや原義」と、その文字の「意味」は別だって理解できてるか?
ドヤ顔で出してきたのが、漢典の説文解字ってどうよ?

例えば、「伏」っていう字をここで調べると「司也。司者、臣司事於外者也。」って出てくるけど、伏せるという意味とは関係ないだろ?

そして、都という字の意味を中国語で調べると
副詞では、「すべて,いずれも,完全に.」
名詞では、「都,首都,都会,都市」
先王の廟がどうたらこうたらとか、「意味には関係ない」だろ

権威主義的に「えらい辞書にはこう書いてある(ドヤァ)」っていうのはほとんど解釈には意味がないぞ
実際、間違った方向に誤解してるし
0884日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 14:29:59.36
>>883
漢字の意味は各時代で変遷があるわけだね
説文解字には使用例もちゃんと出てるだろ
当時はそういう意味だったと言うことだよ
0885日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 14:36:55.86
>>883
たとえば、「都」を康熙字典でみると、さらに意味が増えてるのがわかるね
0887日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 15:47:30.85
古代史“捏造のドン”井上光貞に全面降伏した“保守”なき日本 ──「津田左右吉+江上波夫+水野祐」+スターリン32年テーゼ=“古代史捏造のドン”井上光貞
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/11/151152

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

 “狂人”水野祐のスーパー迷妄書『古代王朝史論序説』は、1952年の私家版として自費出版された(100部、謄写版)。
これを贈呈された井上光貞は「感激した」との礼状を返信している。
水野祐のスーパー狂気の嘘歴史は、次の三つからなる。
第一は、神武天皇から推古天皇までの33代のうち、実在したのは16代に過ぎない。初代・神武天皇から第9代・開化天皇までの9代は津田左右吉に従い不在。
第11代・垂仁/第12代・景行天皇も不在。安康/清寧/顕宗/仁賢/武烈/宣化天皇の6代も不在。よって、
「33代−9代−2代−6代=16代」が実在した天皇だという。読者は嗤わずに、水野のさらに続く狂説に耳を傾けよ。
狂人の話を熟考・精査せずして、狂人を殲滅できない。  

水野の第二。「仲哀天皇は、九州島に遠征の途次、戦死。これによって大和朝廷は瓦解。代わりに九州に「九州国家」が誕生。
これこそが、『魏志倭人伝』に言う(卑弥呼「邪馬台国」が苦戦を強いられた)「狗奴国」である。
そして、「狗奴国」とは、北方系騎馬狩猟民族の血を引く(高句麗の北に跋扈した)扶余と同族。
そして、この「狗奴国」すなわち「九州国」の首長こそが“外国人・仁徳天皇”で、首都を九州から摂津国の難波に遷都した。仁徳陵は、その名残である。  

第三。上記の歴史は、天皇の諡号を分析するだけで充分に明らかである。
つまり、前代未聞の荒唐無稽な上記歴史を裏付け証明する文献史料や遺跡なんか何一つ要らない。天皇の諡号を解読すれば、
暗号を解読する如くに、上記の妄想歴史は“あら不思議や”白日の下に史実となる。
「“外国の侵略者”仁徳天皇の難波侵攻に摂津/河内/和泉/大和の古代の日本人は何一つ抵抗せず、
諸手を上げて歓迎した」ことは、言わずもながの自明の歴史だ!・・・・・。
これほどまでに精神病院に収監されるべき重患者・水野の狂説は、要するに、
「血統の連続が無い、統治機構の連続もない、戦争や侵略による二度の断絶&新支配からなる三王朝交替」説と言える。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:04:00.00
>>884
>当時はそういう意味だったと言うことだよ
「当時」っていつだよww
象形文字的なものを、鹿の骨に書いていた時代のことを言ってもしょうがないだろうが

>説文解字には使用例もちゃんと出てるだろ
『說文解字注』は、注釈であって使用例とは違うだろ?
そこに書いてある漢文、ちゃんと読めてるのか?
0890日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:28:49.96
>>879
>魏志倭人伝でも終着地は伊都国。
>奴国と不弥国はおまけ。

牽強付会もここまで行くとすげぇな
魏志倭人伝では
奴国  有二萬餘戸
伊都国 有千餘戸
頼りにならない魏略でも
伊都国 戸万餘

どう見ても、北部九州の中心地は奴国だろう

その後、奴国の領域には筑紫国造が居るが、伊都国造はいない
末廬国にも末羅国造がいるのに、伊都国の国造はいない

伊都国の「都」の字にすがり過ぎ
「伊都国に卑弥呼がいた」説だと、「倭国の中の「伊都国の中に「邪馬台国」」」があることになる
これがおかしいと感じられないなら、魏志倭人伝を読んでもしょうがないと思うよ
0891日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:31:03.96
>>881
都が配下でなかったら大変だぞw
0892日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:31:52.36
>>886
どの文献の話?
0893日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:32:31.89
>>889
都をどう解釈しても平原遺跡が卑弥呼の墓となる不思議。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:34:18.09
>>890
>どう見ても、北部九州の中心地は奴国だろう

経済的にはそうだよ。
だけどニューヨークとワシントンD.C.を見ればわかるように、首都かどうかは別問題。
律令制の時代には当然、伊都はただの田舎になっていただろうね。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:36:39.38
>>890
>「伊都国に卑弥呼がいた」説だと、「倭国の中の「伊都国の中に「邪馬台国」」」があることになる

倭の訓読みがヤマトなんだよ。
だから倭人は倭のことをヤマト(九州北部のこと)と呼んでいた。
陳寿は倭と邪馬台(ヤマト)の関係を十分に理解することなく、とりあえずすべての情報を盛り込んで魏志を書いた。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:36:48.51
>>889
>それで、邪馬台国はどこにあったのか?

漢典の読み方から、なんだか脈略がないけど、>>888でいいなら私が答えるが、
普通に考えて、邪馬台国=ヤマト国だろ?
後漢書にも其大倭王居邪馬臺國【案、今名邪摩堆、音之訛也】と書いてあるし、邪摩堆もヤマトと読める
何も問題ないじゃないか?
0897日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:37:39.32
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:39:03.22
後漢書のヤマトは、楽浪帯方から一万二千里、狗邪韓国から五千里の倭奴国が中心だね。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:39:25.83
しかも短里であることがよくわかる。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:41:20.18
倭(ヤマト)は倭奴国(伊都国)を都とする九州北部の国であった。
3世紀の倭王は卑弥呼であった。

これですべて矛盾なくなる。
0901日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:46:44.25
>>894
>経済的にはそうだよ。
>だけどニューヨークとワシントンD.C.を見ればわかるように、首都かどうかは別問題。

時代背景は無視ですか?
ワシントンDCとか、ブラジリアとか、キャンベラとか、経済首都と別の政治の都と作るなんていうのは、近代国家になってからだしそれもごく一部だよ
王権が発達していく過程で、王のいる王都以外が栄えている例があるなら教えてくれ
基本的に王の居るところに人が集まるから、そこが当然に経済的にも栄えるし、もし王の居ないところで栄えているところがあったら、王がそこを占領して居座るだろう

ワシントンDCの例が不適当だというのは分かってもらえたかな?
0902日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:49:44.64
>>900
>倭(ヤマト)は倭奴国(伊都国)を都とする九州北部の国であった。
>3世紀の倭王は卑弥呼であった。

投馬国  五萬餘戸
邪馬壹國 七萬餘戸 はどう考えるの?

伊都国  千餘戸 と、どう考えても矛盾するだろうに
0903日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:52:06.05
>>888
困ったちゃんだねえw
説文解字は後漢成立の辞書なの
陳寿も使ってたのよ、たぶんな
0904日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:53:00.26
後漢書の注記の部分、正しくは
其大倭王居邪馬臺國。[一]案:今名邪摩(惟)〔堆〕,音之訛也。
邪摩(惟)では音の訛にならないから、さらに邪摩〔堆〕に修正が入っているんだよ
0905日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 16:54:32.65
>>897
なぜ「その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」の部分は無視するの?
九州説に都合が悪いから?
0906日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:04:57.25
>>897
>倭奴国は倭国の極南界である。

これに関しては、後漢書が魏志倭人伝より成立があとなので、魏志倭人伝の
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、(中略)次有烏奴國、次有「奴國、此女王境界所盡」。
の最後の「奴国」と「後漢に朝貢した奴国=倭奴国」を混同して、しかも其戸數道里以下を、邪馬台国から順に南に次々に追っていったと考えて、最後の国=極南界とした、という説が説得力がある

これをもって、九州北部の奴国より南にはないというのは、誤読

さらに言えば、餘旁國最後の「奴国」は、他に多くの「○奴国」が多い(彌奴國、姐奴國、蘇奴國、華奴蘇奴國、鬼奴國、烏奴國)ことから、一文字脱字があるのではないかと想定する人も多い
0907日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:11:58.83
>>900
>倭(ヤマト)は倭奴国(伊都国)を都とする九州北部の国であった。

倭(ヤマト)は「倭大國魂神社」が日本で唯一鎮座まします四国の「阿波」であった。
九州北部に倭(ヤマト)と名の付く物は一切存在しない。  @阿波
0908日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:17:10.09
>>903
>説文解字は後漢成立の辞書なの

まあ、私も「漢字自体」について詳しい訳ではないから、ちょっとウィキペディアさんの文章を借りるけど、
「また「自」については「鼻也。象鼻形。」とのみあり、「自」の通常の意味である「自分・自然・……から」などの意味は全く載っていない。しかし文字の起源を考える上では重要な情報をもたらしてくれることもある。」
これが>>883で私が言ったことそのままだろ?

この「説文解字」という字典で分かることは、「文字の起源を考える上での重要な情報」であって、「通常の意味は全く載っていない」場合もあるんだから、この辞書に載っているから「都の意味はこうなんだー」って言ってたらおかしなことになるよってこと
実際、おかしなこと(伊都国の「都」は先王の墓がある場所)になってるでしょ?
0909日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:20:04.41
>>833
日本ではもともとヤマト国とは連合国の意味で使われていたと認識しているが、違うのか?

素直にそれの当て字が邪馬台国でいいのでは?
0910日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:27:00.85
>>895
>倭の訓読みがヤマトなんだよ。
記紀では、というか古事記ではそうなっているけど(日本書紀では日本をヤマトと読ませている)、大陸の史書を読む限り、倭国とヤマトの紛れはないと思うよ
どの史書を見ても、「倭王の都」をヤマト(邪馬臺、邪摩堆など)としていて、倭(国)をヤマトとしているところはない
訓読みという、日本国内の事情は、大陸史書の編纂には関係ないんじゃないかな
0911日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:29:27.13
>>901
>基本的に王の居るところに人が集まるから、そこが当然に経済的にも栄えるし、もし王の居ないところで栄えているところがあったら、王がそこを占領して居座るだろう

もともと奴国の側に王がいたけれど、混みすぎたんだろう。
そこである時、人心の一新のために王都はすぐ近くの伊都国側に移動したんだよ。
よくある話だよね。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:30:31.69
>>909
>日本ではもともとヤマト国とは連合国の意味で使われていたと認識している
連合国の意味で使われていることを端的に示す例を、挙げてくれるかな?
私は、本来的には大和朝廷の「本拠地の地名」がヤマトであって、より広い意味で使うこともある、くらいだと思うが?
0913日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:31:15.36
>>902
投馬国(宮崎)は邪馬台国(福岡)と併記してあるから、邪馬台国の人口には含まないよ。
そして、伊都国は邪馬台国(福岡)の一部だよ。
陳寿がどこまで理解していたかはわからないが、我々日本人なら理解できる。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:31:54.42
>>905
畿内説の方がもっと都合が悪いんじゃない?
0915日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:33:06.45
>>900
>倭(ヤマト)は倭奴国(伊都国)を都とする九州北部の国であった。

倭(ヤマト)は「倭大國魂神社」が日本で唯一鎮座まします四国の「阿波」であった。
九州北部に倭(ヤマト)と名の付く物は一切存在しない。  @阿波
0916日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:36:12.23
>>911
>もともと奴国の側に王がいたけれど、混みすぎたんだろう。
>そこである時、人心の一新のために王都はすぐ近くの伊都国側に移動したんだよ。
>よくある話だよね。

よくある話ではないね
人心一新の必要性もないし
ある時っていつ?
何をもって、「混みすぎた」とか判断しているのかな?

すべて「根拠」なく、>>911の頭の中で考えたことだろ?
そういうのは「妄想」っていうんだよ
0917日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:37:13.83
再掲

大和朝廷が古墳時代の日本の中心なのは間違いないし、古墳時代の始まりは卑弥呼の邪馬台国時代と重なる
その状態で、九州に邪馬台国を持ってくるには
1.古墳時代の開始を4世紀と言い張って、邪馬台国が畿内に移動したと主張する(東遷説)
2.あくまで九州政権と畿内政権は別だと主張する(九州王朝説)
の二つしかない

ということで、九州説の人は以下の問いに答えてくれるとうれしい
・東遷説を採るのか採らないのか?
・東遷説を採るとするなら、邪馬台国の東遷なのか、神武の東遷なのか?
・神武と邪馬台国は関係すると考えるのか(≒邪馬台国はどこで神武はどこにいたのか)?
・九州王朝の存在を主張するのか?
・主張するなら倭の五王が大和朝廷の大王でないことをどのように論証するのか?
0918日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:38:19.30
どうやらここには、倭の五王の時代にも存続している九州王朝説の人がいるみたいだけど、他の人はどう考えているのかな?
0919日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:44:36.09
>>906
>これをもって、九州北部の奴国より南にはないというのは、誤読

それはあなたの勝手な推測。
おそらく、後漢の頃は博多湾までだった倭国が、倭国大乱を経て筑後、肥前まで含むようになったのだろう。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:45:45.12
>>908
>実際、おかしなこと(伊都国の「都」は先王の墓がある場所)になってるでしょ?

先王の墓、三雲南小路遺跡などがあるのも事実なので、あながち否定できない。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:46:20.84
>>917
>大和朝廷が古墳時代の日本の中心なのは間違いないし、

大和朝廷は8世紀の持統朝から。 古墳時代の日本の中心は倭国(阿波)。


>古墳時代の始まりは卑弥呼の邪馬台国時代と重なる

その邪馬台国は、倭国(阿波)の一部。  @阿波
0922日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:46:54.83
>>833
投馬国は連合国ではなく、単一の大きな国みたい。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:49:28.63
>>916
>ある時っていつ?
>何をもって、「混みすぎた」とか判断しているのかな?

福岡平野に2万戸はかなり手狭だろう。
ある時とは、奴国に王墓が作られなくなり、伊都国に王墓が作られるようになった、1世紀くらいかな。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:52:29.23
>>917
>・東遷説を採るのか採らないのか?

取らない。

>・東遷説を採るとするなら、邪馬台国の東遷なのか、神武の東遷なのか?

神武は東遷ではなく東征。

>・神武と邪馬台国は関係すると考えるのか(≒邪馬台国はどこで神武はどこにいたのか)?

邪馬台国は福岡、神武は福岡から奈良に東征した。

>・九州王朝の存在を主張するのか?

旧唐書にあるとおり、白村江の頃までは倭とあれば福岡。

>・主張するなら倭の五王が大和朝廷の大王でないことをどのように論証するのか?

もともと大和王朝の王だという証拠がない。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 17:56:41.50
>>924
>旧唐書にあるとおり、白村江の頃までは倭とあれば福岡。

倭(ヤマト)は「倭大國魂神社」が日本で唯一鎮座まします四国の「阿波」であった。
九州北部に倭(ヤマト)と名の付く物は一切存在しない。  @阿波
0927日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:06:55.04
>>919
>それはあなたの勝手な推測。
>おそらく、後漢の頃は博多湾までだった倭国が、倭国大乱を経て筑後、肥前まで含むようになったのだろう。

その前に魏志倭人伝の「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」を全無視しないと九州説は成り立たないのですがそれは?
これを全行程と見るというのは、中国語としてありえないし、大陸史書の地理・旅程記事にも途中から全行程を示す例はないよ

総距離が示されている新唐書の例を挙げておくと
安南經交趾太平,百餘里至峯州。
又經南田,百三十里至恩樓縣,乃水行四十里至忠城州。
又二百里至多利州,又三百里至朱貴州,又四百里至丹棠州,皆生獠也。
又四百五十里至古湧步,水路距安南凡千五百五十里。
紛れはないでしょ?

魏志倭人伝の「南至投馬國水行二十日 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」は普通に連続的に逐次行程が書いてあるだけでしょ?
0928日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:08:40.76
>>908
>実際、おかしなこと(伊都国の「都」は先王の墓がある場所)になってるでしょ?
何がおかしいの?
卑弥呼の生まれ故郷が邪馬台国なんでしょ
邪馬台国王だった卑弥呼が共立されて倭王となった。
倭王となってからは先進地伊都国に駐在していた。
何もおかしくないわな
0929日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:10:04.35
>>926
>通常の意味って何だよという話
普通に、辞書を引けば出てくるだろ?
https://cjjc.weblio.jp/content/%E9%83%BD

ピンインdū ⇒ [異読音] dōu

1付属形態素 都,首都.⇒建都 jiàn//dū ,首都 shǒudū .
2付属形態素 都会,都市.
3((清末から中華人民共和国成立以前のいわゆる旧社会の言葉)) 名詞 県と郷の中間に設けた行政機関.
4((音訳語))
用例
都柏林 Dūbólín=ダブリン.
5( Dū )((姓に用いる))
0930日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:16:50.13
>>922

そうかな?
考古学で3世紀前半に奴国の2倍以上もある集落なんてなさそうなんだよなぁ

勝手な推測だけど、投馬国は、中国側で倭国内の大国と認識している地域=中国や半島と昔から多少なりと行き来がある国と思われるので、日本海側の出雲を中心とした勢力と考えている

投馬国に関しては情報が少ないからどうしようもないが、不和ではなさそうだ
0931日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:17:48.63
>>928
>何がおかしいの?
 いろいろと、>>928の書き込みだけでもおかしい
>卑弥呼の生まれ故郷が邪馬台国なんでしょ
 これは否定できないな 断定も難しいけど
>邪馬台国王だった卑弥呼が共立されて倭王となった。
 邪馬台国王だったとは書いてないが、共立されて倭王となったのは事実だろう
 邪馬台国は「女王の都するところ」
>倭王となってからは先進地伊都国に駐在していた。
 駐在はおかしい 倭王になってからは侍女千人の宮殿奥深く人にもほとんど合わずにすごしていると書かれている
 駐在というなら、生地の邪馬台国を離れていることになるがいいのか?
 以前の書き込みでは「先王の廟があるところが都」であって先進地ではないだろ?
 それに、奴国が手狭になって経済首都を捨てて移ったって言ってなかったか?
 魏志倭人伝に従うなら千余戸しかない
 卑弥呼の侍女だけで千人いるのに(これは誇張だろうけれど)
>何もおかしくないわな
 いろいろおかしいだろ?
0932日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:20:50.62
>>931
さらに言えば、伊都国=邪馬台国という主張じゃなかったのか?
その上で、「邪馬台国王だった卑弥呼」が「倭王になったから」、「伊都国(=邪馬台国)に駐在」って?
もう、ほとんどポルナレフ状態だわ
0933日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:22:19.33
>>922
>投馬国は連合国ではなく、単一の大きな国みたい。
それはそれとして、投馬国は九州説ではどこに比定するの?
0934日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:24:09.78
>>927
>魏志倭人伝の「南至投馬國水行二十日 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」は普通に連続的に逐次行程が書いてあるだけでしょ?

その前でいったん切れているじゃないか。
0935日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:25:23.99
>>928
生まれはわからないけれど、都のじぎからは葬ったところが邪馬台国かな?
0936日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:25:32.95
>>931

なんだか

伊都国は千余戸
卑弥呼の侍女だけで千人

この記述は関係がありそうだ、と感じるのは自分だけかな?
0937日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:26:44.19
>>924
返答ありがとう

>>924はがちがちの九州王朝説なんだね?
では、その九州王朝は、古墳時代をどう過ごしたの?
最終的に、その九州王朝はどうなったの?

>もともと大和王朝の王だという証拠がない。
傍証はいくらでもあるよ
そして、九州王朝があったという「証拠がない」

ということで、
・主張するなら倭の五王が大和朝廷の大王でないことをどのように論証するのか?
これには真摯に答えてね
これに答えられないなら、論証できないただの妄想にしかならないよ
0938日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:27:22.54
>>930
>考古学で3世紀前半に奴国の2倍以上もある集落なんてなさそうなんだよなぁ

邪馬台国が福岡県全体なら、それと併記されている投馬国が宮崎県全体でいいのでは?
この二つは単一の集落ではないのだろう。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:29:37.85
>>931
> 以前の書き込みでは「先王の廟があるところが都」であって先進地ではないだろ?
> それに、奴国が手狭になって経済首都を捨てて移ったって言ってなかったか?

伊都国には歴代の王墓があるから問題ない。

> 魏志倭人伝に従うなら千余戸しかない
> 卑弥呼の侍女だけで千人いるのに(これは誇張だろうけれど)

ぴったり。
伊都国に住んでいたのは王宮の関係者だけ。
セキュリティ的には理想的。
0940日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:30:52.03
>>932
>その上で、「邪馬台国王だった卑弥呼」が「倭王になったから」、「伊都国(=邪馬台国)に駐在」って?

いろんな人の発言をつなぐなよ。
私は、肥国から共立により筑紫倭国の女王に共立されたと思う。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:31:02.85
>>937
九州説を相手にしても無駄ですよ。 もっとも、相手に出来るのは妄想同レベルの九州説何でしょうが。  @阿波
0942日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:31:37.33
>>933

投馬国は宮崎県都万。
5万戸を養える。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:34:46.76
>>937
>最終的に、その九州王朝はどうなったの?

白村江で負けて滅んだ。

>そして、九州王朝があったという「証拠がない」

旧唐書までの全ての大陸側の史書が証拠。
考古学的にも、古墳時代を通じて彩色古墳や沖ノ島の祭祀など独自の文化を維持していた。

>・主張するなら倭の五王が大和朝廷の大王でないことをどのように論証するのか?

そもそも倭の五王が、大和と、関係することが証明されていない。
反証としては、畿内説側の主張と系図が一致しない。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:35:22.26
>>934
>その前でいったん切れているじゃないか。
始度一海 千餘里 至對海國
又南渡一海 千餘里(名曰瀚海) 至一大國
又渡一海 千餘里 至末盧國
東南陸行 五百里 到伊都國
東南 至奴國 百里
東行 至不彌國 百里
南 至投馬國 水行二十日
南 至邪馬壹國(女王之所都) 水行十日陸行一月

こうやって並べてみると、いろいろと変化を付けながら、逐次式に書いているのがよく分かるよね
特に切れ目はないだろ?
0945日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:43:29.95
>>938
宮崎でも悪かないが、弥生時代の考古学的に勢力としてはちょっと弱いと感じる
0946日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:46:14.29
投馬國は朝鮮半島の南岸でしょうね。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 18:53:41.16
>>944
う〜ん、
奴国から表現が変わってるし、投馬国からは急に日程記述になってるよ?

後、投馬国から戸数が「有」から「可」にも変わってるね

"変化"には何らかの理由があるはずです
0951日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 19:02:34.55
>>931
何がおかしいの?
邪馬台国=(邪馬台国の)先王の廟があるところ
伊都国=首都
でしょ
0953日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 19:04:21.24
>>943
>白村江で負けて滅んだ。
白村江の戦いで捕虜にされた薩夜麻が九州倭国の天子だったと主張するのですか?

>旧唐書までの全ての大陸側の史書が証拠。
隋書の時点で、「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」と書かれていて
遣隋使とその答礼使の裴世清も隋書にあり、日本書紀の舒明紀とも対応が取れているのですが、それは?
成立年は 隋書が656年、旧唐書が945年で、300年近い差があるんですが?

>考古学的にも、古墳時代を通じて彩色古墳や沖ノ島の祭祀など独自の文化を維持していた。
彩色古墳は九州独自の文化ですが、古墳そのものが全国で定型化され築造されているものです
その意味で、他地域から独立した勢力というのは無理があります
そして、全国で定型化された古墳秩序の中では、どの時代でも最大の古墳は畿内に造営されており、九州では岩戸山古墳、男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳くらいしか、大古墳はありません
まあ、国造レベルはそれなりに自立性がありますが、独自王朝と呼べるほどの独立性はないでしょう

沖ノ島の祭祀は、その供献された遺物に古墳の副葬品との共通性が見られ、三角縁神獣鏡などの銅鏡も見つかっています
三角縁神獣鏡は、代表的な大和朝廷の勢力圏を示す遺物であり、沖ノ島祭祀も大和朝廷の影響下にあったことは確実視されています

>そもそも倭の五王が、大和と、関係することが証明されていない。
古代史に「完璧な証明」は無理ですよ タイムマシンでもない限りは
証明できていないこと=ないことにはなりません
そして、傍証としては「倭王武=雄略天皇」が鉄板の定説になるくらいてんこ盛りですし、記紀の記述から五王の遣使を読み取れると考察している人もたくさんいます

>反証としては、畿内説側の主張と系図が一致しない。
これも以前に書きましたが、履中天皇が朝貢をしていないと考えれば、特に問題はありません
後半の済=允恭天皇、興=安康天皇or木梨軽皇子、武=雄略天皇の部分は完全に一致していますし、何も問題はありません

邪馬台国九州説で九州王朝説をとると、結局、倭国王薩夜麻までいかないと整合性が取れないし、そうなると遣隋使などがどうやっても説明できなくなります
つまり、九州王朝説は無理だし、九州王朝説に依拠した邪馬台国九州説も無理なんですよ
0957日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 19:08:32.75
>>947
帯方郡から水行20日ですから投馬國は朝鮮半島の南岸でしょ。

>>948
「有」は確定した数字で、「可」は推測した数字だな。
投馬國や邪馬壹國の戸数は実数ではなく推測値ですね。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 19:08:49.04
>>940
>私は、肥国から共立により筑紫倭国の女王に共立されたと思う。
肥国といっても広いんですが、どこから共立されたんですか?
肥国に邪馬台国があるんですか? 
それとも筑紫倭国に邪馬台国があるんですか?
肥国に7万戸の都に当たる遺跡はありますか?
筑紫倭国のどこを7万戸の都に当てるんですか?
0959日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 19:09:08.39
>>953
九州説を相手にしても無駄ですよ。 もっとも、相手に出来るのは妄想同レベルの九州説何でしょうが。  @阿波
0960日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 19:14:16.20
>>943
>白村江で負けて滅んだ
白村江以後も九州王朝は700年までは存続していた。

>>953
日本書紀には遣唐使の記録はあるが遣隋使の記録はない
遣隋使は九州王朝が送ったものだよ。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 19:25:00.29
>>950
伊都国
0962日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 19:26:05.76
>>951
うーん、一理ある。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 19:31:25.32
>>905
>なぜ「その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」の部分は無視するの?

「会稽東治」「朱崖」「儋耳」は何処にあると思っているの?

「会稽東治」:浙江省 寧波市・舟山群島
       会稽の東部にある治政地

「朱崖」:福建省 寧徳市 霞浦県 赤岸村・古嶺下村
     空海が上陸した海岸

「儋耳」:福建省 寧徳市 霞浦県 東沖半島
     古閩(ビン)南語の地域(福建省沿岸部・海南島・中国南岸部にあった古言語地域) 
0965日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 19:32:53.38
>>949
>現代中国語の辞書を引いてもしょうがない
>せめて康熙字典を引こうよ
いや、ものすごく上から目線というかドヤ顔で書いてくれてるけどさ、書いてる内容を見ると本当にこの人分かってるんだろうかと思うんだけど
康熙字典って、>>855(同じ人だろ)の教えてくれたhttp://www.zdic.net/z/26/sw/90FD.htmですぐに見られるから、こっちも確認はしてるけど、
考證:〔《左傳·隱元年》大都不過參國之一。《註》凡邑有先君之廟曰都,無曰邑。〕 謹按所引註是莊二十八年左傳,非隱元年註,今照左傳原文改莊二十八年凡邑,有宗廟先君之主曰都。
と、同じことが書いてあるだけだよ
そして、「考證:〔《左傳·隱元年》」と書いてあるところから、まさに私が最初に>>848で「「曰う」が付いているところを見ると、どこかの註記か何かじゃないかな? 」と書いた通りじゃないか
「邑有先君之廟曰都」って言うのは、「左傳(春秋左氏伝)という注釈書にはそう書いてあった」ってだけだよ

春秋(四書五経の一つ)のある場所での「都」は、「邑有先君之廟曰都」という意味である、と「左傳(春秋左氏伝)という注釈書にはそう書いてあった」って、「康熙字典」にも「説文解字」にも書いてあるだけ

今問題にしているのは「春秋」じゃないんだから、「邑有先君之廟曰都」にこだわるのは無意味!!
QED
0966日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 19:33:10.54
>>953
>白村江の戦いで捕虜にされた薩夜麻が九州倭国の天子だったと主張するのですか?

筑紫の君が倭国の代表でしょうね。

>隋書の時点で、「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」と書かれていて
>成立年は 隋書が656年、旧唐書が945年で、300年近い差があるんですが?

隋書の時点ではまだ筑紫をヤマトと呼んでいたのでしょう。
畿内の律令制が整うのは701年ですから。

>まあ、国造レベルはそれなりに自立性がありますが、独自王朝と呼べるほどの独立性はないでしょう

まったく別の国というわけではありませんからね。
朝鮮半島が南方統一されたら、どちらかの国は歴史的に無かったことにされるでしょうね。

>三角縁神獣鏡は、代表的な大和朝廷の勢力圏を示す遺物であり、沖ノ島祭祀も大和朝廷の影響下にあったことは確実視されています

畿内政権もアマテラスの子孫だから、祖先の祭祀には参加したでしょうね。

>これも以前に書きましたが、履中天皇が朝貢をしていないと考えれば、特に問題はありません

そもそも代替わりごとに宗主国の承認を得ることが通例です。
仮に一代飛ばしても、親子関係が変わるわけはない。
0967日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 19:33:10.70
>>874
無布帛 以草為衣 盖 伊耶國

布綿無く、革を以て衣と為す。けだし伊耶國

草ではイミフになる。革の誤字だろうと
するのが通説。
また伊耶國、伊那國、伊邪國の3通りにも字が違っているが
どれも同じ伊邪国だろう。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 19:39:36.32
>>958
>肥国といっても広いんですが、どこから共立されたんですか?

これは不明。
現在の筑後かもしれないし。
(本来の筑紫は筑前だけ)

>肥国に邪馬台国があるんですか? 

邪馬台国は筑紫の方。
肥国は後から邪馬台国(倭国)に含まれた。
後漢書との比較からは、おそらく倭国大乱で。
逆に、倭国大乱の首謀者の一部が肥国だった可能性もある。

>それとも筑紫倭国に邪馬台国があるんですか?
>筑紫倭国のどこを7万戸の都に当てるんですか?

倭の訓読みがヤマト。
7万戸は奴国を含む倭全体。
ただし投馬国はヤマトに含まれない。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 19:43:41.75
>>967
>草ではイミフになる。革の誤字だろうと
>するのが通説。

通説は疑え。
ロクなものがない。
牛馬がいないのに、どんな革で服を作るのか。
藁蓑でも来ていたんだろう。
0971日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 19:51:23.79
>>960
>日本書紀には遣唐使の記録はあるが遣隋使の記録はない
>遣隋使は九州王朝が送ったものだよ。

日本書紀の遣隋使の記録
十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。
卽大唐使人裴世C・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世C等。
爲唐客更造新館於難波高麗館之上。
六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。
於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。
爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」
於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」則坐流刑。
時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。
秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。額田部連比羅夫、以告禮辭焉。壬子、召唐客於朝庭令奏使旨。

大唐と書いてあるけれど、これは遣隋使のこと
隋書の「明年,上遣文林郎裴清 使於倭國。」の文林郎「裴清」と、日本書紀の「大唐客裴世C」の「裴世C」が同じ人物だって確認できるだろ?

九州王朝説を唱えた九州説の旗頭の一人、古田武彦氏は最初は>>960と同じように「九州王朝の遣隋使」を主張していたけれど、最後は諦めて九州王朝説を否定したよ
その結果、古田武彦氏と古田史学の会は喧嘩別れしている
0972日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 19:53:04.74
>>971
>その結果、古田武彦氏と古田史学の会は喧嘩別れしている

じゃああなたは古田派になればいい。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 19:57:01.72
>>971
>大唐と書いてあるけれど、これは遣隋使のこと
何で隋と書かずに唐なんて書いたんだw
この記事自体が他所の文献からの盗用なんだよ。

>古田武彦氏と古田史学の会は喧嘩別れしている
何処からの情報だよwww
0975日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:00:21.10
>>966
>隋書の時点ではまだ筑紫をヤマトと呼んでいたのでしょう。
隋書には、裴世Cの倭国訪問記録があります
明年,上遣文林郎裴清 使於倭國。度百濟,行至竹島,南望𨈭羅國,經都斯麻國,迥在大海中。
又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。
自竹斯國以東,皆附庸於倭。倭王遣小コ阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。

「自竹斯國以東,皆附庸於倭。」竹斯國より以東は、皆な倭に附庸す。
筑紫=竹斯と倭(大和朝廷)は、区別されていますね?
そして倭王の遣わした「小コ」は日本書紀に記されている冠位十二階の一つです
「九州王朝の遣隋使」は、どうあがいても無理なんですよ
0977日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:04:39.20
>>859
翰苑の記述は、誤字や漏れを考慮しなくても、
女王国までの行程はきっちりと完結して掲載されているね。


東南五百里で、伊都国に到着する。万余りの戸数がある。
(官を)置く。いわく爾支で、副いわく洩渓觚・柄渠觚という。其の国王はみな女王に属す
又、南は邪馬嘉(邪馬台国または山鹿)に至る。
帯方から女王国に至るには、一万二千余里である。
女王国の北は、其の戸数・道里を略載することができる。
女王国の南は、狗奴国がある。男子を以て王と為す。
その官いわくコウチヒコといい、女王には属さない。


一万二千余里の総距離として、ほぼ完結している。
一万二千余里はちんじゅも採用したのだからこの数値であると認識されていることがわかる。
畿内の記述は1ミリもない。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:04:55.50
>>974
>何で上の方を見ないの?
>読めないの?

何が言いたいのかまったく分かりません
上の方に書いてあるのは「説文解字」にある、「春秋」の「都」に対する「左伝の注記」を、すべての「都」の意味に使って訳の分からない論を展開しているのしか見えませんが?
「伊都国が先王の廟がある都である」というのは、「説文解字」を根拠にしても、「康熙字典」を根拠にしても、まったく意味のある説明にはなりません
0979日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:06:04.57
>中国古典辞書の一般的な記述法でしょ
それを『一般の「都」の意味』に敷衍して使ってはダメだ、ということです
0980日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:10:26.38
>>977
>翰苑の記述は、誤字や漏れを考慮しなくても、
>女王国までの行程はきっちりと完結して掲載されているね。

翰苑がなんだか、分かってないでしょ?
翰苑の倭国に関する本文の記述はたったこれだけだよ
憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 
文身點面 猶稱太伯之苗 阿輩雞弥 自表天兒之稱 因禮義而標袟 即智信以命官 
邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮 景初之辰 恭文錦之獻

どこに、女王国までの行程があるって?ww
0981日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:12:37.41
>>975
>「自竹斯國以東,皆附庸於倭。」竹斯國より以東は、皆な倭に附庸す。

筑紫より東は全て倭なんだよね。
それはいいとして、勝手に倭を大和朝廷にしないでよ。
筑紫と秦王国まででまた行程が終わっているよ。
秦王国が香椎か宗像か小倉か知らないけど。
さらに十数国で(九州の東の)海岸に出て倭国は終わるとあるから、秦王国は香椎かな?
魏志倭人伝が不弥国(香椎)で行程が終わっているのと一致するのかもね。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:14:44.61
>>978
>「伊都国が先王の廟がある都である」というのは、「説文解字」を根拠にしても、「康熙字典」を根拠にしても、まったく意味のある説明にはなりません

伊都国に倭王の王墓が歴代存在していたのは考古学的に確かなので、間違ってはいないよ。
陳寿がどのような意味で使ったかは保留するとしてもね。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:15:39.41
>>890の話はごもっともだが、
伊都国は奴国の窓口みたいな意味が強いからな。
港湾というか、出入り口を抑えているというか。
至と到は、到は到着する(至は経由)という
意味があるが、伊都は到を使っているから
メインは伊都なのさ。奴国はおまけ。商業は奴国が人口も多くて盛んだったろうけどな。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:16:53.65
>>980
自帯方至女國万二千余里
(翰苑 卷三十)
0985日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:20:06.92
>>983
だよね。
あとは、なんで魏の使いが奴国はともかく不弥国に行ったのか。
位置的には香椎宮だよ。
神功皇后の宮でもあるんだよ。
怪しいだろ。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:21:53.96
>>973
>何で隋と書かずに唐なんて書いたんだw
日本書紀が完成したのが、唐の時代だからに決まってるじゃないですか
そんなことも分からないんですか?
「大陸の王朝に送った=大唐に送った」 なんですよ
そもそも、日本書紀の編纂理由が、唐に見せるため、ですから

>この記事自体が他所の文献からの盗用なんだよ。
強がりを言ってもムダですよ
他所からの盗用なら、唐國號妹子臣曰蘇因高はどこから来るんですか?
大陸の史書に「蘇因高」は出てきませんよ

遣隋使の時点までの九州王朝説は、ムリ、なんですよ
大陸の史書と日本書紀との対応がきちんと取れますから

で、倭の五王までの九州王朝も、倭王武=雄略天皇を否定できなければムリ
ここで、きちんと否定できた人はいないですよね
「違うったら違う」と駄々を捏ねている人はいますが

で、卑弥呼真で九州王朝で、倭の五王は大和朝廷という論もあり得ますが、
その場合「倭の五王」と呼ばれるように、宋書で「倭王」と書かれていることがネックになります
これは、倭の五王が親魏倭王=卑弥呼の後裔そのものだということを認めているからです
別の王朝なら、別の国名で呼ばれなければなりません
大陸の基本思想は、徳治主義の易姓革命の思想ですから、天命を失った王朝は滅んで、新しい王朝が建つことになりますから
隋と唐の国号が違うように、卑弥呼の王権と倭の五王の王権が別の王朝なら、倭の五王とは呼べない訳です
0987日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:21:54.90
帯方郡からの使いが留まり、一大率も置かれていた伊都国。
最大の国邑である奴国。
〇〇のいた不弥国。
合わせて女王の都、邪馬台国(ヤマト、倭、筑紫)。
0988日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:22:29.99
>>904
それって、後の時代になって
太宰府あたりに訪れた中国の使節が、
「ここは昔、ヤマイ国があったところ。発音がなまった」と
いう記述のとこだろ。ひょっとして
「ヤマタイはここである」と書いたのかな。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:26:09.30
>>982
>伊都国に倭王の王墓が歴代存在していたのは考古学的に確かなので、間違ってはいないよ。
>陳寿がどのような意味で使ったかは保留するとしてもね。

ここでの議論が、「都は先王の廟のあるところ」だから伊都国が「都=邪馬台国」っていうのが論理的ではないと言っている訳です
女王の都するところ、というときの都は「先王の廟があるところ」という意味ではありません
0992日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:27:22.56
>>986
>そもそも、日本書紀の編纂理由が、唐に見せるため、ですから

わかってるじゃないか。

>大陸の史書と日本書紀との対応がきちんと取れますから

日本書紀が擦り合わせて書いたからねえ。

>「違うったら違う」と駄々を捏ねている人はいますが

全然違う家系図の人物を勝手にこの人とこの人は同じ、とやっているのはあなたですよ。

>別の王朝なら、別の国名で呼ばれなければなりません

わかっているじゃないですか。
後漢書を読んでください。
倭国は博多湾沿岸なんですよ。

>隋と唐の国号が違うように、卑弥呼の王権と倭の五王の王権が別の王朝なら、倭の五王とは呼べない訳です

畿内大和を、博多湾の倭の名前でそのまま呼ぶわけにはいかないのですよ。
卑弥呼から倭は畿内の国ですよ、なんてことになったらおかしいのです。
0994日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:29:01.61
>>990
>女王の都するところ、というときの都は「先王の廟があるところ」という意味ではありません

ああ、なるほど。
それは納得。
陳寿は王都の意味で使っっているかもね。
まあ、どっちでも伊都国が倭の都であることに変わりはない。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:29:11.83
>>983
>至と到は、到は到着する(至は経由)という
そんなことを言っていた人もいましたが、いろいろな漢籍が電子化されて、検索が容易になって、三国志内の「至」と「到」の使われているところを全部抽出して確認してみたところ、
「使い分けは気分としか言いようがなく明確な意味の違いは見出せなかった」という結論が出ていますよ
0997日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:29:54.17
>>993
ヤマイが間違いなんだよ。
ヤマトだよ。
博多湾沿岸が昔はそう呼ばれていたということ。
1000日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 20:31:23.50
>>981
>勝手に倭を大和朝廷にしないでよ。

では、小徳という冠位を九州王朝で使っていたという文献証拠を出してくださいね!
待ってますよ!
小徳は、日本書紀にも書かれた冠位十二階の一つですから、大和朝廷に決まってるじゃないですか!
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