【下剋上】 北条早雲 【大器晩成】
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北条早雲の没年齢は64歳説と88歳説があるがいまだに確定せず。
どちらでも遅咲きの英雄には変わりない。 黒田と呉座は古文書が読めないだろ?
磯田ぐらいだろ? 北条氏照は山伏にも軍役を課したし寺の鐘も供出させた
無視したり怠れば百姓だと「頚切」
武士ならば「切腹か斬首」 『日本最古の水道「小田原早川上水」を考える』(石井啓文氏 著)
を注文してしまった。
在野の研究者の著書だが早川上水について正面から取り組んだ本はこれしか見つからなかった。 >>854
上水から木樋で飲料の水を町にめぐらす辺りは江戸の町と同じだな >>857
小田原北条も江戸幕府も、その崩壊が近づくとやはり百姓から兵を募ったりしたが、寺の鐘まで供出させたとは、学生まで徴兵したり即席士官を大量増員した大戦末期の日本みたいだな
そのスローガンも、今こそ御大途の恩に報いる時、御国の為、とはほとんど同じだ >>857
後北条と豊臣方との緊張が最高潮になっていた頃は、もしかしたら後北条氏滅亡の危機に際し積極的に募兵に応じる百姓や浪人も多数いたのかもね。土方歳三さんみたいなひとが。
まあ、そんな史料は無いけどさ >>859
面白い着眼点だと思う。
私見では、(対「豊臣」戦争以前の時代に)多くはないがそういう人々はいたと見ている。
上で話が出たが、
それこそ「三沢衆」等國衆未満百姓以上の立場から敢えて北條の被官となった層をどう観るか。
>>845氏は彼等が無理矢理被官化を強要されたように解釈しているようだが、
>>812氏の指摘に見る例もあることから全てがそうであったとするのは如何なものか。
事例毎に個々の村(または衆)の思惑はあったにせよ基本的に選択権は彼等の方にあったのではないか。
それこそ近藤土方等が将軍警護浪士徴募に応じた如く自ら進んで北條被官たらんとした人々もいたと考える方が自然だろう。 余計なことを書く。
>>845氏や>>858氏の戦国社会観にはマルクス主義的階級史観、或いは市村高男氏らに代表される権力観の影響があるように思う。
統治権力体と被統治対象は対立的に存在する、両者は常に搾取−被搾取の関係であるという基本認識が。
それらは多くの局面に就いては確かに的を射た解釈を提供するものではあるし、俺も全面的に否定するものではないが、必ずしもその認識の下に全てを一元的に解釈する必要もなかろう。
吉本隆明の云う「共同幻想」にせよ今村仁司の云う「排除された第三項」にせよ、権力の発生存続に就いて個々の構成要素からの意志的関与を認めている。
いま議論になっている案件に於いても被統治対象(村、衆)から権力機構(北條権力体)への自発的関与(参入)を視野に入れて然るべきだと考えている。 >>861
関東広いし同じ後北条の分国内でも個々の村によってもかなりの際がありそうだよね ただ南多摩の三沢衆が無足、つまり所領が無いっていうのはやはり急ごしらえの感は歪めないな
岩槻領の鴻巣七騎とか鉢形領の小前田衆・荒川衆なんていうのもかなり無理した感じはする >>864
それは不明だが、三沢の土方と石田の土方が関係皆無とは思えない。
ちょっと気づいたのは、三沢十騎衆にしろ、その他の後北条の支城に属した荒川とか南川辺とか何々衆とされた集団が後北条氏末期に発生した土地に共通するのは、河川沿いの新興の開拓地だったのでは?ということ。
相模の山勝ちな辺りの村の有力者的な小土豪は小田原所領役帳成立時点でもわずかでも所領を与えられてるんだけど、三沢と荒川とか小前田とかは開拓の年貢は免除だが軍役アリとか棟別銭免除のみで所領が無与えられていない場合が多いのでは? 後北条氏がどうとかより、そもそも関東の民衆がどうだったのかの方が重要っぽいね >>866
全く同感。
大名が衆や村を規定するんじゃなくて、
衆や村が大名を規定する。
北條の民政がそれなりに持続可能だったに就いては関東の自然や地域性も重要な因子だと思うんだが、そういう研究は見たことがないな。
もっとも、仮説を立てて検証しようにも史料も無きゃ再現手法も無いからアカデミズムの対象にはならないか…。 >>861
たしかに小田原・大途と、関東の民衆の間に一定の合意があったから降伏したとはいえ籠城戦も可能だったのだろうな。
名主クラスから被官化した小土豪すべてが後北条によって無理矢理被官化させられたとは俺も思わないな
かなり強引であったとは思ってるけど
小田原や支城の籠城戦で離反者があまり多くないのがそれを裏付けているようにも考えられる。 >>867
関東は平野だからな
それがすべてだと俺は思ってるけど 関東出身で全国各地に転勤したが、個人的に
感覚的に、或いは肉感的とも言えるが信用度高い地域は九州と東北だったな
関西は何もかも合わない
割りとそーゆうちょっとした気質の違いも影響あるのかも
江戸時代の百姓一揆にも、その地域差や違いが表れているように思う。 自前の具足一領はかなりの負担で高価品
祖父親子三代でローン組むほどだったとか
しかも馬の費用と従者の具足皮笠まで負担となると軍役って辛い >>869
それよ、それ。
それが村の在り方に、ひいては大名や「戦」にも決定的な影響を及ぼしたと見ている。
戦国板の某スレでそれを書いたが、関東以外の人が多いと見えてなかなか実感出来ないようだった。
そう考えると伊勢宗瑞は極めて学習能力の高い御仁だったんだな、と。 >>872
堅固な山に囲まれた広大な平野と半島の中にある海
平将門、平忠常、源頼朝、新田義貞、足利尊氏、徳川家康
みな関東を基盤にした武士 いくら戦国の世とはいえ、独自の元号まで使うのは関東武士くらいでは? >>872
後北条時代にも新田開発みないなものがあったと想像する
それと拡大する軍事力とは密接に関係していたのではとも想像する 秀吉は小田原を成敗して天下人になったが、その大坂はやがて関東勢に夏・冬と攻められて完全に負けた
新しい国家をもたらすのは関東から出るのは歴史が証明している まあ、城の堀を掘削するのも土塁を築くのも百姓だしね
百姓の力がないとダメだよ
天正15年から大規模な改修や築城ができたのも国力あってこそ
つまり民の力 >>876
戊辰クーデターを起こして「大日本帝国」をデッチ上げたのは西の方のイモとフグだし、
現時点最新の「日本国」はアメ公がイモフグ政権を滅ぼして拵えた傀儡なんだが。 >>875
江戸時代のように公儀肝煎で全くの客地に入植者を募るかたちじゃないが、村毎の田畠拡張を奨励援助する政策の記録はある。
村内の「荒地」(原野もあり元耕地が荒廃した地所もあり)を新たに耕地化する場合には一定年限年貢を免除したり種を貸し付けたりしたらしい。
勿論それは基礎行政単位である村の存続・安定・繁栄を以て北條権力体の経済基盤の拡充を図るという、極めて正攻法の国力強化策ではあった。
北條が武田上杉の派手派手しい外征略奪路線に比べて地味に見える所以。 >>879
鴻巣七騎っていうのも新田開発で集まった 歴史に埋没してた北条早雲と土方歳三を世の表に出したのが司馬遼太郎なのは皮肉な話 鉢形の氏邦配下の荒川衆の筆頭に持田四郎左衛門というのがいて、馬鎗三人徒歩鎗三人という結構な軍役を課せられていたんだが、最初は所領もなくて棟別銭の免除だけだった
荒川沿いの荒地を開拓していたので他にも免除や権益はあったかもだが扶持として下されたのは一貫五百文程度のひどい仕打ち
おそらく三沢衆というのもこれに似たようなものだったのだろうな 後北条も最期は小田原以外の人心が離れていたんじゃないか? 上杉や武田にはいい勝負してたのに
なんで南房総しか支配していない里見ごときに大苦戦してんだよ >>886
北條は滅亡していないが。という指摘は今は措くとして、
その手の話題が大好きなIF馬鹿やゲーム脳が寄って来る前に云っておく。
列島のヒト社会の歴史段階がそこに到達したから北條は退場した。
中世は気候寒冷化と地殻変動活発化の時代だった。
ヒト社会の事象に変換すれば災害と飢饉の恒常化ということになる。
十五世紀半ば、室町幕府の統治原理はこの状況の前に無能無策を曝け出した。
地域次元からこれを超克してヒト社会の存続を図るべく列島各地に叢生した権力体群を「戦国大名」と謂う。
質的には対等な独立地域権力体群がその暴力装置の相対優位に拠って領国内の暴力を封鎖して「平和」を創出、以て民生の安定を実現する。
世紀末から次世紀にかけて抬頭した北條は「戦国大名」の統治原理の極限を体現した権力体だった。
換言するとそれが北條の限界だった。
十六世紀末、列島のヒト社会は漸くその「次」を求める歴史段階に到達しつつあった。
地域毎の権力体即ち暴力装置群に対して異次元と云うべき圧倒的・超越的な暴力でこれを強制封鎖、以て列島規模の「平和」を実現する一元的権力体が待たれていた。
羽柴″豊臣″権力体は実際に「天下一統」を成就するよりもかなり早い時期から自らを「公儀」と規定した上で「喧嘩停止」「惣無事」を発令していた。
少なくとも権力目的及び政策に於いて既に「戦国大名」を超克しつつあったと見て可だろう。
羽柴″豊臣″は歴史段階の要求に対応し得る資質を有していた。
旧段階の極限である北條は歴史的役割を終えつつあった。
北條が「戦国大名」の最終ランナーとなったのは偶然ではない。 その割には勝海舟が最も近代的な戦国大名に後北条氏の名を挙げていたんだけどな >>890
勝海舟ってそんなに後北条氏の分国体制にくわしかったのか? >>889
秀吉にも平和を実現するという公儀としての意思があったのだろうね
だからこそ家康を関東へ移したとも言えそうだ >>890
確たる文献(「氷川清話」)が存在するものを歪曲しても始まらないと思うが。
勝は「近代的」などとは云っていない(>>455参照)。
そもそも勝の時代の語彙に「戦国大名」という単語が存在したか否か、織豊権力とそれ以前を権力構造の面から区分する議論があったか否か、甚だ疑問だ。
勝海舟の北條評は>>639に挙げた頼山陽のそれとほぼ同じ認識を示したものだろう。 南房総は山がちで攻めづらい上、攻め取ったところで得られるものが少ない
その上何度も鎌倉などを焼き払いに来る水軍力まであり厄介 >>892
「給人も百姓も成り立ち候やうに」という言葉が羽柴″豊臣″権力体、或いは禿げ鼠本人のテーマだったんだろう。
因みに、徳川が旗印に掲げた「厭離穢土 欣求浄土」も狸の切実な本音だったと思う。
禿げ鼠にせよ狸にせよ、彼等は余りにもおぞましい地獄を見続けてきた。 >>894
北條が安房を、里見が相模を本気で獲ろうって戦争じゃなかったのが却って長引く要因だったんじゃないか。
争ったのはあくまでも武総之海の利権。
相手を強かにぶん殴って大人しくさせられれば良い、という。
両水軍の戦争について詳述した本を注文した所なんだが、
最終的に北條優位の和睦が成立した時に里見の権益をどれだけ残して妥協したのか、その辺りが書いてあることを期待している。 >>895
後北条も関白秀吉も徳川家康も、或いは本願寺も望んだのは大名のせこい権益ではなく平和だろうね
理由は民衆がそれを望んだからだと思う 秀吉が小田原北条を倒して鎌倉に入った時に、頼朝公の木造を見に行き、
「多田満仲の後裔であるあなたと、尾張の下層民の出の私だけど、頼朝公とこの私は、これからは天下の友だ」と頼朝の木造の肩を叩いて言ってのけたというエピソードは軍記ものの創作かもしれないが、俺はこの話が好きだ。 血生臭い戦陣において「厭離穢土欣求浄土」の旗をあえて立てたのは民衆の願いを叶えるための戦争をしているのだ、という家康の本気のスローガンだったのだろうな 言われてるほど後北条の関東統治は先進的ではなかったかもしれない >>900
徳川氏の関東御討ち入り以降、貫高制から石高制へ以降したね
後北条は近世への先鞭は着けていたけど完成までは至らなかったね >>902
とりあえず200年以上に渡って戦争が無い時代をもたらしたね
たぶん日本史上最長の平和な時代だろう 先進的かどうかは相対的なものだから後世からではなく同時代で比べないと
北条と同程度の行政史料が残っているとこ少ないので大変になってしまうが 古文書が読めないと現代語に訳された史料で勉強するしかない >>905
古文書っつったって所詮は中世のものだからな。
語彙からして現代語と大して変わらない。
翻刻さえしてありゃ誰だって読めるし理解もできる。 後北条発給文書が数多く残ってるから職人統制の姿もだいぶわかるよな
番匠、鍛治、石切、皮作、砥石とか軍需関係が多いけど
宗教関係で興味深いのは、時宗の鉦打ち・鉢たたきが氏邦に飛脚の任も負わされている事 もし上杉、武田に領土を奪われる覚悟で全戦力を南房総に注ぎ込んだならば里美を滅ぼせたかな? しかし鶴岡八幡宮を焼き討ちにするなんて安房里見も罰当たりなことするね
鶴岡八幡宮の守護者を自称してた北条家が激怒するのも無理はない >>902-903
司馬遼太郎や堺屋太一は日本人の閉鎖性や島国根性の元凶は徳川時代にありと批判ていた >>908
「もし」なんて無意味だからやめた方がいいよ 司馬遼太郎の名が出るとちょいちょいモメるけな
あの人は歴史ではなく歴史上の出来事を借りて、人間、つまり人を書きたかったのであって歴史家でもなんでもない
俺は娯楽小説として夏草の賦とか燃えよ剣なんかはけっこう好きだけどさ
当たり前だが、史学として、資料として、根拠論拠の出典には使うのはナンセンスだ >>913
> 人間、つまり人を書きたかった
それさえ怪しいんだが…。
主人公を立たせる為に周囲の人物や敵役を必要以上に貶める司馬の悪癖は、虚構とはいえ醜怪の域に達していて胸が悪くなる。
坂本龍馬に対する武市半平太
土方歳三に対する近藤勇、大鳥圭介、榎本武揚
明治天皇に対するニコライ二世
児玉源太郎に対する乃木希典、ステッセル
東郷平八郎に対するロジェストウェンスキイ
天野八郎に対する渋沢成一郎
「北条早雲」に対する足利義視、小鹿範満、扇谷定正
…
枚挙に遑が無い。
手口が余りにも見え透いている。
もっと露骨に大衆受けを狙う講談や子供騙しの漫画でも司馬ほど安っぽくはない。 >>910
堺屋太一の堪え難い下品さの元凶は関西の地域性にあり
−−と云うのと同じくらい粗雑な暴論だな。 >>914
彼が後半に歴史家ぶったのは、事故の作品に対する擁護援護だったのかもな 戦争大名やその配下の部将などを変に英雄視したりする風潮には司馬も荷担しているわな トラック一台分の資料を集めてた司馬遼太郎には並みの歴史学者では追い付けないよ 今では古文書よめるって英語を完全にマスターするより難しいよ
磯田道史が日本史の御意見番のごとく引っ張りだこなわけだ >>920
後北条氏関係の古文書は難しい要素皆無だけど? >>914
作風が既に腐ってるよな司馬遼太郎って
あいつ関西人だから仕方ないけど しかし司馬の資料集めは池波正太郎が舌を巻いてたという 司馬遼太郎に匹敵するほど資料を集めてた歴史小説家は吉村昭ぐらいだろ?
吉川英治と池波正太郎は講談家 司馬は関西人のわりには京都の仇敵でもある新選組人気の火付け役になったのはおもろいよ 残存する史料の多さは、それだけ実態に迫れるということ
その意味では後北条氏はダントツでナンバーワンだな 今読んでいる研究書によると、北條は林業にもかなり注力していたらしい。
軍需材や普請材としての杉や竹は勿論、栗、小楢、欅、翌檜、皀莢、…等々
民生用、薬用、飢饉対策食糧用の樹種を植林育成する為に例によってコマカスギル政策を実施していた、と。
附随して上記樹種の苗木の商品化まで進んでいたと謂う。
俺は職業柄か、軍記脳の喜ぶ政治動向よりもこういうハードウェアや生産技術の面から歴史を考える方が面白いんだが、
>>928の云うように北條は矢鱈と文書が残っている御蔭でそんな嗜好にも応えてくれて有り難い。 >>930
関東、武蔵野とかに立野とかそういう地名あるよね
あれも関係ありそう 後北条氏の伊豆相模武蔵の漁村支配に興味がある
番肴の実態を調べたい 北条氏照は奥多摩開発の始祖である
それを大久保長安が引き継ぎ配下の八王子千人同心から新選組が誕生したのも歴史の必然なのである >>925
吉村昭は史料収集による取材力と史実に対する拘りが抜きん出ていた作家
後北条氏関連の作品も書いてほしかった 後北条氏の場合、関東各地に残る古文書等の文献史料も凄いが、小田原の本城や支城から発掘された手づくねのかわらけ等の出土品もなかなか重要な史料だと思う 小田原北条のロクロを使わない手づくねかわらけは氏綱時代から現れるようだから、近衛家との縁組みがきっかけかな?
山内上杉系のかわらけはロクロが右回転で扇谷上杉系のが左回転、古河公方系もまた特有のかわらけだとか? >>929
土方歳三って、己は誰それの生まれ変わりだとかそんな戯言を自称してたの?
聞いたこと無いんだが? >>934
俺は江戸っ子の家系の多摩者なんで、
薩摩のイモと長州の河豚は全員例外無く大っ嫌いだ。 >>940
あなたの個人的な好き嫌いなどという主観はまったく意味無いし、幕末の薩摩とか長州とか後北条氏に関係ないでしょ >>941
正に「個人的な好き嫌い」を訊かれたから答えたまでだが。
文脈も読めない白痴か? 戦国の世に、後北条氏は自らの政治を公儀と定義し、国家を名乗り、その分国において小豪族の支配地を「私領」とし、国法を以て賞罰して治めた
実際に今に残る後北条氏発給の古文書に「公儀」「国家」「国法」という語が多く書かれている
その一方で「大日本」「日本」「扶桑」等の天皇を頂点とする王土の下に分国があると認めている
どの部将が強いとか笑、戦国ロマンとか、好き嫌いとか、そんな軍記物の話はどうでもいい世界がある
後北条氏の戦争の勝敗や強弱よりも、その分国での農業、漁業、林業の実態をもっと深く考察したいよ >>942
あなたが指名されて聞かれたの?その白痴に >>943
遠慮無くどんどん話題を振ってくれ。
そういう方向の話題が振れるんなら。 端っからそんな気はしてたが、いとも容易く語るに落ちたか。 >>941
後北条氏の家来である三沢十騎衆の子孫が土方歳三みたいだから
幕末は全く関係ないわけじゃないですよ >>933
違う。
ところで、三田氏って知ってる? レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。