【北条得宗家】北条時宗【最後の英雄】
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>>285
武士に負けて1日で逃げ帰り1万3500余人の犠牲者出した文永の役なんて、
これ以上ないレベルの大失敗だろ 文永の役は蒙古襲来に成功してないし
偵察だったのかもしれないが、日本側に防備を備えさせることになったから失敗だろう 第三次日本侵攻計画には軍船の製造はあったが、騎馬部隊の編成・輸送はないな
ならば、公安の約の繰り返しだ 第三次日本侵攻計画では、モンゴル兵に水軍の訓練させて海戦に投入するつもりだった。
弘安の役では、東路軍と江南軍が制海権を確保できず、せっかく動員したモンゴル大部隊を
戦闘に使えないまま大敗したからね。
とにかく制海権を確保しないと話にならない。 高麗や元南宋の奴隷が嫌々で作った泥船を使い、やる気のない兵士が主力では、元が何回攻めてきても日本は負けないだろう
元が勝つとしたら、南北朝の時に、南朝か北朝のどちらかを味方にして便乗するくらいしかない 文永の役は筥崎宮を焼いた後、何もせずに四方を荒らして帰った。
中世の八幡社の役割なんてよく分からんが、これできっと目的である博多攻略が達成できたんじゃないかな。 >>295
文永の役で元軍に博多が攻略されたなんて史料は皆無なんだが。
その手前の赤坂で武士に負けて逃げ帰ってる。
元軍大惨敗。 どさくさに紛れて博多の町を放火したら勝ちなのか?
それなら、倭寇は大勝利を重ねたと見なされることになる。 今で言う華僑の大元締めが八幡社だったんじゃないかな。逆説でしかないが そもそも筥崎宮の火災って史料では蒙古の放火じゃなく内部出火だし。
筥崎宮は当時火災を連発してて、1265年に一度焼失して、再建したら1274年にまた燃えて、
再建したらすぐ1280年に焼失した。
火災原因を内部に抱えた状態だったんだよ。
史料で内部出火の筥崎宮の火災を無理やり蒙古が放火したことにして、それを根拠に
史料では戦闘で勝ってる武士を負けてたことにする。
こんなのまともな学問じゃない。 モンゴルが情報操作に長けているから、多くの史料は鵜呑みに出来ないんだろう。 元寇の研究はイデオロギーによって歪められてきた。
皇国史観においては、実際の戦果を過小評価して「神風によって勝った」として、「日本は
神国」という思想の根拠にしようとした。
戦後の偏向的研究においては、「蒙古が勝っていた」「武士が負けていた」などと戦果を
過小評価し、「蒙古による日本遠征」と称して侵略性を隠蔽することもあった。 >>268
その四十万、多分Wikipediaもそれ参考にして元軍の数を計算したんだろうけど、
他の部分では十四万となってるのみると、そこだけ十四を四十と誤字ったんじゃないかなあ >>302
弘安の役に参加したモンゴル兵の人数が40万人であったことは、全く別系統の史料でも
裏付けられてる。
鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌
「辛巳六月半、元賊由四明下海、大船七千隻、至七月半、抵倭口白骨山、築土城駐兵対塁。
晦日大風雨作、雹大如拳、船為大浪掀播沈壊、韃軍半没於海。船僅廻四百余隻、二十万人、
在白骨山上、無船渡帰、為倭人尽刎。」
「韃軍」とは、旧南宋軍とかじゃなくあきらかにモンゴル軍だ。
その「韃軍」は半数が海に沈み、20万人が帰還できずに殺されたとある。
つまり「韃軍」=モンゴル軍の総数は40万人。 >>304
その帰還できなかった云々についても、やはり元史では10万人としてるよ >>305
元史日本伝に書いてあることは江南軍のことで、蒙古軍のことじゃないでしょ。
江南軍と蒙古軍は完全に別物なんだから。 元の手下となって日本に攻め込んできた元南宋の兵士は10万人くらいいたに違いない。
モンゴル人は、多分数千人だろう 「韃軍」とは韃靼の軍、つまりモンゴルの軍だ。
元南宋の軍を「韃軍」とは呼ばないな。 降伏したばかりの南宋人なんてモンゴル帝国最下層の人種じゃん。
南宋人がモンゴル軍になれるわけないだろ。 自国の禅僧などを通して情報戦をやってたくらいだから、カチカチ山の泥舟で元軍を沈められたんだろう。なんせ船は南宋の持ち船か高麗の船しかなかった。元が滅亡したきっかけの江南の反乱も扇動してそう。 そもそも、モンゴルは自前の海軍なんて持ってない。
まあ、モンゴル陸軍自体、被征服民たちとの混成部隊だけどな。
モンゴルは人口が少ないので、自前の軍隊だけでは動員力に限界がある。 高麗がモンゴルに嫌々作らされた舟は、まさに泥舟
間違いない
元南宋に作らされた舟は、よく分からんけど。多分少し大きな泥舟 10万もの大軍を上陸させようと思ったら、丸1日かかるらしい。
つまり、朝に上陸を開始しても、日が暮れても、全軍の上陸は不可能。
しかも、大型船が座礁せずに接岸できる港は限られている。
よって、蒙古襲来の時も、浜辺から遠いところに大型船を止めて
小型の船に乗り換えて、上陸を試みようとしたけど、
そこには日本の大軍が待ち構えており、弓矢のあらし。
常に兵力で劣勢な戦いを強いられてきた。 >>311
クビライに寝返った南宋の水軍提督の蒲寿庚って南宋滅亡前からクビライに寝返って
その時に南宋の宗室の虐殺もしてるくらいだし
旧南宋ってもこのあたりはクビライに忠実だったんじゃね
貿易商人でもあるからメリットもあるし >>313
高麗史の数字を信用するなら高麗の船の方が南宋船より帰還率高い 九州から朝鮮へ帰るのは簡単
九州から中国まで、壊れた船に敗残兵沢山のせて帰るのは大変だっただろう >>315
まぁ、調略は双方していただろうと。
表の歴史だけ見ると、宋側は最後の土壇場で大規模な連環の計を成功させたように見えるけど。 調略に関してはベトナムに使者を送って反乱起こさせた北条時宗がモンゴルなんかより数段上だな >>316
南宋の范文虎の水軍て長江守備の喫水の浅い川船だから、
大型で堅牢に作られてようと、高波には弱いから、
台風来たら一発浸水転覆だろう。 この人の早世と子供の少なさが北条氏衰亡の大きな要因だよね。 弘安の役では日本が勝ったと言うより元側が戦う気なくして逃げ帰った、と言う方がより正確。
当時、良くも悪くも天候を読み取る科学技術がなかったことが大きな要因だろうな。 当時の兵站から考えて、本気かそうでないか以前に、海を超えて支配権を維持できるかって微妙だよ。 今大河放送中だからそれ以外の北条も注目されてるのでは >>326
当時の兵站を考えたら、海を越えた方が船で大量の物資を輸送できるから有利になるよ。
北アフリカのイスラムだって海を越えてイベリア半島の支配権を数百年維持しただろ。 >>326
よくあるやり口は皇子を人質にすることだけど、
日本の場合は仮に朝廷の東宮が人質として元にとられても
幕府にとってはどうなんだろうな
幕府の都合で皇統を選ぶのはもう過去にやってるし >>332
モンゴルが朝廷と組んだら日本なんて簡単に征服されちゃうじゃん。
その国の権威を温存して征服するのはモンゴルの得意戦略。
朝廷は承久の乱で鎌倉幕府に恨みがあるんだし。
モンゴル軍が攻めてきたとき朝廷が幕府の方を朝敵宣告したら日本の防衛体制崩壊だろ。 >>333
そう考えるとよくみる一旦従属すればよかった論はダメそうだな
一旦従属する→皇子を人質に出すになったらもう
元から無理難題があってやっぱり逆らおうとなっても
人質とられた朝廷との間に軋轢が生まれるし 北条氏って戦国時代の武将に比べるとそれほど高い評価は受けていないな。時宗は18のときにフビライに対して強気な態度を崩さなかったことで日本存亡の危機を乗り越えたという大きな功績がある。なのに教科書ではそれほどページが割かれてない 得宗は殺し合いに至るまでの導火線がいくらなんでも短すぎるので、摂家の方がまだ平和そう。
歴代当主で粛清してない奴いないし、なにか一族の気質というか宿痾のようなものを感じる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています