邪馬台国畿内説 Part364
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1532107694/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原型とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1 ◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百x四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で3世紀末か4世紀だろう! 奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。黒塚も3世紀とされる。黒塚築造年代の根拠は近刊の報告書入手後に詳説したい。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て築造年代を纏向3類中葉とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と比べて劣後しない。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。 ◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 71,72を追加 >>67
お前はアホか テンプレ支離滅裂になってるぞ >>67
お前はアホか テンプレ支離滅裂になってるぞ いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 テンプレはもとからツギハギの支離滅裂だよ。
素人がコピペでかき集めて妄想で繋げた駄文をたくさん貼って喜んでいるだけ。 「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。 関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったは
ずはないし、またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。纏向遺跡のピークもこのころだから、
やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」 >>75
年代観が狂っているから、おかしな結論が出るわけだ
こりゃ更迭されたのも当然だわ しかし、九州も畿内もぱっとしない遺跡ばかりだね。 なんでだろうね。 @阿波 >>1
テンプレが長い、わしみたいに1分にまとめろ。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015年久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人としてヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。
つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。 >>991
>「弥生時代後期」に古墳からではなく、
「庄・蔵本集落遺跡」から中国鏡「異体字銘帯鏡片」(前漢代 紀元前206年〜紀元後8年)が出土しているのは、
全国で阿波だけである。
「古墳の副葬品」ではなく、日々人々が暮らしている「集落遺跡」から「中国鏡」が出土するということは、
この遺跡周辺(鮎喰川下流域)が古くから中国との交流があり、
また、前方後円墳発祥の地でもあり、倭国の盟主であったことが窺われる。
まさしく、倭国(阿波)の貫禄ですね。
庄・蔵本遺跡(日本有数の初期農耕集落遺跡http://tokudaimaibun.jp/s_rist.html<
その画面での紹介では、
そのほか、弥生時代中期の方形周溝墓群、後期の中国鏡、銅鐸片を発見するなどの学術的価値の高い成果をあげています。
旧河道や溝などからは、土器・石器などの道具に加え、
木製品・炭化種実といった有機質資料も豊富かつ良好な状態で出土しており、
弥生人の生活誌の復元にも大きく貢献しています。
であるから、中国鏡とやらは、弥生後期になるし、前方後円墳でもないし、
青銅器鉄器の金属器もないようだから、
筑紫に比べりゃ、大分遅れていて、田舎だなあ。 >>71
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査で、畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、
テンプレートは、その大規模調査で、リアルに破綻した説の、詐欺まがいの宣伝だから。 将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている >>78
他にも、「内行花文放射線状文仿製鏡(完鏡)」が高地性集落「カネガ谷遺跡」から出ている。 @阿波 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>79
>テンプレが長い、わしみたいに1分にまとめろ。
ここだけは同意できる。
なるほど、1レスにまとめるとは素晴らしい。
まあ、2〜3レス程度はどの板でもあるけどね。
あ、あと神武と卑弥呼が同年代なのも同意。
しかし、だからこそ、卑弥呼がいたのは大和ではない。 葛城王朝とかアホ過ぎる
3世紀前半の遺跡を見つけてから出直してこい
問題外 キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のない空白の改行を行う癖があるな。。。 つまりテンプレートが論破されたことなど無いわけだ
納得した キナイコシは、テンプレートが論破された時、意味の無い通じないことを呟く癖もあるな。。。 つまりテンプレートが論破されたことなど無いわけだ
納得した 倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、 畿内説を論破され、狂ってしまったキナイコシが意味の無いことを呟き始めたな。。。 >>97
テンプレートを論破され、追い詰められたからではないのかな。。。 >>75
>古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
2016年に瀬田遺跡で2世紀中〜後半の陸橋付大型円形周溝墓が見つかっているから
関川もアルバイト講演の内容を少し変えないとな つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 畿内説が、完全に破綻してしまったことが、はっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば、良いのではないのかな、、、 >>102
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>99
>2016年に瀬田遺跡で2世紀中〜後半の陸橋付大型円形周溝墓が見つかっているから
円形周溝墓も倭国(阿波)が発祥だよ。
土壙墓も甕棺墓も木棺墓も石棺墓も配石墓も方形周溝墓も円形周溝墓も円墳も前方後方墳も前方後円墳も、
全部あるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 関川さんの時代は、おおよその年代をおおよその画期、例えば30年で割るなんてしてた時代。
そんな時代の学者を出し続けるのは九州説がいかに非科学的であるかという事。
どっちにしろ中塚教授のセルロース酸素同位体比で時代は結着するから。
勝山古墳の祭祀用の木材や石塚古墳の板材を鑑識すればいいだけ。
おそらく光谷さんの年輪年代の鑑識は正しかったのであろうが。
ただし纏向遺跡の時代が卑弥呼と同じだからと言って纏向にヒミコがいたかどうかは別。
纏向にヒミコはいないし。 >>104
古墳でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波 >>90
>葛城王朝とかアホ過ぎる
>3世紀前半の遺跡を見つけてから出直してこい
>問題外
なんで遺跡と決まってるのかドアホ。
日本は侵略されて王権が根絶やしにされたような国ではない。
そういう国では王権の痕跡は神社として残る。
4世紀前半の崇神時代の大神神社以前の名神大社数社が葛城に残る。
つまり崇神以前、トヨやヒミコが葛城にいた証拠だ。
問題外はなんでも遺跡でしか判断できない考古バカのおまえである。
出直してこいボンクラ。 >>107
神社も集落遺跡も両方大事だよ。 倭国(阿波)にはもっと他にもたくさんあるけどね。 @阿波 >>108
高天原(御所市高天)にある北窪遺跡、伏見遺跡は橿原考古学研究所によれば縄文まで遡る。
名柄の長柄神社「姫の宮」は弥生X期。
そして高鴨神社の創建は孝昭天皇の時代。
孝昭天皇の母はトヨ津媛。
葛城以外に邪馬台国の女王が住んだ王都候補はない。
纏向説、筑紫説、阿波説、みんな失せようね。 記紀神話というけれど、欠史八代も含めてその宮の位置はもっと意識されてよいと思う
神武の磐余から、その後の宮が葛城の地にあるとされているのは、葛城王朝説にとって重要
それが、開化天皇でいきなり佐保に移動する
次の崇神が纏向の南 >>109
それ、自慢にはならないよ。 悪いけど。 お粗末。 @阿波 >>103
纏向遺蹟は、大物主の遺蹟だったのではないのかな、、、 >>90
>3世紀前半の遺跡を見つけてから出直してこい
2世紀前半の「其国の男王」がいたわけだから2世紀前半からの王都を見つけないとね。
その時点で纏向は候補から外れる。
一方、縄文から始まる葛城は余裕だ。
だいたい人間は水なしでは暮らせない。
したがって王が住んだ場所は豊かな水源。
葛城の高天原(御所市高天)では今も最良の水がコンコン湧き出ている。
この時点で纏向ではないことが分かりそうなものだが、
想像力の欠片もない連中がヒミコが住んだのは纏向などとほざいている。 >>113
あんたは、岡上なみにアタマが悪いな
纒向は川のほとりだぞ 東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ
真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨
白を纏った雲、香、
シラの姫を娶った香具山の勢力、蜘蛛、火明命を連想させるな
纒向遺跡の外来系土器の主体尾張は火明命の地
天香久山の山頂に祀られている国常立神、鬼門に封じられた神
尾張一宮は火明命だが、本来は国常立神と言われている
三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し邪馬台国、大和朝廷を作ったんだろうな。
サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波咋
国底立神、
国常立神、鬼門に封じられた神、天香久山に祀られている神、
阿波咋
倭国大乱を引き起こした張本人だろう >>105
>どっちにしろ中塚教授のセルロース酸素同位体比で時代は結着するから。
誤差を考えたら、邪馬台国論議に必要な精度は出せないと思うよ。 >>110
>記紀神話というけれど、欠史八代も含めてその宮の位置はもっと意識されてよいと思う
神代の筑紫の宮も忘れてはいけない。
神武と卑弥呼が同世代なら、筑紫伊都の男王達は日向三代だろう。 >>114
川のほとりと水源は別なんだよ。
川は水源に住む王(神)たちのウンコも流れてくるのだよ。
ウンコ水を飲むなんてお前にふさわしいがね。
そう言えばヒメ(踏鞴五十鈴)媛のお母さんセヤダタラ媛も川でウンコをしていたね。
水源で用を足せるのは王族の特権。 >>119
あなたに科学的な知識がないことはよくわかった。 >>113
いや、水がコンコン湧き出ている、じゃなくて、
2世紀前半の王都を見つけないとダメなんだろ? >>117
>神武と卑弥呼が同世代なら
これの根拠が、インチキ数理歴史学「1代=11年仮説」しかないからねぇ
ちょっと説得力がないな >>107
>4世紀前半の崇神時代の大神神社以前の名神大社数社が葛城に残る。
3世紀前半に存在したことを証明してからにしろや
問題外 宮と都を同一視するのは止めなよ
もともと、王がいれば、そこが宮だったんだよ
共立女王が誕生して、共立した勢力が集まる場として新たな都が作られた
その場所が纏向遺跡ってだけ
その前の男王時代は、特に都は築いてないだろ
王のいた環濠集落を都と言いたければそう呼んでもいいけどさ >>121
縄文から弥生、そして古墳時代前期まで存在する痕跡で充分。
纏向は2世紀末。
論外。 >>125
>共立した勢力が集まる場として新たな都が作られた
勝手に決めるな。
纏向は物部遺跡だ。 >>126
規模を問わないなら全国の複合遺跡は皆そんなもんだよ >>120
中塚さんの研究に誤差があるなら言え。
付け焼刃で反論しても科学の前ではむなしいだけ。 >>128
全国の前期古墳が丘陵の上や山の中腹にある。
大和も同じとみて良い。
しかし纏向は丘陵の上や山の中腹ではない。
大和盆地の最上座とは高天原(御所市高天)だ。
日本最古の神社の境内にある径百余歩の塚に奴婢が埋葬されている。 >>131
纏向遺跡は最初から2世紀末の造営と言ってるから
御所市高天の有力遺跡や雑木林に埋葬施設が見つかってから考えようや >>129
日本書紀を読み直すと、大物主と、崇神天皇と、物部の祖先との関係性が示されている箇所があるな。。。 あらゆる測定には誤差が存在する。
誤差がないとかいうのは素人以下の無知な幼児。 >>132
>御所市高天の有力遺跡や雑木林に埋葬施設が見つかってから考えようや
式内・名神大社の境内を発掘させろってか。
どこまで不遜なんだこの下人。
考古バカは考古学板に行けばいい。
ここは日本史板。
文献はもちろん、神社伝承、地名の由来など総合的に考えるのが日本史。
君はスレ立てる板を間違えている。 >>121
なんでダメなんだね?
理由でもあるのか? それにしても、なぜ、キナイコシは、大物主や崇神天皇や物部や大田田根子と関係する纏向遺蹟を、全く関係ない卑弥呼の遺跡と誤認したのだろうか。。。 >>139
キナイコシも、本当は、纏向遺蹟を卑弥呼の遺蹟だとは信じていないのではないのかな。。。 >>135
今の技術なら発掘前に埋葬施設の存在は探知できるから
できたら、雑木林をちょっと掘ってみたらいいだろ >>139
前方後円墳という共通祭祀の初源、て話じゃなかったか
倭人伝の語る卑弥呼の墓が前方後円墳であると思ってるとこが誤認。 >>141
その前に箸墓を掘って捕まって新聞に名前と顔を載せられろ。
俺は嫌だ。 前方後円墳という共通祭祀の初源というレベルの高い話題で、畿内説を宣伝するキナイコシを追い詰めるレベルの高い考古学者が現れたな。。。 >>140
観光業界の宣伝のために、言い張っているのだけではないのかな。。。 >>143
箸墓は宮内庁管理だから
高天彦神社なら雑木林の草刈ボランティアついでに地中レーダだけ走らせてもいいか
高鴨神社の鈴鹿宮司に聞いてみれば? >>142
理由も言わずに誤認と決めつけか
トンデモ説のやることはムチャクチャだな >>146
>高天彦神社なら雑木林の草刈ボランティアついでに地中レーダだけ走らせてもいいか
高鴨神社の鈴鹿宮司に聞いてみれば?
聞いてみればって誰に言ってるんだよおまえが聞いてみろ。
言っておくが高鴨神社のご神体「神山」も立ち入り禁止どころか写真撮影も禁止。
日本最古の神社に地中レーダーなど聞くまでもない。
ただしあの塚が墓であることは途中に墓群がある事でも分る。
江戸か明治かは分からないが、地元で墓域とされていた証拠。
あとやたら石が多い。
20pから大きいので1m。
天然ではなく人為的に持ち込まれた石であろう。 >>148
立ち入り禁止どころか写真撮影も禁止って
手入れされた雑木林の写真貼ってただろ? >>149
そう、あの後に写真撮影禁止に気づいた。
だから今はあの画像は貼っていない。
ついでに言うが高鴨神社を参拝したおり、
尿意を我慢できず、
ご神体の端っこのフェンス沿いで用を足したことも告白しよう。 >>150
それでバチが当たってひどく頭わるくなっちゃったのか
それでは仕方ない >>151
とんでもない・
逆に神性に目覚めた。
天理の和爾にある和爾坐赤阪比古神社 (わににますあかさかひこじんじゃ)を参拝した時、
青白い蛇体がのたうち回ってるのを見た。
見たのだから仕方ない。
祭神はアタガタス。
崇神に殺された最後の大物主だ。
そう言えば大物主は太古から蛇に例えられる。
昔の人もこの神霊を見たのかと思うと感慨深かった。 >>152
じゃあ今度は大してこい
神霊が見えるだろうよ >>76
ふーん、関川氏も、箸墓4世紀説か。
しかも、大和説否定である点でも、私と同じだな。
「南→東」などに嘘つき騙しの大和説者は、はどうしようもないな。 >>79
>わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。<
「南≠東」に拠って×。 関川が畿内説憎しになったのはなんで?
冷遇されたから?
石野との確執? >>88
>畿内説が怖くて仕方ないんだね w <
大和説者が、「畿内説が怖くて仕方がないんだね」としか言えない、という事は、
九州説が怖くてしかたがないんだね。 >>160
報告書の改定版が出て、自分の執筆箇所がサックリ「間違ってました」と削られたら
そりゃグレるわな
間違いだから仕方ないんだけどさ 【何故シヌの、JK″】 島津論文「安倍とオウムに接点」 露国防相「気づかれてないと思うな晋三」
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1532569537/l50
JK時代に福岡でハシカンこと橋本環奈が鼻血! ほら吹きの安倍が、地下核実験をやって被曝させた! >>99
>2016年に瀬田遺跡で2世紀中〜後半の陸橋付大型円形周溝墓が見つかっているから<
瀬田遺跡を検索すると、「2世紀中〜後半」の根拠は、「庄内前半」という事のようであり、
大和の庄内の最初は前方後円墳の石塚で、3世紀末であったから、
「2世紀中〜後半」という比定が×ね。 >>104
>円形周溝墓も倭国(阿波)が発祥だよ。
土壙墓も甕棺墓も木棺墓も石棺墓も配石墓も方形周溝墓も円形周溝墓も円墳も前方後方墳も前方後円墳も、
全部あるのは倭国(阿波)だけ。<
円形周溝墓の最古はどこか?は知らんが、播磨にあったような気がするが、
他は全部筑紫にあるものばかり。
という事は、阿波には種々雑多な部族が入っていたんだな。
一つの忌部だけであれば、種々雑多にならないだろう。 >>164
時代に取り残されたトンデモ説はトロトロの斧w >>160
確執ったって親子くらい歳が違うんだから、単に切った上司と切られて鳴かず飛ばずの平所員だろ >>105
>関川さんの時代は、おおよその年代をおおよその画期、例えば30年で割るなんてしてた時代。
そんな時代の学者を出し続けるのは九州説がいかに非科学的であるかという事。<
卑弥呼の墓は「冢」であり、前方後円墳は冢ではないから、前方後円墳は卑弥呼よりも後の墓。
勿論「南≠東」でもあるから、大和には卑弥呼はいなかった。
>どっちにしろ中塚教授のセルロース酸素同位体比で時代は結着するから。<
列島のような複雑な地では、
地域地形に拠っての植物体の吸収酸素の同位体比は千差万別になるから、
決着は困難。
>勝山古墳の祭祀用の木材や石塚古墳の板材を鑑識すればいいだけ。<
石塚は、前方後円墳で庄内だから、石塚も庄内も3世紀末頃以後。
>おそらく光谷さんの年輪年代の鑑識は正しかったのであろうが<
中塚と同じような、欠点がある。 >>107
>つまり崇神以前、トヨやヒミコが葛城にいた証拠だ。<
「南≠東」だけでも、×だ。 >>109
>葛城以外に邪馬台国の女王が住んだ王都候補はない。<
「南≠東」だけでも、×だ。 >>115
邪馬台国も大和朝廷も倭国大乱もなかったから、×。 >>125
>共立女王が誕生して、共立した勢力が集まる場として新たな都が作られた
その場所が纏向遺跡ってだけ><
「南≠東」で、×。 >>126
>纏向は2世紀末。 論外。<
纏向の前方後円墳や庄内は、3世紀末だから、×。
論外。 >>131
>大和盆地の最上座とは高天原(御所市高天)だ。
日本最古の神社の境内にある径百余歩の塚に奴婢が埋葬されている。<
「南≠東」で×だし、
「歩」は「短歩」だから、きっと×ね。 >>169
>地域地形に拠っての植物体の吸収酸素の同位体比は千差万別になるから、
決着は困難。
なるかいハゲ。
なってる例を具体的にあげてみ。
そんなこと普段から研究してないど素人のお前が科学に口出しするな。 >>132
>纏向遺跡は最初から2世紀末の造営と言ってるから <
大和の庄内は、庄内も前方後円墳も3世紀末になるから、×。 >>154
高天彦ではなくて高鴨だよ。
トイレ遠くて我慢出来なかった。 >>182
高鴨神社? のご神体の端っこってお前境内で立小便したの? 辰斯王(385-392)
阿莘王(392-405)
腆支王(405-420)
久尓辛王(420-427)
?有王(427-455)
蓋鹵王(455-475)
文周王(475-477)
三斤王(477-479)
東城王(479-501)
武寧王(501-523)
百済25代武寧王(501-523)は墓から買地券(金石文)が出てるのでこれは絶対年代。
ならば阿莘王擁立が日本書紀・応神3年条だから応神元年は390年。
そして応神から30代後の平均在位は11年弱だから、 神功皇后を入れて6代遡る10代崇神は4世紀前半。
ならば魏志倭人伝のトヨまであと数十年、トヨとは4代天皇・懿徳の皇后のトヨツ姫だと分る。
そしてヒミコはその少し前の最高位の女性、ヒメ(踏鞴五十鈴)媛だと分る。
トヨツ媛もヒメ(踏鞴五十鈴)媛も住んだのは葛城(奈良県御所市)であるから、
邪馬台国とは奈良県御所市であると分る。
はい邪馬台国論争は終了。 >>183
急に我慢できなくなった。
高鴨神社の祭神・迦毛之大御神は高天原で剣を持って暴れてることからスサノオ以外にない。
スサノオも神殿に糞したりしてるのだから文句言われる筋合いはない。 >>186
境内で立小便するとか初めて聞いた
お前、神社に行くなよ 次スレってPart365 かあ たったの倭人伝2000余字を解読するのに、畿内スレ365も消費して、このありさまかい、
どこかの帝国大学の誰かさんとかが、トンデモ勘違いしてた巨大な証明みたいなもんだわな。 罰当たりめ!! テンプレの>>14までで終ってるから
FAQ 1 以降はお爺さん向けサービスだよ >>185
記紀の人物当てはめごっこやってるやつがいまだにいたとは呆れる 纒向遺蹟を邪馬台国だと宣伝するキナイコシは、まず、立ち小便男を論破しなければ、九州説に挑戦する資格がないな、 >>192
立ち小便男の方が、天皇族のことに、知識が豊富そうな分、有利なのではないのかな、、、、 >>186
式内社「鴨神社」
祭神は「阿遲鉏高日子根神(別雷神)」。
「阿遲鉏高日子根神」は「大国主神」と「多紀理比賣(須佐之男命の子)」の間に生まれた神で、「加茂の大御神」とも呼ばれている。
「丹田古墳」のある加茂山の対岸、吉野川の河岸段丘の弥生遺跡が連担する地域が「足代(あじろ)」。
「阿遲鉏高日子根神」の諱(いみな)「アジスキタカヒコネ」は、「足城(あじすき)の高い尾根に鎮まる神」から名付けられたとある。
後世恐れ多いため山裾に遙拝所として建てられたのが「鴨神社」で、本来は加茂山丹田殯宮そのものが「加茂の宮」の本宮であった。 @阿波 邪馬台国纒向説を宣伝する、キナイコシが、
また、意味の通じない呟きをしているな、、、、 >>189
九州説のお爺さんは健忘だから
何度論破されても連呼を続けてるだけさ >>196
九州説に挑戦する前に、立ち小便男に、論破されてしまったことが、原因なのではないのかな、、、、 炭素年代検査機関
「箸墓は炭素年代で240〜260年と出ました」
畿内説の学者
「よしよし 卑弥呼の墓 決定だな」
炭素年代検査機関
「あのーー前提条件がありますが」
畿内説の学者
「前提条件何てどうでもいい」
炭素年代検査機関
「一応 説明義務がありますので・・」
畿内説の学者
「いいいから いいから とにかく箸墓は炭素年代で240〜260年でいいんだ」
炭素年代検査機関
ポカーーーーン 話にならない
>>185
>ならば魏志倭人伝のトヨまであと数十年、トヨとは4代天皇・懿徳の皇后のトヨツ姫だと分る。
そしてヒミコはその少し前の最高位の女性、ヒメ(踏鞴五十鈴)媛だと分る。<
「南≠東」に拠って×。 >>196
呟いてるのはお前だけ
ほかの人は会話してる >>200
ザラコクお経は相変わらず根拠なき断定ばかり
ww つまり、邪馬台国畿内説は、完全に論破されてしまったのだね。。。 >>199みたいな捏造やってる九州説は
もう終わりだな >>118
かもせんせはキャラたてすぎや(かっこよすぎ
ただしウンコのはなしはやめたれ 短歩とか、歩が複歩である、という単純な事実で否定されているのに、
ぐだぐだ言い続ける人がいるってだけなんだよ >>188
>境内で立小便するとか初めて聞いた
境内というかご神域の端っこだよ。
急にもよおしたものは仕方ない。 >>207
必然だよ
いまどき畿内説に反対してるような非常識な輩は
しかるべくして
社会秩序に反して軽犯罪法で捕まったり
神様のバチが当たるようなことして
滅んでいくのだよ 放射性炭素測定で240〜260年はありえない。
200年幅ならわかるが20年って…
春成、白石、都出、橋本、このあたりの人たちか。
美人の誉が高い小池さんはどうなんだろ。 邪馬台国纒向説を宣伝する、キナイコシが、立ち小便男と、下ねたで作製された台本を進めて、九州説に論破されてしまったことを、誤魔化しているのではないのかな、、、、 >>209
そもそも、本殿がなく白雲峰をご神体としている高天彦神社の雑木林の話をしていたのに
>>148の「高鴨神社のご神体「神山」も立ち入り禁止どころか写真撮影も禁止。」 とか
>>150の、「ご神体の端っこのフェンス沿いで用を足した」とか
本殿がある高鴨神社の話になるのがおかしい
今なら許してやるから、ウケを狙ってちょこっとウソをこいてしまいましたと告白しろ 畿内説はネタが底辺すぎて、コメントに苦しむよ。
まともに土器の話でもしてくれよ。
これでは叩きようがない。
はあ 九州説は、日本の考古学者の編年は信じないから
考古の会話はできないので、ウソを書いてたら気が向いた時に訂正するだけ だって、あからさまに邪馬台国を畿内に持って行きたいがために嘘をついてるでしょ。 ほとんどの畿内説は、日本の考古学者を信じない5chの九州説を
納得させようとは思わないから、九州説はどうでもいいんだよ
一般にでもウソの流布が蔓延してはよくないので
学術レベルではこうですよと訂正している >>199
賛同する
前提条件をクリアするには難がある。
という事は限りなく260から280年から遠ざかる事になる >>213
>そもそも、本殿がなく白雲峰をご神体としている高天彦神社の雑木林の話をしていたのに
雑木林の画像は高鴨神社のご神体。
勘違いするな。
>本殿がある高鴨神社の話になるのがおかしい
鴨系神社に本殿はない、拝殿。
鴨系神社は山そのものがご神体。
俺が小便したのはご神体の神山のはずれ。
お前の勘違い。 >>216
九州説の考古学者の土器編年を聞こうか。
庄内土器などは何年ごろになってるの?
あぁそうか。
土器編年してる九州説者など一人もいなかったなw
すまん、すまんwwwwwwww >>191
>記紀の人物当てはめごっこ
お前こそ古い。
硯が複数発見され、弥生時代にはすでに文字があった。
つまり実在していた人物を神話化し神代に持って行ったのだ。
竹内宿祢など300歳になった。
書く方もおかしいと認識している。
しかし書かなければいけない重要人物だから書いただけ。
竹内宿祢は実在した。
お前の発想は昭和40年代の津田史学当たりの理屈屋と同じ。 そもそも庄内式が邪馬台国と関係するという話がこじつけ我田引水ゴマカシ根拠なし 卑弥呼は神武東征後の九州の人物なんだから、記紀に載っているという前提がおかしい。 卑弥呼は神武東征後の九州の人物なんだからという前提がおかしい。 >>222
土器編年は当てにならないから
論ずる必要は無いと思うよ
それより
倭人伝の記述に基づく物証や行程が問題だと思うよ 故・金関先生の発見した国宝・中平銘鉄刀(東大寺山古墳出土)。
その鉄刀の主、和邇氏とヒミコは繋がるか。
繋がります。和邇氏はトヨから始まります。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造)
邪馬台国の都はヒメ踏鞴やトヨ津が住んだ葛城、奈良県御所市。魏志倭人伝の女王国とは葛城王朝でした。
神武東征紀とは、実際には女王国であった史実を隠ぺいするための大袈裟な記述であった事が分かります。 炭素年代も✖
土器編年も✖
方位も✖
渡来系の遺物も✖
鉄 絹・・・・も✖
あと、畿内説になにが残ってる >>228
行程なんてずっと言い合いしてるだけでつまらない。
それより物証。
卑弥呼がもらった刀としか考えられない「国宝」中平銘鉄刀が和邇氏の墓から出た。
そして和邇氏とヒミコは系図でつながっていた(上記)
邪馬台国は葛城だ。
もういい加減にあきらめろ。 >>194
ということは、また、
「南→東」などの嘘つき騙しの、
畿内説という存在もしないでっち上げで、
纏向説や葛城説や阿波説の三つ巴になった大和説の負けで、
九州説の勝ちだ、って事で決まりだな。 九州と畿内で土器編年がうまく繋がってないせいもある。
九州の方が古いことを認めたがらない畿内側の問題だけどな。
九州側も頑なに炭素で測定しないのは問題あると思うね。 >>195
>「阿遲鉏高日子根神」は「大国主神」と「多紀理比賣(須佐之男命の子)」の間に生まれた神で、
「加茂の大御神」とも呼ばれている。<
という事は、阿波も、
元は出雲系であった、と自称している、
という事ではないか。 >>233
九州側って誰?
高島さんは別にして、九州説の考古学者は一人もいないよ。 >>231
>行程なんてずっと言い合いしてるだけでつまらない。
>それより物証。
物証? それなら、「其山有丹」でとっくに決着済みでしょ? @阿波 >>236
>物証? それなら、「其山有丹」でとっくに決着済みでしょ?
縄文時代から南九州人が丹を採りに来ていた宮瀧遺跡がある大和で決着だねw >>237
>縄文時代から南九州人が丹を採りに来ていた宮瀧遺跡がある大和で決着だねw
丹を採ってもいないのに、「丹を採りに来ていた宮瀧遺跡」??? @阿波 >>197
大和説教のガキらは、「都合の悪い事の健忘症」だから、
麻原や弟子らと同じように、
「戦前の萬世一系皇国史観教」の人種差別的殺戮戦争を実行する事になって、
結局は、A級戦犯らと同じように死刑に処せられる事になるんだろう、
って事だ。
何度論破されても、知らん振りして同じことの連呼を続けてるだけだからさ。 >>233
>九州と畿内で土器編年がうまく繋がってないせいもある。
十分研究されて史学界でコンセンサスがとれているが?
うまく繋がってない、と男う理由は? >>231
>卑弥呼がもらった刀としか考えられない「国宝」中平銘鉄刀が和邇氏の墓から出た。
卑弥呼がもらったと考える根拠を述べよ。 不思議なんだよな
平原や吉野ヶ里は
炭素年代測定しなくても年代比定できているのに
纒向や、箸墓は誤差の多い炭素年代に頼っているのか、
バジルや紅花なんか3世紀に渡来したという確証も無い >>201
まるでオーム真理教のような、
「戦前の万世一系皇国史観の排他的国家主義」を呟いてるのは、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者らだけ。
ほかの人は、普通に投稿し、会話してる。 畿内説の学者が勝手に
日本の古代をねつ造している
恥ずべきことだ >>202
戦前の万世一系皇国史観の近隣諸国民への殺人テロや、
侵略殺戮戦争のお経を唱えているのは、
相変わらず「根拠なき妄想の断定」の wwら大和説者ばかり。 いわゆる学者様は畿内説ばかりだから、怖くて平原遺跡の炭素年代なんて測定できないんだろう。
250年頃とか出たら九州説で確定するもんなw >>204
スレ主やwwやssnやつぶやきや「早く言え」狂らみたいな、
捏造ばっかりやってる大和説者は、
オーム死刑囚らと全く同じで、もう終わりだな。 >>208
>短歩とか、歩が複歩である、という単純な事実で否定されているのに、
ぐだぐだ言い続ける人がいるってだけなんだよ<
集落や田畑程度の長さの「里歩系」の「歩」単位長が、
複歩というような個人差の大きい恣意的で不安定な「歩」長では、
客観性や信頼性が全くは乏しく、
やはり、人体の「足底長」寸法と言う共通した基準の方がはるかに信頼性が高く、
周髀算経の一寸千里での「1里≒76.5m」位の長さと、
「1里=300歩」という事から得られる「1歩≒25.5cm」という「短歩」の基準長の方が、
はるかに適切だった、という事だよ。 >>210
因果応酬の必然だよ。
いまどき「史料事実に沿った九州説」に反対し、、
「戦前の万世一系皇国史観」の殺人テロや人種差別的殺戮戦争の鼓舞扇動し、
「南→東」などの嘘つき騙しをしている非常識な大和説の輩は、
しかるべくして、
オームのようにように殺人行為で捕まって死刑にされたり、
A級戦犯らのように神様のバチが当たるようなことして、
滅んでいくのだよ。 >>248
実測もしてない周髀算経の一寸千里思想を
現代日本人が現代知識で逆算解釈して
「1里≒76.5m」位だと思うことが
不適切なのでは? >>251-252
んで、平原遺跡のどこから木棺が出てるのかな?
??? >>252
平原のことは何も知らないツブヤキ東遷厨 >>216
日本の大和説考古学者の編年は、
卑弥呼の「冢」を、前方後円墳だ、という嘘つき騙しの上に立っているし、
「南→東」などの嘘つき騙しで、卑弥呼の都を大和だ、と曲解捏造しているから、
国民は信用していない。
これでは、考古の会話はできないので、
大和説者がウソを書いてたら、気が向いた時に訂正するだけ。 >>256
それが「嘘つき騙し」だと決めつける証拠は? >>221
高鴨神社
現在の御本殿は室町時代の三間社流造の建物で、国の重要文化財に指定されています。
http://www.takakamo.or.jp/about.php 毎日腐るほどウソつくザラコクが理由もなく他人様をウソつきよばわりとは、さすが誹謗中傷の専門家 キナイコシが、無知を晒したのではないのかな。。。
254 名前:日本@名無史さん 2018/07/27(金) 09:13:31.42
>>251-252
んで、平原遺跡のどこから木棺が出てるのかな?
??? >>260
そうだな、、、
僕たちのように、魏志倭人伝時代の知識が乏しいような、素人でも、検索すれば得られる情報を、キナイコシはまるで知らないのだね。。。 >>261
熊本城の地下も、発掘調査すれば、魏志倭人伝時代の女王の治められた木棺が発掘される可能性が高いな、、、 驚いたな、、、平原は、ひらばる、、、と読むのだね。。。 >>219
ほとんどの大和説者は、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「大和は倭國の別種の旧小国」などに関する、
嘘つき騙しをしており、
国民の7割は、大和説者や大和説考古学者を信じていないので、
納得させようとは思わないから、大和説なんてはどうでもいいんだよ。
しかし、一般国民やこれからの若者らに、ウソの流布が蔓延してはよくないので、
5chでは、こうですよと訂正している。 >>263
謎のレベルの高い考古学者が紹介した、八咫の鏡が発掘された遺蹟ではないのかな。。。 >>264
だから、嘘つき騙しだと決めつける証拠は? 朝から、木棺のことで無知を晒し、恥を掻かされたキナイコシが、何かの証拠を求めているな。。。 >>261
で?
平原のどこから木棺が出てるんだ? キナイコシが、無知を晒したのではないのかな。。。
254 名前:日本@名無史さん 2018/07/27(金) 09:13:31.42
>>251-252
んで、平原遺跡のどこから木棺が出てるのかな?
??? 綾香はひらはら
卑弥呼はひらばる
なんせ九州では、原を「ばる」と読む。倭国時代から続く倭人文化の一端なのかもしれぬ。 >>255
>平原のことは何も知らないツブヤキ東遷厨
遺構の中央部には、割竹形木棺を「収めていたと思われる痕跡」もあった。
木棺自体は朽ちて無くなってて、出土していないんだよ
どの遺跡でも、遺跡の状態や出土物は畿内説の方が詳しい
九州説は、聞きかじりや思い込み+妄想や憶測で隙間を埋めてるから
現状認識がおかしい
そのおかしな現状認識を基礎としているから、結論も当然におかしい キナイコシは、にちゃんねるだけに頼らず、正式なインターネットのホームページのアクセスを実施すれば、良いのではないのかな、、、 >>222
>九州説の考古学者の土器編年を聞こうか。
庄内土器などは何年ごろになってるの?<
九州の考古学者の殆どは、「万世一系皇国史観」狂の「南→東」の嘘つき騙しであり、
「ついうっかりの史料事実の報告」以外は、信頼性が全くない。
また、庄内は、三雲が最も早かったらしく、
次いで、卑弥呼の冢と思われる祇園山の庄内や弥生銀座の庄内が古く、
祇園山の庄内が、年次特定の根拠の起点になっており、
倭国の別種の旧小国の大和は、祇園山以後の弥生銀座からの伝播模倣だよ。 >>273 @呟き男
「正式なインターネットのホームページ」って、なんだ去りゃ 驚いたな。。。
平原遺蹟は、伊都国とも関係しているのだな、、、 >>275
それは素人オジン75歳ことザラコクの独自説だろ? 糸島市が伊都国だとしたら、邪馬国はやはり、八女市という根拠になるな。。。 又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。
4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、
行ってみると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。
捕らえた魚と鮑(を食べるの)が好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。
東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
世界には(中国の他にも)王がる。(この国の)皆は女王の国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところだ。。。。 東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、 (帯方郡から)南に航海すると、二十日で(北九州市や大分県となった)投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。
(帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、 そうだな、
糸島市が伊都国だとしたら、邪馬国は八女市、邪馬台国は山鹿市という根拠になるな。。。 >>226
>卑弥呼は神武東征後の九州の人物なんだからという前提がおかしい。<
おかしくない。
卑弥呼は、魏志の「南≠東」などに拠って、3世紀の九州の人であり、
大和の人ではない。
神武は、書紀に拠れば紀元前660年頃の人であり、
二中歴に拠れば、紀元前91年頃の人。 糸島市から、熊本城までの間には21国あって、6国目が八女市なのだな。。。 伊都国が糸島市ということがはっきりした今、邪馬台国の場所が判明したのではないのかな。。。 >>229
>邪馬台国の都はヒメ踏鞴やトヨ津が住んだ葛城、奈良県御所市。
魏志倭人伝の女王国とは葛城王朝でした。<
「南≠東」に拠って、×。 >>231
>邪馬台国は葛城だ。 もういい加減にあきらめろ。<
「南≠東」に拠って、×だ。
もういい加減にあきらめろ。 末蘆国から、
東南に陸行五百里で至る伊都国は、
だれがどう読んでも佐賀平野だわな >>235
>九州側って誰?
高島さんは別にして、九州説の考古学者は一人もいないよ。<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説考古学者の中で、まともな人って誰?。
大和説考古学者の中には、まともな人間は一人もいないよ。 >>236
>物証? それなら、「其山有丹」でとっくに決着済みでしょ? @阿波<
物証?。
それなら、阿波も、
「鏡片」で、卑弥呼の部下の「東征毛人」の地であった、
と、とっくに決着済みでしょ?。 >>289
「南≠東」は「会稽東治之東」に拠って、×だ。
もういい加減にあきらめろ。 >>237
>縄文時代から南九州人が丹を採りに来ていた宮瀧遺跡がある大和で決着だねw<
九州倭国の東征毛人の結果、阿波も大和の辰砂も、
倭国の地方の市を介して、九州に搬入されていた、
という事で、とっくに決着していたねえ。 >>292
鏡片が何の証拠だ?
ザラコクの空想である >>240
>>九州と畿内で土器編年がうまく繋がってないせいもある。<
>十分研究されて<
大和説学者が、南→東などの嘘つき騙しの「結論先にありき」であるために、
十分に研究されていない。
>史学界でコンセンサスがとれているが?<
「南→東」などの嘘つき騙し仲間の史学界でコンセンサスがとれたって、
学問的には何の価値もない。
>うまく繋がってない、と男う理由は?<
大和の庄内の石塚は前方後円墳であり、
筑紫の三雲の庄内や、「冢」の祇園山の庄内とは、全く繋がらず、
せいぜい、弥生銀座の前方後円墳の那珂八幡付近の庄内からの、
伝播を想定し得る程度であるから。 >>284
鎌倉時代初期の二中歴は北部九州とは関係ないね
江戸時代の国学者の鶴峯戊申が『襲国偽僣考』で考証した熊襲の年号はある >>253
>実測もしてない周髀算経の一寸千里思想を現代日本人が現代知識で逆算解釈して
「1里≒76.5m」位だと思うことが 不適切なのでは?<
よく読んでみろ、嘘つき騙しの大和説詐欺師。
周髀算経は、はっきり「測影」した、という事を書いているんだよ。 >>257
>それが「嘘つき騙し」だと決めつける証拠は?<
「南≠東」。
「前方後円墳≠冢」。 >>259
毎日腐るほどウソつく大和説者が、
理由もなく他人様をウソつきよばわりとは、
さすが誹謗中傷の専門家。 それにしても、伊都国が糸島市で間違いないのなら、邪馬台国を目指す途中に九州を何百里も陸上の移動をしたことが、確定したのではないのかな。。。 >>301
そうだね、、、
朝鮮半島は海沿いを移動したのだから、万が一にも畿内に邪馬台国があったなら、邪馬台国を目指す途中に九州を何百里も陸上の移動をしたことが、不思議すぎるな。。。 九州説のやつらって魏志倭人伝を邪馬台国旅行記だと思ってるということだな 畿内説を宣伝するキナイコシが、伊都国の場所を本州に設定して、宣伝している可能性もあるな。。。 僕たちが、畿内説を宣伝するキナイコシの立場なら、伊都国をどこに設定して、宣伝するべきだろうか、、、 >>271
>原を「ばる」と読む。倭国時代から続く倭人文化の一端なのかもしれぬ。
朝鮮語文化だね
古代朝鮮語では「伐(ポル)」は「村邑」を意味する、ソラボル(徐羅伐)は新羅の首都
福岡の白木原(バル)は新羅人が住んでいたところ
糸島の井原鍵溝遺跡はイハラ
北部九州には「丸」地名も非常に多い
韓国の「マウル」は「村」
北村韓屋村(ブッチョンハノクマウル)は韓国の伝統的家屋である韓屋(ハノク)の密集する地区 >>272
どの遺跡でも、「南→東」などの嘘つき騙しの「万世一系皇国史観の大和説」信仰の、
「結論先にありき」の大和説学徒が発掘しているのだから、
その発掘報告は、事実関係以外の説明には、全く信頼性がなく、
遺跡の状態や出土物の説明は、半分×である。
大和説者は、
そのインチキ説明の、聞きかじりや思い込み+妄想や憶測で隙間を埋めた議論をしてるから、
口先騙しの詐欺のおかしい論法になってしまっている。
そのおかしな現状認識を基礎とした議論をしているから、
結論も当然におかしい。 >>307
倭人が、朝鮮半島に進出して、新羅や韓国を作ったのではないのかな。。。 >>293
>「南≠東」は「会稽東治之東」に拠って、×だ。 もういい加減にあきらめろ。<
陳寿の「会稽東治之東」の「東」は、東でほぼ正しかった。
従って、「南→東」の嘘つき騙しを主張する大和説は、×であった。
もういい加減に諦めろ。 はるが、倭人語ならば、はらは、ネアンデルタール語の可能性が高いな、、、 >>308
そんなことしてるって証拠は?
また口から出まかせのデマ? >>307
>朝鮮語文化だね
朝鮮とも共通というだけで、朝鮮語というわけではない。
あえて言えばユーラシア大陸全体の共通語らしい。
マル、バル、ブル、ポル
イスタンブールやシンガポールもそうらしい。
村、(環濠)集落、城などの意味であり、本丸や一の丸、ひいては丸ノ内も同じ。 >>310
陳寿の「会稽東治之東」の「東」が東でほぼ正しかったなら
北部九州説は全滅だね
ご愁傷様 >>314
九州説が論破されるたび、連句読点が意味不明なことを呟やくね 僕たちの居住する奈良の起源に、朝鮮語説があるが、これも倭人語がじつは起源で、朝鮮にも奈良にも伝わった可能性が高いな。。。 >>295
>鏡片が何の証拠だ? ザラコクの空想である <
祇園山の墳裾の第1主体の甕棺の被葬者が、鏡片を付けていた成人女性であった事と、
鏡片の出土の殆どが筑紫に集中しており、
筑紫以外では、半島や播磨や阿波?や北陸方面にで一個ずつ出た地があった、
というだけであり、
祇園山の墳頂の箱式石棺の主が、筑紫を支配していた女性であった事になり、
鏡片は、卑弥呼が、
魏帝から貰った(内行花文鏡などの)銅鏡百枚を使って破鏡分割して、、
親愛なる部下に下賜したペンダント様のものであった、という事が明らかだ。 >>300
ウソつきと呼ばれる理由どころか
証拠までバッチリ突きつけられてるザラコク >>304
大和説のやつらって、
魏志倭人伝を大和旅行記だと思ってるということだな。
しかし、「南≠東」に拠って、×ね。 >>318
また嘘
鏡片は全国、北は山形から南は沖縄まで100をゆうに超える遺跡で出ている
弥生時代の九州では墳墓からは出ない
鏡片を副葬する習慣は古墳時代になってから九州以外で始まり、九州に伝わった
祇園山は布留1後半で新しい 邪馬台国論争は崇神天皇がいつ頃の人物か、その一点に絞られる。
崇神は4世紀初頭から前半が有力であり、ならばその数十年前の最高位のトヨは一人しかいません。
しかもそのトヨ=トヨ津媛は「国宝」中平銘鉄刀の保持者である和邇氏の祖・孝昭天皇の母です。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
考古学的根拠も伴い、邪馬台国論争は終了します。
古代史ファンはそれぞれ自説をお持ちなので、私の説を黙殺するのも結構ですが、むなしいだけですよ。 学者はみんな嘘つきで
ド素人の自分のみが正しい
って言い張る九州説爺さん
わ ら え る ね
(きっとこれもオウム返しするぜ) >>313
出土遺物、遺構から見て北部九州と双子のように共通しているのは朝鮮半島だね
イスタンブールとは似ていない
本丸は城を築城する時代以降、丸ノ内は江戸城築城の際の堀の内側 >>325
時代と地域を越えて広く使われた異本用語だということだよ。
日本だけが外界と隔離された特殊な国というわけではない。
まして、原が朝鮮語というのは近視眼的な歪曲史観だ。 >>327
>日本だけが外界と隔離された特殊な国というわけではない。
なぜか九州説は本州とは別の国と言いながら
九州に偏っていて朝鮮半島と共通していることは
日本で江戸時代に使われ始めた城郭用語や地名を持ち出す >>313
>朝鮮とも共通というだけで、朝鮮語というわけではない。
あえて言えばユーラシア大陸全体の共通語らしい。 マル、バル、ブル、ポル
イスタンブールやシンガポールもそうらしい。
村、(環濠)集落、城などの意味であり、本丸や一の丸、ひいては丸ノ内も同じ<
ふーん、成程。 >>271では、
>なんせ九州では、原を「ばる」と読む。倭国時代から続く倭人文化の一端なのかもしれぬ。
と、「原」(ばる)を九州に特有な呼び方であることを
倭国の文化の根拠にしておきながら
朝鮮半島との共通性を指摘されると
トルコの地名や江戸城の地名を出して、
日本だけが外界と隔離された特殊な国というわけではない。と言い出す
反日有害団体まで同調する
そう考えるのならもう少し勉強して、最初から根拠にしないほうがいいと思う >>315
>陳寿の「会稽東治之東」の「東」が東でほぼ正しかったなら 北部九州説は全滅だね
ご愁傷様 <
陳寿の「会稽東治之東」の「東」が東でほぼ正しかったなら、
直接海の向こうにある全九州説は全勝で、
赤道付近やはるか離れた大和説は全滅だね。
ご愁傷様。 >>332
○○丸が江戸時代くらいから使われだした用語だから
中世城郭では、本城、実城、詰丸などと呼ばれた >>316
>九州説が論破されるたび、連句読点が意味不明なことを呟やくね<
大和説は、
論破されるたびに、
言ったばかりの事に対して「証拠は?」と言い、
口先でのヘイトスピーチ街宣議論にすり替えて誤魔化したり、
「南≠東」などの基本的な論への反論をせずに、
九州説者の「言葉尻」にいちゃもんを付ける「議論のすり替え」戦術を採ったり、
するようだね。 >>333
九州説が九州と本州との違いを根拠として出すから
九州だけでなく朝鮮半島と共通していると指摘している >>322
>鏡片は全国、北は山形から南は沖縄まで100をゆうに超える遺跡で出ている<
Yahooでの検索では、その殆どが筑紫出土。
>弥生時代の九州では墳墓からは出ない<
この男は、筑紫での出土数を挙げないし、
卑弥呼は弥生末期。
>鏡片を副葬する習慣は古墳時代になってから九州以外で始まり、九州に伝わった<
これも×ね。
卑弥呼の下賜が弥生末期であり、卑弥呼の墓は冢であり、
まだ前方後円墳は現れていないから、始まったのが卑弥呼のいた九州。
>祇園山は布留1後半で新しい <
祇園山には庄内が出ているし、
「冢」であって「前方後円墳ではない」し、
甕棺殉葬者もいるから、
「布留1後半」になる筈もない。 >>323
248年没のヒメは卑弥呼だ、と言っているんだし、
その次を「トヨ」だと書いているんだから、
「南→東」の嘘つき騙しをした事になり、×。 日本の考古学者を信用しない5chの特殊九州連呼説(含チョンボ)は
しばしば反日どろぼう偽書集団と連携する
一般の九州お爺さん愛好家達は考古学者の講演会にも参加しているので
信用しないということはなかろう >>324
大和説学者は、みんな、「南→東」などの嘘つきではなく、
嘘吐き騙しの大和説学学者を信仰します、と言って、
自分ら大和説のみが正しい、
って言い張るのが、「万世一系皇国史観国家宗教」の・・・・アホの信者さん。
わ ら え る ね。
こいつらも、きっとオームやA級戦犯らのように、死刑にされるぜ。 たまにキナイコシが誰かに認定する、連続句点男とは何者だろうか。。。 キナイコシが、意味のない発表を繰り返しているな。。。
336日本@名無史さん2018/07/27(金) 13:31:38.27
>>333
九州説が九州と本州との違いを根拠として出すから
九州だけでなく朝鮮半島と共通していると指摘している 倭人が、九州にいたのだから、朝鮮半島にも拡散したことが自然なことなのにな。。。 >>336
それでなんで九州ではなく朝鮮の方が主であるような言い方をするんだ?
さっさと答えろよ、この売国奴 >>330
何せ、ネアンデルタールの血が混じっている地域で「〜ル」の共通語だから、
可能性は、否定出来ないね。 >>343
そうだね、、、倭人は、奈良のネアンデルタールを捕獲しただけではなく、朝鮮半島を侵略した可能性も高いからな。。。 >>344
北部九州の遺物は朝鮮半島から渡ってきており
井原鍵溝遺跡(ハラ)の例を挙げているように、
本州側で呼ばれる「原」(ハラ)の地名と混在しているから 驚いたな。。。
キナイコシは、ザラコク氏に対しては右翼が左翼を攻撃するときそっくりの、議論を仕掛けるのに、実は、左翼も驚く様な、売国奴だったのか。。。 >>339
「南→東」などの嘘吐き騙しの日本の考古学者は、
しばしば安部自民政府や文部省や、右翼学会教育界や、右翼マスコミと連携して、
公平な公的機関を装って、
一般市民や歴史や考古愛好家達を、考古学者の講演会にも参加させてているので
私の知り合いや身内も含めて、かなりの人が、
「南≠東」や「聖徳太子実在説」に騙されているようだ。 北部九州には名の記載がない伊都国王が居り、女王國に従属し
倭国は、伊都国に特に一大率を置き北部九州諸国を檢察している 北部九州ではない。
伊都に置かれ、そこより北、つまり対馬海峡を検察していた。 >>344
>それでなんで九州ではなく朝鮮の方が主であるような言い方をするんだ?<
関係がないねえ。
倭国は「渡平海北九十五國」であったんだし、
卑弥呼の鏡片も、金海近くから出土しているんだから、
狗邪韓國が既に倭國の支配地であった可能性も高い。
>さっさと答えろよ、この売国奴<
「南→東」などの嘘吐き騙しをするなよ、
「戦前の万世一系皇国史観」の「殺人テロや侵略戦争」を鼓舞扇動して、
日本をまた戦争させて、また亡国にさせて、
どこかの国に売りつけようとする、この売国奴。 倭人伝に書かれた卜骨は、
本州側と壱岐では東の関東まで各地の弥生遺跡でたくさん出土しているが
糸島を含む北部九州沿岸からは1ヶの出土もない >>354
九州人である倭人が、朝鮮半島を侵略し、支配してしまった証拠なのではないのかな。。。 >>353
>倭人伝に書かれた卜骨は、
本州側と壱岐では東の関東まで各地の弥生遺跡でたくさん出土しているが
糸島を含む北部九州沿岸からは1ヶの出土もない <
魏使らが見聞するには一大國で大量の見聞した事で十分であるし、
確か肥前や筑紫の端の方で、ト骨の出土があったようであったし、
卑弥呼が類「鬼道」のような方法を使っているんだから、
卑弥呼周辺の筑紫界内では、
ト骨が見つからなくて、当然でもある。 >>356
壱岐だけでしか見られない風習であったら、倭人の風習ではない
偽書を根拠としている関西中心の集団は半島からの舶載遺物の多さで春日を連呼しているので
日本史ではなくて日本における韓濊民族史 >>356
倭人の一般的な習俗として記録される太占のト骨が出なきゃ、九州説はボツですよ 福岡における集落の消長は弥生終末期に
中心地が春日周辺から博多、那珂に移り
大和型庄内甕の模倣製作が始まる(TB期) 魏志倭人伝は纒向に当てはまらないことだらけなのに、倭の一般的な事柄を記録しただけだから問題ないと言っていたはず。
太占についてはダブスタなんだね。 >>361
当てはまらないことって、なに?
具体的に言ってね
ダブスタって、何と何が?
曖昧な讒言しないで、証拠を挙げて具体的に言ってみ 倭の一般的な事柄を記録した卜骨は
糸島を含む北部九州沿岸からは弥生〜古墳全期間を通して1ヶの出土もないので
関西中心で筑紫を連呼している集団の歴史とは関係ないであろう 「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況
奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72
古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから
絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0 >>363
壱岐で見かけたんだろ?
潮待ちの間に占いでもしてもらっていたんだな。
壱岐も倭国の中だから、倭国の風習として記録したんだ。 絹の出土は、弥生終末期に北部九州で2ヶ所に激減している
卑弥呼の遣使を挟んで古墳時代になると畿内、山陰で出土する >>365
じゃあ、なんで一支国の条に書かないで倭人全般風習として記録したの?
九州説は倭人伝と合わなすぎる >>354
>渡平海北九十五國とは、どういうことだろうか、、、
そりゃ、四国阿波から見て、中国地方(山陽・山陰)北陸地方ですよ。 @阿波 >>364
その「10種の魏晋鏡」とド素人が勝手に言ってるものは
専門家が認めてないよ >>366
つまり、卑弥呼の後になると畿内でも絹が見つかるようになる。
卑弥呼の頃に、筑紫から畿内へも文化の波及があったことになる。
少なくとも纒向は卑弥呼と関係ないようだね。 畿内説は卑弥呼より後の話ばかりを根拠に持ち出すが、むしろ九州説を補強しているだけのようだ。 キナイコシが、また変な発表をしたな。。。
367 名前:日本@名無史さん 2018/07/27(金) 15:12:17.43
>>365
じゃあ、なんで一支国の条に書かないで倭人全般風習として記録したの?
九州説は倭人伝と合わなすぎる >>372
そうだね。。。
魏志倭人伝では女王国の東にも、倭種の地が広がっていると紹介されているのにな。。。 >>370
弥生終末期に北部九州で2ヶ所に激減しているから
筑紫から畿内への文化の波及にはならない
平原遺跡も無いから関係なくなる >>367
倭人はみんなやっていると説明されたんだろ。
筑紫の卑弥呼のところでは、骨を最後は綺麗に片付けてしまって残らなかったんだなw >>373
なるほど、、、倭人は女王国の東にもいるのだから、魏志倭人伝に女王国から東にある本州の倭人の風習が紹介されていても、不思議じゃないな。。。 >>376
平原おじさんが何を着ていたかは不明である >>377
熊本城の地下を発掘すれば、魏志倭人伝時代の大量の骨が発掘される可能性も、あるな。。。 >>374
甕棺ではないから残っていないだけ。
当然、絹を着ていただろう。 >>380
本州は甕棺ではないから弥生時代の絹が残っていないだけ。 >>380
畿内に絹がないという主張の論拠否定
いただきました 畿内説の学者は日本の古代史を捏造するつもりか
恥を知れ、
倭人伝が無ければ邪馬台国も卑弥呼も無い
畿内説は脳内に似非倭人伝があるのかな >>383
>倭人伝が無ければ邪馬台国も卑弥呼も無い
九州説や畿内説の学者は日本の古代史を捏造するつもりか
恥を知れ、 @阿波 >>383
追い詰められて、なんの理由もない罵倒をする九州説 >>242
>平原や吉野ヶ里は
>炭素年代測定しなくても年代比定できているのに
それはもちろん相対的な推定値にしかならないよ
絶対値を出すためには、年輪年代法や、14C法による年代測定が必要だけれど
どちらも予算も手間隙もかかるから、相対的な重要度の高いところの試料で、
予算が取れたときに行うことしかできない
九州説で予算を取って実施すればいいんだよ
ただ、予算申請できるクラスの九州説の研究者が今は皆無だからね
まあ、いつかはできるんじゃないの? >>307
>古代朝鮮語
これがもうとことん「虚構」なんだよ
古代朝鮮語が分かる資料が、記紀に記された半島の「地名、役職、人名」以外には
一切存在しない
古代朝鮮語で読んだら、式の論説は、基本的にすべてインチキだと思ってよい >>330
>「原」(ばる)を九州に特有な呼び方である
ヤンバルクイナww >>386
違うね、状況証拠が充分だったからだよ
だからこそ畿内説の学者も平原や 吉野ヶ里の年代比定は認めている。
纒向や箸墓は状況証拠が不十分だから
誤差が相当でる炭素年代に頼っただけ、
バジルや紅花が3世紀に渡来した確証は無いし、 纏向や箸墓が炭素年代に頼ってると思う理由は、なに?
理由もなく、ただ思い込んでる? >>358
>壱岐だけでしか見られない風習であったら、倭人の風習ではない<
魏使らは、一大國は卑弥呼共立の倭人の国だ、として記録している。
また、ト骨習慣は、西日本各地に見つかるようであり、大陸にもあるようだから、
おそらく、縄文の頃からの習俗。
>偽書を根拠としている関西中心の集団は半島からの舶載遺物の多さで春日を連呼しているので
日本史ではなくて日本における韓濊民族史<
この男は、本当に人種差別にクルった・・・・なんだろうねえ。
大和説者って人種は、老若男女を問わず、こんな・・・・ばっかりなんだろうか?。
大和説のお人は、気を付けましょうね。
いずれオーム信者のように大量殺人を起こして、死刑になりますよ。 魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね
魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
どちらかは間違いだね
隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね
旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」
大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね
「陳寿の行程記載習慣の「出発説明+途中説明+到着説明」の順に拠って」
これで論証できてると思ったら大バカ
大理から、成都までと安南までは、出発方向は同じになるが、
成都は東北、安南は東、と書いてある
つまり、「出発説明+途中説明+到着説明」では説明できない、というか
「出発説明+途中説明+到着説明」は大間違いの捏造ってことだよ >>359
>倭人の一般的な習俗として記録される太占のト骨が出なきゃ、九州説はボツですよ<
卑弥呼は、ト骨占いをしていなかったから、倭国の中心部では見られなくて当たり前。
一大國で非常に沢山あったのなら、それで十分。 >>389
>記紀は日本の史料だろ
そうだよ? 何を当たり前のことを言ってるんだ?
古代朝鮮語が分かる、半島の古い(10世紀以前の)記録は一切ないんだよ
つまり、古代朝鮮語は一切分からない
一部、古代朝鮮語の断片が記録されているのが、
日本の記紀に記された古代朝鮮の「地名、職名、人名」くらいのもの
万葉集のような、古い言葉そのものが記された記録のある国のほうが珍しいんだよ
まあ、大陸王朝も古い文字記録があるけれど、半島には皆無だ 福岡は、雀居遺跡出土土器に付着した炭化物の炭素年代測定は歴博でやった
九州大学の研究チームは人骨や獣骨の放射性炭素年代測定を試みている >>390
>纒向や箸墓は状況証拠が不十分だから
>誤差が相当でる炭素年代に頼っただけ、
纏向遺跡や箸墓の方が、平原遺跡よりよほど状況証拠は揃ってるぞww
お金(予算)のかかる研究は、重要な部分から順にやるしかないから、
3世紀の日本の中枢の遺跡である纏向遺跡から順に調べてるんだよ
そして、北部九州の試料もそれなりに調べられてるぞ?
「弥生時代の開始年代―AMS −炭素14年代測定による高精度年代体系の構築―」
学術創成研究グループ 藤尾 慎一郎・今村 峯雄・西本 豊弘(2005 総研大・分化科学研究)
http://www.initiative.soken.ac.jp/journal_bunka/050509_fujio/thesis_fujio.pdf 「これまでに測定した弥生後期も含む九州北部地域の137点ほどの試料のなかで、
明らかに海洋リザーバー効果の影響を受けたと考えられる試料として、
北九州市貫川、菜畑、雀居、壱岐市原の辻など7点を上げることができ、
その割合は全体の約5%であることを今村が解析している。
これは、秋田・岩手以北の北日本を除く縄文・弥生土器、350点余りの
土器炭化物を分析して得られた海洋リザーバー効果の出現率とほぼ同じ割合である。」 >>395
朝鮮半島の地名は朝鮮半島側の三国遺事、三国史記等の史料だろ >>360
>福岡における集落の消長は弥生終末期に
中心地が春日周辺から博多、那珂に移り<
どちらも、弥生銀座の中での事。
何本もの「大道」は、春日方面に向かっているし、
須玖岡本は、「キ鳳鏡」が出土したそうだから、2〜3世紀にも弥生銀座の中心地。
>大和型庄内甕の模倣製作が始まる(TB期)<
これが×ね。
大和の庄内は、前方後円墳の石塚が最初頃であり、
前方後円墳は、卑弥呼の冢ではないから、3世紀末になり、
だから、庄内の大和の編年が、3世紀末になって、
筑紫の編年よりも50年位後に始まる事になり、
「大和型庄内甕の模倣製作が始まる(TB期)」なんて事があり得なくなる。
勿論、筑紫の在地の胎土を使った庄内の生産は、
三雲や祇園山や弥生銀座が早かった、という事になる。 >>392
>おそらく、縄文の頃からの習俗。
縄文時代はない
間違った知識で反日民族史を創作しても我が国の歴史とは何の関係もない >>394
反日民族運動にとっては、壱岐だけで十分
ということだな >前方後円墳は、卑弥呼の冢ではないから
理由は?
また理由なき断定? >>399
>朝鮮半島側の三国遺事、三国史記等の史料だろ
三国史記 1145年完成
三国遺事 13世紀末
どちらも、記紀より4〜500年も遅れて成立している
古い年代から書いてあるけれど、どこまで信用できるか分からないし、
当然、記紀も参照した上で書いている >>363
は、貼り付けのようだから、貼り付けのお返し。
魏使らが見聞するには一大國で大量の見聞した事で十分であるし、
確か肥前や筑紫の端の方で、ト骨の出土があったようであったし、
卑弥呼は、類「鬼道」のような方法を使っているんだから、
卑弥呼周辺の筑紫界内では、 ト骨が見つからなくて、当然でもある。 >>400
これも反日有害活動集団のウソの連呼
我が国の学問とは何の関係も無い つまり、畿内説が九州の地名は古い朝鮮語などと言うのは、完全なるデマだということ。
畿内説はすぐに嘘をつくからな。 >>397
>3世紀の日本の中枢の遺跡である纏向遺跡から順に調べてるんだよ
村おこしと言えよ。
中枢なわけないだろ。 >>404
君は朝鮮半島の史料を専門的に研究して
朝鮮半島の古代地名が信用できないと結論を出したのかな? >>405
古田達の民族では骨を灼いて卜す風習はなかった
それだけ >>407
>畿内説が九州の地名は古い朝鮮語などと言うのは
それ言ってるのって、畿内説の人じゃないんだけどww >>410
「古代朝鮮語が分かる資料が、記紀に記された半島の「地名、役職、人名」以外には
一切存在しない」 >>410
朝鮮半島の古代地名を教えてください。
畿内説ではそんなものがあるんだw >>413
それはもし韓国の一般人が日本の記紀や万葉集は信用できないと言っても
それと同じレベル >>414
ソナポルとかアロシタリとか、いっぱいあるじゃね? >>366
>絹の出土は、弥生終末期に北部九州で2ヶ所に激減している<
「南≠東」に拠って、卑弥呼や壹與は筑紫の女王であった事が確定であり、
従って、卑弥呼が明帝から貰った絹や、
正始4年の遣使が上獻した倭絹や、壹與が獻上した倭絹は、筑紫あった筈のもの。
この男は、おそらくまた「弥生終末期」という奇妙な言い方をして、世間の人々を騙そう、としている。
3世紀末になれば、扶余での乱や楽浪の危機が発生し、伽耶の騎馬民族など、筑紫が不安になり、
313年の楽浪滅亡や、317年頃の倭国王家の築後への遷都で、弥生銀座が少し衰えただけ。
>卑弥呼の遣使を挟んで古墳時代になると畿内、山陰で出土する<
大和説学者は、大和の年代を50年位繰り上げて、
大和の絹を3世紀前半、と言っていたようであったから、
実際には、大和の絹は、3世紀末以後、という事になる。 まあ、大和もいつからそう呼ばれていたかわからないしな。 ヒルコと卑弥呼は関係あるのかな?
日本書紀にヒルコが生まれた時に既に日神、月神がいたとある
更に日神と月神が同時にいたことも分かる
日神、月神、ヒルコ
伊都国、狗奴国、邪馬台国じゃないかな >>419
>魏志韓伝あるよ
確かに
でも、それくらいなんだよな
大陸と日本のそれなりに古い史書はあっても、半島にはない
爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟涿國、臣濆沽國、
「伯濟國」、速盧不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、
咨離牟盧國、素謂乾國、古爰國、莫盧國、卑離國、占離卑國、臣釁國、
支侵國、狗盧國、「卑彌國」、監奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、
兒林國、駟盧國、內卑離國、感奚國、萬盧國、辟卑離國、臼斯烏旦國、
一離國、「不彌國」、支半國、狗素國、捷盧國、牟盧卑離國、臣蘇塗國、
莫盧國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、
狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國
已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、
弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁樂奴國、軍彌國、
弁軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戶路國、州鮮國、馬延國、
「弁辰狗邪國」、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國、馬延國、弁辰瀆盧國、「斯盧國」、
優由國 >>367
>じゃあ、なんで一支国の条に書かないで倭人全般風習として記録したの?
九州説は倭人伝と合わなすぎる<
魏使らは、当然一大國以外にもト骨習俗を見ているから、記録した。 >>417
その「南≠東」が、もう「会稽東治之東」に拠って崩壊ずみ
お経は効かない その国の首都でいっさい見かけなかったものを
その国の特徴的な風習とは書かないよね 大和という地名も、文献で確認できるのは卑弥呼から500年も後だからね。 >>428
なぜ?
九州説はいつも理由のないトンデモ説? >>429
日本の地名が文献で確認できるのはすべてそれ以降ですが、何か? >>429
明治以降にしか確認できない地名を平気で使う九州説に比べると
千倍優等生たな畿内説 ヤマトは山外、山の向こう側という意味
ヤマトという地名があるのに何で奈良という名前をつけたんだろう
アジスキタカヒコネ
アジスキって日本語っぽくないんだよな
意味がわからない >>431
>九州は鯨面の痕跡となる異物が非常に少ない
「土製仮面」はこれまでに全国で約120点見つかっているが、出土地点は矢野遺跡が最西端に位置する。
同遺跡は縄文時代から中世にかけての県内有数の複合遺跡で、調査の結果、「土製仮面」は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。
この「土製仮面」作成時期も国内では最古のクラスにあたる。「貝製仮面」は5000年前の物が九州からも発見されているようだが、土製のモノはこれが最古級である。
「土製仮面」の使われた時期と地域の偏りから、今の状況では四国東部から発生し、近畿・中部・東北方面へと伝播していったことが明確である。
用途としては、土偶、石棒などが同時に出土している事を考えると、祭祀の時に使われたと考えるのが妥当である。
また、仮面表面の多数の穴の跡は、後年の魏志倭人伝にも「男子無大小,皆面黥面文身」とあるように入墨(文身)を表したものであろう。 @阿波
>>441
鯨面でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波 奈良県は大雑把に言えば、遺伝子的に縄文系と朝鮮半島系の混血と言われている
古墳時代以降宮崎辺りは、朝鮮半島系の影響が強く見られる
遺伝子的に島根辺りは中国東北部の影響が少しあって、
大阪辺りは明確に中国南東部の影響が強い
瀬戸内海西部は漢民族の影響がある
どういうことなんだろうな さて、神武東征の際に活躍した「大久米命(おおくめのみこと)」が黥面だったことが古事記に記載されている。 「大久米命」は神武東征に随行した久米一族の祖神にあたる。
久米一族については、石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。
一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。
一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。
さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。
まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。 @阿波
「矢野遺跡」
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%CC%F0%CC%EE%B0%E4%C0%D7 >>431
>九州は鯨面の痕跡となる異物が非常に少ない
九州出身の神武とその家来の大久米命が大和のイスケヨリ姫にあった時、イスケヨリ姫が大久米命の顔の刺青に驚いたことが記されている。
当時の大和には鯨面の文化がなかったのである。 >>445
神話を根拠だとさwww
神話が史実だと仮定して、神武の時代は邪馬台国より前なのか後なのかはっきりさせないと
その記述を根拠にはできんだろうに >>349
三国志正史のなかで高評価
比較にならぬ范曄りゅうく >>444
久米さんはヤマトから阿波に逃れたのかな
阿波に逃れるか関東に逃れるかはたまた山奥に逃れるか >>448
>久米さんはヤマトから阿波に逃れたのかな
そりゃ、逆だろ。 だけど別に逃げる必要はないがw @阿波
「奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。」 伊須気余理比売の歌の、大久米命の黥利目のような鯨面土器は出てないね
当時の技術で目の周りに刺青を入れるのは疑問があるな >>443
>奈良県は大雑把に言えば、遺伝子的に縄文系と朝鮮半島系の混血と言われている
誰に言われてるんだ? >>445
>イスケヨリ姫が大久米命の顔の刺青に驚いたことが記されている。
当時の大和には鯨面の文化がなかったのである。
サラッとごまかすな。
目の周りに入れ墨を施した大久米の「大きな目」に驚いただけ。 >>446
それ以前に、後世の人の常識で潤色されてるからね
三世紀は部族や階層によって黥面する部位が違うから、初めて見た他部族の入れ方に驚くこともあるだろう
どっちにせよ、久米の話で畿内に黥面が無かったと思うのはまったく根拠ナシ
歴史学やるセンス無い人の発想 刺青やったら岡山のわえの祖父もその代々うえの人らもしてたぞえ(みな漁師じゃ こよいはかもせんせのウンコの話はなしやね(まあたしかにトイレ環境は重大な問題や(曹操も悩んだ >>456
>岡山
瀬戸内と濃尾平野に顕著なのが人面土器
鯨面戦士モノノフであろう。
ヒミコの時代、彼らの棟梁の名はウマシマジ。
名古屋の味鋺神社の祭神である。
そして纏向にも味間という地名が残る。
纏向は物部遺跡なのだ。 >>230
>炭素年代も✖
土器編年も✖
方位も✖
渡来系の遺物も✖
鉄 絹・・・・も✖
あと、畿内説になにが残ってる <<<<<
⇧
残ってるのはヤケクソの他説批判
畿内説のスレなのに残念な他説批判のカキコミ
あああ 恥ずかしい畿内説 >>459
✖って妄想で言ってるだけで
反論できてないだろ
つまり九州説全滅ってこと
なにも事実を提示できてない
おわりだよ九州説 1899(明治32)年10月20日に施行。入墨に関する遺警罪の条項(刑法第428条第9項)は、
『自体に刺文を為し及び之を業とする者は同条に依り□□の拘留に処し
又は10銭以上1円以下の科料に処せられる』
一度はほとんどなくなったんじゃないか? 女王国はカグツチ帝国みたいなものだからな
纒向遺跡は卑弥呼がいたところのイメージにぴったり
鬼道で民、兵を洗脳して、民衆を纏めてたんだろう
巫女の役割は民、兵を纏めること
軍隊と巫女の一群はセット
今も昔も同じ >>464
千人も婢が卑弥呼に使えているんだよ
魏志倭人伝にも衆を惑わすとある
婢1000人が重要な役割を担ったんだろう
三輪の近くに女ばかりの集落の伝承があったような、何か関係あるのかな 恥ずかしさではザラコク・キウス・伊都クズの右に出るものはいない >>461
ほらほら
畿内説のスレなのに他説批判 恥ずかしい >>464
いつの世も教祖は黒幕
現場じゃ高弟が活躍するんだよ >>369
>その「10種の魏晋鏡」とド素人が勝手に言ってるものは
専門家が認めてないよ<
大和説の専門家では、「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺師だ、
と相場は決まっているから、信頼性がなく、
認めようと認めまいと、関心がないよ。
関心があるのは、国民からの信頼性。 >>467
畿内説のスレで他説批判したら
なぜ恥ずかしいの? >>469
「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺師だ、 と相場は決まっている
なんて決め付ける理由は? >>367
>じゃあ、なんで一支国の条に書かないで倭人全般風習として記録したの?
九州説は倭人伝と合わなすぎる <
魏使らは、当然、(類鬼道の)卑弥呼の都では余り見かけず、
一般庶民や半島や一大國からの渡来人に、ト骨風習を見たの。 >>472
なら、倭国の一般的な風習だなんて書かないだろ >>452
なんでも土器に頼るなよ。
魏志倭人伝の記事をどれだけ否定したら気がすむんだよ。
畿内説は魏志倭人伝から程遠いから、気持ちはわかるけど、無理なものは無理なんだよ。
諦めろ。 >>374
>弥生終末期に北部九州で2ヶ所に激減しているから<
北部九州での弥生終末期って、何時の事?。
また2ヶ所って、どこどこ?。
>筑紫から畿内への文化の波及にはならない<
大和の弥生終末期って、3世紀末以後。
>平原遺跡も無いから関係なくなる<
平原は、むしろ「玉の女王」。 >>375
>倭人はみんなやっていると説明されたんだろ。
筑紫の卑弥呼のところでは、骨を最後は綺麗に片付けてしまって残らなかったんだなw <
卑弥呼の周りや弥生銀座では、
卑弥呼は類「鬼道」だから、殆どやっていなかったの。 >>475
黥利目は倭人伝には書かれていない
倭人伝の「男子無大小 皆黥面文身」ではどのような顔の刺青かはわからない
鯨面土器や埴輪によって我が国にはいろんな文様の鯨面があったことが確認できる
九州説はレスの内容が理解できない >>385
北部九州と大和の、どこに何時頃の絹がみつかったのか?を言えずに、
追い詰められて、なんの論拠もない事で、罵倒をするで、大和説。 >>477
古田レベルは5ch九州説の知識にすら及ばない ここまでで明らかになったウソ
「平原1号墓の木棺」
そんなものは出土してないww
「跡」があるだけ
「九州の遺物の14C年代を測ればはっきりする」
すでに多数測定されている
現在の標準編年と齟齬はない >>382
>>平原や吉野ヶ里は炭素年代測定しなくても年代比定できているのに<
>それはもちろん相対的な推定値にしかならないよ<
いや、明帝の「尚方作」鏡や、
卑弥呼の墓が「冢」であった事や、
伽耶の陶質土器の存在などで、かなりの狭い範囲の推定が出来る。 >>475
>なんでも土器に頼るなよ。
土器が一番たくさん出るから、一番細かく調べられるし、一番情報量が多い
その分、蓋然性の高い説の根拠になるんだよ >>484
>いや、明帝の「尚方作」鏡や、
仿世鏡に何が書いてあっても、舶載鏡にはならないし年代の決め手にはならないよ >>484
でも、アナタの言ってることは、ウソなのでしょ? >>387
>古代朝鮮語が分かる資料が、記紀に記された半島の「地名、役職、人名」以外には
一切存在しない
古代朝鮮語で読んだら、式の論説は、基本的にすべてインチキだと思ってよい<
記紀だけではない。
はるか後代の記紀以外にも、
半島の事が書かれた歴代中国史書群や、好太王碑と言った金石文もあるから、
ある程度の推定なら、十分出来る。 尚方作鏡は朝鮮銅だろ、陳さん作鏡のブレンド銅とまた違うんだよな >>391
>纏向や箸墓が炭素年代に頼ってると思う理由は、なに?
理由もなく、ただ思い込んでる?<
前方後円墳は、卑弥呼の「冢」の後である、という事や、
大和の庄内は、前方後円墳の石塚が最古になるから。 >>393
また、「南≠東」や「東至安南、如至成都、通水陸行」の、
議論に負けたwwの貼り付けだから、放置ね。 >>395
>古代朝鮮語が分かる、半島の古い(10世紀以前の)記録は一切ないんだよ
つまり、古代朝鮮語は一切分からない
>まあ、大陸王朝も古い文字記録があるけれど、半島には皆無だ <
歴代中国史書群の記録や、好太王碑などがある。 >>396
>福岡は、雀居遺跡出土土器に付着した炭化物の炭素年代測定は歴博でやった
九州大学の研究チームは人骨や獣骨の放射性炭素年代測定を試みている<
AMS法を使えば、プラズマ化をして、放射性壊変を促進してしまうから、
実際の年代よりも、50〜100年位古く出てしまう。 畿内も九州も一緒に古く出るなら、相対的な関係は変わらないことになる >>397
>纏向遺跡や箸墓の方が、平原遺跡よりよほど状況証拠は揃ってるぞww
お金(予算)のかかる研究は、重要な部分から順にやるしかないから、
3世紀の日本の中枢の遺跡である纏向遺跡から順に調べてるんだよ
そして、北部九州の試料もそれなりに調べられてるぞ?
「弥生時代の開始年代―AMS −炭素14年代測定による高精度年代体系の構築―」
学術創成研究グループ 藤尾 慎一郎・今村 峯雄・西本 豊弘(2005 総研大・分化科学研究)<
どこでやっても同じこと。
前方後円墳が冢よりも古くなったり、同じになったりしたら、
それだけで、×だな。 >>398
プラズマ化の影響を想定していなかったらしい今村は、
結局はアホ学者。 >>401
>>(ト骨は)おそらく、縄文の頃からの習俗。<
>縄文時代はない <
あ、そう。
「万世一系皇国史観」だから?。 >>496
邪馬台国は絶対年代が決まっているんだぞ。 >>470 テンプレ読め
>>1
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 <
テンプレどおりいかないな 畿内説の学者で
平原や吉野ケ里の年代比定に異論を唱えている学者
ほとんどいないのに、なぜ5ちゃんでは否定するのかようわからん
石野や寺澤の見解を書き込んで欲しい
彼等も畿内説論者のまえに考古学者なら否定していないと思うがね >>471
南は南だから
あんたの家では太陽は西から昇るのかい 何処に住んでるの >>504
小学校で習っただろ?
魏志倭人伝の行程は方角か距離(日数)のどちらかに誤りがあるが
どちらが誤ってるかはわからないと >>471
南は南だから
あんたの家では太陽は西から昇るのかい 何処に住んでるの >>505
>魏志倭人伝の行程は方角か距離(日数)のどちらかに誤りがあるが
どちらが誤ってるかはわからないと <
どっちが間違っていると思う FAQ71
>「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半) 「東震旦地理図」 南宋(十三世紀)
https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。<
隋や唐(7から9世紀?遣隋使 遣唐使の時代)
日本にきた中国人がみたら大笑いする地図だね 続けようか
元寇
モンゴル帝国が 「東震旦地理図」 の地図通りと思ってたら
北部九州の戦いに勝ったとしても
日本の都 京都へ侵攻するのは無理だったろうねww
鹿児島あたりへ侵攻してたかもww
「東震旦地理図」は邪馬台国論争では過去の遺物で
畿内説の現学者で「東震旦地理図」を持ちだす人いないと思うよ
「一疆理歴代国都之図」のほうがいいと思うが年代的に15世紀だしこれも駄目だね 続けようか 畿内説に賛同するものでは無いが
南→東
誤認、誤写よりマシと思うよ
陳寿は魏使ではない・・伝聞で倭人伝を記す
伝聞の過程で南が東になってしまった 末盧国から伊都国への方角は魏志倭人伝で東南と書かれてるのに、実際の方角は北東
”方角は絶対に正しい厨”がいかにバカか証明済み >>514
末盧国の比定地(範囲)を何処としますか
また
末盧国のどのあたりから魏使は出発したと思いますか
伊都国の比定地(範囲)を何処としますか
また
伊都国のどのあたりに魏使は最初に着いたと思いますか 末盧国から伊都国への方角は東南陸行だ。
北東ではない。
投馬国へは南だ。
東ではない。
邪馬台国へも南だ。
東ではない。 もう一つ
東南陸行 五百里 到伊都國
これ直線で陸行したのでしょうか >>517
もうひとつ 議論墳分ですが
東南陸行 五百里「到」伊都國
至と到 ゴメン間違い
>>514
もうひとつ 議論墳分ですが
東南陸行 五百里「到」伊都國
至と到 >>518
途中の道はくねくね曲がっているのが当たり前だ。
この方角というのは、
出発地と到着地の位置関係=方角を示したものだ。その方角は、とうぜん星を見て定めた。
。 >>522
星をみてですよね
すると南は東には絶対ならないよね
あなたの考えで行けば
末盧国や伊都国の比定地に問題があるという趣旨ですね >>406
この「前方後円墳≠冢」の否定も、
「万世一系皇国史観」有害活動集団のウソの連呼。
国民や人類の学問とは、何の関係も無い。 台風が直撃する気配
2018年7月28日4時30分発表 強い台風第12号は、28日3時には八丈島の東南東約550kmにあって、
北へ毎時40kmで進んでいます。中心気圧は965hPa、中心付近の最大風速は40m/sです。
この台風は、29日3時には奈良市付近に達するでしょう。
30日3時には対馬近海に達する見込みです。31日3時には東シナ海に達するでしょう
豪雨災害にあった倉敷、広島等々が山崩れや水害で災害が拡大しなければ良いのですが・・・・ >>409
魏使らがト骨習俗を記録した、という事は、史料実態。
それを口先で否定する嘘つき騙しが、「万世一系皇国史観」の大和説者。 >>411
ト骨風習は、東夷にもあった筈。
しかし、呉王夫差の後裔の卑弥呼は、ト骨風習は持っていなかった。 >>425
その「南→東」の嘘吐き騙しが、もう「会稽東治之東」に拠って崩壊ずみ。
お経は効かない。 >>426
だから倭国の都は大和には無いね。
確定。 >>427
>その国の首都でいっさい見かけなかったものを
その国の特徴的な風習とは書かないよね <
魏使らは、卑弥呼の鬼道と、ト骨風習とを区別して記載しているから、
両方とも、倭國で見たんだよね。 >>431
>九州は鯨面の痕跡となる異物が非常に少ない <
鯨面文身も、
魏使らは実際に見て記録したから、
陳寿も記載したんだよね。 >>432
なぜ?。
大和説はいつも、
万世一系皇国史観という「結論先にありき」での、
都合の悪い史料事実の否定や曲解の嘘吐き騙しの、、
理由のないトンデモ説?。 >>434
同時代記録の歴代中国史書群や、金石文などの記載を根拠に使う九州説に比べると、
記紀以降にしか確認できない記録を使う大和説は、
千倍劣等生だな。 >>436
>(入れ墨)奈良にあったのは古墳時代になってから<
ふーん。 >>441
出雲が、梁書に「文身國」と呼ばれているから、
文身習俗は、元々は、出雲地域が中心の習俗であった可能性が高いんだよ。 >>442
何がどう転んでも、阿波は、元は出雲系であり、
そこへ九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の附庸国になって行った。 >>443
>奈良県は大雑把に言えば、遺伝子的に縄文系と朝鮮半島系の混血と言われている
古墳時代以降宮崎辺りは、朝鮮半島系の影響が強く見られる
遺伝子的に島根辺りは中国東北部の影響が少しあって、
大阪辺りは明確に中国南東部の影響が強い
瀬戸内海西部は漢民族の影響がある どういうことなんだろうな <
根本的には、列島は、
旧石器や縄文期に、沖縄〜北海道の南方系中心がいた所に、
大陸から、北方沿海州系のズーズー弁族や、半島系や、燕の南の倭人や、
揚子江付近からの姫氏などの渡来があり、
更に、鮮卑らの白人系も、日本海側に渡来して来た、
という形。 >>523
>末盧国や伊都国の比定地に問題があるという趣旨ですね
そうですね。 比定地に問題が無いのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>535
>文身習俗は、元々は、出雲地域が中心の習俗であった可能性が高いんだよ。
そりゃそうでしょ。 倭国(阿波)の海人族の習俗なんだから。 出雲も忌部。 これ、常識。 @阿波 >>530、>>531
つまり九州説はあり得ないと >>540
>つまり九州説はあり得ないと
そうだね。 倭国(阿波)から東方面ばかりだからね。
土製仮面」はこれまでに全国で約120点見つかっているが、出土地点は矢野遺跡が最西端に位置する。
同遺跡は縄文時代から中世にかけての県内有数の複合遺跡で、調査の結果、「土製仮面」は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。
この「土製仮面」作成時期も国内では最古のクラスにあたる。「貝製仮面」は5000年前の物が九州からも発見されているようだが、土製のモノはこれが最古級である。
「土製仮面」の使われた時期と地域の偏りから、今の状況では四国東部から発生し、近畿・中部・東北方面へと伝播していったことが明確である。 @阿波 畿内説・九州説の信奉者諸君! もう、邪馬台国論争は お・し・ま・い。 @阿波 九州説でも、魏志倭人伝の方位は45度くらい曲がっていると考えている人が多いと思うよ。 >>445
>九州出身の神武とその家来の大久米命が大和のイスケヨリ姫にあった時、イスケヨリ姫が大久米命の顔の刺青に驚いたことが記されている。
当時の大和には鯨面の文化がなかったのである。<
筑紫や肥前にいた久米族は、元は出雲系であった、って事か。 >>458
>瀬戸内と濃尾平野に顕著なのが人面土器 鯨面戦士モノノフであろう。
ヒミコの時代、彼らの棟梁の名はウマシマジ。 名古屋の味鋺神社の祭神である。
そして纏向にも味間という地名が残る。 纏向は物部遺跡なのだ。<
元は、出雲の文身國系の地域。 >>461
✖って、ヘイトスピーチ的な妄想や質問を言ってるだけで、
実質的な反論は、できてないだろを?。
つまり、大和説全滅ってこと。
なにも事実を提示できてない。
おわりだよ大和説。 >>463
>纒向遺跡は卑弥呼がいたところのイメージにぴったり<
「南≠東」などで、×。 >>466
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「万世一系皇国史観の殺人テロや人種差別ヘイトスピーチ」の恥ずかしさでは、
大和説学者や、右翼学会教育界や、右翼マスコミや、
安部自民ら戦争キョクウの右に出るものはいない。 >>549
「南≠東」など「会稽東治之東」で、×。 >>473
>(ト骨)なら、倭国の一般的な風習だなんて書かないだろ <
道中でよく見たから、記録したの。 >>474
大和説は、都合の悪い倭人伝記録を抹殺無視っすね。 >>553
倭人伝って、そんなイイカゲンな本だ
って認識なの? 九州説は?
w つまり、テンプレートは完全に論破されてしまったのだね。。。 畿内説が、完全に破綻してしまったことが、はっきりし、テンプレートも完全に論破されてしまった今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば、良いのではないのかな、、、 >>558
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>557
どこだってズレる
その補正を考慮しないような素人が倭人伝の情報源だ
ってのが九州説なの?
九州説は倭人伝のことを
そんなイイカゲンな本だと思ってるの? 九州説は具体的なことが言えない
なぜって?
学問じゃなく政治思想だから >>476
文部省や学会教育界や右翼マスコミの締め付けや、キョクウの殺人テロが怖くて、
彼らの言いなりにならなければならない日本の考古学学者らが、
可哀そうで可哀そうで仕方がない、
と思っているのが九州説者。 >>564
そう決め付ける根拠は?
根拠が無ければ中傷だよ >>563
つまり、九州説の人は
あらぬことを妄想してる人々なのですね? >>563
あんたら、政府が毒ガスを撒いてると信じ込まされてる教団信者みたいだな >>482
大和説者の「南→東」などの嘘つき騙しの悪質性レベルは、
オーム信者に勝るとも劣らない凶悪レベルだな。 >>563
>文部省や学会教育界や右翼マスコミの締め付けや、>キョクウの殺人テロが怖くて、
>彼らの言いなりにならなければならない日本の考古学学者らが、
>可哀そうで可哀そうで仕方がない、
>と思っているのが九州説者。
こういう手合いって
素人のテキトーな思い付きトンデモ説が
その道専門の学者に否定されるから
耳を塞いでいたいだけの
痛い人でしょ >>561
補正をしていたという根拠があれば、お前の妄言を信じてやるよ >>483
>>「九州の遺物の14C年代を測ればはっきりする」<
>すでに多数測定されている 現在の標準編年と齟齬はない<
現在の標準編年の方が、都合の悪い部分を、
既に始めから50〜100年位調整されているんだろうなあ。 >>573
なんか根拠あって言ってる?
ないでしょ?
九州説は自分に都合が悪いから認めないだけ
理由など無い >>485
>土器が一番たくさん出るから、一番細かく調べられるし、一番情報量が多い
その分、蓋然性の高い説の根拠になるんだよ<
土器だけでは、順番が推定出来るだけであり、
金石文や、年代特定出来る共存物頑張ってなければ、絶対年代は出て来ないよ。 >>486
>>いや、明帝の「尚方作」鏡や、<
>仿世鏡に何が書いてあっても、舶載鏡にはならないし年代の決め手にはならないよ<
明帝の下賜鏡が元になった、という事がはっきりしているから、
240年頃以後に造られた、という年代の決めてになるよ。 >>572
補正をしないというなら、中国人は夏と冬で東の方位が60度変わると認めていたことになる
そんな文献はないので、東や西という方位が季節ごとには変わらないということは昔も今も常識だと分かる
ならば、たとえばプロの軍人が日の出を見て「今は真冬だから、あれは辰の方位」と考えないと思うのは現場の実務家をバカにしすぎ >>576
>明帝の下賜鏡が元になった、という事がはっきりしているから、
お前の頭ははっきりしてない >>487
>でも、アナタの言ってることは、ウソなのでしょ?<
でも、アナタは、何の反論の論旨も書かないでヘイトスピーチをしているだけだから、
アナタの言ってることは、ウソなのでしょ?。 >>489
>尚方作鏡は朝鮮銅だろ、陳さん作鏡のブレンド銅とまた違うんだよな<
ふーん。 >>577
初めて行く土地が何度ズレルか分かってたという根拠は? >>582
土地によってズレが違うという知識がない だから魏志倭人伝の方位には多少のズレができたと考えられる。
しかし南と東を間違える理由にはならない。 >>496
>畿内も九州も一緒に古く出るなら、相対的な関係は変わらないことになる<
だから、石塚が(冢ではなく)前方後円墳であって大和の庄内の始まり期になるから、
3世紀末以後になり、
大和の土器の絶対年代が、始めから50〜100年位古くされてしまっている、
と言っている。 >>587
言ってもダメだろ
庄内の始まり期になるから3世紀末以後
だなんてデタラメは >>497
>加速器では放射性崩壊は促進しない<
加速器では、核が一体として移動するだけであるから、放射性崩壊は殆ど促進しない。
プラズマ化をした事が、放射性崩壊を促進してしまう。 >>505
>小学校で習っただろ?
魏志倭人伝の行程は方角か距離(日数)のどちらかに誤りがあるが
どちらが誤ってるかはわからないと <
そりゃ、その先生や学会教育界や文部省が、嘘つき騙しの・・・・詐欺師なんだわ。
魏志倭人伝は、実地の見聞計測記録の記載であり、
方角も距離も日数も、全くのように殆ど間違っていない。 >>511
>続けようか 畿内説に賛同するものでは無いが 南→東 誤認、誤写よりマシと思うよ
陳寿は魏使ではない・・伝聞で倭人伝を記す 伝聞の過程で南が東になってしまった<
まず、「南と東の誤認や誤写を起こす確率」は、
全く字形も意味も違うし、考証や校勘にかかった例もないから、殆ど0%。
また、陳寿は、
自分で列島へは来ていないんだから、「誤認」は起きないのであり、
列島へやって来た魏使らの記録を見るしか書けない事であり、
「南と東」は字形も意味も全く違う文字だから、誤写も殆ど起きない。 >>514
>末盧国から伊都国への方角は魏志倭人伝で東南と書かれてるのに、実際の方角は北東
”方角は絶対に正しい厨”がいかにバカか証明済み <
魏使らは、末盧國から伊都国は全く見えないんだから、伊都国方向を書ける筈もなく、
そして陳寿の行程移動の説明の書き方は、
「出発説明+途中の説明+到着の記載」という人類の常識的な説明方法を踏襲しているから、
「東南」が出発時点での出発方向説明になっており、
その次の途中の説明が、「陸行五百里」になっており、
何の矛盾もない。 >>515
>海東諸国全図 <
実測ではなく、記録や伝聞情報を含めて書いたようで、
大きさはともあれ、方向はほぼ合っているみたい。 >>594
>魏使らは、末盧國から伊都国は全く見えないんだから、伊都国方向を書ける筈もなく、
ならば、魏使は一寸千里法は使わなかった
ということだ
古田説終了おめでとう 邪馬台国論争は10代崇神天皇がいつ頃の人物か、その一点で決まる。
崇神は4世紀初頭から前半が有力であり、ならばその数十年前の最高位のトヨは一人しかいません。
しかもそのトヨ=トヨ津媛は「国宝」中平銘鉄刀の保持者である和邇氏の祖・孝昭天皇の母です。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
考古学的根拠も伴い、邪馬台国論争は終了します。
古代史ファンはそれぞれ自説をお持ちなので、私の説を黙殺するのも結構ですが、
これはもうむなしいだけですよ。
邪馬台国とは葛城です。 >>593
だれも主張してないことに必死で反論するシャドウボクシング九州説
ww >>516
>末盧国の比定地(範囲)を何処としますか<
松浦水軍家の都市氏も根拠地が、東松浦半島北西沖の鷹島や黒島だから、
おそらく、東松浦半島全域。
>また 末盧国のどのあたりから魏使は出発したと思いますか<
おそらく、唐津の東南端付近。
魏使らの到着上陸地は、おそらく唐津港付近。
>伊都国の比定地(範囲)を何処としますか<
風土記と書紀の記載に拠って、怡土郡の地。
>また 伊都国のどのあたりに魏使は最初に着いたと思いますか<
おそらく糸島水道の西端の海岸地域。 >>598
>邪馬台国論争は10代崇神天皇がいつ頃の人物か、その一点で決まる。
年代観には一理ありますが、卑弥呼が大和にいたという根拠がなく、記紀に記載されていたという根拠もないのですよ。 >>601
崇神が4世紀前半でいいか、どうか。
いいのならトヨが数十年前にいるはず。
トヨツ媛がいるね。
しかも国宝中平銘鉄刀の和邇氏の祖である。
根拠がないという意味が分からない、これ以上何があれば根拠になるのか。
「記紀に記載されていたという根拠がない」と言うが、
神功皇后を卑弥呼に当てはめ、時代を大きくずらしてる事自体が記紀に卑弥呼が登場する根拠だ。
登場しないのならずらす必要もない。
ただし登場する卑弥呼は「日女命」「姫命」などこんな名前ではない、
これならバカでも卑弥呼と気づいてしまう。
ヒメに出雲の象徴「踏鞴」と妹と同じ「五十鈴」を足したのだ。 >>602
かもせんせのが >>1 やダックよりえらいのは当たり前のことやし何のお話かよー読み切らんかったが横から一言(^^
柵付き掘立高床建物群が崇神さん以降のどれかの纏向宮なら崇神さんも庄内期=3世紀以前じゃね?
崇神さんとひみきゅうこ君が同一時代人に1まんボリバルフエルテ 不思議なんは文献的に纏向宮の存在が複数示されてんのになぜに柵付き掘立高床建物群発見後に比定の話が盛り上がらんかったやな?
邪馬台国キャンペーン先にありきなんか? >>604
まさにその通りです。
邪馬台国の方が知名度が高く、村おこしに有利だったからです。 >>589
加速器のイオン源で放射性崩壊が促進などしない
世界中の物理学者が誰もイオン源で半減期が短縮することに気がつかずに年代測定し、
お前だけが気がついているとでも思ってるのか? あー纏向は垂仁さんからかー
崇神さんのはちょい南?(すると崇神さん2世紀になってまうな^^ 箸中山の炭素なんたらは加速器の工学的問題より統計処理した東工大の人の意見無視したのが問題やね?(2つのピークあるいうてはったよ かもせんせのいうてたウンコの話やけど纏向遺跡初期の大溝作りはったんはそれ関係かもな?(川に流さずすむしな(流してたら下流の河内の人らと喧嘩になります(絶対 やや!わえのじーちゃん法律破ってたんか明治末期のうまれやし >近所の甕を借りるのか?
>持ってきた甕は家に着く前に捨てるのか?
前スレの亀レスでごめん(甕レスとの掛詞w)
古代の旅を理解してないだろ?
甕を借りる借りない以前に、食料も燃料も集落に出してもらうんだぞ?
要するに旅人はお客さんで食わせてもらう
そこで、自分の持って来た甕を使ってくれというのと、
集落の甕で料理されたものを食べるのと
どちらが蓋然性の高い想定だと思う?
旅で野営するときに使う飯炊き甕は、集落に到着した時点で本来的に用済み
東から来た旅人の甕は、東側に遺されるし、西から来た旅人の甕は、西側に残される
>あんまり適当なことを言うなよ。
適当なことを言ってるのはそっちだよ
>テンプレの大和川うんぬんの根拠がないということだろ。
大和と河内は一体で、間に野営が必要な無人地帯がないってことだ
つまり大和川の水運は非常に便利な交通路であることの傍証だね
テンプレの妥当性はこういうところでも確認できる 纒向遺跡には搬入土器だけでなく、
各地の土器型式を纒向遺跡周辺の土で作った土器も時代が下るほど多い。(寺澤) ヤマトとカワチ、一体か?
根拠は?
勝手に一体にされる河内は迷惑だろう
2世紀末〜3世紀半ばまで
この間、ヤマトとカワチが一体である根拠を示してくれ >>615
>各地の土器型式を纒向遺跡周辺の土で作った土器も時代が下るほど多い。(寺澤)
その「各地の土器型式」とは「東阿波型土器型式」のこと。 @阿波 >>616
河内には最初期の前方後円墳がない
大和に古墳を作っていたと考えられる >>616
畿内第V様式の時点で土器形式の統一がされているのに、どうして別勢力にしたがるんだ? 大和川水系より淀川水系を選ぶだろ。
なぜ、大和川水系に王都を築いたのだろうか
大和川水系・・・流路延長68km、流域面積1,070km2
淀川水毛系・・・流路延長75km、流域面積8,240km2 >>620
>なぜ、大和川水系に王都を築いたのだろうか
その「大和川水系に王都を築いた」という弥生後期集落群はどれ? @阿波 >>616
テンプレ
「弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。」
吉備から来たモノが第V様式圏内でフリーパス
つまり大和と河内は一体 >>622
>吉備から来たモノが第V様式圏内でフリーパス
その吉備の第V様式は、倭国(阿波)の「東阿波型土器」。 @阿波 >>620
淀川水系を通ってたら、東海航路に出るのに近江と尾張(狗奴国説アリ)を通らなきゃいけないだろ どれも答えになっていない
2世紀末〜3世紀半ば
卑弥呼の時代に河内とヤマトが一体であった根拠を示せ >>528
>その「南→東」の嘘吐き騙しが、もう「会稽東治之東」に拠って崩壊ずみ。
お経は効かない。<
陳寿の「会稽東治之東」に拠って、
魏使らは方向を90度も間違っておらなかった事になり、
「南→東」が嘘つき騙しであった事が確定。
お経は効かない。 >>621
>その「大和川水系に王都を築いた」という弥生後期集落群はどれ?
さんざん既出だが
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
P.6の「図2 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域」を見ておいて つまり、テンプレートは完全に論破されてしまったのだね。。。 >>614
>甕を借りる借りない以前に、食料も燃料も集落に出してもらうんだぞ?
>要するに旅人はお客さんで食わせてもらう
そんな制度があったという証拠は?
江戸時代の宿場町と勘違いしているだろ。
>旅で野営するときに使う飯炊き甕は、集落に到着した時点で本来的に用済み
だからと言って自分の国の直前で山越えの前に手放すか?
それに野営が前提なら前述の集落の話は何だ?
>つまり大和川の水運は非常に便利な交通路であることの傍証だね
循環論法?
想像で想像を証明していて、結局何の物証もない。 >>622
推定だけで根拠がない。
畿内説の論拠はほとんどが想像でしかない。 >>538
>比定地に問題が無いのは倭国(阿波)だけ。 @阿波<
「南≠東」などによって、「倭国(阿波)」は、×ね。 >>624
弥生時代は日本海の方が主力交通路だからね。
日本海と瀬戸内海の二大ルートを結ぶ淀川の方が重要に決まっているだろ。
そもそも狗奴国が尾張というのも想像だし。
畿内説は本当に妄想の積み重ねでできているな。 >>621
無いですね 住居跡が纏向しかり無いのですよね 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>603
>柵付き掘立高床建物群が崇神さん以降のどれかの纏向宮なら崇神さんも庄内期=3世紀以前じゃね?
いやいや15代応神天皇が4世紀末なのはほぼ確定。
そこから神功皇后を入れて遡る事6代目が崇神。
一代平均在位は11年弱。
世代でいえば3〜4世代。
一世代間20年。
どっちにしても崇神は4世紀初頭から前半。
まぁこの時点でトヨは決まりで邪馬台国論争は終わりなのだが。 >>625
>どれも答えになっていない
別に駄々っ子一人が納得がいかないと叫んでいても、世の中には何の影響もないからな
「答えになっていない」と思うなら、なぜそう判断するのか、
「具体的に指摘」しなさいな
「具体的な指摘」ができないなら、まともに討論一つできない無能
>2世紀末〜3世紀半ば
畿内第V様式は1世紀後半〜3世紀初め
この時点で土器様式の標準化がなされてるんだから 物証として十分だろ >>539
>>文身習俗は、元々は、出雲地域が中心の習俗であった可能性が高いんだよ。<
>そりゃそうでしょ。 倭国(阿波)の海人族の習俗なんだから。 出雲も忌部。 これ、常識。@阿波<
出雲は、東北地方と同じズーズー弁族であり、
荒神谷という地名からも「アラハバキ」信仰圏であった可能性もあり、
倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」にも関わらず、
梁代まで文身國として維持されていたんだから、
東征の支配下になっていた阿波とは、と一線を隔していた。 >>624
琵琶湖が源流だから問題なし
また、大和川も尾張からだと、亀山から入った方が近い テンプレ
「弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。」
まるっきし物部だね。
播磨が出てくる時点で播磨物部と気づかないかな。
安本美典さんは庄内土器と物部の拠点が一致するという鋭い見解を言われている。
ただし庄内土器が九州発祥とか訳の分からない事も言ってるが。 >>626
>陳寿の「会稽東治之東」に拠って、
つまり陳寿は、倭国を半島の南から会稽東治之東までの、南北に長い洲島であると想定している
その南北に長い洲島での移動だから、「南至邪馬壹国」でなければおかしいと
陳寿が考え、そのように記述した蓋然性が高い >>628
>つまり、テンプレートは完全に論破されてしまったのだね。。。 <
もう馬鹿テンプレを相手にする奴いないから テンプレ
「弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。」
畿内の住民で淀川は皆知ってるけど 大和川知ってる人少なく無くねーー >>629
>そんな制度があったという証拠は?
「制度」とか、何をバカげたことをほざいているんだ?
お金の概念もない時代に、路銀を持って出かけたとか考えているのか?
燃料やコメも全部担いでいったとか考えているのか?
人里ごとに食料を恵んでもらいながら移動するんだよ
>江戸時代の宿場町と勘違いしているだろ。
>>629は古代の旅行について、何一つ考えたことも調べたこともないんだろ? 奈良は仁徳天皇以降に開墾され地だよ
それまでは墓地 >>629
>だからと言って自分の国の直前で山越えの前に手放すか?
何を言ってるんだ?
東海の土器が大和で出て、吉備の土器が河内で出るって話だぞ?
「自分の国の直前」って何の話をしてるんだ?
>それに野営が前提なら前述の集落の話は何だ?
東海から、亀山、伊賀、名張、宇陀へと移動する途中は野営が必要だろ?
それが奈良盆地に入れば、集落がたくさんあるから飯炊き甕が不要になるって話だ >>540
つまり大和説は、「南≠東」に拠って、始めからあり得ないと。 >>637
その土器が倭人伝記述に合致してればね。
記述してないんだからなんの証拠にもなってないよ。 畿内説は
考古学者や研究者の銭儲けの互助会
誰も信じていないが、銭のために畿内説に従属する >>630
>そりゃ別の文化圏だからだよ。
いや、前方後円墳がないというより、首長墓がないんだよ
たまに九州説のあおりで纒向は墓地ってのがあるけれど、奈良盆地東の丘陵が
「大和+河内〜環大阪湾の国」の共同墓所だったという想定を、広瀬和雄先生もしている
広瀬先生の分析では、大和・柳本古墳群には4系統程度の一代一墳的に累代の盟主墳が
築造される古墳群が見いだせるそうだ >>629
>想像で想像を証明していて、結局何の物証もない。
物証は、畿内第V様式の時点での土器形式の標準化 つまりだな
石野も寺澤は考古学者じゃなく纏向学者(いちおう学者にするが学者の範疇じゃない9
纏向がまだ10%も調査完了してないのに
邪馬台国だとか箸墓は卑弥呼の墓だと言い切る脳みそは筋肉の固まり、正常ではない つまりだな
石野も寺澤は考古学者じゃなく纏向学者(いちおう学者にするが学者の範疇じゃない9
纏向がまだ10%も調査完了してないのに
邪馬台国だとか箸墓は卑弥呼の墓だと言い切る脳みそは筋肉の固まり、正常ではない >>541
>調査の結果、「土製仮面」は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。
>「貝製仮面」は5000年前の物が九州からも発見されているようだが、<
では、九州の貝製仮面の方が古くて、
矢野遺跡の土製仮面の方が、後であり、粗末な仮面?になるではないか。 >>543
>畿内説・九州説の信奉者諸君!もう、邪馬台国論争は お・し・ま・い。@阿波<
畿内とか邪馬台国とかの、
存在もしなかった文言で、世間の人々を騙そうとした大和説や阿波説は、
もう、お・し・ま・い。 >>544
大和説のように、
魏志倭人伝の方位は90度以上位も曲がっている、
と考えている人位は、
もう殆どいない、と思うよ。 >>652
石野氏や寺澤氏の老人虐めはするなよ
彼等は自分が生きてる間に功を成したいだけだよ・・老人の夢 >>635は、倭国は北部九州〜畿内の広域ということだな >>657
そうは行くかよ ロクな大学も出ず地方公務良い上がりの奴の税金の無駄遣いは虐めるに値する 九州説は
中傷ばかりしてる
自分の醜さを自覚して
人生がイヤにならないのだろうか 運もあるだろうが
寺澤は南良県職員採用で桜井市が面倒見たから許せる・・・今でも纏向研究できる環境
石野は兵庫県職員で纏向に関与し、兵庫県が後の面倒を見たがその後糞大学教授
糞大学では漢文も読めない奴に考古学教えてる >>660
よっぽど九州説が機になるようだねww
テンプレに徹しようぜ
>>1
> 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 < 崇神が4世紀前半というのは有力な説。
ならばトヨが崇神の少し前にいるはず。
実際いるのだ。
東大であろうが京大であろうが偏差値38の大学であろうが、
高卒であろうが中卒であろうが関係ない。
これに気付くかどうかだ。
誰も気づかない。
気づいたのはわしだけだ。
いや昔、大平裕という歴史家が気づいていた。
トヨ=トヨ津姫と気づいていた。
しかしそのあとがいけない、話が展開しなかった。
そして彼は今、卑弥呼=アマテラスで箸墓古墳という訳の分からない説を唱えている。
アホうである。
邪馬台国とはヒメ(踏鞴五十鈴)姫やトヨ津姫が住んだ葛城である。 649日本@名無史さん2018/07/28(土) 18:59:03.22
畿内説は
考古学者や研究者の銭儲けの互助会
誰も信じていないが、銭のために畿内説に従属する 中傷しかできないの?
反論はできないの?
できないよね
九州説は負け犬だもの 吉野川水系 流路延長194 km、流域面積3,750 km2
筑紫川水系 流路延長143km流域面積約2,860km2
淀川水系 流路延長75km、流域面積8,240km2
文明はその土地土地の大河
大和川水系 流路延長68km、流域面積1,070km2
大和川はしょぼすぎる >>628
畿内説が、完全に破綻してしまったことが、はっきりし、テンプレートも完全に論破されてしまった今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば、良いのではないのかな、、、 >>555
倭人伝って、そんなイイカゲンな本だ、って認識なの?。
大和説者は? w。 >>636
>どっちにしても崇神は4世紀初頭から前半。
これが纒向遺跡の実年代なのでしょうねえ。 >>644
>>>629は古代の旅行について、何一つ考えたことも調べたこともないんだろ?
だからさ、旅人に食べ物を恵むシステムがあったことを証明してくれよ。
江戸時代の東海道は宿場が整備されていたけどね。
少なくとも奈良平安時代には、乾飯を持って旅していたわけだよ。
燃料くらいは現地調達できても、食料は持って出かけたんだよ。
あなたの意見はまるきり妄想としか思えない。
畿内説にはまともな論拠がほとんどない。 >>561
>どこだってズレる<
両極でない限り、どこだって、東西南北は殆どズレない。
>その補正を考慮しないような素人が倭人伝の情報源だ ってのが九州説なの?<
それを無理に、30度もずらす嘘つき騙しをするのが、大和説者なの?。
>九州説は倭人伝のことをそんなイイカゲンな本だと思ってるの?<
大和説者って、倭人伝のことをそんなイイカゲンな本だと思ってるの?。 >>646
>「自分の国の直前」って何の話をしてるんだ?
>東海から、亀山、伊賀、名張、宇陀へと移動する途中は野営が必要だろ?
筑紫からの土器が大和で出ないことが問題なわけだよ。
筑紫から大和に向かうとき、あなたの意見では運んで来た煮炊き用の甕を河内で手放したことになっている。
それは不自然だと言っているのです。
逆に、土器の生産流通センターが河内と大和にそれぞれあり、河内の土器が大和に入らないなら、両者の間に分断があったとしか考えられません。
それは、瀬戸内までは筑紫を含む邪馬台国側であったとしても、大和は尾張側(一部の畿内説によれば狗奴国側)であったことになるのです。 >>562
大和説は、具体的なことが言えない。
なぜって?、 学問じゃなく、
「戦前の万世一系皇国史観の人種差別的侵略殺戮戦争」狂という政治的宗教思想だから。 >>636
>一代平均在位は11年弱。
これは根拠なしだって!
計算がガバガバすぎる
>世代でいえば3〜4世代。
これも根拠がない
記紀の系譜では
崇神─垂仁─景行┬日本武尊─仲哀─応神
└成務
天皇6代で、生物学的世代も6世代
3〜4世代というのはどのような系譜を想定するんだ?
想定すらないのであれば、ただのでっち上げだが?
>一世代間20年。
6世代で末子相続なら、1世代30年で150年くらいになるぞ >>650
>「大和+河内〜環大阪湾の国」の共同墓所だったという想定を、広瀬和雄先生もしている
根拠のない妄想ですよ。
>広瀬先生の分析では、大和・柳本古墳群には4系統程度の一代一墳的に累代の盟主墳が
それが河内と関係するという根拠がない。
そんな狭い土地に4系統もひしめき合っているのは、極めて弱小な勢力である証拠で、筑紫はおろか河内にさえも影響を及ぼせない。 >>652
>邪馬台国だとか箸墓は卑弥呼の墓だと言い切る脳みそは筋肉の固まり、正常ではない
全くその通り。
根拠がないことを言い張っているのは学問的態度ではありません。 >>673
>だからさ、旅人に食べ物を恵むシステムがあったことを証明してくれよ。
だからさ、なければ飢え死にするんだよ
「マレビト」って言葉もどうせ知らないんだろ? >>566
つまり、大和説の人は、
安部自民や、右翼学会教育界や、右翼マスコミらの指導や命令に従って、
「戦前の万世一系の皇国史観」の殺人テロや侵略戦争、
という妄想してる人々なのですね?。 >>658
王都があったのは筑紫、纒向は最辺境の草刈場ですけどね。 >>666
>反論はできないの?
まともに反論できていないのは畿内説の方だと思いますよ。 >>678
>6世代で末子相続なら、1世代30年で150年くらいになるぞ
末子相続だというと根拠は?
普通は末子相続は兄弟相続とセットであり、その場合は生物学的世代よりも一代が短くなる。 >>567
あんたら、7割の反日国民が毒ガスを撒いてる、
と信じ込まされてる「万世一系皇国史観」教団の信者みたいだなの。 >>675
>筑紫から大和に向かうとき、あなたの意見では運んで来た煮炊き用の甕を河内で手放したことになっている。
いいえ?
私の意見では、土器製作センターのある大国(土器が潤沢にある)で、
土器を手放す(更新する)んだよ
東海から纒向まで、土器を持って来た人は、帰りには纒向の土器を持って帰路につく
>それは不自然だと言っているのです。
滞在中使いもしない持って来た土器をずっと維持している方が不自然だろ? >>683
>王都があったのは筑紫
筑紫も畿内と同じで、王都にふさわしい弥生後期集落遺跡群がないから脱落。 @阿波 >>668
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>681
ある人のいはく、
「かきつばたといふ五文字を句の上にすゑて、旅の心をよめ」
といひければ、よめる、
「から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ」
と読めりければ、皆人、乾飯の上に涙おとしてほとびにけり。
古来から、旅では食料(乾飯)を持参した。 >>687
>滞在中使いもしない持って来た土器をずっと維持している方が不自然だろ?
旅の目的地が大和なら、河内に長く止まる必要はないのだが?
あなたの想定は非常に不自然だ。 >>679
>根拠のない妄想ですよ。
プロの長年の研究の成果を「根拠のない妄想」と言える面の皮の厚さがすごいね
>それが河内と関係するという根拠がない。
先にも書いたように、古墳時代初期には河内や佐紀には首長墓クラスの盟主墳がないんだよ
逆に河内の首長はどこに葬られたんだい?
>そんな狭い土地に4系統もひしめき合っているのは、極めて弱小な勢力である証拠で、
>筑紫はおろか河内にさえも影響を及ぼせない。
4系統も有力家系があるから、その総体は他地域をしのぐ大勢力になるんだよ
想像にしかならないから強くは主張しないが、魏志倭人伝の「官有伊支馬、次曰彌馬升、
次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮」の4人の官が、4つの盟主墳の系統に対応すると考えると
非常に整合性の高い解釈になる 纒向遺蹟は、捕獲された生口による、土器製作センター遺蹟だったのではないのかな、、、、 >>569
「戦前の万世一系皇国史観」という結論先にありきの、
こういう手合いって、
右翼学会教育界の「南→東」などの嘘つき騙しの似非学者の、
テキトーな思い付きトンデモ大和説が、
7割の国民や素人オジンらにまで否定されるから、
耳を塞いでいたいだけの、
脳の弱い人、でしょ?。 >>691
>旅の目的地が大和なら、河内に長く止まる必要はないのだが?
旅の目的地が大和なら長く滞在するのは当然大和だろ? 何を言い出すんだ?
西から来た旅人は、河内に着けば野営用の飯炊き甕を維持する必要がなくなる
だから、河内から大和への行程で、持って来た甕を持って移動したりしない
だから、吉備の甕は河内で出るが大和では少ない
東海の土器も同様
>あなたの想定は非常に不自然だ。
そりゃあ、私の想定ではない、>>691の勝手な思いつきだもの
>>691の実力相応の不自然さなんだろうよ >>693
生口に天皇族の古墳も、作製させた遺蹟だったのでは、ないのかな、、、、 >>574
大和説は、
「南≠東」や、
「大和の庄内の石塚が前方後円墳であるから、卑弥呼の冢よりも後になる」
などの事が、自説に都合が悪いから認めないだけ。
理由など無い。 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 >>678
>これは根拠なしだって!
>計算がガバガバすぎる
・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年
・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年
・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
11年弱で文句あるまい。
>天皇6代で、生物学的世代も6世代
3〜4世代というのはどのような系譜を想定するんだ?
想定すらないのであれば、ただのでっち上げだが?
新唐書で開化の曾孫が神功皇后と述べられてること。
また各豪族との対比でも応神から崇神迄がおおよそ3〜4世代。
6代で6世代などありえない。
>1世代30年で150年くらいになるぞ
1世代30年なんて昭和だが?
平成の今が1世代36年。
この前ラジオで言ってた。
昔は現代人の半分も生きれなかった事を考えてみ。 >>692
>プロの長年の研究の成果を「根拠のない妄想」と言える面の皮の厚さがすごいね
プロが先入観で長年調べつくしても何も見つからなかったというのが実情だよ。
>先にも書いたように、古墳時代初期には河内や佐紀には首長墓クラスの盟主墳がないんだよ
河内に大型古墳がないと、本気で言っている⁇
>4系統も有力家系があるから、その総体は他地域をしのぐ大勢力になるんだよ 667日本@名無史さん2018/07/28(土) 20:02:25.37
吉野川水系 流路延長194 km、流域面積3,750 km2
筑紫川水系 流路延長143km流域面積約2,860km2
淀川水系 流路延長75km、流域面積8,240km2
文明はその土地土地の大河
大和川水系 流路延長68km、流域面積1,070km2
大和川はしょぼすぎる >>695
>旅の目的地が大和なら長く滞在するのは当然大和だろ? 何を言い出すんだ?
>西から来た旅人は、河内に着けば野営用の飯炊き甕を維持する必要がなくなる
意味不明。
大和まで来るのに、何で河内で旅道具を手放すんだ?
家に帰るまでが遠足です、と習わなかったのか? >>699
投馬国は筑紫より南に決まっているだろ! >>685
>末子相続だというと根拠は?
~渟名川耳天皇は神武天皇の第三子
大日本彥耜友天皇は綏靖天皇の第二子
足彥國押人天皇は孝昭天皇の第二子
稚日本根子彥大日々天皇は孝元天皇の皇后の第二子
欠史八代では、末子あるいは皇后の皇子の末っ子が皇位を嗣いでいる
ここに書かなかったのは、皇子(または皇后の皇子)が一人だけ
崇神天皇の次代は
天皇勅豐城命・活目尊曰「汝等二子慈愛共齊、不知曷爲嗣。各宜夢、朕以夢占之。」
二皇子、於是、被命、淨沐而祈寐、各得夢也。
會明、兄豐城命、以夢辭奏于天皇曰「自登御諸山、向東而八廻弄槍・八𢌞擊刀。」
弟活目尊以夢辭奏言「自登御諸山之嶺、繩絚四方、逐食粟雀。」
則天皇相夢、謂二子曰「兄則一片向東、當治東國。弟是悉臨四方、宜繼朕位。」
四月戊申朔丙寅、立活目尊、爲皇太子。
で、皇嗣候補のうちの弟
垂仁天皇の次代も
天皇詔五十瓊敷命・大足彥尊曰「汝等、各言情願之物也。」
兄王諮「欲得弓矢。」弟王諮「欲得皇位。」於是、天皇詔之曰「各宜隨情。」
則弓矢賜五十瓊敷命、仍詔大足彥尊曰「汝必繼朕位。」
で、弟が皇太子になっている
末子相続とは明記してないが、末子相続になっているだろ? >>590
>そもそも卑弥呼の共立は2世紀末なんだよ。<
卑弥呼の共立年齢は記載されておらず、
壹與の共立が13歳でおらずあった事が特記された位だから、
卑弥呼共立年齢は20歳前後位だろう、と推定され、
魏使らが見た240年頃時点には、「年已長大」であったのであり、
「長大」は30〜35歳位を示すから、
卑弥呼共立は、20歳位から、10〜15年経っており、
240年頃の10〜15年前の卑弥呼共立は、225〜230年頃だろう、
という事になる。 >>678
>6世代で末子相続なら、1世代30年で150年くらいになるぞ
弥生時代に1世代30年なわけないだろ。
人生50年なら、孫の顔を見る前に死んでしまう。
日本は縄文から昭和の初期まで、10代で結婚するのが普通だった。
30代で子作りするのは、生物学的にはリスキーなんだよ。
まして古代には兄弟相続もあったようだから、天皇の世代ももっと短くなる。 近畿の川
紀の川 流路延長136q、流域面積1,750km
加古川 流路延長96km、流域面積1,730km
淀川水 流路延長75km、流域面積8,240km2
文明はその土地土地の大河
大和川水系 流路延長68km、流域面積1,070km2
大和川はしょぼすぎる 近畿の川
紀の川 流路延長136q、流域面積1,750km
加古川 流路延長96km、流域面積1,730km
淀川水 流路延長75km、流域面積8,240km2
文明はその土地土地の大河
大和川水系 流路延長68km、流域面積1,070km2
大和川はしょぼすぎる 近畿の川
紀の川 流路延長136q、流域面積1,750km
加古川 流路延長96km、流域面積1,730km
淀川水 流路延長75km、流域面積8,240km2
文明はその土地土地の大河
大和川水系 流路延長68km、流域面積1,070km2
大和川はしょぼすぎる 近畿の川
紀の川 流路延長136q、流域面積1,750km
加古川 流路延長96km、流域面積1,730km
淀川水 流路延長75km、流域面積8,240km2
文明はその土地土地の大河
大和川水系 流路延長68km、流域面積1,070km2
大和川はしょぼすぎる >>703
>意味不明。
>大和まで来るのに、何で河内で旅道具を手放すんだ?
河内から大和の間は「野営」の必要がないからだよ
ご飯は世話になる集落で用意してくれるし、野営しなければならないほど
集落間は離ればなれではない
>家に帰るまでが遠足です、と習わなかったのか?
帰路につくときには、東へ出るときは大和で、西へ向かうときは河内で
新しい甕をもらうんだよ
古い甕を維持する理由がない >>692
>4系統も有力家系があるから、その総体は他地域をしのぐ大勢力になるんだよ
しばらく前まで、九州北部は小勢力がひしめき合っているから倭国全体のリーダーシップを取れないと言っていなかったか?
しかし大和はもっと弱小の勢力に分割されていたわけだ。
えらく小さなムラだな、おい。
ダブルスタンダードは恥ずかしくないのか?
しかも筑紫と大和では、弥生時代末期の富の総量が桁違いなわけだから、複数の首長で分割しても筑紫の方が大勢力になる。 >>701
>河内に大型古墳がないと、本気で言っている⁇
古墳時代「最初期」の、といっているだろ?
河内に巨大古墳が作られるようになるのは、古墳時代中期の津堂城山古墳から
津堂城山古墳はおそらく日本武尊の陵 >>706
>「長大」は30〜35歳位を示すから、
違うよ もし、倭国が畿内大和にあったのなら、
従来から、倭王朝、倭王権、倭畿内説、倭大和説などと、称されていてしかるべし。
それなくして、
今頃になって、急に倭=大和というのは矛盾の極み。大和説は、語るに落ちたわけだ。 >>713
>しばらく前まで、九州北部は小勢力がひしめき合っているから倭国全体のリーダーシップを取れないと言っていなかったか?
またいい加減な勝手解釈を振り回してる
北部九州は、小勢力がそれぞれ一国の首長としてひしめいてるだろ?
国名も、魏志倭人伝でも末慮国、伊都国、奴国と別々に記されている
それに対して、大和+河内〜環大阪湾の地域は、一つの邪馬台国なんだよ
有力家系が4つあってもね
伊都国にも、三雲遺跡群に墳墓を作る首長家と、曽根遺跡郡に墳墓を作る有力家系があるけれど
それでも伊都国1国だろ?
それと同じで、より強大なのが邪馬台国だよ 奈良県の世界遺産は 仏教文化
福岡県の世界遺産は 神道文化
邪馬台国は神の文化 仏関係ない >>678
末子相続ももちろんあったであろうが、
>>707氏が言うように10代から子作りしてることを考えれば
一世代間は20年くらいであろう。
もともと10代崇神が4世紀初頭〜前半か否かという話だった。
吉備津彦としか考えられない中山茶臼山、
武埴安彦としか考えられない椿井大塚山、
四道将軍ゆかりとしか考えられない会津の一箕古墳群(いっきこふんぐん)、
そして古事記の記述が正しいとして崇神の墓は行灯山古墳、
ことごとく4世紀前後〜前半である。
崇神は4世紀前半。
ならばトヨは一人。
邪馬台国とは葛城だ。 >>716
>従来から、倭王朝、倭王権、倭畿内説、倭大和説などと、称されていてしかるべし。
だから、古事記では「倭」をヤマトと訓読してるじゃないか
自らの作った史書で自称してるよ >>714
>津堂城山古墳はおそらく日本武尊の陵
日本武尊の陵は、倭国(阿波)の「山の神古墳」
「四国初の並列粘土槨」
「石井の山ノ神古墳 墳丘と同時造成」 徳島新聞朝刊 平成30年3月1日
石井町教委は28日、古墳時代前期とみられる前方後円墳「山ノ神古墳」(同町石井)の後円部の墳頂で、木棺を粘土で包んだ埋葬施設「粘土槨」が2基並んだ状態で見つかったと発表した。
粘土槨が墳丘と同時並行で築かれたことも判明し、いずれも四国で初めての出土例。 専門家は「全国的にも珍しい事例で、古墳研究の基礎資料になる」としている。
粘土槨は、墳頂部の地表面から約50〜70cm下で発見された。箱形木棺(幅約1.15m)と割竹形木棺(約1.2m)とみられ、約1.1mの間隔を空けて置かれていた。
全国の豪族は長辺を南北に向ける配置が多いが、県内の他の古墳に見られる特徴と同じく、東西に向ける形で埋められていた。
先に墳丘を完成させ、後で土を掘って木棺を埋め戻す方法が一般的だが、山ノ神古墳では盛土の堆積状況から、墳丘と粘土槨が同時に造られたことが分かった。
同様の事例は国史跡の和泉黄金塚古墳(大阪府)など近畿地方にみられるが、四国では見つかっていなかった。古墳調査に詳しい兵庫県立考古博物館の石野博信名誉館長は「墓を造り、葬送儀礼をしてから墳丘を仕上げる過程が分かる珍しい事例。
徳島の古代文化の独自性や、近畿政権との関係を考える材料にもなる」としている。
山ノ神古墳は2014年に発掘調査を開始。全長57mで、前方後円墳としては県内3番目の規模であることが分かっている。17年には、前方後円墳に隣接する円墳周辺で、県内2例目となる筒型銅器が出土している。
この「山ノ神古墳」は、東隣に鎮座する「白鳥神社」と合わせて、「日本武尊」の陵墓とみられている。 @阿波 >>718
>福岡県の世界遺産は 神道文化
その世界遺産は大陸からの玄関口(末盧国)である宗像方面。 @阿波 >>719
>10代から子作りしてることを考えれば
>一世代間は20年くらいであろう。
10代から子作りして、下の皇子が育つと兄皇子は独立して出て行き、結果として
最後の「自分より下の弟が生まれなかった皇子」が、 跡継ぎになるんだよ
だから、何歳から子作りしていたかではなく、何歳まで子作りできるかが、
世代時間を規定することになる
男は30でも40でも子作りできるだろ? >>596
>>魏使らは、末盧國から伊都国は全く見えないんだから、
伊都国方向を書ける筈もなく、<
>ならば、魏使は一寸千里法は使わなかった ということだ <
変な男。
一寸千里の法は、原則として、南北距離成分を計測するものであり、
また、8尺棒の影長差が一寸になるような距離差以上を計測するものであり、
また、500里位で、南北方向になるのか?も不明な地点間では、
計測対象にならないもの。
大和説終了、おめでとう。 >>705
>欠史八代では、末子あるいは皇后の皇子の末っ子が皇位を嗣いでいる
ここからは持論なんだけどさ、この頃って実は天皇号が認められていない長男とかも即位していたんじゃないか?
それを記紀編纂時に切り捨てたんだろう。
例えば神武の次の天皇は沼河耳(綏靖)だが、実はその前に手研耳が(神武の妃であったイスケヨリ姫を娶ることができるくらいには)権力を一旦は手にしている。
手研耳を殺した沼河耳が政を、兄の八井耳が祭を担当したとある。
これは隋代の倭王である多利思比孤も同様に兄弟で分担を決めていたとあり、沼河耳のみを天皇と認定したのは後世の解釈に過ぎないのではないのか。
日向三代においても、海幸彦と山幸彦は兄弟相続しているように見える。
さらには天照とスサノヲも、スサノヲが大国主として倭王を名乗っていたと考えれば、兄弟相続と読める。
我々が思う以上に、古代においては兄弟相続は多かったのかもしれない。 >>598
>邪馬台国とは葛城です。<
邪馬台国なんて存在しないし、「南≠東」だから、×です。 >>712
>ご飯は世話になる集落で用意してくれるし、野営しなければならないほど
その集落は何を根拠にたくさんの旅人に食料を提供したのか?
それはどのようなシステムなのか?文献的根拠は?考古学的証拠は?
まったくの妄想ではないか?
>帰路につくときには、東へ出るときは大和で、西へ向かうときは河内で
今ここで問題としているのは、筑紫の土器が大和で出ないことなんだよ。 >>599
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しで、
だれも読まないようなことを、必死でヘイトスピーチする、
シャドウボクシングの大和説のww。 筑紫が畿内の土器に替わっているときに
畿内に筑紫の旧土器は持っていかないだろ >近畿の川
紀の川 流路延長136q、流域面積1,750km
加古川 流路延長96km、流域面積1,730km
淀川水 流路延長75km、流域面積8,240km2
文明はその土地土地の大河
大和川 流路延長68km、流域面積1,070km2
大和川はしょぼすぎる <
纏向が王都では無い 王都は平安京の奥深く眠っているのだ >>700
>・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
>・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年
>・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
>・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年
>・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
これ、これまでにも何度も批判してるのに無視しているだけじゃん
5つの数値を計算しているように見えるけれど、一番上の25代が共通に入っているから
そこに数代付け加えても数値は大きく動かない
>11年弱で文句あるまい。
文句ありあり
都合のいいところを選んでるだけ
私の文ではないけれど、これでも読んでおいて
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zaturon.html#junen >>602
>根拠がないという意味が分からない、これ以上何があれば根拠になるのか。<
「南≠東」だから、始めから×。 >>714
>河内に巨大古墳が作られるようになるのは、古墳時代中期の津堂城山古墳から
http://www.city.fujiidera.lg.jp/rekishikanko/kodaikaranomesseji/daiofunhanazeidosurunoka/1387431231899.html
大阪地域で最初の前方後円墳は、淀川の中流域の両岸に出現します。
高槻市の岡本山古墳や枚方市の万年寺山古墳をその有力な候補と考えています。
両地域の王が、ほかの大阪地域の王に先駆けて前方後円墳を築くにいたった背景は、たんに経済的優位が作用しただけではなかったはずです。
それは、ヤマト政権の中枢の人たちが、淀川の交通路としての重要性を評価していたことの表われであろうと理解しています。
北摂と北河内に続いて、西摂東部(池田・豊中市)、中河内(東大阪・八尾市)、南河内に前方後円墳が続々と築かれていきます。
とりわけ、南河内の玉手山古墳群は注目される存在です。
古墳群は、2期の玉手山9号墳に始まり、4期に群形成を終わります。
全体で14基の前方後円墳から構成され、4ないし5系列の王が玉手山丘陵を共同の墓地にするように古墳造りを進めた様子をうかがうことができます。
南河内はこの玉手山古墳群のほかにも石川谷の両岸地域(羽曳野市・富田林市・河南町・太子町・河内長野市)にいくつかの前期古墳が確認され、前期末の段階では、南河内は、大阪地域で最も前方後円墳が集まる地域となっていたのです。
大阪もまた小さい「王」が乱立しているけども、淀川水系の重要性を論じている点で興味深く、古墳時代前期から畿内でも重要な地域であったことがうかがえる。
畿内説、というより大和説は、強引すぎる。 天皇という称号は7世紀にできた。
だから神武は天皇に即位などしていない。
存在しない称号に即位しようがない。
神武の時代から崇神まで、実質最高位は大物主。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
この左側が大物主。
そして最後の大物主・阿田賀田須を祀っているのが国宝中平銘鉄刀を保持していた和邇氏。
現天皇家の祖先・崇神は最後の大物主・阿田賀田須を殺した。
クーデターだ。
怨霊が恐いから大神神社を建てた。 >>717
>国名も、魏志倭人伝でも末慮国、伊都国、奴国と別々に記されている
それは国邑だよ。
それぞれには王はなく、王から委任された官のみがいた(伊都は除く)。 >>725
お前はアホか
候補はあるが南でいいよ
確定できたら九州説で決定になるじゃん >>606
畿内説って名前をやめて、
「人種差別的な万世一系皇国史観」の・・・・大和説、
に変えろ。 >>731
>沖ノ島は謎だらけ
筑紫倭国が、祖先であるアマテラス(対馬海峡を征服した海の王)を祭った祭祀だと思っている。
宗像の権威はアマテラスの神勅に基づくものだしね。 大和川をディスって奈良は邪馬台国ではないという論法のやつは小学校からやり直せ
ヤマト王権の都が奈良に置かれていたことさえ知らないと自白してるようなもの >>732
筑紫は全国の土器が集まっただけで、畿内はその一部に過ぎないよ。 >>700
>新唐書で開化の曾孫が神功皇后と述べられてること。
新唐書は、記紀の情報をいい加減に引用している二次情報だから、
記紀の否定に使うのは筋違い
>また各豪族との対比でも応神から崇神迄がおおよそ3〜4世代。
これのソースを出して
宝賀寿男が元ネタか?
>6代で6世代などありえない。
あり得ないとするだけの情報が古代にはないんだよ
自分の都合で言い張ってもダメだよ >>740
5万戸の宮崎の土器の影響は受けず
辺境の土器を真似て王都の土器が消滅することはないな >>734
>文句ありあり
>都合のいいところを選んでるだけ
応神元年390年で平均在位を計算するのに、何代が良いのか言ってくれ、そして計算して提示してくれ。
こっちは具体的な数字を挙げてるのに、君は具体的数字をあげず、そして批判するだけ。
自分の計算した数字を挙げろ。
話はそこからだ。 沖ノ島の報告書、研究論文も読まずに謎だと言う九州説 >>734
引用先でも、平均11年、しかも魏晋代の中国でも皇帝の在位が平均11年であった。
そのホームページでは、なぜか末尾で「意味がない」など書いているが、それこそ非論理的な逃げだよ。
平均在位11年は妥当なように思えるね。 >>607
>加速器のイオン源で放射性崩壊が促進などしない
世界中の物理学者が誰もイオン源で半減期が短縮することに気がつかずに年代測定し、
お前だけが気がついているとでも思ってるのか?<
重力場と電磁場が相互作用をしている、という事が分かっている物理学者なら、
プラズマ化をした時点で、放射性壊変が促進される、
という事を誰でも知っている。 >>744
何百年後の話をしているんだ?
しかも平城京はわずか数十年で放棄して、淀川水系の平安京に遷都してしまうんだぞ。 >>736
>後付けに意味はないよ
後付け、てww
記紀より古い文字記録はないんだが?
記紀を後付けだというなら、>>716の質問にはまったく意味がないってことだw >>731
>沖ノ島は謎だらけ
九州で最も栄えた所は宗像方面だね。 やっぱり大陸の玄関口だけあって。 @阿波 >>750
>沖ノ島の報告書、研究論文も読まずに謎だと言う九州説
それを言っているのは畿内説だろ。
九州説だと簡単なんだよ。
福岡の目と鼻の先で天照を祭りました、で説明がつく。
畿内説だと、都からはるか離れたところで国家的な祭祀を行っている理由が説明できない。 >>609
>>β法と突き合わせてるやろしな?<
私が前から言って来た事だが、
ベータ線法のAMS法との突合せをすれば判る、と言って来たが、
そのデータがさっぱり出て来ない。 >>747
崇神は行灯山、4世紀前半は最有力だよ。
各豪族との対比は家に帰ってから出す。
1世代30年で6世代などと自説にあうように自分の都合で言い張ってるのは君だ。
>男は30でも40でも子作りできるだろ?
平均寿命40歳の時代、39歳で子供を作って本人がすぐ死んだら赤ちゃんが跡を継ぐのか?
少しは考えろ。 >>741
>候補はあるが南でいいよ
魏志倭人伝に「自女王國以北、其戸數道里可得略載」と書いてあって、
投馬国は女王国以北のカテゴリーだから、南になる時点で読み方がおかしいんだよ >>759
>各豪族との対比は家に帰ってから出す。
待ってるよ〜
がんばれ〜 畿内説で
畿内を(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国)とした場合
投馬国は何国と何国・・・・・・範囲比定は? >>752
そんなトンデモを知っているならAMSで年代測定はしない
プラズマ化しただけで放射性壊変が促進されるなら
放射性廃棄物処理に苦労はしない >>757
沖ノ島の報告書、研究論文も完全拒絶してるから
福岡の目と鼻の先で天照を祭りました、で説明がついてるんだよ >>760
>投馬国は女王国以北のカテゴリーだから、南になる時点で読み方がおかしいんだよ
投馬国は里程が書いてないから、伊都国までのルート上ではないよ。
日程が邪馬台国までよりも長いので、ずっと南にある。
宮崎県の都万だよ。 >>740
投馬国は宮崎で正解ですよ
宮崎から南に向かって太平洋ルートで阿波か畿内が邪馬台国です >>765
たまには中傷と妄想以外のことを書いたら? >>759
>平均寿命40歳の時代、39歳で子供を作って本人がすぐ死んだら赤ちゃんが跡を継ぐのか?
>少しは考えろ。
文句付ける前に人の書いたことを「きちんと読もう」な
>>723でも「下の皇子が『育つ』と兄皇子は独立して出て行き」って書いてあるだろ?
「生まれたら」じゃないんだよ
「立太子」がなぜ必要か、考えてみてごらん? >>720日本@名無史さん2018/07/28(土) 21:18:15.30
>だから、古事記では「倭」をヤマトと訓読してるじゃないか
中国側からは、倭国は邪馬台国をはじめとする30国の共立連合国家で、その女王は卑弥呼と定義されていた。
しかし古事記において、倭=ヤマトであったということは、中国側の認識とは一致していない。
それでも一致すると主張するのなら、
奈良盆地内大和に邪馬台国はじめ30国があったということになるが、
戸数・道里・行程日数から見て、極めて不自然である、というよりありえない設定である。 >>769
立太子なんて制度が弥生時代にあった証拠を出してみろ。 >>614
>古代の旅を理解してないだろ?
甕を借りる借りない以前に、食料も燃料も集落に出してもらうんだぞ?
要するに旅人はお客さんで食わせてもらう<
関係がないだろうなあ。
「土器」は、おそらく「市」で物々交換されたり、貨幣で買われたりしたんだろうなあ。
そして、旅人は、水瓶にも使ったんだろうなあ。
>大和と河内は一体で、間に野営が必要な無人地帯がないってことだ
つまり大和川の水運は非常に便利な交通路であることの傍証だね
テンプレの妥当性はこういうところでも確認できる <
大和川は、生駒金剛連山での「先行河流」の筈だから、
当然、途中に岩場の浅瀬があり、舟の通行は困難だった、と思うよ。 >>766
>投馬国は里程が書いてないから
魏志倭人伝の書いてあるのは「其戸數『道里』可得略載」だよ
里数も日数も、『道里』の略載のやり方だよ
里数が書いてないというのは理由にならない >>767
>太平洋ルートで阿波か畿内が邪馬台国です
でも、畿内はない。 @阿波 >>769
独立した兄は何をしているんだ?
弟が幼少なら、自分が天下を取るだろう?
当時は兄弟相続があったのを、後世において末弟にだけ天皇号を与えたんだよ。
兄弟相続は騎馬民族やイスラム圏(両者は被っているが)を含め、アジアでは広く見られた制度であり、古代の倭国も例外ではなかったということだよ。 >>768
妄想連呼してるヒマがあったら、研究論文読めよ >>765
他の説明プリーズ。
できないならただの中傷であり、反論ではない。 海幸彦山幸彦、色々伝承があるが例えば、
潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。
隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。
宮崎で山幸彦は石にまつわる伝承が多いな
海の民と石器作りをしていた山の民の対立があったんじゃないかな >>773
日程は所要の時間のこと
里数は所要の距離のこと。
時間と距離は全く異なる概念だから、日数は里数には含まれない。小学校で習ったろ。
投馬国は女王国の南で大正解だ。 >>781
『道里』に日程を含めなかったら「計其道里」ができない
現代日本の小学校レベルで考えちゃだめだよ >>779
彦火火出見は倭国の王都、伊都の高祖宮の祭神! >>781
>日数は里数には含まれない。
それは当たり前
こっちが言っているのは、里数=道里じゃないってこと
道里は、日数でも里数でも略載できる >>782
魏志倭人伝では、魏使の通過した経路は日程と里程の二重で記録を残している。
投馬国は日程のみだから、倭人からの聞き取りだったことがわかる。 >>771
>立太子なんて制度が弥生時代にあった証拠を出してみろ。
証拠って、何がお望みかな?
記紀には書いてあるよね? 邪馬台国は沖縄の与那国海底遺跡にあった
大昔発生した南海トラフ大地震でプレートごと海底に沈んで
大量難民が発生→倭人が九州佐賀に漂着→漂着民となって全国各地に押し寄せるが、
その最大の拠点が佐賀~福岡糸島。←女王のつくった新しい国。 >>789
>記紀のどこに書いてある?
廿五年春正月壬午朔戊子、立皇子磯城津彥玉手看尊、爲皇太子。
十一年春正月壬戌朔、立大日本彥耜友尊、爲皇太子也。
廿二年春二月丁未朔戊午、立觀松彥香殖稻尊、爲皇太子、年十八。
六十八年春正月丁亥朔庚子、立日本足彥國押人尊、皇太子、年廿。
七十六年春正月己巳朔癸酉、立大日本根子彥太瓊尊、爲皇太子、年廿六。
卅六年春正月己亥朔、立彥國牽尊、爲皇太子。
廿二年春正月己巳朔壬午、立稚日本根子彥大日々尊、爲皇太子、年十六。
廿八年春正月癸巳朔丁酉、立御間城入彥尊、爲皇太子、年十九。 >>775
>独立した兄は何をしているんだ?
>弟が幼少なら、自分が天下を取るだろう?
天下って概念、まだないよ
大王も盟主、第一人者というだけで、専制君主的な支配者ではない
独立した兄は、独立した地方領主になるんだよ >>770
>しかし古事記において、倭=ヤマトであったということは、中国側の認識とは一致していない。
倭の邪馬台=ヤマトだろ?
何か問題あるか?
>それでも一致すると主張するのなら、
>奈良盆地内大和に邪馬台国はじめ30国があったということになるが、
そんなこと主張しているやつ、いないよ?
畿内説では、中部から九州までの範囲が倭国だよ
>戸数・道里・行程日数から見て、極めて不自然である、というよりありえない設定である。
自分であり得ない想定をしてあり得ないっていってもしょうがないだろうに >>784
道里とは、「道+里」のことである。
そして・・・、
道とは、目的の場所に至ることのできる方角とその道のことである
里とは、目的地までの里数のことである。 >>793
倭の邪馬台=ヤマトがなんで倭=ヤマトになるんだ?
アタマ腐ってるなw >>782
>計其道里、当在会稽・東冶之東。
その道里を計るに(其の道の方角と里数から推定すると)・・・、という意味であるから、
道里を計るにあたって、日数は必要でない。 >>793
>そんなこと主張しているやつ、いないよ?
>畿内説では、中部から九州までの範囲が倭国だよ
ならば、畿内説では、大和(ヤマト)も中部から九州までの範囲だったのか >>796
女王之所都までさらに2ヶ月も進んでいるのだから
計其道里に日数は必要だよ つまり投馬国は里数がわからない、魏使が通過しなかった範囲にある。
邪馬台国(九州北部)までは、日程と里程(一万二千里)の両方がわかっている。 >>799
倭人の船だと水行で通過しても里数はわからない
九州北部までの日数は書いてない >>7898
>計其道里、当在会稽・東冶之東。
その道里を計るに・・・、つまり(其の道の方角と里数から推定すると)・・・、と書いてある。、
この場合、道里を計るにあたって、日数は用いられていない。 >>801
つまり(其の道の方角と里数から推定すると)が間違い
里数の南北成分だけで会稽・東冶之東なら根本的に地理感覚が間違っている >>802
短里で測定された報告書を長里だと思って読んでしまったので、会稽・東冶之東と思ってしまったということだよね。 >>804
短里で測定された報告書ってどこにある? 行程と物証・期待度から阿波に傾きつつある・・
水行20日 10日 を どう捉えるかが課題だが各説同じ
投馬国は別府湾岸、南に向かい四国の西南部 陸行で阿波
物証も阿波にはある・・まだまだ調査する余地が九州・畿内よりたくさんある
ふるさと納税を阿波あたりにしようかな・・微々たるものだが 倭はヤマトにならない
和訓は日本特有であり後付け
>>793の
>倭の邪馬台=ヤマトだろ?<
は邪馬台=ヤマトだろ?と言いたかったのだろう倭は余分
しかし邪馬壹國の発音(これも当時どう発音したのか?わからない)から大和を連想するのは勝手だが 参考
現在私たちの見ることが出来る(両方とも書写本)、「魏志倭人伝は邪馬壹国、壹與」、「後漢書は邪馬臺国」と記述されています。以後、梁書、北史、隋書ともに、後漢書の「臺」を踏襲しています。
「魏志倭人伝(三世紀末)が先に出来て、後漢書(五世紀の半ば)は時代は古いが出来たのは後で、魏志倭人伝をテキストにしていると言われています」。
「魏志が書かれた時は、間違いなく(壹)です」。
「魏志が、本来、臺であったのを、壹と書き誤ったか?、魏志の文書中に、臺と壹の誤用は存在しないし、臺は、天子の居城や中央政府の官庁を表す文字で、国名に卑字を使用しているのに邪馬臺国は適さない」。
以上から、「魏志は、邪馬壹国で正解」。
「後年に後漢書を書くときに、史書や資料は乏しく、魏志倭人伝をテキストとし、引用された魏略にも邪馬壹国とあったのを、何故、著者范曄が邪馬臺国と記述したのか、ここが問題なのですが、肝心なところが良くわかりません」。
著者范曄は優秀人物なのですが、同時代史書による記述ではないので、各種の史料を自分の頭の中でアレンジして著作していると言われています。
何処かで、誰かが、「壹を臺に、そして臺を台」に変えた人物がいるはずです。 最初の犯人は、「范曄にしておきましょう」。
次に「臺(略字の台)で間違いないと決めつけた、日本の犯人」は、「古くは北畠親房、松下見林、新井白石、明治に成ると、白鳥庫吉、内藤湖南等」で、「邪馬臺−ヤマト―大和」と言う、
近畿中心史観が大手を振って闊歩し、「後漢書、梁書、北史、隋書の邪馬臺国」が優先され、「魏志倭人伝の、邪馬壹国は不運な運命をたどるのです」。
「邪馬台国、台与」の読みは、彼らの亡霊に惑わされている結果で、正しくは「魏志倭人伝の邪馬壹国、壹與」が正解で、「やまいちこく―やまいこく、いちよ―いよ」と読むのが正しいと思いますが、
歴史を楽しむ者にとっては、どちらでもいいことで、「トヨ、ヤマタイコク」で充分なのではないでしょうか。 私も聞きたい
762質問良いですか2018/07/28(土) 21:55:08.38
畿内説で
畿内を(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国)とした場合
投馬国は何国と何国・・・・・・範囲比定は? >>802
>里数の南北成分だけで会稽・東冶之東なら根本的に地理感覚が間違っている
世界地図を見てみろや
会稽の東の倭(九州地方)なら、東北東方向だから、おおむね当っているではないか、
当時の地理知識では、素晴らしい推定結果と思うけどな >>813
会稽の東北東方向というのはどこに書いてある? >>814
まず聞きたい
会稽、つまり当時の会稽郡がどこにあったか知っているのか
グーグルなどの東アジア地図の上で確認すれば、会稽郡の東北東に倭(九州)があることがわかるであろう
なおこの文は、邪馬台国の所在にかかることではなく、
倭地の習俗一般の記事中に出てくるので、会稽郡の東に倭地(九州島)は有るといういみである。 >>815
会稽・東冶之東が、会稽の東北東方向の福岡も許容範囲なら
東冶(福州市)の東南東方向も許容範囲にしなければだめだよ
福岡と同緯度の済州島から台湾の南端くらいまでの範囲になるな >>816
そうかもしれんな
この文は、邪馬台国の所在位置を示すものでなく、
倭地(倭人の住むところ)は、会稽・東冶之東・・・、という意味だから、
済州島から台湾まででもおかしくはない で>>801は里数表記までで推定したのがその範囲と言ってるのだから
その範囲からさらに日数表記2カ月分南に拡がっている倭国になる
済州島から南はルソン島北端あたりまでなら
おおむね当っている素晴らしい推定という主張になる >>807
>物証も阿波にはある・・まだまだ調査する余地が九州・畿内よりたくさんある
一度は倭国(阿波)に来てみるといい。 特に吉野川。 岩津の堤防上から下流域・四国山地を眺めることをお勧めします。
なぜ、ここが邪馬台国となり得たのかが分かると思います。 @阿波 倭国は阿波だった、というのなら聞きたいのだが、
そもそも昔から
「阿和、阿倭、@阿倭」などと書かれる習慣があっても良かったようなきがする。
であれば今も、
どこぞの古文献に1つや2つは残っているであろう・・・・、(見つかれば、良い宣伝文句になるぞ) >>817
>そうかもしれんな
つまり、短里などないってことだ
九州説、終了! >>615
>纒向遺跡には搬入土器だけでなく、<
筑紫からの搬入土器はない。はない。
勿論、筑紫への搬出土器も少ない。
>各地の土器型式を纒向遺跡周辺の土で作った土器も時代が下るほど多い。(寺澤)<
それは、纏向は模倣生産をした、という事ではないか。
結局、纏向は元々「市」であったものから、自家生産も始まった、という事を示す。 >>801
>その道里を計るに・・・、つまり(其の道の方角と里数から推定すると)・・・、と書いてある。、
「道里」で一語だよ
道と里に分けて、さらに道を方角の意味にとるのは無理読みの典型
http://www.zdic.net/c/3/29/63022.htm
道里 dàolǐ
[milage] 路程,里程
道里dào lǐ ㄉㄠˋ ㄌㄧˇ
旅程。
方角なんて出てこないだろう?
「路程」や「旅程」は日数で表しても何も問題ない >>820
>「阿和、阿倭、@阿倭」などと書かれる習慣があっても良かったようなきがする。
「古文献」には、「粟(あわ)国」として、ちゃんと記載されていますよ。
元々は、北の邪馬台国勢力=粟国、南の狗奴国勢力=長国だったものが、
和銅6年(713)5月の、“国名・郡名等として好字2字を選べ”との命により“阿波国”と改称した。 @阿波 短里で測定された報告書を長里で解釈したから、九州が実際よりも南北に長く理解されてしまった。
しかし倭が九州のことというのは変わりない。
少なくとも、本州は会稽の東とは言えないから、畿内は倭、邪馬台国ではない。 >>823
>「路程」や「旅程」は日数で表しても何も問題ない
日程は道里ではない。 >>618
(また5chに投稿拒否されたので、書き換え書き直し)
>河内には最初期の前方後円墳がない <
「最初期」という設定が問題。
前方後円墳は、「卑弥呼の冢」以後になり、弥生銀座の那珂八幡などの模倣になるから、
3世紀末以後。
「東征毛人五十五國」の中の一国になり、北河内の交野付近や、長岡や椿井、などに
東征将軍家の墓、と思しき前方後円墳がある。
>大和に古墳を作っていたと考えられる<
大和では、東征将軍家と、出雲系銅鐸祭祀部族や毛人部族との、
共存融和時期(欠史八代)があって、
前方後円墳の建設は、やはり3世紀末以後。 >>619
>畿内第V様式の時点で土器形式の統一がされているのに、<
当然、筑紫での第V様式の伝来模倣。
>どうして別勢力にしたがるんだ?<
それぞれの東征将軍家の事情に拠って、
出雲銅鐸祭祀部族や毛人部族との力関係に違いがあるから。 >>825
>少なくとも、本州は会稽の東とは言えないから、
北部九州も会稽の東とは言えないよ
九州説終了! >>826
>日程は道里ではない。
ちゃんと辞書で確認しなよ
日程も道里の表現だよ
今でも「新幹線の距離」とか「高速で2時間」という表現も、距離を伝えるのに使うだろ?
この「距離を伝えるための表現」全般が、道里だよ >>828
>当然、筑紫での第V様式の伝来模倣。
九州第V様式土器ってあったっけ?(すっとぼけ) >>622
>テンプレ
「弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、
博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和
というルートが推定(次山2009)されている。」<
「推定」と言っているようでは、次山は、明確な論拠を持っていない。
>吉備から来たモノが第V様式圏内でフリーパス つまり大和と河内は一体<
米田が言うように、大和は河内よりもはるかに後進地。
おそらく、東征将軍たちと、出雲銅鐸祭祀部族や毛人との、
婚姻での使用共存期間(欠史八代)があった。 >>825
>短里で測定された報告書
そんなものは存在しないんだって!
短里自体が存在しないんだし! つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 >>624
>淀川水系を通ってたら、東海航路に出るのに
近江と尾張(狗奴国説アリ)を通らなきゃいけないだろ<
狗奴国説は、「南≠東」などに拠って×。 畿内説が、完全に破綻してしまったことが、はっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば、良いのではないのかな、、、 魏志倭人伝に、狗奴国は、熊本城の南にあったことが、明記されてたのではないのかな。。。 >>835
「南≠東」など「会稽東治之東」に拠って、×。 >>836
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 (帯方郡から)南に航海すると、二十日で(北九州市や大分県となった)投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。
(帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、 >>627
>>その「大和川水系に王都を築いた」という弥生後期集落群はどれ?<
>さんざん既出だが 「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
・・・P.6の「図2 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域」を見ておいて <
「南→東」などの嘘つき騙しであった、という事がはっきりしている大和説者の、
寺澤のサイトなど、読む気もないし、暇もない。
テンプレも同じ。
読んで欲しけりゃ、転写するなりしな。 >>837
魏志倭人伝に、狗奴国は、邪馬台国と、互いに相手を攻撃している状態だったことが、明記されてたのではないのかな。。。 倭国の女王の卑弥呼と狗奴国の男王は交わったが、卑弥(弓はミドルネームではないのかな、、)呼がありのまま過ぎたため仲良くできなかった。。。
倭国は載烏越等を派遣して郡に詣でて、(二人の不仲が原因で女王国と狗奴国が)互いに相手を攻撃している状態だと説明した。
塞曹掾史張政等を派遣して、皇帝の意思表示の文書と黄い軍旗を与え、(卑弥呼に)拝謁した。
難升米を利用し、触れを出し、(争っている兵たちに相手を攻撃するのをやめなさいと)告げて諭した。
卑弥呼は、死ぬので、先に、塚と(熊本城からその塚までの)道を100歩分あまり作り、徇葬者として女の奴隷を百人(選び)、(狗奴国の)男王を(倭国王として)立てた。
国中が(男王に)服さなかった、、、、
更にお互いを咎めて殺しあい、当時、千人あまり殺した。
ふたたび(女王として)、卑弥呼の十三歳の娘の壹與を立てて王とした。。。。
国中がついに安定した。
政等はお触れをだして、壹與(が王であること)を告げて、(人々に)諭した。
壹與は倭の大夫である率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣した。
政等が還るのを送らせることで、土台のしっかりした非常に高い建物にも詣いらせた、、、
男女の奴隷三十人を献上し、白い玉を五千孔、青い大きな勾玉を二枚、(織り込まれた)文が雑に異なる錦を二十匹、貢いだ。。。。 >>636
>どっちにしても崇神は4世紀初頭から前半。
まぁこの時点でトヨは決まりで邪馬台国論争は終わりなのだが。<
「トヨ」なんていないし、「南≠東」などに拠って×。 キナイコシは、壹與を、トヨだと誤認したのではないのかな。。。 >>637
>別に駄々っ子一人が納得がいかないと叫んでいても、世の中には何の影響もないからな
「答えになっていない」と思うなら、なぜそう判断するのか、 「具体的に指摘」しなさいな
「具体的な指摘」ができないなら、まともに討論一つできない無能<
大和説学者らは、始めから全員「南→東」の嘘つき騙しをしているんだから、
まともに討論一つ出来ない無能。
>>2世紀末〜3世紀半ば<
>畿内第V様式は1世紀後半〜3世紀初め<
第V様式は、庄内の前であり、
大和では、
石塚での庄内と前方後円墳との共存に拠って、庄内が3世紀末になり、
だから、第V様式も、50〜100年位後になる。
>この時点で土器様式の標準化がなされてるんだから 物証として十分だろ<
「南→東」などの嘘つき騙しである事が分かっているから、
「標準化」とやらをした大和説学者の説は、
物証には全くならない。 石塚での庄内と前方後円墳との共存とは何だろうか。。。 >>848
キナイコシが優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。 僕たちは石塚での庄内と前方後円墳との共存について、酸いも甘いも知りつくしてしまったね。。。 >>641
>>陳寿の「会稽東治之東」に拠って、<
>つまり陳寿は、倭国を半島の南から会稽東治之東までの、南北に長い洲島であると想定している<
これまたインチキね。
魏使らも陳寿も、「倭國」ではなく「女王國」として、「自郡至女王國萬二千餘里」と書き、
不彌國の(直ぐ)南で萬二千余里だ、 という説明をしており、
従って、陳寿は、「女王國がほぼ九州一円だ」と説明しており、
九州は、「会稽東治」の「東〜東北東」の範囲内にあるから、
魏使らも陳寿も「東西南北」を間違っていなかった。
>その南北に長い洲島での移動だから、「南至邪馬壹国」でなければおかしいと
陳寿が考え、そのように記述した蓋然性が高い<
陳寿は、女王國は、九州島内と考えており、
「南至邪馬壹國」も間違っていなかった。 しかし、なぜ、卑弥呼の時代に河内とヤマトが一体でないと畿内説は破綻するのだろうか、 >>650
>いや、前方後円墳がないというより、首長墓がないんだよ
たまに九州説のあおりで纒向は墓地ってのがあるけれど、奈良盆地東の丘陵が
「大和+河内〜環大阪湾の国」の共同墓所だったという想定を、広瀬和雄先生もしている
広瀬先生の分析では、大和・柳本古墳群には4系統程度の一代一墳的に累代の盟主墳が
築造される古墳群が見いだせるそうだ <
広瀬和雄ってのも、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者仲間の×人種のようだな。
だから、始めから価値がないし、根拠にもならない。 魏使の通過した経路は日程と里程の二重で記録を残していることで、優れた考古学者達に打ちのめされ、恥を掻かされたキナイコシが、魏志倭人伝の究明に対して、やる気を失ったのではないのかな。。。 >>833
>短里自体が存在しないんだし!
願望? >>651
>物証は、畿内第V様式の時点での土器形式の標準化<
第V様式自体が、筑紫先行であった可能性が高いし、
大和での「標準化」の絶対年代比定にも、
50〜100年位、古くされた騙しであった可能性が高い。 >>660
大和説者は、
「南→東」などのように史料事実の否定曲解の嘘つき騙しや、 中傷ばかりしてる。
自分の醜さを自覚して、
人生がイヤにならないのだろうか。 >>858
>第V様式自体が、筑紫先行であった可能性が高いし、
おいおい
第V様式って畿内の土器だぞ >>663
>邪馬台国とはヒメ(踏鞴五十鈴)姫やトヨ津姫が住んだ葛城である。<
邪馬台国なんて存在しないし、「南≠東」に拠っても×。 >>666
大和説者は、
嘘つき騙しや中傷しかできないの?。
反論はできないの?。 >>830
>「高速で2時間」という表現も、距離を伝えるのに使うだろ?
高速で2時間、歩いて3分などなど、
いずれも距離を想起はさせるが、あくまで所要の「時間」を伝える表現である。
高速で2時間かかったぞ〜、といっても、
通常10分のところ、渋滞で2時間もかかった〜という使い方もある。時間とは何かを間違って受け取ってるな。 >>670
嘘つき騙しや悪口しか言えない負け犬。
それが大和説者。 >>863
「嘘」とは、どれのこと?
「中傷」とは、どの発言?
九州説さん、具体的に事実を述べて下さい
>>864
でも「歩いて5分の距離」とか、普通に使うでしょ? >>868
そりゃアンタ
現代人の日常的用法、つまり畿内関西人の俗語だよ
時間≠距離、南≠東
そもそも漢字は表意文字だ。
古代のみならず、現代中国でも一字一字には、厳密な意味がこめられている。俗語はイカンよ。 >>868
魏志倭人伝では、距離を時間でしか表現できない倭人を馬鹿にしている。
日程しか載っていない場所は、魏の使いが言っていないところ。
使いが通過したところはおよその距離が記録できるとある。
それは九州北部まで。
そして魏の使いは卑弥呼に会ってその風貌(年増)を記録し、王宮の様子も観察している。 >>866
スレを読み直してください。
数十スレ前のことを忘れる鳥頭? 九州なら会稽のおよそ東(誤差あり)だが、畿内ではどうやっても会稽の東にはならない。 >>692
>プロの長年の研究の成果を「根拠のない妄想」と言える面の皮の厚さがすごいね<
長年の間ずっと「南→東」などの嘘つき騙しをし続けて来た、というプロとやらは、
プロではなく、面の皮が凄く厚い大和説の・・・・詐欺師なんだろうねえ。
>先にも書いたように、古墳時代初期には河内や佐紀には首長墓クラスの盟主墳がないんだよ<
先に書いたように、河内も大和も、前方後円墳の始まりは、3世紀末以後。
>逆に河内の首長はどこに葬られたんだい?<
当然、始めは周溝墓などに葬られ、交野付近に前方後円墳が出現した❓。
>4系統も有力家系があるから、その総体は他地域をしのぐ大勢力になるんだよ
想像にしかならないから強くは主張しないが、魏志倭人伝の「官有伊支馬、次曰彌馬升、
次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮」の4人の官が、4つの盟主墳の系統に対応すると考えると
非常に整合性の高い解釈になる<
「南≠東」に拠って、×。 >>698
邪馬壹國女王之所都論争も、もう、筑紫で決着なのでロマンはありませんが、
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 >>717
>それに対して、大和+河内〜環大阪湾の地域は、一つの邪馬台国なんだよ<
「南≠東」などに拠って、×ね。 >>719
>邪馬台国とは葛城だ。<
「南≠東」などに拠って、×だ。 >>720
>>従来から、倭王朝、倭王権、倭畿内説、倭大和説などと、称されていてしかるべし。<
>だから、古事記では「倭」をヤマトと訓読してるじゃないか
自らの作った史書で自称してるよ <
古事記は、欠史八代の中の四人に、
「大倭」という、倭國の地方の市を監督する称号を唱えた事を記録しているから、
始めから、倭国の中の「一役人」であった、という事を自称していた事になる。 >>732
>筑紫が畿内の土器に替わっているときに<
替わっていなかったらしいの。
結局、筑紫在地の胎土で造られており、
大和からの搬入は殆どなく、
河内や播磨の胎土や土器の(市を介しての)搬入が少しあった、
という事であったらしいの。
>畿内に筑紫の旧土器は持っていかないだろ<
筑紫からから大和への搬入は0であったの。 >>744
>大和川をディスって奈良は邪馬台国ではないという論法のやつは小学校からやり直せ
ヤマト王権の都が奈良に置かれていたことさえ知らないと自白してるようなもの<
「奈良が邪馬台国」だなんて、「南→東」の嘘つき騙しをする男は、
精神科に入院するか?、刑務所に入れて貰って、人生をやり直せ。 >>750
>沖ノ島の報告書、研究論文も読まずに謎だと言う九州説<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者の「報告書や研究論文」は、
どうしても、客観性や信頼性に乏しく、半分×論文。
海峡の「天國≒阿毎國や天孫族の国」の「天の岩屋」や「両屋島」の祭祀島、という古田説の方が、
よく理解出来る。
天孫族の祭祀だから、継体の反乱以後に大和の祭祀が増えた。
姫氏の卑弥呼や倭の五王らは、少し関係が薄かった。 >>881
>替わっていなかったらしいの。
いつも「らしい」とか、ばっかり
イイカゲン情報中毒の九州説みじめ >>760
>魏志倭人伝に「自女王國以北、其戸數道里可得略載」と書いてあって、
投馬国は女王国以北のカテゴリーだから、南になる時点で読み方がおかしいんだよ <
投馬國は、不彌國から連絡するべき側副傍線國、として説明されているから、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」の、不彌國の仲間の国として、
記載に入れられていいんだよ。
何もおかしくない。 距離を日数で表記することで、女王を共立した倭人は里を知らないことを表している
一大率が檢察している女王国以北だけ東夷伝全体の中で詳細に記されていることで
梯儁等の訪倭以前から郡との往来があり、地理情報が郡にあったことが推察される >>889
おかしいね
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」
なんだろ?
どうして投馬国が女王国より南なんだ? >>762
>畿内説で・・・<
畿内なんて存在しない文言を使った時点で、この投稿は×。 >>762
>畿内説で・・・<
畿内なんて存在しない文言を使った時点で、この投稿は×。 >>891
おまいの偏差値○○アタマじゃ理解できんだろうなww
倭人伝読む前に、中国漢字の勉強から始めよ 畿内を消してしまう九州説の発狂状態といったら
異常だよな >>763
>そんなトンデモを知っているならAMSで年代測定はしない<
場の相互作用の理論を知らんから、そんなトンデモをやっていた、んだろ?。
>プラズマ化しただけで放射性壊変が促進されるなら
放射性廃棄物処理に苦労はしない<
これもバカそのもの。
今問題になっているのは、ベータ崩壊の話であり、
全ての放射性物質の話ではないし、
ベータ崩壊でも、僅かな崩壊促進の話なんだよ。 >>894
このように
何も理由を言わず
ただ対話を拒否する
それがコミュ障九州説 >>764
>弥生時代の文字記録をもってこいよ <
室見川の銘盤や、ホウ製鏡の銘文や、「尚方作」鏡。 九州説は個人的な妄想だからな
他人とコミュニケーションをとった瞬間に崩壊するんだよ >>768
>投馬国は宮崎で正解ですよ
宮崎から南に向かって太平洋ルートで阿波か畿内が邪馬台国です<
「南≠東」に拠って×です。 >>898
それが弥生時代の文字記録?
ほんと?
なんて書いてある? >>768
大和説者は、たまには中傷と妄想以外の、史料事実のことを書いたら?。 >>896
世界中で行われているAMS法がトンデモで、
測定した世界の各地の堆積物の年代は間違っていると、
古田民族団体で発表したらいい
発表するときは日本人に成り済ますのだけはやめてもらいたい
プラズマ化しただけでベータ崩壊だけが促進されるというのは根拠がない作り話 >>897
漢字は、一字一字に数千年来の意味・定義がある
とかく日本人は、二漢字を一熟語として読みたがるが、それは現代日本民間人の世俗的用法だ。
倭人伝は漢字一文字ずつ読みこなせ。そうすることで初めて解読可能になる。 >>773
>>投馬国は里程が書いてないから <
>魏志倭人伝の書いてあるのは「其戸數『道里』可得略載」だよ
里数も日数も、『道里』の略載のやり方だよ
里数が書いてないというのは理由にならない <
里数が書いていない、という事は、
魏使らの途中移動記録ではなかった、という事であり、魏使らは通っておらず、
不彌國から出航すべき国だ、と書かれている、という事は、
不彌國に属する国であった、という事であるから、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」の国であった、という事になるんだよ。 >>864
>渋滞で2時間もかかった〜という使い方もある。時間とは何かを間違って受け取ってるな。
自分でも「〜という使い方もある」って書いてるじゃないか?
そういう使い方もあるが、特に距離を測っていない場所の位置関係・遠さを示す表現として
「新幹線で2時間」とか「飛行機の距離」とかの使い方で、今日でも道里を示すのは認めるだろ?
「水行20日」ってのはまさに「新幹線で2時間」と対応する、道里の略載の仕方だよ
つまり、投馬国、邪馬台国は女王国以北の「其戸數道里可得略載」の国であり、
邪馬台国を北部九州に投馬国を宮崎に比定する読み方は、魏志倭人伝の記述に矛盾する >>904
>とかく日本人は、二漢字を一熟語として読みたがるが、それは現代日本民間人の世俗的用法だ。
>倭人伝は漢字一文字ずつ読みこなせ。そうすることで初めて解読可能になる。
例えば、福祉の「祉」の字は、福祉以外の使い道はない
つまり、福祉という二次熟語を作るためだけに存在する状態だ
「漢字一文字ずつ読みこなせ」なんていうのは、「道里の道は方角」は間違い、を
ごまかすための言い逃れ >>904
>とかく日本人は、二漢字を一熟語として読みたがるが、それは現代日本民間人の世俗的用法だ。
>倭人伝は漢字一文字ずつ読みこなせ。そうすることで初めて解読可能になる。
例えば、福祉の「祉」の字は、福祉以外の使い道はない
つまり、福祉という二次熟語を作るためだけに存在する状態だ
「漢字一文字ずつ読みこなせ」なんていうのは、「道里の道は方角」は間違い、を
ごまかすための言い逃れ
対馬国の記述
所居「絶島」、方可四百餘里。「土地」山險、多深林、「道路」如禽鹿徑。
の「絶島」「土地」「道路」を熟語として読まなかったらどうなるんだ?
「道里」も熟語だよ >>905
投馬国は、
不彌國から南へ行けば至る。○○からは所要日数20日の国だ、と書かれている、
邪馬台国女王の都する所は、
不彌国から南へ行けば至る。○○からは所要日数水行10日・陸行10日の国である。
(なお)帯方郡から女王国までは1万2千里である、と書かれている。
両国の記載方法はよく似ているが、投馬国に関しては里数の記載がない。
里程・道程ではないぞ。
里数を示す「数字がない・・・」、ということだ。この違いが分かるかな、な、な。 >>905
投馬国は、
不彌國から南へ行けば至る。○○からは所要日数20日の国だ、と書かれている、
邪馬台国女王の都する所は、
不彌国から南へ行けば至る。○○からは所要日数水行10日・陸行10日の国である。
(なお)帯方郡から女王国までは1万2千里である、と書かれている。
両国の記載方法はよく似ているが、投馬国に関しては里数の記載がない。
里程・道程ではないぞ。
里数を示す「数字がない・・・」、ということだ。この違いが分かるかな、な、な。 >>906
>邪馬台国を北部九州に投馬国を宮崎に比定する読み方は、魏志倭人伝の記述に矛盾する
邪馬台国より先に投馬国が書かれているというだけだろ。
タメを持ってもったいつけた修辞法かもしれない。 「水行十日陸行一月」は邪馬臺國まで
「萬二千餘里」は女王國まで
女王國は旁國を列記した後に書いている
書いている箇所が全然違う >>909
>投馬国は、
>。○○からは所要日数20日の国だ、と書かれている
この「不彌國から南へ行けば至る。○○からは所要日数20日の国」の部分が
道里略載の部分だろ?
これが書いてあるのは、自女王国以北の国
ぐだぐだ言っても変わらない
それから「不彌國から南へ行けば至る」のに「○○からは所要日数20日」の○○が
「不彌國」じゃなかったらおかしいだろうが? 違うだろうけど、行程でタメを持ってもったいつけている例をあげて論考しないと
テキトーに言っちゃダメだよ
どんな読み方でもできるようになってしまうw >>907
>例えば、福祉の「祉」の字は、福祉以外の使い道はない
おまいの云うことは信用できぬ
し【祉】の意味
[常用漢字] [音]シ(慣)
神の恵み。さいわい。「福祉」
[名のり]とみ・よし
祉 の前後の言葉
姉
枝
祀
祉
肢
咫
姿 >>910
>両国の記載方法はよく似ているが、投馬国に関しては里数の記載がない。
>里程・道程ではないぞ。
>里数を示す「数字がない・・・」、ということだ。この違いが分かるかな、な、な。
この部分に関しては、邪馬台国と女王国を区別しないというごまかしをしている
「南至『邪馬壹國』、女王之所都、水行十日、陸行一月」は、邪馬台国への道里
「自郡至『女王國』萬二千餘里」は、女王国≒倭国の大体の位置表示
青森から「札幌」まで電車で5時間
東京から「北海道」まで900キロ
この二つをごっちゃにしたらダメだろう? >>911
>邪馬台国より先に投馬国が書かれているというだけだろ。
それだけじゃなくて、其戸數道里可得略載とあるとおりに、
戸数「可五萬餘戸」と道里「南至・・水行二十日」が略載されているから
自女王國以北になるって話
魏志倭人伝の国の配置も「陳寿の認識」で、北から南へと配置されてるしね >>916
漢字の読みの順番と漢字の意味に何か関係があるのか?
さらに、「熟語限定でしか使わない漢字」、つまり、「熟語で使いたい漢字」があることと
漢字の読みの順番に何か関係があるのか?
福祉の祉や、皮膚の膚は、それぞれ、福、皮と意味が重なる「なくてもよい字」を、
「二次熟語にするために使う文字」なんだよ
「漢字は一字ずつ解釈するのが正しい」などというのは、
知識の浅い人間のいう戯れ言だと分かったか >>916
その〔祉の前後の言葉〕ってのは、goo辞書での「シ」の読みの語だろ?
祉と関係ない
中国の辞書で中国での用例を使おうよ >>914
>これが書いてあるのは、自女王国以北の国
ここが、我々の意識と違うところなんだよ。 わじんはたいほうとうなんたいかいのなかにあり
たいほうとうなん部はたいかいに面してた(ワイ族の居住区やん(じじいどもええかげん気づけ 「王行、度道里、会遇之礼畢還、不過三十日。
三十日不還、則請立太子為王、以絶秦望。」史記 >>871
賛成!
卑弥呼さんの伊都には魏使が来たけど壱与ちゃん告諭後は邪馬壱で都を開いたので魏使が来れんよなった(解決 いつも、全く理由を言わないのが九州説
つまり九州説はトンデモ説 >>933
そうだね
佐賀平野不彌国の南方約180qのところに有り、
海に面して田畑も広く、巨大古墳群が控えており、名前もばっちり、
投馬国は、宮崎県西都市都万(つま)で決まりだ >>917
>この部分に関しては、邪馬台国と女王国を区別しないというごまかしをしている
おまいの浅知恵だな
邪馬台国=女王国だ
「共立女王の倭国」を意味するときは、シンプルに「女王」という語が用いられている
その例;・・・、次有奴国、此女王境界所盡。 ←共立倭国の境界尽きるところの意味だ ちんじゅくんは日本列島が北東方向に伸びてること知ってたな
沿海州に進軍した人だれやった?ぐぐるの面倒 九州説では投馬国を女王の都より南にしなくてはならない
苦しいねー 近畿の川
紀の川 流路延長136q、流域面積1,750km
加古川 流路延長96km、流域面積1,730km
淀川水 流路延長75km、流域面積8,240km2
文明はその土地土地の大河
大和川水系 流路延長68km、流域面積1,070km2
大和川はしょぼすぎる >>917
さらに、もう一例
其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。←狗奴国の男子王は女王(共立倭国)に属さず 邪馬台国は沖縄与那国にあったが大地震で邪馬台国は海に沈み大量難民が発生→九州に漂着
その漂着民(倭人)が新しく女王の国邪馬台国を作った
その最大の拠点が福岡糸島~佐賀の間。 >>941
そんなしょぼい大和川の流域にヤマト王権の宮が築かれた
これは歴史的事実
こんな初歩的なことさえ知らないなら小学校からやり直そう 大河の氾濫原は河川工事をしてない時代は
日本では被害が甚大だからな たいほうのボスした人や?
東沃沮のじいちゃんの話聞いた人
耆老言國人嘗乘船捕魚遭風見吹數十日東得一島
上有人言語不相曉其俗常以七月取童女沈うんたらかんたら
有一人項中復有面生得之與語不相通不食而死其域皆在沃沮東大海中 ちんじゅは日本列島が大海の東に伸びてること薄々気付いてるな?(じじいどもええ加減ウンコみたい話やめれ 有一人項中復有面
こんなんは刺青以外考えられんやろ? >>921
>ここが、我々の意識と違うところなんだよ。
意識って何だよ?ww
何を考えてもいいけどさ、それに意味があると主張したいのなら、
内容と根拠を「具体的に」説明してごらんよ >>938
>おまいの浅知恵だな
>邪馬台国=女王国だ
そうじゃないんだよ わりに女王、女王国は、いい加減に多義的に使われている
1伊都国の王が「皆統屬女王國」
2「南至邪馬壹國 女王之所都」
3「自女王國以北其戸数道里可得略載」
4「次有奴國此女王境界所盡」
5「其南有狗奴國(中略)不屬女王」
6「自郡至女王國萬二千餘里」
7「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
8「傳送文書賜遣之物詣女王」
9「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
10「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」
11「倭女王遣大夫難升米等」
12「其年十二月詔書報倭女王曰」
13「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」
2と8、11,12,13の女王は、「卑弥呼という人物」を指す
1と5は伊都国と狗奴国について、女王に従うかどうかを示した文章で、ほぼ同じ文型を取っているけれど、属の目的語が「女王」と「女王国」になっている
5の「女王」は卑弥呼個人に属する(さない)というのは意味がないから、事実上「女王国」だろう
9と10も同様に、10の「女王」を去ること四千餘里も「女王国」でいい
結局女王国というのは、倭国の中で卑弥呼の都する国・邪馬台国に「属」する国の範囲をいうのだろう つまり「女王国」≠「倭国」
さらに言えば、「女王国(伊都国、邪馬台国を含む)」+狗奴国+α=「倭国」
ただ、属する、というのが、帰属、所属くらいの意味なのか、隷属を意味するのかは明記されていないが、共立である以上は、支配関係ではなく、帰属・所属だろう
2,7は「自女王國以北」が共通していて「自(より)」で起点を示しているので、この起点となる「女王国」が広範囲だと、文意が取りづらくなる(取れないとまでは言わない)
この二つは「女王国」=女王がいる国=女王が都する国・邪馬台国と読むのが素直だ
女王国(女王)という表現は、邪馬台国を指す場合と卑弥呼を共立した倭國を指す場合と両方ある >>768
「南→東」などの大和説学者や大和説考古学者の嘘つき騙し論文を、
妄想連呼宣伝してるヒマがあったら、
文献考古の史料事実や自然科学資料事実を読み返せよ。 >>958
それは珍説を狂信者が勝手に事実と呼んでいるだけ 東京から北海道までの最短距離だと 640キロ弱
玄関口の函館までだと 680キロ弱
中心都市(道都)の札幌までだと 830キロ
最遠の稚内だと 1100キロ
道央の真ん中辺までで 900キロ
東京から北海道までの距離は、640キロから1100キロまでの幅がある
これを100キロ単位の丸めた数字で表現すると
東京から北海道まで900キロくらい となる
起点・東京より、北海道に至るに900余粁
自郡至女王國萬二千餘里
自東京至北海道九百餘粁
九州説が虎の子のように大事にしている萬二千里は、この程度のざっくりした数字
萬二千里は、倭国の中の邪馬台国までの距離を指す数字じゃないよ
北海道の中の札幌までの距離が、900キロという数字では分からないのと同じ >>793
>倭の邪馬台=ヤマトだろ? 何か問題あるか?<
「邪馬台」なんて存在しないし、倭國の中心は、正北抵新羅に拠って九州であり、
問題大有りだ。
>それでも一致すると主張するのなら、
>畿内説では、中部から九州までの範囲が倭国だよ <
畿内なんて存在しないし、
「東渡海千餘里復有國」は「皆倭種」であるから、倭国の本体だ、とは言っていないし、
「倭種」は「別種」や「倭の近縁国」などを意図する文言であり、
倭國の中心は、正北抵新羅に拠って九州だ。
>>戸数・道里・行程日数から見て、極めて不自然である、というよりありえない設定である。<
>自分であり得ない想定をしてあり得ないっていってもしょうがないだろうに<
「道里」は、原則は「里」である。 >>957
長文乙であります
ただし!女王の殆どは壱与ちゃん
ちゅん文に時制なし
特記なきときは執筆中の現在時制 >>798
>女王之所都までさらに2ヶ月も進んでいるのだから<
進んでいない。
不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わっており、
「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の 「水行十日陸行一月」は、
その直前の「女王之所都」の説明文言であるから、郡〜女王之所都の所要日数であり、
投馬國は、途中移動の説明語がないから、
魏使らは行っておらず、側副傍線國説明であり、
「水行二十日」は、倭人からの伝聞の所要日数だ。
>計其道里に日数は必要だよ<
不彌國で萬二千余里が終わっているから、必要がない。 >>800
>倭人の船だと水行で通過しても里数はわからない <
倭人の船であっても、
魏使らは水行里数も日数も計測記録出来るが、
倭人は、里を知らないから、日数が数えられる。
>九州北部までの日数は書いてない<
「女王之所都、水行十日陸行一月「」と一括して記載してある。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1532851525/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>802
>里数の南北成分だけで会稽・東冶之東なら根本的に地理感覚が間違っている<
根本的に、陳寿の説明の史料事実は、「計其道里、當在會稽東治之東」であって、
「東冶」ではなく、
お前ら大和説者や范曄の捏造解釈であり、
お前らの、詐術や史料事実の改竄の、犯罪性を示すものである。 >>805
>短里で測定された報告書ってどこにある?<
陳寿が紹介した魏使らの記録にある。 >>806
>少なくとも漢や魏の役人は書かないな<
漢代の記録では、長里も短里もあるが、
魏の役人の記録では、
漢代記録や蜀や呉の記録や引用文や上表文を除いて、
ほぼ全て短里で統一記録されている。 >>807
>行程と物証・期待度から阿波に傾きつつある・・<
根本的に「南≠東」などに拠って、阿波は×であり、
倭國の「東征毛人五十五國」の中の一国でしかない。 >>749
>応神元年390年で平均在位を計算するのに、何代が良いのか言ってくれ、そして計算して提示してくれ。
応神元年390年に根拠がない
日本書紀では、雄略(允恭・安康)以降は元嘉暦、允恭・安康以前は儀鳳暦で書かれている
儀鳳暦は、持統天皇の時代に大陸から伝えられた新しい暦で、日本書紀が編まれた時代は
儀鳳暦が使われていた
それなのに、允恭・安康以前は儀鳳暦で書かれているということは、実際に暦が記録として
残されていたのは雄略以降で、それ以前は暦の記録がなく、日本書紀編纂時の暦・儀鳳暦で
「新たに計算して記した」ものであるのが明らか
何代分を使ったらよいか、以前に允恭・安康以前の記録は「実年数」としてはあてにならない
その辺考えもせずに、古い数字をコピペしているから意味がないって言ってるんだよ >>759
>各豪族との対比は家に帰ってから出す。
待ってるんだけど、まだかな? >>814
>会稽の東北東方向というのはどこに書いてある?<
「計其道里、當在會稽東治之東」という文を書いた、陳寿の、
「其の道里から計った當在という推定位置」の記載に書いてある事になる。 >>816
>会稽・東冶之東が、会稽の東北東方向の福岡も許容範囲なら
東冶(福州市)の東南東方向も許容範囲にしなければだめだよ <
「東冶」は、高慢な「自己解釈に拠る前史の書き換え」を実行した5世紀の范曄の、
「東治→東冶」の捏造の文言であるから、
史料論拠には出来ず、
×だよ。 >>816
>そうかもしれんな この文は、邪馬台国の所在位置を示すものでなく、
倭地(倭人の住むところ)は、会稽・東冶之東・・・、という意味だから、
済州島から台湾まででもおかしくはない<
これも×であり、インチキね。
陳寿は、「計其道里當在會稽東治之東」と書いており、
「東冶」ではなく「東治」であり、
また「其道里」は、当然「自郡至女王國萬二千餘里」の里説明を受けているから、
「 倭地(倭人の住むところ)」ではなく、はっきり「女王國」と指定しており、
九州付近にしかならず、
「済州島から台湾まで」なんて事には全くならないし、
勿論、萬二千余里を長里と解釈して赤道付近とする事や、
九州から更に東へ(長里で)萬里で)近く行って大和を想定する事なども、
全く×である。 >>979
>高慢な「自己解釈に拠る前史の書き換え」を実行した5世紀の范曄
范曄は、『後漢書』(西晋の華嶠、『漢後書』とも)を参照して書いてるから、
三国志とほぼ典拠史料の年代は変わらないよ
ザラコクさんは、後漢書の記述が都合が悪いから、ひたすら貶めようとするけれど、
後漢書の方が三国志より良史だとする評価が高い >>980
>陳寿は、「計其道里當在會稽東治之東」と書いており、
そう
だから「會稽東治之東」にならない九州説はダメだよ >>982
九州説は「會稽東治之東」になっているだろ
なにゆえ、ならないというのかね、 >>636
あーかもせんせの素敵なレス見逃してた
世代交代11年はそんなもんやね?
高床はアガタガス?(固有名詞うろおぼえ >>983
ウソついても駄目
会稽は屋久島あたり
九州説は死亡済み アガタガスは検索ヒットせんな
かもせんせがいうてはった最後の大物ぬし? しんすれ含めて高級焼酎10かいは吹き出した(じじいども弁償せー >>986
ほうほう、
会稽東治の東を認めるというのだな。語るに落ちたかww >>989
>会稽東治の東を認めるというのだな。
>>986に書いてあるのは
「会稽は屋久島あたり 」
「東治の東」なんて書いてないよw >>991
ほうほう
会稽東治の件は、故事にちなむ記述だからな
念には念を入れて、「会稽東治の東」を認めるというわけか、、、 卑弥呼の墓は墳ではなかった。。
尖がり帽子みたいな「塚」だったのだからな。
それがみたけりゃ、阿蘇高千穂神社の本殿ご神体山をよ〜く観察せよ。ここが卑弥呼の塚墓だ。。 >>818
>で>>801は里数表記までで推定したのがその範囲と言ってるのだから
その範囲からさらに日数表記2カ月分南に拡がっている倭国になる
済州島から南はルソン島北端あたりまでなら
おおむね当っている素晴らしい推定という主張になる<
「計其道里、當在會稽東冶東」は、文字通りに「道里」の里数計算であり、
郡からの折れ線的道のり里数は、不彌國で「自郡至女王國萬二千餘里」がほぼ終わっており、
だから、「倭國」ではなく「女王國」への里数を言っており、
「日数表記2カ月分南」へは行かず、
九州内で収まっており、
「済州島から南はルソン島北端あたりまで」にはならない。 反日民族団体は朝鮮と一番近いところに比定は決まってるからな 故事にちなむなら會稽之東でいい
大陸側はピンポイントで、東は済州島まで許容範囲というのはご都合解釈
中国では會稽、東冶之東に訂正しているから
会稽の南側の地域名だな >>995
それ、ぜんぜん「會稽東冶東」にならないじゃないか
九州説はダメだな >>821
幾ら「東冶」と曲解捏造しても、
長里での「自郡至女王國萬二千餘里」では、赤道付近に行ってしまって、
×になってしまう。
つまり、長里などないってことだ。
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