邪馬台国沖縄(琉球)説 Part1
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年中生野菜を食べられる温暖な気候、
入れ墨やシャマニズムなどの文化習俗、
記録された距離、方向から想定される位置から考えて、
邪馬台国は沖縄に比定するのが妥当である。
邪馬台国の7つの国を統率した女王の墓域は北谷海底遺跡だった。
狗奴国はテイ[魚是]人が居住する先島諸島の21カ国の最果てにある与那国(海底遺跡)だろう。
侏儒国は小笠原諸島、
裸国、黒歯国はサイパン、グアムと推定される。
沖縄の邪馬台国はその後、地球のプレート活動により水没したが、
度重なる自然災害に危機感わ覚え始めていた邪馬台国はそれに先立って、
豊富な鉄器を持って九州・日向(宮崎)に侵攻して新王朝を建設したものと推測される。 邪馬台国は沖縄だった!―卑弥呼と海底遺跡の謎を解く
木村 政昭 (著) 出版社: 第三文明社(2010/5/1)
https://www.amazon.co.jp/dp/4476033059
沖縄海底遺跡の謎―世界最古の巨石文明か!?
木村 政昭 (著) 出版社: 第三文明社(2000/07)
https://www.amazon.co.jp/dp/447603229X >>5
邪馬台国は中国使節を自船に乗せ替えて自国までの正確な距離を把握させないようにし、
自国までの距離と自国のスケールを過大に認識させようとする偽装を行い、
侵略される危険回避を図っている 諸説あり!
#47「沖縄海底遺跡の謎」
2018年06月02日放送
http://
www.bs-tbs.co.jp/culture/shosetsuari/episode/?mid=shosetsuari
https://
m.facebook.com/story.php?story_fbid=1030726260423957&id=799218780241374
https://
twitter.com/shosetsuari_bs/status/1001330383311388672
ゲスト:小田静夫(考古学者)
今回のテーマは「沖縄海底地形の謎」。
▽人によって作られた!階段にテラスにアーチ門!海に沈んだ古代遺跡説
▽稀有な地形は波とウニの仕業?自然の産物説
▽魏志倭人伝を読み解く!邪馬台国は沖縄にあった?
2018年06月06日
与那国島付近の謎遺跡
https://blog.goo.ne.jp/taitouku19/e/29909aed23a2a0bacdcfc5fcb95d6e8a
諸説あり!沖縄海底地形の謎
https://
www.youtube.com/watch?v=xYt_-OOXeg4 ♪邪馬台国ドンと来い!♪138
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1529860126/261-265
邪馬台国畿内説 Part362
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1531681507/381,425,435,459,461,511,677,507,675,688,729,772
http://log●soku.com/r/history/1531681507/381,425,435,459,461,511,677,507,675,688,729,772
邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1331559630/540-545
邪馬台国 畿内説九州説VS他説 [無断転載禁止]©2ch.net
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1458724084/477-485,487,490,491 琉球だったら琉球でいいんだけど、じゃあ九州や奈良にあるあの例の
膨大な遺跡群はいったい何なんだよという根本的な話しがな。まあ
琉球なら、じゃーん実は琉球でしたーでおしまいなんだけどさ。 >>17
別物でしょ
スサノオの前には出雲には大国主命が繁栄してたし、
神武の前には大和には饒速日がれっきと存在してる
倭の五王は東へ西へと侵攻し交戦してる
そこには先住部族が集落や国を形成していた
他は無人の荒れ地だったと考える方が不自然だ >>11
2016年07月08日
黒潮に乗って流れてゆくとその先に「奇跡の島」があるのをご存知でしょうか?
〜「池内博之の漂流アドベンチャー 黒潮に乗って奇跡の島へ」〜 BY 大野了
https://www.nhk.or.jp/bs-blog/2000/248418.html
池内博之の漂流アドベンチャー 黒潮に乗って奇跡の島へ地域: 秋田 ステレオ字幕放送再放送
チャンネル [BSプレミアム]
2017年8月19日(土) 午後6:00〜午後7:30(90分)
https://hh.pid.nhk.or.jp/pidh07/ProgramIntro/Show.do?pkey=601-20170819-13-12288
2016年07月26日
“池内博之の 漂流アドベンチャー”を見て熱くなった人おいで。
http://michikusa-kuimasenka.com/archives/63864034.html
鳥島 (八丈支庁)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B3%B6_(%E5%85%AB%E4%B8%88%E6%94%AF%E5%BA%81) 2017.04.22
NHK BSプレミアム「池内博之の漂流アドベンチャー2 黒潮のその先に 南島奇談」放送決定!!
http://www.lespros.co.jp/news/detail/12274
池内博之の漂流アドベンチャー2「黒潮のその先へ 南島奇談」
チャンネル [BSプレミアム]
2018年1月27日(土) 午後6:00〜午後7:30(90分)
https://hh.pid.nhk.or.jp/pidh07/ProgramIntro/Show.do?pkey=502-20180127-10-14058 琉球だと、七萬余戸が入る場所がないからな
あと、陸行一月もきついし >>11
2018/08/06
【人類学】フローレス原人は現代の島民の祖先か?インドネシアの小さな島民のDNAを分析 最新研究[08/06]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1533558834/ >>23
>陸行1月は日本のどこでも無理。
隋書で東西5ヶ月南北3ヶ月って書いてあるから、大丈夫じゃない?
其國境東西五月行南北三月行
水行か陸行かは書いてないけど 入墨の風習があるだの漁労がさかんだの、琉球とおもわせる記述自体はあるんだよな。
べつに琉球でしたでほんと構わないとはおもうんだよ。地政学的にもそのあたりになるんだし。
日本のおおくの部族のなかから、たまたま琉球の連中が九州経由、朝鮮経由で北魏に行った。
それで何も不思議はない。むしろ奈良の強大な権力がわざわざ北魏に出かけて権威を承認
してもらわなければいけない必然性がない。 >>26
>むしろ奈良の強大な権力がわざわざ北魏に出かけて権威を承認
>してもらわなければいけない必然性がない。
鏡その他が欲しかったんじゃないの? 一年通じて生野菜と言うんだから沖縄で決まりなんだよ
でも江戸時代から近畿か九州かと論争してきて実わ沖縄でしたではたまったものではないという心理的な抵抗が生じるのだろう
ゆえに沖縄など無視しようとなる
既成の認識では邪馬台国が直線的に大和になったという発想になってるから、
てんで離れた沖縄に邪馬台国など許せないという気持ちもあろう >>19
2016/07/19
「漂流アドベンチャー」と「漂流の島」
http://ikoma.cocolog-nifty.com/moritoinaka/2016/07/post-f450.htm
漂流の島: 江戸時代の鳥島漂流民たちを追う
高橋 大輔 (著) 出版社: 草思社 (2016/5/19)
https://www.amazon.co.jp/dp/4794222025
2018-01-18
「池内博之漂流アドベンチャー2」再放送&3の中止
https://blog.goo.ne.jp/n_kagetora/e/ee41a5db674d6a34095025141b6ff6b1
※残念なお知らせ
今年GWに撮影予定されていた「池内博之 漂流アドベンチャー3 カムチャッカ編」が中止になりました。
宍戸開 俳優 2018/6/25
https://instagrammernews.com/detail/1809578473918113767
同じNHKだけど、異なる番組で #池内博之 くんが小笠原に来てました!更に同じ宿パットインに宿泊という偶然!
しかし乍ら彼は一泊だけして父島から千キロ離れた南鳥島までヨットで漂流の旅に出掛けて行きましたとさ!
「無事を祈る』とフロントにメッセージを託して置きました!あいつ読んだかな!? >>28
>一年通じて生野菜と言うんだから沖縄で決まりなんだよ
生野菜に関してだが、江戸時代は平均気温が低いとされていた時代ではあるが、
多くのものが生で食べられている事が、「料理物語」に記されている。
この本の料理は、料理名などから近畿〜東海〜関東地方の料理が書かれていると
推測できるようだ。
生野菜で沖縄に限るというのは無理のようだよ。 >>30
多くのものが多くの時期にくらいであって、年中というわけではないだろ?
皆はだしというのも、高位の者に限っては冬には何か履いてたはず、温暖な沖縄でもない限り
持ってる物は海南島と同じというのだから、似たような気候のはず
真珠を産出するというのもある
青玉が翡翠だとして、それは熊本八代産を交易で得ていたと説明できなくもない
倭国の東海上に倭種国があるとする。少なくとも畿内は消える。
その南海に国ありなら、北部九州も消える
記述からして、倭国は大海に連なる島嶼連邦国のように受け取れる
まさに南西諸島そのものだ
> 風俗・習慣産物等は、?耳・朱崖と同じである。
> 倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。皆はだし。
> 真珠、青玉を産出する。
> 女王国の東、海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種である。ま
> た侏儒国がその南にある。人のたけ三、四尺、女王を去ること四千余里。
> また裸国、黒歯国がその東南にある。船で一年がかりでつくことができる。
> 倭の地を参問するに、海中州島の上に遠くはなれて存在し、あるいは絶え
> あるいは連なり、一周五千余里ばかりである。
http://www2.plala.or.jp/cygnus/s6.html
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm 大事なことはそこで[イ・]耳・朱崖(=海南島)の地名を持ち出した点だ
あえて出してるからには海南島との酷似を意識している
気象や風土・風俗がまるで同じだと感じたからに相違ない
海南島を持ち出して語れば即座に邪馬台国の情景を理解できるのである
日本にあるそのような土地とは沖縄に他ならない >>33
>あえて出してるからには海南島との酷似を意識している
逆なんだよ
倭人というのが、百越の一派という認識が中国側にあって、
それで倭人を勝手に「儋耳朱崖」の近く認定してるんだよ > 倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである。
これを読んでなぜ畿内や九州になるのか?
どう考えても南西諸島ですわ 物は移動できるが気象は移動できない
何を産出してるからそれはここだとは言えないが、
こういう気候であるならここだと言ってよい
遺物から場所を特定するより、気象で特定する方が確実だ >>35
>これを読んでなぜ畿内や九州になるのか?
>どう考えても南西諸島ですわ
古代中国人の能力を買いかぶりすぎ
基本大陸の王朝で、海に出るのを避ける民族
海の上の距離がまともに測れなくて、一日の移動距離を一律千里とするような記録しかない
そして、その記録の上で、朝鮮半島の南端(南東端)まで7千里使って
さらに対馬海峡を島伝いで渡るのに3千里使ってしまっている
残り2千里なら、畿内で相応だろう
ちなみに、周旋は回ったり戻ったりしないワンウエイだよ
七千里プラス周旋五千里で、萬二千里という単純計算
もとより実測値ではないがね NHK総合1
“美ら海”ドローン大航海〜沖縄・八重山諸島〜
2018年8月8日(水)19:30〜20:30
http://www4.nhk.or.jp/P4551/
番組内容
沖縄県・八重山諸島の石垣島の北端から日本最西端の与那国島までを、海洋冒険家の八幡暁がシーカヤックで渡る。
その様子をドローンカメラで撮影、圧倒的な映像美で描く。
上空から見ると幾何学模様のサンゴ礁が美しい石垣島、深いジャングルの奥に巨大な滝を秘する西表島、
海人(うみんちゅ)が伝統漁を守り続ける小浜島、断崖絶壁の孤島・与那国島……。
美ら海の魅力に空・海面・海中から迫る!
出演者
出演
海洋冒険家…八幡暁,
語り
黒島結菜 中国の使節は邪馬台国で一年を過ごしたわけじゃない
ある特定の一時期にすぎない
なのになぜ夏も冬も生野菜を食すると解せるのか?
倭人から聞いたのかも知れないが、
それは温暖という気候情報とセットにして語られてるのだから、
使節側での判断であり推測と感じる方が自然だ
そうすると来倭の時期がいずれであれ、
その時期の気温や自然、風土から察して冬も温暖であり、
ゆえに冬でも生野菜だと推測できたのだろう
皆裸足だという記述もまた同じである
冬も裸足で生野菜食の温暖な気候、
それは海南島と共通する南方島嶼の気象そのもの、
すなわち沖縄の気候を意味しているのである >>39
>中国の使節は邪馬台国で一年を過ごしたわけじゃない
対馬海峡を渡るのに、天候の安定した夏に渡ったんじゃないかって人は多いよ
行きも帰りも夏なら、一年は倭国にいることになる
まあ、人によっては、248年に来た張政が、266年の晋への朝貢まで18年
倭国にいたって考えてたりするけれど 一年以上滞在したのなら、季節ごとに食事や服装、仕事(農業・漁業)や風習や風俗、文化の差違に関して叙述したはずだ
それがないのは季節の違いが小さいから、
つまり一年を通じて温暖だからだ 魏志倭人伝の記述者は、実際には倭国を訪問してないというのが実情のはず
記述はあくまで伝聞にすぎないと理解してたが。 少なくとも冬に郡使は伊都にいて生野菜を食べたんだよ。
何を食べたんだろうね? 古代で生食できる植物なんてあったのかね。「生菜」は地面に生えてる艸(くさ)という
解釈のほうがただしいんじゃないのか。漬物とかは理論的には「なま」で、ダイコンは
弥生時代には日本に来てるみたいだから、そういうたぐいの漬物の可能性はあるけれ
ども。 べつにageではないだろ。会稽の東にあると明記されてるのに北九州だの奈良だの
言われてるのはあきらかにおかしーんじゃないかという在野のゴロツキどものため息の
ごみすて場所であって >>45 現代の視点で過去を計るなばかたれ。古代にレタスやキャベツがあったのかよ。 でも、逆に言うと「所有無與儋耳朱崖同」と「計其道里當在會稽東冶之東」以外には
沖縄だっていう理由なくね?
陸行一月もきついし、七萬余戸も無理 白菜は明治以降に日本に来てるので多分違う。なんらかの地場産の
野草は食用にしていたのは確実だけれども、なまで食べると言うのは
江戸時代ですら無かったのだから、漬物なり乾物なりとおもうんだがな。 短里と長里がごちゃまぜになって帯方郡からの南行を過大評価したっぽいな。
やはり邪馬台国は九州で落ち着くだろう。 >>52
>短里と長里がごちゃまぜになって帯方郡からの南行を過大評価したっぽいな。
「當」在會稽東冶之東で、「まさに」と書いてあるから、倭国が
會稽東冶之東にあるという知識が、その道里を計る前から存在してるんだよ
で。距離を計算してみてもやっぱり(=まさに)會稽東冶之東だった、という認識 >>30
温暖だから冬も夏もと言う場合に、
冬も食べることは可能であるとの意味にはならない
冬も夏と同じように、同じレベルで食べられる、同じように収穫できるのだと述べている
江戸時代を見た外国人は、
例え冬に生野菜を食べてたとしても、
そのようにはまず書かない
冬に収穫される野菜が限定されてるのだから、それはあくまで稀な事例、
例外的な事実でしかなく無視されるべきことだ 沖縄説もあってもいいけれど、
さっきからだんだん、無理筋のトンデモに向かってるぞ >>50
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至 黒潮に乗れば東に室戸岬なり房総なり本州のどこかにたどり着く
四国や武蔵野平野はまだ閑散としてたろうそれも倭種だ
南方に出れば伊豆諸島、小笠原諸島がある
そのはるか南方にも有人島があるとの知見は、
漁中島民の漂流体験から不確かな情報として共有されてたはずだ
なにしろ縄文人ですら太平洋をまたいだ推論すらあるのだから
こうした推測は史書の記述の説明になる
だが九州や大和では無理である
なぜ帯方郡から対馬を経ての頭からの行程を事細かに検証しながら、
尻の部分の記述は一切が無視されてしまってるのだろうか?
あまりに整合性がとれない事実は、
人は無視し去ることに平穏を求めてしまいがちでそれは日常にもよくあることだ。「これは夢に違いない」
だが前提に置かれた認識の方こそを捨て去るならば、整合性の取れる別の解釈が浮上するものである
必要なことは固定観念に囚われず、
新しい考えを受け入れる勇気を持つことである
だが往々にして最も得難いものがその勇気なのだ >>57
まさか、侏儒國、裸國、黒齒國が、実在の国だとか思ってないだろうな?
山海経や、淮南子に載ってる、伝説の国だぞ? >>51
豆とかじゃね?
トマトやきゅうり的なものが当時に別種であるならそれなんだろうが >>59
伝説だろうが何だろうが、
邪馬台国の東方、さらに東南海の地理的認識が示されてる
すなわち邪馬台国は絶海中にある島嶼国で、はるか遠くにまだいくつもの島国があると
その島々を何に紐付けるかで不確かな記述が紛れ込むこともあろう 史書が違えば倭国もまた不確かな伝聞から想像された「伝説の国」にすぎない
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1290130003/161
http://www.geocities.jp/kanreisai/nikki.19.7.3.htm
「女人国」はもともとチュウゴクの記録に現れてくる国ですが、この女人国には二つあります。?東女国と?西女国
と区別されます。まずは、?の東海海中にある女人国(これが女護が島伝説の元となった)からその記録をひも
ときますと、最初の記録とされますのが、後漢書・東夷伝中の
(北沃沮(朝鮮半島北方あたりを指すようである)の)海中有女国、無男人。或伝其国有神井?之輙生子云。
海中に女国あり、男人なし。あるいは伝えて、その国に神井あり、これを?(うかが)うにすなわち子を生じると云う。
その先の海の中に「女国」がある。ここには男のニンゲンはいません。ある伝説に、その国には神聖なる井戸があり、
この井戸を覗き込むと、女たちはこれに感じてコドモを身ごもるのである、という。
ギッチラ波越え卑弥呼の文来(239)る
で有名な、魏志・東夷伝にも、
チュウゴクからの使者が(北沃沮の)老人に、
海東復有人不。
海東にまた人有りやいなや。
この海の向こうにもニンゲンは住んでいるのか。
老人、これに続けまして、また言う、
有一国亦在海中純女無男。
一国あり、また海中に在りて純女にして男無し。
「もう一国あったそうでございます。これも海の中にあり、女だらけでございまして、男はいないのだそうで
ございまする。」
このころのまでですと、卑弥呼さまが支配する倭の国々の情報がどこかでひね曲がって伝わったのではないか、
という仮説も成り立ちますが、これ以後の記録からも女人国の情報は消えることがありません。 >>61
>東南海の地理的認識
>>61自身が書いているように、大陸中華の地理的「認識」が書かれているだけなんだよ
現実の地理と一致している訳でもない https://yomogi.5ch.net/test/read.cgi/history/1290130003/157-163
森は九州から畿内への邪馬台国東遷論だが、
魏志倭人伝の執筆者は、邪馬台国には実際には来ていない、
来たのはせいぜい伊都国あたり、北部九州までで、
後の記録は各種記録を元にした事務的な記述にすぎないとしている。
倭人伝を読みなおす (ちくま新書) [新書]
森 浩一 (著) 出版社: 筑摩書房 (2010/8/6)
ttp://www.amazon.co.jp/dp/448006558X >>62
http://jump.5ch.net/?www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku12/kanen41.html
その方が目をつけられたのは、同じ東夷伝中の、東沃沮(よくそ)末尾にある記事なのです。
「王[斤頁](おうき 魏人)、別に遣わして宮(きゆう 人名。高句麗王)を追討し、其の東界を尽す。
其の耆老(きろう)に問う。『海東に復(また)人有りや不(いな)や』と。
(一)耆老(きろう)言う。『国人嘗(かつ)て船乗りて魚を捕う。風に遭い、吹かるること数十日。東に一島を得(う)。
上に人有り。言語、相暁(あいさと)らず。其の俗、常に七月を以て童女取りて海に沈む』と。
(二)又言う。『一国有り。亦海中に在り。純(ただ)女にして男無し』
(三)又説くに『一布衣を得(う)。海中より浮び出で、其の身、中国人の衣の如し。其の両袖(そで)、長さ三丈』と。
(四)又『一破船を得。波に随いて出(い)でて海岸の辺に在り。一人有り。項(うなじ)中、復(また)、面有り。
生きて之を得(う)。与(とも)に語、相通ぜず。食わずして死す』と。
其の域、皆、沃沮(よくそ)の東の大海の中に在り」
王?を別に派遣して宮を追討させ、東界に尽きる。そこの古老に「海東にも人が有りや無きや」を問う。
古老が言うには、かつて船で漁をしていた国人が数十日も風に翻弄され、東に孤島を発見して上陸すると、
人はいたが言葉が通じなかった。そこの風俗では、常用の七月に童女を海に沈めるという。また、海中に一国あり、
女だけで男はいない。また、海中から浮きでた一枚の衣を得る。身頃は中国人の衣のごとく、両袖の長さ三丈。
また、難破船を得る、海岸辺に波に打たれていた。船内に一人あり、襟首のなかに顔があり返事をした。
生きていたが、言葉が通ぜず、食せずして死す。その海域は皆、沃沮の東の大海中にあり。
これは位宮の追討を命じられた王?(きん)が、朝鮮半島の東界の果てまで追撃して、自ら見聞を基に、
後に通称『魏志倭人伝』と呼ばれる『三国志魏書』東夷伝の倭人条が編纂された。従って、
この追撃がなければ倭人伝に接することはできなかったのである。 >>59 >>63
魏の使節が沃沮にて倭国の情報を仕入れて記録に残している
その内容は現実離れをしてるが全くの嘘ではなくそれなりの真実が反映されている
それらは中国の地理的観念や認識に過ぎないとは言っても、
一次情報はあくまで伝聞に依存しており、
その情報はあくまで現地人の持つ地理的な理解なのである
それは倭国や邪馬台国、そして邪馬台国の東海や東南海の情報もまたしかりだ
その情報をどのように解釈し加工したのかに中国の観念が混じっているのにすぎない
侏儒國以下が伝説でしかないという場合、邪馬台国遠方に侏儒國に類する国などまるで存在しないということにはならない
むしろ確かに存在していると裏付けてさえいる
なぜなら存在しないのなら記述する理由がないのだから
https://yomogi.5ch.net/test/read.cgi/history/1290130003/159
古田「沃沮は、朝鮮半島の東海岸(北半)の国だから、その東とは、日本海、その彼方の島や国となれば、
先ず、日本列島しかない、よね。それに先の『童女を取って海に沈む』に類した伝説も、山陰・北陸には
分布しているようだからね。これは貴重な“三世紀時点における民俗学的採取”というべきだろうね」
A「“女だけで男なし”というのも、“巫女(みこ)の住む男子禁制の聖地”としての国(島)が考えられますよね。
姫島(ひめしま 大分県)や今は女子禁制の島になっている沖(おき)の島(福岡県)も、天照大神(あまてるおおかみ)
の娘たちの島だっていうんだから、案外、昔は男子禁制の島だったかもしれませんね」
古田「たしかに、みな不思議な話だが、いずれも奇妙な真実味(リアリティ)があるよね。不幸な双生児の問題も、
『古事記』に“葦舟(あしぶね)の蛭児(ひるこ)流し”の形で反映されている日本側の習俗とピッタリ相応しているし、ね。
ともあれ、朝鮮半島の『海東』が日本列島になることは自明の理だ。のちに李氏(りし)朝鮮のとき作られた
『海東諸国記かいとうしょこくき』(成宗せいそう二年、一四七一)という本があるけど、これも日本列島のことを
書いた書物だからね。“『海東』は日本を指さない”なんて、とんでもない話だよ」 例えば韓国は、不当に竹島(韓国名・独島、リアンクール島)の領有権を主張する際に、
過去の文献に記録された、時に鬱陵島の異名であったり、
もしくは附属する小島である竹嶼(チュクト)の呼称である于山島が竹島のことだと偽証したり、
あるいは附属する観音島であろう石島という、後年に出された政令に記された島名を竹島の別称だと強弁していたりする。
韓国の主張はともあれ、竹島(独島)自体が存在していることは確かな事実だ。
存在してるからこそ争いになっているし、文献上の記述が捜索されているのだ。
侏儒國以下の話もまた同じことである >>68
>侏儒國以下の話もまた同じことである
つまり>>68の主張は、韓国の独島領有の主張と同様ってことだな
つまり、ウソ・でまかせだってことだ >>69
そうじゃなくて、
沖縄遠海島を侏儒國に結びつけることが間違いだとしても、
遠海に島があることはおそらく事実である
竹島はれっきと存在しているが、
韓国がそれを于山島だと主張するのは出鱈目である、
そういう関係性 沃沮人は東海上に海東(倭国)という女人国があって、奇妙な習俗と宗教を奉じていると語っている
語られた内容は怪しげなものだが、倭国がそこに位置していたことは確かな事実ではあった。 >>71
>韓国がそれを于山島だと主張するのは出鱈目である
つまり、このスレの趣旨に真っ向からけんかを売って、
沖縄は存在するが、それを邪馬台国だと主張するのは出鱈目である、と
そういう関係性なんだな! >>73
そこがまさに議論になってるところな
議論になり得るということだ >>74
>議論になり得るということだ
韓国の独島云々は、議論にならないだろ
韓国が一方的に言い張ってるだけで >>75
だから古の邪馬台国とは沖縄のことかと議論になってると言ってるだろあほめ >>50
あらゆる情報が沖縄を示唆してるではないか、いや沖縄のみを
他のどこが該当するというのか
特に地名と現代にも続く間切との一致は決定的ですらある
不都合なのは陸行1か月くらいなもの
過去の論争に無知な者が一から考えれば確実に沖縄だと断定するはずだ
実際、台湾など海外の学者は沖縄なのでは?と語ってくる
そうでない者は先入観に支配されてるに過ぎない
>>2 地名、間切が一致
>>10 対立する狗奴国わテイ[魚是]人がとするならその21カ国を先島諸島に比定できる
>>30 海南島と同じ風俗
>>31 冬も生野菜で裸足の温暖気候
倭国は島嶼国の連なりである
>>57 一般に島では大生物は小さくなり(ミニカバなど)、小生物は大きくなり(インドネシアのカブトムシ)、また低緯度ほど低身長になる法則性、
小島国の近親婚奇形で、
侏儒国なる小人国は南方島嶼、黒歯国も南方風俗と考えられるため、
沖縄の東南海上島嶼と推測できるし、
海洋民だからこそ知り得た情報 そして帯方郡からの距離方向が沖縄を示している
これでなぜ沖縄を否定できるのか、その方が不思議だ >>76
>だから古の邪馬台国とは沖縄のことかと議論になってると言ってるだろあほめ
だから、
>>71の「そういう関係性」ってことは、韓国の主張と同等ってことになるから
ヤ・メ・レ!って言ってるんだよ
韓国を引き合いに出していいことは一つもない >>77、>>78
沖縄説原理主義の人?
前から言ってるけれど、
陸行一月
戸数七萬余戸
は沖縄説では致命的だよ
あとこの辺もつらい
・邪馬台国の発音に近い地名
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人 >>80 その辺は全て説明可能
>>6 偽装の結果
>>8 水没による消失(邪馬台国名も) >>81
>水没による消失(邪馬台国名も)
おいおい、ここまでトンデモだとは思わなかったよ >>82
とんでもも何も、
本来移籍年代的に無理だったのが、
水没遺跡が年代一致で俄然変わってきたとの話なんだが
個人的には南海トラフの3連動地震の延長上に、
宮崎沖から南西諸島沖にも発生して、
大地震で地形が水没するなり、
大津波で文明一時消失途絶の可能性もあると見てる
実際、縄文文化か鬼界カルデラの自然現象により消滅したのだから そういうこともあったかもしれないが、邪馬台国ではない。 有史以降に地震の津波まるかぶりで島民全滅した島もあるものな。とはいえ沖縄本島より
巨大な島が「水没」してしまったというのは海底地形図から考えても想定しなくていいレベルの
トンデモ説 素直に読めば琉球だし、おれも琉球説がなぜ有力でないのかが不思議でしょうがないんだが
「海底にしずんだ巨大文明」を主張するのなら、まず見つけてから言えと。トロイアは見つけて
ようやく科学の遡上に上ったんだよ。くちさきだけでペラペラ証明しようとせず先ず見つけろと。 誰も島まるごと沈んだなんて言ってないだろ
島の一部が沈んだと言ってる
北谷沖海底遺跡および与那国海底遺跡がそれだ
沈まなくても、東日本震災では東北の沿岸部が大津波でさらわれている
歴史的には南海トラフ地震により、30m超の大津波に襲われる高知県は壊滅を繰り返す宿命にあるとされているし、
三重県や、かつては海だった河内泉州も襲われてきたろう、そして宮崎日向だって危うい
静岡にある弥生の登呂遺跡などは大津波に滅ぼされた痕跡を残している
沖縄で同様のことが無かったとなぜ言えるのか?
僕らはいつも、今確かにあるものだけを持ってして過去を語りがちだ
だが過去の大事な何かが失われ隠されたままであるのなら、
欠落した事物を元にして語られる過去に真実味がないのも当然だろう
2013年9月03日
南海トラフ地震で世界遺産・三保の松原と登呂遺跡が消滅する!(週プレNEWS)
http://www.asy●ura2.com/13/jisin19/msg/261.html
2013/10/15
南海大地震で高知県は沈んでなくなりますか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12114998337
確かに高知県の一部は宝永、安政、昭和の南海トラフの地震によって沈降してきた。古くは白鳳や康和の南海トラフ地震でも
田畑の海没の記録がある。だから、その叔父さんの言うことも一部は正しい。
実際には安田と野根を結ぶ線より南東側の室戸岬側が隆起し、それより北西側の高知や須崎などが沈降するのだが。
その変異は最大でも1〜2m程度です。足摺岬は昭和や安政では隆起したが宝永では沈降したらしい。
高知県では684年に、かつて53万石あった土佐の地が白鳳地震で一気に海没しそのために現在24万石になってしまった。
現在の土佐湾の湾曲はその時の名残だ、という愉快な口碑が残っていますが、尾ひれはひれ付けば話はここまで大きくなって
しまうという好例です。
9−2 中国・四国地方の地殻変動
http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou79/09_02.pdf この発生周期と痕跡が、
卑弥呼の時代(200年代)以降に、
大津波が沖縄を襲っていることが分かる
2017年12月09日
高さ30m!「八重山地震」級の巨大津波 600年毎に4回発生 沖縄県
https://www.hazardlab.jp/know/topics/detail/2/2/22988.html
堆積物のうち、3つは石灰質の砂が堆積した地層で、最も新しい地層は1771年の八重山津波によるものだった。
放射性炭素年代測定法で調べた結果、それ以外は、西暦1330?1030年ごろに起きた津波の堆積物と、
700?280年ごろの津波で運ばれた石の塊で、
最古のものは紀元前750年から西暦700年にかけて発生した津波の堆積物であることが判明した。 沈んだ云々が琉球説を台無しにしてるんだよ
沈んだっつーなら見つけてから言え
「みつけられなかったので存在しなかったとはいえない。よって存在した」
これがトンデモの標準理論。みつけられなかったのなら何も言うな。 だから与那国沖合い他にいくつも沈んでるのが見つかってるだろ
上の映像>>8見てみろよ 沖縄は沈下して台湾は隆起してるそうだ
沖縄は昔は今よりもっと大きかったのかもしれない 探掘してから言えっつってんだよ
文明らしきものなど火星にだってあるわ 沖縄の海底遺跡(2)沖縄与那国島の遺跡と環太平洋地域の遺跡の関連
http://www.okinawainfo.net/iseki2.htm
http://www.okinawainfo.net/nannmata2.jpg
ナンマタール遺跡
与那国、数年前からちょっと有名になっています。
なぜかといえば、すぐそばの海底に人間が手を加えて作ったとおぼしき遺跡が発見されたからです。
また、遺跡付近のサンニヌ台と言うところにも同じような石の建造物が見られ、加工された跡が見られる事から、
これも含めた大掛かりな構造物があったと思われます。 ここだけでなく、慶良間近海、北谷近海、粟国近海などでも
人工物と思われる構造物が発見され、話題になりました。 どこも、そんなに深海ではなく、5〜20mくらいの所だそうで
同じ時期に水没したと考えられます。
有名なポナペ島のナンマタール遺跡をはじめ、太平洋の西南域にかけての古代巨石文化は、共通点の多いもの のようです。
パラオ諸島の最大の島、バベルダオブ島には、アケズと呼ばれている巨大石造テラス状の人工の丘が多数存在します。
有史以前の用途不明の遺跡で、与那国の海底遺跡と外観が良く似ています。
南太平洋にあるポナペ島には、無数の人工島と、縦横に走る運河があり、玄武岩質の石柱を組み合わせた
石造都市の遺跡があります。 一本の柱が5トンから60トンもある石柱で、どのようにして作られたかは今もって不明です。
ここの周辺の海底には遺跡は続いていて、古くからの言伝へでは、それは、神々の都であるとされています。
実際、近年になって珊瑚に覆われた街路や石門が海底から発見されてい ます。 この付近、半径2400キロ以内の
島々には、人工が5万人足らずしかなく、彼等がこれを集まって作ったと考えるのは不可能です。
ということは、ここももっと昔に海面がより低い位置にあり、陸地がもっと広くて組織的に動員できる文明があったと
考えざるおえないのではないでしょうか。 沖縄の海底遺跡(3)他の沖縄にある海底遺跡との関連
http://www.okinawainfo.net/iseki3.htm
http://www.okinawainfo.net/isekikerma1.jpg
http://www.okinawainfo.net/isekikerama2.jpg
http://www.okinawainfo.net/isekicyatan.jpg
与那国の海底遺跡のほかにも、沖縄近海では常識的に考えれば人工物だろうと思われるポイントが、いくつも発見されています。
右はケラマ諸島近海で発見された、ストーンサークル状の遺跡と言われているものの中心にある、センターサークルと
言われている物。 直径、高さ共に約3メートルもあるものです。
ここを中心にして、四方に道状のくぼみが何十メートルも伸び、その先には拝むための祠と思われるもの、鏡岩状のもの
(これで、ぴんと思い当たるものがある人はかなりの超古代史マニア. )ピラミット状の岩などがあり、道の行き先に階段状のものも。
この他にも、北谷の沖合いにもピラミット状の石造物と思われるポイントがあります。
粟国島近海にも人工物と思われるポイントが発見されているし、宮古には地上に支えになる石柱とその上に乗る大きな石とで
出来ている構造物で、飛鳥の石舞台など世界各地に点在していると同じようなドルメン(弥生時代に稲作と共に大陸から伝わって
きたとされているのが通説)が有ります。
地元ではおっぱい山といわれている所に、アガームイ、イリムイと言われている森にそれが残されているという事です。
これらは紀元前後の建造らしいと言われていますが、定かではありません。
沖縄の海底遺跡(エピローグ)他の沖縄にある海底遺跡との関連
http://www.okinawainfo.net/iseki4.htm
http://www.okinawainfo.net/iseki2005-3.jpg
http://www.okinawainfo.net/iseki2005-2.jpg 締めくくり的にまとめるなら、 この琉球弧が、2〜3千年くらい昔に今よりもっと隆起していたとしたら、
歴史が、そして地学が改められなくてはいけなくなるでしょう。
しかし、先史時代の巨石文明は世界各地に点在していて、学者たちを困らせています。
ポナペ島のナンマタール遺跡、グアムのラットストーン、そして、沖縄海底の遺跡。
きっと元は同じ文明のものだったのでは無いでしょうか。
太平洋岸に有る各島々の石造遺跡との関連性も、それらの神話の共通性と共に研究されるべき課題ではないかなーと思うのですが…。 太平洋に浮かぶ謎の島「ナンマトル」、紀元後1世紀に造られた可能性が浮上
https://switch-news.com/science/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E3%81%AB%E6%B5%AE%E3%81%8B%E3%81%B6%E8%AC%8E%E3%81%AE%E5%B3%B6%E3%80%8C%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AB%E3%80%8D%E3%80%81%E7%B4%80%E5%85%83%E5%BE%8C1%E4%B8%96/
ナンマトルの正確な建設時期がわかる記録は見つかっていない。しかし驚くべきことに研究者らは、
これまで紀元後1180年から1200年とされてきた建設時期が紀元後1世紀から2世紀まで遡る可能性があるとしている。
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ナンマトル(Nan Madol[注釈 1])は、ミクロネシア連邦のポンペイ州に残る人工島群の総称であり、後述するように、
その考古遺跡の規模はオセアニア最大とさえ言われる。人工島が築かれ始めたのは西暦500年頃からだが、
ポンペイ島全土を支配する王朝(シャウテレウル王朝)が成立した1000年頃から建設が本格化し、
盛期を迎えた1200年頃から1500年(または1600年)頃までに多数の巨石記念物が作り上げられていった。
人工島は玄武岩の枠の内側をサンゴや砂で埋めて造ったもので、100以上とされる人工島は互いに水路で隔てられており、
その景観は「太平洋のヴェニス」[3][4][5]、「南海(南洋)のヴェニス」[6][7][8]、「ミクロネシアのアンコールワット」[9]などとも呼ばれる。
人工島の上に築かれた巨石記念物群は王や祭司者の住居のほか、墓所、儀式の場、工房など様々な役割をもっており、
その大きさも様々である。巨石記念物群は数トンから数十トンにもなる玄武岩柱を積み上げたもので、
どのような技術を使ったのかは解明されていない。レラ遺跡などのミクロネシア連邦の他の遺跡、
さらには広くポリネシア等の遺跡との関連性についても研究が進められているが、明らかになっている点は限られる。 ナンマトル#竜宮城
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AB#%E7%AB%9C%E5%AE%AE%E5%9F%8E
ナンマトルは、日本の御伽噺『浦島太郎』に出てくる竜宮城のモデルとされることもある。
地元の名士マサオ・ハドレイをはじめとする古老たちは、海底に沈んだ聖なる都市カーニムェイショの伝説と、
竜宮城伝説の類似性を指摘した[199][200]。
ほかにも、近くの海底深くに巨大な石柱が眠っているという伝説や、ナンマトル近くの島の古称が「ウラノシマ」だという伝説、
北方から東洋人らしき漁師が漂着して長期滞在した伝説などもあるという[201]。
その一方、そうした類似性については、20世紀前半の日本の委任統治領だった時代に、
日本からもたらされた浦島太郎伝説がポンペイ島の伝説に混入したとも言われている[202]。
また、20世紀末以降には日本のテレビ番組でも複数回取り上げられたが、そうした番組の取材も、
地元民の伝承に影響を与えた可能性が指摘されている[203]。
なお、地元民がカーニムェイショと呼ぶ近海には、水深15 m ほどの海底に規則的に並んだ五本の柱らしき構造物が確認できる[204]。
ただし、泥土の流入や造礁サンゴ等の付着により、人工物とは断定できない状態である[204]。 ラッテ・ストーン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/43/Latte1.jpg
グアムの首都ハガニャのラッテ・ストーン公園にあるもの
ラッテ・ストーン (Latte stone) とは、グアム、サイパンなどマリアナ諸島に見られるサンゴ石でできた石柱群である。
9世紀から17世紀にかけて作られたチャモロ人の古代チャモロ文化の遺跡である。古代のマリアナ諸島の王「タガ」にちなみ、
タガ・ストーン (Taga stone) と呼ばれることもある。北マリアナ諸島の旗にも描かれている。
ラッテ・ストーン公園
http://guam-saipan.com/guam/latte.html
http://guam-saipan.com/guam/images/latte2.jpg
http://guam-saipan.com/guam/images/latte3.jpg
http://guam-saipan.com/guam/images/latte5.jpg
グアムの首都であるハガニアに位置しているラッテ・ストーンで有名な公園です。ラッテ・ストーンとはサンゴ石でできた
こけし状の石柱のことで、ここの公園には全部で8つの石柱が2列に並んで配置されています。
グアム以外にもサイパンやロタなどといったマリアナ諸島にて発見されています。
今日に至るまで様々な説が発表されてきましたが、最も有力とされているのが、何らかの建造物の土台として使われていたという説です。
高床式建物の土台として使われていたと思われる様子がインドネシアのボロブドゥール遺跡に描かれていたという裏付けがあります。
このほか、墓石や宗教施設であったなどといった説が発表されています。 ラッテストーンの謎を知ると、もっとグアムが楽しくなる!
みんなもラッテストーンを探してみよう!!
http://weekly.visitguam.jp/2011/10/post-230.html
チャモロ文化を代表する遺跡といえば、巨石「ラッテストーン(Latte Stone)」。ハガニア地区にある「ラッテストーン公園
(Latte Stone Park)」はガイドブックで必ず紹介され、多くのツーリストが訪れます。
こけしのようなユニークな形をしたラッテストーンは、9世紀から15世紀の「ラッテ期」と呼ばれる時代に数多く作られた巨石遺跡です。
元々チャモロ人は文字を持たない民族なので、ラッテストーンが何のために作られ、どのように利用されてきたのか記述は残っておらず、
今だに謎の多い不思議な遺跡です。 しかし古代チャモロ社会においては、石は生活に欠かせない必需品であり、
調理器具やフィッシング道具など様々な形に削られ利用されてきました。そしてラッテストーンは、高床式住居の土台として
使われていたというのが有力な説です。
理由の1つとしては、ラッテストーンは必ず8基や10基が長方形に並んだ形で発見されていること。
人々はその上に家を建て、暮らしていたと言われています。それを裏付けるように、1565年にメキシコからフィリピンへ向かう
スペイン船の乗組員がマリアナ諸島に立ち寄った際、当時のチャモロ人の家屋の様子を次のように書き残しています。
「彼らの家々は高く、上手に建てられ耐久性も高い。それらは地面から人ひとり分の高さの大きな石の柱の上に建てられていて、
その上に床が敷かれている・・・」
もう1つの理由は、ラッテストーンの周辺から発掘された遺跡です。古代チャモロ社会では、亡くなった家族は家の敷地内に
埋葬していました。ラッテストーン周辺からは人骨や装飾品などの埋葬品が、数多く発見されているのです。 グアムでは先祖の霊を
「タオタオモナ(TAOTAOMO' NA)」と呼び、人々から崇められています。ラッテストーンにもそのタオタオモナが宿っているとして、
今でも恐れおおく、近づこうとしない人もいるようです。 さて、初めに「チャモロ文化を代表する遺跡といえば、巨石ラッテストーン」と紹介しましたが、ラッテストーンはグアム特有の文化
ではなく、グアム島と北マリアナ諸島(サイパン島、ロタ島、テニアン島、パガン島など)の文化です。巨石遺跡は世界各国に
残されていますが、ラッテストーンが発見されたのはグアム島、サイパン島、ロタ島、テニアン島、パガン島のみ。
発見されたものの中で最も高いのはテニアン島で発見されたもので、約5mもあるそうですよ。
しかしグアムには、もっともっと大きなラッテストーンが登場しています。ガバナージョセフフローレスメモリアルパーク
(イパオビーチパーク)に建設中のラッテストーンがそれです。まだ1基しかありませんが、これから来春までに10基完成させ、
その上に住居も作る予定だそうですよ。
http://weekly.visitguam.jp/2011/10/14/lattestone002.jpg
ホテル・ニッコー・グアムの敷地内で発掘されたラッテストーン。8基きれいに並んでいるのを、ホテル入り口付近で見ることができます。
http://weekly.visitguam.jp/2011/10/14/lattestone003.jpg
ガンビーチ北側にある「グアム カルチャー&エコ パーク(Guam Culture & Eco Park)」では
500年前の古代チャモロ人の暮らしを再現しています。
http://weekly.visitguam.jp/2011/10/14/lattestone005.jpg
この週末、「第24回 グアム・ミクロネシア・アイランド・フェア(24th Guam Micronesia Island Fair)」が行われる
ガバナージョセフフローレスメモリアルパーク(イパオビーチパーク)に登場した巨大なラッテストーン。
http://weekly.visitguam.jp/2011/10/14/lattestone006.jpg
これが来春の完成イメージ。「タサ(TASA)」と呼ばれるグループにより進められているこのプロジェクト。 >>40
仮に一年中、あるいは数年滞在したなら食文化は詳細に把握できたろう
だが倭人伝にあっては、
伊都国以降に米食の紹介がない
以前の記述でも良田なく欲を満たせておらず、
倭人はもっぱら魚介、海藻類で食を賄っている
酒を飲んでるから米を産してるやも知れないが食用とは思われない
弥生の稲作社会ならまずその社会を形作る稲田や米食にこそ着目し穀高について記載するはずだ
ところが邪馬台国では野菜にのみ言及するに過ぎない
以前からの記載も併せれば、
漁労採集社会と見なすのが自然である
シャーマンの呪術支配も含めれば、
その姿は弥生より縄文の方が近い
であるのになぜその位置を推定しようと吉野ヶ里だの大和の弥生稲作遺跡にその解を求めるのだろうか?
むしろ稲作北限界を超えた先の東北青森のイタコ文化にでも着目するべきではなかろうか? 稲栽培の記述はあるが、
それはカラムシ、養蚕の並びであって、
稲藁の繊維取得が主目的と考えられる
死者が出ると服する期間肉を避ける
牛馬羊はいないとされ、猿とキジあり肉食への言及があるゆえ、ウサギ肉などか
食器に関しては竹で編んだり木をくり貫いた物で土器が出て来ない
刺青文化は狩猟民に対獣の威嚇偽装目的だろうし、
弥生社会を思わせるものは認めがたい 入墨は太平洋海洋文化の典型だものね。朝鮮や北方からの文化ではあきらかにない 年中生野菜を食するとする
本来、コメもまた野菜だ
コメは煮るか蒸さないと食べられない
コメを食べる習慣があるなら野菜も煮るはずだ
その方が食材が増えるからである
例えば芋類が典型だ
そして土器の記述がなく木器や編み器の使用が確認できる
これらはそれ単独では蒸し物料理も無理で火力料理には適さない
一方で魚介食や肉食である事実がある
魚介は生が可能だとしても、獣肉は無理だろう
魚や肉は串刺しにして炉端にしたり、火の上に渡して焼いて食べていたのではないかと推測できる
つまりコメや野菜を煮るための道具の存在が証明されていない
温暖ゆえに年中多彩収穫が可能で、保存の必要性が無かったため、
道具の革新と発展がなかったのではないか?
それは海南島との間に使用道具の差違がないとの記述に対応していると思われる
こうした実情は、この社会が決して弥生のそれではないことを示している
弥生の稲作文化は道具を伴ってこそ普及し発展するものである 沖縄には古代稲作の痕跡が認められない
邪馬台国の周辺が豊穣な米作社会であるなら、中心部たるところが米作でないはずもないが、
魏志倭人伝では、壱岐や対馬における稲作が紹介されてるが、食文化の主たる扱いにはなってないのだから、
邪馬台国もまた同様であったと考えることは可能だ
沖縄は米作は可能だが、盛んではなく、水源と地形に原因があるようだ
その事実は、倭人伝が邪馬台国における米作を無視し去っていることの理由にもなる
確かに「難升米」の表記に「米」が使用されているが、邪馬台国では飲酒文化が盛んだったため、
酒造上の、従って宗教上の重要性があったことが反映されたにすぎないと説明できる 一方で、「有無する所は儋耳・朱崖(海南島)と同じ」
ここで海南島では歴史的に米作は行われてきたのかということが問題になってくる
どうも海南島の先住民が百越に由来するリー族で、今日にも米・粥、竹筒飯が伝統食となってるのだから、
邪馬台国でも米を作ってたろうとなってくる
沖縄の稲作文化
https://kazu0103.ti-da.net/e3917983.html
沖縄、稲作ルーツ巡り
https://komenana.com/%E6%B2%96%E7%B8%84-%E7%A8%B2%E4%BD%9C%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84/
沖縄の稲作の歴史は、玉城の受水・走水が発祥の地とされているのですが、
弥生時代の稲作の遺構は確認されていないそうです。
中国の古文書には、『伊平屋は米を産する最も佳なり』とあり、
8世紀には既に米を生産していたようです。。
現代沖縄の米農家事情
http://hougen.sa●kura.ne.jp/hidaka/okinawa/2007/2_08.pdf
沖縄で稲作が盛んでない理由は
なぜでしょうか。1日中温暖であるのにと個人的には思います。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7316598.html
No.8ベストアンサー
沖縄の農家の方に伺ったことがありますが、No.7の方のお答えの通りでした。県産米として売ってますが、美味しいとは聞かないです。
また、水田にできるような場所が限定されることも理由だと思います。隆起サンゴ礁の台地では水が得にくいというか
地下に浸透してしまうため、数少ない川の下流域くらいしか適地がないと思いますね。与那国には川があるので水田ありました。
ある程度高い山がある島には川もあり水田がある。テーブル状の地形の島は水が得にくく水田がない。
特に夏は台風が来なければ雨が降らないので、稲作向きの気候や地形ではないのでしょうね。
沖縄(おきなわ)のお米の生産量(せいさんりょう)は、なぜ少ないのですか。:農林水産省
http://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0205/04.html
3.かんばつ(長い間雨がふらないこと)がひんぱんにあり、大きい川もないため、水不足になりやすく
多くの水を必要とする稲作(いなさく)がやりにくかった。 食文化自体は後年になって漢族が分割統治目的で入植させた苗族の影響を受けた可能性はあろうが、
ルーツが長江流域民の百越なのだから元からの米食民だと考えざるを得ない
邪馬台国とは文身(入れ墨)やシャマニズムなどの文化宗教上の共通点が多く、同じ母系氏族社会である
海南島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%8D%97%E5%B3%B6
古来から黎族(リー族)、苗族(ミャオ族)、壮族(チワン族)など少数民族が住む。
北部が温帯気候、南部が熱帯気候に属する。
海南島は降水量に十分恵まれている。年降水量は1,500ミリ・メートル以上、東部では2,000 - 2,800ミリ・メートルに達するので、
水稲・さとうきび・落花生などの栽培に適し、水稲は1年3作である。
海南島の歴史
http://vrai2.blog.f●c2.com/bl●og-entry-759.html
元々は黎族や苗族の島だった。では黎族の起源はというと越族。
これは揚子江(長江)以南、ベトナムあたりの広大な地域に住んでいた民族だ。
その起源をさらにたどると浙江省の海岸部に住んでいた民族らしく、
浙江省といえば上海の南側。これが漢民族に圧迫されて南へ、南へと移動し
ついには海南島に閉じ込められた。中国の黎族の90%がここに住むと言う。
中国史を見ると越という国が登場するが、祖先は、この越を構成していた民族らしい。
ただ、越の名前だけが民族名として残っているが、百越として長江南岸を
長く支配していた。その流れの呉や楚も同系列の民族。
始皇帝を滅ぼした漢の劉邦と楚の項羽だが、最後に劉邦が項羽を破り漢をたて、漢民族が拡大した。
これが逆だったら、中国の歴史は大きく違ったものになってた。
その後も、三国志では江南には同じ民族の呉王朝がたっていて、決して少数民族出などなかったはずだ。
ベトナムあたりが核心的利益は譲れないと、長江南岸までの領有権を主張したら良い。
越民族の今は1億1000万人、ほぼ日本の人口程度。
占領政策があったにせよ、いかに漢民族が繁殖力の強い民族かがわかる。 リー族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E6%97%8F
黎族(リー族)は中国の少数民族のひとつ。その約90%以上が海南島に住む。
歴史
百越の分枝駱越(中国語版)が秦・漢以前の時代に移住したことに始まるという。同じく駱越に起源を持つ民族に水族がある。
信仰・文化
「鬼神」と呼ばれる精霊的存在へのアニミズム信仰を持ち、旧暦3月3日「三月三」と呼ばれる豊穣を祈る祭礼を行う。
粥など米類を主食とするが、特色のある料理として、竹筒に米を入れて作る竹筒飯などがある。
海南島の歴史
http://www.kainantou.com/history.php
国家としての記録は、秦の始皇帝時代に秦の統治下にあったことが明らかになっています。
流刑地、役人の左遷の地として利用されていました。
また、日本に渡航しようとした鑑真が流れ着いたことも有名です。
三国時代には呉に属し、これが海南島内の歴史として最も古い記述となります。
漢民族が軍事侵略した当時、原住民のリ族がすでに海南島に居住していたことが明らかになっています。
このリ族は今日の海南島には70万人の人口を持ち、海南島内の最大の少数民族となっています。
その後、中国の歴代王朝の支配を受けながら発展していきます。
16世紀から17世紀にかけて
おもに福建省から多くの漢民族が移民し、リ族は山岳部へと追いやられることになりました。
その後、18世紀に入り圧政を受けていたリ族は、漢民族に対して反乱をおこします。
ところが漢族はこれに対抗させるために傭兵としてミャオ族を本土から連れて来て戦わせました。 歴史-海南島の基本情報-??海南
http://jp.explorehainan.com/jp/realize/lishi.shtml
5000年以上前の新石器時代、長江以南で生活していた百越人の一支族、駱越人が、丸木舟や竹の筏に乗り始めて
無人の海南島に上陸し、母系氏族社会を作りあげました。これが黎(リー)族の祖先であり、当然海南島で最も早く
生活した人々ということになります。
2000年以上前に秦の始皇帝が中国を統一した後、海南島は国境として広西象郡の管轄下に置かれました。
この後の厳しい歳月において、中央政府の海南島管理体制はしばしば変化し、制度を設立して官員を派遣して管理したり、
大陸の郡県に隷属させて辺境に置いたり、「リー族」の?首に父系氏族社会方式での統治を委任したりしました。
海南島の漁民たちは、1000年以上前に南海諸島に居住し始めました。
海南島の歴史と先住民
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-780.html
晋の武帝の時(280年)、珠崖郡は、大陸の合浦州(現広西省)に合併される。南朝宋の文帝の時(431年)、珠崖は、
珠崖郡となり広東省徐聞県(海南島へ伸びた合浦郡の雷州半島)の統治となる。 梁の武帝の時(535〜546年)、
廃された?耳の場所に崖州が設置される。明の始め、イスラム商人がこの島にやってきて回族となり、
同じころ黎(リー)族の反乱を鎮圧するため、広東から苗族が兵として海南島に駐留、そのまま住みついた。
現在の海南島には、黎族(リー族)、苗族(ミャオ族)、壮族(チワン族)、回族などの少数民族が住む。
海南島の歴史と先住民(2)
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-781.html
リー族の言語は、シナ・チベット語族に分類されている。彼らには入れ墨の習慣がある。先祖とされる古代の「百越」の人々も
鯨面・文身をしていた。魏誌倭人伝に書かれた倭人と同じ習慣である。女性は十代前半から入れ墨を始め、
完成すると結婚できる習慣があった。リー族には紀元前の春秋時代から機織りを行っていた記録があり、
早くから木綿生産を始めた人々とされている。主食は米、サツマイモ、トウモロコシ。漁業や家畜の飼育、野生植物の
採取も行っていた。宗教は先祖崇拝や自然界の精霊信仰であった。 ただし道具の共通点>113というのは、
「種禾稻紵麻 蠶桑 緝績出細紵?緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與?耳朱崖同」
あくまで兵器や狩猟道具の共通点であって、耕作や炊事道具の共通点を語ってはいない
また、「難升米」で”米”字を使ってはいるが>112、
難升米は中国から送られ邪馬台国に帰属していた漢族だとの説もある
難升米は漢族
http://www.lun.ac/history/wa-3c/nanshoumei.php
それに、同時に派遣されてた「都市牛利」には”牛”が使われてるが、
上記引用した通り、邪馬台国には牛はいない。
こうしたことから、
魏志倭人伝に紹介された倭国とは、
米作は行われているがさほど盛んではなく、
むしろ海洋漁労民としての性格こそがその主たる特徴であるという認識に重心が置かれており、
その理由は、本来的な倭国の中心部である北部九州から畿内までは扱われず、
倭国中心部は回避されて、その周辺部の島嶼を巡った様子を紹介してるのに過ぎないためだと考えられる 百越
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A
百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナム北部にいたる
広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。日本の明治から昭和期には、かつて中国南部から
ベトナムにかけて存在した南越国から南越族とも表記された。
文化面では、稲作、断髪、黥面(入墨)など、百越と倭人の類似点が中国の歴史書に見受けられる。現代の中国では廃れた
なれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている[2]。
『魏志倭人伝』について考える(28)
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-789.html
越の国が滅ぼされてできた百越の民と同様の目にあった倭人は、中国南方や東南アジアの各地もしくは半島や列島に
移動し(逃げ)たのであろう。そのような従順な民族に対して、中国の中原を制覇した周・秦・漢など大国の人々は
「倭」という漢字を用いたのかもしれない。鳥越憲三郎氏の説では「日本列島に稲作をもたらした弥生人が『倭人』で、
その『倭』の古音は『ヲ=wo』で、『越』と倭人の『倭』とは、ともに上古音で『wo』といい、越人も同じく断髪・文身あった。
古代豪族 越智氏は『オチ』と発音される。越(wo)の発音が日本に伝わっている。」 長江文明を引き継ぐ越族(=百越)
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-794.html
百越は大きく分けて、楚系(中流域)、越系・呉系(下流域)、巴蜀(上流域)になる。さらに、広い意味での越人は、
雲南省の少数民族、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイヤミャンマーの北部、台湾や海南島の先住民も、長江流域から
台湾に逃げ込んだものと考えられている。もちろん、越人の中には、長江流域にとどまり、漢民族と同化した人たちも多い。
今では、中国少数民族といわれる独自の文化を維持する人たちを除けば、漢族と同化したと考えられている。
周代の春秋時代には、楚、呉、越の国を構成する。秦の始皇帝の中国統一で、秦帝国の支配下に置かれた。
漢代になると、混乱のどさくさに紛れて、秦の将軍であった「趙佗」が南越国を建て、約90年後に漢の武帝に滅ぼされる。
中国の?江(福建省)周辺の?越王「無諸」が秦に対して反乱を起こし、後に劉邦に属した。漢は無諸を?越王に封じ、
東冶がその都となった。
漢の勢いが衰え、北方からの異民族に圧迫されるようになった漢族は、徐々に南下した。この時、越人は漢族と混じる人々と、
同化できずに内陸の高地、海岸から避難する人々に分かれた。呉越戦争や秦の統一の戦いで逃げ出した人の一部が、
直接あるいは間接的に日本列島に渡来した。この人たちが弥生人であり、倭人である。
広い意味の習俗において、稲作、住居、断髪、鯨面(入墨)など、倭人は越人の一部であることは、ほぼ間違いないであろう。
現代の漢族には残らなかった熟鮓(なれずし)や納豆は、越族の末裔といわれる雲南の少数民族に残る。
長江から直接あるいは中国沿岸や韓半島を経由して、弥生時代に日本に渡ってきたと考えられる。 長江文明を引き継ぐ越族(2)
http://yazumichio.blog.f●c2.com/bl●og-entry-854.html 長江文明は始めから稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。
長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。
日本の稲作もここが源流と見られる。
中流域の屈家嶺文化(紀元前3000年? - 紀元前2500年?)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年? - 紀元前2200年?)
の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果
と考えられ、黄帝と神農や蚩尤の対立などの伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いに元があると考えられる。
河姆渡遺跡からは玉で作られた玉器や漆器などが発見されており、また呉城文化(紀元前1400年? - 紀元前1000年?)からは
磁器が発見されている。中国文化の重要な一翼を担うこれらの文物の源流がここから出たのではないかとする説もある。
これらが後の楚・呉・越に繋がったと考えられるが、どのような流れをたどって繋がるのかは未だ解らない。 弥生人が百越の子孫だとしても、
琉球人は縄文人の子孫だし、九州南部から南西諸島民はいずれも百越とは関係がない
もちろん台湾先住民もポリネシア民も、フィリピンなど東南アジアの一部民も
これらはオーストロネシア語族であって、百越ではない
つまりは邪馬台国に示された文化習俗の特徴は>>117、
種族のルーツではなく、地理的地政上の共通点や文化交流の結果として生じているはずである
台湾原住民
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91
台湾原住民族の言語
オーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族)に属する諸言語を話している。
このことから、台湾原住民族はもともとインドネシア・フィリピン方面から渡ってきた民族であろうとする説もあるが、
台湾原住民諸語がオーストロネシア語族の祖形を保持しており、考古学的にも新石器文化は
台湾からフィリピン、インドネシア方面へ拡大しているため、オーストロネシア語族は台湾から南下し、
太平洋各地に拡散したとする説が有力である。
台湾原住民族の風習
台湾原住民族にとって、入れ墨は通過儀礼の一つである。顔面や体に入れ墨を彫ることにより、大人社会への仲間入りを認められる。 >>117 追加
他の官名に「伊支馬」「弥馬升」「弥馬獲支」
だが邪馬台国に”馬”はいない コピペ貼りまくったらかえって読んでもらえなくなるよ。
掲示板というものの性質をちゃんと理解して投稿してくれ。 >>124
>だが邪馬台国に”馬”はいない
それ、大陸側の当て字の表音文字だから、馬がいるかどうかとは関係がない >>126
124のレスは、「難升米」の”米”は稲作の”米”論への反論 >>123
つまりね、じゃあまとめよう
魏志倭人伝の記述を分析してゆくと、壱岐や対馬で耕作はしている
田を耕してる。だが耕すのは畑であって稲田ではないのでは?とは思うが、
稲田だとしてもいいだろう。だが、それでは食うに足りずに倭人は海産物を食べてるのだとしてる
邪馬台国も同様だ
そこには一言も米を食ってるとは書いてない
稲田の存在への言及は、衣料などの原料目的で栽培してることと、
酒造(の原料)により間接的に言及してるのみで、食料はあくまで魚介と生野菜と肉とのみだ
もし弥生時代の倭国を訪問してその社会的特質を記すならば、
真っ先に米作に触れるはずなのにそうではないことから、
その社会は倭国の中心ではなく周辺部だとみなされる
このことは、邪馬台国を、米作に適してるようで適してない沖縄に定めることに有利な事実だと言える
そして類似性を指摘するのに持ち出した海南島民は、
そのルーツが百越ならば、
当時の海南島は米作社会だったろう
であるならなにより耕作炊事道具の共通点が指摘されるはずだが、
一致してるとしたのはあくまで戦闘・狩猟用道具である
邪馬台国の入れ墨の起源は漁労にあったと記述されている
「今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。」
入れ墨文化は百越、台湾、邪馬台国、ポリネシアと拡がっている
入れ墨の共通点は、民族の壁を通り越して、南方の太平洋文化の特質となっている
沖縄の邪馬台国の果てに侏儒国、裸国、黒歯国と言った記述は、
そうした広汎な海洋文明間の交流に由来した情報だと推測できる >>127
>124のレスは、「難升米」の”米”は稲作の”米”論への反論
どういう理解だ?
「難升米」の”米”しかない、というのは、
魏志倭人伝に米を食べているという直接の記述はないという意味だぞ 仮に邪馬台国が沖縄だとして、
どのようにして酒を造ったのか、
米を炊く蒸すところからだが、道具がない
だが>>111で青森亀ケ岡式縄文土器が発掘されている
縄文文化圏の超遠距離海上交易によるものだろう
それ以来続く交易ルートから炊飯道具を入手したのではなかろうか?
縄文よりは進んだ集権社会だが、弥生のような耕作社会よりは狩猟採集社会に近い、
関連項目として入れ墨やお歯黒などが出てくるのなら、
邪馬台国はいわゆる「照葉樹林文化」という別個のカテゴリーの観点から分析されるべきではなかろうか? >>129
直接の記述はないが、高位の者に”米”と付けてるからには米作りしてる社会のはずだとの論理が成り立つが、
牛や馬など存在しないものの文字を使ってるのはなんでか、
よって米と書いてても米作りしてたとは言えないと反論したんだよ 海南島民は百越だから米を作ってたろう
弥生人は百越なんだから米作ってて当然なのに、
邪馬台国民は必ずしも米を作ってない
これは邪馬台国民が百越弥生系ではないからだ
文身などの南方海洋民特有性を持ちながらも種族を異にしている >>131
>高位の者に”米”と付けてるからには米作りしてる社会のはずだ
おい、倭人は漢字を知らないし、自分の名前を漢字で付けたりしないぞ
大陸側の当て字の表音文字だから、米を食べてたかどうかとは関係がない >>133
中国はそうやって何かとその特徴と関連付けた当て字をあえてすることが多いだろ >>135
東〔魚是〕(テイ)人@ー倭国と東〔魚是〕国
https://35546864.at.webry.info/201105/article_4.html
「東〔魚是〕人」(東?人)の〔魚是〕の文字です。
*是→「ティ」、と読むときは、「ふち」「さかい」「はし」という意味につかいます。
つまり、「一番端っこ」というときに使われる文字ということになります。
そこで、「東是人」となれば、“東の一番端っこの民族”という意味となります。・・が、この場合は違います。
「是」の文字にサカナ(魚)偏が付いているのです。
このナゾを古田氏は解いたのです。それは・・・、「高句麗」の中の「麗」の文字についてです。
三世紀「魏志」の中では全て、この「麗」の文字を使っています。
ところが、宋の時代となると違ってくるのです。
「高句麗」の「麗」の文字が、五世紀の『宋書』の中では「驪」と、馬偏の付いた文字に変化して使われているのです。
これには、歴史的な由来があるのです。
(元嘉十六年〔439〕)太祖、北闘せんと欲し、lに詔して馬を送らしむ。l、馬八百匹を献ず。・・・・・・・・・・・(『宋書』高句驪伝)
〔注、「l」は、高句麗王(長寿王)の次の王の名です〕
つまり、「l」王のとき、馬が特産物として宋王朝に献上されたことを述べているのであり、その特産物の馬に因んで、
「高句麗」の「麗」の字に馬偏を付けて、書類上の記載時には「高句驪」という名の国名に取り替えて使っていたのです。
・・・・・古田氏は、ここからヒントを得たのです・・・・・。「是」に「魚」偏を付けて〔魚是〕という文字の創出へ・・・、と。
つまり、「漢」の時代から、この特産物に因んだ名前の付け方に由来していた・・・、のだ!・・・、と。
「東〔魚是〕人」の意味とは・・・、
““列島に住む「倭人」の隣の一番東の端っこに住む、魚を献上してきた民族””に対して、「東〔魚是〕人」と名付けていた、ということです。
東〔魚是〕人Aー鯷〔魚是〕(テイ)と銅鐸
https://35546864.at.webry.info/201106/article_1.html
金印の「倭人」と銅鐸の東魚是*(とうてい)人」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamaic33.html >>122 >>132
台湾先住民には入れ墨文化があるが、彼らは山岳民族で米は作らない
入れ墨をしてるタイヤル族というのは首狩り族で山岳地域の焼き畑狩猟民
一番多いアミ族は米を作る一方で漁業や畜産も。母系氏族だが入れ墨の習慣はないようだ。
台湾の原住民族 - 台北駐大阪経済文化弁事処
https://www.roc-taiwan.org/jposa_ja/post/169.html
2018年4月17日
台湾 先住民の入れ墨文化「紋面」消滅へ 映像などで保存
https://mainichi.jp/articles/20180418/k00/00m/030/081000c
> 【苗栗(台湾北部)福岡静哉】台湾で、先住民族が成人の証しに顔に入れ墨を施す無形文化遺産「紋面」の保持者が
> 90代の2人だけとなり、消滅の危機にひんしている。
>
> 行政院によると、紋面は台湾北部のタイヤル族、セデック族などが受け継いできた伝統。男性は狩猟、女性は… なお、アミ族が米を作るようになったのはいつからなのかは不明だ 魏志倭人伝は女王の名に卑の文字をあてつけて用い、
国名には邪の文字を押し付けている
だがそこには牛も馬もいないとし、米にも言及がないのに、
なぜ国名や人名にはあえて牛や馬や米の文字を使用しているのだろうか? 縄文人というのはアイヌ人と共通祖先をもつ北方系種族とように思われて、
アイヌ人はあくまで縄文系が北方のオホーツク民と混血した者なのであって、
やはり縄文人は南方に出自し、マレーシアなどの南方系種族ということになってきてる
であれば、縄文系の沖縄民が太平洋海洋文明的特質を持ってるのは当然で、
それは倭人伝の邪馬台国の記述に示された特徴にも通じている
2011/12/05
【人類】アイヌ・沖縄同系論 研究進む祖先の歩み
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1323033748/
2012/10/31
【社会】日本列島に住むヒトの集団の中では、北海道のアイヌは本土日本人よりも琉球人と近縁性が高い
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1351688582/
2014/09/18
【国内】沖縄人ルーツ「日本由来」 南方系説を否定 ★2
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1410968500/
2018/07/13
【人類学】縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? ゲノム配列解読[07/11]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1531460749/256,260,272 百越は長江文明の継承者だが、
稲作は収穫高に優れて人口増産に適し、集落社会の急速の発展に結びつく
そのための灌漑を通じて社会の統制は強化されるも、
農作業に労力と時間を拘束される労働集約型の欠点がある
稲作に適した水資源の豊富な地域は大河や沿岸部に位置し、
蛋白の摂取のためには漁業とセットの産業構造となる
漁業もまた、漁師を長期間海洋に送りだすため人員を拘束される欠点がある
こうして稲作漁労社会は、農業に漁業に人を縛られて戦闘要員に事欠くことになる
一方、漢族は北方文化の黄河文明の民だ
畑作は、畑に種を撒けば勝手に作物が育ってくれる
近場の草原に家畜を放せば数人で放牧が可能で人手を要しない
魚類は痛みを感じないから下処理に気苦労は不要で、必要な道具は鋭利であるだけでよい
だが家畜の食用化のための屠殺には、その抵抗を圧し潰すほどの凶器と狂気が必要だ
それは対人攻撃にも通じる強靭さを涵養するだろう
耕作に関してもぬかるんだ稲田より、乾燥した畑の方が開墾掘削のために農機具に破壊力が必要だ
要するに稲作漁労民よりも、畑作牧畜民の方が戦闘に有利な社会なのである
戦闘力に秀でた彼らは、収穫倍率の高さからより繁栄している稲作社会に嫉妬してその富を奪いにゆくだろう
今日では火器の発達により戦闘における肉弾的な対決が不要になって、
戦闘的な気質や日常の仕事道具の特質が直接の戦闘力を分けることはなくなったがかつてはそうだった
それゆえ百越は漢族に敗れ去ったし、敗れ去ったものが華夏の外縁部に存している
倭人の主要部族もまたその一つだろう
倭国に渡った百越の子孫が築いたであろう弥生社会はその後にどういう未来を迎えたのだろうか? >>136
東〔魚是〕(テイ)人というのはその所在するところが未確定だが、
魚を献上する漁獲に優れた民だと想像がつく
近年は中国との尖閣紛争に乗じて、
台湾が尖閣周辺の暫定水域への出漁をゴリ押ししてきて、
結果、領有権を棚上げして入漁を認めることになった
尖閣周辺は石油ガスが埋蔵されてるからプランクトンやエビがいて、
際だって魚が豊富だから漁民は喉から手が出るほど出漁したいエリアとなっている
魚是人を20数島の先島諸島の民と位置付けるならば、
そこに尖閣諸島が含まれる以上、漁業に特徴を持つ部族であるとの解釈に符合することになる
また、邪馬台国が沖縄の漁猟社会を指してるのだとすれば、
狗奴国との激しい対立の構図は、漁場を巡る争いだったのではないかと想像できてくる
もっとも古代には漁船に冷凍設備がないのだから、遠くの尖閣海域から沖縄まで
腐らせずに漁獲物を持ち帰ることは困難だったろうが、
より近海の漁場に限っても争いは絶えなかったはずだ
近年でも日本が韓国との間で抱えている竹島領有権問題はその発端が李ラインの設定にあり、
日本統治時代の竹島周辺海域での漁業権益継続を狙う韓国の横暴が背景だった
尖閣問題も発端は石油ではなく、漁業権を原点として複雑化している
アイルランドとイギリスとの間のタラ戦争も有名である
好漁場を巡る紛争が、周辺の島や岩礁の支配権の争いとなり、
やがては共同体や国家間の戦争へと発展することは自然の成り行きだろう 2015/01/15
【国際】日台漁業協定、ルール議論で平行線 現行ルールでは台湾のために「操業自粛」を余儀なくされ、日本側に不満募る [転載禁止](c)2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1421247728/
2015/12/10
【漁業】台湾のサンマ水揚げ量、今年は去年の半分程度 [無断転載禁止]c2ch.net
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1449714535/24-25
2016/04/29
【SAPIO】台湾の「尖閣抗議団」が反日ではない理由…漁民は領土問題とは無関係[4/29]
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1461912955/1-2,76-77
http://log●soku.com/r/news4plus/1461912955/1-2,76-77
2018/04/05
【釜山水産業界】 「韓日漁業協定妥結を待っていたら漁民は死んでしまう」★2 [04/05]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1522895934/
【韓国】 日本との漁業協定 今月内に妥結しないなら「決断」=韓国閣僚 [04/05]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1522901851/
2018.6.7
難航する漁業協定交渉に焦る韓国、「EEZを引き直せ」とは正気か?
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180607/soc1806070005-n1.html 沖縄、宮古、八重山でDNAに差違があってそれが2000年前以前からだとすると、南西諸島は単一種族ではなかったことになる
海に隔絶された近場の閉鎖社会同士でそうであるなら、元来は彼らは異文化異種だったわけだ
先島か、そのうちの宮古か八重山がテイ人だったという想定が現実味を帯びてくる それだけ近場で似た地勢環境にありながらも異種を維持し、その後の交流をもおそらく忌避してのか不均衡な混合に留まったのなら、
その理由は不服従や対立だったと考えざるを得ない
沖縄と先島は敵対関係にあったはずだ
それを邪馬台国と狗奴国との抗争になぞらえることが可能だろう
先島が台湾から南越を経て南朝に通じてたなら、沖縄は難儀を強いられながらも九州から対馬、半島を経て北朝に繋がりを求めよう >139
記紀が蘇我氏に馬子以下、嫌みな名付をした風に、
貶める意味を込めて国名や人名に動物名などを入れるも、
難升米については教養ある漢族の出自だから免れたという解釈に至った >>148
>教養ある漢族の出自だから免れたという解釈に至った
いや、>>148の解釈は、歴史の真実と何の関係もないから
「教養ある漢族の出自」って、どこから出てきた? >>149
難升米は外交官のような存在だろ
中国に貢納するのに独自のつてがあり、中国語が理解できて漢字が読めたはずでナチュラル未開社会人には無理
>>117
卑しい者が支配してる邪な国にはない物で名付けてる
牛馬がいない、だからお前が牛、お前は馬を名乗らす、みたいな
でも漢族の難升米は大事な米にしてやる、そう言う当て字だと想像してる だから邪馬台国は米をほとんど産出してなかったと考える それと蘇我氏も馬だの鹿だのと、
でも稲目は米なんだな 難升米が、魏志倭人伝を引用している日本書紀の神功紀では難斗米に変わる不思議 >>154
1斗=10升だ
日本側は米の量を10倍に増やしたことになる
これは倭人伝の命名の意図するところを理解してそれを屈辱に感じ、
意固地に増産したためである
それでも今日において斗米=僅かの量、僅かの給料の意味となっている
邪馬台国は米を獲れない、
それは古来より公然たる国際常識だったと言える 沖縄でも米は穫れるんだがな
>>156は、沖縄説を批判する立場なのか? >>159
対馬や壱岐に比べれば島も大きいし、当時の人口分くらいの米は取れると思うけれど?
まあ、7万戸は無理だろうけれど >>161
私は、沖縄は無理だと思ってるんだけれど、
魏志倭人伝には米作、水田稲作のことは書いてないから、
米があまり取れない沖縄がばっちし条件に当てはまるって言ってる人がいるんだよ
>>156とか 7万人じゃなくて7万戸だもんな。実数だと仮定すれば
30万人くらいの大都市になる。 >>164
沖縄説のスレまで来てそれかよw
九州説は本当に自己中で、しかも頭が悪い 沖縄の可能性も検討しに覗いてみたが、やはり福岡ということに考え至った次第。
いつも福岡前提でいるわけではない。 >>160
8世紀沖縄のコメの主生産地が伊平屋だと言うんだぜ中国の史書では>>113
そしてそれ以前の生産記録はなく、
遺跡にもない
古代沖縄はほぼコメを作ってないはず 古代日本人の発音と大陸の漢字
https://blog.goo.ne.jp/ikejun_2007/e/82afb37ed34da5470bd46acc3285fec1
魏志倭人伝に登場する人物(難升米と牛利)
https://blog.goo.ne.jp/ikejun_2007/e/9c7f8699954773b744dae556c8a342ae
このサイトの考察には同意できない部分がある
漢字は自己申告ではなく、中国側に一方的な当て字だろうし、
の地位やその後の足跡についても>>117の、
難升米は漢族 http://www.lun.ac/history/wa-3c/nanshoumei.php
の理解の方が妥当だと思う
ともあれ、普通の文字適用であれば、
「奴斯目」あたりが妥当ではないか?
それが”米”を含む「難升米」にしたことには相応の意味が込められたはずで、
これは對海國で<無良田食海物自活 乗船南北市糴>、
一大國で<差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴>の
「田に不足して「市糴」してる、との記述に対応したもののはず
この「田」や「市糴」について、
以下のサイトでは、
魏志倭人伝(原文、書き下し文、現代語訳)
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
<田んぼ(稲田)に不足して、南北の国に米を買い入れに行ってる>と翻訳している
ただ、中国語では”田”=畑および稲作田の両義性があるのだから畑を意味してる可能性があるし、
”糴”に関しても、日本では一般的に米の買い入れを意味することが多いが、
厳密には穀物全般を対象にしてるのではないか?
であれば、正当な解釈は
<良い畑がない、やや畑があるのだがいくら耕しても食料を満たせず、やむなく南北に赴いて穀物を買い入れている>
という理解もあり得るのではなかろうか? 熟語の読み・一字訓読(その335):糴 糶
https://blog.goo.ne.jp/syuusyuu9701/e/4e02d38de27068ee4982cb38488b0e15
<糴:テキ、か(う)、かいよね、いりよね>
<糶:チョウ、う(る)、うりよね、だしよね、せり>
糴:テキ、か(う)、かいよね、いりよね
意味 :@かう。穀物を買い入れること。「糴糶(テキチョウ)」 Aかいよね。買い入れた米。いりよね。対)@A糶(チョウ)
大見出し:〈糴取(せどり)〉:同業者間の売買の仲介をして手数料を取ること。また、その人。「競取・糶取」とも書く。
糶:チョウ、うりよね、う(る)、せり *「だしよね」の訓掲載ナシ。
意味:@うりよね。売りに出す米。だしよね。また、穀物を売り出すこと。対)糴(テキ) Aせり。せりうり。競売。
下つき:糴糶(テキチョウ)
大見出し:〈糶取(せどり)〉:同業者間の売買の仲介をして手数料を取ること。また、その人。「競取・糴取」とも書く。
糶(せり):@多くの買い手に値段をつけさせ、最高値の人に品物を売る方法。せり売り。競売。「・・・に掛ける」
A競争すること。せり合いをすること。「競り」とも書く。
糶市(せりいち):せり売りの市。売り主が複数の買い手に価格のせり合いをさせる市。「競り市」とも書く
糶売(チョウバイ):@米を売ること。売り米(よね)。 Aせり売りすること。競売。
=主として大字源から=
<糴>
糴価(テキカ):買い入れる米の値段。
糴穀(テキコク):穀物を買い入れること。
糴糶(テキチョウ)穀物を買うことと、売ること。
糴買(テキバイ):穀物を買うこと。
市糴(シテキ):穀物を買い上げる
<糶>
糶糴(チョウテキ):@穀物の売り買い。糴糶。 A売り出す米と買い入れる米。
糶米(チョウベイ):米を売ること。
販糶(ハンチョウ):米を売り出す。
市糶(シチョウ):市場に売り出す米 邪馬台国が常食にしていた肉というのは豚だったのではいか?今日でも沖縄では豚料理が有名だ
また、弥生人は米は炊いて食べてたようで、
炊いて料理する習慣があるなら、野菜は生ではなく同じ様に炊いて食べるはずではないか?
そう考えれば、生野菜を常食にしていた邪馬台国では米は食べてなかったと考えるのが妥当だろう
弥生時代の人もコメを炊いて食べていた
http://best-times.jp/articles/-/1483
当時の生産力は高くなかったという意見もあるが、中期以降の西日本の平野部では1日に必要なカロリーの半分程度は十分に満たしていたという試算がなりたつ。
また、倭人伝には「牛馬なし」と記されるが、家畜のブタの存在が明らかになった。…餌が与えられることによって、頭骨や歯に違い
がみられ、歯槽膿漏が増える。発見された骨にこうした特徴がみられることや、若い個体が多いという年齢構成から家畜のブタが
飼育されていたことがわかる。
イヌも猟犬としてだけでなく、食用にもされた。長崎県壱岐(いき)の原(はる)の辻(つじ)遺跡は一支(いき)国の中心集落であるが、
肉を取るため解体された骨が大量に出土している。
…土器に残ったススやコゲの痕跡と出土品を比較して、…
弥生時代はコメを蒸して食べたのではなく、現在と同じように炊いて食べることが一般的であったことがわかった。
また、古人骨に残るタンパク質(コラーゲン)の炭素と窒素の同位体(アイソトープ)の比率を分析することで、…
この手法を用いて、北部九州の弥生人がコメを含む植物質食料で8割近いカロリーを満たしていた結果が得られている。
・クリ、ドングリは縄文時代からの伝統食だが、弥生時代になっても各地から出土している。
コメの不作をカバーするものとして重要だった。
・漁でとっていたのはカキやアサリ、ハマグリ、タイ、サワラ、スズキ、コイ、フナなど。
海に近い集落だけでなく内陸の遺跡でも、貴重なタンパク源として魚介類が食された。
・狩猟ではイノシシ、シカ、野鳥などを獲物としていた。猟犬を使って弓矢でイノシシを狩る絵が銅鐸に見られる。
家畜のブタの飼育も導入された。 >>93 >>87 >>99
>>95
>>88-89
世界最速の大隆起!うごめく台湾の大地が生み出す大奇観!〜『グレートネイチャー』
https://www.youtube.com/watch?v=bEwWCXxaVR4
> 900万年から600万年前、フィリピン海がプレートがユーラシアプレートに衝突して
> 堆積物を剥ぎ取るようにして持ち上げ始めた。その堆積物が海上に姿を現したもの、それが台湾。
> 今もフィリピン海プレートは年7cmという猛烈なスピードで移動している。
体感!グレートネイチャー 「“怪速”!大隆起の絶景〜美麗島 台湾〜」
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2016067378SA000/index.html
驚き!地球!グレートネイチャー選「美麗島 台湾 世界最速の大隆起!」
http://www4.nhk.or.jp/greatnature/x/2018-08-16/10/2485/2170065/
8/16 (Thu) 12:00 〜 12:30 (30分)
NHK BSプレミアム(Ch.3)
番組概要
「美麗島」と呼ばれる台湾では二つのプレートが地上で衝突、世界最速の隆起が起こっている。
断崖絶壁の大理石峡谷、月世界、朝日に染まる玉山など絶景・奇観が続々登場。
番組詳細
“美麗島”の別名で知られる台湾。その名の通り、大地には絶景・奇観が続く。
標高差千メートルの断崖絶壁、大理石の大峡谷、“月世界”と呼ばれる不思議な泥の山並み。
そして朝日に輝く最高峰・玉山。こうした絶景の誕生には、「世界最速の大隆起」「地表でのプレート大衝突」という
台湾にしかない独特の地殻変動がかかわっていた。 台南台地の高速隆起 (1±0.5cm / 年 ?) に関連する最近の研究動向 杉山雄一
https://unit.aist.go.jp/ievg/katsudo/ievg_news/afrc_news/no.20.pdf#page=6
台湾南西部の台南台地については,’96 〜 ’98 年の InSAR データから,約 1.5cm / 年という非常に大きな隆起速度が
報告されている.地質学的なデータからも,0.5 cm / 年程度の大きな隆起速度が報告されているが,台湾では InSAR による
隆起速度が地質学的な long-term の隆起速度の 3 倍あることが注目さ れている.
富士山より高い!台湾の最高峰「玉山」登山にチャレンジ
https://www.travel.co.jp/guide/article/6246/
玉山の旧名は「新高山」。日本の台湾統治時代に測量をしたら、富士山(3776m)より高い山であることが分かったので、
「新しく見つかった高い山」=「新高山」というわけです。標高は3952m!
皆さんの台湾のイメージと違うかもしれませんが、台湾における3,000m峰の数はなんと200座以上!
日本は21座ですから、いかに台湾が「山国」かわかると思います。
写真のようにこれらの高山が連なる姿を見下ろせるのが、玉山なのです。 >>171-173
台湾は年1.5cmというハイペースで隆起しているという。
これはフィリピンプレートが北西方向に年7cmのスピードでユーラシアプレートに衝突し、
年3〜5cmずつ沈み込んでいる地殻変動の結果だ。
この衝突と沈み込みにより海上に押し上げられているのが台湾なのだ。
フィリピンプレートは年3cm〜5cm、北西方向に沈み込んでいる。
ちなみに太平洋プレートは西北西に年8〜10cmの沈み込みである。
これらはいずれも大地震の発生サイクルを作り出す原動力ともなっている。
年3cmを100年継続して3mに、年10cmを40年継続して4mに達すると大地震のリスクが高まってくる。
しかしその地震で解放される歪みは一部分にすぎず、
更に年月を経て、全解放をもたらす破局的な大地震がもたらされている。
こうして隆起し続ける台湾では、標高3952mの玉山が背を伸ばし続け、
今や我が霊峰富士(3776m)をも上回ってることはけしからん話ではある。
あの決して登ってはならないニイタカヤマノボレの旧・新高山のことだ。
それどころか、あの小さな島の台湾には3000m級の高山が数百もと、まるで砂利のように転がっているのだ。
それほどこの地域の地殻変動は劇的な効果を残している。 仮に台湾の隆起することの反対給付が沖縄の沈下であると考えてみよう。
むろん、地殻変動がもたらす物理的な関係性がそのような単純なものであるわけはないにしても、
年1.5cmのペースは2000年換算でで30mに相当してるのだから、周辺への影響は無視できない。
そちょうどそれと釣り合うように、沖縄の海底遺跡の水深は、概ね20〜30mと確認されているのだ。
仮に遺跡が確かに地上から水没したのだとしたら、
それは台湾の山脈が背を伸ばすように、平均的、持続的に、ゆるやかに沈下して行ったのではなく、
周期的破断のような方式で、地の底が抜けるように突如として沈下することを繰り返してきたはずだ。
その周期性の裏付けが600年間隔と推定されている琉球列島への大津波の痕跡である。
1771年の明和の八重山大津波はM8巨大地震の副産物である。
かくして長い年月をかけて積み上げられた文明が、賽の河原のごとく、一瞬のうちに消失することになった。
繰り返された大地震津波は、かつて280年〜700年の間にも発生してることが確認されている。
であれば、沖縄海底遺跡群がその際に水没したという可能性を否定することはできまい。
沖縄の海底に沈む遺構に残された矢穴や鍾乳洞は、それが確かにかつて地上にあったことを示している。
今我々がその遺構に遭遇して驚嘆する時、彼らもまた、かつて王宮として栄華を誇った時代を振り返り、
自身を愛でた地上の主との数千年ぶりの邂逅を懐かしく思っていることだろう。 >>175
>仮に台湾の隆起することの反対給付が沖縄の沈下であると考えてみよう。
>むろん、地殻変動がもたらす物理的な関係性がそのような単純なものであるわけはないにしても
沖縄もフィリピン海プレートに押されて隆起する側だよ
いい加減なことを書くとますますトンデモにしかならない >>176
しかし東シナ海の大陸棚は琉球孤の東で窪んでるよね
沖縄トラフのことだよ
押されてただ隆起するだけならへこむはずがない
ある時、受ける力を分散するために蛇腹のようにうねりを作り出して、
隆起と沈下とを重ね合わせにする構造を作り出す
日本列島もまた東南から押し上げられるも、北方に日本海、中腹に瀬戸内海という窪みを抱えている >>170
土地の食文化はその地域性に由来するもので歴史的なものだ
鯨と違ってイルカ食は日本人に馴染みはないが、和歌山の太地町のそれは国際的な論争を呼んでいる
今では食べなくなった鯨は縄文以来の伝統だった
壱岐での犬食痕跡は現在との繋がりを持たないが、それは鯨と同じで代替があって絶えたものだ
だが近場の韓国では今でも犬食で鳴らしている
かつて食してたのはゆえあってのことだろう
だから沖縄が豚料理に特色を持つことは地理的伝統的であり、
関西が豚の関東と比較して牛が主流であることもまた古代からの歴史的な因果を持っている
きっと沖縄にあったろう邪馬台国は豚を常食にしていたに違いない 2018/08/14
【お江戸の人らは稗や粟を食べてはるらしいどすなぁ】江戸時代の毛髪分析で食生活判明 上方人は江戸っ子より米を多く食べていた可能性
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1534241043/ http://geo-scape.com/okinawatikei/
沖縄の海岸線は白砂のビーチしかないイメージだが、実際は地盤の隆起にともなう険しい海食崖が圧倒的に多い。 >>181
隆起する地点もあれば沈下する場所もあろう、時によればその逆にもなる
例えば高知で顕著に生じている >>87
この東日本震災では東北の沿岸部で複雑な変動が起きたことは記憶に新しい
邪馬台国論にさほど興味があるわけでもないが、その所在論の一つに近江説があって、過去にそのスレに
いくつか投稿してたことがある
対馬を佐渡に置き換え、水行を琵琶湖水に求めたその発想の、
コペルニクス的斬新さを認めたからだ
考古学や社会的な時事ニュースを元にしたレスだった
こうした学究歴の盲点を付く新説の弱点というのは往々に、
物理的証拠に欠くという面にある
確かな遺跡があるのなら過去に誰かの検証にさらされるのだから当然の話だ
近江と言うならそのどこなのかで隘路に陥ってしまう
あえて近江に求めた中の一つが近年発見された琵琶湖底の沈没遺跡だった
それらは比較的新しく古代遺構はまだ見出だされてはいない
だがそれにしても湖底に没して存在を知られずに済んでいた遺跡は、
その発見により新たな歴史観を創出する可能性を持ち得るだろう
そして琵琶湖沿岸部の水没は、
プレート運動に伴う隆起で成立する日本列島が、実際にはその細部において、複線的に変動してる実態を証明している
琵琶湖それ自体が隆起する地形の中で
逆方向に運動した窪みに他ならない
水没地帯はそうした潮流に飲み込まれたのだろう
沖縄についても同じ想像が成立する >>182
>同じ想像が成立する
どこまで行っても想像でしかない
科学にはならないよ
近江は伊勢遺跡をはじめとする野洲川流域に山ほど遺跡がある
この野洲川が高天原の天安河だとか言い出す人がいてもおかしくないし >>183
想像と言うのは沈下理由についてだよ
沈下した事実それ自体は、まさに海底遺構の歴とした存在がそれを証明している >>184
>沈下した事実それ自体は、まさに海底遺構の歴とした存在がそれを証明している
どれのことだい?
海底遺構だと「言ってる人がいる」だけだと思ったが? >>185
10歩譲ってそれが遺構ではないとしても、沖縄の一部分が沈んだことは事実として確定してる
なぜなら海底に鍾乳洞は形成されない
それはこのところの言い争いにケリをつけてる
沖縄は隆起してるのか沈降してるのかという件の話だ >>186
>10歩譲ってそれが遺構ではないとしても
それが遺跡じゃなかったら、沖縄説は根拠となる遺跡が一切ないことになるよ
沈降、隆起以前の話になる
そして海底鍾乳洞一つと、海岸線の多くが地盤の隆起にともなう険しい海食崖に
なっていることを比べれば、局所はともかく、全体的な傾向としては隆起しているのは明らかだろう 沖縄の狩猟道具は海南島のそれと同一だと記されている
それは文化伝播の結果だろう
海南島先住民は百越であり稲作民だ
稲作道具もいずれ伝播して不思議でなかったはずだ
そして8世紀に沖縄では、
伊平屋にて米作が盛んだった記録が残されている
だが沖縄に弥生稲作の痕跡は認められないのである
なぜだろうか?
この事実は海底遺跡とも目される構造物の、大津波を伴ったであろう沈下の時期を示唆していると言える
縄文系の血筋からして、弥生期の沖縄に人が住んでいた事実は否定のしようがない
さて、沈下地帯に人は住んでいたでしょうか? 私もうかつだったけれど、鍾乳洞ができるほどの時間軸と、
2000年も経たない程度の邪馬台国時代を比べるのは無意味だわ
調べたら今の沖縄の隆起速度は 年に1.5ミリくらい
千年でも1メートル半くらいだ
20メートルも動いたりはしない
海底鍾乳洞ができたのはもっとずっと昔の氷河期の海退期だ
その頃にはまだ邪馬台国は影も形もない まあちょっとうかつだったわ
検索の手数を惜しんでしまった
海底に鍾乳洞は形成されない、
そう言ったのは木村政昭であって他の誰でもない、
動画にはっきり証拠が残ってる
それを引用したまでだ
あくまでそこで形成はされないと言ってるだけわけだが
ともあれ問題は形成過程に関する見解の相違だな
宮古島は珊瑚礁が隆起して出来た島で、
200ほどの鍾乳洞が密集している
海進した水没期に再石灰堆積してそれが侵食された結果としても、
それでも一時水面上にあった海底遺物界隈の方にだって、
もっと多くの水中鍾乳洞が存在してても良さそうじゃないか >>191
>海進した水没期に再石灰堆積してそれが侵食された結果としても、
陸上に石灰岩層がある時点で、隆起していることの直接証拠だろ?
>>192
>それと慶良間海裂あたりが沈降しているものと受け止めてる
>全体が隆起してるとするのはシンプルすぎだろう
なんにしても、>>190に書いたように、隆起にせよ沈降にせよ、
地質学的時間スケールの話で、10万年単位の話
卑弥呼の3世紀から現代までの2000年に満たない時間では、考える必要はない
邪馬台国の遺跡は海底に没しているとかいうのは、トンデモ以上にはならないよ
これにこだわるのは止めたら? >>194
>アトランティスは水没したとされるし、
おいおい、それを信じて根拠にするなら、オカルト板にでも書きなよ
東日本大震災でも、何十メートルの上下方向の地殻変動なんてなかっただろ?
たかだか2000年のタイムスパンで、陸が沈んだとかいうのはタダのトンデモ説 ナイルの河口域にも沈下水没した地域があるし、ある程度それをおもわせる痕跡は
じっさいにはあるんだろうけれども、超古代文明とかまで行くのはただの「お話し」だわな。
なによりまず物証だよ。 話がトンデモに振れると、人がいなくなるんだよな
まあ、しょうがない URLやコピペみるためにサイト巡回してるわけじゃないので 一応、沖縄にもアトランティスならぬニライカナイの伝承があるからな
西じゃなくて東の彼方か海底てことだけど
もしかしたら東に千余里離れた倭種の国やら侏儒国のことかも知れないが 倭種國=伊豆諸島
侏儒國=小笠原
裸國黒齒國=マリアナ諸島 >>199
> 琉球弧は海底地形の二大境界線である吐喝嘲(トカラ)海峡(悪石島と小宝島間)と慶良間(ケラマ)海裂(沖縄本島と宮古島の間)
> を境にして、大きく「北琉球」「中琉球」「南琉球」の三つの島弧グループに区分される(木崎・大城1980;町田ほか2001)。
> 4 原史・古代
> (3)中琉球グループ
> 一方、沖縄諸島では貝塚時代後期(約2,200〜1,000年前)に相当し、サンゴ礁の海を生活基盤にした「漁携文化」が発達した。
> 遺跡の立地は主に台地に生活していた人々が、標高約5m〜10m前後の海岸砂丘に集落を形成するようになり、
> 遺跡集中地域が確認され、半島状に海に突き出た地形周辺の砂丘上に立地し、大規模な貝塚も多く形成されている。
> これは眼下のサンゴ礁海が漁携生業の中心であった為で、これらの大貝塚からは大量の大型貝、魚骨に加え、陸産のイノシシ骨も
> 多く出土した。それは狩猟・採取活動が活発に行われた証左でもある。
>
> 住居は砂地に掘っ立て柱を立てた四角形の平地式であった。
> (4)南琉球グループ
> 新石器時代後期(約2,200〜1,000年前)に相当する。不思議なことに、今まで使用していた土器を忘れ「無土器文化」になってしまった。
> こうした現象は、オセアニア地域の一部(ポリネシア)にも認められるが、他に例を見ない珍しい現象である。遺跡は海岸砂丘に立地
> することが多く、集落規模が前期に比べて拡大している。前面に広がるサンゴ礁の海から得られる豊富な食糧資源に支えられて、
> 人口の増加があり漁携活動は頂点に達していた。 弥生時代の住居なんてて掘立小屋だろう
遺跡と言ったって穴があるだけだ
畿内九州の本土のだって、考古学者が発掘調査してるのって、
地面掘り返してここに建物跡を発見したとね
現場写真で、地面に柱跡とされる穴が並んでて淵を石灰でマークしてるやつ
コックリさんの硬貨みたいなもんで、脳内イメージで都合よく掘ってるんじゃないかと
沖縄の場合に至っては弥生集落は海岸砂丘に築かれていた
津波にさらわれたら跡形も残らないだろう穴すらも
さらわれるまでもなく年月を経たら消えてて当然だ
仮に邪馬台国が沖縄だったとしても証拠なんて残ってるわけがない
沖縄に残ってないからこそいまだ邪馬台国論は帰趨するところを知らないんだよ
まして戦災による消失があり、戦後は米軍基地の問題がある
普天間の珊瑚礁埋め立てる連中なんだから、
建設中に見つけても無かったことにして破壊したはずだ
日向串間の王の山古墳も江戸時代に農民が開墾破壊して歴史を失ってる
だが普天間返還されたら跡地から何か出るんじゃないか?
木綿原遺跡 もめんばるいせき
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/140087
https://www.odnsym.com/isan/momenbaruiseki.html
沖縄の歴史・文化 沖縄の“縄文・弥生時代” そのT
https://blog.goo.ne.jp/tommz_1938/e/f06db9b0cbc1f53e6aa5329103d4dfa1
沖 縄 諸 島 に お け る農 耕 の 起 源
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/niso/1996-12-27/s001/s018/pdf/article.pdf 沖縄本島周辺のサンゴ礁は、辺野古埋め立て云々の前に、
本島の土地開発伴う赤土の海への流入でほぼ壊滅してるんだけどね
人間の幸せ追及の経済開発の前には、珊瑚の保護は軽んじられてきたんだよ
辺野古にはジュゴンはいない
なのに反対運動では、ジュゴンの海を埋めるなとか言い出す
まあ、邪馬台国とは関係ないからこの程度にするけれど、
>>207のような書き込みはたいていは似非 ジュゴンがいないなら連れてくればいい。
畿内説のような国家主義者はアジアの平和を脅かす隣国を脅かす日本を望んでいるのだろうが良識ある市民は平和で隣国に素直に謝罪する日本を望んでいる。
畿内説→大和文化凄い、天皇凄い→俺凄い
畿内説はこのような愚者の信奉する所である。 >>208
2014/01/28
【琉球新報】防衛局、辺野古埋め立て調査でジュゴン31回確認
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1390886516/
2014/05/22
【基地問題】辺野古沿岸にジュゴン、食跡確認 2年連続
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1400762438/
2014/07/10
【沖縄】ジュゴン食跡、沖縄・辺野古沿岸部で多数発見、近くの島には貴重な鍾乳洞も…「埋め立て事業は中止して環境を保全するべきだ」
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1404947441/
2014/08/17
【沖縄】辺野古沖でジュゴン遊泳 共同通信社ヘリが撮影(画像あり)
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1408282404/
2014/08/20
【沖縄】辺野古沖でジュゴンの遊泳確認、緊迫の普天間移設現場から数キロ…海上警備でジュゴン、辺野古の海草の餌場に近づけず★2
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1408471981/
2014/08/24
【沖縄】絶滅危惧種“ジュゴン” 日本テレビが撮影に成功 辺野古沖 [8/24]
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1408877124/
2017/08/31
【生物】ジュゴン行方不明、専門家は 「工事原因の可能性高い」 沖縄本島北部c2ch.net
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1504175875/
2017/11/17
【沖縄】不明のジュゴンの鳴き音か 辺野古周辺海域で防衛局が8月に採取
https://asahi.2ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1508194807/
2017/09/27
【沖縄】辺野古埋め立て予定地に絶滅危惧種の「オキナワハマサンゴ」などが見つかる [無断転載禁止]c2ch.net [485540869]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1506518430/
2017/10/26
【沖縄】辺野古海域の希少サンゴ 沖縄防衛局が県に移植申請
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/ne●wsplus/1508996314/ >>211
例えば
2017/08/31
【生物】ジュゴン行方不明、専門家は 「工事原因の可能性高い」 沖縄本島北部c2ch.net
「もともといなかった」ジュゴンが「いなくなった」っていうフェイク記事だよ
こんなのを信じてたらバカを見るだけ >>199
このサイト、コンパクトによくまとめられてるね
読むたびに発見がある
各県ごとに1ページこういうのを作って欲しい 琉球弧の考古学 −南西諸島におけるヒト・モノの交流史−
http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/index.htm
> 4 原史・古代
> 琉球弧における本土の「弥生時代〜平安時代」(約2,200〜1,000年前)相当期は、中琉球南半の沖縄諸島では「沖縄貝塚時代後期」、
> 南琉球では「新石器時代後期」と呼称される。九州本土の文化は、北琉球や中琉球までは影響を与えたが、南琉球に於いては
> 「琉球王国」が近世期に統一するまで、全く別の文化圏であった。
> (3)中琉球グループ
> こうした集団的・組織的な漁携活動を通して、次第に村を統括する「権力者」(首長)層が出現してきたと考えられている(新田2003)。
> 6.まとめ
> (4)大交易時代の幕開け
> 南琉球(宮古・八重山諸島)との関係:南琉球グループと北琉球グループの島々は、お互いに目視出来ない遠距離にある。
> このことが先史時代〜両地域の文化的関係を疎遠にしていたが、1429年第一尚氏が「琉球王国」を誕生させた後、
> 両地域は初めて一つの政治勢力圏に統合された。
先島の宮古島と沖縄本島の距離は400kmもある
対馬海峡は200kmだ
視認できない区間を航海するのは難事業だ
對海國・一大國が乗船南北市糴と言うが、
宮古島以西(以南)の先島民は古代、沖縄本島には行ってないだろう
イメージとしては琉球諸島は一体的な地域だが、
実際には両者は古代においては完全に別の文化圏になっている
文化圏が違えば国が違うし、集団漁業の影響により権力機構が誕生している。
土地に縛られない漁業採取文化なら抗争も生じやすい
邪馬台国と狗奴国の対立だな 北琉球グループなのか、南九州なんだろうが、種子島って砂鉄が獲れるそうだね
海岸に鉄含有物が浮遊してるようなんだが、
内陸部に産出したものではなく、海底から出たものが漂着したとする説が有力のようだ
3世紀に倭人は弁辰で鉄をとってて通貨の代替としても利用している
魏志倭人伝は邪馬台国で鉄の鏃が使われてることを書いてる
まあむろん、鉄は交易で入手は可能だろうが、
古代製鉄と言えば出雲だが、なぜか種子島の名は挙がらないね
ともかくここに後世における国内統一に決定的な役割を果たした鉄砲が伝来したというのは、
物凄く奇跡的なことだと思う
Essay ★ 17 種子島:共通性と地域性 Letter★ これも種子島・砂鉄
http://geo.sgu.ac.jp/geo_essay/2006/17.html
鉄の歴史を持つ町
http://www.eonet.ne.jp/~etizenkikou/etizensi2.html
鉄のある町 種子鋏の町「西之表」
http://www.mtlo.co.jp/jp/valueone/metal/nishinoomote/nishinoomote.html
鹿児 島県 ・ 種子 島に お ける 種子 鋏製造の 伝統的技法 に関する調査研究
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180820144447.pdf?id=ART0008565475
閑話休題:種子島までの里程
https://blogs.yahoo.co.jp/rich036kit/15234897.html >>168-169
「市糴」というのは、米か穀物に限らず、広く「交易」を意味してるという解釈が正しいかもしれない
要は買い物に行くという意味だ
南北市糴(してき) 朝鮮半島と倭を結ぶ「和鉄 (てつ)の道」 8
http://infokkkna.com/ironroad/2011htm/2011iron/11iron08.pdf
> 魏志を読むと「国出鉄、韓、?、倭皆從取之」という記事と一緒に倭人伝 壱岐・対馬の記事の中に「南北市糴」という言
> 葉がでてくる。「糴」を何と読むのか不思議で 読めなかった漢字。「テキ」と読み、「米を買い入れる」ということから
> 「交易」を意味するという。 英雄たちの選択「古代史ミステリー 巨大古墳の国際戦略〜半島危機と倭の五王〜」[字][再]
8/23 (木) 8:00 〜 9:00 (60分)
NHK BSプレミアム(Ch.3)
番組概要
世界遺産推薦が決まった大阪の巨大古墳群。
5世紀中国南朝に使節を送った「倭の五王」たちの時代に作られた。
使節派遣と巨大古墳建造の理由を、東アジアの動乱の中に探る。
番組詳細
巨大古墳からは大量の鉄の武器が見つかっている。
「倭の五王」は鉄で勢力拡大した鉄の王朝だった。
ところが鉄は朝鮮半島南部でしか採れない。...
『英雄たちの選択「古代史ミステリー 巨大古墳の国際戦略〜半島危機と倭の五王〜」世界遺産推薦が決まった大阪の…』
https://tvpalog.blog.f◆c2.com/bl◆og-entry-491.html 伊豆に眠る遺構
◆ 撮影・西村純/伊豆半島、林原利明・東京海洋大学非常勤講師
週刊新潮(2018/08/30), 頁:5
グラビア
伊豆沖の初島の沖合の水深20mほどの海底に、
徳川幕府ゆかりの17世紀の遺構が眠ってるそうだ
沈没した交易船の積載物らしい
黒潮に乗って伊豆を経由して航行してる中途のことで、
伊豆は中継地点として重要だったようだ
縄文人だって黒潮に乗っている
もっと探せば古代の何かが見つかる可能性も無きにしも非ずだろう ここは邪馬台国も時代も関係なく適当なリンクを貼るスレですか? 沖縄本島における米軍基地は、島全体の中の2割弱ある
全体の中には山地や丘陵、森林も多く、
可住面積は5割だ
とりわけ米軍基地の占めてるウェートがかなりでかい
しかも普天間を典型に島の主要部に位置している
これでは考古学研究には制約が大きすぎる
森林部分も自然保護を理由として開発されることがないから、
古代村落があったとしてもその痕跡が発見されることはない
開発済み地域は遺跡なんて破壊し消し去られた後だろう
要は沖縄に関しては、考古学的知見をもってして望む結論を得ることはできない
http://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/kichitai/images/h27honntoubeigunnkititizu.gif 邪馬台国にかこつけて、沖縄の「今」を語りたいだけのパヨクスレになっちゃったな
もともとその気だったのか、過疎ったところで乗っ取られたのか 肯定するにも反論するにも大して論点あるわけじゃないからな
「たしかに言われてみればそうだよな〜」という
薄い反応で無視されるのが通常運転 沖縄説が本気出したら他はみんな吹き飛ばされるからな
気が気じゃないだろお前ら
怖くてしょうがないんだろほんとは
決着がついてしまうんだからな
そしたらお前ら脱け殻に屍になる いつ本気を出すの?
関係ない記事のURLをただダラダラ貼ってるだけじゃん? つか畿内説も九州説もおなじ論点だらだら繰り言みたいに
繰り返してるだけで特段の進展があるわけじゃないんだけどな。
ただ架空においてる仮説はあんがいもろいところあるから
そこ互いにたたき合うなかで琉球説みたいなのも説得力
出てきたんだから、まったくのムダというわけではない。 >>230
>琉球説みたいなのも説得力
>出てきた
どこに?
【沖縄】不明のジュゴンの鳴き音か 辺野古周辺海域で防衛局が8月に採取 とかのこと? >>199
> 5.大交易時代への幕開け
> 琉球弧の古代後半〜中世期には、中国、朝鮮半島、九州本土との広汎な対外交易活動が頻繁に展開されていた。
> 中国の正史『階書』流求(国)伝636年によると流求国には「王・小王」が存在し、
> また『日本書紀』によると616年、620年、629年、631年に液玖人が倭国へ来航したことが記されている。
> こうした史書の記述から、当時の琉球弧の各島嶼には「豪族」(首長層)が台頭し、
> 対外交渉を行っていたことが理解される(金武2003a,2003b;上原2003)。 日本史に於いては、沖縄の存在は薩摩が編入したところから始まってるイメージだ
ところが奈良時代推古紀(616年)に掖玖人(屋久島人)が来朝してきて多数が帰化しており、
朝廷側からも田部連を遣使(629年/舒明天皇元年)に出してる
この掖玖というのが屋久島に限らず琉球全域を指してる
この史実には猛烈な違和感を持ってしまうのだが、
琉球が大和朝廷に入貢する理由は、
隋が大業3年(607年/推古天皇15年)以降、琉球に侵攻してきたからだ
(実際には、琉球ではなく台湾への侵攻との説もある)
こうした琉球の機敏な行動様式なら、
かつては邪馬台国として魏に貢納したと想像してもおかしくはない
この時、琉球は朝鮮の3国のような外国扱いだ
しかし騎馬民族説はともかくとして、
記紀では外国である百済を自国史にように描いてて、
ほぼ倭国の一部のようなものだし、
親近なのに百済の王子を人質にとってたり、
一方で、百済から王子が帰化してるケースもある
記紀の記述には往々にしてその意味に表と裏がありがちで、
何気ない一文に深い意味が隠されてることもまた多い。
琉球との関係には単なる朝貢以上の意味があるのではないか この大業3年(607年)というのは、
本来は百済とともに南朝派である倭国が、
あえて遣隋使を送りだした年だ。小野妹子の派遣である
隋が琉球の王宮を陥落させ多人数を拉致連行した609年に、妹子が帰国している
先進文明の取得が目的とされるが、
対中外交はもっぱら半島情勢をにらんだ理由を持っているとしても、
時期的な関係から、遣隋使の目的には琉球問題があったのではなかろうか?
しかし琉球は当時、倭国の一部ではないのだから、それは遣隋使を出す理由にはなり得ない。
そこに倭国と琉球との解明されざる関係性があるように思える
ところでこの小野妹子というのは、実は蘇我馬子と同一人物ではないかという推論がある
小野妹子は隋で蘇因高と呼ばれたが、蘇我馬子の「蘇」に、いずれも男子名なのに「子」とつく。
妹子の子供は毛人だが、馬子の子の蝦夷と同義語になってる。
ここで隋書倭国伝に「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢」、
「?王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩?彌」、「王妻號?彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」と、
倭国王は妻子のある男王で阿毎多利思北孤(多利思比孤)だとされている
アメタリシヒコというのは小野妹子の氏祖である天足彦国押人命に通じるが、
むろん当時は女帝推古の時代だ
そうすると当時倭国の本当の王は推古ではなかったことになる 丁未の乱(587年)で物部氏を滅ぼして一極体制を確立した馬子は、
592年には”イノシシ”への夢想を理由に崇峻天皇に対して古代唯一の弑逆を実効している
遂には自邸宅を王宮と称したり、国書を編纂し出したりするなど、
専横が極まるようになった馬子は、公然と国王のごとく振る舞い出したのである
この背景に、妹子として渡隋した際、自らを国王と称し、
認知を得て下賜された品、例えば玉壁や黄幢のような物、
あるいは百済に掠取され紛失したものと後世に伝えられた、受領したはずの返書の内容、
それをして印籠のごとく掲げ、倭国の王権を簒奪してしまったのではないだろうか?
隋による琉球への侵攻時にそれがなされているわけである 一部仮説で唱えられている通り、、聖徳太子は架空の人物であり、
蘇我馬子(あるいは入鹿)と同一人物である。
史書に記された倭の五王は、その実態があくまで地方豪族でしかない
よって蘇我馬子が中国に承認された初の統一倭国王だったと言える
それは神代を引き継いだ初代天皇、すなわち神武天皇その人を指している
神武とは、馬子によって王朝が創始されるに至るまでの蘇我氏の来歴を一代記にしたものである
おそらくは蘇我氏が編纂した大王記(天皇記)を範にしたものだろう
以降の欠史八代は物部朝が列挙されたものであるり、
崇神以下、継体より前までの数代は、南朝の宋書倭国伝に記された倭の五王までの地方豪族である。
蘇我王朝を打倒(乙己の変/645年)した天智天武朝以降、
易姓革命を正当化するために創作されたのが大化の改新だ。
蘇我馬子は激しく貶められる一方で、その無視できない巨大な業績は聖徳太子のものと分離され、
名目の天皇には推古という初の女帝があつらえられることとなったのである。
聖徳太子と小野妹子と蘇我氏 No016
https://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/3b603887fa42e2c93b0c45e5f14c7652
『蘇因高は蘇馬子の音訳?』
http://ggb03124.o.oo7.jp/tondemo/soinko.htm
寄り道・『隋書倭国伝』の阿蘇山についてA
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/fb6adf7e933b63efc97d2af1c3b8a532 この場合の女帝の設定に、
魏志倭人伝の邪馬台国像が念頭には置かれていないだろうか?
女王卑弥呼を弟が補佐する二元政治が行われ、
卑弥呼没後に男王を立てるも大規模騒擾が生じ、
やむなく少女の壱与(台与)に引き継がせた
この時、卑弥呼が魏に使いに出した難升米は漢族だったという指摘もある
おそらく衛氏朝鮮(BC195〜BC100)遺民の、高位の燕(〜BC222)系中国人子孫だろう。
彼は卑弥呼が個人で任用した一代限りの客卿だった、
ゆえに卑弥呼没後の壱与の治世には姿を消している。
しかし難升米が有能なら、人材に限りのあろう邪馬台国では、
後代においても任官されるべき存在ではないか?
難升米は国王でもないのに詔書・黄幢(魏朝の軍旗)を拝領して直接告諭を受けている。
これは難升米が魏の軍隊を動かせるようになったことを意味する。
これにより邪馬台国の王権の簒奪を企てたのが卑弥呼没後の男王たる難升米だったはずだ
ことによれば卑弥呼は難升米に謀殺されたのかも知れない
だが民衆の離反に遭って放逐されてしまったのだ
つまり難升米と蘇我馬子は同じことをやったのである
それはすなわち馬子が難升米の手口を知っていたということに他ならない
であるなら蝦夷(毛人)や入鹿とともに後世に付与された蔑称とおぼしき
馬子の“馬”の字には、特別の意味が込められていると言えよう 武内宿禰を祖とする蘇我氏は、始祖の蘇我満智が実は百済の高官・木満致と同一人物だとする考えもある
だがそれは蘇我氏を百済系渡来人に位置付けるのが目的であり、真の始祖は蘇我稲目のはずだ。
むしろ木満致に紐づけられるべき者を暗黙裡に蘇我氏に結び付けたとも考えられる。
そのような作為は、蘇我氏が、魏志倭人伝に倭国盟主と記録された邪馬台国の直系子孫となれば、
その統治と強権に正当性が生じてしまうことを嫌ってなされたものである。
馬子の墓と比定される石舞台古墳が、弥生時代に絶えて久しい支石墓(ドルメン)であることも興味深い
従来、それを南洋巨石文明の観点から語ることは少なかったのではないか?
さて難升米とは違って、卑弥呼から壱与の二代に仕えたのが掖邪拘(掖邪狗) であり、
彼が難升米の存在に取って代わっている。
この掖邪狗という名前の意味についてはいろいろ分析されてはいるが、
個人的にはそれが掖玖(屋久島/=琉球全般)に関係しているように思えてならない。 中国統一(589年)以降の隋の対外拡張姿勢による、
琉球、もしくは台湾への示威行為は、おそらく史書に記される以前からその兆候を見せていたはずであり、
琉球人の来朝もまた、史実(612年)より前から発生していたに違いない。
570年以降に倭国との接近を模索した高句麗と蘇我氏との密接な関係は、
歴史的な北朝との結びつきに基づき、中国情勢への対応という共通の利害から生じたものと考えられる。
そのことと、北東アジアでは旧高句麗地域の北朝鮮と宮崎串間にのみ、
玉壁が発掘されていることとは関係しているのかもしれない。
かくして、琉球危機への対応が遣隋使の派遣と蘇我氏の国王即位をもたらし、
百済危機に対応して乙己の変が発生し、白村江敗北後の壬申の乱(672年)は、
倭国それ自身の危機と高句麗危機とに対応した引き起こされたのである。 >>233-242
(>233,235-237,238-239,242) 沖縄の語源がはっきりしてないね
琉球もまたそうで、元は台湾のことを指してたとも言う
沖縄は沖合いの<な=魚>の場、漁場の意味だとする説もある
日本海側の有力氏族に息長氏があって、
天皇家に后を送り出す外戚氏族としての特質があって、
応神や日本武尊など、ビッグなとこにことごとく絡んでる
てことは脚色用の仮想氏族の線も否定はできないんだが、
天武制定の八色の姓では最上位の真人姓に位置づけられてるのだし、
そこに結び付けることの政治的な要請があると言うことでもある
系図の不明な謎の氏族で、
地盤は近江とされるが吉備播磨にも関してて、
製鉄方面の氏族と考えられてる
近江というからに、継体の出自である
そして卑弥呼に似せて潤色された神功もまた息長氏なのである
とんでも色はあるが、
この息長と沖縄とは語源が同じという説がある
今、蘇我氏=沖縄=神武の仮説に立つと、
物部氏の祖先とされてるニギハヤヒと神武との最終決戦で、
互いを天神と認め合ったことの意味が説明可能にはなる 一応、見に来てはいるけれど、意味のある書き込みがないな 琉球はサンゴや宝玉のこと。この名前自体は明から授けられたものだと
はっきりしてる。ごちゃごちゃ語源など引っくり返す必要はない。中国側からの
名称だ。沖縄は沖縄土着あるいは日本系統からの古称。「ナハ」については
解釈は分かれるが「オキ」についてはおきあい(沖合)の意味だろうとういう
のが通説。 息長という地名が滋賀県にあるけれど、
息長姓の人は全国に10世帯前後のみとみられ、
和歌山と滋賀県に分布してるようだ
先日急逝した沖縄知事が翁長おなが氏。
それと古代の息長氏(いきなが、おきなが、きなが、しなが)とが同じ語源かどうかは不明だ。
翁長は沖縄固有の苗字らしく、琉球読みはウナガ
他にもおぎなが、おおなが、おきなおさ、など10数種類の読み方があるそうである。
村名末に翁長と付く地名がいくつかみられ、それがルーツと考えられる。
なお、奄美大島には蘇刈という地名がある 翁長姓は本土人からは珍しく感じるが沖縄ではメジャー苗字で、
沖縄で数千人が名乗ってるようである 沖縄方言は本土語との音韻対応で
オ段がウ段エ段がイ段になる3母音語だとの指摘がある。
つまりオキナワは沖縄現地ではウチナーなのである。(沖縄方言にキ音はなく全てチに音韻対応している)
本土人を指してヤマトンチュ
沖縄自身はウチナンチュということからもこの語が現代にも生きていることがわかる。 ニギハヤヒに仕えて神武に討ち取られたナガスネヒコも、
沖縄に多い仲宗根という姓に似てるね
沖縄北東部の今帰仁<なきじんそん>という、
観光で有名な古宇利大橋がある村(旧・間切時代)の地名から来てるようだ 旧間切り時代というか、旧間切りから今の市町村区分までずっと続いてる村名のようだ今帰仁村つうのは そのルーツはともかくとして、長髄彦ナガスネヒコというのは縄文系なのだと思う 江戸時代に藤貞幹と上田秋成が本居宣長と論争してる
貞幹は神武年代を否定し、神武が太伯の末裔で、恵平也(伊平屋)の生まれ、
天の岩戸はクマヤ洞窟としてる
このうち、神武の在位繰り下げは当然だし、
太伯の末裔というのは、弥生倭人が百越ルーツとする観点からは間違いとも言えない。
天の岩戸も、宮崎の仰慕ケ窟よりは確かに伊平屋のクマヤ洞窟だ
神武の母・玉依姫は、海宮(あまみ)の玉依彦の娘で、
この海宮が伊平屋だとするが、そこは奄美と言うならわかるが 伊平屋島は伊平屋伊是名諸島に属している
仲宗根の地名の今帰仁村のある、沖縄北東の東シナ海に突き出た本部半島の沖合だ
そして本部半島と伊平屋島の間にあるのが伊是名島
これが伊邪那岐・伊邪那美と同音じゃないか
論争が江戸時代からとすれば、
神話にかこつけて後から命名した可能性も否定はできないが
伊平屋伊是名諸島というのは伊平屋と伊是名を含む7つの島からなってて「伊平屋の七離れ」と言われてるそうだが、
伊邪那岐・伊邪那美は神世七代の中に入ってる
伊是名村 - 伊是名島
http://vill.izena.okinawa.jp/izena/intro
http://vill.izena.okinawa.jp/izena/wp-content/themes/izena/images/map_izena.jpg
伊平屋村データ > 歴史 由緒ある島・伊平屋
http://www.vill.iheya.okinawa.jp/detail.jsp?id=12547&menuid=4251&funcid=1
質問(Question)
神武天皇の母(母方の親戚)が沖縄の人だったということについて書いてある資料を見たい。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000104319 那覇というのはもともと島だったそうだ
海を埋め立てて本島とドッキングさせたんだってよ
嘘みたいなほんとの話だ
東京も大阪も元は湿地だったのを埋め立てたんだから似たようなもんだろうけど wikipediaに普通にのってたわ。こういうのは意識して読まないと
スルーしちゃうな。 >>264
>那覇というのはもともと島だったそうだ
何をもって「那覇」とするのかってのもあるけれどね
ウィキペディアを読むと「那覇は国場川河口の港」で、
その河口にいくつも島があったということみたい
港町が那覇で、島まで含めて埋め立てって港湾整備したということなら、
那覇が島だったというのも少し違う気がする
まあ、ウィキペディアの記事以上のことは知らないから、
うるさいことを言うつもりはないけれど 藤貞幹はスサノオノミコトを新羅国王だと言って激しく非難された。
確かにスサノオは新羅に逗留後に日本に来てるからそう受け取るのは自然ではある
むしろ貞幹の思考の柔軟性は当時として驚くべきほどだが、
新羅から倭国に向かう動きが、渡来人固有だという認識は、
根本から錯覚であるケースも多いだろうとは思う
新羅(もしくは意富加羅)からアメノヒボコ[天日槍/天之日矛](都怒我阿羅斯等)が
日本にやってきたことを記紀が紹介してる
播磨から淡路、近江、若狭を経て但馬に定着しているが、いずれも神武の東遷ルートに関係しており、、
定住地に選んだ但馬はおそらく鉄の運搬中継地に適すると考えたと思われる
都怒我阿羅斯等は「角がある人」の意味に解されてるが、
元は新羅の官職名の「角干(カッカン)」と名前(アリシト=敬称)を足したものを
和語読みしたものと考えれば、それは百官名であって、言わばニックネームだ
蘇那曷叱智というのも同名別音である
いずれも同一のエピソードを指してると見られてる。
新羅系と思われて、しかし天日槍は歴然と和名である 日本の古代史理解では、倭国と百済王家との密接な関係を重点に置いて考えるから、
新羅との関係も同様の方向性で認識してしまいがちだ
しかし新羅の建国史を読むと、倭人がそこに深く関与してることが分かる
日本側の新撰姓氏録においては、神武天皇の姉・稲飯命が新羅王朝の祖であるとされている。
朴氏初代の朴赫居世に仕えた倭人・瓠公(最高官位・大輔)は朴赫居世と同一人物と考えられてるし(朴=瓠[ひさご/瓢箪])、
朴赫居世は国号を徐羅伐(ソラボル)と定めたが、ヨナバルと読んだら沖縄の与那原がちらついてしまう。
昔氏始祖の脱解尼師今は倭国の東北一千里の多婆那国出身の倭人だ
金氏始祖の金閼智(あっち)は神話上の人物だろうが、瓠公が拾ってきてる。
「閼智」は知恵者(小さい子の意味とも)で、アリシトと同じ敬称的意味。
瓢箪は干ぴょうの原料で、食用のユウガオが今日の日本では栃木県が生産の中心だが
沖縄でもよく食されてる野菜で、生でも炒めても食べるそうだ
瓠公は腰に瓢箪をぶら下げてたからそう呼ばれたが、
瓢箪を浮きにしていかだにくくりつけてたのかとも思ったが、
真水を入れる携行容器に瓢箪が最適だと言うことだろう
ポリネシアの東部では長い航海に活用してて、特にハワイでは文化上の重要素材としても利用されてきた
南洋文化としての瓢箪が縄文文化圏に伝わってきたからか、
日本海側の福井や琵琶湖の縄文遺構から瓢箪の種が発掘されている 三国史記の言う、倭国東北一千里(400km)の多婆那がどこを指してるのかも重要なテーマだ
但馬、丹波、玉名(肥後)などが候補になってるが、
倭国の起点をどこに置くかが問題で、
大和に置くなら東北地方になってしまうし、福岡に置いたら能登半島に飛んでしまう
海流を読んで、海に流した時に加羅から慶州に辿り着くことも条件に挙げなければならない
まさに邪馬台国の所在論争さながらの難しさで今なお決着がついてない
仮に起点を沖縄に置いたてみたらどうだろう?
種子島(多禰)が候補に入るし、射程を延ばせば日向、無理すれば玉名も入る
しかし倭国を沖縄邪馬台国と考えるなら魏志倭人伝の知見の流用なのだから、
距離は短里にすべきで、すると奄美になるが、奄美のどこを探してもタバナという地名がない
しかし三国遺事では龍城国(ワナ国)とされてる。奄美には龍郷町という地があるのである(大和村もあるが)。
また、三国史記には母の国が女(ヨ)国だと記されている。まさに卑弥呼の国ではないか。
奄美から船で流せば黒潮に乗って対馬に流れ、対馬から東鮮暖流により、加羅、慶州へと流れてくれるのである
近代に入ってからでも丸木船に乗った沖縄の漁民が黒潮で対馬まで漁に来てたという証言があるから
それはごく自然な現象だと言える
奄美から玉名を経て慶州に漂着したか、
奄美から慶州を経て但馬へと向かう定型的な航路を通っただったということではないか? 中国の山海経に「蓋国は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」とある。
BC300年頃で、この倭というのはおそらく縄文倭を意味してると思われるが、
縄文交易ルートは、沖縄から朝鮮半島を経て糸魚川へと続く広範囲の経済文化圏を形成していて、
古代から、瓢箪に飲料水を詰めて、縄文人が日本海ルートで航行していていた歴史が、
その後の裏日本の交易ルートにずっと生きていたということだと考えられるわけなのだ
その時、沖縄から裏日本への最短航路は、一旦朝鮮半島を経由し、その東海岸から海流に乗って
出雲や越への漂着するというルートだったように思われるのだ
そのルートで、遼寧文明が山陰や近江にもたらされたと考えられる
弁辰の鉄は倭国の死活的戦略物資だったが、それをサウジアラビアの石油に例えるなら、
糸魚川の翡翠や沖縄の貝(夜行貝・子安貝)は工芸品はもとより、殷では通貨として利用されており、
南アフリカのダイヤモンドや金に相当する価値を持っていたと言える。
そのたえ中国北朝、高句麗、新羅、沖縄の提携網において、沖縄の占めた地位は大きかったはずで
その文脈において考えてみて初めて、新羅の建国主体に倭人がいることの意味が理解されてくるはずだ
辰韓地域は元、秦や燕の遺民からなる寄せ集めゆえに、外部権力に依存して統一を図ることになったのだろう
その後に百越が朝鮮南西部や九州・瀬戸内に弥生文化を確立し中国南朝と結びついてゆく中、
日本海文化圏はそれと併存しながら一貫して先進文化地域だったと考えられる こうして一口に言って新羅王家や高官と言えど、その実態は倭人であることが十分考え得るわけで、
スサノオが高天原を追われ、新羅を経由して出雲に定着したこともまた天之日矛と同じ足跡にあたるわけである。
天之日矛/都怒我阿羅斯等(蘇那曷叱智)の話に戻ると、
日本海側の有力氏族に、皇室との外戚関係に特質のある息長オキナガ氏という氏族があるが、
それが沖縄・翁長と同一語源でないかという推測が可能である一方で、
これをソナガと読んだらどうだろうか?
蘇那曷叱智の音に通じてくるし、ソ(ナ)ガ=蘇我でもある
蘇我氏=小野妹子とすれば、その始祖は天足彦国押人命で、当時の倭国王は阿毎多利思北孤
蘇我氏もまた、息長と同様、皇室に嫁がせて姻戚関係を構築することに努めた氏族である。
ここから、蘇我=都怒我(蘇那曷)=息長、天=阿毎となる。
蘇我氏(のちの石川氏)や息長は後世に創作された氏であって、
当時は存在しなかったはずだ。
彼らの真の姓は「天(アマ)」である。
ではその「天」姓は何に由来して生まれたのかでだ。
天武の時代には既に「海見」「阿麻弥」としてその名が残されている「奄美」ではなかろうか?
奄美開闢神話の女神・阿摩弥姑(アマミコ)に由来するとも言われるが、
これが琉球のアマミキヨ(アマミク)と同一だとされている
語源はオーストロネシア語のアマン(やどかり)だという説もある。 >>272
>ここから、蘇我=都怒我(蘇那曷)=息長、天=阿毎となる。
>蘇我氏(のちの石川氏)や息長は後世に創作された氏であって、
>当時は存在しなかったはずだ。
>彼らの真の姓は「天(アマ)」である。
ほうほうと思って読んでいたが、この辺りでトンデモだと確認した。
あれこれを後世の創作と呼ぶのは、大抵が何かを誤魔化している。
そして、姓がアマというのは、天皇家そのもののことだ。 >>273
天皇に姓はないことになってるわけだが
それに蘇我氏は簒奪によって天皇になっている
なった事実を後世に消されただけだ もちろん、本当はあるんだが、出してないだけだという考えもあり得る
だが、出さないでいるのだとするのなら、それは出せないからだ
出すと不都合があるからずっと隠してたということになる
そういう姓として考え得る姓があることは確かだが、
少なくとも天皇の姓がアマならそれを隠す理由などどこにもない 沖縄=高天原が前提になってくる
その上で蘇我氏が天(アマ)氏であり、神武が蘇我氏であるのなら、
まさしくそれが天孫天神建国神話の原点になる
仮説と呼ぶべきか妄想にすぎないかは別として
もっとも、さすがに琉球の中山世鑑(17世紀作)を持ち出して天孫氏王統は記紀の天孫族なりなどとは、
荒唐無稽すぎて誰も言い出したりはしないけど 完全版 天皇家の謎
https://books.google.co.jp/books?id=LLhVBAAAQBAJ&pg=PT47&lpg=PT47#v=onepage&q&f=false
つまり、天皇家は日本にひとつしかない特別な「家」だから、「姓」や「氏」などで他者と判別する必要はない、というのである。
では、昔から一度も姓をもったことはなかったのだろうか?
たとえば、中国は歴史書『宋書』には、「秋七月甲辰、安東将軍倭国王倭濟、安東大将軍に進号す」との記述がある。
ここには「倭国王である倭濟」――つまり、「倭」という姓を名乗っているのだ。
さらにいえば、推古以前の「天皇の」名前、「大王」がもともとの姓だったのではないか、という指摘もあるようだ。
確かに、最初から天皇家だけが唯一無二だったという説明は受け入れがたい。
天皇家の姓は、勝ち抜き、国家の支配者となる過程で失われた――そう考えるべきなのだろう。 高句麗の王姓「高」、新羅の「金」、百済の「余」
これらはいずれも国名や民族名を仮の姓に利用しただけで、本来的な姓ではない
日本の天皇家がこれにならうなら、
天皇家の仮の姓は「倭」もしくは「日」ということになる
「倭」は蔑称で、日本に改名したのは7世紀だからね
すると「日」だなんて、今さらもういいやということになったのでは? >>274
天皇家に姓がなくなるのは後世のこと。
隋書にはおう姓はアマとあるし、記紀でも多くの王族が「天の〜」とある。 古来は、王姓とその国邑の名はそもそも一致するものだった。
それだけのこと。 >>279
後世に、などというのは大抵が何かを誤魔化している。
なお、隋書では推古天皇時の男王で破綻してるから 古代において、大王、大連、大臣らの間にどれだけの格差があったかは定かではない。
乙巳の変の前に蘇我蝦夷が国記を編纂していたのは、蘇我家が王家として機能していたことを意味する。
物部氏もアマテラスの直系の、大和においては神武より古い王統であり、倭王として列せられるべきだろう。
天皇家が最高位というのは、8世紀以降の創作かもしれない。 >>279
古代だと後から付けてるケースが多いのでは
つまり、天孫天神という概念が導入されたから、
それに準ずる方式で命名してゆくと そうでもないだろう。
天孫は天孫なんだろう。
ただ、当時は絶対的優位かどうかわからないということ。
記紀は創作による足し算ではなく、都合の悪いことを書かないという引き算で歴史を歪曲しているように思える。 【福島が羨む、地元愛】 辺野古で立ち上がった県民 <安室奈美恵> 国民的人気ナンバーワン歌姫
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1535767009/l50
薩長に屈した会津と琉球、200年たって大差がでた。 天之日矛は貢物を納めて、定住する先を探したいと各地を見分して、
近江を回って但馬に落ち着いた
その名からして自明だが、明らかに戦闘士の名前そのものだ
彼は、瀬戸内から河内、大和へと侵攻する計画の神武を、
武器の供給と補給の体制を構築する後方支援部隊の指導者であり、
諜報工作員である。
使者の懐に小刀を忍ばせていたことが露見して、
神社に奉納を強いられるも、消失して淡路で発見されたという逸話を加えることで、
書紀はその素性を知らしめている
近江の琵琶湖から淀川水系を利用することを想定したが、
但馬から播磨、そして淡路へのルートを選択した
淡路には大規模な製鉄遺構が発見されている
それは神武が利用した武器庫であり侵攻のための前衛基地である
もちろん天之日矛は人物ではなく、渡来集団の総称にすぎないという見方もある
それはどちらでも同じことだ。
問題はなぜその天之日矛は、天神でもないのに「天」と名乗っているのかだ
理由は単純で、最初から天氏だったからだ
天神でもないのに天氏の者があるなら、
天神すなわち皇族は皆、天を名乗らせるしかないではないか 鉄は古代、至高の戦略物資だ
ゆえに製鉄氏族と目される息長氏≒天之日矛の役割は重責だったと言える
日本神話ではアマテラスより上位になる最高神の一人、
タカミムスビ(高皇産霊尊)の表記に含まれる”高霊”の字が、
大伽耶国の地にある高霊を指してるとして、
ゆえにそこをして高天原だとする愚論を唱えた者がいるが、
仮にタカミムスビが高霊の地神であるとするなら、
それはその地が倭国が供給を依存する鉄の産地だからこそ神聖視されるということだ
>>220-221
製鉄の重要性(古代史の復元)
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-05-3tekki.html やたら、鉄が、鉄が、って言う人が多いけれど、
弥生時代に鉄を使っていないところなんて逆にないと思うんだが? 纒向とかいう田舎があってね、鉄が見つからないんだってさ。
そこが卑弥呼の王都だなんて夢見ている狂信者もいるらしいけど。 鉄は九州が押さえているから巻向には鉄がないとか言う人がいるけれど
その向こう側の1世紀の登呂遺跡で鉄を使っていなかったと考えている人はいない 纒向が屈指の後進地域だったというだけ。
真空地帯だったから次世代においては何もないところで開発が進んだかもしれないが、3世紀においてはただの辺境。 >>294
>真空地帯だったから次世代においては何もないところで開発が進んだかもしれないが
その理解でいいよ
卑弥呼の共立に伴い、倭国で初めて「何もなかったところに計画都市を造った」のが
纒向遺跡なんだから
開発が進んだ次世代っていうのが、既に3世紀半ばに訪れている状況だよ >>294
>纒向遺跡なんだから
その纒向が辺境の後進地域だったという話なのだけれど? 纒向は開発計画が頓挫した未来都市だろ
頓挫したからには国家存亡の危機に直面したからに他ならない
4世紀初頭の頓挫となれば、古墳時代の勃興と同時なんだからその意味は大きい
それはその後の支配層の変更に直結してくる
だいいち纒向からは大陸との交易品の遺物が出て来ない
魏に朝貢してるのだから何かしら大陸由来の物がないとおかしい
それに邪馬台国特産のはずの絹も出てこない
そこは邪馬台国とは何の関係もない場所だ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 魏志倭人伝の、邪馬台国の特産品としての絹への言及だが、
古代琉球にはどうも絹織物のイメージがないし、
今日に至っても関連付けられる根拠も薄弱だ
ところが奄美大島には大島袖という、
今日でも高級品として評価され、世界三大織物にも数えられる絹織物があって、
奈良時代に進貢してる史実がある
奈良時代に進貢してるからには産業の存在はそれ以前、
弥生時代からとみて不都合はない
奄美は遣唐使の中継地になっており、
奄美は現在の行政区分では鹿児島県の扱いではあるが、
文化的な区分ではトカラ海峡以南の中琉球グループに属する掖玖(琉球諸島)の一つだ >>142
> アイスランドとイギリスとの間のタラ戦争 >>295
>その纒向が辺境の後進地域だったという話なのだけれど?
それは物事の見方がおかしい
纒向は、「銅鐸製作の中心地であり人口集積も進んだ当時の先進国」で
ある奈良盆地の中での、未利用地が広がっていた領域であり、そこを計画的に
開発した新しい王都なんだよ >>302
>王都であるというなら王統を示せ。
王統というか、皇統が記紀に記録されてるだろ?
崇神天皇が、卑弥呼の男弟で、その9代前から記録されてるよ
記紀にも、崇神の代に都が纏向遺跡周辺に移ったと書いてある
崇神前代の開化天皇の都は、奈良盆地の北のほう >>303の補足
もちろん、記紀がまとめられるまでに長い時間差があるから、
当然間違っている部分もあるだろうし真実という訳ではないが、
それなりに整合性の取れる記録があるのも確かだよ >>303
畿内説のテンプレとはかなり食い違っているけどいいの? 記紀をどう受け止めるかはそれぞれの態度でいいだろう?
畿内説スレのテンプレに沿って主張したいならご自分でどうぞ( ・∀・)つ ていうかさ、畿内説ならあのテンプレを何とかしろよ。 >>307
長いって言うけれど、本質はコメ番号14までだから、そこまで長くもない
九州説が繰り返し呪文を唱えるから、順に論破した記録が積み重なってるだけだよ キナイコシはちゃんと大学出てからテンプレ書かないとダメ。 糸クズ「キナイコシ」は、幼稚園レベルの道徳、倫理を学べなかったんだな
通常の日本の教育課程で学んでいないのだろう
迷惑なことだ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 幼稚園で道徳とか倫理?どの星の日本の話をしてるんだ? >>312
>幼稚園で道徳とか倫理?どの星の日本の話をしてるんだ?
さては日本人じゃないな?ww
日本の幼稚園では、おはよう、こんにちは、さようならの挨拶や
人の嫌がることはやめようとか、仲良く遊ぶにはどうしたらいいかとか
ちゃんと習うんだよ
大声で相手がいやになるまで付きまとえとか
相手がいやになって相手にしなくなるまで言い張れば要求が通るとか、
そういうのは教えていないw キナイコシは日本語を誤読する上に詭弁をふるうからまともな人はあいてにしないよ。
長文読解力に大いに欠ける。 >>313
え
それはキナイコシその人のことだな。
なんだ自分が倫理観がない声がでかいだけの人って自覚はあったんだな。
それでも自重しないんだから相当な恥知らずだ。 そうだな、>>314の糸クズ「キナイコシ」の人のことだなww 前にひょうたんの話をしたんだけど、
沖縄で神の島として神聖視される久高島は、琉球始祖神のアマミキヨが最初に国造りを始めた島だ
この島に五穀の種子が流れ着いて、そこから沖縄で農業が始まって、五穀発祥の地とされてる
種子が入ってた器が瓢箪だった。五穀というのが粟、麦、キビ、小豆、他にボチョウジだと何とかで、
米ではない
でも古代沖縄でも米は作ってたのではないか?8世紀には伊平屋で盛んだったのは確認されてる
それ以前となると、多禰国(種子島)で二期作が可能だと天武朝の記録になってる
琉球弧を一体的に捉えるなら、当然、沖縄にも伝播したはずだろう
ただ、沖縄で適してるのは伊平屋のみだった
農耕発祥の久高島が神聖視されてるのだから、米が収穫できる伊平屋は別格だろう
だから天岩戸だの、伊弉諾の推定が生じてくる
金や食料の欠乏は人を狂気に陥れがちだ
対外拡張の動機というのは、経済的な欠乏が原因であることが多い
豊かな国は侵略する必要がない
沖縄で米が不足するからこそ外地への進出を要することになる
沖縄を起点にして考えると、
ニニギノミコトや、スサノオの行動は極めて合理的だ
屋久島の三岳が山岳信仰の起源だという推測があるが、
琉球弧を島々の高山を航海上のシマアテにしながら北上すると、>>234
最後に霧島山が視界に入る。その最高峰の韓国岳は、九州島から韓国を視認できる唯一の場所になる
ここは韓国に向い、笠沙の御前を真来とおりて、…
というのは、韓国を経て日本海へとつながる航海ルート上の標識としての特別の価値を求めてる
辿り着いた薩摩では、今度は屋久島最高峰の宮之浦岳から半島への直線的なルート上にある野間半島を選ぶだろう
そこを橋頭保として九州南端で稲作適地を探すのだから、天下ったのは日向の高千穂となる
一方、スサノオは半島を経て、海流に流されたならば出雲に漂着している。
こうした航海上の意識を視点に考えて天孫降臨を分析すれば、その出発点が琉球弧にあることは明らかだろう。
現実に存在するレイラインが、そうした視点が行動原理になってることを証明している。 沖縄や奄美と同様に、宮古島にも開闢神話があって御嶽由来記に残されてるのだが、18世紀の作だ。
宮古島はともかく、沖縄と奄美のそれは日本のそれとよく似ている。
沖縄の中山世鑑は17世紀。17世紀じゃ価値に乏しいとは言っても、
韓国の三国史記は12世紀成立だし、三国遺事は13世紀。それでも資料価値は認められている。
一方で、東国文献備考(18世紀)とか増補文献備考(20世紀)のような信憑性の乏しいのやら、
桓檀古記(20世紀)のような露骨な偽書もあることもまた事実ではあるんだが。
世界の神話には奇妙な共通項を持つこともありがちで、
相応の口承神話が反映されているのではないか?
仮に大和朝廷の有力指導層に掖久人がいたら、
それが日本の開闢神話の基盤になったり、混入するということもあり得るのではないか。
沖縄が高天原で、そこから本土に天下った天孫が、
創始した王朝に、琉球神話を持ち込んだと考えると全て辻褄があってくる
もちろん、神代以降の王統がどうなったのかはそれとは別の問題でここでは関知しない。
御嶽由来記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E5%B3%B6#%E7%A5%9E%E8%A9%B1
沖縄県風土記や奄美を学んで旅に出よう
http://beguiles60.rssing.com/chan-39952244/latest.php 15世紀中葉沖縄で、衆に頼まれ第二尚氏を創始した金丸は、伊平屋の百姓出身領主だった。
面積だけで見れば小さな島だ。沖縄で唯一米が獲れたことの意味は大きく、
藤貞幹もまたあの大昔にこの小島に比定し得てる。
一方、鹿児島にのみ地名として存在する笠沙が、
降臨神話の笠沙之御前だとしたところで、
事実は神話にちなんで地名の片鱗もかすらぬ場所に新規命名したものであって、
となれば伊是名島などもいつからの島名なのか分かったものじゃないということは否定し得ない。 古事記のプロットの神話の部分は山海経と共通するところもあるし
環東シナ海文化とでも呼ぶべき古代文化のかすかな交流の痕跡が
そういう物語りのなかにあるのかもしれんね。 >>320
伊是名島のすぐ隣、伊平屋島には天岩戸がある >>323
>伊平屋島には天岩戸がある
天岩戸は日本中にあるからなぁ あるけれどもいろんなものがフルセットで揃ってるのは宮崎と沖縄しかない 仮に宮崎だとすれば、
宮崎から宮崎に天下ったことになる
よって高天原は沖縄だ
であれば高天原が邪馬台国であり、
邪馬台国は沖縄になる いや、時代的に天下った先の方が邪馬台国じゃね?
さらには、神武の移動先が発展して邪馬台国になった、とか? >>328
歴史の授業時間にも限りがあるからねぇ
何もかもは扱えない 沖縄の学校では教えてるんじゃないのか。
地方史じたいはそれぞれの地区でそれなりに
やるだろ。受験に出ないだけで。でも琉球史は
もうすこし取り上げようがありそうだよな 日本という国の成り立ちの多様性を学ぶには、沖縄史は有用だと思うけどね
ただ、受験に出ないものは学校で教えない学ばないってのが徹底してるからね 沖縄は、人種的にも文化人類学的にも日本のルーツなんだが、
長らく独立国のままで、日中両国に二重貢納してる特殊性があった
第二次大戦の問題と、戦後は本土復帰をはさんで米軍統治下に置かれてる外交政治上の障害が大きいといのがある
それにしても、古代でも倭国と沖縄との関係も特殊だったと思う
掖玖(南西諸島民)が来朝して帰化するようになって、
朝廷から遣使が出されて倭国への編入が模索されるようになっても、
目的はもっぱら多禰国であって、それは米がとれて税収を期待できた(実際は持ち出し)からだ
米作の北限外の東北や北海道が長らく異国だったのと同じで、沖縄では米がとれないというのが大きい
中国への遣使は、半島から山東半島を経る北路と、五島列島から東シナ海を横断する南路、
そして南西諸島を経由して横断する南島路の3つの路線があったが、
初期は当然、安全な北路で、
敵対する新羅が半島を統一してからは南方ルートを余儀なくされたが、
南島路をとった場合でも、奄美までは行っても沖縄は経由してない
唯一使ったケースが復路に鑑真を乗せた回で、それもたまたま沖縄に漂着しただけ
東シナ海を横断する先は揚子江口の蘇州あたりで、そこから洛陽などへ陸路を踏破するのだと、
緯度的には沖縄まで行く必要がない、台湾から福建を経るなんて遠すぎるということになるんだろうけど
関係の悪い新羅とは交易面では往来があったようで、
ゆえに、古代から日本は沖縄とは何かと微妙な関係だったと言える
>No.15 遣唐船の航路
https://blogs.yahoo.co.jp/umayado0409/41467546.html
日本からの遣唐使、遣隋使が行き帰りで遭難し…
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1382477553
多禰・掖玖両嶋と曰本古代王権
https://ir.kagoshima-u.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=940&item_no=1&attribute_id=16&file_no=1&page_id=13&block_id=21
日米関係と沖縄(1) - 東洋大学学術情報リポジトリ
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=70&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1 ニニギの「笠沙」という地名は、
鹿児島西端の野間半島にあるのは後からでっち上げたもので、
他に日本のどこにも地名上の該当地が見つかってない
奄美に笠利町という地名があるね
ここは創造神アマミコの降臨地で、阿麻弥姑神社のある場所だ
同地には大和村という地名もあるが、こちらの方は大和朝廷の大和に由来して命名されたそうだが >八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を
というのはスサノオが作った歌で和歌のルーツだが、
実際には後世の作品とされてる
八という数字が多いのと、八重垣の繰り返しが変だし、
いまいち意味もとりにくい歌になってて、
その意味の通説には釈然としない気分が残る
今これを強引にレイラインの話に結びつけると、
伊平屋のヤヘ(ヤへー)岩と高千穂(神社)のライン上に出雲・八重山神社があり、
八重山というのは、そもそも南西諸島・先島諸島の八重山と同じだ
語源は不明で、この八重山諸島に石垣島がある、
八重山諸島と東北の青森・八戸のちょうど中間が出雲だ
このことと何かしら関係してくると感じるのは自然ではなかろうか?
そもそもスサノオは数字の八にちなんだ事柄が多い
スサノオが退治したのは八俣大蛇で、八坂神社の祭神はスサノオだ
歌の「八雲立つ」というのは、出雲の枕詞になってる
これに意味を付与してみて、掖玖の字を当ててみたらどうか?
>掖玖を発(た)つ、出雲・八戸、 投馬込めに、石垣作る、ヤヘ岩を
などと意味不明になってしまうが 卑弥呼は古代琉球王国の巫女王で、聞得大君の前身と考えられます。 前身というかおなじ文化に帰属すると考えるべきだろう。
文化の中心が遷移するというのは普通にあることだ。
また逆に中心でその文化が失われ、周縁でのみその
文化が保持されるということもあるのだから、そのあたり
断定には慎重さが必要 青森下北半島恐山のイタコは恐山には住んでなくて八戸あたりからイタコマチに出張してるそうだ
先のスサノオの話になってしまうが、
よりによって八戸って...
イタコは北東北で、南東北にもオガミサマなど各種名の巫女文化があるようで
沖縄も含め、いずれも縄文文化圏だろ?
弥生文化の本質部分ではない気がするが 怨念に対する理性というのは、鮮やかな分類だから
逆に縄文と弥生の二分法にも疑惑の目をもつことは
あんがい大切。 社会体制と民族が違うのだから、そこを区別することには意味がある。 ちらっと検索見してる分には、
琉球神道てかなり本格的じゃね?
日本の古層文化が極まったみたいな感じでさ 八雲立つ | 古事記・現代語訳と注釈?日本神話、神社、古代史、古語
https://kojiki.ys-ray.com/1_7_5_suga_2.html
日本最初の和歌は「スサノヲの命」が詠んだといわれています。…
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1060337135
古事記の原文を翻訳してみた。 日本最初の和歌である、八重垣の歌と太安万侶。
https://plaza.rakuten.co.jp/ubout51/diary/201407180000/
>「夜久毛多都。伊豆毛夜幣賀岐。都麻碁微爾。夜幣賀岐都久流。曾能夜幣賀岐袁。」 ※原文
<八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を> >掖玖を発(た)つ、出(い)・投馬(つま)[薩摩]、八戸垣、 苫小牧。 ・・・ 東大阪市に八戸ノ里(やえのさと)という駅がある。
名の由来は、豊臣の家臣の住民が8戸だけ住んでたことだと、東大阪に居を持っていた司馬遼太郎が説明してるそうだが、
それなら七戸ノ里や九戸ノ里もあってしかるべきで、どうにも頼りない解釈だ。
丁未の乱で蘇我馬子・聖徳太子が物部守屋を討った衣摺の戦いはその近場で起きてる。
その後、馬子は近くの高井田に長栄寺を建設している。
ここら辺りはかつては大和側がもっと近くまで流れてて、東大阪全体が物部氏の勢力圏だった。
同市にある石切神社の祭神は物部の祖先である饒速日尊であり、
石切の語源は「イシキルイ」(彼の大いなる脚)という蝦夷語で、饒速日に仕えた長髄彦のことを指している。
その東大阪にはもう一つ”八”にちなんで八尾市という地名がある
この語源は、8枚尾の鶯が止まった木を八尾木と呼んだ、弓矢の生産が盛んで矢負いが矢尾、八尾になった、
大和側の洪水防止に八百(たくさん)の杭を打ったからだとか、いんちき臭い理由が挙げられているのだが、
八戸ノ里にしろ八尾にしろ、八にちんだ地名は、八重山や八戸と同じで、
状況的にみて縄文系の言葉がルーツだと考えるべきではなかろうか?
福岡に八女市という地名があって、その音韻ゆえ邪馬台国所在地に擬す者までいるが、
書記の景行天皇の条に出てくるほど古い地名で、八女津媛に由来しているという。
しかしそれでは説明不足で、八女津媛の八女からの解釈が欲しい。
”や”(湿地)に接尾語という説明があるくらいである。
東大阪には瓢箪山という地名があって、双円墳という瓢箪型の古墳があったことから付いたそうだが、
双円墳というのは日本では数少ない一方、旧新羅の慶州には多くみられるようだ。
瓢箪にちなんだ建国エピソードがあることの反映だろうが、
日本にも帆立貝形古墳というのがあるわけで、古墳設計の思想が外観を決めてるとするなら、
前方後円墳壺型説には有利な傍証になるのかもしれない。 八尾市に弓削町があって、
弓製作の弓削氏の本拠
他に矢作、鞍作など、
一帯は武具製造氏の拠点だ 魏志倭人伝における邪馬台国の記述
>「計其道里當在會稽東冶之東」
會稽東冶(会稽郡東冶県≒福建省福州市?侯県)の東に存在するとしてる
>「兵用矛楯木弓。木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與儋耳朱崖同。」
兵器には矛、盾、木の弓を用いる。木の弓は下が短く上が長い。竹の矢は鉄のヤジリであったり、骨のヤジリであったり。
持っている物、いない物は?耳、朱崖(=中国・海南島)と同じである。
會稽東冶はどこに定めるかで判断が変わるにせよ、
今の福建省あたりとみられ、
その東は南西諸島から台湾までの間のどこかにあたるのは確実
狩猟道具が海南島と同じだともする。 隋書琉球伝を見てみよう
>「流求国,居海?之中,当建安郡?,水行五日而至。土多山洞。」
(流求國、居海島之中、當建安郡東、水行五日而至。土多山洞。)
琉求は海島の中にあり、建安郡の東に当り、水行5日で到着する。地勢は山洞が多い。
>「土宜稻、粱、?黍、麻、豆、赤豆、胡豆、K豆等,木有楓、?談、樟、松、?塚、楠、杉、梓,竹、籐、果、藥同於江表,
>風土氣候與嶺南相類.」
(土宜稲、梁、[广中禾]黍、麻、豆、赤豆、胡豆、黒豆等、木有楓、[木舌]、樟、松、[木便]、楠、杉、梓、竹、籐、果、薬同於江表、
風土氣候與嶺南相類。」
土は稲、あわ、きび、麻豆、胡豆等によろしく、木には楓、?、くすのき、松、うるち、梓、竹、藤等があり果薬は江表(揚子江の左岸)に同じ
で、風土気候は嶺南と似ている。
(土は稲、コーリャン、黍、麻、豆、アズキ、エビス豆、黒豆等を作るのに適しており、木は楓、ヒノキ、松、楠、杉、杏、竹、籐であり、
果実は江表地方とほぼ同じ、気候風土は嶺南地域に似ている。) 隋書琉球伝
>「大業元年,海師何蠻等,?春秋二時,天清風靜,東望依希,似有煙霧之氣,亦不知幾千里.
三年,煬帝令羽騎尉朱ェ入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻?往,因到流求國.言不相通,掠一人而返.明年,帝復令ェ慰撫之,
流求不從,ェ取其布甲而還.時倭國使來朝,見之曰:「此夷邪久國人所用也.」
(大業元年、海師何蠻等、毎春秋二時、天清風静、東望依希、似有煙霧之氣、亦不知幾千里。
三年、煬帝令羽騎尉朱寛入海求訪異俗、何蠻言之、遂與蠻倶往、因到流求國。明年、帝復令寛慰撫之、
流求不從、寛取其布甲而還。時倭國使來朝、見之曰:「此夷邪久國人所用也。」)
大業3年(607)、皇帝・煬帝は朱寛に命じて東海の異俗を探らせた。
流求国にいたり、その国人をひとり捕らえて連れ帰った。
翌年、皇帝は再度、朱寛に命じて行かせたが、流求は拒絶した。朱寛は「布甲」を持ち帰ったが、
それをたまたま来朝していた倭国使に確認したところ倭国使は「これは夷邪久国人が用いている物です」と答えた。
(大業元年、船乗りの間に、春と秋の風が静かな晴れ渡った日に、東の彼方に蜃気楼が見えるという話が伝わった、
ただ、どれだけ遠方かは判らない。
同三年、皇帝煬帝は羽騎尉(役職名)の朱寛に、海の彼方の異民族の調査を命じて何やら言った、
そして(朱寛は)出発し、琉求国に到達した。
あくる年、皇帝は再び朱寛を派遣して恫喝させたが、琉球が臣従を拒否したため、朱寛は琉求の布や兜を奪って帰って来た。
ちょどその時、来朝していた倭国の使者がそれを見て、「これは夷邪久(イジャク)国の品物です」と言った。) 建安郡というのは福建省あたりで、その東なら台湾や沖縄あたりになる
嶺南というのは中国南部の南嶺山脈の南の地域のことで、
広東省、広西チワン族自治区、海南省あたりのことだ
ここで言う「琉球」が台湾なのか沖縄なのかで判断は分かれているが、
隋の「琉球」侵攻時に、ちょうど倭国から遣隋使が来てて、
「琉球人」から奪った布甲を見せて確認したら「夷邪久国人」の物だと証言してることや、
洞窟が多いとする点で掖玖(琉球諸島)を指しているとと考えることには無理がない
とりわけ洞窟に着目するなら宮古島に限定するのも可能だろう
その場合、後述される王の居住地「波羅檀(はらたん、はらだん)洞」は平良(ひらら)を指してると考えられる
ようやくにして、中国史書は琉球に着目し始め、
それを倭国の付随情報として扱うようになった
おそらく史書編纂者には、倭国と邪馬台国、邪馬台国と琉球との同一性に関して、
認識の混乱と確信の揺らぎが生じていたことだろう
ともあれ、実に、魏志倭人伝と隋書琉球伝における、
倭国の一地域の位置説明と、気象説明とがほぼ一致していることが分かる。
その他の描写にも共通点が多い
何のことはない、邪馬台国の所在論争はとっくに決着が着いているのだ。
邪馬台国とは琉球(沖縄)のことに他ならない―。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 こういう休眠スレの板汚しはよくないから、スレ立てした人は使い切るまでがんばれ! ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. おーい、琉球説はもう諦めたのか?
荒らしのコピペ貼りしか来てないぞ アー タノシーデスネー 長江の鬲wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL54jcK9b5z4Aih.U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 おーい、沖縄説でスレ立てしたなら、放棄せずにがんばれよ! 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 もうちょっといじってみて、それで応答なければ人知れず埋めとくからさ 黙ってsageたまま埋めろ雑魚ミジメったらしんだよ いや、せっかく沖縄説でスレ立てしたんだから、
沖縄説の人にできるだけがんばって欲しかったんだがな
こうやって、バカが釣れるとその分埋める手間が減るし 北九州も近畿も普通に考えればあり得ない
どんなに遺跡が発掘されようが無関係
位置的風土的には沖縄が有力だが、これも致命的におかしいのが
東に海隔てて(70km?)また倭人の住む国ありの所
南にこれだけ来てて、本土方面を東とは言わない
北だよね、しかも距離が全然違う
よって沖縄でもない
残るのは南九州と四国か 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 奈良 前方後円墳
全国的には、徳島県の萩原一号墳や鳥取県南部町の浅井11号墳、福岡市博多区那珂1丁目の那珂八幡古墳など
3世紀の前方後円墳が多数ある。近藤義郎によれば、全国の前方後円墳を築造された時期別に
畿内編年の1期から10期の10段階に分けて整理すると、最も古い1期でもっとも多いのは筑前(福岡県北部)で9基、
第二位が播磨(兵庫県)で8 基、第三位が大和で6基、以下備前、美作、備中(岡山県)、讃岐(徳島県)となっている。
さらに朝鮮には3世紀に石積みながら前方後円墳が多数ある。以上から、この地が前方後円墳の発祥地とは言えない。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 >>270 >>273 >>298 >>320 >>334 >>338
2016/04/07
【邪馬台国】 畿内・九州以外の説も考えてみるべきでは? 島根説、沖縄説、四国説、奄美大島説、台湾説、etc… [231982652]
http://maguro.2ch.s●c/test/read.cgi/po●verty/1460018135/
邪馬台国の所在地を奄美大島とする著者は、周の要求に応じ、倭人が特産の桑の木と蚕を献上したのではないかという。
奄美大島では現在も大巫女をフミコと呼び、そのフミコが卑弥呼へ転化したと解説。 2019/03/07
3/7
【古代】母系遺伝子は渡来系の弥生期人骨「父系遺伝子は縄文系」 DNA分析で 鳥取・青谷上寺地遺跡 ★5
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1551897330/ 2019/03/14
【古代】「都市的性格持ち、大陸と交流」「渡来系と縄文系混ざり、遺伝的に多様」 鳥取の遺跡、弥生人骨DNA解析結果
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1552554193/87 古代史雑論
邪馬台国は沖縄にある? (98/06/24)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache%3Ahttp%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fthirdcenturyjapan%2Fzatu%2Fzaturon.html
邪馬台国論争の中で、もっとも問題とされるのが、『南に水行二十日』、『南に水行十日陸行一月』という記述です。…
ここで考えたいのはこの記述が正しいか誤りかという事です。私は、正しいと考えています。
というのは、この問題は、“実際の倭国(邪馬台国)が何処にあるか”という事ではなくて、“当時の中国人が倭国が何処にあると
認識していたか”という事だと思うからです。それは、倭人伝の中で、『(倭国は)まさに会稽東冶の東にある』と書かれている事に
象徴されています。そして、『有無する所[憺(にんべん)]耳・朱崖と同じ』と[憺(にんべん)]耳・朱崖を引き合いに出したのは、
同じ南方系と考えていたからだと思います。…
下にあげる表は、倭国に関する記述がある中国の史書から、地理的な位置に関する記述とその行程記事を抜き出し、
成立年代順に並べたものです。上段が地理的な位置、下段が行程記事です。
(略
一見してこれらの記事は、魏志倭人伝の記述を元にしたものであり、この意味で資料的価値は低い事が分かります。
しかしながら、これを当時の倭国に関する認識と考えた場合話は違います。少なくとも、これを書いた人はこの記述をおかしいとは
思わなかった訳ですから、これは当時の倭に対する認識を表していると言ってかまわないと思います。
まず、注目すべき記事が後漢書に出てきます。魏志倭人伝では、産物などが同じと書かれていたに過ぎないのに対し、
後漢書は、会稽東冶の東と書いた上で、位置が『朱崖・[憺(にんべん)]耳に近い』と言い切っています。
おそらくは、[憺(にんべん)]耳・朱崖の場所も正確ではなかったでしょうが、南方である事だけは分かっていたはずです。
それで、同じ南方系との認識で書き過ぎたのだと思います。この記事が当時の様子を正確に伝えていないことは間違いないですが、
それ以上に、当時倭国が台湾か沖縄のあたりにあると考えられていたと言う事をこれ以上明確に示してくれる資料はありません。 この記述は、魏志倭人伝を元にして唐代に編纂された晋書まで続きます。様子が変わるのが、その後の隋書からです。
『古伝』という二文字が挿入されています。『昔は、会稽の東にあるといわれていた』と書かれている訳です。
これは、この時期に疑いが出てきたと言う事を示唆しています。…
つまり、晋書の著者は正確な位置を知らなかったが、隋書の著者は知っていたと言う事です。また、隋書には、他の書にはない琉球国伝
があり、琉球の事が分かった事が倭国の位置が『会稽の東』という認識を改める契機となったのかもしれません。
その後の、新旧の唐書では『会稽の東』、『朱崖・[憺(にんべん)]耳』という記述がなくなります。これは、日本の正確な位置についての
情報が広く浸透し、これらの記述が明らかな誤りである事が皆に知れ渡るようになった結果であろうと推測出来ます。…
以上のように各史書を見て行くと、倭という国が『会稽の東』にあるという認識が唐代の650年頃まで続いていたということが分かります。
これらの認識は、当然、魏志倭人伝に引きずられたものであることは間違いありません。各史書の編者は魏志倭人伝を参考にし、
いずれも、倭国(邪馬台国)が会稽東冶の東にあるという認識を持ちました。つまり、魏志倭人伝の中の邪馬台国は、台湾か沖縄に
あるのです。これが事実でないことは当然の事です。従って、魏志倭人伝の行程記事は、国の順番を除いてほぼ役に立たないと
考えたほうがいいでしょう。 >518-519
たまたま拾ったサイトなんだが、
この論考は論理構成においてほぼ的確な認識だと思うんだけど、
結論部分だけが自分とは違ってる >>350-354
筆者は、魏志倭人伝の著者が琉球と、
倭国としての邪馬台国とを取り違えてしまってて、
その誤認識が後世にまで引き継がれてしまってたが、
琉球の存在と所在を把握した時に初めてそれが倭国とは別個の存在だと認識できたのだと結論付けている
いや、そうではなくて、
魏志倭人伝に記された邪馬台国とは確かに琉球なのであって、当時はそこに倭国の中心があった、
もしくは倭国の中の一勢力としての邪馬台国があった、倭人伝はそれを正確に叙述することに成功している、
ところが後年になって倭国の中心は筑紫や大和に移ってゆき、琉球は取り残されてしまった、
変貌してしまった倭国の実情において、
倭国大和が邪馬台国の直接的な後裔だと認識されるに至り、
いにしえの邪馬台国が位置していた琉球は、倭国とは別個のものと誤認され記述されてしまったということなのである 要するに、魏志倭人伝の頃の倭国の中心線は、対馬・壱岐、北部九州を経て、九州南部から琉球列島に連なる南北のラインにあったが、
後世には北部九州筑紫から中国地方を経て大和へと続く東西のラインへと遷移してしまっている
魏志倭人伝の航路が南北であり、隋書倭国伝が東西だ
南北が東西に入れ替わった時、
南端の邪馬台国は、琉球という別個の存在だと切り捨てられ、
東端の大和が古の邪馬台国の末裔だと誤認されてしまったのだ 反論
そうではなく、短里で書かれた報告書を長里を、都の長里を使う読んだ時、南方に過大評価してしまう。
それが会稽の東の正体だ。
魏志倭人伝では、帯方郡から九州北岸までで一万里あるので、これだけでも会稽の東に達してしまうと考えられる。
しかし実際には、水行1日分を千里とするなどの概算のために起きた誤解なのである。
帯方郡からの一万里は、水行10日に対応する。
邪馬台国までは水行10日陸行一月(1日の誤りか?)とある。
一月と一日の誤りは、古来からの一万二千里に引きずられて生じたのであろう。 距離はそれで説明できても気候と情景の説明が成らない
使節が一度も邪馬台国を訪問せず、
伝聞だけを頼りにしたのなら、
苦し紛れの説明にはなろうが 倭国邪馬台国卑弥呼が使いを送った、
倭国大和タリシヒコが使いを送った、
そのいずれの主体もが、
同じ倭国、同じ王都、同じ王統、
中国側がそう錯覚してしまったことが謎を生み出してしまったのだと言える
いやそう錯覚させることに大和の側が、
まんまと成功したのかも知れない つまりは隋書において倭国付随のものとして琉球伝が、非邪馬台国として唐突に記載された事実は、
逆接的にそこが古の邪馬台国の所在地だったことを証明しているのである
なぜなら、そうでないなら彼らは琉球に関する知見を持てる理由がないからだ
かつて邪馬台国と知った場所、すなわち卑弥呼の朝献を受け検察した国ゆえにその国情を調査したから知り得たのであり、
そうでないなら大和を訪問した記録に、
なぜまるで方向の違う琉球が必要になるのだろう?
倭国中心邪馬台国はそこにある、
その認識が倭国盟主としての大和王権からの貢納により覆された、
邪馬台国として記述された情景は、それとは別の琉球国のものとして過去情報を再整理する必要が生じたということなのである
そのことと隋による琉球侵攻の史実とは関係しているのかも知れない
それについてはいずれ機会をもって論述しよう >>524
タリシヒコの倭国には阿蘇山があり、ときおり火を吹いたそうだ。
タリシヒコは九州。 >>523
気候は大和だともっと合わない。
奈良県で冬に生野菜が食べられるか? 気候や習俗は琉球のそれを記したものが邪馬台国記述に混入したのだと曲解されたものであって奈良のものであるはずなどない、確かに琉球邪馬台国のものだ
都を邪靡堆と称したのは邪馬台国承継の主張であり、阿蘇山は倭国の特筆的な光景を記したものでさしずめ今の霊峰富士であろう
だが自分は必ずしも九州王朝を否定するものではなくその場合でも邪馬台国と当時倭国とは別個のものだ
しかしながらもし王権が九州なら筑紫の東の華夏のごとき秦王国の比定は如何にするか、そしてその東に都となる
それらを自分は吉備、大和とみなしてて
それぞれ吉備廃寺、法隆寺を誇っていたはずだ
ゆえに倭国統一王権が、少なくとも一時的には大和に成立し、よってその名乗りとして遣使がなされたものとみなしており、
王権は九州から大和への移行制圧だとみなしている
その時点においても阿蘇山には特別の信仰が向けられていたはずであり、
言及はそれが反映されたものだと考えられる >>528
魏志倭人伝読めよw
倭国の中心が女王国で邪馬台国って明記されとるやんけ 一大卒の検察による琉球邪馬台国からの統制から逃れた九州がその後に大和を制圧したというのが大まかな構図 その場合でも「九州」というのが誰なのかというのはまた別の問題である 一方で、阿蘇山記述ゆえ多利思北孤九州論にも成立余地があり、
その場合は秦(辰)王国は大分になり、
都は宮崎あたりだろうか
倭国統一朝の確立をもって朝見したのではなく、
統一のために企図したものであり、
邪馬台国後継という虚言を弄して隋朝から倭国王の承認を得て、
その詔書の威光をもって大和を平伏せせしめたと考えることが可能なのである
答礼使の裴世清は阿蘇が火を噴く九州のある一地域が、
大和を含む倭国全体の中心だと言い含められたということになる
九州大和二王朝併存の情勢における工作だが、倭の五王が半島三国の支配権を求める上表をしてる史実の存在からして、
その仮説がまるで不合理とは言えないだろう 「令和」騒動で名前が最近よく挙がるようになった張衡によって
古代中国の地図作成技術は確立する
張衡以降中国人は現地にさえ行ければ当該地の緯度はほぼ正確に測定できるようになった
三国志魏志倭人の記述によれば「邪馬台国」の位置は福建省の真東
真東にあたるのは琉球以外に存在しない
よって
@「邪馬台国」は琉球諸島にある
A中華帝国の使者が「邪馬台国」を訪れたという記述がでたらめ
のいずれか >>535
一元論では記紀の史実にどうにも不自然さがぬぐえなくなることを否めない
というか無理がある
それゆえ自分は二王朝併存論による二元説明を模索してきた
投稿は他スレになるんだが
百済の「日本」part2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542085302/482,488,491,496,498,779,781,787
http:
//lo◆gsoku.com/r/history/1542085302/482,488,491,496,498,779,781,787
邪馬台国畿内説 Part400
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542563254/168,170,177,180
http:
//lo◆gsoku.com/r/history/1542563254/168,170,177,180 >>537
ふむ。
二王朝の筑紫前期から神武東征を経て、後半はほぼ畿内の話だけがまとめてあるのではないかな? >>537 レス番が抜けてたんで修正 (res.767)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542085302/482,488,491,496,498,767,779,781,787
http://lo◆gsoku.com/r/history/1542085302/482,488,491,496,498,767,779,781,787 >>538
いや、自分にはそんな風に生ぬるく考えることができそうにもない
百済滅亡のその時まで二元体制だったのではないかと考えている
応神天皇などは明らかに九州の人物に映る
記紀はなぜ百済を自国史のように扱ったのか?
百済は475年の漢城陥落をもってして実質滅亡したが、
その後に筑紫倭国の後ろ盾による傀儡王の下で百済Uとして再興され、
恐らくは武寧王以降は九州倭人朝そのものだったのではないかと見ている
武寧王は筑紫王の子だったはずだ
すなわち、百済史とは筑紫倭国史そのものだったのである
そのため大和はその歴史を取り込む必要に迫られたのだろう 日本の国号
https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=dopwDgAAQBAJ&q=%E5%A4%A9%E7%8E%8B#v=snippet
p193
このように「百済新撰」は(2)では天王と記す。一方、(1)では天皇と記す。
「百済新撰」は天皇と天王を書き分けているのである。そして、(2)から分かるように、
天王のいるところが大倭である。百済の蓋歯王はその弟昆支君を天王のいる大倭に
遣わしたのである。
p194
昆支君は大倭国の天王のところへ、軍君は日本の天皇のところへ
別の角度から述べよう。「百済新撰」の大倭は天王のいる国であった。雄略記二十三年条によれば、
天王は末多王を護送するとき、筑紫国の軍士五百人を遣わしている。天王は筑紫邦の支配者なのである。
だから、天王のいる大倭は九州である。
この、九州倭たる大倭を九州大倭と呼ぼう。
p197
日本は近畿国家、倭・大倭は総国
(2)の@、つまり六五九年の中国の天子のことばに「日本」が登場する。ここでは、難波から発した津守吉祥連らに対して、
中国の天子が「日本国の天皇は平安かどうか」と問うている。だから日本は難波付近の国である。
そして『新唐書』日本伝によれば六七0年には日本列島大半の総国の号は倭であり、それより後に日本に改号した。
だから六五九年の中国の天子のことばの中の日本は総国ではない。近畿国家、狭中域日本である。
(2)のC、つまり六五九年の中国の天子のことばに「倭の客」とある。『新唐書』日本伝によれば六七0年以前において
中国が認識している倭は日本列島大半の総国の号である。だから、六五九年の中国の天子のことばの倭は総国倭である。
「伊吉連博徳書」の倭は九州総国倭なのである。
「伊吉連博徳書」の倭はどこか。
・・・だから、六六一年においては磯城大倭国号も奈良大倭国号もまだ存在していない。
したがって「伊吉連博徳書」の大倭は九州大倭である。 古代天皇の誕生
https:
//books.google.co.jp/books?id=ZtAn7EWif8MC&printsec=frontcover&dq=isbn:4047032972&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi869atyJnfAhXJE4gKHRESDnQQ6AEIKDAA#v=onepage&q=%E5%A4%A9%E7%8E%8B&f=false
倭国と日本古代史の謎
https:
//books.google.co.jp/books?id=UqxqCwAAQBAJ&printsec=frontcover&dq=isbn:4059119865&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwj3mKGgyJnfAhWFdXAKHTIZBowQ6AEIKDAA#v=onepage&q=%E5%A4%A9%E7%8E%8B&f=false
三国史記中の百済本紀と異なる、百済新選について
http://ncode.syosetu.com/n5099y/112/
武寧王の秘密
http:
//ncode.syosetu.com/n5099y/113/
//ncode.syosetu.com/n5099y/114/
//ncode.syosetu.com/n5099y/115/
倭国の新羅侵略 六
//ncode.syosetu.com/n5099y/128/
古事記には韓地への侵攻記事がほとんどない!
//ncode.syosetu.com/n5099y/129/
//ncode.syosetu.com/n5099y/130
古事記に日本旧記の三韓記事が追加され書紀が成立した!
//ncode.syosetu.com/n5099y/131/
海外の記事がない古事記
//ncode.syosetu.com/n5099y/135/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be20a4887bc3d3353f527d3636c44e3) 「琉球」なんて15世紀から19世紀までのわずか450年だけ明と清に強制された蔑称なんだから、8世紀から自称が確認されている「おきなわ」という名称を使用するべき
おきなわ邪馬台国 >>544
隋は流求人と倭人を同一視してたし、鑑真もそう認識してたんだぞ 倭国は蔑称を嫌って日本と改名したと説明したのは嘘で、近畿日本が倭国を併合したのが理由だった可能性が高い
会社合併で、名前残すのをどっちにするのかみたいな話だな
吸収される側の名前が消えるのが普通だろう
ところがそうならないのが銀行界、それに倣えばさしずめ日本倭国だ
ともあれ蔑称も歴史を重ねれば由緒にすらなる
倭国も倭人も紛れなき蔑称だが、使用することに抵抗がない
人偏がついてるだけましだろう、ひどければ委国であり委人だ
琉球の語感にはなぜか沖縄よりも深みがある >>528 訂正
> それぞれ吉備廃寺、法隆寺を誇っていたはずだ
吉備池廃寺のことじゃなくて、吉備寺(の前身の箭田廃寺)
しかし、秦王国というからに秦氏の関係で検討するべきだから秦原廃寺が適切だった
もちろん>534の大分豊前もまた秦氏の色合いが濃厚な地ではある 「日本」国号についての妄想的仮説
国号を「日本」から「ヤマト」に戻そう
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1391925433/950
>>539
res.769も追加かな
res.713
月支国=ゲツシコク/つきしのくに の筑紫論
この妄想的な仮説は、音訓混合読みは平安以降だから、
ゲッシコク/つきささのくに しか無理と否定され
なら、つきささ/つきし の転訛では言い張った
月支国については、
今では別の妄想的な見解に変わったんだが、
それでも筑紫(竺紫)と月支とは、どこかで語源が関係してるような気がしてる 錦江クムガンと、錦江きんこう湾(鹿児島湾)や球磨くま川は同音だろ
九州と半島との間で地名の一致がある
馬韓の不彌国と同名国(不弥国ふみこく)が、伊都国・奴国の東にあったことを魏志倭人伝が記してるが、
博多なども馬韓の伯済(百済の前身)に通じるような気がする >>551
出たwww
古韓語の音は一切解明されてないのに現代語で無理やり繋げようとする朝鮮ヒトモドキwww 東京と大阪に日本橋という地名があって、橋の名前からきてる
前者はにほん、後者はニッポン橋だ
いずれも江戸初期に架けた橋の名前で、
前者は二本架けた二本橋が転じたようで、
後者はニッポン一の橋という意味なのだろう、ゆえに起源は大阪の方が先だと言える
そこから日本橋筋という地名が生じたのだろう
しかし江戸初期の、まだ日本随一の大都市だったばかりの上方とは言え、
国を意識するでもない当時の大阪に果たして日本一という概念があったろうか?
橋が架かったのは江戸期ではあっても、
それ以前からその近傍にはきっとニッポンという地名があっていいはずなのに
ほんとに無かったのだろうか 15 古代朝鮮(後) 楽浪郡の時代
http://www7b.biglobe.ne.jp/~iichirou/sub15b.html 倭の五王が百済への宗主権に固執したことは衆知の事実だが、
478年の入貢を最後に、遣使した事実が認められない
百済Tが滅亡したのは475年だ
五王がどこの何者なのかは別として、
以降にも百済は歴然と存在してはいたが、
彼らの宿願は、百済Uにおいて何らかの形で成就したということになる
そして5世紀後半から6世紀前半にかけ栄山江流域に忽然と前方後円墳が出現しはじめたのである
ちょうど雄略の在位が5世紀後半の百済U以降のことだ
斯麻王の諱を持つ、6世紀前半の武寧王が倭色濃厚だった事実もまたよく知られるところである
武寧王陵(宗山里古墳群)
http://inoues.net/korea/buneiou.html
さて、韓国全羅南道南西に木浦という港町があって、モッポと読むのだが、
これがちょうどその栄山江界隈に位置している
一方、魏志東夷伝韓条に記された馬韓54カ国の中に狗蘆(盧)国という国名がある
クロと読むんだろうか、それを<コウラ>と聞いて訓読み漢字を当てれば木浦になる
ここに、狗盧=木裏の蓋然性はかなりあるように思われる
不思議なことに韓国地名におけるこの等号成立の必要条件が日本語の介在ということになってくる
国名でみる三韓の地域性について
http://shiroi.shakunage.net/ronbun/kandenkokumei.htm ところで最近は学校の歴史教科書で、百済くだらをペクチェと読ませるそうで、
新羅シルラは高句麗はコグリョだそうだ
日本の歴史学会というのはどうにも困ったもんだ
これからはペクチェ観音像の微笑みを鑑賞し、
あるいは世の事物に呆れたてはペクチェないと言わねばならなくなった
そのうちきっと法務省の検閲が入るようになるだろう
その百済ひゃくさい(百残ひゃくざん)の前身は伯済はくさい だろうと考えらている
博多はかた の読みは伯済に通じるのではないかと指摘したところだが、
これを ぱくた と読めばペクチェにもぐっと近付く
ちなみに雄略の諱は大泊瀬幼武おおはつせわかたけ
都は奈良桜井の泊瀬(初瀬・長谷)朝倉宮はつせのあさくらのみや ということに一応はなっている
さてこの泊瀬はつせ というのが はくさい の音に近い
そうすると、伯済・百済・泊瀬・博多が同じ意味になってくるのだ
今再び、月支国の話に戻ろう、
これを<つきささ>と呼んでいずれ<つきし>に転じたなら、音読み漢字を当てた時にそれは筑紫になる
地名のルーツにおいて、伯済=博多であるなら、
同じ様にその由来において月支=筑紫であって何の不思議もないのである 人
(( (ヽ三/) (;.__.;)
(((i ) (;;:::.:.__.;) 沖縄は日本
/ / (;;:人糞__:) < 固有の領土では
| :i /(;;゚\)ll(;;/゚)\ ないニダ!
l :i/ ⌒(__人__)⌒ \
< ノ( |r┬- | u > (ヽ三/) ))
\ ⌒ |r l | / ( i)))
`7ι `ー' 〈 __ /
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,r――--、,,_ノ r、 三 η L___,,..-―‐-、
( 〃ヽヽ //ヾヽ )
ヽ `ヽ、 ⊂ニ;「9cm」ニ⊃ ,r'' /
ヽ } ` ー-ヾヽ// ヽヽ〃ー‐''7 /
ヽ .{ ι' 三 ヽ) {. /
〉 イ 〉 |
/ ) (_ヽ \、
(。mnノ `ヽ、_nm。 ゜ ○ ゜
o 。 ゜゚ ゚ . o ○o
r⌒ヽ (⌒⌒) r⌒ヽ/,
、、;(⌒ヾ ((⌒⌒)) /⌒) ), , 。
、 ヾ (⌒ ファビョ━ l|l l|l ━ン!⌒⌒);;)/. ,
、\(⌒ゝ;(⌒ヾ ∧_,,∧ ⌒)/)) .,/ ,,
((⌒-丶(;;;(⌒ゝ;;(⌒∩#`Д´>'') ウリは琉球史の第一人者ニダ!
(;;;;(⌒(⌒;;;(⌒ ヽ ノ / ))⌒));;;;)-⌒))
ゞ (⌒⌒=─ (,,フ .ノ ─=⌒⌒)ノ;;ノ;;;::)
((⌒≡=─ 人从;;;; レ' ;;;从人─=≡⌒)丿;;丿ノ <ウチナーに聞いた琉球チョンコのイメージ>
Q:琉球チョンコについてどう思いますか?
首を すぐ
吊れ┐ ┌死ね 9%
11% │ _..-ー''''''l'''''― ..、
./ .l, | `''-、
./ .l .| \
/ゝ、 l. | ヽ
./ .`'-、 l. | l
│ ゙''-、 .l,| 辺野古で l
| `'″ 死 ね |
│ ,!
l 80% ./
.ヽ /
.\ /
`'-、 /
`''ー .......... -‐'″ ____
/ \
/ / ̄ ̄ ̄\ 丶
|/ \ / 丶| | 琉球史の第一人者を自称する
/Y ヽ ノ |ヘ イジメられっ子で片思いの
ヒ| / |ノ 相手をナイチャーに取られた
丶- (_ノ -イ | 統合失調症を患う
|丶∈≡∋ /| < 在日中学二年生だと
>――――< バレて悔しいニダァ〜
/ 丶__ノ \
沖縄生まれの醜い在日朝鮮人
琉チョンの妄想はここから始まったw
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523031912/340
> ちなみに俺は沖縄生まれの沖縄育ちで、琉球史の第一人者。
> 残念でした。
命名の瞬間w
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523031912/405
> 琉球史の第一人者を自称するイジメられっこで片思いの相手
> をナイチャーに取られた中学二年生は日本人じゃなかったのか
沖縄は日本固有の領土ではない
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523031912/ 人
(( (ヽ三/) (;.__.;)
(((i ) (;;:::.:.__.;) 沖縄は日本
/ / (;;:人糞__:) < 固有の領土では
| :i /(;;゚\)ll(;;/゚)\ ないニダ!
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< ノ( |r┬- | u > (ヽ三/) ))
\ ⌒ |r l | / ( i)))
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( 〃ヽヽ //ヾヽ )
ヽ `ヽ、 ⊂ニ;「9cm」ニ⊃ ,r'' /
ヽ } ` ー-ヾヽ// ヽヽ〃ー‐''7 /
ヽ .{ ι' 三 ヽ) {. /
〉 イ 〉 |
/ ) (_ヽ \、
(。mnノ `ヽ、_nm。 せっかく穏やかな気候の沖縄に生まれたのにチョンコの気質はウンコのまま
地理的環境は性格に影響を与えないという傍証か・・・ あんたのレスは無知の戯れ言にしか見えないが
奈良時代まで「はひふへほ」は全部pa/pi/pu/pe/poと発音するんだよ
当時の日本人は今のアメリカ人がバッハのハを発音できないように
ha/hi/hu or fu/he/hoとしゃべれない
あんたが書いている日本の地名・人名も真仮名で「は」とあったらそれは全部paだ 2〜3千年前は、鹿児島から沖縄まで歩いて行けた可能性は無いの? ついに「陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝・二千字の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋司馬懿(秀吉)は魏・明帝曹叡(信長)の後見人指名がなければ皇帝になれなかった。大恩人・曹叡の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまったミスをフォローし、西晋が呉を滅ぼす先鞭を付けたことにしてあげたい。
2.魏の帝都・洛陽から見て呉(孫権の帝都・建業)との戦いにおいて、最高の牽制となるその背後に倭国「女王之所都」があるためには、
蘇州の「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
4.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳・朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、九州島(倭国)が、狗邪韓国(伽耶)から儋耳・朱崖(べトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に長大な「一つの山島」であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@ルート】と、「當在会稽冶之東」となる【奴国Aルート(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@ルート】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、九州島が南北に「陸行半月」であることを倭人から聞き「夷人不知里数、但計以日(7世紀隋書倭国伝)」、
それを南に2倍して東シナ海に浮かぶ幻の「陸行半月」九州島(南部)を付け足し、「陸行一月」として、【奴国Aルート(幻)】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「前方に氷山発見!!!!!!」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!全速後退!!」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだ!!!船長のくせに!!!このハゲェェェ〜ッ!!!」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン爆発四散!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に乗り上げ衝突し、再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野寺澤橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(大量の布留式土器と三角縁神獣鏡と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=3i7rDgy-aOY
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓〜Ω王墓担当の物部氏)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の「九州」説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は帰港できなくなるからあり得ない。纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 >>670の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜
洛陽┃ ┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>671)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 §琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓〜〜〜_+南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
【呉】┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
建業┃〜〜┃↓「陸行半月」(正)▲▲┛〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島
東治┃〜〜│〜東シナ海(正).〜│〜〜↓幻の九州島南部(陳寿の創作)
蘇州┃〜〜│△△▲△△△△△│←奄美大島(正)
↓ ┃〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←沖縄那覇(正)
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←台湾(正)
香港┃〜〜│△△△△△△△△┘〜「自女王國以北其戸数道里可得略載
澳門┃〜〜└△△△△△△△┘〜〜其余旁国遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└九州島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 >>670
>>672
卑弥呼の魏帝への朝貢理由は要するに狗奴国戦争における援軍要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置(比定)であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「東渡海」千里「複有国」皆倭種(◎九州説…豊後水道、◎四国説…紀伊水道、✖畿内説…鈴鹿山脈?)
−其南有狗奴国(◎九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海?)
畿内説はいずれも当てはまらず、3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)は無理がある(下記参照)。消去法によって、九州説が正しい。
狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地(狗古智比狗の本拠)+熊本+八代の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(上方下円墳)を比定。
祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
https://sora07.exblog.jp/26083348/
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12288771975.html >>673の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(卑弥弓呼、帯方郡張政の説諭で卑弥呼に服従)、伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…息子の垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を神功皇后が暗殺、「倭の五王」へ)…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任命される。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。
倭王阿毎多利思比孤「日出処天子」隋煬帝「日没処天子」に対等外交=(隋の悲願、高句麗征伐の鍵となる)新羅からの朝貢を機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家となり、飛鳥疎開宮造営。
推古厩戸…前方後円墳Ω担当の物部守屋を滅ぼす。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲(唐外交の火種「日出処天子」九州本家の多利思比孤を抹消)。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)〜欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>379
前方後円墳型積石塚(つみいしづか)(北朝鮮の)
中国との国境に近い北朝鮮の鴨緑江中流沿岸の松岩里(ソンアムリ)、雲坪里(ウンピヨンリ)で発見されたとの報告が1990年にあった、
石積みの前方後円形の遺構。いずれも長さ20?30mで計10基あり、出土した鉄器や馬具などから、紀元前2世紀から紀元前後のものという。
高句麗独自の積石塚の一種だが、日本列島の前方後円墳の源流かも、と注目されている。 >>684
そういうウンコ臭い話は百済スレか辰王スレでやれ 畿内説のスレで言い負かされたからといって、荒らすなよ
キナイコシ! 日本って歴史発掘に使う予算って異常に多いんだよな
逆に言えば捏造も異様に多い <ウチナーに聞いた琉球チョンコのイメージ>
Q:琉球チョンコについてどう思いますか?
首を すぐ
吊れ┐ ┌死ね 9%
11% │ _..-ー''''''l'''''― ..、
./ .l, | `''-、
./ .l .| \
/ゝ、 l. | ヽ
./ .`'-、 l. | l
│ ゙''-、 .l,| 辺野古で l
| `'″ 死 ね |
│ ,!
l 80% ./
.ヽ /
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`'-、 /
`''ー .......... -‐'″ コトバンクとは、どこの素晴らしい会社が運営しているのかな、 ____
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/ / ̄ ̄ ̄\ 丶
|/ \ / 丶| | 琉球史の第一人者を自称する
/Y ヽ ノ |ヘ イジメられっ子で片思いの
ヒ| / |ノ 相手をナイチャーに取られた
丶- (_ノ -イ | 統合失調症を患う
|丶∈≡∋ /| < 在日中学二年生だと
>――――< バレて悔しいニダァ〜
/ 丶__ノ \
沖縄生まれの醜い在日朝鮮人
琉チョンの妄想はここから始まったw
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523031912/340
> ちなみに俺は沖縄生まれの沖縄育ちで、琉球史の第一人者。
> 残念でした。
命名の瞬間w
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523031912/405
> 琉球史の第一人者を自称するイジメられっこで片思いの相手
> をナイチャーに取られた中学二年生は日本人じゃなかったのか
沖縄は日本固有の領土ではない
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523031912/ >>5
1/5
【古代/邪馬台国】鬼道で邪馬台国を統一 古代の女王「卑弥呼」の正体とは?呉と蜀を牽制するための「親魏」という破格の高位の称号★3
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1578159614/56
56 名前:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 05:31:09.92 ID:wg6AmhM90 [2/2]
大月氏国の朝貢に成功したのは間違いなく
当時の司馬懿の政敵である曹真の功績なんで
司馬懿はそれに対抗するために
邪馬台国を大月氏国と比肩する国として過大に報告したって説があったな >>11>31 >>122>137
先日、BSでイースター島の特集を再放送していた。
初期モアイ像は正座してるんだそうだ
モアイ像はまげをしてふんどしをして刺青を入れてるのだ。
そして像を囲ってる石垣が、タヒチのそれと酷似している
両島民ともにタロイモを主食としており、
どうやらタヒチから移住したそうなんだが、
ではタヒチ島民はどこから来たか?
DNA鑑定によれば、台湾先住民の親戚だった。
つまりは、台湾からタヒチ、イースター島へと渡海したのである。
だとすると倭人伝が言及する聞きなれない島々は単なる伝説ではないのかもしれない
女王国の東の倭種を小笠原諸島とすると、
その南の侏儒国がグアム・サイパンのマリアナ諸島で、
裸国、黒歯国がタヒチあたりということになるんだろうか?
それなら船で一年というのもあながちおかしくはない
で、このイースター島(ラパ・ヌイ)に最初に入植したのが、
別の島の酋長ホトゥマツアが率いた集団で、7人の息子に探させ見つけたのだった。
この「ホトゥマツア」という名前が、古史古伝の「ホツマツタヱ」にも似てはいるが、
応神天皇の和名である誉田別尊(ホムタワケ)に似てるように感じる。
もちろん似た名前である垂仁と狭穂姫の子の誉津別命(ホムツワケ)とも似てることになる。 2017.12.28
入れ墨にふんどし!? モアイの謎を徹底解明!
絶海!謎と神秘の巨石文明 モアイとイースター島 〜21のミステリーを徹底究明!〜
http:
//www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=12923
2018年1月6日(土) 午後8時00分(120分)
https:
//www.nhk.or.jp/docudocu/program/92803/2803164/index.html
2017/12/28
http://amass.jp/99245/
イースター島 その8 アナケナビーチ
http://www.komaki-aic.ed.jp/komaki-j/KEIJI/hantaigawa/H13/033.htm
ホツマツア王のモアイ Hotsumatsua
http:
//www.theworldheritage.com/old/southamerica/easter/easter_hotsumatsua.htm 日本最南端の有人島である八重山諸島波照間島は「果てのうるま(琉球もしくは珊瑚礁)」の意味とされてるが、
かつてはパトローと呼ばれており、
他方、台湾先住のマレー系アミ族が沖合の島をボトロと呼び、マレー系地名の末尾にramランと付くことが多いため、
波照間は「沖合の島」の意味だという主張がある。
よって奄美大島沖合の加計呂麻島も同じ語源と推察される
波照間をボトローラムと呼んだ時、
イザナギの国産み神話の淤能碁呂(オノゴロ島)の語感にも近いものを感じてしまうんだが、
それはともかく、波照間の遺跡から発掘された土器はフィリピン・インドネシア文化との関係が強く、
南西諸島とマレーポリネシア文化との交流が強く示唆されている。
「波照間」地名考
http:
//manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/2006/12/post_8dfc.html
「はてるま」語源論争〜もうひとつの語源説
http:
//www.kt.rim.or.jp/~yami/hateruma/gogen.html 九州地方では僻地にあたる鹿児島や長崎を除いて、地名につく「原」を「ばる、はる」と読む。
福岡の平原や宮崎の西都原の古墳遺跡が有名だ。
開けた土地の耕作地帯を意味する言葉で、「丸(まる)」や「はり」も同根だと思われる。
「まる」は軍事的色彩を感じさせ、「ばり」には征服地の意味、「はり」は開墾地の色合いを思わせるが、
これらは「ふれ」「ふる」「むる」「むら」などと相互に転じているはずだ。
朝鮮半島でも新羅の徐羅伐など、同じ読み方をするため、半島経由で伝わったものと分析する言語学者が多い。
しかし、古代日本人の大半は渡来人なのだから、もし半島言語であるなら、
日本列島で広範に同じ読みが広まってるはずだが、そうではない。
その上で、「ばる、はる」読みは沖縄では、与那原や西原などと無数に存在しており、
小字の実に4分の3がばる地名なのだと言う。(ただ宮古島では「ばり」と読むようだ。)
であるなら、この読みは沖縄発祥だとすら言えても半島ルーツだとは到底考えられない。
なぜなら南西諸島は黒潮に隔てられており、古代、北上は可能でも南下は容易ではないからだ。
最近、インドネシアのでスラウェシ島で大地震津波があって、その州都の被害都市名が「パル」だった。
河口に開けた平坦な土地にある都市で、日本の「ばる、はら」と同じ意味と理解される。
台湾原住民はパラ、NZマオリ族もパラ、マレー山岳民のサカイ族はバルだという。
こうなると、「ぱる・ばる」はマレー系言語ではないかと推察されてくるのだが、
インドのサンスクリット語やタミル語でプルが城壁都市の意味で広汎に使われており、
そこからラオス、タイ、インドネシアに広まっていることがわかる。
トルコ・イスタンブール末尾のブルも同義で、
モンゴルはハラ、満洲はハリのようだが、
中央アジアを媒介にしてユーラシア一帯の共通語として広まっているようだ。
アイヌ語でハルは食糧、パルは入口、パラは広いの意味だ。 丸に関しては、五郎丸という地名が九州中心(鹿児島にはない)に、新潟・富山、愛知、愛媛・徳島と広がっている。
一方、鹿児島の「針原はりばる」と同名地が富山にあり、こちらは(はりはら)と読むようで、読みは違えどルーツは同じ気がするのである。
こうしたことから、地名が沖縄から鹿児島を経由して北部九州、本四国へと拡散していったろうと想像される。
沖縄に浦添という地名があるが、(うらうすい)から来ており、
浦を襲い支配するという意味で、津々浦々まで征服するとの意味だとされている。
沖縄の小村の多数地名の末尾に添とついてるのはこの由来からきた集落を指していて、
韓国のソウルと語源が通じてるのではないかととれる。
縄文人の日本流入ルートが、ラオス・マレーシアの東南アジアから沖縄経由と、
朝鮮対馬ルートに分岐してる点から考えると、
古代、縄文人が北東アジアから南西諸島、九州、本州と広範囲に居住していた頃、
原は「ぱる・はる」だったはずで、もっぱら、耕作民支配の対象地を指していた。
ところが長江流域から稲作民が日本列島に大量流入して、言語変化を引き起こし、
平安期のハ行転呼に伴って、「バ・パ→ハ→ワ行」と変換された際に、>>563
原(ばる・はる)→原(はら・わら)と変化していったのではないか。
僻地から耕作地を制して「ばる・はる」と呼び、
相当期間、縄文人が支配的、もしくは比較優位時代を維持したまま都市が発展し、文字がもたらされた時、
地名呼称は定着固定化され、
元来、地名というのは変化し難いものだから、
その後、文化経済の中心が他に移動したことにより、
言語変化に左右されず、そのまま化石のようにその地に温存されてしまった、
それが九州であり、沖縄なのではないか。
そう考えると、邪馬台国の所在は、当初先進地域でありながら急激に取り残された
九州もしくは南西諸島だったという分析が妥当のように思われる。 「〜原(ばる・はる)」地名と「〜丸」地名
https:
//www.shochian.com/harubaru2.htm
スポット048 原(ハラ、ハル)地名についての某大手新聞社(全国紙)からの問い合わせについて
https:
//ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-12209889086.html
沖縄の原(ハラ、バル)地名・雑録
https:
//17020526.at.webry.info/201707/article_4.html
「西中国山地」の縄文地名 ( アイヌ語に基づいて地名の由来を解く「西中国山地」の縄文地名 )
http:
//yamaaruki.sa●kura.ne.jp/aynu.htm
2018/09/29
【海に無数の遺体】鉄橋も崩落=津波被害のパル市−インドネシア地震
https:
//asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1538221596/
2018/07/13
【人類学】縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? ゲノム配列解読[07/11]
https:
//egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1531460749/
https://www.asahicom.jp/articles/images/c_AS20180711004656_comm.jpg ちなみに井戸を「かわ」と呼ぶのは沖縄から九州・中国までだそうだ。
Vol.07 四万十川の名称の由来
https://www.shimanto-chimei.com/%E5%9C%B0%E5%90%8D%E3%81%AE%E3%81%8A%E8%A9%B1/vol-7-%E5%9B%9B%E4%B8%87%E5%8D%81%E5%B7%9D%E3%81%AE%E5%90%8D%E7%A7%B0%E3%81%AE%E7%94%B1%E6%9D%A5/
川の語源は「河水流ルル音カ、がはがは」と大言海は述べている。ゴウゴウ音を立てて流れるから、その音の擬音語だという。
民俗地名語彙辞典では川について『井戸のことをカワというのは、沖縄、九州、中国、四国の愛媛県あたりまでという。
自然の流水をそのまま利用する「井戸」に「川」と同じ名称が与えられた。九州では「川」はナガレガワ、沖縄ではカーラ。 >724 >>318
淤能碁呂(オノゴロ島)については、
英雄神による島釣りの神話として、ポリネシアからメラネシア、ミクロネシアへと広汎に存在してるようで、
日本神話の古層部分にポリネシア文化が組み込まれている
そもそもの国産み説話は、火山噴火による海中からの新島の誕生に、国の創造を疑したものということになる
最近の小笠原西之島の噴火拡大はそうした陸地創造の現実そのもので、
神話の中のオノゴロ島がどの島なのかは別としても、
噴火を繰り返してる口永良部島など、鹿児島から南西諸島の自然現象が国産み神話の舞台もしくは想像の原型だったはずである。
<幻の富士山神話 ー地名をポリネシア語で解釈するー>
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei09.htm
ポリネシア神話によれば、人間に火をもたらした「マウイ」という有名な英雄神が、その祖母が亡くなったとき、
祖母の顎の骨を取って釣り針とし、海中から火山島を釣り上げたといいます。この島釣り神話は、ポリネシア族だけではなく、
広くメラネシアやミクロネシアの諸民族にも広がっています。 四海華夷總圖(1532年)
https:
//proutvillage.com/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90/4%E7%AB%A0-%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D2000%E5%B9%B4%E9%A0%83%E3%80%9C%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D1%E5%B9%B4/%E5%9B%9B%E6%B5%B7%E8%8F%AF%E5%A4%B7%E7%B8%BD%E5%9C%961532%E5%B9%B4/
https://pv648733274.files.wordpress.com/2018/09/e59b9be6b5b7e88fafe5a4b7e7b8bde59c961532e5b9b4.jpg
邪馬台国畿内説 Part573
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1583050792/403,636,640,801,804,813,814 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. 現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです
ソングンリに水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ遺跡の「紀元前300年」です
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を意図的に行わず隣国からの共同研究を頑なに拒んだ上に理由もなく埋め戻すという隠蔽工作を行いました
韓国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として、すでに歴史学の恥部となっています .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. ∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l 在日朝鮮系の
| |r┬-| | / < 無能ヒトモドキ
\ ` ー'´ // まるだしwww
/ __ /
(___) / .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. いゃーふらーみたい(でーじふらーぬーがろうしがw)んかい騒いでいるしが、
大多数が夜の街や若かにーしぇーでなんくるないさー。
トレンドや完全に収束方向やっさーから、盆明けにはわやになるやんやー。 .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>744
沖縄生まれの醜い在日朝鮮人
____
/ \
/ / ̄ ̄ ̄\ 丶
|/\> / 丶| | 琉球史の第一人者を自称する
/Y ヽ ノ |ヘ イジメられっ子で片思いの
ヒ| / |ノ 相手をナイチャーに取られた
丶- (_ノ -イ | 統合失調症を患う
|丶∈≡∋ /| < 在日中学二年生だと
>――――< バレて悔しいニダァ〜
/ 丶__ノ \ あ、首里城に放火したのは
ウリ達じゃないニダよ〜 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>747
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、朝鮮ヒトモドキどもは
通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に
「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが愚の骨頂です
松菊里遺跡は1975年に発見され、1977年に命名されました
板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の研究者が先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
松菊里遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです
松菊里に水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンニ)遺跡の「紀元前300年」です
朝鮮ヒトモドキどもは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を意図的に行わず隣国からの共同研究を頑なに拒んだ上に理由もなく埋め戻すという隠蔽工作を行いました
韓国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として、すでに歴史学の恥部となっています
しかも松菊里型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明し、証拠として北緯36度線より北にあるにもかかわらず炉の形跡がない、一柱支から三柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキどもを指導し支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは日本人特有と言えるY染色体O2b1で朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます >>747
〜朝鮮半島はもともと農耕民族化した縄文人に支配統治された地域だった♪〜
朝鮮半島南部は紀元前から菜畑・板付・金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識されていました。
根拠として挙げられるのが、
@半島最古の住居遺構である松菊里(ソングリ or ソングンニ)住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること
A半島最古の水田遺構である麻田里(マジョンリ or マジョンニ)遺跡の温帯ジャポニカ米が九州島由来であること
なお北部は遼河文明領域でありウラル系やツングース系が住んでいたことも判明しています。
寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北にウラル系や後には漢族系などが流入し、
弥生人(元縄文人)国家である辰国の技術指導を受け入れながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国です。
北緯36度線の壁によって
倭人(元弥生人)の影響を直接受けなかったツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、
漢族系であった馬韓は百済に、
辰韓と弁韓が併合して倭種の国新羅に、
狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行しました。
https://i.imgur.com/kVpjVvt.jpg
百済は元漢民族であったにもかかわらず、倭国本土に媚を売り続けたため、中華化した新羅から大いに反感を買い、
唐と組んで逐滅(現代語 絶滅)させられました。
高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅になったのですが、
白村江の戦いは朝鮮半島から倭人や倭種の引き揚げが目的だったのだろうと推察できます。
その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅してしまいました。
高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモンゴル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至っているのです。 >>748-749
松菊里型住居は弥生早期に高床式倉庫とセットで江辻遺跡に初登場するが、
両者とも開発過程なく完成形で登場しているため朝鮮南部から取り入れたもの
だとしか考えられんの
残念!チンコロ!
朝鮮半島では約4000年前の稲籾が漢江下流域で出土するため、稲作は
約4000年前から始まったと考えられているが、あとはそれがどうやって
菜畑遺跡までたどり着いたかをすでに探すだけの段階
残念!チンコロ!
櫛目文土器時代、無文土器時代を通して朝鮮半島には日本列島から渡来定着した事が
証明できる在地産の縄文弥生の日本系土器遺構はない
残念!チンコロ!
ハプロタイプO2b1はバイカル湖あたりからインドネシアやミクロネシアまで
見られるため、朝鮮半島の北緯36度以北にも当然存在する
残念!チンコロ!
まあ、おまえの子どもダマシに引っかかってくれる中卒なんかいないと思うが念のためw
残念! 残念! 残念! 華南ハノイリッチブタチックニグロチックチンコロ(爆
アーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
セロイセローーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイ(爆 >>750
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、朝鮮ヒトモドキどもは
通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に
「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが愚の骨頂です
松菊里遺跡は1975年に発見され、1977年に命名されました
板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の研究者が先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
松菊里遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです
松菊里に水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンニ)遺跡の「紀元前300年」です
朝鮮ヒトモドキどもは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を意図的に行わず隣国からの共同研究を頑なに拒んだ上に理由もなく埋め戻すという隠蔽工作を行いました
韓国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として、すでに歴史学の恥部となっています
しかも松菊里型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明し、証拠として北緯36度線より北にあるにもかかわらず炉の形跡がない、一柱支から三柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキどもを指導し支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは日本人特有と言えるY染色体O2b1で朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます >>750
〜朝鮮半島はもともと農耕民族化した縄文人に支配統治された地域だった♪〜
朝鮮半島南部は紀元前から菜畑・板付・金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識されていました。
根拠として挙げられるのが、
@半島最古の住居遺構である松菊里(ソングリ or ソングンニ)住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること
A半島最古の水田遺構である麻田里(マジョンリ or マジョンニ)遺跡の温帯ジャポニカ米が九州島由来であること
なお北部は遼河文明領域でありウラル系やツングース系が住んでいたことも判明しています。
寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北にウラル系や後には漢族系などが流入し、
弥生人(元縄文人)国家である辰国の技術指導を受け入れながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国です。
北緯36度線の壁によって
倭人(元弥生人)の影響を直接受けなかったツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、
漢族系であった馬韓は百済に、
辰韓と弁韓が併合して倭種の国新羅に、
狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行しました。
https://i.imgur.com/awJsVAr.jpg
百済は元漢民族であったにもかかわらず、倭国本土に媚を売り続けたため、中華化した新羅から大いに反感を買い、
唐と組んで逐滅(現代語 絶滅)させられました。
高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅になったのですが、
白村江の戦いは朝鮮半島から倭人や倭種の引き揚げが目的だったのだろうと推察できます。
その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅してしまいました。
高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモンゴル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至っているのです。 >>751-752
松菊里型住居は弥生早期に高床式倉庫とセットで江辻遺跡に初登場するが、
両者とも開発過程なく完成形で登場しているため朝鮮南部から取り入れたもの
だとしか考えられんの
残念!チンコロ!
朝鮮半島では約4000年前の稲籾が漢江下流域で出土するため、稲作は
約4000年前から始まったと考えられているが、あとはそれがどうやって
菜畑遺跡までたどり着いたかをすでに探すだけの段階
残念!チンコロ!
櫛目文土器時代、無文土器時代を通して朝鮮半島には日本列島から渡来定着した事が
証明できる在地産の縄文弥生の日本系土器遺構はない
残念!チンコロ!
ハプロタイプO2b1はバイカル湖あたりからインドネシアやミクロネシアまで
見られるため、朝鮮半島の北緯36度以北にも当然存在する
残念!チンコロ!
まあ、おまえの子どもダマシに引っかかってくれる中卒なんかいないと思うが念のためw
残念! 残念! 残念! 華南ハノイリッチブタチックニグロチックチンコロ(爆
アーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
セロイセローーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイ(爆 、、; (⌒ヾ ((⌒⌒)) /⌒) ), ,
、ヾ (⌒ ⌒⌒);;)/,
丶 l|l l|l / '
ファビョ━ l|l l|l ━ン!
../ i / i
..(゜\./,_ ┴./゜)(
\ \iii'/ /,!||!ヽ チンコロォォォ!!
/V,,ニ..,ニ、、u ノ(\ アァァァーーー!!
\ヽY~ω~yi ./⌒/ セロォォォーイ!!
| .|⌒/⌒:} !. く
./ ! k.;:,!:;:;r| ,! ヽ
<ニニニ'.ノ >>754
松菊里型住居は弥生早期に高床式倉庫とセットで江辻遺跡に初登場するが、
両者とも開発過程なく完成形で登場しているため朝鮮南部から取り入れたもの
だとしか考えられんの
残念!チンコロ!
朝鮮半島では約4000年前の稲籾が漢江下流域で出土するため、稲作は
約4000年前から始まったと考えられているが、あとはそれがどうやって
菜畑遺跡までたどり着いたかをすでに探すだけの段階
残念!チンコロ!
櫛目文土器時代、無文土器時代を通して朝鮮半島には日本列島から渡来定着した事が
証明できる在地産の縄文弥生の日本系土器遺構はない
残念!チンコロ!
ハプロタイプO2b1はバイカル湖あたりからインドネシアやミクロネシアまで
見られるため、朝鮮半島の北緯36度以北にも当然存在する
残念!チンコロ!
まあ、おまえの子どもダマシに引っかかってくれる中卒なんかいないと思うが念のためw
残念! 残念! 残念! 華南ハノイリッチブタチックニグロチックチンコロ(爆
アーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
セロイセローーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイ(爆 、、; (⌒ヾ ((⌒⌒)) /⌒) ), ,
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ファビョ━ l|l l|l ━ン!
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\ \iii'/ /,!||!ヽ チンコロォォォ!!
/V,,ニ..,ニ、、u ノ(\ アァァァーーー!!
\ヽY~ω~yi ./⌒/ セロォォォーイ!!
| .|⌒/⌒:} !. く
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<ニニニ'.ノ .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
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| |r┬-| | / < 在日ヒトモドキ
\ ` ー'´ // まるだしwww
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| |r┬-| | / < 反日洗脳に侵された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキwww
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 中国から物理的に到達可能なのに渡来人が来ていないと考える方が不自然
少なくとも硯を使っていた人達は中国と一定の交流があったと考える方が自然 硯は単なる宝器で使った痕跡がないの
筆や木簡、竹簡、経木の出土がないだろ >>763
支那が台湾と沖縄が違う島だと気づいたのは7世紀だぞ .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
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| |r┬-| | / < 反日洗脳に侵された
\ ` ー'´ // 哀れな在沖ヒトモドキwww
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(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
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| |r┬-| | / < 反日教育に侵された
\ ` ー'´ // 在日ヒトモドキ丸出しw
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
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日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>773
反日教育に毒された哀れな在日ヒトモドキw
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