高天原にある卑弥呼の墓
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魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。
高天原最有力地・御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
https://goo.gl/maps/SnEKaJ2co5m
卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地が高天原。
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。 >>150
新井白石の常陸高天原説は、大和朝廷と中国との臣従関係を認めてしまう事に
ならないようにと考えたという説は、新井白石の説と同様に根拠薄弱。
新井家は常陸国下妻城に仕えていたこともあり、常陸説を唱えた大きな理由と考えられる。 >>154
三木家の祖である忌部氏が初めて歴史に登場するのは飛騨の一部である美濃。
むしろ飛騨が高天原である根拠である。 四国のあんな山奥に天皇家の最重要お抱え業者(三木家)を作る意味は何?
素直に解釈すれば四国の山奥が天皇家のルーツ 大嘗祭は服だけでなく食事も四国が用意することになってる
海産物なんか伊勢や若狭湾のほうが近くて新鮮なのにかかわらず
遠くの四国から取り寄せるんだよね
ヤマトは四国にあったと言ってるようなもんだ 三木家てあねこうじなんたらやな(わえのやってた信長の野望で真っ先に滅亡してたわ?
なんでも阿波なんやね(ぼーよみ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 飛騨にリャンメン怪人あり!
和邇さんとの興亡これ如何に? 高天原は屋島の高地集落やった!
南無八幡大菩薩予想当てさせたまえ(与一風 >>172
大田田根子が見つかった場所は美努(ミノ)
美馬の西隣は三野(ミノ)
美馬の東隣は大田
揃いすぎてる >>174
>新井白石の常陸高天原説は、大和朝廷と中国との臣従関係を認めてしまう事に
>ならないようにと考えたという説は、新井白石の説と同様に根拠薄弱。
という君の意見こそ根拠薄弱。
新井白石が常陸説を唱えるまでは普通に金剛山・高天台が高天原だと考えられていた。
新井白石は何かの思惑で常陸説を唱えたわけだ。
>新井家は常陸国下妻城に仕えていたこともあり、常陸説を唱えた大きな理由と考えられる。
ふるさと自慢が根底にあったという事だな。
やはり大和から常陸に持って行ったことが明白。 >>166
卑弥呼の墓が高天原にあるというのは新しい説だからな。
まともな反論は食らっていない。
わしの場合は卑弥呼が誰なのか明白にしてるので基礎がある。
卑弥呼が誰なのか明白に出来ず、
ただ円部が150mだと言うだけの箸墓と言う馬鹿説はやがて淘汰されていくだろう。 >>183
>大田田根子が見つかった場所は美努(ミノ)
見つかったとは何だ、意味分からん。
大田田根子は陶邑、おそらく今の堺市上神谷(にわだに)
昔は神の古語のミワ、つまりミワ谷と呼ばれた。
近くに庭代台という地名もある。
神(ミワ)の依り代を意味するのであろう。
大神神社のミワにも通じる。 日本書紀だと陶邑だったな
大田の母は三島溝杭姫
大田の東隣に美馬市穴吹町三島 筑紫から瀬戸内海を東征して来た三島の神の末裔ですね。
本貫地は愛媛の三島神社です。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。
その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、耳の娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。
この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。
古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 ふもとに延喜式の伊邪那美神社がある
全国で唯一つだよ 徳島の式内社50社のうち19社に古事記神話の神名がついている
奈良は286社のうち3社、島根は187社のうち0
古事記は阿波での出来事を記録したもの >>176-178
阿波忌部・・・麻木綿を朝廷に納める
讃岐忌部・・・竹や盾を朝廷に納める
紀伊忌部・・・木材を朝廷に納める
築紫忌部伊勢忌部・・・鍛冶品を朝廷に納める
このように忌部氏は職人集団であり各地に分散して朝廷にものを納めていた。
朝廷にものを納めているからといってそこが高天原とは言えないことがわかるだろう。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>183
阿波には三木家の忌部の荒妙の他に、絹妙という天皇即位式の時に着る衣装が
「飛騨から来た」という言い伝えがある。
高天原は飛騨で決まりだろう。 >>185
白石は、1716年「古史通」の中で、中国との臣従関係を否定することになる高天原
常陸説を出した。
一方で、同じ1716年「古史通或問」の中で、中国との臣従関係を肯定することになる
邪馬台国畿内説を出した。
これは貴方の主張を真っ向から否定することになるのではないのか。
邪馬台国論争は現在でも盛んなように、邪馬台国九州説を取ることは高天原常陸説を
取るより簡単なことだ。
中国との臣従関係を否定することが第一であるなら、当然、高天原常陸説とともに
邪馬台国九州説を取ったはず。
晩年、白石は国之事調書で邪馬台国を九州に変えてはいるが。 政略結婚した飛騨のイザナギと出雲のイザナミは、天照大御神や須佐之男を生んだ後
離婚し、イザナミは出雲へ帰った。
須佐之男は悲しみ、泣きわめき、暴れ回った。
不憫に思ったイザナギは、縁りを戻そうと、須佐之男とともに出雲へ行き、
イザナミに会ったが、イザナミは鬼の様相でイザナギを追い払った。
これがいわゆる黄泉の国の話である。
須佐之男は出雲に置いていった。
須佐之男は母から飛騨の悪口を聞かされ反感を持つようになった。
須佐之男は、出雲の国王になった時、飛騨から日本列島の実権を奪おうと考えた。
先ず、須佐之男は(当時加賀を含む)越前を侵略した。
越前がある越国は飛騨とは強固な友好国であり、天照大御神は弟が攻めてきたと
知り大変お怒りになった。
越前には九頭竜川が流れ、川を遡った隣国が天照大御神が住む飛騨である。
九頭竜川の九頭の頭が9ということは、頭と頭の間が8、つまり八岐ということであり、
八岐大蛇伝説とはこの時の越前侵略のことである。
越前は弥生時代の鉄器出土数が全国一であり、大蛇の尻尾から鉄の剣が出てきた
というのは越前から鉄器を奪ったことを意味する。 >>196
一生一度の儀式で着るアラタエは特別なの
出入り業者は当然自分たちの近くに作ります 天照大御神は精神的におかしくなり床に臥されてしまった。
これが神話では天岩戸にお隠れになったとなる。
信濃戸隠の思兼命が中心となり対応を協議し、まずはアメノウズメを須佐之男の
元へ遣わし、ハニートラップにかけて暗殺した。
これがいわゆるアメノウズメの裸踊りである。
須佐之男のあとを継いだ息子大国主は能登を含む越中越後を侵略した。
このことは多くの神社の社伝として残っている。
ここで、出雲は貴重な輸出源勾玉の原料である越後で産する翡翠を手に入れた。
出雲は熊本福岡から越後出羽までを支配する大国となり日本列島の支配者となった。
飛騨は、ついに、出雲と本格的に戦争をすることを決断し、タテミカヅチを越国に送った。
大国主の子で母は越後の妾で越国の主で越後に住むタテミナカタは交戦した。
タテミナカタは、信濃の上田、富士見、、諏訪と敗走した。
これがいわゆるタテミカズチとタテミナカタの相撲である。
記紀では相撲は出雲で行われたとされているが違う。
越後で行われたから信濃に逃げたのである。
この後タテミカズチは出雲まで一気に攻め入り大国主は降伏した。
これがいわゆる出雲の国譲りである。
実際は国をお返ししたというべきである。 >>200
>白石は、1716年「古史通」の中で、中国との臣従関係を否定することになる高天原
常陸説を出した。
一方で、同じ1716年「古史通或問」の中で、中国との臣従関係を肯定することになる
邪馬台国畿内説を出した。
これは貴方の主張を真っ向から否定することになるのではないのか。<
いやならないよ。
まず第一に最も隠したかった事、それは帥升=スサノオの土下座。
それゆえ、スサノオのいた高天原が大和のあってはまずい。
だから常陸などとわざと潤色した。
その後、さらに邪馬台国自体を九州とし、
邪馬台国論争を創作した。
この「論争を創作」というのがポイント。
論争してくれてるうちは古代大和朝廷や天皇の朝貢という史実が決定しない。
その決定しないという情況を永遠に続かせようとしたのだろう。
これは天才の発想だ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>178
三木家に対してのアラタエの要請は
命令口調ではなくお願い文書
これが何を意味するのかってこと 記紀は白村江の敗戦を受けて唐に対する土下座朝貢外交(遣唐使)を行う中で編纂されたから、朝貢を隠すためとかなんとかいう言い訳は成り立たないんだってば。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 三木家のアラタエって7世紀ころからみたいだし、そんな古いものではないでしょ。
「天皇・皇后」という新名称ができて以降の物だろ。 葛城も欠史八代に焦点を据えたスレにすればもっと面白いのに 先日、大変高名な考古学者の方にお手紙を差し上げたところ、返信のおハガキをいただきました。
その御主旨は「あなたの説は近代以降の文献史学による記紀批判がなされていない」というものでした。
先代旧事本紀についても同じであるというご意見でした。
まぁ早い話が神武やニギハヤヒなどの実在を簡単に言ってくれるなということでしょう。
しかるに崇神天皇4世紀前半がおおよそ確定的である事から考えるに、
大和盆地で土師器や古墳造営が始まる大変革期の庄内0期が最新編年で2世紀末にくるようなので、
ならばプレ崇神というべきか崇神以前の王権を想定はできるはず。
しかもおおよそ崇神から庄内0期まで120年として世代で言えば6世代、
記紀は崇神以前を親子継承として9世代ですが、
先代旧事本紀の鴨や物部の系図では6世代。
先代旧事本紀の鴨や物部の系図は考古学とぴたり符合するわけで、
先代旧事本紀という史書の信憑性がむしろ高くなってるのではないでしょうか。
また考古学者では森浩一さん、文献史学者では上田正昭さんなど先代旧事本紀の重要性や復権を言われていた方もおられたわけで、
私は素人ですがなにも臆することなく神武やニギハヤヒなどの実在を言い続けたいと思ってます。
また前期古墳の特徴が山稜にあることは考古学的にもほぼ鉄則なのにも関わらず、
大和盆地においてはほとんどの人が平地の纏向古墳群に意識を引き付けられ、
誰も大和盆地の山稜・高天原(御所市高天)に注目してこなかったのが実情ではないでしょうか。
もし「神話の世界などありはしない」などとの意識が根底にあるのならば、
トロイアを顕現させたH・シュリーマンの否定にもつながるのではないかなどと素人ながらに思ったりします。
「近代以降の文献史学による記紀批判」とはむしろ記紀からの逃避ではなかろうかとも思います。 >>211
当時、天皇なんて称号はない。
欠史8代と言われる彼等ではなく、本当の王とは大物主の系譜。
偶然だな、今日はえべっさん。
卑弥呼とはえべっさん(事代主)の娘だよ。
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>208
>記紀は白村江の敗戦を受けて唐に対する土下座朝貢外交(遣唐使)を行う中で編纂
あのな、使者を派遣することと、王自ら渡海して土下座することは全然意味が違う。
日本という国の成り立ちが王(神)の土下座からはじまるなんてそんな屈辱的な事はあるまい。 >>212
概ね主旨には賛同します。
ただし、高天原は海の向こうであり、大和ではありません。
卑弥呼も大和とは関係ありません。
大和の古王権は先代旧事本紀にある通りであり、卑弥呼が介入する余地はありません。 >>215
古代において王とは漢皇帝が冊封するものであったことは自明の理です。 >>217
建前はそうでも、漢土の封王と、化外の地からの朝貢に対しての王号とは
やはり対等のものではないよ
一緒くたにしてはダメ >>216
>高天原は海の向こうであり、大和ではありません。
>卑弥呼も大和とは関係ありません。
それは単にあなたの希望を声高に主張してるだけ。
わしは>>1で卑弥呼は誰か、そして径百余歩の奴婢が埋葬されてる塚も明示している。
対抗軸としてあなたが何か出してこなければ反論にもならない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 新井白石が高天原常陸説を出すまで、
中世の文献などから高天原が大和葛城と認識されていたのは事実である。
高天原が海の向こうにあるとか九州にあるとか全く意味がない。
邪馬台国九州説は九州のどこにあったか分からない高天原にいたアマテラスが卑弥呼だというのだから、
もはや虚説である。 金剛山の向こうから神々はやって来たというのが奈良の人の認識
少なくとも高天原は、金剛山の向こう側にあるんじゃないか? 白鳳地震の津波で四国壊滅し、海の無い金剛山を超えた奈良に遷都した
倭は四国のこと
だから倭大國魂神社(延喜式)が四国にある
高天原は剣山 剣山の麓に天椅立(あまのはしだて)神社
波爾移麻比弥(はにやまひめ)神社
弥都波能売神社(みつはのめのかみ)
そして伊邪那美神社
こんな偶然あるのかって話 >>222
>金剛山の向こうから神々はやって来たというのが奈良の人の認識
島根県では邪馬台国出雲説が有力だというのとかわらないレベルだ。 >>222
>金剛山の向こうから神々はやって来たというのが奈良の人の認識
創作はダメ。 邪馬台国出雲説は無理だが卑弥呼は出雲系。
今日はえべっさんだが、事代主神の娘ヒメが7世紀に出雲族の象徴」蹈鞴(たたら)」と五十鈴をつけられた。
姫蹈鞴五十鈴媛なんて長ったらしい名前にされてすぐにヒミコとは分からないようにされた。 >>228
その話が仮に本当だとしても、女の子なら6歳くらいで恥ずかしいと思うであろうから、
改名後の「歳すでに長大」であったヒミコの話なので問題なし。
それより古事記で「ホトタタラ」と明言後にヒメ踏鞴に改名しました(ボソッ)なんて書かれてるが、
それなら最初からヒメ蹈鞴にすればいいのに、
「ホト」を強調しているのはヒメから来るヒミコの印象を遠ざけるためであろう。
というかこの説話自体が創作だろうけどね。
どこの世界に娘に陰部の名前を付ける親がいるのかと。
関東なら万子ちゃん、関西なら尾芽子ちゃん、九州なら簿々子ちゃんだろ。
免許更新の時に名前呼ばれたら死にたくなるほど恥ずかしいだろうな。
天皇家の史書である古事記は前王権への嫌がらせまたは侮蔑心から大物主関連にホト説話をわざと組み込んでるね。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>229
>「ホト」を強調しているのはヒメから来るヒミコの印象を遠ざけるためであろう。
>というかこの説話自体が創作だろうけどね。
それは恣意的だね。 イスケヨリ姫は博多湾の倭王であるイザナギの孫である大山祇の末裔。
大山祇の娘は、天照の孫で筑紫の日向で倭王に即位した邇邇芸の妃となった木花咲耶姫だ。
息子は溝杭耳といい、名前からして筑紫の王族なのだが、愛媛の三島神社に祭られている。
大阪でも三島神社に祭られている。
京都では賀茂神社、奈良では登美神社に祭られている。
この三島溝杭耳こそが瀬戸内を拠点に関西方面を開拓した張本人だが、そこに天照の孫の饒速日がやって来る。
三島溝杭耳の孫のナガスネ彦は妹を饒速日に娶らせている。
そこにさらに筑紫から神武が来て、ナガスネ彦は怒る。
「なぜ次々に天神の子がやって来て人の土地を取るのか」
饒速日と神武は同族であることを互いに確認すると、従わなかったナガスネ彦を排除してしまう。
その姪のイスケヨリ姫が神武の妃となり、2代目の天皇が生まれる。
つまりイスケヨリ姫は父方も母方もイザナギの末裔という家系である。
ちなみに卑弥呼とは全く関係ない。 >>231
恣意的もなにも歳長大の時点で名前がヒメである事には変わりない。 >>232
>ちなみに卑弥呼とは全く関係ない
4世紀前半の崇神から数十年前のトヨはトヨ津媛以外におらず、
其の3世代前のヒミコに近い名前はヒメ(踏鞴五十鈴)しかいない。
トヨ津媛は「国宝」中平銘鉄刀の保持者和邇氏の祖なので考古学的根拠もある。
博多湾の倭王などというレベルの低い話はやめてくれ、質が下がる。 畿内と筑紫が別なら、畿内の歴史書に名前がなくてなんの不思議があろうか。 >>235
なにがわからないのかな。
百歩譲ってホトという名前が本当だったとしても、
恥ずかしいのでヒメに変えたわけだろ。
それがヒミコだと言ってるわけだが。 >>236
どこの歴史書にも名前のないのに何で九州に魏志に書かれた王がいたと照明できるの? >>237
>それがヒミコだと言ってるわけだが。
卑弥呼の関係ないだろ >>238
記紀に名前がない倭王なんていくらでもいる。
帥升とか倭の五王とか。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>239
主張や感想文はイイからあんたなりに考えた対抗軸を持ってこい。 >>240
>記紀に名前がない倭王なんていくらでもいる。
>帥升とか倭の五王とか。
記紀にいるだろ。
だから古代天皇を100歳超えさせて時代を大きくずらしてるのさ。
倭の五王も記と紀で時代が微妙に違うだろ。
誰か分からないように潤色してるのさ。
センスがねぇな、おまえw >>243
>倭の五王も記と紀で時代が微妙に違うだろ。
勝手に決めつけているだけで、実は根拠がない。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>244
博多湾にいた倭国王などと勝手に決めつけているのはおまえ。
何も根拠がない。 金印は博多湾で出土した。
どこに倭王がいたかは明白だ。 >>247
本物ならね。
弥生時代中期から墳墓で他地域を圧倒するのは出雲。
博多など屁でもない。
そしてBC2世紀からBC4世紀にかけて、
出雲から近畿・中部に銅鐸が拡散する。
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海の向こうで始皇帝という男が超大国「秦」を建国した時期だ。
その防衛対策としての王都の畿内移転だろう。
博多など防人の土地、そんな場所に王のいる都はない。
カッペが自惚れるな。 その後で倭国の中心地は筑紫となり、銅矛銅鏡文化が銅鐸文化を駆逐してしまう。
出雲や、その流れをくむ鴨一族は歴史の中では傍系となってしまうのだよ。
そして記紀にはそれを裏付ける出雲の国譲りが記録されている。
これを受けて紀元1世紀頃に筑紫に伊都王権が成立した。
神武と卑弥呼が同年代なら、神武の年代はさらにその後なわけだから、出雲はすでに筑紫の傘下なのだよ。
わかったか。 墳墓で圧倒する=限られた労働力を土盛に浪費している
つまり征服されたばかりの場所だよ。
反抗する力を無くすための労働ね。
江戸時代は参勤交代させてたでしょ。 >>248
そもそも神武が卑弥呼と同じ3世紀と言っていなかったか?
なぜ畿内遷都が紀元前になるんだよ。
自分で言っていることが矛盾していないか?
畿内説でありながら畿内への遷都に言及したことは評価するけどね。
結論は間違っている。 キナイコシは畿内なんてどうでもいいからな。
南岸を倭人に支配されていたら困るだけ。
日本だってどうでもいいから金印なんて偽物でいいわけだ。 >>251
>墳墓で圧倒する=限られた労働力を土盛に浪費している
>つまり征服されたばかりの場所だよ。
バカだね!
征服地で労働力を動員組織化したら、反乱の原因になるぞw
大墳墓というのは王のお膝元に各地から人員を徴発して作るものだ
各地から労働力を引きはがしてこそ、国力を削ぐことができる
九州はまともな大墳丘墓一つ作れなかった弱小地域
九州説はそれをごまかすために、筋の通らない詭弁の言い訳を量産しているww >>253
こんなところに「キナイコシ」ww
半島系工作員は恨の感情が原動力だから無駄にシツコイw >>250
>神武と卑弥呼が同年代なら、神武の年代はさらにその後なわけだから、出雲はすでに筑紫の傘下なのだよ。
わかったか。
なにを訳わからんこと言ってるのかw
筑紫なんて雑魚なんだから引っ込めw >>252
>そもそも神武が卑弥呼と同じ3世紀と言っていなかったか?
>なぜ畿内遷都が紀元前になるんだよ。
畿内遷都は神武よりはるか以前の銅鐸時代の話し。
筑紫なんて何も関係ないので黙っててくれ。
自分で言っていることが矛盾していないか? >>258
神武は大和にあった王権への婿入り。
神武が来た時には大和にはすでに王権があった。
出雲系銅鐸祭祀の神(鴨)王朝で場所は高天原(金剛山)
神武は事代主神の娘ヒメの元に通える位置である御所市柏原に宮を構えた。
記紀にある「天皇」なる称号は7世紀に出来た。 私の説の主旨は、
・崇神天皇4世紀前半として「国宝」中平銘鉄刀の保持者・和邇氏系図から導き出される3世紀後半のトヨとはトヨ津媛、
卑弥呼とはヒメ(踏鞴五十鈴)媛である
・ヒメ(踏鞴五十鈴)媛はじめ鴨(神)族の墓は高天原にあり、日本最古の高天彦神社境内に奴婢(土蜘蛛)とともに径百余歩の塚に埋葬されている
・後漢書東夷伝の倭国王帥升とはヒメ(踏鞴五十鈴)から約5世代前のスサノオであり、記紀はスサノオの後漢・安帝への謁見要請、つまり土下座という屈辱的史実を覆い隠すために大きく時代を変え、その結果神武127歳などとなった
・神武東征紀とは女王国時代を隠ぺいするために意図的に武勇伝を強調し男王国に見せかけたもの、
そして天皇・皇后という新称号は魏志に書かれた真の女王を隠ぺいするための物である
先日、大変高名な考古学者の方にお手紙を差し上げたところ、返信のおハガキをいただきました。
その御主旨は「あなたの説は近代以降の文献史学による記紀批判がなされていない」というものでした。
先代旧事本紀についても同じであるというご意見でした。
前期古墳の特徴が山稜にあることは考古学的にもほぼ鉄則なのにも関わらず、
大和盆地においてはほとんどの人が平地の纏向古墳群に意識を引き付けられ、誰も大和盆地の山稜・高天原(御所市高天)に注目してこなかったのが実情ではないでしょうか。
そこにもし「神話の世界などありはしない」などとの意識が根底にあるのならば、トロイアを顕現させたH・シュリーマンの否定にもつながるのではないかなどと素人ながらに思ったりします。
「近代以降の文献史学による記紀批判」とはむしろ批判という名を借りた記紀からの「逃避」ではなかろうかとも思います。 各論があっているのに、肝心の卑弥呼の比定が強引で誤っているという珍しいパターン ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>262
強引でなく間違っていない卑弥呼の比定をどうぞ。
全員論破してやるから遠慮なく言え。 >>267
崇神時代まで生きたモモソ媛のオカンがなんでヒミコやねんw
な、この程度のヤツばっかりw >>269
取り上げられてるから時代を大きくずらしてるのだよ。
その結果、神武127歳などというトンデモになった。 >>268
>崇神時代まで生きたモモソ媛のオカン
崇神時代が邪馬台国の時代だからばっちりだろ?
モモソヒメが生殖可能年齢で崇神時代を生きている時点で
記紀の系譜は造作が見られる
モモソヒメと崇神は、ともに孝霊天皇の子供で姉弟
孝霊と孝元が兄弟で同世代
開化は孝元の息子で崇神とはいとこ >>271
>崇神時代が邪馬台国の時代だからばっちりだろ?
どうして?
百済の武寧王墓の金石文からも応神天皇390年は確実、そして神功皇后が4世紀後半。
その3世代あたり前の崇神が邪馬台国時代になるわけはない。
トヨの時代が終わった頃に崇神の台頭であろう。
また崇神墓は古事記の記述からも、
また大王墓にふさわしいその威容からも行燈山古墳で間違いなかろう。
ならばその時期は4世紀初頭から前半。
やはり崇神は邪馬台国時代ではない。 >>272
>その3世代あたり前の崇神が邪馬台国時代になるわけはない。
記紀の系譜では6世代
記紀の神武紀の「土蜘蛛」という単語一つを大仰に持ち上げるくせに
記紀の記述を平気で改竄する左側スロープ君であったww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています