【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弍
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九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県八代、球磨郡、人吉、長崎県佐世保、島原、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!
邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!
*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁 >>388
中国上古音では臺をダーと発音するという説があるので、実際、邪馬臺=ヤマダー→ヤマダ説をいう人もいるようだ。
なので、有り得るということになるよね。 邪馬台国がヤマドイでも良いけど
卑弥呼がピミフ問題はどうする?
古代中国の発音ではピミフだぞ
日本人では無いと思うけど >>392
リピートアフターミー
「ジィェミャァ〜ダァィ」 >>393(Wikiより)
>旧怡土郡付近は大化の改新以前は伊覩縣(いとのあがた)が置かれ、
『日本書紀』によるとその祖の名は五十迹手(いとて)で仲哀天皇の筑紫親征の折に帰順したとされる。
『筑紫国風土記』逸文には五十跡手が「高麗の意呂山(おろのやま)に天より下った天日鉾命の後裔である」と天皇に述べたとある。
(このほか神功皇后記にも、怡土に関連する逸話がある。)
(この怡土郡、伊覩縣の地名を元に、新井白石が比定を行い、これが今日の北部九州旧ルート説に至っている) >>389
「漢字古音手冊」(郭錫良)2010年刊
上古音 ダー
中古音 ドイ
ジィェミャァ〜は、ヤマの音写でよし。
問題は、臺の読み方。
臺=ドイだと、山門=ヤマドが妥当。 そういえば
江戸時代の肥前肥後には、山門郡とか山門郷とか山田村とかがあるなあ >>395
ピラフ…。
「学研漢和大字典」(藤堂明保編)
卑
上古音 ピャグ
中古音 ピァ
彌
上古音 ミャル
中古音 ミャ
呼
上古音 ハグ
中古音 ホ
上古音では、(ピャグミャルハグ)
中古音では、(ピァミャホ)。
まあ、中古音ベースで(ピミフ)は、おかしくない。 ・名日卑弥呼 事鬼道能惑衆、、 有男弟佐治國
・自為王以来 少有見者 、、 唯有男子一人 、、傳辭出入居、、、
鬼道の達人で、 唯有男子一人 、傳辭 であったということだから、倭人(日本人)でなかったかも。 >>398
俺も色々ググったり
中国人の発音を聞いたりしたが
答えはまちまち
邪はシィェかもしれないし
イィェかもしれないしジィェかもしれないし
特定不可能だよ >>397
あるある。
「筑紫の伊覩縣主の祖五十迹手、天皇の行すを聞りて…」
和名抄に筑前国怡土郡があり、志摩郡と合わせて糸島郡というとの解説もみられる。
平原?で硯が出たそうだが、外交使節が常に留まったと倭人伝にあるから、硯が出ても不思議でない。
伊都にこのような施設があったのは、そもそもが使節が奴国へ詣でるための逗留所が設けられたからに違いない。
邪馬台国時代になってからも、魏の使節などは元の盟主の奴国の顔を立てて、挨拶も行ってから、邪馬台国へ向ったのだろうと思うね。 >>403
筑紫の伊覩縣≒筑前国怡土郡に、伊都国があった場合、
怡土郡には、深江という良港があったので、壱岐から、直接、怡土郡伊都国へ向かってよかったはず。
それを、壱岐からいったん松浦に入港し、わざわざ倭人伝の記述に逆らってまで、難儀な山坂道を北東越えしたという解釈は不可解・・。
筑前・怡土郡に向かったのでなく、肥前・佐賀平野のほうへ向かったのだろうね。、 あれって海沿いの地形を説明しただけで
実際には直接伊都に上陸したんじゃないの? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>405
ほほう、良い見解だ。
まそれは、松浦・末盧国の次文の、東南陸行500里・・、をどのように理解するかによるな。 >>405
なんで、壱岐→末盧国千余里となってんの? @阿波 伊都国には行っていない
そして末廬国は唐津の松浦じゃなくて
佐世保の松浦だ >>401
魏誌倭人伝は日本人が勝ってに日本の事だと騒いでるだけだもの
中国の歴史家だって日本とは断定してない
因みに倭人とは魏に従った異国の民の意味
倭国は魏に従った国
邪馬台国はその内の一つ
ただ邪馬台国は魏との間に使者を遣い国交を持ってるから、漢文の読み書きが出来る文字文化が合った
当時の日本は文字文化の形跡が無い
日本に漢文が入るのは7世紀
遣隋使の時代
中国は漢文の読み書き、文字文化の無い国と国交は持たなかった >>411
流石に倭≠日本は立証難しくないか?
漢委奴国王印は出土してるし、国号を倭から日本に改めたって記録だって大陸側にあるわけだし >>404
壱岐から九州本土への最短距離は、加唐島、加部島を経て呼子尾ノ下鼻のコース。
ここからは、海岸沿いに末蘆まで進むのが近くて最も安全。
立神岩から対岸の鹿家串崎まで一気に進むのは、途中何が起こるか分からない。
強風で転覆が一番怖い。
立神岩まで安全に海岸沿いを進んだからには、さらに安全第一に海岸に沿って松浦川河口まで行くのが一番。
一旦、陸に上がたらもう、舟主には責任は無くなる。
舟主としては、最後の段階に来て、危険を冒す理由はないのではないか。 >>413
>壱岐から九州本土への最短距離は、加唐島、加部島を経て呼子尾ノ下鼻のコース。
対馬海流に流されて、末盧国=呼子は有り得ない と、何度言えばw @阿波 それにしても・・・・
あわストーリー?寺沢先生とか、何のスレなの?
音楽? ・南至 邪馬壹國 女王之所都
南、邪馬台国の女王が都する所に至る・・、多くの場合、このように読まれる。しかし、
南 邪馬台国の(中の)女王ノ都が置かれた所に至る・・
という読み方もできるのではないか。
即ちこれは、邪馬台国の首都と女王之都は、やや離れた場所に置かれていた・・、という含みを残す。 >>411
馬韓野郎かウンコ野郎のどちらかだろwww 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>418
ってことはお前自身ってことじゃねーかwwwww つまり、「邪馬台国」は戸数7万戸のクニであるから、
その7万戸の民百姓を統治するに十分な組織・機構・官衙・官道等が構築されていたのであろう。
またその官衙は、これにふさわしい邪馬台国内の一等地に置かれ、民百姓もそれを誇らしく思っていたに違いない。
其の一等地は、火の国・肥後のどのあたりにあったのであろうか・・。
また、「女王之所都」についてであるが、
其の女王は倭の30国により共立され、鬼道(倭神道の如き)の魔力により、
30国の旧王・官人・軍人・民百姓の心をとらえるべく振る舞った(振る舞わざるを得なかった)わけであるので、
それにふさわしい倭国内の特等地に都を定める必要があったと思われる。
其の特等地は、火の国・肥後のどのあたりにあったのであろうか・・。、 >>420
↑
あっさり自己紹介する
ウンコさんwwwwwwwwwwww >>421
肥後の南部だろうな
もっともその当時は県境など無いから
肥後の下、北薩辺り >>412
中国の文献に倭国は沢山有り
中国大陸内の揚子江周辺にも多数有る
つまり中国から見れば倭国である忠誠を誓った国は沢山合った
倭国を日本と改めたと言うのは倭国の一つだったけど日本(昇格?)になった
気に入れ無いかも知れないがあくまで中国の文献で中国中心に中国視点で記述されてる 松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2 >狗邪韓国から松浦まで3000里
しれっとうそこくでねぇ >>414
古代九州の舟漕ぎ専門超マッチョ海人、知らんのか。
屋久島沖の黒潮本流でさえ乗り切る海人たちなのに、対馬〜壱岐ではなく、壱岐〜呼子なんぞへのカッパだ。 >>404
倭人伝は、外交使節などは常に伊都に逗留すると書いてあるが…。 正史か。演義の方が編集や梱包がいいぞ。三国志演義、日本版リクエスト。 >>413
いずれにしても、海峡渡るのはその地域の海人たちの縄張り。
海流や風、いつどういう現象があるか知っているのは彼ら。
その彼らが長年の経験で得た舟行コースは絶対的なもの。
一時の乗客の都合で、そのコースは変えんだろう。
乗客は、彼らにまかせて従うよりない。 >>427
佐世保で見つかった弥生人の骨から
スーパーマッチョだった事が分かっている
だから末廬は佐世保 >>404
>肥前・佐賀平野のほうへ向った…。
これは、倭人伝が邪馬台国へ行く道筋として書いてあること。
伊都、奴国、不彌の国名を単なる道順を指すだけの表記だととらえると、実際の道順としては現在の多久、江北、嘉瀬河河口ということになる。
この多久などの道順は、当時も今も唐津から有明海に出る主要幹線だろう。
また、唐津から吉野ヶ里や鳥栖方面への幹線でもあったはず。
その主要拠点の多久、江北、嘉瀬河河口に伊都、奴国、不彌の国名を当てたということが考えられる。
それは、実際の邪馬台国に向う道順が、伊都、奴国、不彌だったからだと考えるほかない。
また、不彌が当てられた嘉瀬川河口は、弥生当時は現在の河口よりも2kmほど上流だったそうだ。
江北から東へ行くと、ちょうどその嘉瀬川河口から2km上流あたりに行き当たる。
有明海を舟で熊本や鹿児島へ行くための発着場があったのだろう。
なぜ、かくまで倭人伝の記述が正確なのかというと、このルートは博多から沖縄へ渡海して、貝輪の原材料のゴホウラ貝などを仕入れに行くルートだったからにほかならず、魏の役人はそのルートの詳細な情報を倭人の役人から入手していたことが考えられる。
なんとなれば、魏の役人には、邪馬台国がその沖縄あたりあると強固な固定観念があったから、そこに行く行程が知りたかったということだろう。
聞かれた倭人役人は、博多の商人から詳細に行程の日数などを聞き取ったということになる。
これが、邪馬台国までの行程の真実だ。
小説が書けるぞ。
このアイデアは、ただでやってもいいぞ。 唐津からわざわざ福岡に戻る訳がない
佐世保ならそのまま船で南に下りていけば
熊本南部か鹿児島北部にたどり着く
なんで普通に素直に読めないのかね >>433
>この多久などの道順は、当時も今も唐津から有明海に出る主要幹線だろう。
>また、唐津から吉野ヶ里や鳥栖方面への幹線でもあったはず。
>その主要拠点の多久、江北、嘉瀬河河口に伊都、奴国、不彌の国名を当てたということが考えられる。
なるほど、有明沿岸の各方面へ通ずる道だったのか >>432
この超マッチョ海人の骨は、北西九州のあちこちで出てるらしい。
佐世保だけでないようだ。
九州の大学の女性教授は、この超マッチョ海人たちがいる北西九州の者たちが沖縄までのゴホウラ貝を仕入れに行った当事者だっただろうと指摘している。
もちろん、雇ったのは博多の商人だがな。 >>434
>唐津からわざわざ福岡に戻る訳がない
>佐世保ならそのまま船で南に下りていけば
唐津説は佐世保説を否定したくてもできない。 ともに対馬海流を無視した説だから。 @阿波 >>434
超マッチョ海人が雇われたのは、有明海から沖縄往復の行程だろう。
長崎沖などの外洋沿岸を漕いで行くより、有明海を行くほうが安全だし、漕ぎやすい。
沖縄から戻ってきて、有明海の嘉瀬川河口に到着したら、積荷を岡人に引き渡して、ゆっくり舟漕いで佐世保に帰ったらよい。
こういうごく当たり前の常識で、倭人伝を読むのがよい。 イト国が何処か断定しないと
当時としては要所となる国際都市のはず >>437
>対馬海流を無視
してないよ、目視出来る場所なら
海流があっても行ける、でも実際流された人達もいただろうな、流さたら能登半島に引っ掛かる、そこで出来たクニが輪島、古くは倭島 >>439
普通に楽浪土器の出土量で糸島でいいでしょうね >>442
>普通に楽浪土器の出土量で糸島でいいでしょうね
頼りは「楽浪土器」だけ? 弥生後期の集落跡は? お粗末。 @阿波 >>442
>普通に楽浪土器の出土量で糸島でいいでしょうね
それならむしろ出雲になるんじゃね? 唐津からの距離、方向的には小城だろう。
小城市街全体に弥生遺跡が並ぶし
小城の位置は肥前では中心的な位置になる。
北は唐津、西は佐世保、東は佐賀、
さらにその先の吉野ヶ里、南は長崎だ。
千戸単位の小国家群ににらみを効かせ
さらに肥後国の邪馬台国本国への
海路も把握できる場所である。
さらに肥前国風土記には、
佐賀市大和町の肥前国庁が置かれる
奈良時代以前には小城国府があったと
書かれている。
ちなみに佐賀市大和町の大和は
新しい地名なので気にしなくて良い。 >>442
三雲井原地区も古墳前期まで続く集落で大型建物もそれなりに出てるし、
潤地頭給の玉造り工房の周辺も住居跡がかなり出てるし、
上鑵子遺跡は弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居、掘立柱建物、土坑、取水施設などがあるし、
後、今宿五郎江は大型環濠集落だし
大塚遺跡は弥生終末(3世紀)の鍛冶工房・かまど・朝鮮半島系土器など出土してるし
糸島半島の特にくびれの周辺は、掘ればどこでも何かしらでるんじゃね?
前期古墳の密集地帯でもあるし ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>448
せっかく遺跡の名前も上げてあげたのに…
詳しく調べると他にもありそうだ
で、ペテンとする理由は? >>438
追加
それに、沖縄に行くのに空舟で行ったわけではない。
向こうでゴホウラなどの貝殻と交換する貴重財も積み込まねばならない。
その貴重財を博多から嘉瀬川河口の発着場に集積しておけば、佐世保の超マッチョ漕ぎ手は舟を漕いで嘉瀬川まで行って、そこで積み込んで沖縄へ向えばよい。
そういうシステムができていたはず。 かつて栄えた伊都国が邪馬台国の時代には
衰えた可能性だってある
戦乱時代だから新興勢力に旧王朝を根絶やしにされて邪馬台国の領土となったから
人口が少ないとか >>434
そもそも、沖縄のゴホウラ貝を貝輪にするために仕入れたのは最初は薩摩の阿多だが、弥生時代に入ると仕入れ元は博多に移っていた。
その仕入れ元が佐世保にあったということはない。
佐世保などの超マッチョ専門漕ぎ手は、博多の商人に雇われたのだろう。
このことは、九州の大学の教授がすでに明らかにしている。
これらは、公開情報だ。
そして、その沖縄への発着場が嘉瀬川河口にあったということだな。
倭人伝を率直に読むと、そうなる。 >>452
その「博多商人」とやらは何を対価に商取引をしていたと考えてるんですか?
貨幣がある訳じゃなし、特別な物流手段もないのに。物々交換ならただのトレーダーなんて成り立つ訳がないと思う。
だいたい沖縄へ仕入れに行く部隊は何を対価に雇ったと思ってるの? 船で海を航る時に重要なのは目印だよ。
距離や方位以上に重要だから無視しちゃダメ。考慮してね。 >>455
「九州の大学の教授」はなんと言ってるの? >>427
古代九州の舟漕ぎ専門超マッチョ海人、知らんのか。
その古代九州って、いつの時代なの?
>屋久島沖の黒潮本流でさえ乗り切る海人たちなのに
本当に手漕ぎで黒潮を横断したの? 本当に??? @阿波 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>458
これ見てみろ。
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4187
画面の上から2番目、「弥生時代に謎のマッチョ! 骨から探る古代ミステリー」。 >>445
小城あたりは、地図で見ると、吉野ヶ里や鳥栖方面へ行くルートと佐賀平野東部方面へ行くルートの分岐点に当たる位置にあるようだ。
今の佐賀市が開発される以前の佐賀平野の中心地だったように見えるね。
国府があったそうだけど、納得する。 >>460
>屋久島沖の黒潮本流でさえ乗り切る海人たちなのに
本当に手漕ぎで黒潮を横断したの? 本当に??? @阿波 海流を越えるのは命がけだから
船には乞食を立たせて難破よけにしたらしい
何の意味もなさそうだが マッチョ種族のスーパー腕力もあるが、同時に北風の力も利用したのではとある。
琉球列島と九州・本州を行き来できるアサギマダラという「海を旅する蝶」だっている。
ちっちゃな蝶にできることなら、人間だってできるだろう。 >>466
>琉球列島と九州・本州を行き来できるアサギマダラという「海を旅する蝶」だっている。
「海を旅する蝶」といえども、黒潮を手漕ぎで横断はしないよ。 @阿波 ま、阿波は空気読めない倭種だから、潮に流され、渡海は無理だわな >>468
>だから、風を利用できる知能・能力も大事なんだよ
それよりもっと大事なのは、海流の流れを利用できる知能・能力が大事なんだよ。 @阿波 >>469
>ま、阿波は空気読めない倭種だから、潮に流され、渡海は無理だわな
ま、阿波は海流を読む知能・能力が優れているから、潮に乗って、渡海は楽勝だわな。 @阿波 >>469
>ま、阿波は空気読めない倭種だから、潮に流され、渡海は無理だわな
ま、阿波は海流を読む知能・能力が優れているから、海流に乗って、渡海は楽勝だわな。 @阿波 >>473
>おや、阿波がミスってる
「潮」で揚げ足を取りにくる御仁がいるからね。 @阿波 >>469
>ま、阿波は空気読めない倭種だから、潮に流され、渡海は無理だわな
だけど、倭国(阿波)の海人族は、朝鮮半島まで鉄鍛冶素材を取りに行ってるからね、
海流を読む知能・能力が優れているから、海流に乗って、渡海は楽勝だわな。 @阿波 他人の揚げ足を取るのは得意だけど、
揚げ足取られるのは、阿波でもイヤなのか、(けっこう並みなんだなあ) >>476
>(けっこう並みなんだなあ)
それってもしかして、並み以上に思ってくれてたの? 照れるなぁ〜〜〜 @阿波 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 nhkのこのマッチョの番組では、冬の北風に乗って黒潮渡ったかもと言ってるが、怪しい。
現に、同じnhkの天気予報番組では、北風が沿海州から噴出している雲の映像が流されるが、南に向っては吹いていない。
南東に吹き出している。
とすると、屋久島の南で黒潮に入ったら、小笠原方面への風を背にすることになる。
これは、黒潮の北東方向への流れの速度にさらにスピードアップして東方へ舟が流されることになる。
南の奄美方向へ進むどころではない。
ここで、よくよく考えなければならんのは、海の流れの性質だ。
黒潮の進む方向とは反対に流れる潮流があり、黒潮反流と呼ばれる。
黒潮本流の反対側に流れる潮流が黒潮の両脇に生じる。
速度は本流より遅いが、確実に流れている。
このことを考えると、屋久島から南へ向うと、まず黒潮反流に乗ることになる。
つまり、舟は西南方向に流れるようになる。
この流れに乗って手漕ぎでスピードアップしてどんどん南西へ進む。
そして、やがて黒潮本流に入るが、今度は北東方向への進路に変わる。
そこで、超マッチョの漕ぎ手たちがわんわん唸りながら、南東へ向けてスピードアップして漕ぐ。
すると、舟は相当東へ流されながらも、やがて黒潮を越えることができる。
そして、黒潮を越えると再び西南へ流れる黒潮反流があるので、それに乗る。
ゆっくり漕いでも、そのうち奄美方面へ向う位置に舟は流れ着く。
このような流れの知識があるので、必ずしも北風は必要ない。
北風はむしろ、黒潮の流れから離脱できなくさせる逆効果になる可能性がある。
nhkの北風利用説は、怪しい。 そもそも骨の太さと筋肉量は比例しない
シュワルツェネッガーの20代前半の画像探してみ
典型的なヲタヒョロだぞ >>451
う〜ん、多くの遺跡が古墳前期まで続いているし…古墳前期の一貴山の出土物をみても相変わらず豊かな状況
卑弥呼時代は弥生終末だからある意味全盛期なんだよね
その後は、伊都の衰退というより、それ以上に隆盛したのが畿内だとは思う >>482
>その後は、伊都の衰退というより、それ以上に隆盛したのが畿内だとは思う
畿内が隆盛した??? なにをもってそう思うのかね? 教えてPlease。 @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 海を渡って日本中にアクセスできたマッチョ弥生人が邪馬台国の主軸だったんだろうな
> 910 :名無しさん@1周年 :2018/12/12(水) 02:40:59.22 ID:UOmdKGse0
> この図の伝阿曇居住地(水色の丸印)を見てごらん
> https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1559278/18/54429718/img_3
>
> 北部九州の海人によって畿内は完全包囲されていたんだよ
> 独立を最後まで保ったのは山に囲まれた奈良盆地だけで、盆地の外の河内とかはもう北部九州に占領されていたわけ
> だから製鉄遺構も盆地の外ばかり
> つまり近畿の製鉄遺構は進出してきた九州勢のものだったってこと
> 中心地のはずの奈良に鉄製品が僅少なのはそのせい
> 実際、畿内の目と鼻の先の淡路島の製鉄遺構からは九州系のカエシの付いたヤスが見つかっている
>
>
> 北部九州の海人は縄文時代から日本全国の大半と交易しており各地の地理を熟知していたため、進出は容易だった
> 邪馬台国のころには近江、尾張、伊勢、越前あたりは全部北部九州の勢力下で、最後に残って抵抗していたのが奈良盆地
> https://pbs.twimg.com/media/DsWScScV4AEIsU0.jpg
> http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg
> http://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg
>
> それがついに北部九州に屈服して、南部九州の熊襲を除いて西日本がほぼ統一されたのが4世紀初頭あたり
> それを境に鉄貧乏だった畿内にも急速に鉄器が増えはじめる
> つまり畿内を占領した九州の集団が鉄を持ち込んだということ 魏志倭人伝での伊都国は脇役
末廬国からさほど遠くも無い場所に
あるから末廬と伊都は同じ北部九州
そして末廬国から南へ水行10 陸行一月にある邪馬台国は明らかに北部九州では無い 北部九州で確定してるよ。
もうみんなそう思ってるし。残念だったね。 伊岐、伊万里、伊佐早、伊佐、伊仙、伊良部・・、
伊の付く地名と、マッチョ腕パワーの弥生人の航海範囲は、けっこう似てる気がした。
「伊族」とでも呼ばれていたのかな、、 伊都国が脇役?
冗談は休み休み言え。
魏志倭人伝が一番文字数を割いているのが伊都国とそこにあった行政機構である大率だ。
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。
女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。
「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職 内政も外交も伊都が中心なら、伊都が王都だろう。
記紀でも神代の王都である筑紫の日向と書かれている。
隋書では、代々の倭王は筑紫城に都すると書かれている。 >>489
>北部九州で確定してるよ。
それは絶対に、ない。 @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています