>>397
あるある。
「筑紫の伊覩縣主の祖五十迹手、天皇の行すを聞りて…」
和名抄に筑前国怡土郡があり、志摩郡と合わせて糸島郡というとの解説もみられる。

平原?で硯が出たそうだが、外交使節が常に留まったと倭人伝にあるから、硯が出ても不思議でない。
伊都にこのような施設があったのは、そもそもが使節が奴国へ詣でるための逗留所が設けられたからに違いない。
邪馬台国時代になってからも、魏の使節などは元の盟主の奴国の顔を立てて、挨拶も行ってから、邪馬台国へ向ったのだろうと思うね。