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漢委奴国王印 いわゆる金印part3
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001東京
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2019/05/06(月) 17:37:27.05
有意義なスレですのでpart3をたてました。
0952日本@名無史さん
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2020/08/08(土) 13:55:29.18
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


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0953日本@名無史さん
垢版 |
2020/08/21(金) 21:49:08.23
皿うどんをくえ
0954日本@名無史さん
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2020/09/06(日) 16:42:05.33
九州民のみなさん

台風10号上陸において

くれぐれもお気をつけください
0955日本@名無史さん
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2020/09/06(日) 16:46:46.26
邪馬台国が筑後川流域にあったなら、度重なる水害で遺跡が失われている可能性もある。
0956日本@名無史さん
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2020/09/06(日) 21:35:03.42
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


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0957日本@名無史さん
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2020/09/06(日) 21:59:34.98
邪馬台国って邪馬・台国だよね
探すは臺国
じゃあ邪馬ってなんだろう
たぶん古墳の壁画の三角形の連続した絵じゃないかな
0958日本@名無史さん
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2020/09/07(月) 01:21:45.48
志賀島から出てきたというのに志賀海神社のアズミ氏が金印の存在について知らなかった(伝えられていなかった)ことにはいろいろと考えさせられます。

金印は印として使われなくなった後も倭の国宝として、少なくとも倭王家の家宝として(三種の神器のように)大切に保管されていたのではないでしょうか。倭滅亡のときに敵に奪われないように隠したのかもしれません。それならいったいどうして志賀海神社のアズミ氏に預けなかったのでしょう。あるいはアズミ氏が預かり志賀海神社に保管していてそれが何者かによって盗まれるか紛失してしまうことになったのかもしれません。後者であればなぜそれが伝えられていないのか。

金印については本物か偽物かの論争が長い間されているようですが、私は金印が志賀島で見つかったということから金印そのものについてよりはむしろ志賀海神社について考えてしまいます。アズミ氏がよくいわれているような古代北部九州の有力豪族だったということに疑問をおぼえるようになりました。日本の初代天皇、天武天皇(新羅人)につかえた日本の古代豪族ではあったでしょう。ただし倭王(倭の天子)につかえた倭の豪族だったかどうか。はたして倭人なのかどうか、という疑いです。
アズミ氏は九州の土着の豪族といわれるけど、九州よりかは能登とか信濃とか本州に多い印象で、能登は海に面しているけど信濃に海はない。海人族みたいに信じられてきたことは本当でしょうか。記紀のような日本でつくられた伝説を無視して考えると高麗人のように思います。
そもそも魏志倭人伝とかに倭人が海の神とかをまつるために神社建てて神社に拝んでいたという記録ありますか?鬼道というまじないをやっていたとはあります。太陽や海や山や川や獣など自然のものを神聖視しあちこちに神社建ててそれをまつり拝んでいた民族といえば高句麗人じゃなかったですか?
壬申の乱で天武天皇を支えていたのは多くの高麗人でした。天武天皇自身は新羅人です。
0959日本@名無史さん
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2020/09/07(月) 01:23:22.57
志賀島から出てきたというのに志賀海神社のアズミ氏が金印の存在について知らなかった(伝えられていなかった)ことにはいろいろと考えさせられます。

金印は印として使われなくなった後も倭の国宝として、少なくとも倭王家の家宝として(三種の神器のように)大切に保管されていたのではないでしょうか。倭滅亡のときに敵に奪われないように隠したのかもしれません。それならいったいどうして志賀海神社のアズミ氏に預けなかったのでしょう。あるいはアズミ氏が預かり志賀海神社に保管していてそれが何者かによって盗まれるか紛失してしまうことになったのかもしれません。後者であればなぜそれが伝えられていないのか。

金印については本物か偽物かの論争が長い間されているようですが、私は金印が志賀島で見つかったということから金印そのものについてよりはむしろ志賀海神社について考えてしまいます。アズミ氏がよくいわれているような古代北部九州の有力豪族だったということに疑問をおぼえるようになりました。日本の初代天皇、天武天皇(新羅人)につかえた日本の古代豪族ではあったでしょう。ただし倭王(倭の天子)につかえた倭の豪族だったかどうか。はたして倭人なのかどうか、という疑いです。
アズミ氏は九州の土着の豪族といわれるけど、九州よりかは能登とか信濃とか本州に多い印象で、能登は海に面しているけど信濃に海はない。海人族みたいに信じられてきたことは本当でしょうか。記紀のような日本でつくられた伝説を無視して考えると高麗人のように思います。
そもそも魏志倭人伝とかに倭人が海の神とかをまつるために神社建てて神社に拝んでいたという記録ありますか?鬼道というまじないをやっていたとはあります。太陽や海や山や川や獣など自然のものを神聖視しあちこちに神社建ててそれをまつり拝んでいた民族といえば高句麗人じゃなかったですか?
壬申の乱で天武天皇を支えていたのは多くの高麗人でした。天武天皇自身は新羅人です。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/07(月) 01:56:23.99
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
      ____   〈⊃  }
     /⌒  ⌒\   |   |
   /( ●)  (●)\  !   !
  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   いつものチョン妄想
  |     |r┬-|       |  / < 不安でしょうがないから
  \     ` ー'´     //      いつもの連投で草www
  / __        /
  (___)      /
0961日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/07(月) 01:58:13.86
筑前阿曇氏の拠点は"阿"曇郷、信濃阿曇氏の拠点は"安"曇郡、摂津阿曇氏の拠点は"安"曇江であり、阿曇氏、阿曇連の本貫地は同名の阿曇郷である(全国邪馬台国連絡協議会九州支部)
また、713年の好字令によって筑前本家と区別するために信濃阿曇と摂津阿曇は拠点を安曇とした(神歴研)


新撰姓氏録右京神別下、地祇
「安曇宿禰海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也」 阿曇は綿積の子である穂高見の子孫であり、同様の記述は古事記上巻ニにもある
なお穂高見を氏神として祭るのは志賀海神社境内の今宮神社と信濃穂高神社のニ社のみ

新撰姓氏録摂津国神別
「安曇宿禰同祖綿積命六世孫小栲梨命之後也」 摂津阿曇は綿積の6世孫、小栲梨の子孫であり、小栲梨を祀る神社は皆無

先代先代旧事本紀の巻一、陰陽本紀
「少童三神、阿曇連等斎祀、筑紫斯香神」 綿津見三神は阿曇連が斎(いつ)き祀(たてまつ)る志賀海神社の事である
志賀海神社=綿津見三神=阿曇連が斎祀する神であるにも関わらず、摂津に綿津見を祀る神社は存在しない

綿津見の娘、豊玉姫の子である阿曇磯良を祀る疣水磯良神社(摂津で唯一の海神由来の神社)が摂津にあるが、平安時代に天照御魂神社が招聘した(摂津名所図解と当社神職による)もので阿曇族とは無関係


摂津の阿曇連百足は安曇磯良(綿津見の娘の子)の九世孫を自称していることから筑前阿曇と信濃阿曇は男系(本流)であり、摂津阿曇は女系(傍流)と言える


また、綿津見=ワタスミ=海住み=アマスミ=阿曇の音変も十分に考慮でき、海住みにシンクロする川住み=住之江=住吉も綿津見三神と住吉三神の同時誕生にシンクロする
兄弟神である綿津見と住吉の本社はそれぞれ志賀海神社と筑前住吉神社である
摂津の住吉大社は住吉本社を自称しつつも総本社は筑前住吉神社(元宮は現人神社)であることを認めている


筑前本家説にこれだけの根拠がある一方で、摂津説に根拠は皆無である点を勘案すれば、自ずと阿曇の本貫地は筑前以外に有り得ないという結論に至るのが真摯な歴史学研究の姿勢である
0962日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/07(月) 01:58:43.35
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→伊勢→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ
0963日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/07(月) 02:40:41.72
台風大したことなくて草
0964日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/07(月) 02:42:47.57
>>961
後半は前に見覚えがあるな
0965日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/07(月) 02:45:51.78
うん、早く死ねばよいと思う

おまえバカだから
0966日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/07(月) 02:49:23.30
>>965
悔しがるなよチョンコロ
0967日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/07(月) 03:01:07.40
てめえそおなんか?

勝手に自分と同じだと思うのクセなわけ?
0968日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/07(月) 03:02:19.17
頭わるげだな死ねばよいやん

初めから話通じないだろおまえむたいなバカ
0969日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/07(月) 03:12:52.93
新羅の王を育てたのは瓠公という倭人。
『三国史記』卷一・新羅本紀第一・始祖赫居世三十八年(紀元前20年)条 : 瓠公者、未詳其族姓。本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公

新羅第4の王も日本出身の脱解尼師今。
【三国史記】脱解尼師今立、一云吐解。時年六十二、姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。


半島の王族には日本から渡った倭人がたくさんいました。
なぜ朝鮮人は歴史書に書いてる事の逆を妄想してるのか分かりませんね。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/07(月) 03:38:41.66
>>965>>968-968

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0971日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/07(月) 10:09:18.60
倭人てもその人ら周の流れくむ連中らって中国書にあるんだよ
0972日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/14(月) 19:36:14.39
金印は盗掘で見つけたんだろ

金属価値よりも学術的価値の方が圧倒的に高いので溶かして金塊として売るにはもったいない
しかし、学者や幕府に対して素直に盗掘で見つけましたと言うわけにもいかない
だからその辺の岩の下に埋まってたというストーリーをでっち上げた
0973日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/14(月) 19:55:58.34
金印は細石神社にあったんだろ

しかし当時の情勢ではそのまま世に出すわけにはいかない
だからその辺の岩の下に埋まってたというストーリーをでっち上げた
0974日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/14(月) 20:28:39.40
例の神社の関係者による盗掘のセンが最もあり得るケース
0975日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/14(月) 20:30:50.35
あ〜そっか
氏族神社⛩か

なら盗掘だわな
0976日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/14(月) 21:42:45.40
>>973
看破されたウソネタをしつこく連投しても恥の上塗りでしかないんだから諦めろよ糸チョン
0977日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/14(月) 22:12:03.46
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


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0978日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/14(月) 23:53:11.52
>>977
               ∩_
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  |     |r┬-|       |  / < 反日洗脳に侵された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしwwwww
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0979日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/14(月) 23:54:05.45
>>973
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもので、現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した

それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)

古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である

三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない
0980日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/15(火) 04:30:27.78
神社がそんな古い時代にあるわけないじゃん

いつから時代が存在すると思ってんだよ
0981日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/15(火) 04:31:37.69
それを年代繰り上げ設定した連中らがいたとしたならそれは捏造と言うしか他ならん
0982日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/15(火) 07:05:57.14
神社というのは、本来は王族の宮だった。
現在では神様と呼ばれているが、天皇家の祖先など王族そのものだ。
今でも、皇族は宮様とか呼ぶだろ?
古来から王族の呼称はその住まいの宮号で代用している。
仏教伝来で神社は宗教施設になった。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/15(火) 07:13:16.26
記紀には神社の名前はあまり出てこない。
代わりにいくつもの王宮の名前が出てくるが、その多くが今では神社となっている。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/15(火) 09:51:02.09
いずれにしても細石神社は古田の妄想ネタでしかない
0985日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/15(火) 12:46:01.30
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8

アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


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0986日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/15(火) 13:09:48.52
>>985
               ∩_
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0987日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/15(火) 19:42:05.81
細石神社は三雲南小路遺跡の祭殿であり、その成立は三雲南小路遺跡と同じ紀元前後と考えられる。
特筆するべきは三種の神器や璧などの王権の象徴となる威信財が大量に副葬されていて、銅鏡の出土枚数は平原遺跡を抜いて弥生時代の最多記録を誇っている。
時代は倭奴国が漢から金印を拝領した頃であり、その金印は目と鼻の先の志賀島から出土したとされている。
すなわち、卑弥呼より前の漢の時代の倭王は糸島平野にいたことになる。
細石神社の社殿によると、その祭神は木花佐久夜姫だが、遺跡に葬られていたのは王と王妃であったことから、被葬者は天孫邇邇芸と木花佐久夜姫と考えられる。
その息子である彦火火出見は近くにある高祖山の高祖神社に祭られている。
これが卑弥呼の前の男王たちと考えると矛盾がない。
0988日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/15(火) 22:24:52.67
>>987
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもので、現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した

それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)

古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である

三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない
0989日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/15(火) 23:23:54.69
【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。

古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)

考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif.html
0990日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/15(火) 23:43:22.81
>>988
>三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき

江戸時代はどこかの寺の門徒であることが義務付けられていた。
金龍寺は高祖神社と一体であり、その高祖神社(彦火々出見)が御祖宮と仰いだのが細石神社(木花咲耶姫)である。
よって、信仰を失っていた証拠とはならない。
神職がいなくても、地元の宗徒が祭りを続ける例は少なくない。
まして、戦国時代は同様に多くの伝統や風習、文化財が失われた時代であり、それをもって神社の歴史を否定することなどできない。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/16(水) 00:46:49.86
>>990
それが流鏑馬だろ
古田の妄言「侍が持ち去った」を実証する根拠にはならないんじゃないか?
0992日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/16(水) 07:44:15.27
>>988
>文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したと>?ころ三雲南小路遺跡を発見
>             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)

ここは関心を呼ぶ部分だ。
近所住民は、土壁の修繕にはここの土が良いことを知っており、長年にわたってあちこち掘り崩していたのだろう。
つまり、ここは版築盛り土されたもので、古代の墓だったのではないか。
それが採土を繰り返すうち、たまたま三苫清四郎が何かに突き当たった、と思ったら古いお宝だった。
・・・三苫清四郎が怪しい!
0993日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/16(水) 08:44:02.14
だから古代の墓(三雲南小路遺跡)だと再三言っているだろ。
0994日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/16(水) 08:51:54.31
で、次の問題だが、
此処が古代の墓地で、漢倭奴国王の印を出土したということは、ここは奴(那)の国の範囲内だったということになるのではないか?
0995日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/16(水) 11:31:03.79
金海金氏の系図がネットで見つからないんだが日本軍にみな焼かれちまったのか?
0996日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/16(水) 12:21:29.55
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(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


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0997日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/16(水) 12:26:28.98
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.
0998日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/16(水) 12:57:27.65
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(倭国大乱後の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおける三種の神器の一つである八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の中心は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘沿岸にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
0999日本@名無史さん
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2020/09/16(水) 15:09:39.50
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもので、現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した

それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)

古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である

三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない
1000日本@名無史さん
垢版 |
2020/09/16(水) 15:53:43.66
【倭国】

弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王が冊封された。後漢書では、倭は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾の能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭が博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。

連合国家である倭の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部には豊国、肥国があった。本州の出雲、越などは倭の別種と書かれている。
博多湾岸を中心として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は博多湾沿岸勢力が独占していて、その支配機構が大率(大宰の帥)であった。

卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
この地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の倭の範囲を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の倭地が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ湿地帯であり、交通の大動脈は肥国女王の與止日女命の名を受けた淀川であった。
奈良は交易路からはずれた辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された八咫の鏡などの三種の神器は、筑紫伊都が倭国の王都であったことを示している。
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