邪馬台国畿内説 Part472
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1561125864/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ついに「陸行一月」の謎が解けたyo!
1.西晋司馬懿(秀吉)は明帝曹叡(信長)の後見人指名がなければ皇帝になれなかった(大恩人・明帝が特別厚遇した倭国王卑弥呼)→明帝曹叡の(自分を後見人に選んだ)聡明さを強調したい。
2.魏の帝都・洛陽から見て呉との戦いにおいて最高の牽制となる背後にあるためには、倭国「女王之所都」が
蘇州の「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580q南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東の海上にある必要(読み手にそう思わせたい)。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。
4.倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳・朱崖に似ている。
そこで陳寿が考案した苦肉の策が、九州島(倭国)が海南島(儋耳&朱崖)まで届く、中国大陸の沿海部の沖合をすっぽり包み込む南北に長大な「一つの山島」であるように思わせるテクニック。
まず、帯方郡からの放射描きで、正解の【1.奴国ルート】と、喧伝したい「當在会稽冶之東」に合わせた【2.邪馬台国ルート(幻)】を設定。
次に「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【1.奴国ルート】を暗示しつつ(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)、
九州島が南北に「陸行半月」であることを倭人から聞き「夷人不知里数、但計以日(7世紀隋書倭国伝)」、
それを南に2倍して東シナ海に浮かぶ幻の九州島(南部)を付け足し、「陸行一月」として、【2.邪馬台国ルート(幻)】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を延ばし日+Л→「月」)。
ちなみに卑弥呼は奴国王帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」(上皇明仁)の男系女子(孫娘)で、北部九州30カ国から共立された繋ぎの女王(愛子内親王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 >>2の図解(模式図)だyo(スマホ&タブレットのみんな、ズレ杉スマソ!)
【魏志倭人伝の倭国観】
洛陽┏━┓帯方郡〜〜〜〜〜〜〜東→✖畿内説TITANIC沈没地点(?乗客乗員>>92)
┃〜〜〜↓※南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜〜▲対馬〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 §琵琶湖
┃〜〜〜↓〜〜〜〜〜+南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川? ↑木津川
┃〜〜〜▲壱岐〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
┃〜〜┃▲奴国【♀女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
┃〜〜┃▲狗奴国▲▲▲▲▲投馬国┛┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┃↓「陸行半月」(正)▲▲┛〜〜〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島〜
東治┃〜〜│〜東シナ海(正)〜│〜〜↓幻の九州島南部(陳寿の創作)
┃〜〜│△△▲△△△△△│←奄美大島(正)
┃〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←沖縄那覇(正)
東冶┃〜〜│♀女王之所都(幻)│〜←「當在会稽東(冶)之東」(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←台湾(正)
香港┃〜〜│△△△△△△△△┘〜「自女王國以北其戸数道里可得略載
澳門┃〜〜└△△△△△△△┘〜〜【其余旁国遠絶 不可得詳】」
┏▲海南島〜└九州島(幻)┘〜〜〜
┃儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「前方に氷山発見!!!!!!」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!全速後退!!」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだ!!!船長のくせに!!!このハゲェェェ〜ッ!!!」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン爆発四散!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に乗り上げ衝突し、再び着水する畿内説タイタニック号)ガッツン!ドッカン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)ザァアアアアアアア!!!
畿内説石野寺澤橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(大量の布留式土器と三角縁神獣鏡と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=3i7rDgy-aOY
一方、九州説オリンピック号でゎ…
「九州」説A「畿内説タイタニック号から遭難信号S・・・O---S・・・傍受!!」
「九州」説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓〜Ω王墓担当の物部氏)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
「九州」説C「畿内説タイタニック号の氷山衝突&轟沈を確認!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…その波間に石野船長と寺澤機関長のメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は帰港できなくなるからあり得ない、纏向は本州島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 b◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※
)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 孤独な奥山氏の体調が、心配なのではないのかな、、、 合意はおろか条約すら守れない土人韓国が世界に恥を晒してる
韓国は後進国にも馬鹿にされる国になってしまった 孤独な病死体が、発見されないように、善意の通報をどこにすれば良いのだろうか、、、 >>375
>また悪口だけで具体的な指摘なしか 手詰まりだねー九州説<
また「南→東」などの史料事実史料実態やの否定曲解の嘘つき騙しと、悪口だけで、
具体的な指摘なしか
手詰まりだねー、・・・・アホ詐欺師の大和説 >>376
>まったく九州説はかんたんに論破されるなあ
いつも鎧袖一触で撃沈されてるぞ<
まったく、「南→東」などのウソ付き騙しの大和説は、
かんたんに論破されるなあ
いつも鎧袖一触で撃沈されてるぞ >>386
今夜も、「南≠東」などのウソ付き騙しの、・・・・アホ詐欺師の大和説の、
脳の破綻が酷い >>393
おまえ、「南→東」などのウソ付き騙しが指摘され、論破されて
グウの音も出ないだろ
現実を歪曲するたびに、
大和説は惨めになっていくよ 奥山氏が、テンプレートの貼り付けを停止してしまったことは、初めてなので、重大な異変ではないのかな、、、 >>418
>>九州説らには、細かい差異はあっても、確率の小差の範囲内であり、<
>うそつけ 伊都説と熊本説と宮崎説のどこが確率の小差だ<
陳寿の女王國の推定位置の、九州島付近内の差異であるから、「小差」だ。
九州島付近からはるかに離れた大和説信者は、平気でこんなうそをつく人々か >>420
>>「南」と「東」は、字形も意味も全く違うから、
・・・・アホ詐欺師の大和説者ら以外の、普通の成人の人間は、
間違える事は「ほぼ100%ない」という事だ。<
>誰も主張してない「文字の取り違え」説を否定してみせる 九州説のバカ詐欺師<
「間違って取り違える」事はない、として、
「大和説者が意図的に改竄」した犯罪者的詐欺行為だ、
と言っている事を、曲解否定して見せる、
大和説の・・・・アホ詐欺師。 >>431
>>まずは畿内が遠すぎることを説明つけろよ。<
>遠くていいんだよ 遠いから一大率が置かれてるんだから
伊都国が邪馬台国の都だったら本国の官が一大率の職務も行うだけ<
ダメだ。
東征将軍らも、一大率であっても、
大和で亡くなっても九州に遺体が戻せず、
瀬戸内航行船でも半月位掛かる距離であり、
大和に埋葬せざるを得ない位の遠距離だ。 人命の為にIPアドレスの開示を請求することが、必要なのではないのかな、、、 >>441
>>「南」と「東」は、字形も意味も全く違うから、<
>東と書いてあったのが南に変更されたなどとは誰も主張していない <
「変更された」なんて言っていない。
「まともな成人は、東西南北を判断し間違いもしないし、書き間違えない」と言っている。
>陳寿が南だと「認識していた」から最初から南と書いてあるって言ってるんだよ
そしてその認識は間違っていたということ<
陳寿は、魏使らの「行程記録」を転載しただけであり、
魏使らの記録から、女王の位置を「計其道里、當在會稽東治之東」として、
九州島付近に推定したのであり、
どこにも、間違っていた形跡はない。 >>456
>獣の肩甲骨を使った卜占、動物や人の生贄、殉葬、酒を使ったトランス状態で神託をきく、太陽神の末裔、
邪馬台国の記述や纒向遺跡の祭祀遺構に合致する
殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事であった
桃の種は大量の酒を作った跡だろう
卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線 <
「南≠東」などに拠って、×。 >>464
>邪馬台国、初期のヤマト政権は鬼の王朝かもしれない<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。 >>468
>やっぱり邪馬台国、初期のヤマト政権は鬼の王朝 <
「南≠東」などに拠って、×。 >>485
「南→東」などのウソ付き騙しの大和説は、
いい加減な情報ばかりだな >>497
「南→東」などのウソ付き騙しの大和説の情報は、
常に客観的データを欠く >>39
だが、どの機関に、どのように通報すれば、良いのだろうか、、、 >>514
>C14が100年古く出るとかもうないから日本の学者の努力を知ってあげて
あとデータは最新のものをみような <
ダメだな。
アインシュタインの「電磁場と重力場の相互作用の存在」の確認計測に拠って、
AMS法のプラズマ化に拠ってベータ崩壊が促進されている、
といういう事を否定したかったら、
AMS法の計測の前と後での「計測史料のベータ崩壊量」を、
ベータ崩壊計測で計測して、比べてみればよいのだから、
それをしていない大和説学者らが、頭が悪い、という事になるだけだよ。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 孤独な病死体が、発見されないように、善意の通報をどこにすれば良いのだろうか、、、 奥山氏は、無理をせず、休みながら、テンプレートを貼り付ければ良いのではないのかな、、、 >>515
>桃の種だけを調べるんじゃなくて
一緒に出土した計測できる素材も一緒に調べる 土器とか木片とか
それで出した数値だってことは知っておこうね
学者はお前らより頭良くて考えてるから<
馬鹿だね。
同じAMS法計測機械を使っていたんなら、
検査対象を違えても、同じプラズマ化計測時間を使っている事になり、
だから、その計測の間におけるベータ崩壊の起こった量の比率も皆ほぼ同じであり、
プラズマ化に拠るベータ崩壊の促進比率の計測は、出来ないではないか。
だから、AMS法とベータ線法の両方で計測してみて、
そのデータを比較する必要があるんだよ。 >>521
>長浜浩明講演会 『邪馬台国はここにある』・・・<
この男は、「邪馬台国」という存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っているし、
講演の表題にも「大和朝廷」という存在もしなかった嘘つき騙し文言を使っているから、
始めから嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師である事が確定的であり、
おそらく、見ても「害になる」だけで、時間の無駄です。 >>524
>他の正史でも朝貢国までの距離は適当だからな
魏志倭人伝だけは正確にかいてあると考えるのがそもそもただのアホ<
勿論、(方向もそうだが)距離の計測自体も全て「近似」であり、
計測方法に拠っても精度が異なるし、度量衡単位の寸法も時代や地域に拠って違うし、
地球そのものが「楕円球体」という不定形的な要因での誤差も有り得るなどで、
100%「正確」を要求するこの男が、・・・・アホ詐欺師である訳。 ERROR: Samba24:Caution 15 秒たたないと書けません。(1 回目、2 秒しかたってない)
2ちゃんねる快適ツールを使うと、待ち時間が大幅に短縮されるんだ。
(Samba24-2.13)
問い合わせID:4ebd2664b9c3db18
ホスト:p1660210-ipad020106kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>524
>他の正史でも朝貢国までの距離は適当だからな
魏志倭人伝だけは正確にかいてあると考えるのがそもそもただのアホ><
勿論、(方向もそうだが)距離の計測自体も全て「近似」であり、
計測方法に拠っても精度が異なるし、度量衡単位の寸法も時代や地域に拠って違うし、
地球そのものが「楕円球体」という不定形的な要因での誤差も有り得るなどで、
100%「正確」を要求するこの男が、・・・・アホ詐欺師である訳。 >>525
>魏の里は1里430mの普通の里 短里なんて中国に存在した事なし<
周髀算経や淮南子などの一寸千里は短里であったし、
周代以前の「陸地の東西長の歩測の約5億歩」も短歩であったし、
魏志や後漢書や梁書も短里記録があるし、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」も短里であったし、
介山や如淳注や江表伝や海賦なども短里で書かれていた。 >>526
>確かに短里なんてないだろうな 魏志倭人伝の距離がいい加減なだけ
遠くから朝貢してくれた方が都合がいいからな<
この男も、長里でしか読めないいい加減なアホであり、
女王國も赤道付近にあった、となっても、
「おかしい」とは考えられない・・・・詐欺師なんだろうなあ。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) >>530
>九州説になると発狂するんだな、
「南→東」などのウソ付き騙しの大和説者になると、
発狂してアホ詐欺師のなっているんだな (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 >>533
>だから、距離に合わせて比定地を決めても無意味
伊都カントリクラブが伊都国とか言い出す連中と同じ<
いや、
同時代の魏の役人らの「実際に倭地まで来ての実地の見聞計測した記録」の、
信頼性や確率は非常に高いもの。
それが、史料に対する「史料批判」であり、
「南→東」などのウソ付き騙しの詐欺師に欠けたる事。 >>534
>魏志倭人伝はいわゆる魏・晋朝の時代に書かれた
記録とるのも魏・晋里だし書くときも魏・晋里が使われる
そして魏・晋朝時代の1里は約430m<
いや、魏志に書かれた「魏使らの里記載の記録」は、
それに明確に対応する「地図上の実距離」との比較では、
いずれも共通して5〜6倍位の巨大な1里距離になるような記録になっており、
だから、逆に、魏志の里記載は、
1里が約430mの5〜6分のTの単位の里数で書かれていた、
という事になる。
それが史料実態であり、短里の存在の根拠。 奥山氏は、無理をせず、休みながら、テンプレートを貼り付ければ良いのだが、
体調が悪いのであれば、病院に行くことや、善意の通報をする必要がないことを教えてくれれば、
世間を騒がせる必要がなくなるので良いな、、、 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 >>535
>名護屋浦湾と日向峠を直線で結んで5:1に内分すれば
五百里と百里のの関係は維持されるけど そんなところに国はないww<
末盧國到着地点の比定と、伊都国到着地点の比定と、奴國の入り口地点の比定が、
おそらく間違い。
>方角が間違ってないというために、遺跡もない名護屋浦湾が末盧国だというが、
それでも方角は南東にならない <
「東南陸行五百里到伊都国」の「東南」は、末盧國の出発時点での出発方向記載であるから、
この男の「方角は南東」という解釈が間違い。
>短里で正しいと言い張るために、人里離れた伊都カントリークラブが伊都国だというが
伊都カントリークラブに行く前に伊都国中心地を通る 挙げ句の果てに陸行一月は陸行1日だとか言い出し、<
「水行十日陸行一月」は、
行程の目的地である「女王之所都」の所要日数の説明文言になるから、
「陸行一月」は、郡から女王之所都への「陸路」部分の所要日数になり、
歴韓國乍南乍東と、海峡二国の上陸国内見聞移動と、末盧國上陸後の陸行距離の合計になる。
>この距離を一日で踏破するよう魏使さまを超走らせることになるww<
全くならない。この男の解釈が異常。 >>536
>魏の尺度は1里=300歩=1800尺<
魏朝は、文帝の受命改制の詔書での、
秦の始皇帝の「1歩=6尺」の命令で混乱した度量衡の統一の指示と、
重臣たちの「周制への復古」の上表群に拠って、
周代の度量衡である一寸千里の法での、
「里歩系」の距離単位(1里≒76.5m)の採用になり、
従って、1里=300歩に拠って、「1歩≒25.5cm」になった。
>1尺が約24cmに相当するモノサシが見つかっているので
換算すると魏の1里は約430mになる <
尺寸系の寸法は変更されておらず、従って、「1歩≒25.5cm≒24cm≒1尺」になるだけの事。
>1里=70mなどになる記録は何らかの間違い等によるもの<
いや、魏使らの記録や、陳寿らの記録は、全てほぼ1里≒76.5mで統一されており、
間違っていない。 >>538
>遠くから来たことにしたいだけだよ
もちろん実際行ってある程度は調べているんだろうから
一定の係数をかけて実際の距離に比例するようにしてはあるのだろう<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、そのすぐ南に邪馬壹國女王之所都がある事になり、
投馬國は、水行二十日でほぼ南九州付近になるので、女王國はほぼ九州島付近である事になり、
陳寿の女王國の位置計算の「計其道里、當在會稽東治之東」ともほぼ一致して、
「一定の係数をかけて実際の距離に比例するようにしてはある」という事も否定されるから、
この男の「妄想」は、×。
>そうすると、最初は里数書いているのに途中から日数になる理由もわかる
つまり実際にはいっておらず、伝聞で知ったことを書いただけ <
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、「途中から日数になる」が間違いであり、
「実際にはいっておらず、伝聞で知ったことを書いた」という事も、
部下や後続の遣使らに拠ってバレれば首が危ないから、×。 >>541
>実際に行ったけど、あまりにも近すぎて多めの日数書いてごまかしたのかもしれんけどな<
魏の役人たちは、
「ごまかし」たら、部下や後続の使節らに拠ってバレれば、首が危ないから、
そんな事は「しない」もの。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 >>71
>あったと思われる。
>九州説にとって不利な条件と言える。
てめえの思い願いを根拠に九州説をディスるんかよ?www >>553
>>残り二千里では、福岡県をギリギリ出られない。 熊本県は狗奴国。<
>二千里は400km超だよ 当然ながら九州の外だ<
?。
「二千里は400km超だよ」なんて、どこから出て来たの?。 >>72
>てめえの思い願いを根拠に九州説をディスるんかよ?www
理由もなく「思い願い」とか決め付けてディスる池沼 >>73
>「二千里は400km超だよ」なんて、どこから出て来たの?。
歴史学からですが、何か? ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 奈良盆地は、池や沼が多いか少ないか、の討論を始めるよりも、今は、奥山氏の異変に、どのように対応すれば良いか考えた方が良いな、、、
75日本@名無史さん2019/06/24(月) 21:07:28.33
>>72
>てめえの思い願いを根拠に九州説をディスるんかよ?www
理由もなく「思い願い」とか決め付けてディスる池沼 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 九州説の言うとおり、畿内はあり得ない
畿内説の言うとおり、九州はあり得ない
だったら、畿内でも九州でもない、他の場所を探そうぜ >>558
>陸行一月もそのままの意味だとは読まなくていいってことだ
魏志倭人伝に書いてることは適当 物的証拠の方が重要 <
ダメだ。
同時代の役人たちの記録は、証拠価値が非常に高く、「適当」とは言えず、
金石文と同じ位の価値がある。
歴史においては、一般考古の「ものを言わない物的証拠」よりもはるかに重要。 九州説の言うとおり、畿内はあり得ない
畿内説の言うとおり、九州はあり得ない
だったら、畿内でも九州でもない、他の場所を探そうぜ 九州説の言うとおり、畿内はあり得ない
畿内説の言うとおり、九州はあり得ない
だったら、畿内でも九州でもない、他の場所を探そうぜ 奥山氏は、北朝鮮に里帰りし、電気の不足に苦しんでいるのだな、、、 九州説の言うとおり、畿内はあり得ない
畿内説の言うとおり、九州はあり得ない
だったら、畿内でも九州でもない、他の場所を探そうぜ、 BBAが、奥山氏が北朝鮮に居ることを教えてくれたので、心配はやめて、
僕達は、魏志倭人伝時代についての討論を再開すれば、良いな。。。 >>561
>朝貢国までの距離に関しては最初から距離が決まっていてそれにあうように記載しただけだろな<
ダメだ。
「最初から距離が決まっている」んなら、
魏使らに記録させる必要もなく、陳寿も記載する必要が無い。
だから、記録された、という事は、最低、きちんとした計測があった、という事だ。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 >>92
じゃ、最初から決まってて計測なんてされてない距離は
なんで記録されてんの? ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 >>95
懲りずにまた糞レスを書いてんのか。
キウスは破廉恥だな。 >>97
そうですね
九州説さん、倭人伝を無視したらいけませんよ 畿内説も(北部)九州説も、
倭国上陸後の末盧国〜怡土国〜奴国の間は誤った行程を共有しているからな。
言ってみれば、「呉越同舟」、「同じ穴のムジナ」なんだよ(笑) ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 >>6
> 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、
当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
これって、卑弥呼の墓だと言いたいの?
そうではないの?
肝心なところをぼかして逃げることで、畿内説の空洞化というか、空虚さが際立っているよね。 >>13
> 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
何を根拠にしているのかわからないが、このように書いておけば根拠が書いてあるつもりになるんだろう。 >>103
どう見ても卑弥呼の墓だと言っていて、どこもボカしてないようだが?
ボケてるのは九州説脳では? ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったはずはないし、
またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。
纏向遺跡のピークもこのころだから、やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」 大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf 「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。 >>107
関川トンデモだろ
橿感で論文没くらって定年までヒラだった男 >>105
少し前のスレでは、畿内説はそんなことを言わないと言っていただろ。
ああ言えばこう言う。
スレ毎に言うことを変えれば言い逃れできるのか? >>109
キャンセルが迷惑か、そうでないのか、聞けば良いな、、、 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 >>113
言わないって、いつ誰が言った?
証拠は? >>110
そうだな。
修飾語ばかりで本質は痩せっぽちだ。
魏志倭人伝に一致する考古学的証拠がほとんどない。 >>113
>ああ言えばこう言う。
>スレ毎に言うことを変えれば言い逃れできるのか?
何となにがどう違うの?
九州せつさん、具体的に指摘してくれ
へんな印象論や総論じゃなくてさ ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 >>116
>「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
なあ?
千人の奴婢が働ける王宮はどこにある?
文面からはその千人は女性のはずだが、
>>116
> 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
と墓を作る労働者にすり替えているな。
これだから畿内説は信用されないのだよ。 ぶ厚いコロモで豪華に見せたショボい中身の学術風畿内感想文 箸墓古墳が卑弥呼の墓だという意見を発表した、頭の悪い者達が、箸墓古墳が卑弥呼の墓だという意見を貫くという、雇用主との契約を、
キャンセルしたくなったのではないのかな、、、 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 >>118
だから具体的な事実を指摘しろってば
証拠を出せないってのは、そゆこと
言葉を換えれば
「デッチあげんなボケ!」 よく読むと個人の主観ばかりなんだよ。
それを長々と書き連ねて、これでテンプレと呼べるか?
頭おかしいだろ? 畿内説はデッチ上げが得意だから、他人もそうしていると思い込んでしまうのだな。 >>121
>なあ?
>千人の奴婢が働ける王宮はどこにある?
王宮で働いてると
どこに書いてある? ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 >>127
>よく読むと個人の主観ばかりなんだよ。
個人の主観ばかりだって証拠は? ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 >>131
> このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
うわあ、半島と一緒になって「うちの方が古い」と年代繰り上げ詐欺を競っているのか。 >>134
女は屋外では働かないのか?
あたま大丈夫? >>137
その文章をみてそう読むのは相当の低学歴 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ザラコクとキウスは九州説の低俗さを宣伝して残党掃討に努める畿内説協力者
かなり強力 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 天ぷらがグチャグチャや!www
>>2-12
みんなGJ!!!www ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江、尾張、三河などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 >>160
九州説おばかさんが食中毒で死んだらしい ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) うゎあああああああああああああ!!!!みんなグッジョブ!!
テンプレがグチャグチャやああああああああああああああ!!!!
ざまぁみさらせ、奥山wwwwwwwwwwww ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値を示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし 九州説がいかにバカでも気をつけましょう
前スレ終了以前及び「本スレ立て作業中の書き込み」は
荒らし行為と看做させて頂きます。 >>138
女だけ囲って仕事をするなら、普通は機織りとか料理だろう。
ああ、纒向に絹もなかったか。
魏に献上した錦はどこで織っていたんだろうねえ。
屋外だとしても、纒向には千人の女性が働いた痕跡がないねえ。 >>176
そんなことがうれしいの?
科学板なのに学術的な反論はできないの?
バカなの? 無能なの? 日本国籍じゃないの? >>2の図解(模式図)だyo(スマホ&タブレットのみんな、ズレ杉スマソ!)
【魏志倭人伝の倭国観】
洛陽┏━┓帯方郡 ┏〜〜〜〜〜〜東→✖畿内説TITANIC沈没地点(†乗客乗員>>7)
┃〜〜〜↓※南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜〜▲対馬〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 §琵琶湖
┃〜〜〜↓〜〜〜〜+南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜〜〜▲壱岐〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
┃〜〜┃▲奴国【♀女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
┃〜〜┃▲狗奴国▲▲▲▲▲投馬国┛┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┃↓「陸行半月」(正)▲▲┛〜〜〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島〜
東治┃〜〜│〜東シナ海(正)〜│〜〜↓幻の九州島南部(陳寿の創作)
┃〜〜│△△▲△△△△△│←奄美大島(正)
┃〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←沖縄那覇(正)
東冶┃〜〜│♀女王之所都(幻)│〜「當在会稽東(冶)之東」(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←台湾(正)
香港┃〜〜│△△△△△△△△┘〜「自女王國以北其戸数道里可得略載
澳門┃〜〜└△△△△△△△┘〜〜【其余旁国遠絶 不可得詳】」
┏▲海南島〜└九州島(幻)┘〜〜〜
┃儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 嘘の歴史をばら撒くのは止めましょう
邪馬台国はヤマト国
他の畿内は別の国です
関係ない地域に邪馬台国の罪を着せるのは犯罪に等しいです 学術板で非学術的な妄想を書き並べているスレ主に言ってやれよ。 >>185のバカコピペも本当にマヌケだよな
荒らし目的のみで中身がない >>188
ふーん
じゃあ、非科学的だと証明してみてくれ >>183
>ああ、纒向に絹もなかったか。
それ、無知 >>566
>帯方から南1万2千里は恐らく漢と倭奴国の頃からの
淮南子にある地の果てまでの数字を当てはめた伝承だろうな
楽浪、帯方から南に1万2千里で会稽東治の東というのは
想定上の倭国の都がある場所の決まりごと<
ダメだな。
前漢代の記録である「漢書」が、
「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」という倭人記録を書いているのだから、
前漢代に既に、楽浪海中に倭人がいた事が記録され、
その如淳注が「如墨委面、在帶方東南萬里」と書いているのだから、
魏使らが倭国に来るまでに、既に「在帶方東南萬里」という里数情報などが知られていた、
という事であり、
魏使らが淮南子を踏襲した、という事にはならない。
また漢書には、「會稽海外有東魚是人、分為二十餘國、以歳時來獻見云」も書いてあり、
魏使らは、東テイ人らの記録を書いていないんだから、
漢代の情報や記録を全て踏襲した事にはならず、
淮南子の記録を踏襲した事の証拠にもならない。 FAQ14の
「伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。」
具体的にどこのどんな遺跡だか、知っている人教えて 女王国(九州)東渡海千余里 復有国(本州)皆倭種 又有侏儒国在其南(四国)人長三四尺 去女王四千余里
(訳)
女王国の東に海を渡ると千里ほどにまた国(島)があり、倭人ばっかりw その南にも侏儒国(島)があり、身長は3〜4尺w 女王国から4千里くらい。
>>185
まさに女王国からの放射読み(描き)で、日本列島(九州→本州↓四国)にピッタリ当てはまるじゃん!
女王国→東渡海千余里…本州(複有国 皆倭種)
女王国→去女王四千余里…四国(在其南 人長三四尺)
侏儒とは小人という意味だから小人島(四国)、つまり出雲の大国主のもとに海を渡ってやってきた少彦名王の島 @阿波w
畿内説では、南の強敵狗奴国(狗古智卑狗)も、東渡海複有国も、在其南有侏儒国も、全て比定不能w 朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、どのような詭弁で説明するのだろうか。。。 >>568
>伊都国の張政の見送りに奈良から >倭の大夫、率善中郎将 も行ったぽいな
そりゃすぐいけないわな ぐずぐずしてたとは言えないから陸行一月と嘘ついた<
これも、「南≠東」などに拠って、「奈良」は×。
「倭の大夫、率善中郎将」らは、
不彌國の直ぐ南の「女王之所都」にいた事になるから。 >>198
女王国(九州)から東渡海千里複有国(本州)有侏儒国在其南(四国)去女王四千里、確かに放射読みだ!
帯方郡からの放射読み(投馬国&邪馬台国)&伊都国からの放射読み(奴国&不弥国)もこれで裏付けられたね!
帯方郡→※南「水行十日」(倭国沿岸)+南「水行十日」=南「水行二十日」…投馬国ルート
帯方郡→※南「水行十日」(倭国沿岸)+「陸行半月」(実際の九州島)+「陸行半月」(幻の九州島)=南「水行十日陸行一月」…邪馬台国ルート
伊都国→東南100里…奴国ルート
伊都国→東100里…不弥国ルート >>200
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、試しに、なかったことにして、
頭の悪い奥山氏の説明を、聞いてあげれば良いな、、、 朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ないな、、、 >>571
>知ってるけど
魏の使者は卑弥呼に会って色々記録をとっただろう
陳寿は行ってないから伝統的な倭国の都とされる位置を魏志倭人伝に書いた
というか恐らく魏の政治的決定があって交流する時最初から
帯方から南1万2千里に邪馬台国が存在する事にしようと魏が決めていた可能性がある <
これもダメだな。
漢書の如淳注は、前漢代に「楽浪から海中の倭人」に関する位置情報として、
「在帶方東南萬里」としており、
楽浪と帯方の距離は、二千里には全くならず、もっとはるかに短いから、
「萬二千余里」にも全くならない。 奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から伊都国に一大率を派遣し、九州を支配したという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ないな、、、 >>83
>九州説の言うとおり、畿内はあり得ない
九州説の言うことは基本デタラメだから、九州説の言うとおりに考えたらその時点で間違いだ >>574
>魏志倭人伝の記述によれば九州は通り過ぎるぞ<
不彌國までで萬二千余里はほぼ終わっているから、九州は全く通り過ぎない。
>さらに邪馬台国は会稽東治の東で沖縄や台湾の辺りと書いている<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わって、邪馬壹國女王之所都がそのすぐ南にある事になるから、
「沖縄や台湾」には全くならず、
勿論赤道付近にもならず、 大和説は終わったな。 邪馬台国畿内説を宣伝する、論破されたプロ固定が、討論会では、敗北宣言にしかならない、意味の無い悪口を言い放つしかなくなっているのだな、、、
207日本@名無史さん2019/06/24(月) 23:00:22.73
>>83
>九州説の言うとおり、畿内はあり得ない
九州説の言うことは基本デタラメだから、九州説の言うとおりに考えたらその時点で間違いだ 朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、どのような詭弁で、整合性を守りながら説明するのだろうか。。。 >>206
九州説こそ3世紀には既に九州から近畿に及ぶ連合国家が倭国に成立してた事を
認めたくない人々の集団ではないのかな
それと九州説は本居宣長以来、倭国が大陸に朝貢していた事を認めたくなくて
熊襲の僭称など称した皇国史観の末席に繋がってるのではないかな 奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ないな、、、 畿内ヤマト説が唯物史観に依拠していようが、皇国史観に依拠する九州説よりは良い >>575
>魏志倭人伝は適当なので書いてることをそのまま受け取ってはいけない<
同時代の魏使らや魏の役人らの直接的見聞や計測記録は、非常に確率が高く、
殆ど最高の根拠になる。
>だから物的証拠こそが重要になる<
紀年金石文など以外は、絶対年代根拠にならず、
せいぜい年代順程度しかならない代物。
>現在纏向より有力な場所は無く <
宮室樓觀城柵が見つからず、以婢千人自侍の居場所もなく、都の住居跡もなく、
「冢」も見つからず、前方後円墳は3世紀末以後で、年代も合わず、
矛も鉄も絹も明帝の下賜鏡も見つからず、「何本もの大道」もなく、
筑紫には全く敵わない。
纏向は四国中国東海岩手と同じラインにいるからな
ブツが出ないと岩手と同じ 僕達は、魏志倭人伝時代の真実を知るために、研究しているだけなので、
日本列島のどの期間が、群雄割拠していたか、それとも、統一されていたかは、全て受け入れるが、
魏志倭人伝時代は、やはり、群雄割拠の時代だったことが判明した、、、 邪馬台国畿内説を宣伝する、論破された頭の悪いプロ固定が、討論会では、敗北宣言にしかならない、意味の無い悪口を繰り返すしかなくなっているのだな、、、
207日本@名無史さん2019/06/24(月) 23:00:22.73
>>83
>九州説の言うとおり、畿内はあり得ない
九州説の言うことは基本デタラメだから、九州説の言うとおりに考えたらその時点で間違いだ
215日本@名無史さん2019/06/24(月) 23:19:24.80
>>95
>懲りずにまた糞スレを立てたのか。
>破廉恥だな。
そうだよな! 連続句読点はまともな人間じゃないな!
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1561247473/ とか
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1554161482/ とか多数 FAQ37
「箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。」
西殿ではなく西殿塚と書くべきでしょう >>217
討論すれば、邪馬台国畿内説を宣伝する、頭の悪いプロ固定は、すぐに
論破されるので、討論会では、敗北宣言にしかならない、意味の無い悪口を繰り返すしかなくなっているのだな、、、 奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ないな、、、 >東南陸行。五百里。伊都国に到る。(略)世、王有り。
>皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。
伊都国に代々王がいたけど
伊都国の王族神武のモデルになる王と卑弥呼が奈良に引越ししたけど
住民は女王に服属してて一大率に従った
そして魏の使者の滞在場所としての役目を果たした
魏志倭人伝に書いてることや平原遺跡から
そう考えるのが一番自然だと思うけど 3世紀の九州に日本国内最強だった遺構がでないからな
2世紀には伊勢遺跡や登呂遺跡とかあってすでに影が薄いし
九州人は3世紀はまだ九州が最強だったと信じたいんだろうけど
物的証拠はそうなってない 奥山氏よりは、良い意見だが、引っ越し先が、奈良だったという理由が、良く判らないな、、、
221 名前:日本@名無史さん 2019/06/24(月) 23:31:32.48
>東南陸行。五百里。伊都国に到る。(略)世、王有り。
>皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。
伊都国に代々王がいたけど
伊都国の王族神武のモデルになる王と卑弥呼が奈良に引越ししたけど
住民は女王に服属してて一大率に従った
そして魏の使者の滞在場所としての役目を果たした
魏志倭人伝に書いてることや平原遺跡から
そう考えるのが一番自然だと思うけど >>205
>漢書の如淳注は、前漢代に「楽浪から海中の倭人」に関する位置情報として、
>「在帶方東南萬里」としており、
漢書は前漢のことを書いた書だけれど、如淳は魏代の人だから如淳曰の内容は魏代の内容 日本列島が群雄割拠していたので、最強ではない九州が、魏と外交したというだけではないのかな、、、
222日本@名無史さん2019/06/24(月) 23:40:10.08
3世紀の九州に日本国内最強だった遺構がでないからな
2世紀には伊勢遺跡や登呂遺跡とかあってすでに影が薄いし
九州人は3世紀はまだ九州が最強だったと信じたいんだろうけど
物的証拠はそうなってない 3世紀の奴国はすごいよ 道があるよ
でもあそこは奴国であって邪馬台国ではない
魏志倭人伝いたしかゆし 奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ないな、、、 >>217
奈良湖が有った大和に7万戸は可能なのか?
そもそも大和が開拓されたのは難昇米の後の時代だしw 邪馬台国畿内説を宣伝する係員の奥山氏への弔辞を発表します。。。
奥山氏、今、僕達はあなたにお別れを告げようとしています。昨日、討論していた時はあんなに元気だったのに、、、突然、自殺体になろうとは、誰が予想できたでしょうか。
振り返ってみれば奥山氏と僕達との出会いは、5ちゃんねるの掲示板でした。偶然に僕達がスレッドを覗いた事がきっかけで、魏志倭人伝時代についての討論会で一緒に過ごしました。
奥山氏は、あの時からずっと変わらず卑劣な論敵でいてくれました。そして、奥山氏はいつも僕達に論破されましたね。。。僕達にとって奥山氏は、頭の悪さを楽しませて貰え、笑えてリラックスさせられる存在です。
奥山氏が頑張っているから、僕達が癒される、、、いつもそんな思いで生きてきました。
奥山氏、どうぞ安らかに眠ってください。また、天国であなたと討論できる日までお別れです。
奥山氏、本当に心よりありがとう。 >>112
それで、偉いさんに忖度するようなゴッドハンダーだらけになっていくのか 奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ないな、、、 >>222
伊勢遺跡は地方議会みたいな感じ?
登呂遺跡に至っては、権力が不在であり、生産のための植民地にすぎない。
伊都国の繁栄と奴国の巨大さの足元には及ばない。 >>211
>九州説こそ3世紀には既に九州から近畿に及ぶ連合国家が倭国に成立してた事を
纒向の土器を見る限り、もっと分断されていましたねえ。 畿内説が正しいとすると、古代人は太陽が東から登って西に沈むことにまだ気が付いてないんだね >>228
奈良湖があったからこそ多くの人口を養えるんだよ >>2
>>185
卑弥呼の魏帝への朝貢理由は要するに狗奴国戦争における援軍要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置(比定)であることに留意されたい。
狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地(狗古智比狗の本拠)+熊本+八代の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(上方下円墳)を比定。
祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
https://sora07.exblog.jp/26083348/
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12288771975.html >>236の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」分家=狗奴国・王卑弥弓呼の子孫/八代淡海→近江)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(卑弥弓呼、帯方郡張政に降伏、卑弥呼に服従)、伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、水銀朱(丹)豊富な大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…息子の垂仁、伊勢神宮創建し、紀伊半島東部聖域化し、水銀鉱床も独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を神功皇后が暗殺)
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺、筑紫君と史実歪曲→阿蘇邪靡堆へ遷都・倭王阿毎多利思比孤へ)
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)(唐新羅連合軍の脅威現実味→欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)大和東遷、飛鳥疎開宮造営)
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の巨大水銀鉱床確保)→欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
中央構造線上(九州阿蘇〜四国〜紀伊半島)に、古代倭国の大陸半島への主要な輸出品(外貨獲得手段)であった水銀(丹)鉱床が集中していることに留意されたい。
「(外貨獲得手段)水銀(丹)を制する者が古代倭国を制する」のであり、聖域&結界である伊勢神宮(垂仁・雄略)高野山(空海)など、山岳修験道の真の目的は水銀(丹=水銀)探し@中央構造線上なのである! 邪馬台国の会さんはそんな荒らすほど畿内説スレが目障りなのかな >>236
箱式石棺や石蓋土壙墓なんて立派な墓に葬られた奴婢がいるわけないだろ
上方下円墳なんて珍妙なものも祇園山にはない
九州説ってホント
ばかですか 邪馬台国の会っていうと荒らしがピタリと止んでワロタw 九州説はどうやら何かに雇われているようだ
九州説の荒らし通称連続句読点のレス
752 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/05/20(月) 10:20:15.23
>>750
人手不足と闘っている、友人でもある、僕達の雇用主は人間性のレベルが高いので、
韓国人100パーでも、雇用してもらえるのではないのかな。。。 スレ荒らし九州説に邪馬台国の会が関与している事を
強く疑わせるやり取りを抜粋
966 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/06/18(火) 22:37:56.14
俺も持ってるぞw
奥山くんは邪馬台国の会が怖いんかな?w
974 返信:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/06/18(火) 22:43:35.45
>>970
違ったw
俺は邪馬台国の会というのをよく知らんけどそんなに怖いのか?www
(邪馬台国の会も知らないで九州説名乗ってこのスレに書き込む時点で少し怪しい
そして邪馬台国の会を知っていたように思われる事をなぜか必死に否定し出す)
987 返信:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/06/18(火) 22:54:25.63
>>985
奥山にも怖いという感情があることに驚いたんだけどwww
邪馬台国の会わかったぞw安本美典の会だなw
名前はよしのりだと思ってたwww
993 返信:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 22:59:45.81
>>992
そんなあからさまな名前の会だとは知らんかったぞw
テンプレ準備しなくていいのか?
バイト代削られるぞ?www
(最初に邪馬台国の会が怖いのかと自分で言っておきながら知らなかったと言う
なぜそんなに必死になって否定したいのか?怪しい) >>237
>「(外貨獲得手段)水銀(丹)を制する者が古代倭国を制する」
まさに、倭国(阿波)そのものだね。 @阿波 >>240
>上方下円墳なんて珍妙なものも祇園山にはない
祇園山古墳の墳丘裾の「地山成形で作った平地」の形が長円形だっていうのが
九州説にかかると円形の下段のある方墳、つまり上方下円墳に化けちゃうんだよ
九州説は情報の取り方に障碍があるようだね >>237
>「(外貨獲得手段)水銀(丹)を制する者が古代倭国を制する」
「丹」の採れない所に、邪馬台国が在るわけがない。 以上。 @阿波 邪馬台国の怪と畿内説は似たり寄ったり、怪しい理屈をこねまわす狐狸庵学者連 >>581
>そんなに心配しなくても奈良は会稽東冶の東にあるぞw<
奈良は、「南≠東」だから×だし、
「会稽東冶の東」にもならないから、それも×。 沖縄も九州も奈良も、陳寿の推定した「会稽東冶の東」だ。
わざと内輪もめしてるんじゃないのか。 >>583
>先に九州に着くけどねw<
「会稽東冶」と書いた時点で、陳寿の「会稽東治」とは違うから×だし、
「会稽東冶の東」では、(九州島付近ではなく)尖閣諸島や沖縄になってしまうから、×。 「会稽東冶の東」論者は、九州島は尖閣諸島や沖縄付近にあったと主張しているんだから、
会稽東冶の東は、九州島なんだよ。何も問題ない。 >>250
畿内説は会稽東冶の東は奈良を指してるなんて一言も言ってないぞ >>252
イト国、ナ国の方角里数を捻じ曲げる典で、狐狸同類。 >>253
九州は九州
沖縄は沖縄
とくに九州説は邪馬台国が九州北部じゃないとマズいんだろ
会稽東冶の東は地図で見たら沖縄の辺り
魏志倭人伝の会稽東「治」の東は歴史上存在した事ない地名だから
会稽東冶の東の転写ミス >>252
>一緒にしないで欲しいね
いや、一緒だよ。 @阿波 >>255
別にねじまげてないけど
伊都国は現在の糸島市の辺り
奴国は旧名儺県(なのあがた)の博多辺り >>254
奈良は九州島の東なんだから、必然的に会稽東冶の東となる。そんなことさえ理解できないアホ学者なのか。 >>259
会稽東冶の東は福建州福州市の東で
地図上で見れば沖縄や台湾の辺り
そんな事も知らないアホ邪馬台国の会のバイトなのか >>589
>このスレでいくら大きな声で喚き立てても、
古墳時代の始まりが3世紀半ばだという『事実』は、もはや揺るがない。<
卑弥呼の墓は3世紀半ばの「冢」であるから、
前方後円墳が「古墳時代」の定義にした限り、「冢≠前方後円墳」であるために、
古墳時代は3世紀半ばではなく、もっと後にしかならず、
前方後円墳も卑弥呼の墓ではない。
>学会の大勢も変わることはない。<
大和説学会は、全員「南→東」などのウソ付き騙しの・・・・アホ詐欺師である、
という事は、もう世間や国民の7割に知れ渡っており、
その大勢は、今後も動かない。
大和説のお前たちがやっていることは、全て無駄。徒労だ。 会稽東冶の東て鹿児島と大隅諸島のあたりだろ
3世紀のでかい遺跡がない
はい詰んだ九州 >>258
邪馬台国の怪も、東南を北東へと明らかに捻じ曲げているではないか。
(畿内説という)他人のふり見てわが身を直せ。どのみち直せないのは狐狸同類の証拠。 >>237
>「(外貨獲得手段)水銀(丹)を制する者が古代倭国を制する」
まさに、倭国(阿波)そのものだね。 @阿波 奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ないな、、、 >>259
そもそも九州説は邪馬台国を九州北部にしないとダメな命令でもされてるんだろ
なので会稽東冶の東を九州島を指しているじゃなくて
九州北部を指しているとできない時点で負け >>266
ちょっと何を言ってるのかよくわかりませんね 魏志倭人伝に書いてる陸行一月や七万余戸をアホみたいに信じてる九州は
当然会稽東冶の東も信じてるんだろ
でもそこは鹿児島と大隅諸島ですから 残念 >>265
会稽「治」の東は鹿児島と大隅諸島のあたりだ。
しかし会稽東「冶」の東は、沖縄尖閣諸島の付近になり、畿内説はこのあたりに九州島があったと主張してるのだ。 >>594
>そもそも九州には3世紀の径100余歩の墓などないのだから、
最初から九州説など立てようがない。<
現在時点では、列島内で、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たし得るのは、
祇園山だけだ。
「南→東」まどの嘘つき騙しの大和説?のお前たちが言っていることは、
全部妄想。 陸行一月や七万余戸が間違ってないというなら
九州は鹿児島と大隅諸島以外の場所を
邪馬台国に比定するのができなくなるジレンマ >>270
とぼけるな、ホラ吹き邪馬台国の狐狸怪獣 >>595
>距離がどう考えてもモリモリの数字なのに7万戸や塚の大きさは正しいと考えるのは都合良すぎ
デカい国に見せるために数字を盛っていると考えるべきだろう <
いや、距離も日数も戸数も冢の大きさも殉葬奴婢の数なども、
いずれも、魏使や魏の役人らに拠る、有効数字1桁程度の、
実地の見聞計測の記録から出来たものだ。 >>272
畿内説は誰もそんな主張はしてないが
会稽東冶の東は沖縄や台湾の辺り
魏志倭人伝の会稽東「治」の東は歴史上存在した事のない地名だから
会稽東冶の東の転写ミス
そして沖縄や台湾辺りに邪馬台国がないのは確実だから
魏志倭人伝の距離方位は間違いで
考古物で見たら邪馬台国は畿内というのが主張 >>275
いや畿内説が伊都や奴国の方位を捻じ曲げてると言われてもね
薬か何かやってるの? >郡より女王国に至る。万二千余里。
帯方郡から釜山、対馬、壱岐、唐津、糸島ときて残り2千里では
会稽東冶の東の鹿児島に着かない
万二千余里が行程だと主張するなら矛盾があるが
帯方郡からの南に下がる距離が万二千余里と考えると説明がつく
はい鹿児島と大隅諸島 >>255
>イト国、ナ国の方角里数を捻じ曲げる典で、狐狸同類。
畿内説はねじ曲げてないよ
畿内説では魏志倭人伝の情報で重要なのは「北部九州に伊都国、奴国があった」と
いうところまでで、方角、距離はあてにならないとしている >>226
>3世紀の奴国はすごいよ 道があるよ
>でもあそこは奴国であって邪馬台国ではない
>魏志倭人伝いたしかゆし
邪馬台国と投馬国は別立てになっているから、それぞれ領域の名前だろう。
つまり国邑である奴国や伊都国がその中に含まれることは容認される。 吉野ヶ里とか朝倉とか八女とか山門とか宇佐美とか全部消える
会稽東冶の東ではないので魏志倭人伝に書かれてることと矛盾する >>277
「会稽東冶の東」 や 「距離方位」
そんなこと、言ってる場合じゃないでしょ。 いや、そんなことぐらいしか言えることがないのが実情なんだがw
「丹」の採れない所に、邪馬台国が在るわけがない。 以上。 @阿波 邪馬台国熊本城論では、会稽は夏の時代の会稽で、会稽東治は上海のことであり、そこから八方向に、方位を分けると、熊本城が正に会稽東治の東で、距離も近く、ちょうど良いのだが、他の北部九州地域でも、それは、特に問題はないな。。。
しかし、僕達の考えでは、畿内を指し示すのに、同じ緯度付近にある洛陽を持ち出さずに、畿内からは遠く離れた、緯度がまるで違う上海を持ち出す必要性は、人類の常識では完全に否定されてしまうのだったな。。。 >>280
「会稽東冶の東」 や 「距離方位」
そんなこと、言ってる場合じゃないでしょ。 いや、そんなことぐらいしか言えることがないのが実情なんだがw
「丹」の採れない所に、邪馬台国が在るわけがない。 以上。 @阿波 >>596
>九州説が頼みにしているのは『南』という一点だけ。<
いや、魏志などの記載や、その他の、知り得た限りの文献考古の、
全ての情報を根拠にし、頼みにした推論。
>だがその方位も、松浦上陸後から既に全部間違っている。
ゆえに『南』が絶対に正しいと言うのは、ただの『妄想』。<
「東南陸行五百里到伊都國」の「東南」は、
陳寿や中国文献や人類の「行程」説明原則の「出発説明+途中説明+到着説明」に従って、
「出発時点での出発方向」説明文言であり、間違っておらず、
ゆえに、「南」も間違っている、というのは、
・・・・アホ詐欺師の大和説者の、分裂幻覚の妄想。 >>284
「会稽東冶の東」 や 「距離方位」
そんなこと、言ってる場合じゃないでしょ。 いや、そんなことぐらいしか言えることがないのが実情なんだがw
「丹」の採れない所に、邪馬台国が在るわけがない。 以上。 @阿波 又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国(長崎県松浦市)に至る。
4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、
行ってみると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。
捕らえた魚と鮑(を食べるの)が好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。
(末盧国から)東南方向に陸路を500里行き伊都国(伊万里市)に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
世界には(中国の他にも)王がいる。(この国の)皆は女王の国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところだ。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、
(帯方郡から)南に航海すると、二十日で(北九州市や大分県となった)投馬国(の役所である大分市)に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。 (帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の熊本城のすぐ)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、 帯方郡から、女王国までは、12000里。。。
男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
(中国古代の王朝である、)夏后(の王、)少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。
今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。
後に段々、それが飾りのためだけになった。
諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右にし、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。
その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側(上海だね。。。)を治めている役所の、、東にあるはずだ。 スレが進んでいるなと思ったら、キナイコシが独り相撲をしていたのか。
ご苦労なことだ。
社会人は明日に備えて夜は寝るんだよ。
ニートは楽でいいな。
何が◯◯の会だよ。
見当違いも甚だしい。 淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。
淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある。
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある。
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある。
女王国とは倭奴国のことである。
一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。 >>597
>>対馬海峡が三千里あるのに。<
>そんなもん測定できるわけないだろ<
いや、狗邪韓國から末盧國へは、ほぼ南北方向であるから、
一寸千里で、有効数字1桁程度の里数が簡単に計測出来る。 中国に挨拶にくるためのその地からの往復は海を渡るが、いつも、一人に頭を櫛で梳かさせず、虱をとらせず、衣服を垢で汚させ、肉を食べさせず、婦人に近づかせず喪に服しているようにさせる。
名付けてこれを持衰という。
もし海に行っている者が運よく無事ならば、彼らとともに奴隷や財産が与えられるが、もし疫病や暴風の害に逢えばこれを殺そうとする、、
持衰が慎まなかったからだというのだ。。。
真珠と青い玉を産出し、その(阿蘇)山には丹(ベンガラ)が有る。
その木には枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香が有り、その竹は篠簳桃支である。
(原文訳しきれないね、、、)
生姜、蜜柑、山椒、茗荷があるけれども、それらのおいしさを知らない。。。
獮猴、黒雉がいる。
(壱岐で見た)倭人の風俗では、行事があったり、旅行にいったり、発言したり、何かを行うことが有れば、まず、骨を焼いて割れ目をつけることで、良しあしを占う。。。
予め割れ目の様子を告げるが、令亀法での言葉で行われる、、、
火によってできた裂け目を視て予兆を占うのだ。
倭人の社会では、同じ様に坐ったり起きたりしていて、父や子や男や女の別がない。
倭人は酒を嗜む性質がある。
魏略には以下のようにある、、、、倭人の習俗では正しい年を知らず、四季を区切るのではなく、ただ春の耕す時期と秋の収穫を年の区切りにしている。。。。 真珠と青い玉を産出し、その(阿蘇)山には丹(ベンガラ)が有る。
(壱岐で見た)倭人の風俗では、行事があったり、旅行にいったり、発言したり、何かを行うことが有れば、まず、骨を焼いて割れ目をつけることで、良しあしを占う。。。
予め割れ目の様子を告げるが、令亀法での言葉で行われる、、、
火によってできた裂け目を視て予兆を占うのだ。 >>291
>>243参照
バカめ
○○会が事実と違っても九州説が荒らし書き込みすれば
全部それのせいにされるのだ
はい九州説は積んだ積んだ
というか荒らさなければいい話なんだが 奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ないな、、、 >>599
末盧國上陸後から方位は全てほぼ正しいのだから、
不彌國→投馬国は南であるし、
不彌國→邪馬壹國女王之所都の南でよい。
行程記事に忠実になれば、とにかく「南は、ほぼ南である」と言うのが正しい。 倭国もまた中国のようにもとは男子を王とし、その状態が七、八十年続いたが、国は乱れ、互いに攻め戦い、年を経た。
こうした後、女子を共に立て王とした。
名は卑弥呼といい、亡霊に仕え、路上で民衆を惑わすことができた。。
すでに高齢で、配偶者はないが、弟があって、国政を補佐した。。。。
王となってからは、会見した者は少ない。。。。
女が千人、自分たちの意思で奴隷となって仕えている、、、
ただ一人だけ男子がいて、飲食を給仕したり、言葉を伝えたりと、女王の居る所に出入りしている。。。。
宮室、楼観、城柵が厳重に設置され、常に、人がいて、武器を持ち守衛している。
女王国の東から千里余り海を渡ると、再び国(四国)がある。。。
皆、倭人の種類だが、また侏儒国があり、それは(四国の)南側にあって、人の長さが3、4尺なのだ。。。
女王の元を去って四千里余りだ。。。
また、裸国と黒歯国があり、同様に(女王国の東から海を渡る)東南にある。。。
航海して1年ばかりかかる。。。
熊本城で謁見して倭人の地の絶えている(沖縄の)場所を問うと、海の中の州や島の上にあって、絶えたり、連なったり、巡り廻って5千里、で着くと答えがあった、、、 >>299
僕達の翻訳では、
名は卑弥呼といい、亡霊に仕え、路上で民衆を惑わすことができた。。
という部分は、
名は卑弥呼といい、亡霊の道に仕え、民衆を惑わすことができた。。
が正しいのではないのかな。。。 魏志倭人伝はおかしいとこがあるから
書いてるからこの説は正しいとか違うというスタンスは成り立たない
逆に言うと邪馬台国が群馬とかハワイとかも成り立ってしまう
それが適当魏志倭人伝
ゆえに物的証拠が重要
適当魏志倭人伝だけど帯方郡や魏国内でのことや
年代は正確である可能性が高い
倭国について書いてるとこがあやしいだけ 亡霊の道とは、イタコのような物事なのだろうか、、、 >>303
この部分だね。。。
29日本@名無史さん2017/05/03(水) 21:49:27.85
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛 >>602
>地理地名の現況と出土物と魏志倭人伝を比較して
ブツと明らかに異なってる部分があったら
魏志倭人伝に書いてある事が間違っているのだろう <
魏志倭人伝の、魏使らの実地の見聞計測の記録は、確率が非常に高いから、、
その記録と、地理的位置や出土物やその時期などが、明らかに違っておれば、
地理的位置や出土物やその時期が、始めからクルっていたのであろう。 >>604
>九州を通り過ぎた先に邪馬台国はあると書かれてるんだよなあー<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっておるから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南に入り口がある、って書いてあるんだけどなあ。 >>290
「会稽東冶の東」 や 「距離方位」
そんなこと、言ってる場合じゃないでしょ。 いや、そんなことぐらいしか言えることがないのが実情なんだがw
「丹」の採れない所に、邪馬台国が在るわけがない。 以上。 @阿波 >>609
>末盧国から二千里では福岡県を出るかどうか<
對海國と一大國の国内見聞移動を、合計1400里しており、
だから、末盧國から後は不彌國まで600里であり、
邪馬壹國女王之所都は、福岡県の中心部になり、
福岡県を全くでない。 >>610
>帯方から南で会稽東冶の東は沖縄とか台湾の辺りだが<
陳寿の女王國の位置推定の起点は、(会稽東冶ではなく)会稽東治であり、
その東はほぼ九州島付近になるから、
この男の「沖縄とか台湾の辺り」説は、全くの嘘つき騙しであり、
この男は、おそらく・・・・アホ詐欺師。 >>611
「南→東」などのウソ付き騙しの大和説って、
こいつみたいに、誰も主張してないことを捏造して煽るだけになってしまったな
真っ正面から議論したら負けるからひたすら罵倒するだけ >>301
>ゆえに物的証拠が重要
物的証拠もないのに畿内と言い張るくせに。
なぜ吉備ではいけないのか、なぜ尾張ではいけないのか、説明してみろ。
後世の畿内の概念を上古にまで投影しているだけなんだよ。
畿内説は妄想だね。 >>303
卑弥呼の鬼道政治とは要するに青森県恐山のイタコ政治だろうな。
死ぬことを「鬼籍に入る」つまり「鬼の仲間入りをする」「鬼になる」というからね。
吉野ヶ里の主祭殿2階の大広間で男弟を衆議(下)院議長を中心に加盟30カ国の王たちの意見をまとめ、
3階で待つ女王卑弥呼「ひとり参議(上)院議長」にお伺いを立て、鬼(死んだ王)の霊を降臨させ、神託として裁定を下す。
まさに3階建ての主祭殿(宮室=国会議事堂)は、卑弥呼の「鬼道」政治をするに相応しい構造だ。
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c301.html
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c310.html
https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25905026218
平屋の宮室はあるが、楼閣なし、城柵なし、厳かに設けてない(木製板壁一枚w)平屋の纏向宮殿じゃ、民を惑わす鬼道政治はムリポw
二重環濠城柵、楼観4棟、クランク状で厳かに設けた出入口…吉野ヶ里のような北部九州の3階建ての宮室(主祭殿)でこそ可能だ >>277
会稽東治は郡名や地名ではない。
夏后氏の小康の子が封ぜられた会稽の東にあった治所(領地の官衙・役所)の場所名だ。 >>614
>その後に水行10日20日で陸行1月とかだろ<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
「その後に水行10日20日で陸行1月」ではないし、ならない。
>九州上陸してから水行するという記述がある以上
邪馬台国向かうには九州を通り過ぎて船出するという事になる<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
「九州を通り過ぎて船出する」事もない。 >>280
>畿内説では魏志倭人伝の情報で重要なのは「北部九州に伊都国、奴国があった」と
>いうところまでで、方角、距離はあてにならないとしている
何だい、
畿内説に都合が悪い方角・距離等はあてにならないというのは、逃亡したってことだ。 >>615
仕方がない事でしょ。
九州説者は、卑怯者でも愚かでも「南→東」などのウソ付き騙しでもないのに、
どうして、「南→東」などのウソ付き騙しの大和説者を擁護できますか? 史書に記されている方角や距離が合わない奈良で出る物証とは、いったい何に対する物証なのだろう? >>313
>夏后氏の小康の子が封ぜられた会稽の東にあった治所(領地の官衙・役所)の場所名だ。
夏后氏の小康の子が封ぜられた会稽の東に治所(領地の官衙・役所)なんて無いので妄言
しかも
「会稽の東の治所の東」なら
「会稽の治所の東」と同じことだ
そんな重複した言い方をするナンセンス
しかも
何の史料的裏付けもない想像読みである
九州説ってホント
ばかですか >>617
>それでも少なくとも九州を指してる積極的根拠にはならんな<
それでも、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
少なくても、大和を指している、という事の積極的な根拠にはならんな。
むしろ魏志倭人伝の邪馬壹國女王之所都の場所は、ほぼ筑紫である、
という事に対しての、積極的根拠になるんではないか >>317
そこが当時の日本列島広域の政治的中心で、魏とつながりがあった
という証拠だよ
テンプレに書いてあるよ >>621
>畿内説が二転三転するとか、根拠がないとか それ、なんか証拠あるの?
それとも畿内説は嘘をつくのが伝統なの?<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
「南→東」などのウソ付き騙しもするし、」
大和説者は、嘘を付く・・・・アホ詐欺師であるのが伝統です。 >>319
>それでも、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
無理やり九州にしたいって欲望のために
そんな変な読み方を発明したんでしょ
それがサギだっての >>315
>畿内説に都合が悪い方角・距離等はあてにならないというのは、逃亡したってことだ。
何から?
妄執から? 愚昧から? 狂気から?
それは逃げていい
九州説に都合がいいからって、明らかに間違っている方角・距離等を盲信する
というのは、泥舟に乗ったってことだ
だから九州説は沈没したんだよ >>321
>「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
そうやって皆が知ってる歴史を
根拠もなく否定して破壊しようとするのって
腐った嘘つき騙し文言の典型じゃないのか >>624
>畿内説というか日本の使者が昔に言った事だけど
昔の日本の使者と自己を自然に同一視できない九州説は
まさか外国籍の人間がやってるんじゃないだろうな
だとしたら学問に対する外国からのテロ行為とか最悪だぞ <
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「南→東」などのウソ付き騙しに拠って、
国民を、皇国史観国粋殺し合い戦争を煽り建てる行為は、
国民に対する「一種のテロ行為」です。 >>321
>大和説者は、嘘を付く・・・・アホ詐欺師であるのが伝統です。
だから「嘘だー」「嘘だー」ってワメくだけで
証拠も出さず理由も言わず
それって単なる暴言と中傷だろ >>625
>畿内のが伝統的で九州説が新興トンデモ思想なのは分かってるんだなw <
九州説が、古代からの伝統的思考であり、
存在もしなかった「畿内」なんて嘘つき騙し文言を使い、
「南→東」などのような嘘つき騙しをする大和説が、新興トンデモ思想なのです。 >>325
>国民を、皇国史観国粋殺し合い戦争を煽り建てる行為は、
この、あまりにもトンチンカンな罵倒に
たしかな狂気を感じる >>325
>「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
連呼するだけってバカでしょ
理由を聞かれても答えない
証拠を要求されても無視無視無視
それって
「ワシ、嘘ついてまーす」
って大声で言ってるのと同じだよ >>323
「会稽東冶の東」 や 「距離方位」
そんなこと、言ってる場合じゃないでしょ。 いや、そんなことぐらいしか言えることがないのが実情なんだがw
「丹」の採れない所に、邪馬台国が在るわけがない。 以上。 @阿波 >>626
どうして?。
どうして大和説はいつも、「南→東」などのウソ付き騙しの理由が言えないの? >>281
>邪馬台国と投馬国は別立てになっているから、それぞれ領域の名前だろう。
>つまり国邑である奴国や伊都国がその中に含まれることは容認される。
容認されないよ
女王之所都がどこに書いてあるか考えれば分かるだろ?
邪馬台国が広域で、その中に奴国、伊都国があるなら、より小さな括りのところに
女王之所都の記述がないと、女王の都がどこにあるか分からなくなるじゃないかww
奴国、伊都国と邪馬台国は横並びの扱いだよ 九州説がさあ、畿内説は国民を皇国史観国粋殺し合い戦争を煽り建てる行為だってクレームつけてるのを聞いて
ドン引きしない人がいると思う?
九州説って近寄ったらマズいって思うよ
知り合いと思われたくないって思うよ
普通の人はね >>331
>どうして大和説はいつも、「南→東」などのウソ付き騙しの理由が言えないの?
ウソじゃないから、だろ >>291
>何が◯◯の会だよ。
>見当違いも甚だしい。
そんなに、伏字にしなきゃならないほど、あからさまに書いて欲しくないのかな?
邪馬台国の会ってww
安本美典氏主宰で、東遷説を主張している邪馬台国の会としては、知名度を上げるためにも
名前が出るのは普通なら歓迎すると思うんだが?ww
邪馬台国の会のメンバーが荒らし行為に加担してるとなれば、評判が落ちるから
荒らしと紐付けして欲しくないのかもしれないけれどww >>327
>九州説が、古代からの伝統的思考であり、
>存在もしなかった「畿内」なんて嘘つき騙し文言を使い、
>「南→東」などのような嘘つき騙しをする大和説が、新興トンデモ思想なのです。
九州説が古代からの伝統的思考?
じゃあ江戸時代以前に九州説があったって証拠を出してみせろ
九州説は平気で嘘をつく
異常だよ >>296
ザラゴキは邪馬台国の会じゃなくて、古田史学の会の信者だから、そこは分けてあげて
あと、連続句読点は韓国大好きパヨク系活動家だから、それも邪馬台国の会ではないな >>627
>前方後円墳のホケノ山は3世紀中葉でヒミコの時代に既に存在<
前方後円墳のホケノは、卑弥呼の「冢」ではなくもっと後であり、
「有棺有槨」であるから、魏使らの見た「有棺無槨の倭國」ではなく、
庄内3〜布留であるから、3世紀末の庄内1の石塚よりも後の、
「3世紀末〜4世紀」の墓。
>三角縁神獣鏡は景初三年と魏の西暦239年に相当する年号が入っている<
3世紀の纏向や大和からは出土せず。
>日本書紀、梁書、太平御覧などには卑弥呼が魏に使いを送った年を
景初三年と記す<
唐代頃の「自己解釈に拠る書き換え」をした史書や文書の記載は、
証拠にならず。 >>315
>畿内説に都合が悪い方角・距離等は
畿内説に都合が悪い、ではなく現実の地理と合わないものを信じてもしょうがないってこと
これ、どうやっても東南陸行五百里にはならないだろ?
https://i.imgur.com/0eJ45rZ.jpg
これを正しいと言い張る時点で、九州説は壊れてるんだよ >>633
>3世紀の古墳からもわんさと見つかってるよ
景初や正始と西暦240年ごろの魏の年号も記銘されてるし<
纏向や大和からは出ていない。 >>339
「会稽東冶の東」 や 「距離方位」
そんなこと、言ってる場合じゃないでしょ。 いや、そんなことぐらいしか言えることがないのが実情なんだがw
「丹」の採れない所に、邪馬台国が在るわけがない。 以上。 @阿波 >安本美典氏主宰で、東遷説を主張している邪馬台国の会としては・・、
末盧国から邪馬台国への出だしの行程の「東南」を、北東の博多方面へ捻じ曲げておいて、
東遷は朝倉発の田川経由云々とかいうと、
さては、ビテン自身が東遷したがってるんじゃないかと、痛くもない腹を探られる、、、 >>339
なかなか優れた地図だ。
ただこれは、新井白石以来の畿内説や北部九州説が唱える誤りの方角だ。
この地図に東南500里を書き込んでみろ。その行く先は、さてどこになるか・・。 >>340
>纏向や大和からは出ていない。
出てるけど?
桜井茶臼山から正始元年鏡 >>339
対馬と壱岐の間の里数からして盛りまくりの距離になっているのに、
五百里の数字が正しい数字だとどうして思えるの?
自分に都合のいいところだけ正しくて、都合の悪いところは間違いって考えかよw
ご都合主義にも限度があるやろ >>345
「会稽東冶の東」 や 「距離方位」
そんなこと、言ってる場合じゃないでしょ。 いや、そんなことぐらいしか言えることがないのが実情なんだがw
「丹」の採れない所に、邪馬台国が在るわけがない。 以上。 @阿波 >>646
>>(大和の)三角縁神獣鏡
考古学的にこれが出るのは4世紀の墓ですがw)<
>それ、もう考古学的に完全に否定されてるから<
大和は、庄内3〜布留の3世紀末〜4世紀のホケノまで、△は出ず、
だから、大和の△は4世紀。 >>347
>大和は、庄内3〜布留の3世紀末〜4世紀のホケノまで、△は出ず、
>だから、大和の△は4世紀。
だから、その素人オジン75歳が理由もなく考えた空想は
考古学的に否定されてるわけだが >>345
だから正しい正しいと言い張ってる九州説を
きっちりした反証で否定してるのが
わからんかね
頭だいじょうぶ ・・・ないな >>650
>これが通説 ↓ 3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。<
列島での前方後円墳の初元は、筑紫の那珂八幡などの3世紀後半中頃以後であり、
大和では、石塚などの3世紀末以後。
>これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、
長い木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設や、
多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。<
大和の竪穴式石室は、ホケノの有棺有槨の後であり、4世紀。
>それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、
その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、<
筑紫の那珂八幡などの方が3世紀後半半ばで早かったし、△もあった。
>この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。<
卑弥呼の事なら「南≠東」で×であり、
大和の纏向の大市は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の結果。 >>349
南を東と読み替えないと成立しない畿内説は最初から成立し得ないんだが 南を無理やり東と読み替えないと成立しない畿内説はそもそもがめちゃくちゃ
大和朝廷がもっと前から成立していてほしい、というアホな気持ちから出てきた愚説
沖縄、台湾、ジャワあたりの方が畿内よりはるかに可能性が高い >>652
現実をみろ
「南→東」などのウソ付き騙しの、三角縁を研究している大和説考古学者なら、
たくさんいる
大和説学者の、嘘つき騙しや、現実逃避ぶりは異常だ >>653
「南→東」などのウソ付き段ましのような、
そういうウソを平気でついて
歴史を歪曲する
それが大和説学者。 >>339
先ほどもレスした通り、↓これはなかなか優れた地図だ。
で、この地図に東南500里を書き込んでみたか。その行く先は、どこになったかな・・・。
https://i.imgur.com/0eJ45rZ.jpg >>322
>無理やり九州にしたいって欲望のために
>そんな変な読み方を発明したんでしょ
畿内にしたいために、一万二千里の記事を無視する読み方を発明したんでしょ?
おかしいのは畿内説。 >>323
>九州説に都合がいいからって、明らかに間違っている方角・距離等を盲信する
畿内説に都合が悪いからって、魏志倭人伝を無視しすぎ。 >>351 >>352
読み替えてませんが?
間違いだと言ってるだけ
そして根拠は示した >>332
>女王之所都の記述がないと、女王の都がどこにあるか分からなくなるじゃないかww
>奴国、伊都国と邪馬台国は横並びの扱いだよ
これは違うな。
邪馬台国の領域の外にまだ投馬国とかがあるからね。
あと、奴国と伊都国は横並びだが、邪馬台国は違うよ。 >>339
それはあなたの末盧国の比定が間違えているのですよ。 末盧国へ上陸すると大変そうだから、
東南の伊都国に向ったという意味た。
つまり壱岐から見た方角だ。 >>655
>魏志倭人伝の頃には邪馬台国は大和
そして九州北部の古来は奴国<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから×であり、
「大和説」は、「南≠東」などに拠って×であり、
女王國が、九州北部。 >>657
「南→東」などのウソ付き騙しの大和説者の、
歴史歪曲は酷どすぎるなあ >>658
>天皇家は中国に朝貢などした事はない
天皇バンザイの国学的皇国史観は九州説<
この男も、ヘンな男。
「天皇家は中国に朝貢などした事はない」なんていう自慢をする事自体が、
「天皇バンザイの国学的皇国史観」者である事の証拠。 >>659
「南→東」などのウソ付き騙しの大和説者は、
このスレに嘘だけを書きに来てるの?
真実を書いたら死ぬ病気なの? 会稽の先に漕ぎ出すと東鯷人の国が20余国あるんだからまあ九州よな
この頃は琉球経由で朝貢してたのかねえ? 中国の皇族というのは何なの?
本当に、おかしな話ばかりでしょ >>339
同じ理屈でどうやっても南は東にならない畿内説どうすんの〜 >>339
再三、レスした通り、↓これはなかなか優れた地図だ。
で、この地図に東南500里を書き込んでみたか。そろそろ出来上がった頃だろうが、その行く先は、どこになったかな・・・。
https://i.imgur.com/0eJ45rZ.jpg >>660
>>3世紀当時の畿内と北部九州との交流はほとんどなく、
>では何故、3世紀の北部九州に庄内式土器が上陸し、前方後円墳が築造され始めるのだ?<
庄内は、筑紫で3世紀前半に始まり、
大和の庄内開始は、3世紀末の庄内1の前方後円墳の石塚からであり、
九州倭國の「東征毛人五十五國の将軍や部将らに拠って、大和へ伝播された、
という事になるの。
大和説は、「南→東」などのウソ付き騙しだけではなく、
史料事実や現実にも逆らって、あらぬ妄想を続けるのか? >>358
>そして根拠は示した
根拠として成り立っているとは認め難いね。 テンノウ(天王、後に天皇?)というのも、
仏教が入ってきてからの話でしょ、取り入れたでも良いんだけど >>666
>>その証拠に大和説は「南≠東」などに反論もなくて荒らしてばかりだろ <
>ここは畿内説のスレで大和説の人はいないからね。 反論しませんよね、いない人は。
でも、荒らしませんよ、いない人は。<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言だから、反論になっていないの。
>もちろん畿内説の人は反論してます。 会稽東冶之東だから南水行は間違いだと。<
陳寿の説明は、「会稽東治之東」であり、
「会稽東冶之東」ではないから、×であり、
反論にもなっていないの。 >>668
>箸墓古墳の抱える問題
炭素14年代測定法により280〜300年(±10〜20年)と推定している
しかし土器は古墳自体から発見されたものではなく、
陵墓指定範囲外の周濠の底から発見された土器に付着していた炭化物が
3世紀後半のものだとしても、この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの
遺跡が存在しているのでそれが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えない
なお炭素年代法に誤差が生ずることも頭に入れておくべきであろう <
ふーん。 >>672
>日本書紀では神功皇后を卑弥呼になぞらえている。
神功皇后は九州に宮を持つ人物であり、
日本書紀の編纂時にも卑弥呼は九州に人物であると考えられたのだろう。<
成程。 >>673
>万世一系とは、天皇家は大和の初代神武に発し、
卑弥呼たるモモソヒメも其の系内にあって中華とかかわりを持った
という皇国は万世常に一系という史観だ。
三世紀九州に倭国王家等を認める九州説は、万世多系史観である。<
人間は全て、万世一系の存在だ。 >>377
>人間は全て、万世一系の存在だ。
正解、マケマケ様を崇拝していた人々も一系でしょ 100国が倭国大乱で分裂し、北部九州30国は女王国となり中国との関係を続けた。
残りの70国は半島との関係を重視した。
それだけの事。
しかし纒向は半島とすら交流がなかったという謎。 そんなことよりも
『中国 皇后』悪?
なぜかエヴァンゲリオン、
ガンダムのキャラの話に繋がっていたりしない?
姥清水とか、満月になり〜という話 『泥舟』
かちかち山?
ウサギが出てきて〜というのも同じ 朝貢国への方角はあっていても距離はいい加減なのは魏志倭人伝に限った話ではなく他の中国の正史でも見られる話
なのになぜか方角は間違っていて距離は正しいと言い張る畿内説 家に伝わる薬の副作用かしら?
それもあるかもしれないw
ホントは頭の病気なんだとか。。。 なぜか、王母〜寒いな〜・・・の話みたいなんだけど、
むかーしの中国人? 歌舞伎、芝居が好きで〜という話も同じだしな、
山の上のほうに住んでいて、馬に乗り・・・? >>379
大陸半島と交流できたのは、日本海側の国なんだよ。
筑紫、出雲、越など。 >>379
纒向は古墳造営基地局だという阿波説が濃厚だということだね。 以前から書いている事なんだけど
龍宮〜は古墳なんて造っていないし、
勝手に妄想しているだけ 『伊達の桃太郎』
確実、同じ話でしょ?
蚕を飼い、機織りをしていたり・・・芝居が〜という話 >>358
>間違いだと言ってるだけ
>そして根拠は示した
根拠は何にも示していない
自分が纏向に邪馬台国の都があったと思っているから、間違いだと考えないと合わないだけやろ?
何度も出てきている話だが、朝貢国への距離はいい加減でも方角は合っているのが普通
魏だけでなく他の王朝でもそう
自説に都合よく解釈しすぎ
狗奴韓国でてからずっと盛りまくりの距離ばっかり書かれているのに、
九州に入ったとたんに正確な距離になると考えるのがそもそもの間違い
一定の係数かけてクシャーナ朝と同じような距離に設定したことは明らか
距離も周旋も戸数も墓の大きさも全て盛られているとみなすべき 仏教、寺院?そういう話をしていたり、
・・・・・山の上のほうに住んでいた 私(不明)のほうが上の人間で、
・・・・・・・・・・・・・、
造らせた〜みたいな話にしたいのかもしれないけど
実際に違うし 纏向が古墳造営基地局という考え方は、別に、悪い考え方ではないのだが、
古墳時代は魏志倭人伝時代には、重ならないのではないのかな。。。 東鯷人とは、何者なのだろうか、、、
366日本@名無史さん2019/06/25(火) 11:47:47.71
会稽の先に漕ぎ出すと東鯷人の国が20余国あるんだからまあ九州よな
この頃は琉球経由で朝貢してたのかねえ? 僕達は、邪馬台国の会という優れた会の会員だと認定されていたと思っていたが、疑いが晴れて、新しく、頭の悪い在日韓国人のプロ固定から、パヨク系という謎の活動家に誤認定されたのではないのかな。。。
337日本@名無史さん2019/06/25(火) 10:03:15.32
>>296
ザラゴキは邪馬台国の会じゃなくて、古田史学の会の信者だから、そこは分けてあげて
あと、連続句読点は韓国大好きパヨク系活動家だから、それも邪馬台国の会ではないな >>395
自作自演好きの奥山氏とは、一体、何者なのだろうか、、、 >>399
日本人を憎み、真実の邪馬台国九州論を貶め、共産主義者の好む唯物論を信奉し、外国勢力の利益の為に、日本の真実の歴史を歪曲し、天皇家や大国主神の墓を暴くことに賛成し、邪馬台国畿内説という邪悪な仮説を宣伝している、頭の良くない係員ではないのかな。。。 『チョン州 長州』の話?
なぜ、そんな話ばかりしているんだろう 卑弥呼は恐山のイタコのような事をしていたのだろうか、、、 >>402
この部分だね。。。
29日本@名無史さん2017/05/03(水) 21:49:27.85
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛 倭国というのは、男が王になると、乱れてしまいやすい可能性があるな。。。 当時、家にあった本や書なども、
誰かにあげたのかな〜、売っちゃったのかな?と言っていたし、
本当の話みたいになってきたでしょ、実際に本当の話なんだけど 女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
これはいったいどこですか? >>398
畿内説批判=九州説=邪馬台国の会と短絡的に考えているアホな畿内説の人が結構いるけど、
批判者の大半は畿内説の連中の客観性を欠いた恣意的史料解釈を非難しているだけであって、
邪馬台国の会とは関係ない人ばっかりだろう
そもそもこのスレでは神武東征の話はそんなに出てこないしな 倭国というのは、母系民族だった可能性があるな。。。 >>408
>386
>別に交流しなきゃならん理由はない
勿論だ。
だが実際に個別に交渉していたことが記録されている。
(漢からしたら面倒であったのだろう)
倭奴国を倭の唯一の代表に指名して解決した。
これが金印を用いた冊封体制だよ。
それ以降、倭の王都は博多湾沿岸となったのだろう。 魏志倭人伝の一夫多妻とは、真実の記録だったのだろうか、、、 >>409
>批判者の大半は畿内説の連中の客観性を欠いた恣意的史料解釈を非難しているだけであって、
客観性を欠いた恣意的史料解釈?
そんな存在しないものを、どうして非難できるの?
だって、誰もその実在を具体的に指摘しないでしょ >>410
国津神は女系、天津神は男系だね。
だからこそ、同じ博多湾沿岸でうまくやっていけたのかもしれない。
筑紫王家である日向三代と、豊国王家である海人族の姫達の姻戚関係が、博多湾沿岸にしばしの安定をもたらしたのだろう。
それがどのようにして崩れて倭国大乱となったのか、国内外にいずれも有力な資料はない。 >>414
倭国を訪問した中国人は、倭国の家制を見誤って、一夫多妻だと勘違いをしてしまったのでは、ないのかな。。。 >>413
戦いが多かったから、未亡人を養うためだと言われている。
中央アジアの遊牧民は、兄が死ぬと弟が妻を含めて相続するという。
倭国も古代は兄弟相続が見られていた。 謎の刀(凄い刀)も飾ってあったんだけど・・・、w
泥棒のようなものに入られたと言っていたり、
畳、床下の土まで掘り起こされていて >>417
倭人というのは、モソ族のような家族形態の母系民族だった可能性があるな。。。 >>409
>邪馬台国の会とは関係ない人ばっかりだろう
>そもそもこのスレでは神武東征の話はそんなに出てこないしな
神武の前振りとして、卑弥呼は天照大神であったと大見えを切った人のことがあるのさ。
今、自分の都合に合わせて神武だけ切り離しても、世間はそうは受け取らないからね >>421
>卑弥呼は天照大神であったと大見えを切った人のことがあるのさ
その話もこのスレではほとんど出てこないけど 畿内説は話をでっち上げて批判するのが得意だからな。 >>423
家は、いまの福島県のほうに住んでいたと言っているし、
会津、長州関係の話なんじゃないの? 客観性を欠いた恣意的史料解釈が得意な奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ないな、、、 こういう話と同じ、本当の話みたいになってきたでしょ?
>家名の売買とか自称(今で言ったら”なんちゃって華族”)が
>横行したようですので
爵位が何やら〜とか >>424
でっち上げもいいところだよな
九州に邪馬台国があったと思っている人で、神武東征を史実と思っている人、天照=卑弥呼だと思っている人はいるんだろうけど、そんなのごく一部
もちろん邪馬台国の会の人は別だろうね。安本さんの説を信じる人たちの集まりなんだから >>412
>それ以降、倭の王都は博多湾沿岸となったのだろう。
「丹」の採れない博多湾沿岸に、倭の王都が在るわけがない。 以上。 @阿波 >>428
>九州に邪馬台国があったと思っている人で、神武東征を史実と思っている人、天照=卑弥呼だと思っている人はいるんだろうけど、そんなのごく一部
九州から来た俺に対して、奈良の人が一生懸命にそう教えてくれて、とても大切にされた。
これ本当に体験した話。 実際には九州の王族の分家が天皇家とかその程度の話やろ
東征なんか普通に考えたらありえないよ 驚いたな。。。
謎の人物が出現し、僕達と全く同じ体験をしたことを発表してしまった。。。
430日本@名無史さん2019/06/25(火) 15:11:08.46
>>428
>九州に邪馬台国があったと思っている人で、神武東征を史実と思っている人、天照=卑弥呼だと思っている人はいるんだろうけど、そんなのごく一部
九州から来た俺に対して、奈良の人が一生懸命にそう教えてくれて、とても大切にされた。
これ本当に体験した話。 家の子供の頃の写真
軍人、警官などの制服でもないし?
長州というところの出身でもない
むかーしの中国の何かなのかな? 神武東征は、魏志倭人伝時代の前の物事なのだろうか、、、
それとも、後の物事なのだろう。。。 謎の写真の話
王母〜と同じ名前の家で、
何かの制服のようなものを着ている子供がいるでしょ、白い制服?
あと葱の華、キュウリのような葉など
『ボーボボ』? あの写真を貼り付けた後の書き込み
あまり見たことがないな、着ている服(制服、帽子?)も違う、
みたいな事を言っている人がいたり グーグルでも何でも良いんだけど、
画像などを調べてみてわかったでしょ
(日本の?)軍人、警察の制服でもない? 帽子なんてのがあるニカ?(°▽°)
聞いたことないニダ(°▽°) 天照=卑弥呼が正しいとして、神武天皇が天照の子孫が正しいとして、神武東征を史実だとするのであれば、
神武東征は、魏志倭人伝時代の後の物事になるのだが、
その後の崇神天皇の誕生や、4世紀後半の箸墓古墳の出現まで、少し時間が足りなくなるな。。。 烏帽子とかは京都に行ったら被るニダ(°▽°)
室町あたりまではあったらしいニダ〜
変なんもあったな、ちょんまげみたいな形したやつ 蚕を飼い、機織りをしている家の人と結婚をしたと言っているから、
自分の家で作った制服なのかな?何なんだろう
『伊達の桃太郎』
ほとんど同じような話 436
ブタ飼いみたいな帽子?
あれ昔のシナのブタ飼いが被っていた帽子
帽子んとこに星マークみたいなんな つまり養豚業の連中
日本でも真似してブタ飼い帽子流行っただ
つまり野球帽 シナっちゃ〜家路の裏にはブタの死骸が転がってるよ〜なとこやけ
つより中国、朝鮮はブタ飼いいっぱいいたろ
つまりブタ飼い帽 アメリカ人もシナのブタ飼い帽子をベースボールに取り入れただ 帽子の上のほうも、円形、皿のようになっている
河童ではないんだけど、キュウリのような葉も写っていて、
仏教〜・・・そういう話をしていたり だから・・・、
おかしな話ばかりだと言っているんだよ どこが?
仏教の最盛期にはイランあたりを境に東側、カスピ海東岸から全部、仏教圏だぜ
いろんな国あったがみな仏教国
中国のは中国仏教(大乗仏教) >>198
女王國(九州)東渡海千餘里、復有 國(本州)皆倭種。 又有侏儒國(四国)在其南 人長三四尺 去女王四千餘里。
又有 裸國(フィリピン)黒齒國(インドネシア)復在 其東南 船行一年可至
(訳)
女王国の東に渡海千里にまた国(島)がある。住人はみんな倭人。その南に侏儒国(島)があり住民の身長は3〜4尺で、女王国(九州)から4千里。
そしてその(侏儒国の)東南に裸国と黒歯国があり、船で1年で行ける
裸国はフィリピン、黒歯国はインドネシア で完全に合うyo!
魏志倭人伝は >>449の続き
>>185
魏志倭人伝は、女王国(九州)東渡海千里の皆倭種国(本州)在其南の侏儒国(四国)在其東南の船行一年の裸国(フィリピン)と黒歯国(インドネシア)
という地理情報さえ解読できれば桶!
裸国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B8%E6%B0%91
黒歯国(食べて直ぐは真っ赤だけど、長年噛んでると色素沈着で歯が黒くなるよ!)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%AD%AF%E5%9B%BD
あとは狗奴国と卑弥呼の冢>>236を探せば解決だyo! >>679
Q 大和説者はどうして、「南→東」などのウソをつくの?
A 大和説がウソだから >>343
>この地図に東南500里を書き込んでみろ。その行く先は、さてどこになるか・・。
遺跡も国らしきものもないところに行くねww >>683
>>「南→東」などのウソ付き騙しのように、<
>だから、それがウソだという証拠を出せと何度も言われているのに頑として証拠を出さないのだから<
大和説者が「何度も言った」なんて記憶がないなあ。
大和説者は、私が百回位言った内の一回位、何か抗弁していた、という記憶しかない。
そして、「南=東」の証明も聞いた事がない。
>九州説がウソをついていると断定されても仕方ないてますよね?
わかりますか? 道理とか常識とか、わかりますか、<
「南≠東」は、
普通の成人や人類にとってはほぼ100%否定しようがない道理であり、
人類の常識です。 >>345
>対馬と壱岐の間の里数からして盛りまくりの距離になっているのに、
>五百里の数字が正しい数字だとどうして思えるの?
いつ、誰が、「五百里が正しい数字だ」と主張した?
捏造はやめましょうww
>自分に都合のいいところだけ正しくて、都合の悪いところは間違いって考えかよw
都合が言いも悪いも、全部いい加減であてにならないって行ってるんだがね?
自分に都合の悪い主張は、聞こえない読み取れない、なのかい?
>ご都合主義にも限度があるやろ
ご都合主義は九州説ww
短里があるにだーとかその極致w >>356
いやいや、
・短里はあるにだー
・対馬と壱岐では島廻りするにだー
・遺跡もないけれど呼子に上陸したことにすれば末盧国から伊都国は東南になるにだー
(でも東で東南じゃない)
・邪馬台国は伊都国と奴国と含む領域で伊都国が女王の都にだー
・陸行一月は一日の間違いにだー or 陸行は韓地陸行で一月使うにだー
っていう九州説の方が、よっぽど独創的だしいろんな「発明」してるよなww
想像というより創造してるww >>359
>これは違うな。
違わないよw
>邪馬台国の領域の外にまだ投馬国とかがあるからね。
九州の外に、投馬国や邪馬台国があるんだよ
>あと、奴国と伊都国は横並びだが、邪馬台国は違うよ。
むしろ、奴国は奴国、投馬国、邪馬台国で横並び
伊都国と奴国はやや格が違う >>360
>それはあなたの末盧国の比定が間違えているのですよ。
残念ながら、これが現状での定説であり、
九州説の大部分も含めたコンセンサスができている
これを否定したかった、定説が定説たる根拠すべてをひっくり返せるだけの論証が必要
否定したいならそれは構わないが、具体的な論証抜きではハマグリの欠伸以下だww >>372
>根拠として成り立っているとは認め難いね。
出ました! 九州説の得意技炸裂!
「ボクちんは認めないにだー」ww
どうして認めがたいのかの具体的な論証抜きでは無意味だっての
どうして九州説は具体的な根拠を書かないのかね?ww >>379
>100国が倭国大乱で分裂し、北部九州30国は女王国となり中国との関係を続けた。
>残りの70国は半島との関係を重視した。
>それだけの事。
読み方がおかしい
舊百餘國、漢時有朝見者
漢の時代には朝見に来る国が百余国あった
倭国大乱で分裂したのではなく、「中心集落とその周辺くらいでひとつの国」と
いう数え方で百余国(まあ多いという程度の意味だろうけど)あったってこと
今使譯所通三十國
それが、次第にまとまって、現状では大陸との関係を意識している国が
30国くらいになっている
半島との関係なんて、どこにも書いてないww
九州説は半島が大好き
投馬国まで半島にしたがるww >>382
>方角は間違っていて距離は正しいと言い張る畿内説
繰り返すが捏造はやめなさい
畿内説は、方角も距離もあてにならない、という主張だ 以前、書いたはず
『爵位 返上』
ガンダムとかと同じような話をしている人がいたり、
誰々という人物の下に就いているんだけど、実際は上の人間だとか
中華の人のほうが上だからなんだよ >今使譯所通三十國
それが、次第にまとまって、現状では大陸との関係を意識している国が
30国くらいになっている
出たーーーー畿内説の根拠無き曲解www
どこにも30国に纏まったなどとは書いてないしwww
文盲すぎるwww >>392
>朝貢国への距離はいい加減でも方角は合っているのが普通
朝貢国への方角は、帯方郡から「東南」で大体合ってるよ
朝貢国の国内地理は特に興味もなくいい加減だってこと
現実に末盧国から伊都国の方角も、伊都国から奴国の方角も間違っているのに
正しいと言い続けても何の理もないだろ?
狗奴国の方角も三国志と後漢書で、南から東に変わっているし、いい加減なんだよ
ザラゴキみたいに、後漢書では拘奴国だから別の国とか言うなよww >>456
>短里があるにだーとかその極致
短里があるかどうかは知らん
個人的には里の長さは一つに決めて統一しているとは思うが、
魏志倭人伝では実際の距離よりもかなり長く書かれているのは事実なんだからそういう主張をする人が出てくるのはしょうがないのでは?
遠くから来たように見せるためにわざと長い距離にしたとしか思えないわけで、それなら当然九州に入ってから後もわざと実際より長い距離にしているはずやろ?
半島から九州北部に入るまでのところは長めに記載しているけど、その後は正しく記載していることを前提にしている畿内説はおかしい >>688
大和説がウソ付き騙しをしている証拠
「南→東」とした、
「畿内」とか「邪馬台国」とか「大和朝廷」とかの存在もしなかった文言を使った、
陳寿の女王國の位置推定文の「東治」を「東冶」とウソを付いた、
「冢=前方後円墳」というようなウソを付いた、
ホケノが「有棺有槨ではない」、というようなウソを付い」、
庄内1の石塚が3世紀前半である、というウソを付いた、
纏向の掘立建築の周りに竪穴式住居が一杯あるかのようなウソを付いた、
大和の△が3世紀にあった、というウソを付いた、
東南陸行五百里到伊都國の東南が、末盧國から伊都国の方向だ、というウソを付いた、
・・・
こりゃ、全部書き切れんわ。 >>463
相手が躁とか鬱とかじゃなくて
あんたの方が人物の識別ができないって失調症だよ 倭奴国時代は100か国だから畿内あたりも含んでるかもなw
しかし分裂したんだよ。
中国は朝貢国が減ったという事を記録してるんだよ。
重要事項だから。
結局は一番身近な北部九州だけが女王国として残ったという話だ。 >>467
いや、一般的な理解だろ
「百と数十年で約七十国ほど音信不通になりましたが存続してます」
とか解釈する人は、おかしい人と考えられるよ 漫画、アニメ、不明など、
なぜ家の写真と同じなんだと思う?
寒いな〜・・・、このような名前の家、
でも家は戦争などには行っていないと言っていたり、
長州とか、そういうところの出身でもない >>470
あんた、それ・・・
自分の考えと違うことを言う人を
理由もなくウソツキよばわりしてるだけやん >>407
>女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
>これはいったいどこですか?
魏略と三国志ではどちらが古いということではないのだけれど、
この部分の記事では、魏略の方がシンプルだし原型(二書の共通の典拠文書)に近いだろう
魏略では
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
東などは付いていないし、冒頭に置かれている
依山島爲國の説明としての位置の記述だし、山島の間の千里の海峡を渡っても
その前後変わらずに全部みんな倭種の国ってだけ
対馬も壱岐も、本州も隠岐の島も佐渡も伊豆諸島も倭種ってことだよ >>461日本@名無史さん2019/06/25(火) 17:31:38.10
>>360
>>それはあなたの末盧国の比定が間違えているのですよ。
>残念ながら、これが現状での定説であり、
>九州説の大部分も含めたコンセンサスができている
定説、コンセンサスというより、学閥の組織票だろう
倭人伝の記述を改ざんした上での作文は、作文した方に相応の根拠説明が求められる >>409
>邪馬台国の会とは関係ない人ばっかりだろう
それがな、たま〜に九州説が出してくる「根拠」なるものが、
ほとんど「邪馬台国の会」のウェブサイトの情報なんだよww
お里が知れるってのはこのことだww >>475
>東などは付いていないし、
曲解の嵐ーーーwww
だいたいの場所については女王国を離れ○○里と記述されてるんだよw
方角が入っているのはちゃんと意味がある。
九州から見て倭種の国は四国および本州だwww >>472
そういうお話を作ったところで、なにも裏付けるものを持ってないでしょ?
他人を文盲よばわりする根拠になりますか?
ならないよね
わけもなく俺様正しいっっって威張っているだけ
そういうの、世間じゃ馬鹿と呼ぶよ >>699
>ニュー速+で収集した九州説の主張↓
・・・
無理過ぎて笑い死ぬわ<
このトピで否定した事ばかりで、笑い死ぬわ。 >>477
>定説、コンセンサスというより、学閥の組織票だろう
そうやって、論で対抗せずに陰謀説に走るのは
確実に負け組ね
だって証拠出せないんだもん >>416
>国津神は女系、天津神は男系だね。
とは限らない
地祇(国津神) 天神(天津神)
出雲 大和
神皇産霊尊 女 高皇産霊尊 男
伊耶那美 女 伊耶那岐 男
スサノオ 男 アマテラス 女
大国主 男 ニニギ 男
ヒメタタラ 女 神武 男
こんな感じ
天神(天孫系)が皇統の男系の祖
地祇(出雲系)が皇統の女系の祖
という書き方がされているんだよ >>482
このスレで、まだプチッと潰されてない九州説って
なんかあった? >>409
書き込んでる複数の九州説が
邪馬台国の会とは関係ない人ばかりだろときっぱり断言するのは
逆に怪しいな
そして頼んでもないのに魏志倭人伝の恣意的解釈と明らかなウソを
わざわざ書き込みに来る九州説 >>424
>畿内説は話をでっち上げて批判するのが得意だからな。
それ、九州説のミラーリング(自分への批判をそのまま相手に返す詭弁の一手法)だよ
例えば>>345とかがその証拠
捏造、でっち上げは、九州説の得意技だよ >>483
言ってるだろう
倭人伝を改ざんして説を建てたのだから、改ざんした経緯理由等そっちが相応の証拠を出せ >>431
>東征なんか普通に考えたらありえないよ
というより、考古学的には3世紀の東征・東遷は否定されている
文物の移動は、東(畿内)から西(九州)の方向だ 自ら泥沼にハマりゆく奥山説w
池沼確定やなw
畿内説の学者も東の倭種の国がどうたらと言ってたはずだ。
急に方角は関係無いだとか言い出す奥山説w >>486
一目見て素人のトンデモとバレバレでないのが安本のサイト(じっくり見られれば当然バレる)くらい
↓
だから本を読まないネット徘徊オンリーの九州説じいさんが安本パクリに走る
↓
安本ネタ多用で、邪馬台国の怪ぽい
そんなとこでしょ >>469
>個人的には里の長さは一つに決めて統一しているとは思うが、
一つに決めて統一するも何も、度量衡の統一・公定は、皇帝の専権事項なんだから
魏代には魏の皇帝による公定尺の度量衡しかないよ
そして、尺の長さにやや異同はあるが、1歩=6尺、300歩=1里(1里=1800尺)の関係は
秦の始皇帝の度量衡の統一から、漢代、魏晋代に到ってもずっと400年間維持されていて、
九州説の大好きな周髀算経でも、当然にその度量衡に従って書かれている
短里が使われる余地なんてどこにもないよ
>魏志倭人伝では実際の距離よりもかなり長く書かれているのは事実なんだから
>そういう主張をする人が出てくるのはしょうがないのでは?
それは、晋の高祖に対する忖度で倭国を遠く地の果てに「設定」して、つじつまあわせを
しているだけだから、具体的な距離情報として意味のある部分は結局ないんだよ >>469
>その後は正しく記載していることを前提にしている畿内説はおかしい
正しいことを前提になんてしてないよ?
日数は、多少信用度が高いかも、くらいのことだ >>471
>その後は正しく記載していることを前提にしている畿内説はおかしい
前にも書いたけれど、全1病は追跡妄想の亜型なんだよ
まあ事実上、知的能力に欠ける人のたわごとってことだ >>488
>言ってるだろう
>倭人伝を改ざんして説を建てたのだから
誰がそう断定したの?
こっちは情報に間違いがあるって事実を指摘した
情報に間違いが混入した原因は、まだ可能性の指摘どまり
改ざん説もその解のひとつだ
可能性の指摘とその根拠は示した
証明までする必要はない
間違いだという証明までは、出した >>490
苦し紛れに、また証拠なしの中傷に走る九州説
敗走そのものだな >>492
>具体的な距離情報として意味のある部分は結局ないんだよ
そうだよ。距離は全く当てにならないと書いているんだよ。わかっているじゃないか
そのわりには九州に入ってからの里数や日数を根拠に九州説はありえない、と書き込んでいる畿内説の人多いけどね
「水行十日陸行一月」「水行二十日」も戸数も周旋も墓の大きさも全て盛りまくった数字と考えるのが妥当 とりあえず皆さん、畿内説≠奥山説だという事をお忘れなく。 >>467
>どこにも30国に纏まったなどとは書いてないしwww
例えば、吉武高木遺跡のある室見川流域の早良平野は、古くは一つの国だったと見られる
しかし、魏志倭人伝では伊都国と奴国の間に「早良国(仮称)」の記載はない
こういうのが、百余国→三十国への統合の傍証なんだよ
あとは、投馬国五万余戸、邪馬台国七万余戸というのも、複数の国がこの二国に
統合されたことを想定しないと考えにくくなる
論理的思考を取れば、尤度の高い推論ができるんだが、いかんせん九州説には
論理的思考のできる人がいないからしょうがないな
まあ、論理的思考ができたら、畿内説にしかならないってことなんだがww 古代貴族・・・とか、
そういう話をしている人がいるでしょ?
とある説(老婆談と同じような意味)に
よると古代中華というのもいる >>472
>中国は朝貢国が減ったという事を記録してるんだよ。
朝貢国とはどこにも書いてないな
魏志倭人伝の記述では、使譯所通三十國、だ
「大陸に情報が届くところ」というのが、使譯の通じるところの意味だよ >>497
>そのわりには九州に入ってからの里数や日数を根拠に九州説はありえない、と書き込んでいる畿内説の人多いけどね
当然だろ
それら全部正しい、というのが九州説なんだから
九州説がありえない、という証拠になる
別に、畿内説がそれらを正しいと主張したり、畿内説の根拠に使ったりしては、勿論いない >>464
>>100国が倭国大乱で分裂し、北部九州30国は女王国となり中国との関係を続けた。
>>残りの70国は半島との関係を重視した。
>半島との関係なんて、どこにも書いてないww
>九州説は半島が大好き
はあ?
それは半島が気になってしょうがない畿内説のレスじゃないのか? >>502
>それら全部正しい、というのが九州説なんだから
九州説はその里数や日数がメチャクチャだと言っているわけだが >>491
否定の根拠に弱いぞ
邪馬台国の会が広告代理店か何か通じて荒らしバイト雇う
↓
議論でもう勝てないから何でも適当に連呼させる
↓
すぐボロが出る
かも知れないぞ
それに邪馬台国の会を知っていながら慌てて知らないフリしてたしなあ
疑惑は深まる >>478
>ほとんど「邪馬台国の会」のウェブサイトの情報なんだよww
あそのはちゃんとデータを示すから使いやすい。
正直、何を主張しているかは知らない。
ただ、畿内説は妄想ばかりで何も具体的な話もデータもないから、引用のしょうがない。 >>503
そう思ったら
口に出す前に
証拠だしてね >>477
>学閥の組織票だろう
研究者ってものが分かってないなw
それなりに「分のある異説」なら、
逆張りでそちらを研究する研究者が出てくるものなんだよ
でも、九州説に立って論文を発表する研究者は皆無だ
組織票とか、予算欲しさとかじゃなくて、まともな思考のできる人にとっては
疑いの余地がないところまで来ているから、定説になってるってのを理解できるといいね >>484
>>国津神は女系、天津神は男系だね。
>とは限らない
神代の筑紫倭国の中枢部での話だから気にしなくていいよ。 >>2 >>459の図解(模式図)だyo(スマホ&タブレットのみんな、ズレ杉スマソ!)
【魏志倭人伝の倭国観】
洛陽┏━┓帯方郡 ┏〜〜〜〜〜〜東→✖畿内説TITANIC沈没地点(†乗客乗員>>7)
┃〜〜〜↓※南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜〜▲対馬〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 §琵琶湖
┃〜〜〜↓〜〜〜〜+南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜〜〜▲壱岐〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
┃〜〜┃▲奴国【♀女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
┃〜〜┃▲狗奴国▲▲▲▲▲投馬国┛┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┃↓「陸行半月」(正)▲▲┛〜〜〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┗━━九州島(正)━━┛〜↑実際の九州島〜
東治┃〜〜│〜東シナ海(正)〜│〜〜↓幻の九州島南部(陳寿の創作)
┃〜〜│△△▲△△△△△│←奄美大島(正)
┃〜〜│↓「陸行半月」(幻)│〜〜〜〜〜〜〜
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←沖縄那覇(正)
東冶┃〜〜│♀女王之所都(幻)│〜「當在会稽東(冶)之東」(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←台湾(正)
香港┃〜〜│△△△△△△△△┘〜「自女王國以北其戸数道里可得略載
澳門┃〜〜└△△△△△△△┘〜〜【其余旁国遠絶 不可得詳】」
┏▲海南島〜└九州島(幻)┘〜〜〜
┃儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜▲黒歯国インドネシア「複在其東南 船行一年」 >>498
>とりあえず皆さん、畿内説≠奥山説だという事をお忘れなく。
ならばテンプレを修正するか、まともなスレを立てたら?
このままなら畿内説はトンデモ認定は間違いなし。 >>506
あれがインチキデータと気付かないのって
相当恥ずかしいから >>480
>方角が入っているのはちゃんと意味がある。
では、魏略に方角が入っていない理由をちゃんと説明してみてくれるかな?
この魏略逸文は、悪名高い翰苑所引の部分ではなく、漢書の所引だからテキストは信用できるぞ
さあ、がんばれ!ww それにしても何なんだろう、
老婆が結婚するときの話、正確には結婚する前
何かの家の人だと・・・言われたとか、家の事みたいなんだけど
本当の、寒いな〜の家? >>506
>ただ、畿内説は妄想ばかりで何も具体的な話もデータもないから、引用のしょうがない。
テンプレに具体的な話も学説も、いろんな学者の論文から引用されてますけど >>751
いかなる時も、なにがあろうと「南→東」などのウソ付き騙しの証拠は出さない
口が裂けても自説の大和説の根拠は言わないで、
九州説者には「証拠は?」と言い続ける。
それが大和説 >>511
その割にはテンプレに反論もしてないけど、どこかご不満? >>502
>それら全部正しい、というのが九州説なんだから
>九州説がありえない、という証拠になる
それは短絡的であり、畿内説が無理やりだという印象を与えるだけ。
結果的には畿内説が信頼を落としている。
自分たちに都合がいいように言い張っているだけだとね。 >>511
掲示板は非公式ですからいいんですよ。
畿内説というか近畿説は物証となるものがまだ見つかっていないのが実情ですし。 >>507
君らは何かというと半島を持ち出すじゃないかw
よほどコンプレックスがあるのかな? >>511
どこを修正してほしいか、具体的に言ってみてね >>512
ならばかわりに真実だと思うデータを出せばいいのに、出せないのでしょう? >>754
>纒向を都として作り始めた時期が、卑弥呼の共立時だよ<
「南≠東」などに拠って、×。 >>485
>プチッと潰されてない九州説
そんなのはないんだけれど、
潰されても気にしないザラゴキと
既に九州説の主張は一切せずにただ荒らす連続句読点と
何一つ対話せずにただコピペを貼るだけのやつ(>>2、>>5のやつ)と
もう邪馬台国関係なしのつぶやきとが残ってる
残りの、>>472みたいなのは邪馬台国の会の、勝手宣伝員だろう
まあ、飯の種がなくならないようにっていう活動だ
季刊邪馬台国も売り上げが落ちてるんだろうな >>519
>それは短絡的であり、畿内説が無理やりだという印象を与えるだけ。
どう短絡で、どこが無理だか
具体的に指摘してね >>314
ザラコクはまた最近それ言い出したのか
不彌国までで里数は合計1万700里
残り1300里を換算すると約500km
もちろん普通の里でな
魏が使ってたのは普通の里だから陳寿は短里なんて知らないし
不彌国から邪馬台国に向かうには500kmを南に水行陸行すると陳寿は書いているわけだ
そして途中に投馬国も出てくるし
邪馬台国は不彌国のすぐ近くというのは史料を
どう読んだらそういう解釈になるのか不思議なレベル
人に言うとたぶん正気を疑われる
そして畿内説は魏志倭人伝の距離方位は不正確と結論付けているので
そんなトンデモ解釈はしない >>520
どこが無様だか、具体的に指摘してね
できないと中傷だから >>521
それが実情だって証拠出してから言ってね
出せないとデマだから >>522
DNAでみると近畿地区は半島人と一緒なんだってよw
現代関西人の特性もモロにチョンだしなw >>503
>それは半島が気になってしょうがない畿内説のレスじゃないのか?
このスレで半島、韓国に一番多く言及しているのは連続句読点だよww
九州説は自説の信用をとことん毀損する連続句読点やザラゴキを絞めた方がいいと思うんだがw
九州説はそんなのですら身びいきで、擁護するんだよなww 終わってるw >>526
では、どこにその反論があるか
具体的に示してね
ちゃんと証拠だしてね >>505
>それに邪馬台国の会を知っていながら慌てて知らないフリしてたしなあ
それ、こいつ↓じゃんw 笑えるww
>>506
>あそのはちゃんとデータを示すから使いやすい。
>正直、何を主張しているかは知らない。
データが使いやすいと思うほどよく見ていて、
でも何を主張しているかは知らないと言いつつ、自分では邪馬台国の会と同様の主張をするw
ギャグですか?ww >>509
>神代の筑紫倭国の中枢部での話だから気にしなくていいよ
具体的にはどの神のこと?ww
九州説は常に具体論から逃げ続けるw >>522
見てごらん、こういうのが九州説に多いんだよww
つ>>532 466
中華妄想か。
付き合っちゃいらんねえよ(´Д` )
誰が唱えだした? 九州説は政治思想で精神論だから
具体的な話をしないのは当然だ
話題を無用に政治思想や
民族問題に持っていきたがるし >>759
>7万戸に関しては奴国・福岡平野2万戸という基準があるから<
奴國は、福岡平野全域ではなく、
日向峠西麓〜早良平野部だから、×。 んなん言ってるなら代表みたいなん炙り出して火でもつけて燃やすべえ(´∀`)
分かるまでなやつらが 人間なかなか理解は難しいみたいだし言っても分からんやつらは多い
実際に見せてやる、これが一番👍っ取り早い
分かるまで火だるまニダ(°▽°) >>521
けっきょく、畿内説は妄想以外のなにも提示できていないのがわからない? >>528
ほらほら、畿内説のそういうところだよw >>520
明らかな九州説による荒らし書き込みは
もしかしたら邪馬台国の会による組織的なものかも知れないという推論が無様ねえ
もう答え合わせしてるようなものだけど 矢倉組むべ〜
矢倉は材木の角材を組んで高く積み上げるニダ
遠くからも見えるよ〜にな(°▽°)
そこに偉人を一人代表で上がってもらうニダ
そんで火を付けるニダ(°▽°)
燃え上がる様がよく見えるニダ(°▽°) 九州説って嘘つくのまでも下手だな
嘘の塊りで出来ているのにね そかそか
無様に喚いてるやつらさに無様にしたろ〜や(°▽°)
自業自得って言葉を胸に刻み涅槃に行け(´∀`)
栄誉ある死に様やな(°▽°)
感謝しろ >>551
みんなが思うので、笑ってる場合じゃない >>545
それ、証拠だせる?
また九州が自滅した >>547
>日向三代
だけ?ww
本当に、チェリーピッキング、つまみ食い専門の九州説の論そのものだなww 言った時点で異常者確定!おめでとうニダ(°▽°)
どんな死に方がよい?ニダ(°▽°) 556
無駄〜!脅迫にあたると思うなら試してみな(°▽°) ブザマな荒らしをやってる九州説がどんだけ悲惨か
わからん人もおるまい むしろこれは立法による裁きと同じだ(°▽°)
しっかり刑を受けるニダな(°▽°) >>563
まぁ議論に勝てないからテンプレ妨害してる時点でなぁ
アレだけど >>568
別にいいけど
おまわりさんが行くのは結局>>553のとこだからな 客観性を欠いた恣意的史料解釈が得意な奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ないな、、、 おまわりさんについての討論を、していたのだろうか、、、 ネットでザラコクとか連句点とかが暴言吐いてるうちはいいのよ
リアルで性犯罪とか殺人とかやらかして
「ネットで畿内説に論破され、ムシャクシャして犯行に及んだ」
とか言わなきゃ、、いいのよ >>573
「客観性を欠いた恣意的史料解釈」
って、具体的に何のこと?
具体的におながいしまつ 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、論破された、頭の悪いプロ固定の奥山氏が、討論会では、敗北宣言にしかならない、意味の無い噓や悪口を繰り返すしかなくなっているな、、、 >>572
読めば、また、論破できり意見を発見できるのではないのかな、、、 1の正体を晒してはみたものの1は何も変わらず返って殻に閉じこもってしまった この意見は、頭が悪すぎる者の意見だな、、
468日本@名無史さん2019/06/25(火) 17:44:23.24
>>392
>朝貢国への距離はいい加減でも方角は合っているのが普通
朝貢国への方角は、帯方郡から「東南」で大体合ってるよ
朝貢国の国内地理は特に興味もなくいい加減だってこと
現実に末盧国から伊都国の方角も、伊都国から奴国の方角も間違っているのに
正しいと言い続けても何の理もないだろ?
狗奴国の方角も三国志と後漢書で、南から東に変わっているし、いい加減なんだよ
ザラゴキみたいに、後漢書では拘奴国だから別の国とか言うなよww 無意味な書き込みすればするほど
九州説の立場が危うくなるというのに >>586
そうだね、、、
魏志倭人伝に対して、客観性を欠いた恣意的史料解釈を、してしまっているな、、、
468日本@名無史さん2019/06/25(火) 17:44:23.24
>>392
>朝貢国への距離はいい加減でも方角は合っているのが普通
朝貢国への方角は、帯方郡から「東南」で大体合ってるよ
朝貢国の国内地理は特に興味もなくいい加減だってこと
現実に末盧国から伊都国の方角も、伊都国から奴国の方角も間違っているのに
正しいと言い続けても何の理もないだろ?
狗奴国の方角も三国志と後漢書で、南から東に変わっているし、いい加減なんだよ
ザラゴキみたいに、後漢書では拘奴国だから別の国とか言うなよww >>1=キナイコシさんよ
頭の毛は生えて来ないが何故、口周りの髭が生えるか知ってるか?
自然の節理なのだよ
根拠が不自然な畿内説は✖
嘘は百篇唱えても嘘なんだよね 邪馬台国畿内説を宣伝する、頭の良くない奥山氏が、また、敗北宣言にしかならない、無意味な書き込みをしてしまっているな、、
587日本@名無史さん2019/06/25(火) 19:38:00.78
無意味な書き込みすればするほど
九州説の立場が危うくなるというのに >>589
>根拠が不自然な畿内説は✖
根拠が不自然な九州説も、✖だよ。 @阿波 >>588
帯方の東南の大海に在るのは、倭国ではなく、倭人だったね、、、
468日本@名無史さん2019/06/25(火) 17:44:23.24
>>392
>朝貢国への距離はいい加減でも方角は合っているのが普通
朝貢国への方角は、帯方郡から「東南」で大体合ってるよ
朝貢国の国内地理は特に興味もなくいい加減だってこと
現実に末盧国から伊都国の方角も、伊都国から奴国の方角も間違っているのに
正しいと言い続けても何の理もないだろ?
狗奴国の方角も三国志と後漢書で、南から東に変わっているし、いい加減なんだよ
ザラゴキみたいに、後漢書では拘奴国だから別の国とか言うなよww 中國の学者(BSだったかな?)
中國の史書で他国を行程で表すとき 方位は間違い無いが、距離はいい加減だと言っていた
水行20日も距離換算では無いし
伊都国までは九州にあったのは皆賛成でしょう・・・
其の後が良くわからない
邪馬台国論叢において
「各説 伊都国までは九州にあったのは皆賛成でしょう」
>>589
>根拠が不自然な畿内説は✖
根拠が不自然な九州説も、✖だよ。 @阿波 >>592
倭国とは、倭地の中の、魏が女王と認めた卑弥呼の、女王国のことだったね、、、
そして、女王国の東にも、倭人がいるのだったな、、
468日本@名無史さん2019/06/25(火) 17:44:23.24
>>392
>朝貢国への距離はいい加減でも方角は合っているのが普通
朝貢国への方角は、帯方郡から「東南」で大体合ってるよ
朝貢国の国内地理は特に興味もなくいい加減だってこと
現実に末盧国から伊都国の方角も、伊都国から奴国の方角も間違っているのに
正しいと言い続けても何の理もないだろ?
狗奴国の方角も三国志と後漢書で、南から東に変わっているし、いい加減なんだよ
ザラゴキみたいに、後漢書では拘奴国だから別の国とか言うなよww 客観性を欠いた恣意的史料解釈が得意な奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ないな、、、 >>596
つまり、朝貢国への方角は、帯方郡から「東南」で大体合ってるよ、という、頭の良くない奥山氏の意見は嘘なのだね、、、
468日本@名無史さん2019/06/25(火) 17:44:23.24
>>392
>朝貢国への距離はいい加減でも方角は合っているのが普通
朝貢国への方角は、帯方郡から「東南」で大体合ってるよ
朝貢国の国内地理は特に興味もなくいい加減だってこと
現実に末盧国から伊都国の方角も、伊都国から奴国の方角も間違っているのに
正しいと言い続けても何の理もないだろ?
狗奴国の方角も三国志と後漢書で、南から東に変わっているし、いい加減なんだよ
ザラゴキみたいに、後漢書では拘奴国だから別の国とか言うなよww 邪馬台国畿内説を宣伝する在日韓国人の奥山氏は、なぜ、頭が悪すぎるのだろうか、、、 九州説が何書いても邪馬台国の会が荒らしてるなとしか思われないぞ >>576
連続句読点に訊いても無意味だよ
意味のあることを書き込んだためしがないものw >>599
反論もしないで
そんな中傷ばっかりしてるから
九州説が滅んだんだよ そんなにその会が怖いのかね?
よくわからん。
ただ、関係ないことにこだわってばかりで議論にならないからつまらない。
畿内説が被害妄想に逃避しているようにしか見えない。 最近の連続句読点は>>586みたいな全コピペをよく貼ってるけれど、
九州説の間違いをきっちり指摘されたのを何度も貼って、
九州説が惨めにならないのかねぇ
まあ、連続句読点は九州説でもなく、日本sage、畿内説sageがしたいだけの
異常者だから、健常人ではやつの考えは理解できないのが当然だけれどw 伝統の畿内スレが、このところすっかりヨレユレになって来てるな 頭が悪すぎる奥山氏が宣伝しても、しなくても、邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、ブチッと音を立て、完全に、叩き潰されてしまったな、、、 >>603
怖いんじゃなくて、商売でやってるから始末に負えないってこと
学問じゃなくて商売だから、いくら理詰めで説明してもカエルの面に何とかってやつだってこと
まあ、動機がはっきりしたところで、ますますしょうもなさが際立つって部分もあるんだけどさ >>609
鉄の武器の発見量や、南という漢字の意味や、畿内馬具の存在や、可住面積や、空気シャワーの効果や、架空のロシアのルーレットの思考実験や、マッチョな化石の発見という真実の前では、邪馬台国畿内説を宣伝する異常者の嘘や悪口は、負け犬の遠吠えよりも迫力が無いな。。。 客観性を欠いた恣意的史料解釈が得意な奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ないな、、、 ヤミ鍋にも、最低限のルールが、必要なのではないのかな、、、 奥山氏は、討論を避けるために、噓や悪口しか言い返さなくなってきたな、、、 >>615
日本人を憎み、真実の邪馬台国九州論を貶め、共産主義者の好む唯物論を信奉し、外国勢力の利益の為に、日本の真実の歴史を歪曲し、天皇家や大国主神の墓を暴くことに賛成し、邪馬台国畿内説という邪悪な仮説を宣伝している、頭の良くない係員ではないのかな。。。 奥山氏は、頭が悪すぎるので、邪馬台国畿内説を信じてしまった病人ではなく、5ちゃんねるのサクラの可能性もあるのではないのかな、、、 連続句読点は呟きだろ。
畿内説じゃん。
九州説スレも平行して荒らしているよ。
ちゃんと畿内説で引き取ってくれ。 しかし九州説=邪馬台国の会もほぼネタが上がってるようなもんなのに
よくいけしゃあしゃあと >>621
九州説らしい、認識の甘さだなw
その九州説スレを立ててるバカが連続句読点だよw
つぶやきと連続句読点はとりあえずは別人格のようだ
そして、つぶやきは畿内説では談じてない
まあ、畿内説の人でつぶやきを擁護する奴は皆無なのを見れば分かるだろw >>620
魏志倭人伝時代のことに興味があり、趣味で古代を研究している日本人の殆どは、邪馬台国畿内説を信じないので、
5ちゃんねるの商業のためには、邪馬台国畿内説の立場のサクラが必要なのだね、、、 やはり、呟き荒らしについて、断言できるのは、本人だからなのだな、、、
623日本@名無史さん2019/06/25(火) 20:58:08.68
>>621
九州説らしい、認識の甘さだなw
その九州説スレを立ててるバカが連続句読点だよw
つぶやきと連続句読点はとりあえずは別人格のようだ
そして、つぶやきは畿内説では談じてない
まあ、畿内説の人でつぶやきを擁護する奴は皆無なのを見れば分かるだろw 九州説で、日本語で対話しようとするのは、邪馬台国の会の関係者だろうなw
>>537のあと、消えたしww >>622
古田史学の会の方は、タコツボ化して表にはあまり出てこないようだね
ザラゴキが一人で悪評を高めているけれどww >>625
5ちゃんねるのサクラは、嘘や悪口や頭の悪い者達しか思いつかないテンプレートや意見を発表し、スレッドを盛り上げるだけではなく、
呟き荒らしの狂気で、スレッドが活発化しているのだという演出をしているのだな、、、 つぶやき連続句読点ザラコク
九州説の彼らは特に主張は無く読んだ奴を嫌な気分にさせるのが目的だからな ローガン氏は、邪馬台国九州論の学者の振りもしていたな、、、 奥山氏は、論破されるので、厭な気持ちになるのだね、、、
630日本@名無史さん2019/06/25(火) 21:05:26.32
連続句読点ザラコク
九州説の彼らは特に主張は無く読んだ奴を嫌な気分にさせるのが目的だからな 邪馬台国九州説は本居宣長を祖とする、皇国史観が生み出した妄想の産物 >>631
九州説論者は自分たちのスレもあるのに
ここで暴れてるのだから単なる荒らしだね 連続句読点は論破されるのを怖れて議論を避けてるのか 鉄の武器の発見量や、南という漢字の意味や、畿内馬具の存在や、可住面積や、空気シャワーの効果や、架空のロシアのルーレットの思考実験や、マッチョな化石の発見という真実の前では、邪馬台国畿内説を宣伝する異常者の嘘や悪口は、負け犬の遠吠えよりも迫力が無いな。。。
631日本@名無史さん2019/06/25(火) 21:06:55.99
九州説はもう荒らしてるだけだしな
635日本@名無史さん2019/06/25(火) 21:14:19.89
>>631
九州説論者は自分たちのスレもあるのに
ここで暴れてるのだから単なる荒らしだね
636日本@名無史さん2019/06/25(火) 21:16:56.68
連続句読点は論破されるのを怖れて議論を避けてるのか スレ主が新しいスレを立ててバイト代が貰えるように協力しているのかもな。 5ちゃんねるのプロ固定の奥山氏は、討論を避けるために、噓や悪口しか言い返さなくなってきたな、、、 鉄の武器の発見量や、南という漢字の意味や、畿内馬具の存在や、可住面積や、空気シャワーの効果や、架空のロシアのルーレットの思考実験や、マッチョな化石の発見という真実の前では、邪馬台国畿内説を宣伝する異常者の嘘や悪口は、負け犬の遠吠えよりも迫力が無いな。。。
641日本@名無史さん2019/06/25(火) 21:27:19.74
悪口自慢するのは連続句読点だけだから 5ちゃんねるのサクラが、嘘や悪口や頭の悪い者達しか思いつかないテンプレートや意見を発表し、スレッドを盛り上げるだけではなく、
呟き荒らしの狂気で、スレッドが活発化しているのだという演出をしていることが、
頭が悪すぎるので、バレてしまったのだが、
客観性を欠いた恣意的史料解釈が得意な奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ない、
という僕達の挑発も、気にならないほど、邪馬台国畿内説には、思い入れがないのだろうか、、、 濃いお茶を飲んでから、討論を続ければ、良いな、、、 >>639
自分たちがやってる事を相手がやってる事にする
それが何がしか有効だと考える九州説の思考にどうしても違和感が生じる
普通の思考をする人間にとってはキョトンだよ 畿内説対九州説は結局のところ
理論対共産or儒教思想だろうな
理論対信教だから話がいつまでたっても噛み合わない 畿内説に勢いがなくなったのはいつからだっただろうか
あれはたしかテンプレが破綻した日だったように思う
完璧に見せようとしていたテンプレがガラス細工のように
木っ端みじんに砕け散り、畿内説が周囲を意に介さず
狼狽したのを覚えている。 九州説が現実逃避してポエムを作り始めた
いやお経の一種かな >>649
ほらな
九州説は自分のやってる事を相手がやってる事にする 畿内説は己の信じるドクトリンを理論だと勘違いしているアホ >>652
畿内説は理論や事実、発掘事実の考察がドクトリンだが だが、なぜ、戦後の日本国は、邪馬台国畿内説を復興させた歴史の学部をはじめとして、共産主義に染まってしまったのだろうか、、 九州説は邪馬台国は九州の特に北部になくてはならないの
古田説がドクトリンだろ
色々と古代の事を調べた結果それは事実ではないと明らかになったので
何が何でも邪馬台国は九州北部の九州説が今書く事は
おおよそ全て嘘か循環論法になる >>655
不思議なのだよね、、、
日本国を占領したのは、自由主義陣営だったのにね、、、 >>654
畿内説ありきの色眼鏡を通した証拠集めに証拠捏造
それが畿内説だよ >>655
奥山氏が作製したテンプレートでも、畿内には、共産主義が理想とする総花的な、現実には存在しないドクトリンの国家が誕生するのだったな、、 5ちゃんねるのサクラが、嘘や悪口や頭の悪い者達しか思いつかないテンプレートや意見を発表し、スレッドを盛り上げるだけではなく、
呟き荒らしの狂気で、スレッドが活発化しているのだという演出をしていることが、
頭が悪すぎるので、バレてしまったのだが、
客観性を欠いた恣意的史料解釈が得意な奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から、共産主義的に結びついた、同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ない、
という僕達の挑発も、気にならないほど、邪馬台国畿内説には、思い入れがないのだろうか、、、 >>655
皇国史観があまりにもデタラメだったから、唯物史観が流行したんだよ >>659
魏志倭人伝や考古物を検討したら
邪馬台国は畿内大和という結論になったんだよ >>658
日本国が併合してしまった人種の者達が、共産主義陣営からの支援で、工作活動を実行し、その一環で共産主義と同様に唯物論を前提とする邪馬台国畿内説という仮説を、宣伝したのではないのかな、、、 日本国が併合してしまった人種の者達が、共産主義陣営からの支援で、工作活動を実行し、その一環で共産主義と同様に唯物論を前提とする邪馬台国畿内説という仮説を、宣伝したのではないのかな、、、 >>666
誰と誰が出来レースするんだよ
陳寿と畿内説がか ヘッヘッヘ陳寿さん
一丁邪馬台国に行くには九州を通り過ぎることにして
九州にはなかった事にしてもらえませんかねえ
アホか 奥山氏の生き甲斐は、決して、僕達ではない、論敵との討論なので、今は幸せが高まっている可能性があるな、、、 書きこみ&クッキー確認
名前:
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内容:
>>765
>塚の大きさや戸数に関しては対馬と壱岐の間の里数と同じ程度に盛った数字になっていると考えるべきだろ 実際にはしょぼ〜い国だけど金印渡した手前立派な国に仕立て上げただけやろなち<
魏使らや魏の記録官は、「盛った数字」を書いて、「皇帝を騙した」事が、 部下や後続の使節に拠ってバレたら、首が危ないんだから、 そんな事はしないの。
投稿確認
この書き込みで本当にいいですか?
犯罪予告や犯罪示唆、誹謗中傷、性的な出会いを目的とした書き込みでないか今一度確認してくださいね。 皇国史観と唯物論は、対極ではないどころか、頭が良い、巧妙な者であれば、完全に重ね合わせることもできてしまう考え方だったな、、、 性的な出会いを目的とした書き込みは、僕達より何十年も若い者であれば、興味があった方が社会には良い物事なので、
5ちゃんねるは、禁止しないほうが良いな、、、 奥山氏が作製したテンプレートでは、畿内には、民衆が共産主義的に指導者を析出するという、現実には存在しないドクトリンの国家が誕生するのだったな、、 >>646
畿内説は、自分たちがやっている工作は相手もやっていると思い込むんだろうな。 >>770
>弥生終末期と古墳時代初期は古墳を作るかどうか、以外は違いのない一続きの時代だ<
九州と大和とでは、大和は九州よりも50年以上遅れている。
>ではなぜ古墳を一斉に作るようになったというと、
卑弥呼の共立によって宗教上の合意が列島の広い範囲で成立したからと考えられる <
卑弥呼共立は、九州内の事であり、大和は、九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一つの旧小国だ。
>ということで、古墳時代の開始は卑弥呼の共立からというのが新しい見方
卑弥呼は古墳時代の始まりの女王だよ<
筑紫の古墳時代は、壹與の後の3世紀後半の半ばの頃の那珂八幡などからであるが、
大和の定型型前方後円墳の箸墓は、九州倭国の東征毛人五十五国の将軍らに拠って、
4世紀に始まった。 僕達はこのスレッドをデジタルの備忘録として使用しているだけなので、本当に討論したい者は、僕達には構わず
、討論すれば、良いのではないのかな、、、 畿内説は破綻している
これさえ覚えていればだまされることはありません 僕達は、
、、と。。をorで検索しているので、
このスレッドのシリーズを、備忘録として使用できるのだったな、、、 >>776
>そして何度も具体的に検証して見せているように、天気待ちの日数を入れても
水行20日水行10日にまったくなんの齟齬もない<
大和説は、「南≠東」などの嘘吐き騙しに拠って、×。
>さらに反論があるなら裴世清の旅程を具体的に検証してごらん・・・
日本書紀も <
書紀は「唐使」と書いているから、隋書の「隋使」とは違う話。 >>675
へー
で畿内説はどんな工作をしてると言うのかな
工作なんて何もする必要ないんだけど
>>676
三角縁神獣鏡ほか鉄剣など
>>680
具体的に何が破綻してるのかな >>684
なぜ3世紀の奈良からは鉄が出土しないのか?
↓分布図
http://imgur.com/OK8GwzA.jpg
もと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
とマジで答え、・・・www 奥山氏が、僕達がスレッドを備忘録として使用することを、妨害するためにつまらないことを始めても、無駄だな、、、 >奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝
>によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも
>使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流して
>いたが、纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に
>少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や
>刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
>纒向遺跡ではまったく出土していないことから、
>魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されて
>おらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。
なるほどねえ >>1
何度 言ったらわかってもらえるのかな
纏向=卑弥呼の王宮 箸墓=卑弥呼の墓
は 疑義が多いので学者も断定してないのになぜ
>>1は固執するのか 頭の構造がさっぱり理解できない >>646
それ、ミラーリングっていって、詭弁使いの話術その1なんだよw 畿内説VS九州説ってさーー
キャンディーズVSゴールデンハーフ
みたい
個人的にはいずれかは分かんけどゴールデンハーフ 好きだナーー
https://www.youtube.com/watch?v=8e7j7m6CidQ
これは歴史だね 鉄の出土分布が3世紀の経済共同体を示しています。
https://i.imgur.com/yJnOLhL.png
■考えられること
鉄の潤っていた九州と畿内は別国であった。
=一大率や大倭は畿内政権とは無縁である。
=魏志韓伝に出てくる「倭」には畿内は含まれていない。
■裏付け
実際、同時期の纏向遺跡からは九州産の土器が
出土せず、東海・伊勢地方のものが多数を占める。
■名言
もと歴博の館長もやった佐原真は、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
とマジで答え、・・・ 5ちゃんねるのサクラが、嘘や悪口や頭の悪い者達しか思いつかないテンプレートや意見を発表し、スレッドを盛り上げるだけではなく、
呟き荒らしの狂気で、スレッドが活発化しているのだという演出をしていることが、
頭が悪すぎるので、バレてしまったのだが、
客観性を欠いた恣意的史料解釈が得意な奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から、共産主義的に結びついた、同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ない、
という僕達の挑発も、気にならないほど、邪馬台国畿内説には、思い入れがないのだろうか、、、 >>693
都合の悪いことは無視する九州説
三世紀前半から博多を中心に畿内の土器が多数出土
纏向では筑紫で生産された庄内甕がでる >>659
>畿内説ありきの色眼鏡を通した証拠集めに証拠捏造
どこが色眼鏡でどんな証拠捏造があるというのか、
具体的に論拠をつけて論じてくれるかな?
そうしたら、>>659の見方が大間違いだって具体的に示してあげられると思うよ 前方後円墳による祭祀統一は畿内説による詐欺です。
https://i.imgur.com/tXXJrtZ.png
横穴式石室は「九州型」と「畿内型」に大き分けられる。
■「九州型」は
4世紀末頃から福岡・佐賀県沿岸部を中心に
前方後円墳の埋葬施設として築造され、その後
5世紀には九州各地へ拡がっていく。
普及する過程で「肥後型(熊本県)」や
「地下式横穴(宮崎県)」などに変化し、
地域色がみられるようになる。
九州外へもわずかに拡散するが、肥後型石室の
構造をよく残しているのは岡山市の千足古墳である。
■「畿内型」は
5世紀終わり頃に出現するが
6世紀はじめに前方後円墳に採用されて、
その後各地へ普及していく。
「6世紀はじめに前方後円墳に採用されて、
その後各地へ普及していく。」
「6世紀はじめに前方後円墳に採用されて、
その後各地へ普及していく。」
「6世紀はじめに前方後円墳に採用されて、
その後各地へ普及していく。」 >>697
>三世紀前半から博多を中心に畿内の土器が多数出土
博多に納税してたんですね。
よく分かりましたw >>675
>畿内説は、自分たちがやっている工作は相手もやっていると思い込むんだろうな。
それ、典型的なミラーリングww >>690
>纏向=卑弥呼の王宮 箸墓=卑弥呼の墓
>は 疑義が多いので学者も断定してないのになぜ
学者は可能性が高いことをを「可能性がある」と表現することが多く、断定すること自体が少ない
疑義が多いからではない >>699
皆が三世紀の話してるのに
ピンボケだね >>678
>九州と大和とでは、大和は九州よりも50年以上遅れている。
これが30年以上前に否定された大間違い
年輪年代法も14C測定も出てくる前に、意味もなく九州が進んでるというのが
間違いだっていう問題意識が土器編年の見直しに繋がったんだよ ザラコク うぜーー
南≠東だけでじゃん
テメーの自己顕示欲だけでスレ進めるなよ バーーーカ
纒向の運搬用水路がなんのためだったか議論したいのだけど >>677日本@名無史さん2019/06/25(火) 22:43:05.27
>>661
宮崎は投馬国
☝
これほぼ決まりだよ >>699
>■「九州型」は
>4世紀末頃から福岡・佐賀県沿岸部を中心に
>前方後円墳の埋葬施設として築造され、
その九州最初の横穴式石室としているものは「畿内様式の竪穴型石室」に横口を付けたもの
思いっきり九州に畿内様式が伝えられたことの証明でしかない
前方後円墳で祖先祭祀と首長継承儀礼を行うというのが、倭王卑弥呼のもとで首長連合の間で
合意統一された様式 >>707
>宮崎は投馬国
投馬国は戸数道里略載の女王国以北の国
投馬国を宮崎にしちゃうと邪馬台国は鹿児島しか無理になるし
鹿児島にすると陸行一月が無理になる 投馬国、dug-mag国はヅマ国
出雲、ィヅモだよ 奥山氏かな、、、
710日本@名無史さん2019/06/25(火) 23:47:02.36
>>706
キウスかな 5ちゃんねるのサクラが、嘘や悪口や頭の悪い者達しか思いつかないテンプレートや意見を発表し、スレッドを盛り上げるだけではなく、
呟き荒らしの狂気で、スレッドが活発化しているのだという演出をしていることが、
頭が悪すぎるので、バレてしまったのだが、
客観性を欠いた恣意的史料解釈が得意な奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から、共産主義的に結びついた、同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ない、、。
という僕達の挑発も、在日韓国人の奥山氏には、気にならないほど、邪馬台国畿内説には、思い入れがないのだろうか、、、 >>710
>>707もキウスだろ
最近「☝ 」を使うのはキウスしかいないし ☝ を、自在に方向を変える方法は、あるだろうか、、 5ちゃんねるのサクラが、嘘や悪口や頭の悪い者達しか思いつかないテンプレートや意見を発表し、スレッドを盛り上げるだけではなく、
呟き荒らしの狂気で、スレッドが活発化しているのだという演出をしていることが、
頭が悪すぎるので、バレてしまったのだが、
客観性を欠いた恣意的史料解釈が得意な奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から、共産主義的に結びついた、同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ない、、。
という僕達の挑発も、在日韓国人の奥山氏には、気にならないほど、邪馬台国畿内説には、思い入れがないのだろうか、、、 意味不明な畿内説の学者どもの名言(迷言)w
「鉄器は出土しないが、急速な鉄器化が進行したという幻の鉄器の時代があった」
「畿内の土壌は鉄が溶けやすいので鉄器などが出土しないのです!」 >>719
古墳から出土する鉄器を無視する九恣意説 >>720
それカウントしても畿内の鉄器の出土量は少なすぎる
3世紀の鉄器の分布は北部九州と日本海沿岸部から始まっている。
現実を見ろ。 >>720
>>719は>>721のような指摘に対抗した畿内説の反論だ 畿内の鉄器はホケノ山と椿井大山2基で350点ほど見つかってる
そして畿内に古墳は7200基ほど存在している もう畿内は鉄器がないは通用しない時代なんだよ
あと土壌で鉄が溶けやすいというよりも
古代から安定して歴史が続いたから
鉄は鋳直されて色んなものに有効的に再利用されたから
土から発掘される数は少ないのではないだろうか
そして戦乱で滅んだような所は鉄器が遺棄されて土壌から発掘される 邪馬台国畿内説という仮説が、完全に、破綻したので、
奥山氏が、討論を避け、呟くだけのスレッドになってしまったな。。 >>691
それって畿内説がやっていることじゃん。
ああ、まさにこれのことか。 >>704
>>>699
>皆が三世紀の話してるのに
>ピンボケだね
それこそ畿内説。 >>705
>間違いだっていう問題意識が土器編年の見直しに繋がったんだよ
それで畿内説のために神の手を使ったのか。 >>724
>古代から安定して歴史が続いたから
魏志倭人伝の倭国ではなさそうだ。 >>724
>そして戦乱で滅んだような所は鉄器が遺棄されて土壌から発掘される
くず鉄を再利用するよりも、半島から持ってきた方が手っ取り早い。
それくらい九州に鉄はあふれていた。
かき集めて釘ひとつ落ちていないような状況を作り出していたなら、纒向は相当に鉄が不足していたということだ。
まあ、それ以前に鉄器文明の時代に入っていなかった可能性もあるけどw >>733
そういう浪費体質だから大きな勢力が生まれなかったんだね >>730
九州説は
反論する代わりに中傷してたから
どんどん時代から置いていかれた
そして今日の窮状 >>733
戦乱ばっかで不安定だったんじゃないの
そして畿内からは古墳2基だけで360点ほどの鉄器が見つかっている
確か昔九州説が自慢げにコピペ張ってたけど
九州は発掘されてる鉄器が全部で1100点くらいじゃなかったか
畿内は鉄器が少ないという邪馬台国の会のサイトの情報は
40年以上前のだろうし信じない方がいいぞ 九州説がいつまでたっても古臭い説主張して全く変わらないのは
邪馬台国の会のサイト情報参考にしながら書き込みしてるからじゃないのか じゃあ代わりのデータを出せばいい。
でも言い張るだけで出さないんだよね? 鉄器
ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、」鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品がでている。
畿内は古墳2基でコレよ >>741
3世紀後半の黒塚古墳も追加すると、
九州説が自慢してる鉄器なんてあっという間に逆転
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品 東だ南だ、海だ陸だを別として考えた場合、
もし機内に邪馬台国があったとしたら、
そこまでの道程の描写がいくらあの時代にしても
省略されすぎじゃないかなあ。 >>161
>箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江、尾張、三河などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
具体的にどの遺跡から出土したかは絶対に言わないなw
あると言うだけで具体例は示さない畿内説詐欺ってやつだな >>745
質問もしないで「絶対に言わない」と決めつける妄想人間
しかも妄想で詐欺呼ばわりとは何とも
それが卑怯未練の中傷屋九州説 東夷伝全体を見れば邪馬台国の位置情報はむしろ異様に書き込まれていると思うが >>743
古墳の構造(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでもwww @阿波 >>745
しかも畿内じゃないし。
畿内説は詐欺みたいなものだ。 >>747
それなのに九州北部から畿内までの行程は省略なんてことがあるだろうか? >>236 >>237
トランプ大統領(魏帝)を「午後の紅茶」国賓歓待したエリザベス女王(卑弥呼)の冢が、
径百歩の上方下円墳(◇)とゎ意外だぬ(◇)
>>750
阿波は縁の下の力持ち・少彦名が王様だった侏儒国(小人島)やよ 調べてみた?
天皇(日本の陛下?)が何やら〜と言っているのは、
朝鮮人みたいな人達だと言っているんだよ
家の老婆が言っているんだから正解だろう 日本人が日本が〜みたいな話ばかりしていたり、
低脳の集団。 >>753
>阿波は縁の下の力持ち
その「縁の下の力持ち」が超強大で、 持ち上げるべき神輿がどこにもないという、落ち。 @阿波 他の国の人たちにも、
教えたほうが良いと言っているんだよ、
朝鮮人だとw それとも家の話をしているのかな?
むかーしの中華〜漢人〜だという話 兄、弟・・・妹がいて?家の話だしな
漫画やアニメ、ゲーム・・・その他とか >>728
ミラーリングの指摘にまでミラーリングする、九州説の思考能力の貧困ww 謎の刀(劔?)、泥棒のようなものに盗まれたと言っているし、
歌舞伎、芝居が何やら〜とか サルでも判る南→東…
烏→白と言い張るようなものw >>730
畿内と九州で同じ形式の土器の編年が、50年ずれる合理的な理由があるかい?
片道2ヶ月程度で頻繁に人が移動していて、しかも畿内胎土の土器まで九州で出ていて
それでもなお畿内が50年遅れた編年を維持すると、その畿内胎土の土器はオーパーツになるんだけど?
九州説は現実を見ないで、30年前の編年を正しいと言い張るだけの思考停止の老人しかいないんだよなw 『劔』
>ショウブの葉の先のようにとがっているもの。
このような話も出てきたり、お風呂に入れたりする植物でしょ、
アヤメ、ショウブ?そのような葉、なぜか家の写真にも写っていたり
あとオジギソウ、シダ類『デスラー』? >>765
>しかも畿内胎土の土器まで九州で出ていて
そのソースは? @阿波 福岡県の鉄の鏃の出土は奈良県の100倍なのだよ
事実をまともに受け付けないのはイカンよ >>768
それ30年前の情報w
現在、北部九州の鉄鏃の出土量は畿内の300倍以上でつよw 当時、結婚した家(嫁という意味)の父親の話
蚕を飼い、機織りなんかをしている家で、
何やら様なんて言われていたよと言っていたり
老婆談w『伊達の桃太郎』この周辺の話 >>733
いや九州も甕棺墓の時代が終わると、九州も鉄の出土が激減するんだよ
だから九州説お得意の「邪馬台国の会w」のデータも、「弥生時代全期間」にすることで
3世紀の九州の鉄の少なさをごまかしている
畿内で鉄が溶けやすいんじゃなくて、日本中どこでも鉄が錆びて朽ちたあと耕されたら痕跡も残らない
九州で弥生時代中期までで鉄が多く出るのは甕棺墓というタイムカプセルによる発掘バイアスだよ
弥生時代の倭国では、鉄の出土がない登呂遺跡でも鉄の刃先を付ける袋鍬が出ていて、
鉄の使用が当然と考えられている
登呂遺跡が1世紀の東海地方で畿内より九州から見て向こう側
3世紀の畿内に鉄がないと考える方がおかしい
弥生時代は鉄器と青銅器が同時に入って、実用器は鉄器、祭器は青銅器という文化になっていて、
事実上青銅器時代がない
弥生時代というのはそのまま鉄器時代っていう意味を内包してるんだよ ヒミコ様とか、そういうのではない、
名前だったかな、何々様 纒向の運搬用水路がなんのためだったか議論したいのだけど >>769
って優香、関西の3世紀遺跡からほとんど鉄が出ないという方が正しい。
工房周辺や王墓主体部からチョロっとしか鉄が出ない関西の学者が、北部九州への3世紀遺跡に行くと、地層全体が真っ赤に染まるほど大量の鉄が出土するのを目の当たりにして初めて、
(纏向は邪馬台国じゃないや)と確信するんだけど、関西に帰れば、講演会の配布資料の白黒写真のみで、北部九州の発掘現場を実際に見たことがない禿げ頭のお爺ちゃんたちが「箸墓=卑弥呼の墓で決まりやなW」と笑顔で脅すので、
ええ、まぁ、(空想の)可能性としてはwとお茶を濁すらしいw >>339
再三再四、レスした通り、↓これはなかなか優れた地図だ。
で、この地図に東南500里を書き込んでみたか、そろそろ出来上がった頃だろう。で、その行く先はどこになったかな・・・。
https://i.imgur.com/0eJ45rZ.jpg それよりもw
なぜ同じような植物が写っているんだと思う?
龍宮、寒いな〜・・・、
このような名前の家なんだけど >>772
>九州で弥生時代中期までで鉄が多く出るのは甕棺墓というタイムカプセルによる発掘バイアスだよ
実際、甕棺墓などではなく、 弥生人が生活した弥生集落遺跡からの鉄鏃出土は倭国(阿波)だけでは? @阿波 日本に広がった馬が宮崎県あたり発祥じゃないか?って話
あそこには馬←がいたんだよ デスラーwとか、そういう作品もなかった頃の写真、
もれ(仮)も生まれていないから、詳しいことはわからない
生まれたころには松の木も無くなっていた、
立てられていたでしょ、松の木 牛あたりならこれは沖縄だの離島まで行かなきゃいない
牛は古代からそちらにはいたんだよ
日本本島には鹿はいた 宮崎県あたりにいた馬を本土に連れてきて繁殖させたならありえる >>776
>講演会の配布資料の白黒写真のみで、北部九州の発掘現場を実際に見たことがない禿げ頭のお爺ちゃんたちが「箸墓=卑弥呼の墓で決まりやなW」と笑顔で脅す
石野博信を筆頭に関西のハゲ頭たち>>7の中には、北部九州の博物館へは行ってるハゲもいるかもしれないが、
さすがに発掘現場(現地説明会)まで出掛けてはいないだろうし、当然と言えば当然だな
畿内説はレジュメの白黒写真で、北部九州の豪華な遺跡から目を逸らせ続けてるわけwww あと立っている人は父親ではない、
ネタ的に言うと、おずぼーん(お爺ちゃん)? モンゴルあたりにつながる一部族と平安時代には東北のやつら通商やっていたからな
沿海州を通じて入手したならありえる
そいからアイヌってのは樺太がもともとの故地
そっから北海道に南下した 本当に、なぜ知っている人がいるのか?なんだよな
キュウリのような葉、葱の華・・・などの写真、
老婆も生まれていない頃の写真だからと言っているし
詳しいことはわからない 写っていたでしょ
ショウブ、あやめのような葉?、
笹の葉にオジギソウ、シダ類など
あと松の木が立てられていて
『デスラー』? >>772
>いや九州も甕棺墓の時代が終わると、九州も鉄の出土が激減するんだよ
卑弥呼が即位して倭国大乱が終結したんだろ。
>登呂遺跡が1世紀の東海地方で畿内より九州から見て向こう側
距離ではなくて、沿岸部であることが大事なんだろうね。
内陸の纒向が後進地域だったという事実から目を背けるなよ。
>弥生時代というのはそのまま鉄器時代っていう意味を内包してるんだよ
ただし内陸の大和盆地を除く。 >>790
>卑弥呼が即位して倭国大乱が終結したんだろ。
「丹」の採れない北部九州奴国(博多)に、卑弥呼が居るわけがない。 以上。 @阿波 魏志倭人伝時代が、畿内ではまだ銅鐸王国の時代だったことが判明したので、古墳時代は、いつ始まったのかの研究をすれば良いな。。。 家は長州というところの出身でもないしな、
九州のほうでもない
いまの福島県、伊達郡? >>792
飼い犬が居なくなり、空いたスペースに、研究のための本棚を購入し、本を並べたのだったな。。。 もはや九州説はニセ情報に縋るしかないのか
あわれなもんだ >>795
古墳時代は、中国で始まったのだね。。。 古墳という言葉は、あまり、厳密な言葉ではないな。。。 確かに、古墳時代という言葉や、弥生時代という言葉は、あまり頭が良くない者が作ってしまった言葉だな。。。
797日本@名無史さん2019/06/26(水) 08:08:53.48
>>792 銅鏡に代わっただろ 昭和か 古墳時代という、、あまり頭が良くない者が作ってしまった言葉は、
銅鏡時代という言葉に変換して、研究をすれば良いな。。。 近畿、東海、鳥取、九州以外は大乱の跡が無いのでボッシュートな >>802
つまり、魏志倭人伝時代が、畿内ではまだ銅鐸王国の時代だったことが判明したので、銅鏡時代は、いつ始まったのかや、銅鏡時代は、何処で始まったのかの研究をすれば良いな。。。 >>339
再三再四、レスした通り、↓これはなかなか優れた地図だ。
で、この地図に倭人伝の通り東南陸行500里を書き込んでみたか、そろそろ出来上がった頃だろう。その行く先はどこになったかな・・・。
https://i.imgur.com/0eJ45rZ.jpg >>804
では、九州の銅鏡時代と畿内の銅鏡時代は、どちらが早く始まったのだろうか。。。 471>>788
「南→東」などのウソ付き騙しのそれって、
なんか証拠あって言ってんの?
無いよね?
大和説だもの >>806
九州で発見される、一番古い銅鏡が埋まった地層と、畿内で発見される、一番古い銅鏡が埋まった地層の、どちらが古いのか、
そして、その差は何年なのか、調べれば良いな。。。 九州で発見された一番古い銅鏡は、どの銅鏡なのだろうか、、、
そして、畿内で発見された一番古い銅鏡は、どの銅鏡なのだろうか、、、 471>>792
>邪馬台国はヤマト国
他の畿内は別の国、関係ないのに意図的に一緒にしようとする奴らが多過ぎる
タチが悪い <
邪馬台国も畿内も存在も志なかった嘘つき騙し文言であり、
「ヤマト」説7は、「南≠東」などに拠って、×。
タチが悪い。 邪馬台国畿内説という、破綻してしまった仮説を宣伝している、頭の悪い奥山氏というプロ固定も、僕達と一緒になって、
九州で発見される、一番古い銅鏡が埋まった地層と、畿内で発見される、一番古い銅鏡が埋まった地層の、どちらが古いのか、
そして、その差は何年なのか、調べれば良いのではないのかな。。。 銅鏡の儀式が始まったのは九州北部だろう
平原遺跡の主墓や祇園山古墳の周りにある甕棺は
共に朱塗りで被葬者が女性と考えられていて後漢の鏡が出てる
そして3世紀に奈良で卑弥呼が銅鏡儀式を発展させて
それを台与が受け継ぐ 古墳時代という、、あまり頭が良くない者が作ってしまった言葉は、
銅鏡時代という言葉に変換して、研究をすれば良いな。。。 つまり、九州の方が先に銅鏡時代になり、それが、卑弥呼の子孫の者達によって、4世紀に奈良に伝えられたのだな。。。
813日本@名無史さん2019/06/26(水) 08:26:10.49
銅鏡の儀式が始まったのは九州北部だろう
平原遺跡の主墓や祇園山古墳の周りにある甕棺は
共に朱塗りで被葬者が女性と考えられていて後漢の鏡が出てる
そして3世紀に奈良で卑弥呼が銅鏡儀式を発展させて
それを台与が受け継ぐ >>813
祇園山そのものは後漢より新しいだろう。
むしろ壹與の時代。 471>>794
>AMSのメカニズムがどうであろうと、
較正用の標本が100年で、試料が100年だったら、メカニズムに関係なく結果は一致する。
較正用の標本が200年で、試料が200年だったら、メカニズムに関係なく結果は一致する。
較正用の標本が300年で、試料が300年だったら、メカニズムに関係なく結果は一致する。
何でこんな簡単なことが分からないんだ?このボケ老人は!<
標本も資料も同じAMS法を使っていたのなら、
結果はどちらも50〜100年位古い年時を出して当たり前。
だから、ベータ線法を使った計測値との対比が必要だ、と言って来た。
何でこんな簡単なことが分からないんだ?、
この「南→東」などのウソ付き騙しの大和説のボケ老人は!。 このころの九州北部の墓の銅鏡は基本割られていて奈良でも同様
2世紀後半の九州最後の豪華副葬品の平原遺跡から
3世紀の畿内の銅鐸の消滅と銅鏡の出現は
九州北部から奈良へ王族の引越しがあったと考えると繋がる だが、銅鐸王国を滅ぼした者達は、本当に、卑弥呼の子孫なのだろうか。。。 >>819
僕達の考えでは、銅鐸王国を滅ぼした者達は、卑弥呼の子孫を滅ぼした者達でもあるのだったな。。。 >>816 祇園山の主墓は盗掘されてて被葬者も副葬品もなにも見つかってない
周りの66の小さい墓は甕棺3個と石棺たくさんがあって
後漢の時代から古墳時代のに共同墓地として長く使われたと思われる
でも出来た順番はわかってない
主墓→甕棺→石棺
甕棺→主墓→石棺
甕棺→石棺→主墓→石棺
上と中のパターンだった場合祇園山は後漢のころに出来てる
一番でかい主墓は67の共同墓地の中でも初期に出来たと考えるのが普通だろう 471>>795
>他の中国の正史でも朝貢国の方角は正確だけど、距離はいい加減なんだよな
里数や日数は適当なこと書いていても方角に関しては適当な記載はしない <
里数も、周代以前から歩測などの計測法を知っていたから、
誤差があっても、何割か?位であり、
長里と短里のように、5〜6倍もの差異は有り得ない。
日数も日誌が書かれていたら、記録は正確。 >>817
このひとは較正って何をしてるのか知らんでメチャクチャ言ってんのか? それよりも、なぜ朝鮮人が偉そうにしているんだ?
『チョン州 長州』
このようなスレでも、同じようなことを言っている人がいたり、
もしかして中国の人(渡来系〜日本人)? 471>>798
ほら、また大和説者は「会稽→会稽東治」のインチキ騙しのすり替えのサギをしており、
論理的な説明ながらできない
またウソだったんだね大和説 銅鏡が副葬された、九州で一番古い墓はどの墓なのだろうか、、、
そして、銅鏡が副葬された、畿内で一番古い墓はどの墓なのだろうか、、、
そして、その二つの墓に埋まっている一番新しい土器の式は、どのような式なのだろうか、、、
そして、その二つの式の古さの差は、何年なのだろうか。。。 >>826 甕棺があるからね
祇園山の一番でかい墓が一番最初にできて
九州北部で甕棺やってた時代に3個の甕棺が周りに追加された
と考えると一番しっくり来るんだよね 471>>801
>>祇園山。<
>それが径100余歩で かつ3Cの墓だ という根拠?<
魏朝は、周の度量衡制への復古、を決めたから、その「歩」は「短歩」。
また、祇園山は、(前方後円墳ではなく)「冢」であり、
62個以上の複数埋葬の殉葬墓を持っており、
土師器の古い方の庄内も、△も出土しているから、3世紀の墓。 埋葬方法から祇園山は平原より古いと考えられる
祇園山の朱塗り甕棺の巫女と比べて
平原の巫女の墓が豪華なことから
九州北部で巫女の地位向上があったかもしれないけど違うか
王族の巫女と地方支部の巫女の違いかな >>825
ザラコクがサギだウソだと叫ぶのは
ベガスに観光旅行に行って大金スッた田舎者の叫びと同じよ
ただの、悲鳴 >>830
皆も知ってると思うが
祇園山から庄内が出てるとか
ガセネタだから 国立の学部に所属している、僕達の頭の良い孫が、魏志倭人伝時代の、、、較正曲線、、、という、僕達には意味が分からない、曲線を探し当て、、、
これじゃあ、肝心の部分が落ち込みすぎていて、使い物にならないのでは、ないのかな、、、
でも、BPが1855位のところであれば、前後の時代に重ならない横線が引けるので、そこを基準にすると、ブラックボックスや空気シャワーや何かの滞留を無視しても良いのなら、魏志倭人伝時代は布留1式初期になるね。。。
というようなことを言っていたな。。。
https://www.google.com/search?q=%E8%BC%83%E6%AD%A3%E6%9B%B2%E7%B7%9A&rlz=1C1PMVB_enJP510JP727&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwiU2q236oXjAhWRMt4KHd6SDt8Q_AUIECgB&biw=1181&bih=751#imgrc=kdUzONwlK7ZUfM:
817日本@名無史さん2019/06/26(水) 08:33:10.09
471>>794
>AMSのメカニズムがどうであろうと、
較正用の標本が100年で、試料が100年だったら、メカニズムに関係なく結果は一致する。
較正用の標本が200年で、試料が200年だったら、メカニズムに関係なく結果は一致する。
較正用の標本が300年で、試料が300年だったら、メカニズムに関係なく結果は一致する。
何でこんな簡単なことが分からないんだ?このボケ老人は!<
標本も資料も同じAMS法を使っていたのなら、
結果はどちらも50〜100年位古い年時を出して当たり前。
だから、ベータ線法を使った計測値との対比が必要だ、と言って来た。
何でこんな簡単なことが分からないんだ?、
この「南→東」などのウソ付き騙しの大和説のボケ老人は!。 471>>808
>3世紀にヤマトの地に人が住んでいないとか
3世紀にヤマトの地に邑(国)が無かったという学者は誰も居ないと思うのですが
間違ってますか? 炭素年代でヤマトに人がいたでいいのではないでしょうか <
大和は、元は出雲銅鐸祭祀部族と毛人の混合地であり、
そこへ九州からの倭人の国生み移民の渡来と共存があり、
その後、九州倭國の「東征毛人五十五國」に拠って、
出雲銅鐸部族と毛人が征服支配された、というのが、3世紀頃の大和の実態。 銅鏡が副葬された、九州で一番古い墓はどの墓なのだろうか、、、
そして、銅鏡が副葬された、畿内で一番古い墓はどの墓なのだろうか、、、
そして、その二つの墓に埋まっている一番新しい土器の式は、どのような式なのだろうか、、、
そして、その二つの式の古さの差は、何年なのだろうか。。。 それよりも
むかーしの中国人(わかりやすく言うと渡来人)がいるでしょ?
なぜ日本の先住民なの?
アマテラス(朝鮮人)というのがいてw
芸能関係の人々が広めたという話みたいなんだけど 奈良の3世紀を代表する纒向で銅鏡も勾玉も鉄も出ない時点で畿内説終了だぞwww
学者もすでに諦めてるし市民は関心無いし何より桜井市は予算が無いwww
奈良説は糸冬 471>>809
この「南→東」などのウソ付き騙しの大和説者の投稿が、
真っ赤なウソだという証拠は、5chの古代史や日本史掲示板の投稿全体であり、
だから提出はしようと思えばこのスレ全体を提示すればよいるんだが、
大和説者諸君は、そんな事をさせて、恥ずかしくないの? 『漢民族』
この系統の家(渡来系)などがあるでしょ、
その人々が日本の先住民で・・・その後に朝鮮人が来て 銅鏡が副葬された、九州で一番古い墓はどの墓なのだろうか、、、
そして、銅鏡が副葬された、畿内で一番古い墓はどの墓なのだろうか、、、
吉武樋渡の墳丘墓と、ホケノ山古墳で良いのだろうか、、、 >>838
>奈良説は糸冬
それに入れ替わり、倭国(阿波)が颯爽と登場! 時代の流れには抗えない。 @阿波 日本の芸能関係自体・・・、
日本の天皇〜と同じような?
部落?そういう人々だと言っている人がいたり 471>>811
>日本はもと小国だったのが倭国の地を併せちゃったんじゃね <
それが、白村江の後の701年からであったんだね。 謎のチェーンソーのゲームと同じ
実際は中国の話でしょ、ホンモノは中国
ドラゴンボールに出てくる、ドラゴンレーダーが出てきたり 471>813
今夜も、「南→東」などのウソ付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者が、
盛大に発狂してるな 741>>824
今夜もまた、
「南→東」などのウソ付き騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説が、
完敗したな 老婆も、なぜ詳しいんだと思う?
王母、龍宮〜寒いな〜の家の話
歌舞伎、芝居が好きで・・・、泥棒のようなものに入られた?
と言っていたり 奥山氏は本気で畿内の鉄が多いと思ってるんだろうか?
畿内にしては多いという話なのだろうか?
単なる世間知らずなのだろうか?
https://i.imgur.com/8gqv8Ta.png
桁が違うんだよバカw 471>>827
という言う事で、
「南→東」などの全てが嘘付き騙しである以上
・・・・アホ詐欺師の大和説者が、勝利する事などあり得ぬ 741>>831
>九州説惨敗だな 県別にみてみろ w<
大和説支持は35%しかおらず、残り65%は反大和説者であり、
政府文部省や、学会や教育委員会や教科書会社や、マスコミらは、
「南→東」などのウソ付き騙しが国民にバレて、惨敗のままだな。 471>>838
しかし、「南→東」などのウソ付き騙しの大和説のやる事も、
単なる荒らしとか
もっとマシなやり方もある筈?だけどなあ >>733
>それくらい九州に鉄はあふれていた。
これ笑わせてるの?
3世紀前半までの鉄は、九州は少ない、畿内はものすごく少ない
というのが正しい評価
だから、鉄が少ない九州に優位性などなく、鉄がものすごく少ない畿内に飲み込まれてしまう
現実の歴史を受け入れなさい
日本列島で鉄の出土が増えてくるのは3世紀中頃以降 日本の神(アマテラス?不明)というのがいるでしょ、
中華(中国人、例えば孫など)よりも上?みたいなことにしたい人々がいたんだろう 471>>848
>箸墓を4世紀と断定する根拠は何もないだろ
馬の鞍が外堀から見つかったから4世紀と断定するのは
学問的態度とは言えないな <
庄内1の撥型前方後円墳の石塚が3世紀末で、
庄内3〜布留の有棺有槨のホケノが3世紀末〜4世紀であるから、
箸墓は「布留」だから、4世紀である事になる。 >>856
>3世紀前半までの鉄は、九州は少ない、畿内はものすごく少ない
あのさあ、卑弥呼はその3世紀前半までの人なんだよ。
それより後のことを持ち出して意味がある?
逆にそれ以前に鉄が多かった九州が邪馬台国だと自分で証明していることになっているのでは? 471>>852
学者は、
昔の「南→東」などのウソ付き騙しの・・・・アホ詐欺師学者しかいない、
という大和説の悲惨 >>862
同じもの何度貼っても、九州は少ないという事実は変わらない >>863
だ・か・ら・3世紀前半に鉄の少なかった九州に優位性など全くないと言ってるんだよ >>863
は?
邪馬台国に鉄が多いとか
誰の思いつき? 九州説の人は日本史を知らない
義務教育からやり直せって 奥山氏は躁鬱病と統合失調症で薬中だから現実は見えないんだよw
鉄が沢山出土する畿内を夢見る奥山説w
鉄は出土しないが幻の鉄器時代があったとか誰か馬鹿が言ってたっけなw 869
それ阿毎多利思北狐の事績がまんま聖徳太子の話になってる 初期は日本側から攻め入っても負けが多かったみたいな話なら聞いたことある
やつらに負けない武器を作りだすため研究したみたいな話やなかったか? 『長州 チョン州』
こういうのと同じ話w
きち□いだと言っている人がいるでしょ >>744
>もし機内に邪馬台国があったとしたら、
>そこまでの道程の描写がいくらあの時代にしても
>省略されすぎじゃないかなあ。
詳しいのは末盧国までなんだよ
伊都国から先は、まさに戸数道里略載しかされていない
東南陸行五百里、到伊都國。(官名)有千餘戶。「世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。」
東南至奴國百里。(官名)有二萬餘戶。
東行至不彌國百里。(官名)有千餘家。
南至投馬國、水行二十日。(官名)可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。(官名)可七萬餘戶。
北部九州最大国の奴国の記載と同じ内容しかない
こういう書き方なんだよ あとは日本に鉄があっても粗末なものしかなかったとか
青銅の剣なら弥生時代からでとる そもそも3世紀の奈良に山門という地名があったのかが不明。
奈良文化財研究所名誉研究員の狩野久氏は、邪馬台国は本来
「崇敬な山の入り口」の意味の「山(やま)門(と)」だと
する説を紹介し「邪馬台国が九州にあった可能性は高い」
との見解を示した。 869
聖徳太子の事績→阿毎多利思北狐の事績
憲法17条とかな
その孫世代あたりに天武天皇が出てくる
天武天皇から古代の政治家に対して贈号やっただ
ならば聖徳太子とは阿毎多利思比孤に対して送られた贈号
対朝鮮取り引きあたりを対象とした古代の政治家
そゆ扱い 471>>872
>祇園山古墳 卑弥呼のひいおばあちゃんの墓 2世紀中期
平原遺跡 卑弥呼のおばあちゃんの墓 2世紀後半
↓
伊都国の王族が奈良へ引越し
↓
箸墓古墳 卑弥呼の墓 3世紀中期 <
「南≠東」などのウソ付き騙しになるから、×。 >>879
チンピラの話だと言っているんだけどw
どこの低脳なんだ、当時は天王(天皇)もいないし、日本の話でしょ 471>>874
>>箸墓を3世紀と断定する根拠は何もないだろ <
>九州説の無知が悲惨すぎる まさに痛々しい
根拠がないのに高校教科書に書かれるレベルの定説になると思うの?<
大和説者の「南→東などのウソ付き騙しの大和説学者や高校教科書の信仰」が、
悲惨であり、まさに痛々しい。
「南→東」などのような嘘つき騙しの学者や教科書や「定説」が、
信用出来る、となんて思えるの?。 >>875
>そんなこと言ってる学者、ひとりもいないんだけど 誰の説? 根拠は?
まさに九州説が痛々しい<
「学者」が言わないと、信用出来ないの?。
脳が正常なお人は、史料事実や、史料批判された史料実態であれば、信用するんであり、
「南→東」などのような、史料事実の否定曲解の嘘つき騙しを実行した犯罪学者なんて、
始めから、失格であり、信頼性が全くないもんだよ。
まさに、大和説者の脳は、痛々しい。 471>>871
>殉葬の代わりに、東遷した筑紫女王台与が自らの寿陵(箸墓)で導入したのが、吉備の特殊器台なんだよ。<
「南≠東」などに拠って、×。 471>>878
「南→東」などのウソ付き騙しをした事の証拠は、何があろうと絶対に出さない
根拠は口が裂けても言わない
そんな大和説さん 毎日ウソをつかないと死んでしまう病気?
証拠をだすと嘔吐痙攣が来て三日以内に死ぬ人たち?
すごいね 実際は、どこの馬の骨なのかわからない、
みたいな話ばかりでしょ
>>1と同じ 畿内説は、南と書いてあるのに何故に東なのか?
という問いに対して信憑性のある根拠を示さない。
この状態で邪馬台国を名乗るのはあまりにも横暴じゃないか? 南九州にいたのはハヤトってのは分からないがクマソ族ってなら聞いたことある >>885
>「南→東」などのウソ付き騙しをした事の証拠は、何があろうと絶対に出さない
>根拠は口が裂けても言わない
ウソだって証拠が出せないんだろ?
なら、ザラコクが詐欺爺じゃないか だいたい肥後に出た菊池氏だのいるじゃん
あの辺がクマソ族の拠点みたいな話になっていたり
まあ南部も変わらないだろ >>887
畿内説なのに見たこと無いんか?w
元のやつはやや汚くて見にくいだろw 実際は、龍宮〜寒いな〜の家の話なんだろう
「王」を名乗っていて・・・、むか−しの中国の人 471>>885
>畿内説のだれが、証拠を出せと言われて狼狽した?<
「南→東」の嘘つき騙しをした大和説者の全員が。
大和説さん、ウソをつくのも大概に
どこまで自分の信用を落とせば気がすむの?
病気? 471>>887
「南→東」などのウソ付き騙しなどの指摘の、
どれが自演だと? 自演だという証拠は?
具体的なことを言うのが徹底して嫌いなんだね
大和説の人が病気だと判断できる根拠はどんどん出て来るのにね >>892
なんで元のが、出せないの?
九州説に都合の悪いことが書いてあるからでしょ? 漫画やアニメなどがあるでしょ、登場するキャラ?
そのキャラと結び付けて、
聖徳太子(不明)?だと思ってしまっている人がいるんじゃないの?
実際は、寒いな・・・〜の家の話 >>339
再三再四、レスした通り、↓これはなかなか優れた地図だ。
で、この地図に倭人伝の通り東南陸行500里を書き込んでみたか、そろそろ出来上がった頃だろう。その行く先はどこになったか・・・・。
https://i.imgur.com/0eJ45rZ.jpg >>896
自分でググればいいのに。
いくらでも出て来るぞ?
池沼か? >>895
>大和説の人が病気だと判断できる根拠はどんどん出て来るのにね
その証拠、だしてみて 471>>888
>>大和古墳群における吉備の特殊器台導入時期は、決定的な視点かも!
箸墓(280m)以前(その親世代と思しきホケノ山80m)に墳丘全体への特殊器台の使用はなく、
>なるへそ つまり特殊器台の採用は、大和在地(唐古鍵)でなく、
吉備より西からの外来政権による東征を示しているわけだな。
箸墓=唐古鍵を征服した吉備王の墓、もしくは、
東遷(瀬戸内海航行)中に吉備の特殊器台(直弧紋)を気に入った筑紫女王(台与)が
自分の寿陵(箸墓)に採用したということだ。<
最後の話が、「南≠東」などに拠って、×だ。 馬に乗っていて、何かの刀を持っていたという話も、
老婆談と同じだしw
『姥清水』?この周辺の話 距離はいい加減でも方角はまあまあ正確なのが中国の歴史書
両方デタラメなことを前提にした畿内説はその時点で間違い >>900
お前の病気は「 離人・現実感喪失症候群」というそうだw また九州説が人格攻撃してるのか
たまにはまともに自説の主張してみたら >>906
南と書いてあるから南だ。
偶然とは思えないほど距離や寸法は一定の縮尺に基づいて書かれている。
よって魏志倭人伝の行程はすべて九州内に納まる。
超シンプルw >>907
現実逃避症状
↓
907日本@名無史さん2019/06/26(水) 11:15:58.42
>>905
だから、その証拠だしてみて >>908
>偶然とは思えないほど距離や寸法は一定の縮尺に基づいて書かれている。
という証拠は? >>838
>奈良説は糸冬
それに入れ替わり、倭国(阿波)が颯爽と登場! 時代の流れには抗えない。 @阿波 >>903
>伊都国は東南に見えるねえ。
どこから? >>904
>両方デタラメなことを前提にした畿内説はその時点で間違い
それは結論だから前提にはしていないが? 九州説は「鉄がー」が通用しなくなったから
今度は「南がー」に路線変更w >>912
自分で辿っていけば?
対馬から南に壱岐に、唐津、伊都国、、、と
池沼なお前だと無理かもだけど。 >>914
畿内の鉄が少ない話は学者共通の見解だが?
畿内の鉄は多いと言ってる学者を上げてみろよw >>805日本@名無史さん2019/06/26(水) 08:16:25.71
>>339
再三再四、レスした通り、↓これはなかなか優れた地図だ。
で、この地図に倭人伝の通り東南陸行500里を書き込んでみたか、そろそろ出来上がった頃だろう。その行く先はどこになったかな・・・。
https://i.imgur.com/0eJ45rZ.jpg
------------------------------------------------------------------------------------------
この地図のスタート地点まで行くのに東南に向ったんじゃねーの >>916
また、誰も主張してないことを捏造して文句つけてんのかよ 畿内説の見解
北部九州では紀元前1〜2世紀、朝鮮半島から鉄の素材が入り、
加工して流通するようになった。
弥生時代、倭で最初に本格的な金属器社会に入った地域だ。
初期の国家について「鉄が権力をつくる」との説を私は支持している。
ではなぜ鉄の一大生産地だった九州に比べ出土品も少ない近畿に大和政権ができたのか。 >>915
「東南」なのは末盧国からだろ
九州説は言ってることが全然違うではないか 畿内説の見解2
「北部九州は交易が盛んで、鉄も豊富にあり、経済的にも進んでいた。
空間的、階級的にも分散して社会形成が進んだ。
イメージしやすいのは、みんなで豊かになる「共和制」だ。」
×:矛盾あり
女王国に属さない狗奴国(熊本)における鉄の出土量も大変多いが、
畿内は異常に少ない→鉄文化がまだ浸透していない。 >>916
畿内のは、多いなんて主張してませんけど? >>903
感心
面で地図を見るのでなく、立体で視た方が現実に近いかもな 畿内説の見解3
「一方、近畿は朝鮮半島から遠く、鉄は希少で、ありがたみがあった。
近畿の王は共同体の首長の力を借りて九州から東方へのルートを
握り、鉄を元手に経済力や権力を一極集中させていったとみている。
もちろん鉄だけでなく、広い平野、日本列島の中央という点も近畿で
政権が誕生した背景にあるだろう。」
×:矛盾あり
九州から近畿への鉄の流通を示す根拠は見いだせない。
また、近畿の平地は九州より狭いし倭国が東日本と含むようになったのは4世紀以降の話。 畿内説の見解4
「交易窓口だった九州は外来の物資に頼っていた時代は良かったが、
自給する時代を迎えると東方との差が広がった。」
○:正解
纏向遺跡がそれを物語っている。 >>924
じゃあ、誰が主張してるの?
具体的にお答え下さい 引用元
2018年2月10日 もっと九州掲載
松木 武彦(まつぎ・たけひこ) 大阪大文学部卒、同大学院博士課程単位取得。
専門は日本考古学。日本列島の古墳研究や考古学を通じた戦争、国家形成論などを研究。
2014年から国立歴史民俗博物館の研究部門教授。56歳。 >>867
魏志倭人伝には邪馬台国の兵は鉄鏃を使っていたとある。
その鉄鏃は主に九州から大量に見つかる。
その他、絹や鏡など、魏志倭人伝に書かれたほとんどのものは九州が中心。
畿内にもあると畿内説は主張するけれど、持ち出して来るのは卑弥呼の死後のものばかり。 「?」このような話ばかりでしょ
漫画やアニメ(ゲーム・・・小説?)などに出てくるキャラがいるでしょ、
自分の家の話なんだよ、そういう事にしたい人がいるとか?
実際は、ほとんど寒いな〜の家の話 九州が使い捨てになる鉄鏃に鉄を使えるのは相当流通量が多かった証拠だよ。 それとも・・・以前は、そのように思っていたとか?
ネットなどが普及したりしてきて・・・違うな?と >>764
>サルでも判る南→東…
それくらいしか言うことがないってのは、九州説がサル並みってだけなんじゃないの?
末盧国・伊都国間で方角が間違っているのは確実なんだから、そのあとの行程で
無条件に方角は間違っていないという方が思考放棄に過ぎない
他の記述(計其道里當在會稽東冶之東,所有無與儋耳朱崖同)から、
陳寿が倭国を南国だと認識、想定しているのは確実で、それが現実とは
合わないのだから、南行きの記述もその程度の正確さだと認識するのが当然 >>930
>魏志倭人伝には邪馬台国の兵は鉄鏃を使っていたとある。
はいはい、九州説が得意な文献改竄
魏志倭人伝に邪馬台国の兵が鉄鏃を使っていたとは書かれていない
邪馬台国に鉄が多いとも書かれていない
>その鉄鏃は主に九州から大量に見つかる。
九州説は息を吐くように嘘を吐く
3世紀の九州には鉄は少ない
当時の畿内より多少ましな程度でしかない
>その他、絹や鏡など、魏志倭人伝に書かれたほとんどのものは九州が中心。
これも嘘
3世紀の九州は中国鏡を入手できなくなっている マルムスティーン・・・とか、そういうキャラも同じ
なぜか、寒いな〜の家の話、母親が何やらという話とかでしょ?
『姥清水』 >>935
現実逃避の言い訳大変そうだなw
「鉄が権力をつくる」との説を私は支持している。
松木談 >>935
>魏志倭人伝に邪馬台国の兵が鉄鏃を使っていたとは書かれていない
はあ?
魏志倭人伝を読み直せ。
>当時の畿内より多少ましな程度でしかない
2桁違うらしいなw >>936
相手も知らんで中傷専門か
九州説はダメダメだな >>941
現実逃避乙w
相変わらず糖質も治らんなw >>940
書いてないものは書いてない
きみ、倭人伝読んでないね? >>942
貴重品を詰め込んだ古墳で少しかよw
農具は木製w
全然生活に浸透していないw 熊本では、鉄の鏃が、魏志倭人時代の人民の住居跡に無造作に転がっているのだったな。。。
932日本@名無史さん2019/06/26(水) 12:16:49.34
九州が使い捨てになる鉄鏃に鉄を使えるのは相当流通量が多かった証拠だよ。 >>940
>2桁違うらしいなw
ガセネタだよね
違うというならソース出せ >>944
倭人は鉄鏃使ってダーツでもやってたと言い出すのかな?w
学者のように素直に少ないと認めりゃいいのにw >>947
さっさとガセである証拠を示せよ。
くだらんレス返すな。 わずかな鉄を必死にかき集めても九州の1パーセント以下しかない。
畿内の鉄が増えるのは卑弥呼が亡くなった後のこと。
つまり邪馬台国は九州。 >>946
熊本では、魏志倭人時代の人民の住居跡に無造作に転がっている鉄の鏃が、魏志倭人伝時代が、完全に、終了した後の時代の畿内の古墳に、貴重品として、死体のそばに埋まっていたのだな。。。
942日本@名無史さん2019/06/26(水) 12:32:42.25
>>939
古墳から鉄でるよ 3世紀前半までで九州北部は何個、畿内は何個とデータを出せばいいのに、畿内説にはそれができない。
それをすると降参しなければいけなくなるから。 >>945
>貴重品を詰め込んだ古墳で少しかよw
発掘されてる古墳が少しなの
>農具は木製w
もと沼地には鉄器より適している
鉄器がないと死んじゃうのは九州の荒地 本当に家の母親の話なのかな?
たしか同じような話をしていたし、
嫁に来た頃の話とか、老婆がいるでしょ、あまり性格も良くなかったとか 熊本では、魏志倭人時代の人民の住居跡に無造作に転がっている鉄の鏃が、魏志倭人伝時代が、完全に、終了した後の時代の畿内の古墳に、貴重品として埋められたのは、何故なのだろうか。。。 >>940
魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝だと勘違いしてるアホ
邪馬台国のことで頭がいっぱいいっぱいだからそんな曲解するんだよ >>950
ホケノ山だけで50以上出てるんだが、同時代の九州のどこで5000以上出てる? 銅鏡時代が始まった時間は、九州の方が畿内よりも、約500年早いのだな。。。 >>960
ホケノ山だけだろw
しかも4世紀の土器が出てたらしいなw ホケノ山古墳は、4世紀に作製された物体である可能性が、高いのだったな。。。 父親の兄弟(妹など)がいるでしょ、
母親が嫁に来たばかりの頃は〜?何か言っていたような
家族で親戚(わかりやすく言うと父親の妹)の家に遊びに行き、
私(母親)だけ家で留守番をしていた事もあった、
兄(まだ赤ちゃんだった)も連れていきとかw 鉄が少なかった九州は、鉄がもっと少なかった畿内に飲み込まれた
これが歴史的事実 >>834
布留1式という式が埋まっている地層から発見されたという、木製の鐙が、世界の常識では、5世紀の物なので、
較正曲線という、僕達にはそれが何なのか全く分からない曲線も、右の方向に、150年ずらせば良いのではないのかな。。。 >>969
つまり、ホケノ山古墳は、4世紀末に作製されたことになるのだね。。。 結局また九州説は
常識と歴史学を破壊しないと立ち行かない 当時の国はどこも小さいわけで、魏志倭人伝記載の通り従う国の数が30カ国だとすればはっきり言ってかなりショボい国
その国が九州から畿内まで勢力下に置いていたわけがない
しかも奈良からは鉄はあまり出ていない。畿内説は無理がある >>969
較正曲線という、僕達にはそれが何なのか全く分からない曲線が、間違っている可能性はあるのだが、そのこと以外にも、
炭素の原子核が崩壊するという物事が、半減期という謎の数字を正しく知る事が出来たとしても、時計としては使えない要因が、まだ、たくさんあるのだったな。。。 >>972
まさにそれが畿内説w
現実逃避は脳内が忙しそうだなw 頭の悪いプロ固定は、世界の常識に、どのように、挑戦するのだろうか、、、
971日本@名無史さん2019/06/26(水) 12:54:50.57
>>969
5世紀の物じゃないよ
972日本@名無史さん2019/06/26(水) 12:56:20.75
結局また九州説は
常識と歴史学を破壊しないと立ち行かない 5ちゃんねるのサクラが、嘘や悪口や頭の悪い者達しか思いつかないテンプレートや意見を発表し、スレッドを盛り上げるだけではなく、
呟き荒らしの狂気で、スレッドが活発化しているのだという演出をしていることが、
頭が悪すぎるので、バレてしまったのだが、
客観性を欠いた恣意的史料解釈が得意な奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から、共産主義的に結びついた、同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ない、、。
という僕達の挑発も、在日韓国人の奥山氏には、気にならないほど、邪馬台国畿内説には、思い入れがないのだろうか、、、 >>973
九州で発見される土器は畿内が鉄と交換して貰ってたんだろう。
土器の浸透は祭祀文化の広がりを示すのかもしれないが、それは政権とは無関係。 『サイバーパンクspecial』
どう考えても同じだしな・・・、川崎区の南部のほうでしょ?
なぜ知っている人がいるのか?なんだよな 老婆、それとも父親?
もしかして監視されているのかな?いたとか? >>978
>土器の浸透は祭祀文化の広がりを示すのかもしれないが、それは政権とは無関係。
古代の政祭一致は世界の常識
九州説は常識破壊が好き >>790
>卑弥呼が即位して倭国大乱が終結したんだろ。
鉄鏃が激減するんじゃなくて、鉄素材のもの全部合わせても激減するんだよ
北部九州でも、甕棺墓が廃れると鉄が溶けるようになってるww 銀〜という親戚がいてという話も同じだしな、
あの謎の漫画w
当時住んでいた家に凄い刀が飾ってあって 頭の悪い奥山氏の自作自演で、まるで、、、、魏志倭人伝時代での土器の浸透や九州への祭祀文化の広がりがあった、、、という印象操作をしている可能性が高いな。。。
982日本@名無史さん2019/06/26(水) 13:08:37.24
>>978
>土器の浸透は祭祀文化の広がりを示すのかもしれないが、それは政権とは無関係。
古代の政祭一致は世界の常識
九州説は常識破壊が好き >>821
>一番でかい主墓は67の共同墓地の中でも初期に出来たと考えるのが普通だろう
祇園山古墳は段築、葺き石があるから、古墳時代に入ってからの
古墳の作り方の規格に則って作られた古墳時代の古墳
甕棺墓地を無視して古墳を作るのは北部九州では他にもあって、
原口古墳と同じ状況
それに、周辺の土坑墓で祇園山古墳を作るときの地山整形で
上部を削られてしまったものもあるので、明らかに祇園山古墳の方が
後に作られている 魏志倭人伝時代での畿内から土器の浸透や九州への、、、カエルや桃や木製仮面の、、、
掘立小屋型祭祀文化の広がりは、無いな。。。 地名を書き込んでみた。
どうぞ使ってくれ。
末盧国→伊都国が東南である図
https://i.imgur.com/BkaJnXY.png >>989
ザラコク氏が繰り返し発表してきた、プラズマテレビのような物事と関係あるのだろうか、、、 >>991
同位体の比率を測る方法は、複数あるのだろうか。。。 >>823
この人、じゃなくてザラゴキなww
この老人は、現代物理を真っ向から否定するトンデモ爺なんだよw
14C原子核を電磁場に置くとベータ崩壊が促進されるというのが持論だからねww
触るだけ無駄だよ
他人とはコミュニケーションできないタイプで、再反論されないように前スレに
コメントするっていうバカだからww 『ドリフターズ』という作品の登場人物
ばかやろー、このやろー?
家は、この人物と同じような名前の家なんだけど 日韓編年交差という得体の知れない物事や、プラズマテレビのような物事や、黒い箱のような得体の知れない物事では、何もわからないので、
大物主神が、神通力で、畿内馬具を残してくれたのではないのかな。。。 むかーし住んでいたというところも、
会津ではないんだけど、いまの福島県
姥清水でしょ? >>945
>農具は木製w
木製農具は土に打ち込む部分に鉄の歯をを付けて使うんだよ 5ちゃんねるのサクラが、嘘や悪口や頭の悪い者達しか思いつかないテンプレートや意見を発表し、スレッドを盛り上げるだけではなく、
呟き荒らしの狂気で、スレッドが活発化しているのだという演出をしていることが、
頭が悪すぎるので、バレてしまったのだが、
客観性を欠いた恣意的史料解釈が得意な奥山氏が想定している、一大率の本部が、どこであっても、
朝鮮人の歴史が少しでも古くから始まっていることを宣伝したい者達の年代の操作に、日韓編年交差という得体の知れない形で同調した邪馬台国畿内説という、共産主義思想と同様に唯物史観を前提にした、詭弁に満ち溢れた仮説では、
魏志倭人伝時代の桜井市から、共産主義的に結びついた、同じ祭祀連合の内部の伊都国に一大率を派遣し、九州を検察し恐れさせたという空想を、
庄内併行期という、あまり、頭の良くない者達が使用している言葉が指し示す期間が、紀元260年から紀元410年までの期間の内に完全に収まっているという、当たり前の真実を、無視したとしても、
奥山氏は、絶対に説明出来ない、、。
という僕達の挑発も、在日韓国人の奥山氏には、気にならないほど、邪馬台国畿内説には、思い入れがないのだろうか、、、 やはり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しましたね。。。 このスレッドは1000を超えました。
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