夏休みの、邪馬台国はどこかの研究
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外国人が、邪馬台国は奈良にあった、という嘘を宣伝していますが、騙されてはいけません。 ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代皇帝司馬炎は、祖父・司馬懿(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまったミスを誤魔化し、呉を滅ぼす先鞭を付けたことにしてあげたかった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て宿敵孫呉との戦いにおいて、最高の牽制となるその背後に倭国「女王之所都」があるためには、
ライバル孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡(蘇州)「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、九州島(倭国)が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽冶之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島をベースに、幻の邪馬台国島を、そして東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して、幻の【奴国A】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!全速後退!!」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=CJN8oxJIelc
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大国主・大物主・饒速日3代の纏向宮殿→箸墓Ω前方後円墳墓担当の物部氏へ)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」 >>4の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>5)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌───▲奄美大島┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作〜〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│△△▲△△△△△│←亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 僕は、邪馬台国は、九州を一ヶ月歩いたら、見つかると思いました。
なぜなら、魏志倭人伝に書いてあるからです。 頭の悪すぎる外国人の大人が、小学生の自由研究を荒らしにきましたね。 僕は、邪馬台国は熊本平野にあったという真実を知ったので、2学期に発表します。 邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪すぎる朝鮮人の大人は、日本の小学生の夏休みの自由研究を邪魔しないで下さい。 邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人は、自作自演で荒らさないで下さい。 >>4-6は朝鮮人の自作自演の貼り付けということは、バレています。 朝鮮人という言葉は差別用語ではありません。
貴方達を指す言葉です。 朝鮮人の大人の人は、小学生にも嘘だとバレてしまった邪馬台国畿内説を、宣伝しなでください。 「連続句読点がそのコピペは朝鮮人がやってるって断定している」 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1563532718/63
63日本@名無史さん2019/07/19(金) 20:18:45.91
>>4-6は朝鮮人の自作自演の貼り付けということは、バレています。 >>4-6を最初に発表した人の著作権を無視した朝鮮人が、無断使用していることがバレてしまいましたね。 邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪すぎる朝鮮人の大人は、日本の小学生の夏休みの自由研究を邪魔しないで下さい。 >>4
>>6
卑弥呼の魏帝への朝貢理由は要するに狗奴国戦争における援軍要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置(比定)であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国「東渡海」千里「複有国」皆倭種(◎九州説…豊後水道、〇四国説…紀伊水道、?畿内説…鈴鹿山脈?)
−其南有狗奴国(◎九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、?畿内説…仲良し東海?)
畿内説はいずれも当てはまらず、3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)は無理がある(後述)。
消去法によって、九州説が正しい。
狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸(35万石)を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸35万石)もしくはそれ以上の人口(八万戸40万石)と仮定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地(狗古智比狗の本拠)+熊本+八代の3平野を合わせた超大国と想定して、
北の邪馬台国は筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所&(天気が良ければ)福岡平野→糸島(伊都国)→壱岐島までズドーンと見渡せる甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(上方下円墳)を比定。
祇園山古墳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
https://sora07.exblog.jp/26083348/
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12288771975.html >>105の続き
すると、もう一つの謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明。
古代史は以下↓のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の説諭で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国系(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国系(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏>晋>「宋>斉>梁」南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国系(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。九州年号創設。
倭王阿毎多利思比孤「日出処天子」隋煬帝「日没処天子」に対等外交=(隋の悲願、高句麗征伐の鍵となる)新羅からの朝貢を機に「独立宣言」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家となり、飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…前方後円墳の大連物部守屋を滅ぼす。大和分家を乗っ取ろうとした大臣蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種・九州年号&多利思比孤を抹消すべく、崇神朝・応神朝・継体朝の倭王権(九州王朝)内の抗争が、すべて大和で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>109の続き、
伊都国系・崇神朝を乗っ取った邪馬台国系・応神(胎中天皇)は、仲哀の子供ではなく、三韓征伐のため筑紫大本営にいた神功皇后と大臣・武内宿彌の子供説がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の景行・成務・仲哀、続く応神(自分の子)・仁徳(自分の孫)に仕えた彼は、筑紫邪馬台国・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
次に、磐井の乱で、邪馬台国系・筑紫応神朝(♂武内宿彌&♀神功皇后)を乗っ取った阿蘇狗奴国王・継体は、武烈の妹・手白香皇女を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図っている(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教による国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
用明の代で、強硬な廃仏派である大連・物部氏長者の守屋を滅ぼした。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝→「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、奥津城大和に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳畿内には、記紀伝承地に王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html >>115の続き
ダイワとしか読めない大倭(後に大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?邪馬台国があったからではなく、その逆である。
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号+「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったたからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!(日本初の中国式都城=新益藤原京から「大和」と改称)
魏晋南北朝〜唐までは、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝
「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書
A「日本(本州)倭国(九州)之別種 以其国在日辺 故以日本国(本州)爲名」
或B「以倭国(九州)自惡其名不雅、改爲日本(本州)」或C云「日本(本州)舊小国、呑併倭国之地(九州)」
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった。(倭国=九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭国と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、誠実でなかったので、中国は彼らを疑った。
つまり、事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家に東遷後、実際はすべて九州倭国で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音を九州倭国当時の都であった筑紫邪馬台・阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに畿内説、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権は、この複雑なからくりに惑わされて生まれた鬼っ子(幻想)で、古墳時代の畿内は、一貫して九州にいた倭王の霊廟奥津城に過ぎなかったのである! 僕は、小学生なので、邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の事情のことは、わかりませんが、このスレッドを読んで、邪馬台国畿内説が完全に破綻したことは、わかりました。 倭人伝の解読は終わっているのだから
何故、日本では、考古学での歴史認識の改竄を通じて
古代史ミスリードをよしとするのか? を研究すべきではないのかな?
日本人には記紀が有るから
起源を捏造できる、とファンタジー的に考えているのではないかな? 祇園山とか盗掘されて主募が誰かわかんないに
古い時代の甕棺混じってるしで九州には3世紀の遺跡が無いが
近畿には纏向遺跡があるよ 僕は、邪馬台国のことを、夏休みの自由研究で研究したら、巻向遺蹟は、4世紀の遺蹟だという真実を発見しました。 畿内説がいかに狂っているか荒らしぶりからよく分かるスレ上げ 僕は、邪馬台国は熊本平野にあったという真実を知ったので、2学期に発表します。 僕は、邪馬台国は、九州を一ヶ月歩いたら、見つかると思いました。
なぜなら、魏志倭人伝に書いてあるからです。 邪馬台国畿内説を宣伝する頭の悪すぎる朝鮮人の大人は、日本の小学生の夏休みの自由研究を邪魔しないで下さい。 いくら九州でも、一月歩くと横断も縦断もできてしまうので、1日の間違いです。 前方後円墳が、作成された頃から100年経つまでの巻向が、労役の者達を含めても合計が200人程の集落でしかなかったという重大な真実は、夏休みの自由研究に魏志倭人伝を選択した小学生達に、どのような影響を与えるのだろうか。。。 私が今まで言ってきたことがやはりほぼ主流になりつつありますな。
当時は散々みなさんにばかにされましたが。
糸島の特に志摩は今の天皇家の故郷であり聖地。
邪馬台国は福岡平野にあり、30余国は福岡平野のクニムラの数。
奴国が卑弥呼時代の邪馬台国の南限であり北限は半島南岸。
狗奴国は久留米付近にあり、あるいみ倭国内であり元は福岡平野の国々とは同盟を結んでいた倭国内の国。
卑弥呼時代に今の基山、三国境付近を界に争っていた。
南九州は熊襲。あるいみ倭国とは別。
天孫族はのちに志摩や伊都から邪馬台国の中心部福岡平野の国々を従えた。
国生みや神産みはそれを正当化するための物語。
大国主は遠賀川流域におり直方付近と思われる。
大国主を追い出して大国主は出雲へ追放。
大国主に従えていた宗像三女神は天照大神とスサノオの儀式で天孫族に支配されるべきことを正当化される。
六ケ岳や宗像の猿田峠はその証。
神武天皇は初め福岡の京都郡で福岡県東部の大国主一派の豪族たちを取り込む戦いをしていたが、関西への東征を決意し
福岡平野にもどり筑紫より東征開始。
こういった事がのちの真実にきっとなりますよ。
by筑紫倭皇帝 小学生達に真実を発表します。
2013年、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまいました。 小学生達に真実を発表します。
邪馬台国畿内説は、韓国政府が作成しました、、、 頭の悪い、邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の大人は、日本の小学生の夏休みの自由研究のための、このスレッドを荒らさないで下さい。 小学生の僕達は、邪馬台国は畿内とは、関係がないという真実を発見したので、邪馬台国畿内説が破綻したことを宣言します。。 奥山相対性理論も、邪馬台国畿内説も、完全に破綻したので、日本の小学生は、外国人に騙されないように、夏休み中も規則正しく生活して下さい。。。 学歴コンプレックスのキナイコシくん、荒らさないように! 学歴に自信のない人が学歴を持ち出すよね
畿内の情報は一番僕が知ってるんだ、ってやつ 外国人の大人の人は、僕達、日本人の小学生の夏休みの研究を邪魔しないで下さい。
意見を発表します。僕は、九州には、魏志倭人伝時代の人民の家や、魏志倭人伝時代の鉄の武器が、たくさん発見されるから、
邪馬台国は、九州にあったと思います。
他の小学生も、意見を発表して下さい。 >>598
私も、邪馬台国畿内説を宣伝している、朝鮮国籍を持っている奥山という外国人は、スレッドを荒らすので、日本人の小学生達にとって、悪い人だと思います。
邪馬台国畿内説を宣伝することが失敗したからといって、スレッドを荒らさないで下さい。
意見を発表します。
巻向集落には、人民が少ないですが、馬がいたので、古墳を造れたのだと思います。
でも、馬が輸入されたのは、4世紀なので、古墳と邪馬台国は、関係がありません。 結論。
魏に遣いを送り「親魏倭王」を拝命した卑弥呼なる女王がいたという邪馬台国は、
九州の豊国(大分県ほか)、都万国(宮崎中〜北部)の連合王国を統べていた宇佐(宇佐神宮)の媛巫女(ヒメミコが中国人にはヒミコに聞こえたらしい)の豊玉媛命。
目的は、大和(奈良)の王朝(磯城〜和邇王朝)並びに出雲王国を殲滅、平定する為の後ろ楯を得るため。
魏帝国の八流の幡(錦の御幡)が宇佐の宮に翻った(魏帝国の属国となった)事が、
宇佐の宮が八幡宮と呼ばれる原点となったようです。 夏休み中の日本の小学生の皆さん、今、夏休みの自由研究のためのこのスレッドに対して、卑劣な荒らし行為を実行しているのは、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏という、頭が悪すぎる朝鮮人です。
大人の中には、卑劣な者もいるので、注意して、安全に、夏休みの生活を送って下さい。。。 鉄鏃が古墳に副葬されているが
住居跡からは見つかっていないということは
きっとホケノの主は九州からやってきた武人なのだな
弥生時代の鉄鏃の出土が熊本大分福岡に偏るということを畿内説の人は無視しているのだ、、、 >>660
わかりました。日本の小学生の僕達は、注意して、安全に、夏休みの生活を送ります。 句読点は多分朝鮮人
日本人は義務教育レベルで授業中に寝てたりしない 邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏という者の荒らし行為には、負けないで、日本の小学生の夏休み中の自由研究を、続けます。
意見を発表します。
魏志倭人伝には、女王国以北という言葉が、二回使われます。
僕は、女王国以北が、女王国を含めるかどうかが、重要だと思います。 >>684
賛成します。
私も、邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人の奥山氏という者の荒らし行為には、負けないで、日本の小学生の夏休み中の自由研究を、続けます。
女王国以北は、一大率が検察したので、女王国を含めないと思います。
私は、漢字クラブなので、魏志倭人伝を翻訳しました。だから、間違えません。 俺様は、桜井が発展するためには、女王国以北は、女王国以西だと良いと思うな。
俺様は、頭は良くないが、6年生だから逆らうな。良いな。 >>685
では、邪馬台国という名前の卑弥呼の都は、7万戸と戸数は判っているが、道のりがわからないので、道のりを略載しなかったことになりますね。
なぜなら、女王国以北は道のりと戸数の両方が判明しているので、卑弥呼の都が女王国以北ではないなら、水行陸行日数は、道のりを略載しなかったことになります。 >>687
私は、漢字クラブなので、魏志倭人伝を翻訳しました。だから、女王国の一部でもあり、入口でもある奴国までは、12000里だと略載できたましたが、女王国の内部の国々は、都である邪馬台国も含めて、中国人には里数が分からなかったのだと発見しました。 >>686
僕は九州の小学生1年生だが、貴方の意見に反対します。
理由を言わずに、北を西にしては、駄目だと思います。 >>689
俺様は、九州の1年生に理由を言えないので、論破されたのだな。 大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
後漢書より >>670
なんかの表で見たけど鉄鏃が出るのは
福岡熊本、大分宮崎の県境がやたら多いんだよな。
もしや邪馬台国対狗奴国は九州南北戦争レベルの大抗争? >>685
そこでいう女王国より北、の女王国とは邪馬台国本国のことだよね。 >>704
誰もがそう思ってるよ。
あと、俺は最終的に狗奴国が東征したと思う。 >>706
実は、桓檀古記には狗奴國が筑紫野を占めて
甘木朝倉に引いたのち
博多湾勢の邪馬壱国を滅ぼしたことになってるらしいぞ
夏休みの宿題に最適な邪馬台国朝鮮半島説
?大人たちの知らない日本人の起源?It's time to tell the truth?
http://lelang.sites-hosting.com/naklang/kadai.html
>>741
>桓檀古記
縄文人がまだ半島に住んでいた頃の話だなw >>744
初心者?
全然違う。
基本的に縄文人は朝鮮半島には定着していない。
縄文期を通して、あちらに在地産の日本系の縄文土器遺構がないからだ。
詳述すると、まず1万年ほど前に済州島に九州の隆起文土器が伝わり、
8000年ほど前に朝鮮半島南部に隆起文土器が伝わるが、九州の隆起文土器ではなく、
済州島の隆起文土器であった。
6000年ほど前に遼東半島から櫛目文土器が朝鮮半島に伝わり、
朝鮮半島における隆起文土器時代は終焉を迎えた。
土着の古モンゴロイドか中央モンゴロイドか分からない集団に、
済州島から縄文人の後裔が入り、そのあと遼東半島の中央モンゴロイドが入った。
ウラル系民族に駆逐してやるといって縄文人は駆逐された。
こういう流れ。 もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、前方後円墳如きで邪馬台国を名乗るんじゃねーよ、平和ボケが。
なんか川の中州の倉庫なんて持ち出すし。一家揃って歴史歪曲か。おめでてーな。
よーしパパ勝利宣言しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、三角縁神獣鏡やるからその席空けろと。
倭国ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
筑後川の向かいに座った奴といつ戦争が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。畿内爺は、すっこんでろ。 自由研究というなら自分で考え無いと。
意見羅列してもしょうがなくない? 方角を知るのは難しくないが、距離はどうやって決めたのかをじっくり考えてみた方がいいな。 借りに水田で考えて、平地を耕地として使える場合、
ある人数を養うにはどれだけの平地を必要とするかも計算し、
参考にすることをお勧めする。 古墳はなぜつくられたのか、
巨大古墳群などはそこで何が起こったことを意味するのかも
考察した方がいいな。 各地域の主力産業は何か、2地域間ではどのような交易が行われてたかも推測しよう。 日本書紀の紀年論ははたして合ってるのかを考え、
魏志に出て来る邪馬台国の時代は日本書紀で相当する年代の候補を上げ、
魏志だけでなく日本書紀に書かれてることもあわせて地政学を推理してみよう。 >>797
古代朝鮮(現在の遼寧省近辺?)動乱での戦争疎開民だろ 普通に >>799
倭を日本列島と記した古代文献は一つもない
中国の学者楊守啓氏がいうには、「朝鮮側の史料『東鑑( 東国通鑑) 』では詳らかではないが、
日本の史書から判断すると、高句麗広開土王即位の年は西暦3 9 1 年であり、日本では仁徳天皇の治世時に当たる。
しかし、この間、両国には抗争の事実はみられず、又、中間の履中・允恭両天皇の時代にも、高句麗・新羅と闘争の事実はない。
又、三宅米吉氏も『高麗碑考』の中で同様のことを語っている。即ち、「倭・倭人と高麗との抗争記述も、
『日本書紀』など日本側の記述に対応すべきものがなければ、強いて附会する必要はなかろう。
碑文中に現れる倭が、大和朝廷で在ることを明証した論考は現れていないのである」との見解を述べている。
倭や邪馬台が何処であろうと、我が国の古代史に繋がることではないので、目角を立て附会曲解をする必要ないこと、論ずるまでもない。
「倭」そのものゝ総体的な輪郭が把握できず、「邪馬台」が「大和朝廷」の前身などという固定観念で、
これら倭人に関する伝記などを捏ねくり返してみたところで、先人の糟粕を舐め啜るのが落ちであろう。 滞在場所から多数の地域に数珠つなぎのように訪れるようなことを普通するだろうか
ということも今一度考えてみよう。 >普通するだろうか
そもそも日本列島の古代の人口年成長率が普通じゃないから 聞き取りだから、どの順番で並べて話したかは、当時の倭人の心持ち一つだよ。
図解ならともかく、文章にするには数珠繋ぎに見えるように記述するしかないわけだ。 衛氏の古朝鮮の所在地は現在の遼寧省近辺
そのあたりから高句麗や百済が起こったと考えられる
一方倭の勢力は現在の朝鮮半島の北限あたりまであったとみられており
時代を経るごとに北方からの勢力に押され、だんだん朝鮮半島を南下していったと見られる
実際に古代の人口動態を調べてみると
朝鮮半島も日本列島も紀元前ごろスカスカで世界的に見て突出して爆発的な人口増加してる地域になってる
戦前の記紀信奉の帝大の御用学者たちと旧日本軍のせいで朝鮮半島の文化遺物が荒らされたせいで
現在のようなヘンテコな学説が定説として残されてしまったのだろう 魏の史書に言う邪馬台国の女王卑弥呼。は、
どこで誰かは伝承から判明しています。
時代は日本/倭国大乱の時代。
日本書記や古事記に言う神武天皇の東征ぬやの物語(前後150年にわたる。)
結果として、700年続いた古代出雲王国がフルボッコに壊滅的被害を蒙り王国は滅亡(かろうじて王家は滅亡を逃れて残った)とその親戚の
大和の王朝(海王朝(高尾張王朝(葛城の笛吹に都す所以))→磯城王朝(磯城に移る(大和の王家と有力な豪族たちが覇権を争い半ば内乱状態))→和邇王朝(和邇(天理市)に移る)。
初代大王は海(天)村雲命(徐福の孫!系図上の神武天皇)。最後の大王は11代彦道主大王。因幡の宇部神社に隠棲。子孫は因幡国造家となる)
大和(奈良盆地)を平定したのが物部イクメ大王=垂仁天皇(系図上)=リアルな神武。
本題に戻ると、物部イクメ大王の継母(義母)で九州の都万国と豊国の連合王国(魏書に言う邪馬台国)を掌握して女王となった宇佐族の月の女神/月読神の媛巫女(ヒメミコ(中国人には「ヒミコ」に聞こえたらしい))の豊玉媛命。
、、、都万国は、宮崎/物部イニエ王が始祖の徐福(ニギハヤヒ/スサノオ)や御子のホホデミ(母親は宗像の市杵島媛命!)以来、長年先祖代々本拠(都)としていた吉野ヶ里(物部王国/筑紫国)から
(徐福以来の悲願の倭国(日本列島)の大王となる)大業を実行に移すため
旅立って途中(久米/久磨で)兵を集め、鹿児島を周り宮崎にいたり建てる。
その際、鹿児島(アタ)の豪族(どうやら出雲族か?)のど偉い別嬪のアタつ姫を見初めて一夜必中の濃い子種の白濁液を注いで懐妊〜生まれたのがイクメの御子(イクメ大王/垂仁)、)
この恋女房のアタつ姫さまは御子を生んだ後余り長生き出来ず短命だったようです。
都万国を建て、北に構える由緒ある豊国宇佐王家と対峙。
一色触発の緊張/危機的情勢の中、和平が成されて宇佐の月の女神の媛巫女(女王)の豊玉媛と政略結婚して
都万国(物部イニエ王)と豊国(宇佐)の連合王国が成立。
最盛期(大和や出雲に侵攻直前)には魏書に言うように西都原までに広がった領域に人口は七万戸に及んだようです。 >>806
都万国を建てた物部イニエ王と豊国宇佐王家の媛巫女で女王の豊玉媛命が政略結婚して都万豊連合王国が成立した話を、
イザナギ(イニエ王)が筑紫(を旅立ち)の日向(に至り)橘の小戸の阿波岐原(緊張の都万と豊の国境にて) 御祓祓い(和平が成立)たまひしときに、、、
との祝詞(御祓祓詞)になったとの事です それで、何んで都万国豊国連合王国(邪馬台国)の女王で媛巫女(卑弥呼)の豊玉媛が
魏帝国に遣魏使させたか?
幾度となく書いている様に出雲王国と係累の大和王朝らを殲滅して平定する為の
後ろ楯を三国に分裂した中国帝国の内最も有力な魏帝国に求めた結果、
使いを送り、貢物を献じて(朝貢して)その属国となる事を選んだ為です。
使節団のほぼ全員と豊玉媛には魏帝国から叙任され高い官位を賜り、
豊玉媛は「親魏倭王」の称号や魏の8本の錦の御幡他を賜りました。
この魏帝国の8本の御幡が宇佐の宮に翻った事が後世、八幡宮と言われる源泉になったようです。
この使節団の随行員に武内宿祢大田根がいました。
本来は大和王朝の紀伊国造家(海村雲命の異母弟、高倉下の子孫)の武内(タケシウチ)家の人ですが、
イニエ王の招聘に応じて九州勢力に走りイニエ王から可愛がられて物部王家の重鎮(最高)の称号で地位の宿祢を賜りました。
イニエ王が早死して豊玉媛やイクメ王の代になると所詮は外様。どうやらあからさまな冷遇を受けたようで、
魏に使いして使節団の皆が叙任され高官位を賜り莫大な財物を下賜りましたが、
一人、武内宿祢大田根だけは(豊玉媛やイクメ王らが根回しさて叙任をさせない、財物を下さない等のあからさまな嫌がらせ工作の結果、)
無位無冠、手ぶら?で帰国。
上の工作を聞いた武内ちゃん。九州勢力をみかぎって元のサヤの大和側に走り寝返ります。
いよいよ九州の連合勢力(物部、豊国宇佐勢、但馬勢)が大和に侵攻してきたさい(総帥は物部イクメ王)には
大和側として迎撃してよく抗戦しますが
時に利あらずして大和王朝最後の大王、11代彦道主大王と共に大和を逐われて退却、、、道主大王は姫御子のヒバス姫をイクメ王に差し出す等して降伏。
海村雲大王以来、約300年11代続いた海(高尾張)、磯城、和邇に都した大和王朝は滅亡しました、 その後も因幡に退いた彦道主大王/彦タツ王(即位前の名)を守って武内大田根(宿祢の称号は大和に走った時点で剥奪、消滅)も
因幡に至りました。が、
大和の新たな大王となった物部イクメ大王に裏切り者と憎まれて刺客が放たれたとの急報を得た武内さん。
すぐさま農民に変装して取るものも取り敢えずそのまま西に走り去りました。
彼は出雲王国の旧王家、富(トビ)家に庇護を求めて匿われて、
衣食住を与えられ庇護され、人心地付いた頃に
富家当主(富の大田彦(=後の野見宿祢)、出雲王国が存続していれば18代オオナモチだった)から
大田根さん、ちょっと話が有るんじゃが、、、、
ウチの女を嫁に貰ってくれんかな?、、、
っていうことで武内大田根さんは元王家のお姫様を嫁に貰って、
改めて宿祢の称号は未来永劫に破棄すること、代わりに出雲王国の王族の称号の臣(オミ)を賜り、
「武内臣大田根」と号します。
姫さまとの間に無事、お子さんを成しまして(この事が後の日本の歴史上最大の分岐点に成ります)
与えられた屋敷の >>842
屋敷の跡が武内神社となり現代に伝わります。
武内臣大田根さんの曾孫に九州の日向に勢力を張り王となった武内臣襲津彦王が現れます
いわゆる日向襲津彦と言われるお方で、
彼の人望や華麗で幅広いネットワークを駆使して彼の下に空前絶後の大軍団、兵船団が集結したことで、
ある種、絵空事で在った神功皇后の半島三国平定が実現(史実です)して
莫大な賠償や年貢を得たお二方の間にはホムタの御子が生まれます
その半島三国からもたらされる莫大な年貢を納める倉庫番人に襲津彦王の御子の一人の
「武内臣(平群)都久」さまが当たりました。
国の大倉庫の中身を啄みツツき続けて肥え太りやがて王権を簒奪して自力したのが、、、、
大雀大王(仁徳天皇)=(武内臣)平群都久クサイ 邪馬台国畿内説を宣伝する係員の奥山氏への弔辞を発表します。。。
奥山氏、今、僕達はあなたにお別れを告げようとしています。昨日、討論していた時はあんなに元気だったのに、、、突然、自殺体になろうとは、誰が予想できたでしょうか。
振り返ってみれば奥山氏と僕達との出会いは、5ちゃんねるの掲示板でした。偶然に僕達がスレッドを覗いた事がきっかけで、魏志倭人伝時代についての討論会で一緒に過ごしました。
奥山氏は、あの時からずっと変わらず卑劣な論敵でいてくれました。そして、奥山氏はいつも僕達に論破されましたね。。。僕達にとって奥山氏は、頭の悪さを楽しませて貰え、笑えてリラックスさせられる存在です。
奥山氏が頑張っているから、僕達が癒される、、、いつもそんな思いで生きてきました。
奥山氏、どうぞ安らかに眠ってください。また、天国であなたと討論できる日までお別れです。
奥山氏、本当に心よりありがとう。 キナイコシを楽しそうに使うやつは基本日本人じゃないからなww よかった! 頭のおかしい小学生なんていなかったんだね! 古代の日本人?を中華の人々が倭(ワ)人と言ったか?
について、冗談みたいな説(話)に、
古代日本人?は自分の事(一人称単数)を「ワ」と言ったから。
その「ワの音」に大中華思想の下、卑字を当て字されたのが倭。
実際、現代人も自分自分の事をワ+○○と言います(わたくし、わたし、ワシ、ワレ、)し、
東北地方にはそのまま、「ワ」と言っています。 >>865
ワ、が残る
津軽地方の古代豪族/王家の安東氏は、もともとヤマト(奈良)の王朝の王族、大彦(太子や大兄に同じ。大王家の嗣子、跡継ぎ。キキ神話は彼を長脛彦と卑下した)の子孫末裔に当たります(現在の首相殿下は大彦の末裔)。 >>866
大彦率いる旧ヤマト磯城王朝勢力がヤマトから排除されて一時(相当期間)本拠地を構えたのが琵琶湖畔の近江。
彼は出雲族の信仰、祭祀を重要視して巨大銅鐸を作り、最高神のクナト大神に因み
自らの国の名称もクナト国と号しました。
これが、中華に伝わり、大中華思想の下、卑字かされ、同じく省略化されて表記されて「狗奴国」と書かれました。
三上山を大和の三輪山に見立てて往時のママの祭祀を行っていたという。
ササキ氏は大彦の御子のササキ君の子孫。ササキ神社が総氏神。
大彦さまは出雲王国に自ら出向いて直接加勢を依頼しますが、
出雲王国側に余裕はなかったことから断られました。
出雲王国側からは大彦さまに出雲王国の親戚が多くいる北陸地方へいく事を勧められ、
北陸に至り、その地でなくなったとの事です >>865
>古代日本人?は自分の事(一人称単数)を「ワ」と言ったから。
>その「ワの音」に大中華思想の下、卑字を当て字されたのが倭。
実際に倭人が大陸と交渉する以前の論衡に百越の流れの倭が出てくるから、その説はあたらない よかった! 頭のおかしい小学生なんていなかったんだね! 中国人が言ったんじゃないの?
我(ウォー)←中国人
我(ワレ)→欠落→我(ワ) 自分のことは
我(ウォー)
相手のことは
你(ニー) なに書いてんだかなこのバカ
そこでおまえが噛み付く理由なんかがある方がおかしいだろw 邪馬台国と卑弥呼の存在について
結論から言うと
「邪馬台国」も「卑弥呼」も日本全域に存在した
その理由を説明しよう
「邪馬台国」=「大和国」=「山人(やまと)国」(重要)
「山人国」とは「山の人の国」
「山の人」とは「天上の神」=「太陽神」のこと
つまり
「邪馬台国」とは「太陽神の国」のこと
これは「一般名称」(重要)のことである
このことにより
日本全域に自分が住んでいる国の名前を「山人国」→「大和国」→
「邪馬台国」と呼んだのである
その中で国力が強かった二大勢力が「畿内」と「九州」である
その後最大勢力になったのが「畿内」(奈良)である
これにより「畿内」説、「九州」説の論争に終止符が打てる 次に「卑弥呼」について説明しよう
「卑弥呼」=「日巫子(ひみこ)」=「太陽の巫女」(重要)のこと
つまり
「卑弥呼」とは「太陽の巫女」のこと
これも「一般名称」(重要)のことである
このことにより
日本全域に「邪馬台国」があり日本全域に「卑弥呼」がいたことになる
その中で一番権力を持ったのが「畿内」(奈良)の「邪馬台国」の「卑弥呼」である
だから現在「奈良」は「大和国」と呼ばれている
これが「邪馬台国」と「卑弥呼」の真実である 「日本人」は「どこから来たのか」について
結論から言うと
「フィリピン諸島」=「縄文人」
「中国大陸」=「弥生人」である
その理由は
「フィリピン人」と「縄文人」は「肌の色」が違うだけで
「体格」、「容姿」が同じである
(低身長、丸顔、二重まぶた等)
「中国人」と「弥生人」は同じ「体格」、「容姿」をしている
(高身長、面長、一重まぶた等)
「原日本人」である「縄文人」が「フィリピン諸島」から海流に乗って来て
初めて上陸したのが、現在の「宮崎県」の「日向」あたりである
そして「高千穂」を「聖地」として多くの人が住みついたのである
これが「天孫降臨」の「原型」である
「日向」あたりから多くの「亡骸」を「水葬」にして海流によりたどり着くのが現在の「高知県」「愛媛県」の海岸である
これが「四国」=「死国」=「死者の国」の呼び名の「始まり」である 次に「弥生人」が紀元前3世紀あたり「中国大陸」から「朝鮮半島」を経由して多くの人がやって来るのである
それが「弥生時代」の「始まり」である
その時に「天皇陛下」(皇室)の「祖先」が「日本列島」にやって来る
その「上陸場所」が現在の「島根県」の「出雲」あたりである
だから「皇室」は「出雲」と関係が深いのである
「天皇陛下」(皇室)の「祖先」は
「中国大陸」から「朝鮮半島」を経由して
「弥生時代」に渡ってきた「シャーマン」(医師、呪術師)
その証拠が当時「中国大陸」にしかなかった「菊」(薬草)を
「天皇家」(皇室)の「紋章」にしていること
「天皇陛下」は今も「シャーマン」(祈る人)である
これが「日本人」の成り立ちである 「天皇陛下」(皇室)と「日本人」との関係
「天皇陛下」(皇室)の「祖先」は
「中国大陸」から「朝鮮半島」を経由して
「弥生時代」に渡ってきた「シャーマン」(医師、呪術師)
当時「中国大陸」にしかなかった「菊」(薬草)を大事にして代々「天皇家」(皇室)に伝え後の時代に「紋章」にしたのである
本来「日本の皇室」が「外国」である「中国大陸」の「菊」を「紋章」にすることはありえない
「日月紋」は「陽と陰」=「陰陽思想」(中国大陸のシャーマン)の「紋章」の一つである
「天照」と「月詠」(天の神)は本来「中国大陸の神」(思想)であり
本来の「日本の神」ではない
これは「弥生人」が「中国大陸」から持ち込んだ「陰陽思想」である
本来の「日本の神」は「縄文人」が大切にした「樹木」=「神木」(地の神)である
「天皇陛下」(皇室)の「始まりの元」は「弥生時代」であり
「原日本人」である「縄文人」とは別の民族「弥生人」である
その後「縄文人」と「弥生人」の「遺伝子」が混ざり
現在の「日本人」のなったのである
そして現在「天皇陛下」(皇室)は「日本国の象徴」になったのである 「天皇陛下」(皇室)とは「何か」について
結論から言うと
誰もが理解している「象徴」である
では「象徴」とは「何か」ということである
「象徴」と「権力」を「数学」と「物理」で表現してみると理解できる
「象徴」=「0番」=「空間」(干渉不可能)
「権力」=「1番」=「物質」(干渉可能)
つまり
「天皇陛下」(皇室)=「0番」=「空間」(干渉不可能)
「法王、国王、大統領、首相等」=「1番」=「物質」(干渉可能)
ということである
「天皇陛下」(皇室)は「世界で唯一」の「0番」=「空間」=「象徴」である
ちなみに
「皇居」=「日本国」の「空間」=「象徴」
である 九州説の荒らしが建てたスレだから使いたくないが
とりあえず続きを一つだけ書いとく
「槨」の概念が日本と中国で違う
https://kotobank.jp/word/槨-43518
安本はこの程度のことは知ってたはずなのに、槨という用語が使われていることを口実にして
畿内説にイチャモンつけてる >>1
なぜ大和と書いてヤマトと読むのか?
倭国の都が邪馬台国や邪馬堆と中国の史書に書かれていたからだよ ヤマトと読ませたいのなら大和と表記する必要ないだろ?
山門でもヤマトと読める
普通に考えると
大和と書いてヤマトと読ませるのは難読地名だよ >>4-6
魏史に南と書いてあった狗奴国が後に書かれた後漢書には東の海を度ると書いてあるんだから
南至投馬國水行や南至邪馬壹國などが「南→東」となるのも仕方ない >>886
そう元々都は邪馬台や邪馬堆だった
しかし倭人は邪や倭が蔑称という事に気付いたので
倭を和に変え邪馬台を大和と書き表すようになった 大越国は春秋戦国時代の越とは無関係だし、大韓民国も春秋戦国時代の韓とは無関係 >>888
狗奴国のところだけ魏史が間違えてましたというのはあり得ない
恐らくこういう地図を張政や陳寿も見ていたんだろう
しかし新井白石は方角の正しい地図しか知らなかったために九州説を唱え始めてしまって現代に至る
http://blog-imgs-118.fc 2.com/s/c/o/scoby/KangnidoMapcc.jpg >>891みたいな地図が、魏志倭人伝よりも前からあったならその説にも多少の理はあるんだが、魏志倭人伝のあとにしかないんだよな >891
君の「おそらく」は誰も聞いてないんだよ、おじいちゃん。 >>891
それ、もしかして李氏朝鮮が作った地図?
畿内説の黒幕の一端が見えてきたんかもしれんな。 >>889
だから、
なぜ大和(ダイワ)でヤマトと読ませるんだ?
と言ってるんだよ >>891
リンクが繋がってないので想像だけど
紙のスペースの都合で方向を変えてる地図の事かな? >>889
そもそも魏志倭人伝にも大倭という固有名詞が出てくるんだよ。
収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之 >>895
現時点での想像だが、
昔中国皇帝に「やまと」と国名を一回だけ説明したが、
その後は「我(が)国」と何回も言ったので、
「じゃあ、倭[わ]国ね」って記録された。
それ以後倭人は倭を「やまと」と読むと思い込んだ。
大和も同じ発音の国名を名乗ってたが、倭→和に変更し、前に大をつけた。 >>898
通訳もいるだろうからそれはないんじゃね? >>899
現代中国語の我のピンインはwoだが、当時の我の発音が倭と同じなら
通訳が介したからこそ起こった勘違いと言えるかもしれない。 >>900
いやいや
我が国と言ってるのを「倭国」と思い込むような間違いはしないだろと言ってるんだよ 中国の歴史書では、大◯とあれば、◯の国邑が周りの国邑を併合したときに使うだろ。
後漢書で対馬海峡国家として書かれた倭が周囲を併合すれば大倭だ。
その王が倭王。
三国志とか史記とかでは普通の表現だと思う。 >>901
通訳が訛りのない中国語を話せてたどうかが問題かな。 >>902
そう
倭国が大倭国になるのはわかる
でもその場合ダイワコクのはずで
ヤマトとは読まないんだよな >>904
自称と他称が違うのは良くある話じゃない?
日本語は訓読みがあるから他称に対して自称で読ませるという事が可能なだけでしょ >>906
音読み訓読みはもっと後の時代の話だと思うよ >>907
訓読みは縄文人〜古い出雲族の言葉、音読みはその後日本列島にやってきた漢人の言葉で、
邪馬台国の頃には一部の音読みに該当する言葉もすでに生じてたと思うけどな。 >>908
で大和をヤマトと読むのは訓読みか?
当時なら無理やりにでも山門とか矢的みたいにすると思うけどな
大和でヤマトなんてまず読めないぞ >>908
音読みがあれば訓読みはない筈って理屈なの? >>909
小鳥遊を「たかなし」と読むのと同じ類になってしまうが、
どちらかに分けるとすれば訓読みだろうな。 >>910
では
ヤマトは、大と和でどのように振り分けてるの
大は「ヤ」なの?「ヤマ」なの?
和は「マト」なの?「ト」なの?
訓読みとは漢字一文ごとに分けられるはずだよね? >>911
訓読みに該当する言葉の多くはすでに生じてると言いたいだが。 >>912
それも意味は分かるじゃん
小鳥が遊べるのは鷹がいないから
だからたかなし
で大和は?
よくわかんないじゃん
>>913
倭をヤマトと読むのは本当なのかな?
倭なら「ワ」だろ
後世の後付けとしか思えないんだよな >>916
だから、>>898 で一つの推測をすでに述べてるんだが。 >>917
それは>>899でおかしいと言ってるじゃん >>919
>>903のような言い訳で終わってるぞ >>920
どっか未開の地の人間が変な訛りの通訳連れてやってきた時
起こりそうなことを想像してくれってことやね。 当時の中国語にも声調が存在したのかどうかが気になるところかな。 声調らしきものは少しはあっただろうけど今の様には発展してないだろう
というのは当時はN以外の語尾の子音がかなりあった事が推測されてるからね
語尾の子音が多様であれば声調で区別する必要性はあまりない 890
越ってのが当て字やもん
コシ(古志)の国って呼ばれたのがもともと
福井県全域から秋田県全域までのかなり長い大国
まず古志から出羽が分裂した
やがて今の福井から新潟までを三分割してやがて今みたいな国名となった 越も日本ではコシって読むだ
そっから同じ音を持つ越が当てられコシの後、中、前って名付いた 陸奥の国ってのが今の茨城から青森までを含む太平洋側全域
千葉が総(ふさ)の国
群馬栃木が毛野(けぬ)の国 分国令くらい知ってるだろ
デカすぎるから分割してそれぞれ国衙が置かれた
これが国司の始まりだ、要するに年貢米を集める場所
やがて反乱やら武士らが台頭してきたからほとんど機能しなくなった ちょい聞くが京都政権とやらに服従せなならん理由どこにある? どうでもいいけど>>890のいう大越国っていまのベトナムのことな 中国の越ってのは長江以南のほとんど俗称的な旧古来からの呼び名だよ
呉ってのはもともと中原(黄河と長江に挟まれた内陸部)から伸びた国家 >>899
当時の通訳ってどういう出自なんだろう
倭と中国の境に住んでたバイリンガル?そういう場所ってある?
半島に倭と朝鮮のバイリンガルはいそうだけど。
大陸移民が近くにいっぱい住んでたとこが半島や列島にあったのかな >>921
それは無理やりすぎる
と言ってるんだよ >>935
つまり中国-朝鮮-日本語、二人、またはそれ以上の人数の通訳がいたんだろうな 百済に倭人も漢人もいたんだから通訳は一人で十分では? 937
言葉分からないから中国人らには漢字で文字を書かしました
漢字の意味の研究は進んでたからそれ見てなんとか理解しました
やがて漢字の書き下し文の形式が発展しました
これが日本語文法の基礎となりました 漢字でも日本語的には漢字の順序が逆になってる場合があるんだよ
漢字の繋ぎと繋ぎの間に接続詞をいれたり順番を入れ替える記号をいれたりな
これを日本語文法方式に下してやがて漢字と平仮名を使った文章が完成した
じゃないと意味が通じないからな 漢字の順序を入れ替える記号すら漢文本体に振ってたんだよ昔はな(゚∀゚)
接続詞は右の繋ぎ部分にレだのニだのって接続詞を振り左側に読む順番の一、ニ、三なんて具合いに番号を振ったの
これを書き下すと現在、日本で使われている日本語文法になるからよ 漢字となる前の段階が甲骨文字
倭に文字がないって?証拠は? >>936
例えば現代中国語なら我と倭は発音は一緒だが成長が違う。
我は三声で少し難しいが倭は一声で簡単だ。
中国皇帝「今の通訳、倭国ってい言ってたよね。」
臣下1「はい私にもそう聞こえました。」
臣下2「じゃあ、倭国ですね。」
みたいなパターンとか、いろいろ想像してみれば? >>945
国内で全く当時の文字が見つかってないだろ このスレッドは1000を超えました。
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