凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part37
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荒れないためのルールを作っておきます。
・城壁の議論や城壁以外の議論を妨害・規制することを禁止
両者とも双方敬意を表して尊重し共存してマターリ進行すること。
・中世の城スレッドなどの他のスレッドへレスするか
当城総合スレッドに書き込むかは各人それぞれの自由な選択に基づき任意である。
・他のスレッドへの強引な勧誘、誘導は差し控えて、レスする当人の自由な選択を
スレッドの住人間相互に尊重すること。
・落とし格子に関する議論をスルーしたりして妨害するのは禁止です。
以上のルールを立てておきます。
城総合スレッドですので城壁の議論だろうがそれ以外の議論だろうが、
規制する行為は荒らし行為と見なし、両者相互に尊重してマターリ共存していきましょう。
また、上記ルールを否定、批判するのも荒らし行為といたします。
前スレ
凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part36
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1527053354/ 家康が総理大臣に就任すれば、東京城、静岡城、愛知城、京都城、大「阪」城の修築、再築だな 弘前城の天守を見た人が、
「天守閣ちっさ」って言うんだわ…
あれ、天守閣じゃなく、「天守閣の四方に4つあった物見櫓のひとつだけ」なんだがなぁ。
天守閣そのものは、明治から昭和にかけて、2、3度雷が落ちて焼けて、
その度に再建して来たのに、戦時中も燃えずに済んだのに、
戦後に国立指定公園に指定された後に、また雷で炎上。
指定公園になっちゃったから、再建を市や県で行えなくなっちゃって、
今に至ってる……
図面は残ってるから、再建はできるのになぁ 五層の天守があったのは事実だが焼けたのは江戸時代初期 >>720
4行目以降ってどこの天守の事??
確かに今の弘前城天守は櫓を解体して天守として作り直したもんだけど、
文化年間のものが焼けずにそのまま残ってるはずなんだけど。 >>722
いや、残った櫓だけを見て、
弘前城ちっさって、桜祭りに来た観光客に言われるのよって話。
実際はもっと立派なのがあったのに、再建もできなくなっちゃって残念っていうね >>720の住む世界では明治以降も文化財建築物へ避雷設備は導入されていないのか 熊本城を焼いたのは西郷かと思ってたが
駐屯してた官軍だったのか 江戸時代の大坂城は城代がいたにしても
薩摩〜大坂を海路で千人単位で参勤する島津家中がいきなり襲ってきたら
守備兵が足りません 大坂には8千人の武士がいたとされているよ
城内だけでも3千人居住していたらしいから、そう簡単に落とせるものではないよ 1660年7月25日(万治3年6月18日)、城内青屋門近くにあった土蔵造りの焔硝蔵(火薬庫)に落雷して大爆発が起き、
貯蔵中の2万1985貫600匁(約82.4t)の黒色火薬のほかに、鉛弾43万1079発、火縄3万6640本が焼失した。
爆発の威力はすさまじく、城内では29人が死亡、およそ130人が負傷した。
天守や御殿、櫓、橋など、多数の建造物が損壊。
城外でも3人が死亡、家屋1481戸が倒壊し、多数の家屋の屋根が破損した。
また、青屋門の扉が城から約14km離れた暗峠まで飛ばされたとの記録(「板倉重矩公常行記」)もある 「火災で焼けた」って「落馬して落ちた」みたいだな
>>726はその火災の原因が駐屯軍の意図的な放火って言いたいんでないの
通説?従来説?は原因不明で非意図的なものだっけ 安土城はトチ狂った織田信雄が焼いた
「三助どののなさる事よ」と別段ビックリもされなかったとか どの城も基本的に残すつもりはなかっただろうし焼けてちょうどよかった・・・・くらいの気持ちだったのでは? きっと城内に恥ずかしい手紙とか残してて、探しても見つからなかったから城ごと焼いたんだよ 別に熊本の天守閣や本丸御殿は焼けても
本陣に西郷軍を侵入させなければ政府軍の勝ち >>735
信雄も立ち回り次第では自身が安土城の主になる可能性もあったのになぁ。まぁ秀吉がそれを許さないかもしれんけど。
まぁ安土城天守が無くなって一番喜んだのは秀吉でしょ。
織田家乗っ取りしようってのに前主君の城がそのままじゃやりにくいからだろうしね。 斎藤義興「父上も秋田城介信忠も死んだうえは
岐阜城も美濃国も今からは俺のものだ」
禿げねずみ「黙れ、こわっぱ!」 >>738
意外と井沢の説が正しかったのではないかねぇ。
安土城天守閣は信長教の神殿みたいな感覚だからな。
中二病丸出しの信長の妄想博物館みたいになっているのではないかねぇww
例えば金箔髑髏を目に付くところに飾っていたりとかww
閻魔大王の顔を信長の顔に似せて描いていたりとか 呉座が失脚したからってお前が復権出来るわけじゃないぞ井沢 >>744
何をもって、勝ち組、負け組認定しているのかさっぱりわからんww
この業界は基本的に飯は食えないけど、
一度名前が売れて、固定客がつけば何十年も飯が食えるからな。
呉座にしても、これから生活に困って野垂れ死にすることだけはないと思うのだ。 >>747
> 明治中期の国・郡で分けた日本地図、無償でデータ公開
「国」を使ったのは明治「中期」じゃないよね 徳川慶喜の追討を命じた高札を岐阜で発見
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1625097922/
鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜の追討を命じる高札が見つかった
戦いの数日後に中山道の大湫宿に掲げられたとみられ、高札を見つけた学芸員は
「全国指名手配のような感じで新政府側の正当性をPRする狙いがあったのではないかと話す。
慶喜追討の高札は国内で数点見つかっているが、掲示場所がわかるものは珍しいという。 五輪 小山田が障害者にうんこ食わせてた時、米呂はまだこの世にいなかった
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1626687653/
息子を巻込むのは織田信成に比叡山焼き討ちの話する様なものだ 肥前名護屋城は秀吉の死後、朝鮮から撤兵した後は、
朽ちるにまかされたんですか? 資材は関ヶ原後に寺沢広高によって唐津城に転用された あれだけの建造物の資材再利用しないともったいないもんな。
大手門って仙台城に転用されたのって伝承レベルなのかね。
戦災で焼失しているけど。 伏見城は廃城後、
伏見の御香宮、西本願寺、福山城に門が移築されたね
神、仏、城 名護屋城の天守はどこに行ったんだろう
唐津城に天守はなかったというし 移築する予定だったが、放置された影響で使用に耐えられないと判断されたのかもしれない
海風が強い場所な上に突貫工事だったから >>757
元伏見城のパーツってあちこちにあるからな
全部一箇所に集めたらいい感じに復元できるかもしれん
肝心の土地は使えなくなってるけど 余談ながら、鈴木長吉さんは、ながよしと読むんだね。
木原方、浜松の大工、ちょうきち。
そう思っていました。
すいません。 >>760
素晴らしい発想!ぜひCGでやって貰いたい 個人的に右手小指を骨折した。色々と不便だわ
これで思い出したのがタモリ倶楽部の石積みの回
https://i.imgur.com/SfMZeFR.jpg
https://i.imgur.com/3Eq6zul.jpg
https://i.imgur.com/8fhQTZf.jpg
最初に指導役の先生が言ったことは「簡単に指の骨が折れる」ということだった。
1本でも指が折れたら最初は安静にせんといかんし仕事によってはできなくなる。
昔、雇われて石積みしてた人は指の骨を折ったらどうしてたのだろうか?
無給で窮地に陥った?
そうか無理やり仕事したのだろうか?
なお、石の値段はものすごく安いんだが、運搬費がものすごくかかるらしい。
番組の中で石の調達費用を言っていたかもしれないがだいぶ前の放送なので内容を忘れた 火事で燃失した城については、仕方がないからCGのやつでも見るかと画像検索しても油絵タッチの模型が大量にヒットしてしまう >>754
だれが許可したんすか?
秀頼本人なら文句なしながら若年、家康か三成の許可なくと言うわけにもいくまい 名護屋城って朝鮮の役終結で役割終えた後は一応豊臣家が管理してたのかね。
関ヶ原終わって摂津河内和泉以外の豊臣家の直轄領は徳川家が持っていちゃったし、
その徳川家からしたら名護屋城なんて無用の長物だから、「廃城にするから好きなもん持っていっていいよ」って感じだろうね。 普請も担当した寺沢広高が管理したかと、この人関ヶ原合戦後に唐津城を築くまで居城がなかったようだし、
城代という形で名護屋城にいたかもしれない 九戸一揆が終わるまでは小田原城の大久保忠隣が管理、その後に廃城かと >>772
先月肥前名護屋城に行ってきましたけど
半端じゃないおおきな城だったんですね・・ 一番水城っぽい感じというか、現存の縄張りが川か海湖に繋がっているところってあったっけ?
全部埋め立てられちゃってるかな 荒木村重の謀反と穴太衆の石垣について触れられてる本だとか。面白そう 大分で大地震があったけど
江戸時代には石垣が崩落するような大きな地震はなかったのだろうか
その場合、城主は幕府の許可を得て即座に復旧してきたのだろうか
熊本城がやられたのは築城後400年経過してた >>783
崩落箇所の絵図を作成して、江戸に提出して許可を貰った >>783
宝永地震
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%B0%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87
>宝永地震は、江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日)、東海道沖から南海道沖を震源域として
>発生した巨大地震。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、
>記録に残る日本最大級の地震とされている
南海トラフ地震、次は「宝永タイプ」? 津波の痕跡から予測 毎日新聞 2021/5/31
https://mainichi.jp/articles/20210531/k00/00m/040/390000c
>過去に沿岸を襲った津波の痕跡の分析から、次に起きるのは江戸時代の1707年に起きた宝永地震と
>同じタイプのものになる可能性があるとの研究結果を、政府・地震調査委員会委員で産業技術総合研究所
>名誉リサーチャーの岡村行信氏が5月31日、日本地球惑星科学連合大会で発表した。
>次の南海トラフ巨大地震は「宝永型」 津波被害大きく交通網寸断…専門家警鐘「『歴史に学ぶ』ことが重要」
夕刊フジ 2021.6.7
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/210607/dom2106070002-n1.html
「被害は東日本大震災の10倍超」2030〜40年に想定される西日本大震災という時限爆弾
南海トラフ巨大地震は確実に起きる
https://president.jp/articles/-/43402
https://president.ismcdn.jp/mwimgs/9/0/500/img_903706d0b387907255a6fa868e098a49402192.jpg
https://president.ismcdn.jp/mwimgs/6/2/500/img_62949a373f203846d8b45d20138b4572108927.jpg 江戸時代初期ならともかく
中期以降は貧乏で普請できないとかありそう 俺、ジャンボ宝くじの一等に当たったら
伊豆の別荘地に理想の家を建てて
引き籠るんだ……
地震地帯じゃなくてよかったよ 地方豪族が戦に破れて落城し、その近くで帰農して庄屋になったような話を見ますが、それは勝った側から許されて土地を与えられたということでしょうか? 庄屋は旧家が多い
今の殿様がやってくるよりも前にいっぱしの領主を張っていたような由緒ある家
今はもう武士屋さんではないが、だと言ってそこらの百姓屋さんとは違う存在
落城してというか、降伏してということもあろうしの 7世紀、大和朝廷が唐と新羅の侵入に備えて対馬に築き人気テレビゲームの舞台ともなっている「金田城」の魅力を知ってもらおうと、対馬市は城のジオラマやAR=拡張現実の最新技術で歴史を学ぶアニメーションを完成させました。
金田城は対馬市美津島町にある山城で7世紀、大和朝廷が朝鮮半島で行われた白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた後、敵の侵入に備えて築いたもので、最近は鎌倉時代の元寇をテーマにしたテレビゲーム「ゴースト・オブ・ツシマ」の舞台ともなり注目度があがっています。
対馬市は7日、金田城の魅力をわかりやすく伝えようと「観光情報館ふれあい処つしま」に実物の550分の1の大きさの城のジオラマを完成させ、報道関係者に公開しました。
…続きはソースで(動画あり)。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20220308/5030014267.html
2022年3月8日 10時59分 名城というのはこういうのを指す。
朝廷の城だけが正統性がある。 とある軍勢が通るたびに現地の人はその都度、禁制をもらわんといかんし、
国人・土豪も大勢力が来ると自立できず被官にならざるをえなかったようやな。
西岡被官衆
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nisioka_syu.html
・鶏冠井氏
西軍→三好党→織田方の革島氏の攻撃で没落
・物集女氏
細川藤孝がやってきても本領安堵を拒否して自立しようとして滅亡に追い込まれる
・神足氏
細川管領家被官→細川藤孝家被官→細川藤孝の転封により当主は西岡にとどまり、
息子は丹後に同道
・能勢氏
東軍→将軍直臣→二条城で織田方の攻撃で戦死して没落
・革嶋氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kawasima.html
将軍直臣→三好党によって追放される→織田信長について所領を回復→西岡一帯が
細川藤孝に与えられてこの細川藤孝によって革嶋氏先祖伝来の所領を安堵される
(+被官化)→細川藤孝が丹後に転封になるが同道せず西岡に残る(そういう選択が
許されたらしい)→明智光秀について山崎の合戦に参加して豊臣秀吉によって所領を
没収される→江戸時代は郷士として認められた 「兵と農の分離」という本を読んだら、
・中世に土地を開発して領主(地主)となる→大名(どこか失念)の勢力がやってきて被官に
なることを要求され、具体的には軍役を課せられて武装して出陣することを要求されるが
武装+出陣を拒否して代わりに金銭を納めた→豊臣時代に太閤検地によって(江戸時代だった?
失念)所領を認められず一般農民として登録されるが、地主として住民から地代を徴収し続ける→
江戸時代中期から?これに関して「もう地代を払わないという裁判を起こされる」という事例が載っていた
領主と言っても皆が武装して武士化するわけではないし、色んなケースがあったということやな >>796
信長は配下の兵士の略奪暴行厳禁にして守らないやつは即斬首してたし、
当時当たり前にやってた人身売買も禁止していたから、
プーチンとは全く違う 信長の野望のパッケージめで思ったのだが、
上杉の上洛は、信長への無言のメッセージだと思うんだよな
曰く、奇知なんかに囚われず、目前のことへ必死になれと。それでこそ、奇知も活きると。
それでも、上杉謙信の才能、徳は、
楠木正成の三分の一しか無いらしいんだが、、、
俺はなんとなく謙信のシュッとかっこいいとこ好きなんだけども 曰く、常奇両知両道であって、
得意であっても、奇知奇道に囚われたことは、魔にやられていたと思う。
信長の魂を冷やし、目を冷ました、上杉謙信。
さすが、北陸。 「信長公記」より、残酷シーンを抜粋
比叡山焼き討ち
鎮護国家の大道場は、叫喚のるつぼと化した。織田勢は僧俗・児童・智者・上人の別を問わずことごとく首をはね、
信長公の御前に差し出した。また山上では名僧・貴僧の呼び声高い高僧たちとともに美女・小童のたぐいが数をも知れず捕らえられ、
御前に引き出されてきた。かれらは口々に「悪僧を誅伐なさるにおいては是非もなし。しかしわれらは助け候え」と哀願したが、
信長公は聞き入れず、彼らはすべて首を打ち落とされた。まことに目も当てられぬありさまであった。
焼き討ちは完遂され、信長公は胸中のしこりをとりはらった。信長公の怒りに触れた比叡山の山麓には数千の屍が散らばり、
この世のものとも思えぬ情景が広がっていた。哀れなことであった。
※婦女子大量(数千人)虐殺・この世とも思えぬ風景 長島攻め
観念した一揆勢は降伏赦免を求めてきたが、信長公は断固として許さなかった。
信長公はかれら奸悪の徒を干し殺しにすることで、年来の乱妨狼藉の報いを受けさせようとしていた。
そのような状態が続く中、8月2日夜大鳥居に籠城していた一揆勢が夜間風雨に紛れて脱出を図った。
しかし織田勢はそれを見逃さず、追撃して男女一千ほどをなで斬りにした。
長島の陣は、一揆勢の思いもよらぬ長陣となった。7月13日に貴賎数知れぬ男女が長島・屋長島・
中江の三ヶ所に逃げ入ってからすでに三ヶ月が経過し、過半はその間に餓死していた。
もはや抵抗する力も尽き果てた一揆勢は、9月29日ついに降伏開城した。
降伏を許された一揆勢は、めいめい船に乗って城砦を出ようとした。
しかし織田勢は彼らに鉄砲を掃射し、逃げた者は白刃をもって追い、際限なく川へ斬り落としていった。
織田勢の違背を知った一揆勢は怒り狂って死を忘れ、
心ある者七、八百ばかりが裸体に抜身一本のみをたずさえて織田勢の中へ突入していった。
かれらは大軍の中を死兵となって荒れ狂い、陣所を切り崩し、御一門衆をはじめ数多の将兵を討死に追い込んだ。
彼らは大軍の中を切り抜けて無人の陣小屋に駈け入り、そこで支度を整え、川を越えて多芸山・北伊勢口へ散り、
そこから大坂へ逃れた。この失態をみた信長公は、残る中江・屋長島の両砦に対しては周囲に柵を幾重にも廻らして
砦の男女二万人を取り籠め、四方より火をかけて焼殺してしまった。
年来の鬱憤を晴らした信長公は、29日岐阜へ帰陣した。
※1000人をなで斬り・降伏した20000余人も砦に押し込めて、
人間バーベキュー。信長は大量虐殺の成果に溜飲をさげる 越前一揆掃討戦
国中の一揆勢は壊乱し、右往左往しながら取るものも取りあえず山中へ逃げ入っていった。
しかし信長公は殲滅の手をゆるめず、「押し進みつつ山林を尋ね探り、男女を問わず斬り捨てよ」
と厳命したのであった。
織田勢が進撃を開始した8月15日から19日の間に諸方から捕縛され引き立てられてきた男女の数は、
記すところによれば一万二千二百五十を数えたという。そして信長公は御小姓衆に命じ、
これら搦め取った男女を余すところなく誅戮したのであった。このほか国外へ奪い去られた男女もその数を知れず、
生捕・誅殺された人々の数は合わせて三、四万にも上ると思われた。
※12250人を捕縛のうえ、合わせて3〜4万を殺す。
山に逃げた人々も容赦なく探索し、残らず処刑。
荒木一党惨殺
12月13日辰の刻に尼崎近くの七松という地で百二十二人が磔にかけられることとなり、
刑場へ向け人質たちが引き出されていった。さすがに歴々の上臈衆であり、いずれも美々しき衣装を身にまとい、
すでに命叶わぬを悟って美しき姿で静かに居並んでいた。
やがて、その身を荒々しき武士たちが引き掴み、あるいは母親に抱かせて台に引き上げ突き殺し、
あるいは鉄砲をもってひしひしと撃ち殺し、あるいは槍と長刀で刺殺して処刑していった。
百二十二人の女房衆が一度に上げる悲鳴は天にも響くばかりであり、
見る人は目もくらみ心も消えて涙を抑えきれなかった。処刑の様子を目にした者は、
二十日三十日の間はその有様が瞳に焼きついて忘れられなかったということであった。
この他にも端侍の妻子とその付々の女三百八十八人と、歴々の女房衆に付いていた若党以下の
男百二十四人の合わせて五百十余人が矢部家定検使のもとで家四軒に押し込められ、
周囲に乾き草を積んで焼き殺された。男女は風向きに従って魚の群れのように上へ下へと並び動き、
灼熱の炎にむせび、躍り上がり跳ね飛び、その悲鳴は煙とともに空へと響きわたった。
その有様は地獄の獄卒の責めもかくやと思わせるもので、みな肝魂を失い、
二目と見ようとする者がなかった。
※直臣の家族510余人を人間バーベキュー。
その惨状に誰もがふた目と見ようとはしなかった。 女であることを気にせず、
頭部強殴打した過去を考えると、
俺は織田信長かな?
ほかにも、男女の差を考えず、
攻撃している。 でした。
しかし、戦で死んでいくだけの人生っていうのも、哀れですね。
上から下までこれですもんね 出張ついでに和歌山城に行ってみた。天守は3層だし小規模なのかと思ってたが、凄い広大な敷地でびっくりした。
天守も、階数は多くないが連結式なのでかなり大きく感じた。
やはり徳川家の城は規模が違うんだな。 海外には金持ち向けにゲート(門)を設け周囲を塀で囲むなどして住民以外の
敷地内への出入りを制限する地区があってこれをゲーテッドコミュニティと
呼ぶらしい
https://i.imgur.com/bQDOOgD.jpg
https://i.imgur.com/FkpTvt5.png 和歌山は静岡から国がえの代わりに整備が認められたけど謀叛疑惑がたって
天守は黒いやつのまんま残ったらしい。のち吉宗が再建計画だした途端に将軍になって白紙
で幕末に燃えたから晴れて再建ってところで幕府に三層しかだめってなった >>813
続き
それでこれはうちの近所にあった高槻城だが、城内に何があるのかというと
屋敷がびっしりと並んでいる。御殿と屋敷と通路しかない。
https://i.imgur.com/JnvJ7jo.jpg <高槻城復元模型>
城内に重臣の屋敷があるのは普通だ
厩(うまや)、詰所、倉庫あたりだろうか長屋建物も見えるな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています